興我王
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興我王(こがおう、生没年不詳)は、平安時代前期の皇族。官位は従五位上・山城守。
出自
[編集]『尊卑分脈』では式部卿・是忠親王の子とされるが、是忠親王は天安元年(857年)生まれのため年代的に矛盾がある。蔭位により従五位下に叙爵し、子息が平朝臣姓の賜姓を受けていることから、桓武天皇裔の三世王(曾孫)か。
経歴
[編集]清和朝初頭の貞観2年(860年)无位から従五位下に直叙される。貞観7年(865年)大監物を経て、貞観11年(869年)従五位上に叙せられた。
清和・陽成・光孝朝にかけて、以下の通り伊勢神宮への奉幣使を務めている。
- 貞観13年(871年)神祇大祐・大中臣常道と例幣使として派遣[1]
- 元慶5年(881年)神祇大副・中臣有本と例幣使として派遣(諒闇のため神祇官より派遣)[2]
- 元慶8年(884年)光孝天皇の即位を告げるために派遣[3]
光孝朝では、筑前守を経て元慶9年(885年)山城守に任ぜられるなど地方官を務めた。仁和2年(886年)子息の安平・篤行・有本・内行・潔矩が平朝臣姓を与えられて臣籍降下している[4]。
官歴
[編集]『日本三代実録』による。
系譜
[編集]注記のないものは『日本三代実録』による[4]。