「小室哲哉」の版間の差分
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[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業学校]]高等部[[商業 (教科)|商業科]]に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという<ref>{{Harvnb|神山典士|1997|p=63-64}}</ref>。この頃から[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]・[[ピンク・フロイド]]・[[レッド・ツェッペリン]]・[[キング・クリムゾン]]・[[T・レックス|T.Rex]]{{Refnest|group="注釈"|「音楽のファンというより、ヴィジュアルのファンだった」「生まれて初めて自分で買った洋楽のロックアルバムが『[[:en:The Slider|ザ・スライダー]]』だったけど、アバンギャルドで恐ろしい音楽。アコースティック・ギターがメインのイギリスのフォークという色で、僕が得意とする音じゃなかった」と語っている<ref name="kadokawa9110"/>。}}・[[ユーライア・ヒープ]]・[[コモドアーズ]]・[[クール・アンド・ザ・ギャング|Kool & the Gang]]・[[アース・ウィンド・アンド・ファイアー|Earth, Wind & Fire]]・[[ドナ・サマー]]・[[ディープ・パープル]]・[[イエス (バンド)|Yes]]等の洋楽を[[プログレッシブ・ロック]]・[[ファンク]]を中心に漁るように聞いた<ref>[https://web.archive.org/web/19990128010525/http://www.komuro.com/ptk3/bio/htm/1970-j.htm Bio File 1970より。]</ref><ref>[[ソニー・マガジンズ]]刊『GB』1986年12月号より。</ref>。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、[[キース・エマーソン]]・[[リック・ウェイクマン]]・[[ジョン・ロード]]・[[キース・ジャレット]]・[[ジョー・サンプル]]・[[デイヴ・グルーシン]]等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン{{Refnest|group="注釈"|「[[ナイス (バンド)|ナイス]]の時に知った際はロックというより怖い[[宗教音楽]]みたいなイメージでのめり込む勇気がなかった。[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]になった時『シンセサイザーとロックがつながった』と感じ、色々買い出した」<ref name="kadokawa9110"/>「運指の粗さ・ミスタッチをアドリブでどうごまかすか、どのようにお客さんを驚かせて喜ばせるかがすごく勉強になった」と話している<ref>[[リットーミュージック]]刊 『[[キーボード・マガジン]]』 2016年SUMMER号より。</ref>。}}・キース・ジャレット{{Refnest|group="注釈"|「テクニックや正確さよりも、それぞれが気持ち良いと思う響きを奏でようとする姿勢に共感しました」<ref name="magazin0305">[[リットーミュージック]]刊 『[[キーボード・マガジン]]』 2003年5月号より。</ref>「『[[:en:Facing You|フェイシング・ユー]]』を聴かなかったら、もしかしたらプロにならなかったかもしれない。弾き方や癖にまで影響を受けた。元々ジャズピアニストだがグルーヴ感があり、ロックを感じた」<ref name="souen"/>と話している。}}に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた<ref name="kadokawa9110"/>。 |
[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業学校]]高等部[[商業 (教科)|商業科]]に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという<ref>{{Harvnb|神山典士|1997|p=63-64}}</ref>。この頃から[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]・[[ピンク・フロイド]]・[[レッド・ツェッペリン]]・[[キング・クリムゾン]]・[[T・レックス|T.Rex]]{{Refnest|group="注釈"|「音楽のファンというより、ヴィジュアルのファンだった」「生まれて初めて自分で買った洋楽のロックアルバムが『[[:en:The Slider|ザ・スライダー]]』だったけど、アバンギャルドで恐ろしい音楽。アコースティック・ギターがメインのイギリスのフォークという色で、僕が得意とする音じゃなかった」と語っている<ref name="kadokawa9110"/>。}}・[[ユーライア・ヒープ]]・[[コモドアーズ]]・[[クール・アンド・ザ・ギャング|Kool & the Gang]]・[[アース・ウィンド・アンド・ファイアー|Earth, Wind & Fire]]・[[ドナ・サマー]]・[[ディープ・パープル]]・[[イエス (バンド)|Yes]]等の洋楽を[[プログレッシブ・ロック]]・[[ファンク]]を中心に漁るように聞いた<ref>[https://web.archive.org/web/19990128010525/http://www.komuro.com/ptk3/bio/htm/1970-j.htm Bio File 1970より。]</ref><ref>[[ソニー・マガジンズ]]刊『GB』1986年12月号より。</ref>。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、[[キース・エマーソン]]・[[リック・ウェイクマン]]・[[ジョン・ロード]]・[[キース・ジャレット]]・[[ジョー・サンプル]]・[[デイヴ・グルーシン]]等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン{{Refnest|group="注釈"|「[[ナイス (バンド)|ナイス]]の時に知った際はロックというより怖い[[宗教音楽]]みたいなイメージでのめり込む勇気がなかった。[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]になった時『シンセサイザーとロックがつながった』と感じ、色々買い出した」<ref name="kadokawa9110"/>「運指の粗さ・ミスタッチをアドリブでどうごまかすか、どのようにお客さんを驚かせて喜ばせるかがすごく勉強になった」と話している<ref>[[リットーミュージック]]刊 『[[キーボード・マガジン]]』 2016年SUMMER号より。</ref>。}}・キース・ジャレット{{Refnest|group="注釈"|「テクニックや正確さよりも、それぞれが気持ち良いと思う響きを奏でようとする姿勢に共感しました」<ref name="magazin0305">[[リットーミュージック]]刊 『[[キーボード・マガジン]]』 2003年5月号より。</ref>「『[[:en:Facing You|フェイシング・ユー]]』を聴かなかったら、もしかしたらプロにならなかったかもしれない。弾き方や癖にまで影響を受けた。元々ジャズピアニストだがグルーヴ感があり、ロックを感じた」<ref name="souen"/>と話している。}}に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた<ref name="kadokawa9110"/>。 |
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[[早稲田大学社会科学部]]<ref name="bio1970"/>に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する<ref group="注釈">哀婉・[[あのねのね]]、[[白竜 (俳優)|白竜]]、[[原田真二]]等の[[バックバンド]](キーボードを担当)、[[SPEEDWAY]]への参加等。</ref>。初めての現金で支払われた[[ギャランティー]]は、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった<ref name="zyosei95815">[[主婦と生活社]]刊「[[週刊女性]]」1995年8月15日号pp.27-29「ミリオンセラー仕掛人 小室哲哉 すべてを語った…」より。</ref>。ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった<ref name="kadokawa9110"/>。大学の講義にはほとんど出なかったが[[統計学]]だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた<ref name="goro">[[小学館]]刊『[[GORO]]』1988年5月12日号「ジャパニーズBeatに首ったけ インタビュー・2 小室哲哉(TMネットワーク)」p.31より。</ref>。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために |
[[早稲田大学社会科学部]]<ref name="bio1970"/>に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する<ref group="注釈">哀婉・[[あのねのね]]、[[白竜 (俳優)|白竜]]、[[原田真二]]等の[[バックバンド]](キーボードを担当)、[[SPEEDWAY]]への参加等。</ref>。初めての現金で支払われた[[ギャランティー]]は、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった<ref name="zyosei95815">[[主婦と生活社]]刊「[[週刊女性]]」1995年8月15日号pp.27-29「ミリオンセラー仕掛人 小室哲哉 すべてを語った…」より。</ref>。ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった<ref name="kadokawa9110"/>。大学の講義にはほとんど出なかったが[[統計学]]だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた<ref name="goro">[[小学館]]刊『[[GORO]]』1988年5月12日号「ジャパニーズBeatに首ったけ インタビュー・2 小室哲哉(TMネットワーク)」p.31より。</ref>。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために除籍となる<ref name="keieijuku"/>。 |
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「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「[[Player (雑誌)|Player]]」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向は[[ジョルジオ・モロダー]]{{Refnest|group="注釈"|「『[[ジョルジオ・モロダー]]と言えば小室君!』と宣言できる位、僕は彼のことに詳しいですよ。彼には悪いけど、すごく音楽性が似てるんだもんね」と話している<ref>[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]刊『[[ロック・ショウ]]』1985年10月号p.67より。</ref>。}}・[[エレクトリック・ライト・オーケストラ|ELO]]・[[バグルス]]のような「[[テクノポップ]]の方面に行き過ぎず、飽くまでも[[ポピュラー音楽]]の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧く[[テクノ (ダンスミュージック)|ダンス・ミュージック]]の音色を作るか」を考えながら入念に制作していた<ref name="takara91224">[[宝島社]]刊「[[宝島 (雑誌)|宝島]]」1991年2月24日号pp.58-60「電気グルーヴVS小室哲哉(TMN)」より。</ref>。そうしていく内にデモテープが[[小坂洋二]]・[[小林和之]]の目に留まり<ref name="ginza174"/>、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった<ref name="aera"/>。 |
「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「[[Player (雑誌)|Player]]」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向は[[ジョルジオ・モロダー]]{{Refnest|group="注釈"|「『[[ジョルジオ・モロダー]]と言えば小室君!』と宣言できる位、僕は彼のことに詳しいですよ。彼には悪いけど、すごく音楽性が似てるんだもんね」と話している<ref>[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]刊『[[ロック・ショウ]]』1985年10月号p.67より。</ref>。}}・[[エレクトリック・ライト・オーケストラ|ELO]]・[[バグルス]]のような「[[テクノポップ]]の方面に行き過ぎず、飽くまでも[[ポピュラー音楽]]の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧く[[テクノ (ダンスミュージック)|ダンス・ミュージック]]の音色を作るか」を考えながら入念に制作していた<ref name="takara91224">[[宝島社]]刊「[[宝島 (雑誌)|宝島]]」1991年2月24日号pp.58-60「電気グルーヴVS小室哲哉(TMN)」より。</ref>。そうしていく内にデモテープが[[小坂洋二]]・[[小林和之]]の目に留まり<ref name="ginza174"/>、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった<ref name="aera"/>。 |
2020年10月13日 (火) 12:11時点における版
小室 哲哉 | |
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「MTV Video Music Awards Japan 2014」のレッドカーペットに登場した小室哲哉。 | |
基本情報 | |
別名 |
t[注釈 1] t.komuro[注釈 2] TK TECHI KOMURO[注釈 3] TETSUYA KOMURO[注釈 4] Tetsuya Komuro Tetsuya_Komuro[注釈 5] TETSUYA "TK" KOMURO[注釈 6] 566[注釈 7] DJ TK[注釈 8] t.tek 2[注釈 9] TAN DK[注釈 10] Lifecell[注釈 11] Digital "Cheap" Snake[注釈 12] スーパーウェーブ小室[注釈 13] |
生誕 | 1958年11月27日(65歳) |
出身地 | 東京都府中市 |
学歴 | 早稲田大学社会科学部中退[1] |
ジャンル |
J-POP テクノポップ テクノ・ダンス・ミュージック レイブ ジャングル ニューエイジ R&B ヒップホップ プログレッシブ・ロック トランス EDM オルタナティヴ |
職業 |
音楽プロデューサー 作詞家 作曲家 編曲家 トラックメイカー キーボーディスト シンセシスト シンセサイザープログラマー ミキシングエンジニア DJ |
担当楽器 |
キーボード シンセサイザー ピアノ ギター ベース ドラムス コーラス ボーカル オルガン ブルースハープ |
活動期間 |
1975年 - 2018年 2019年 - |
レーベル |
avex trax /avex globe (1991 - ) 過去の在籍レーベル
Sony Music Entertainment /Epic/Sony Records /TRUE KiSS DiSC (1984 - 2000) パイオニアLDC /ORUMOK RECORDS /factoryorumok /Tatsumaki Records (1995 - 2001) PONY CANYON /FLIGHT MASTER (1998 - 2001) R and C /gaball screen (2001 - 2007) Syn Songs (2006 - 2018) |
事務所 |
Avex Management /a nine (2009 - ) 過去の所属事務所
Jun & Kei (1975- 1994) Office TIMEMACHINE (1983 - 1994) OPERA GIG ↓ TK state /TK MUSEUM /TK state America MUSEUM /TK SEQUENCE /TK SEQUENCE America /TK ENTERTAINMENT SERVE /Prime Direction TK Room /tetsuya komuro rise (1992 - 2000) Antinos Management (1993 - 2000) Rojam Entertainment (1998 - 2004) 吉本興業 (2001 - 2007) Tribal Kicks (2004 - 2007) TKCOM /Empire Play Music /イーミュージック (2007 - 2008) |
共同作業者 |
一覧
宇都宮隆 (2001, 2010, 2012 - 2015, 2020) |
公式サイト | avex公式サイト |
著名使用楽器 | |
Roland TR-808 / TR-909 YAMAHA KX1 / KX5 / KX76 / Tetsuya Komuro's Mind Control YAMAHA DX7 / DX7II-FD / DX7II-D E-mu Emulator II EOS B200 / B500 / B700 Synclavier 6400 Roland JD-800 Fantom-G6 / G7 / G8 Clavia・Nord Lead 3 Access Virus・Virus Indigo 2 Redback |
小室 哲哉(こむろ てつや、1958年〈昭和33年〉11月27日 - )は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー、キーボーディスト。東京都府中市出身。
東京多摩振興特命武蔵国府中大使[3]。元尚美学園大学芸術情報学部教授。親は福島県出身。妻はglobeのボーカルのKEIKO。従兄弟はアイドルグループCHA-CHAのメンバーで音楽家の中村亘利。愛称は「てっちゃん」「先生」「TK」など。身長167cm、体重57kg。血液型O型。
略歴
学生時代
3歳から12歳まで東京芸術大学教授の下でヴァイオリンのクラシック音楽の練習曲で只管同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。小学生の頃から既にクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていた[4][5][6]。小学5年生のとき、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の親戚の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた[5][7]。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さ[8]、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成[6]に影響を受けた。反面ピアノは独学であり、中学2年生の時に音楽の授業で周囲がギターを選ぶ生徒が多かったから敢えてピアノを選ぶ形で弾き始めた[9]。プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった[10]。ただし、それが功を奏し、後に「和音・管弦楽法を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった[6]。
音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている[11][12][13]。日本万国博覧会でシンセサイザー・マニピュレーター・マルチモニター・12チャンネルステレオを背景に演奏する冨田勲を間近で見て、「もしモーツァルトの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える[14][15]。
中学生の時にシンセサイザーを無性に買いたくなり、家にあったギター・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「ローランドSH1000」を購入した。家族からは叱られたものの、「当時のシンセサイザーはエレクトーンより音数も限られていて、機体も小さかった。だけど間違いなく自分が得意なものとプライドを持てる」と確信し、それを切っ掛けに改めて練習を続けると共に、オリジナル楽曲の作曲を本格的に始める。渡辺美里の「きみに会えて」「BELIEVE」「嵐ヶ丘」「I wish」・TM NETWORKの「Here, There & Everywhere (冬の神話)」等後に提供する楽曲の雛型約20曲をその頃に作曲したという[5][16][17][18]。
早稲田実業学校高等部商業科に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという[19]。この頃からELP・ピンク・フロイド・レッド・ツェッペリン・キング・クリムゾン・T.Rex[注釈 14]・ユーライア・ヒープ・コモドアーズ・Kool & the Gang・Earth, Wind & Fire・ドナ・サマー・ディープ・パープル・Yes等の洋楽をプログレッシブ・ロック・ファンクを中心に漁るように聞いた[21][22]。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、キース・エマーソン・リック・ウェイクマン・ジョン・ロード・キース・ジャレット・ジョー・サンプル・デイヴ・グルーシン等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン[注釈 15]・キース・ジャレット[注釈 16]に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた[20]。
早稲田大学社会科学部[1]に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する[注釈 17]。初めての現金で支払われたギャランティーは、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった[25]。ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった[20]。大学の講義にはほとんど出なかったが統計学だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた[26]。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために除籍となる[27]。
「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「Player」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向はジョルジオ・モロダー[注釈 18]・ELO・バグルスのような「テクノポップの方面に行き過ぎず、飽くまでもポピュラー音楽の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くダンス・ミュージックの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた[29]。そうしていく内にデモテープが小坂洋二・小林和之の目に留まり[30]、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった[12]。
TM NETWORK〜TMN
自身の音楽ユニットであるTM NETWORKと並行して、三浦徳子の勧めと三浦の紹介で知り合った渡辺有三の推薦[31]、「たまには他の人の曲を作るのも勉強になる」という今野敏の後押し[32]で岡田有希子の「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」を皮切りに、渡辺美里、荻野目洋子、おニャン子クラブの福永恵規、堀ちえみ、中山美穂、松田聖子、小泉今日子、宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂、中森明菜などに楽曲を提供し、作曲家としても活躍する。その活動はTM NETWORK・ソロ活動の際の企画・制作費・プロモーションの環境整備に一役買った。特に当時共同で作業する機会が多かった大村雅朗に関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。その上で他の歌謡曲とどのように馴染ませるか・どうフレーズとコード進行をアレンジすればヒットするかを考えるときに随分助けてもらった」と語っている[33][17]。その活動は巡り巡って雑誌・新聞に「TMの小室哲哉が作曲」と言う形でTMの宣伝として形に表れ、その後の作曲家としての小室の動き方に大きな影響を与えた[34]。
1986年(昭和61年)に渡辺美里へ提供した「My Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞。TM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場。しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社と一緒に他の人気アーティストと発売日が飾らないように、スケジュールを自ら調整するようになる[35]。
1988年初春から、「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作・海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室一人の仕事で費用をペイすることを条件[36]にロンドンに渡り、半年程をアパートで過ごした[注釈 19]。部屋に置いたCP-80で曲を作り、製品盤のイメージが見えてきたらトンプソン・ツインズのプライベートスタジオに足を運んでデモテープを作り、それを郊外のレコーディングスタジオで仕上げるという現地のミュージシャンと同じスタイルでの制作活動を繰り返した[39]。あわよくば現地にて女性ボーカリストをスカウトし「TM international」というTMの姉妹ユニットを結成・世界デビューさせる計画があったが、カイリー・ミノーグの1stアルバム「Kylie」の売り上げ規模をみて、日本と海外のマーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと[36]・「キック・ハイハットがシンクロしていない。これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告され、自分の無力さを痛感したこと・プロデューサー集団PWL(ストック・エイトキン・ウォーターマン)の仕事を間近で見たことによりスタジオワークの面白さを知ったこと[注釈 20]・ジャングルのロンドンでの浸透にショックを受けたこと[注釈 21]・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話、企画書のチェックにはFAX、デモテープの配送には郵便と用途別に使わなければならず、無駄な時間と通信費がかかり、本来の仕事に支障をきたしたことで白紙になった[44][45]。この件がきっかけでそれ以降、1年に最低でも1回、多くて4~5回はスタジオの設計と機材の研究も兼ねて、ロンドンの複数のスタジオでレコーディング・ミキシング作業を行うようになる[38][46][47]。その他にもミュージカル作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーの次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した[注釈 22]。
1989年(昭和64年/平成元年)にシンガーソングライターとしてソロデビュー。リードボーカルを担当した「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。1985年 - 1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル モーツァルト」の劇中音楽を手掛けた。
1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[49][50][51][52]。ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。でも、歌う曲はサザンオールスターズ・松任谷由実さん・ZARDのような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている[16]。しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[27]。
しかし、小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」と議論が巻き起こった。これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった[注釈 23][54]。それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた。形態として「演奏権は確かにエピック側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」と丸山が保障することで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる3つの音楽著作権印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が頂く形をとり[55][56]、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」は小室の取り分になった[38][57]。
1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・芝のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え[58]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、只管に楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[59][注釈 24]。その時の目標となったのが、ジ・オーブの作品群・活動スタイルであり[注釈 25]、「TM・trfに共通する僕のすごくポップな部分が生まれる切っ掛けになった」と話している[62]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[63]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[64]。
そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性[注釈 26]を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[67]というコンセプトから来たものである。小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している[68]。
小室ブーム
1994年のTMN終了前後から、観月ありさ、篠原涼子、trf、hitomi、内田有紀、H Jungle with t、dos、globe、華原朋美、安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーやヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。ソニー・ミュージックエンタテインメントの丸山茂雄が小室のプロデューサー活動を支援するためにアンティノスレコードを設立し、マネジメント業務もアンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)に移管した[69][70]。
プロデュース手法の構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマンとレコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイングの長戸大幸のプロデュース手法を参考にしたとされる[注釈 27]。実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた[69][70][72]。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し[52]、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った[73]。
1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙により1996年に終了している。
1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞[74]。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いても構わないし[注釈 28]、最初から最後まで見てくれてもいい。アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません。レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・キャッチコピーと取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい。ライブの内容やスケジュールも監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり[42][38][77][78][79][80]、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し[81]、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないで代理店のスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った[38][82]。小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった[83]。
1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートし[84]、同時期に制作・生活拠点をロサンゼルスに移した[85]。
この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程[27]のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが、小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」[86]「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽ができるようになる。自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」[70]「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」[83]と割り切った意見を述べた。
1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した[74]。1996年はglobeのアルバム「globe」が当時のオリコン記録を更新し、歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録。安室奈美恵のアルバムも330万枚を超え、華原朋美のアルバムも250万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した[87]。さらに1996年から2年連続で高額納税者番付において全国4位を記録、1997年の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった[87]。1996年末には海外進出を狙いルパート・マードックと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した[87]。
1997年、スピード2のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った[87]。8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、活動拠点をアジアに定めた。「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか?』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた[85][88][89]が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にデータ転送の速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」[90][91]「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオに逃げたかっただけだった」[92][93]と語っている。
ブームの失速
1997年前半まではミリオンセラーを連発していたが、この頃から既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がポップテイストからエレクトロニカへ変化している点(特に安室奈美恵の楽曲が顕著)、同年夏に小室とエイベックスの関係性の急速に悪化によりglobeが一時活動停滞したことや翌年1998年にはTRF・hitomiらのプロデュースが無くなり、小室ブーム全盛期の中心にいた安室奈美恵は出産のため休業し、ミリオンセラーを叩き出した華原朋美も恋愛関係の清算による離脱等の複合的要因で小室ファミリーの規模が急激に縮小。同時期に新たな音楽性をもつJ-POPアーティスト(R&B本格シンガーとして登場したMISIA、バンドブームを牽引したGLAY・L'Arc〜en〜Ciel、若年層のアイドルブームを牽引したSPEED、エイベックス内で脱小室派閥が進んで勢いをつけたEvery Little Thingなど)が台頭し始め、小室ブームは少しずつ落ちていく。1998年にはtohko・鈴木あみ・未来玲可をプロデュースさせたものの、1996年前後の小室ブーム全盛期と比べて勢いは劣っていた。
翌1999年以降は明確なサビを持たせた楽曲展開をやめ、globeやTRUE KiSS DESTiNATiONらを使って小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、トランスなどを日本のJ-POPに導入しようとした試みたが、当時は人気が出なかった。しかし、今からすれば時代の先取りであった為、ある意味での功績とも言える。また、更なる世代交代で新しいアーティスト(若干15歳ながら数々の金字塔を打ち立てた宇多田ヒカル、エイベックスの脱小室派閥による戦略で女子高生を中心にブレイクした浜崎あゆみ、オーディション番組からつんく♂のプロデュースでブレイクしたモーニング娘。、自称新宿系を称し独自の世界観で魅了したシンガーソングライター椎名林檎など)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げは落ち、それ以後はglobe関係の活動がほぼ小室のウエイトを占めるようになった。
特にヴィジュアル系[注釈 29]・つんく♂[注釈 30]・宇多田[注釈 31]の台頭には、価値観と感覚の相違・引退を意識させられた程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたいときに作れて、鍵盤を弾けるときに弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた[98]。
この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」[99]「小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップのような音楽を目指したいと思った」[100]と心境の変化を語った。
吉本興業へ移籍
2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受の報酬金(印税)18億円を返還。数々のミリオンセールスを導き出した安室奈美恵が『Think of me/no more tears』を最後に小室ファミリーから独立した。5月にASAMIと再婚。また、小室が株式の大半を握っていたRojam社が香港株式市場(H株GEM)に上場。factoryorumokを清算後、マネジメント契約をアンティノスマネジメントから吉本興業所属に移す。かたわらでタレントとしても活動し、同年のバラエティ番組「笑う犬の冒険」のコントに『超ハンサム侍』として出演する等の話題はあったが、プロデュース業は好転しなかった[87]。9月に富士銀行が日本の銀行として初めて本人所有の著作権を担保に10億円の融資を行った[101]。融資金は先述の専属プロデューサー契約解約による前受金返還に充てたことが後の5億円詐欺事件の公判で明らかにされた。
2002年3月にASAMIとわずか10か月でスピード離婚(実子あり)。5月には吉本興業が設立したアール・アンド・シー・ジャパン(現:よしもとミュージック)の株式70%強をRojamが買収し、吉本との関係を強化した。そして11月にはKeikoと再婚。TBSで結婚披露宴が特別番組で生中継されたことは話題となった[87]。しかし、ASAMIとの間で合意した約7億円の慰謝料を一括で払うことはできず分割で支払うことになったが、その支払いも資金繰り悪化のために2004年8月頃には滞るようになったという[87][102]。
この頃より所有していた別荘、株券、高級車、クルーザーなどの資産売却を行うようになった[87]。2004年には約70億円の株式評価損が生じたRojam Entertainmentの出資・経営から撤退した[87]。さらに2005年9月には大分トリニータへのスポンサー料7000万円を滞納していることも明らかとなった[102]。2008年11月1日にNACK5の開局20周年番組に出演した際には自らの活動を振り返り「98年からの10年はなかなか曲が出てこなかった」[103]「もうやれることはやりつくした気がして貪欲になれなかった」[104]と語っていた。
5億円詐欺事件
2006年8月6日、小室は日本音楽著作権協会に自分名義で登録している全楽曲806曲の著作権を10億円で譲渡する仮契約を関西地方在住の個人投資家男性と締結。前妻のASAMIが著作権使用料を差押さえているとして、その解除費用として5億円の先払いを要求し、8月29日までに5億円を受け取った[105]。
しかし実際には仮契約段階で既に著作権の一部は、エイベックス・エンタテインメント・バーニングパブリッシャーズ・ライジングバブリッシャーズといった音楽出版社に譲渡(音楽業界では著作者である作曲家や作詞家が音楽会社に著作権を譲渡して管理を任せる代わりに印税を受け取ることが慣例となっている[105])されており、小室には著作権がなかった[105]。だが小室は返金に応じなかったため、男性は2008年2月に小室に対し逸失利益を含めた6億円の損害賠償を求め提訴[105]。小室が全額を支払うことで和解が成立したが、期日であった9月末までに小室は支払わなかった[105]。
このため男性は地方検察庁に刑事告訴した[105]。検察側は小室が受け取った5億円を差し押さえ解除ではなく借金返済に使っていたことを把握。当初から金を詐取する目的だったと判断し、2008年11月4日午前7時40分頃に大阪地検特捜部は小室とトライバルキックスの社長、広告会社の実質経営者の計3名を5億円の詐欺容疑で逮捕した[106]。なお、前日に大阪地検特捜部から任意出頭の要請を受けたため新大阪駅前のシティホテルに滞在しており、逮捕時はみのもんたの朝ズバッ!など一部の朝の情報番組が特別編成となり、逮捕容疑の解説とホテル上空の空撮映像を交えてホテルエントランス前から連行される様子を生中継していた。
11月21日に起訴され、同日に保釈保証金3,000万円を支払い保釈された[107]。保釈保証金はレコード会社のエイベックスと妻のKEIKOが支払った[108]。
2009年1月21日に大阪地方裁判所にて初公判、3月12日に第2回公判が行われる。第2回公判直前の3月10日、解決金を含めて6億5000万円をエイベックス・グループ代表の松浦勝人がポケットマネーで立て替え、被害者に完済した。被害者側に謝罪の手紙を送っているが受取りを拒否されている[109]。なお、この被害者に送るつもりだった謝罪文は第三回公判の際に、小室自身により読み上げられた[110]。被害者側との示談交渉においては、情状証人として出廷した松浦は「示談を申し込んだが“できない、誠意が足りない”と弁護士から聞かされた。“誠意が足りないとはどういうことか”と代理人に尋ねたら“お金だ”と聞き、非常にショックを受けた。」と証言した[111]が、被害男性は「そのようなことは一切言っていない」と否定し、「民事裁判で和解が成立して決着している。」と話している[112]。なお、SNSのmixiでは2008年11月から「小室哲哉氏の復活を願う会」というコミュニティが457人を集めたり、mixiのサポートを受けての紙ベースの署名活動も行われていた。(署名TVでも行われていた。)さらに小室の母親やマネージャー、弁護士の了解を得た上で署名活動と平行して裁判所への提出もありうるという大前提で小室に対して手紙を書く「小室哲哉さんへの手紙」という活動も行われていたりと、復帰待望論が起き、[注釈 32]小室の減刑を望む動きは、音楽業界や音楽業界関係者からもあり、実際に減刑嘆願書を出した音楽業界関係者もいた[113]。第3回公判は4月23日に行われて結審。
2009年5月11日、大阪地方裁判所より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡され、弁護側・検察側共に控訴はせずに、同年5月25日午前0時をもって刑が確定した。
再出発
2010年5月に復帰第一作としてAAAの楽曲「逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜」をプロデュース。また、翌6月には森進一への提供楽曲が発売されることがマスメディア、および5月2日付の小室のtwitterにて明らかとなった[114]。『眠らないラブソング/道標』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった。その後もレコード会社を問わず超新星、SMAP、北乃きい、浜崎あゆみらへ楽曲を提供している。小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた。一方で2010年9月29日にはglobeのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された。また、11月にやしきたかじんへ楽曲「その時の空」を提供した。
2011年6月13日、宇川直宏の主催する音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信ライヴを行う。瞬間最大視聴者は2万7000人を超え、合計視聴者数は14万4000人を記録した。12月23日、ラフォーレミュージアム原宿にて開催される「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の4日目に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催した[115]。
2012年3月20日、幕張メッセで行われた東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE-give&give-』に、TM NETWORKとして参加したのをきっかけに、約4年ぶりにTM NETWORKの活動を再開する。
DMM オンラインサロン「小室哲哉 - TK Culture Gathering」を開設し、ファンとの触れ合いの場も積極的に開催し、本人からのオンラインサロンにかける意気込みも語られている。
TM NETWORK 30周年
TM NETWORKがデビュー30周年を迎える年である2014年にはツアーやリリース、テレビ出演など活動を活発化させた。春にはおよそ6年ぶりとなる全国ツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』がスタート。過去楽曲をリメイクしたアルバム『DRESS2』や新曲『LOUD』もツアーのスタートに先駆けてリリースされた。同年10月29日には7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』をリリースし、オリコン初登場8位を記録した。同時に秋から冬にかけて行われたツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30』もスタート。
2015年2月にアリーナ公演『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA』、3月に横浜アリーナにて単発コンサート『TM NETWORK 30th FINAL』を行い2012年から続いたシアトリカルなライブを完結させた。よって、2012年から続いたTM NETWORKとしての活動も充電期間に入ることが発表された。
この節の加筆が望まれています。 |
突然の引退表明
2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑記事が前日発売の『週刊文春』に掲載されたことを受け、同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した[116]。小室は会見で、女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、C型肝炎や左耳の突発性難聴といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり、身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした[117][118]。
制作活動の再開
2019年より、ピアノ・シンセサイザーを駆使して制作した空間音楽を建築・芸術関係の企業に向けて提供する仕事を、自身の名前を出さずに始めることでミュージシャンとしての制作活動を再開する[119][120]。
秋元康の後押し・オファーによって、乃木坂46の「Route 246」に作曲・編曲として参加、2年3ヶ月ぶりに公での楽曲提供を行う[120]。
バイオグラフィ
- ニューミュージックのアマチュアバンド「哀婉」で活動[注釈 33]。
- 洋楽専門のレコード会社からの募集でラジオ局宛のリクエスト葉書を書くアルバイトを行うことで本格的に音楽業界に関わり始める。1週間に500~600枚書き、「イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』をかけて」という内容だけでも千枚送っていた。報酬は現金ではなく、70~80枚毎にコンサートのチケット・新作のサンプル盤のどちらかを1,2枚もらっていた[20][121]。
- プロ・ミュージシャンとしての活動を開始。あのねのね、白竜、原田真二、角松敏生、パンタ、村田和人、上田正樹、アリス等のバックバンド・スタジオ・ミュージシャンを経験。ニッポン放送系列「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のテーマソング・教育映画のBGM・ローカル局のCMテーマ曲を手掛ける[122][4]。
- SPEEDWAYに参加。月光仮面の主題歌をロック調に編曲したCMソング「ROCKIN' ON THE 月光仮面」で手腕を発揮した。2nd.アルバム『BASE AREA』で数曲を作曲した。ミス・オレンジショックをプロデュース。
- 音楽専科社のライターの仕事を請け負っていた[123]。
- バンドを結成しては解散する時期を送る(「ギズモ」、「ステイ」、「イラプション」等[124])。
- 安岡力也の『ホタテのロックン・ロール』でアレンジを担当。SERIKA with DOGのサウンドプロデュースを行う。
- SPEEDWAYのメンバーであった木根尚登と新ユニットを組むことに合意し村田バンドに参加。
- 宇都宮隆を誘い「TM NETWORK」を結成し、リーダー、作曲・編曲・シンセサイザー演奏を担当。
- コカ・コーラ フレッシュサウンズコンテストに応募。「1974 (16光年の訪問者)」で史上初の審査員全員満点のグランプリを受賞する。
- 4月21日、TM NETWORKがアルバム『RAINBOW RAINBOW』とシングル「金曜日のライオン」同時リリースでデビュー。
- Sony Music Entertainmentと専属契約を結ぶ[注釈 34]。
- 7月、大江千里「ロマンス」の編曲を担当する。
- 11月、大江千里「十人十色」の編曲を担当した。(※CMバージョンは小室の編曲である)
- アニメ映画「吸血鬼ハンターD」サウンドトラックを担当する。
- 小室にとって初のメジャー歌手への楽曲提供は、岡田有希子の3枚目のアルバム『十月の人魚』収録の2曲「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」である。
- 渡辺美里に曲提供(作曲)した「My Revolution」がヒット。精力的にライブをこなす。
- TM NETWORKのアルバム『Self Control』、シングル「Get Wild」がヒット。
- ロサンゼルスでアルバム『humansystem』をレコーディング。Bernie Grundman Masteringにマスタリングを初めて依頼した(Bernie Grundman本人が担当)。
- 角川映画「ぼくらの七日間戦争」サウンドトラックを担当。
- 単身渡英し、アルバム『CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜』の楽曲制作を開始。
- アイドルデュオ、キララとウララのキララ(大谷香奈子)と結婚。
- 2月、デュラン・デュランの東京ドームライブにゲスト出演、キーボードを演奏する。
- 「Running To Horizon」で歌手としてソロデビュー、オリコン週間シングルチャート第1位を獲得。続く「GRAVITY OF LOVE」も第1位を獲得した(松田聖子の「Precious Heartを阻止し、連続首位獲得記録を途切れさせた)。アルバム『Digitalian is eating breakfast』をリリース。ソロツアーも開始。シンクラヴィアを本格的に使い始めた。
- 当人プロデュースによるシンセサイザー(キーボード)EOS B500発売。
- 角川映画「天と地と」サウンドトラックを担当。
- オリジナルアルバム『Psychic Entertainment Sound』をリリース。
- TM NETWORKが「TMN」にリニューアル。
- 「SPACE WORLD」を開催し、「Think Of Earth」を披露。
- XのYOSHIKIと「V2」を結成し、シングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース(オリコン最高位第2位)。一度だけライブを行った。
- ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」の音楽を担当。
- avex traxとプロジェクト単位・一作品毎でのライセンス契約を結ぶ[注釈 35][注釈 36]。
- 自身の個人レーベル第1号となる「TK TRACKS LABEL」を設立。
- NOVA21グループ傘下のディスコを会場としたディスコツアー「TK TRACKS NIGHT」を開催する。TMのコンサートが終わった後夜23時頃に小室がDJとして自ら1時間程選曲してプレイし、その上にシンセサイザーによる即興演奏とMCも乗せていた。プレイリストにはTMの楽曲も入っていた。同時に小室がマハラジャでダンサー・ボーカリストの審査員を務め、見返りとして全国のNOVA21グループ傘下のディスコでTMの楽曲が1日5回以上かかり、TMのラジオ番組「TMN EXPO '91」のスポンサーをNOVA21が務める等、関係を深めていく[70][130]。
- 小室の個人事務所「OPERA GIG」を設立。
- 山羊智詞&赤羽楽団のメンバーとして参加。
- 提供楽曲のセルフカバーを中心としたソロアルバム『Hit Factory』を製作。
- 初の全面プロデュースユニットとしてtrf (Tetsuya komuro Rave Factory) を結成、レイブへの傾倒を見せる[131][注釈 37]。
- 大谷香奈子と離婚。
- 2月25日、trfがシングル「GOING 2 DANCE/OPEN YOUR MIND」でデビュー。
- 6月21日、trfが2ndシングル「EZ DO DANCE」発売洋楽中心であった日本のダンスシーンに大変革をもたらした。
- 米国でRadikal Recordsより「TRF Rave Factory」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。英国でFAZE-2 RECORDSより「t.r.f」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。
- 4月21日、TMN"終了"。
- アニメーション映画「ストリートファイターII MOVIE」の音楽監督(鳥山雄司と共同)・主題歌制作を担当。
- 7月21日、篠原涼子 with t. komuroとして「恋しさと せつなさと 心強さと」を発売。初のシングル売上200万枚突破。
- 小室の個人事務所を「OPERA GIG」から「TK state」に改名、2000年まで活動。
- 海外向けプロジェクトEUROGROOVEを開始。
- hitomi、大谷健吾、ANISSのプロデュースも同時期に開始した。trfのアルバム『WORLD GROOVE』から民族音楽への関心を示す。
- trf「BOY MEETS GIRL」やEUROGROOVEの楽曲などでトライバル・ハウスに積極的に取り組んだ。
- trf、内田有紀、マーク・パンサー、MOON TRAP、伊藤彰などが出演したミュージカル「1999...月が地球にKISSをする」の音楽を担当。ミュージカルの楽曲は多くが商品化された。
- ジャングル・シークレット・イベント「t jungle m」を開催。
- H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」でシングル売上200万枚を突破。「ジャングルで世界一の売上を記録したプロデューサー」として海外の雑誌でも取り上げられた。
- フジテレビドラマ「ひとりにしないで」の音楽を久保こーじと共同で担当。
- マーク・パンサー、KEIKOとともに、自身が参加するユニット「globe」を結成。
- 8月、「avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMP」でオーガナイザーをつとめ、東京ベイサイドスクエア・大阪万博記念公園に計6万人を動員する。
- 11月22日、インテル・サン・マイクロシステムズのハードウェア・技術面のサポートを受け、初の公式ウェブサイト「Planet TK」をスタートさせた。サーバはサンディエゴに設置していた[132][133][134]。
- 12月31日、trfの「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」で第37回日本レコード大賞を受賞。
- 自身のレーベル「ORUMOK RECORDS」をスタート。華原朋美、H.A.N.D.をデビューさせる。
- 1月、幕張メッセでライブ・パフォーマンス「tk-trap」を開催。
- globeのシングル「DEPARTURES」で売上200万枚を突破。
- globeのアルバム『globe』で売上400万枚突破。オリコン歴代アルバム記録を更新。
- 華原朋美のアルバム『LOVE BRACE』が売上250万枚を突破。オリコン歴代ファーストアルバム初動記録を更新。
- 安室奈美恵のアルバム『SWEET 19 BLUES』が売上300万枚を突破。オリコン歴代アルバム初動記録、累計記録(女性部門)を更新。
- 安室奈美恵のシングル「Don't wanna cry」で第38回日本レコード大賞受賞。
- 3月、dosがORUMOKからデビュー、R&Bへのアプローチを開始する[135][注釈 38]。
- 4月、嘉門達夫が小室哲哉プロデュースの曲を替え歌にした、TK替え歌メドレー(嘉門達夫もイニシャルは『TK』である)が発売された。
- 9月、TK替え歌メドレー2も発売となった。
- 9月、小室ファミリーのポータルサイト「TK Gateway」をスタート[134]。Webデザイナー・CGIプログラマーとして有限会社オン・ザ・エッヂ(現LDH)の堀江貴文ら4人が参加していた[137]。その他ヤマハ・NTTと技術提携をし、短いスパンで新技術を導入した[138]。
- 4月15日付けオリコンシングルチャートで1位から5位までを自身がプロデュースする楽曲で独占した。
- カラオケソフトウェア「TK's karaoke engine」の販売がスタート。
- 11月、厚生省の開催する麻薬・覚醒剤禍撲滅運動の一環として、小室プロデュースによるライブ「イエス・トゥー・ライフ dance alive」を開催する。
- 12月、小室哲哉とルパート・マードック率いるニューズ・コーポレーションが百万ドルずつ出資し、香港に合弁会社「TK NEWS」を設立。アジア進出の足がかりとなり、2年後に台湾からRing、香港からgrace ipをデビューさせるきっかけとなった。マードックは1998年に撤退したが、TK NEWSはRojam Entertainmentの母体となった。
- 12月31日、23時から24時間の間にインターネットイベント「TK Trillion Net」が開催された。
- 4月6日、祖父の出身地、福島県西白河郡中島村に小室アレンジの「ヨカッペ音頭」が流れるからくり時計を寄贈。記念式典にも出席した。
- 「TK presents こねっと」として『YOU ARE THE ONE』をリリース。収益金は「こねっと・プラン」参加校に寄付され、教育現場へのインターネット普及に貢献した。
- globeの2ndアルバム「FACES PLACES」で売上300万枚を突破。また、日本史上初の東京、名古屋、大阪、福岡4大ドームツアーを敢行。
- 5月20日、香港で開催された国際音楽産業見本市「MIDEM ASIA」のエイベックスのショーケースに安室・TRFと共にglobeとして出演[139]。
- 台湾で初の海外ツアー「TK PAN-PACIFIC TOUR '97 IN TAIPEI」を開催する。
- 7月、アニメーション映画「エルマーの冒険」の音楽監修を務める。
- 20世紀フォックス配給映画「スピード2」のメインテーマのリミックスを手掛ける。
- 中日邦交正常化25周年記念公演「TK Presents GROOVE MUSEUM」を開催する。
- DJ DRAGONとプロデュースユニット『tatsumaki』を結成。後に鈴木あみ、BALANCe等に関わっていく。
- 安室奈美恵のシングル「CAN YOU CELEBRATE?」で売上が200万枚を突破、小室プロデュースのアーティストのシングルとしては最高の売り上げを記録、第39回日本レコード大賞を受賞。
- ニューヨークでインディーズレーベル「TRUE KiSS DiSC」(1999年正式に設置)を始動。鈴木あみ、甲斐よしひろ、Ring、白竜などをプロデュースした。
- グアム観光政府局より親善大使として「グアム大夏祭」「グアムアートイルミネーション」グアム旅行者にプレゼントされた「アイランドブレス」を総合プロデュース。鈴木あみ・globeと共に現場に登壇し、ライヴを開催している。美術監修は絹谷幸二、イルミネーションの絵柄は島民からアイディアを募集して決定した[140][141]。
- 7月2日、TOKYO FMにて「小室哲哉のミリオンナイツ」が放送、本番組にてスタジオライブを披露した。香港では小室・マーク・grace、東京では天方・久保が待機し、二元放送された[140]。
