遊佐統秀
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 美作守[1] |
幕府 | 室町幕府 能登守護代 |
主君 | 畠山義統、義元、慶致 |
氏族 | 遊佐氏 |
父母 | 遊佐忠光 |
子 | 統忠[2] |
遊佐 統秀(ゆさ むねひで)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての武将。能登畠山氏の家臣で、能登守護代。
生涯
[編集]能登守護・畠山義統に仕え、文明2年(1470年)から永正元年(1504年)にかけて能登守護代を務めていることが確認できる[4]。
文明11年(1479年)、歌人の招月庵正広を能登へと招き、歌会を催した(『松下集』)[5]。
明応6年(1497年)に主君・畠山義統が死去し、義統の嫡男・義元が跡を継いだ[6]。明応9年(1500年)より義元と弟・慶致との間で争いが始まると、統秀は畠山氏重臣・三宅氏とともに慶致を支持する[7]。元亀元年(1501年)、義元は越後へと逃れ、義致が家督を継いだ[7]。この後、永正5年(1508年)に義元と慶致は和睦し、義元が再度当主の座に就いている[7]。
統秀の没年については不明だが、永正6年(1509年)7月には、統秀の後継者とみられる統忠が遊佐氏惣領として羽咋郡永光寺(石川県羽咋市)に寄進を行っている[8]。