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筑前国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
筑前国

-筑前国
-西海道
別称 筑州(ちくしゅう)[注釈 1]
所属 西海道
相当領域 福岡県西部
諸元
国力 上国
距離 遠国
15郡102郷
国内主要施設
筑前国府 (推定)福岡県太宰府市
筑前国分寺 福岡県太宰府市(筑前国分寺跡
筑前国分尼寺 福岡県太宰府市
一宮 住吉神社(福岡県福岡市
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筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、福岡県の大部分に属する。

領域

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明治維新直前の領域は、現在の福岡県内の下記の区域に相当する。

沿革

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筑紫つくしのくに)の分割によって、筑後国とともに7世紀末までに成立した。7世紀後半のものと見られる太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡に「竺志前國」とある。

近世以降の沿革

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国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

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筑前国内に設けられた天皇の宮は次の通り。

大宰府

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大宰府政庁跡(太宰府市観世音寺)

筑前国には大宰府が置かれ、西海道諸国の統括と対外交渉が行われた。政庁跡は太宰府市に所在(国の特別史跡、北緯33度30分52.34秒 東経130度30分54.52秒 / 北緯33.5145389度 東経130.5151444度 / 33.5145389; 130.5151444 (大宰府))。発掘調査により、7世紀後半から11世紀後半にわたる遺構が検出されている。

国府

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国府御笠郡にあった。現在の太宰府市、大宰府に近い所に置かれたと推定されるが、遺構は見つかっていない。

易林本の『節用集』には、「上座郡に国府並びに大宰」と記載されている。

国分寺・国分尼寺

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国分寺・国分尼寺の周辺では、瓦窯の遺構も見つかっている(国分瓦窯跡、国の史跡)。

神社

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延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社16座8社・小社3座3社の計19座10社が記載されている(「筑前国の式内社一覧」参照)。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[1]

中世末期以降は筥崎宮(福岡市東区箱崎)を一宮とする史料も見られ、現在は筥崎宮も全国一の宮会に加盟する。江戸時代には北斗宮も筑前十五社の一宮と称された。二宮以下は不詳。

安国寺利生塔

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  • 景福安国寺 - 福岡県嘉麻市下山田。

地域

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15郡

江戸時代の藩

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人物

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国司

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筑前守

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筑前国司[2]
氏名 所見年月日(和暦) 出典
山上憶良 神亀5年7月21日 見任 万葉集巻第五
天平3年6月17日 見任 万葉集巻第五
大宅君子 天平10年4月22日 見任 続日本紀
栗田馬養 天平18年9月20日 補任 続日本紀
吉備真備 天平勝宝2年正月10日 補任 続日本紀
阿倍三県 神護景雲3年3月10日 補任 続日本紀
紀長田麻呂 大同3年5月14日 補任 日本後紀
大中臣鯛取 大同3年5月21日 補任 日本後紀
紀綱麻呂 承和7年正月30日 補任 続日本後紀
文室宮田麻呂 承和7年4月6日 補任 続日本後紀
承和8年正月16日 見任 平安遺文六七号
南淵年名 承和8年正月13日 補任 続日本後紀
紀今守 承和13年正月13日 補任 続日本後紀
藤原真数 仁寿元年正月11日 補任 文徳実録
橘三夏 斉衡3年正月12日 補任 文徳実録
藤原興邦 天安2年正月 補任 三代実録
天安2年11月7日 見任 三代実録
源興 貞観元年正月13日 補任 三代実録
貞観2年正月16日 復任 三代実録
貞観3年正月 遷任 三代実録
源生 貞観3年正月13日 補任 三代実録
紀本道 貞観4年2月11日 補任 三代実録
藤原真庭 貞観5年2月10日 補任 三代実録
藤原安棟 貞観9年正月12日 補任 三代実録
貞観9年2月10日 遷任 三代実録
紀恒身 貞観9年2月11日 補任 三代実録
貞観10年2月23日 見任 三代実録
上毛野沢田 元慶2年2月15日 補任 三代実録
興我王 元慶8年3月9日 補任 三代実録
仁和元年2月20日 遷任 三代実録
布勢園公 仁和元年2月20日 補任 三代実録
藤原興範 仁和3年8月22日 補任 三代実録
藤原興範 寛平5年4月20日 補任 公卿補任
寛平5年8月9日 見任 公卿補任
在原棟梁 昌泰元年2月23日 補任 古今和歌集目録
南淵茂景 延喜5年正月11日 補任 外記補任
藤原(某) 延喜5年10月1日 見任 観世音寺資材帳
平篤行 延喜8年2月23日 補任 古今和歌集目録
延喜9年9月29日 見任 古今和歌集目録
藤原真樹 延喜年中 見任 鎌倉遺文一五七号
藤原顕光 康保3年正月 補任 大日本史国郡司表
(某)忠信 天元4年5月22日 見任 小右記
藤原乙満 永延元年12月9日 見任 平安遺文三二八号
藤原知章 正暦元年春 補任 小右記
正暦元年8月30日 辞任 小右記
藤原宣孝 正暦元年8月30日 補任 小右記
正暦4年8月28日 見任 江見左織氏所蔵文書
藤原(某) 長徳2年閏7月25日 見任 平安遺文三六四号
藤原高槻 寛弘2年正月9日 見任 小右記
藤原永道 寛弘2年2月20日 見任 小右記
寛弘2年11月15日 見任 平安遺文四四二号
(某)文信 寛弘6年8月 見任 中古歌仙三十六人伝
藤原(某) 長和3年2月19日 見任 平安遺文四七六号
源道済 長和4年2月14日 補任 中古歌仙三十六人伝
寛仁3年6月29日 見任 小右記
平理義 寛仁4年11月1日 見任 小右記
治安3年11月10日 見任 小右記
平(某) 万寿元年5月29日 見任 平安遺文四九一八号
高階成順 万寿2年7月13日 見任 小右記
万寿4年9月4日 見任 類聚符宣抄
高階(某) 長元3年3月23日 見任 類聚符宣抄
藤原(某) 長元5年5月20日 見任 類聚符宣抄
(某)敦頼 長久元年正月25日 補任 九条家本春記
長久元年4月27日 見任 春記
高階成佐 永承5年9月

