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藤原顕家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 顕家
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 仁平3年(1153年
死没 不明
別名 九条(号)
官位 正三位非参議左京大夫
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 藤原北家末茂流六条藤家
父母 父:藤原重家、母:藤原家成の娘
兄弟 経家顕家有家保季資家、成円、仁快、中山兼宗
院女房新大夫局(源師兼の娘)
清家知家顕氏重継、尊家
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藤原 顕家(ふじわら の あきいえ、旧字体藤󠄁原 顯家)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿歌人従三位藤原重家の次男。九条を号す。

経歴

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永万元年(1165年六位蔵人に補され、同年従五位下叙爵する。永万2年(1166年)に尾張権守に任ず。

嘉応3年(1171年民部権少輔承安2年(1172年少納言となり、承安4年(1174年)従五位上に叙される。三河守右近衛少将を歴任した後、安元3年(1177年正五位下次いで従四位下に進む。

しかし、治承3年(1179年)11月17日、平清盛によって治承三年の政変が勃発すると顕家は官職を解かれた。その後、寿永元年(1182年)従四位上・右近衛少将に叙任されて還任し、寿永2年12月(1184年2月)に正四位下に陞叙。元暦2年(1185年)には能登守を兼任した。元暦4年(1187年左京大夫に遷る。

建仁元年12月(1202年1月)従三位に叙され公卿に列す。承元2年(1208年)に正三位に叙されるが、建保3年(1215年)8月に63歳で出家するまで13年間官職に就く事はなかった。その後の消息は不明。

千載和歌集』以下の勅撰和歌集に7首が入集している。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

系譜

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脚注

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  1. ^ または14日。
  2. ^ 山丞記建久元年6月19日条