コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「小室哲哉」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
(同じ利用者による、間の6版が非表示)
160行目: 160行目:
=== 突然の引退表明 ===
=== 突然の引退表明 ===
公には過去の事件から復帰し、順調と見られていた活動は、突然に終わりを迎えた。2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑記事が前日発売の『[[週刊文春]]』に掲載されたことを受け、同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した<ref>{{Cite news |title=小室哲哉さん音楽活動を引退 騒動に「お詫びとけじめ」 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2018-01-19 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL1L7F99L1LUCVL01K.html |accessdate=2018-01-19 |publisher=朝日新聞社}}</ref>。小室は会見で、女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、[[C型肝炎]]や左耳の[[突発性難聴]]といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり、身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした<ref>{{Cite news |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/891625/ |title=小室 自身の秘密を明かしながら男女の関係を否定 |newspaper=東スポWeb |publisher=東京スポーツ |date=2018-01-19 |accessdate= 2018-01-20}}</ref><ref>{{Cite web |date=2018-01-19 |url=https://mdpr.jp/news/detail/1741496 |title=<小室哲哉 会見全文>50分間の激白…不倫疑惑報道、頭にあった“引退”、KEIKOの容態など |publisher=モデルプレス |accessdate=2018-01-20}}</ref>。一部週刊誌は作曲家が引退宣言を行うことは異例という趣旨の報道を行っており、インターネット上では「あの不倫報道は必要だったのか」などと芸能報道の公益性を問う意見も見られた<ref>[http://www.jprime.jp/articles/-/11527 『文春砲』を跳ね返した小室哲哉の謝罪会見は本当に「大成功」だったのか] 週刊女性PRIME 2018/1/22(主婦と生活社、2018年2月6日閲覧)</ref>。
公には過去の事件から復帰し、順調と見られていた活動は、突然に終わりを迎えた。2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑記事が前日発売の『[[週刊文春]]』に掲載されたことを受け、同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した<ref>{{Cite news |title=小室哲哉さん音楽活動を引退 騒動に「お詫びとけじめ」 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2018-01-19 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL1L7F99L1LUCVL01K.html |accessdate=2018-01-19 |publisher=朝日新聞社}}</ref>。小室は会見で、女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、[[C型肝炎]]や左耳の[[突発性難聴]]といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり、身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした<ref>{{Cite news |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/891625/ |title=小室 自身の秘密を明かしながら男女の関係を否定 |newspaper=東スポWeb |publisher=東京スポーツ |date=2018-01-19 |accessdate= 2018-01-20}}</ref><ref>{{Cite web |date=2018-01-19 |url=https://mdpr.jp/news/detail/1741496 |title=<小室哲哉 会見全文>50分間の激白…不倫疑惑報道、頭にあった“引退”、KEIKOの容態など |publisher=モデルプレス |accessdate=2018-01-20}}</ref>。一部週刊誌は作曲家が引退宣言を行うことは異例という趣旨の報道を行っており、インターネット上では「あの不倫報道は必要だったのか」などと芸能報道の公益性を問う意見も見られた<ref>[http://www.jprime.jp/articles/-/11527 『文春砲』を跳ね返した小室哲哉の謝罪会見は本当に「大成功」だったのか] 週刊女性PRIME 2018/1/22(主婦と生活社、2018年2月6日閲覧)</ref>。

引退会見以降、妻の[[KEIKO]]とは会っておらず、連絡を取る時は弁護士を介している<ref>{{Cite web |url=https://www.news-postseven.com/archives/20190206_865624.html?DETAIL|title=地元大分での元気なKEIKO近影5枚 マスク越しの元気な表情|website=NEWSポストセブン|date=2019-02-06|accessdate=2020-08-02|publisher=Shogakukan Inc.}}</ref>。

=== 離婚調停 ===
2018年に不倫関係を報じた引退会見を開いた当時、小室は離婚について問われたが「そのような考えはない」「(妻の)目を見てしっかり話したい」などと答えていた<ref name="rikon">{{Cite web |url=https://bunshun.jp/articles/-/37245|title=
小室哲哉・KEIKO夫妻の泥沼離婚調停が始まった|website=文春オンライン |date=2020-04-15|accessdate=2020-08-02|publisher=文藝春秋}}</ref>。しかし、その後、小室は現在まで一度もKEIKOと会っていない<ref name="rikon"/>。全く説明が無いまま放置されたKEIKOは、同年末頃から弁護士を立て、別居中の生活費を求める調停を申し立てた<ref name="rikon"/>。しかし、当初、小室側が提示した生活費は、月8万円程度だった<ref name="rikon"/>。現在も著作権印税などで1億円近い収入があるのにも関らず、税金や経費を差し引くと600万円台と主張<ref name="rikon"/>。根拠となる資料を提出したが8万円案は退けられている<ref name="rikon"/>。最終的には2020年1月下旬にKEIKO側の要求に近い額で決着し、小室の主張はほぼ認められなかった<ref name="rikon"/>。その後、小室が申し立てていた離婚調停が始まり、2020年3月上旬に東京家裁で1回目の調停が行われた<ref name="rikon"/>。

2018年の不倫騒動の方との交際は現在も続いており、父親は「週刊文春」の取材に対して、「私からは別れろとも言えないし、結婚しろとも言えない<ref name="rikon"/>。小室さんには別れるにしても一緒になるにしてもきちんとして欲しい」と語っている<ref name="rikon"/>。

2011年にKEIKOをクモ膜下出血になって以降6年の間、リハビリに取り組んでいるKEIKOを小室は傍らで支え、メディアの取材に対し「僕にはこの人しかいない」「彼女に寄り添いたい」と語っていた<ref>{{Cite web |url=https://president.jp/articles/-/25666|title=「小室哲哉のウソ」を暴いた文春砲の逆襲
「KEIKO親族怒りの告発」の価値|website= |date=2019-02-06|accessdate=2020-08-02|publisher=PRESIDENT Online}}</ref>。


=== 制作活動の再開 ===
=== 制作活動の再開 ===
623行目: 634行目:
}}
}}
*[[2020年]]
*[[2020年]]
:3月上旬 - 妻の[[KEIKO]]との1回目の離婚調停が行われた<ref name="rikon"/>。
:[[6月12日]] - [[秋元康]]の依頼で[[エフエム東京|TOKYO FM]]「[[TOKYO SPEAKEASY]]」にゲスト出演、2年4ヶ月ぶりにメディア出演を果たす<ref name="nikkan20612"/>。
:[[6月12日]] - [[秋元康]]の依頼で[[エフエム東京|TOKYO FM]]「[[TOKYO SPEAKEASY]]」にゲスト出演、2年4ヶ月ぶりにメディア出演を果たす<ref name="nikkan20612"/>。
:[[7月24日]] - 秋元康の後押し・オファーによって、[[乃木坂46]]に「Route 246」を提供、[[ラストアイドル]]の2ndシングル「[[君のAchoo!]]」収録曲「風よ吹け!」以来2年3ヶ月ぶりに公に楽曲提供を行う<ref name="oriconhuki"/>。
:[[7月24日]] - 秋元康の後押し・オファーによって、[[乃木坂46]]に「Route 246」を提供、[[ラストアイドル]]の2ndシングル「[[君のAchoo!]]」収録曲「風よ吹け!」以来2年3ヶ月ぶりに公に楽曲提供を行う<ref name="oriconhuki"/>。

2020年8月2日 (日) 13:53時点における版

小室 哲哉
MTV Video Music Awards Japan 2014」のレッドカーペットに登場した小室哲哉。
基本情報
別名 t[注釈 1]
t.komuro[注釈 2]
TK
TECHI KOMURO[注釈 3]
TETSUYA KOMURO[注釈 4]
Tetsuya Komuro
Tetsuya_Komuro[注釈 5]
TETSUYA "TK" KOMURO[注釈 6]
566[注釈 7]
DJ TK[注釈 8]
t.tek 2[注釈 9]
TAN DK[注釈 10]
Lifecell[注釈 11]
Digital "Cheap" Snake[注釈 12]
スーパーウェーブ小室[注釈 13]
生誕 (1958-11-27) 1958年11月27日(66歳)
出身地 日本の旗 東京都府中市
学歴 早稲田大学社会科学部中退[1]
ジャンル J-POP
テクノポップ
テクノ・ダンス・ミュージック
EDM
ジャングル
トランス
ニューエイジ
R&B
ヒップホップ
プログレッシブ・ロック
オルタナティヴ
職業 音楽プロデューサー
作詞家
作曲家
編曲家
トラックメイカー
キーボーディスト
シンセシスト
シンセサイザープログラマー
ミキシングエンジニア
DJ
担当楽器 キーボード
シンセサイザー
ピアノ
ギター
ベース
ドラムス
コーラス
ボーカル
オルガン
ブルースハープ
活動期間 1975年 - 2018年
2019年 -
レーベル avex trax
/avex globe
(1991 - )
事務所 Avex Management
/a nine
(2009 - )
共同作業者
公式サイト avex公式サイト
著名使用楽器
Roland TR-808 / TR-909
YAMAHA KX1 / KX5 / KX76 / Tetsuya Komuro’s Mind Control
YAMAHA DX7 / DX7II-FD / DX7II-D
EOS B200 / B500 / B700
Synclavier 6400
Roland JD-800
Fantom-G6 / G7 / G8
Clavia・Nord Lead 3
Access Virus・Virus Indigo 2 Redback

小室 哲哉(こむろ てつや、1958年昭和33年〉11月27日 - )は、日本ミュージシャン作曲家音楽プロデューサーキーボーディスト東京都府中市出身。
東京多摩振興特命武蔵国府中大使[3]。元尚美学園大学芸術情報学部教授。親は福島県出身。妻はglobeボーカルKEIKO。従兄弟はアイドルグループCHA-CHAのメンバーで音楽家の中村亘利。愛称は「てっちゃん」「先生」「TK」など。身長167cm、体重57kg。血液型O型。

略歴

学生時代

3歳から12歳まで東京芸術大学教授の下でヴァイオリンクラシック音楽練習曲で只管同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。小学生の頃から既にクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていた[4][5][6]。小学5年生のとき、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の親戚の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた[5][7]。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さ[8]、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成[6]に影響を受けた。反面ピアノは独学であり、プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった[9]。ただしそれが功を奏し、後に「和音管弦楽法を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった[6]

音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている[10][11][12]日本万国博覧会シンセサイザーマニピュレーターマルチモニター・12チャンネルステレオを背景に演奏する冨田勲を間近で見て、「もしモーツァルトの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える[13][14]

中学生の時にシンセサイザーを無性に買いたくなり、家にあったギター・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「ローランドSH1000」を購入した。家族からは叱られたものの、「当時のシンセサイザーはエレクトーンより音数も限られていて、機体も小さかった。だけど間違いなく自分が得意なものとプライドを持てる」と確信し、それを切っ掛けに改めて練習を続けると共に、オリジナル楽曲の作曲を本格的に始める。渡辺美里の「きみに会えて」「BELIEVE」「嵐ヶ丘」「I wish」・TM NETWORKの「Here, There & Everywhere (冬の神話)」等後に提供する楽曲の雛型約20曲をその頃に作曲したという[5][15][16][17]

早稲田実業学校高等部商業科に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという[18]。この頃からELPピンク・フロイドレッド・ツェッペリンキング・クリムゾンT.Rex[注釈 14]ユーライア・ヒープコモドアーズKool & the GangEarth, Wind & Fireドナ・サマーディープ・パープルYes等の洋楽をプログレッシブ・ロックファンクを中心に漁るように聞いた[20][21]。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、キース・エマーソンリック・ウェイクマンジョン・ロードキース・ジャレットジョー・サンプルデイヴ・グルーシン等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン[注釈 15]・キース・ジャレット[注釈 16]に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた[19]

早稲田大学社会科学部[1]に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する[注釈 17]。初めての現金で支払われたギャランティーは、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった[24]。ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった[19]。大学の講義にはほとんど出なかったが統計学だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた[25]。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために除籍となる[26]

「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「Player」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向はジョルジオ・モロダー[注釈 18]ELOバグルスのような「テクノポップの方面に行き過ぎず、飽くまでもポピュラー音楽の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くダンス・ミュージックの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた[28]。そうしていく内にデモテープが小坂洋二小林和之の目に留まり[29]、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった[11]

TM NETWORK〜TMN

自身の音楽ユニットであるTM NETWORKと並行して、三浦徳子の勧めと三浦の紹介で知り合った渡辺有三の推薦[30]、「たまには他の人の曲を作るのも勉強になる」という今野敏の後押し[31]岡田有希子の「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」を皮切りに、渡辺美里荻野目洋子おニャン子クラブ福永恵規堀ちえみ中山美穂松田聖子小泉今日子宮沢りえ観月ありさ牧瀬里穂中森明菜などに楽曲を提供し、作曲家としても活躍する。その活動はTM NETWORK・ソロ活動の際の企画・制作費・プロモーションの環境整備に一役買った。特に当時共同で作業する機会が多かった大村雅朗に関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。その上で他の歌謡曲とどのように馴染ませるか・どうフレーズとコード進行をアレンジすればヒットするかを考えるときに随分助けてもらった」と語っている[32][16]

1986年(昭和61年)に渡辺美里へ提供した「My Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞。TM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場。しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社と一緒に他の人気アーティストと発売日が飾らないように、スケジュールを自ら調整するようになる[33]

1988年初春から、「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作・海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室一人の仕事で費用をペイすることを条件[34]ロンドンに渡り、半年程をアパートで過ごした[注釈 19]。部屋に置いたCP-80で曲を作り、製品盤のイメージが見えてきたらトンプソン・ツインズのプライベートスタジオに足を運んでデモテープを作り、それを郊外のレコーディングスタジオで仕上げるという現地のミュージシャンと同じスタイルでの制作活動を繰り返した[37]。あわよくば現地にて女性ボーカリストをスカウトし「TM international」というTMの姉妹ユニットを結成・世界デビューさせる計画があったが、カイリー・ミノーグの1stアルバム「Kylie」の売り上げ規模をみて、日本と海外のマーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと[34]・「キックハイハットがシンクロしていない。これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告され、自分の無力さを痛感したこと・プロデューサー集団PWLストック・エイトキン・ウォーターマン)の仕事を間近で見たことによりスタジオワークの面白さを知ったこと[注釈 20]ジャングルのロンドンでの浸透にショックを受けたこと[注釈 21]・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話、企画書のチェックにはFAX、デモテープの配送には郵便と用途別に使わなければならず、無駄な時間と通信費がかかり、本来の仕事に支障をきたしたことで白紙になった[42][43]。この件がきっかけでそれ以降、1年に最低でも1回、多くて4~5回はスタジオの設計と機材の研究も兼ねて、ロンドンの複数のスタジオでレコーディング・ミキシング作業を行うようになる[36][44][45]。その他にもミュージカル作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーの次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した[注釈 22]

1989年(昭和64年/平成元年)にシンガーソングライターとしてソロデビュー。リードボーカルを担当した「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。1985年 - 1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル モーツァルト」の劇中音楽を手掛けた。

1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[47][48][49][50]。ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。でも、歌う曲はサザンオールスターズ松任谷由実さん・ZARDのような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている[15]。しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[26]

しかし、小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」と議論が巻き起こった。これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった[注釈 23][52]。それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた。形態として「演奏権は確かにエピック側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」と丸山が保障するすることで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる3つの音楽著作権印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が頂く形をとり[53][54]、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」は小室の取り分になった[36][55]

1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え[56]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、只管に楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[57][注釈 24]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[60]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[61]

そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性[注釈 25]を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[64]というコンセプトから来たものである。小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している[65]

小室ブーム

1999年10月20日総理大臣官邸にて内閣総理大臣小渕恵三(右)と

1994年TMN終了前後から、観月ありさ篠原涼子trfhitomi内田有紀H Jungle with tdosglobe華原朋美安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。ソニー・ミュージックエンタテインメント丸山茂雄が小室のプロデューサー活動を支援するためにアンティノスレコードを設立し、マネジメント業務もアンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)に移管した[66][67]

プロデュース手法の構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマンとレコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイング長戸大幸のプロデュース手法を参考にしたとされる。実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた[66][67][68]。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し[50]、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った[69]

1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙により1996年に終了している。

1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞[70]。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いても構わないし[注釈 26]、最初から最後まで見てくれてもいい。アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません。レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・キャッチコピーと取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい。ライブの内容やスケジュールも監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり[40][36][73][74][75][76]、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し[77]、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないで代理店のスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った[36][78]。小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった[79]

1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートした[80]

この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程[26]のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが、小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」[81]「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽ができるようになる。自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」[67]「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」[79]と割り切った意見を述べた。

1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した[70]。1996年はglobeのアルバム「globe」が当時のオリコン記録を更新し、歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録。安室奈美恵のアルバムも330万枚を超え、華原朋美のアルバムも250万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した[82]。さらに1996年から2年連続で高額納税者番付において全国4位を記録、1997年の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった[82]。1996年末には海外進出を狙いルパート・マードックと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した[82]

1997年、スピード2のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った[82]。8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、制作・生活拠点をロサンゼルスに移し、活動拠点をアジアに定めた。「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか?』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた[83][84][85]が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にデータ転送の速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」[86][87]「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオに逃げたかっただけだった」[88][89]と語っている。

ブームの失速

1997年前半まではミリオンセラーを連発していたが、この頃から既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がポップテイストからエレクトロニカへ変化している点(特に安室奈美恵の楽曲が顕著)、同年夏に小室とエイベックスの関係性の急速に悪化によりglobeが一時活動停滞したことや翌年1998年にはTRFhitomiらのプロデュースが無くなり、小室ブーム全盛期の中心にいた安室奈美恵は出産のため休業し、ミリオンセラーを叩き出した華原朋美も恋愛関係の清算による離脱等の複合的要因で小室ファミリーの規模が急激に縮小。同時期に“非 小室系”のJ-POPアーティスト(R&B本格シンガーとして登場したMISIA、バンドブームを牽引したGLAYL'Arc〜en〜Ciel、若年層のアイドルブームを牽引したSPEED、エイベックス内で脱小室派閥が進んで勢いをつけたEvery Little Thingなど)が台頭し始め、小室ブームに陰りが見え始める。1998年にはtohko鈴木あみ未来玲可をプロデュースさせたものの、1996年前後の小室ブーム全盛期と比べて勢いは劣るものとなり、ファン離れが急速に進んだ。

翌1999年以降は日本の一般層に対して訴求力を持っていた明確なサビを持たせた楽曲展開を放棄し、globeTRUE KiSS DESTiNATiONらを使って小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、楽曲全体として抑揚の無いトランスなどを日本のJ-POPに導入しようとした試みが、その後の人気低迷を決定付けてしまった。また、更なる世代交代で新しいアーティスト(若干15歳ながら数々の金字塔を打ち立てた宇多田ヒカル、エイベックスの脱小室派閥による露出過多戦略で女子高生を中心にブレイクした浜崎あゆみ、オーディション番組からつんく♂のプロデュースでブレイクしたモーニング娘。、HIP-HOPの本格的な火付け役となったDragon Ash、自称新宿系を称し独自の世界観で魅了したシンガーソングライター椎名林檎など)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げに急ブレーキがかかり[82]、小室ブームが終焉した[90]。鈴木あみの提供曲はデビュー時から2000年までヒット上位にあったものの、鈴木側のマネジメント上の問題で2000年9月を以て関係が絶たれ、それ以後はglobe関係の活動がほぼ小室のウエイトを占めるようになった。

特にヴィジュアル系[注釈 27]つんく♂[注釈 28]・宇多田[注釈 29]の台頭には、価値観と感覚の相違・引退を意識させられた程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたいときに作れて、鍵盤を弾けるときに弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた[95]

この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」[96]小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップのような音楽を目指したいと思った」[97]と心境の変化を語った。

吉本興業へ移籍

2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受の報酬金(印税)18億円を返還。数々のミリオンセールスを導き出した安室奈美恵が『Think of me/no more tears』を最後に小室ファミリーから独立した。5月にASAMIと再婚。また、小室が株式の大半を握っていたRojam社が香港株式市場(H株GEM)に上場factoryorumokを清算後、マネジメント契約をアンティノスマネジメントから吉本興業所属に移す。かたわらでタレントとしても活動し、同年のバラエティ番組「笑う犬の冒険」のコントに『超ハンサム侍』として出演する等の話題はあったが、プロデュース業は好転しなかった[82]。9月に富士銀行が日本の銀行として初めて本人所有の著作権を担保に10億円の融資を行った[98]。融資金は先述の専属プロデューサー契約解約による前受金返還に充てたことが後の5億円詐欺事件の公判で明らかにされた。

2002年3月にASAMIとわずか10か月でスピード離婚(実子あり)。5月には吉本興業が設立したアール・アンド・シー・ジャパン(現:よしもとアール・アンド・シー)の株式70%強をRojamが買収し、吉本との関係を強化した。そして11月にはKeikoと再婚。TBSで結婚披露宴特別番組生中継されたことは話題となった[82]。しかし、ASAMIとの間で合意した約7億円の慰謝料を一括で払うことはできず分割で支払うことになったが、その支払いも資金繰り悪化のために2004年8月頃には滞るようになったという[82][99]

この頃より所有していた別荘株券高級車クルーザーなどの資産売却を行うようになった[82]。2004年には約70億円の株式評価損が生じたRojam Entertainmentの出資・経営から撤退した[82]。さらに2005年9月には大分トリニータへのスポンサー料7000万円を滞納していることも明らかとなった[99]2008年11月1日NACK5の開局20周年番組に出演した際には自らの活動を振り返り「98年からの10年はなかなか曲が出てこなかった」[100]「もうやれることはやりつくした気がして貪欲になれなかった」[101]と語っていた。

5億円詐欺事件

2006年8月6日、小室は日本音楽著作権協会に自分名義で登録している全楽曲806曲の著作権を10億円で譲渡する仮契約を関西地方在住の個人投資家男性と締結。前妻のASAMIが著作権使用料を差押さえているとして、その解除費用として5億円の先払いを要求し、8月29日までに5億円を受け取った[102]

しかし実際には仮契約段階で既に著作権の一部は、エイベックス・エンタテインメントバーニングパブリッシャーズライジングバブリッシャーズといった音楽出版社に譲渡(音楽業界では著作者である作曲家や作詞家が音楽会社に著作権を譲渡して管理を任せる代わりに印税を受け取ることが慣例となっている[102])されており、小室には著作権がなかった[102]。だが小室は返金に応じなかったため、男性は2008年2月に小室に対し逸失利益を含めた6億円の損害賠償を求め提訴[102]。小室が全額を支払うことで和解が成立したが、期日であった9月末までに小室は支払わなかった[102]

このため男性は地方検察庁刑事告訴した[102]。検察側は小室が受け取った5億円を差し押さえ解除ではなく借金返済に使っていたことを把握。当初から金を詐取する目的だったと判断し、2008年11月4日午前7時40分頃に大阪地検特捜部は小室とトライバルキックスの社長、広告会社の実質経営者の計3名を5億円の詐欺容疑で逮捕した[103]。なお、前日に大阪地検特捜部から任意出頭の要請を受けたため新大阪駅前のシティホテルに滞在しており、逮捕時はみのもんたの朝ズバッ!など一部の朝の情報番組が特別編成となり、逮捕容疑の解説とホテル上空の空撮映像を交えてホテルエントランス前から連行される様子を生中継していた。

11月21日に起訴され、同日に保釈保証金3,000万円を支払い保釈された[104]。保釈保証金はレコード会社のエイベックスと妻のKEIKOが支払った[105]

2009年1月21日に大阪地方裁判所にて初公判、3月12日に第2回公判が行われる。第2回公判直前の3月10日、解決金を含めて6億5000万円をエイベックス・グループ代表の松浦勝人がポケットマネーで立て替え、被害者に完済した。被害者側に謝罪の手紙を送っているが受取りを拒否されている[106]。なお、この被害者に送るつもりだった謝罪文は第三回公判の際に、小室自身により読み上げられた[107]。被害者側との示談交渉においては、情状証人として出廷した松浦は「示談を申し込んだが“できない、誠意が足りない”と弁護士から聞かされた。“誠意が足りないとはどういうことか”と代理人に尋ねたら“お金だ”と聞き、非常にショックを受けた。」と証言した[108]が、被害男性は「そのようなことは一切言っていない」と否定し、「民事裁判で和解が成立して決着している。」と話している[109]。なお、SNSmixiでは2008年11月から「小室哲哉氏の復活を願う会」というコミュニティが457人を集めたり、mixiのサポートを受けての紙ベースの署名活動も行われていた。(署名TVでも行われていた。)さらに小室の母親やマネージャー、弁護士の了解を得た上で署名活動と平行して裁判所への提出もありうるという大前提で小室に対して手紙を書く「小室哲哉さんへの手紙」という活動も行われていたりと、復帰待望論が起き、[注釈 30]小室の減刑を望む動きは、音楽業界や音楽業界関係者からもあり、実際に減刑嘆願書を出した音楽業界関係者もいた[110]。第3回公判は4月23日に行われて結審。

2009年5月11日大阪地方裁判所より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡され、弁護側・検察側共に控訴はせずに、同年5月25日午前0時をもって刑が確定した。

再出発

2014年6月14日MTV Video Music Awards Japanにて

2010年5月に復帰第一作としてAAAの楽曲「逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜」をプロデュース。また、翌6月には森進一への提供楽曲が発売されることがマスメディア、および5月2日付の小室のtwitterにて明らかとなった[111]。『眠らないラブソング/道標』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった。その後もレコード会社を問わず超新星SMAP北乃きい浜崎あゆみらへ楽曲を提供している。小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた。一方で2010年9月29日にはglobeのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された。また、11月にやしきたかじんへ楽曲「その時の空」を提供した。

2011年6月13日、宇川直宏の主催する音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信ライヴを行う。瞬間最大視聴者は2万7000人を超え、合計視聴者数は14万4000人を記録した。12月23日、ラフォーレミュージアム原宿にて開催される「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の4日目に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催した[112]

2012年3月20日、幕張メッセで行われた東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE-give&give-』に、TM NETWORKとして参加したのをきっかけに、約4年ぶりにTM NETWORKの活動を再開する。

DMM オンラインサロン「小室哲哉 - TK Culture Gathering」を開設し、ファンとの触れ合いの場も積極的に開催し、本人からのオンラインサロンにかける意気込みも語られている。

TM NETWORK 30周年

2016年4月28日、肝炎対策大使任命式にて厚生労働省肝炎総合対策推進国民運動特別参与杉良太郎(左)と

TM NETWORKがデビュー30周年を迎える年である2014年にはツアーやリリース、テレビ出演など活動を活発化させた。春にはおよそ6年ぶりとなる全国ツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』がスタート。過去楽曲をリメイクしたアルバム『DRESS2』や新曲『LOUD』もツアーのスタートに先駆けてリリースされた。同年10月29日には7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』をリリースし、オリコン初登場8位を記録した。同時に秋から冬にかけて行われたツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30』もスタート。

2015年2月にアリーナ公演『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA』、3月に横浜アリーナにて単発コンサート『TM NETWORK 30th FINAL』を行い2012年から続いたシアトリカルなライブを完結させた。よって、2012年から続いたTM NETWORKとしての活動も充電期間に入ることが発表された。

突然の引退表明

公には過去の事件から復帰し、順調と見られていた活動は、突然に終わりを迎えた。2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑記事が前日発売の『週刊文春』に掲載されたことを受け、同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した[113]。小室は会見で、女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、C型肝炎や左耳の突発性難聴といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり、身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした[114][115]。一部週刊誌は作曲家が引退宣言を行うことは異例という趣旨の報道を行っており、インターネット上では「あの不倫報道は必要だったのか」などと芸能報道の公益性を問う意見も見られた[116]

引退会見以降、妻のKEIKOとは会っておらず、連絡を取る時は弁護士を介している[117]

離婚調停

2018年に不倫関係を報じた引退会見を開いた当時、小室は離婚について問われたが「そのような考えはない」「(妻の)目を見てしっかり話したい」などと答えていた[118]。しかし、その後、小室は現在まで一度もKEIKOと会っていない[118]。全く説明が無いまま放置されたKEIKOは、同年末頃から弁護士を立て、別居中の生活費を求める調停を申し立てた[118]。しかし、当初、小室側が提示した生活費は、月8万円程度だった[118]。現在も著作権印税などで1億円近い収入があるのにも関らず、税金や経費を差し引くと600万円台と主張[118]。根拠となる資料を提出したが8万円案は退けられている[118]。最終的には2020年1月下旬にKEIKO側の要求に近い額で決着し、小室の主張はほぼ認められなかった[118]。その後、小室が申し立てていた離婚調停が始まり、2020年3月上旬に東京家裁で1回目の調停が行われた[118]

2018年の不倫騒動の方との交際は現在も続いており、父親は「週刊文春」の取材に対して、「私からは別れろとも言えないし、結婚しろとも言えない[118]。小室さんには別れるにしても一緒になるにしてもきちんとして欲しい」と語っている[118]