- SEIKOと共同で腕時計「frequency」を開発する。「クロノグラフ機能」「30BPM - 250BPMまで調節できるリズム機能」「発光で刻むメトロノーム」等を内蔵させた[141]。
- globeのシングル「wanna Be A Dreammaker」で第40回日本レコード大賞を受賞。
- 香港の中国返還1周年記念式典に参加。globe・grace ip・OLIBIAと共にパフォーマンスを披露した[141]。
- 香港にアジア最大の総合音楽プロダクションを目指す会社「Rojam Entertainment」を設立。中国・上海に「ROJAM DISCO」をオープン。
- 東京にメディアファクトリーなどとの合弁会社「factoryorumok」を設立。
- 「YAMAHA EOS SOUND CONTEST98」の審査委員長を務める。(ちなみに副審査委員長は浅倉大介)
- トーコが、小室哲哉と日向大介の共同プロデュースでデビュー。
- 未来玲可が小室哲哉と久保こーじの共同プロデュースでデビュー。
- サッカー・W杯フランス大会の公式アルバムにジャン・ミッシェル・ジャールとともに「TOGETHER NOW」で参加。
- パリ祭のメインイベント「RENDEZ-VOUS '98 ELECTRONIC NIGHT」をジャン・ミッシェル・ジャールと共同で開催する。
- 日本テレビ系列ドラマP.A.のサウンドトラックを担当。
- インドネシアバリ島クタビーチにてクラブイベント「GOA IN BALI」をDJ DRAGONと共同で開催し、3万人を動員した。その内2万9千人以上はほぼ外国人だった[142]。
- 1月末、華原と破局する。
- TM NETWORKを再結成し「GET WILD DECADE RUN」を発売した。
- 元dosの吉田麻美と「TRUE KiSS DESTiNATiON」を結成し、TOTOの代表曲「AFRICA」をカバー。
- TLCのLeft Eyeが名付け親のBLAQUE IVORYを「ADORE ME」の作曲とアレンジを担当した。
- 国際麻薬統制委員会を訪問し、UNODC親善大使を授与される。
- ニューヨークの国連本部で開催された国連親善大使会議に参加する。
- TM NETWORKとKiss DestinationがTRUE KiSS DiSCレーベルから撤退。個人レーベル「Tatsumaki Records」を設立。
- アーティスト養成通信講座「TK MUSIC ONLINE」を開始。
- Rojamよりネット配信と通信販売により新曲を発表した。RojamからはZoieとCELINA。factory ORUMOKからは坂口実央、MIYUKI、清水まなぶ、ステレオリキッドなどがデビュー。ネット販売とコンビニ販売を視野に入れた両社であったがレコード販売以外はほとんど実現できなかった。
- 11月、麻薬・覚醒剤乱用防止活動としてTRF、BALANCeと共に「イェス・トゥ・ライフ東京大会」に参加。
- 12月31日より翌年の元日、沖縄県・宜野湾海浜公園トロピカルビーチで「Rendez-vous in Space 2001」が開かれた。
- 1月、Sony Music Entertainmentとの専属契約を解消し、factory ORUMOKから撤退。
- 3月、公式サイト「komuro.com」リニューアル[134]。
- 5月、吉本興業とマネージメント契約を結ぶ。吉本興業内のレーベル「R&C JAPAN」(現R and C)の設立に参加、一時期オーナーを務める。
- 同日Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚。
- DJ DRAGON、原田大三郎とともに「GABALL」結成、トランス・ミュージックへの傾倒が始まる。Rojamのレコード販売事業は縮小。
- SAMプロデュースクラブ・イベント「zento」にTRF、BALANCe等と共に、参加・楽曲提供。
- 9月、フジテレビ単発テレビドラマ「プラトニック・セックス」の音楽監督を担当(橋本慎と共同)。
- 10月より放送を開始したアニメ「サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER」の音楽監督(多田彰文、松尾早人と共同)を担当。
- トランス・イベント「TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE」を主催。
- 中国映画「恋愛中的宝貝(邦題:恋愛中のベイビー)」の音楽監督・主題歌制作を担当。
- 3月、吉田麻美と離婚。
- 5月17日、『ミュージシャン及びダンサー用電子時計』を発明して特許(特開平11−72586)を取得。しかし、2007年5月17日に権利消滅[143][144]。
- 11月22日、globeのボーカルKEIKOと再婚。globeにはX JAPANのYOSHIKIが加入した。
- 4月より3年間「キャットミュージックカレッジ専門学校」の名誉校長に就任した。
- 初のピアノ・インストアルバムを3枚発表した。
- 全米先行放送アニメ(後に2004年10月より日本でも放送)「ゾイドフューザーズ」の音楽監督を担当。
- 新型肺炎や鳥インフルエンザの流行などにより、韓国での開催を予定していた黄砂対策チャリティライブが中止。globeにYOSHIKI加入後初の東京ドームライブが中止と、不運が相次いだ。
- Rojam株を全て売却し、Rojamの経営から撤退した。
- 個人スタジオ兼イベント運営会社として「Tribal Kicks」を新たに設立。
- サッカーJリーグの大分トリニータのスーパーバイザーに就任。
- 4月21日 TM NETWORKデビュー20周年を記念して横浜アリーナでライブを行った。
- 日中国交正常化30周年記念NHKドラマ「世紀末の晩鐘」の音楽監督を担当。
- 8月、イロメロミックスの着信音をプロデュースする。「WA」「ALERT」等を楽曲として配信した[145]。
- 11月2日 globe結成10周年を記念して2年半ぶりの全国ツアーを行う。ツアー中に新曲「judgement」を披露。
- 大晦日、BLACK JAXXと共に六本木ヒルズ52FにてカウントダウンLIVEを行う。
- クラブ・イベント「Electone STAGEA Presents Tribal Kicks TV Party」を開催した。
- avexの手掛ける高音質ネット配信の研究機関「High Definition Sound laboratory」のエグゼクティブアドバイザーに就任。
- 「@MUSIC HD Sound」にてglobeの楽曲の高音質配信を開始した。
- 2月、中国の女優である陳好に楽曲提供する。
- ロサンゼルスを拠点とした活動を再開。DJ TK名義で丸山茂雄運営の「mF247」に楽曲の提供を開始。
- 3月、エプソン 品川アクアスタジアムのアトラクション「ポート・オブ・パイレーツ」の音楽を担当。
- 小室哲哉と吉本芸人がコラボレートを行い「TKプロジェクト ガチコラ」と題して、11組のお笑い芸人に楽曲を提供した。
- 10月、米ロックバンド・Stevie Salas Colorcodeのアルバム『Be What It Is』の楽曲「cherokee girl」にシンセサイザーで参加。
- 11月、自身のMySpaceオフィシャルサイトを開設。
- 12月、音楽配信を主とした新たなインディーズレーベル兼個人スタジオ「TKCOM」を立ち上げる。
- Kimeruの「with you」をプロデュース。男性ソロアーティストのプロデュースは自身で9年ぶりとなる。
- 4月、尚美学園大学芸術情報学部音楽表現学科特任教授に就任。担当した講義は「新世紀音楽概論」で講義の内容は『印税・著作権の問題』『ヒット曲に共通するタイトル』『日本語の音韻論』を展開した。午前9時の1時限目に月1,2回教壇に立っていた[146]。著作権を巡る詐欺事件(前述)のため同大学は2008年11月4日付けで小室哲哉を懲戒解雇処分した。
- 6月、所属事務所の吉本興業と契約満了。
- 7月、DJ TK名義で「Cream Of J-POP 〜ウタイツグウタ〜」をリリース。
- 11月2日 - 3日、楽器フェア2007に、TM NETWORKとしてライブ出演。
- 11月8日 - 11日、秋葉原のメイドカフェ「メイリッシュ」をジャック[147][148]。愛用のギターやキーボードを展示し、店舗を「DJ TK」仕様に改装した[147][148]。
- 12月、音楽プロダクションイーミュージックの制作総指揮に就任。同月に設立された芸能事務所「Empire Play Music」に所属。
- 大晦日から元旦にかけて多福寺にて、「TK New Year Live 2008 in Tafukuji Temple」を開催する(この模様はYouTubeで公式配信された。)
- 2月、18年ぶりとなるオリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Winter」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
- 3月、オリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Spring」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
- 5月、「MTV Video Music Awards Japan 2008」にkcoと共にゲスト・セレブリティとして出演。
- 6月、江の島アイランドスパの新アトラクション「オーロラトリップ」「ヒーリングオーロラ」のサウンドプロデューサーを担当。
- 7月、オリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Summer」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
- 8月、尚美学園大学にて「SHOBIワンダーランド」のプログラムとしてピアノコンサートを行う。
- 9月、オリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Autumn」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
- 11月4日、兵庫県内に住む個人投資家に著作権譲渡の話を持ちかけ、5億円を騙し取った詐欺の容疑で、大阪地検特捜部に逮捕される[106]。これを受け、「Empire Play Music」は同日付で小室を契約解除した。
- 2月 - 3月にかけて、再開後初めてのソロコンサートを崇城大学市民ホール・福岡市民会館・鹿児島市民文化ホールで開催された。
- 5月5日 - AAAに提供した『逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜』が発売。オリコンチャートで初登場1位を獲得する。
- 5月16日 - AAA Heart to ♥ TOUR 2010 東京公演(NHKホール)に登場し、ピアノソロおよび「逢いたい理由」(作曲:小室)のピアノ伴奏を披露した[151]。
- 9月7日 - 『globe デビュー15周年記念ベスト盤、サイン書き特番』をUstreamにて配信。
- 9月22日 - 『globe デビュー15周年記念ベスト盤、完成記念特番』をUstreamにて配信。
- 10月13日 - 14日、KREVAのコンサートイベント「意味深3」日本武道館2Days公演にサポートキーボーディストとして出演。
- 12月14日 - 『DATV「ほほえみプロジェクト」チャリーティイベント「Message! to Asia」』にGACKT、ペ・ヨンジュンらとともにゲスト出演。
- 4月29日 - 国連"Friend's Whistle!" プロジェクトに坂本美雨、mihimaru GT、May J.らとともに参加。小室が制作したテーマソング(Always be there)を参加アーティスト全員で歌唱した。
- 5月4日 - オリジナルアルバム「Digitalian is eating breakfast 2」をリリース。
- 5月25日 - 小室哲哉のヒット曲を集めた『TK BOX 〜TETSUYA KOMURO HIT HISTORY〜』がmu-mo shop限定で発売された。
- 6月1日 - オリジナルアルバム「Digitalian is eating breakfast 2 インストバージョン」を配信開始。
- 6月13日 - 『DOMMUNE「TK Presents BROADJ ♯331」2-Hour Special Live Set by TETSUYA KOMURO』を音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信。来場者数はのべ14万人以上にものぼり、ネット上で大きな話題となった。
- 7月18日 - 『国連UN-OHRLLS・国連の友 "Friend's Whistle! Act for Tomorrow! Vol.2"』に出演。
- 7月23日 - 24日 - 『a-nation Charge & Go! ウイダーinゼリー THE PREMIUM NIGHT in nicofarre』に出演。
- 7月30日 - 『Yamaha & Steinberg EXPO 2011 "TK Special Talk & Live"』に出演。
- 8月19日 - 『FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011』に出演予定だったが暴風雨のため中止される。
- 8月20日 - 早朝、中止された『FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011』を「今日やらないと意味が無いセットリスト」とのことでスタジオより急遽配信。
- 9月21日- 22日、30日 - 「TETSUYA KOMURO 〜Piano Solo Concert〜」を開催。
- 10月15日 - 『ASOBISYSTEM & PIF presents ASOBINITE!!!』に前回のASOBINITEと同じく、中田ヤスタカと共にゲスト出演。
- 10月24日 - globeのボーカルで妻のKCOが24日(月)夕方、自宅で倒れ都内病院に緊急搬送された。幸運なことに小室が傍にいたため迅速な対応ができた。(翌日はテレビ収録の仕事が入っていた。)医師に『くも膜下出血』と診断され、25日未明より緊急手術を行い無事成功。その後意識も回復した。KCOとglobeのホームページには小室のコメントが掲載された。
- 11月5日 - 『早稲田祭2011「UBC-jam vol.25」』に出演。
- 12月23日 - 『HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE』に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催。
- 3月7日 - ボーカルで参加したジュリアン・レノンとともにピアノで参加したNick Woodの新曲『HOPE』がiTunesで配信開始。
- 3月10日 - 「キーボードマガジン 2012年4月号 SPRING」に小室が審査を務めるキーボードマガジンコンテストについて掲載。付録のCDには小室が制作したコンテストの課題曲が収録されている。
- 3月20日 - 幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE -give & give-』に米米CLUB、PRINCESS PRINCESSとともにTM NETWORKで出演。
- 3月21日 - ライヴDVD「TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)」をリリース。
- 3月21日 - リミックスアルバム「Digitalian is remixing」をリリース。
- 3月28日 - 配信限定だった「Far Eastern Wind」がデジタルリマスタリングを施されCDとして「Far Eastern Wind -Complete-」「Far Eastern Wind -Spring / Summer-」「Far Eastern Wind -Autumn / Winter-」の3形態でリリース。
- 3月28日 - コンピレーションアルバム「小室哲哉 meets VOCALOID」をリリース。
- 4月18日 - 『ガンダムフロント東京オープニングセレモニー』にゲスト出演。
- 4月24-25日 - 日本武道館にて『TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-』をTM NETWORKで開催。25日公演は日本全国、香港、台湾の映画館にて同時生中継された。
- 4月25日 - TM NETWORKとして約5年ぶりのシングル「I am」をリリース。TM NETWORKとして12年ぶりにオリコントップ5にランクイン。
- 6月1日 - 小室哲哉のFacebookページとスタッフのTwitterがスタートした。
- 7月15日 - 『Keyboard Magazine Festival 2012』にH ZETT M、nishi-kenとともに出演。シンセサイザーオーディションの課題曲の監修、審査も担当した。
- 8月3-26日 - 野島伸司原作・脚本の舞台『ウサニ』の音楽を担当。
- 8月12日 - 『FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO 2012』に出演。YouTubeでも生中継で配信され、全体の来場者数は約72万人を記録した。
- 8月12日 - WOMBで行われる音楽イベント『WEEKENDLESS』にm-floのVERBAL、RE:NDZ a.k.a kz(livetune)らと共に出演。
- 8月26日 - 「ライブDVD & Blu-ray『TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-』発売記念スペシャルイベント@渋谷公会堂」を開催。TMと縁の深い渋谷公会堂でIncubation Periodの特別版を放映、その後メンバーが登場し、一連の活動について解説をした。また、未発表の新曲を小室が生でミックスする作業をファンの前で披露した。
- 10月1日 - JFN系全国ネット「小室哲哉 Radio Digitalian」がスタート。3月まで月1回でオンエアされていた「RADIO SESSIONS 小室哲哉 Digitalian」が週1回に変更され、再開する。“今話題の楽曲や小室自身が手がけた楽曲を2012年の小室目線”で紹介する内容となっている。
- 10月3日 - ニッポン放送「オールナイトニッポンモバイル」がスタート。“TM NETWORKの結成に大きく関わった映画話”や、“シンセサイザーの話”などがアーカイブされていき、それぞれ違ったテーマで小室哲哉の過去・現在・未来が語られていく番組となっている。
- 10月18日 - ドライブのための音楽ナビゲーションサービス「music Chef」に新しいシェフとして小室哲哉が登場。小室が影響を受けた音楽や、自身が手がけた楽曲をセレクション。
- 10月21日 - フジテレビ系新番組『スナック喫茶エデン』にレギュラー出演。バラエティ番組のレギュラーは初である。
- 11月15日 - 小室によるトータルプロデュースでモデルの壱岐尾彩花が「GLOWING」でメジャーデビュー。小室が新人をプロデュースするのはFemale non Fiction・R9以来約10年ぶりとなる。
- 11月21日 - TRFがシングル全31曲を収録したベスト盤『TRF 20th Anniversary COMPLETE SINGLE BEST』をリリースする。16年ぶりにプロデュースを手がけた新曲が収録される。
- 11月25日 - エイベックス主催のダンスイベント&オーディション「DANCE NATION 2012」のスーパーバイザーを務める。
- 1月6日 - フジテレビ「みんなのKEIBA」テーマ曲を担当。タイトルは「Now1(ナウワン)」。
- 2月15日 - 雑誌「FRIDAY」にて自身がC型肝炎であることを告白。薬の副作用と戦いながらも、現在は順調に回復に向かっているとのこと。
- 2月25日 - TRFのデビュー日である2月25日に小室哲哉プロデュースによるTRFのミニアルバム「WATCH THE MUSIC」がリリースされる。これに伴い「TRF」の表記が92年のデビューから96年まで使用していた小室哲哉プロデュースを象徴する小文字の「trf」に変更にされる。
- 2月27日 - GyaO! ライブトークにTRFのYU-KIと共に出演。
- 3月6日 - 約2年ぶりのソロアルバム「DEBF3」がリリース。最新エレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)を基調としたアルバムとなり、iTunes総合チャートで1位を獲得した。
- 3月25日 - 「Applayersコンテスト FINAL STAGE@ニコファーレ」に審査員として出演。
- 4月15日 - 2013年5月25日(土)と26日(日)にさいたまスーパーアリーナにて予定されていた『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』がボーカリスト宇都宮隆の体調不良のため、延期されることが発表された。
- 7月20日-21日 -『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』がさいたまスーパーアリーナにて開催され、全国の映画館で同時生中継された。
- 7月31日 - フジテレビ系「FNSうたの夏まつり」に出演。昨年に引き続き、TRFや浅倉大介、西川貴教などと共演した。
- 8月9日 - globeが18周年を迎え、新曲『ホワイトアウト』の制作を開始したことを発表。
- 8月10日 - SUMMER SONIC2013 / 東京 MIDNIGHT SONICに出演。
- 8月21日 - fripSideに提供した「eternal reality」のビデオクリップにゲスト出演。
- 8月29日 - 東京ステーションホテルで行われたファッションブランド「LOUIS VUITTON」主催のエキシビジョン「Timeless Muses(時を超えるミューズたち)」展に松浦勝人、大沢伸一らと共に来場。
- 9月21日 - リリー・フランキー主催のイベント「ザンジバルナイト2013」に出演。
- 9月25日 - リミックスアルバム「DEBF EDM 2013 SUMMER」をiTunes Storeで配信。
- 10月8日 - フジテレビ「ハモネプ☆スターリーグ」にチーム「TK HARMONIER」のリーダーとして出演。メンバーは坂本美雨、篠原ともえ、島谷ひとみ、DEEP。
- 10月29日 - TOHOシネマズ六本木ヒルズで開催される映画『スティーブ・ジョブズ』 のジャパンプレミアにゲスト出演。トリビュートミニライブを行う。
- 10月29日 - オランダ出身のDJ Afrojackの楽曲『The Spark (feat Spree Wilson)』のTetsuya Komuro Remixが配信開始。
- 10月31日 - YouTube上で展開する新しい歌番組プロジェクトTOYOTA「WISH presents 白黒歌合戦」のトークセッションにヒャダインこと前山田健一と共に出演。
- 11月2日 - フジテレビ「フジテレビ開局55周年記念 音楽特別番組 FNS名曲の祭典」に出演。
- 11月14日 - ニンテンドー3DS用ソフト「大合奏!バンドブラザーズP」のプリセット楽曲を提供。
- 12月4日 - ヒャダインこと前山田健一とのコラボ楽曲『22世紀への架け橋』がiTunes Store限定で配信開始。
- 12月4日 - フジテレビ「2013FNS歌謡祭」に出演。
- 12月7日 - YouTube上で生配信されるTOYOTA「WISH presents 白黒歌合戦」プレミアムライブに出演。
- 12月11日 - さいたまスーパーアリーナで行ったライブ「TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-」がBlu-ray DiscとDVDで発売。初回限定盤では、小室のオーディオコメンタリーも収録される。
- 12月20日 - Le Baron de Parisにて開催された「Syn City Christmas Ball」にDJとして出演。
- 12月29日 - 『rockin'on presents COUNTDOWN JAPAN 13/14』にDJとして出演予定。
- 1月31日 - 小室が自宅からスタジオに向かう最中、乗っていた車が交通事故を起こし、頸椎捻挫の軽傷を負った。これにより翌日に行われるはずだった坂本美雨とのイベントは大事をみて中止となった。
- 4月2日 - 小室のソロアルバム『TETSUYA KOMURO EDM TOKYO』が発売。
- 4月5日 - 小室の交通事故によって延期されたライブイベント「ディア・フレンズ LIVE Vol.2 welcomes 小室哲哉Supported by あ・う・て」がTOKYO FMホールにて開催。
- 4月13日 - 「burn WORLD DJ CONTEST 2014」に小室哲哉がメンターとして参加。コンテストのファイナリストと対談し、目の前で自らのパフォーマンスを披露した。
- 4月22日 - TM NETWORKの39枚目のシングル『LOUD』とセルフプロダクトアルバム『DRESS2』が発売。
- 4月26日 -『TM NETWORK LIVE TOUR "the beginning of the end"』が東京・府中の森芸術劇場どりーむホールからスタート。
- 4月30日 - 違法ダウンロードの防止を目的とした「STOP!違法ダウンロード」啓発ビデオクリップに元スケボーキングのSHIGEOと共に参加。このプロジェクト用に小室が書き下ろした新曲「GOOD CLICK CREATES GOOD MUSIC!」がYouTubeで公開された。
- 4月30日 - 東京プリンとたいせつな仲間たちによる楽曲「明日笑っていられるように」にキーボードで参加。
- 5月3日 - 4月2日にリリースした「TETSUYA KOMURO EDM TOKYO」を記念して小室本人がDJとして大阪、名古屋、大分、渋谷のクラブに登場する。
- 5月5日 - ダンスミュージックイベント『MUSIC CIRCUS'14』にスティーブ・アオキやVERBALなどと共に出演。
- 5月21日 - アフロジャックのアルバム「フォーゲット・ザ・ワールド」日本盤に小室がリミックスを担当した「ザ・スパーク」が収録される。
- 5月25日 - ライブ「TETSUYA KOMURO 2014 SPRING[FINAL]」をUstreamで生配信。前日のラジオで訪れていた沖縄のスタジオで行われた。
- 5月31日 - ageHaで行われたAFROJACKのライブにサプライズで登場。
- 6月14日 - 音楽授賞式「MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN 2014」にゲストセレブリティとして出演。このイベントに出演するのはおよそ6年ぶりである。
- 9月12日 - アソビシステムの人気パーティー「ASOBINITE!!!」に中田ヤスタカ、VERBAL、RAM RIDERらと出演する。中田との共演はおよそ3年ぶり。
- 9月14日 - ミュージックフェスティバル「THE BIG PARADE 2014」に登場。スペシャルトークセッションを行う。
- 9月24日 - ライブBlu-ray & DVD『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』が発売。
- 9月24日・10月4日 - 坂本美雨をフィーチャーした『小室哲哉 featuring 坂本美雨 ビルボードライブ』が9月24日に東京、10月4日に大阪で行われる。
- 10月29日 - 「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30」が神奈川のよこすか芸術劇場からスタート。
- 10月29日 - TM NETWORKの前作からおよそ7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』がリリース。
- 11月15日 - 小室書下ろしのストーリーブック『CAROLの意味』が発売。世界観に合わせて制作された50分を超えるインスト曲「password」をダウンロードすることができるMUSIC CARDを付属。
- 11月27日 - 小室哲哉の公式LINEアカウントがスタート。
- 12月3日 - フジテレビ年末恒例特番「2014FNS歌謡祭」に出演。
- 12月27日 - ファンクラブ限定イベントTM NETWORK 30th ANNIVERSARY FANKS PARTYがホテル日航東京にて開催。
- 12月30日 - rockin'on presents「COUNTDOWN JAPAN 14/15」にTM NETWORKが出演。
- 1月17日 - 全国映画館にて「TM NETWORK THE MOVIE 1984〜 30th ANNIVERSARY」が上映開始。
- 2月7日・8日 - アリーナ公演「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」がさいたまスーパーアリーナにて開催。
- 2月14日・15日 - アリーナ公演「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」が神戸ワールド記念ホールで開催。
- 3月21日・22日 - アリーナ公演「TM NETWORK 30th FINAL」が横浜アリーナにて開催。
- 4月9日 - フジテレビ系“ノイタミナ”枠にて放送開始のオリジナルテレビアニメ「パンチライン」の音楽を担当。劇伴とキャラクターソングを手がけた。
- 4月17日 - ニッポン放送にて「TM NETWORKのオールナイトニッポン」が放送。
- 4月22日 - 会場限定CDだった『Get Wild 2015』に「Just Like Paradise 2015」が追加されてiTunes、mora、e-onkyoなどで配信開始。
- 5月14日 - 17日 - 小室哲哉のDJイベント「〜globe 20th〜」が名古屋・広島・神戸・大阪にて開催。
- 5月21日 - 「小室哲哉feat.坂本美雨アコースティックライヴ」が熊本・八千代座で開催。
- 6月24日 - 「パンチライン」オリジナルサウンドトラックが発売。
- 6月25日 - アトラスより発売されるPS Vita用ゲーム『ペルソナ4 ダンシング・オールナイト』に楽曲アレンジで参加。
- 7月22日 - 2015年2月に開催された「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」さいたまスーパーアリーナ公演のLIVE Blu-ray / DVDが発売。Blu-ray2枚組の豪華盤のDisc2には、2014年12月に国際フォーラムで開催された「QUIT30」公演を収録。
- 8月5日 - globeの楽曲のアレンジを再構築した2枚組アルバム『Remode 1』をリリース。
- 8月9日 - 「globe 20th anniversary special event」が新宿ステーションスクエアで開催され、小室・マークによるライブ・DJパフォーマンスが披露された。
- 9月16日 - tofubeatsの2ndアルバム『POSITIVE』に参加。
- 10月25日 - 上海の音楽芸術向上への貢献が称えられ、上海国際芸術祭青年創想週間組織委員会から「上海戯劇学院金融総裁班特別芸術顧問賞」と「上海国際芸術祭青年創想特別貢献賞」が授与される[152]。
- 10月26日 - 競馬エンターティンメントサイト「umabi.jp」のテーマソングを小室哲哉、神田沙也加(TRUSTRICK)、tofubeatsとの3者で結成された新ユニット『TK feat. TK』が担当。作成した楽曲『♯RUN(ハッシュラン)』を同サイトで公開。
- 11月25日 - 2015年3月22日開催されたTM NETWORKの横浜アリーナ公演、「TM NETWORK 30th FINAL」のBlu-ray/DVDが発売。
- 12月2日 - TeddyLoidの約1年3ケ月ぶりとなるオリジナル2nd Albumに小室哲哉が参加。
- 12月8日 - 香川、愛知、東京、福岡、大阪の5か所で行われるピアノコンサート『小室哲哉PIANO BIOGRAPHY』がスタート。ギタリストに葛城哲哉を迎えて演奏された。また、東京公演ではボーカリストとして坂本美雨が参加。
- 12月16日 - globe20周年プロダクト第2弾としてトリビュートアルバム『#globe20th -SPECIAL COVER BEST-』を発売。HYDE、木村カエラ、浜崎あゆみ、TRFなどが参加するほか、小室哲哉自身もプロデュース・アレンジで参加。
- 12月23日 - 小室哲哉feat.神田沙也加(TRUSTRICK) & tofubeats名義として「Umabi」テーマソング「#RUN」を配信開始。
- 12月23日 - TM NETWORKのアルバム『DRESS2』のハイレゾ版が配信開始。
- 3月12日 - 新木場agehaにて開催されたASOBINITE!!!に出演。
- 3月23日 - TM NETWORKの2012年の日本武道館公演から2015年の横浜アリーナ公演まで、5つのライブをリマスタリング&高音質化して収録したBlu-ray BOXが発売。30周年イヤーの舞台裏に迫るドキュメント映像や、COUNTDOWN JAPAN14/15の出演映像も収録。
- 3月23日 - 『#globe20th -SPECIAL COVER BEST-』と『DEBF EDM 2013 SUMMER』のハイレゾ版が配信開始。
- 3月28日 - クロレッツとのコラボ企画「小室哲哉 feat.スッキリ応援歌メーカー」がweb上にてスタート。
- 3月30日 - 4月9日(土)に開催を予定していた「小室哲哉 PIANO BIOGRAPHY feat.坂本美雨」台北「ATT SHOW BOX」公演が小室哲哉の右足関節骨折のため、急遽延期されることが発表された。
- 4月20日 - NHK BSプレミアム「J-MELO」オープニングテーマとして小室哲哉とつんく♂が初コラボした楽曲『Have Dreams!』がitunesやmora等で配信開始。歌唱はMay J.が担当。
- 5月9日 - J SPORTS プレミアリーグ中継エンディングテーマ「a new lease on life」が配信開始。
- 5月14日 - 茨城・筑波大学にて音楽とテクノロジーを融合させたイベント「J-WAVE INNOVATION WORLD FESTA 2016」にDJスタイルで出演。
- 5月20日 - 小室哲哉がMCをつとめるネット音楽番組「TK MUSIC FRESH! by AWA」の月イチレギュラーがAbema TVで放送開始。
- 6月1日 - TOKYO FM「Blue Ocean」テーマソング『BLUE OCEAN』がiTunes / Apple Musicより先行配信スタート。
- 7月1日 - 株式会社DMM.comが運営する会員制オンラインサロンサービス「DMM Lounge(ラウンジ)」にて、小室哲哉による「TK Culture Gathering」が公開。
- 7月1日 - Amazonプライム・ビデオにて配信開始されたのドキュメンタリー作品『Invisible TOKYO』に出演。
- 7月12日 - 『Tetsuya Komuro Interviews Complete from 1984 to 2014』がAmazonで発売。
- 7月14日 - 16日 - 名古屋・神戸・京都・大阪のクラブにてDJとして出演。
- 7月30日 - 秋元康、つんく♂、指原莉乃と共にそろって代々木アニメーション学院のプロデューサーとして正式に就任。
- 8月3日 - globeの楽曲のアレンジを再構築したRemodeシリーズ第2弾『Remode 2』がリリース。
- 8月3日 - 第13回東京国際ミュージック・マーケット、ビジネス・セミナーのスピーカーに出演。
- 8月3日 - 「坂崎幸之助の第2回ももいろフォーク村デラックス」に木根尚登、MARC PANTHERと共に出演。
- 8月8日 - 20周年最終日を迎えるglobeが、8月8日に六本木ニコファーレにてイベントを急きょ開催。
- 8月19日 - ファッションブランド「SEPT PREMIÈRES by Kenzo Takada」のTVCMソングを小室が担当。ゲストボーカルは大森靖子が担当。
- 9月8日 - オーストリアのリンツで開かれる「アルス・エレクトロニカ」で、脇田玲と小室がオーディオビジュアルインスタレーションを発表。
- 10月2日 - 中田ヤスタカがレジデントを務めるフェス" OTONOKO[オトノコ]"に出演。
- 10月7日 - "VISION5th Anniversary presents track maker" にDJとして出演。
- 10月9日 - 北九州市で開催された東京ガールズコレクションの公式アフターパーティー『もみ処癒し屋 Presents TGC Night KITAKYUSHU 2016』にDJで出演。
- 10月12日 - デザイン・チーム<TOMATO>のサイモン・テイラーがオーガナイズし、ケミカル・ブラザーズがヘッドライナーとして出演する「Rockwell SirKus 2016 」に出演。
- 10月17日 - 札幌「KING XMHU」に DJとして出演。
- 10月26日 - シンガーソングライターの大森靖子へ楽曲提供した『POSITIVE STRESS』が発売。
- 10月28日 - Chim↑Pom 主催『ART is in the pARTy Day 2』にシークレットゲストとしてライブセットで出演。
- 11月18日 - 日本初となる写真と映像のアートフェア「ART PHOTO TOKYO – edition zero –」に出演。
- 12月8日 - 府中の魅力を市内外に発信し、観光などの振興に資するための「東京多摩振興 特命 武蔵国府中大使」に小室哲哉が任命された。
- 12月19日 - 12月24日 - 毎年恒例となった『小室哲哉PIANO BIOGRAPHY feat.坂本美雨』が2016年も開催。
- 12月19日 - エイベックス・グループの障がい者スポーツ支援事業「avex challenged athletes」が、障がい者スポーツの認知・普及を目的に作成したプロモーション映像に、新曲「one more run」を提供。
- 3月15日 - 約3年ぶりのソロアルバム『TETSUYA KOMURO JOBS #1』が発売。
- 3月29日 - H Jungle With tのヒット曲『WOW WAR TONIGHT』のアナログ盤が7インチでリリース。
- 4月5日 - TM NETWORKの代表曲Get Wildの発売30周年記念アルバム「GET WILD SONG MAFIA」が発売。
- 4月22日 - H Jungle With tの2ndシングル「GOING GOING HOME」が、RECORD STORE DAY限定盤アナログとして発売。
- 6月3日 - 音楽とテクノロジーを融合させたイベント「INNOVATION WORLD FESTA 2017」に2016年に引き続き出演。
- 6月21日 - アルバム『GET WILD SONG MAFIA』収録曲「GET WILD 2017 TK REMIX」と石野卓球(電気グルーヴ)が手掛けたアルバム未収録バージョン「GET WILD(Takkyu Ishino Latino Remix)」がアナログレコードで発売。
- 7月17日 - 7月23日 - 府中市市民活動センター「プラッツ」に新たに建設された多目的ホール「バルトホール」のオープン記念イベント「けやきの森のハーモニー」の監修を務める[153]。
- 7月31日 - 浅倉大介との音楽ユニット「PANDORA」を結成[154]。
- 8月19日 - 8月20日 - 超ドSフェスタしずおかの特任大使に就任、野外ライブイベントの出演アーティストの選出・ステージの設計等の演出全般に企画段階から関わった[155]。
- 11月3日 - PLAYCOOL CAMPにZeebraと共に講師として出演。
- 11月5日 - 日本科学未来館にて開催された『MUTEK 2017』に慶應義塾大学教授 脇田玲と共に出演。インスタレーションライブパフォーマンスを行った。
- 11月8日 - 安室奈美恵のベストアルバム、『Finally』に収録された新曲、「How do you feel now?」をプロデュース。ミュージックビデオでは、再会を果たすシーンが描かれている[156][157]。
- 12月2日 - 品川インターシティホールで行われる木根尚登のソロデビュー25周年記念ライブ「キネバラ」にゲスト出演。
- 6月12日 - 秋元康の依頼でTOKYO FM「TOKYO SPEAKEASY」にゲスト出演、2年4ヶ月ぶりにメディア出演を果たす[119]。
- 7月24日 - 秋元康の後押し・オファーによって、乃木坂46に「Route 246」を提供、ラストアイドルの2ndシングル「君のAchoo!」収録曲「風よ吹け!」以来2年3ヶ月ぶりに公に楽曲提供を行う[120]。リリース初日に1位[161]を獲得し、3日間で合計33,391ダウンロードを記録している[162]。
- 7月31日 - 復帰2作目として過去に多数の曲でタッグのある浜崎あゆみへ「Dreamed a Dream」を提供[163]。リリース初日は2,942ダウンロードで1位[164] を獲得したものの、週間ランキングでは20位圏外[165]という結果になった。
ディスコグラフィ
レコード会社およびレーベルについては以下の表記とする。
- (EP)…Epic/Sony Records
- (EM)…東芝EMI
- (AV)…avex trax
- (AN)…Antinos Records
- (SR)…Sony Records
- (SA)…Sony Music Associated Records
- (F)…FOA RECORD
- (Y)…YOSHIMOTO R and C(gaball screen / 旧:R and C Japan)
- (BW)…Banshee Worx
- (M)…mF247
- (G)…Sony Music Direct
- (T)…TKCOM
- (SY)…Syn Songs
ソロシングル
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考(タイアップ等) | |
---|---|---|---|---|
1st | RUNNING TO HORIZON | 1989年10月28日 | (EP) | アニメ『シティーハンター3』OPソング |
2nd | GRAVITY OF LOVE | 1989年11月17日 | (EP) | |
3rd | CHRISTMAS CHORUS | 1989年12月1日 | (EP) | |
4th | 天と地と〜HEAVEN AND EARTH〜 | 1990年4月21日 | (EP) | 映画『天と地と』テーマ曲 |
5th | 永遠と名づけてデイドリーム | 1991年12月12日 | (EP) | 音楽座ミュージカル『マドモアゼル・モーツァルト』テーマソング |
6th | Magic | 1992年10月1日 | (EP) | |
7th | Pure (Hyper Mix) | 1992年11月27日 | (EP) | c/w : yuki's song |
8th | SPEED TK RE-MIX | 1997年7月9日 | (EM) | 映画『スピード2』テーマ曲、「TETSUYA "TK" KOMURO」名義 |
9th | Blue Fantasy - Love & Chill Out | 2001年10月24日 | (F) | |
10th | SPEED TK RE-MIX〜炎のコマ | 2001年10月24日 | (EM) | 高橋由伸・桜庭和志入場テーマ曲 |
デジタルシングル
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考(タイアップ等) |
---|---|---|---|
Someday mF remix | 2006年1月5日 | (M) | 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。 |
If you like it or not | 2006年2月5日 | (M) | 「DJ TK」名義、ラップ・kco。 |
@Buddha Bar | 2006年3月7日 | (M) | 「DJ TK」名義。 |
SOMEDAY 2006 | 2006年4月22日 | (M) | 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。 |
Arashiyama | 2006年8月8日 | (M)→(T)・(SY) | 「DJ TK」名義。後にiTunes Storeで世界同時配信される。 |
I WANT YOU BACK (mF247 remix) | 2006年10月4日 | (M) | 「DJ TK」名義、自身の楽曲のセルフカバー。ボーカルはkco。 |
アンジェリーナ mF Prepromix | 2006年12月9日 | (M) | 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。inst版も同時配信。 |
ガッツだぜ!! DJ TK MIX | 2007年4月1日 | (M) | 「DJ TK」名義、ウルフルズのヒット曲のリミックス。 |
Now1 | 2013年1月30日 | (AV) | ソロアルバム「DEBF3」から先行配信。「みんなのKEIBA」テーマソング。 |
WATCH the MUSIC feat. Capitol A, Alain Clark | 2013年2月20日 | (AV) | 「DEBF3」のプレオーダーのスタートと同時に先行配信。 |
FREEDOM (Remode) / Love again (Remode) | 2015年7月8日 | (AV) | globeのアルバム「Remode 1」から小室哲哉名義で先行配信。 |
a new lease on life | 2016年5月9日 | (AV) | J SPORTS「15/16イングランドプレミアリーグ」中継エンディングテーマ。 |
Blue Ocean | 2016年6月15日 | (AV) | TOKYO FM「Blue Ocean」エンディングテーマ。 |
GET WILD 2017 TK REMIX | 2017年3月8日 | (AV) | 「GET WILD」30周年の幕開けとして小室が新たにリミックスした。 |
コラボレーション作品
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考(タイアップ等) |
---|---|---|---|
背徳の瞳〜Eyes of Venus〜 | 1992年1月18日 | (EP) | 「V2」名義。 XのYOSHIKIとのコラボ。 |
Silent Lover | 1995年4月21日 | (SR) | 「C+C+T・K」名義。 アメリカのC+C Music Factoryとのコラボ。 |
CALL ME ANYTIME | 2000年9月20日 | (SA) | 「Tetsuya Komuro Featuring. Y.U.M」名義。 アメリカのY.U.Mとのコラボ。 |
Embryo | 2003年 | (BW) | 「Lifecell」名義。 ベルギーのDJ PUSHとのコラボ。 |
22世紀への架け橋 | 2013年12月4日 | (AV) | 「小室哲哉VSヒャダイン」名義。 前山田健一(ヒャダイン)とのコラボ。 iTunes Store限定で配信。 |
#RUN(ハッシュラン) | 2015年12月23日 | (AV) | 「小室哲哉 feat. 神田沙也加(TRUSTRICK) & tofubeats」 名義。 ユニット名:TK feat.TK |
Have Dreams! | 2016年4月13日 | (AV) | 「Tetsuya Komuro × Tsunku♂ feat. May J.」名義。 つんく、May J.とのコラボ。 |
ソロアルバム
オリジナルソロアルバム
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1st | Digitalian is eating breakfast | 1989年12月9日 | (EP) | シンクラビアを多用し、全曲小室自身がリードボーカルを務めている。 |
- | Hit Factory | 1992年10月21日 | (EP) | セルフカバー・アルバム |
2nd | Digitalian is eating breakfast 2 | 2011年5月4日 | (AV) | 全世界同時発売[注釈 39]6月1日にはiTunes Store限定でインスト版が配信された。 |
3rd | DEBF3 | 2013年3月6日 | (AV) | EDMを基調としたアルバム。DOMMUNEのライブ音源も収録される。 |
4th | TETSUYA KOMURO EDM TOKYO | 2014年4月2日 | (AV) | セルフリミックス音源に加えてゲストボーカリストをフィーチャリングした新曲が収録される。 |
5th | TETSUYA KOMURO JOBS #1 | 2017年3月1日 | (AV) | 小室の近年のソロワーク音源を集めた新シリーズ「JOBS」の第1弾。アーティストらとのコラボ曲や、番組テーマソング、CMタイアップソング、サウンドインスタレーションなどで構成される。アルバムは初回限定盤と通常盤の2形態。初回限定盤にはミュージックビデオやライブ映像を収めたDVDと、小室のオリジナルインタビューとオフショット写真が100ページにわたり掲載されるフォトブックが付属する。 |
Far Eastern Windシリーズ
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1st | Far Eastern Wind - Winter | 2008年2月13日 | (T)・(SY) | iTunes Storeにて世界同時配信 |
2nd | Far Eastern Wind - Spring | 2008年3月5日 | (T)・(SY) | iTunes Storeにて世界同時配信 |
3rd | Far Eastern Wind - Summer | 2008年7月23日 | (T)・(SY) | iTunes Storeにて世界同時配信 |
4th | Far Eastern Wind - Autumn | 2008年9月10日 | (T)・(SY) | iTunes Storeにて世界同時配信 |
Far Eastern Wind -Complete- | 2012年3月28日 | (AV) | Far Eastern Windシリーズ全てがデジタルリマスタリングされCD盤で発売。1曲73分に及ぶ新曲『五常』が収録されている。 |
サウンドトラック
- 1985年 OVA「吸血鬼ハンターD」(リリース当初はTM NETWORK名義)
- 1988年 映画「ぼくらの七日間戦争」(リリース当初はTM NETWORK名義)
- 1990年 映画「天と地と」
- ⇒天と地と SOUNDTRACKを参照
- 1991年 ミュージカル「マドモアゼル モーツァルト」
- 1992年 ドラマ「二十歳の約束」
- ⇒二十歳の約束 (アルバム)を参照
- 1994年 アニメーション映画「ストリートファイターII MOVIE」
- 1995年 ドラマ「ひとりにしないで」
- 1998年 ドラマ「P.A.」
- 1998年 アニメーション映画「エルマーの冒険」
- 2002年 テレビアニメ「サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER」
- ⇒サイボーグ009 - CYBER MUSIC WORLD
- ⇒サイボーグ009 - CYBER MUSIC WORLD II 〜遭遇〜
- ⇒サイボーグ009「完結編 PROLOGUE 〜旅立ち〜」
- 2004年 中国映画「恋愛中的宝貝(邦題:恋愛中のベイビー)
- 2004年 テレビアニメ「ゾイドフューザーズ」
- 2015年 フジテレビ ノイタミナ『パンチライン』
- 2018年 携帯電話ゲーム「ガーディアンズ」
- 2018年 映画「SUNNY 強い気持ち・強い愛」
ライヴ・アルバム
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1st | t jungle m ~Secret Party~ | 1995年7月19日 | (AV) | |
2nd | tk-trap | 1996年5月22日 | (AN) | |
3rd | TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE vol.1 | 2002年11月20日 | (Y) | TSUTAYA限定販売 |
4th | TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE vol.2 | 2003年2月26日 | (Y) | TSUTAYA限定販売 |
5th | TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332) Disc.2・3 |
2012年3月21日 | (AV) | TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332) 形態AVBD-91883/B〜Cに収録 |
リミックス・アルバム
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1st | Blue Fantasy - Love & Chill Out With Trance Remixes | 2002年6月21日 | (F) | |
2nd | Cream Of J-POP 〜ウタイツグウタ〜 | 2007年7月4日 | (M) | 「DJ TK」名義 |
3rd | Digitalian is remixing | 2012年3月21日 | (AV) | |
4th | DEBF EDM 2013 SUMMER | 2013年9月25日 | (AV) | iTunes Store限定配信 |
その他
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考 | |
---|---|---|---|---|
- | Psychic Entertainment Sound | 1990年9月21日 | (E) | 「Tetsuya Komuro & Mr.Maric」名義 |
- | TK1998 | 1998年11月26日 | (SA) | 限定BOX |
- | PIANO globe 〜globe piano collection〜 | 2003年3月19日 | (AV) | |
- | PIANO WIND (TK AMBIENT SELECTION) | 2003年3月19日 | (Y) | |
- | PIANO VOICE (TK PIANO WORKS) | 2003年3月19日 | (Y) | |
- | うみね | 2007年 | 大分県別府市「ホテルうみね」館内BGM 「ホテルうみね」限定発売 |
オムニバス
タイトル | 発売日 | レーベル | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1st | SAGA 小室哲哉クラシック・セレクション | 1992年12月2日 | (E) | クラシック・セレクション |
2nd | TK MILLION WORKS | 1996年11月16日 | (AV) | |
3rd | ARIGATO 30 MILLION COPIES -BEST OF TK WORKS | 2000年3月23日 | (AV) | |
4th | THE GREATEST HITS - 小室哲哉作品集 - s | 2006年2月22日 | (G) | |
5th | THE GREATEST HITS - 小室哲哉作品集 - a | (AV) | ||
6th | TK INSTRUMENTAL WORKS SELECTION 1986〜2003 | 2006年2月22日 | (G) | |
7th | TETSUYA KOMURO CELEBRITY PLAYLIST | 2008年5月7日 | ||
8th | TK BOX 〜TETSUYA KOMURO HIT HISTORY〜 | 2011年5月31日 | (AV) | |
9th | 小室哲哉 meets VOCALOID | 2012年3月28日 | (AV) | |
10th | TETSUYA KOMURO ARCHIVES T盤 | 2018年6月27日 | (AV) | |
11th | TETSUYA KOMURO ARCHIVES K盤 | (AV) |
ビデオ・DVD
- 1989年 Digitalian is eating breakfast
- 1996年 tk-trap(1月19日 - 20日に幕張メッセで行われた2日間限定のライブを収めたビデオ)
- 2012年 TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)
レコーディング参加作品
※(直接的な)プロデュース・作曲・編曲を兼ねて参加した作品は除く。
- 1979年 あのねのね 『パンツ丸見え体操』[122]
- 1979年 銀星団 『SILVER STARS』 (「Digital "Cheap" Snake」名義)
- 1980年 あのねのね 『みかんの心ぼし』[29]
- 1981年 白竜 『アジアン』
- 1981年 白竜 『光州City』
- 1982年 許冠傑 『難忘您・紙船』
- 1983年 アミダばばあ 『アミダばばあの唄』
- 1984年 工藤順子 『茜色のカーニヴァル』(一部アレンジャーとしても参加)
- 1986年 大江千里 『AVEC』(『17℃』を担当)
- 1987年 GWINKO 『YESTERDAY TODAY FOREVER』
- 1988年 松本孝弘 『Thousand Wave』(『Play It So Loud』を担当)
- 1989年 ムッシュかまやつ 『THE SPIDERS COVER'S』
- 1992年 The SUZUKI 『Nuage』(『Decolage』、『Rhythm Of Life』、『CON ANIMA』を担当、エグゼクティブプロデューサーとしても参加)
- 1994年 BIG LIFE 『The 1st Recording』(『CRY』を担当)
- 2006年 Stevie Salas 『Be What It Is』 (『cherokee girl』を担当)
- 2012年 Nick Wood 『Hope』
- 2014年 東京プリンとたいせつな仲間たち 『明日笑っていられるように』
この節の加筆が望まれています。 |
ライヴ・コンサートイベント
※オーガナイザーを務めたライヴ等も含める。ゲスト出演等は省略。
- Digitalian is eating breakfast (1989)
- SPACE WORLD (1991)
- TK TRACKS NIGHT (1991)
- TK RAVE FACTORY[注釈 40] (1992 - 1993)
- t jungle m (1995)
- avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMP (1995)
- tk-trap (1995)
- イエス・トゥー・ライフ dance alive (1996)
- TK Trillion Net (1996)
- TK PAN-PACIFIC TOUR '97 IN TAIPEI (1997)
- TK Presents GROOVE MUSEUM (1997)
- グアム大夏祭 (1998)
- グアムアートイルミネーション (1998)
- RENDEZ-VOUS '98 ELECTRONIC NIGHT (1998)
- GOA IN BALI (1998)
- Rendez-vous in Space 2001 (2000 - 2001)
- TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE (2002)
- Electone STAGEA Presents Tribal Kicks TV Party (2005)
- TK New Year Live 2008 in Tafukuji Temple (2007 - 2008)
- 小室哲哉コンサート ピアノ&トーク (2010)
- TETSUYA KOMURO 〜Piano Solo Concert〜 (2011)
- DOMMUNE「TK Presents BROADJ ♯331」2-Hour Special Live Set by TETSUYA KOMURO (2011)
- FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011 (2011)
※コンサート自体は天候により中止されたが、小室単独で深夜の緊急生ライブを小室のスタジオから放送した。 - J:COM presents バルトホールオープン記念プレミアムウィーク 「けやきの森のハーモニー」 (2017)
- 超ドSフェスタしずおか (2017)
公式書籍
- 1988年 Vis Age TETSUYA KOMURO PERSONAL VISUAL BOOK(子供の頃の写真とともに、自らが詳しく生い立ちを語ったヒストリーと、PWLのマット・エイトケンとの対談他を収めた自伝写真集)
- 1989年 Digitalian is eating breakfast(ソロアルバム制作後のインタビューと楽譜を収めた本)
- 1990年 音を生け捕る - 映画「天と地と」音楽監督NOTE(自身の曲解説が収録されている本)
- 1992年 HIT FACTORY(マイアミで行われたソロセカンドアルバムの制作風景と、プライベート写真集)
- 1993年 TK EOS FACTORY 小室哲哉のシンセ工房
- 1993年 告白は踊る(東京をコンセプトに、自身の哲学や、これまでの仕事を振り返ったエッセイ)
- 1995年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol.1〜Vol.2(音楽番組「TK MUSIC CLAMP」の対談を活字に起こした本)
- 1996年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol.3〜Vol.5(桑田佳祐、YOSHIKI、織田哲郎、小林武史、つんくなど多数登場)
- 1996年 深層の美意識 /著者:神山典士 (小室哲哉監修の公式自伝本)
- 1998年 first step in asia(「TK Presents GROOVE MUSEUM」を、ドキュメントで構成したフォト&インタビュー)
- 1998年 プロデューサーは次を作る - ビジネス成功22の方程式 /著者:中谷彰宏・小室哲哉
- 2003年 VOICE OF WORDS(小室哲哉が書いた詞をセレクトした歌詞集)
- 2009年 罪と音楽(絶頂期から2009年時点、未来をテーマにした書き下ろしエッセイ)
- 2014年 CAROLの意味(小室書き下ろしのストーリーブック。この世界観を表現したインスト楽曲『password』をダウンロードすることができるミュージックカードが付属。)
- 2016年 時代をつかみとる思考(『未来志向』をテーマにしたエッセイ、セブンネットショッピング限定販売)
関連書籍
- 2000年 TKman(ティーケイマン)1 & 2 /作:柴田亜美 1巻(第1話 - 第20話)2巻(第21話 - 40話)
- (小室哲哉が主人公の漫画コミックス。小室哲哉黙認で、1999年2月〜2000年1月まで、ビッグコミックスピリッツにて連載された。)
- 2008年 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評53 TMN&小室哲哉 ポップス神話創世
- 2008年 ミュージック葬でハッピーにいこう! /若尾裕之著(付属CD作曲・プロデュース)
ゲーム
- TM NETWORK LIVE IN POWER BOWL(1989年発売 ファミリーコンピュータ用ソフト)
- EMIT(1995年発売 FM-TOWNS/PC-9821/PlayStation/SEGA SATURN/スーパーファミコン/3DO用ソフト)
- ガボールスクリーン(1996年発売 PlayStation用ソフト)
テレビ・ラジオ・雑誌連載
※テレビ・ラジオの項ではレギュラー出演していたもののみ記す。
テレビ
- TK MUSIC CLAMP(フジテレビ、1995年4月12日 - 1996年5月8日)
- TK NEWS -小室魔力-(TVBS-G、1997年8月 - 1998年1月)
- KOMU@COM(フジテレビ、1997年4月11日 - 1998年3月28日)
- TK SPARK COM(フジテレビ、1998年4月15日 - 1998年9月23日)
- 哲にいさん→コムロ式(日本テレビ、1999年4月5日 - 1999年9月27日)
- radio TK(フジテレビ、2001年4月 - 2001年9月)
- club TK(BSフジ、2001年4月 - 2001年9月)
- 倫敦音楽館 Lon-mu(テレビ東京、2001年10月2日 - 2002年3月26日)
- Tribal kicks TV(スカイパーフェクTV!、2004年10月 - 2004年12月)
- スナック喫茶エデン(フジテレビ、2012年10月21日 - 2013年3月24日) こむろさん役
ラジオ
- 小室哲哉のSF Rock Station(東海ラジオ、1986年10月 - 1988年3月)
- Sounds with Coke TM NETWORK Come on FANKS!(TBSラジオ、1989年4月 - 1990年?)
