六郷政純
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和元年(1801年) |
死没 | 文政5年8月22日(1822年10月6日) |
改名 | 勝吉(幼名)、政純 |
戒名 | 寛量院仁聡良慧 |
墓所 | 東京都台東区西浅草の万隆寺 |
官位 | 従五位下、阿波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 出羽本荘藩主 |
氏族 | 六郷氏 |
父母 | 父:六郷政速、母:不詳 |
兄弟 | 政芳、政純ら |
妻 | 永井直進の娘 |
子 | 養子:政恒 |
六郷 政純(ろくごう まさずみ)は、江戸時代後期の大名。出羽国本荘藩の第8代藩主。官位は従五位下・阿波守。
生涯
[編集]享和元年(1801年)、第7代藩主・六郷政速の三男として誕生した。母は側室。正室は永井直進の娘。
文化7年(1810年)10月13日、長兄・政芳の病気による廃嫡に伴い、政速の嫡子となる。文化9年(1812年)9月15日、11代将軍・徳川家斉に拝謁した。同年12月28日、政速の死去により家督を相続した。文化10年12月16日(1814年)、従五位下・阿波守に叙任する。
幼年で藩主となったため、藩政は家老の内本一九郎が掌握し、藩政改革を行なった。内本は人件費節約や領民に対しての御用金廃止、村名主の佐々木助右衛門登用などの人材登用で手腕を見せたが、藩内保守派の反発を受けて文化10年(1813年)3月に失敗に終わっている。政純自身は絵がうまかったと言われている。
文政5年(1822年)8月22日、嗣子なくして22歳で死去し、跡を養嗣子の政恒(政芳の長男)が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 六郷政速(父)
正室
- 永井直進の娘
養子