2011年にKEIKOをクモ膜下出血になって以降6年の間、リハビリに取り組んでいるKEIKOを小室は傍らで支え、メディアの取材に対し「僕にはこの人しかいない」「彼女に寄り添いたい」と語っていた[119]

制作活動の再開

2019年より、ピアノ・シンセサイザーを駆使して制作した空間音楽建築芸術関係の企業に向けて提供する仕事を、自身の名前を出さずに始めることでミュージシャンとしての制作活動を再開する[120][121]

秋元康の後押し・オファーによって、乃木坂46の「Route 246」に作曲・編曲として参加、2年3ヶ月ぶりに公での楽曲提供を行う[121]

バイオグラフィ

1983年以前
ニューミュージックのアマチュアバンド「哀婉」で活動[注釈 31]
洋楽専門のレコード会社からの募集でラジオ局宛のリクエスト葉書を書くアルバイトを行うことで本格的に音楽業界に関わり始める。1週間に500~600枚書き、「イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』をかけて」という内容だけでも千枚送っていた。報酬は現金ではなく、70~80枚毎にコンサートのチケット・新作のサンプル盤のどちらかを1,2枚もらっていた[19][122]
プロ・ミュージシャンとしての活動を開始。あのねのね白竜原田真二角松敏生パンタ村田和人上田正樹アリス等のバックバンドスタジオ・ミュージシャンを経験。ニッポン放送系列「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のテーマソング・教育映画のBGM・ローカル局のCMテーマ曲を手掛ける[123][4]
SPEEDWAYに参加。月光仮面の主題歌をロック調に編曲したCMソング「ROCKIN' ON THE 月光仮面」で手腕を発揮した。2nd.アルバム『BASE AREA』で数曲を作曲した。ミス・オレンジショックをプロデュース。
音楽専科社のライターの仕事を請け負っていた[124]
バンドを結成しては解散する時期を送る(「ギズモ」、「ステイ」、「イラプション」等[125])。
安岡力也の『ホタテのロックン・ロール』でアレンジを担当。SERIKA with DOGのサウンドプロデュースを行う。
SPEEDWAYのメンバーであった木根尚登と新ユニットを組むことに合意し村田バンドに参加。
宇都宮隆を誘い「TM NETWORK」を結成し、リーダー、作曲・編曲・シンセサイザー演奏を担当。
コカ・コーラ フレッシュサウンズコンテストに応募。「1974 (16光年の訪問者)」で史上初の審査員全員満点のグランプリを受賞する。
1984年 - 1989年
4月21日TM NETWORKがアルバム『RAINBOW RAINBOW』とシングル「金曜日のライオン」同時リリースでデビュー。
Sony Music Entertainmentと専属契約を結ぶ[注釈 32]
7月大江千里「ロマンス」の編曲を担当する。
11月、大江千里「十人十色」の編曲を担当した。(※CMバージョンは小室の編曲である)
アニメ映画「吸血鬼ハンターD」サウンドトラックを担当する。
小室にとって初のメジャー歌手への楽曲提供は、岡田有希子の3枚目のアルバム『十月の人魚』収録の2曲「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」である。
渡辺美里に曲提供(作曲)した「My Revolution」がヒット。精力的にライブをこなす。
TM NETWORKのアルバム『Self Control』、シングル「Get Wild」がヒット。
ロサンゼルスでアルバム『humansystem』をレコーディング。Bernie Grundman Masteringにマスタリングを初めて依頼した(Bernie Grundman本人が担当)。
角川映画「ぼくらの七日間戦争」サウンドトラックを担当。
単身渡英し、アルバム『CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜』の楽曲制作を開始。
アイドルデュオ、キララとウララのキララ(大谷香奈子)と結婚。
2月デュラン・デュラン東京ドームライブにゲスト出演、キーボードを演奏する。
Running To Horizon」で歌手としてソロデビュー、オリコン週間シングルチャート第1位を獲得。続く「GRAVITY OF LOVE」も第1位を獲得した(松田聖子の「Precious Heartを阻止し、連続首位獲得記録を途切れさせた)。アルバム『Digitalian is eating breakfast』をリリース。ソロツアーも開始。シンクラヴィアを本格的に使い始めた。
1990年 - 1994年
当人プロデュースによるシンセサイザー(キーボード)EOS B500発売。
角川映画「天と地と」サウンドトラックを担当。
オリジナルアルバム『Psychic Entertainment Sound』をリリース。
TM NETWORKが「TMN」にリニューアル。
「SPACE WORLD」を開催し、「Think Of Earth」を披露。
XYOSHIKIと「V2」を結成し、シングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース(オリコン最高位第2位)。一度だけライブを行った。
ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」の音楽を担当。
avex traxとプロジェクト単位・一作品毎でのライセンス契約を結ぶ[注釈 33][注釈 34]
自身の個人レーベル第1号となる「TK TRACKS LABEL」を設立。
NOVA21グループ傘下のディスコを会場としたディスコツアー「TK TRACKS NIGHT」を開催する。TMのコンサートが終わった後夜23時頃に小室がDJとして自ら1時間程選曲してプレイし、その上にシンセサイザーによる即興演奏とMCも乗せていた。プレイリストにはTMの楽曲も入っていた。同時に小室がマハラジャでダンサー・ボーカリストの審査員を務め、見返りとして全国のNOVA21グループ傘下のディスコでTMの楽曲が1日5回以上かかり、TMのラジオ番組「TMN EXPO '91」のスポンサーをNOVA21が務める等、関係を深めていく[67][131]
小室の個人事務所「OPERA GIG」を設立。
山羊智詞&赤羽楽団のメンバーとして参加。
提供楽曲のセルフカバーを中心としたソロアルバム『Hit Factory』を製作。
初の全面プロデュースユニットとしてtrf (Tetsuya komuro Rave Factory) を結成。
大谷香奈子と離婚。
2月25日、trfがシングル「GOING 2 DANCE/OPEN YOUR MIND」でデビュー。
6月21日、trfが2ndシングル「EZ DO DANCE」発売洋楽中心であった日本のダンスシーンに大変革をもたらした。
米国でRadikal Recordsより「TRF Rave Factory」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。英国でFAZE-2 RECORDSより「t.r.f」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。
4月21日、TMN"終了"。
アニメーション映画ストリートファイターII MOVIE」の音楽監督(鳥山雄司と共同)・主題歌制作を担当。
7月21日篠原涼子 with t. komuroとして「恋しさと せつなさと 心強さと」を発売。初のシングル売上200万枚突破。
小室の個人事務所を「OPERA GIG」から「TK state」に改名、2000年まで活動。
海外向けプロジェクトEUROGROOVEを開始。
hitomi大谷健吾ANISSのプロデュースも同時期に開始した。trfのアルバム『WORLD GROOVE』から民族音楽への関心を示す。
trf「BOY MEETS GIRL」やEUROGROOVEの楽曲などでトライバル・ハウスに積極的に取り組んだ。
1995年 - 1999年
trf、内田有紀マーク・パンサーMOON TRAP伊藤彰などが出演したミュージカル「1999...月が地球にKISSをする」の音楽を担当。ミュージカルの楽曲は多くが商品化された。
ジャングル・シークレット・イベント「t jungle m」を開催。
H Jungle with tWOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」でシングル売上200万枚を突破。「ジャングルで世界一の売上を記録したプロデューサー」として海外の雑誌でも取り上げられた。
フジテレビドラマ「ひとりにしないで」の音楽を久保こーじと共同で担当。
マーク・パンサーKEIKOとともに、自身が参加するユニット「globe」を結成。
8月、「avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMP」でオーガナイザーをつとめ、東京ベイサイドスクエア・大阪万博記念公園に計6万人を動員する。
11月22日インテルサン・マイクロシステムズのハードウェア・技術面のサポートを受け、初の公式ウェブサイト「Planet TK」をスタートさせた。サーバサンディエゴに設置していた[132][133][134]
12月31日、trfの「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」で第37回日本レコード大賞を受賞。
自身のレーベル「ORUMOK RECORDS」をスタート。華原朋美H.A.N.D.をデビューさせる。
1月幕張メッセでライブ・パフォーマンス「tk-trap」を開催。
globeのシングル「DEPARTURES」で売上200万枚を突破。
globeのアルバム『globe』で売上400万枚突破。オリコン歴代アルバム記録を更新。
華原朋美のアルバム『LOVE BRACE』が売上250万枚を突破。オリコン歴代ファーストアルバム初動記録を更新。
安室奈美恵のアルバム『SWEET 19 BLUES』が売上300万枚を突破。オリコン歴代アルバム初動記録、累計記録(女性部門)を更新。
安室奈美恵のシングル「Don't wanna cry」で第38回日本レコード大賞受賞。
3月dosがORUMOKからデビュー、R&Bへのアプローチを開始する[135][注釈 35]
4月嘉門達夫が小室哲哉プロデュースの曲を替え歌にした、TK替え歌メドレー(嘉門達夫もイニシャルは『TK』である)が発売された。
9月、TK替え歌メドレー2も発売となった。
9月、小室ファミリーのポータルサイト「TK Gateway」をスタート[134]。Webデザイナー・CGIプログラマーとして有限会社オン・ザ・エッヂ(現LDH)の堀江貴文ら4人が参加していた[137]。その他ヤマハNTTと技術提携をし、短いスパンで新技術を導入した[138]
4月15日付けオリコンシングルチャートで1位から5位までを自身がプロデュースする楽曲で独占した。
カラオケソフトウェア「TK's karaoke engine」の販売がスタート。
11月厚生省の開催する麻薬・覚醒剤禍撲滅運動の一環として、小室プロデュースによるライブ「イエス・トゥー・ライフ dance alive」を開催する。
12月、小室哲哉とルパート・マードック率いるニューズ・コーポレーションが百万ドルずつ出資し、香港に合弁会社「TK NEWS」を設立。アジア進出の足がかりとなり、2年後に台湾からRing香港からgrace ipをデビューさせるきっかけとなった。マードックは1998年に撤退したが、TK NEWSはRojam Entertainmentの母体となった。
12月31日、23時から24時間の間にインターネットイベント「TK Trillion Net」が開催された。
4月6日、祖父の出身地、福島県西白河郡中島村に小室アレンジの「ヨカッペ音頭」が流れるからくり時計を寄贈。記念式典にも出席した。
TK presents こねっと」として『YOU ARE THE ONE』をリリース。収益金は「こねっと・プラン」参加校に寄付され、教育現場へのインターネット普及に貢献した。
globeの2ndアルバム「FACES PLACES」で売上300万枚を突破。また、日本史上初の東京、名古屋、大阪、福岡4大ドームツアーを敢行。
5月20日、香港で開催された国際音楽産業見本市「MIDEM ASIA」のエイベックスのショーケースに安室・TRFと共にglobeとして出演[139]
台湾で初の海外ツアー「TK PAN-PACIFIC TOUR '97 IN TAIPEI」を開催する。
7月、アニメーション映画「エルマーの冒険」の音楽監修を務める。
20世紀フォックス配給映画「スピード2」のメインテーマのリミックスを手掛ける。
中日邦交正常化25周年記念公演「TK Presents GROOVE MUSEUM」を開催する。
DJ DRAGONとプロデュースユニット『tatsumaki』を結成。後に鈴木あみBALANCe等に関わっていく。
安室奈美恵のシングル「CAN YOU CELEBRATE?」で売上が200万枚を突破、小室プロデュースのアーティストのシングルとしては最高の売り上げを記録、 第39回日本レコード大賞を受賞。
ニューヨークでインディーズレーベル「TRUE KiSS DiSC」(1999年正式に設置)を始動。鈴木あみ、甲斐よしひろ、Ring、白竜などをプロデュースした。
グアム観光政府局より親善大使として「グアム大夏祭」「グアムアートイルミネーション」グアム旅行者にプレゼントされた「アイランドブレス」を総合プロデュース。鈴木あみ・globeと共に現場に登壇し、ライヴを開催している。美術監修は絹谷幸二、イルミネーションの絵柄は島民からアイディアを募集して決定した[140][141]
7月2日、TOKYO FMにて「小室哲哉のミリオンナイツ」が放送、本番組にてスタジオライブを披露した。香港では小室・マーク・grace、東京では天方・久保が待機し、二元放送された[140]
SEIKOと共同で腕時計「frequency」を開発する。「クロノグラフ機能」「30BPM - 250BPMまで調節できるリズム機能」「発光で刻むメトロノーム」等を内蔵させた[141]
globeのシングル「wanna Be A Dreammaker」で第40回日本レコード大賞を受賞。
香港の中国返還1周年記念式典に参加。globe・grace ip・OLIBIAと共にパフォーマンスを披露した[141]
香港にアジア最大の総合音楽プロダクションを目指す会社「Rojam Entertainment」を設立。中国・上海に「ROJAM DISCO」をオープン。
東京にメディアファクトリーなどとの合弁会社「factoryorumok」を設立。
YAMAHA EOS SOUND CONTEST98」の審査委員長を務める。(ちなみに副審査委員長は浅倉大介
トーコが、小室哲哉と日向大介の共同プロデュースでデビュー。
未来玲可が小室哲哉と久保こーじの共同プロデュースでデビュー。
サッカー・W杯フランス大会の公式アルバムにジャン・ミッシェル・ジャールとともに「TOGETHER NOW」で参加。
パリ祭のメインイベント「RENDEZ-VOUS '98 ELECTRONIC NIGHT」をジャン・ミッシェル・ジャールと共同で開催する。
日本テレビ系列ドラマP.A.のサウンドトラックを担当。
インドネシアバリ島クタビーチにてクラブイベント「GOA IN BALI」をDJ DRAGONと共同で開催し、3万人を動員した。その内2万9千人以上はほぼ外国人だった[142]
1月末、華原と破局する。
TM NETWORKを再結成し「GET WILD DECADE RUN」を発売した。
元dosの吉田麻美と「TRUE KiSS DESTiNATiON」を結成し、TOTOの代表曲「AFRICA」をカバー。
TLCLeft Eyeが名付け親のBLAQUE IVORYを「ADORE ME」の作曲とアレンジを担当した。
2000年 - 2004年
国際麻薬統制委員会を訪問し、UNODC親善大使を授与される。
ニューヨークの国連本部で開催された国連親善大使会議に参加する。
TM NETWORKとKiss DestinationがTRUE KiSS DiSCレーベルから撤退。個人レーベル「Tatsumaki Records」を設立。
アーティスト養成通信講座「TK MUSIC ONLINE」を開始。
Rojamよりネット配信と通信販売により新曲を発表した。RojamからはZoieCELINA。factory ORUMOKからは坂口実央MIYUKI清水まなぶステレオリキッドなどがデビュー。ネット販売とコンビニ販売を視野に入れた両社であったがレコード販売以外はほとんど実現できなかった。
11月、麻薬・覚醒剤乱用防止活動としてTRF、BALANCeと共に「イェス・トゥ・ライフ東京大会」に参加。
12月31日より翌年の元日沖縄県宜野湾海浜公園トロピカルビーチで「Rendez-vous in Space 2001」が開かれた。
1月Sony Music Entertainmentとの専属契約を解消し、factory ORUMOKから撤退。
3月、公式サイト「komuro.com」リニューアル[134]
5月吉本興業とマネージメント契約を結ぶ。吉本興業内のレーベル「R&C JAPAN」(現R and C)の設立に参加、一時期オーナーを務める。
同日Kiss DestinationASAMI(吉田麻美)と再婚。
DJ DRAGON原田大三郎とともに「GABALL」結成、トランス・ミュージックへの傾倒が始まる。Rojamのレコード販売事業は縮小。
SAMプロデュースクラブ・イベント「zento」にTRF、BALANCe等と共に、参加・楽曲提供。
9月、フジテレビ単発テレビドラマ「プラトニック・セックス」の音楽監督を担当(橋本慎と共同)。
10月より放送を開始したアニメ「サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER」の音楽監督(多田彰文松尾早人と共同)を担当。
トランス・イベント「TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE」を主催。
中国映画恋愛中的宝貝(邦題:恋愛中のベイビー)」の音楽監督・主題歌制作を担当。
3月、吉田麻美と離婚。
5月17日、『ミュージシャン及びダンサー用電子時計』を発明して特許(特開平11−72586)を取得。しかし、2007年5月17日に権利消滅[143][144]
11月22日、globeのボーカルKEIKOと再婚。globeにはX JAPANYOSHIKIが加入した。
4月より3年間「キャットミュージックカレッジ専門学校」の名誉校長に就任した。
初のピアノ・インストアルバムを3枚発表した。
全米先行放送アニメ(後に2004年10月より日本でも放送)「ゾイドフューザーズ」の音楽監督を担当。
新型肺炎鳥インフルエンザの流行などにより、韓国での開催を予定していた黄砂対策チャリティライブが中止。globeにYOSHIKI加入後初の東京ドームライブが中止と、不運が相次いだ。
Rojam株を全て売却し、Rojamの経営から撤退した。
個人スタジオ兼イベント運営会社として「Tribal Kicks」を新たに設立。
サッカーJリーグ大分トリニータのスーパーバイザーに就任。
4月21日 TM NETWORKデビュー20周年を記念して横浜アリーナでライブを行った。
日中国交正常化30周年記念NHKドラマ「世紀末の晩鐘」の音楽監督を担当。
8月、イロメロミックスの着信音をプロデュースする。「WA」「ALERT」等を楽曲として配信した[145]
11月2日 globe結成10周年を記念して2年半ぶりの全国ツアーを行う。ツアー中に新曲「judgement」を披露。
大晦日BLACK JAXXと共に六本木ヒルズ52FにてカウントダウンLIVEを行う。
2005年 - 2009年
クラブ・イベント「Electone STAGEA Presents Tribal Kicks TV Party」を開催した。
avexの手掛ける高音質ネット配信の研究機関「High Definition Sound laboratory」のエグゼクティブアドバイザーに就任。
「@MUSIC HD Sound」にてglobeの楽曲の高音質配信を開始した。
2月、中国の女優である陳好に楽曲提供する。
ロサンゼルスを拠点とした活動を再開。DJ TK名義で丸山茂雄運営の「mF247」に楽曲の提供を開始。
3月エプソン 品川アクアスタジアムのアトラクション「ポート・オブ・パイレーツ」の音楽を担当。
小室哲哉と吉本芸人がコラボレートを行い「TKプロジェクト ガチコラ」と題して、11組のお笑い芸人に楽曲を提供した。
10月、米ロックバンド・Stevie Salas Colorcodeのアルバム『Be What It Is』の楽曲「cherokee girl」にシンセサイザーで参加。
11月、自身のMySpaceオフィシャルサイトを開設。
12月、音楽配信を主とした新たなインディーズレーベル兼個人スタジオ「TKCOM」を立ち上げる。
Kimeruの「with you」をプロデュース。男性ソロアーティストのプロデュースは自身で9年ぶりとなる。
4月尚美学園大学芸術情報学部音楽表現学科特任教授に就任。担当した講義は「新世紀音楽概論」で講義の内容は『印税・著作権の問題』『ヒット曲に共通するタイトル』『日本語の音韻論』を展開した。午前9時の1時限目に月1,2回教壇に立っていた[146]。著作権を巡る詐欺事件(前述)のため同大学は2008年11月4日付けで小室哲哉を懲戒解雇処分した。
6月、所属事務所の吉本興業と契約満了。
7月、DJ TK名義で「Cream Of J-POP 〜ウタイツグウタ〜」をリリース。
11月2日 - 3日楽器フェア2007に、TM NETWORKとしてライブ出演。
11月8日 - 11日秋葉原のメイドカフェ「メイリッシュ」をジャック[147][148]。愛用のギターやキーボードを展示し、店舗を「DJ TK」仕様に改装した[147][148]
12月、音楽プロダクションイーミュージックの制作総指揮に就任。同月に設立された芸能事務所「Empire Play Music」に所属。
大晦日から元旦にかけて多福寺にて、「TK New Year Live 2008 in Tafukuji Temple」を開催する(この模様はYouTubeで公式配信された。)
2月、18年ぶりとなるオリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Winter」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
3月、オリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Spring」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
5月、「MTV Video Music Awards Japan 2008」にkcoと共にゲスト・セレブリティとして出演。
6月江の島アイランドスパの新アトラクション「オーロラトリップ」「ヒーリングオーロラ」のサウンドプロデューサーを担当。
7月、オリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Summer」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
8月、尚美学園大学にて「SHOBIワンダーランド」のプログラムとしてピアノコンサートを行う。
9月、オリジナルアルバム「Far Eastern Wind - Autumn」をiTunes Store配信限定で全世界同時リリース。
11月4日兵庫県内に住む個人投資家に著作権譲渡の話を持ちかけ、5億円を騙し取った詐欺の容疑で、大阪地検特捜部に逮捕される[103]。これを受け、「Empire Play Music」は同日付で小室を契約解除した。
5月11日大阪地方裁判所より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡される。
8月1日、個人事務所「a nine」を設立し、エイベックスと専属契約を結んだ[149]
8月22日、『a-nation'09』にglobeのメンバーと共にシークレットゲストとして出演、音楽活動を再開[150]
11月13日、クラブイベント『HOUSE NATION』にスペシャルゲストDJとして参加。
2010年 - 2014年
2月 - 3月にかけて、再開後初めてのソロコンサートを崇城大学市民ホール福岡市民会館鹿児島市民文化ホールで開催された。
5月5日 - AAAに提供した『逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜』が発売。オリコンチャートで初登場1位を獲得する。
5月16日 - AAA Heart to ♥ TOUR 2010 東京公演(NHKホール)に登場し、ピアノソロおよび「逢いたい理由」(作曲:小室)のピアノ伴奏を披露した[151]
9月7日 - 『globe デビュー15周年記念ベスト盤、サイン書き特番』をUstreamにて配信。
9月22日 - 『globe デビュー15周年記念ベスト盤、完成記念特番』をUstreamにて配信。
10月13日 - 14日、KREVAのコンサートイベント「意味深3」日本武道館2Days公演にサポートキーボーディストとして出演。
12月14日 - 『DATV「ほほえみプロジェクト」チャリーティイベント「Message! to Asia」』にGACKTペ・ヨンジュンらとともにゲスト出演。
4月29日 - 国連"Friend's Whistle!" プロジェクトに坂本美雨mihimaru GTMay J.らとともに参加。小室が制作したテーマソング(Always be there)を参加アーティスト全員で歌唱した。
5月4日 - オリジナルアルバム「Digitalian is eating breakfast 2」をリリース。
5月25日 - 小室哲哉のヒット曲を集めた『TK BOX 〜TETSUYA KOMURO HIT HISTORY〜』がmu-mo shop限定で発売された。
6月1日 - オリジナルアルバム「Digitalian is eating breakfast 2 インストバージョン」を配信開始。
6月13日 - 『DOMMUNE「TK Presents BROADJ ♯331」2-Hour Special Live Set by TETSUYA KOMURO』を音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信。来場者数はのべ14万人以上にものぼり、ネット上で大きな話題となった。
7月18日 - 『国連UN-OHRLLS・国連の友 "Friend's Whistle! Act for Tomorrow! Vol.2"』に出演。
7月23日 - 24日 - 『a-nation Charge & Go! ウイダーinゼリー THE PREMIUM NIGHT in nicofarre』に出演。
7月30日 - 『Yamaha & Steinberg EXPO 2011 "TK Special Talk & Live"』に出演。
8月19日 - 『FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011』に出演予定だったが暴風雨のため中止される。
8月20日 - 早朝、中止された『FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011』を「今日やらないと意味が無いセットリスト」とのことでスタジオより急遽配信。
9月21日- 22日30日 - 「TETSUYA KOMURO 〜Piano Solo Concert〜」を開催。
10月15日 - 『ASOBISYSTEM & PIF presents ASOBINITE!!!』に前回のASOBINITEと同じく、中田ヤスタカと共にゲスト出演。
10月24日 - globeのボーカルで妻のKCOが24日(月)夕方、自宅で倒れ都内病院に緊急搬送された。幸運なことに小室が傍にいたため迅速な対応ができた。(翌日はテレビ収録の仕事が入っていた。)医師に『くも膜下出血』と診断され、25日未明より緊急手術を行い無事成功。その後意識も回復した。KCOとglobeのホームページには小室のコメントが掲載された。
11月5日 - 『早稲田祭2011「UBC-jam vol.25」』に出演。
12月23日 - 『HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE』に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催。
3月7日 - ボーカルで参加したジュリアン・レノンとともにピアノで参加したNick Woodの新曲『HOPE』がiTunesで配信開始。
3月10日 - 「キーボードマガジン 2012年4月号 SPRING」に小室が審査を務めるキーボードマガジンコンテストについて掲載。付録のCDには小室が制作したコンテストの課題曲が収録されている。
3月20日 - 幕張メッセで開催された東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE -give & give-』に米米CLUBPRINCESS PRINCESSとともにTM NETWORKで出演。
3月21日 - ライヴDVD「TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)」をリリース。
3月21日 - リミックスアルバム「Digitalian is remixing」をリリース。
3月28日 - 配信限定だった「Far Eastern Wind」がデジタルリマスタリングを施されCDとして「Far Eastern Wind -Complete-」「Far Eastern Wind -Spring / Summer-」「Far Eastern Wind -Autumn / Winter-」の3形態でリリース。
3月28日 - コンピレーションアルバム「小室哲哉 meets VOCALOID」をリリース。
4月18日 - 『ガンダムフロント東京オープニングセレモニー』にゲスト出演。
4月24-25日 - 日本武道館にて『TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-』をTM NETWORKで開催。25日公演は日本全国、香港、台湾の映画館にて同時生中継された。
4月25日 - TM NETWORKとして約5年ぶりのシングル「I am」をリリース。TM NETWORKとして12年ぶりにオリコントップ5にランクイン。
6月1日 - 小室哲哉のFacebookページとスタッフのTwitterがスタートした。
7月15日 - 『Keyboard Magazine Festival 2012』にH ZETT Mnishi-kenとともに出演。シンセサイザーオーディションの課題曲の監修、審査も担当した。
8月3-26日 - 野島伸司原作・脚本の舞台『ウサニ』の音楽を担当。
8月12日 - 『FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO 2012』に出演。YouTubeでも生中継で配信され、全体の来場者数は約72万人を記録した。
8月12日 - WOMBで行われる音楽イベント『WEEKENDLESS』にm-floのVERBAL、RE:NDZ a.k.a kz(livetune)らと共に出演。
8月26日 - 「ライブDVD & Blu-ray『TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-』発売記念スペシャルイベント@渋谷公会堂」を開催。TMと縁の深い渋谷公会堂でIncubation Periodの特別版を放映、その後メンバーが登場し、一連の活動について解説をした。また、未発表の新曲を小室が生でミックスする作業をファンの前で披露した。
10月1日 - JFN系全国ネット「小室哲哉 Radio Digitalian」がスタート。3月まで月1回でオンエアされていた「RADIO SESSIONS 小室哲哉 Digitalian」が週1回に変更され、再開する。“今話題の楽曲や小室自身が手がけた楽曲を2012年の小室目線”で紹介する内容となっている。
10月3日 - ニッポン放送「オールナイトニッポンモバイル」がスタート。“TM NETWORKの結成に大きく関わった映画話”や、“シンセサイザーの話”などがアーカイブされていき、それぞれ違ったテーマで小室哲哉の過去・現在・未来が語られていく番組となっている。
10月18日 - ドライブのための音楽ナビゲーションサービス「music Chef」に新しいシェフとして小室哲哉が登場。小室が影響を受けた音楽や、自身が手がけた楽曲をセレクション。
10月21日 - フジテレビ系新番組『スナック喫茶エデン』にレギュラー出演。バラエティ番組のレギュラーは初である。
11月15日 - 小室によるトータルプロデュースでモデルの壱岐尾彩花が「GLOWING」でメジャーデビュー。小室が新人をプロデュースするのはFemale non Fiction・R9以来約10年ぶりとなる。
11月21日 - TRFがシングル全31曲を収録したベスト盤『TRF 20th Anniversary COMPLETE SINGLE BEST』をリリースする。16年ぶりにプロデュースを手がけた新曲が収録される。
11月25日 - エイベックス主催のダンスイベント&オーディション「DANCE NATION 2012」のスーパーバイザーを務める。
1月6日 - フジテレビ「みんなのKEIBA」テーマ曲を担当。タイトルは「Now1(ナウワン)」。
2月15日 - 雑誌「FRIDAY」にて自身がC型肝炎であることを告白。薬の副作用と戦いながらも、現在は順調に回復に向かっているとのこと。
2月25日 - TRFのデビュー日である2月25日に小室哲哉プロデュースによるTRFのミニアルバム「WATCH THE MUSIC」がリリースされる。これに伴い「TRF」の表記が92年のデビューから96年まで使用していた小室哲哉プロデュースを象徴する小文字の「trf」に変更にされる。
2月27日 - GyaO! ライブトークにTRFのYU-KIと共に出演。
3月6日 - 約2年ぶりのソロアルバム「DEBF3」がリリース。最新エレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)を基調としたアルバムとなり、iTunes総合チャートで1位を獲得した。
3月25日 - 「Applayersコンテスト FINAL STAGE@ニコファーレ」に審査員として出演。
4月15日 - 2013年5月25日(土)と26日(日)にさいたまスーパーアリーナにて予定されていた『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』がボーカリスト宇都宮隆の体調不良のため、延期されることが発表された。
7月20日-21日 -『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』がさいたまスーパーアリーナにて開催され、全国の映画館で同時生中継された。
7月31日 - フジテレビ系「FNSうたの夏まつり」に出演。昨年に引き続き、TRF浅倉大介西川貴教などと共演した。
8月9日 - globeが18周年を迎え、新曲『ホワイトアウト』の制作を開始したことを発表。
8月10日 - SUMMER SONIC2013 / 東京 MIDNIGHT SONICに出演。
8月21日 - fripSideに提供した「eternal reality」のビデオクリップにゲスト出演。
8月29日 - 東京ステーションホテルで行われたファッションブランド「LOUIS VUITTON」主催のエキシビジョン「Timeless Muses(時を超えるミューズたち)」展に松浦勝人大沢伸一らと共に来場。
9月21日 - リリー・フランキー主催のイベント「ザンジバルナイト2013」に出演。
9月25日 - リミックスアルバム「DEBF EDM 2013 SUMMER」をiTunes Storeで配信。
10月8日 - フジテレビ「ハモネプ☆スターリーグ」にチーム「TK HARMONIER」のリーダーとして出演。メンバーは坂本美雨、篠原ともえ、島谷ひとみ、DEEP。
10月29日 - TOHOシネマズ六本木ヒルズで開催される映画『スティーブ・ジョブズ』 のジャパンプレミアにゲスト出演。トリビュートミニライブを行う。
10月29日 - オランダ出身のDJ Afrojackの楽曲『The Spark (feat Spree Wilson)』のTetsuya Komuro Remixが配信開始。
10月31日 - YouTube上で展開する新しい歌番組プロジェクトTOYOTA「WISH presents 白黒歌合戦」のトークセッションにヒャダインこと前山田健一と共に出演。
11月2日 - フジテレビ「フジテレビ開局55周年記念 音楽特別番組 FNS名曲の祭典」に出演。
11月14日 - ニンテンドー3DS用ソフト「大合奏!バンドブラザーズP」のプリセット楽曲を提供。
12月4日 - ヒャダインこと前山田健一とのコラボ楽曲『22世紀への架け橋』がiTunes Store限定で配信開始。
12月4日 - フジテレビ「2013FNS歌謡祭」に出演。
12月7日 - YouTube上で生配信されるTOYOTA「WISH presents 白黒歌合戦」プレミアムライブに出演。
12月11日 - さいたまスーパーアリーナで行ったライブ「TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-」がBlu-ray DiscとDVDで発売。初回限定盤では、小室のオーディオコメンタリーも収録される。
12月20日 - Le Baron de Parisにて開催された「Syn City Christmas Ball」にDJとして出演。
12月29日 - 『rockin'on presents COUNTDOWN JAPAN 13/14』にDJとして出演予定。
1月31日 - 小室が自宅からスタジオに向かう最中、乗っていた車が交通事故を起こし、頸椎捻挫の軽傷を負った。これにより翌日に行われるはずだった坂本美雨とのイベントは大事をみて中止となった。
4月2日 - 小室のソロアルバム『TETSUYA KOMURO EDM TOKYO』が発売。
4月5日 - 小室の交通事故によって延期されたライブイベント「ディア・フレンズ LIVE Vol.2 welcomes 小室哲哉Supported by あ・う・て」がTOKYO FMホールにて開催。
4月13日 - 「burn WORLD DJ CONTEST 2014」に小室哲哉がメンターとして参加。コンテストのファイナリストと対談し、目の前で自らのパフォーマンスを披露した。
4月22日 - TM NETWORKの39枚目のシングル『LOUD』とセルフプロダクトアルバム『DRESS2』が発売。
4月26日 -『TM NETWORK LIVE TOUR "the beginning of the end"』が東京・府中の森芸術劇場どりーむホールからスタート。
4月30日 - 違法ダウンロードの防止を目的とした「STOP!違法ダウンロード」啓発ビデオクリップに元スケボーキングのSHIGEOと共に参加。このプロジェクト用に小室が書き下ろした新曲「GOOD CLICK CREATES GOOD MUSIC!」がYouTubeで公開された。
4月30日 - 東京プリンとたいせつな仲間たちによる楽曲「明日笑っていられるように」にキーボードで参加。
5月3日 - 4月2日にリリースした「TETSUYA KOMURO EDM TOKYO」を記念して小室本人がDJとして大阪、名古屋、大分、渋谷のクラブに登場する。
5月5日 - ダンスミュージックイベント『MUSIC CIRCUS'14』にスティーブ・アオキやVERBALなどと共に出演。
5月21日 - アフロジャックのアルバム「フォーゲット・ザ・ワールド」日本盤に小室がリミックスを担当した「ザ・スパーク」が収録される。
5月25日 - ライブ「TETSUYA KOMURO 2014 SPRING[FINAL]」をUstreamで生配信。前日のラジオで訪れていた沖縄のスタジオで行われた。
5月31日 - ageHaで行われたAFROJACKのライブにサプライズで登場。
6月14日 - 音楽授賞式「MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN 2014」にゲストセレブリティとして出演。このイベントに出演するのはおよそ6年ぶりである。
9月12日 - アソビシステムの人気パーティー「ASOBINITE!!!」に中田ヤスタカVERBALRAM RIDERらと出演する。中田との共演はおよそ3年ぶり。
9月14日 - ミュージックフェスティバル「THE BIG PARADE 2014」に登場。スペシャルトークセッションを行う。
9月24日 - ライブBlu-ray & DVD『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』が発売。
9月24日10月4日 - 坂本美雨をフィーチャーした『小室哲哉 featuring 坂本美雨 ビルボードライブ』が9月24日に東京、10月4日に大阪で行われる。
10月29日 - 「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30」が神奈川のよこすか芸術劇場からスタート。
10月29日 - TM NETWORKの前作からおよそ7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』がリリース。
11月15日 - 小室書下ろしのストーリーブック『CAROLの意味』が発売。世界観に合わせて制作された50分を超えるインスト曲「password」をダウンロードすることができるMUSIC CARDを付属。
11月27日 - 小室哲哉の公式LINEアカウントがスタート。
12月3日 - フジテレビ年末恒例特番「2014FNS歌謡祭」に出演。
12月27日 - ファンクラブ限定イベントTM NETWORK 30th ANNIVERSARY FANKS PARTYがホテル日航東京にて開催。
12月30日 - rockin'on presents「COUNTDOWN JAPAN 14/15」にTM NETWORKが出演。
2015年 - 2019年
1月17日 - 全国映画館にて「TM NETWORK THE MOVIE 1984〜 30th ANNIVERSARY」が上映開始。
2月7日8日 - アリーナ公演「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」がさいたまスーパーアリーナにて開催。
2月14日15日 - アリーナ公演「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」が神戸ワールド記念ホールで開催。
3月21日22日 - アリーナ公演「TM NETWORK 30th FINAL」が横浜アリーナにて開催。
4月9日 - フジテレビ系“ノイタミナ”枠にて放送開始のオリジナルテレビアニメ「パンチライン」の音楽を担当。劇伴とキャラクターソングを手がけた。
4月17日 - ニッポン放送にて「TM NETWORKのオールナイトニッポン」が放送。
4月22日 - 会場限定CDだった『Get Wild 2015』に「Just Like Paradise 2015」が追加されてiTunes、mora、e-onkyoなどで配信開始。
5月14日 - 17日 - 小室哲哉のDJイベント「〜globe 20th〜」が名古屋・広島・神戸・大阪にて開催。
5月21日 - 「小室哲哉feat.坂本美雨アコースティックライヴ」が熊本・八千代座で開催。
6月24日 - 「パンチライン」オリジナルサウンドトラックが発売。
6月25日 - アトラスより発売されるPS Vita用ゲーム『ペルソナ4 ダンシング・オールナイト』に楽曲アレンジで参加。
7月22日 - 2015年2月に開催された「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」さいたまスーパーアリーナ公演のLIVE Blu-ray / DVDが発売。Blu-ray2枚組の豪華盤のDisc2には、2014年12月に国際フォーラムで開催された「QUIT30」公演を収録。
8月5日 - globeの楽曲のアレンジを再構築した2枚組アルバム『Remode 1』をリリース。
8月9日 - 「globe 20th anniversary special event」が新宿ステーションスクエアで開催され、小室・マークによるライブ・DJパフォーマンスが披露された。
9月16日 - tofubeatsの2ndアルバム『POSITIVE』に参加。
10月25日 - 上海の音楽芸術向上への貢献が称えられ、上海国際芸術祭青年創想週間組織委員会から「上海戯劇学院金融総裁班特別芸術顧問賞」と「上海国際芸術祭青年創想特別貢献賞」が授与される[152]
10月26日 - 競馬エンターティンメントサイト「umabi.jp」のテーマソングを小室哲哉、神田沙也加(TRUSTRICK)、tofubeatsとの3者で結成された新ユニット『TK feat. TK』が担当。作成した楽曲『♯RUN(ハッシュラン)』を同サイトで公開。
11月25日 - 2015年3月22日開催されたTM NETWORKの横浜アリーナ公演、「TM NETWORK 30th FINAL」のBlu-ray/DVDが発売。
12月2日 - TeddyLoidの約1年3ケ月ぶりとなるオリジナル2nd Albumに小室哲哉が参加。
12月8日 - 香川、愛知、東京、福岡、大阪の5か所で行われるピアノコンサート『小室哲哉PIANO BIOGRAPHY』がスタート。ギタリストに葛城哲哉を迎えて演奏された。また、東京公演ではボーカリストとして坂本美雨が参加。
12月16日 - globe20周年プロダクト第2弾としてトリビュートアルバム『#globe20th -SPECIAL COVER BEST-』を発売。HYDE木村カエラ浜崎あゆみTRFなどが参加するほか、小室哲哉自身もプロデュース・アレンジで参加。
12月23日 - 小室哲哉feat.神田沙也加(TRUSTRICK) & tofubeats名義として「Umabi」テーマソング「#RUN」を配信開始。
12月23日 - TM NETWORKのアルバム『DRESS2』のハイレゾ版が配信開始。
3月12日 - 新木場agehaにて開催されたASOBINITE!!!に出演。
3月23日 - TM NETWORKの2012年の日本武道館公演から2015年の横浜アリーナ公演まで、5つのライブをリマスタリング&高音質化して収録したBlu-ray BOXが発売。30周年イヤーの舞台裏に迫るドキュメント映像や、COUNTDOWN JAPAN14/15の出演映像も収録。
3月23日 - 『#globe20th -SPECIAL COVER BEST-』と『DEBF EDM 2013 SUMMER』のハイレゾ版が配信開始。
3月28日 - クロレッツとのコラボ企画「小室哲哉 feat.スッキリ応援歌メーカー」がweb上にてスタート。
3月30日 - 4月9日(土)に開催を予定していた「小室哲哉 PIANO BIOGRAPHY feat.坂本美雨」台北「ATT SHOW BOX」公演が小室哲哉の右足関節骨折のため、急遽延期されることが発表された。
4月20日 - NHK BSプレミアム「J-MELO」オープニングテーマとして小室哲哉とつんく♂が初コラボした楽曲『Have Dreams!』がitunesやmora等で配信開始。歌唱はMay J.が担当。
5月9日 - J SPORTS プレミアリーグ中継エンディングテーマ「a new lease on life」が配信開始。
5月14日 - 茨城・筑波大学にて音楽とテクノロジーを融合させたイベント「J-WAVE INNOVATION WORLD FESTA 2016」にDJスタイルで出演。
5月20日 - 小室哲哉がMCをつとめるネット音楽番組「TK MUSIC FRESH! by AWA」の月イチレギュラーがAbema TVで放送開始。
6月1日 - TOKYO FM「Blue Ocean」テーマソング『BLUE OCEAN』がiTunes / Apple Musicより先行配信スタート。
7月1日 - 株式会社DMM.comが運営する会員制オンラインサロンサービス「DMM Lounge(ラウンジ)」にて、小室哲哉による「TK Culture Gathering」が公開。
7月1日 - Amazonプライム・ビデオにて配信開始されたのドキュメンタリー作品『Invisible TOKYO』に出演。
7月12日 - 『Tetsuya Komuro Interviews Complete from 1984 to 2014』がAmazonで発売。
7月14 - 16日 - 名古屋・神戸・京都・大阪のクラブにてDJとして出演。
7月30日 - 秋元康、つんく♂、指原莉乃と共にそろって代々木アニメーション学院のプロデューサーとして正式に就任。
8月3日 - globeの楽曲のアレンジを再構築したRemodeシリーズ第2弾『Remode 2』がリリース。
8月3日 - 第13回東京国際ミュージック・マーケット、ビジネス・セミナーのスピーカーに出演。
8月3日 - 「坂崎幸之助の第2回ももいろフォーク村デラックス」に木根尚登、MARC PANTHERと共に出演。
8月8日 - 20周年最終日を迎えるglobeが、8月8日に六本木ニコファーレにてイベントを急きょ開催。
8月19日 - ファッションブランド「SEPT PREMIÈRES by Kenzo Takada」のTVCMソングを小室が担当。ゲストボーカルは大森靖子が担当。
9月8日 - オーストリアリンツで開かれる「アルス・エレクトロニカ」で、脇田玲と小室がオーディオビジュアルインスタレーションを発表。
10月2日 - 中田ヤスタカがレジデントを務めるフェス" OTONOKO[オトノコ]"に出演。
10月7日 - "VISION5th Anniversary presents track maker" にDJとして出演。
10月9日 - 北九州市で開催された東京ガールズコレクションの公式アフターパーティー『もみ処癒し屋 Presents TGC Night KITAKYUSHU 2016』にDJで出演。
10月12日 - デザイン・チーム<TOMATO>のサイモン・テイラーがオーガナイズし、ケミカル・ブラザーズがヘッドライナーとして出演する「Rockwell SirKus 2016 」に出演。
10月17日 - 札幌「KING XMHU」に DJとして出演。
10月26日 - シンガーソングライターの大森靖子へ楽曲提供した『POSITIVE STRESS』が発売。
10月28日 - Chim↑Pom 主催『ART is in the pARTy Day 2』にシークレットゲストとしてライブセットで出演。
11月18日 - 日本初となる写真と映像のアートフェア「ART PHOTO TOKYO – edition zero –」に出演。
12月8日 - 府中の魅力を市内外に発信し、観光などの振興に資するための「東京多摩振興 特命 武蔵国府中大使」に小室哲哉が任命された。
12月19日 - 12月24日 - 毎年恒例となった『小室哲哉PIANO BIOGRAPHY feat.坂本美雨』が2016年も開催。
12月19日 - エイベックス・グループの障がい者スポーツ支援事業「avex challenged athletes」が、障がい者スポーツの認知・普及を目的に作成したプロモーション映像に、新曲「one more run」を提供。
3月15日 - 約3年ぶりのソロアルバム『TETSUYA KOMURO JOBS #1』が発売。
3月29日 - H Jungle With tのヒット曲『WOW WAR TONIGHT』のアナログ盤が7インチでリリース。
4月5日 - TM NETWORKの代表曲Get Wildの発売30周年記念アルバム「GET WILD SONG MAFIA」が発売。
4月22日 - H Jungle With tの2ndシングル「GOING GOING HOME」が、RECORD STORE DAY限定盤アナログとして発売。
6月3日 - 音楽とテクノロジーを融合させたイベント「INNOVATION WORLD FESTA 2017」に2016年に引き続き出演。
6月21日 - アルバム『GET WILD SONG MAFIA』収録曲「GET WILD 2017 TK REMIX」と石野卓球(電気グルーヴ)が手掛けたアルバム未収録バージョン「GET WILD(Takkyu Ishino Latino Remix)」がアナログレコードで発売。
7月17日 - 7月23日 - 府中市市民活動センター「プラッツ」に新たに建設された多目的ホール「バルトホール」のオープン記念イベント「けやきの森のハーモニー」の監修を務める[153]
7月31日 - 浅倉大介との音楽ユニット「PANDORA」を結成[154]
8月19日 - 8月20日 - 超ドSフェスタしずおかの特任大使に就任、野外ライブイベントの出演アーティストの選出・ステージの設計等の演出全般に企画段階から関わった[155]
11月3日 - PLAYCOOL CAMPにZeebraと共に講師として出演。
11月5日 - 日本科学未来館にて開催された『MUTEK 2017』に慶應義塾大学教授 脇田玲と共に出演。インスタレーションライブパフォーマンスを行った。
11月8日 - 安室奈美恵のベストアルバム、『Finally』に収録された新曲、「How do you feel now?」をプロデュース。ミュージックビデオでは、再会を果たすシーンが描かれている[156][157]
12月2日 - 品川インターシティホールで行われる木根尚登のソロデビュー25周年記念ライブ「キネバラ」にゲスト出演。
1月19日 - 音楽活動からの引退を表明。
1月24日 - 浅倉大介との音楽ユニット「PANDORA」が、ゲストボーカルにBeverlyを迎えた1st シングル『Be the one』をリリース。同日、主題歌となっている仮面ライダービルドのイベント『超英雄祭 KAMEN RIDER × SUPER SENTAI LIVE & SHOW 2018』に出演[158]
1月26日2月3日 - PANDORA初のワンマンライブ『PANDORA 2018@Billboard Live』が東京・大阪で行われる[159]
ピアノ・シンセサイザーを駆使して制作した空間音楽を建築・芸術関係の企業に向けて提供する仕事を、自身の名前を出さずにお忍びで始めることでミュージシャンとしての制作活動を再開する[120]
8月1日 - 福島県立ふたば未来学園高等学校にて開催された「双葉郡中高生交流会 FUTABA 1 DAY SUMMER SCHOOL」のワークショップにて、秋元康のオファーで音楽家として、ボランティアの講師を務めた。公的なイベントに出演するのは1年半ぶりである[160]
2020年 -
3月上旬 - 妻のKEIKOとの1回目の離婚調停が行われた[118]
6月12日 - 秋元康の依頼でTOKYO FMTOKYO SPEAKEASY」にゲスト出演、2年4ヶ月ぶりにメディア出演を果たす[120]
7月24日 - 秋元康の後押し・オファーによって、乃木坂46に「Route 246」を提供、ラストアイドルの2ndシングル「君のAchoo!」収録曲「風よ吹け!」以来2年3ヶ月ぶりに公に楽曲提供を行う[121]