- kom sat radio→今夜もコムドラしようぜ!(ニッポン放送、1997年10月10日 - 2000年3月21日)
- 小室哲哉のミリオンナイツ(TOKYO FM、1998年7月2日)
- BEAT CLUB(FM AICHI、2000年4月6日 - 2001年9月27日)
- RADIO SESSIONS「小室哲哉 Digitalian」(JFN系列、2011年1月 - 2012年3月)毎月第4週担当
- 小室哲哉 Radio Digitalian(第2期)(JFN系列、2012年10月1日 - 2014年3月26日)
- オールナイトニッポンモバイル(ニッポン放送、2012年10月3日 - )
- TOKYO SPEAKEASY(エフエム東京、2020年6月12日)
雑誌連載
- KEYBOARD MANUAL(Player、1984年1月号 - 1984年12月号)
- キラキラ掲示板(ロック・ショウ、1984年10月号 - 1985年10月号)
- キーボード講座(シンプジャーナル、1985年8月号 - 1987年7月号)
- ELECTRIC PROPHET(PATi PATi、1985年11月号 - 1986年1月号、SF小説)
- ART OF LIFE(月刊カドカワ、1991年6月号 - 1994年1月号)
- TK MUSIC CLAMP(PATi PATi、1995年6月号 - 1998年5月号、雑誌編集版)
- 小室哲哉のネットパラダイス(POPEYE、1996年10月25日号 - 1997年2月25日号・1997年4月25日号)
- 小室哲哉通信(日経エンタテインメント!、1998年2月号 - 2000年12月号)
- TETSUYAをさがせ!!(ザッピィ、2000年8月号 - 2001年4月号)
- 小室マニュアル2001(ザッピィ、2001年6月号 - 2002年3月号)
- TK×INTERNET(Yahoo! Internet Guide、2001年6月号 - 2001年12月号)
- 小室哲哉×Nord Lead 3(キーボード・マガジン、2002年8月号 - 2002年10月号)
- TK Future Lab(ローリング・ストーン日本版、2016年8月号 - )
音楽性
作風
テクノ・ファンク・ユーロビート・ジャングル・ハウス・トランス・アンビエント・HIP HOP・R&B・レイヴ・ハードロック・プログレ、果てはクラシック・フォーク・AOR・ラテン・ワールドミュージック・純邦楽・演歌等幅広いジャンルを使い分け、かつ複数のジャンルを融合させて、ジャンルを限定せず、どのようなジャンルにも聞こえる[89]音楽を手掛けることを得意とする。ただ、一般には邦楽ダンスミュージックの第一人者・1990年代のJ-POP、又はそれにおけるデジタル・オーディオ・ワークステーション・音楽プロデューサーの概念・音楽配信の普及の立役者として知られる[注釈 41]。
作風の大きな特徴として「強いインパクトのある歌い出しと、中盤に雰囲気を変えた印象的なサビ」[168]「最高音の独特な使い方[注釈 42]」「狭い音域を限定したメロディ作り」「1〜2小節のメロディの繰り返し」「作詞の譜割りがゆっくりになったり早くなったりする」「息継ぎできる部分が全くないパートがある」「少ない構成パート」「唐突な転調が多い」など分かり易いインパクトを持ち、かつジェットコースターのような緩急のメリハリがある展開が挙げられる[171][172]。
グルーヴの独自の演出として、手で直接元々繰り返されているリズムをサンプリングして、さらにループさせるように打ち込む。それにより「キック・ハイハットをコンピューターでシンクロさせている」かのように聴こえるようにしている[61]。それ故に、時々楽曲の音色が自分で弾いた音なのか、元々シンセサイザーに内蔵されている既存のプリセット音か分からない程に自分に染み付いている。使っている音色自体はシンセサイザーのプリセット音の中で大体決まっている。音色・音圧より、ほとんどの場合鳴った瞬間から音色が減衰して、次につながるまでのタイミングで決める。小室は「それを意識するかどうかで音楽としてのグルーヴ感が出るか、ただの工事現場の音になるかが決まる」という。基本は「4分音符で1小節に4つキックを入れて、その裏に8分音符で1小節に8つハイハットを重ねる」こととしている[69]。
拍子では「8分の6拍子」を「三連符の割り切れない切なさが絶対的なグルーヴの揺れを生むので、大事な引き出しの一個」と語っている(例:SPEEDWAY「Smile Again」、篠原涼子「もっと もっと…」、globe「Sa Yo Na Ra」)[173]。
シングルをプロデュースする際は、1曲目がオリジナルで2曲目・あるいはアナログ盤にオリジナルのリミックスバージョンを入れるのが基本構成である。クラブ等通常のかける場所とは違うシーンでかかることを想定しながらリミックスバージョンを作り、最新の音色・メロディ・アレンジに対する反応を確かめて、反応がいいときはすぐに次のデモテープに活かす[174][175]。リミックスバージョンを制作する際には「どの楽器を前面に出すか」「どれだけ踊れるような構成にするか」という気持ち良さを重視し[176]、そのためにジャングルの制作ノウハウを踏襲している[177]。
アルバム制作に発展させたい場合には、基本構成は1990年代までは通しで聴くことを前提に、1曲目と最後の曲目に注意を払うようにしていたが、2000年代以降はインターネットで試聴する1曲で印象が決まってしまうので、その1曲毎に芸術として勝負できるように心がけている[178]。制作方法はシングル用の楽曲制作の時点でコンセプトを煮詰めた後に時間をかけるか、プライベートで商業上の制約を一旦抜きにして好き勝手に曲を作りそれを商業向けに手直しするかのどちらかを選ぶ[注釈 43]。後者の一例としてTM「Self Control」[180]「RHYTHM RED」[181]・trf「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜」[174]・globe「globe」[182]「Love again」[183]・ソロ「Digitalian is eating breakfast」[184]が挙げられる。
曲に入り込ませるためのフックとして、都会の雑踏の音・信号機の音・携帯電話の受信音・臨時ニュースの発信音等、日常で人間がコンマ数秒で反応する音を機械音を中心に使用している[185][186]。
転調
手癖ともいえる程に転調を多用するようになったきっかけは、TM NETWORKの1stアルバム「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングの時、ソフトのバグでシーケンサーに誤動作が生じた。その勝手に音調が変化し転調してしまった音源を聞き、小室が「意外と気持ちいい」と感じたことがきっかけとなり、以後の制作活動でそのフレーズが定着した。ちなみにこの時の現象を小室は「筒美京平さん・都倉俊一さんが作るような『歌謡曲的な転調』『キーが変わると、世界観は変わるが、歌の音域が変わらない』作り方が分かった」「これらの転調は適当ではなく理論的に説明が付く」と話している[136][187]。反面、発見したその後も意識的に挿入していたわけではなく、むしろ「曲作りで行き詰ったときに使う逃げ」「2曲を1曲にまとめるときに役立つけど、先に転調すること前提で考えずに最後の手段としている」[188]「コンピューターの誤作動による偶然の産物であり、中々思うように表現できなかった」「サンプラーが今のようにタイムストレッチができなくてそのままの音でキーを変えられなかった。そのサンプラーの音を使いたいがために機械的に転調させていた。逆のパターンもあって転調した後にそれまで使っていたサンプラーのボイスが無くなっていてボイスのキーと合わせられなくなった」と必ずしも好意的に捉えてはおらず、その後も如何に自由自在に使いこなすかの試行錯誤に腐心していた[189][190]。
自らの行う転調のやり方について、「これだけ多くの音楽が氾濫している中で、曲にどうインパクトを持たせて、『もう一度聴きたい』と思わせるかという所で転調を理論的に取り入れている」[191]「コーラスのリフレインは4~8回はやるでしょ。そのときに転調して一瞬緊張感を持たせる」[191]「どこでキーが変わっているのか・どこがサビでどこがブリッジなのかを分からないようにする」[192]「声が張るピーク・一番伸びる部分をサビに持っていくため。サビに合わせるとほかのパートが低くなりすぎるため、仕方なく4度転調とか、そういう変な転調を無理やり入れる」「周囲からは『サビでいきなり転調するよね』って言われがちだが、サビが先にあって、その前のBメロで転調しておく」[193]「KCO・安室さん・華原さんは声が出るから転調無しの構成でも大丈夫だった」[189]「お互いのキーの共通コードをつないで転調する。そうすると突然転調した感じが薄れ、スムーズな感じになる」「王道としては、サビの繰り返しで半音キーを上げて高揚感を出す。共通のコードは無いけどメロディを繰り返すことで頭にそのメロディが残る」「ブリッジで転調しておくと、その後自分の演奏テクニックを披露する等やりたいことが自由にできる展開になる」と話している[190]。
小室の思う転調は一時的に少し調が変わって、落ち着こうとする前にすぐ元の調に戻る「経過的転調」と転調してしばらくはそのキーのままで演奏される「確定的転調」に分かれている。前者は「一瞬ハ長調からヘ長調に移って、すぐハ長調に戻るもの。ロックではもう当たり前。突き詰めると段々下がるだけのパターンもそれ」と語っている。後者は「イントロ・サビ等のパートの区別がはっきりできる。インパクトをつけて、急に華やかになったり、暗くなったりと色々変化をつけれる」「曲の後半辺りでリフレインに飽きてきた頃に転調すると、同じリフレインでも再び緊張感を持たせられる」「ボーカリストに合わせてメロディーを無理に変えたり、曲全体のキーを低くしなくても、元来のメロディーラインを残せる」「間奏でソロが弾きやすいキーに変更すると、それがまた曲をスリリングにできる」と語り、その思想を基に突拍子も無い調にずらした曲をたくさん作っている[191]。
コード進行では「F-G-Em-Am」[注釈 44]、「Am-F-G-C / 6451」(例:TM NETWORK「Get Wild」[195]「RESISTANCE」「humansystem」[196]、H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」、trf「masquerade」[197]、globe「DEPARTURES」[198])[注釈 45][注釈 46]、「短三和音+五音音階」[201]、「sus4(サス・フォー)」(例:渡辺美里「My Revolution」[70]、小泉今日子「GOOD MORNING-CALL」[64]、篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと」[70])、「add9(アド・ナインス)」(例:globe「DEPARTURES」)[202]を多用する傾向にある。
作詞
作詞を始めたきっかけは10代の頃に聞いていたロックミュージシャンが皆自分で作詞していたから、それに小室が続いた形で作詞家としてのキャリアをスタートさせた[203]。19歳の時には小室が木根の楽曲に歌詞をつけたり、他のバンドに歌詞だけを提供していた[204]。1986年に小坂洋二から「歌詞は多く説明し過ぎちゃダメだ。具体的じゃない方がいいよ」とアドバイスされたことから、「音楽は絵と違って、時間軸があって必ず時間が経過していき、止まって感じることができないことで楽しめる芸術」と悟り[205][206]、「ジョン・レノンがオノ・ヨーコに対して歌っているような『明らかに誰に対して歌っているのか』が分かる作り方」とは対極的な[206]人称・シチュエーションがはっきりとしている設定を作らず、「私に当てはまる」と感情移入できるように曖昧さや抽象的な隙間のある部分を敢えて残す形で「糊代」を意識的に作る演出を基本としている[207][208]。
それまでは、起承転結のあるストーリーを作ってそれを底辺に構築していたが、インターネットを使用するようになってからは、ホームページのグラフィックを眺めている内にイメージが湧いたものを散りばめて、そこからさらにイメージを持たせていくという散文詩の書き方に近い方法論で書くようになっていく。小室は「1行目と2行目は全然脈絡はないけど、僕の中ではネットサーフィンで無意識でリンクを辿るように、何かがキーワードになっている。そして、僕でもいつの間にか『どうしてここへ来たのか?』と疑問に思うことがある。だけど、そこは意識しなくても何らかの意思があると思いながら詞を書いた」と話している。その際、実際に行間を埋めるために自らネットサーフィンを行い、そのときに楽しむビジュアルが決定的に小室の感覚に影響し、純粋なストレス解消にもなった[209]。
安室奈美恵を手掛ける様になってからは、自身の書く歌詞に需要が多かったのが予想外で、それ以降特定のテーマはあまり固めず「たった1行でも聴き手が何かに気づき、何かを考えてくれる」ことを期待する構成にすることを心掛けた。『でも』『だから』『じゃあ』『ていうか』『そうだね』等の接続詞を使って、言葉に対してリズムを作る様になり、この手法は「『しゃべり言葉』をメロディにキレイにのっけることが出来た」と自負している[210][211]。
世界観は「人生」「現実」「常識」「立派」「正直」「公園」を意図的かつ潜在的に散りばめ、閉鎖的な言葉遣いを排除し「『幸せの価値観』というレールから外れて、悩んでいる不良性を持つ子が喧騒から『走る』『逃げる』『動き回る』『内面を吐き出す』形で現実と立ち向かう」展開方法が多い。マスコミ関係者・ファンから「どうしてそこまで10代・女性の気持ちが分かるのか」「globeの歌詞や世界観に憧れた」と沢山の反響を受けた[212][132][96][213]。
自身のポリシーとしては「『音の中に言葉があるはず』という感じで、メロディーの響きといいたいことの接点を見つけ、それらをコラージュしていく」[191]「反体制派の賞賛ではなく、スポーツ・勉強・遊び・ダンス・DJ・ソングライティングをひたすら真面目に取り組む若者のストイックな格好良さを、時代と向き合うロックの新たな存在意義にしたい。だからリスナーに対する責任は重く、歌詞には長めに2週間は時間をかけている」[132][214]「『勇気』1つにしても、言葉をそのまま使うと一気に説教臭くなってしまう。代わりにコード進行・リズム・楽器を慎重に選択したメロディで言葉をシンボリック化している」[215]「10代が必ず通らねばならない道と対峙したときに、誰かに言ってほしい言葉に結果的になっていた」[70]「女の子が女の子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』という感じだった」[94]「コンセプトのベースが恋愛でも友情でも、つかめそうでつかめないギリギリの鋭い感覚がある部分を描く」[216]「提供した時点でその人のものになれるようにしている。globeでは特にそれを意識している」[217]「歌手の姿形・声をハンドルネームが持つ匿名性と解釈して担保し、それを通して自分の理想とする女性像を試行錯誤しながらも、純粋に照れを抜きに書いていた気がする」[218]「女性目線の歌詞を書くときは、女性は常に上から目線のキャラクター」[219]「1人の女性の全く見えない孤独・葛藤を歌詞にしてきたつもりです」[220]「常に長所・短所両面の揺れを書いている。そこに男女の垣根は関係ない」[208]「完全に自分の1人称で歌ってもらえるのはTM・TRF・globeだけ」[221]「『自分はこれが言いたかったんだ』『こういう思いで生きてるんだ』と入れるのではなく、社会への投げかけを意識しています。『こういう風に思いますよね?』という、常に『isn't it?』だったり、『don't you?』が最後に付く」[222]と回答している。
反面「CAN YOU CELEBRATE?」という英語の表現や、詞の文法がおかしいなどの指摘があるが[注釈 47]、小室は「具体的な言葉の表現は苦手で、『宇宙』と書いて『そら』と読ませる」[224]「文法上のことはあまり考えず、曲のイメージ・16ビートのリズム・メロディにアクセントがぴったり合う英語を選ぶ。そうすれば『かっこ悪い』といわれる部分も自然と省ける」(一部要約)[223]「ごり押しではあるが、サビの印象的な部分に簡単で記号的な英語を入れる、ボタン一つで他国語に切り替えたり、英訳を表示する等、海外の方々への日本語の意味の伝え方はテクノロジーで克服できる。必ずしも全編他国語で作詞しなければいけないわけではない」[89]「作為的な言葉は全く考えず、自然発生的な言葉を中心に入れている」[225]「日本人が聞いて言いやすい、分かりやすい英語を求めていました。文法よりキャッチーであること優先。洋画の原題が邦題になるときと同じように、『ちょっと格好悪いかな』って位まで分かりやすくするために何回も書き直してました」[213]と発言している[注釈 48]。
作詞の手法においては渡辺美里[注釈 49]・坂元裕二[注釈 50]・山下達郎[注釈 51]・川村真澄[注釈 52]に影響を受けた。
実際に作詞作業を行う際は基本は三部構成で行われ、
- Aメロ「物語の設定の説明」「友達といる時の強い自分」
- Bメロ「昔のことを振り返り、自分達の状況・風景・環境を説明」「一人の時の心に浮かぶ本音のような弱い部分」
- サビ「相手に一番伝えたいことを伝える」
をそれぞれに振り分けて担当させている[219]。字面を確かめるために、ワードプロセッサは使わずに全部ペンを持ってメモに手書きで直接1行ずつ書いたり消したりして徐々に完成させていく。いい言葉がメロディ程の尺のパラグラフで出てきたときには、それを優先する。降って湧いてきた言葉に対してメロディラインを変えるのも自由になり、バックトラックも別の素材に操作できる。これは作詞・作曲・編曲の三位一体をほぼ小室1人で処理できるからやれることでもあるが「この詞を使いたいんだけど譜割りが合わない」「音程が上がってるからこの単語は使えない」という苦労はないという[209][232]。
1984年からラップの表現について試行錯誤してきた[10]。ラップはメロディを書かずにラップ詞の譜割りをすればいいから負担が減る分、ラップパートにメロディと同じ力・重さを持たせるかに悩み、ラップ中心の作品では歌詞が普段以上に長くなる[38]。
モチーフを探すための手段としては、基本は「わけが分からないけど、インスパイアされる部分が多くて面白い」と敬愛しているロバート・A・ハインライン・コリン・ウィルソンの作品群を読み込んでいる[233][234]。インターネットを使用するようになってからは、アパレルブランドのホームページの写真を眺めながら書くことが多くなった。特にゲスを重要なモチーフとして好んでいた[209]。globe「Lights」を制作して以来は岡本おさみや及川恒平等の1970年代の作詞の傾向を小室なりに再考・別解釈して表現するようになる[210]。
作曲
小室が作曲をする際、アマチュア時代はライブハウス・学園祭・コンテストではギタリストやドラマーが主役だったために「如何に自分の音が目立つか」だけを考えていたが、プロデビューして業界人と接するようになってからは「ボーカルを如何に目立たせるか」を考えるようになり、「この音色・パートは歌を強調させる個所とぶつかるから避けよう」等歌に合わない演奏はどんどん削っていくようになった[184][235]。当時「ドラムやギターがリズムを縦に切って、キーボードが横に流れる」のが主流だった中、「ギターが最初から無い状態で、基本はどうするか」という発想から始めた。「ギターの役目をキーボードが如何にやっていくか」を考えたが、リズムを支えたいのに自然に横軸になってしまう等、どっちつかずになってしまう所の克服に苦労した。後にアナログシンセサイザーとデジタルシンセサイザーの使い分けで音色の差別化を図ることで解決することができた[191]。
バックトラックを作ってから、ボーカル用のメロディを考えるのを基本にし「ボーカル・コーラスもハーモニー・コード進行の一部と考えた上で、如何にトータルでサウンドを引き立たせるか?」という方針を「Self Control」制作を切っ掛けに常に考えていった[184]。そうしていく内に次第に「ダンサブルで言葉の情報量の多い楽曲作り」を志向し、「1拍半・半拍半で符点を付けて、タイでつなげ、さらに16ビートをつけて、その縦軸の中に完璧なコード進行を入れて、最後に歌詞を詰め込むことで、前に進もうとする推進力を付ける」という手法を開発した。小室はその手法が自身の本質と合うことを自覚したのは、1989年のことである[191][235][69]。同時に音色・リズムは強くスウィングしてないと生理的に受け付けなり[236]、スウィングの仕方も40通り持つようになり、1個毎に全ての触れ幅が異なっている[177]。
自分の属するユニットの楽曲を作る場合は最初に「このジャンルを作りたい」と思ったら、もうその雰囲気で適当に弾き語り、出来上がった曲のことは軽く覚えておく程度にして、しばらく放っておく。そして、もし覚えていて格好よければそれを譜面にするか、録音する。覚えていて弾けても、その前に作ったときのインパクトがもう消えていたら、没にする。そして楽曲自体忘れていたら、「仕方がない、もしかしたら思い出す」と割り切る。似た作り方で、曲の構成上、歌い出しの部分だけ昔作ったものを思い出してサビの部分を新しく考える・サビだけ出来上がっていて、頭に常に置いておき、ある日それに合うイントロ等が出来ると急に引っ張り出すこともある。作った時代が、歌の場所によっていろいろあるといった感じのものも多い[237]。
依頼された楽曲を作る場合は制約・締切があるから、今までのストックを基にして無理矢理作る。そして、ディレクターやプロデューサーにその楽曲を聴かせないといけないので、必ず「曲デモ」と称されるデモテープを作る。これを聴いてレコード会社の人・CMディレクターに「サビを直して」「これでは○○さんの曲みたいだよ」「いつもの小室さんがやるようなメロディでお願いします」等、色々な注文をされる。依頼された場合は、よほど制約が緩くない限りは勝手ができないため1回〜3回は、手直しがある。最初は7割程度の出来で聴かせて、2回目に全力を出して作るパターンが多い[237][238]。クレームに対しては「むしろ、ないと僕がオファーを受けた甲斐がない」と寛容な態度を示しているが[86]、どうしてもダメ出しをされたくない場合の対策として、わざと締切日ギリギリまで作らずに周囲がいても立ってもいられない心境にさせて、別の場所で1時間程で仕上げることもある[239][240]。1曲作るのに没になること前提のそれぞれの微調整されたパート違いも含まれる8〜10通りのバージョンを用意しコンペティションに臨んでいた[241]。発売前に各媒体で流してリスナーの反応に耳を傾け、手直しを行うこともある[242]。
1990年代から依頼と注文に応えること前提の楽曲制作が格段に多くなったこともあり、それ故に「起きたら突然、降って舞い降りた・湧き出てきた・何かに導かれたように自分が閃めいたメロディだけで、周囲の介入なし・試行錯誤なし・実験性満載・楽器と向かい合ったら短時間で楽しく作れて、弾き直しも1回もなく、コンペティションもスムーズに通った楽曲」として[注釈 53]、
- TM NETWORK「Get Wild」[4]「Dawn Valley」[244]「TIME TO COUNT DOWN」[245]「10 YEARS AFTER」[206]「Major Turn-Round」[246]「CASTLE IN THE CLOUDS」[247]
- ソロ「Futari」[196]、「二十歳の約束」[248]、「Far Eastern Windシリーズ」[249]
- 木根尚登「Wish on the hill」「SATURDAY MORNING.6A.M.」[250]
- trf「OPEN YOUR MIND」[251]
- globe「SWEET PAIN」[252]「FREEDOM」「Precious Memories」[253]「Is this love」[254]「Love again」[255]「Many Classic Moments」[256]「女神」[257]「Lights brought the future」[258]「out of©control」[259]
- Kiss Destination「口笛に咲く花」[260]
- 安室奈美恵「Don't wanna cry」[261]
- 華原朋美「MOONLIGHT」[261]「LOVE IS ALL MUSIC」[262]「here we are」[263]
- 鈴木あみ「OUR DAYS」[264]
- 松田聖子「Kimono Beat」[265]
を挙げているが「本来そのような楽曲が出来上がるのは数年に1回あるかどうかであり[238]、そこから『誰に歌ってもらって、どのように宣伝するのか』も考えなければいけないため、最初に一瞬で湧き上がったときのテンションを維持するのは難しい[266]」「35年やっているけど、1発OKはない」[267]と答えている。
基本的な制作工程としては、
- 自宅に併設した簡易的な設備を施したスタジオでベーシックとなる大まかなパート別のバックトラック・音色を作る[268][269]。
- 本格的な仕上げに入るために、貸しスタジオを予約する[270]。
- 昼過ぎにコンセプト・音色の打ち合わせを行う[270]。
- 夕方16~17時、遅くとも深夜にはマーケティング方面のアイディアを頭に入れつつも[271][12]、メロディが全く思いついていない状態でスタジオに入り「この人に提供しよう」「このイントロ・コード進行・アウトロ・リフ・音色でいこう」と決める。
- 既存のシンセサイザーに内蔵されている音色を、マニピュレーターと相談しながらさらに編集する[272][273][注釈 54]。
- 構想にフィットしそうなリズムパターンをドラムマシンで制作する。
- リズムパターンに合わせて全体の構成やコード進行を考える。
- 起承転結の通っているメロディを作らずに、思いついたフレーズを次々に作っていく。その内に溜まった音源データを聴いて、「音色が格好良い」と思ったフレーズにメロディを足していく[275]。
- おおまかな構成ができ上がったら仮コードを手弾きで、またはコンピューターに打ち込んだメインのバッキングトラック、あるいは小室の知っている曲や自分で既に制作した曲を歌った鼻歌を、プリプロダクションを行わずに「ライヴでギタリストがアドリブのギターソロを弾く」感覚で録音してしまう[注釈 55]。
- 録音した音源を再生しながら、ベースのフレーズを考えつつ、それをミュージックシーケンサーに打ち込む[注釈 56]。
- それぞれのシンセサイザーの担当するパート・クリック音・リズムのデータを入力し終えたら、細部を詰め、細かい音色を決めて全て録音してしまう。この段階でのオフヴォーカル音源はほぼ完全パッケージメディアに近いものとなり、それをそのまま活かす形で「音色・シーケンサーのデータを作り直しただけで完成させるか」「敢えてデモテープから雰囲気を様変わりさせてしまうか」のどちらかになる[273]。
- 最後に最も曲のイメージにふさわしいヴォーカル・コーラス・ギター専用のメロディの譜面[注釈 57]を「ギターのソロパートを振られたときにギターで弾き語るような感じで乗っけるように」作り[279]、それをスタジオ・ミュージシャンが直接何回か聴いた後に演奏し、ミュージシャンが実際に演奏したテイクに差し替えていく[244]。
- 作詞・譜割りは必ずオフヴォーカル音源が完成してから取り掛かる[注釈 58]。
- スケジュールに余裕があれば、完成音源を土台にさらにソロパート・ボーカルを被せて、厚みを持たせる[233]。
- 作業が終わるのは翌朝の7時頃。スタッフと雑談・打ち合わせをしたり、食事を食べた後に自宅に戻るが、何かしら情報収集のために本を読んでいることが多い[271]。
以上の工程[4][172][282]をTMデビュー前の時点で雛形は出来ていたが[283]、完全に確立できたと思えたのは渡辺美里の「My Revolution」を作った辺りとのこと[284][238]。その時の方向性は「当時流行していた洋楽のように4小節とも同じコード進行・バース(Aメロ)→ブリッジ(Bメロ)→コーラス(サビ)でメロディだけは移り変わっていき、予兆無しにコーラスが流れる展開」を目指していた[64][285]。
デモテープの制作はTMの楽曲の場合は一キーボーディストとして直感で生んだリフ・フレーズを中心にしたオフヴォーカル優先、globeの楽曲の場合は小室による仮歌のみで構成され、周囲に提供する楽曲の場合はメロディ優先で制作する。最初から指定のシンガーに向けて作った楽曲を結果的に別の人が歌うケースになっても、別の人が歌えるようにカスタマイズする作業をすることもある。普通に2曲作るのに平均6〜7時間はかかり[4][187][286]、余裕を持たせてクオリティを普段以上に高める場合は1日10時間はスタジオにこもる時間を作り、3〜5日はかける[214]。その姿勢は日本・海外を問わない[244]。小室の仮歌がなくても小室が新しく作り上げた楽曲をすぐに歌いこなせるのは、それこそ宇都宮とKEIKOだけだった[287]。
19歳の時にプレゼンをした際、そのデモテープが「家にあったオルガンを弾いて、犬の声も一緒に入っていた」内容だったため、レコード会社のディレクターに「これではどれがメロディだか分からない」とダメ出しされた。その苦い経験もあり、『レコード会社のカセットテープ・書類等で散らかった室内の中で、相手の顔が見えない状態でも、室内で仕事中の人にも興味を持ってもらえるか』『古いラジオカセットレコーダーで聴かれてもディレクターの気を引くことができるか』『レコード会社の人に如何に観客として楽しんでもらうか』『商品版の形をどこまで描けるか』を考えてデモテープの段階で本番のレコーディングと同じ環境の整ったスタジオ・機材・16~24chで録り、イントロから間奏まで完璧に作り上げ、ミキシングも行い、他のレコード会社が作る完全パッケージメディアより良いものを目指した。ただし、それが他の編曲家も関わる曲だった場合には編曲家を困らせてしまうこともある[288][265][196]。
テープレコーダーを使用していた際はイントロからアウトロまで流れの型を必ず存在しているためそれに合わせて考えて、その先の違う型を使いたいなら全く別の次の考えに進めなければいけないため、テープを使用するデモ作りを「時間軸に乗せる作業」と称していた。シンクラヴィアを導入した際、時計回りではなくパズル感覚でデータを介してできる切り貼り・抜き差し等の編集作業の簡単さに感動し、次第にテープレコーダーは使わなくなる[289]。
1990年代以降は「一ミュージシャンとしての技巧を凝らしたアレンジ」から「カラオケで歌いやすく、ディスコでもコンビニでもかけれるダンスミュージック」[注釈 59]「ディスコ+カラオケ÷2」[注釈 60]を主眼に置きつつ、「カードの組み合わせで曲ができる」を持論に、今まで小室自身が制作した思うように弾いて格好良いと思ったメロディ・世界中の楽曲の音源から採取したフレーズ・リズム・メロディを音楽ジャンル別・楽器別に分けて、さらに「イントロ用」・「サビ用」・「アウトロ用」等に分けてコンピューター上のデータとしてインプットさせた後(その数は音色だけでも5万はある)、シンクラヴィア(後にPro Toolsにシフト)を駆使して、楽曲のイントロ・1番・2番・ソロパート・アウトロまでをモニターに表示された高音・低音・リズム・各パートの長さを確認しながら行うようになる。いかに自らの曲のイメージにすり合わせながら「カードのように」数々の楽曲を引用・コラージュ・再利用して組み合わせ[注釈 61]、「小室サウンド」としてサンプリング、アレンジして完成させるかがポイントになっている[70][83][292][289]。この手法については「ガンズ・アンド・ローゼズの楽曲の作り方と似ている。彼らが自分達の好きなエアロスミスが制作した3曲を1曲に詰め込んだような感じ」[289]「いいサンプリングのネタと音色が一つでもあればそこから広げて1曲できる。海外では完全にそのノリ。もうそろそろ『サンプリング=盗む』という感覚も消えていい。ジェームス・ブラウンのようにネタを使われているアーティストがジェームスのネタを使っているアーティストにプロデュースを頼むこともあるのだから」[293]「引き出しがあり、そこから引用したものはあります。ただ、曲作りのためのデータというより、記憶の代わりに使っているだけ。外国の誰かと似ることはないが、自分の前の楽曲と似ることはある。それがない用に確認するだけです」[294]「1970年代の誰もが知っている曲のある部分をイントロにつける、バックトラックに知っている曲のフレーズをつけておくと通りすがりの人をも驚かせる。一種のサブリミナル効果です」[70]「機材が進歩すると共に『この部分を直せばもっといい音源になる』という思いが強くなった」[295]「自分の力で作ることはもちろん大切だけど、自分が影響を受けたものを紹介するのもまた大切」[296]「いくら真似して作ったと言っても、元ネタが見えなかったらそれは既にオリジナル」[76]「『何かに似ているけど気持ちよくて格好良いよね』とみんなに思われれば、『似ている・似ていない』の問題はクリアできる」「『どんな方から影響を受けましたか?』と聞かれないアーティストはいない。アートは中々インスパイアから逃れられない。コピーとインスパイアを積み重ねて誰もやった・使った・聞いたことのないほんの数秒間、瞬間でもいいオリジナルを発明してやっと匠になれる。僕の中で発明と思っているのが安室さんの『CAN YOU CELEBRATE?』のイントロ」[297]「過去に自分でゼロから作ってヒットした楽曲をお手本にして、フレーズの一部を再利用した方がファンの期待に応えられるし、自信になります。純粋になる、化合物が無くなる感じですね」[222]と答えている。それ故に楽曲はパート別のメロディの断片を除いても、常に100曲のストックを持っている[298]。
作曲家のポリシーとしては「体を動かしたくなる『発散性』があるか、場を盛り上げるための『社交性』を持っているか、楽しいだけではないハードルの高いキーがもたらす『エクササイズ』になっているか、というカラオケでファンが求める3要素を常に意識する」[299]「一度書いたメロディは必ず使う」「メロディがボーカリストの心身にどんな作用をもたらすか細かくイメージする」「楽曲のジャンルを確立するためにデモテープのミックスの名残をできる限り残す」[225]ことを心掛けている。TMでのレコーディング作業時、宇都宮に負担を掛けすぎたことへの反省から篠原涼子をプロデュースした1994年からボーカルディレクション・ミキシングの指揮を自ら行い、ビブラートを効かせたり、小節を回す等の歌い方は極力させないようになった[169][38][300][注釈 62]。
編曲
編曲に対しては、音色の0からの制作も同一の作業として含まれていると見ている。TMデビューの時点で「シンセサイザーはどれを使うか?」「ドラムはドラムマシンでやるか?ドラマーに頼むか?」等全部編曲家が決めたり、選んだりしなければならない環境になったため「楽曲が商品になるために最も幅をきかせてる部分であり、レコーディングスタジオの中で一番偉い存在」と語っている[237]。
小室が直々に手掛ける場合は、まずイントロダクションから考えていく。「イントロが良くなければ、関わる意味がない。その位僕はイントロが好き」「ほとんど作曲に近い」[237]「どのチャートで上位に入るかをシミュレーションする」「大体『ザ・ベストテン』で第1位が発表された直後に聞こえてきそうな感じにする」[69]という気持ちでこだわっている。ただし、スタジオ・ミュージシャンに、その楽器が担当するパートのアレンジを全面的に委ねることもあり[279]、マニピュレーターもリズムの構成の視点で編曲に際してのアイディアを出す。小室にとって、マニピュレーターはサウンドプロデュースの補佐的なポジションと捉えている[273]。
アイディアが進まなかったり、楽曲と音色の雰囲気が合っていないと思ったときは、「歌やメロディと一緒にどんな音をどんな風に演奏するかを決める」「歌やメロディがどこで始まって、どこで休んで、どこで終わるかを決める」「歌もメロディもないパートで他の音色・コーラスをどうするのかを決める」「歌詞が完成していたり、歌手の声質・キャラクターが事前に分かっていたら、それに合った音色を作る」という4つの原点に立ち返っている[301]。
ミキシング
小室にとってミキシング作業は編曲に近い感覚で行われている。「他の作曲家が手がけた楽曲のアレンジを依頼されたら、そのメロディはいじくれない。リミックスを頼まれたときも既に録音してあるボーカルトラックは変えないようにしている。その絶対的な制約がある上で組み立てるという点では、両者は似ている」と語り、作曲・編曲・ミキシングも等しくクリエイティブな作業として同一視している。そのため、よりリスナーに近づける感触を味わうためにミキシングまで深く関わる[302]。
初めて小室一人だけで行った作品は「TMN CLASSIX」であり[302]、本業のレコーディング・エンジニアではないから、ソリッド・ステート・ロジックの卓を見よう見まねで好き勝手にイコライザーやコンプレッサーをかけながら技術を身に付けていった[303]。
ミキシングではボーカル・リズムのトリートメントに神経を使う。昔は「下手なボーカル・音色が粗いから素材そのものを直す」というのもあったが、機材の性能が進むにつれ次第に「より完成度を高めるためのエフェクトの付け足し等の加工」と意味合いが正反対になっていき、小室個人でミキシングを行う場合は1トラック3~5時間は時間をかける。ミックスするパートは一番その曲で聞かせたいトラックからやって行くようにしている。「そのパートの輪郭を最初からハッキリさせれば全体を分かりやすく聴いてもらえる」という意向からきている[247][304]。
録音
レコーディングスタジオに対しては、トラックダウンからマスタリングにかけた作業段階で、音質について議論・実験を重ね、特に機材・設備・果ては土地の空気・気圧・電圧・温度・湿度・静電気・シールドケーブルに拘りを見せる[注釈 63]。
短いサイクルでスタジオを世界各地に移転する。小室曰く「ヒットが生まれる場所は年月が経つと全く違う。拠点を固定してしまうと時代・テクノロジーとの矛盾を起こしてしまうため、もしかしたらサーカスのように明日移すかもしれない」とコメントしている[306]。ただ、全ての作業を自分のスタジオで行うほどの完璧主義ではなく「場所が滞在先のホテルでも・病室でも・車内でも、打ち込み用のキーボードとパソコン等の機材が置いてあって制作ができればそこはもう立派なスタジオで、データだけでほとんどの作業が済んでしまう」[306][308][309]「5千万円あったら機材を買うより他のスタジオを回って何枚かアルバムを作った方がいい。今はどんなに高級な機材でもリースすれば簡単に届くために、あのスタジオにはあの機材があるからすごいという訳ではなくなってきている」[306]「ソフトウェア・シンセサイザーの発達によって、AIRスタジオで録音した音に遜色が無いものが作れるようになった」[310]「ロンドンでは電圧が240Vあり、それだけで音圧の高さ・倍音の気持ち良さ・鍵盤を叩いてからスピーカーが音が出るまでのスピードが日本のスタジオとは段違い。機材面のサポートが充実していて、電話するだけでオックスフォードの機材メーカーからすぐにスタッフが来てくれて、その日の内に対応してくれるので本当に大切な作品はロンドンで録音したい。今までの海外のスタジオで一番良いと感じたのはトレヴァー・ホーンがオーナーを務めるサーム・スタジオ」[311]と話している。自宅でのレコーディングの際の防音対策として、壁に大量の洋服を吊り下げている[312][306]。
1990年代 - 2000年代は的確にミュージシャン・エンジニアを配置し、正確な指示を与えた上で、複数の楽曲のレコーディングを同時進行でスケジュール通りに終わらせるために1軒のスタジオに何室もの個人用ルームと総計50台を超える録音用のミキシング・コンソールを用意し、小室・木根・久保こーじ・松尾和博・DJ DRAGON・当時の専属マニピュレーター・ライヴミュージシャンのリハーサル専用のスタジオとしてそれぞれに割り当てて、それぞれが担当するパートに専念させていた[292][269][313][64][314]。
その当時の状況を、小室とその関係者は下記のように表現した。
- 小室「羽生善治さんの数々の将棋盤に合わせて戦術のバリエーションを変えて勝負するCMと似ています」[315]「24時間寝ないで、globeの曲を作りながら安室さんの『Don't wanna cry』を作っていました」[303]
- 宇都宮隆「まず小室が曲を作り、アレンジしてオケを作る。そのスタジオには僕は行かないで、完成した音を聴いて歌う。ボーカルのブースには小室は来ない。1984年からそういう分業体制だった」[316]
- 松尾和博「付き合いは長いのに、TKと長く話したことがない」[317]「大量の依頼が来て、曲を量産しなくてはいけない。『朝までにギターを入れて』というインスペクターでも対応できない状況に、たまたま『24時間365日なんでもやります!』という僕がいた」「決まった時間に作業することはなく『締め切りはこの辺だからそれまでにやっておいて』とベーシックトラックを渡されるので、それまでに済ませるのを次から次へと繰り返しました。スタジオセッションのように皆が集まることはなかったので途中で行き詰ったらすぐに一旦休止もできた。1曲に2日かけても、締め切りに間に合えば大丈夫だった」「96chのソリッド・ステート・ロジックのミキシング・コンソールの片方の48chを僕専用のブースとして自由に使わせてもらえた」「具体的な注文はなく『ギターを入れて』だけだった。フレーズ面だけでなくサウンド選びもものすごく自由で、僕の判断で勝手にアレンジしたけどNGはなかった。強いて言えば『テイクこれだけしかないの?』と言われたことはあった」「レコーディング中は聞いている時間が一番長い。リピートを何回もして、足りない所はないか余白を探す。『どんなフレーズを入れるか』というアレンジャー的な考え方ではなくて、その他全体の楽器を聞いて、『ギターの質感を当てるか避けるか』が大事だった。パート別にやっているから、逆に頭から通して弾けなかった」[318]
- DJ KOO「スタジオが同時進行で3~4つは当たり前に動いていて、小室さんはその間に打合せも幾つもやっていました。1週間に10作品とかを並行してやっていて、trfだけみても絶えずリリースがあって、それをライブツアーをやりながらやっていたので、僕とYU-KIは常にスタジオに入っていました。そこに小室さんから楽曲・仮歌・歌詞が次々と届いて、それをどんどんレコーディングしていくという日々でした。できあがるものに対して、小室さんがNGを出したことはなかったです。忙しかったからかもしれないですけど、ダメ出しは覚えている限りはなかったです」[319]
素材のデータ転送がスムーズになって、テレビ電話で海外のスタジオのスタッフと話せるようになっても、小室は正式なレコーディングは現地に行きスタッフと直に対話しながら行うことを念頭に置いていた。目標としては大衆を狙って活動しているけど、仕事中では仲のいいプロデューサー・ミュージシャンをすぐに直接楽しませるために作っている。小室は「特にアメリカ・ロサンゼルス出身のエンジニアが隣にいると身が引き締まり、その人が『COOL!』と言ってくれないと終わらない気がする」と語っている[209]。
素材を高音質に記録することを目標にして、PCM-3348・オープンリールが主流の時代でも24bit/96kHzから48kHzで録音し、ボーカル・コーラス・声等の人間の生の声を使うパートはハードディスクドライブに別に記録していた。マスタリングの際に確認できた小さなブレス音等がCDとして納品されたときに、聞こえなくなってしまうことが多々あった[320][321]。2000年に記録媒体を完全にハードディスクドライブに移行した際はPro ToolsからDream ADA-8を通してAWS 900でミキシングを行い、MERGING Pyramixに24bit/192kHzで録音することが基本の流れになった[322][306]。理想は「大元の素材は384kHzで持っておいてもいいのではないか。下のサンプリングレートから上げることは不可能だから」「携帯電話で聴いても、潰れたり埋もれたりしない音像」[299]を目指している[注釈 64]。
キーボーディスト・シンセシスト
シンセサイザーの使い方はハードウェア・シンセサイザーを重視する傾向が強く、レコーディング作業時のみソフトウェア・シンセサイザーを「楽器として重要な要素であるフィジカルコントロールの面でハードに劣る」「鍵盤の方が手っ取り早い」「マウスが使いづらい」「つまみがあって二度と出せない音を作り出せる機材に可能性を感じてしまう性分なので、マウスや数値だけでは限界がある」[104]「基本的にステップ入力はしない。1974の時その手法でイントロを作るだけでも大変苦労した。それに打ち込みから始めてしまうと音色によってデュレーションやリリースが違うので、いざ聞くとニュアンスが全く違ってしまう」[323][324][46]として使用していなかった。音自体はMIDIで作った後、それを鍵盤で即興で弾き、それをPro Tools・ACID等でエディットしていく形を好んでいる[187]が、椎間板ヘルニアによる身体への負担・コンプレッサーの性能と音圧の高さとハードウェアタイプとの差の大きさ・マウスの操作性の向上(主に応答時間)・他のクリエイターからの影響を考慮し、2013年3月に個人所有のスタジオを改装する際にソフトウェアタイプの機種を導入した。また、同年の7月20・21日にさいたまスーパーアリーナで行われたTM NETWORKのコンサート『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』では初めてソフトシンセをライブで使用した。ライブのリハーサル中、PCが頻繁にフリーズしてしまったため、バックアップとして急遽パソコンをもう一台購入し、ソフトシンセももう一式購入した。そのため、「結果ハードシンセよりも高くついたが、2台あることでダブステップをやるので音を重ねていけたりする等プレイの幅が広がった」と小室は語っている[325]。それでも2013年の時点で「記念館を作れる」くらいに個人でハードウェアタイプの機種を所有している[326][327][328][329]。新しくシンセサイザーを購入した時、マニュアルは読まずに予備知識なし・直感で操作する。それ故に一度も使ったことのない機能・スイッチが多いが、使いたい機能・目的がはっきりしているため、あまり楽曲制作に迷わないという[330]。使える機材かどうかは、「鍵盤を弾いた瞬間に時差なくスピーカーから音が出るか否か」の二択で選んだ[331]。
ライヴでの演奏もシンセサイザー主体であり、「自分がその楽器のプレイヤーとしての腕が追いつかなくても、演奏したい楽器のボタンを押して弾くと機械の方がメロディをしっかり追えると14,15歳の頃に気づいた」[43]「アレンジ・奏法はギタリストの真似から始まっていて、ギタリストだと簡単に弾けるフレーズ・プレイをキーボーディストが担当するとどうなるかを意識している」[332]「1台の中に生のストリングス・バンドサウンド・ヴォーカルが全て入っていて再現できる。僕の音楽はシンセサイザー・コンピューターの制御があって初めて成立している」[83][333]「1台あるだけで1曲音源が作れる程、機能が充実している」[334]「バンド内でギタリストに対抗できるポジション」[303]「ギタリストがカッティングでグルーヴを生み出すように、鍵盤でも何か違った形でグルーヴが生み出せないかと思っている」[335]「数台重ねれば一人バンドができる」[240]と語る程に思い入れが強い。既存の音源・事前に新規に作成した音源の上にマルチ・キーボードでの即興演奏で全く別のメロディを重ね、ミュージックシーケンサーを駆使しての多重演奏を主体としている。その際、今までのキーボーディストが三和音をきっちり押さえて、左手もリズムが八分だと8回とその通りに鍵盤を叩いていたが、小室の場合は無駄な音は消去法の要領で全て取り除いて、極力簡単で有効的な音にしている[278]。同時にPAエンジニアと相談して、キーボードはどうしても音数が多いから、細かいプレイまで再現するためにギター・ベース・ドラム・ボーカルの入る余地のある隙間を作る。ギター・キーボードのパートは和音の即興演奏は止めて、単音で「あの曲はこういう音だった」とファンの耳に残して、1曲毎の印象を強く残すことを目標にしている[336]。
ただ小室本人は必ずしも機械弄りが好きだったわけではなく、電子楽器・コンピューターを使用しているのも単に「便利だから」という理由である。むしろ「旅客機のコックピットみたいにライトや計器に囲まれて、機長のように指示を出す」というシチュエーションに小さい頃から憧れており、それが小室独自のキーボード&シンセサイザーブースと機材リスト構築に反映されている[5]。
マニピュレーター
計算機科学に関しては本来何の知識も持ってないため、アレンジを終えた楽曲のデータを小室のチェックの元で別の専門のマニピュレーターが打ち込んでいる[233]。しかし、1993年以降は小室もクルーの協力の下で、自らプログラミングに着手するようになる[174]。
長期ライヴツアーがマンネリ化しないための工夫として、スタジオで事前に完成した映像に合わせて即興でベーシックのオケを制作し、リハーサルでは毎回映像を見ながらオケの作り直し・音色のデータのアップデートを行っている。そのために小室のブースではスタジオの環境と変わらない録音ができる機材を中心にしたシステムで構成されており、レコーディング体制・ライブ体制へとすぐにどちらにも切り替われるようになっていて、「TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-」からはリハーサルの途中でも合間を縫ってレコーディングを行うようになった[337][325]。
小室自身の感じるシンセサイザーサウンドの「賞味期限」は3か月であるため、その時になったら常に1からサウンドを練り直しているという[83][298]。これについては「長時間スタジオに篭り、コンピューターを駆使すればするほど、メロディ・音色等のデータが蓄積されていく。一度取り込んだデータは加工し、再利用し、新たな楽曲作りに活かすことができて、生産性が上がる」[83]「頭の中で鳴っている音楽は1時間で形にしたい」[306]「デモテープを作っているときが一番格好良いと思っていて店頭に並ぶ頃には飽きている。昔は周りに対して『違うんだよ、これは半年前に作った曲なんだよ』と思っていたが年々スパンが短くなるにつれストレスが大分減った」[303]「ソフトシンセはアップデートする度に月に何万もの新しい音色が来る。旅先でもダウンロードできるので驚きつつも、エディットしてすぐにぶっつけで仕事に使う」[325][338]と語っている。
DJ
1991年よりクラブツアー「TK TRACKS NIGHT」でクラブDJとしてのキャリアをスタートさせる。DJブースに入って小室自身が選曲していたが、選曲・瞬間毎の判断を誤って、観客の熱気が冷めていく時の恐怖感・パニックを何度も経験した。同時に音楽プロデューサーとして企画を仕掛けていくための身体を第一線に張った上でのマーケティングのセンスが養われた[70]。
クラブでのライブはトータルに見ると普通のコンサートより観客の支払いが高く付くので、「観客が満足してくれるのか」という心配が付きまとい、普通のコンサート以上にサービスする。クラブのスタッフに制止されない限り本番に3,4時間はかけ、リハーサルの段階で曲をつなげるための時間として2時間は作る。その時の要領は「椀子そば」「1979年頃にレコード店を回ってギター一本で歌う山下達郎さんに近かった」と話している[69]。
クラブでの動向を観客の服装・顔色・男女の比率、クラブにスタッフとして所属しているDJの嗜好・顔色を窺いながら、選曲・鍵盤の弾き方もその都度変えていく。ノリはジャズの即興演奏に近い[69]。
1993年よりクラブDJが行うミキシング・コンソールでのリアルタイムリミックスに興味を抱き[339]、1994年の「TMN 4001 DAYS GROOVE」にて音色をWaldorf THE WAVEに搭載されたノブ・スライダーで視覚的に操作した[290]。1997年のイベント「TK Presents GROOVE MUSEUM」以降は、小室のブースはリズムを含めたほとんどの音が内蔵されたPro Tools・ハードディスクドライブとミキシングコンソールが機材の大部分を占めるようになり[340]、ステージ上で楽曲の構成をディスプレイで確認して単音・ブラス音・パッド音をノブをつまみながら歪ませて、それをPAエンジニアのチーフに送りながら行う音色と音質の変換・パート別の音量と残響時間の調節作業が担当の9割を占めるようになり、鍵盤はほとんど弾かないときもあった。どのようなミックスになるかは小室のそのときの気分次第であり、公演ごとに一つ一つアレンジが異なる。元の楽曲の演奏のきっかけになり、リズムをキープするための拍子・音程をキープするために最低限必要なメロディが突然消えることが多いため、照明デザイナー・PAエンジニア・ボーカル・ミュージシャンは通常のコンサート以上の多大な緊張と集中を強いられるという[141][341][342]。
ギター
ギターはコード進行しか弾けず、周囲に圧倒的に上手い人が沢山いたので、やる気が起こらなかった[20]。
しかしプロデュースに専念するようになった1990年代から、安室・華原・globeのレコーディングでは7:3から6:4(シンセ:ギター)の割合でギターも演奏するようになった(主にPRS Guitarsのエレクトリックギターとアコースティック・ギター)。理由は鍵盤に対してのサンプリングのテクノロジーが発展していなかったので、歌とギター特有の細かな動作・操作・表現を鍵盤で再現するのが不可能であり[64]、鍵盤は音を跳ねさせるのは難しいけど、ギターはテクニックがなくても音を跳ねさせることができるからであった[343]。
ギタリストは「キーボードで鳴らして楽曲の元々のコードに混じると鳴らせないコードでも、ギターがその部分をサポートしてくれる。その他にもイントロで即興演奏で遊んでくれて、種類を持ち変えるだけで全てが変わるから、ライブでは特に必要不可欠」と評している[64]。
小室によるギターの演奏を録音したのは篠原涼子の「もっと もっと…」が初めてであり、H Jungle with tの楽曲でもノークレジットながら演奏している[10]。
歌唱
ボーカルのレコーディングは小室1人でもどうにかフォローできる余地があるためキャリアを要求しないが、ライブではデビューから早期に大勢の前でマイクの前に立つのを経験させるように心がけている。これは「舞台監督・照明スタッフ・PAエンジニア・ファンの刺さるような目線に込められた気持ちを受け止めて欲しい」「ハプニングで成功する確率には期待しない。本番を1回でも多く経験し、場数が豊富であるほど、素晴らしいエンターテイメントになる」という方針からきている[344]。木根尚登のソロデビュー時に木根からどのように歌うか相談を受けた際「失敗してもいいから場数を踏んで、自分の歌い方を見つけるように」とアドバイスしている[345]。
反面ソロアルバムでは小室自身が歌唱する楽曲があるが、小室は本来の歌唱力を「1人でモノラルで録ったら、とても聴けるようなものではない蚊の鳴くような声」[69]「仮歌がすごくいい加減で、『ド』なのか『レ』なのかわからない程の音程があるので、KEIKOは結構苦労するそうです。それを解析するのがまた楽しいらしいのですが」[275]「ただ1回歌っただけでは非常に心もとない、絶対に歌手にはなれない声質」[346]「全然合格点ではない。自分のソロだから許されることです」[347]と話している。
その代わりにコーラスには「狼煙を焚く覚悟で行っている」と自負する程に拘りを見せている。1人で最低でも6~8回をそれぞれ個別毎に違う音程・音域・メロディーで重ねて独特の倍音を発生させて、3人並んで歌っているシーンを連想させないようにミキシングし、「それぞれの癖のある声」が「本来のメロディを生かすための楽器」として機能するように手間をかける。小室自身も自分が担当するコーラスには1時間に8~16回重ねるようにしている[注釈 65][196][69][292][348]。
劇伴
劇伴を制作する際は、映像との兼ね合い等色々な条件の中で「如何に自分のエゴを出すか」を考えながら制作している[184]。そのため一応監督の話は聞きつつもあまり気に留めず、全ての映像をテレビに起こして、視聴者になったつもりでリモコンを持って画面を見ながら即興で曲を付け、映像のタイミングを確認しながら手直しする。こうして好き勝手に解釈して作った曲を10曲程コンサートの要領でスタッフに聞かせて、どのように「視聴者が感動できるか」をテーマにしながら、さらにスタッフと一緒に相談して磨き上げていく[349]。楽曲を提供すればそれで終わりではなく、監督・映像・BGMのイメージが少しでもずれていたら、それがどんな段階でも何度でも修正する。場合によっては新曲を書かないといけないため最終的な編集作業まで利害関係なしに1スタッフとして責任を持って、最新鋭の制作システムをもって締め切りまでに如何に磨いていくかを考える。「ドルビーサラウンドに対応していない」等の最悪な状況やシステムの状態の映画館でもまずまず聞ける音色を別に作るため、小室の意向だけで終わらせることができない。商品としてまとめる場合には劇場公開版とは全く異なるミキシングを施す[350]。
