六郷政勝
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長14年(1609年) |
死没 | 延宝5年1月12日(1677年2月13日) |
戒名 | 陽光院覚印禅照 |
墓所 | 東京都台東区西浅草の万隆寺 |
官位 | 従五位下、伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 出羽本荘藩主 |
氏族 | 六郷氏 |
父母 | 父:六郷政乗、母:不詳 |
兄弟 | 政勝、政徳、政直、政秀 |
妻 | 正室:京極高三の養女 |
子 | 政信、政盛、政照 |
六郷 政勝(ろくごう まさかつ)は、江戸時代前期の大名。出羽国本荘藩の第2代藩主。官位は従五位下・伊賀守。
略歴
[編集]慶長14年(1609年)、初代藩主・六郷政乗の長男として誕生した。
慶長20年(1615年)4月8日、2代将軍・徳川秀忠に拝謁する。寛永11年(1634年)6月6日、政乗の死去により家督を相続した。同年8月5日、お国入りの許可を得る。寛永17年12月29日(1641年)、従五位下・伊賀守に叙任する。寛永20年(1643年)7月5日、山形城の守備を命じられる。山形藩主・保科正之の会津転封に伴うものであった。
弟の政徳・政直・政秀らと協力して藩政の基礎固めに専念した。しかし、冷害などの天災に悩まされたという。近隣に移封されてきた矢島藩初代藩主・生駒高俊と領地の一部交換を行い、以降名勝「象潟」を領地とする。寛文9年(1669年)12月10日、政秀の子である政慶に400石を分与したため、本荘藩は2万石となった。
延宝4年(1676年)6月晦日、長男の政信に家督を譲って隠居し、延宝5年(1677年)正月12日に死去した。享年69。
系譜
[編集]父母
- 六郷政乗(父)
正室
子女