ディスコグラフィ

レコード会社およびレーベルについては以下の表記とする。

ソロシングル

タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等)
1st RUNNING TO HORIZON 1989年10月28日 (EP) アニメシティーハンター3』OPソング
2nd GRAVITY OF LOVE 1989年11月17日 (EP)
3rd CHRISTMAS CHORUS 1989年12月1日 (EP)
4th 天と地と〜HEAVEN AND EARTH〜 1990年4月21日 (EP) 映画『天と地と』テーマ曲
5th 永遠と名づけてデイドリーム 1991年12月12日 (EP) 音楽座ミュージカル『マドモアゼル・モーツァルト』テーマソング
6th Magic 1992年10月1日 (EP)
7th Pure (Hyper Mix) 1992年11月27日 (EP) c/w : yuki's song
8th SPEED TK RE-MIX 1997年7月9日 (EM) 映画『スピード2』テーマ曲、「TETSUYA "TK" KOMURO」名義
9th Blue Fantasy - Love & Chill Out 2001年10月24日 (F)
10th SPEED TK RE-MIX〜炎のコマ 2001年10月24日 (EM) 高橋由伸桜庭和志入場テーマ曲

デジタルシングル

タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等)
Someday mF remix 2006年1月5日 (M) DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。
If you like it or not 2006年2月5日 (M) 「DJ TK」名義、ラップ・kco。
@Buddha Bar 2006年3月7日 (M) 「DJ TK」名義。
SOMEDAY 2006 2006年4月22日 (M) 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。
Arashiyama 2006年8月8日 (M)→(T)・(SY) 「DJ TK」名義。後にiTunes Storeで世界同時配信される。
I WANT YOU BACK (mF247 remix) 2006年10月4日 (M) 「DJ TK」名義、自身の楽曲のセルフカバー。ボーカルはkco。
アンジェリーナ mF Prepromix 2006年12月9日 (M) 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。inst版も同時配信。
ガッツだぜ!! DJ TK MIX 2007年4月1日 (M) 「DJ TK」名義、ウルフルズのヒット曲のリミックス。
Now1 2013年1月30日 (AV) ソロアルバム「DEBF3」から先行配信。「みんなのKEIBA」テーマソング。
WATCH the MUSIC feat. Capitol A, Alain Clark 2013年2月20日 (AV) 「DEBF3」のプレオーダーのスタートと同時に先行配信。
FREEDOM (Remode) / Love again (Remode) 2015年7月8日 (AV) globeのアルバム「Remode 1」から小室哲哉名義で先行配信。
a new lease on life 2016年5月9日 (AV) J SPORTS「15/16イングランドプレミアリーグ」中継エンディングテーマ。
Blue Ocean 2016年6月15日 (AV) TOKYO FMBlue Ocean」エンディングテーマ。
GET WILD 2017 TK REMIX 2017年3月8日 (AV) 「GET WILD」30周年の幕開けとして小室が新たにリミックスした。

コラボレーション作品

タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等)
背徳の瞳〜Eyes of Venus〜 1992年1月18日 (EP) V2」名義。
XYOSHIKIとのコラボ。
Silent Lover 1995年4月21日 (SR) C+C+T・K」名義。
アメリカのC+C Music Factoryとのコラボ。
CALL ME ANYTIME 2000年9月20日 (SA) Tetsuya Komuro Featuring. Y.U.M」名義。
アメリカのY.U.Mとのコラボ。
Embryo 2003年 (BW) Lifecell」名義。
ベルギーのDJ PUSHとのコラボ。
22世紀への架け橋 2013年12月4日 (AV) 小室哲哉VSヒャダイン」名義。
前山田健一(ヒャダイン)とのコラボ。
iTunes Store限定で配信。
#RUN(ハッシュラン) 2015年12月23日 (AV) 小室哲哉 feat. 神田沙也加(TRUSTRICK) & tofubeats」 名義。
ユニット名:TK feat.TK
Have Dreams! 2016年4月13日 (AV) Tetsuya Komuro × Tsunku♂ feat. May J.」名義。
つんくMay J.とのコラボ。

ソロアルバム

オリジナルソロアルバム

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st Digitalian is eating breakfast 1989年12月9日 (EP) シンクラビアを多用し、全曲小室自身がリードボーカルを務めている。
- Hit Factory 1992年10月21日 (EP) セルフカバー・アルバム
2nd Digitalian is eating breakfast 2 2011年5月4日 (AV) 全世界同時発売[注釈 36]6月1日にはiTunes Store限定でインスト版が配信された。
3rd DEBF3 2013年3月6日 (AV) EDMを基調としたアルバム。DOMMUNEのライブ音源も収録される。
4th TETSUYA KOMURO EDM TOKYO 2014年4月2日 (AV) セルフリミックス音源に加えてゲストボーカリストをフィーチャリングした新曲が収録される。
5th TETSUYA KOMURO JOBS #1 2017年3月1日 (AV) 小室の近年のソロワーク音源を集めた新シリーズ「JOBS」の第1弾。アーティストらとのコラボ曲や、番組テーマソング、CMタイアップソング、サウンドインスタレーションなどで構成される。アルバムは初回限定盤と通常盤の2形態。初回限定盤にはミュージックビデオやライブ映像を収めたDVDと、小室のオリジナルインタビューとオフショット写真が100ページにわたり掲載されるフォトブックが付属する。

Far Eastern Windシリーズ

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st Far Eastern Wind - Winter 2008年2月13日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
2nd Far Eastern Wind - Spring 2008年3月5日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
3rd Far Eastern Wind - Summer 2008年7月23日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
4th Far Eastern Wind - Autumn 2008年9月10日 (T)・(SY) iTunes Storeにて世界同時配信
Far Eastern Wind -Complete- 2012年3月28日 (AV) Far Eastern Windシリーズ全てがデジタルリマスタリングされCD盤で発売。1曲73分に及ぶ新曲『五常』が収録されている。

サウンドトラック

ライヴ・アルバム

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st t jungle m ~Secret Party~ 1995年7月19日 (AV)
2nd tk-trap 1996年5月22日 (AN)
3rd TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE vol.1 2002年11月20日 (Y) TSUTAYA限定販売
4th TK PRESENTS SYNTHESIZED TRANCE vol.2 2003年2月26日 (Y) TSUTAYA限定販売
5th TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE
(TK Presents BROADJ #332) Disc.2・3
2012年3月21日 (AV) TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)
形態AVBD-91883/B〜Cに収録

リミックス・アルバム

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st Blue Fantasy - Love & Chill Out With Trance Remixes 2002年6月21日 (F)
2nd Cream Of J-POP 〜ウタイツグウタ〜 2007年7月4日 (M) DJ TK」名義
3rd Digitalian is remixing 2012年3月21日 (AV)
4th DEBF EDM 2013 SUMMER 2013年9月25日 (AV) iTunes Store限定配信

その他

タイトル 発売日 レーベル 備考
- Psychic Entertainment Sound 1990年9月21日 (E) 「Tetsuya Komuro & Mr.Maric」名義
- TK1998 1998年11月26日 (SA) 限定BOX
- PIANO globe 〜globe piano collection〜 2003年3月19日 (AV)
- PIANO WIND (TK AMBIENT SELECTION) 2003年3月19日 (Y)
- PIANO VOICE (TK PIANO WORKS) 2003年3月19日 (Y)
- うみね 2007年 大分県別府市「ホテルうみね」館内BGM
「ホテルうみね」限定発売

オムニバス

タイトル 発売日 レーベル 備考
1st SAGA 小室哲哉クラシック・セレクション 1992年12月2日 (E) クラシック・セレクション
2nd TK MILLION WORKS 1996年11月16日 (AV)
3rd ARIGATO 30 MILLION COPIES -BEST OF TK WORKS 2000年3月23日 (AV)
4th THE GREATEST HITS - 小室哲哉作品集 - s 2006年2月22日 (G)
5th THE GREATEST HITS - 小室哲哉作品集 - a (AV)
6th TK INSTRUMENTAL WORKS SELECTION 1986〜2003 2006年2月22日 (G)
7th TETSUYA KOMURO CELEBRITY PLAYLIST 2008年5月7日
8th TK BOX 〜TETSUYA KOMURO HIT HISTORY〜 2011年5月31日 (AV)
9th 小室哲哉 meets VOCALOID 2012年3月28日 (AV)
10th TETSUYA KOMURO ARCHIVES T盤 2018年6月27日 (AV)
11th TETSUYA KOMURO ARCHIVES K盤 (AV)

ビデオ・DVD

  • 1989年 Digitalian is eating breakfast
  • 1996年 tk-trap(1月19日 - 20日に幕張メッセで行われた2日間限定のライブを収めたビデオ)
  • 2012年 TETSUYA KOMURO Special Live @DOMMUNE (TK Presents BROADJ #332)

レコーディング参加作品

※(直接的な)プロデュース・作曲・編曲を兼ねて参加した作品は除く。

ライヴ・コンサートイベント

※オーガナイザーを務めたライヴ等も含める。ゲスト出演等は省略。

公式書籍

  • 1988年 Vis Age TETSUYA KOMURO PERSONAL VISUAL BOOK(子供の頃の写真とともに、自らが詳しく生い立ちを語ったヒストリーと、PWLのマット・エイトケンとの対談他を収めた自伝写真集)
  • 1989年 Digitalian is eating breakfast(ソロアルバム制作後のインタビューと楽譜を収めた本)
  • 1990年 音を生け捕る - 映画「天と地と」音楽監督NOTE(自身の曲解説が収録されている本)
  • 1992年 HIT FACTORY(マイアミで行われたソロセカンドアルバムの制作風景と、プライベート写真集)
  • 1993年 TK EOS FACTORY 小室哲哉のシンセ工房
  • 1993年 告白は踊る(東京をコンセプトに、自身の哲学や、これまでの仕事を振り返ったエッセイ)
  • 1995年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol.1〜Vol.2(音楽番組「TK MUSIC CLAMP」の対談を活字に起こした本)
  • 1996年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol.3〜Vol.5(桑田佳祐YOSHIKI織田哲郎小林武史つんくなど多数登場)
  • 1996年 深層の美意識 /著者:神山典士 (小室哲哉監修の公式自伝本)
  • 1998年 first step in asia(「TK Presents GROOVE MUSEUM」を、ドキュメントで構成したフォト&インタビュー)
  • 1998年 プロデューサーは次を作る - ビジネス成功22の方程式 /著者:中谷彰宏・小室哲哉
  • 2003年 VOICE OF WORDS(小室哲哉が書いた詞をセレクトした歌詞集)
  • 2009年 罪と音楽(絶頂期から2009年時点、未来をテーマにした書き下ろしエッセイ)
  • 2014年 CAROLの意味(小室書き下ろしのストーリーブック。この世界観を表現したインスト楽曲『password』をダウンロードすることができるミュージックカードが付属。)
  • 2016年 時代をつかみとる思考(『未来志向』をテーマにしたエッセイ、セブンネットショッピング限定販売)