ただ、小室は後に澤野弘之に「ワンフレーズのメロディでも耳に残る楽曲を作りたいから、どうしても監督の希望より音が立つ方向にものを考えてしまうので、僕はサウンドトラックの仕事にはあまり向いていない。やっぱり『好きにやってほしい』とオーダーされて作ったサウンドトラックが、世に出て残っている」と述懐している[注釈 66]。
メディア上の戦略的演出
音楽プロデューサー
小学校の頃から、学芸会・運動会・卒業謝恩会のイベントになると、学級委員として張り切って先頭に立っていた。小学4年生の時の学芸会で前半に笛の演奏会を行い、後半に三億円事件をモチーフにした演劇を開催するというプログラムを決めた後に草案を提出した。3歳から12歳までヴァイオリンを習っていたのを活かし、笛の演奏に関しては各パートのアレンジも手がけた。普段から勉強ができるいい子になり、先生・学校を「お金を出してくれたり、場所・環境を与えてくれるスポンサー・クライアント」として見ていて、先生を仲間に入れることはもちろん、クラスメイトにも気を使って引き込むようにしていた。ただし、中学では小室と同格の生徒・小室を快く思わなかった生徒もいたことにショックを受け、普段の学校の授業には人並み以上に参加し、コミュニケーション技法・音楽の練習を0からやり直した。この頃から既に「終始自分だけで楽しむ」という気持ちは毛頭無く、それがプロデューサーとしての立ち振る舞いの原点となった[5][16]。
高校生の頃から本格的に音楽プロデューサーになることを志し、その立場と役回りに拘った。「外部からプロデューサーとして推薦されたら、アーティストより偉いから速く物事が進む。例えばヨーロッパで『小室というプロデューサーがいるだろう』となったら、『あいつに相談したら窓口とつながりがあるから、レコード会社を紹介してくれるぞ』と様々な話が出てくる。これが『キーボーディストで小室がいるよ』となったら、そこで終わってしまって後に続いていかないんです」[69]「中学生の時から聞いていた洋楽にはプロデューサーの名前がメンバーよりでかく載っていて、インタビューでも『プロデューサーを選ぶところからレコーディングが始まった』『今度はこのプロデューサーでやろう』『プロデューサーと喧嘩してレコードを没にした』等、かなり立場が高かったことが窺えた。無理してフロントに出なくても存在感が確保され、上手くいけば必然的にオファーが来るポジションを目指したい」[69][注釈 67]「ミュージシャンはエゴが強いから、喧嘩にならずにバンドとして統一するためにまとめ役が必要」「自分の思いを伝えるには、自分で演奏して歌うのが一番シンプルだから。でも、そういうシンガーソングライターみたいな事はできないと自覚していたから触媒・フィルター役で音楽に関わっていきたい」「『この人と組んだらこういう音になる』というのを研究しているアーティストから選出され、世に送られて、ステータスが上昇する。そこから、楽曲を自分の好きな音楽の方向に持っていって、まとめていく。そういう洋楽案内人みたいな立場になれればいいなと思っていた」[76]と考えていた。
音楽プロデューサーとしての仕事の進め方の点で、影響を受けたのがクインシー・ジョーンズ・ベイビーフェイス・ナイル・ロジャース[注釈 68]等ターゲットを絞らなくても大勢に広まる宣伝戦略・ブラックミュージック専門の黒人音楽プロデューサーの手腕に一気に魅せられた事だった[285]。
プロデューサーとして一番恐怖心を抱くのが、多方面・他国で大ヒットが来ることであり「自分達がやっていることが本当に大丈夫なのか」と不安になる。そのため、自分の仕事と世界の音楽の流行の膨大な音色の種類・アーティストの動向を1フレーズ単位で調べている。転機になったのが「SF Rock Station」のレギュラーを担当することで、今まで以上に新譜が聴けれる機会が増えて、メンバー・スタッフにもプロデューサーとして自信をもって強気で「今の所は大丈夫だから、これでいけるよ」と言えるようになった。逆に一番「プロデューサー冥利に尽きる」と嬉しく思うのは、自分達が新しいことをやっていたら、それに近いものが多方面・他国からも出てきて「同じことを考えているんだな、タイムリーだから大丈夫だ!」というノリで行けるという[180]。
本格的に制作進行・予算管理等の裏方に徹し始めたのが1992年からで「自分が表に出てツアーや取材に時間をとられるのが嫌でその時間を裏方仕事に使えば音楽業界のどれだけお役に立てられるか」を考えていた[167]。TMNが活動終了を発表した1994年当時は以後の派手な活動とは裏腹に、ステージから降りて完全に裏方に徹する予定だった。そのため「一連の大ヒットは僕にとっても予想外の出来事だった」「僕の口から『TKサウンド』と言ったことは一度もないのに『TKサウンド』だけで独立してしまったために、人伝えではないために良くも悪くもないそのままの言葉が伝わるから、自分の発言に責任を持てて『こんなことは言っていない』という意思表示になるホームページの必要性を迫られた」と語っている[354][239]。
レコーディングと同じ程に宣伝を大事にしている。「a-haのように楽曲の内容を最初に知って、そこからどういうアーティストなのか」と思われるとその後が続くかどうか心配になるため、「チャーリー・セクストンみたいに楽曲より先にアーティストそのものを宣伝して、キャラクター性を知ってもらう」ことを優先している[355]。TMの「Love Train/We love the EARTH」からアーティストのプロモーションとして、カラオケのビデオに歌っている本人達を登場させることを幾度と提案していたが、当時のソニー・ミュージックエンタテインメントの内規・肖像権の問題で通らなかった。TMの宣伝会議に出ても「何故アーティストが来ているんですか?」と直接迷惑そうな言い方をされ、小室も「何故この辺の問題が、演歌界ではスムーズにことが進むのかがおかしかった」と語っている。逆にプロデューサーとして出ると言いたい事を全て言えて、アーティスト・現場スタッフとしての視点で話せて説得力も持った。篠原の「恋しさと せつなさと 心強さと」で本人出演の許可を得たことで、「交渉過程のゴタゴタで、霧が晴れた感じがした」と語っている[38]。
テレビCM・主題歌等のタイアップでは、特にテレビCMに関して「CM・ドラマで流れる15秒~1分の制限の中で引きつけねばならない。でもCDを買ったら『そこしかインパクトがなかった』というのではいけないので、手法としては『1つの波を作り、その中から一部をタイアップ用に分ける』という考え方です」[168]「15~30秒ながら、MTV並みの完成度を持つ映像を作るわけですから、僕がCMのタイアップに関わるのは既に一種のコラボレーションだと考えているんですよ。社内会議の投票で他:7・僕:3だともう僕の入る余地は無いから席を立ちます。スポンサーにはそういう制作現場の重みを理解したうえで、数々のミュージシャンの中から僕を価値を見出して欲しい」[209]と特別視している。
歌詞はプロジェクトごとに確かな差分のある大まかなテーマを絞り込んだ後に、世界中のホームページを閲覧したり[138]、渋谷スクランブル交差点や渋谷公園通り等を主な舞台にし、書く場所を歌手毎に変えたりしていた[30]。闇雲な妄想を避けるためにプロデュースする相手からは直接一対一で話を聞き、小室自身の感情を渋谷センター街で遊ぶ女性や若者に置き換えてみたり、小室とファンの共通項を探ったり、主人公の設定の考案等で推察やマーケティングをしていた[96]。例えば、
- TMは小室が書く場合は「アーサー・C・クラーク等のSF小説の世界観を、どのようにシンセサイザーの音楽と馴染ませつつ日本語で表現するか」[356]「純粋にファンタスティックで、SF・RPGゲームを思わせる世界観」[357]を基本方針にしている。情景・シチュエーションは日本語詞で全部説明し、英詞は「TMは洋楽志向」という説明・デコレーションとして使用していた[71]。
- trfは「男性基準ではなく、飽くまで女性自身が憧れる『美しさ』や『ストイックさ』をまっすぐに追求する女性」をテーマにし、女性メンバー3人にパフォーマンスにぶつけてもらった[96]。
- 篠原涼子は「不良性そのものを歌って、それが女性ファンに刺さるか」を試した[96]。
- H Jungle with tは「30代の男性の気持ちを詞にストレートに書ける場所」と称している[358]。
- globeはKEIKOから地方から東京に出てきた女性の気持ちを聞き、小室の解釈で女性目線で男っぽさと女々しさが内府したある意味一方通行な歌詞を書いた[96]。パートの振り分けはKEIKOのパートは「私からあなたへ」の一人称・MARCのパートは「男女を俯瞰するカメラマンとしての感情」「KEIKOに対してのアンサー」・小室のコーラスパートは「ネットワークの情報」と「歌詞の羅列」とも受け取れる表現を行っていた[71]。
- 安室奈美恵は「厚底ブーツを渋谷で買った」という意見から、「積極的で楽観的な不良性」を歌ってもらった[96]。
- 華原朋美は「渋谷のカラオケによく行った」という意見から、「元々は普通の子なのに、意図せず規律から離れてしまい、自分に自信が持てない子の切なさ・やりきれなさ」を書いた[96]。それまでは「みんながカラオケとか歌う時に、1,2行でも残るように」作っていたところから、華原に向けた作品を作り出したことが「リスナーが最初から終りまで完璧に分かってもらう」ようにする構成を考え始めるきっかけになり、終始女性の言葉遣いで表現した[356]。
プロデューサーとしての方針として、「こういうことのために、こういう仕事をして、形にしてほしい」というビジョンの明確な依頼を外部から受け、飽くまでも1スタッフとして関わる形で成り立たせている。例として「CDを○万枚売ってほしい」という依頼がきたら、極力それに向かって進み、「アーティストを育てたい」と言われた時には、人選して、マネージャー・タレント・エージェントとして素材であるアーティストをあくまでもスポンサーから提示された予算・スケジュール内で、音色作り・作詞・作曲・演奏・ボーカルのレコーディングに時間をかけて[288]、「服装やメイクや髪型といったビジュアルはどうするか・どんなダンスを踊るのか・どんな言動をしていくのか」の順番をコントロールして[注釈 69]、リスナーがお金を出そうと思えて、カラオケで唄い、アーティストに憧れるまでのクオリティにするまで面倒をみるのをプロデューサーとしての基本フォーマットにしている[167][360]。
総合的な予算は広告費の原価・広告代理店の手数料を合算した上で幾らかかるかをはっきりさせて、貸しスタジオの料金からどれを日割りにするかを明らかにしながら予算が組み立つようにしている[38]。シングル1枚に対しての総製作費は最高でも500万円であり[361]、たとえ低予算だったとしても、手間や時間がかかっているように見える「高級感」が出るように演出する。しかし、時々小室が1部分に対して締め切りに間に合わせるために見切りを付けるように指示しても拘るスタッフもいて、予算を超過することもありその交渉も慎重に行った[362]。
コンセプト・キャッチコピー等の全体的なマーケティング戦略を考える期間はある程度の売上目標を予想しつつも、締め切りギリギリまで「クオリティの高い・自分でも格好良い」と思える楽曲を作れるレコーディングに時間を回し、締め切り前の最後の1ヶ月~2週間で考えていく[289]。
自身のポリシーとして、
- 「『今○○がブームだから、○○の音にしましょう』と言われても、『借り物という企画意図が見透かされてしまう』と断り、筋の通った一本道を作って、『音楽ができる人』として自立の道を開けるようにしている」[288]
- 「ファンが真似しやすいもの、サウンドは今日完成したら明日すぐお店に出せる品質、カラオケに通うファンに対してお酒・おつまみ・おやつが似合うものを皆に作らなければいけない」[67]
- 「完成形が見えない限り、行動には移さない。『この服を着て、こんなトークをするキャラクターで、誰に人気が出るのか』という絵が見えて初めて取り掛かる。それが自分の中でぼやけていては、他人にも指示が出せない」[363]
- 「今や1つの楽曲にレコード会社、CM・ドラマの制作会社、広告代理店、クライアント、音楽出版等ものすごく大勢の人間が関わっています。僕の場合、そういう人達全員を納得させることを考えながら作るんですね。『それはピュアな作り方じゃない』と言われるかもしれないけど、僕はそういった具体的な枠が見えてこないと曲のイメージが浮かんでこないんですよ。だから、いわゆる芸術家肌ではないと思います」[168]
- 「一番肝心なのは、僕・スポンサー・アーティストの中ではっきりと共通の目標や目的が意思統一されていることであり、『何が何だか分からないけど、一生懸命頑張ろうよ』というのはだめ」[364]
- 「プロデュースする人が悪く言われないように配慮する」[294]
- 「ギターのエフェクターをつなぐ順番を決めるのと同じ感覚」[344]
- 「最終的にはアーティスト達が僕をいらなくなっちゃう位に活躍してくれたらいい。そうすれば僕もずっとスタジオで自分の本当に好きなことができる」[170]
- 「やり方は『大改造!!劇的ビフォーアフター』と似ています」[167]
- 「売れなくても売れ過ぎるのもだめなんです。『小室さんの予測通りです!』でないと。いくら成功しても、また次にオファーが来た時に困るし、僕もプロデューサーとしての信頼が得られない」[167]
と答えている。
「主役はスターではなく、飽くまでも聴く側」「自分から名乗っても『誰、それ?』と言われる感覚を如何なるときも忘れないようにする」という意向から、素材集めのための流行の音楽の調査・クレームへの対応・ファンとの交流とリサーチは欠かさない。アーティスト・スポンサーと食事をしながらプライベートな話をしつつ、形を作って行く。地方でのコンサートが終わった後の夜のクラブハウスに一定の間を空けた事前の予告無しで出入りし、ラフな格好でファンとも普通に話す。新聞・雑誌のチェックは隅の細かい記事まで読む。対象は主に新聞では読売新聞・日本経済新聞・日刊スポーツ・サンケイスポーツ[38]、雑誌はホットドッグ・プレス・POPEYE・週刊プレイボーイ等男性向けファッション雑誌・流通系の雑誌を中心にしている。女性向けファッション雑誌は「メーカーとのタイアップが多くて参考にならない」と敢えて手を出さず、直接女性ファンと交流するときにどのような様子なのかを事細かく観察している。ギガネットワークス・エクシング等の大手通信カラオケ会社から歌唱曲ランキング等細かいデータを送ってもらっている[365][294][26][366]。ロサンゼルスを拠点に活動していた時には、麻生香太郎を介して大量の雑誌等を送ってもらい、日本のマーケット事情を調べていた[367]。プライベートでも「スマートフォンのアプリだけで作曲しているアマチュア・若手が出ている」と聞けば、全く新しいタイプの楽曲が生まれる可能性を見いだし、話題の制作アプリにも自分から確かめ、ニュースを読むときは音楽欄・経済欄ではなく真っ先にIT欄を読む等、技術の進歩の情報収集も積極的に行っている[368]。
バンドリーダー
楽曲提供や音楽プロデュースと並行して、TM NETWORK、globe、GABALLなどの音楽ユニットのリーダーとしても活動する。ユニットの一員としての活動はレコード会社のディレクターや芸能事務所に任せるのではなく、飽くまでもメンバーによる提案・主導で行い、マネジメントスタッフもそれを可能にできるほどの柔軟性のあるスタッフが配置された[40]。ライブ活動にもプロデューサーとして一歩引いた目線で指揮するより、ミュージシャン・舞台監督として現場で直接指揮しながらメンバーとして参加する。それは自分を含むメンバーの顔を覚えやすくし、一定の印税が確保され、所属事務所の経費・交通費・宿泊代・公演活動に割くスケジュールの削減にもなった。他に所属している人数の多いバンドにかかる固定給との差額はレコーディング費用・衣装代に回している[369][370][69]。
「シンセサイザー・シーケンサーが発達すれば、演奏はやがてコンピューターの役割になる。しかし、曲作りとボーカルは人間の役割だ。だったらフロントマンは作家とボーカリストで事足りる」という発想から[注釈 70]、5,6人の大所帯のバンドより少人数の音楽ユニットを志向している[注釈 71][369]。
より高い演奏レベルを求め、どんなジャンルやビートにも対応できるようにドラマーやベーシスト等起用するその生楽器を専門とするスタジオ・ミュージシャン・バックバンドを楽曲・プロジェクト毎に変えるようにしている[369]。基準は「そのとき一番上手な人」であり、それは固定メンバーの腕・成長具合で起こるトラブルを未然に防ぎ、企画に関わる人数が多くなったときの金銭的なリスクを回避した[69][372]。
小室は「TM NETWORKの活動の延長線上であり、突き詰めると僕の関わる企画の全てがTM NETWORKでの試みが原点である」[373]「どのユニットも、必要なアーティストやスタッフを集めて、自分のやりたいアイディアを形にするのが共通点」[374]「僕がメンバーになることで、歌詞・サウンド・メンバーのキャラクターがストレートで生々しくて、色濃くなります」[375]「プロデューサーからミュージシャンに戻れる場所」[376]「音楽ユニット自体がプロジェクト・イベント・新しいサウンドの実験室であり、活動第1弾としてシングルを出し、それをコンセプトにしたアルバムを制作した後、最終的にはアルバムをテーマにしたコンサートを行うのを早めに展開して、『このプロジェクトはここまでで終了』と区切るのが基本である。こうしないと、僕も他のメンバーも今後どう進んだらいいのか困ってしまう」[377][85][378]と語っている。
美術設定への関与
TMデビュー前から「本物の音と派手なビジュアルは反比例しない。イギリスでは音もビジュアルも格好いいバンドがどんどん出てくるのに、何故日本では未だにTシャツとジーンズなのか」という思いから[379]、ビジュアル面でもコーディネートを欠かさず、規模の大小にかかわらずライブ・インタビュー前にはメイクをスタイリスト付きで入念に施し[380][243]、雑誌に乗せる写真も厳選する。写っている表情も隅までチェックし、「ナチュラル」「自然体」と評されそうな写真は極端なまでに避け[381]、「自分をどう見せるか」を常に意識している[243]。
「男子・女子の両方に共感を得て、安定感はありつつ、化ける可能性があり、数年後も負けないマーケット」を作るために、CD・PVのジャケットデザイン・書体・英語の大文字と小文字・タイトルの入れ方・色調にまで細心の注意を払っている。特に女性アーティストをプロデュースする際の基本方針として、まず「女の子が『あの人かっこいい、あの人みたいになりたい』という願望を抱くような女性像を作る」と心がけ、女性の「個性の強い、葛藤と揺らぎを抱えながらもラインに対して反抗する女の子らしさ」は出しても女性の「コンプレックスを感じさせるセクシーな部分」は出さないために、肌を強調する映像の撮影をする際はモノクロを基調にし、身体の露出にセクシーさを感じさせないようにしている。そのときのブランドを把握し、「どんな楽曲を提供するか」より先にまず「どんなファッションが提供先のキービジュアルになれるのか」と周囲と区分けできるように考えることもあり、極力コンサバファッションはしないように固めている[382][12][213]。
アルバムジャケットのイメージの参考にするために、「サイトのデザインからしてすごく凝っている」と評している「エリート・モデル・マネジメント」「ブルーミングデールズ」「バーニーズ・ニューヨーク」等アメリカのファッション関係のホームページを回っている[241]。
アーティストの素材撮影のカメラマンはレコード会社の人材ではなく、アーティストの違ったセールスポイントを引き出すために広告代理店の人材を起用している。印刷される紙の材質を調べながら選んで、どんな機材で撮影して狙った通りの質感を出すかを一緒に練り上げていく[362]。
舞台演出への関与
スタジオミュージシャン時代にYMOのライブに行った際に「数々の高級な機材を積み上げて、その中央に毅然と佇む」メンバーの魅せ方に憧れ、小室も「全ての会場にレーザー・サラウンドシステムを搭載するのは当たり前で、会場では気球が飛び、地方への移動には広告宣伝車が10台以上連ねる」のを理想としながらも「自分にはできない、ならいっそのことやらないことに決める方が格好良い」と諦めていた[383][29]。しかし、エピックのスタッフから「ヒット曲が出たら、小室君のやりたいライブをやらせてあげるよ」と言われて奮起し、CDのセールス枚数を考慮しつつ[97]ライヴステージの設計・演出にも、積極的に情報を集めて指示を出すようになる。
1980年代はステージの進行は秒刻みでコントロールされ、「ステージ上で振動が起こる時点で物語が始まっているのに、波にノってきた所で急に非現実から現実に戻されるのが自分はいやだ」という思いからMCは極力排除し[338]、アンコールも行わなかった[380]。サウンド面では体育館等元々設計がコンサート向けではない会場で行う場合は1枚5万円はする吸音材を最低100枚床に貼り込み、照明を組み込んだ総重量6t以上のスピーカーを音質を考慮し前と後ろに置き、さらに宙吊りにする[365][279]。音楽だけでなく視覚面でも感動してもらうために、音楽と舞台に用意された大量のバリライト等の照明・スクリーンに映る映像のシンクロの具合・照明の光量にも注意を払い、音のタイミング優先で同時制御し、演奏の途中でボーカルの人差し指の先にステージの全照明を集める[注釈 72]等、360度光と音が飛び交い、それを体感できるように演出した[380][292][279]。この時点でステージエンジニアと舞台演出のための機材は、音色作りのスタッフより多く[368]、視覚面はアーティストのキャラクターやパフォーマンスより、照明やスクリーンを重視したライブ演出を志向するようになった[384]。ライブツアーは開催地・規模で予算が決まるため、照明器具にかける予算が限られている場合は、小室が自腹を切った[35]。
1990年代以降は、楽曲の間奏中はダンサーとDJにスポットライトが当たるように小室が照明スタッフ・カメラマンに指示したことにより、ステージの奥行きを出し、画のバリエーションを増やした[385]。ライブ会場にはテレビスタジオ5軒分の機材を持ち込み、事前に用意された100以上の演出映像ソースの他、10台のカメラによるライブで取り込んだ映像は、即高速計算されてリアルタイムCGとなってスクリーンに映し出される。コンサートが行われる時間はテレビの特番サイズを意識し、場面転換は15秒のCMを流し、演奏時の映像はメンバーのパフォーマンスの拡大映像だけでなく、メンバー出演の収録映像も事前に用意する等、テレビ放送局の送出技術を応用するようになる[94]。ドーム規模の会場でライブを行う際には、ドームでの公演専用の音響機材の開発を指揮し、「ドームでの公演は音が悪い」という風評を払拭した[386]。キーボードの脇にディスプレイを置き、色んな角度から映るステージ中央部分を見ながら、イヤーモニターを使ってメンバーとサポートミュージシャンにどのように動くか指示を出す・ミスの修正・今後の演出の強化に役立てる等、「舞台に立つメンバーを格好良く見せる」「ステージを豪華にする」「閃きを早く実行する」ために駆使する[387][12]等の舞台演出に採算度外視で挑んでいる[388]。
「テープよりも、楽器から直接出る音でレコードを再現したい」「シンクボックスで動かしているE-mu Drumulatorの音だけをドラマーに送って、ヘッドホンでモニターしたい。クリック音だと周囲の音量にかき消される」「テクノロジーの最先端をライブで使いたい」「ディスコの規則正しいリズムに慣れちゃっているから、その方が気持ち良い」「ドラマーも機械に合わせてやらせると、窮屈になるけど、すごくしっかりぴたりとくる」「僕の場合、このやり方が正解だった」という小室の意向から、1985年・TM NETWORK「DRAGON THE FESTIVAL TOUR featuring TM NETWORK」より、ライブシステムは専門のプログラミングスタッフを起用した上でコンピューターでコントロールしている[389]。2005年以降は完全にデジタルの機材で整備されるようになった。低音から高音までのレンジが幅広くフォローされて、人間の耳には聞こえないが、体で感じることができる音域まで表現した。松浦勝人は「ホールが壊れてしまうと本気で心配したほど圧倒的だった」と語っている[390]。
ライブのリハーサルは面積の広いスタジオにPublic Addressを持ち込んで行う。まずレコーディングの要領での打ち込み作業から始まり、大変な時間がかかるため「ライブハウスでミュージシャン同士で集まって、すぐに音を出し合う」タイプのリハーサルができない[389]。回数も少なく、大抵は長くて通しで1週間・準備は打ち込みのデータを渡し、細かい点の確認のみで反復練習はほとんどしない。これについては「本番でのセッション・即興演奏が好きで最初から決めた上で出来上がってしまうと長いツアーの場合3・4回で飽きる」[391]「ライブのリハーサル所か、本番にかける時間すらもったいないから、その時間をレコーディングに回せば1曲できる」と語る[392]。
インターネットの開発・プロモーション
1990年代より「インターネットでアクセスしてきた人が、最新情報を得られるような環境にしたい」という姿勢でインターネット、特に音楽配信・ウェブサイトの必要性を説いていた。最初は楽曲のデータ・リズム・アレンジの管理・やり取り、海外のスタッフからプロフィールを頼まれた時の送付に使用するつもりで、シンセサイザーのプログラミング作業の延長線上で研究していた[209][264]が、次第に並々ならぬ関心を抱き、1995年11月22日より自身の当時の公式サイト「Planet TK」にて、
- NTTの音楽圧縮技術「TwinVQ」を用いた簡単な配信の実験[134]
- 自身の制作した楽曲の試聴サービス[134]
- ライナーノーツと歌詞の掲載[134][注釈 73]
- クリスマスにサイト限定オリジナル楽曲のアップロード[134]
- バナーの活用によるレコード会社・楽器メーカーからの広告収入を利用しての公式サイトの運営費の確保[134]
- 日英2ヶ国語に対応したデータベース・バイオグラフィの紹介による両サイドの翻訳の手間の解消[393]
- 「TK MIDI ZONE」にてEOS B900EXにて読み込みができる「Planet TK」オリジナルリミックスのMIDIデータの有料配信[393]
- 通信カラオケ機器向けのMIDIデータの配信[394]
- 小室の動向をデジタルカメラを持った事務所のスタッフが追いかけ、その様子を次々とネット上で公開する[209]
等のネット配信による活動を主催していた。「もし小・中学生がECサイトにアクセスしたらどう感じるか」「如何にコストを下げて、時間短縮するか」「レコードからCDに切り替わった時、どんな状況だったか」を常に意識しながら、シミュレーションするように指導していた[215][394][261]。
1999年6月、小室とインテルの共同開発でPentium IIIが搭載されたパソコン向けのコンテンツ「P3TK」[注釈 74]が配信された[133]。小室がプロデュースした曲の中から50曲の1コーラス分の試聴、640×480ドットと大画面で最新のPVのダウンロード[395]、メッセージ・スペシャルライブのビデオ画像配信、ゲーム、オークション、チャット、オリジナル壁紙、スクリーンセーバー、抽選プレゼント[396]等が提供された。
2000年にはTM NETWORKの新曲を無料で配信する試みを行うが、その時の音質を「カセットテープ並み」と消極的に見ていた[397]。2005年6月avex内に設立された高音質配信研究機関「High Definition Sound laboratory」のエグゼクティブアドバイサーに就任、当時新しくavexにより設立された音楽配信サイト「@MUSIC HD Sound」(現在はmoraと共有化)より試験的にglobeの楽曲を「スタジオマスター音源並み」の音質での配信・数々の企業に音楽配信とデジタル・オーディオ・ワークステーションのプロモーションを行い、アップルへ率先して幾度も訪問し、シンポジウムに出席した[398]。2005年8月iTunes Storeの日本でのサービスが始まるとその様子を「黒船来航」と喜びのコメントを出した[399]。
2012年5月「日本だけSONYの曲がiTunes Storeに置いてないのは変じゃないですか?もう売ってくれても良いじゃないかな」と自身のTwitter上で発言する等の問題提起に尽力し、多くの反響を呼んだ。2012年11月7日にSONY発売の楽曲の配信がスタートされた際「アポロ11号がNASAから、発射する瞬間みたいだった」「僕の役目はここまで」とコメントした[400][401]。
後進への対応
プロになりたいという志を持つアマチュアに対しては「夢を与える産業の裏側を公開しないのが美徳かというと、そんなことはない。音楽はヒットしないと意味がない。だから僕に対してどんな感情を持ってもいいから、『とりあえずここから入ろう』と少しでも思って育ってくれたら嬉しい」という意向から楽曲の機材の選択・音作りの感覚・コード進行・メロディーのパターン・歌詞のイメージを戦略的にアピールし、他よりも制作時の裏話・苦労話・エピソードを積極的に公開している[366][132][367]。業界人に対してもキャリアに関係なく「作曲する時点で側近のスタッフが過程・手法の全部を知って驚くようなエンターテイメント性がある」「昨日頼んだ仕事がもう出来上がっていて、その時点で相応のクオリティになっている」という定評を持ってくれるように心がけている[20]。
それ故にプロとしての心構え・立ち振る舞い方等のアドバイスも多くしている。
- 創作のコツ
- 「思いついたメロディはテープ・譜面・データにとって置いた方がいい。なかなか曲とかも『Aメロ→Bメロ→サビ』とぱっと思いつかないでしょう。そういうときに『昔とって置いた4小節をAメロに当てはめてみよう』とかね。聴く側は飽きっぽいし、メロディを読まれるとつまらないからなるべく組み合わせたほうが面白いと思う。作った月日が違うと発想も変わる。僕は締め切りに追われるので、どうしてもその日に作ることが多いけど、皆はとって置く事ができるから。CMの30秒・8小節作る位の気持ちで考えた方が気が楽になるでしょう」[188]
- 「皆が共感できる普遍性のある分かりやすさを重視しても、迎合してはだめ。オタクと言われようが、『自分の部屋で作ったものを配信するだけ』という気持ちで数打ってそれの何発かが当たればそれが普遍性のある作品になる」[402]
- 「楽典の勉強は絶対にして置いた方がいいと思います。まずはクラシック音楽を聴くことですね。知れば知るほどヒントになる部分が沢山あるジャンルだと思いますよ。第三楽章や第四楽章の主題の後ろで第一楽章のメインテーマが演奏されることがあります。僕の作る曲は第三楽章だけが作品としてリリースされているような形なんですよ」[169]
- 「ちょっと歌いづらい歌を作ると、みんながそれに挑もうとするのでいっぱい歌ってくれる。だからちょっと歌いづらい曲がいい」[403]
- ミュージシャンとして
- 「リズムのキープは気を付けた方がいい。じゃないとせっかくのアレンジ・コード進行がモタって曲の流れが死んでしまう。コードが変わるとき、手を移動させるときにどうしても手が遅れてしまう。『どうして小室さんは遅れないんですか?』とよく言われるけど、僕だって遅れているよ。コードが離れれば離れるほどリズムはその分遅れてるよ。『移動する前の最後のコードは少し早めに手が離れて短く弾いている』とか『反対に少し早くタッチしてる』等、テクニックでいかにも『ちゃんとリズムをキープしてますよ』ってごまかしてるんですよ」[404]
- 「機材の選び方は買う時点で決めた方が絶対お得。何しろ1ヶ月前に新製品を買っても、1ヵ月後にはもうすぐに違う新製品が出ちゃってるんだから。ある程度諦めて、キリのいい所で買わないとね。どうせ次から次に新しいのが出て、目移りしちゃうんだから。同時に『どれ位の予算で』『どんな機能のついた機材で』『自分の役割は弾き語りか?バンドか?』等どういう目的かをハッキリ決めてから買いに行きましょう。悩んでるんなら、カタログとにらめっこするよりも、店の人に聞いてみるといいよ」[278]
- 「鎖国状態にならないで、世界に目を向けてほしい。ヒットを作るためのマニュアル本を読んだり、学校の講義を受けたりして『勉強』として学んでほしくない[211]。世界に進出するには、いくつもの自分の世界を作れるタレント性が必要。音楽にボーダーラインは無いけど、相手に合わせたローカライズは必要。地元は勿論アジアでの人気も両方ないと駄目。最低でもバイリンガルであるべき、できれば海外に移住してその土地のミュージシャン・エンジニアと仕事して海外の音像を学んで欲しい[405][299]」
- 「僕やB'zの松本孝弘君を目標にしてくれるのは本当に嬉しいですが、『この人の曲は誰のどんな曲から影響を受けたのか』と深く紐解いて欲しい」[211]
- 「スポーツ選手の場合は1回失敗するとそこで人生が変わる。それを見ていると音楽の人は楽をしすぎ。特にバンドの場合ちょっと間違っても『まぁいいか』『走っているけど、編集してズラせばいいや』『音が外れちゃったけどピッチ・クオンタイズを掛けて合わせておこう』『最後コンプレッサーでまとめちゃえばなんとかなるよ』となりがち。生舞台での大変な失敗等の経験・練習・音質の向上をどんどん進めて元を出す人間が一番しっかりした方がいい。気持ちよく不快な思いをさせないようにというのがエンターテイメントの基本」[406][329]
- 「ディズニーパークみたいに、内側の仕組みを全て隠してしまうことが当たり前になった中、僕はその裏返しで『スイッチを押して、そうするとどこがどう動き出すのか』をテレビ番組の収録・ライブツアーに関わらず意図的に見せるようにしている。『これだけ苦労してこの音が出てますよ』というプロセスを観客に教えてあげたかった。これはYMOと彼らが演奏している時に次に演奏する曲のプログラミングを行うシーンを見せていた松武秀樹さんの影響なんです」[338]
- 仕事の進め方
- 「色んな会社の人が、会議でホワイトボードに『小室哲哉』と書いていた。方法・売り方・売れ方・『小室はこうやっている』…真似をされたり、参考にされたり、それは嬉しいことで。どんどん真似して欲しい」[275]
- 「職種を2つ以上持ち、平行すること。そうすれば違うファンも開拓できるし、選択肢も広がっていく。別方面が上手くいかないときの救いにもなる[注釈 75]」
- 「打ち合わせのときに、『僕ではない、他のアーティスト風にしてほしい』という要望が出たときに大切なのは『僕の色はいらないのか!』と怒ることではなく、どれだけ相手のオーダーに近づけるかということ。働く上では一度、自分の色を全部消して別人になる必要に迫られることがあるかもしれません。でも、自分の願望やエゴを出さなくても実は自分の色はちゃんと出る。どんなに消したつもりでも確かに残る。だから、ときには相手の要望を『分かりました』と受け止めてみることも大事なことだと思います」[408]
人物
本人について
早稲田実業学校高等部商業科卒業後、早稲田大学に進学・在籍するが除籍、しかし現在は推薦校友になっている。2001年に早稲田実業学校開校百周年記念に百周年記念歌『ワセダ輝く』を作曲(作詞は奥島孝康)。母校の早稲田実業学校には『小室哲哉記念ホール』がある。
かなりの偏食であり、大の魚介類嫌いで有名である。原因は1歳半頃、目の前に突然鯉のぼりが落ちてきて、それがトラウマになったためといわれる[11]。それを最初に吹聴して回ったのは、木根尚登と宇都宮隆である[409]。魚は嫌いというよりもむしろ「魚を見るのが怖い」(本人談)とのことで、オブジェなど実物でなくともビジュアルが目に入るのも嫌がるほどである。魚類研究家のさかなクンに対しても、「いい人だと思うんだけど、怖い」とテレビ番組内で発言している[410]。またかなりの小食・早食いであり、いわゆる小室ブームの時も食事のほとんどはコンビニ弁当・インスタント・ファーストフードで済ませていた。当時のマネージャー曰く「世界一エンゲル係数の小さい人」とのこと[12]。ファミリーレストラン好きで、TM NETWORK時代にラジオ「小室哲哉のSF Rock Station」(東海ラジオ)の企画で結成したユニット「ハンバーグ&カニクリームコロッケ」は、当時お気に入りだったすかいらーくのメニューから名づけたほどであった。近年は麻布十番の「豆源」のお菓子を好物として挙げている。
業界人からは「アイドル評論家」と言われる程にアイドルに詳しい。「普通の女の子がどうしてビッグスターになれるのか」とプロデューサーとして興味を持ち[411]、常日頃から「自分が管理できる、時代を象徴するアイドル」という企画を機会があったらやりたいと思っていて、ある人から「小室は自分で究極のアイドルを作りたいのか!」と問われた際、「当たっているじゃん!」と喜んだという[176]。日頃からアイドルは「大衆芸術の一つ」「社会や時代を映す鏡であり、どれだけクリアに映すかで存在の大きさが決まる」「日本には必要不可欠です。良い意味で玩具業界のようなエンターテイメントだと思うから。無くなってしまったらつまらないし、寂しい」「僕達はテレビに出ても隅っこでいい。アイドルの人達が真ん中に座って欲しいんです。ミュージシャンは隅で白けているのが逆に絵になる。アイドルが隅に座って寂しそうじゃ絵にならない」と捉えつつ期待していて、そのアイドルに自己投影するファンが楽曲提供する過程や結果で見えるため、アイドルに楽曲提供する時のポイントは事前に『アイドルが誰を相手にしているのか?』『アイドルの鏡に映るのはどんな人たちなのか?』『アイドルは今どんな時期にいるのか?初動期なのか?成長期なのか?安定期なのか?』等立ち位置と時代性を加味しつつ、声質・声域を調べていく。個人としての好みのアイドルとして、「僕の用意した曲に乗ってくれて、『このパートはキーボードにするか?ギターにするか?』と尋ねたときにハッキリと答えられて、結果に責任を持てるアイドル」と答えている[288][265]。
自他共に認める「怒らない性格」であり[412]、阿川佐和子は「淡々とした語り口、やさしく、腰が低く、親しみやすい雰囲気」[413]、久保こーじは「殴り合いはもちろん、怒鳴りつけている所も見たことがない。ブツブツと文句を言うこと位はありますけど、温厚な人なんですよ」[414]、岩佐俊秀は「自分の不注意で大切なデータを消してしまったのに、『仕方ないね』の気楽な一言で済ませてしまう性格は真似したくてもできない」[415]と語っている。
自他共に認める「ワーカーホリック」であり[12]、1年の内の8割をテレビ・コンサート・CM等のメディア出演がない限り1日をスウェット姿でスタジオを兼ねた自宅で過ごし[416][271][214]、特に年末年始を世間の喧騒から逃れられる貴重な時間として好んでいる[417]。小室は「スタジオが好き。『メロディが出来て、こんなアレンジで完成して、このような広がり方で売れて、こんなコンサートがあって』と夢を膨らませることができる」と語っている[170]。TMデビュー前より親交のある麻生香太郎は「時間制の貸しスタジオにも関わらず、何時間も一人でクラシックのピアノソロを弾きながら楽曲の構想を練っていて、メンバーやマネージャーも『小室はこうしておいた方がいい』という暗黙の了解が出来、テレビゲームで時間を潰していた」[418]「シャイで『24時間スタジオ作業できれば食事も睡眠もいらない』という不思議な人」[419]、木根尚登は「自分で自分を忙しくする人。1日のスケジュールでも、午後2時から午後3時までミーティングがあるとすると、次の予定を3時から入れちゃう人。普通はその間に30分位移動時間や休憩がとれるか余裕をみるじゃない。彼にはそれがない」[420]、小坂洋二は「彼は昔から1日中スタジオにいるのが苦にならなかった。キーボードに向かっている姿は、おもちゃをいじっている子供みたいでした」[421]、浅倉大介は「仕事が始まると、いつ寝ていつ食べているのか、こちらが心配する」[12]、松浦勝人は「365日ほとんどスタジオにいること自体が大好き」[83]と称している。
1980年代後半より、ライブツアーの際にスポンサーが手配した宿泊先で自腹で追加料金を支払い、スイートルームを使うようになる[422]。全盛期には複数台の高級車とレコーディングシタジオを併設した別荘を所有していた。大のフェラーリファンとしても有名で、色違いのフェラーリを複数台所有している。過去にはプライベートでF1観戦に訪れ、フェラーリチームのピットでレースを観戦している姿も何度となく目撃されている。また、メルセデスベンツ・CLK-GTRも所有していたが、並行輸入で購入していたものであったため乗ることができず、飾り物にしていたとのことである[注釈 76]。カリフォルニア州に6億3千万円の住宅・オアフ島に1億2千万円の住宅・バリ島には2億円の住宅を建てていた。アーティスト・スタッフへの労いとして、関係者を引き連れて自家用ジェットでラスベガスに行き、カジノの軍資金も全額負担した。TRFのメンバーとクリスマスパーティを行った際、メンバー一人ひとりに現金1千万円をプレゼントし、YU-KIにはさらに「誕生日プレゼント・御苦労さん代」と称して1千万円以上もするベンツをプレゼントした[421][423]。ヨーロッパで活動を行っている時に電車で移動する際には車両ごと予約していた[424]。これはステータスの誇示のためだけではなく、所属事務所に在籍しているスタッフ・ミュージシャンへのギャランティと仕事の関係者との打ち合わせの場所・時間を確保するためでもあった[425][426]。この姿勢に松浦勝人は難色を示し、なんとかエコノミークラスで行ってもらうためにファーストクラスのない航空会社を斡旋した。しかしエイベックスが大きくなるにつれ、小室の希望する移動手段に合わせると宣伝戦略に工夫を凝らすことを忘れかけるという弊害が出た[390]。
漫画・アニメ・SFに造詣が深い。高校時代にはアーサー・C・クラークを敬愛し[427]、2001年には世間的な評価が低かった劇場版ファイナルファンタジーにも賛辞のコメントを呈している[428]。また、さくらももこの携帯公式サイトを短いサイクルで確認し、実際に本人にあった際「僕はキャラは友蔵に近いんですよ」と話したという[429]。そして最近はケロロ軍曹のファンを公言しており[312]、自身のブログ・Twitterでも時折口調を真似る等、守備範囲は幅広い。
左腕下部に入れ墨が2つある。1990年代にTKロゴを、2000年代にその上に別のマークを彫った[341]。
まだインターネットが一般的になる前だった90年代からネット配信に注目しており、小室が趣味でiTunes Storeからダウンロードした楽曲は2万曲に上る[430]。
自身のTwitterで、佐久間象山と柴田勝家の血をひいている可能性があることを明らかにしている[431]。
仕事について
現在は国際麻薬統制委員会 (UNODC) の親善大使も務めており、2007年4月から2008年11月4日まで尚美学園大学の芸術情報学部・音楽表現学科・特任教授に就任して、音楽特論(新世紀音楽概論)を担当していた。
仕事に対しての姿勢は「僕みたいな仕事になると音楽を趣味で聴くことはないんですよ。99%仕事。レコード聴いて感動しているだけじゃだめで、その中の色んな要素を分解・追及して、一番の元となる部分を探さなければならない。そうやって突き詰めた所から僕の音楽が生まれてくる」[62]「アーティスティックで難解な作品を作るのではなく、アンディ・ウォーホルみたいに何十万人もの老若男女に受け入れられるコピーを作るのが僕の役目」[214][27]「まず最初に企画書があって、たくさんの人から提供された情報から一番企画に合う人を絞り込んでいく」[432]「『始まりがあって、観客の心が揺れ、高揚感を覚え、静寂に戻って終わる』というストーリーのある観客の反応ありきの音楽作り」[433]を心掛けている。小室はそれを「古典派音楽の時代に活躍したオペラの宮廷楽長と立場は変わらない。自分で曲を書き、劇場で観客を楽しませ、王様にも喜んでもらい、次の仕事をもらわなければいけない」[20][234]と例えている。
他の芸能人と比べ個人レーベル・個人企業・個人スタジオを設立した数が比較的多い。小室曰く「今日思いついたアイディアを明日実践する機動力を持って面白いことをするため」「必ず結果を出す前提で一から十まで好き勝手やりたい放題行うための責任表明」とのこと[434]。しかし、後に「僕は事業運営に向いていなかった」と親交のあるテリー伊藤に述懐していた[435]。
雛形あきこの歌手デビューにあたって雛形の所属事務所からプロデュースを依頼されていたものの、「彼女はこれからの人だから僕のイメージがあまりついてはいけないと思う」と断り、代わりに浅倉大介を起用させた。
華原朋美のプロデュースを兼ねた交際を「フライデー」1995年6月23日号に掲載された際、小室は同誌の記者を自身のスタジオに招き「アーティストに手をつけたのではなく、自分の恋人に曲を提供し、プロデュースを始めることにしただけです」と語った。そして、歌謡曲をベースにする・宣伝では常に2人で出る等すべての活動に至るまで「公私共にツーショットでいく」ことにした結果、華原を大ヒットさせた[436]。
1997年、「SPEED TK RE-MIX」をマイケル・ジャクソンが気に入ったのが縁でマイケルと知り合い楽曲提供を依頼されていた。当時の小室のロサンゼルスでの活動をバックアップをしていたショービジネス専門の弁護士ジョン・ブランカによる仲介もあり[437][438]、1999年10月の発表を目指していた[439]が、制作した楽曲は採用されなかった[440]。小室の見立てでは「『Invincible』に収録されるかもしれなかったが、R&B色の強いあの内容では僕の入る余地はない」と振り返っている。その後デモ音源の3曲の内1曲はMUSEUMの音源として発表したが、2曲は「永遠にマイケルのものだ」「発表することはない」という旨でコンピュータ上のデータとして封印している[441][442]。またハンソン、ア・トライブ・コールド・クエストのメンバーと意気投合しニューシングルのプロデュース作業も、発売こそされなかったが実制作が行われてレコーディングが完了していた[443][444]。
人間関係
- 宇都宮隆・木根尚登
- 別々のアマチュアバンドに所属していた小室と宇都宮・木根の2人は住む場所が近場だったのもあり、コンテストで顔を合わせる機会が多かった[5]。
- 宇都宮が抱いた小室の第一印象は「何考えているのか分からない。気難しそう」と感じ、当初はほとんど話さなかったが、一旦話し始めると「お互い普通の感性を持っている」と親近感を感じた[5]。
- 木根が抱いた小室の第一印象は「髪を染めていて、キーボードを投げつける過激なプレイを平然とステージで行い、歌詞は全部英語で、アマチュアなのに気取っている気障な奴だから絶対友達になれない感じだった」と話しているが、木根が小室に楽器を貸したのがきっかけとなり、いざ話すと「面白い人で、彼に会わなかったら今のTMは無かったとハッキリ言える」と断言する程の明確な思想やコンセプトに惹かれ、その後も車で小室から木根の家に来て、2人で創作活動について話し合った[5]。
- 1979年の時点から「小室がスタジオで機材を遊び感覚で動かしながら新しい制作方法を開発し、木根がバラードを作り、宇都宮が歌に専念する」という制作システムは変わっていない[445]。
- 小室は2人との関係性を自分自身も評する上で「3人の間での意見の食い違いなんて、『リードシングルはどれにしよう』『セットリストはどうしよう』とかその程度」[180]「ヴィジュアル面・音楽面・コンテスト等のプレゼン・デモテープの作り方等での『自分の思い付きを実現する』という苦しい作業に、軽く乗ってくれて対応できる順応性・柔軟性・癖を持っている」[446][20]「3人とも個別で『自分は何をやればいいのか』を、独自に一定の距離を保ちながら考えていた」「『1人だけ売れると嫉妬心を持つ』というケースが全然なかった」[357]「3人で揉め事や喧嘩をしたことや不平不満を言ったことは一度もないですね。プライベートでも仲がいい」[368]と答えている。
- 宇都宮は「彼は大体のイメージを絵で表すんですよね。『こういう絵が浮かぶね』という感じで」と話している[191]。
- TMの活動を考える際、主に木根と2人で「3人は何ができて、何ができないか」「デモテープはどう作るか」を時間をかけて話し合う[20]。小室は「デモテープを作っているときにあまりにマニアックで過激な方向へ走っていったときに、木根はすごく大衆的な耳を持っているから、彼に聞かせると『この方向性でいいか悪いか』が分かる」と語り、木根は「あんまり意識はしてないけど、口で言わなくてもやっぱり顔に出るのかな。TMの楽曲の第一番のリトマス試験紙」と話している[180]。
- 出会った時から付かず離れずな関係が続き、「TMN終了」以降は1年に2,3度しか会わないことも珍しくなくなったが、宇都宮の個人事務所エム・トレスの意向でTMの制作チームのスタッフが、安室・globeのコンサート制作チームとしてそのままスライドされたこともあり、久しぶりに会っても違和感・ブランクは全くなかった[357]。
- 小坂洋二は3人を「彼らが揃えたスタッフも、中学からの友達ばかりだった」「しんみりしそうになると、すぐに笑い飛ばす独特の世界」と話している[447]。
- 久保こーじ
- 1983年頃、他のミュージシャンのローディーをしていた久保に村田和人のバックバンドをしていた小室が渋谷LIVE INNの楽屋で「バンドやるんだけど、手伝ってよ」と声をかけたのが切っ掛けで以来小室と共にスタジオワーク・情報収集等を行うようになり、小室に引きずられる形で徐々に段階を踏んでプロデューサーが担当する作業に手を付けるようになった。その関係は久保が「小室の一番弟子」と名乗る程の師弟関係を超えて生き、次第に久保が「小室ファミリー向けの曲は本当に小室さんと僕で作っている」「日本の電子楽器発展の歴史そのもの」[注釈 77]と語るほどのブレーンであり、パートナーになった[425][448][290]。
- 二人の楽曲の作り方は様々でtrf・安室は二人で音色作りの段階から最終的なアレンジまで関わり、globe・華原は小室のみで進めていき、hitomiは久保主導で行い、アーティストの選定は小室中心で進行していく等、ケースバイケースで立ち会う[448][449]。はっきりとしたサビ・大まかなメロディとコード進行等の60%を小室が作り上げ、イントロ・編曲・マスタリング等残りの40%をテーマ・イメージ等をまとめた企画書を渡した上で久保率いるロックバンドNo! Galersがアレンジをまとめ上げて、完全パッケージメディアに仕上げるための海外のエンジニア達を管理する作業を一手に担う[450][451][290]。
- 2人の共通点について久保は「タイアップ先を先に決めて、それに合わせた楽曲を作って、最後にアーティストをはめていく制作手順」[290]、木根尚登は「ファンと同じ所まで入り込んで、こちら側に引っ張っていく歌詞の作り方」[452]を挙げている。
- 2人の違いについて久保は「小室さんのルーツはプログレッシブ・ロック、ハードロック、キーボード、リック・ウェイクマン。僕のルーツはR&B・ギター・デヴィッド・ギルモア」と話し[449]、松尾和博は「小室さんは具体的なオーダーは全く無くて、勝手にやった。久保君は『ここにこういう風に入れておいて』と言ってくれるから、気兼ねなくやれた」と話し[318]、篠原涼子は「小室さんの歌詞は女性の力強さにポイントを置いて書いていて、久保さんはロマンティックな恋愛をしている女性を語りたいような感じがする」と話し[453]、鈴木亜美は「小室さんは得意な所をどんどん引き出してくれるので、好きなジャンルをいっぱい歌えるんですよ。久保さんはしっとりとした歌が多いのと『次はこれ、次はこれ』という感じで新しい分野に挑戦させてくれる所がある。どちらも必要なことだと思うので、すごくバランスが取れている感じです」[454]と評している。
- 浅倉大介
- 浅倉がヤマハでシンセサイザーの開発者として携わっていた時に小室から「ほぼ打ち込みのサウンドをライブで再現したい」というオファーが来た際にヤマハの意向で当時のMIDI・サンプラー・デジタルシンセサイザーの事情を熟知して、音楽理論にも精通していた浅倉が出向したことから、浅倉との付き合いが始まる。「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」が始まる2週間前に2人で音色の打ち込み・ライブアレンジを施し、小室の描いたセッティング表を基にライブ用の機材の同期システムの構築を担当して、ヤマハ・EOSシリーズの開発にも小室と共に関わった[438][455]。
- 「TM NETWORK RHYTHM RED TMN TOUR」において、アルバムと同様ロック色を打ち出すため当初、ベーシストとして浅田孟の起用が予定されていたが、諸事情により断念。代わりに小室の推薦により、バンド・ライヴ経験の全くない浅倉がシンセベーシストとして参加、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせ[456]、ステージに立ちながら、ライブでの照明とバックバンドの配置・パフォーマンス等の演出等のエンターテイメントの仕組みを実地で学んでいった。アーティストとしてデビューする時も小室から様々なアドバイスをもらい、その時の浅倉は「正にプロデュースするというのはこんな感じなんだ」と振り返っている[455]。
- 小室ブームが起こり浅倉も音楽プロデューサーとして活動していた時でも、合間を縫っては浅倉が小室のライブを見に行き、音楽シーンについて2人で世間話をしていた。その際、小室の「リリースや制作の仕方が早くなっていくから柔軟に対応できるように自分のスタジオを持ったほうが良い」とアドバイスされ、浅倉専用のスタジオを準備した結果、「1-2年でここまで変わるとは思わなかった」「空いた時間にアマチュア感覚で作れるようになった」と語っている[455]。
- 浅倉は小室との共通点として「締め切りとの付き合い方、失敗してもいいから可能性にかける姿勢、スタジオでの場所を選ばない柔軟さ」を挙げている。相違点として、浅倉は「聞こえる音色・音の跳ね方・鍵盤を押してから音が鳴るまでのスピード」をモニター上に波形として映る数値・データを見ながらテンキーで数字を打ち込んで修正していくが、小室は最終的な判断は全部自分の耳で行っていく点を挙げ[455]、小室も浅倉と直接共同で作業する際は理数系・コンピューターの問題・最終的な形の仕上げは浅倉に任せ、小室は話や言葉を思い描き、世界観・歌詞を作っていく役割を分担し、その関係性は出会った時から変わっていない[309]。
- 大谷香奈子
- 1988年に大谷との結婚に踏み切った切っ掛けは「小・中学生の女の子が30間近の僕の似顔絵を描いて送ってくることに違和感を感じた。僕が本物のミュージシャンでなければ結婚で評価が落ちるはず」という理由である。予想に反して、結婚後も売上とオファーの数が伸びて意外に思った。反面、ホテルの部屋でも、乗り物でも別々にされたりしたために「欧米のミュージシャンは奥さんを連れて平気でどこでも行くのに何故なんだ?」と疑問が沸きあがり、プライベートが楽しめなかった。小室自身も今後の活動と上昇志向もあって保守的にはなれず、大谷からも仕事についての理解を得ていたが大谷から見ても不安が大きかった。それらの問題が膨れ上がったこともあり、1992年に離婚する。小室は「人生の峠を越した所で出会っていれば、また違っていたかもしれません。ネガティブな行為をしてしまいました」と振り返っている[25]。
- YOSHIKI
- 1990年にXの日本武道館公演を見た小室がYOSHIKIに興味を持って、吉見佑子の紹介でスタジオを抜け出して麻布台のキャンティで対面した[457][458]。その際、初対面であるにも関わらずYOSHIKIのインディーズで自分達のレコード会社を作ることから始めて、その戦略をソニーに持ち込んだことに対して、今まで所属する前から存在するレコード会社・マネジメント事務所内の契約書をどう利用するか考える所から仕事を始めていた小室が驚愕したこと[457]・非情とも取れるサウンドプロデューサー気質にお互いが共感したこと[注釈 78]から、交流が始まる。
- 業界ではYOSHIKIと小室の関係をよく知る人からは「YOSHIKIの猛獣使い」と呼ばれている[312]。後にピエール中野との対談の際に当時を振り返り、「彼が言うことを聞いたのはhideと僕ぐらいだったんじゃないかな。まあ僕に関していえば、言うことを聞くっていうよりも、意見を聞いてくれるって感じだったけど。僕が出す意見に『いいよね』って耳を傾けてくれるというか。V2のレコーディングでは、『小室君に任せるよ』っていうことが意外とあったので」「今でもすぐに連絡を取り合えて、なんでも遠慮なく言い合える関係」と語っている[335]。
