藤原知家
表示
時代 | 鎌倉時代前期 |
---|---|
生誕 | 寿永元年(1182年) |
死没 | 正嘉2年(1258年)11月 |
改名 | 知家→蓮性(号) |
別名 | 大宮三位入道 |
官位 | 正三位、中宮亮 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流六条藤家 |
父母 |
父:藤原顕家 母:院女房新大夫局(源師兼の娘) |
兄弟 | 清家、知家、顕氏、重継、尊家 |
子 | 九条行家、知輔 |
藤原 知家(ふじわら の ともいえ)は、鎌倉時代前期の公家・歌人。藤原北家末茂流、正三位・藤原顕家の子。官位は正三位・中宮亮。大宮三位入道等とも呼ばれる。新三十六歌仙の一人。
経歴
[編集]建久4年(1193年)従五位下に叙爵し、翌年美作守に任ぜられる。中務少輔・左兵衛佐・中宮亮などを歴任の後、承久元年(1219年)従三位に叙せられて公卿に列し、寛喜元年(1229年)には正三位に至る。嘉禎4年(1238年)病により出家し、蓮性と称した。
歌人としては始め藤原定家に師事し[1]、『新古今和歌集』・『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて葉室光俊らと共に御子左派への対抗勢力を形成[1]。『蓮性陳状』によってその立場を主張した[2]。
系譜
[編集]作品
[編集]歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
千載和歌集 | 新古今和歌集 | 藤原知家 | 1 | 新勅撰和歌集 | 正三位知家 | 12 | ||
続後撰和歌集 | 正三位知家 | 19 | 続古今和歌集 | 正三位知家 | 32 | 続拾遺和歌集 | 正三位知家 | 17 |
新後撰和歌集 | 正三位知家 | 4 | 玉葉和歌集 | 正二位知家 | 1 | 続千載和歌集 | 正三位知家 | 4 |
続後拾遺和歌集 | 正三位知家 | 3 | 風雅和歌集 | 正三位知家 | 3 | 新千載和歌集 | 正三位知家 | 3 |
新拾遺和歌集 | 正三位知家 | 11 | 新後拾遺和歌集 | 正三位知家 | 5 | 新続古今和歌集 | 正三位知家 | 6 |
名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
---|---|---|---|
宜秋門院詩歌会 | 建仁3年(1203年)7月27日 | ||
内大臣道家百首 | 建保3年(1215年) | ||
内裏名所百首 | 建保3年(1215年) | ||
内裏百番歌合 | 建保4年(1216年) | ||
中殿和歌御会 | 建保6年(1218年) | ||
道助法親王家五十首 | 建保6年(1218年) | ||
女御入内屏風和歌 | 寛喜元年(1229年) | ||
洞院摂政家百首 | 貞永元年(1232年) | ||
光明峯寺摂政道家歌合 | 貞永元年(1232年) | ||
日吉社歌合 | 嘉禎元年(1235年)奉納 | 『知家入道自歌合』とも。判は藤原定家。 | |
新撰六帖題和歌 | 寛元2年(1244年) | 家良・為家・知家・信実・光俊による題詠と相互加点[3] | |
春日若宮社歌合 | 寛元4年(1246年)12月 | 判者 | |
後嵯峨院歌合 | 宝治元年(1247年)頃[* 1] | 『蓮性陳状』の契機 |
- 私家集は伝存しない。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 陳状は、建長5年4月16日付となっている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 位藤邦生,田野慎二,藤川功和[他] 「宝治元年『院御歌合』注釈--「蓮性陳状」」 『尾道大学芸術文化学部紀要』 (10),15-39 2010年 尾道大学芸術文化学部
- 佐藤恒雄 「新撰六帖題和歌の成立について」 『香川大学教育学部研究報告. 第I部』(49),p79-126 1980年3月 香川大学
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年