関連書籍

  • 2000年 TKman(ティーケイマン)1 & 2 /作:柴田亜美 1巻(第1話 - 第20話)2巻(第21話 - 40話)
  • 2008年 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評53 TMN&小室哲哉 ポップス神話創世
  • 2008年 ミュージック葬でハッピーにいこう! /若尾裕之著(付属CD作曲・プロデュース)

ゲーム

テレビ・ラジオ・雑誌連載

※テレビ・ラジオの項ではレギュラー出演していたもののみ記す。

テレビ

ラジオ

雑誌連載

  • KEYBOARD MANUAL(Player、1984年1月号 - 1984年12月号)
  • キラキラ掲示板(ロック・ショウ、1984年10月号 - 1985年10月号)
  • キーボード講座(シンプジャーナル、1985年8月号 - 1987年7月号)
  • ELECTRIC PROPHET(PATi PATi、1985年11月号 - 1986年1月号、SF小説)
  • ART OF LIFE(月刊カドカワ、1991年6月号 - 1994年1月号)
  • TK MUSIC CLAMP(PATi PATi、1995年6月号 - 1998年5月号、雑誌編集版)
  • 小室哲哉のネットパラダイス(POPEYE、1996年10月25日号 - 1997年2月25日号・1997年4月25日号)
  • 小室哲哉通信(日経エンタテインメント!、1998年2月号 - 2000年12月号)
  • TETSUYAをさがせ!!(ザッピィ、2000年8月号 - 2001年4月号)
  • 小室マニュアル2001(ザッピィ、2001年6月号 - 2002年3月号)
  • TK×INTERNET(Yahoo! Internet Guide、2001年6月号 - 2001年12月号)
  • 小室哲哉×Nord Lead 3(キーボード・マガジン、2002年8月号 - 2002年10月号)
  • TK Future Lab(ローリング・ストーン日本版、2016年8月号 - )

音楽性

作風

テクノファンクユーロビートジャングルハウストランスアンビエントHIP HOPR&Bレイヴハードロックプログレ、果てはクラシックフォークAORラテンワールドミュージック純邦楽演歌等幅広いジャンルを使い分け、かつ複数のジャンルを融合させてジャンルを限定せず、どのようなジャンルにも聞こえる[85]音楽を手掛けることを得意とする。ただ、一般には邦楽ダンスミュージックの第一人者・1990年代J-POP、又はそれにおけるデジタル・オーディオ・ワークステーション音楽プロデューサーの概念・音楽配信の普及の立役者として知られる[注釈 38]

作風の大きな特徴として「強いインパクトのある歌い出しと、中盤に雰囲気を変えた印象的なサビ」[163]「最高音の独特な使い方[注釈 39]」「狭い音域を限定したメロディ作り」「1〜2小節のメロディの繰り返し」「作詞の譜割りがゆっくりになったり早くなったりする」「息継ぎできる部分が全くないパートがある」「少ない構成パート」「唐突な転調が多い」など分かり易いインパクトを持ち、かつジェットコースターのような緩急のメリハリがある展開が挙げられる[166][167]

グルーヴの独自の演出として、手で直接元々繰り返されているリズムをサンプリングして、さらにループさせるように打ち込む。それにより「キック・ハイハットをコンピューターでシンクロさせている」かのように聴こえるようにしている[59]。それ故に、時々楽曲の音色が自分で弾いた音なのか、元々シンセサイザーに内蔵されている既存のプリセット音か分からない程に自分に染み付いている。使っている音色自体はシンセサイザーのプリセット音の中で大体決まっている。音色・音圧より、ほとんどの場合鳴った瞬間から音色が減衰して、次につながるまでのタイミングで決める。小室は「それを意識するかどうかで音楽としてのグルーヴ感が出るか、ただの工事現場の音になるかが決まる」という。基本は「4分音符で1小節に4つキックを入れて、その裏に8分音符で1小節に8つハイハットを重ねる」こととしている[66]

拍子では「8分の6拍子」を「三連符の割り切れない切なさが絶対的なグルーヴの揺れを生むので、大事な引き出しの一個」と語っている(例:SPEEDWAY「Smile Again」、篠原涼子「もっと もっと…」、globe「Sa Yo Na Ra」)[168]

シングルをプロデュースする際は、1曲目がオリジナルで2曲目・あるいはアナログ盤にオリジナルのリミックスバージョンを入れるのが基本構成である。クラブ等通常のかける場所とは違うシーンでかかることを想定しながらリミックスバージョンを作り、最新の音色・メロディ・アレンジに対する反応を確かめて、反応がいいときはすぐに次のデモテープに活かす[169][170]。リミックスバージョンを制作する際には「どの楽器を前面に出すか」「どれだけ踊れるような構成にするか」という気持ち良さを重視し[171]、そのためにジャングルの制作ノウハウを踏襲している[172]

アルバム制作に発展させたい場合には、基本構成は1990年代までは通しで聴くことを前提に、1曲目と最後の曲目に注意を払うようにしていたが、2000年代以降はインターネットで試聴する1曲で印象が決まってしまうので、その1曲毎に芸術として勝負できるように心がけている[173]。制作方法はシングル用の楽曲制作の時点でコンセプトを煮詰めた後に時間をかけるか、プライベートで商業上の制約を一旦抜きにして好き勝手に曲を作りそれを商業向けに手直しするかのどちらかを選ぶ[注釈 40]。後者の一例としてTM「Self Control[175]RHYTHM RED[176]・trf「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜[169]・globe「globe[177]Love again[178]・ソロ「Digitalian is eating breakfast[179]が挙げられる。

曲に入り込ませるためのフックとして、都会の雑踏の音・信号機の音・携帯電話の受信音・臨時ニュースの発信音等、日常で人間がコンマ数秒で反応する音を機械音を中心に使用している[180][181]

転調

手癖ともいえる程に転調を多用するようになったきっかけは、TM NETWORKの1stアルバム「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングの時、ソフトのバグでシーケンサーに誤動作が生じた。その勝手に音調が変化し転調してしまった音源を聞き、小室が「意外と気持ちいい」と感じたことがきっかけとなり、以後の制作活動でそのフレーズが定着した。ちなみにこの時の現象を小室は「筒美京平さん・都倉俊一さんが作るような『歌謡曲的な転調』『キーが変わると、世界観は変わるが、歌の音域が変わらない』作り方が分かった」「これらの転調は適当ではなく理論的に説明が付く」と話している[136][182]。反面、発見したその後も意識的に挿入していたわけではなく、むしろ「曲作りで行き詰ったときに使う逃げ」「2曲を1曲にまとめるときに役立つけど、先に転調すること前提で考えずに最後の手段としている」[183]「コンピューターの誤作動による偶然の産物であり、中々思うように表現できなかった」「サンプラーが今のようにタイムストレッチができなくてそのままの音でキーを変えられなかった。そのサンプラーの音を使いたいがために機械的に転調させていた。逆のパターンもあって転調した後にそれまで使っていたサンプラーのボイスが無くなっていてボイスのキーと合わせられなくなった」と必ずしも好意的に捉えてはおらず、その後も如何に自由自在に使いこなすかの試行錯誤に腐心していた[184][185]

自らの行う転調のやり方について、「これだけ多くの音楽が氾濫している中で、曲にどうインパクトを持たせて、『もう一度聴きたい』と思わせるかという所で転調を理論的に取り入れている」[186]「コーラスのリフレインは4~8回はやるでしょ。そのときに転調して一瞬緊張感を持たせる」[186]「どこでキーが変わっているのか・どこがサビでどこがブリッジなのかを分からないようにする」[187]「声が張るピーク・一番伸びる部分をサビに持っていくため。サビに合わせるとほかのパートが低くなりすぎるため、仕方なく4度転調とか、そういう変な転調を無理やり入れる」「周囲からは『サビでいきなり転調するよね』って言われがちだが、サビが先にあって、その前のBメロで転調しておく」[188]「KCO・安室さん・華原さんは声が出るから転調無しの構成でも大丈夫だった」[184]「お互いのキーの共通コードをつないで転調する。そうすると突然転調した感じが薄れ、スムーズな感じになる」「王道としては、サビの繰り返しで半音キーを上げて高揚感を出す。共通のコードは無いけどメロディを繰り返すことで頭にそのメロディが残る」「ブリッジで転調しておくと、その後自分の演奏テクニックを披露する等やりたいことが自由にできる展開になる」と話している[185]

小室の思う転調は一時的に少し調が変わって、落ち着こうとする前にすぐ元の調に戻る「経過的転調」と転調してしばらくはそのキーのままで演奏される「確定的転調」に分かれている。前者は「一瞬ハ長調からヘ長調に移って、すぐハ長調に戻るもの。ロックではもう当たり前。突き詰めると段々下がるだけのパターンもそれ」と語っている。後者は「イントロ・サビ等のパートの区別がはっきりできる。インパクトをつけて、急に華やかになったり、暗くなったりと色々変化をつけれる」「曲の後半辺りでリフレインに飽きてきた頃に転調すると、同じリフレインでも再び緊張感を持たせられる」「ボーカリストに合わせてメロディーを無理に変えたり、曲全体のキーを低くしなくても、元来のメロディーラインを残せる」「間奏でソロが弾きやすいキーに変更すると、それがまた曲をスリリングにできる」と語り、その思想を基に突拍子も無い調にずらした曲をたくさん作っている[186]

コード進行では「F-G-Em-Am」[注釈 41]、「Am-F-G-C / 6451」(例:TM NETWORK「Get Wild[190]RESISTANCE」「humansystem[191]、H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」、trf「masquerade[192]、globe「DEPARTURES[193][注釈 42][注釈 43]、「短三和音五音音階[196]、「sus4(サス・フォー)」(例:渡辺美里「My Revolution[67]、小泉今日子「GOOD MORNING-CALL[61]、篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと[67])、「add9(アド・ナインス)」(例:globe「DEPARTURES」)[197]を多用する傾向にある。

作詞

作詞を始めたきっかけは10代の頃に聞いていたロックミュージシャンが皆自分で作詞していたから、それに小室が続いた形で作詞家としてのキャリアをスタートさせた[198]。19歳の時には小室が木根の楽曲に歌詞をつけたり、他のバンドに歌詞だけを提供していた[199]。1986年に小坂洋二から「歌詞は多く説明し過ぎちゃダメだ。具体的じゃない方がいいよ」とアドバイスされたことから、「音楽は絵と違って、時間軸があって必ず時間が経過していき、止まって感じることができないことで楽しめる芸術」と悟り[200][201]、「ジョン・レノンオノ・ヨーコに対して歌っているような『明らかに誰に対して歌っているのか』が分かる作り方」とは対極的な[201]人称・シチュエーションがはっきりとしている設定を作らず、「私に当てはまる」と感情移入できるように曖昧さや抽象的な隙間のある部分を敢えて残す形で「糊代」を意識的に作る演出を基本としている[202][203]

それまでは、起承転結のあるストーリーを作ってそれを底辺に構築していたが、インターネットを使用するようになってからは、ホームページのグラフィックを眺めている内にイメージが湧いたものを散りばめて、そこからさらにイメージを持たせていくという散文詩の書き方に近い方法論で書くようになっていく。小室は「1行目と2行目は全然脈絡はないけど、僕の中ではネットサーフィンで無意識でリンクを辿るように、何かがキーワードになっている。そして、僕でもいつの間にか『どうしてここへ来たのか?』と疑問に思うことがある。だけど、そこは意識しなくても何らかの意思があると思いながら詞を書いた」と話している。その際、実際に行間を埋めるために自らネットサーフィンを行い、そのときに楽しむビジュアルが決定的に小室の感覚に影響し、純粋なストレス解消にもなった[204]

世界観は「人生」「現実」「常識」「立派」「正直」「公園」を意図的かつ潜在的に散りばめ、閉鎖的な言葉遣いを排除し「『幸せの価値観』というレールから外れて、悩んでいる不良性を持つ子が喧騒から『走る』『逃げる』『動き回る』『内面を吐き出す』形で現実と立ち向かう」展開方法が多い。マスコミ関係者・ファンから「どうしてそこまで10代・女性の気持ちが分かるのか」「globeの歌詞や世界観に憧れた」と沢山の反響を受けた[205][132][93][206]

自身のポリシーとしては「『音の中に言葉があるはず』という感じで、メロディーの響きといいたいことの接点を見つけ、それらをコラージュしていく」[186]反体制派の賞賛ではなく、スポーツ・勉強・遊び・ダンス・DJ・ソングライティングをひたすら真面目に取り組む若者のストイックな格好良さを、時代と向き合うロックの新たな存在意義にしたい。だからリスナーに対する責任は重く、歌詞には長めに2週間は時間をかけている」[132][207]「『勇気』1つにしても、言葉をそのまま使うと一気に説教臭くなってしまう。代わりにコード進行・リズム・楽器を慎重に選択したメロディで言葉をシンボリック化している」[208]「10代が必ず通らねばならない道と対峙したときに、誰かに言ってほしい言葉に結果的になっていた」[67]「女の子が女の子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』という感じだった」[91]「コンセプトのベースが恋愛でも友情でも、つかめそうでつかめないギリギリの鋭い感覚がある部分を描く」[209]「提供した時点でその人のものになれるようにしている。globeでは特にそれを意識している」[210]「歌手の姿形・声をハンドルネームが持つ匿名性と解釈して担保し、それを通して自分の理想とする女性像を試行錯誤しながらも、純粋に照れを抜きに書いていた気がする」[211]「『でも』『だから』『じゃあ』等の接続詞を使って、言葉に対してリズムを作っている」[212]「女性目線の歌詞を書くときは、女性は常に上から目線のキャラクター」[213]「1人の女性の全く見えない孤独・葛藤を歌詞にしてきたつもりです」[214]「常に長所・短所両面の揺れを書いている。そこに男女の垣根は関係ない」[203]「完全に自分の1人称で歌ってもらえるのはTM・TRF・globeだけ」[215]「『自分はこれが言いたかったんだ』『こういう思いで生きてるんだ』と入れるのではなく、社会への投げかけを意識しています。『こういう風に思いますよね?』という、常に『isn't it?』だったり、『don't you?』が最後に付く」[216]と回答している。

反面「CAN YOU CELEBRATE?」という英語の表現や、詞の文法がおかしいなどの指摘があるが[注釈 44]、小室は「具体的な言葉の表現は苦手で、『宇宙』と書いて『そら』と読ませる」[218]「文法上のことはあまり考えず、曲のイメージ・16ビートのリズム・メロディにアクセントがぴったり合う英語を選ぶ。そうすれば『かっこ悪い』といわれる部分も自然と省ける」(一部要約)[217]「ごり押しではあるが、サビの印象的な部分に簡単で記号的な英語を入れる、ボタン一つで他国語に切り替えたり、英訳を表示する等、海外の方々への日本語の意味の伝え方はテクノロジーで克服できる。必ずしも全編他国語で作詞しなければいけないわけではない」[85]「作為的な言葉は全く考えず、自然発生的な言葉を中心に入れている」[219]「日本人が聞いて言いやすい、分かりやすい英語を求めていました。文法よりキャッチーであること優先。洋画の原題が邦題になるときと同じように、『ちょっと格好悪いかな』って位まで分かりやすくするために何回も書き直してました」[206]と発言している[注釈 45]

作詞の手法においては渡辺美里[注釈 46]坂元裕二[注釈 47]山下達郎[注釈 48]川村真澄[注釈 49]に影響を受けた。

実際に作詞作業を行う際は基本は三部構成で行われ、

  1. Aメロ「物語の設定の説明」「友達といる時の強い自分」
  2. Bメロ「昔のことを振り返り、自分達の状況・風景・環境を説明」「一人の時の心に浮かぶ本音のような弱い部分」
  3. サビ「相手に一番伝えたいことを伝える」

をそれぞれに振り分けて担当させている[213]字面を確かめるために、ワードプロセッサは使わずに全部ペンを持ってメモに手書きで直接1行ずつ書いたり消したりして徐々に完成させていく。いい言葉がメロディ程の尺のパラグラフで出てきたときには、それを優先する。降って湧いてきた言葉に対してメロディラインを変えるのも自由になり、バックトラックも別の素材に操作できる。これは作詞・作曲・編曲の三位一体をほぼ小室1人で処理できるからやれることでもあるが「この詞を使いたいんだけど譜割りが合わない」「音程が上がってるからこの単語は使えない」という苦労はないという[204][226]

1984年からラップの表現について試行錯誤してきた[9]。ラップはメロディを書かずにラップ詞の譜割りをすればいいから負担が減る分、ラップパートにメロディと同じ力・重さを持たせるかに悩み、ラップ中心の作品では歌詞が普段以上に長くなる[36]

モチーフを探すための手段としては、基本は「わけが分からないけど、インスパイアされる部分が多くて面白い」と敬愛しているロバート・A・ハインラインコリン・ウィルソンの作品群を読み込んでいる[227][228]。インターネットを使用するようになってからは、アパレルブランドのホームページの写真を眺めながら書くことが多くなった。特にゲスを重要なモチーフとして好んでいた[204]。globe「Lights」を制作して以来は岡本おさみ及川恒平等の1970年代の作詞の傾向を小室なりに再考・別解釈して表現するようになる[212]

作曲

小室が作曲をする際、アマチュア時代はライブハウス・学園祭・コンテストではギタリストやドラマーが主役だったために「如何に自分の音が目立つか」だけを考えていたが、プロデビューして業界人と接するようになってからは「ボーカルを如何に目立たせるか」を考えるようになり、「この音色・パートは歌を強調させる個所とぶつかるから避けよう」等歌に合わない演奏はどんどん削っていくようになった[179][229]。当時「ドラムやギターがリズムを縦に切って、キーボードが横に流れる」のが主流だった中、「ギターが最初から無い状態で、基本はどうするか」という発想から始めた。「ギターの役目をキーボードが如何にやっていくか」を考えたが、リズムを支えたいのに自然に横軸になってしまう等、どっちつかずになってしまう所の克服に苦労した。後にアナログシンセサイザーデジタルシンセサイザーの使い分けで音色の差別化を図ることで解決することができた[186]

バックトラックを作ってから、ボーカル用のメロディを考えるのを基本にし「ボーカル・コーラスもハーモニー・コード進行の一部と考えた上で、如何にトータルでサウンドを引き立たせるか?」という方針を「Self Control」制作を切っ掛けに常に考えていった[179]。そうしていく内に次第に「ダンサブルで言葉の情報量の多い楽曲作り」を志向し、「1拍半・半拍半で符点を付けて、タイでつなげ、さらに16ビートをつけて、その縦軸の中に完璧なコード進行を入れて、最後に歌詞を詰め込むことで、前に進もうとする推進力を付ける」という手法を開発した。小室はその手法が自身の本質と合うことを自覚したのは、1989年のことである[186][229][66]。同時に音色・リズムは強くスウィングしてないと生理的に受け付けなり[230]、スウィングの仕方も40通り持つようになり、1個毎に全ての触れ幅が異なっている[172]

自分の属するユニットの楽曲を作る場合は最初に「このジャンルを作りたい」と思ったら、もうその雰囲気で適当に弾き語り、出来上がった曲のことは軽く覚えておく程度にして、しばらく放っておく。そして、もし覚えていて格好よければそれを譜面にするか、録音する。覚えていて弾けても、その前に作ったときのインパクトがもう消えていたら、没にする。そして楽曲自体忘れていたら、「仕方がない、もしかしたら思い出す」と割り切る。似た作り方で、曲の構成上、歌い出しの部分だけ昔作ったものを思い出してサビの部分を新しく考える・サビだけ出来上がっていて、頭に常に置いておき、ある日それに合うイントロ等が出来ると急に引っ張り出すこともある。作った時代が、歌の場所によっていろいろあるといった感じのものも多い[231]

依頼された楽曲を作る場合は制約・締切があるから、今までのストックを基にして無理矢理作る。そして、ディレクターやプロデューサーにその楽曲を聴かせないといけないので、必ず「曲デモ」と称されるデモテープを作る。これを聴いてレコード会社の人・CMディレクターに「サビを直して」「これでは○○さんの曲みたいだよ」「いつもの小室さんがやるようなメロディでお願いします」等、色々な注文をされる。依頼された場合は、よほど制約が緩くない限りは勝手ができないため1回〜3回は、手直しがある。1番最初は7割程度の出来で聴かせて、2回目に全力を出して作るパターンが多い[231][232]。クレームに対しては「むしろ、ないと僕がオファーを受けた甲斐がない」と寛容な態度を示しているが[81]、どうしてもダメ出しをされたくない場合の対策として、わざと締切日ギリギリまで作らずに周囲がいても立ってもいられない心境にさせて、別の場所で1時間程で仕上げることもある[233][234]。1曲作るのに没になること前提のそれぞれの微調整されたパート違いも含まれる8〜10通りのバージョンを用意しコンペティションに臨んでいた[235]。発売前に各媒体で流してリスナーの反応に耳を傾け、手直しを行うこともある[236]

1990年代から依頼と注文に応えること前提の楽曲制作が格段に多くなったこともあり、それ故に「起きたら突然、降って舞い降りた・湧き出てきた・何かに導かれたように自分が閃めいたメロディだけで、周囲の介入なし・試行錯誤なし・実験性満載・楽器と向かい合ったら短時間で楽しく作れて、弾き直しも1回もなく、コンペティションもスムーズに通った楽曲」として[注釈 50]

を挙げているが「本来そのような楽曲が出来上がるのは数年に1回あるかどうかであり[232]、そこから『誰に歌ってもらって、どのように宣伝するのか』も考えなければいけないため、最初に一瞬で湧き上がったときのテンションを維持するのは難しい[260]」「35年やっているけど、1発OKはない」[261]と答えている。

基本的な制作工程としては、

  1. 自宅に併設した簡易的な設備を施したスタジオでベーシックとなる大まかなパート別のバックトラック・音色を作る[262][263]
  2. 本格的な仕上げに入るために、貸しスタジオを予約する[264]
  3. 昼過ぎにコンセプト・音色の打ち合わせを行う[264]
  4. 夕方16~17時、遅くとも深夜にはマーケティング方面のアイディアを頭に入れつつも[265][11]、メロディが全く思いついていない状態でスタジオに入り「この人に提供しよう」「このイントロ・コード進行・アウトロ・リフ・音色でいこう」と決める。
  5. 既存のシンセサイザーに内蔵されている音色を、マニピュレーターと相談しながらさらに編集する[266][267][注釈 51]
  6. 構想にフィットしそうなリズムパターンをドラムマシンで制作する。
  7. リズムパターンに合わせて全体の構成やコード進行を考える。
  8. 起承転結の通っているメロディを作らずに、思いついたフレーズを次々に作っていく。その内に溜まった音源データを聴いて、「音色が格好良い」と思ったフレーズにメロディを足していく[269]
  9. おおまかな構成ができ上がったら仮コードを手弾きで、またはコンピューターに打ち込んだメインのバッキングトラック、あるいは小室の知っている曲や自分で既に制作した曲を歌った鼻歌を、プリプロダクションを行わずに「ライヴでギタリストがアドリブのギターソロを弾く」感覚で録音してしまう[注釈 52]
  10. 録音した音源を再生しながら、ベースのフレーズを考えつつ、それをミュージックシーケンサーに打ち込む[注釈 53]
  11. それぞれのシンセサイザーの担当するパート・クリック音・リズムのデータを入力し終えたら、細部を詰め、細かい音色を決めて全て録音してしまう。この段階でのオフヴォーカル音源はほぼ完全パッケージメディアに近いものとなり、それをそのまま活かす形で「音色・シーケンサーのデータを作り直しただけで完成させるか」「敢えてデモテープから雰囲気を様変わりさせてしまうか」のどちらかになる[267]
  12. 最後に最も曲のイメージにふさわしいヴォーカル・コーラス・ギター専用のメロディの譜面[注釈 54]を「ギターのソロパートを振られたときにギターで弾き語るような感じで乗っけるように」作り[273]、それをスタジオ・ミュージシャンが直接何回か聴いた後に演奏し、ミュージシャンが実際に演奏したテイクに差し替えていく[238]
  13. 作詞・譜割りは必ずオフヴォーカル音源が完成してから取り掛かる[注釈 55]
  14. スケジュールに余裕があれば、完成音源を土台にさらにソロパート・ボーカルを被せて、厚みを持たせる[227]
  15. 作業が終わるのは翌朝の7時頃。スタッフと雑談・打ち合わせをしたり、食事を食べた後に自宅に戻るが、何かしら情報収集のために本を読んでいることが多い[265]

以上の工程[4][167][276]をTMデビュー前の時点で雛形は出来ていたが[277]、完全に確立できたと思えたのは渡辺美里の「My Revolution」を作った辺りとのこと[278][232]。その時の方向性は「当時流行していた洋楽のように4小節とも同じコード進行・バース(Aメロ)→ブリッジ(Bメロ)→コーラス(サビ)でメロディだけは移り変わっていき、予兆無しにコーラスが流れる展開」を目指していた[61][279]

デモテープの制作はTMの楽曲の場合は一キーボーディストとして直感で生んだリフ・フレーズを中心にしたオフヴォーカル優先、globeの楽曲の場合は小室による仮歌のみで構成され、周囲に提供する楽曲の場合はメロディ優先で制作する。最初から指定のシンガーに向けて作った楽曲を結果的に別の人が歌うケースになっても、別の人が歌えるようにカスタマイズする作業をすることもある。普通に2曲作るのに平均6〜7時間はかかり[4][182][280]、余裕を持たせてクオリティを普段以上に高める場合は1日10時間はスタジオにこもる時間を作り、3〜5日はかける[207]。その姿勢は日本・海外を問わない[238]。小室の仮歌がなくても小室が新しく作り上げた楽曲をすぐに歌いこなせるのは、それこそ宇都宮とKEIKOだけだった[281]

19歳の時にプレゼンをした際、そのデモテープが「家にあったオルガンを弾いて、犬の声も一緒に入っていた」内容だったため、レコード会社のディレクターに「これではどれがメロディだか分からない」とダメ出しされた。その苦い経験もあり、『レコード会社のカセットテープ・書類等で散らかった室内の中で、相手の顔が見えない状態でも、室内で仕事中の人にも興味を持ってもらえるか』『古いラジオカセットレコーダーで聴かれてもディレクターの気を引くことができるか』『レコード会社の人に如何に観客として楽しんでもらうか』『商品版の形をどこまで描けるか』を考えてデモテープの段階で本番のレコーディングと同じ環境の整ったスタジオ・機材・16~24chで録り、イントロから間奏まで完璧に作り上げ、ミキシングも行い、他のレコード会社が作る完全パッケージメディアより良いものを目指した。ただし、それが他の編曲家も関わる曲だった場合には編曲家を困らせてしまうこともある[282][259][191]

テープレコーダーを使用していた際はイントロからアウトロまで流れの型を必ず存在しているためそれに合わせて考えて、その先の違う型を使いたいなら全く別の次の考えに進めなければいけないため、テープを使用するデモ作りを「時間軸に乗せる作業」と称していた。シンクラヴィアを導入した際、時計回りではなくパズル感覚でデータを介してできる切り貼り・抜き差し等の編集作業の簡単さに感動し、次第にテープレコーダーは使わなくなる[283]

1990年代以降は「一ミュージシャンとしての技巧を凝らしたアレンジ」から「カラオケで歌いやすく、ディスコでもコンビニでもかけれるダンスミュージック」[注釈 56]「ディスコ+カラオケ÷2」[注釈 57]を主眼に置きつつ、「カードの組み合わせで曲ができる」を持論に、今まで小室自身が制作した思うように弾いて格好良いと思ったメロディ・世界中の楽曲の音源から採取したフレーズ・リズム・メロディを音楽ジャンル別・楽器別に分けて、さらに「イントロ用」・「サビ用」・「アウトロ用」等に分けてコンピューター上のデータとしてインプットさせた後(その数は音色だけでも5万はある)、シンクラヴィア(後にPro Toolsにシフト)を駆使して、楽曲のイントロ・1番・2番・ソロパート・アウトロまでをモニターに表示された高音・低音・リズム・各パートの長さを確認しながら行うようになる。いかに自らの曲のイメージにすり合わせながら「カードのように」数々の楽曲を引用・コラージュ・再利用して組み合わせ[注釈 58]「小室サウンド」としてサンプリング、アレンジして完成させるかがポイントになっている[67][79][286][283]。この手法については「ガンズ・アンド・ローゼズの楽曲の作り方と似ている。彼らが自分達の好きなエアロスミスが制作した3曲を1曲に詰め込んだような感じ」[283]「いいサンプリングのネタと音色が一つでもあればそこから広げて1曲できる。海外では完全にそのノリ。もうそろそろ『サンプリング=盗む』という感覚も消えていい。ジェームス・ブラウンのようにネタを使われているアーティストがジェームスのネタを使っているアーティストプロデュースを頼むこともあるのだから」[287]「引き出しがあり、そこから引用したものはあります。ただ、曲作りのためのデータというより、記憶の代わりに使っているだけ。外国の誰かと似ることはないが、自分の前の楽曲と似ることはある。それがない用に確認するだけです」[288]「1970年代の誰もが知っている曲のある部分をイントロにつける、バックトラックに知っている曲のフレーズをつけておくと通りすがりの人をも驚かせる。一種のサブリミナル効果です」[67]「機材が進歩すると共に『この部分を直せばもっといい音源になる』という思いが強くなった」[289]「自分の力で作ることはもちろん大切だけど、自分が影響を受けたものを紹介するのもまた大切」[290]「いくら真似して作ったと言っても、元ネタが見えなかったらそれは既にオリジナル」[72]「『何かに似ているけど気持ちよくて格好良いよね』とみんなに思われれば、『似ている・似ていない』の問題はクリアできる」「『どんな方から影響を受けましたか?』と聞かれないアーティストはいない。アートは中々インスパイアから逃れられない。コピーとインスパイアを積み重ねて誰もやった・使った・聞いたことのないほんの数秒間、瞬間でもいいオリジナルを発明してやっと匠になれる。僕の中で発明と思っているのが安室さんの『CAN YOU CELEBRATE?』のイントロ」[291]「過去に自分でゼロから作ってヒットした楽曲をお手本にして、フレーズの一部を再利用した方がファンの期待に応えられるし、自信になります。純粋になる、化合物が無くなる感じですね」[216]と答えている。それ故に楽曲はパート別のメロディの断片を除いても、常に100曲のストックを持っている[292]