- 市川哲史は「戦略を考えた上で、アーティスティックに作品に向かっているミュージシャンはこの2人ぐらい」と評している[460]。
- 松浦勝人
- エイベックス・グループの前身となる貸レコード店「友&愛」に勤務していた際、店にTMの「Get Wild」を借りに来る若年層が多かったので、個人的に興味を持った[38]。
- 1991年、小室が本格的にエレクトロニック・ダンス・ミュージックの制作を開始した際、以前より顔見知りであった千葉龍平の紹介で松浦と対面。以後、2人は音楽制作での重要なブレーンとなる。主にタイアップ交渉・所属会社の壁を越えた撮影チーム結成に対するための融通、カラオケ画面でのアーティスト本人のPV映像の上映を実現するためのコーディネートに奔走していた[52]。
- しかし、制作・セールス方針、印税の分配等[注釈 79]で松浦・千葉と小室の意見が決裂、1997年に絶縁[51]。その時の状況を松浦は「コントロールできないくらい横柄で出会った頃の斬新さも無くなっていた。小室さんのように曲を自分で作れないというコンプレックスから完全にライバル視していた。『だったら所属している作詞家・作曲家を上手く組み合わせるようにマネジメントしていったらいいのではないか』と考えて小室さんを打ち負かすことを目標にEvery Little Thingや浜崎あゆみをぶつけていった」[390]「小室さんから『頑張ってくれてありがとう』って、ちゃんと言われたことがないような気がする」[52]と語り、当時チーフマネージャーを務めていた伊東宏晃は「私が判断してるわけではないのに、各事務所・レコード会社からのクレームがほぼ全部私個人に集中してきた。毎日『明日辞めよう』と思いながら1994年に書いた退職届を携えていたが、小室さんの仕事を間近でみて『この凄い天才の名曲が生まれる瞬間に立ち会えているのは、自分しかいない』『小室さんの喜ぶ顔が見たい』と辞める気持ちすら上回るオーラがあった」と複雑な心境を語っている[92][402][461]。
- その後はエグゼクティブ・プロデューサーとして企画のチェックに関わる事はあっても、マネジメント等の協力・プライベートの交流は皆無に等しかった。しかし、2008年に小室が逮捕された際、その翌年に小室の債務の一部を肩代わりし、今後の制作のためのスタジオ・小室夫妻のための部屋を用意する。公判の際にも、「何も分からない音楽業界について色々教えてくれて、今のエイベックスを作ってくれた恩師」「類まれなる才能を持つ稀有な音楽家」と話したことに小室が感動し、松浦・千葉と和解する[92][402]。
- DJ KOO
- 横浜ベイサイドクラブのイベント「TK RAVE FACTORY」を開催する際、横浜ベイサイドクラブからDJ KOOにオファーが舞い込み、クラブの紹介で小室と対面した。小室の造詣の深さに感動し、「押しかけ付き人」と称して小室の作業を見ながらリハーサル・レコーディング作業・雑用等をこなした。ふと小室のソロ楽曲「Omoide o Okizarinishite」を聴いた時、「こんなに素晴らしい曲を作る人なんだ、何も考えずに信じてついていこう」と厚い信頼を置くようになった[276]。
- 「EZ DO DANCE」からプロデューサーとしても関わるようになり、主に小室から仮歌が入ったデモテープと簡単なイメージワードをもらい、その意図をくみ取る形でYU-KIのボーカルのディレクション・ピッチ修正・リズム修正・ノイズ処理等のミキシング作業をDJ KOOとYU-KIの主導で行っていき、出来上がったボーカル音源を小室と2人でチェックするという流れが基本となった[462][319][463]。
- その他にも小室の色々なセッションにクレジットの有無に関わらず必ずスタッフとして付くようになり[464]、マルチトラック・レコーダーが回る前からレコーディング作業に関わるようになる。小室とサウンド関連のコンセプトのミーティングを行い、マニピュレーターとして既に存在しているプリセット音源のデータを元にダンサーが踊りやすいリズムを開発・修正していた。ハイハットの音色が1個入る所からプロモーションまで密着し、マルチトラック・レコーダーを抱えて次のスタジオに走ることもあった[465][466][463]。
- 小室からはたいてい「好きにやって」と具体的な指示はなく、海外のスタジオでラップを収録する時も小室はその場におらず、不安で押し潰されそうになりながらも腹をくくって挑んでいた[467]。
- テレビ・ライブ等の表舞台に出る際は「1時間半のワンパートでフロアを盛り上げる」という本来のDJの仕事から外れ、「平均3分・1曲の間を盛り上げて」という小室の指示に応えるために、公演毎にグルーヴをその場でボタン1つで変えたり、観客を普段のDJのノウハウ通りにアクションで煽り、自分のブースやビジュアルにインパクトを持たせることで対応した。最も当時は「盛り上げる」というより「何とか3分持たせる」ことができるように努めていた[463]。
- 坂本龍一
- 坂本とは「クリエイティブな少数派に向けた作風」を追求する坂本と「メジャーでスターになるための方法論」を追求する小室、インターネットでのファンに対するアプローチの方針の違い[注釈 80]からして、小室曰く「お互い中和しない関係」と称しつつも、「何をどうするかが絶対に違うけど、無いものねだりながらもお互いに無いものを求めている」「誤解されるのを承知で言えばホモセクシャルな感覚を持っていて会うと安心できる」と話している[215]。
- 反面「芸術家であり、その方面では未だに何一つ彼との差は縮まっていない」と賛美と嫉妬を込めた発言をしていて[468]、坂本もいち早くダウンタウンを音楽への道に引き入れる小室の発想力とバイタリティに「横取りしやがって…」と反発心を覚えていた[469]。
- ジャン・ミッシェル・ジャール
- ジャンとは1997年12月に直接会う前からお互いの音楽活動に際しての将来のビジョンを知っていたため、年齢・国民性に関係なく会った途端に意気投合した[470]。
- 二人が「本当にやりたい」と改めて確認しあったことは「場所・観客・時代に関係なく人間の気持ちを伝えていくことであり、問題はそれを如何にその時点のツール・スタイル・サウンド・リズムを生かして表現していくか」であり、ジャン曰く「極端に言えば料理人が寿司にするかパスタにするのかを決めるのと同じこと」と語っている[470]。
福島県中島村村長を務めた小室康彦は遠縁にあたる[注釈 81]。
近年ではマルチタレントのリリー・フランキーと仲が良い。2013年にはリリー・フランキーが主催するライブイベント「ザンジバルナイト」にも出演した。
年齢も職業も異なる人たちと異業種交流を行う会である「異能会」を主催し、定期的に行っている[471]。
使用機材
- Sequential Circuits Prophet-600
- Pearl PolySensor
- E-mu Emulator II
- 小室は「鍵盤の左端が弾き辛い」「ディスクの入れ替えをやってる余裕がない」「見栄が悪い」「小さいキーボードから、色々な音色が『声』から『オーケストラ』まで出てくると皆が不思議がってくれる」という理由から、「YAMAHA-DX7」とMIDIで接続されてあり、小泉洋のコントロールでDX7自体の音色と切り替えながら弾き分けていた[389]。
- 小室はライブでの演奏と動きに徹していて、物理的に操作に関与することが不可能なため、ステージ上では小泉に本機で使うフロッピーディスクの取り替えをしてもらっていた[389]。
- デリケートであり、音色によっては「YAMAHA-DX7」のモジュレーション・ピッチベンドのプログラムデータが受け付けないこともあり、それらも小泉が直していた[389]。
- 音色のロード時間に28秒もかかり、楽曲の演奏の途中でも音色を変える時がある。その場合は小室が演奏している際に「小室がキーボードから手を離すと、その瞬間すぐに小泉がフロッピーディスクを交換して、小室が30秒後に弾き始める」という作業を勘で行っていた[389]。
- TM NETWORKのライブアレンジの全ての大元は「本機のロード時間の影響で曲間ができるけど、どう合わせるか」という構成から始まっていた[389]。
- レコーディングではサンプリングの精度に物足りなさを感じ、以降サンプラーを2台以上用意する切っ掛けになった[389]。
- サンプリングは小室の「一番良い音でサンプリングしたい」という意向から、小泉がTMのレコードのマスターテープからマルチトラック・レコーダーを経由して行っている[389]。
- 「DRAGON THE FESTIVAL TOUR featuring TM NETWORK」では熱と振動のせいでデータをロードできなかったり、ドラマーがモニターしているガイドのリズムと他の機械のタイミングがずれたりし、全く同期しなかったこともあった。照明が変わるとその時のノイズがMIDIに乗ってしまい、プリセットの音色のデータそのものが変わることもあった[389]。
- 「YOUR SONG ("D"Mix)」「TWINKLE NIGHT」「『VAMPIRE HUNTER "D"』サウンドトラック」のレコーディング作業では、シンセサイザーはほとんど本機のみが使用された[290]。
- Ensoniq VFX
- 「Digitalian is eating breakfast」制作時から、久保こーじと2人で頻繁に使用した。久保は「これから誰かがこれを使ったとしても、すっかり僕ら2人の音というイメージになってしまうだろう」「気がつくと、どうしてもこの機械に戻る。ここからアイディアが湧く」と称している[472]。
- Waldorf THE WAVE
- 「TMN 4001 DAYS GROOVE」で使用。本機に搭載されたノブやスライダーで音色を視覚的にリアルタイムで操作した[290]。
- 完全受注生産だったため、現存する機体は少ない。小室、浅倉大介は発売当初数台リリースされたものをいち早く入手した。
- HAMMOND ORGAN L112
- AKAI S900
- Arp Solina String Ensemble
- Mellotron
- 主に2000年以降のTM NETWORKの活動で使用される。
- Roland
- Roland SH-1000
- 小室が初めて購入したシンセサイザー。試しにフェリックス・メンデルスゾーンの曲を弾いてみたら「シンセサイザーの方がビブラートをかけることができて、指の力もそれほど必要ではないし、調律も面倒じゃないからいい」と気に入った[303]。
- 買ってから5年以上使い、その間に同機を2台足したが、元々がモノフォニックシンセサイザーだったため、マルチトラック・レコーダーが搭載されていないが故にオーバー・ダビングが行えず、楽曲を構成する和音が作れなかったという[27]。
- TMデビュー前の1981年頃より使用[473]。1991年に久保こーじが急に両機を自費で購入し、使い込んだ。それを見た小室がアレンジを頼むと、ハードコアテクノ調のアレンジが次々と仕上がり、小室がそのジャンルを強く意識するきっかけになった[474]。
- 「この2台の凄さは全世界で何億枚のヒットを作ったのか分からない位。自宅で電源をつけてリズム音の上でギター・ピアノを乗せるとデモテープがすぐ簡単に作れた。宅録した音源がスタジオで録音した音源よりグルーヴ感が良かった。やっていることはアナログだけど生音のデジタル編集の予兆だった」と振り返っている[473]。
- Roland JP-8000
- Roland TR-727
- Roland JUPITER-6
- JUPITER-80
- V-synth GT
- Fantom-G6 / G7 / G8
- Gaia SH-01
- Roland JD-800
- 小室は「1990年代には欠かせない楽器」と称している。プリセット53番のピアノの音源を基本ツールとし、その音源をシンクラヴィアに録り込んだ時のその相性の良さからくるきつめのエフェクトがかかった音色を気に入り、その組み合わせで出来た音色を様々な楽曲で使った[17]。
- JD-Xi
- JD-XA
- XP-80
- ARIA (TR-8, TB-3, SYSTEM-1)
- YAMAHA
- 「YAMAHA - KX1」よりさらに軽量化したことを喜んだが音量の調節が効かなかった。その対策として、本機1台を使うために2台のボリュームペダルを用意し、キーボードブースでもフロントに立っている時でも音量の調節ができるようにした[476]。
- 「エレクトリックピアノの音を取り出した時に軽くキーに触れても、こもった音しか出ないが強く叩くとトーンモジュレーターの様な歪んだ音もちゃんと再現されて、『シンセサイザーもリズム楽器として十分サウンドの中心となりうる』と感じた」[475]「1台だけでも使えるし、何台使っても問題がない」「ハワード・ジョーンズ・マドンナ・a-haと同じ音色がそのまま入っていて、海外の曲と同じフレーズが出せる」[477]「とにかく音がクリアで、自分のタッチが音として耳に届くまでの早さが生まれて初めて一致した」と賞賛している。しかし、シンセサウンドが目立ちすぎてバンドサウンドの音が後ろに遠のいてしまう等生音との相性が悪く、生音と機械音の融合を真剣に考え始めるきっかけになった[478]。
- 1980年代後半を中心にTM NETWORKの活動で頻繁に使用された[290]。
- 「DX7とほとんど変わらない値段で、2倍以上の機能を持っている。例えば音源が2倍になっている。しかも、事前にサンプリング・プログラミングした音源の上に、上の鍵盤でピアノの音・下の鍵盤でストリングスの音という、自由自在に全く違う組み合わせの即興演奏を同時に一緒に再生できるから、幅が広がる」「本物の音の厚みにさらに近づいていて、1台でできる。僕は5台使う」「ハ長調の平均律ではない、アラブ音楽・バロック音楽の音階が簡単な作業でできてしまう」「四分音も和音で上がっていく事ができる」「1音ずつピッチが変えられるから、わざとホンキートンクのタック・ピアノみたいな狂った音程も出せる」「ずっと押し続けると、エレクトリック・ギターのチョーキングの音も出せる」「一番嬉しかったのは、ステレオでプリセット音源を内蔵してくれたこと」と語っている[180]。
- CP-1
- CP-80
- 1988年のロンドンに渡った際、自宅に設置して毎日弾いていた[310]。
- YAMAHA - EOS B200 / EOS B700
- プロデュース・デザイン作業に積極的に関与し、1990年代中頃までイメージキャラクターとしても活動していた。
- コンサート・テレビ番組出演の際に始まってから音が出なくて進行を中断するのを防ぐために、QX3・MIDI接続のリモートキーボードとして、DX7II-FD・KX76 / KX88の代用として使用していた[479]。
- 2013年に前山田健一とコラボをする際、EOS B700を改めて購入。B700のみで楽曲を共同制作した。
- 主に1990年代前半から中頃に使用していた。
- 記録容量の少ないエレクトーンであるということから、ヤマハから紹介された時には難色を示したが「形状がオルガン離れしていて、ステージでも他のキーボードと並べても違和感がない」「音も下手な生の弦の編成じゃ負けてしまう程に重厚で迫力のある音」と賞賛している。「Tribal kicks TV」のメインテーマの作曲にメインで使用され、「globe decade tour」「Tribal Kicks TV Party」でも本機の音色を30個使用した[480]。
- KORG
- 小室のプロデビュー時に所属していたレコード会社のスタジオに唯一置かれていたシンセサイザー[306]。
- 安岡力也の「ホタテのロックンロール」のアレンジ作業で使用された。「1974」「パノラマジック」のデモテープには、このKORG PolysixとRoland TR-808が同期された状態で使用された[17]。
- KRONOS X
- KORG Z1
- TRITON Extreme
- Korg KARMA
- ELECTRIBE
- KingKORG
- KORG 01/W
- KORG WAVESTATION
- KORG Z1
- 『love again』『TOGETHER NOW』等で使用されている。
- CASIO
- XW-G1
- XW-P1
- Clavia
- Nord Wave
- Nord Lead 1
- Nord Lead 2
- 「ツマミにLED表示が無いのが逆に良くて、アナログライクな微妙な動きを活かせるから、自分のイメージした世界を自在に作りこめる」と話している[269]。
- Nord Lead 3
- Nord Lead 2x
- Nord Lead 4
- Nord Drum
- Access Virus
- Virus Tl Polar
- Virus Indigo 2 Redback
- Virus KC Keyboard
- Oberheim Electronics
- OB-8
- OB-12
- moog
- Moog Liberation
- 小室が生まれて始めて使用したショルダーキーボードである[475]。
- 小室は「『体格のいい外人だけで制作したんだ』と確信できる程の重さだった」と回想している[475]。
- Memory Moog
- Slim Phatty
- Moog Liberation
- Avid
- Xpand
- Dave Smith Instruments
- Poly Evolver Keyboard
- Arturia
- Origin
- MINIBRUTE
- Radikal Technologies
- Spectralis 2
- accelerator
- AKAI
- Akai SynthStation 49
- STUDIO LOGIC
- Sledge
- JoMoX
- XBASE 888
- XBASE 999
- MBase 11
- M.Brane11
- Native Instruments
- MASCHINE
- ReFX
- Nexus2
- Vengeance Sound
- Multiband Sidechain
- LennarDigital
- Sylenth1
- KV331 AUDIO
- SynthMaster2
- Native Instruments
- Battery 4
- Guitar Rig
- Tone2
- GLADIAIOR2
- Nemesis
- Electra2
- Reveal Sound
- Spire
- MusicLab
- REAL STRAT 3
- REAL GUITAR 4
- Spectrasonics
- Omnisphere
- Trilian
- Steinberg
- HALion 5
- PROMINY
- SC Electric Guitar
- Modartt
- Waldorf
- PPG Wave 3.V
- Xfer Records
- Serum
- PC-8801
- 小泉洋のオペレートで使用。手弾きによる入力ではなく、ステップ入力だった。TMデビュー前から「DRAGON THE FESTIVAL TOUR featuring TM NETWORK」まで使用[482]。
- Roland DG
- 「とっさの場合に便利。あっという間に全てのデータを移調したり、他のフロッピーディスクのシーケンス・パターンとつなげる等、単体のミュージックシーケンサーでは難しい技が使える」「データが目に見えるため、『何かがおかしい』と思って『キックの位置を変えたい』と思った時にパッと見てわかる」「まだ使っていない機能もあるけど、あのソフトはすごい」と語っている[389]。
- PC-9801
- 小室・迫田到の共同オペレートで「TM NETWORK TOUR '86 FANKS DYNA☆MIX」から使用。この頃から手弾きによる入力が増えていく[482]。
- Synclavier 6400
- 1985年頃スティーヴィー・ワンダーがステージで使っているのを見て存在を知った。1988年6月にロンドンで実際に始めて使用し、1988年7月23日 - 8月1日に大阪で行われたイベント「Panasonic SFX 1988」の音楽制作が最初に使用した仕事になった[184]。
- 「Digitalian is eating breakfast」より本格的に導入。その際、小室とメインスタッフ以外は本機を使用したレコーディングの方法が分からず、小室はアシスタントスタッフ達に音色の保管方法・データが消えた時の対策・ミックスダウンのやり方など素朴とも言える数々の質問に答えていった[289]。
- 小室はその音の通りの良さと操作性の高さに驚き「今後もしレコーディングで従来のテープレコーダーを使うとしたら、それは音を悪くしたい場合だけだ」「歌を一文字ずつ数字で見ながら、細かい修正をして歌のノリや響きを出していく」[184]「一通り録音した後に、楽曲全体の音符・音域・パートを変えたいときに10分で簡単に抜き差しすることができる」[483][289]「機材でそのまま再現すると雑音になってしまう特定の古いシンセサイザーの音色をサンプリングすると鮮明になる」[289]「ギターの音色をピアノに変えられる」[484]「ステレオサンプリングが100kHzまでできた。100kHzをCDフォーマットの44.1kHzに落とすことは分かっていたけど、興味本位で100kHzで収録に使ってみた。スタジオミュージシャンのピッキングノイズやタイミングのズレ等も、克明に記録できた」[320]と語っている。
- 篠原涼子との共同作業時までは確実に利用していたのだが、その頃の海外のサウンドは逆にアナログ音を売りにしていた・電子音でも音圧があり、小室自身が作ってる電子音はチープに感じたことから、「その時代のアナログ音の使い方がしたくなった」と思い、次第に使用しなくなった[485]。
- Music Production Controller
- Digital Performer
- Vision
- 1994年からシンクラヴィアに変わるメインシステムとして使用していた[488]。
- Logic Pro
- Pro Tools
- 2000年前後から今に至るまで使用している[490]。
- Mackie
- SL 9000 J
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関連企業
- Office TIMEMACHINE(株)
- 1983年TM NETWORKデビュー前から小室・木根が所属していたJun & Kei社内に設立されたTMのマネジメント・コーディネート業務専門の芸能プロダクション[492]。別名「TIMEMACHINE CAFE」・「TIMEMACHINE CORPORATION」・「TIMEMACHINE GROUP」・「Timemachine」。1990年「TMNリニューアル」の際、事務所社長に就任[493]。一時期、葛城哲哉・阿部薫・浅倉大介・貴水博之も所属しており、「TMN終了」以降も1995年までのaccessのマネージメント、1998年まで宇都宮のマネジメントを行っていた。
- T-MUE-NEEDS(株)
- TM NETWORKのグッズ・イベント等の企画・運営会社。「TMN終了」時に解散。
- グラデミー(株)
- 小室が1991年に設立し、代表取締役社長に就任した映画製作会社(宇都宮、木根も取締役に就任、角川春樹と三菱商事もバックアップとして参加していた)。社名の由来は、「グラミー」と「アカデミー」を掛け合わせた造語とも[494]、英語で「引力」と表す「gravitation」と英語で「純粋・学術的」と表す「academic」を掛け合わせた造語とも[495]いわれる。木根尚登著「月はピアノに誘われて」の映画化、TM NETWORKの楽曲「THE POINT OF LOVERS' NIGHT」をモチーフにした映画製作(小室、原案・脚本、木根)[339]、「チーム・グラデミー」名義でのF1参加[495]の企画が持ち上がったものの、それ以降公式のアナウンスが無いまま自然消滅した(F1参加は実現した)。
- TK TRACKS(有)
- 小室の個人レーベル運営およびイベント制作のために設立された会社。現在では小室とは離れた事業会社としての性格も持つ。
- TK PROMOTION(有)
- TK TRACKSの子会社。小室と直接の関係はない。
- OPERA GIG→TK state(有)
- TK MUSEUM
- TK state America MUSEUM
- TK SEQUENCE
- TK SEQUENCE America
- TK ENTERTAINMENT SERVE
- Prime Direction TK Room
- tetsuya komuro rise
- 1992年に「OPERA GIG」として設立され[318]、1994年に「TK state」に改名[425]。その後2000年まで運営されていた小室の個人事務所。「TK MUSEUM」はイベント限定で音楽ユニットとしても活動していた(このノウハウは後のTKCOMに活かされる)。
- 小室と丸山茂雄とニューズ・コーポレーションが共同で設立したアジアマーケットをターゲットとし、音楽レーベル運営・テレビ番組の制作と配給を目的とした事業会社[71]。「SPEED TK RE-MIX」のスーパーバイザー・中国で放送されたオーディション番組「TK NEWS -小室魔力-」の番組監修を務め、JスカイB(現スカパー!)の小室のタイアップによる音楽専門番組「Sky Music」で小室プロデュース楽曲とPVを流す予定もあった[496][497]。後に本社を母体としてRojam Entertainmentに発展する形で解散・吸収合併した。
- Rojam Entertainment(株)
- Rojam USA
- Rojam Pictures,inc.
- ROJAM DISCO
- ROJAM Studios
- 香港を拠点とした本格的なアジア進出を目的とした総合音楽プロダクション。小室は2004年5月に全持株を売り実質上経営から撤退するも、プロデューサー契約として残っており(専属ではない)、小室の個人スタジオを運営・管理する等関係は2008年まで続いていた。
- Tribal Kicks(株)
- Tribal Kicks Studios
- サッカー関連のマーケティング、制作などを行うための会社として設立、後に実質的な小室・木根(一時期のみ)の個人事務所となる。TKCOMの発足に伴い、休眠。
- High Definition Sound laboratory(株)
- TKCOM(株)
- TKCOM Studios
- a nine(株)
個人スタジオの変遷
※太字は2011年現在使用しているスタジオである。
- tetsuya komuro SEQUENCE 1101〜5→True Kiss Disc Studios 1101〜5
- TK Disc Studios(ホノルル(現在のIsland Sound Studios)・東京・バリ島を拠点にしていた)
- TK's Malibu Studios(カリフォルニア州・マリブを拠点にしていた)
- ROJAM Studios
- Tribal Kicks Studios
- TKCOM Studios
- avex azabu 501studio
評価
小室は1990年代を中心に振り返り、
- 作風
- 「自分の音楽は若い人の感情を言葉ではなく、プリクラ・スナップ写真・記念写真のように瞬間をクオリティ高く正確に切り取るような感じ。そこにある共通項をどこかということを見せてあげようということなんです」[498]
- 「自分のカラーはファンが歌って楽しんでもらえて、音的にも車中・部屋等場所に関わらず手頃に楽しめるダンス・ミュージック」[136]
- 「縦軸となる根本のパブリックイメージを支えるコンセプトは、最初から完成図を見通すのではなく、後付けで行っていた」[136]
- 「『イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ』あるいは『サビ→Aメロ→Bメロ→サビ』+『転調』という構成の中にめくるめく情景の変化があるから、『そういうマニュアルのようなポップスを作らないとみんなが飽きるんだ』と僕が率先して推し進めた結果そういう作り方を広めてしまった」[499][500]
- 「僕の曲がカラオケで歌われることが多いのも、口にしやすいフレーズが多かったからだと思います。句読点や改行が崩壊したのがカラオケですから、リズムに合わせて詞を追っていくには口語体じゃないと難しいと思います。カラオケは縦書きの『詩』ではないので難しい漢字はダメですし、普段の何気ない言葉が向いているんですね」[211]
- 当時の制作体制
- 「どんどんチャートに出てくるので、すごく速いローテーションで動いているように見えるけど、実際は1~2年の間に作ったストックがそのまま並んでいるだけ」[363]
- 「タイアップは数々の制約の中でインパクトを与えなければいけないので『15秒のサウンドトラック』という発想で作っていた」[501]
- 「作詞・作曲・アレンジ含めた1曲を作る作業を最短1時間で済ませていた」[502]
- 「プロデューサーとしての仕事は先方からのオファーから始まっていて、望まれるヒットのサイクルは月1回〜週1回・納期・CM枠まで既に決まっていたので僕一人で止められる状況ではなかった。使命感ではなく、責任感・強迫観念で作っていた」[503][208]
- 「僕の主導で行えた企画はTRFとglobeだけ。ヴォーカリストを育てる部分まで関わったのはそれこそkcoしかいない」[208][504]
- 「この頃からオーディションに審査員として関わるようになった。トレーニングでどうにかなる歌唱力より、変えようのない声質・倍音の構成を重視して選んでいた[注釈 82]。それが逆にインパクトのある楽曲を生み出すきっかけになった面がある」[506]
- 「『まず楽曲があって、次に僕に仕事が来る』というのが普通なのに、1990年代の僕は『まずオファーがあってから、後で音楽を作る』という感じになってしまった。その時点で、完全に音楽ありきではなくなってしまいますよね。何かの商品だったり、違うもののために音楽がある。違う人達がお金持ちになるために必要なものが、僕の音楽だったりする。その中で、自分のやりたい音楽を見つけるために努力し、ベストは尽くしましたけど、流石に順番をひっくり返すほどの拡張はできなかった。だから純粋に『僕の作る音楽が面白い』と言ってくれるような現象は当時は起こり辛かったんですね」[507]
- 小室ブームを振り返って
- 「1994年以前にストリートダンスブーム・ジュリアナ東京ブームと『ダンス』をキーワードにした流れが2つあり、僕はその両方の音を作ることができた。そして、その2つが混ざったものが現在の若い子達に好まれる音楽であり、そのカテゴリーの中に僕のダンスミュージックが入っているからだと思います」[168]
- 「棚に並べて飾られる作品としての価値より、音楽配信で簡単に消費される程度の価値しかない音楽を作っている自覚を常に持っている」[209]
- 「avexに喜んでもらえるような提案を出す他にも、制作過程の細かい部分のマネジメントにまで口出ししていた。『CRAZY GONNA CRAZY』『masquerade』『Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜』を制作している時が、それらの配慮を抜きにしたただの一クリエイターに戻れた時だった」[474]
- 「自分の曲を冷静に聞き返す時間が無かった。一つ刺激的な話題があると『もっと欲しい』とニーズとレベルが上がり続けて、飽和状態になった。ピーク感を煽ったのは間違いなく僕だけど、自分が世の中を回しているようで、上手く回されていた気がする」[100]
- 「記録は喜ばしいのにそこで喜ぶと『偉ぶっている』と思われて、人に喜びを伝えられないくらい周囲が信用できなかった。周囲に勝手に持ち上げられて、崇められて、あの絶頂期は二度と味わいたくない」[508]
- 「数々の記録は嬉しくない訳ではないが身の引き際が分からなかった。その内に自分が作っている音楽が自分を超えてしまい、0から必死に追いかけていた」[509][300]
- 「自分のお金を自分でどの位使っていたか分からなかった」「完全に裸の王様だった」[510]
- 「魚嫌いがクルーザーを個人所有として買ったのは尋常ではなかった」[511]
- 「ファンの皆が驚いて喜んでくれそうなアイディアのストックを1980年代にいっぱい貯めていたからこそ1990年代がある。90年代はファンの方々が通になっているとは感じなかった」[402]
- 「1990年代は自分が気がつかない所で調子に乗っていた。勢いと『これで大丈夫』という過信で書いていた。改めて見直したり、お金を出してくれる人達の気持ちを考えるための時間も余裕もなかった」[229]
- 「インターネットで、僕の1990年代の楽曲を研究してくれる人達の考察を見ると概ね『切迫した感覚や、時間がなかったり、苦しい感じがあった』と書いて合った。丁度音楽を作ることが始めて『苦しい』と思っていた時期だった。でもそれがその人達の失恋・会社や学校での嫌な事等、社会での辛さが被っていて『お互いにシンパシーを感じてくれた人が結構いてくれたんだな』と今は思ってます」[229]
- 「CMのタイアップで作っていた曲でたまたま15~20秒の中にハマって『これはいけるかも』と本気で感じたのは今までの中で10曲だけ」[303]
- 「『My Revolution』の頃から、『あの曲みたいにして下さい』というリクエストが多かった」[512]
- 「綺麗事を言うわけではないですけど、『売れてよかった』というよりは『自分の作った音・メロディが広がっていく』と思えるのが喜びでした。自分の曲が正に『風に乗って広がっている』という感覚ですね。あれは今も忘れられないし、『音楽を作る人間として、何が1番気持ち良いですか?』と言われたら間違いなくそこだと思います」[512]
- 「当時は曲を作るのが楽しくて仕方がなかったんですよ。例えば、仕事終わりに皆で集まって飲みに行くのが楽しいのと一緒で、僕の場合はスタジオに行って仕事が終わった後に、次のスタジオにハシゴすることに優越感を感じていました。プロデューサーとしてオファーを沢山頂ける状況が夢でしたから楽しかったんですよ。それこそ『楽曲を大量生産してた』というのは後付けですよね。作っていた最中は無我夢中でしたから、鍛えられました。でも、ある時期から『作りたい』気持ちを『やらされている』気持ちが追い抜いてしまったんです。段々辛さの方が勝ってしまってからは、締め切りがどんどん辛くなってきたんです。反面締め切りがモチベーションになっていたのもありましたけどね」[41]
- 「瞬間的に嬉しいことはあったが、恍惚感・優越感は長続きせず、『走り続けるしかない』『クオリティを落としてはいけない』というプレッシャーの連続でした。今だったら完全につぶれていたと思いますね」[41]
- 「功罪については自分で語るのも変だが、功としては当時は数字でしか反応が分からなかったが、後々それがSNSで1対1で全ての声を聞けて、その上で予想を裏切り、驚かせるためのサプライズを作れるきっかけになった。罪としては音楽業界は上手く多い宣伝を仕掛けたらビジネスとして成立すると勘違いさせてしまった」[281][513][注釈 83]
- 「週刊誌や月刊誌のように3日に1曲、アルバム用の楽曲を含めると1年で最大で100曲作っていて、そういう時期が2年位続いた。『週刊誌や月刊誌のように』というのは、『次はどういう展開になっていくんだ』『今度はどんな感じでくるのかな』『次は変わったことしてくれよ』という興味と関心を持ってもらえていたと感じたからです。それも熱が冷めなかった理由の一つだと思います」[514]
と称している。
「あれだけ曲が難しいから、当然詞を作る方もすごく大変です。少なくとも3,4回は変えないと上手く乗らないんですよ。上手い具合に乗っても、響き方がおかしかったり、歌ってみないと分からない所があったりするから、最初に歌ったときから随分変わりますね」[188]「歌詞については、全体の流れ・大まかなプロットは事前に話し合って確認しているから、一部の言葉のニュアンスと展開が変更になっても、『根本から変えよう』とはならない。だから彼の『どうしても全体的なストーリーはこのままで行く』という気持ちも理解できる」[515]「聴きやすいけど、実際に歌うと三連譜に合わせて、早口で歌わないといけないので難しい。それに対しての独特の歌唱法を身につけた」[166]「デモテープの段階では歌詞も上がっていなくて、メロディもよく分からない。歌詞が上がるのは大抵歌入れの日。歌詞が入った時点でメロディ自体も変わっていく。その日は歌入れだけで精一杯。敢えてレコーディングが始まるまで、デモテープの内容は覚えない方がいい。TMの頃からそういうことが多かった」[516]「小室のデモテープはどこが本番のメロディなのか分からない」「大きなテーマを歌っていたのが、突然身近な物事に引き寄せられる歌詞」[517]「前に出るよりは縁の下の力持ち的なプロデューサーが彼の一番やりたいことであり、向いていること」[380]「譜割りが細かく早口言葉の連続だから、ただ歌うのではなくパーカッションを叩くつもりで臨んでいる」[203]「息継ぎができない曲ばかりでしたので、歌うときに使う歌詞カードには、どの曲にもブレスの位置を丸でいっぱい書いていましたね。そうしないとすぐには反応できませんから。その位置を確認していく作業には今も時間をかけていますよ」[310]「彼の作る楽曲はいつも、まずは舌が回るか・回らないかの問題から始まる」[438](宇都宮隆)
「あの人は普段から企画を用意できるだけ用意する人なの。そうやって人と雑談をしている中から、また別の企画が生まれることがある」[518]「現代の音楽シーンにおいて、小室哲哉の存在を無視することはできないでしょう。アマチュア時代から彼は紛れも無いプロデューサーでした。彼の数々のアイディア、僕の靴下の色・髪の毛の色・スタイルにまで口を出すお節介な性格。彼のプロデュースの方法は当時とさほど変わったものではなく、僕の知っている小室哲哉そのものです。彼の活躍は僕にとって大事件ではないのです」[519]「作り方は僕と真逆で、起承転結がなくて、大雑把で、8小節ある各パートは飽くまでも部品としてみている」「全体で聴くとカチッとしているけど、1本1本裸にしたら心配になる音程がある。だけど、どんどん別トラック・裏メロディを重ねていって雰囲気で押し通したときには、もうどうでもよくなってしまう」[520]「注文は多いけど、ないときは良くも悪くも任せる人」[521]「小室は確かに古いものを捨てるときは冷酷です。古い彼女を新しい女性に乗り換えて、その度に新しい音楽を創り出してきたと言ってもいいかもしれない。けれどそうやって常に旬であるからこそ大衆が喜ぶ音楽が創れるんです。『そろそろ丸くなれよ』とか『大人になろうよ』という言葉はあの人には意味がない。走り続けるしかないんです」[522]「まず暗号を解くように、ブレスの位置を解読する所から始まりますね。同じフレーズの繰り返しのようで、実は全然違うんですよ。意図的かどうかすら分からないままに完成した音源を再生するんだけど、結果的にそれがすごくいいものになる」[206]「小室は本当は出たがりなんですよ。でも口では『僕はいいんだ』とかいう。でもテレビに出るとちゃんと真ん中にいるんですよね(笑)。プロデューサー的作業というのは公私の『私』の部分では小室は深く関わっていた。その時の女性の服の色までプロデュースしてましたから。だからそれを『公』の部分でも始めてビックリしましたね(笑)。その後僕も何人かプロデュースすることになって相談したこともあるんですが、小室は『プロデューサーはお節介じゃないとできないよ』と言っていました。『構ってあげたい、そうしないと気がすまない』タイプがプロデューサーに向いているのでしょう」[380]「普通、伴奏というのは歌い手の音程をサポートするためにあるのですが、小室君の作る曲は転調が激しい。例えばロ短調から急に変ロ短調になる。そうすると人間の感覚ではキーが取れなくなってしまうんです」「マイナーがメジャーになったりキーが上がったりするのは昔からありました。僕らはそうした転調を『親戚』と呼んでいました。でも、小室君の曲はキーが下がったり、突然転調したりとあり得ない転調なんです。TMデビュー以前はそんな曲は書いてなかったから『どうやったら差別化できるか』に対する彼なりの答えの一つが転調というスタイルだったんじゃないかな」[35](木根尚登)
「デモテープで聴くと『これはどこがAメロなの?これはどのパートなの?』と混乱する衝撃的な内容のものが多い」「生み出してくる音楽は凄く挑戦的。多分、哲ちゃんはトラッキングを創るのが好きだと思うんですけど、リズムとキメのシンセリフが最初に入っていて、普通は最初に入れるベースを一番最後に入れたりするんです。だからトラックを創るのが本当に好きで、メロディは最後なんですよ。でも美味しいメロディがいっぱい入っている」[523](小室みつ子)
「非常に引き出しの多い人。『ブルース・スプリングスティーンみたいの弾いてよ』というとすぐ弾くし、『トーキング・ヘッズみたいなの』っていうとすぐそんな曲を作る」[12](白竜)
「アーティストの割には芸術家めいた依怙地なところは無く、職人的に『好きなこと、気持ちのいいこと』ならば何でもやってみようというタイプだった」[524]「単調なノリだけのリズム優先のメロディは、普通のシンガーソングライターだったら嫌気がさすが、それをこよなく愛した二人が松浦勝人と小室哲哉。長期に亘って量産できるシステムを維持できるのはこの二人だけだった」[525]「小室ファミリーの女性ボーカリスト・ダンサー達は天性のスターではなく、皆気弱な男性の話を快く聞いてくれそうな隣のお姉さんタイプばかりである。少なくとも高飛車な女はいない」[526]「彼の原点であり、昔からの共通点である所は歌詞。渡辺美里の曲を作っていた頃、小室はほとんど作曲しかしていなかったんですが、渡辺は『健気な女の子が、自立した愛を目標としてひたむきに、けれど悲しい日常を生きている姿』をテーマにした歌詞を書いていた。そこで歌われているヒロイン像が正に20〜25歳の女性の理想とも言える条件を満たしていた。これを男性ボーカルでやるとやたら健康的で不良っぽくなく、ともすれば軟弱に聞こえてサマにならないため、基本的に女性ボーカルであることがポイント。そして、哀愁味・前向きさ・ひたむきさを帯びた歌詞を生かすには、耳にぐっと刺さってくるような高い声域の声がいいわけです。アーティストの容姿・雰囲気は男性の支持を得て、歌詞の内容は渡辺のフォロワーであり、未来志向型だから女性の支持も得る。1990年代型のヒットの要素は小室によって全て満たされていたのである」[271][527]「耳障りの良い高音域・テンポの良い高スピード・より強い刺激を与え続ける高密度な歌詞。元々1980年代頃から海外のミキサーを多用することによって邦楽は年々高域のレンジが高くなっていった。携帯電話で女性より男性の声の方が雑音に聴こえてイライラするのは、やはり日本人全体の声の周波数が高くなってきているからだろう。その辺を小室は上手に利用し、刺激に慣れた日本人により新鮮に響かせた。小室哲哉の音楽は『3高サウンド』と言えます」[271][528]「彼の弱点はアーティストの作品世界を全て自分で作っていることだろう。これでは体裁上、『歌手達は人形』と見なされても仕方が無い。それを裏付けるかのように『ASAYAN』のオーディション『コムロギャルソン』では、かつての『スター誕生!』の時のように『単に有名になりたい』だけの女の子達がわさわさと応募し始めてきている。1980年代、シンガーソングライター達が『お仕着せの歌を芸能界という籠の中で歌わせられるのはゴメンだぜ』と自分の言葉やメロディーで自分の世界を歌ってきた歴史はどこへ行ってしまうのだろうかと老婆心ながら少々不安になる」[529]「戦後の歌謡曲、J-POPに至るまで音楽業界の誰もが信じていることは天才は二人しかいなかった。1970年代の筒美京平と1990年代の小室哲哉。二人に共通することは自分の音楽性よりも、『今人々が何を求めているのか』を優先し、それを秒単位で提出できるメロディメーカーだった」「高音・高速・高密度と三拍子揃っている。高い声で、速いスピードで、メロディーの中に16分音符がいっぱいある感じの歌ですね。当時カラオケで誰が一番歌がうまいかを競っていた女の子たちに対してハードルの高い曲を少しずつ出していった。マーケティングの一環で出る雑誌を全部読んで、女の子が今何を考えて、どんなことをしているか常にチェックしていた」[93](麻生香太郎)
「彼はもう、1991年前後から『カラオケが絶対ブームになる』と断言していました。彼はそれを見据えて曲作りをしてきた面がある」[421](小坂洋二)
「小室さんはアーティストの選び方に決まりは無くて、自分の好みで選んでいるだけ。その好みが結果的に時代に嵌っているんだと思う。僕と小室さんの好みは似てるけどね」[448]「一時期『小室より小室っぽい音楽を作る』と言われたほど、彼の真似をしてきましたから。でも、そのおかげで久保こーじとしての独自性を出せるようになったと思っています」[290]「小室さんから学んだと言えば大げさかもしれないけど、アイデンティティーの持ち方だったり、プライドの置き所等プロデューサーとしての器の大きさだと思います。『小室ファミリーの音楽は緻密な計算があって…』みたいなイメージがあるのかもしれませんけど、ミックスダウンを担当するエンジニアを選定するまではシビアにやりますけど、実作業には口を挟まないし、出来上がった音を楽しんで聞くし、信頼できると思った人には一任する。だから極端に大雑把でどこかが欠けているのが小室サウンドの魅力なのかもしれません」[449]「いい加減なプロデューサーです(加減が良いという意味です)。1から10までアドバイスしてあげることも必要だけど、適当な所で止めて、『後は自分で考えてやってごらん』とする匙加減が小室さんはすごく上手くて。そうすると周りが良い形で解釈してくれるんだよね。それがあの人の持っているアーティストパワーだと思うし」[519]「いきなりシーンが変わって、時代劇からSF超大作みたいになる突飛な展開」[452]「旬と言われたデュラン・デュラン、カジャグーグーといったニューロマンティックと言われる音楽を上手く取り入れていました。デビュー当時のTMではヨーロッパには行けなかったので、聴いて真似するしかない。実際彼らがどんな機械を使っているのかは置いといて、我々は我々のやり方でしかできなかった。それが独自のものを作れたのかもしれません」「『この人に足りないものは何か』『どう味付けすれば広く大衆に受けるか』といったアーティストの見方は学んだことが多いですね。本来のプロデューサーはスタイリストやヘアメイク等の人を選んで配置したり、予算管理を行うのが仕事。でも小室さんの場合は、監督兼プロデューサー。細かい部分まで関わって指示を出す。小室さん以降はそういうやり方が主流になってきましたね」「小室ブームを支えたのは作詞家としての小室さんだったように思います。字面だけ見ると変な言葉を使うんですが、メロディーに乗った瞬間にどこかで共有できるというか。そういう時代・流行・言葉を切り取るあの才能はすごい。その言葉が当時の若い世代に響いたからこそ、みんな大量にCDを買っていったんだと思います。『時代の半歩先が一番良いんだよね』とよく仰っていましたが、あまり先に行ってしまうとだめなんでしょうね」[423](久保こーじ)
「テッチャンなんか、自分で歌ってもサウンドはそんなに大きく変わらないじゃない。そういう意味で全然違うものを作れる。それが意識してじゃなく自然にできるのが楽しいね。そして色んなことを客観的に見たりする能力がつけられるよね。より一層大きく見られる」[注釈 84](北島健二)
「自分に足らないものまで客観的に判断できる数少ないアーティスト」[42]「欧米のレコード会社は元々の社員が少なく、フリーランスのプロデューサーに全てを任せる。フリーのプロデューサーが全責任を持って仕事をし、その代わり報酬も多く出すという会社を小さい規模ながらも3つ作ったけど、これは小室君から触発された面があるんです。今後は小室君のような人が中心になって、日本のレコード産業を変えていくのかもしれませんね」[366]「芸能界には世事に疎い人が沢山いるけど、彼は疎いどころか何でもよく分かっている。全ての判断を自分でできるのでジャッジを下した後の整備をするのが僕の役目。彼は音楽の才能もピカ一だけど、ビジネスの感覚も非常に優れている」[83]「世界に自分から一気に出て行くのではなく、まずは望まれそうな所から出て行くんですよ」「彼ほどの戦略家はいない。空理空論が一切無い」[12]「(小室のメディアに出すタイミングを逃さない姿勢を見て)君は勘で動いている人だね」[380]「アメリカでは『プロデューサー』というとサウンドプロデューサーのことなんです。日本でいえば、小林武史さんや佐久間正英さんの様な人達。ミュージシャンとしてのノウハウを持っている人が、新たに出てくるシンガーソングライターを助けて、加工して、世に送り出していく。それに加えて長戸大幸さんのようにビジネス面まで考えるプロデューサーも世に出てくる様になった。彼がビーイングを大成功させた後に出てきたのが小室哲哉です。小室さんがすごかったのは、クリエイター・マネージャーの両方ができたことです」[56](丸山茂雄)
「私は歌のテーマを事前にはっきり決めてから取り掛かるから、小室哲哉の曲は詞を当てはめ辛くてしょうがない」[530]「歌詞を付けたりするときにどんどんいろんな展開が見えてきて作り込みやすいのね」[531](渡辺美里)
「小室さんはステップ入力をやらないんですよね。全てリアルタイムでキーボードを弾いて、そのノリのまま打ち込んでいく。それで最後に変な所だけちょっと直す程度なんです。曲の縦軸がそうやって出来ていって、その裏に手で弾けないシーケンスフレーズを打ち込んだりとか、パーカッションを打ち込んだりする。だからベースとなるデモテープを聞いてるだけで面白いんですよね。1コーラス目と2コーラス目が全然違うフレーズになっていたりするんですよ」[479]「ステージ上で小室さんが出す音って、はっきり言って分からない。あの人はけっこう行き当たりばったりで、毎回同じに弾いてくれないから。だからそのときによってEOS・DX7II・TX816を即興的に使い分ける部分が多い。例えばシーケンス系のベーシックな音以外は手弾きに任せているが、フットボリュームでサウンドのバランスがとれるようになっているので小室さんの所から何でもできるようになっている」「音楽的にも『てっちゃん節』みたいな独特のスタイルがあるし、キーボーディストとしても指使いに独特の弾き方があるので僕なんかはそれらをみんな真似できるようになりました」「コンピューターと血が通った部分を一番巧く融合させたバンドがTM NETWORKだと思っています。その中で小室さんのグループをリードしていく力は、ずば抜けているということになるんでしょうね」[273]「小室さんと一緒にやって勉強になるのは、音楽を音楽だけで考えない点。その曲の周辺・その曲にまつわることから発想して、曲に表情を付ける点」[532]「小室さんがブルドーザーのように開拓者として切り開いてくれた道を、色んな違った形で整備して広げるためにチャレンジしていくのが僕のプロデューサーとしての仕事」「小室さんのやってることで一番衝撃を受けたのは、やっぱり『音を見せる』ということだ。それまで僕は『音はきれいに聞こえていれば、それでいいんじゃないか』と思っていた所があった。だけど、小室さんが音をいろんな形で『目に見える存在』にしていたことにすごくショックを受けた。例えばライブで楽器の音を一つ引き出すのでも、ただ弾くんじゃなくて、腕を振り上げてバンと弾いて、1音を表現する。『目から入る情報量を大事にする』という感覚は、僕が小室さんから学んだことで一番大きなものだ」「『当たり前にメジャーシーンを意識する』という感覚を学んだ。小室さんの世界は常に『メジャーへのアプローチ』という感じだった。決してマニアックなだけの次元じゃない所でものを作って、世の中を動かしていた。それは僕の中にも自然と身についていって、僕の『どうやって目に見えるようにするかを考えてプロデュースする』やり方にもつながっている。だから小室さんから教えてもらったことは『具体的な音楽』というよりも、『それを世に出すための方法論』の数々ということになるだろうか」[533]「世界中のダンスミュージックシーンの最先端を常に意識していて、そのブレイクビーツ・音色の内のほんの一つのチョイスを絶妙なポイントで取り入れるから、常に新しいものに聴こえる」[438]「小室さんのアンテナって凄いですよね。『ヨーロッパのクラブシーンでこんなことが起きている』『アメリカでこんなムーブメントが起きそう』っていうのをいち早く日本に持ってくるんです。IT・ファッション関係にもアンテナが広くて、『音楽がどういうメディアを通して世に出ていくのか』にも敏感ですね。ちょっと早すぎることもありますけど(笑)」「小室ファミリーが文化になる以前にも、音楽作りに対して当たり前にディレクター・プロデューサーが関わっていたけど、音楽はプロデューサー次第で『キャラクター・世の中への出し方・メディアでの見え方・売り出し方』の全てが変わっていくのを世の中に分かりやすく提示したのが小室さん」「小室さんの言葉の選び方って、普通の歌と明らかに違うんですよね。よく見ると日本語の流れになっていなくて、音の動きが呼んでくる言葉をパズルみたいに組み合わせて、そうすると一つの世界観や言葉が繋がって絵になるみたいな。そうやって『音の響きから出た言葉が繋がって気づくと、一つのセンテンスになる』という作り方は小室さんの一番『らしい』所だな」[455](浅倉大介)
「一つの素材を見てスターに育てていく嗅覚と計画性にいつも脱帽しています」[534]「ダンスを重視しないJ-POPのアーティスト。もっとも、小室哲哉はダンスを上手く取り入れた」「小室君がヒットを飛ばす前のこと、一緒にロンドンに行ったことがあったんです。ロンドンで、僕たちはダンスフロアで踊っている若者たちを目にしました。小室君はそんな若者たちの姿に衝撃を受けたのかもしれません。こう言ったんです。『ダンスですよ、ダンスフロアをやりましょう』と。その言葉通り彼は、コンサートをダンスが踊れる場にすることに成功しました。ディスコには行けない若い女の子たちが彼のコンサートで踊りまくりました。コンサートでダンスフロアを提供したのは彼が初めてだと思います」[535](日向大介)
「小室さんの曲はテンポが速いし、独特だし、付けにくい。小室さんは本業の作詞家が使わないような言葉を平気で使う。ただ、その言葉の使い方に素人ならではの良さがあることをまずTMのメンバーが評価してくれている」[536](坂元裕二)
「最初のアイディアの提示・奏法の注文・最後の決定はやっぱり小室さんの判断だよね。でも、小室さんが弾かない日でも彼はスタジオに来るからその段階で色々話す。だから、自分が弾く段階になって改めて細かい注文が新しく出ることは無かったかな。元々ギターに詳しい人だから。曲によって違うけどね」[537](葛城哲哉)
「小室さんはリズム感覚でいって、最後にメロディの良さを置いている。それがすごくオシャレだなと思う。リズムというフィルターの後ろにメロディが入っていて、聴いている内に入っていける」[457]「時間を無駄にしないタイプですよね。ある程度の構想を持っているのに、最初からそれをぶつけないで『どう思う?』って訊いてくれたり。だから色んなことを吸収したり、新たな自分を発見したりすごく学ぶことが多かった」[459]「お互い企画先行の戦略家だけど、僕は無謀なノリと勢いで進める方で、小室君はかなり計算し尽されている。細かい案や権利関係にも対応できるアイディアがあることに驚く」[538](YOSHIKI)
「小室さんは自分の感覚を強く重視しているから、本当に学術的に分析すると疑問に思うような部分もあると思うんです。例えば、先生が作ったベーシックのピアノに重ね方がおかしい所があったりするんですよ。一度マニピュレーターがMIDIデータを試しに直したことがあって。そうしたら、ちゃんとハマるように直った途端に音の響きがつまらなくなってしまったんです。『やっぱり俺のパートを抜いていいから、データを元に戻して』ってなりました。そこが小室マジックなんです。若いクリエイターが小室さんの真似をするんだけど、みんなキチッとやろうとして真似できないんですよ。理論じゃないから。そこが天才たる所以ですよね」[318](松尾和博)
「女の子の気持ちをすごく捉えている詩だなって思いますね。それに、そのときの私の気分に合わせた詩がどんどん出てきたりするんですよ」「とにかく曲が難しい(笑)。曲をもらう度にサウンドがシンプルになってきているんですけど、そうなる程声や歌い方が強調されてくるから、ごまかしが効かなくなる」「きっと時代を意識しないで作ってくれてると思いますよ。時代がアップテンポだからといって決して『私にもアップテンポを』という訳じゃなく、落ち着いてじっくり聞ける曲を書いてくれたりとか。時代がまだダンスブームじゃなかった頃に、ダンスっぽい曲を歌わせてみたり。そういう所をちゃんと計算して書いてくれていると思いますね」[539](観月ありさ)