天喜2年1月1日の間

見任 大弐資通卿家歌合
藤原経衡 天喜2年3月 見任 鎌倉遺文一五七号
藤原(某) 天喜3年3月20日 見任 平安遺文四九三五号

~四九三七号

藤原永親 康平 見任 鎌倉遺文一五七号
橘義通 治暦 見任 鎌倉遺文一五七号
藤原章家 延久4年 補任 魚魯愚鈔
藤原(某) 承暦2年3月22日 見任 平安遺文四九四三号
藤原成季 承暦4年4月21日 見任 帥記
承暦4年5月6日 見任 水左記
源兼俊 永保2年3月13日 見任 為房卿記
源(某) 応徳元年9月11日 見任 平安遺文一二一六号
源(某) 応徳元年9月23日 見任 平安遺文四九五一号
源仲宗 寛治元年3月18日 見任 石清水文書宮寺縁事抄
藤原国仲 寛治6年正月25日 補任 為房卿記
藤原(某) 寛治6年9月5日 見任 平安遺文一三一二号
藤原(某) 寛治6年10月9日 見任 平安遺文一三一三号
藤原(某) 寛治6年11月26日 見任 平安遺文一三一五号
藤原敦憲 寛治7年7月16日 補任 陽明文庫本中右記
藤原知家 康和元年9月17日 本朝世紀
康和5年 秩満 中右記
高階宗章 康和5年2月30日 補任 本朝世紀
長治2年12月30日 遷任 中右記
藤原基実 長治2年12月30日 補任 中右記
天仁元年8月 中右記
高階泰兼 天永2年4月11日 見任 中右記
天永2年10月25日 見任 中右記
藤原有業 永久5年7月17日 見任 殿暦
元永元年正月18日 遷任 中右記
源季忠 元永元年正月18日 補任 中右記
源(某) 保安元年6月28日 見任 平安遺文一〇三九号
藤原公章 大治2年3月24日 補任 二中歴
長承元年5月 辞任 中右記
藤原通親 長承元年5月19日 補任 中右記
藤原斉章 保延2年11月4日 補任 中右記
藤原重家 天養元年正月24日 補任 公卿補任
久安5年2月13日 見任 本朝世紀
藤原親忠 久安5年3月18日 見任 本朝世紀
藤原清成 久安5年11月26日 見任 平安遺文二六七九号
久安6年12月22日 見任 本朝世紀
久寿元年 公卿補任
藤原頼季 久寿元年9月12日 補任 兵範記
久寿2年12月25日 見任 兵範記
平治元年正月29日 得替 公卿補任
藤原有隆 平治元年正月29日 補任 保元四年大間書
橘以政 永万元年7月27日 見任 山槐記
仁安3年8月19日 見任 兵範記
藤原良盛 仁安3年正月11日 補任 山槐記
平貞能 嘉応元年正月11日 補任 兵範記
平貞俊 治承4年正月28日 補任 玉葉
治承4年11月6日 見任 山槐記
平信康 養和元年11月28日 補任 吉記
藤原親房 文治2年12月15日 補任 公卿補任
建久4年4月14日 遷任 公卿補任
中原有安 建久5年正月28日 補任 山槐記
建久5年2月27日 見任 玉葉
源泰宗 建久8年 補任 玉葉
正治2年正月22日 解却 明月記
藤原為定 正治2年正月22日 補任 玉葉
源(某) 元久2年2月5日 見任 鎌倉遺文一四二九号
藤長正 元久2年4月10日 補任 明月記
中原師重 建保2年正月13日 補任 地下家伝
建保6年7月9日 見任 地下家伝
中原師季 承久3年8月29日 補任 地下家伝
安貞元年10月8日 遷任 地下家伝
藤原家賢 安貞元年10月8日 補任 民経記
藤原信茂 寛喜2年閏正月4日 補任 明月記
小槻季継 寛喜3年正月29日 補任 明月記
小槻(某) 寛喜3年3月 見任 鎌倉遺文
小槻家遠 貞永元年4月11日 補任 民経記
中原親成 暦仁元年4月20日 補任 経俊卿記
二階堂行泰 寛元元年11月2日 補任 鎌倉年代記
小槻為景 寛元2年10月4日 補任 平戸記
紀国直 建長5年 補任 経俊卿記
建長6年 去任 経俊卿記
藤原宗親 文応元年3月29日 補任 公卿補任
藤原行実 文永2年 見任 大日本史国郡司表
藤原(某) 弘安10年2月 見任 鎌倉遺文一六二〇〇号