作曲家のポリシーとしては「体を動かしたくなる『発散性』があるか、場を盛り上げるための『社交性』を持っているか、楽しいだけではないハードルの高いキーがもたらす『エクササイズ』になっているか、というカラオケでファンが求める3要素を常に意識する」[293]「一度書いたメロディは必ず使う」「メロディがボーカリストの心身にどんな作用をもたらすか細かくイメージする」「楽曲のジャンルを確立するためにデモテープのミックスの名残をできる限り残す」[219]ことを心掛けている。TMでのレコーディング作業時、宇都宮に負担を掛けすぎたことへの反省から篠原涼子をプロデュースした1994年からボーカルディレクション・ミキシングの指揮を自ら行い、ビブラートを効かせたり、小節を回す等の歌い方は極力させないようになった[164][36][294][注釈 59]

編曲

編曲に対しては、音色の0からの制作も同一の作業として含まれていると見ている。TMデビューの時点で「シンセサイザーはどれを使うか?」「ドラムはドラムマシンでやるか?ドラマーに頼むか?」等全部編曲家が決めたり、選んだりしなければならない環境になったため「楽曲が商品になるために最も幅をきかせてる部分であり、レコーディングスタジオの中で一番偉い存在」と語っている[231]

小室が直々に手掛ける場合は、まずイントロダクションから考えていく。「イントロが良くなければ、関わる意味がない。その位僕はイントロが好き」「ほとんど作曲に近い」[231]「どのチャートで上位に入るかをシミュレーションする」「大体『ザ・ベストテン』で第1位が発表された直後に聞こえてきそうな感じにする」[66]という気持ちでこだわっている。ただしスタジオ・ミュージシャンに、その楽器が担当するパートのアレンジを全面的に委ねることもあり[273]マニピュレーターもリズムの構成の視点で編曲に際してのアイディアを出す。小室にとって、マニピュレーターはサウンドプロデュースの補佐的なポジションと捉えている[267]

アイディアが進まなかったり、楽曲と音色の雰囲気が合っていないと思ったときは、「歌やメロディと一緒にどんな音をどんな風に演奏するかを決める」「歌やメロディがどこで始まって、どこで休んで、どこで終わるかを決める」「歌もメロディもないパートで他の音色・コーラスをどうするのかを決める」「歌詞が完成していたり、歌手の声質・キャラクターが事前に分かっていたら、それに合った音色を作る」という4つの原点に立ち返っている[295]

ミキシング

小室にとってミキシング作業は編曲に近い感覚で行われている。「他の作曲家が手がけた楽曲のアレンジを依頼されたら、そのメロディはいじくれない。リミックスを頼まれたときも既に録音してあるボーカルトラックは変えないようにしている。その絶対的な制約がある上で組み立てるという点では、両者は似ている」と語り、作曲・編曲・ミキシングも等しくクリエイティブな作業として同一視している。そのため、よりリスナーに近づける感触を味わうためにミキシングまで深く関わる[296]

初めて小室一人だけで行った作品は「TMN CLASSIX」であり[296]、本業のレコーディング・エンジニアではないから、ソリッド・ステート・ロジックの卓を見よう見まねで好き勝手にイコライザーコンプレッサーをかけながら技術を身に付けていった[297]

ミキシングではボーカル・リズムのトリートメントに神経を使う。昔は「下手なボーカル・音色が粗いから素材そのものを直す」というのもあったが、機材の性能が進むにつれ次第に「より完成度を高めるためのエフェクトの付け足し等の加工」と意味合いが正反対になっていき、小室個人でミキシングを行う場合は1トラック3~5時間は時間をかける。ミックスするパートは一番その曲で聞かせたいトラックからやって行くようにしている。「そのパートの輪郭を最初からハッキリさせれば全体を分かりやすく聴いてもらえる」という意向からきている[241][298]

録音

レコーディングスタジオに対しては、トラックダウンからマスタリングにかけた作業段階で、音質について議論・実験を重ね、特に機材・設備・果ては土地の空気・気圧・電圧・温度・湿度・静電気・シールドケーブルに拘りを見せる[注釈 60]

短いサイクルでスタジオを世界各地に移転する。小室曰く「ヒットが生まれる場所は年月が経つと全く違う。拠点を固定してしまうと時代・テクノロジーとの矛盾を起こしてしまうため、もしかしたらサーカスのように明日移すかもしれない」とコメントしている[300]。ただ、全ての作業を自分のスタジオで行うほどの完璧主義ではなく「場所が滞在先のホテルでも・病室でも・車内でも、打ち込み用のキーボードとパソコン等の機材が置いてあって制作ができればそこはもう立派なスタジオで、データだけでほとんどの作業が済んでしまう」[300][302][303]「5千万円あったら機材を買うより他のスタジオを回って何枚かアルバムを作った方がいい。今はどんなに高級な機材でもリースすれば簡単に届くために、あのスタジオにはあの機材があるからすごいという訳ではなくなってきている」[300]ソフトウェア・シンセサイザーの発達によって、AIRスタジオで録音した音に遜色が無いものが作れるようになった」[304]「ロンドンでは電圧が240Vあり、それだけで音圧の高さ・倍音の気持ち良さ・鍵盤を叩いてからスピーカーが音が出るまでのスピードが日本のスタジオとは段違い。機材面のサポートが充実していて、電話するだけでオックスフォードの機材メーカーからすぐにスタッフが来てくれて、その日の内に対応してくれるので本当に大切な作品はロンドンで録音したい。今までの海外のスタジオで一番良いと感じたのはトレヴァー・ホーンがオーナーを務めるサーム・スタジオ[305]と話している。自宅でのレコーディングの際の防音対策として、壁に大量の洋服を吊り下げている[306][300]

1990年代 - 2000年代は的確にミュージシャン・エンジニアを配置し、正確な指示を与えた上で、複数の楽曲のレコーディングを同時進行でスケジュール通りに終わらせるために1軒のスタジオに何室もの個人用ルームと総計50台を超える録音用のミキシング・コンソールを用意し、小室・木根・久保こーじ・松尾和博DJ DRAGON・当時の専属マニピュレーター・ライヴミュージシャンのリハーサル専用のスタジオとしてそれぞれに割り当てて、それぞれが担当するパートに専念させていた[286][263][307][61][308]

その当時の状況を、小室とその関係者は下記のように表現した。

  • 小室「羽生善治さんの数々の将棋盤に合わせて戦術のバリエーションを変えて勝負するCMと似ています」[309]「24時間寝ないで、globeの曲を作りながら安室さんの『Don't wanna cry』を作っていました」[297]
  • 宇都宮隆「まず小室が曲を作り、アレンジしてオケを作る。そのスタジオには僕は行かないで、完成した音を聴いて歌う。ボーカルのブースには小室は来ない。1984年からそういう分業体制だった」[310]
  • 松尾和博「付き合いは長いのに、TKと長く話したことがない」[311]「大量の依頼が来て、曲を量産しなくてはいけない。『朝までにギターを入れて』というインスペクターでも対応できない状況に、たまたま『24時間365日なんでもやります!』という僕がいた」「決まった時間に作業することはなく『締め切りはこの辺だからそれまでにやっておいて』とベーシックトラックを渡されるので、それまでに済ませるのを次から次へと繰り返しました。スタジオセッションのように皆が集まることはなかったので途中で行き詰ったらすぐに一旦休止もできた。1曲に2日かけても、締め切りに間に合えば大丈夫だった」「96chのソリッド・ステート・ロジックのミキシング・コンソールの片方の48chを僕専用のブースとして自由に使わせてもらえた」「具体的な注文はなく『ギターを入れて』だけだった。フレーズ面だけでなくサウンド選びもものすごく自由で、僕の判断で勝手にアレンジしたけどNGはなかった。強いて言えば『テイクこれだけしかないの?』と言われたことはあった」「レコーディング中は聞いている時間が一番長い。リピートを何回もして、足りない所はないか余白を探す。『どんなフレーズを入れるか』というアレンジャー的な考え方ではなくて、その他全体の楽器を聞いて、『ギターの質感を当てるか避けるか』が大事だった。パート別にやっているから、逆に頭から通して弾けなかった」[312]
  • DJ KOO「スタジオが同時進行で3~4つは当たり前に動いていて、小室さんはその間に打合せも幾つもやっていました。1週間に10作品とかを並行してやっていて、trfだけみても絶えずリリースがあって、それをライブツアーをやりながらやっていたので、僕とYU-KIは常にスタジオに入っていました。そこに小室さんから楽曲・仮歌・歌詞が次々と届いて、それをどんどんレコーディングしていくという日々でした。できあがるものに対して、小室さんがNGを出したことはなかったです。忙しかったからかもしれないですけど、ダメ出しは覚えている限りはなかったです」[313]

素材のデータ転送がスムーズになって、テレビ電話で海外のスタジオのスタッフと話せるようになっても、小室は正式なレコーディングは現地に行きスタッフと直に対話しながら行うことを念頭に置いていた。目標としては大衆を狙って活動しているけど、仕事中では仲のいいプロデューサー・ミュージシャンをすぐに直接楽しませるために作っている。小室は「特にアメリカ・ロサンゼルス出身のエンジニアが隣にいると身が引き締まり、その人が『COOL!』と言ってくれないと終わらない気がする」と語っている[204]

素材を高音質に記録することを目標にして、PCM-3348・オープンリールが主流の時代でも24bit/96kHzから48kHzで録音し、ボーカル・コーラス・声等の人間の生の声を使うパートはハードディスクドライブに別に記録していた。マスタリングの際に確認できた小さなブレス音等がCDとして納品されたときに、聞こえなくなってしまうことが多々あった[314][315]。2000年に記録媒体を完全にハードディスクドライブに移行した際はPro ToolsからDream ADA-8を通してAWS 900でミキシングを行い、MERGING Pyramixに24bit/192kHzで録音することが基本の流れになった[316][300]。理想は「大元の素材は384kHzで持っておいてもいいのではないか。下のサンプリングレートから上げることは不可能だから」「携帯電話で聴いても、潰れたり埋もれたりしない音像」[293]を目指している[注釈 61]

キーボーディスト・シンセシスト

シンセサイザーの使い方はハードウェア・シンセサイザーを重視する傾向が強く、レコーディング作業時のみソフトウェア・シンセサイザーを「楽器として重要な要素であるフィジカルコントロールの面でハードに劣る」「鍵盤の方が手っ取り早い」「マウスが使いづらい」「つまみがあって二度と出せない音を作り出せる機材に可能性を感じてしまう性分なので、マウスや数値だけでは限界がある」[101]「基本的にステップ入力はしない。1974の時その手法でイントロを作るだけでも大変苦労した。それに打ち込みから始めてしまうと音色によってデュレーションやリリースが違うので、いざ聞くとニュアンスが全く違ってしまう」[317][318][44]として使用していなかった。音自体はMIDIで作った後、それを鍵盤で即興で弾き、それをPro ToolsACID等でエディットしていく形を好んでいる[182]が、椎間板ヘルニアによる身体への負担・コンプレッサーの性能と音圧の高さとハードウェアタイプとの差の大きさ・マウスの操作性の向上(主に応答時間)・他のクリエイターからの影響を考慮し、2013年3月に個人所有のスタジオを改装する際にソフトウェアタイプの機種を導入した。また、同年の7月20・21日にさいたまスーパーアリーナで行われたTM NETWORKのコンサート『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』では初めてソフトシンセをライブで使用した。ライブのリハーサル中、PCが頻繁にフリーズしてしまったため、バックアップとして急遽パソコンをもう一台購入し、ソフトシンセももう一式購入した。そのため、「結果ハードシンセよりも高くついたが、2台あることでダブステップをやるので音を重ねていけたりする等プレイの幅が広がった」と小室は語っている[319]。それでも2013年の時点で「記念館を作れる」くらいに個人でハードウェアタイプの機種を所有している[320][321][322][323]。新しくシンセサイザーを購入した時、マニュアルは読まずに予備知識なし・直感で操作する。それ故に一度も使ったことのない機能・スイッチが多いが、使いたい機能・目的がはっきりしているため、あまり楽曲制作に迷わないという[324]。使える機材かどうかは、「鍵盤を弾いた瞬間に時差なくスピーカーから音が出るか否か」の二択で選んだ[325]

ライヴでの演奏もシンセサイザー主体であり、「自分がその楽器のプレイヤーとしての腕が追いつかなくても、演奏したい楽器のボタンを押して弾くと機械の方がメロディをしっかり追えると14,15歳の頃に気づいた」[41]「アレンジ・奏法はギタリストの真似から始まっていて、ギタリストだと簡単に弾けるフレーズ・プレイをキーボーディストが担当するとどうなるかを意識している」[326]「1台の中に生のストリングス・バンドサウンド・ヴォーカルが全て入っていて再現できる。僕の音楽はシンセサイザー・コンピューターの制御があって初めて成立している」[79][327]「1台あるだけで1曲音源が作れる程、機能が充実している」[328]「バンド内でギタリストに対抗できるポジション」[297]「ギタリストがカッティングでグルーヴを生み出すように、鍵盤でも何か違った形でグルーヴが生み出せないかと思っている」[329]「数台重ねれば一人バンドができる」[234]と語る程に思い入れが強い。既存の音源・事前に新規に作成した音源の上にマルチ・キーボードでの即興演奏で全く別のメロディを重ね、ミュージックシーケンサーを駆使しての多重演奏を主体としている。その際、無駄な音は消去法の要領で全て取り除いて、極力簡単で有効的な音にしている[272]。同時にPAエンジニアと相談して、キーボードはどうしても音数が多いから、細かいプレイまで再現するためにギター・ベース・ドラム・ボーカルの入る余地のある隙間を作る。ギター・キーボードのパートは和音の即興演奏は止めて、単音で「あの曲はこういう音だった」とファンの耳に残して、1曲毎の印象を強く残すことを目標にしている[330]

ただ小室本人は必ずしも機械弄りが好きだったわけではなく、電子楽器・コンピューターを使用しているのも単に「便利だから」という理由である。むしろ「旅客機のコックピットみたいにライトや計器に囲まれて、機長のように指示を出す」というシチュエーションに小さい頃から憧れており、それが小室独自のキーボード&シンセサイザーブースと機材リスト構築に反映されている[5]

マニピュレーター

計算機科学に関しては本来何の知識も持ってないため、アレンジを終えた楽曲のデータを小室のチェックの元で別の専門のマニピュレーターが打ち込んでいる[227]。しかし、1993年以降は小室もクルーの協力の下で、自らプログラミングに着手するようになる[169]

長期ライヴツアーがマンネリ化しないための工夫として、スタジオで事前に完成した映像に合わせて即興でベーシックのオケを制作し、リハーサルでは毎回映像を見ながらオケの作り直し・音色のデータのアップデートを行っている。そのために小室のブースではスタジオの環境と変わらない録音ができる機材を中心にしたシステムで構成されており、レコーディング体制・ライブ体制へとすぐにどちらにも切り替われるようになっていて、「TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-」からはリハーサルの途中でも合間を縫ってレコーディングを行うようになった[331][319]

小室自身の感じるシンセサイザーサウンドの「賞味期限」は3か月であるため、その時になったら常に1からサウンドを練り直しているという[79][292]。これについては「長時間スタジオに篭り、コンピューターを駆使すればするほど、メロディ・音色等のデータが蓄積されていく。一度取り込んだデータは加工し、再利用し、新たな楽曲作りに活かすことができて、生産性が上がる」[79]「頭の中で鳴っている音楽は1時間で形にしたい」[300]「デモテープを作っているときが一番格好良いと思っていて店頭に並ぶ頃には飽きている。昔は周りに対して『違うんだよ、これは半年前に作った曲なんだよ』と思っていたが年々スパンが短くなるにつれストレスが大分減った」[297]「ソフトシンセはアップデートする度に月に何万もの新しい音色が来る。旅先でもダウンロードできるので驚きつつも、エディットしてすぐにぶっつけで仕事に使う」[319][332]と語っている。

DJ

1991年よりクラブツアー「TK TRACKS NIGHT」でクラブDJとしてのキャリアをスタートさせる。DJブースに入って小室自身が選曲していたが、選曲・瞬間毎の判断を誤って、観客の熱気が冷めていく時の恐怖感・パニックを何度も経験した。同時に音楽プロデューサーとして企画を仕掛けていくための身体を第一線に張った上でのマーケティングのセンスが養われた[67]

クラブでのライブはトータルに見ると普通のコンサートより観客の支払いが高く付くので、「観客が満足してくれるのか」という心配が付きまとい、普通のコンサート以上にサービスする。クラブのスタッフに制止されない限り本番に3,4時間はかけ、リハーサルの段階で曲をつなげるための時間として2時間は作る。その時の要領は「椀子そば」「1979年頃にレコード店を回ってギター一本で歌う山下達郎さんに近かった」と話している[66]

クラブでの動向を観客の服装・顔色・男女の比率、クラブにスタッフとして所属しているDJの嗜好・顔色を窺いながら、選曲・鍵盤の弾き方もその都度変えていく。ノリはジャズの即興演奏に近い[66]

1993年よりクラブDJが行うミキシング・コンソールでのリアルタイムリミックスに興味を抱き[333]、1994年の「TMN 4001 DAYS GROOVE」にて音色をWaldorf THE WAVEに搭載されたノブ・スライダーで視覚的に操作した[284]。1997年のイベント「TK Presents GROOVE MUSEUM」以降は、小室のブースはリズムを含めたほとんどの音が内蔵されたPro Tools・ハードディスクドライブとミキシングコンソールが機材の大部分を占めるようになり[334]、ステージ上で楽曲の構成をディスプレイで確認して単音・ブラス音・パッド音をノブをつまみながら歪ませて、それをPAエンジニアのチーフに送りながら行う音色と音質の変換・パート別の音量と残響時間の調節作業が担当の9割を占めるようになり、鍵盤はほとんど弾かないときもあった。どのようなミックスになるかは小室のそのときの気分次第であり、公演ごとに一つ一つアレンジが異なる。元の楽曲の演奏のきっかけになり、リズムをキープするための拍子・音程をキープするために最低限必要なメロディが突然消えることが多いため、照明デザイナーPAエンジニアボーカル・ミュージシャンは通常のコンサート以上の多大な緊張と集中を強いられるという[141][335][336]

ギター

ギターはコード進行しか弾けず、周囲に圧倒的に上手い人が沢山いたので、やる気が起こらなかった[19]

しかしプロデュースに専念するようになった1990年代から、安室・華原・globeのレコーディングでは7:3から6:4(シンセ:ギター)の割合でギターも演奏するようになった(主にPRS Guitarsエレクトリックギターアコースティック・ギター)。理由は鍵盤に対してのサンプリングのテクノロジーが発展していなかったので、歌とギター特有の細かな動作・操作・表現を鍵盤で再現するのが不可能であり[61]、鍵盤は音を跳ねさせるのは難しいけど、ギターはテクニックがなくても音を跳ねさせることができるからであった[337]

ギタリストは「キーボードで鳴らして楽曲の元々のコードに混じると鳴らせないコードでも、ギターがその部分をサポートしてくれる。その他にもイントロで即興演奏で遊んでくれて、種類を持ち変えるだけで全てが変わるから、ライブでは特に必要不可欠」と評している[61]

小室によるギターの演奏を録音したのは篠原涼子の「もっと もっと…」が初めてであり、H Jungle with tの楽曲でもノークレジットながら演奏している[9]

歌唱

ボーカルのレコーディングは小室1人でもどうにかフォローできる余地があるためキャリアを要求しないが、ライブではデビューから早期に大勢の前でマイクの前に立つのを経験させるように心がけている。これは「舞台監督照明スタッフ・PAエンジニア・ファンの刺さるような目線に込められた気持ちを受け止めて欲しい」「ハプニングで成功する確率には期待しない。本番を1回でも多く経験し、場数が豊富であるほど、素晴らしいエンターテイメントになる」という方針からきている[338]木根尚登のソロデビュー時に木根からどのように歌うか相談を受けた際「失敗してもいいから場数を踏んで、自分の歌い方を見つけるように」とアドバイスしている[339]

反面ソロアルバムでは小室自身が歌唱する楽曲があるが、小室は本来の歌唱力を「1人でモノラルで録ったら、とても聴けるようなものではない蚊の鳴くような声」[66]「仮歌がすごくいい加減で、『ド』なのか『レ』なのかわからない程の音程があるので、KEIKOは結構苦労するそうです。それを解析するのがまた楽しいらしいのですが」[269]「ただ1回歌っただけでは非常に心もとない、絶対に歌手にはなれない声質」[340]「全然合格点ではない。自分のソロだから許されることです」[341]と話している。

その代わりにコーラスには「狼煙を焚く覚悟で行っている」と自負する程に拘りを見せている。1人で最低でも6~8回をそれぞれ個別毎に違う音程・音域・メロディーで重ねて独特の倍音を発生させて、3人並んで歌っているシーンを連想させないようにミキシングし、「それぞれの癖のある声」が「本来のメロディを生かすための楽器」として機能するように手間をかける。小室自身も自分が担当するコーラスには1時間に8~16回重ねるようにしている[注釈 62][191][66][286][342]

劇伴

劇伴を制作する際は、映像との兼ね合い等色々な条件の中で「如何に自分のエゴを出すか」を考えながら制作している[179]。そのため一応監督の話は聞きつつもあまり気に留めず、全ての映像をテレビに起こして、視聴者になったつもりでリモコンを持って画面を見ながら即興で曲を付け、映像のタイミングを確認しながら手直しする。こうして好き勝手に解釈して作った曲を10曲程コンサートの要領でスタッフに聞かせて、どのように「視聴者が感動できるか」をテーマにしながら、さらにスタッフと一緒に相談して磨き上げていく[343]。楽曲を提供すればそれで終わりではなく、監督・映像・BGMのイメージが少しでもずれていたら、それがどんな段階でも何度でも修正する。場合によっては新曲を書かないといけないため最終的な編集作業まで利害関係なしに1スタッフとして責任を持って、最新鋭の制作システムをもって締め切りまでに如何に磨いていくかを考える。「ドルビーサラウンドに対応していない」等の最悪な状況やシステムの状態の映画館でもまずまず聞ける音色を別に作るため、小室の意向だけで終わらせることができない。商品としてまとめる場合には劇場公開版とは全く異なるミキシングを施す[344]

ただ、小室は後に澤野弘之に「ワンフレーズのメロディでも耳に残る楽曲を作りたいから、どうしても監督の希望より音が立つ方向にものを考えてしまうので、僕はサウンドトラックの仕事にはあまり向いていない。やっぱり『好きにやってほしい』とオーダーされて作ったサウンドトラックが、世に出て残っている」と述懐している[注釈 63]

メディア上の戦略的演出

音楽プロデューサー

小学校の頃から、学芸会・運動会・卒業謝恩会のイベントになると、学級委員として張り切って先頭に立っていた。小学4年生の時の学芸会で前半に笛の演奏会を行い、後半に三億円事件をモチーフにした演劇を開催するというプログラムを決めた後に草案を提出した。3歳から12歳までヴァイオリンを習っていたのを活かし、笛の演奏に関しては各パートのアレンジも手がけた。普段から勉強ができるいい子になり、先生・学校を「お金を出してくれたり、場所・環境を与えてくれるスポンサー・クライアント」として見ていて、先生を仲間に入れることはもちろん、クラスメイトにも気を使って引き込むようにしていた。ただし、中学では小室と同格の生徒・小室を快く思わなかった生徒もいたことにショックを受け、普段の学校の授業には人並み以上に参加し、コミュニケーション技法・音楽の練習を0からやり直した。この頃から既に「終始自分だけで楽しむ」という気持ちは毛頭無く、それがプロデューサーとしての立ち振る舞いの原点となった[5][15]

高校生の頃から本格的に音楽プロデューサーになることを志し、その立場と役回りに拘った。「外部からプロデューサーとして推薦されたら、アーティストより偉いから速く物事が進む。例えばヨーロッパで『小室というプロデューサーがいるだろう』となったら、『あいつに相談したら窓口とつながりがあるから、レコード会社を紹介してくれるぞ』と様々な話が出てくる。これが『キーボーディストで小室がいるよ』となったら、そこで終わってしまって後に続いていかないんです」[66]「中学生の時から聞いていた洋楽にはプロデューサーの名前がメンバーよりでかく載っていて、インタビューでも『プロデューサーを選ぶところからレコーディングが始まった』『今度はこのプロデューサーでやろう』『プロデューサーと喧嘩してレコードを没にした』等、かなり立場が高かったことが窺えた。無理してフロントに出なくても存在感が確保され、上手くいけば必然的にオファーが来るポジションを目指したい」[66][注釈 64]「ミュージシャンはエゴが強いから、喧嘩にならずにバンドとして統一するためにまとめ役が必要」「自分の思いを伝えるには、自分で演奏して歌うのが一番シンプルだから。でも、そういうシンガーソングライターみたいな事はできないと自覚していたから触媒・フィルター役で音楽に関わっていきたい」「『この人と組んだらこういう音になる』というのを研究しているアーティストから選出され、世に送られて、ステータスが上昇する。そこから、楽曲を自分の好きな音楽の方向に持っていって、まとめていく。そういう洋楽案内人みたいな立場になれればいいなと思っていた」[72]と考えていた。

音楽プロデューサーとしての仕事の進め方の点で、影響を受けたのがクインシー・ジョーンズベイビーフェイスナイル・ロジャース[注釈 65]等ターゲットを絞らなくても大勢に広まる宣伝戦略・ブラックミュージック専門の黒人音楽プロデューサーの手腕に一気に魅せられた事だった[279]

プロデューサーとして一番恐怖心を抱くのが、多方面・他国で大ヒットが来ることであり「自分達がやっていることが本当に大丈夫なのか」と不安になる。そのため、自分の仕事と世界の音楽の流行の膨大な音色の種類・アーティストの動向を1フレーズ単位で調べている。転機になったのが「SF Rock Station」のレギュラーを担当することで、今まで以上に新譜が聴けれる機会が増えて、メンバー・スタッフにもプロデューサーとして自信をもって強気で「今の所は大丈夫だから、これでいけるよ」と言えるようになった。逆に一番「プロデューサー冥利に尽きる」と嬉しく思うのは、自分達が新しいことをやっていたら、それに近いものが多方面・他国からも出てきて「同じことを考えているんだな、タイムリーだから大丈夫だ!」というノリで行けるという[175]

本格的に制作進行・予算管理等の裏方に徹し始めたのが1992年からで「自分が表に出てツアーや取材に時間をとられるのが嫌でその時間を裏方仕事に使えば音楽業界のどれだけお役に立てられるか」を考えていた[162]。TMNが活動終了を発表した1994年当時は以後の派手な活動とは裏腹に、ステージから降りて完全に裏方に徹する予定だった。そのため「一連の大ヒットは僕にとっても予想外の出来事だった」「僕の口から『TKサウンド』と言ったことは一度もないのに『TKサウンド』だけで独立してしまったために、人伝えではないために良くも悪くもないそのままの言葉が伝わるから、自分の発言に責任を持てて『こんなことは言っていない』という意思表示になるホームページの必要性を迫られた」と語っている[348][233]