「リズムに乗って、歌のメロディが跳ねるような感じの小室さんの楽曲はとてもダンサブルで私はすぐ好きになりました。歌詞についても、私の考えそうな内容が私の言葉に近い形で表現されていて、すごく歌いやすいんです。新曲の構想を練る前に、ちゃんと小室さんと私で話し合う機会をとって下さる等、とてもよく考えて頂いていると思います」[70]「小室さんの曲は決め打ちでキー合わせはないです。ものすごく高いときもあるんだけど、その曲の一番おいしいキーが彼は分かってらっしゃるので。私としてはもう『ヒーッ』ていう感じでしたよ。でも何も分からない素人だったんで、訊ける先輩方もいないですし。それで、1998年からキー合わせを始めたからこそ、出しづらい感じのメロとか、『ここは低すぎるな』とか、自分に合うキーがより分かるようになったんです。歌詞も『こういうことを歌いたい』というアイディアをこの頃からよく渡すようになりました」[540](YU-KI)
「小室さんとは音楽的には『全然違うフィールドだ』とは思わなかったんですよね。言わせてもらうと失礼になるかもしれませんが、彼は常に改革心というか、新しいモノ超大好き人間なんです。常に『次はこういうことにトライしよう』っていう感覚じゃないですか。それを武器にされているので個人的には『次に何をやるんだろうな』と興味を持ちながら常に気にして小室さんの後ろを追っていましたし、共通点は感じたんですよ。抵抗は全然なかったですね」「オケだけ聴いていたり、ピアノの音をミュートして聴いていたりすると、すごいコアなんですよね。そのままインストでクラブでかけても全然違和感のないような感じで。それにちょっとしたシンセのアレンジや、ピアノのフレーズ、ましてやボーカルが乗っかった時にはしっかりとしたポップで聞きやすくて入りやすい曲が出来上がりましたね。だから音を組み込んでいく時にこれは凄いなと感じましたよ。『コアなものを作って下さい』って言ったら、かなり突っ込んだコアなものもできると思いますね。ジャンルの音作りの流れを残しつつポピュラリティな部分に比率を置くのは『小室さんが初めてだな』という感じがします」[129]「リスナーの間で『ダンスミュージックを聴きたい』という受け入れる体制ができていて、『ダンスミュージックが特別な音楽じゃなくなっていた』と言う人が沢山いた。小室さんはその状況を他のプロデューサーやアーティストよりも早く読んでtrfのようなダンス・ポップスを投げかけたんだと思いますね。同時に日本で始めての音楽プロデューサーのシステムを作った点でもすごい人だと思いますよ」[541]「DJという仕事柄、ディスコシーンの移り変わりはよく知ってた。その中で小室さんのテクノはイタリアのユーロビートやジュリアナでかかっているようなものではなくて、1970年代後半のOMDやクラフトワークのように音の立ち上がりがしっかりしてた。それでいて、日本のマーケットに合うようなリズム体とメロディーラインを持った音楽だったので僕は『いけるな』って確信があったんです」「小室さんは踊りやすい音楽とはどういうものなのか、すごく知りたがっていましたね。例えばベース・キック・ハイハットの位置であったり、曲の流れであったりとか。ハウスはリズムだけで1〜2時間も踊らせるわけですから。TMでの8年間、日本でのマーケットをプロデューサー的な感覚で捉えて、その後ロンドンでレイヴを生活の中で体験している。その時点で小室さんはテレビやラジオ等一般のメディアで流れる音とダンスフロアでかかる音の違いを認識していたと思うんですよね」[542]「高い音から始まるキーの設定とか、サウンドとか、計算はなさってますね。例えば話しかけるような曲であれば、歌う側が精一杯無理して訴えかけるよりも、普段の言葉が伝わるテンションで歌を作るだろうし、ポジティブに元気を出して行こうって歌の時は、歌う方も無理してでも出そうっていう高いキーにしたり。ただ、小室さんはそういう説明はしないです。その部分は歌ってみて分かる」[464]「結果が見えるものは一切提案してこない」[543]「実は最初は偏見があったんです。僕は洋楽畑を歩いてきて、ニューヨークでレコーディングもしている。小室さんはTM・ポップスの人でアイドル的な人気でしたから、『俺たちの方がマニアックで深い』としょうもないプライドを持っていました。ところがレコーディングを見学した際にそれが自分の思い込みだと気付かされました。興味を持って質問すると、僕が聞いていること以上の非常にマニアックな部分まで突っ込んで考えた答えを返してくれる。音楽に対しての造詣が深いんです。その時に小室さんはMinimoogでベースの音色をいじっていたんです。『邦楽のアーティストでもここまで掘り下げて音作りをするんだ』って嬉しい驚きを感じました。これまで自分がやってきたこととすごく共通性があって、彼はさらにコアな部分で長けていました。彼が作業を続けていると、音色・楽曲以外でもさらに新しいものが生まれる。敵わないと思いましたね」[276]「小室さんはカラオケを『歌う人の楽しみから、みんなで盛り上がる空間にする』という意識で曲を作っていました。聴く方も乗れるようにテンポやリズムを前面に押し出したり、合いの手というか『さあ、いきますよ』というフックを意識的に入れ込んでいました」[544]「小室さんの曲ってピアノとかキーボードの弾き語りとか、コードで追っていって少しメロディを足すとすごくキレイに聴こえるでしょ。他のミュージシャンとちょっと違って、元々のコード展開を追うような作り方じゃなくて、左手はベースを押さえてて右手で独自のコード展開を作ってる」[545]「小室さんがいうヨーロッパのダンスミュージックは、DJがリードするスタイルだったので、DJの音楽作りや音楽性にすごく興味を持ってくれたのだと思います」「楽器の使い方がとてもマニアックでかなり専門的というか、まるで新しい楽器を作るような感覚でやっていて驚きました。既成の音をそのまま使うのではなく、自分で手を加えて正に『小室サウンド』と呼ばれている音をどんどん作っていきました。小室さんのスタジオには常に最新の楽器があったので、そこに一緒にいられるというのはすごくいい環境でした」「やっぱり今まで歌の作り方と違うところがあって、イントロが少なかったり、逆にイントロだけでつかんじゃう曲とか。globeの曲がまさにそうですよね。trfの場合はサビから始まる曲や、急にキーが上がる曲が多かったです。やっぱり小室さんの転調の仕方には、高揚感が増すような仕掛けがあるし、歌詞の話にもつながりますが、ポジティブな気持ちになる曲が多いです。逆にいうとボーカリストには試練の、難しい曲も多いと思います。歌詞に関してはダンスミュージックとしての日本語の歌詞という部分で、やっぱり言葉が印象的すぎたり、言葉だけが先にいくのではなくて即リズムに乗ってくる歌詞を散りばめている、そのチョイスが凄いと思いました。言葉のはめ方には無駄があってもいけないし、でもその無駄がいいニュアンスになったりもして、例えば最後に『○○だよね』とか、投げかけるようなかわいい言い方も、ニュアンスとしてすごく映えますよね。小室さんがキーワードにしていたのが『グルーヴ』と『ポジティブ』。それはtrfのアルバムタイトルにも反映されていて、歌詞もポジティブなものが多かったです。例えば『BOY MEETS GIRL』は『出会いというのは人生を前向きにしてくれる』ということを歌っていて、『そういう歌詞にすることで、trfの音楽がより伝わるようになる』と小室さんは仰っていました。これは後に小室さんが教えてくださったのですが、『流行りの言葉やニュアンスを入れるとその時のものだけになってしまうけれど、一人称や三人称を使うと何年経ってもその人の情景に当てはまっていく』と。小室さんは歌詞の中で『君』という言葉をよく使っていて、それを女性ボーカルのYU-KIに歌わせることでその投げかけがすごく新鮮に聴こえるからかなと思いました」[319]「TRFの曲はサビの前になると『サビが来ますよ~』っていう感じの音が入って、サビは必ずみんなで手を振ったり、掛け声をかけたり、初めて曲を聴く人や酔っ払っている人でも盛り上がれる形になっていて。みんなが主役になれるような楽曲を小室さんは考えていたみたいですね」[463]「音楽シーンにダンスミュージック・四つ打ち・安室奈美恵ちゃん、ayu、Beverlyの活躍へと広がる歌姫カルチャーを取り入れたことは小室さんの発明でした。この3要素が1990年代からつながるエイベックスらしさなのかもしれません」[131](DJ KOO)
「曲のサイズはどうしたらライヴの時のダンスが作りやすくなるのかとか、色々聞かれました。実際にはフェードアウトの曲が多くて結構困ったんですけど(笑)」[542](SAM)
「『その用途には、その機材でなければいけない』というのがないのが凄い。『メインの機材が止まったら別の機材で弾けばいい』と言うんです。アクシデントに慣れていて、ハートが強いのが小室さんの凄い所だと思っています」[337][325](岩佐俊秀)
「普遍的に元の音源の使い方が上手で、FM音源も彼の手にかかると幅が広がる」[438](志村明)
「小室さんの行動で一番驚いたのは作曲のペースである。2日に1度位の割合で新曲のデモテープが会社に届けられる。一体いつ寝ているのか不思議になってしまう」「『理解できない奴が悪い』『理解できないものを作った自分が悪い』この2つの考え方はアーティストの立場で考えると(全責任を本人が負うことができるならば)どちらも正しい考え方だ。ただ、小室さんの場合は明らかに後者の考え方をする人なのだろう。その結果『売れる』という現象が実際に起こっている。しかしそこには打算的な姿ではなく、シンセサイザーとコンピューターに囲まれて孤軍奮闘している機械好きの小室さんの姿しか僕には見えてこない」[546]「依頼される際、細かいリクエストはほとんど無く『全体としてどういう世界観にしたいか』をそこはかとなく伝えてくる。そこがピンポイントで攻撃するように注文してくる教授との違う所ですね(笑)」「かつてピンク・フロイドやU2がやった『8×10メートルの大画面で、映画館ではまず見れないシンプルな図形が映る映像』に続くスタイルへとトライする上でTKはパートナーとして最右翼になりえる1人」[547]「小室さんには僕と同じように、機械とインターフェイスを長く行っている内に、それと同期して何かが出てくる規を越えたような付き合い方と境地がある」「僕らの年代になると、アーティストはチームのプロデューサーに回るんですよ。プロデュース・ディレクションになって自分で何も作らなくなる。でも相変わらず小室さんと教授は鍵盤弾いて、作曲して、打ち込んで、徹夜して、ばんばん作るわけ。2人の共通点は物作りに対して真面目な態度をとっていて、いい意味で『わがまま』じゃないですか。わがままで『こうしたいんだ』と突然言ったりする。全て自分に返ってきても必死になって自分で間に合わせて作ったり、遅くまで演奏したり、そういう姿はすごく尊敬するし、勉強になった。『現役やるということはこういうことだ』と思った」[6](原田大三郎)
「とにかく若い女の子のファッションから化粧品まで良く知っているんです」「CMのプロデューサーやTVのディレクターの望む通りに作りながら、そこにきっちり自分のしたいことを全部入れている。これはすごいなと…」[366]「理由の無いことは言わない人なんです。『こう言ってる時には何かある』と思うので、何も考えずに行動します。物理的に無理なことは『無理ですよ』って言いますけどね。基本的にはそういう『突然の一番無理なオファーを幾度も受け入れてきたから、哲哉さんと付き合っているのだろう』と思いますよ」「僕は自分が良いと思ったものに対して『10人中7人くらいは良いと思ってくれるだろう』という自信があるんですよ。言い換えればミーハーですね。僕と哲哉さんはそういうミーハーな所で気が合ったんじゃないかな」「哲哉さんと一緒にクラブに行った時にDJが回してる曲を哲哉さんが耳にして『この曲、リズムが気持ち悪いよ』と言い始めたんです。そして、なんと彼は本当に気分が悪くなって吐いてしまったんですよ。だから哲哉さんの音楽って耳が肥えた人が聴いても満足できるような繊細で完璧な音作りなんですよ。つまり、分かりやすい部分と複雑な部分が絶妙なバランスで存在している。だからマニアックでアンダーグラウンドな方面の同業者にもバカにできないように仕上がっています」[548]「何故売れるのか、何故ウケるのか、何故マーケットに定着したのかと言えば、これは本人も言ってることですが、マーケットを意識した作品作りをしているということが最大の原因だと思います。自分のオリジナリティを入れながらも、マーケットが何を求めているのかを敏感に察知して作っていく。例えばカラオケに行っても、皆で盛り上がる曲が中々ない。だったら皆で盛り上がる曲を作ればウケるんじゃないかというように。ある意味『洗脳』と呼べるかもしれませんが、小室ブランドが定着すれば、後は彼が何をしようと肯定的に受け入れられる。実際彼はダンスミュージックから始まったわけですが、ロック的なテイストでも小室ブランドとして受け入れられるようになった」[83]「僕は小室さんが昔から引き際を大切に考えてきたことを知っている。仕事のペースを落とし、時々曲を発表して『そういう人もいたな』と思い出される。そんな音楽家ではありたくないという美意識を知っている」[390](松浦勝人)
「小室さんは大ヒットするサビを知っている方だ。歌詞は耳に残るだけではなくてメッセージ性があって、言葉が胸に響くものが多いなと感じました」[549](篠原涼子)
「小室さんの詞を見ると特徴がありますよね。言葉と言葉を敢えてつなげようとしない書き方とか、時々あるじゃないですか。私の詩も『普通じゃない』って自信がありますけど、小室さん自身も普通にしない方だと思うんですよ」[550](hitomi)
「すぐ耳に入ってくるけど、高い声が出るか出ないかで難しさが違ってくる」[551]「小室さんの作る曲はいつもキーが高いんですよ。1枚目の時もテレビの収録終わった後で、スタジオの隅にシンセ持ってきて『アー』とか歌わされて、音域どこまで出るか調べたんですね。『なるほどね』と言って、そのまま帰っていった。その後出来てくる歌が、みんなオレの出せる音程の『ギリギリ』なんですよ。歌っていて苦しい」[552](浜田雅功)
「小室さんが手がけるアーティストはどれも型に嵌っていない人ばかりだから、歌詞でも冒険ができる」[553](前田たかひろ)
「小室さんは、1対1で居るときは本当に音楽が大好きなお兄さんですよね。2人でずっと洋楽の話とか『あのアルバム良かったよね』とか『あのイントロは…』『あのギターが…』『この録音方法は…』とかコアな話ばっかりしてました。根本からして純粋に『音楽で世の中のみんなを驚かせて、喜ばせたい』と思ってる人です」[461](伊東宏晃)
「具体的に『こうして下さい』とは小室さんは絶対に言わないんです。いつもヒントだけ。そうやって自分なりの解釈をさせてくれるんです」[253]「彼が一番目指しているのは『もっと日本の音楽を面白くしたい』『人を驚かせたい』という所だと思うんです。まず私やマークに対して突然ビックリするようなことをやって、こっちが驚く顔を見ては大喜びしてますから」[554](KEIKO)
「先生が言うのはいつもヒントなんです。『絶対にこうしなさい』という言い方は全然ないですね。だからヒントを自分なりに一生懸命考えるのが第一歩」[555]「何も決まってない所から何かができてしまう」「どこで辛そうにするか、どこで楽しく思うか、どこで涙するか等の感情表現が分かっている」「楽曲だけではなく、そのアーティスト毎に合った環境を作ることができるプロデューサー」[556]「カジノで大勝している時に止めるのと同じくらい、人気が続く中での引退はアーティストにとって難しい。それができたのが安室ちゃんで、夢を追い続けたのが小室さん。どちらが失敗ということもない。僕と小室さんの2人でクラブでDJ活動を行っていた2015~2016年だって楽しそうにしてましたしね」[424](マーク・パンサー)
「『詞はちょっと時間がかかるけど、曲は1,2日で大丈夫だよ』って言うんです。小室さんの頭の中を見てみたい。きっと音符でいっぱいなんじゃないかな」[557]「小室さんの曲って覚えやすいし、歌いやすいから、全体的に曲が私自身を上手く引き出してくれたのかもしれない」[558]「小室さんの曲は本当に歌いやすいんですよ。音もノリやすいし。曲自体は『不思議な曲だな』って思うんですけど、歌はすんなり入っていけると思う。ユーロビートの方が難しいんですよ」「小室さん率いる制作チームの方々はレコーディングの時のノリを重視する感じで、あまり何回も歌い直したりしないんです」[464]「小室さんの作った歌を歌う以前と歌うようになってからとでは、小室さんの作る曲に対するイメージは変わりましたね。『THE夜もヒッパレ』で小室さんが他の方に書いた曲を歌った時に『すごく難しいな』って思ったんですよね。それに小室さんの曲を歌う人って『歌が上手いとか、何かを持っている人じゃないと歌えないのかな』って思ってたんです。でも実際に自分に書いてくれた曲を自分で歌うと、すごく歌いやすい曲なんですよね。小室さんは『無理して歌わそう』というんじゃなくて、『その人に合った曲しか書かない』っていうか、提供する人の個性を考えて、ぴったりと来る歌いやすい曲を作ってくれるんですよね。そういう意味では『私に作って下さったこれまでの曲は、私にしか歌えない曲』だと思うんですよ。『やっぱり安室じゃないとこの曲はダメだよな』っていうね。だから小室さんって『こういう曲を書く人なんだな、歌いやすくていい曲ばかりだな』と思いました」[559]「自分の想像以上に自分が歌いたくてしょうがなくなる程の曲を仕上げてくれる」[560]「小室さんの仮歌って、ラップと歌メロの中間みたいなのが多いんですよ(笑)。いろんな解釈ができるので、曲に慣れて自分のものにするまでが大変でした」[561]「歌詞に関してはインタビューみたいに、小室さんが色々質問するんですよ。それを通して私の気持ちを分かってくれる理解者ですね。それらを小室さんなりにアレンジして作品を作ってくれる。自分ではうまくいえなかったりしたことや、こうなればいいなっていう理想を歌にしてくれるんですよ」[562]「仕事は一緒にしてきたけど、1対1でじっくり話したことはそんなになくて。ただ一旦話し込むと小室さんは『こういうの安室ちゃんに似合うかな』『こういうのはどうだろう』って考えてビックリするような曲を描いてくれて。それを聴いた私も『こういう踊り方にします』『衣装はこうしてください』と色々考えて話してました。お互いを探り合いながらも、楽しく喋り合っていましたね」[563]「小室さんの書く詞ってすごく好きなんですよ。よく『女の人の気持ちが分かってるなぁ』って感心するし、『今私が何に興味を持っているのか?』とか、コミュニケーションを大切にしてくれてるんです」[564]「小室さんの曲はどれも歌いやすかった。歌いながら自分が踊っている姿が想像できる曲だったから。『歌ってて辛い』ということが一つも無かったです」[注釈 85][565](安室奈美恵)
「『小室さんあっての華原さん』の世間の声は本当のことです。小室さんがいないと私は歌を出せないんですから。10の内11が小室さんの力だと思っています。私の歌声・高音も、自分の意思で出してるものじゃなくて、小室さんが引き出してくれるものだから、今までの曲も『私、いつこんな声出したんだろう』と不思議に思うんです。『どんなコンセプトで作って、どういう売り出し方をするか』は小室さんが考えることで、私はどれだけ素直にきちんと伝えられるかシンガーとして勝負します」[566]「1度オケに合わせて、私が仮歌を歌う。そうすると歌の雰囲気によって、小室さんには全く別のアイディアが湧いて、サウンドが変わったりするんです。だから一瞬たりとも見逃せなくて、トイレにも行けないですね」[567](華原朋美)
「当時は小室哲哉というと商業的ってイメージ持つ人多かったけど、商業的なのは小室哲哉をマネタイズしてた人達で、実際の小室さんは俺が仕事した中でも1番ロマンティストでガイダンスやストーリーを大事にしてて、『気分が乗らない事はいくらお金になろうが出来ない』って、アーティストを絵に描いたような人だった」[568](nisi-p)
「TKと僕だけなんだよ、北京のコンサートがソールドアウトになった海外のアーティストは」[569]「彼は僕と同じように自分の仕事に対してとても謙虚な態度で向き合っていると感じた。ショービジネス的な派手な所は一つもない。感性と人間性の豊かな一人の人間がそこにいるだけだ。ずっと続くアーティストというのはそうでなくちゃいけない。一緒に仕事する上でも、これはとても大切なことなんだ」「曲の作り方が同じかどうかは分からないけど、一つだけ同じ所がある。それはTKが『日本の若者にとっての新しい音楽のアイデンティティを作った』ってことなんだ。僕も音楽活動を始めたばかりの頃は、そういうものを作りたくて必死になっていた。多分僕らは『これから音楽を始める若い人達に大きな影響を与えるだろう』という点で共通していると思う」[470]「インターナショナルと言われる音楽家には自分のルーツを忘れている人が多いが、小室は自分のルーツを大事にし、さらに世界のスタンダードになりうる音楽を作っている。真にユニバーサルな音楽家だと思う」[570]「とてもユニークで、ポピュラーな音楽も、切れ味の鋭い最先端の音も作る」「僕ら二人の共通点として、常に楽曲に実験的要素を盛り込むと同時に、ポピュラーミュージックのメロディの構造がどんなものかも分かろうとするし、両方を尊重する所」[571]「コムロは現在の日本を代表するミュージシャンで、エモーションに現代性を、メロディーにアバンギャルドを見事に調和させている」[572](ジャン・ミッシェル・ジャール)
「自分で仮歌をデモテープに入れて下さるので、その通りに歌えばいいんです」[573](tohko)
「好きな曲は『survival dAnce 〜no no cry more〜』『寒い夜だから…』『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』」「TKの曲ってね、みんなあのダンス・ビート等のアプローチに惑わされやすいけど、本当は生アコギ1本で弾いても楽しめるくらい、すごく人間的で感情的なメロディなの。そこにみんな気付かないかもしれないけど」「厳密に作家性が掘り下げられていて、聴いた曲自体で『確かにあの人のメロディだけど、歌っているのは誰だ?』『何か今までの世界観と違うよな』ってクレジットを確認すると、他の人が担当していたりしていた等、衝撃なりショックがないといやなのね。で、TKとエリック・クラプトンって正しく作家性とテイストの広げ方で勝負してるじゃない。組むならそういう人間の方が好き」[574]「TKは非常に獣的なんですよ。直感を信じてる人でね。色んなことを2人で話すんだけど『お互いの音楽のルールとかテイストを確かめ合う』っていうよりは、ほとんどどうでもいいような話ばかり。『最近どんな音楽聴いてるんですか』ってことすら話さないもん」[575]「TKはギタリストに彼が求めること・ギタリストのやりたいことを全部やらせる。それを聞いて、方針を固めていく」[576](甲斐よしひろ)
「TKの作り出す楽曲はリズムが不規則なんですが、その不規則な音に合わせて(踊りを)ヒットさせるとすごく格好良くなるんです」[123](Asami)
「小室さんの曲は、いつも次々と高いハードルを挑戦的に課し続ける感じでくるから、私も『こんな感じで』って歌で返すので鍛えられてます(笑)」「全然お話しとかしてないのに、歌詞が出来てくるとびっくりするくらい自分に近かったりするんですよ。何か、ほとんど会わなくてもいつでも見られている気がするくらい(笑)。その中でいつもちょっとずつ違うことも与えてくれて、色んな新しい所を見つけてもらっている気がしますね。私も同じことを繰り返すのはつまんないし、『こんなのもできるんだ』っていうのが増えていくのは嬉しい」[577]「小室さんからのアドバイスは『ライブで歌うように元気に歌って』と言う位。あまり細かいことは言われませんでした」[454](鈴木亜美)
「『なんかの修行ですか』と聞きたいくらい、先生の楽曲達は1曲の長さがまず半端なく長い&そしてキーめっちゃ高い&転調大会!!先生っ、喉ちぎれそうです(笑)!!でもやっぱりメロディが最高なんだなー。だからキー下げたりとかしたくないってか、むしろ上げてみたいんだなー。だってこの限界ギリギリで歌っているときが小室さんのメロディが一番美しく響く瞬間なんだよなー」[578](浜崎あゆみ)
「どういうミキシングにしたいのか、どこをどういう風に変えたいのかということが明確に指示できるアーティストだった」[11](スティーヴ・ナイ)
「彼の曲は洋楽のようにリフ的な部分やフック的な部分が他の人よりも明確にあるんです。しかも日本語がちゃんと乗るんですよね。フックの部分が英語だったりすると格好悪くなったりするんですが、ちゃんと買う方達が口ずさみ、覚えることのできるフックなんですよね、彼の場合」[11](清水信之)
「小室さんの影響で邦楽の低音域を拡張されたことによって日本向けだからと遠慮する必要がなくなった[339]。やっと日本も歌謡曲的ミックスから脱却した[299]」[注釈 86](GOH HOTODA)
「YMOや小室哲哉さんがいなかったらシンセサイザーは今でも高級機材だった。彼らがシンセサイザーをポピュラーな存在にしたわけだし。彼らが出てこなかったらシンセサイザーの機能自体も今ほどクオリティが高くはならなかった」[129](石野卓球)
「僕のデモテープを哲ちゃんに聞いてもらったことがあるけど、その段階で僕が音源に込めた理屈では説明できないパワーを感じ取った上で判断してくれる。そのときに『頭の中に描いている音に近づける方法として、何が最短距離なのか、一番大事なのか』を教えてもらったことに感謝してますよ」[579]「小室哲哉という存在の独自性・過敏性には驚いたけど、共感も持てましたね。彼はアーティストとしてスポットライトを浴びている者だからこそのプロデュース感覚・ビジネス感覚・音楽に対する敏感な感覚だとかを併せ持った人だと思います。アーティスト主義型だとどうしてもマニアックな世界に走りがちなのに、そうならないでビジネス的にも成功を収めたという点では『伝説を作った』と言ってもいいんじゃないでしょうか。テッちゃんの場合は公言したことについては必ず結果を出してきてるでしょ。しかもマーケティング・マーチャンダイジングにしても、自分のセオリーに沿って行動している印象が強いですね。『どうしたいか』という結果から全てを逆算して行動し、必ず予定に近い結果を出しているのが彼の凄さだと思います。アーティストがこの世界で10年間もサバイバルしてきて、音楽も世の中にある程度認知されてくると、自分程自分が見えている人間は他にいなくなるんですよ。『何をすべきか、どうするべきか』は自分自身で決める以外ないと思う。その点でも彼は先達ですね。色々な局面で賛否両論あっただろうけど、結果を出し続けた彼は歴史として残っていくと思います。でも不思議なもので、僕とテッちゃんが2人でいると『アーティスト同士』という言葉から想像されるようなピリピリした空気はないですけどね。小坂洋二さんとの関係の中で、兄弟みたいな部分もあったからでしょうね。『ロマンス』や『あいたい』『返信』のように、僕の曲をテッちゃんにアレンジしてもらう時は、2人で一緒に絵を描く感覚でやってます。だから、平均点を狙うようなことはしないですね。彼の中にも自分の曲を作る時、他のアーティストのプロデュースをする時とは違う大江千里とやる時のスタンスが明確にあるみたいです。身近だけど遠い存在、それが僕にとっての小室哲哉です」[580](大江千里)
「小室君は日本人の耳・メロディライン・転調・アレンジ・リズム感・ビート感を教育しちゃった。だから『それに引っ掛かるようなパターンを出すと、必ず売れる』というヒット曲の方程式を確立した」[注釈 87][488][581]「小室君はYMOがテクノロジーを実験してそこで得た機材・音色等の財産を利用しながら分かりやすいメロディを窓口にして大衆とコミュニケートしている。小学生・中学生・高校生が求める気持ち良い歌詞・メロディを作り上げるのが物凄く上手いけど、リスナー層が15歳位になって、そこが音楽産業のコアになってしまう」[215][注釈 88]「小室さんを批評する人は『パターンだけで作っている人』と言う。そういう面もあるんだけど、一見当たり前のコード進行を持ってきても必ず小室さんの楽曲になっている。しかも単に小室さんの個性が出ているのではなくて、誰が聞いても本当に入ってしまう。それは知恵・技術だけではなくて、才能なんです。そういう才能は僕にはないですよ」[582]「100万枚売ってほしいと依頼されたらちゃんとその通りの曲を書く所がすごい。これは常人には真似できない特殊な才能」[583](坂本龍一)
「小室さんは基本的にリズムの人だと思うな。僕は日本では駄目だと思ったけど、日本にジャングルを持ち込んで大ヒットさせたじゃない?普通あの曲はあのリズムにしない。サウンドだけでなく、サラリーマン等の気持ちを含めて、トータルで考えているね」[584](ケラリーノ・サンドロヴィッチ)
「替え歌の企画には快諾させて頂きました。『パロディも文化だ』と認識している」「反復性があるから何度耳にしても自然」[290](嘉門達夫)
「『今一番売れるのはこれだ』というように分析して、模範的な楽曲を作っている」[290](宮川泰)
「『何をやったらウケるか』じゃなくて、『何をやったらウケないか』を誰よりも知っている」[290]「『どんな客層が買うのか、需要がどれだけあるのか』が完全に計算された音楽。彼は芸術家というより企業家のような発想で成功しているが、楽曲の構成がパターン化していて、才能的にもすごいと思う所はない」[450]「音楽的な見地から言っても、ユーミンやドリカム、ミスチル、スピッツらはコード進行の点では面白いものがある。それが小室さんの場合は少し異質で、曲がなくて、リズムだから希薄で妙な感じがします。センスが良いから音楽的に低級とは言えませんが、ハーモニーやメロディに依存していないので、ドラマ性がない。またサザンのように、音楽的歴史を感じさせるものもない。安室だって、沖縄や黒人音楽のルーツを引きずっていない。だから『何か訴えたいという熱っぽさがない』と非難されるのでは」「小室サウンドはジャンクフード。そのココロは、ポテトチップスやコーラは何万個売れようが不思議はないですが、栄養はないし、採り過ぎは体に悪い。いくら青少年に売れても、ビートルズのように後世の若者を刺激することもないし、文化としても残らない。小室さんは音楽をやっているというより、薬の調合をしているという感じ。芸術家というよりも興行師。興行は否定しませんが、その後の荒野が怖い」「小室さんの活躍はまだ2,3年。これから何か大失敗して今まで足りなかったものを取り入れた時、漫画で言えば手塚治虫のように、後継者を育て、外国にも認められる『偉大な音楽家』となりうる可能性があるのではないでしょうか」[585](吉松隆)
「小室さんの影響力が強すぎたから、みんなが画一的な路線を狙ったんだと思う。『音楽に対する意識がマインドコントロールみたいでつまらない』と今の邦楽に興味を感じなくなった。1,2曲目と楽曲をヒットさせた時は大丈夫だと思っていた。3,4,5人目と新しい別のアーティストが出てくる度に『シカゴのように尊敬に値するマンネリズムとは違うのではないか』と思ったんです」「シンコペーションを多様し過ぎている気がします。歌い手がダンス系の楽曲を歌っていても、詩を追っているのではなく、呪文のように字面を追っているだけの気がする。ファンは『意味は分からないけどそれを歌っていれば楽しい』とストレス発散の道具にしてしまった」「安室奈美恵ちゃんのだけは小室さんの作品というよりは、一生懸命自分の歌にしようとしている感じがして好きだった」「やっぱりみんな知っておかないと不安なんでしょう。それは昔からの日本人気質だと思います。ある髪型が流行ったら、みんなそうしちゃうみたいな感覚でしかないと思う。そういう意味ではプロダクツとしては大成功かもしれませんね。でもそれはルービックキューブみたいなもの。オセロやチェスのような普遍的な流行にはならない」「僕が小室さんの『TK MUSIC CLAMP』に出させてもらった時、あの人のことが何となく分かったような気がした。彼が『槇原君がキーボードで曲を作る人だということが分かるのが大事だったんだよね』って(笑)。それは誰が見たって分かると思うんです。『そういう切り口で僕の音楽を見ていたのか』と話してて残念な気持ちになりました」[586](槇原敬之)
「小室さんは最初にCMありきの方が曲が書きやすいはずです。なぜなら、訴えるべきターゲットがハッキリしているから。彼は市場がないと曲を書けない一種の職人ですから。テレビドラマよりもターゲットを絞り込みやすいCMの方がヒットが出やすいというのは頷ける所でしょう」[586](吉江一男)
「音楽を聴きたいと思っている若者へ、最短距離で届ける才覚とセンスの持ち主です。しかし、記憶には残らないと思います。これは小室さんだけの問題ではなくて、聴く側も歌い手の何かを与えてくれるような訴えに期待していないという問題がある」[587](阿久悠)
「ピンク・レディーのプロデュースのコンセプトは、基本的には阿久悠さんが考えていたと思いますね。だから、小室君は当時の都倉俊一や筒美京平を彷彿させるんですよ」[588](酒井政利)
「小室さんの何十億の印税はほとんどが作詞・作曲による著作権収入なんですよね。だから『プロデューサーの時代』なんて、これからもありえないと思います」[588](佐久間正英)
「彼が早稲田の学生の頃からスタッフ共々縁があって、RVCに来るか来ないかの話もあった。その時、我々の目から見ると、ハッキリいってプレイヤーとしてはあまりグレードが高くなかった。彼の場合は僕から見れば、テクノ・エイジ。1980年代中期から、音楽家が音楽をやらない時代が始まった。例えば、シンセサイザーのオペレーターというのは、自分では演奏しないけど、データ上で音楽を製造できるわけでしょ?演奏力は問われない。『頭の中の音を手ではなくデータとして機械に叩き込むことによって、それで音楽が製造できる』という時代の丁度入り口の人。だから今でも生ピアノより、完全にシンセでしょ。頭のいい人だから、自分の得手不得手を展開していくと、この路線になるのは必然だと思う」「たまたま『PERFORMANCE '84-'85』と『ELECTRIC PROPHET』が並行していて、たまたま同じホテルに泊まった時、女子中学生の騒がれ方が何百人の単位で違っていた。1984年のことだけど、未だに僕は鮮明に覚えている」「非常に通俗で下世話だけど、現代美術的な衣装の着け方・自分のプレイヤーとしてのポテンシャルと限界を良い意味で自覚している。『自分のミュージシャンとしてのアイデンティティを、どこのベクトルで展開させるのが自分にとって一番いいか』っていうことをこの人が真面目に考えてやったら、こうなるのは自然だから。そういう意味では小室哲哉っていう個人的なスケールはこれで間違っていない。だけど、プロデューサーとしては今の時代に『これはこういう曲にして…この子はこういう路線にして…テレビでオーディションやって、この子をピックアップして…』とまで考えて、彼が個人で全部やってるなんて全然思ってないけどね。僕に限らず、みんなそうでしょ。そんな甘いもんじゃないからね」「誰も小室君がここまでなるとは思わなくて、彼自身もそんなことは思ってなかったと思う。だけど音楽シーンって、ほとんどそういう偶然っていうより交通事故がほとんど」[589](山下達郎)
「外人に小室さんの音楽を聴かせたら、歌謡曲とロックの区別がつかないと思う。安室はトータル的にいうと歌謡曲だよね。でもサウンドはglobeと同じ。そうするとglobeも歌謡曲になっちゃう。そこから、歌謡曲らしさはタレントの存在の仕方にも関係しているのがわかる」[590]「TKファミリーの人達は最初から歌の上手い人しかいない。だから僕が作品を他人に提供する場合は、そんな世の中に逆行する形で、おニャン子クラブの要領で事前に細かいコンセプトを立てずにいきなり白い画用紙に向かうように作品を作って、出来上がった作品を見て『今の自分は何を言いたいのか』を作品から学ぶようにしている。『僕が提供相手・共作者とみんなで遊んでいる感じ』『簡単で誰もが歌えるもの』を目指している」[591](藤井フミヤ)
「小室さんの中でもジャングルは素晴らしいんですよ。でも正直な所、よくあんなに次から次へと曲作るなと思いますね。すごいですね。作ろうと思ってもできないですもんね、常人では」[552](奥田民生)
「TMとしての小室さんの方が肩の力を抜いていて、プロデュースしている女の子達といるより、顔の感じが優しい」「1曲1曲に対する集中力・速さ・愛情が薄い」[592](石井竜也)
「僕がどこかの商店街で、ようやく2号店を出した位だとしたら、小室さんは大型デパートみたいなもの。世界が違いますよ」[33](つんく♂)
「小室哲哉さんは、今のプロデューサーブームともいうべき状況を作った立役者。サウンドプロデュースに留まらず、ビジュアルイメージや活動方法に至るまで監修するオールラウンドプレーヤーで、しかも経営者としてのセンスも備えている」「手掛けたCDのセールスやコンサートの収益等の金額でランキングするとしたら、1位は間違いなく小室さん。それも2位以下に桁違いの大差をつけて」「『オヤジのものだったカラオケという文化を、若い子が楽しむものへとシフトした上でメガヒットさせた』といった彼の功績は非常に大きい。色々な意味でパイオニアなんです」[593]「R&Bブームに直結する土壌を作った人は小室哲哉さんだと考えています。『音楽で人を踊らせたい』という意向を強くお持ちでしたから。もちろんR&Bにもダンスミュージックという要素は多分にありますよ。小室さんのプロデュース作品が大ヒットしたのは、アナログ盤に代わってCDが普及し、CDラジカセで比較的安価に音楽を楽しめるようになって以降。そんなタイミングで同じ色合いの楽曲を量産したのが彼です。同じトーン&マナーの楽曲を短期間に大量露出するとリスナーの陶酔状態を生み出すということを証明しました」「『プロデューサー』という存在を一般的に知らしめたと思います。アーティスト名に『with t.komuro』を付けることで、『小室哲哉プレゼンツ○○』という見せ方を示したんですよね。作り手の存在が歌い手と等価、もしくはそれ以上に楽曲のファクターとして大きくなった。プロデューサーの名前が作品の成分表示のような役割を得たわけです」[594](松尾潔)
「あれだけいい音楽を作っていたのに。信じられない。人をだます気持ちがあれば、一般大衆に向けた曲など作れないはずだから」[595]「小室さんのテクノには独特な世界があり、息もつかせぬそのテンポ感がすごい。日本が生んだ才人です」[596][597]「すごいスピード感と生命力、それに哀愁もある」[注釈 89](冨田勲)
「彼は斬新な作曲方法で一世を風靡しました。それは、過去に自分の作った曲を継ぎ接ぎにして、あっと驚くようなコード進行やサウンドを創り出すことでした。自分の曲に対するプライドが薄いなあ、と感じられますね」[598](玉木宏樹)
「昔は入って行けなかった領域にも、コンピューターを使ってどんどん入って作っていく。本当に奥行きが深い」[599](森進一)
「彼の曲全てに共通して言えることは、グローバルな雰囲気があるということ。どんな国の人であっても言語の壁を越えてアピールできるんだ」「TKの音楽はいつもアレンジがよく練られていて、ミックスしていて面白いんだ。初めて彼の曲を聴くと、その録音状態で十分に彼の描いているビジョンが読み取れるよ。『依頼された曲をどのように提示すべきか』なんてことを推測するようなことを僕はしない。曲自体が自然と導いてくれるものだし、そう思わせてくれる彼こそ名プロデューサーなんだ」[347](デイヴ・ウェイ)
「コードの解釈がすごく独特なのに、明るい響きであり、踊りながら歌うのにピッタリ」[600]「彼は天才だと思います。多くのプロデューサーは曲を磨いてより良い楽曲にするけど、自分の持ち味を必ず入れて聴いたときにプロデューサーが誰か分かる楽曲を作れるのはとてもすごいこと」[96](マーティ・フリードマン)
「Music Master of Japan!」[601](アフロジャック)
「女性目線の歌詞の距離感がすごく好きで、自分もそういうふうに書きたいなっていう意識はあります」「小室さんは打ち込み屋だから対旋律が好きで、例えばストリングスのメロディがたぶん好きなんだと思うんですよ。俺らの世代が聴いてきた音楽って、ストリングスやギターのメロディに秀逸なものが多かった。小室さんはそれを主旋律に持ってくることで新しい音楽を作ったんだよね」[602](中村正人)
「色んな若いバンドに『なぜ君たちはこんなにも四つ打ちが好きなんだ』と訊いてみた。すると『1990年代、つまり小室哲哉さんのサウンドが流行った時代を小学生、中学生として当たり前に過ごして、四つ打ちのリズムが染みついている』という理由に辿り着き、『そういうダンスミュージックをロックバンドに取り入れたらどうなるかやってみようぜ』という意図的なものから四つ打ちが浸透し出して、その結果BUMP OF CHICKENの『天体観測』・チャットモンチーの『シャングリラ』・SCANDALの『夜明けの流星群』を代表とした現在の潮流が生まれた」[603]「小室さんの転調は楽曲の世界観を何回も変え、ボーカリストのおいしい潜在能力(主にハイトーンボイス)を常に120%キープして使い切ってインパクトを出すという手法です。それを90年代に沢山の楽曲にふりかけて以降も重宝されるテクニックとなりました」[604][605](亀田誠治)
「小坂洋二さんに誘われて、小室さんとはどちらが渡辺美里さんのシングルのA面になるかを競い合いました。大抵僕が負けていましたが、それが大きな刺激になりました」「歌詞には正直びっくりしました。自分の言いたいことではなく、まるで誰かが憑依したように書かれるじゃないですか。ダンスミュージックってグルーヴがあるから普通は英語を入れたくなるけど、英語に逃げずサビで日本語を物凄く入れてくる。だから切ないもの、取り戻せないもの、失われていくものに対する言い知れぬ郷愁、その先のメッセージが強く伝わる」「小室さんの凄さは『売る』ことに拘った所なんです。良質な曲をCD全盛期に一番売った。他の人が『自分らしさ』を第一に音楽活動をしていた頃に、小室さんは社会の声、特に若者の心に寄り添った上でメッセージを発信して売る。しかも元々マニアックなクラブミュージックを小室さんが『こうすれば日本人にも馴染みやすい』と咀嚼して広めるのがとても上手な音楽カルチャーの紹介者でもありました。そんなアーティストはあまり他には思い浮かばないです」[30](岡村靖幸)
「V2のレコーディングの時、時間があるとアレンジのことや、シンクラヴィアのこと等を詳しく教えてくれまして。その時たまたま小室さんの音楽にそっくりなアレンジの曲が流行っていたので、雑談をしていた際小室さんに『あんなに似ていて大丈夫なんですか?怒らないんですか?』と尋ねたんですね。そうしたら小室さんは優しく『ほんと、似てるよね』と笑うだけで。それがとてもカッコよかったんです」[606][607](津田直士)
「玉置浩二さんの楽曲は短い曲が多くて、言葉数が少ない。逆に小室哲哉さんの楽曲は音数が多かった。この2人は僕の中では両極端でしたね。それぞれに面白さと大変さがありますね」[608](松井五郎)
「本当にいい曲を書いて、詞もすごく繊細でビビッドな歌ばかり。それだけに感性が鋭すぎる、傷つきやすい人なのかもしれない」[609](松任谷由実)
「小室さんは異様なほどに若者の気持ちが分かる人だった。それはクラブでのイベントに実際に足を運んでいたことも大きいと思います」「小室さんは本質的には一般受けするポピュラーなものが好きな人だと思いますが、YMOの作品でも『BGM』が好きだったり、ジャングルというマニアックな音楽にも反応したりと、興味の幅・視野がとても広い」[610](サエキけんぞう)
「小室哲哉は日本においてYMOが行ったDTMの革命の手法をそのままダンスに取り入れ、成功させました。そのサウンドのベースは、コンピューター制御されたシンセサイザーのサウンド。デジタルベースでのミックスダウンとマスタリングは、アナログ中心で制作された他社の音源とは明らかに違っていました」「聴いていて一つ思うことがありました。それは、ボーカリストの適正キーに対して、高い音程を選んでいるのではないかということです。つまり、私ならあと1音下のキーで歌手に歌わせるのに、小室哲哉はわざとキーを高く設定していると感じていました。キーの設定は重要です。高いキーに設定すると、サウンド的には緊張感が出て洋楽的な感じがするのですが、ボーカリストにとっては厳しい状況になります。特に職業ボーカリストは、365日歌わなければならないので、体調がいい時もあれば、悪い時もある。女性ボーカリストは、月1回の生理もあり、その時は音程のコントロールが難しくなり、もちろん高いキーも出にくくなります。そういう事情から、プロデューサーがこのキーがベストと思っていても、レコーディングでは『あと半音下げた方がいいのでは』というマネージャーもおり、キーの設定は複雑です。ところが小室哲哉はガンガン高いキーで録音している。『あれは何なのだろう』と疑問に思っていました。ある日原宿の街を歩いているとき、背後から女子高校生達が何やらペチャクチャ話しながら私の方に近づいて来た時のことです。『どこかで聞いたことがある、そうだ、小室哲哉の指定した高いキーと同じだ!』とその疑問が氷解しました。小室哲哉は『女子高校生達が興奮して話す高いペチャクチャをダンスビートに乗せる』という意図で楽曲を制作していたのではないか。小室の制作するサウンドとダンスミュージックを、女子高校生達は自分達の代弁者として受け取ったのではないでしょうか」「小室哲哉のダンスミュージックが日本を席巻した背景には、当時新興のレコード会社だったエイベックスの存在も大きかったと思います。通常、1曲がレコード会社を通して発売されるには、『制作の人間がいて、営業がいて、編成会議を通して、やっと発売にこぎ着ける』という流れがあります。制作の人間が若くて20代でも、部長は40代だったり、最後の編成会議でGOを出す制作の取締役は60代だったりするのです。ところがエイベックスは、若い社長や制作部長が一連の流れを取り仕切って発売していたため、購入層である女子高校生との年齢的な感覚の差が少なかったといえます。女子高校生のペチャクチャをダンスビートに乗せるという『発明』は、小室哲哉の新しいアプローチでした」「小室哲哉の音楽で新しかったことは色々ありますが、その一つが特徴あるスケール感覚のメロディでしょう。ブルー・ノート・スケールは、それまでのJ-POPの中ではあまり使われないテクニックだったのですが、彼の登場以降、積極的に使われ始めました。ロックやR&Bの要素が強いスケールなので、研究してみる価値は十分あります」[611](羽島亨)
「皆でノレる曲が生まれ、分かりやすい曲を作ったのが小室哲哉の功績。さらにキーが高いと必死に歌うと歌手のような気持ちになれる」「小室哲哉はよく3・3・1のメロディーを使うと答え、そこにダンスビートを合わせ明確にしたのが小室哲哉だ」「小室哲哉は以前『歌手の出しやすい声で曲を作っている』と言っていた。それ事態がスゴいことで今までは楽曲ありきだったが、小室哲哉はその人の声の質を分析している」[612](本間昭光)
「小室さんの凄さは納期を守ることですよ。CDといえども市場が一つの商品に対して本当に成熟しているのは、1週間〜10日間と言われています。しかもピークはその3日目辺り。ジャスト・イン・タイムで小室さんは市場が成熟した頂点で商品を供給できて流通させて、市場を限りなく膨張させている所が流石です」[70][613][注釈 90](石坂敬一)
「古典的なアーティストは、自分の作りたい作品を作る。そしてそれを誰かに歌わせる。ところが貴方の場合は、一般の人達がどういう作品を好むのかを先によく調べ、作品にぴったりの条件を持ったアーティストを徹底的に探す。今までそれだけのことを考えて実行に移したプロデューサーはいない。だから、僕は貴方のことをこの経営塾のフォーラムで経営の教科書だと言ったんです」[27](野田一夫)
「小室さんは非常に親しみやすいメロディでダンスミュージックというものを無理のない形でヒットさせていると思うんですよ」[615]「これまで日本のポップスシーンにはダンスミュージックというジャンルが欠落していました。そうした隙間に、小室さんはユーロビートのダンスミュージックを日本の若者が好むように味付けして持ち込んだ。これがウケたのです。またこれまでのプロデューサーの多くが、『まずタレントがいて、そのタレントのためにどういう曲を作ろうか』という発想でした。しかし、小室さんはその逆。『曲が先に合って、これを旬である誰に歌わせるのか』という手法をとった。その詩や曲は孤独感を嫌うヤングの心性に巧みに入り込んだものです。『群衆の中の孤独な自分探し』といったテーマの詩や曲が若者の心をしっかりと捉えたのです」[27](小池聰行)
「若者を引き付ける力を持っていて、ビジネス感覚のある人だと思いました。夜型人間でアルコールの方もそこそこ強い方でしたね」[27](折口雅博)
「鑑賞するより参加するものになったカラオケ市場に焦点を合わせ、メロディを高い所に片寄らせ、テンポを速く設定して歌唱意欲を刺激するような曲作りになっている。この種を典型とした音楽が常にヒット・チャートの上位を賑わし、ミリオンセラーが続出している。メガヒットが出ているが、年齢層に広がりがない」[616](長田暁二)
「彼は内田樹の言葉を借りるなら、誰よりも『人を見る目』があった。タレントの『その人がこれからするかもしれない仕事』について、誰よりも高い見識で見通すことができ、しかもそれをビジネスに結びつけることができたのである」[617] (岩崎夏海)
「内向していく響きと同時に外に向けて広がる勢いもある」「次々に展開していき、全く違う絵が飛び出す曲を作るセンスのある計算。それ以上に、全く違う個々のセンスを自然な流れで人間的にしていく感覚。小室さんはその両方を持っている」[618](横山由和)
「小室さんの曲に歌唱力は問われてません。何となくあの曲調が耳に残っているだけで、ボーカルが上手いのか下手なのか、そんな事は問題ではなくなります。でも決してやってはいけないのが演歌調になることです。若いファンが離れます。五木ひろしさん・細川たかしさんのように、こぶしを力強く握り、効かせて歌うことは禁じ手です」[619](島川学)
「trfを見ていてすごく不思議なのは、こんなに売れているのにも関わらず、スターっていう気がしないんです。個人としての顔もあまり見えない。昔はザ・タイガースならジュリーとかトッポとか個人の存在感があったでしょう」[注釈 91][16](阿川佐和子)
「『俺がマルチメディアだ』とCMで言ってるのには驚いた。だったら私はマルチメディアのことなんか金輪際知りたくない。音に惑わされがちだけど、あの人の歌詞ってすごく変。生き方を語っているんだけど、たとえて言えば、バイト先の先輩が『俺ってこういう人間なんだよな』とか何とか、下北沢辺りの居酒屋で自意識過剰に語るだけ語って、後でゲロ吐くみたいな感じ(笑)。延々と自己肯定が続くんですよ。小室の人生の語り方って、長渕剛と違って反発がない。『時代』『世代』という言葉が好きで『時代が味方してる』って歌っちゃう」[620](町山広美)
「CMの仕事で全くロックに適さない曲を外部からもらった。他のメンバーが投げ出す中、小室君は一人スタジオにこもって試行錯誤し、上手くアレンジしてしまった。当時ミュージシャンにアレンジを任せるのは稀だったけど、僕は彼を信じました。他のメンバーと曲作りの意識が違っていて、彼だけがプロの曲作りをしていたんです」[70](今野敏)
「接点の無いだろう大ベテランや異なるジャンルのトップと話す機会を上手く消化して、プラス方向に吸収していると思います。次のことを他方向に同時にスタートし続ける姿勢は、プロデューサーとしても人間としても好きで尊敬しています」[519](きくち伸)
「アイドル幻想を絶滅させたのが作詞家の秋元康なら、作詞家幻想を絶滅させたのはプロデューサー小室哲哉ですね。小室哲哉は作詞家の敵なんです。職業作詞家が職人芸を競い合っていた1980年代が終わると、『歌い手が自分で詩を書けば下手でもOK』というシンガーソングライターの全盛時代がきました。そして雑草の生い茂る音楽畑に今度は小室哲哉が踏み込んできて、『売れっ子プロデューサーが書けば詩は二の次でOK』という最悪の風潮が出来たんです。小室哲哉の詩は表現の完成度の面では明らかに稚拙の部類に入ると思います。ただ狙いがはっきりしているから、『敢えてやってる』と言われれば『そうかもしれない』と思うしかない。かつて『作曲家・小室哲哉』と共に名作を作っていた一流作詞家が今、『作詞家・小室哲哉』について何も言わないのは『詩がこのレベルでも歌は売れる』という事実を認めるのが辛いからでしょう。もし小室哲哉プロデュースの曲に別の作詞家が詩を付けたら、売れなくなる可能性も十分あるでしょう。歌はメロディと言葉が寄り添ってスパークするような聴かせ所が一つあれば成立するんです。その点は流石作曲畑のプロデューサーで手堅いですよね。あと、小室哲哉作品には『戦おう』といった闇雲なアジテーションが多いんですが『歌手本人がそんな詩を書いたらダサいけど、プロデューサーが書いたんだからまあいっか』となる。結局、小室哲哉は渡辺美里の『My Revolution』の現代版を延々と作っているんだと思いますよ」[621](枡野浩一)
「何故小室君の音楽が現代にフィットするか?理由を一言で言えば、みんな寂しいんです。コミュニケーションが無いから、メロディアスな音楽だと悲しくて聴けないんですよ。そういう事情を知らない人は『小室サウンドは心の琴線に触れない』とか的外れの批評をすると思う。本当は心の琴線に触れられたくないから、今まで見たいな曲を拒否しているのにね」[177](村上龍)
「聴かせ所というものをきっちり考えた曲作りをしてますね。まず、音楽的な情報を詰め込み過ぎてないのが巧い。繰り返しを増やし、複雑な和音やメロディといった凝った部分を適度に抑えています。クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェル等が手がけるような、複雑で情報が多すぎる曲は聴いていると緊張して疲れてしまうんですよ。それは音楽の知識がない人でも、無意識に分かるんです。そこへシンプル過ぎて次第に物足りなくなってくる頃に良いサビを持ってくるから効くんです。そして再び情報の少ないAメロに戻る。そうするとまたサビが聴きたくなるというわけです。つまり週末にしか会えない彼氏みたいなものです。サビには飛び上がっていくメロディをこれでもかと連発してるでしょう。上がる音というのは気分が高揚するんですよ。そしてTKの曲はほとんどが『応援歌』でしょう。こういう歌詞にはそういう音とメロディを伴ったサビが適しているわけです」[621](渡辺健一)
「あんな高いキーでまるで首絞められてみたいな声で歌わせて(笑)、最初は違和感を感じたけど、段々耳慣れて快感になっていく。知らないうちにみんな小室さんにエデュケーションされてるんだよね」「小室さんは僕らから見たら『どうしてこの子がスターになれるの?』って子をあえてスターにしてしまう。しかも『俺が仕掛けた』『俺がスターにした』なんて素振りを一切見せない。そこがすごい所だし、プロデューサーとしての器量を感じます」[注釈 92][361](奥山和由)
「小室系の音楽は、興奮を誘い、心拍数を上げるアップテンポなもの。彼の音楽の影響で、日本の音楽全体がロービートよりアップテンポへ、速さを追求しているところがある。あの速い曲のテンポに無理矢理ダンスをくっ付けているから、踊りを早送りしている状態になり、ダンサーの体に絶対負担がかかる」[622](野嶋千照)
「彼はめったに個人の内面や心理を歌わない。そういう風なことを歌っているように見えても、彼の歌は常に人と人の交差する場面そのものを描写している。他人同士の出会いや、すれ違い、その交差するイメージを歌っている」「小室の音楽では、背後の旋律と曲の全体の流れと歌詞のレベルは始めから意図的に別々なものとして作られている。ここで発揮されるのが『バランス感覚』だ。それら三層は全くの偶然のチャンスの中で結びつけられ、絶妙のバランスとして『編集(プロデュース)』される。こういう曲作りは単なる小手先の技術として成立しているのではない。というのも彼の曲作りが、彼の異分野をまたぐ彼の生き方の『バランス感覚』の応用として作られているところがあるからだ。その繊細なバランス感覚に、ふと不思議なリアリティー・心地よさを感知するときがある。そのときが、彼の音楽への生理的な拒否感が和らぐときだ」[623](村瀬学)
「昔はスポンサーのためのタイアップとかを『それをやらないのが格好いい』という感じで嫌がったんですよね。でも、お金をもらって仕事をしているんだし、CMのタイアップに見合うものという上でヒット曲をジャンジャン出しているのが好き」「普通はファンのためというのに『ファン以外の人に売ってどんどん広げていきたい』という発想・クリエイターとしても、ビジネスマンとしても、バンドマンとしても一つ一つ責任を持って仕事をやっていく姿勢・形を完成させて売ってから、やりたいことを喋るというやり方が全部説得力があって凄い」「詩は10代の気持ちがすごく入っていますね。大人が興味深く書いた詩でもないし、女の子が自分で書いた詩でもない。大人の目なんだけど、手を差し伸べるような感じでした。どうやったらそういう感覚をキープできるのかが未だに疑問ですね」[注釈 93][624]「小室さんの曲はイントロを聞いただけで分かる曲が多く、サウンドが映像を引っ張っていく感じがしますね」[625](秋本治)