藤原景継 正応元年7月24日 補任 勘仲記
大中臣茂村 正応元年8月25日 補任 勘仲記
藤原助茂 正応5年2月27日 補任 実躬卿記
高階高経 嘉元元年4月11日 見任 公衡公記
知行国主[3]
名前 所見年月日 出典
藤原兼良 元久2年4月10日 明月記
建暦元年9月8日 明月記
藤原顕俊 建暦元年9月8日 明月記
平経高 安貞元年10月4日 民経記
藤原忠房 安貞元年10月5日 明月記
藤原基房 安貞元年11月17日 明月記
寛喜2年12月29日 明月記
藤原頼孝 正安3年正月16日 実躬卿記
安楽寺 嘉元元年4月11日 公衡公記

守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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戦国時代

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戦国大名

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  • 少弐氏:平安以来の名門だが、戦国時代には周防の大内氏の侵攻を受け、肥前に後退する。1559年、家臣であった龍造寺氏に攻められ滅亡。
  • 大内氏:周防を本拠とし、豊前も領国としていたが、応仁の乱後に筑前にも進出、豊後の大友氏と戦いを繰り広げた。
  • 大友氏:豊後を本拠とするが、大内氏滅亡後、筑前国内の大内領を自領に組み入れ、1559年には筑前守護となった。龍造寺、島津に敗北後、衰退に向かい筑前への影響力も失った。
  • 秋月氏:少弐氏、大内氏、大友氏と主家を変えたが、戦国末期には島津氏と結んで大友氏に対抗し、筑前・筑後・豊前に推定36万石の勢力範囲を得た。豊臣秀吉の九州征伐に敗北、日向国高鍋に移封された。
  • 宗像氏:宗像大社大宮司。有力な水軍を有していた。秀吉の九州征伐直前に滅亡。

豊臣政権の大名

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武家官位としての筑前守

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江戸時代以前

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江戸時代

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筑前国の合戦

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脚注

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注釈

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  1. ^ 別称「筑州」は、筑後国とあわせて、または単独での呼称。

出典

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  1. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 576-578。
  2. ^ 『[新人物往来社 日本史総覧 2]』新人物往来社、1984年1月。新人物往来社 
  3. ^ 『[新人物往来社 日本史総覧 2]』新人物往来社、1984年1月。新人物往来社 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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