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小槻季継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小槻季継
時代 鎌倉時代中期
生誕 建久3年(1192年
死没 寛元2年9月27日1244年10月30日
官位 正五位上左大史
主君 後堀河天皇
氏族 小槻氏大宮家
父母 父:小槻公尚
秀氏、文世、朝治、守遍
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小槻 季継(おづき の すえつぐ)は、鎌倉時代中期の官人算博士小槻公尚の子。官位正五位上左大史

経歴

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後鳥羽院政期大炊助大舎人頭算博士を歴任する。

貞応2年(1223年壬生流小槻国宗が没するが、その子息・惟任が幼少であったことから季継が大夫史を継ぎ[1]建久2年(1191年)以来約30年ぶりに大宮流に大夫史の官職を取り戻す。大夫史に就くと、以後没するまで21年間にわたってその地位を保ち、家司として務めた摂政九条道家と結んで、それまで壬生官務家に押されがちであった大宮官務家の基礎を固める。また、国宗から受け継いだ所領である官厨家便補保(太政官厨家領)を、朝廷の宣旨を得て子息の朝治に譲与するなど[2]大宮家のみで独占しようとしたとされ、大宮家と壬生家とが相論を重ねるきっかけを作った[3]。この間に、嘉禄元年(1225年正五位上に至るとともに、修理東大寺大仏長官のほか、備前権介紀伊守筑前守などの地方官を兼任している。また、摂政・九条道家[4]や摂政・二条教実[5]など九条家の政所家司を務めた。

季継の時代には弁官は諸事を行う前に必ず前もって、大夫史を世襲する小槻氏に対して前例を問う方式が確立されていたらしく、嘉禄2年(1226年)に火災で官文殿が焼失した際、小槻氏の私文庫である官文庫をもって官文殿に代用することとし、官文殿自体の再建はなされなかったという[6]

寛元2年(1244年)9月27日卒去享年53。子息の秀氏が若年であったため、官務(左大史上首)の地位は壬生流小槻淳方が継いだ。

なお、日記として『左大史小槻季継記』が伝わるが、近年の研究では実際の著者は子息の秀氏であったことが判明している。

官歴

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系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ 「小槻惟任申状案」『壬生家文書』23
  2. ^ 遠藤[2002: 10]
  3. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  4. ^ 『玉蘂』嘉禎元年正月1日条
  5. ^ 天福□年□月□日『香取文書』「旧大禰宜家文書」18
  6. ^ 「官務文庫覆方小槻以寧願」『壬生家文書』(宮内庁書陵部蔵)
  7. ^ 『明月記』
  8. ^ 『玉蘂』
  9. ^ 『系図纂要』
  10. ^ 「官務年々注進」『壬生家文書』25
  11. ^ 『明月記』嘉禄元年12月21日条
  12. ^ 太政官牒『神護寺旧記』
  13. ^ 『民経記』
  14. ^ 太政官牒『石清水文書』「田中家文書」644
  15. ^ 『平戸記』『百錬抄』

参考文献

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  • 曽我良成「官務家成立の歴史的背景」『史学雑誌』第92巻第3号、史学会、1983年、279-317,413-41、doi:10.24471/shigaku.92.3_279ISSN 0018-2478NAID 110002364879 /所収:曽我良成『王朝国家政務の研究』吉川弘文館、2012年。ISBN 9784642024976NCID BB09523086https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023728662-00 
  • 遠藤珠紀「官務家・局務家の分立と官司請負制 : 中世前期における朝廷運営の変質」『史学雑誌』第111巻第3号、史学会、2002年、293-322,441-44、doi:10.24471/shigaku.111.3_293ISSN 0018-2478NAID 110002365579 
  • 永井晋『官史補任』続群書類従完成会、1998年
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年