「篠原の曲でもなければ、TRFの曲でもない。全部小室哲哉の曲なんです。デパートの中でいっぱい並んでいる商品をたまに並べ替えてみたり、どこかのスーパーマーケットで面白いものがあったから飾り付けて売ってみようという感じなんですよ。あまりにも若者文化に傾きすぎてるから、もう少し大人が買うようなCDをメーカーが考えればね」[626](松宮一彦)
「あなたがずっと変遷を続けているとき、『計算づくで打算もある戦略家』だという批評もあるようだけど、たぶん直感力が強い人なんだろうと思っています。流れに任せながら、自分の直感力を信じていくという歩き方をしているんじゃないかと…」[498](高野孟)
「1990年代のギャル達は常に戦闘態勢(笑)。背伸びをして強がっている分、誰にも言えない弱い部分も抱えていたわけです。小室さんの音楽はその両側を支えてくれていたんだと思います」「小室さんの歌詞にリアリティを感じる要素は、1990年代の男女に対するスタンスです。女友達の目に自分は如何にイケて映るかに必死で、気付いたら男不在の戦いになっていた(笑)。男は飽くまで自分の次というか。そんな絶妙なギャル心ともバッチリ噛みあっていましたね」[219](Lily)
「小室さんの作品って、多くの人がイメージするのは今まで小室さんが作ったヒット曲だったりして、懐かしい印象を覚える人もいると思う。でも彼は常にその時々で『今の音楽』をやってきた人なんだよね、安室奈美恵の曲にしてもTRFの曲にしても。その時代の音楽を小室さんの中で、きちんと消化している」[627](リリー・フランキー)
「小室さんの曲を聞いていると絵が浮かびます。ひとりぼっちの女の子が何とか胸を張ってかっこよく生きようと思いながら歩く。その孤独さには悲壮感だけじゃないたくましさがある」[628](柴門ふみ)
「小室さんの歌詞には全体的な物語を感じますが、明確な起承転結や論理構造がありませんね。映画の再構成と考えれば分かりやすくなります。ただ言葉を並べるだけではなくて、別の物語や設定をミクスチャーして歌詞にする。だからフックが沢山あると同時に、そこに物語が感じられるわけですね」[注釈 94][96]「時代を掴むのが上手かったと思いますね。渋谷系が流行していた時代には、歌詞に地名が出てくる曲が多かったのですが、小室さん以降は一気に匿名的な曲が増えましたね。都会っぽさはありながら、地名の登場しない匿名的な世界が歌われています。特に初期のglobeの曲には地名が一切出てこない。昔は人は待ち合わせ場所に行かないと会えませんでしたが、1990年代に携帯電話が普及し始めて、人々は場所に縛られなくなっていく。匿名性というのは、後の浜崎あゆみさんの歌にも受け継がれた手法ですよね」「言葉を上手く使っているから、歌詞が古びないんですよね。流行を歌っているように見えて、今も通用する本質的な歌詞が多い。色んなテクノロジーが変わったはずだけど、過去にならない。逆に言うと1990年代に始まった時代の変化を小室さんがしっかり掴んでいて、それが現代まであまり変わっていないということかもしれないですね」[281]「小室さんってそんなに考えて作詞した感じじゃないんですよね、多分。何かリスナーの方が逆に考えちゃうっていうか。ただやっぱり職業作家じゃないから、コンセプトを決めて論理的に書いていくというよりも、イメージ・曲の音の乗り方を優先しているから、詞としては解釈がすごく難しいっていうか。だから逆に色々と解釈が出来て、僕はすごい好きなんですけど。論理的に考えたら、出てこない言葉を紡ぐ人に僕はすごく憧れるっていうか。自分が作る言葉はどうしても論理的に考えちゃうので、そうじゃないジャンプが出来る人に対しては『すごいな』って思っちゃいますね」[629]「『SWEET 19 BLUES』のように『絶対』と『May Be(多分)』を一文に同居させてしまう不思議さがある。小室さんの歌詞って一個の物語があるというよりも、いろんな物語がそこに入ってて。一行一行違う社会なんだけど、みんなどこかに心のフックがかかる、共感するポイントがある歌詞が多い」「土地が匿名的。安室ちゃんもあれだけ109とか渋谷を背負ってたけど、歌詞の中に『渋谷』なんて単語が入ってないんですよ。だから全国でみんなが聴けたのかなって」「小室さんと一緒にSEKAI NO OWARIのライブにいった際、スタッフが気を遣って人目につかないように配慮している中で、小室さんは人の多いところで、サングラスをわざと取った。みんなが当然『わーっ』て寄ってくるじゃないですか。ちょっとそれが嬉しそうで、『みんなの中にいたい人なのかな』って。すごい印象的でした」[630](古市憲寿)
「彼はプロデュース業を始めるときにクラブとカラオケの二大潮流を見据えていた。ところがクラブは風営法によって深夜12時以降は営業できないことになった。反面、カラオケは24時間遊べる。そこで『カラオケの通信システムに合うデジタル伴奏で、歌はサビと転調を強調する音楽』を戦略的に制作したのである」[631](南田勝也)
「藤子・F・不二雄先生についての評論を書くために、F先生の作品を見た時にふと思ったんです。タイムマシンってほとんどの場合、過去の自分に戻ってやり直したい時に使うでしょ?小室さんの歌も、そういう深い後悔の念みたいなものを引きずりながら、その中で『でも前に進まなきゃ』っていう感じがする。僕が『いいな』って思ったのは、そういうのが強い曲が多いですね」[281](浦沢直樹)
「小室さんの手がけた人って、親近感のある人・フラットな歌い方をする人が多いですよね」[300](マツコ・デラックス)
「小室さんはマイナーからメジャーへとコードが絶妙に気持ちよく転調する方法をポピュラーミュージックに定着させましたが、物理シミュレーションも同様の変化のポイントがあります。最初はしっかりした秩序のある流れが、あるタイミングでカオスに変化する特異点があるんですよね。そのタイミングを音楽における転調のポイントとしっかり合わせれば映像と音楽がうまく同期する、これは最初に小室さんとお話した時に共通認識として確認したものです」「スタジオ収録の休憩時間に外に出て、エンターテインメントとアートの違いや、音楽とプログラミングにおけるコードの類似性について話したりという内容の議論も面白かったですね。また、小室さんの驚異的な集中力と創作の素早さは自分のものづくりと全く違うので、一人の作り手としてその作法や態度に刺激を受けましたね」「小室さんはすごく哲学的で、かつロジカルです。三音目で人の感情が動くとか、人の感情を動かす最小要素は何かとか、すごく数学的な作り方をされているんです」[632](脇田玲)
「メロディー以上に、純文学的な詩が素晴らしい。特に『DEPARTURES』等は正に1970年代のフォークソング的でもある。若者向けの曲だと思っていた先輩方も、是非とも小室さんの歌詞を知ってほしい」[633](大鶴義丹)
「確かに『一時代を築いたソングライター、プロデューサー』というのもれっきとした事実ですが、何よりも小室哲哉がすごいのは、バンド、ソロ、職業作曲家・作詞家・編曲家、そしてプロデューサーのすべてにおいて天下獲りを成し得た音楽家だというところです。そんな人は今までの日本音楽シーンでひとりもいません。形態の変化はあるにせよ、特に1980〜1990年代は、これらの要素をほぼ同時進行的に遂行しており、もちろんソロで歌を出して1位になり、黄色い声援のファン(信者)たちからの紛れもない『アイドル的人気』であった上に、自身の番組を持つ『テレビタレント』でもありました。すなわち小室哲哉は日本の芸能界史上、最も提供し消費・消耗された人間のひとりなのです。従来の邦楽にはなかった無機質なテンポ感が斬新でありながらも、実はウェットで叙情的な歌謡曲感に溢れており、後に『TKサウンド』なる超大衆音楽として時代を席巻したのは極めて必然的だったと言えるでしょう。1960年代の東京多摩地区に育ち、数字とデジタルに強く欧米かぶれで横文字大好きな一方で体と気は小さく、人情系や浪花節どっぷりの超わびさび気質。まさに高度経済成長期以降の日本人の性(さが)を凝縮し最も成功した男、それが小室哲哉です」[634](ミッツ・マングローブ)
「カラオケブームは小室哲哉が流行させた。今まではカラオケはスナックなどにしかなかったがボックスができ、当時の若者と小室哲哉の曲がハマったのでは」[612](大根仁)
「プロデューサーとして考えてものを作って流行らせるというのがカッコいいなと思って、同じように『流行をつくる仕事がしたい』と憧れました。ただ、音楽は周りに上手い友達が多かったので早々に諦めてしまいました。自分はものすごく文系ですし、『進め!電波少年』が全盛だった時期でもあって『自分が行けるところがあるとすればテレビかな』と思い、放送業界に潜り込みました」[635](加藤陽一)
「彼は曲から入っていく人だろうな。曲に対する1曲1曲への思いが俺の何倍も強そうだね」[629](小倉智昭)
「小室さんの楽曲には『歌いたくなるぐらいの快感要素』等が存在していると思います。それがあった上でちょっとハードルがある曲になると、歌うために努力をして、努力の結果として得られる快感のほうが強くなるという現象は起きます」[403](篠原菊紀)
「TMからして、『コンセプトメイキングがきちんとしている』と言ってもいいと思う。アルバム毎・さらに言えば1曲毎から醸し出すデジタルビートと詞の世界は、その場の思いつきやアイディア先行ではないスケールと一貫性を持っている」「コンピューターと連動させた照明システムを駆使した舞台構成に日本のロックコンサートの演劇的可能性を見たような気がした」[636]「小室哲哉の音楽には女性ボーカルが欠かせないと言えるだろう。華原朋美にしても安室奈美恵にしても明確な『発信性』がある。詞は自分で書いているhitomiにしてもそうだ。彼女達の歌にある女の子達の現在・時代の何をすくい取って、何を発信するのか。『TKプロデュース』という記号は、デジタルビートやダンスというサウンドスタイルの代名詞に使われたりした。でも彼が試みたのは、その女性のライフスタイルも含めたトータルなメッセージだったのではないだろうか」[637]「Aメロ・Bメロ・サビというJ-POPの定型を無視するかのようにビートで盛り上げてゆく構成や劇的な転調、ときにクラシカルでもある歌い手の歌唱限界を生かしたメロディーの情感。演歌的恋愛ドラマとも違う女性の生活感。洋楽のコピーでなく歌謡曲とも違う。彼が作り出したヒット曲のいくつもの特徴はその後のJ-POPの一つの類型になっていることは間違いない。とは言え、彼は終始演奏家だったように思う。TM NETWORKのライブは最新機材を弾きこなす御披露目の場だったし、trfの初めての東京ドームには生バンドが入っていた。globeの東京ドームでも彼はハードロックのミュージシャンのように激しいパフォーマンスを見せていた。『どんなにスーパープロデューサーになってもミュージシャン魂を失わない人』というのがその時の印象だった」[638]「昭和最後の1988年は実質的にアナログ盤がCDに切り替わった年だ。カラオケが普及しディスコブームが来た。それまでアンダーグラウンドだったダンスミュージックが巷を席巻した。コンピューターを使ったR&Bという温故知新。その象徴が小室哲哉である。宇多田ヒカルもそんな流れの中で登場した」[639]「なぜ小室哲哉の音楽があんなに受け入れられたのか。いくつもの状況的要因がある。例えば、カラオケである。マハラジャに代表されるディスコでの踊りとカラオケでの歌唱が一体になった『歌いたくなるダンスミュージック』というのは、彼が初めてだろう。『歌いたい』と思わせた背景に歌の中の『女性像』がある。globeは女性がヴォーカルだった。篠原涼子、安室奈美恵、華原朋美。彼女たちが歌う『都会の女性の息遣い』への共感。1996年4月、シングルチャートの1位から5位を独占した安室奈美恵、華原朋美、globe、dos、TRFという5組のヴォーカルは全て女性だった。『プロデューサーの時代』というのもここから始まった。平成の女性群像を見ているようだった」[640](田家秀樹)
「何台ものキーボードを操る姿の他に、作曲家・グループの方向性を決めるいくつもの顔を持つ彼。だからこそ、TMの知性、人読んでロック界のスティーヴン・スピルバーグ。『E.T.』や『未知との遭遇』のように、彼は21世紀の音楽を実現しようとしている。もちろん、まだ誰も見たことのない夢を。彼はメビウスの輪を解くように、ちょっとニヒルな笑顔で夢や理想を見せてくれるアーティストなのだ」[5]「キーボードプレイヤーとしても、ポップコンポーザーとしても、庶民派・アイドル時代の坂本龍一を思わせる」[641](吉見佑子)
「小室哲哉の唯一の武器は、彼の音楽的感覚だ。彼の耳の内にある音楽の記憶と、最先端のテクノロジー。戦略家と思われがちな小室だが、論理的な武装はいつも後から行われる」「小室はマーケティングによって変貌してきたのではない。テレビやコンサートで身を晒し、皮膚で集めたデータを大切にする。その上で、彼の耳の内で起こる革命に才能を預けてきた」[289]「独特のサウンドを作り出す力はもちろん、プロジェクトの運営やマーケットに対する分析力、テクノロジーへの好奇心、新鮮なプランへの欲望等を兼ね備えた日本を代表するプロデューサーと断言できる。スポーツ界やサイエンス・シーンにもこうした資質はめったに存在しない」[34]「シニカルと思えるほどクールな部分と、自分の音楽とマーケットを思いやるウォームな部分を1984年から両立させている。そしてそのバランスは微妙に変化し、ビジネスの部分でシビアになればなるほど、結果的にアーティスト・音楽・マーケットに思いやりが深くなっている。正反対のタイプが多いシーンの中で、小室は極めて稀な例だと思う」[67](平山雄一)
「小室哲哉は自身の専用スタジオで最新鋭の電子機器を駆使して『音楽の龍』を組み立てる現代の職人である。だが、それは見事によく出来た『作り物の龍』でしかないことを彼は知っている。そこで小室は最後にその龍にスピリットという名の眼を入れるのだ」[642]「小室さんの歌には愛以外の全てがあるから、逆にくっきりとした形で愛が見えるんじゃないかと。それは一見冷たい。だけどよく考えてみれば、愛なんてものはアーティストが作るものじゃなくて、聴く側個人個人に別個のものとしてあるはずだと。例えばカラオケで歌っている子達が愛までもアーティストに要求してくるのか?そうじゃなくてジグソーパズルの最後の1ピースのように自分で入れさせようとしているのかな」「僕なんかが女の子の気持ちを書くとどうしても分析した感が残っちゃうんですが、小室さんの歌詞にはそれがない。そのまま女の子の気持ちになっているのが面白いなと思うんです。デザインとか壁紙に近い感じがしますね。そこには女の子が住んでいて、『どんなインテリアの部屋に住みたいか』みたいなことで描いてる絵のような気がする」[注釈 95]「制作の際にが高度なテクニックを使っているのに、『その人を考えたい、知りたい』『その人の曲を聴きたい、歌いたい』というお互い違う考えを持っている人達への邪魔にならない絶妙な所に行ってる。そこがすごい」[291](中森明夫)
「軽快なリズム・ノリの良さが若者を中心に受けましたね。ちょっと昔ならディスコミュージックは不良の音楽みたいに言われたけど。特にtrfは見た目も楽しいし、音もしっかりしている。売れるのは当然でしょう」[643]「カラオケでどんな曲がよく歌われているかといったデータをよく集めているし、コンピューターで海外で売れている曲のフレーズを分離化しているのかもしれない」[421](伊藤強)
「取材する中で一番驚いたのは、『TMN 4001 DAYS GROOVE』の打ち上げが終わった直後、すぐに1人スタジオにこもって篠原涼子のレコーディング作業を行う切り替えの早さと『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』の初日の爆発的な売上を聞いても、『在庫切れしないように手配して』と冷静に言い切ったその感性だった」[70][644]「支持されている理由は2つあります。1つ目は人を驚かせることの喜びを知っていること。紅白に108人のダンサーを集めたり、次々と作品をリリースするスピード感のある展開等、ありとあらゆる手を使って聴き手を驚かせようとするサービス精神が徹底してるんですよ。2つ目はルックスからは想像できませんが、成功するまでの『負け』をちゃんと経験として知っている。だから浜ちゃんの歌う『憂鬱』や華原が歌う『夢』のような根源的な人間の感情のツボをきちっと押さえているんですよ」[621]「『自分がやるものは100万人に受けないとダメ』という使命感があるようなんですよ。生き急いでいるというか…」[226]「小室哲哉の登場によって、事実上標準化されたものがある。それはリズムだ。小室は徹底的にBPM120〜140のアップテンポの曲を作り続けている。そのリズムはリスナーの聴覚を一種の麻痺状態にさせつつある。つまりこのリズムがオペレーティングシステムになった。後は市場の望む歌手を選び、市場が望むタイミングで商品を流通させればいい。歌手と楽曲の組み合わせは、コンピューターの世界でいう所のアプリケーションソフトウェア。このソフトのバリエーションを豊富にそろえることによって、あらゆるシーンにおいてリスナーが望む最適なソフトを提供することができる。そのことがまた小室ブランドの事実上標準化戦略を強固なものへと押し上げる」[645](神山典士)
「音楽の人工甘味料を最も熟知した錬金術師」[646](神足裕司)
「トークは、単なる訥弁を味・含蓄としてしまう間違いもあるわけだが、それすら起こりようもないほどストレートなトーク下手(ミュージシャンだから喋れなくてもいいのであるが)。一転「歌」の話題になると途端に雄弁になる。語り倒していると思うほど語りが過剰である。次々とヒットしているT.KOMUROの曲の多くは、いとも簡単に懇切丁寧に人生や生き方を啓蒙しているのである」[647]「『時代はあなたに委ねてる』文法が変なんじゃないかと思う。そういう歌詞が客が好きで売れてる訳でしょう。長渕剛のファンは歌詞が説教だと分かってるじゃないですか。小室の場合、聴いてる方が説教されているのに気付いていないのが怖いですよ」[620](ナンシー関)
「彼には『自分が手がければ誰でも売れる』という驕りはないんです。自分のやり方に一番適していて、しかもコギャル受けしそうなキャラクターという点でシビアに選んでいるんだと思うんですよ」「安室奈美恵は『彼が関わらなくてもブレイクする』という兆候は実はあったんです。きっと素材として彼女に魅力を感じて、自身のレーベルに移籍させたんじゃないのかな。『彼が関わるとヒットする』というのではなくて、ヒットする才能を直感する能力にかけては並のプロデューサーが太刀打ちできないということなんでしょうね」[621](北川昌弘)
「小室哲哉の音楽を一言で言うなら、ずばり『新宿のディスコ』。彼の作品全ての名義を『小室哲哉』名義にしてしまえばすごく分かりやすいと思う。ディスコやハウスってすごく匿名性が強い音楽。プロデューサー名義で作っても自分がボーカルのものって無いじゃない。彼の場合はそれを踏襲したんじゃなくて、独特にそうなってしまったんだ。表現方法として他人の肉体を使いたいんじゃないかな。ディスコはアーティストのネームバリューじゃなくサウンドで勝負するすごくシビアな場所。彼の曲を買う人もディスコのダンスフロアで踊る感覚で声よりも音で選んでお金を出している。ブランドではなく、クオリティで選ばれているわけだから、その品質を維持して供給を続けていくのは相当の才能がないとできないことだよね。彼の曲の量産は何よりの才能の証だと思う。量産することによって習慣性を作り、音楽をドラッグにしてしまった。だからリスナーは次から次へと彼の新しい音が欲しくなってしまう」「個人的な経験を普遍的な言葉に抽象化してしまう彼の言語感覚には驚かされるよね。ディスコの構造の中に自分の魂の叫びを盛り込んでいる。彼の詩が若者の心に沁みるのは、星占い位に誰もが思い当たるような普遍的な表現で、しかも孤独感に満ち溢れているからだと思う。彼の現在を知りたければインタビューするよりも新曲の歌詞を読めばいいんだよね」[621]「あの人の才能は本当にすごいと思う。何しろ変化球を使わずに、直球でしか勝負しないんだから。同じことをハイスピードでやり続けながら、その中で『新しさ』『精進』を同時に売っていくのは大変なことですよ。皆が飽きてしまう前に一定レベルのものを出し続けていればとにかく売れるし、その内にまた面白いものも出てくる。でも理屈の上ではそうでも、実際の所新曲をそれだけ量産できる人はいなかったんです。それを始めてやってのけたのが小室哲哉だった。彼の桁違いにすごい点はそこにあると思います」「次にどういう人が出てくるのか、僕にもまだ見えてこないんですよ。ただ一つ言えることは、聴き手がそれほど努力しなくても聴ける曲、つまりパッと聴いた瞬間に人を捉える曲がヒットすることだけは確かだと思います。だとすればテレビやラジオから、或いは町を歩いている時にタダでガンガン耳に入ってくる曲のパワーは侮れない。そういう意味でも、小室哲哉が作り上げた流れは当分続くんじゃないかな」[648]「皆が飽きてしまう前に常に次が出てくる。二作目が一作目よりつまらなかったとしても、一作目の余韻で何とか持っている内に三作目が出てくる。それを繰り返している内に面白い傑作が出てくることもあるし、一定のレベルより落ちなければコンスタントに続けていける。連載漫画、特に『ゴルゴ13』のさいとう・プロダクションに近い量産能力」「一つの固定化された価値観の世界に身を委ねることへの快感じゃないかな。『自分で決定しなくていい』『答えはもう出ている』という。だから、『言葉もサウンドも小室哲哉のもの』は人の生理を逆なでしないでしょう。しかも作っている本人からして、そういう自分に対して否定的じゃないから、音に迷いがない。これも聴く方にとっては快感なんだと思うんです。『これでいいんだ』みたいなね」「どんなものにも『T・K』と頭文字をつけるとか普通だったら照れてできないようなことを、ポーズじゃなくて本当に平気でできる。それを見てある種の人々は『俺もああなれたら楽なのにな』って憧れるんだと思うんです。そういう感情をかきたてる要素をサウンドも詞も持っている。今って、屈折せずには生きていけないような所があるから、あそこまで屈折しないでいられることに対する羨望ってやっぱりある人にはあるんじゃないかな。『自分がああなりたい』とまでは思わなくても、『凄い人だな』って感服するとかね」「小室哲哉の歌で最後に何が残るかというと、残るのは『小室哲哉』なんです。安室奈美恵でも華原朋美でもglobeでもなくて、小室哲哉作品だと思えばいいんです。音楽プロデューサーというより、映画プロデューサー・映画監督に近い。映画は明らかに演じている人より、作っている人のもの。それと同じで、その音楽が誰のものというとき、フロントより、仕掛けた人の持ち物になっている気がする。人目につく場所に誰を立たせたらいいのか、今面白いのは何か、本能的に捕まえてくる能力が彼にはある。その都度フロントに立つ人を取り替えることで、彼はずっと残っていける」[649]「TKプロデュースの時代、シンガーは曲がいくら大ヒットになっても、自分の曲だという実感に乏しかったのではないだろうか。小室哲哉の言葉はそれが誰の口から発せられようとも小室哲哉の言葉にしかならない。そこには一つの解釈以外、差し挟む余地がないからである。すべからくシンガーはプロデューサーの代弁者にならざるを得ないのがTKの歌なのだ。逆にいうとシンガーの『一生懸命さ』だけが際立って見えて、人々はシンガーを応援したのであるが、『手柄』はやはり小室哲哉のものだった。小室哲哉をよく言わない人はこの『手柄の独り占め』感がいやなのだと思う」[650]「音楽におけるプロデューサーという概念を一般層に浸透させた」[651]「『無声音を多用して1音節内に詰め込む情報量を増やす』という技は伝統的歌謡曲には決してみられない、J-POPならではの表現手法である。その手法を一般化したのは間違いなく小室哲哉だ」[652](近田春夫)
「サウンドをコピーしてきて、ビートも掠め取って、でもって研修教材みたいな説教臭い歌詞を乗っけて、モデル紛いに歌わせてタイアップして…ってこのやり口はまるで電通じゃないか。コムロの場合、根がデジタルなだけにさらに性質が悪いのである。デジタルは無制限にコピー可能でちょっといじっただけで永遠に再生産可能な究極のパクリ音源だからだ」[653](小田嶋隆)
「かつてのピンク・レディーやおニャン子クラブでもそうでしたが、出す曲全てがNO.1ヒットになったことがある。今は小室哲哉がそういう存在になっているということですね。『小室ブランド』という言葉ができる程、彼の音楽は業界を席巻している。特に中高生の女の子にファンが多く、小室を聞いていないと友達と話が合わなくなっちゃうんですよね。それで一斉に小室のCDを買いに走ることになる。流行のブランドの服を身に付けていないと、流行遅れになると焦るのと同じ原理なんですよ」[654](須藤甚一郎)
「ロンドンでジャングルが流行った時、1番早く取り入れたのが小室哲哉でした。その際、向こうで流行っている形態そのものを日本に持ち込んでも、理解されないし売れもしない。そこで彼は自己流に咀嚼したものを今まで馴染みのある歌謡曲に取り入れたのです。その結果がH Jungle with tになっているわけです。今の中高生のコギャル達にとって、小室サウンドはおじさん連中にとっての演歌と同じ関係なんです。演歌は常に一定のフォルムから逸脱せず、マンネリとも取れるが逆にそれが聴く側に安心感を与えている。小室氏の音楽も同じで小室サウンドという枠から逸脱することもないし、基本的に歌謡曲の延長線上にある。ただ彼が賢いのは、音は似ていても歌い手のキャラクターを徐々に変えていることです。別の見方をすればプロデューサー主導であって、歌手は誰でもかまわないという面がある。かつての篠原涼子にしても、今売れている安室奈美恵にしても、極端な話になるが彼女達じゃなくてもよかった。一般の人から見ると、『もしかしたら私でもよかったのかもしれない』と親しみが湧き、支持され易いのでしょうね」[654](山崎智之)
「小室哲哉の書く歌詞には、この時代を憂え『どうして自分はこんな場所にいるのか』といったような嘆きや、そこはかとない失意の仄めかしばかりが横溢している。そして、その悉くがユーモアを欠いている。フォーク調のメロディを多用したサウンドはもちろんベタベタにウィットである」「小室ファミリーは一見すると、いわゆるダンスブームという享楽的な時代背景を他のサブカルチャー・DJカルチャーと共有しているようで、実際にはおよそ快楽主義とは正反対のベクトルを常に指し示してきたように僕には見える。詩的とは言えない歌詞から吹き出してくる閉塞感情からも窺い知ることができる。何かを楽しんでいる人の雰囲気だとはとても思えない。小室ファミリーを支持する層にはこの『豊かさを楽しむ勇気』といったものがやや欠けているのではないだろうか。言い方を変えれば、『バブル経済で許されていた楽しみが平成不況になった途端に自由にならなくなった』という失意や嘆きということだ。自己責任において楽しむことを選択しない人はバブル崩壊によって『楽しみの多くを失ってしまった』と感じてしまい、そうした事態が訪れたことを納得させてくれるロジックや感傷を小室哲哉に求めたということなのだろう」「歌詞だけを見ていると、彼がマスコミに対して放っている『戦略家・策士・企業家』といったイメージよりも、全然素朴でバカ正直な人と思える」「小室サウンドと称されるものの大半は、ヨーロッパ・特にイギリスのチャートによくあるようなハッピー・ブレイクビーツで、グルーヴ感は希薄。なんだかんだダンスだレイヴだと言っている割には、身体性とは無縁の音楽だといえる」「小室哲哉が素人とばかり組んで、仕事をするスタイルはプリンスを真似ただけなのかもしれないけど、意外と彼の健康さを証明している部分だともいえる。プロフェッショナルな仕事に感動を覚えるリスナーやオーディエンスはいつの時代にもそうたいしているはずもないわけだから、バブル経済が破綻してパフォーマーとファンの関係も単に一方通行的なものから、バンドブーム・カラオケの定着・DJカルチャーを通じて、変質を余儀なくされてきたにも関わらず、未だに『ワンランク上の人達』であり続けようとする1980年代のビッグネームに親近感を示せない層にも、勘違いを含めて様々なアピールがあると思われる。松任谷由実や矢沢永吉はどうしたって唯一無比の人だけど、trf・華原朋美・KEIKOは『私と取り替えが効いちゃう』というか、『自分のやることに自分で責任を取らない』という感覚が強く出ている。もしくは小室帝国というのは素人接収型のテレビ番組・ブルセラ系のアダルトビデオの類と本質的には同じタイプの文化に属しているのかもしれない。あるいは群れから離れて、ファミリーだけで一時代を築いた萩本欽一や角川春樹など1970年代のプロデューサー達も思い出す。既存のロック業界にここまで溝を空けるようなことをほぼ一人でやってきたのだから、彼は正にそうした独立系と称していい才能であることは確かだ」[655](三田格)
「小室ファミリーの登場で日本の音楽界が活気付いたと言われていますが、それは疑問です。アーティストより、プロデューサーが脚光を浴びる今の時代というのは、音楽にとっても不幸な時代」[656]「小室さんはプロデューサーとしては文句のつけようがない。でも重大な弊害もある。『いくら良い曲でもタイアップが付かないとレコード会社がCDを出さない』という状況を生み出しました。売れている小室さんの曲に良い曲があるのは確かですが、全体としては玉石混交。他に対抗馬もなく、自分で自分の二番煎じをして何曲もヒットさせてしまうのでやや水増し状態です」「小室さんは原石である歌手の長所を引き出すプロデューサーではなくて、歌手を作り上げるタイプのプロデューサー。例えば長渕剛・松山千春・井上陽水・吉田拓郎は『初めに人ありき』で強烈な肉体のある歌手はファンがいれば嫌いな人もいる。天然ダイヤだけに意思を持っており、プロデューサーの人形にはなれませんからね。しかし、TRFや華原は『初めに歌ありき』で歌手は歌に合う人を引っ張ってきただけで(安室を除いて)歌手の顔が思い浮かばない。言わば人工ダイヤだから好き嫌いもなく、メガヒットが作れる」[585]「やたらリズムがうるさくて、歌の音域が高く、繰り返しの多い曲」「歌い手の素質に関係なく、マーケティングと広告戦略でバーチャルなスーパースターを作り上げてしまうプロデューサー」[657]「高音を強調した金切り声に近いハイトーンヴォイスが、小室哲哉が作り出すダンスビートに上手くはまっていました。だからこそ、あれだけ大きな支持を得たのでしょう」[658]「小室さんが作る高音を多用した曲は、実は不正確な音程をごまかせた。素人が歌ってもそれなりに聞こえたので、カラオケ利用者の需要と合致した。徹底した市場調査を行い、カラオケで歌える歌とは何かの解答をもっていたから小室さんは時代の要求に応えられた。小室さんは『自身のブームは2000年まで』と話したが、カラオケブームの反動で人々はきちんとした歌が聴きたくなったのではないだろうか」[659](富澤一誠)
「プロデューサーブームって言われてるけれども、あれは基本的に作曲家・アレンジャーブームだったと俺は思うんだ。だから前は一時期『自分で作詞・作曲して歌う』っていうマルチプレイヤーなアーティスト物の大嵐が吹いたわけよ。だから『山下達郎とか桑田佳祐みたいなのが世の中で一番偉い存在であって、こういう人達じゃないとダメだ』という思い込みが延々と続いていたんだけれども、小室さんはまるで『そんなことはねぇだろう。ポップ・ミュージックにも色んなやり方があるんじゃねぇの?昔から別に作詞家・作曲家がいて、プロデューサーがタレントに歌わせるのが王道で、エルヴィス・プレスリーだってそうじゃん』って言ってるみたい」[注釈 96][589](渋谷陽一)
「彼の作る歌を聴いていると、不思議な気持ちよさがあるんです。あれはメロディに代表される曲の作り方なのかアレンジなのか、脳天から出てくるような歌い方からくるものなのか。それとも『頑張らなくちゃ』という世界は、永遠に気持ちのいいものなのか。素直で屈折がないんですね。その辺りは確信犯的かもしれないけれど、あれを照れもなくやれるのは今時凄い」「小室哲哉の作る歌詞には、日本語と英語が分け難く交じり合っていて、歌詞の意味を分かってもらいたいというより、曰く言い難いカッコいい感じだけは分かってくれ、そこにつかまってくれればいいという所がありますね」[649](島森路子)
「『歌いやすい』『覚えやすい』『インパクトがある』『ノリがいい』カラオケボックスで若者の声を拾うとだいたいこんな答えが返ってくる。カラオケブームによって若者達は否応なくヒット曲を覚えなければいけないため、CDの売上が飛躍的に伸びた時『音楽とは分かりやすいものでなければならない』という彼の考え方がカラオケファンにぴったりフィットしているのだ。ポピュラリティの獲得というミュージシャンの手腕と、先を読む視点と分析・正確なマーケティングリサーチ・一極集中の宣伝効果というプロデューサーの手腕が現在の成功を導いたと言えるだろう」[242](猪野健治)
「小室はダンスミュージックといっても、『寂しい、せつない』という情緒の部分を押さえているからそれが売れる要因になっているんだなと思う」[660](松沢呉一)
「1990年代半ば以降の『VS』となる片側の極は同じくTK」「もはやTKは功罪云々を抜きにして、日本の音楽・シーン・産業にほぼ完全に浸透してしまった『不可分な前提』と考えないと何も始まらない」[33]「J-POP的な音楽史には『オールインワン的なプロデューサー』というのがいるんですよね。つまり作詞・作曲・編曲・録音まで全ての面倒を見られるプロデューサーのことを僕は『オールインワン』って呼んでいるんだけど、その流れをはっきりと切り開いたのは、小室哲哉ですよね。そしてそれをつんく♂さんがちょっと特殊な形で引き継いだ」「中田ヤスタカ以前にいた人として、やっぱり小室哲哉の存在って大きいと思うんですよね。小室哲哉は1990年代にプロデューサーとして急激に浮上したわけだけど、基本的には彼のやっていたことってすごく日本的な輸入業者だった。つまり海外でイケイケのハイテクノロジー的な音が流行ると、それを日本に持ってくる。特に初期はジャングルの流行を持ち込んだりもしたわけだし、海外のダンスミュージックやクラブミュージックの最先端のベタな流行にすごく敏感な人だった。それを日本の土俵の中でやっちゃうのが小室さんの面白みでもあり、1990年代的な限界でもあったわけで」[661]「ただやみくもに最新の流行を追いかけるのとは違うのです。ユーロビートを導入するにあたっても、そのスタイルを日本人が日本で日本語によってやるということだけでなく、日本のコンテクスト(文脈=土壌=状況=市場)に変換しなくてはならない。例えばtrfの楽曲群は確かにユーロビートが基調になっていますが、その上に小室哲哉ならではのフックの多いエモーショナルなメロディが乗せられており、歌を活かすためのアレンジによって、ユーロビートのスタイルに様々な改変が加えられています。結果として、どの曲も単なるユーロビートの日本版とはかなり違った仕上がりになっています。小室は明らかにリック・アストリーやカイリー・ミノーグといったシンガーをユーロビートをベースにした楽曲で大ヒットさせていたストック・エイトキン・ウォーターマンの方法論を踏まえながらも、飽くまでも日本のポップスとして自分の音楽を世に放ったのです」[662](佐々木敦)
「『アーティストが自分のやりたいことをやるには自分でその環境を作っていかなければいけない』という当たり前ながらも大きな試練をアンダーグラウンドな活動・歌謡曲の提供を両立させたYMOを先例として、多くの歌手たちに良質な楽曲を提供し、ヒットさせることによって、その環境作りを黙々と実行して、すばらしい結果を出し続けている」[6](湯山玲子)
「小室哲哉が作り上げたJ-POPサウンドの中には、『ヴィジュアル系が大いなるヒントを与えたのではないか』と私は思っている。もちろん『珍しいジャンル』と『新しいグルーヴ』と『品格のある音楽性』がキモであり、ヴィジュアル系とは真逆なのだけど(笑)その一方で、高速BPMやゴージャスな音作りは正にヴィジュアル系の基本に通ずる。もっと言えば、ヴィジュアル系が耕したマーケットの土壌改良も功を奏したのかもしれない。私がV2を評して、『ここまで音を積み上げたにも関わらず、機動力があるとは―今のシーンはついてこれますかね?』とおちょくった時『今の世代に期待します(笑)。最後までノリノリでワクワクして聴いてくれる世代がいてくれると信じて』と小室が答えていたのを思い出した。しかし、実際TKポップスが1990年代を席巻しちゃうのだから推して知るべしなのだ」[663]「1994年からの5年間で、1990年代の流行音楽を一人で築き上げたと言っても過言ではありません。英米ダンスフロア・ミュージックの最新スタイルを消化しつつ、日本人独特の情緒性を凛々しさと共に対象化しJ-POPという音楽ジャンルを完成させました。しかもその手段が『プロデュース作品群によるチャート制覇』というのが新鮮だったのです」[664]「彼の楽曲の構造である『サビ頭→Aメロ→Bメロ→サビ(半音上げ)+(低音ビート+4つ打ち+金属系高音リズムのハイハット)』は広い音域と速いテンポの融合という難しさが好まれるカラオケには最適の楽曲構造だった。サウンドは基本的に欧米の最新スタイルを導入したダンスミュージック。匿名性の高い機能的な音楽なため、誰が歌っても彼の世界観は保たれる。そして、少女の凛々しさとセンチメンタリズムとポジテヴィティの美しさへの一方的な賛美・情景・シンパシーに溢れた歌い手のキャラ・記名性を無視した歌詞がさらにトータル性を高めていた」[665][666]「歌う者にとっては過酷なだけのTKメロディに必死に応えることができたのは、小室ファミリーの中では華原朋美・KEIKOだけだった」[667]「ビーイング系と小室哲哉。圧倒的なプロデュース力の下、素材を選択しマーケティングを考慮してヒット曲を量産するという点で、両者は一致します。しかし最も異なるのは、前者が複数のクリエイターによる分業制なのに対し、後者は小室というたった一人の万能アーティストによって全てが完結する『TKワールド』だということです。工房と個人の差ですね」[668]「あくまでも結果論だけど、つんく♂のハロー!プロジェクト・秋元康のAKB48といった多人数女子アイドルグループの源流になった。グループを組んでいたわけではないし、滅多に一同に会しませんでしたが、強力なTKの作家性で結びついた彼女達には明らかに同族意識が芽生えていたからで、ユーザーもそう認識していました」[669](市川哲史)
「彼の音楽について知っている範囲でいうと、彼の曲のどこがいいのか分からない。私が言いたいのは『音楽的には無価値なものをマーケティングだけで売れると錯覚したんじゃないか』ということだ。マーケティングが悪いといっているのではない。資本主義の社会では音楽は商品なのだから、最大限売れるように努力するのは当たり前だ。しかし彼の場合はメディアへの露出をコントロールしないで、過剰に消費されたのが失敗だったのではないか」[670](池田信夫)
「(小室・SUM・DJ KOOの座談会を読んで)これだけダンスミュージックの知識のないプロデューサーも普通いないだろう。基本的に小室哲哉を『海外の最新のダンスミュージックを取り入れて音楽を作り続けた作曲家』とかいう解釈は間違っているよね。少なくとも、1980年代末にロンドンに渡り、最新の音楽(レイブ)を持ち帰り、trfを生み出したというAERAの現代の肖像のような解釈は違う気がする。1980年代末のロンドンの音楽を全く吸収しなかったからtrfができたんだろう。こういった海外の新旧ダンスミュージック(というかブラックミュージック全般か)の知識とは無縁のところで鎖国的な知識環境で音楽を作り続け、しかも世間に届きまくったところが、小室の才能だったんだよ。洋楽からのあからさまなパクリとかが余りないのも、J-POPのクリエイターとしての小室の特長の一つなんじゃないだろうか」[671]「当時の女性たちは小室さんにプロデュースされた『シンデレラ』になりきってカラオケで歌っていた。また、小室さんもカラオケで歌われることを意識して、歌っている側の爽快感を重視して曲作りをしています」[672](速水健朗)
「ヒップホップが定着してきた頃のみんなが小室哲哉で育っているんで、どれだけ無茶苦茶な転調をやるか、それもバート・バカラックみたいな理詰めの意外性ではなくて、本当に意味もない転調でサビに行くじゃないですか」[673](長谷川町蔵)
「1990年代、小室哲哉さんはJ-POPをメガヒット市場に変貌させ、一身で牽引する立場を担っていました。彼は音楽に対して興味がない人達にまで、音楽を売らなくてはいけないという使命を背負っていたのです。おびただしい数のオファーを受注し、考えられない程のスピードで量産していました。そこで彼が行ったことは、別々にアイデアとしてストックしていた『サビ』や『Aメロ』等のパーツをまるで合体ロボのように一つの作品にして世の中に送り出していくことでした(勿論、そこには小室さん独自のテクニック・センスが不可欠だったのですが)。パーツを繋ぎ合わせることにより、『ドラマティックな転調』が生まれ、その若干の『無理やり感』もまた当時は新鮮でウケました。結果、小室さんはあれ程のメガヒットを連発していったのです」[674](マキタスポーツ)
「日本でただ一人『基本は圧倒的な開放感のあるダンス・ミュージックと共に、様々な音楽ジャンルが渾然一体となる』というジョルジオ・モロダーと同じようなことをやれるに違いないクリエイター」[675](宇野維正)
「『歌が上手い人の平凡な声』より『歌唱力は普通でもきれいな声』を探す能力を持つ天才」[676](勝間和代)
「小室哲哉の曲は完全に洋楽っぽい顔をしているんです。だけど、本来彼が持っている洋楽の感性を自覚的に出すのではなく、日本人としてより巧妙に隠して体質的に染み出させたのが売れた理由。分かりやすい例が訳の分からない英語のタイトルをつけたりしたこと。安室君の「CAN YOU CELEBRATE?」なんかピーター・バラカンが大笑いしたでしょ。『"CAN YOU CELEBRATE?"ってなんだ』て。日本人が思うような意味とは全然違うのだけれど、そういうのが広く浸透し易い」[677](相倉久人)
「YOSHIKIさんとユニット『V2』を組んだりしていた関係でお付き合いはあったが、ロックジャーナリズムにとっては反面教師というか、大衆の代表としてあまりにも大きく、ロックというカウンターカルチャーのいわば矛先だった。一言で言えば小室さんがヒットを量産する以前の日本の音楽の中心は演歌に端を発する『切なくて心の孤独や冬景色など』を合わせていったものにルーツを持つ歌謡曲だった。そこにクラブやディスコ、ヨーロッパで流行っていた音楽を持ち込んで、『ポップミュージック』に変えていった立役者だと思う。ハイな感情を巻き起こし、でも日本人が好きなセンチメンタリズムも持ち込む。そこが今までの歌謡曲とは異なっていた。また、昔から日本の音楽はリズムが音の邪魔をしないスムーズであるものが良いとされてきた。そこにテクノやハウスなど、リズムが主役になる音楽に良いメロディを当てていく改革を起こした。哀歌中心のシーンで、ポジティブさや高揚感をパーティー感覚で大衆に提示して爆発的に受け入れられたのは革命的だった。それから転調。ガラッとコードが変わった違和感によって、1曲聞いただけなのに2,3曲聞いたような感覚になる。今やアニメソングなどでは当たり前のように多用されている、そうしたアレンジを大衆化させた先駆者だ。ネットの中で生まれてくる音楽も、辿っていくと小室さんがいる」「才能が枯渇してるかしてないかというより、小室さんが曲を書けば受け入れられ、売れる時代があった。CDが売れなくなって、誰かが小室さん以上に記録を伸ばすことはもうないだろう。日本のCDセールスにおいてはMVPだった。そんな時代が長く続くはずはないが、全盛期の自分が心の中に残っていて、今の状況を受け入れがたかったのだろう。1日に3〜5曲くらい作っていた時期もあったと思うが、量産できない。いろんなことに疲れて、あれだけ時代ともシンクロしていたのに、今はズレも感じている。おそらく10年以上前から、挫折・屈辱感とそれへのリベンジという感じだったのではないか」「プロデューサーがアーティストを越えるということはほとんどないが、小室さんは間違いなく越えていた。今のアイドル界における秋元康さん以上のバリューだったと思う。そういう方が刹那的な音楽シーンの中でもこれだけ長く現役でやっていたことのほうが異常だ」「自分で辞め時を選べるミュージシャンは数少ない。革命的なレジェンドである小室さんが一線から身を引くのはとても残念だが、ご自分でそれを選択したことはむしろ素晴らしい音楽家である証明であるとともに、人間としても理想的な引き際ではないかとも思った」[678][679]「小室メロディの奇抜さは『いきなりサビから曲が始まること』と『曲のコード進行の突然変異的な転調の多さ』である。『そんなことはヒットを目指す曲なら普通にやっているじゃないか』と思うだろうが、今や当たり前の音楽論法をメインストリームに根付かせたのは間違いなく小室ブームだったし、『恋しさと せつなさと 心強さと』のヒットがあったことにより、一大的な女性ソロアーティストブームが起こったとも言えよう」[680](鹿野淳)
「小室の音楽が時代を席巻した要因は、J-POPに最新のダンスミュージックの要素を取り入れたこと。そしてそこにスパイスとして、耳に残るキャッチーさの奥に、ここぞという時に日本的で演歌を思わせるセンチメンタルな叙情性を巧みに取り入れた楽曲を作っていたからではないかと思う。1990年代後半の小室ブームとは、景気の底が抜けた日本でいずれ終わることを運命づけられていた『不安混じりのから騒ぎ』だった。時代の空気にぴったりと合っていたからこそ、あれほど爆発的なブームが生まれたのだ。当時の小室が手がけた楽曲が今でも多くの人に愛されているのは、そこに含まれる『切なさ』が聴き手の心に深く刺さっていたからではないだろうか」[681](ラリー遠田)
「小室ファミリーの楽曲は『一言で表すのが難しい』の対極にあると思うので、一言で表すと『それほど深刻にやばくはないけどそれなりに色々ある普通の人たちのためにとことんある』ということだ。だからこそ全てに開かれたその態度が本当に全てに受け止められて、彼自身が世界の頂点に座ることになったわけで、『奇跡的に輝くものはやはり大衆とともにある』という真理を示して見せたのである」[682](鈴木涼美)
「小室さんはブリティッシュビートやプログレッシブ・ロックに強い影響を受けているんですよね。プロデューサーとしてもそのようなジャンルに音楽のベースを置きつつ、1990年代には松浦勝人と共に車でガンガン流すユーロビートやレイヴ、ジャングル等の享楽的で通俗的な音楽の要素を取り入れて大ヒットを飛ばしました」「歌詞では、恋人は描かれても仲間の存在はあまり感じない。描かれる状況も心象風景的で、吉田美和さんの歌詞のように具体的な景色は浮かんできません。また、経済的・愛情に満たされていても、主人公の女性は孤独や不安を感じていることが多いですよね」「小室さんは時代を象徴する曲を多く作りましたが、自分の色を消して普遍的なポップスを作る人ではないんですよね。その不器用さは音楽プロデューサーとしての個性でもあるし、近年の言動からは『この人は本当に音楽が好きなんだな』ということも強く伝わってきました。『小室哲哉は不器用なミュージックラバーなんだ』という認識が広まったからこそ、先日の引退発表にも温かい声が多く寄せられたんだと思います」[610]「音楽シーンで『プロデューサー』という肩書きが当たり前に通用するようになったのも、小室の登場以降のことだ。もちろん歌謡曲の時代にも、その役割を担っている人間は多くいた。作詞家がいて、作曲家がいた。アレンジやサウンドを手がける編曲家がいた。アーティストの発掘や育成、イメージ戦略は主にレコード会社のスタッフが担っていた。しかし小室哲哉が革新的だったのは、そのすべてを一手に引き受けたことだった。シンセサイザーのプログラミングを駆使し、楽曲制作にまつわる作業を『オールインワン』で手掛ける。だからこそ、メロディにも・サウンドにも・言葉にも彼自身の作家性が克明に刻み込まれた」[683](柴那典)
「歌謡曲的ともいえるシンプルなメロディセンスと無限に入れ替え可能な抽象的な歌詞」[243]「小室は『海外の文化が日本に入ってきたときにコミカルになってしまう。日本語がまだうまい方法を見つけていないようだ』という事態に向き合っていた。小室という音楽家の興味深い所は、海外の新しい音楽の表層のみを受容した所だ。音楽ファンは往々にして『ロックとは反体制の音楽だ』『ヒップホップとは黒人差別の抵抗の声なのだ』『テクノとドラッグは切り離せないのだ』等音楽の精神性を見出して本質化してしまいがちだ。故に誠実な音楽ファンは、自分がその音楽に向き合う時に葛藤してしまう。しかし小室の場合は、そのような本質化をあんまりしない。その意味では小室は軽薄な音楽家だ。小室にとっては『音楽を徹底的にサウンド・リズムとして捉え、それを如何に日本に根付かせるか』ということが重要なのだ。小室は自身の音楽活動を日本文化全体の観点から考えていた」「『外国の音楽を日本に根付かせる』という目的が重視される小室の音楽はリズム歌謡的であり、それは同時にリズムという企画が先行している点でコミックソング的である」「小室が特異なのは、いわゆるアーティストとしての自我がないことである。いや、自我はあるのかもしれないが、それが『音楽を通して何かを主張する』といった類のものではないということが特異だ。小室が何より求めたのは『自分の音楽が多くの人に歌われ、踊らされている状況』である。だからこそ小室はtrfをプロデュースする時『(ディスコ+カラオケ)÷2』というコンセプトを用いた。若者の社交場がディスコからカラオケへと移っていく時代に、小室は『自分の音楽が好き勝手に・軽薄に・歌われ・踊られる』ことを望んでいた。そこには、作り手の自我は希薄である。『音楽を世に出すとは、勝手に語られ、解釈されることでもある』とすら述べる小室は、音楽が作り手の意図や思いとは無関係に、軽薄に歌い継がれていくことに向き合っていた。その意味で小室は優れたコミックソング作家だった」[684](矢野利裕)
「リチャード・バルビエリの感性・雰囲気志向、ニック・ローズのリズム・民族音楽志向の流れで、全ての楽器でシンセサイザーの発想も持ち込んで、音楽を作っている」[685](松岡英明)
「TMで見せた小室さんの打ち込みとYAMAHA-DX7を演奏される姿が格好良く見えて、高校の吹奏楽部の講師に『YAMAHA-DX7を是非買いましょう』と偉い勢いで後押しして、部活の時にいつも弾いていました。専門学校でもPC-9801で『小室さんだったらどうするか』をシミュレーションして打ち込みをしていましたね」[686](伊藤賢治)
「小室さんの音楽性からは自由と破壊を感じさせる。学問として音楽を学んできた私には、小室さんの音楽は『私の価値観を破壊していく』と最初は少し受け入れられなかった。しかし一ヶ月とか経っていくとずっと聴いてる自分がいて、分析して解釈して学んでいくと『楽曲での切り方が気になる、スピード感が出る』など、今となっては小室哲哉さんは私の師です」[630](広瀬香美)
「TMのカップリングの曲をTMではなく、まだデビューもしてない電気グルーヴが担当することになった。これが発売された時期はTMのみなさんと雑誌の取材を受けたり、ラジオに呼んで頂いたり、飲みに連れて行って頂いたり。僕のプロとしてのスタートのきっかけを下さったのは、小室さんであると言っても過言ではないわけです」[687]「僕の上司リリー・フランキーと秋元康さんと小室哲哉さんの3人に共通してるのはその膨大な仕事量」[688]「譜割りの魔術師は実は小室さん。音域の狭い人が歌っても印象に残るメロディ。平歌が16分だったら、Bメロが4分とかのロングトーンで、サビは8分で…ここはジャストで始まって、ここは溜めて、ここは食って…等の棲み分けがキッチリ成されてるんだよな」[689](CMJK)
「ブレーンの配置の仕方がすごく上手な点は僕も影響を受けています。パートナーを固定して、自分の世界を作っていく…だからこそあれだけの仕事量をこなせるのでは」[690](t-kimura)
「正直なところ僕は小室さんがヒットを連発しているとき、彼のファンだったわけではありません。ただ、当時クラブミュージック大好きな『捻くれた高校生』だった僕からしてもJ-POPというシーンに『レイヴ』『ジャングル』という言葉を広めているところに共感を持っていました。実際、彼のサウンドが『本当にレイヴィな音色だったのか』というとそうは感じなかったんだけど、当時の日本のポップス界で使われていなかった音色を取り入れた第一人者だったのは間違いありません。彼とお会いする機会が何度かあったんですが、当時の話をお聞きした時、如何に彼が『イギリスのカルチャーに刺激を受けて、純粋にそういったサウンドを作りたい』という衝動で活動されてたということを知りました。後同時に『当時如何にそういったサウンドを日本という国で再現するのが難しかったか』という話も。考えてみて下さい。今だったらインターネットがあって世界の音をすぐに知れます。作りたいサウンドがあったらYouTubeでハウツービデオもたくさん出ていて、さらにそれのサウンドプリセットもいっぱい出ています。そんな中彼や当時のクリエイター達は少ないリソースで世界のサウンドを、どんな楽器を使って作っているのかも知らずに開拓者として活動していました」[691](☆Taku Takahashi)
「『打ち込み』といわれる音楽をメジャーのレベルにまで引き上げた人です」「小室さんがこれまで発明した音楽的な方法論はたくさんあります。今は当たり前になっているようなことですから、なおさらすごい」[692](南俊介)
「小室哲哉さんってアレンジ面での打ち込みがクローズアップされていると思うんですけど、僕はメロディとコード・ワークが体に染み付いてしまったレベルで影響を受けていますね[693]。ただ、4つ打ちに関しては90〜96年頃に小室哲哉さんが活躍しすぎたため『飽和してしまった』とネガティヴになってしまった。幾度も曲をレコード会社に持ち込んだり、コンペに出しては『曲はいいけど、こういうアレンジはいらないんだよ』と千回位言われましたね[694]」「限られた機材で『如何に本物に近づくか』という無茶なことを本気でやる人」[695](八木沼悟志)
「基本的に楽器ができないから鼻歌で作曲するんだけど、それだとどうしても転調ができなくて、小室哲哉さんみたいな曲は絶対書けないんです。『Get Wild』みたいな曲も歌いたいんですが、ああいう曲は絶対僕には書けない!(笑)」[696](平井堅)
「1990年代、小室さんがプロデューサーとして活発に活動されていた頃、日本の音楽にも他の流行がありましたが、小室さんの作る音楽だけが違っていた。小室さんの音楽はとても実験的で東洋人が好むコード進行が全くなく、アジア人には聞き慣れないものを大胆に取り入れて、それをヒットさせていた。それが不思議だった」「小室さんの影響でキーボードで曲を書くようになりました。私はコテコテのヒップホップも作りますが、ピアノだけで歌い上げるバラードも作曲します。『My Revolution』は完全に電子音楽ですよね。でも『CAN YOU CELEBRATE?』はキーボードの曲。小室さんの曲を聴いて、私もこういう両極端の音楽を作れるように努力したんです。その結果、この17年間韓国の音楽チャートで1位になる曲を出し続けることができています。何故それができているかと考えると、やはりヒップホップをやっていながらもきちんとピアノで曲を書いている『電子音楽とバラードの両方を行き来できている所が強み』の小室さんから受けた影響だと思います」「抒情的なバラードの感性とダンス音楽の感性の両方を兼ね備えた中間の音楽」[285](J.Y.Park)
「CDでTMを始めて聴いた時には『こんなにイントロが長くていいのだろうか?』と思った。そのようなテレビ等で流しづらい音楽をたくさん世に出して、前例を作ったことで後々のミュージシャンがやりやすいようにしてくれた」「コンピューターで人間味の部分を消そうとしても、小室さんが鍵盤を弾いているパートは絶対に加工できない・真似できないな、と思う」[303](中田ヤスタカ)
「ポップスの原点は小室哲哉さんです。それだけじゃなくて、TKのルーツで音楽を勉強したんです。ピンク・フロイド辺りから始めて、図書館みたいにツタヤに通って。嫌いなものも知らなきゃと思って、ディープ・パープルなんかも聴きました。嫌いなんですけど、ヒットを出すためには好き嫌いしちゃダメだなと思ってたんですよ。山下邦彦さんの『楕円とガイコツ』という本に小室哲哉さんのことが書いてあるんですけど、いまだにそれを基準にしてるんです。クロード・ドビュッシーや童歌との類似点とか、コード進行とは無関係にメロディが泣けるとか」[697](PENGUINS PROJECT)
「4つ打ちがいつの世にも通じる普遍的なものだと証明してくれた」[698](鬼龍院翔)
「TKってダブがないんですよ。ダブ的なことをミュージックシーケンサーで埋めていく。『何故あんなにアンテナを張っている人がダブに行かなかったのかな』といつも不思議に思っていたんですよ。僕はダブを多用しているんですけど、TKは良い意味でディレイとかアウトボードをスパッと分けて作っていたんじゃないかな。だからノイズもしっかり聴かせていて破綻していない。こだわりがあるんだろうなと。僕はジッターとか『それも音楽じゃん』となりえますからね」「僕が鍵盤で曲を作ることを可能にしたのは、後も先も僕がてっちゃんの曲をカバーしたからなんです。TMがなかったらクラムボンもなかった。自分の全ての楽曲の基礎を作ったのはTMなので、自分の中では一生リスペクトしなくてはならない場所なんです」[310](ミト)