レコーディングと同じ程に宣伝を大事にしている。「a-haのように楽曲の内容を最初に知って、そこからどういうアーティストなのか」と思われるとその後が続くかどうか心配になるため、「チャーリー・セクストンみたいに楽曲より先にアーティストそのものを宣伝して、キャラクター性を知ってもらう」ことを優先している[349]。TMの「Love Train/We love the EARTH」からアーティストのプロモーションとして、カラオケのビデオに歌っている本人達を登場させることを幾度と提案していたが、当時のソニー・ミュージックエンタテインメントの内規・肖像権の問題で通らなかった。TMの宣伝会議に出ても「何故アーティストが来ているんですか?」と直接迷惑そうな言い方をされ、小室も「何故この辺の問題が、演歌界ではスムーズにことが進むのかがおかしかった」と語っている。逆にプロデューサーとして出ると言いたい事を全て言えて、アーティスト・現場スタッフとしての視点で話せて説得力も持った。篠原の「恋しさと せつなさと 心強さと」で本人出演の許可を得たことで、「交渉過程のゴタゴタで、霧が晴れた感じがした」と語っている[36]

テレビCM・主題歌等のタイアップでは、特にテレビCMに関して「CM・ドラマで流れる15秒~1分の制限の中で引きつけねばならない。でもCDを買ったら『そこしかインパクトがなかった』というのではいけないので、手法としては『1つの波を作り、その中から一部をタイアップ用に分ける』という考え方です」[163]「15~30秒ながら、MTV並みの完成度を持つ映像を作るわけですから、僕がCMのタイアップに関わるのは既に一種のコラボレーションだと考えているんですよ。社内会議の投票で他:7・僕:3だともう僕の入る余地は無いから席を立ちます。スポンサーにはそういう制作現場の重みを理解したうえで、数々のミュージシャンの中から僕を価値を見出して欲しい」[204]と特別視している。

歌詞はプロジェクトごとに確かな差分のある大まかなテーマを絞り込んだ後に、世界中のホームページを閲覧したり[138]渋谷スクランブル交差点渋谷公園通り等を主な舞台にし、書く場所を歌手毎に変えたりしていた[29]。闇雲な妄想を避けるためにプロデュースする相手からは直接一対一で話を聞き、小室自身の感情を渋谷センター街で遊ぶ女性や若者に置き換えてみたり、小室とファンの共通項を探ったり、主人公の設定の考案等で推察やマーケティングをしていた[93]。例えば、

  • TMは小室が書く場合は「アーサー・C・クラーク等のSF小説の世界観を、どのようにシンセサイザーの音楽と馴染ませつつ日本語で表現するか」[350]「純粋にファンタスティックで、SF・RPGゲームを思わせる世界観」[351]を基本方針にしている。
  • trfは「男性基準ではなく、飽くまで女性自身が憧れる『美しさ』や『ストイックさ』をまっすぐに追求する女性」をテーマにし、女性メンバー3人にパフォーマンスにぶつけてもらった[93]
  • 篠原涼子は「不良性そのものを歌って、それが女性ファンに刺さるか」を試した[93]
  • H Jungle with tは「30代の男性の気持ちを詞にストレートに書ける場所」と称している[352]
  • globeはKEIKOから地方から東京に出てきた女性の気持ちを聞き、小室の解釈で女性目線で男っぽさと女々しさが内府したある意味一方通行な歌詞を書いた[93]
  • 安室奈美恵は「厚底ブーツを渋谷で買った」という意見から、「積極的で楽観的な不良性」を歌ってもらった[93]
  • 華原朋美は「渋谷のカラオケによく行った」という意見から、「元々は普通の子なのに、意図せず規律から離れてしまい、自分に自信が持てない子の切なさ・やりきれなさ」を書いた[93]。それまでは「みんながカラオケとか歌う時に、1,2行でも残るように」作っていたところから、華原に向けた作品を作り出したことが「リスナーが最初から終りまで完璧に分かってもらう」ようにする構成を考え始めるきっかけになり、終始女性の言葉遣いで表現した[350]

プロデューサーとしての方針として、「こういうことのために、こういう仕事をして、形にしてほしい」というビジョンの明確な依頼を外部から受け、飽くまでも1スタッフとして関わる形で成り立たせている。例として「CDを○万枚売ってほしい」という依頼がきたら、極力それに向かって進み、「アーティストを育てたい」と言われた時には、人選して、マネージャータレント・エージェントとして素材であるアーティストをあくまでもスポンサーから提示された予算・スケジュール内で、音色作り・作詞・作曲・演奏・ボーカルのレコーディングに時間をかけて[282]、「服装やメイクや髪型といったビジュアルはどうするか・どんなダンスを踊るのか・どんな言動をしていくのか」の順番をコントロールして[注釈 66]、リスナーがお金を出そうと思えて、カラオケで唄い、アーティストに憧れるまでのクオリティにするまで面倒をみるのをプロデューサーとしての基本フォーマットにしている[162][354]

総合的な予算は広告費の原価・広告代理店の手数料を合算した上で幾らかかるかをはっきりさせて、貸しスタジオの料金からどれを日割りにするかを明らかにしながら予算が組み立つようにしている[36]。シングル1枚に対しての総製作費は最高でも500万円であり[355]、たとえ低予算だったとしても、手間や時間がかかっているように見える「高級感」が出るように演出する。しかし、時々小室が1部分に対して締め切りに間に合わせるために見切りを付けるように指示しても拘るスタッフもいて、予算を超過することもありその交渉も慎重に行った[356]

自身のポリシーとして、

  • 「『今○○がブームだから、○○の音にしましょう』と言われても、『借り物という企画意図が見透かされてしまう』と断り、筋の通った一本道を作って、『音楽ができる人』として自立の道を開けるようにしている」[282]
  • 「ファンが真似しやすいもの、サウンドは今日完成したら明日すぐお店に出せる品質、カラオケに通うファンに対してお酒・おつまみ・おやつが似合うものを皆に作らなければいけない」[64]
  • 「今や1つの楽曲にレコード会社、CM・ドラマの制作会社、広告代理店、クライアント、音楽出版等ものすごく大勢の人間が関わっています。僕の場合、そういう人達全員を納得させることを考えながら作るんですね。『それはピュアな作り方じゃない』と言われるかもしれないけど、僕はそういった具体的な枠が見えてこないと曲のイメージが浮かんでこないんですよ。だから、いわゆる芸術家肌ではないと思います」[163]
  • 「一番肝心なのは、僕・スポンサー・アーティストの中ではっきりと共通の目標や目的が意思統一されていることであり、『何が何だか分からないけど、一生懸命頑張ろうよ』というのはだめ」[357]
  • 「プロデュースする人が悪く言われないように配慮する」[288]
  • 「ギターのエフェクターをつなぐ順番を決めるのと同じ感覚」[338]
  • 「最終的にはアーティスト達が僕をいらなくなっちゃう位に活躍してくれたらいい。そうすれば僕もずっとスタジオで自分の本当に好きなことができる」[165]
  • 「やり方は『大改造!!劇的ビフォーアフター』と似ています」[162]
  • 「売れなくても売れ過ぎるのもだめなんです。『小室さんの予測通りです!』でないと。いくら成功しても、また次にオファーが来た時に困るし、僕もプロデューサーとしての信頼が得られない」[162]

と答えている。

「主役はスターではなく、飽くまでも聴く側」「自分から名乗っても『誰、それ?』と言われる感覚を如何なるときも忘れないようにする」という意向から、素材集めのための流行の音楽の調査・クレームへの対応・ファンとの交流とリサーチは欠かさない。アーティスト・スポンサーと食事をしながらプライベートな話をしつつ、形を作って行く。地方でのコンサートが終わった後の夜のクラブハウスに一定の間を空けた事前の予告無しで出入りし、ラフな格好でファンとも普通に話す。新聞・雑誌のチェックは隅の細かい記事まで読む。対象は主に新聞では読売新聞日本経済新聞日刊スポーツサンケイスポーツ[36]、雑誌はホットドッグ・プレスPOPEYE週刊プレイボーイ等男性向けファッション雑誌・流通系の雑誌を中心にしている。女性向けファッション雑誌は「メーカーとのタイアップが多くて参考にならない」と敢えて手を出さず、直接女性ファンと交流するときにどのような様子なのかを事細かく観察している。ギガネットワークスエクシング等の大手通信カラオケ会社から歌唱曲ランキング等細かいデータを送ってもらっている[358][288][25][359]。ロサンゼルスを拠点に活動していた時には、麻生香太郎を介して大量の雑誌等を送ってもらい、日本のマーケット事情を調べていた[360]。プライベートでも「スマートフォンのアプリだけで作曲しているアマチュア・若手が出ている」と聞けば、全く新しいタイプの楽曲が生まれる可能性を見いだし、話題の制作アプリにも自分から確かめ、ニュースを読むときは音楽欄・経済欄ではなく真っ先にIT欄を読む等、技術の進歩の情報収集も積極的に行っている[361]

バンドリーダー

楽曲提供や音楽プロデュースと並行して、TM NETWORKglobeGABALLなどの音楽ユニットのリーダーとしても活動する。ユニットの一員としての活動はレコード会社のディレクターや芸能事務所に任せるのではなく、飽くまでもメンバーによる提案・主導で行い、マネジメントスタッフもそれを可能にできるほどの柔軟性のあるスタッフが配置された[38]。ライブ活動にもプロデューサーとして一歩引いた目線で指揮するより、ミュージシャン・舞台監督として現場で直接指揮しながらメンバーとして参加する。それは自分を含むメンバーの顔を覚えやすくし、一定の印税が確保され、所属事務所の経費・交通費・宿泊代・公演活動に割くスケジュールの削減にもなった。他に所属している人数の多いバンドにかかる固定給との差額はレコーディング費用・衣装代に回している[362][363][66]

「シンセサイザー・シーケンサーが発達すれば、演奏はやがてコンピューターの役割になる。しかし、曲作りとボーカルは人間の役割だ。だったらフロントマンは作家とボーカリストで事足りる」という発想から[注釈 67]、5,6人の大所帯のバンドより少人数の音楽ユニットを志向している[注釈 68][362]

より高い演奏レベルを求め、どんなジャンルやビートにも対応できるようにドラマーベーシスト等起用するその生楽器を専門とするスタジオ・ミュージシャンバックバンドを楽曲・プロジェクト毎に変えるようにしている[362]。基準は「そのとき一番上手な人」であり、それは固定メンバーの腕・成長具合で起こるトラブルを未然に防ぎ、企画に関わる人数が多くなったときの金銭的なリスクを回避した[66][365]

小室は「TM NETWORKの活動の延長線上であり、突き詰めると僕の関わる企画の全てがTM NETWORKでの試みが原点である」[366]「どのユニットも、必要なアーティストやスタッフを集めて、自分のやりたいアイディアを形にするのが共通点」[367]「僕がメンバーになることで、歌詞・サウンド・メンバーのキャラクターがストレートで生々しくて、色濃くなります」[368]「プロデューサーからミュージシャンに戻れる場所」[369]「音楽ユニット自体がプロジェクト・イベント・新しいサウンドの実験室であり、活動第1弾としてシングルを出し、それをコンセプトにしたアルバムを制作した後、最終的にはアルバムをテーマにしたコンサートを行うのを早めに展開して、『このプロジェクトはここまでで終了』と区切るのが基本である。こうしないと、僕も他のメンバーも今後どう進んだらいいのか困ってしまう」[370][83][371]と語っている。

美術設定への関与

TMデビュー前から「本物の音と派手なビジュアルは反比例しない。イギリスでは音もビジュアルも格好いいバンドがどんどん出てくるのに、何故日本では未だにTシャツとジーンズなのか」という思いから[372]、ビジュアル面でもコーディネートを欠かさず、規模の大小にかかわらずライブ・インタビュー前にはメイクをスタイリスト付きで入念に施し[373][237]、雑誌に乗せる写真も厳選する。写っている表情も隅までチェックし、「ナチュラル」「自然体」と評されそうな写真は極端なまでに避け[374]、「自分をどう見せるか」を常に意識している[237]

「男子・女子の両方に共感を得て、安定感はありつつ、化ける可能性があり、数年後も負けないマーケット」を作るために、CD・PVのジャケットデザイン・書体・英語の大文字と小文字・タイトルの入れ方・色調にまで細心の注意を払っている。特に女性アーティストをプロデュースする際の基本方針として、まず「女の子が『あの人かっこいい、あの人みたいになりたい』という願望を抱くような女性像を作る」と心がけ、女性の「個性の強い、葛藤と揺らぎを抱えながらもラインに対して反抗する女の子らしさ」は出しても女性の「コンプレックスを感じさせるセクシーな部分」は出さないために、肌を強調する映像の撮影をする際はモノクロを基調にし、身体の露出にセクシーさを感じさせないようにしている。そのときのブランドを把握し、「どんな楽曲を提供するか」より先にまず「どんなファッションが提供先のキービジュアルになれるのか」と周囲と区分けできるように考えることもあり、極力コンサバファッションはしないように固めている[375][11][206]

アルバムジャケットのイメージの参考にするために、「サイトのデザインからしてすごく凝っている」と評している「エリート・モデル・マネジメント」「ブルーミングデールズ」「バーニーズ・ニューヨーク」等アメリカのファッション関係のホームページを回っている[235]

アーティストの素材撮影のカメラマンはレコード会社の人材ではなく、アーティストの違ったセールスポイントを引き出すために広告代理店の人材を起用している。印刷される紙の材質を調べながら選んで、どんな機材で撮影して狙った通りの質感を出すかを一緒に練り上げていく[356]

舞台演出への関与

スタジオミュージシャン時代にYMOのライブに行った際に「数々の高級な機材を積み上げて、その中央に毅然と佇む」メンバーの魅せ方に憧れ、小室も「全ての会場にレーザーサラウンドシステムを搭載するのは当たり前で、会場では気球が飛び、地方への移動には広告宣伝車が10台以上連ねる」のを理想としながらも「自分にはできない、ならいっそのことやらないことに決める方が格好良い」と諦めていた[376][28]。しかし、エピックのスタッフから「ヒット曲が出たら、小室君のやりたいライブをやらせてあげるよ」と言われて奮起し、CDのセールス枚数を考慮しつつ[94]ライヴステージの設計・演出にも、積極的に情報を集めて指示を出すようになる。

1980年代はステージの進行は秒刻みでコントロールされ、「ステージ上で振動が起こる時点で物語が始まっているのに、波にノってきた所で急に非現実から現実に戻されるのが自分はいやだ」という思いからMCは極力排除し[332]、アンコールも行わなかった[373]。サウンド面では体育館等元々設計がコンサート向けではない会場で行う場合は1枚5万円はする吸音材を最低100枚床に貼り込み、照明を組み込んだ総重量6t以上のスピーカーを音質を考慮し前と後ろに置き、さらに宙吊りにする[358][273]。音楽だけでなく視覚面でも感動してもらうために、音楽と舞台に用意された大量のバリライト等の照明・スクリーンに映る映像のシンクロの具合・照明の光量にも注意を払い、音のタイミング優先で同時制御し、演奏の途中でボーカルの人差し指の先にステージの全照明を集める[注釈 69]等、360度光と音が飛び交い、それを体感できるように演出した[373][286][273]。この時点でステージエンジニアと舞台演出のための機材は、音色作りのスタッフより多く[361]、視覚面はアーティストのキャラクターやパフォーマンスより、照明やスクリーンを重視したライブ演出を志向するようになった[377]。ライブツアーは開催地・規模で予算が決まるため、照明器具にかける予算が限られている場合は、小室が自腹を切った[33]

1990年代以降は、楽曲の間奏中はダンサーとDJにスポットライトが当たるように小室が照明スタッフ・カメラマンに指示したことにより、ステージの奥行きを出し、画のバリエーションを増やした[378]。ライブ会場にはテレビスタジオ5軒分の機材を持ち込み、事前に用意された100以上の演出映像ソースの他、10台のカメラによるライブで取り込んだ映像は、即高速計算されてリアルタイムCGとなってスクリーンに映し出される。コンサートが行われる時間はテレビの特番サイズを意識し、場面転換は15秒のCMを流し、演奏時の映像はメンバーのパフォーマンスの拡大映像だけでなく、メンバー出演の収録映像も事前に用意する等、テレビ放送局の送出技術を応用するようになる[91]ドーム規模の会場でライブを行う際には、ドームでの公演専用の音響機材の開発を指揮し、「ドームでの公演は音が悪い」という風評を払拭した[379]。キーボードの脇にディスプレイを置き、色んな角度から映るステージ中央部分を見ながら、イヤーモニターを使ってメンバーとサポートミュージシャンにどのように動くか指示を出す・ミスの修正・今後の演出の強化に役立てる等、「舞台に立つメンバーを格好良く見せる」「ステージを豪華にする」「閃きを早く実行する」ために駆使する[380][11]等の舞台演出に採算度外視で挑んでいる[381]

2005年以降は完全にデジタルの機材で整備されるようになった。低音から高音までのレンジが幅広くフォローされて、人間の耳には聞こえないが、体で感じることができる音域まで表現した。松浦勝人は「ホールが壊れてしまうと本気で心配したほど圧倒的だった」と語っている[382]

インターネットの開発・プロモーション

1990年代より「インターネットでアクセスしてきた人が、最新情報を得られるような環境にしたい」という姿勢でインターネット、特に音楽配信ウェブサイトの必要性を説いていた。最初は楽曲のデータ・リズム・アレンジの管理・やり取り、海外のスタッフからプロフィールを頼まれた時の送付に使用するつもりで、シンセサイザーのプログラミング作業の延長線上で研究していた[204][258]が、次第に並々ならぬ関心を抱き、1995年11月22日より自身の当時の公式サイト「Planet TK」にて、

  • NTTの音楽圧縮技術「TwinVQ」を用いた簡単な配信の実験[134]
  • 自身の制作した楽曲の試聴サービス[134]
  • ライナーノーツと歌詞の掲載[134][注釈 70]
  • クリスマスにサイト限定オリジナル楽曲のアップロード[134]
  • バナーの活用によるレコード会社・楽器メーカーからの広告収入を利用しての公式サイトの運営費の確保[134]
  • 日英2ヶ国語に対応したデータベース・バイオグラフィの紹介による両サイドの翻訳の手間の解消[383]
  • 「TK MIDI ZONE」にてEOS B900EXにて読み込みができる「Planet TK」オリジナルリミックスのMIDIデータの有料配信[383]
  • 通信カラオケ機器向けのMIDIデータの配信[384]
  • 小室の動向をデジタルカメラを持った事務所のスタッフが追いかけ、その様子を次々とネット上で公開する[204]

等のネット配信による活動を主催していた。「もし小・中学生がECサイトにアクセスしたらどう感じるか」「如何にコストを下げて、時間短縮するか」「レコードからCDに切り替わった時、どんな状況だったか」を常に意識しながら、シミュレーションするように指導していた[208][384][255]

1999年6月、小室とインテルの共同開発でPentium IIIが搭載されたパソコン向けのコンテンツ「P3TK」[注釈 71]が配信された[133]。小室がプロデュースした曲の中から50曲の1コーラス分の試聴、640×480ドットと大画面で最新のPVのダウンロード[385]、メッセージ・スペシャルライブのビデオ画像配信、ゲーム、オークション、チャット、オリジナル壁紙、スクリーンセーバー、抽選プレゼント[386]等が提供された。

2000年にはTM NETWORKの新曲を無料で配信する試みを行うが、その時の音質を「カセットテープ並み」と消極的に見ていた[387]。2005年6月avex内に設立された高音質配信研究機関「High Definition Sound laboratory」のエグゼクティブアドバイサーに就任、当時新しくavexにより設立された音楽配信サイト「@MUSIC HD Sound」(現在はmoraと共有化)より試験的にglobeの楽曲を「スタジオマスター音源並み」の音質での配信・数々の企業に音楽配信とデジタル・オーディオ・ワークステーションのプロモーションを行い、アップルへ率先して幾度も訪問し、シンポジウムに出席した[388]。2005年8月iTunes Storeの日本でのサービスが始まるとその様子を「黒船来航」と喜びのコメントを出した[389]

2012年5月「日本だけSONYの曲がiTunes Storeに置いてないのは変じゃないですか?もう売ってくれても良いじゃないかな」と自身のTwitter上で発言する等の問題提起に尽力し、多くの反響を呼んだ。2012年11月7日にSONY発売の楽曲の配信がスタートされた際「アポロ11号NASAから、発射する瞬間みたいだった」「僕の役目はここまで」とコメントした[390][391]

後進への対応

プロになりたいという志を持つアマチュアに対しては「夢を与える産業の裏側を公開しないのが美徳かというと、そんなことはない。音楽はヒットしないと意味がない。だから僕に対してどんな感情を持ってもいいから、『とりあえずここから入ろう』と少しでも思って育ってくれたら嬉しい」という意向から楽曲の機材の選択・音作りの感覚・コード進行・メロディーのパターン・歌詞のイメージを戦略的にアピールし、他よりも制作時の裏話・苦労話・エピソードを積極的に公開している[359][132][360]。業界人に対してもキャリアに関係なく「作曲する時点で側近のスタッフが過程・手法の全部を知って驚くようなエンターテイメント性がある」「昨日頼んだ仕事がもう出来上がっていて、その時点で相応のクオリティになっている」という定評を持ってくれるように心がけている[19]

それ故にプロとしての心構え・立ち振る舞い方等のアドバイスも多くしている。

創作のコツ
「思いついたメロディはテープ・譜面・データにとって置いた方がいい。なかなか曲とかも『Aメロ→Bメロ→サビ』とぱっと思いつかないでしょう。そういうときに『昔とって置いた4小節をAメロに当てはめてみよう』とかね。聴く側は飽きっぽいし、メロディを読まれるとつまらないからなるべく組み合わせたほうが面白いと思う。作った月日が違うと発想も変わる。僕は締め切りに追われるので、どうしてもその日に作ることが多いけど、皆はとって置く事ができるから。CMの30秒・8小節作る位の気持ちで考えた方が気が楽になるでしょう」[183]
「皆が共感できる普遍性のある分かりやすさを重視しても、迎合してはだめ。オタクと言われようが、『自分の部屋で作ったものを配信するだけ』という気持ちで数打ってそれの何発かが当たればそれが普遍性のある作品になる」[392]
楽典の勉強は絶対にして置いた方がいいと思います。まずはクラシック音楽を聴くことですね。知れば知るほどヒントになる部分が沢山あるジャンルだと思いますよ。第三楽章や第四楽章の主題の後ろで第一楽章のメインテーマが演奏されることがあります。僕の作る曲は第三楽章だけが作品としてリリースされているような形なんですよ」[164]
「ちょっと歌いづらい歌を作ると、みんながそれに挑もうとするのでいっぱい歌ってくれる。だからちょっと歌いづらい曲がいい」[393]
ミュージシャンとして
「リズムのキープは気を付けた方がいい。じゃないとせっかくのアレンジ・コード進行がモタって曲の流れが死んでしまう。コードが変わるとき、手を移動させるときにどうしても手が遅れてしまう。『どうして小室さんは遅れないんですか?』とよく言われるけど、僕だって遅れているよ。コードが離れれば離れるほどリズムはその分遅れてるよ。『移動する前の最後のコードは少し早めに手が離れて短く弾いている』とか『反対に少し早くタッチしてる』等、テクニックでいかにも『ちゃんとリズムをキープしてますよ』ってごまかしてるんですよ」[394]
「世界に進出するには、いくつもの自分の世界を作れるタレント性が必要。音楽にボーダーラインは無いけど、相手に合わせたローカライズは必要。地元は勿論アジアでの人気も両方ないと駄目。最低でもバイリンガルであるべき、できれば海外に移住してその土地のミュージシャン・エンジニアと仕事して海外の音像を学んで欲しい」[395][293]
「スポーツ選手の場合は1回失敗するとそこで人生が変わる。それを見ていると音楽の人は楽をしすぎ。特にバンドの場合ちょっと間違っても『まぁいいか』『走っているけど、編集してズラせばいいや』『音が外れちゃったけどピッチ・クオンタイズを掛けて合わせておこう』『最後コンプレッサーでまとめちゃえばなんとかなるよ』となりがち。生舞台での大変な失敗等の経験・練習・音質の向上をどんどん進めて元を出す人間が一番しっかりした方がいい。気持ちよく不快な思いをさせないようにというのがエンターテイメントの基本」[396][323][注釈 72]
ディズニーパークみたいに、内側の仕組みを全て隠してしまうことが当たり前になった中、僕はその裏返しで『スイッチを押して、そうするとどこがどう動き出すのか』をテレビ番組の収録・ライブツアーに関わらず意図的に見せるようにしている。『これだけ苦労してこの音が出てますよ』というプロセスを観客に教えてあげたかった。これはYMOと彼らが演奏している時に次に演奏する曲のプログラミングを行うシーンを見せていた松武秀樹さんの影響なんです」[332]
仕事の進め方
「色んな会社の人が、会議でホワイトボードに『小室哲哉』と書いていた。方法・売り方・売れ方・『小室はこうやっている』…真似をされたり、参考にされたり、それは嬉しいことで。どんどん真似して欲しい」[269]
「職種を2つ以上持ち、平行すること。そうすれば違うファンも開拓できるし、選択肢も広がっていく。別方面が上手くいかないときの救いにもなる[注釈 73]
「打ち合わせのときに、『僕ではない、他のアーティスト風にしてほしい』という要望が出たときに大切なのは『僕の色はいらないのか!』と怒ることではなく、どれだけ相手のオーダーに近づけるかということ。働く上では一度、自分の色を全部消して別人になる必要に迫られることがあるかもしれません。でも、自分の願望やエゴを出さなくても実は自分の色はちゃんと出る。どんなに消したつもりでも確かに残る。だから、ときには相手の要望を『分かりました』と受け止めてみることも大事なことだと思います」[400]

人物

本人について

早稲田実業学校高等部商業科卒業後、早稲田大学に進学・在籍するが除籍、しかし現在は推薦校友になっている。2001年に早稲田実業学校開校百周年記念に百周年記念歌『ワセダ輝く』を作曲(作詞は奥島孝康)。母校の早稲田実業学校には『小室哲哉記念ホール』がある。

かなりの偏食であり、大の魚介類嫌いで有名である。原因は1歳半頃、目の前に突然鯉のぼりが落ちてきて、それがトラウマになったためといわれる[10]。それを最初に吹聴して回ったのは、木根尚登宇都宮隆である[401]。魚は嫌いというよりもむしろ「魚を見るのが怖い」(本人談)とのことで、オブジェなど実物でなくともビジュアルが目に入るのも嫌がるほどである。魚類研究家のさかなクンに対しても、「いい人だと思うんだけど、怖い」とテレビ番組内で発言している[402]。またかなりの小食・早食いであり、いわゆる小室ブームの時も食事のほとんどはコンビニ弁当・インスタント・ファーストフードで済ませていた。当時のマネージャー曰く「世界一エンゲル係数の小さい人」とのこと[11]ファミリーレストラン好きで、TM NETWORK時代にラジオ「小室哲哉のSF Rock Station」(東海ラジオ)の企画で結成したユニット「ハンバーグ&カニクリームコロッケ」は、当時お気に入りだったすかいらーくのメニューから名づけたほどであった。近年は麻布十番の「豆源」のお菓子を好物として挙げている。

業界人からは「アイドル評論家」と言われる程にアイドルに詳しい。「普通の女の子がどうしてビッグスターになれるのか」とプロデューサーとして興味を持ち[403]、常日頃から「自分が管理できる、時代を象徴するアイドル」という企画を機会があったらやりたいと思っていて、ある人から「小室は自分で究極のアイドルを作りたいのか!」と問われた際、「当たっているじゃん!」と喜んだという[171]。日頃からアイドルは「大衆芸術の一つ」「社会や時代を映す鏡であり、どれだけクリアに映すかで存在の大きさが決まる」「日本には必要不可欠です。良い意味で玩具業界のようなエンターテイメントだと思うから。無くなってしまったらつまらないし、寂しい」「僕達はテレビに出ても隅っこでいい。アイドルの人達が真ん中に座って欲しいんです。ミュージシャンは隅で白けているのが逆に絵になる。アイドルが隅に座って寂しそうじゃ絵にならない」と捉えつつ期待していて、そのアイドルに自己投影するファンが楽曲提供する過程や結果で見えるため、アイドルに楽曲提供する時のポイントは事前に『アイドルが誰を相手にしているのか?』『アイドルの鏡に映るのはどんな人たちなのか?』『アイドルは今どんな時期にいるのか?初動期なのか?成長期なのか?安定期なのか?』等立ち位置と時代性を加味しつつ、声質・声域を調べていく。個人としての好みのアイドルとして、「僕の用意した曲に乗ってくれて、『このパートはキーボードにするか?ギターにするか?』と尋ねたときにハッキリと答えられて、結果に責任を持てるアイドル」と答えている[282][259]

自他共に認める「怒らない性格」であり[404]阿川佐和子は「淡々とした語り口、やさしく、腰が低く、親しみやすい雰囲気」[405]久保こーじは「殴り合いはもちろん、怒鳴りつけている所も見たことがない。ブツブツと文句を言うこと位はありますけど、温厚な人なんですよ」[406]岩佐俊秀は「自分の不注意で大切なデータを消してしまったのに、『仕方ないね』の気楽な一言で済ませてしまう性格は真似したくてもできない」[407]と語っている。

