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紀長田麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
紀 長田麻呂
時代 平安時代初期
生誕 天平勝宝7歳(755年
死没 天長2年6月9日825年6月28日
官位 従四位上宮内大輔
主君 平城天皇嵯峨天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀稲手
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紀 長田麻呂(き の おさだまろ)は、平安時代初期の貴族式部大輔紀古麻呂の曾孫。相模介・紀稲手の子[1]官位従四位上宮内大輔勲等は勲七等。

経歴

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平城朝大同3年(808年筑前守、次いで大宰少弐に任ぜられる(この時の位階は従五位下)。

弘仁3年(812年玄蕃頭、弘仁4年(813年治部少輔・治部大輔次いで宮内大輔と嵯峨朝初頭は京官を歴任。弘仁6年(815年)従五位上・備前介に叙任されると、弘仁10年(819年正五位下、弘仁14年(823年従四位下から従四位上に昇叙されるなど、嵯峨朝後半以降は順調に昇進を果たしている。

淳仁朝天長2年(825年)6月9日卒去享年71。最終官位散位従四位上。

人物

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史書を学んでいなかったが、ちょっとした技を多く身につけていた。清貧に満足し、名声や利益を追い求めることはなかった。いわゆる、青松の下必ず清風あり、といった清らかな雰囲気の人物であった[1]

官歴

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日本後紀』による。

脚注

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  1. ^ a b 日本後紀』天長2年6月9日条

参考文献

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