「ジャンルの手法を噛み砕いてJ-POPのリスナーに分かるようにすることができる。自分もゆくゆくはできたらいいなと思ってる」[699]「音楽の捉え方のスピードが早くて衝撃だったんです。小室さんが僕の曲を『2〜3曲聴いてきたよ』って、それだけでオレのやりたいこと言い当てられました(笑)」[700]「J-POPの大先輩、というかJ-POPそのもの」[701]「『曲の盛り上がる場所に一番高い音が来る』等、一般論になっている小室さんのメソッドは沢山あります。打ち込みの音楽があれだけ力を持って世に存在したのも、僕のように打ち込みの音楽をやる者からするとありがたいことだと思います。でも、もっと大きいのはプロデューサー文化を持ち込んだことですよね。小室さんの曲は、アーティストとプロデューサーの個性が一緒になって爆発する。『楽曲を作る人がスターになり、アイデンティティーを出していい』という認識が日本で広がったのは小室さんからじゃないでしょうか」「初めてお会いしたとき、小室さんから『J-POPと新しい音楽を混ぜようとしているんだね』と言われて。『ああ、この人はそこに苦労してきた人なんだな』と思いました。初期のtrfはテクノ。H Jungle with tは1990年代に流行ったジャングル。その時の最新の音楽をJ-POPに混ぜて、一般まで押し広げた」「これまでになかったものを広めていくのがポップスの面白さ。『個性をどう入れるか』といった点ではもちろん自分も影響を受けていると思います。自分なりの情緒みたいなものを咀嚼して出来上がった変なものを出すことが個性になると思うんです。あと、ポップソングって売れても『良い曲』で終わることが多いじゃないですか。それってもったいないと思っていて。せっかくより音楽を好きになってもらえるチャンスがあるのに。TK印の扉を開けた人には、その先に色んなジャンルの音楽が待っているんですよ」[549]「昔に小室哲哉さんのアレンジ仕事で仮歌をいただいたことがある。サラっと吹き込んであるものだったにもかかわらず妙に魅力的で、完成した音源よりそちらばかりを聴いてしまっていた。世間一般で言われる歌のうまさの向こう側にある、作曲者本人が知っているツボを押さえていて、それがわからないからこそ魅力的に感じるのかもしれない」[702](tofubeats)
「TKサウンドが人々を惹きつける秘密の一つ目に『エモーショナルさ』がある。当時はピッチを修正する装置がなかった。若干ぶれているぐらいが良かった。ピッチが不安定な高音を一生懸命歌うことにエモーショナルさがある。二つ目に既成概念にとらわれない響き重視の音に合う言葉を歌詞に入れている。歌詞に意味は必要ない。言葉の響きがキャッチーにハマることが大切」[703]「僕にとって特別な音楽でしたね。非日常感があった」「大学卒業後は当初ゆったりとした音楽を作っていたけど、全然相性がよくなくて色々な曲を作り始めた時にダンスミュージックのような曲の方が合うんだと分かった。その引き出しがどこにあるのかを考えたら、それはやっぱりTKサウンドだった」「線が細くて男らしさとは反対にいるような小室さんが男らしいダンスミュージックを作っているのが面白くて、『自分にもできるかな?』と思った。挑戦する権利なんて誰にでもあるんだけど、自分で勝手に決めていたボーダーラインを小室さんが壊してくれた」「ボーカルのキーの高さだったり、デジタルサウンド、それからダンサーが前面に出たり、ボーカルとラッパーが一緒になったりする変則的なメンバー構成のグループだったり。それまでの時代には無い『違和感』があった」「TKサウンドを商業音楽と見なし、『一切流さない』と言い切るメディアと抵抗感を示す人々には『ふざけんな』と思った。小室さんによって救われた人間もいれば、音楽の楽しさを知った人間もごまんといる。それがムーブメントにもなった証拠」[704](前山田健一)
「(BiSHの『earth』に関して)メロディーだけで『この人の曲だ』って分かるのは凄いんですよ。僕のアレンジ部分をどれだけ強く出しても『小室さんらしさは消えないな、それは本当に凄いな』って作曲家として思いました」「小室さんの曲は他の日本のアーティストと違って洋楽を取り入れている感が物凄く強かったんですよね。メロディーの譜割りの入れ方だったりとか、歌詞の入れ方とか、もちろんJ-POPではあるんですけど、洋楽っぽい要素を物凄く入れているんだなって当時から感じていましたね。逆に洋楽っぽい格好をしているバンドの方がフォーキーだったりして。だから小室さんは異質と言ったら失礼かもしれないんですけど、唯一無二だなと思ってましたし、それは今でも感じますよね」[705](松隈ケンタ)
「如何に『女性をエロく見せているか』という分析に関しては私が一番じゃないかと自負してます。ちょっと出すのが苦しい位のキーをサビに持ってきて歌わせているから、すごくエロく聞こえるんです。基本的に洋楽で格好良いとされているメロディラインを、普通だったらAメロに持っていくところをTKはサビに持ってきてるんですよ。それを転調によって成功させているんです。これは発明と言ってもいいと思うんです。でも鈴木あみちゃんに関してはずっと高めのキーで歌わせていたので、サビだけじゃなく初めから最後までエロいんですよ!」[706](大森靖子)
「強烈なインパクトのあるメロディを書ける音楽家はそんなにいない。敢えて例を挙げるなら久石譲さん、菅野よう子さん、小室哲哉さん」「バックトラックから曲を作り始める機会が増えてきたのも、音楽プロデューサーとしても、人前に出るミュージシャンとしても形を残したいと思ったのも、スタジオ作業とライヴ活動を同時進行しているのも、中学から小室さんの姿を追っていたからだと思うんです」[238](澤野弘之)
「小室さんはTM NETWORKでやっていらした頃はハードロックの影響が強かったと思うんですが、その中でも日本人として一番良いと思うメロディーを追求していらっしゃったと思うんです。僕も同様にハードロックの影響は受けていますし、サウンドにトレンドを次々に取り入れる中でトラディショナルなロックな部分も入れているので、もしかしたらバランス感としては近く感じて頂ける部分があるのかもしれないですね」[707](BRIAN SHINSEKAI)
「当時の小室さんは絶対に打ち上げを成功させるロケット発射台のような存在で、音楽業界で働いていた人間としては羨ましかった。特に朋ちゃんが世に出てきたときのことは、『これが本当のシンデレラストーリーだ…』と度肝を抜かれたことを覚えています。普通のかわいい女の子が、いきなりエンタメシーンの中心にかつぎ出され、海外ロケをはじめとする豪華なMVはもちろん、スタイリングやメイクまで、野口強やソニア・パークといった一流のスタッフからのバックアップを受けてどんどん洗練されていく。スター街道を駆け上がっていく様は、当時の女の子なら誰もが憧れたのではないでしょうか」[672](ジェーン・スー)
「小室哲哉さんのプロデュース曲は楽曲のキーを恐ろしく高くすることで、何回もカラオケに行って練習してもらうことを狙っていたとされています。歌が難しくなることで練習もたくさんするし、それをみんなに披露する。そして歌ってもらえる頻度が高くなる。そういったことをすごく考えていますね」[708] (zopp)
Mr.Childrenなどのプロデューサーとして知られる小林武史とイニシャルが同じことから「TK時代」「ダブルTK」「哲武ミリオン時代」と呼ばれた[234][711]。
「仕事の仕方は鏡に映る自分を見るようで、そっくりです。ただ小林さんは男性ボーカル・ロック・バンド系をプロデュースする。僕は女性ボーカル・ダンス・打ち込み系をプロデュースと対極にあるんです。この二つが互いに刺激し合ったおかげで、お互いにミリオンヒットが生まれたんだと思います」[234](小室哲哉)
「リズム重視のtrf、歌詞重視のMr.Children」[643](伊藤強)
「ユーザーマーケティング・洋楽の動向等をデータに、新曲を生み出していくのが小室方式だとするなら、小林のやり方は全く逆である。文学・映画・美術の知識を元に、1曲毎の歌詞の世界観の構築にこだわる芸術家肌だ」[712]「共通点はボーカリストの歌唱力・キャラクターを優先させるために、自らバンドのメンバーの一員となり歌詞の内容やコンセプトを説明する所」[713]「小回りの利くように個人事務所を用意し、社内会議が短く、意思決定の早い弱小の新興レーベルと組めた所が2人の原動力であり、幸運」[714](麻生香太郎)
「二人ともコンポーザーとしてのニュアンスが強い。例えば、おニャン子クラブの時の後藤次利さんの仕事ぶりに近いですね。その延長線上でプロデューサーとしてのビジョンを持ったという感じがします」「『プロデューサーの時代』と騒がれることを奇妙に感じながらも、『二人のTKがプロデューサーの可能性を広げてくれた』と実感している」[539](笹路正徳)
「作詞や作曲から携わると、どうしても自分の色が前面に出ざるを得ないでしょう」[539](佐久間正英)
「小室さんや小林武史さんの活躍もあって、音をブランド・プロデューサーで聴くようになってきましたね。アーティストで選ぶっていうよりは、作り手で選ぶようになった。そういう所では日本は遅れてたんで、洋楽的な発想でいいと思うんですけどね。それまではみんな『俺が俺が』で音楽だけは来てたから、それをようやく分かち合うようになってきたんですよ」[715](つんく♂)
「小室哲哉は皿回しの時の細い棒の上にお皿を次々と回していく際の連鎖力学を思い出す。一枚の皿が動いている内にその力を利用して何枚も載せて回していく伝統芸能だ。つんく♂も小室哲哉の流れに入りそうだ。小林武史はコンセプトワークに長けていて、音楽を時代の中でどう位置付けるかという文化論的なプロデューサーだ」[716](田家秀樹)
「小室哲哉氏は自分の音をガンと前に出して、それをアーティストにぶつける。小林武史氏はアーティストのカラーを持ちながらも自分も中に入っていく」[717](大村雅朗)
「Mr.Childrenの大ブレイクをプロデュースした小林武史・テレビCM等でお茶の間に潜入し、驚くべきハイプな方法で宣伝して渋谷系というブームの礎的な音楽を作ったピチカート・ファイヴの小西康陽と共に、3人の頭文字から『KKKブーム』とも称されたが、これが日本の音楽史の中で初めてプロデューサーに明確に焦点が当たり、演者を超える影響力をマスに示した瞬間、つまり『プロデューサー元年』を示している」[680](鹿野淳)
「小室さんの作った音楽は歌謡性もすごく高いけれど、リズムや音色のアプローチとしてはダンスミュージックの側面が強い。つまり、小室さんがやったことは『ダンスミュージックをJ-POPの範疇に入れた』と言うことができるんですね。一方でJ-POPには『いわゆる歌謡曲やニューミュージックといったそれ以前の日本語のポップスからの流れがあり、それを更新してJ-POPにした』のが小林武史さんということになる。2000年頃にスタジオで『J-POPを作ったのは小林武史さんだったね』という話をスタッフ同士の雑談として話したこともあったんですけれど」[718](冨田恵一)
チャート
1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートで、小室哲哉が作詞・作曲・プロデュースした楽曲が1位から5位までを独占した。同一作曲家、兼プロデューサーによる上位5曲の独占は、日本のみならず世界の音楽チャートにおいても史上初めてのことである。
- 1位 「Don't wanna cry」(安室奈美恵)
- 2位 「I'm proud」(華原朋美)
- 3位 「FREEDOM」(globe)
- 4位 「Baby baby baby」(dos)
- 5位 「Love & Peace Forever」(trf)
1995年度のJASRAC発表の著作権使用料の分配額ランキング(JASRAC賞)では、小室哲哉が作詞・作曲した楽曲が国内作品の1位から3位までを独占した。同一作曲家による上位3曲の独占は、同ランキング史上初めてのことである。
- 1位 「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」(H Jungle with t)
- 2位 「CRAZY GONNA CRAZY」(trf)
- 3位 「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」(trf)
1998年10月19日付けのオリコンシングルチャートで、小室がリーダーを務めるglobeの楽曲4曲が同時にベスト10入りし、当時として史上初の記録を達成した。この記録は「発売日が異なる再発でない同一アーティストによるシングルの複数チャートイン」として現在も記録が保持されている。
- 3位「Perfume of love」
- 7位「Sa Yo Na Ra」
- 8位「sweet heart」
- 10位「wanna Be A Dreammaker」
オリコン
- シングル総売上枚数 - 4,219万枚(作詞家歴代4位)2011年6月20日現在
順位 | 売上枚数 (単位:万枚) |
作詞家 |
---|---|---|
1 | 6,828 | 阿久悠 |
2 | 4,984 | 松本隆 |
3 | 4,576 | 秋元康 |
4 | 4,219 | 小室哲哉 |
5 | 3,718 | 稲葉浩志 |
6 | 3,570 | 桑田佳祐 |
7 | 3,467 | つんく♂ |
8 | 2,850 | 桜井和寿 |
9 | 2,596 | なかにし礼 |
10 | 2,473 | 山上路夫 |
主な提供曲(1980年代〜2011年)
下記は一部に過ぎない。詳細は小室哲哉提供楽曲一覧を参照。
- 岡田有希子
- 福永恵規
- 「10月はさよならのパームツリー」 元おニャン子クラブのメンバーに初めて提供したミディアムテンポの歌謡曲。編曲は下記曲と共に大村雅朗。
- 「ハイパー・ラッキー」 こちらはアップテンポの楽曲で、小室哲哉の特徴的な早口のアイドルPOPS。
- 岩崎良美
- 原田知世
- 荻野目洋子
- 「NONSTOP DANCER」 アルバム「ノン・ストッパー」に収録されている楽曲で、荻野目洋子自身が一番好きな曲と公言した曲。
- 「ジャングル・ダンス」 NHK「みんなのうた」で何度も流れていた楽曲。
- 松田聖子
- 大西結花
- 「パンドーラ」 小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。
- 八木さおり
- 「月と恋心」 同じく小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。作詞は森雪之丞で、編曲は武部聡志。
- 沢口靖子
- 「Follow me」 沢口靖子が出演した「痛快!ロックンロール通り」の挿入歌。作詞は川村真澄で編曲は大村雅朗。同ドラマではTMNetworkが主題歌を担当した。
- 郷ひろみ
- 「空を飛べる子供たち〜Never end of the earth」 アルバムの最後に収録されている楽曲で作詞は秋元康。
- 渡辺美里
- 「My Revolution」(1986年)渡辺美里の最大のヒット・シングル。
- 「Teenage Walk」(1986年)
- 「BELIEVE」(1986年)
- 「悲しいね」(1987年)
- 中山美穂
- JINGI・愛してもらいます(1986年)中山美穂が出演した映画「ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌」主題歌
- 50/50(1987年)オリコンシングルチャートで2位を記録
- 堀ちえみ
- 愛を今信じていたい(1987年)引退前のラストシングル
- 伊藤かずえ
- 星屑のイノセンス(1988年)
- 小泉今日子
- GOOD MORNING-CALL(1988年)オリコンシングルチャート2位を記録
- 宮沢りえ
- ドリームラッシュ(1989年)デビューシングル。小室がプロになってから始めてトータルプロデュースしたアイドルである。
- NO TITLIST(1990年)宮沢りえが主演のフジテレビ系ドラマ「いつも誰かに恋してるッ」の主題歌。デビュー曲と同様に編曲も担当している。
- 田中美奈子
- 観月ありさ
- TOO SHY SHY BOY!(1992年)作詞・作曲・編曲、サウンドプロデュースを担当。
- 東京パフォーマンスドール
- バックストリート・ボーイズ
- Missing You(1997年)作詞・作曲・編曲をJolyon Skinnerと担当。
- アルバム『バックストリーツ・バック (BACKSTREET'S BACK)』に収録されている。
- 森進一
- 眠らないラブソング(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。
- SMAP
- Trust(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。アルバム『We are SMAP!』に収録。
- グラマラス(2010年)作詞・作曲を担当。シングル『This is love』のc/w。
- 意外にもジャニーズのアイドルグループに楽曲を提供するのはこれが初である。
- 浜崎あゆみ
- crossroad(2010年)作曲・編曲を担当。
- Virgin Road、Last angel(2010年)作曲を担当。シングル『L』収録。
- アルバム『Love songs』では収録曲のほとんどを小室が作曲した。
- やしきたかじん
- その時の空(2010年)作曲を担当。
- やしきたかじんの冗談で楽曲提供が決まった。作詞は秋元康が手がけた。
- 坂本美雨
- True Voice(2011年)作曲を担当。アルバム『HATSUKOI』収録。
- 坂本美雨は同時期に小室のソロアルバム『Digitalian is eating breakfast 2』にも参加している。
主なヒット曲(1993年〜)
1994年、小室哲哉は、trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」で初めて100万枚以上のヒットを達成。
1997年の華原朋美の「Hate tell a lie」まで20曲のミリオンヒット曲を世に送りだした。(小室ブーム参照)。
※下記は主な小室哲哉プロデュース作品であり、一部にすぎない。☆ … ミリオン ☆☆ … ダブルミリオン
- 1993年
- 「EZ DO DANCE」trf
- 「寒い夜だから…」trf
- 1994年
- ☆「survival dAnce 〜no no cry more〜」trf
- ☆「BOY MEETS GIRL」trf
- ☆☆「恋しさと せつなさと 心強さと」篠原涼子 with t.komuro
- 1995年
- ☆「CRAZY GONNA CRAZY」trf
- ☆「masquerade」trf
- 「もっと もっと…」篠原涼子 with t.komuro
- ☆「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」trf
- ☆☆「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」H Jungle With t
- ☆「GOING GOING HOME」H Jungle With t
- 「Feel Like dance」globe
- 「Joy to the love」globe
- ☆「I BELIEVE」華原朋美
- 「BRAND NEW TOMORROW」trf
- 「Body Feels EXIT」安室奈美恵
- 「SWEET PAIN」globe
- ☆「Chase the Chance」安室奈美恵
- 1996年
- ☆☆「DEPARTURES」globe
- ☆「I'm proud」華原朋美
- 「FREEDOM」globe
- ☆「Don't wanna cry」安室奈美恵
- 「FRIENDSHIP」H Jungle With t
- ☆「You're my sunshine」安室奈美恵
- 「is this love」globe
- ☆「save your dream」華原朋美
- ☆「Can't Stop Fallin' in Love」globe
- ☆「a walk in the park」安室奈美恵
- 1997年
- ☆「YOU ARE THE ONE」TK presents こねっと
- ☆「FACE」globe
- ☆☆「CAN YOU CELEBRATE?」安室奈美恵
- ☆「Hate tell a lie」華原朋美
- 「How to be a Girl」安室奈美恵
- 「LOVE IS ALL MUSIC」華原朋美
- 「Wanderin' Destiny」globe
- 「Dreaming I was dreaming」安室奈美恵
- 1998年
- 「wanna Be A Dreammaker」globe
- 「Sa Yo Na Ra」globe
- 「Perfume of love」globe
- 「all night long」鈴木あみ
- 「White key」鈴木あみ
- 「I HAVE NEVER SEEN」安室奈美恵
- 1999年
- 「RESPECT the POWER OF LOVE」安室奈美恵
- 「toi et moi」安室奈美恵
- 「BE TOGETHER」鈴木あみ ※TM NETWORKのカバー曲
- 「OUR DAYS」鈴木あみ
- 2000年
- 「THANK YOU 4 EVERY DAY EVERY BODY」鈴木あみ
- 「NEVER END」安室奈美恵
- 2001年
- 「Stop! In the Name of Love」globe ※スプリームスのカバー曲
- 「a song is born」浜崎あゆみ & KEIKO
個人レーベル
- TK TRACKS LABEL(メルダック内に設立)
- avex globe(avex trax内に設立)
- ORUMOK RECORDS(パイオニアLDC内に設立)
- TRUE KiSS DiSC(自費製作→Sony Music Entertainment傘下)
- Rojam Entertainment (自費製作→吉本興業グループ傘下)
- factoryorumok(ORUMOK RECORDSとメディアファクトリーの提携)
- Tatsumaki Records(factoryorumokからの派生レーベル)
- gaball screen(R and C内に設立)
- TKCOM(自費製作)
参加ユニット
- SPEEDWAY
- TM NETWORK
- 小室哲哉プロジェクト[注釈 98]
- ハンバーグ&カニクリームコロッケ
- V2
- T.C.D Hits
- trf[注釈 99]
- ダイナマイトマシーン[注釈 100]
- TK-COZY-MST[注釈 101]
- EUROGROOVE
- t jungle m
- H Jungle with t
- globe
- tk-trap
- MUSEUM
- Kiss Destination
- tatsumaki
- ROJAM
- VIZITORS
- GABALL
- song+nation
- Curious K.
- TKCOM
- TK feat. TK
- PANDORA
関連人物・交友関係
- 関連人物
- 宇都宮隆、木根尚登、KEIKO、マーク・パンサー、麻生香太郎、松浦勝人、千葉龍平、丸山茂雄、小坂洋二、小室みつ子、松本孝弘、葛城哲哉、阿部薫、久保こーじ、渡辺美里、藤井徹貫、日向大介、浅倉大介、YOSHIKI、DJ KOO、岩佐俊秀、坂元裕二、伊東宏晃、前田たかひろ、松尾和博、志村明、TRF、浜田雅功、安室奈美恵、hitomi、観月ありさ、篠原涼子、華原朋美、ジャン・ミッシェル・ジャール、鈴木亜美、甲斐よしひろ、浜崎あゆみ、原田大三郎、DJ DRAGON、ニック・ウッド、Purple Days
- 交友関係
- アーサー・C・クラーク、秋元康、浦沢直樹、大江千里、大多亮、喜多村豊、木村カエラ、近田春夫、坂本美雨、ZEEBRA、shinnosuke、スティーヴィー・サラス、スティーヴィー・ワンダー、鈴木大輔、高見沢俊彦、玉置浩二、田村淳、デュラン・デュラン、テリー伊藤、tofubeats、中田英寿、中田ヤスタカ、HYDE、VERBAL、FENCE OF DEFENSE、松任谷由実、鎧塚俊彦、リリー・フランキー、若尾裕之 (五十音順)
脚注
注釈
- ^ 浜田雅功とのコラボレーション時に使用。
- ^ SERIKA with DOGのサウンドプロデュース、篠原涼子とのコラボレーション時に使用。
- ^ SPEEDWAY参加時に使用。
- ^ クレジットに乗る際の大部分の名義として定着している。
- ^ 2010年から使用。
- ^ 1997年の全米進出時に使用。
- ^ dosのアルバム『chartered』に使用、またTM NETWORKのオフィシャルサポーターユニットのグループ名として命名、バリ島の別荘の表札に使用。
- ^ mF247への楽曲提供時に使用、現在も時折使っている。
- ^ TRFの海外用PR盤制作時に使用。
- ^ 『global trance 2』制作時・『Cyber TRANCE』プロジェクト参加時に使用。
- ^ 『Embryo』の発表時に使用。
- ^ 銀星団参加時に使用。
- ^ 『ハンバーグ&カニクリームコロッケ』での活動時に使用。
- ^ 「音楽のファンというより、ヴィジュアルのファンだった」「生まれて初めて自分で買った洋楽のロックアルバムが『ザ・スライダー』だったけど、アバンギャルドで恐ろしい音楽。アコースティック・ギターがメインのイギリスのフォークという色で、僕が得意とする音じゃなかった」と語っている[20]。
- ^ 「ナイスの時に知った際はロックというより怖い宗教音楽みたいなイメージでのめり込む勇気がなかった。ELPになった時『シンセサイザーとロックがつながった』と感じ、色々買い出した」[20]「運指の粗さ・ミスタッチをアドリブでどうごまかすか、どのようにお客さんを驚かせて喜ばせるかがすごく勉強になった」と話している[23]。
- ^ 「テクニックや正確さよりも、それぞれが気持ち良いと思う響きを奏でようとする姿勢に共感しました」[24]「『フェイシング・ユー』を聴かなかったら、もしかしたらプロにならなかったかもしれない。弾き方や癖にまで影響を受けた。元々ジャズピアニストだがグルーヴ感があり、ロックを感じた」[9]と話している。
- ^ 哀婉・あのねのね、白竜、原田真二等のバックバンド(キーボードを担当)、SPEEDWAYへの参加等。
- ^ 「『ジョルジオ・モロダーと言えば小室君!』と宣言できる位、僕は彼のことに詳しいですよ。彼には悪いけど、すごく音楽性が似てるんだもんね」と話している[28]。
- ^ ロンドンを気に入り永住権も取得していたが[37]、最終的に引き払った[38]。
- ^ 「ビルボードでも堂々と1位を取ったり等大衆性があった。とにかく歌う側も『誰かに形にしてもらって当たり前』と完璧に開き直っていました。そんなすごく華やかなシーンに注目していたので、この時期の日本の動きにはほとんど目がいってませんでした」[40]「どのブースに行ってもコントロールルームみたいで、誰も楽器を扱わずにひたすらボタンをいじっていた」「『イギリスは島国だけど、日本と違ってアメリカやヨーロッパと繋がっているんだな』と再認識させられました。今でいうハブ空港じゃないけど、『ポータル的な場所だ』と思っていたんです」「日本の海外進出活動とは違って、戦略的にチャートヒットを仕掛けて、当たり前のように実現させてきたんですよね。そんなスタイルを『早く日本に持ち帰って、追いつかなきゃ』と焦りを感じていたんです」[41]と話している。
- ^ 「画期的な音楽なんですよ。1曲の中にリズムが2個同居しているから、ゆっくりとリズムをとってもいいし、その半分の感覚で速いリズムをとってもいい。あらゆる意味でバランスの良いリズムですね」[42]「『サンプリングのドラムの音をあそこまでピッチを高くして上げて、高くなった音にまた別の音とリズムを重ねる』という当時の自分のスタジオでも30分でできたことだった。当時発表しても『音がペラペラでこういうリズムでは踊れない』と言われたかもしれないが、古いシンセサイザーでも一番安く誰でもすぐ作れるのに第一発見者になれなかった」[43]と振り返っている。
- ^ 「懇意にしている洋服のブランドを日を空けてまた買いに行くと、全く違う系統のデザインや色使いになっていたような感じだった。それを2時間のライブにどう持ち込んで凝縮させるかを考えていた」と話している[48]。
- ^ 小室と同時にプロデューサー契約を締結した同期生として、CMJK・久保こーじ・松原憲がいた[53]。
- ^ 主に春夏秋冬通してスタジオでTRFに向けた音色作りを活動の中心にし[60]、当時の中森明菜・東京パフォーマンスドール・TMに向けた作品の制作でもそれらを反映させていた[61]。
- ^ 「1992年頃のレイヴ全盛の頃、ロンドンでは本当にスターでした。ライヴだと環境音楽っぽいけど、一方で無茶苦茶ヒットするポップな曲も作っているんです。そういうのはもうアメリカのチャートでも上位に入っています。といっても、バンドみたいに人数が決まっているわけではなくて、ほとんどがDJスタイル。ターンテーブルとサンプラーがあって、人数も3人だったり4人だったり。4~5時間やるのが普通なので、途中で入れ替わったりもする。客の波を拾いながらやるから、楽譜があるわけでもない。見て楽しむエンターテインメントとしてのライヴとは明らかに違いますね。客も簡単に言えば一種のトランス状態。シンクロエナジャイザーが大きくなってコンサートになった感じ。僕もこういうのがやりたい、というより方向性の示唆をしてくれていた」と話している[62]。
- ^ trfの1stアルバム「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜」をリリースした後、自身のソロアルバムを制作していたが「これはTMで発表したい」という気持ちが強くなり、急遽中止した。その時に作られた素材はすぐに商品として発表できるレベルまで煮詰めていた[65]。そして「ループ素材を使ったグルーヴを軸にした音楽」「カラオケで気軽に歌えない音楽」を1994年春のTMのコンセプトとし、「一途な恋」をはじめとするパイロットとなるシングルを3〜4枚出し、リードシングルの無いオリジナルアルバムを出すという予告があった[66]が中止になった。
- ^ 特にビーイングに対して、小室は「本人が歌っている絵が見えないという匿名性があるにもかかわらず、音を自然に楽しんでもらえば、ミュージシャンのキャラクターがはっきり出なくてもいいという姿勢を成立させた」と評している[71]。
- ^ 実際にtohko「BAD LUCK ON LOVE 〜BLUES ON LIFE〜」[75]を例に衣装の提案・イメージ戦略の統括を担当し、楽曲制作には全く関わらないケースもあった[76]。
- ^ 「TRF・安室さん・globe等で書いてきた『女の子同士の共感・友情・仲間意識』『女子が裏側で流行を仕切っていて、女子が男子を品定めしている時代』『女子が主人公で表舞台に立って時代をリードしよう』より彼らの書く『異性に対するきっちりとした愛情』の方が受け入れやすくなった。女子が女子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』から女子が男子に『貴方は素敵なんだから頑張って』という時代になった」と話している[94]。
- ^ 「歌唱力があったり、メロディが良かったり、歌詞が良かったり。僕には彼のしょっぱい感じが出せなかった」と話している[95]。
- ^ 「R&Bやブラックミュージックを本格的にやってみて、本場にどこまで近づけるか挑戦してみようとしたが、僕には突き詰めることができない領域があることを悟り、このジャンルから撤退するのを決意させた」[96]「作詞の概念を変えられてしまった。とにかく僕には『Automatic』っていうのは出て来なかった。出ないってこと自体、クリエイター側からすると『出てこないんだ自分は…』ってなるんです」「歌詞のハメ方、ラジオの喋り方等、何から何まで自由で『うらやましいなあ、こんな好きに喋っていいんだ』っていうことだったり」[95]「ブラックミュージックを原風景に育ったネイティブな日本人が21世紀を引っ張っていく」[30]「ものすごい枚数が売れたと同時に『これ以上はCDの枚数は稼げないだろうな』という直感があった」[97]と話している。
- ^ 日本大学名誉教授の板倉宏は、「巨額詐欺なので、被害者が許した場合でも執行猶予の確率は30%。実刑になった場合は1億円なら1年が相場、今回は弁済しているので3年くらいが妥当」と述べている“執行猶予30%…小室哲哉、まだまだ続くいばら道”. 夕刊フジ (ZAKZAK). (2009年3月13日) 2011年2月3日閲覧。
- ^ 早稲田実業学校時代より複数のバンドで活動。
- ^ 特例として、外部からの依頼に関しては全方位外交で臨む許諾をソニーから得ていた。globe等ユニットで活動する場合は「専属解放」という形になり、1曲毎の許諾を得て、レコーディング・歌唱・ライブ活動・テレビ出演・CM撮影を行い、写真撮影1枚に至るまで詳細な契約書が制作された。麻生香太郎曰く「Jリーグの選手の期限付き移籍みたいな形」と称している[125]。
- ^ 例として、H Jungle with tは2枚目のシングル「GOING GOING HOME」の発売とそれに関連した活動で終わる予定であり[126]、篠原涼子とも制作にエイベックスが関わっていたため、最初からシングル3枚・アルバム1枚とそれに関連した活動のみの契約だった[127]。小室とエイベックスはお互いがいつでも離れられる関係であり、そこから小室は「誰をどのレーベルに所属させれば、製作費が多くもらえるか」を考えていた[128]。契約した最初期は小室自身のボーカル・コーラス等の歌唱を録音することができなかった[129]。
- ^ これは依田巽の「エイベックスが小室さんを独占し、小室さんに安住することを防ぎ、如何にエイベックスが小室さんに魅力的な提案をしていけるのかを考えるのがエイベックスの仕事」という思いやりもあった[126]。
- ^ 小室は「レイブっていうのはキックの音だけで数万人ものオーディエンスを盛り上げていく力を持っているんだ」とDJ KOOに話していた[131]。
- ^ R&Bに興味を持った切っ掛けはティンバランド・ロドニー・ジャーキンスのフィーチャリングを積極的に行おうという姿勢が伝わった。続いてジャム&ルイス・ベイビーフェイスが彼らに追従しようとしていたけど、明らかに感覚が違ったグルーヴが作られていた。それらの現象をみた小室が「自分は果たしてどちらに入るのか?世代は置いといて、若い世代向けの音を作れるのか?」「端から血の部分は出せないと考えていたけど、シーケンサーの進歩でグリッド・シャッフルを作るテクノロジーがかなり進歩してきたから、打ち込みの段階でノリの実験ができる時期がきた」「メロディ・コーラスの場所・曲の起承転結の仕方等は、今までの作り方とは切り離している」と入れ込み様を見せた[136]。
- ^ 他国への発売はiTunes Store配信版のみ。
- ^ trfのプロモーションを兼ねて、横浜ベイサイドクラブで小室の個人名義の主宰で開催されたライブイベント[166]。
- ^ 特に一職業としての音楽プロデューサーに対する思い入れは強く、「プロデューサーという言葉を浸透させたのは僕で間違いないですね。『全体を統率する者がいないと駄目なんだ』ということを業界に一応認知させることができたかなと思います」と話している[167]。
- ^ 一つに「冒頭から最高音」もう一つは「比較的低い音から始めて最高音へ徐々に上げていく」流れがある[169]。ハイトーンのボーカルには赤ちゃんの泣き声を意識している。基本的には「本能的に声を絞り出して」「喉から声を出さないで」「赤ちゃんは本当に心から泣きたいからファルセットを使わないで」「高いキーで泣くように」歌うように指示し、「そばに来て・助けて」というような欲求を訴える雰囲気を出すようにしている[170]。
- ^ 特に後者の方法は「こんな内容で叩かれないだろうか?」というプレッシャーとストレスの解消・スランプの防止・アイディアの開発に役立ったという[176][179]。
- ^ 「下手すると10曲中9曲は使っている。僕にとっては循環コードとしてよく使っている基本コード。外国のヒット曲の中には、マドンナ・カルチャー・クラブ等このパターンを上手く使った楽曲が沢山ある」と語っている[194]。
- ^ 「僕の一連のヒット曲の王道パターンの一つであり、自分のオリジナリティやメロディを振り返るときには外せない」と強い思い入れを語っている[199]。
- ^ 甲斐よしひろは「吉田拓郎、さらにいうとボブ・ディランが多用するパターン」と評している[200]。
- ^ ピーター・バラカンが指摘していた[223]。
- ^ ただし、この手法を麻生香太郎からは「小室に文句を言ったり、注進できるような人が周りにいなくなっているんです。本人は偉そうにしているわけでもないのに、周りが持ち上げてしまって、変な形の裸の王様になってしまっている。彼の英語の歌詞やタイトルを見ていると『流石におかしい』と思う部分がよく出てくる。和製英語をストレートに出す表現とか。チェックする暇も無ければ、その方面に詳しい人材もいなかった」と当時の状況を振り返っている[226]。
- ^ 「美里さんの詞の世界を参考に、『いろんな角度から見る一つのテーマがあったとしたら、自身の視点から同じテーマを書くとこうなる』というアプローチ的手法で作詞していた」[227]「渡辺さんの影響でドア・イノセント・ジェントル・少年・少女をテーマにするようになった」[70]と語る。
- ^ 「彼は仕事柄、女性の台詞も書く。だから作詞においても、男性が女性に成り済まして書いたようなわざとらしさが全くない。『自分に脚本家の真似はできないが、自分なりの書き方を探さなければ』と思った」[228]と語る。
- ^ 「山下さんみたいに流行語を使わない、10〜20年後でも何かに当て嵌めようとすれば誰でも主人公になれるような、あまり時代に寄り添い過ぎない普遍的なワードしか使わない」と語る[229][230]。
- ^ 「せめて音楽位は女の人の味方にならないといけないと感じて作った」と語る[231]。
- ^ ただし、久保こーじは「小室ブームの時期においては、事前にある程度時間をかけて下準備と練習を繰り返しているにも関わらず、取材陣の前では5分で楽曲を作り出したかのような素振りを見せていた部分もあり、必要以上に『天才であることを演出できているか』を心配していた」と語っている[243]。
- ^ 一連の工程の9割は音色作りに割り振り、一つひとつの音色をしっかりオーディションしつつ編集して、『どの音色で弾けば下のベーシックなパートが浮かび上がってくるか』『現場のDJが聴いてすぐに印象に残って使おうと思えるか』まで考えてオーケストレーションのアレンジに近い感覚で作業する[46][274]。
- ^ その直後に突発的に新しいメロディ思いつくことがあるので、それが活かされつつ、楽曲全体の足枷にならないために最初からこの段階で終わらせることもある[172]。その状態をDJ KOO曰く「音数がすごく少ない。メロディも無くて、リズムとシンセがコードで入ってるくらい」と例えている[276]。
- ^ 個々のシンセサイザーでも特徴が違い、「楽曲作りに威力を発揮する機材」「アレンジで役に立つ機材」等とそのときの局面で切り替えている[277]。
- ^ 譜面はスタジオ内で共有するために手弾きでコンピューターにもインプットさせる形で行い、手書きはしない[278]。
- ^ ただし、hitomiと作業する場合は、デビュー前にhitomiに一定期間日記を付けさせた結果「どこで探してきたんだという位古い言葉を使うのが好き」[69]「思っていた以上に丁寧で、同世代の女性の代弁者になれる」[280]と見込んだため、hitomiがメモの落書きの要領で書いた歌詞に対して小室が歌詞を厳選し、音源を後付けしていく方針をとった[281]。
- ^ 小室は「本格的に意識したのは『Love Train/We love the EARTH』を制作した時から」とのこと[290]。
- ^ ただし、この発言は「久米宏さんをフィルターとした番組である「ニュースステーション」の放送時間帯での久米さん以上の年齢の視聴者の反応を考慮したフェイク」とも答えている[291][86]。
- ^ 3小節以上使うと著作権使用料が発生するため、2小節以内に抑えている。
- ^ ただし、自ら「生歌では困難」と称する程のメロディではレコーディング技術を駆使してクリアした部分がある[171]。
- ^ 特にシールドケーブルに対しては「シールドケーブルの中を音が流れるだけでも、その音の音質は劣化する。それを防ぐために1本100万円以上の最高品質のものを指定している[305]」「今までのスタジオの建築費にはどれ程無駄遣いしたか分からない[306]。しかし、シールドケーブルに関しては今でも無駄遣いだとは思わない[307]」と話している。
- ^ ただし、音声圧縮に対しても「いい音が全てではなく、無料で試聴できたり、早く聴けたりするなど圧縮にもメリットがある。確実に音質は劣化するが、圧縮=劣化=ダメということではない」と一定の理解を示している[320]。
- ^ ただし、この作業は小室が「自分で48chのスタジオを用意できたからこそできることで、外部の貸しスタジオでやろうとしたら、大変な手間になる」と語っている[69]。
- ^ これに対して澤野は「耳に残らずに流れていくようなメロディも作品の演出上で情景を表すためにやっているので、何が良くて何が悪いかというものでもないのですが…。僕は小室さんの作った作品のようにメロディの残る楽曲があるサウンドトラックが好きですし、そうした作品が世に増えたらいいと思う」と語っている[238]。
- ^ それでもフロントに出ていた理由として、「プロモーションの都合上、一緒に登場しなければいけなかった自分の周囲に対するせめてもの弁解として『with t』等を付けた」[351]「ミュージシャンとしての小室哲哉を演出したかった」[352]「TMの固定ファンを取り込もうとしていた」[353]と答えている。
- ^ 「ナイル・ロジャースはマドンナの『Like a Virgin』をプロデュースしたけど、ターゲットとした市場は世界の10億人くらい。それに対し日本が1億人だとすれば、たった1割。そこで『たかだか1~2割程度なら、敢えて日本の音楽ファンにだけ向けて作らなくても、『Like a Virgin』みたいな曲を作って、日本でも世間にごり押しすれば1億人に広まるんじゃないか』と思った」と語っている[285]。
- ^ プロデュースする人全員に小室が思い描いたイメージ・キャラクターは、相手の本質とは違う勝手なイメージであったとしても0から作り上げる。一番難しいのは自らも正式メンバーとして所属する音楽ユニットで、ただ小室の主導で動かすのではなく「自分も映るんだ、僕たちは何になればいいんだ?」と悩みながら、メンバーの内面に入り込んで意向を汲んだ上でテーマや方向性等の構想を固めていき、「大衆に認知されるためにはどうするか」を考えている[288][359]。
- ^ ただし、2000年代以降はボーカルの声を事前に打ち込み、ボーカルに合わせて鍵盤で弾いてコーラスの代わりにしたことから、VOCALOIDにも一定の関心を示している[171]。
- ^ 特に3人編成には「意思疎通が密になり、それぞれのキャラクターが際立たせ、役割分担がやりやすい、一番バランスのとれた人数」[371]「音楽に規則を作って『何を排除して、何に徹するか』を事前に考えれば、メンバーに個別の個性が出て、レコード会社にもメリットのある提案ができて、いい聴こえ方の音響演出ができると思って、1983年頃から真剣に戦略として考え始めた。これはYMOの影響が大きい」[20]と称している。
- ^ この照明の演出を見た渡辺美里は「私も同じような演出をやりたい」と直接スタッフに申し入れた程気に入った[368]。
- ^ 小室は「文字や画像なんて、今(1996年当時)のホームページの環境でもフォローできる。CDのプレス・ジャケットの印刷・パッケージ化が終わった後でも、幾らでも新しい情報を盛り込み、提供することができるようになるため『手遅れ』という発想自体が無くなる」と語っている[209]。
- ^ 「P3」は「Pops」「Power」「Passion」という意味を込めている。
- ^ 「でも、このギリギリで必死で切羽詰まった感じは1990年代は通じたけど、今の時代にそぐわないかもしれない」とも答えている[407][300]。
- ^ なお、実際には一般人の運転には危険が伴うため、製造したダイムラーは購入者の技能を調べた上で販売している。詳細は当該項を参照。
- ^ 例えばMIDIやサンプラーが出てきて、それまでは全部打ち込みだったのが、「リズムは録音したフレーズをまるごとサンプリングすればいい」とその時々の新しい機材を駆使しての制作方法を掴むのに2人で試行錯誤した[290]。
- ^ スタジオミュージシャンにやれるだけの大量のテイクを要請した後、そこから音・タイミングが外れているミステイクを選んで消したり、本来ギタリストが担当するはずのパートを自身が担当するキーボードのパートに差し替える小室と、PATAの担当したギターのパートを「やっぱりいらない」と全て没にするYOSHIKIはお互いの共通項である「作品にいらない音は容赦なく抜く」という思想に共感し合った[459]。
- ^ globeをエイベックス・エピックのどちらでデビューさせるか一悶着があった、丸山茂雄の要請で華原朋美をエイベックスの事務所がマネジメントする、戦略上の事務所同士の権力争い等[51]。
- ^ 坂本はライブの生中継を目指し、小室は音源データの配信を意図していた[215]。
- ^ お互いの祖父がいとこ同士(出典:時計寄贈の過去も…小室哲哉の遠縁村長自殺か(社会)――スポニチ Sponichi Annex ニュース)
- ^ 基準として「鼻声は駄目。声が顔のイメージと一致しない人も駄目。初対面で声が抜けて耳と五感に響けばそれで良かった」[38][16][505]「『誰からも好かれる声』ではなく『頑張ればあの人になれる、明日カラオケに行ってちょっと歌ってみようかな…という希望を持てるような、嫌われない・気持ちの良い声質』を選んでいた」[171][300]と語っている。
- ^ 反面「当時SNSがあったら、たぶん否定的な意見に負けてしまっていたと思うんですね。1990年代はまだそこまでネットの時代ではなかったので、否定的な言葉が直接飛び込んでこなかった。いい話だけを聞けて、否定的な話には耳を閉じることが可能でした。だから前に進めた。『これでいいんだ』と」とも語っている[514]。
- ^ それに対して宇都宮は「一人だから細かい所まで目が行ってないと全部自分に跳ね返ってくるからね」と答えている[66]。
- ^ これに対して小室は「僕もダンサブルな要素が必要と思いながら作っていた」と答えている。
- ^ これに対して小室は「ロサンゼルスに住んでいた頃は2日に1曲作っていた。日本向けのミックスを制作するという発想すらなかった。ミキシング作業は僕の意図が早く通じるイギリスかアメリカ出身のエンジニアが中心でした。だから日本のマーケットの耳も洋楽的な音像に慣れてきた」と語っている[299]。
- ^ これに対して小室は「教育活動というほど押し付けがましいことは全然していない。トラック・テンポ等考えているけど、どうしても色は出てしまうので困る。ただ、今実験しているのが『ポップだね』と言われたらこれ程嬉しいことはない」と答えている。
- ^ これに対して小室は「年をとってその道へ入学・卒業等の通過儀礼を繰り返した後でも恥ずかしくなく照れずに入れるような、誰の心にもあるテーマを歌詞にしている」「できるだけ同じ音色に嵌りたくない、常に新しいリズムを追求したい」と答えている[215]。
- ^ 『HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE』での冨田勲との対談で発言。
- ^ これに対して小室は「確かに僕の場合は、企画が立ち上がってから誰かに頼むという必要がないですからね。曲も詞も自分で作る場合が多いし、完成した姿がイメージできないと引き受けませんから。完成したイメージが描ければ、後はそれを現実に落とし込んでいけばいいだけですから」と答えている[70][614]。
- ^ これに対して小室は「沢山の人達に買ってもらうためには、買う人達がカラオケ等で楽しむための素材として音楽が存在しないとだめ。それにTMで照明が光り輝いている祭壇みたいなステージに向かって、ファンが皆同じように手拍子を打ったりするのを見てて、宗教の集いみたいで怖かった。それを打破するにはもうファンを中心にするしかない。歌を聴くだけじゃなく、踊っている人がいてもいいし、おしゃべりしている人がいてもいい」と答えている[16]。
- ^ これに対して小室は「『自分から仕切る』のはプロデューサーではないと思ってますから。僕のプロデュースの原点は最初にその人ありきで、まずその人が『何をしたいのか、どうなりたいか』をインタビューすることから始めて、僕が『叶えてあげられそうだ』と思ったら話が成立する。やり方はプロ野球監督やサッカーのコーチに近い。『成功するために一緒にいくつかのハードルを超えていこうよ』ってなるんです」と答えている。
- ^ これに対して小室は「テレビのドキュメンタリー番組を作るような感じです。直接取材したり、資料を見ながらイメージする内に同一化して10代の気持ちになれるのかもしれません」と答えている。
- ^ これに対して小室は「歌謡曲は比較的ストーリーや内容をきちんと説明するのが多かったんです。でも僕は『どこか一文だけでも相手の心にフィットして、その部分だけを切り取って覚えてくれればいい』と思っていました。極端に言えば、それ以外の歌詞は引き立て役に過ぎなかったんです。だから様々な映画の1シーンをバラバラに切り取ってつなげるように歌詞を作っていました。きちんとしたストーリーや設定があるわけではないけれど『全体で何となく雰囲気が出せればいいかな』と」「独り言やおしゃべりで使う言葉も歌詞に潜り込ませていました。人は会話をする時に必ずしもきちんとした日本語を使っていないし、論理的にもストーリー的にも成立するとは限らない。そんなニュアンスを入れたかったんです。僕の歌詞のほとんどは『とりとめのない、ぼんやりとした壮大な独り言』とも言えますね」と答えている[96]。
- ^ これに対して小室は「もしかしたら潜在的に女性願望があるかもしれない(笑)。だから『女装しても自然に入り込めちゃうんじゃないか』という変な自信があるんですよ。だから『どうしても分からない』って感じたことがないんです」「『曲』という部屋を用意した後、『壁紙は何色だろう?』『机はどんなだろう?』『電話は誰からかかってくるんだろう?』という設定を作りながら1番を書き終えると、キャラクターが見えてくる。そしてエンディングを迎える頃にはある程度主人公がハッキリしてくる」と答えている。
- ^ これに対して山下達郎は「そうそう、まったくその通り」と答えている[589]。
- ^ FM802・NACK5の「JAPANESE DREAM」が代表的である[709][656]。
- ^ 小室・西村麻聡・山田わたるによる企画ユニット。FENCE OF DEFENSEのデビューによりTM NETWORKのサポートメンバーから抜けざるを得なくなった西村・山田への返礼として結成され、1987年1月に全国8ヶ所を周った。ハワード・ジョーンズのコピー・TMの楽曲のインスト・吸血鬼ハンター“D”の楽曲・未発表のオリジナル楽曲が演奏された[180]。
- ^ 1993年の「avex rave '93」まで正式メンバーとしてキーボードで参加。
- ^ 山羊智詞率いるロックバンド。小室はキーボーディスト・作曲家としての参加であり、水江慎一郎 (ex UP-BEAT)、横内健亨(ex ハイソサエティー、TENSAW)、朝井泰生、今川勉 (ex ECHOES) もメンバーとして名を連ねていた。ツアー途中からに太田明(ex 筋肉少女帯)が参加、1993年頃にデビューアルバムをリリースする予定だったが、レコード会社・所属事務所の都合でアルバムリリース直前に解散。EPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)から発売予定だった1stシングル「No! Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。
- ^ 東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトのために結成された小室と久保こーじと松本みつぐ・田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。
出典
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- ^ “小室哲哉×BiSH運営(松隈ケンタ&渡辺淳之介)インタビュー”. billboard Japan. (2016年3月8日) 2016年3月8日閲覧。
- ^ シンコーミュージック・エンタテイメント刊『B-PASS ALL AREA』Vol.4より。
- ^ 「【BRIAN SHINSEKAI インタビュー】80〜90年代のポップスとEDM以降をつなぐアーティストは自分でも面白いと思う」より。
- ^ “作詞家 zoppに聞く、平成カラオケソングの傾向「歌うのが難しい曲の方がたくさん歌われている」”. Real Sound. (2018年12月28日) 2019年2月15日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1998年1月9日付夕刊、7頁。参考
- ^ “秋元康氏、作詞家売上日本一に 総売上6859.1万枚で阿久悠さん上回る”. オリコン (2013年2月28日). 2013年4月7日閲覧。
- ^ 麻生香太郎 1997, p. 62-63
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- ^ 朝日新聞社刊「読むJ-POP 1945-2004」田家秀樹著pp.306-307より。
- ^ ディスクユニオン刊 「作編曲家 大村雅朗の軌跡 1951-1997」 ・田渕浩久著より。
- ^ “今、J-POPとは何か?「リズム」から見えてくる2010年代の変化”. 現代ビジネス. (2019年12月18日) 2019年12月18日閲覧。
参考文献
- 麻生香太郎『ブレイク進化論』情報センター出版局、1997年。ISBN 978-4795823426。
- 神山典士『小室哲哉 深層の美意識(講談社文庫版)』講談社、1997年。ISBN 978-4-06-256206-5。
- 小室哲哉、中谷彰宏『プロデューサーは次を作る』飛鳥新社、1998年。ISBN 978-4-87-031346-0。
- 近田春夫『近田春夫の考えるヒット2』文芸春秋、2001年。ISBN 4-16-710709-0。
- 木根尚登『まっすぐ進む 夢へのヒント54』メディアファクトリー、2003年。ISBN 4-8401-0716-5。
- 小室哲哉『罪と音楽』幻冬舎、2009年。ISBN 978-4-344-01731-3。
- 市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』シンコーミュージック・エンタテイメント、2014年。ISBN 978-4-401-63965-6。
- ぴあ 編『小室哲哉ぴあ globe編』ぴあ、2015年。ISBN 978-4-8356-2511-9。
関連項目
外部リンク
- ウィキニュースに関連記事があります。小室哲哉プロデューサーが楽曲著作権を譲渡すると偽って5億円を詐取し逮捕。容疑認める
- TETSUYA KOMURO(小室哲哉)(こむろてつや) official website - avex公式ウェブサイト
- 小室哲哉(TK)公式 (@tetsuyakomurotk) - X(旧Twitter)
- Tetsuya Komuro(@Tetsuya_Komuro) - Twitter - ウェイバックマシン(2017年3月13日アーカイブ分)
- TK Official-Staff (@TK_staff) - X(旧Twitter) - 旧公式スタッフアカウント
- 小室哲哉 (@tetsuyakomuro_official) - Instagram
- 小室哲哉 (TetsuyaKomuro.Official) - Facebook
- 小室哲哉 - Myspace
- 小室哲哉 - Discogs
- guerilla music - TKCOMのスタッフが運営する小室哲哉YouTube公式チャンネル
- TK MUSIC CLAMP - 小室哲哉が1995年から1996年に司会を務めたフジテレビの音楽番組(オフィシャルサイト)
- DMM オンラインサロン「小室哲哉 - TK Culture Gathering」
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