自他共に認める「ワーカーホリック」であり[11]、1年の内の8割をテレビ・コンサート・CM等のメディア出演がない限り1日をスウェット姿でスタジオを兼ねた自宅で過ごし[408][265][207]、特に年末年始を世間の喧騒から逃れられる貴重な時間として好んでいる[409]。小室は「スタジオが好き。『メロディが出来て、こんなアレンジで完成して、このような広がり方で売れて、こんなコンサートがあって』と夢を膨らませることができる」と語っている[165]。TMデビュー前より親交のある麻生香太郎は「時間制の貸しスタジオにも関わらず、何時間も一人でクラシックのピアノソロを弾きながら楽曲の構想を練っていて、メンバーやマネージャーも『小室はこうしておいた方がいい』という暗黙の了解が出来、テレビゲームで時間を潰していた」[410]「シャイで『24時間スタジオ作業できれば食事も睡眠もいらない』という不思議な人」[411]木根尚登は「自分で自分を忙しくする人。1日のスケジュールでも、午後2時から午後3時までミーティングがあるとすると、次の予定を3時から入れちゃう人。普通はその間に30分位移動時間や休憩がとれるか余裕をみるじゃない。彼にはそれがない」[412]小坂洋二は「彼は昔から1日中スタジオにいるのが苦にならなかった。キーボードに向かっている姿は、おもちゃをいじっている子供みたいでした」[413]浅倉大介は「仕事が始まると、いつ寝ていつ食べているのか、こちらが心配する」[11]松浦勝人は「365日ほとんどスタジオにいること自体が大好き」[79]と称している。

1980年代後半より、ライブツアーの際にスポンサーが手配した宿泊先で自腹で追加料金を支払い、スイートルームを使うようになる[414]。全盛期には複数台の高級車とレコーディングシタジオを併設した別荘を所有していた。大のフェラーリファンとしても有名で、色違いのフェラーリを複数台所有している。過去にはプライベートでF1観戦に訪れ、フェラーリチームのピットでレースを観戦している姿も何度となく目撃されている。また、メルセデスベンツ・CLK-GTRも所有していたが、並行輸入で購入していたものであったため乗ることができず、飾り物にしていたとのことである[注釈 74]カリフォルニア州に6億3千万円の住宅・オアフ島に1億2千万円の住宅・バリ島には2億円の住宅を建てていた。アーティスト・スタッフへの労いとして、関係者を引き連れて自家用ジェットでラスベガスに行き、カジノの軍資金も全額負担した。TRFのメンバーとクリスマスパーティを行った際、メンバー一人ひとりに現金1千万円をプレゼントし、YU-KIにはさらに「誕生日プレゼント・御苦労さん代」と称して1千万円以上もするベンツをプレゼントした[413][415]。ヨーロッパで活動を行っている時に電車で移動する際には車両ごと予約していた[416]。これはステータスの誇示のためだけではなく、所属事務所に在籍しているスタッフ・ミュージシャンへのギャランティと仕事の関係者との打ち合わせの場所・時間を確保するためでもあった[417][418]。この姿勢に松浦勝人は難色を示し、なんとかエコノミークラスで行ってもらうためにファーストクラスのない航空会社を斡旋した。しかしエイベックスが大きくなるにつれ、小室の希望する移動手段に合わせると宣伝戦略に工夫を凝らすことを忘れかけるという弊害が出た[382]

漫画・アニメ・SFに造詣が深い。高校時代にはアーサー・C・クラークを敬愛し[419]、2001年には世間的な評価が低かった劇場版ファイナルファンタジーにも賛辞のコメントを呈している[420]。また、さくらももこの携帯公式サイトを短いサイクルで確認し、実際に本人にあった際「僕はキャラは友蔵に近いんですよ」と話したという[421]。そして最近はケロロ軍曹のファンを公言しており[306]、自身のブログ・Twitterでも時折口調を真似る等、守備範囲は幅広い。

左腕下部に入れ墨が2つある。1990年代にTKロゴを、2000年代にその上に別のマークを彫った[335]

まだインターネットが一般的になる前だった90年代からネット配信に注目しており、小室が趣味でiTunes Storeからダウンロードした楽曲は2万曲に上る[422]

自身のTwitterで、佐久間象山柴田勝家の血をひいている可能性があることを明らかにしている[423]

仕事について

現在は国際麻薬統制委員会 (UNODC) の親善大使も務めており、2007年4月から2008年11月4日まで尚美学園大学の芸術情報学部・音楽表現学科・特任教授に就任して、音楽特論(新世紀音楽概論)を担当していた。

仕事に対しての姿勢は「アーティスティックで難解な作品を作るのではなく、アンディ・ウォーホルみたいに何十万人もの老若男女に受け入れられるコピーを作るのが僕の役目」[207][26]「まず最初に企画書があって、たくさんの人から提供された情報から一番企画に合う人を絞り込んでいく」[424]「『始まりがあって、観客の心が揺れ、高揚感を覚え、静寂に戻って終わる』というストーリーのある観客の反応ありきの音楽作り」[425]を心掛けている。小室はそれを「古典派音楽の時代に活躍したオペラの宮廷楽長と立場は変わらない。自分で曲を書き、劇場で観客を楽しませ、王様にも喜んでもらい、次の仕事をもらわなければいけない」[19][228]と例えている。

他の芸能人と比べ個人レーベル・個人企業・個人スタジオを設立した数が比較的多い。小室曰く「今日思いついたアイディアを明日実践する機動力を持って面白いことをするため」「必ず結果を出す前提で一から十まで好き勝手やりたい放題行うための責任表明」とのこと[426]。しかし、後に「僕は事業運営に向いていなかった」と親交のあるテリー伊藤に述懐していた[427]

雛形あきこの歌手デビューにあたって雛形の所属事務所からプロデュースを依頼されていたものの、「彼女はこれからの人だから僕のイメージがあまりついてはいけないと思う」と断り、代わりに浅倉大介を起用させた。

華原朋美のプロデュースを兼ねた交際を「フライデー」1995年6月23日号に掲載された際、小室は同誌の記者を自身のスタジオに招き「アーティストに手をつけたのではなく、自分の恋人に曲を提供し、プロデュースを始めることにしただけです」と語った。そして、歌謡曲をベースにする・宣伝では常に2人で出る等すべての活動に至るまで「公私共にツーショットでいく」ことにした結果、華原を大ヒットさせた[428]

1997年、「SPEED TK RE-MIX」をマイケル・ジャクソンが気に入ったのが縁でマイケルと知り合い楽曲提供を依頼されていた。当時の小室のロサンゼルスでの活動をバックアップをしていたショービジネス専門の弁護士ジョン・ブランカによる仲介もあり[429][430]、1999年10月の発表を目指していた[431]が、制作した楽曲は採用されなかった[432]。小室の見立てでは「『Invincible』に収録されるかもしれなかったが、R&B色の強いあの内容では僕の入る余地はない」と振り返っている。その後デモ音源の3曲の内1曲はMUSEUMの音源として発表したが、2曲は「永遠にマイケルのものだ」「発表することはない」という旨でコンピュータ上のデータとして封印している[433][434]。またハンソンア・トライブ・コールド・クエストのメンバーと意気投合しニューシングルのプロデュース作業も、発売こそされなかったが実制作が行われてレコーディングが完了していた[435][436]

人間関係

宇都宮隆木根尚登
別々のアマチュアバンドに所属していた小室と宇都宮・木根の2人は住む場所が近場だったのもあり、コンテストで顔を合わせる機会が多かった[5]
宇都宮が抱いた小室の第一印象は「何考えているのか分からない。気難しそう」と感じ、当初はほとんど話さなかったが、一旦話し始めると「お互い普通の感性を持っている」と親近感を感じた[5]
木根が抱いた小室の第一印象は「髪を染めていて、キーボードを投げつける過激なプレイを平然とステージで行い、歌詞は全部英語で、アマチュアなのに気取っている気障な奴だから絶対友達になれない感じだった」と話しているが、木根が小室に楽器を貸したのがきっかけとなり、いざ話すと「面白い人で、彼に会わなかったら今のTMは無かったとハッキリ言える」と断言する程の明確な思想やコンセプトに惹かれ、その後も車で小室から木根の家に来て、2人で創作活動について話し合った[5]
1979年の時点から「小室がスタジオで機材を遊び感覚で動かしながら新しい制作方法を開発し、木根がバラードを作り、宇都宮が歌に専念する」という制作システムは変わっていない[437]
小室は2人との関係性を自分自身も評する上で「3人の間での意見の食い違いなんて、『リードシングルはどれにしよう』『セットリストはどうしよう』とかその程度」[175]「ヴィジュアル面・音楽面・コンテスト等のプレゼン・デモテープの作り方等での『自分の思い付きを実現する』という苦しい作業に、軽く乗ってくれて対応できる順応性・柔軟性・癖を持っている」[438][19]「3人とも個別で『自分は何をやればいいのか』を、独自に一定の距離を保ちながら考えていた」「『1人だけ売れると嫉妬心を持つ』というケースが全然なかった」[351]「3人で揉め事や喧嘩をしたことや不平不満を言ったことは一度もないですね。プライベートでも仲がいい」[361]と答えている。
宇都宮は「彼は大体のイメージを絵で表すんですよね。『こういう絵が浮かぶね』という感じで」と話している[186]
TMの活動を考える際、主に木根と2人で「3人は何ができて、何ができないか」「デモテープはどう作るか」を時間をかけて話し合う[19]。小室は「デモテープを作っているときにあまりにマニアックで過激な方向へ走っていったときに、木根はすごく大衆的な耳を持っているから、彼に聞かせると『この方向性でいいか悪いか』が分かる」と語り、木根は「あんまり意識はしてないけど、口で言わなくてもやっぱり顔に出るのかな。TMの楽曲の第一番のリトマス試験紙」と話している[175]
出会った時から付かず離れずな関係が続き、「TMN終了」以降は1年に2,3度しか会わないことも珍しくなくなったが、宇都宮の個人事務所エム・トレスの意向でTMの制作チームのスタッフが、安室・globeのコンサート制作チームとしてそのままスライドされたこともあり、久しぶりに会っても違和感・ブランクは全くなかった[351]
小坂洋二は3人を「彼らが揃えたスタッフも、中学からの友達ばかりだった」「しんみりしそうになると、すぐに笑い飛ばす独特の世界」と話している[439]
久保こーじ
1983年頃、他のミュージシャンのローディーをしていた久保に村田和人のバックバンドをしていた小室が渋谷LIVE INNの楽屋で「バンドやるんだけど、手伝ってよ」と声をかけたのが切っ掛けで以来小室と共にスタジオワーク・情報収集等を行うようになり、小室に引きずられる形で徐々に段階を踏んでプロデューサーが担当する作業に手を付けるようになった。その関係は久保が「小室の一番弟子」と名乗る程の師弟関係を超えて生き、次第に久保が「小室ファミリー向けの曲は本当に小室さんと僕で作っている」「日本の電子楽器発展の歴史そのもの」[注釈 75]と語るほどのブレーンであり、パートナーになった[417][440][284]
二人の楽曲の作り方は様々でtrf・安室は二人で音色作りの段階から最終的なアレンジまで関わり、globe・華原は小室のみで進めていき、hitomiは久保主導で行い、アーティストの選定は小室中心で進行していく等、ケースバイケースで立ち会う[440][441]。はっきりとしたサビ・大まかなメロディとコード進行等の60%を小室が作り上げ、イントロ・編曲・マスタリング等残りの40%をテーマ・イメージ等をまとめた企画書を渡した上で久保率いるロックバンドNo! Galersがアレンジをまとめ上げて、完全パッケージメディアに仕上げるための海外のエンジニア達を管理する作業を一手に担う[442][443][284]
2人の共通点について久保は「タイアップ先を先に決めて、それに合わせた楽曲を作って、最後にアーティストをはめていく制作手順」[284]木根尚登は「ファンと同じ所まで入り込んで、こちら側に引っ張っていく歌詞の作り方」[444]を挙げている。
2人の違いについて久保は「小室さんのルーツはプログレッシブ・ロックハードロック、キーボード、リック・ウェイクマン。僕のルーツはR&B・ギター・デヴィッド・ギルモア」と話し[441]松尾和博は「小室さんは具体的なオーダーは全く無くて、勝手にやった。久保君は『ここにこういう風に入れておいて』と言ってくれるから、気兼ねなくやれた」と話し[312]篠原涼子は「小室さんの歌詞は女性の力強さにポイントを置いて書いていて、久保さんはロマンティックな恋愛をしている女性を語りたいような感じがする」と話し[445]鈴木亜美は「小室さんは得意な所をどんどん引き出してくれるので、好きなジャンルをいっぱい歌えるんですよ。久保さんはしっとりとした歌が多いのと『次はこれ、次はこれ』という感じで新しい分野に挑戦させてくれる所がある。どちらも必要なことだと思うので、すごくバランスが取れている感じです」[446]と評している。
浅倉大介
浅倉がヤマハでシンセサイザーの開発者として携わっていた時に小室から「ほぼ打ち込みのサウンドをライブで再現したい」というオファーが来た際にヤマハの意向で当時のMIDIサンプラーデジタルシンセサイザーの事情を熟知して、音楽理論にも精通していた浅倉が出向したことから、浅倉との付き合いが始まる。「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」が始まる2週間前に2人で音色の打ち込み・ライブアレンジを施し、小室の描いたセッティング表を基にライブ用の機材の同期システムの構築を担当して、ヤマハ・EOSシリーズの開発にも小室と共に関わった[430][447]
TM NETWORK RHYTHM RED TMN TOUR」において、アルバムと同様ロック色を打ち出すため当初、ベーシストとして浅田孟の起用が予定されていたが、諸事情により断念。代わりに小室の推薦により、バンド・ライヴ経験の全くない浅倉がシンセベーシストとして参加、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせ[448]、ステージに立ちながら、ライブでの照明とバックバンドの配置・パフォーマンス等の演出等のエンターテイメントの仕組みを実地で学んでいった。アーティストとしてデビューする時も小室から様々なアドバイスをもらい、その時の浅倉は「正にプロデュースするというのはこんな感じなんだ」と振り返っている[447]
小室ブームが起こり浅倉も音楽プロデューサーとして活動していた時でも、合間を縫っては浅倉が小室のライブを見に行き、音楽シーンについて2人で世間話をしていた。その際、小室の「リリースや制作の仕方が早くなっていくから柔軟に対応できるように自分のスタジオを持ったほうが良い」とアドバイスされ、浅倉専用のスタジオを準備した結果、「1-2年でここまで変わるとは思わなかった」「空いた時間にアマチュア感覚で作れるようになった」と語っている[447]
浅倉は小室との共通点として「締め切りとの付き合い方、失敗してもいいから可能性にかける姿勢、スタジオでの場所を選ばない柔軟さ」を挙げている。相違点として、浅倉は「聞こえる音色・音の跳ね方・鍵盤を押してから音が鳴るまでのスピード」をモニター上に波形として映る数値・データを見ながらテンキーで数字を打ち込んで修正していくが、小室は最終的な判断は全部自分の耳で行っていく点を挙げ[447]、小室も浅倉と直接共同で作業する際は理数系・コンピューターの問題・最終的な形の仕上げは浅倉に任せ、小室は話や言葉を思い描き、世界観・歌詞を作っていく役割を分担し、その関係性は出会った時から変わっていない[303]
大谷香奈子
1988年に大谷との結婚に踏み切った切っ掛けは「小・中学生の女の子が30間近の僕の似顔絵を描いて送ってくることに違和感を感じた。僕が本物のミュージシャンでなければ結婚で評価が落ちるはず」という理由である。予想に反して、結婚後も売上とオファーの数が伸びて意外に思った。反面、ホテルの部屋でも、乗り物でも別々にされたりしたために「欧米のミュージシャンは奥さんを連れて平気でどこでも行くのに何故なんだ?」と疑問が沸きあがり、プライベートが楽しめなかった。小室自身も今後の活動と上昇志向もあって保守的にはなれず、大谷からも仕事についての理解を得ていたが大谷から見ても不安が大きかった。それらの問題が膨れ上がったこともあり、1992年に離婚する。小室は「人生の峠を越した所で出会っていれば、また違っていたかもしれません。ネガティブな行為をしてしまいました」と振り返っている[24]
YOSHIKI
1990年にX日本武道館公演を見た小室がYOSHIKIに興味を持って、吉見佑子の紹介でスタジオを抜け出して麻布台キャンティで対面した[449][450]。その際、初対面であるにも関わらずYOSHIKIのインディーズで自分達のレコード会社を作ることから始めて、その戦略をソニーに持ち込んだことに対して、今まで所属する前から存在するレコード会社・マネジメント事務所内の契約書をどう利用するか考える所から仕事を始めていた小室が驚愕したこと[449]・非情とも取れるサウンドプロデューサー気質にお互いが共感したこと[注釈 76]から、交流が始まる。
業界ではYOSHIKIと小室の関係をよく知る人からは「YOSHIKIの猛獣使い」と呼ばれている[306]。後にピエール中野との対談の際に当時を振り返り、「彼が言うことを聞いたのはhideと僕ぐらいだったんじゃないかな。まあ僕に関していえば、言うことを聞くっていうよりも、意見を聞いてくれるって感じだったけど。僕が出す意見に『いいよね』って耳を傾けてくれるというか。V2のレコーディングでは、『小室君に任せるよ』っていうことが意外とあったので」「今でもすぐに連絡を取り合えて、なんでも遠慮なく言い合える関係」と語っている[329]
市川哲史は「戦略を考えた上で、アーティスティックに作品に向かっているミュージシャンはこの2人ぐらい」と評している[452]
松浦勝人
エイベックス・グループの前身となる貸レコード店「友&愛」に勤務していた際、店にTMの「Get Wild」を借りに来る若年層が多かったので、個人的に興味を持った[36]
1991年、小室が本格的にエレクトロニック・ダンス・ミュージックの制作を開始した際、以前より顔見知りであった千葉龍平の紹介で松浦と対面。以後、2人は音楽制作での重要なブレーンとなる。主にタイアップ交渉・所属会社の壁を越えた撮影チーム結成に対するための融通、カラオケ画面でのアーティスト本人のPV映像の上映を実現するためのコーディネートに奔走していた[50]
しかし、制作・セールス方針、印税の分配等[注釈 77]で松浦・千葉と小室の意見が決裂、1997年に絶縁[49]。その時の状況を松浦は「コントロールできないくらい横柄で出会った頃の斬新さも無くなっていた。小室さんのように曲を自分で作れないというコンプレックスから完全にライバル視していた。『だったら所属している作詞家・作曲家を上手く組み合わせるようにマネジメントしていったらいいのではないか』と考えて小室さんを打ち負かすことを目標にEvery Little Thing浜崎あゆみをぶつけていった」[382]「小室さんから『頑張ってくれてありがとう』って、ちゃんと言われたことがないような気がする」[50]と語り、当時チーフマネージャーを務めていた伊東宏晃は「私が判断してるわけではないのに、各事務所・レコード会社からのクレームがほぼ全部私個人に集中してきた。毎日『明日辞めよう』と思いながら1994年に書いた退職届を携えていたが、小室さんの仕事を間近でみて『この凄い天才の名曲が生まれる瞬間に立ち会えているのは、自分しかいない』『小室さんの喜ぶ顔が見たい』と辞める気持ちすら上回るオーラがあった」と複雑な心境を語っている[88][392][453]
その後はエグゼクティブ・プロデューサーとして企画のチェックに関わる事はあっても、マネジメント等の協力・プライベートの交流は皆無に等しかった。しかし、2008年に小室が逮捕された際、その翌年に小室の債務の一部を肩代わりし、今後の制作のためのスタジオ・小室夫妻のための部屋を用意する。公判の際にも、「何も分からない音楽業界について色々教えてくれて、今のエイベックスを作ってくれた恩師」「類まれなる才能を持つ稀有な音楽家」と話したことに小室が感動し、松浦・千葉と和解する[88][392]
DJ KOO
横浜ベイサイドクラブのイベント「TK RAVE FACTORY」を開催する際、横浜ベイサイドクラブからDJ KOOにオファーが舞い込み、クラブの紹介で小室と対面した。小室の造詣の深さに感動し、「押しかけ付き人」と称して小室の作業を見ながらリハーサル・レコーディング作業・雑用等をこなした。ふと小室のソロ楽曲「Omoide o Okizarinishite」を聴いた時、「こんなに素晴らしい曲を作る人なんだ、何も考えずに信じてついていこう」と厚い信頼を置くようになった[270]
EZ DO DANCE」からプロデューサーとしても関わるようになり、主に小室から仮歌が入ったデモテープと簡単なイメージワードをもらい、その意図をくみ取る形でYU-KIのボーカルのディレクション・ピッチ修正・リズム修正・ノイズ処理等のミキシング作業をDJ KOOとYU-KIの主導で行っていき、出来上がったボーカル音源を小室と2人でチェックするという流れが基本となった[454][313][455]
その他にも小室の色々なセッションにクレジットの有無に関わらず必ずスタッフとして付くようになり[456]マルチトラック・レコーダーが回る前からレコーディング作業に関わるようになる。小室とサウンド関連のコンセプトのミーティングを行い、マニピュレーターとして既に存在しているプリセット音源のデータを元にダンサーが踊りやすいリズムを開発・修正していた。ハイハットの音色が1個入る所からプロモーションまで密着し、マルチトラック・レコーダーを抱えて次のスタジオに走ることもあった[457][458][455]
小室からはたいてい「好きにやって」と具体的な指示はなく、海外のスタジオでラップを収録する時も小室はその場におらず、不安で押し潰されそうになりながらも腹をくくって挑んでいた[459]
テレビ・ライブ等の表舞台に出る際は「1時間半のワンパートでフロアを盛り上げる」という本来のDJの仕事から外れ、「平均3分・1曲の間を盛り上げて」という小室の指示に応えるために、公演毎にグルーヴをその場でボタン1つで変えたり、観客を普段のDJのノウハウ通りにアクションで煽り、自分のブースやビジュアルにインパクトを持たせることで対応した。最も当時は「盛り上げる」というより「何とか3分持たせる」ことができるように努めていた[455]
坂本龍一
坂本とは「クリエイティブな少数派に向けた作風」を追求する坂本と「メジャーでスターになるための方法論」を追求する小室、インターネットでのファンに対するアプローチの方針の違い[注釈 78]からして、小室曰く「お互い中和しない関係」と称しつつも、「何をどうするかが絶対に違うけど、無いものねだりながらもお互いに無いものを求めている」「誤解されるのを承知で言えばホモセクシャルな感覚を持っていて会うと安心できる」と話している[208]
反面「芸術家であり、その方面では未だに何一つ彼との差は縮まっていない」と賛美と嫉妬を込めた発言をしていて[460]、坂本もいち早くダウンタウンを音楽への道に引き入れる小室の発想力とバイタリティに「横取りしやがって…」と反発心を覚えていた[461]
ジャン・ミッシェル・ジャール
ジャンとは1997年12月に直接会う前からお互いの音楽活動に際しての将来のビジョンを知っていたため、年齢・国民性に関係なく会った途端に意気投合した[462]
二人が「本当にやりたい」と改めて確認しあったことは「場所・観客・時代に関係なく人間の気持ちを伝えていくことであり、問題はそれを如何にその時点のツール・スタイル・サウンド・リズムを生かして表現していくか」であり、ジャン曰く「極端に言えば料理人が寿司にするかパスタにするのかを決めるのと同じこと」と語っている[462]

福島県中島村村長を務めた小室康彦は遠縁にあたる[注釈 79]

近年ではマルチタレントのリリー・フランキーと仲が良い。2013年にはリリー・フランキーが主催するライブイベント「ザンジバルナイト」にも出演した。

年齢も職業も異なる人たちと異業種交流を行う会である「異能会」を主催し、定期的に行っている[463]

使用機材

関連企業

  • Office TIMEMACHINE(株)
1983年TM NETWORKデビュー前から小室・木根が所属していたJun & Kei社内に設立されたTMのマネジメント・コーディネート業務専門の芸能プロダクション[484]。別名「TIMEMACHINE CAFE」・「TIMEMACHINE CORPORATION」・「TIMEMACHINE GROUP」・「Timemachine」。1990年「TMNリニューアル」の際、事務所社長に就任[485]。一時期、葛城哲哉阿部薫浅倉大介貴水博之も所属しており、「TMN終了」以降も1995年までのaccessのマネージメント、1998年まで宇都宮のマネジメントを行っていた。
  • T-MUE-NEEDS(株)
TM NETWORKのグッズ・イベント等の企画・運営会社。「TMN終了」時に解散。
  • グラデミー(株)
小室が1991年に設立し、代表取締役社長に就任した映画製作会社(宇都宮、木根も取締役に就任、角川春樹三菱商事もバックアップとして参加していた)。社名の由来は、「グラミー」と「アカデミー」を掛け合わせた造語とも[486]、英語で「引力」と表す「gravitation」と英語で「純粋・学術的」と表す「academic」を掛け合わせた造語とも[487]いわれる。木根尚登著「月はピアノに誘われて」の映画化、TM NETWORKの楽曲「THE POINT OF LOVERS' NIGHT」をモチーフにした映画製作(小室、原案・脚本、木根)[333]、「チーム・グラデミー」名義でのF1参加[487]の企画が持ち上がったものの、それ以降公式のアナウンスが無いまま自然消滅した(F1参加は実現した)。
小室の個人レーベル運営およびイベント制作のために設立された会社。現在では小室とは離れた事業会社としての性格も持つ。
TK TRACKSの子会社。小室と直接の関係はない。
  • OPERA GIG→TK state(有)
    • TK MUSEUM
    • TK state America MUSEUM
    • TK SEQUENCE
    • TK SEQUENCE America
    • TK ENTERTAINMENT SERVE
    • Prime Direction TK Room
    • tetsuya komuro rise
1992年に「OPERA GIG」として設立され[312]、1994年に「TK state」に改名[417]。その後2000年まで運営されていた小室の個人事務所。「TK MUSEUM」はイベント限定で音楽ユニットとしても活動していた(このノウハウは後のTKCOMに活かされる)。
小室と丸山茂雄ニューズ・コーポレーションが共同で設立したアジアマーケットをターゲットとした事業会社。「SPEED TK RE-MIX」のスーパーバイザー・中国で放送されたオーディション番組「TK NEWS -小室魔力-」の番組監修を務め、JスカイB(現スカパー!)の小室のタイアップによる音楽専門番組「Sky Music」で小室プロデュース楽曲とPVを流す予定もあった[488][489]。後に本社を母体としてRojam Entertainmentに発展する形で解散・吸収合併した。
香港を拠点とした本格的なアジア進出を目的とした総合音楽プロダクション。小室は2004年5月に全持株を売り実質上経営から撤退するも、プロデューサー契約として残っており(専属ではない)、小室の個人スタジオを運営・管理する等関係は2008年まで続いていた。
サッカー関連のマーケティング、制作などを行うための会社として設立、後に実質的な小室・木根(一時期のみ)の個人事務所となる。TKCOMの発足に伴い、休眠。

個人スタジオの変遷

※太字は2011年現在使用しているスタジオである。

評価

チャート

1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートで、小室哲哉が作詞・作曲・プロデュースした楽曲が1位から5位までを独占した。同一作曲家、兼プロデューサーによる上位5曲の独占は、日本のみならず世界の音楽チャートにおいても史上初めてのことである。

1995年度のJASRAC発表の著作権使用料の分配額ランキング(JASRAC賞)では、小室哲哉が作詞・作曲した楽曲が国内作品の1位から3位までを独占した。同一作曲家による上位3曲の独占は、同ランキング史上初めてのことである。

1998年10月19日付けのオリコンシングルチャートで、小室がリーダーを務めるglobeの楽曲4曲が同時にベスト10入りし、当時として史上初の記録を達成した。この記録は「発売日が異なる再発でない同一アーティストによるシングルの複数チャートイン」として現在も記録が保持されている。

オリコン

シングル総売上枚数 - 4,219万枚(作詞家歴代4位)2011年6月20日現在
順位 売上枚数
(単位:万枚)
作詞家
1 6,828 阿久悠
2 4,984 松本隆
3 4,576 秋元康
4 4,219 小室哲哉
5 3,718 稲葉浩志
6 3,570 桑田佳祐
7 3,467 つんく♂
8 2,850 桜井和寿
9 2,596 なかにし礼
10 2,473 山上路夫

主な提供曲(1980年代〜2011年)

下記は一部に過ぎない。詳細は小室哲哉提供楽曲一覧を参照。

  • 岡田有希子
    • 「Sweet Plant」 生前最後のアルバムに収録された下記曲を含むアルバム曲で、2曲とも作詞は三浦徳子、編曲は松任谷正隆が担当。
    • 「水色プリンセス」
  • 福永恵規
    • 「10月はさよならのパームツリー」 元おニャン子クラブのメンバーに初めて提供したミディアムテンポの歌謡曲。編曲は下記曲と共に大村雅朗。
    • 「ハイパー・ラッキー」 こちらはアップテンポの楽曲で、小室哲哉の特徴的な早口のアイドルPOPS。
  • 岩崎良美
    • 「哀愁クルーズ」 アルバム『cruise』に収録。
    • 「スロープに恋をして」 作詞は松井五郎。編曲は武部聡志で、小室哲哉の80年代の楽曲提供曲を多くアレンジした一人。
    • 「Blizzard」 作詞は麻生圭子、編曲は上記曲と同じく武部聡志。収録アルバム『blizzard』の表題曲に当たる。
  • 原田知世
    • 「家族の肖像」 作詞・秋元康、編曲・後藤次利というゴールデンコンビでの楽曲。
  • 荻野目洋子
    • 「NONSTOP DANCER」 アルバム「ノン・ストッパー」に収録されている楽曲で、荻野目洋子自身が一番好きな曲と公言した曲。
    • 「ジャングル・ダンス」 NHK「みんなのうた」で何度も流れていた楽曲。
  • 松田聖子
    • 「Kimono Beat」 元レベッカ土橋安騎夫がサウンドプロデュースしたアルバムの「Strawberry Time」に収録されている楽曲。
  • 大西結花
    • 「パンドーラ」 小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。
  • 八木さおり
    • 「月と恋心」 同じく小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。作詞は森雪之丞で、編曲は武部聡志。
  • 沢口靖子
    • 「Follow me」 沢口靖子が出演した「痛快!ロックンロール通り」の挿入歌。作詞は川村真澄で編曲は大村雅朗。同ドラマではTMNetworkが主題歌を担当した。
  • 郷ひろみ
    • 「空を飛べる子供たち〜Never end of the earth」 アルバムの最後に収録されている楽曲で作詞は秋元康。
  • 渡辺美里
  • 中山美穂
  • 堀ちえみ
    • 愛を今信じていたい(1987年)引退前のラストシングル
  • 伊藤かずえ
    • 星屑のイノセンス(1988年
  • 小泉今日子
  • 宮沢りえ
  • 田中美奈子
    • 夢みてTRY(1990年)田中美奈子が主演の「トップスチュワーデス物語」の主題歌。
    • 「I say Hello Again」 こちらは「夢みてTRY」のカップリング曲で、B'z松本孝弘がエレキギターを弾いている。
  • 観月ありさ
  • 東京パフォーマンスドール
    • キスは少年を浪費する(1993年)サウンドプロデュースと作曲・編曲を担当。
    • ダイアモンドは傷つかない(1993年)楽曲提供のみでなく、ミキシングまで手掛けた楽曲。
    • 「Sanctuary〜淋しいだけじゃない」 所属していた篠原涼子穴井夕子が歌唱している楽曲。後に小室哲哉プロデュースで篠原涼子がセルフカバーしている。
  • バックストリート・ボーイズ
  • 森進一
    • 眠らないラブソング(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。
  • SMAP
    • Trust(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。アルバム『We are SMAP!』に収録。
    • グラマラス(2010年)作詞・作曲を担当。シングル『This is love』のc/w。
    • 意外にもジャニーズのアイドルグループに楽曲を提供するのはこれが初である。
  • 浜崎あゆみ
    • crossroad(2010年)作曲・編曲を担当。
    • Virgin Road、Last angel(2010年)作曲を担当。シングル『L』収録。
    • アルバム『Love songs』では収録曲のほとんどを小室が作曲した。
  • やしきたかじん
    • その時の空(2010年)作曲を担当。
    • やしきたかじんの冗談で楽曲提供が決まった。作詞は秋元康が手がけた。
  • 坂本美雨
    • True Voice(2011年)作曲を担当。アルバム『HATSUKOI』収録。
    • 坂本美雨は同時期に小室のソロアルバム『Digitalian is eating breakfast 2』にも参加している。

主なヒット曲(1993年〜)

1994年、小室哲哉は、trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」で初めて100万枚以上のヒットを達成。

1997年の華原朋美の「Hate tell a lie」まで20曲のミリオンヒット曲を世に送りだした。(小室ブーム参照)。

※下記は主な小室哲哉プロデュース作品であり、一部にすぎない。 ☆ … ミリオン ☆☆ … ダブルミリオン

1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年

個人レーベル

参加ユニット

関連人物・交友関係

関連人物
宇都宮隆木根尚登KEIKOマーク・パンサー麻生香太郎松浦勝人千葉龍平丸山茂雄小坂洋二小室みつ子松本孝弘葛城哲哉阿部薫久保こーじ渡辺美里藤井徹貫日向大介浅倉大介YOSHIKIDJ KOO岩佐俊秀坂元裕二伊東宏晃前田たかひろ松尾和博志村明TRF浜田雅功安室奈美恵hitomi観月ありさ篠原涼子華原朋美ジャン・ミッシェル・ジャール鈴木亜美甲斐よしひろ浜崎あゆみ原田大三郎DJ DRAGONニック・ウッドPurple Days
交友関係
アーサー・C・クラーク秋元康浦沢直樹大江千里大多亮喜多村豊木村カエラ近田春夫坂本美雨ZEEBRAshinnosukeスティーヴィー・サラススティーヴィー・ワンダー鈴木大輔高見沢俊彦玉置浩二田村淳デュラン・デュランテリー伊藤tofubeats中田英寿中田ヤスタカHYDEVERBALFENCE OF DEFENSE松任谷由実鎧塚俊彦リリー・フランキー若尾裕之 (五十音順)

脚注

注釈

  1. ^ 浜田雅功とのコラボレーション時に使用。
  2. ^ SERIKA with DOGのサウンドプロデュース、篠原涼子とのコラボレーション時に使用。
  3. ^ SPEEDWAY参加時に使用。
  4. ^ クレジットに乗る際の大部分の名義として定着している。
  5. ^ 2010年から使用。
  6. ^ 1997年の全米進出時に使用。
  7. ^ dosのアルバム『chartered』に使用、またTM NETWORKのオフィシャルサポーターユニットのグループ名として命名、バリ島の別荘の表札に使用。
  8. ^ mF247への楽曲提供時に使用、現在も時折使っている。
  9. ^ TRFの海外用PR盤制作時に使用。
  10. ^ global trance 2』制作時・『Cyber TRANCE』プロジェクト参加時に使用。
  11. ^ Embryo』の発表時に使用。
  12. ^ 銀星団参加時に使用。
  13. ^ ハンバーグ&カニクリームコロッケ』での活動時に使用。
  14. ^ 「音楽のファンというより、ヴィジュアルのファンだった」「生まれて初めて自分で買った洋楽のロックアルバムが『ザ・スライダー』だったけど、アバンギャルドで恐ろしい音楽。アコースティック・ギターがメインのイギリスのフォークという色で、僕が得意とする音じゃなかった」と語っている[19]
  15. ^ ナイスの時に知った際はロックというより怖い宗教音楽みたいなイメージでのめり込む勇気がなかった。ELPになった時『シンセサイザーとロックがつながった』と感じ、色々買い出した」[19]「運指の粗さ・ミスタッチをアドリブでどうごまかすか、どのようにお客さんを驚かせて喜ばせるかがすごく勉強になった」と話している[22]
  16. ^ 「テクニックや正確さよりも、それぞれが気持ち良いと思う響きを奏でようとする姿勢に共感しました」と話している[23]
  17. ^ 哀婉・あのねのね白竜原田真二等のバックバンド(キーボードを担当)、SPEEDWAYへの参加等。
  18. ^ 「『ジョルジオ・モロダーと言えば小室君!』と宣言できる位、僕は彼のことに詳しいですよ。彼には悪いけど、すごく音楽性が似てるんだもんね」と話している[27]
  19. ^ ロンドンを気に入り永住権も取得していたが[35]、最終的に引き払った[36]
  20. ^ ビルボードでも堂々と1位を取ったり等大衆性があった。とにかく歌う側も『誰かに形にしてもらって当たり前』と完璧に開き直っていました。そんなすごく華やかなシーンに注目していたので、この時期の日本の動きにはほとんど目がいってませんでした」[38]「どのブースに行ってもコントロールルームみたいで、誰も楽器を扱わずにひたすらボタンをいじっていた」「『イギリスは島国だけど、日本と違ってアメリカやヨーロッパと繋がっているんだな』と再認識させられました。今でいうハブ空港じゃないけど、『ポータル的な場所だ』と思っていたんです」「日本の海外進出活動とは違って、戦略的にチャートヒットを仕掛けて、当たり前のように実現させてきたんですよね。そんなスタイルを『早く日本に持ち帰って、追いつかなきゃ』と焦りを感じていたんです」[39]と話している。
  21. ^ 「画期的な音楽なんですよ。1曲の中にリズムが2個同居しているから、ゆっくりとリズムをとってもいいし、その半分の感覚で速いリズムをとってもいい。あらゆる意味でバランスの良いリズムですね」[40]「『サンプリングのドラムの音をあそこまでピッチを高くして上げて、高くなった音にまた別の音とリズムを重ねる』という当時の自分のスタジオでも30分でできたことだった。当時発表しても『音がペラペラでこういうリズムでは踊れない』と言われたかもしれないが、古いシンセサイザーでも一番安く誰でもすぐ作れるのに第一発見者になれなかった」[41]と振り返っている。
  22. ^ 「懇意にしている洋服のブランドを日を空けてまた買いに行くと、全く違う系統のデザインや色使いになっていたような感じだった。それを2時間のライブにどう持ち込んで凝縮させるかを考えていた」と話している[46]
  23. ^ 小室と同時にプロデューサー契約を締結した同期生として、CMJK久保こーじ松原憲がいた[51]
  24. ^ 主に春夏秋冬通してスタジオでTRFに向けた音色作りを活動の中心にし[58]、当時の中森明菜東京パフォーマンスドール・TMに向けた作品の制作でもそれらを反映させていた[59]
  25. ^ trfの1stアルバム「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜」をリリースした後、自身のソロアルバムを制作していたが「これはTMで発表したい」という気持ちが強くなり、急遽中止した。その時に作られた素材はすぐに商品として発表できるレベルまで煮詰めていた[62]。そして「ループ素材を使ったグルーヴを軸にした音楽」「カラオケで気軽に歌えない音楽」を1994年春のTMのコンセプトとし、「一途な恋」をはじめとするパイロットとなるシングルを3〜4枚出し、リードシングルの無いオリジナルアルバムを出すという予告があった[63]が中止になった。
  26. ^ 実際にtohko「BAD LUCK ON LOVE 〜BLUES ON LIFE〜[71]を例に衣装の提案・イメージ戦略の統括を担当し、楽曲制作には全く関わらないケースもあった[72]
  27. ^ 「TRF・安室さん・globe等で書いてきた『女の子同士の共感・友情・仲間意識』『女子が裏側で流行を仕切っていて、女子が男子を品定めしている時代』『女子が主人公で表舞台に立って時代をリードしよう』より彼らの書く『異性に対するきっちりとした愛情』の方が受け入れやすくなった。女子が女子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』から女子が男子に『貴方は素敵なんだから頑張って』という時代になった」と話している[91]
  28. ^ 「歌唱力があったり、メロディが良かったり、歌詞が良かったり。僕には彼のしょっぱい感じが出せなかった」と話している[92]
  29. ^ R&Bブラックミュージックを本格的にやってみて、本場にどこまで近づけるか挑戦してみようとしたが、僕には突き詰めることができない領域があることを悟り、このジャンルから撤退するのを決意させた」[93]「作詞の概念を変えられてしまった。とにかく僕には『Automatic』っていうのは出て来なかった。出ないってこと自体、クリエイター側からすると『出てこないんだ自分は…』ってなるんです」「歌詞のハメ方、ラジオの喋り方等、何から何まで自由で『うらやましいなあ、こんな好きに喋っていいんだ』っていうことだったり」[92]「ブラックミュージックを原風景に育ったネイティブな日本人が21世紀を引っ張っていく」[29]「ものすごい枚数が売れたと同時に『これ以上はCDの枚数は稼げないだろうな』という直感があった」[94]と話している。
  30. ^ 日本大学名誉教授板倉宏は、「巨額詐欺なので、被害者が許した場合でも執行猶予の確率は30%。実刑になった場合は1億円なら1年が相場、今回は弁済しているので3年くらいが妥当」と述べている“執行猶予30%…小室哲哉、まだまだ続くいばら道”. 夕刊フジ (ZAKZAK). (2009年3月13日). http://www.zakzak.co.jp/gei/200903/g2009031324_all.html 2011年2月3日閲覧。 
  31. ^ 早稲田実業学校時代より複数のバンドで活動。
  32. ^ 特例として、外部からの依頼に関しては全方位外交で臨む許諾をソニーから得ていた。globe等ユニットで活動する場合は「専属解放」という形になり、1曲毎の許諾を得て、レコーディング・歌唱・ライブ活動・テレビ出演・CM撮影を行い、写真撮影1枚に至るまで詳細な契約書が制作された。麻生香太郎曰く「Jリーグの選手の期限付き移籍みたいな形」と称している[126]
  33. ^ 例として、H Jungle with tは2枚目のシングル「GOING GOING HOME」の発売とそれに関連した活動で終わる予定であり[127]篠原涼子とも制作にエイベックスが関わっていたため、最初からシングル3枚・アルバム1枚とそれに関連した活動のみの契約だった[128]。小室とエイベックスはお互いがいつでも離れられる関係であり、そこから小室は「誰をどのレーベルに所属させれば、製作費が多くもらえるか」を考えていた[129]。契約した最初期は小室自身のボーカル・コーラス等の歌唱を録音することができなかった[130]
  34. ^ これは依田巽の「エイベックスが小室さんを独占し、小室さんに安住することを防ぎ、如何にエイベックスが小室さんに魅力的な提案をしていけるのかを考えるのがエイベックスの仕事」という思いやりもあった[127]
  35. ^ R&Bに興味を持った切っ掛けはティンバランドロドニー・ジャーキンスフィーチャリングを積極的に行おうという姿勢が伝わった。続いてジャム&ルイスベイビーフェイスが彼らに追従しようとしていたけど、明らかに感覚が違ったグルーヴが作られていた。それらの現象をみた小室が「自分は果たしてどちらに入るのか?世代は置いといて、若い世代向けの音を作れるのか?」「端から血の部分は出せないと考えていたけど、シーケンサーの進歩でグリッド・シャッフルを作るテクノロジーがかなり進歩してきたから、打ち込みの段階でノリの実験ができる時期がきた」「メロディ・コーラスの場所・曲の起承転結の仕方等は、今までの作り方とは切り離している」と入れ込み様を見せた[136]
  36. ^ 他国への発売はiTunes Store配信版のみ。
  37. ^ trfのプロモーションを兼ねて、横浜ベイサイドクラブで小室の個人名義の主宰で開催されたライブイベント[161]
  38. ^ 特に一職業としての音楽プロデューサーに対する思い入れは強く、「プロデューサーという言葉を浸透させたのは僕で間違いないですね。『全体を統率する者がいないと駄目なんだ』ということを業界に一応認知させることができたかなと思います」と話している[162]
  39. ^ 一つに「冒頭から最高音」もう一つは「比較的低い音から始めて最高音へ徐々に上げていく」流れがある[164]。ハイトーンのボーカルには赤ちゃんの泣き声を意識している。基本的には「本能的に声を絞り出して」「喉から声を出さないで」「赤ちゃんは本当に心から泣きたいからファルセットを使わないで」「高いキーで泣くように」歌うように指示し、「そばに来て・助けて」というような欲求を訴える雰囲気を出すようにしている[165]
  40. ^ 特に後者の方法は「こんな内容で叩かれないだろうか?」というプレッシャーとストレスの解消・スランプの防止・アイディアの開発に役立ったという[171][174]
  41. ^ 「下手すると10曲中9曲は使っている。僕にとっては循環コードとしてよく使っている基本コード。外国のヒット曲の中には、マドンナカルチャー・クラブ等このパターンを上手く使った楽曲が沢山ある」と語っている[189]
  42. ^ 「僕の一連のヒット曲の王道パターンの一つであり、自分のオリジナリティやメロディを振り返るときには外せない」と強い思い入れを語っている[194]
  43. ^ 甲斐よしひろは「吉田拓郎、さらにいうとボブ・ディランが多用するパターン」と評している[195]
  44. ^ ピーター・バラカンが指摘していた[217]
  45. ^ ただし、この手法を麻生香太郎からは「小室に文句を言ったり、注進できるような人が周りにいなくなっているんです。本人は偉そうにしているわけでもないのに、周りが持ち上げてしまって、変な形の裸の王様になってしまっている。彼の英語の歌詞やタイトルを見ていると『流石におかしい』と思う部分がよく出てくる。和製英語をストレートに出す表現とか。チェックする暇も無ければ、その方面に詳しい人材もいなかった」と当時の状況を振り返っている[220]
  46. ^ 「美里さんの詞の世界を参考に、『いろんな角度から見る一つのテーマがあったとしたら、自身の視点から同じテーマを書くとこうなる』というアプローチ的手法で作詞していた」[221]「渡辺さんの影響でドア・イノセント・ジェントル・少年・少女をテーマにするようになった」[67]と語る。
  47. ^ 「彼は仕事柄、女性の台詞も書く。だから作詞においても、男性が女性に成り済まして書いたようなわざとらしさが全くない。『自分に脚本家の真似はできないが、自分なりの書き方を探さなければ』と思った」[222]と語る。
  48. ^ 「流行語を使わない、10〜20年後でも何かに当て嵌めようとすれば誰でも主人公になれるような、あまり時代に寄り添い過ぎない普遍的なワードしか使わない」と語る[223][224]
  49. ^ 「せめて音楽位は女の人の味方にならないといけないと感じて作った」と語る[225]
  50. ^ ただし、久保こーじは「小室ブームの時期においては、事前にある程度時間をかけて下準備と練習を繰り返しているにも関わらず、取材陣の前では5分で楽曲を作り出したかのような素振りを見せていた部分もあり、必要以上に『天才であることを演出できているか』を心配していた」と語っている[237]
  51. ^ 一連の工程の9割は音色作りに割り振り、一つひとつの音色をしっかりオーディションしつつ編集して、『どの音色で弾けば下のベーシックなパートが浮かび上がってくるか』『現場のDJが聴いてすぐに印象に残って使おうと思えるか』まで考えてオーケストレーションのアレンジに近い感覚で作業する[44][268]
  52. ^ その直後に突発的に新しいメロディ思いつくことがあるので、それが活かされつつ、楽曲全体の足枷にならないために最初からこの段階で終わらせることもある[167]。その状態をDJ KOO曰く「音数がすごく少ない。メロディも無くて、リズムとシンセがコードで入ってるくらい」と例えている[270]
  53. ^ 個々のシンセサイザーでも特徴が違い、「楽曲作りに威力を発揮する機材」「アレンジで役に立つ機材」等とそのときの局面で切り替えている[271]
  54. ^ 譜面はスタジオ内で共有するために手弾きでコンピューターにもインプットさせる形で行い、手書きはしない[272]
  55. ^ ただし、hitomiと作業する場合は、デビュー前にhitomiに一定期間日記を付けさせた結果「どこで探してきたんだという位古い言葉を使うのが好き」[66]「思っていた以上に丁寧で、同世代の女性の代弁者になれる」[274]と見込んだため、hitomiがメモの落書きの要領で書いた歌詞に対して小室が歌詞を厳選し、音源を後付けしていく方針をとった[275]
  56. ^ 小室は「本格的に意識したのは『Love Train/We love the EARTH』を制作した時から」とのこと[284]
  57. ^ ただし、この発言は「久米宏さんをフィルターとした番組である「ニュースステーション」の放送時間帯での久米さん以上の年齢の視聴者の反応を考慮したフェイク」とも答えている[285][81]
  58. ^ 3小節以上使うと著作権使用料が発生するため、2小節以内に抑えている。
  59. ^ ただし、自ら「生歌では困難」と称する程のメロディではレコーディング技術を駆使してクリアした部分がある[166]
  60. ^ 特にシールドケーブルに対しては「シールドケーブルの中を音が流れるだけでも、その音の音質は劣化する。それを防ぐために1本100万円以上の最高品質のものを指定している[299]」「今までのスタジオの建築費にはどれ程無駄遣いしたか分からない[300]。しかし、シールドケーブルに関しては今でも無駄遣いだとは思わない[301]」と話している。
  61. ^ ただし、音声圧縮に対しても「いい音が全てではなく、無料で試聴できたり、早く聴けたりするなど圧縮にもメリットがある。確実に音質は劣化するが、圧縮=劣化=ダメということではない」と一定の理解を示している[314]
  62. ^ ただしこの作業は小室が「自分で48chのスタジオを用意できたからこそできることで、外部の貸しスタジオでやろうとしたら、大変な手間になる」と語っている[66]
  63. ^ これに対して澤野は「耳に残らずに流れていくようなメロディも作品の演出上で情景を表すためにやっているので、何が良くて何が悪いかというものでもないのですが…。僕は小室さんの作った作品のようにメロディの残る楽曲があるサウンドトラックが好きですし、そうした作品が世に増えたらいいと思う」と語っている[232]
  64. ^ それでもフロントに出ていた理由として、「プロモーションの都合上、一緒に登場しなければいけなかった自分の周囲に対するせめてもの弁解として『with t』等を付けた」[345]「ミュージシャンとしての小室哲哉を演出したかった」[346]「TMの固定ファンを取り込もうとしていた」[347]と答えている。
  65. ^ 「ナイル・ロジャースはマドンナの『Like a Virgin』をプロデュースしたけど、ターゲットとした市場は世界の10億人くらい。それに対し日本が1億人だとすれば、たった1割。そこで『たかだか1~2割程度なら、敢えて日本の音楽ファンにだけ向けて作らなくても、『Like a Virgin』みたいな曲を作って、日本でも世間にごり押しすれば1億人に広まるんじゃないか』と思った」と語っている[279]
  66. ^ プロデュースする人全員に小室が思い描いたイメージ・キャラクターは、相手の本質とは違う勝手なイメージであったとしても0から作り上げる。一番難しいのは自らも正式メンバーとして所属する音楽ユニットで、ただ小室の主導で動かすのではなく「自分も映るんだ、僕たちは何になればいいんだ?」と悩みながら、メンバーの内面に入り込んで意向を汲んだ上でテーマや方向性等の構想を固めていき、「大衆に認知されるためにはどうするか」を考えている[282][353]
  67. ^ ただし、2000年代以降はボーカルの声を事前に打ち込み、ボーカルに合わせて鍵盤で弾いてコーラスの代わりにしたことから、VOCALOIDにも一定の関心を示している[166]
  68. ^ 特に3人編成には「意思疎通が密になり、それぞれのキャラクターが際立たせ、役割分担がやりやすい、一番バランスのとれた人数」[364]「音楽に規則を作って『何を排除して、何に徹するか』を事前に考えれば、メンバーに個別の個性が出て、レコード会社にもメリットのある提案ができて、いい聴こえ方の音響演出ができると思って、1983年頃から真剣に戦略として考え始めた。これはYMOの影響が大きい」[19]と称している。
  69. ^ この照明の演出を見た渡辺美里は「私も同じような演出をやりたい」と直接スタッフに申し入れた程気に入った[361]
  70. ^ 小室は「文字や画像なんて、今(1996年当時)のホームページの環境でもフォローできる。CDのプレス・ジャケットの印刷・パッケージ化が終わった後でも、幾らでも新しい情報を盛り込み、提供することができるようになるため『手遅れ』という発想自体が無くなる」と語っている[204]
  71. ^ 「P3」は「Pops」「Power」「Passion」という意味を込めている。
  72. ^ 反面、自身のコンサートのリハーサルは回数的には少なく、大抵は長くて通しで1週間・準備は打ち込みのデータを渡し、細かい点の確認のみで反復練習はほとんどしない。これについては「セッション・即興演奏が好きで最初から決めた上で出来上がってしまうと長いツアーの場合3・4回で飽きる」[397]「ライブのリハーサル所か、本番にかける時間すらもったいないから、その時間をレコーディングに回せば1曲できる」と語る[398]
  73. ^ 「でも、このギリギリで必死で切羽詰まった感じは1990年代は通じたけど、今の時代にそぐわないかもしれない」とも答えている[399][294]
  74. ^ なお、実際には一般人の運転には危険が伴うため、製造したダイムラーは購入者の技能を調べた上で販売している。詳細は当該項を参照。
  75. ^ 例えばMIDIサンプラーが出てきて、それまでは全部打ち込みだったのが、「リズムは録音したフレーズをまるごとサンプリングすればいい」とその時々の新しい機材を駆使しての制作方法を掴むのに2人で試行錯誤した[284]
  76. ^ スタジオミュージシャンにやれるだけの大量のテイクを要請した後、そこから音・タイミングが外れているミステイクを選んで消したり、本来ギタリストが担当するはずのパートを自身が担当するキーボードのパートに差し替える小室と、PATAの担当したギターのパートを「やっぱりいらない」と全て没にするYOSHIKIはお互いの共通項である「作品にいらない音は容赦なく抜く」という思想に共感し合った[451]
  77. ^ globeをエイベックス・エピックのどちらでデビューさせるか一悶着があった、丸山茂雄の要請で華原朋美をエイベックスの事務所がマネジメントする、戦略上の事務所同士の権力争い等[49]
  78. ^ 坂本はライブの生中継を目指し、小室は音源データの配信を意図していた[208]
  79. ^ お互いの祖父がいとこ同士(出典:時計寄贈の過去も…小室哲哉の遠縁村長自殺か(社会)――スポニチ Sponichi Annex ニュース
  80. ^ 基準として「鼻声は駄目。声が顔のイメージと一致しない人も駄目。初対面で声が抜けて耳と五感に響けばそれで良かった」[36][15][497]「『誰からも好かれる声』ではなく『頑張ればあの人になれる、明日カラオケに行ってちょっと歌ってみようかな…という希望を持てるような、嫌われない・気持ちの良い声質』を選んでいた」[166][294]と語っている。
  81. ^ 反面「当時SNSがあったら、たぶん否定的な意見に負けてしまっていたと思うんですね。1990年代はまだそこまでネットの時代ではなかったので、否定的な言葉が直接飛び込んでこなかった。いい話だけを聞けて、否定的な話には耳を閉じることが可能でした。だから前に進めた。『これでいいんだ』と」とも語っている[506]
  82. ^ それに対して宇都宮は「一人だから細かい所まで目が行ってないと全部自分に跳ね返ってくるからね」と答えている[63]
  83. ^ これに対して小室は「僕もダンサブルな要素が必要と思いながら作っていた」と答えている。
  84. ^ これに対して小室は「ロサンゼルスに住んでいた頃は2日に1曲作っていた。日本向けのミックスを制作するという発想すらなかった。ミキシング作業は僕の意図が早く通じるイギリスかアメリカ出身のエンジニアが中心でした。だから日本のマーケットの耳も洋楽的な音像に慣れてきた」と語っている[293]
  85. ^ これに対して小室は「教育活動というほど押し付けがましいことは全然していない。トラック・テンポ等考えているけど、どうしても色は出てしまうので困る。ただ、今実験しているのが『ポップだね』と言われたらこれ程嬉しいことはない」と答えている。
  86. ^ これに対して小室は「年をとってその道へ入学・卒業等の通過儀礼を繰り返した後でも恥ずかしくなく照れずに入れるような、誰の心にもあるテーマを歌詞にしている」「できるだけ同じ音色に嵌りたくない、常に新しいリズムを追求したい」と答えている[208]
  87. ^ 『HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE』での冨田勲との対談で発言。
  88. ^ これに対して小室は「確かに僕の場合は、企画が立ち上がってから誰かに頼むという必要がないですからね。曲も詞も自分で作る場合が多いし、完成した姿がイメージできないと引き受けませんから。完成したイメージが描ければ、後はそれを現実に落とし込んでいけばいいだけですから」と答えている[67][604]
  89. ^ これに対して小室は「沢山の人達に買ってもらうためには、買う人達がカラオケ等で楽しむための素材として音楽が存在しないとだめ。それにTMで照明が光り輝いている祭壇みたいなステージに向かって、ファンが皆同じように手拍子を打ったりするのを見てて、宗教の集いみたいで怖かった。それを打破するにはもうファンを中心にするしかない。歌を聴くだけじゃなく、踊っている人がいてもいいし、おしゃべりしている人がいてもいい」と答えている[15]
  90. ^ これに対して小室は「『自分から仕切る』のはプロデューサーではないと思ってますから。僕のプロデュースの原点は最初にその人ありきで、まずその人が『何をしたいのか、どうなりたいか』をインタビューすることから始めて、僕が『叶えてあげられそうだ』と思ったら話が成立する。やり方はプロ野球監督やサッカーのコーチに近い。『成功するために一緒にいくつかのハードルを超えていこうよ』ってなるんです」と答えている。
  91. ^ これに対して小室は「テレビのドキュメンタリー番組を作るような感じです。直接取材したり、資料を見ながらイメージする内に同一化して10代の気持ちになれるのかもしれません」と答えている。
  92. ^ これに対して小室は「歌謡曲は比較的ストーリーや内容をきちんと説明するのが多かったんです。でも僕は『どこか一文だけでも相手の心にフィットして、その部分だけを切り取って覚えてくれればいい』と思っていました。極端に言えば、それ以外の歌詞は引き立て役に過ぎなかったんです。だから様々な映画の1シーンをバラバラに切り取ってつなげるように歌詞を作っていました。きちんとしたストーリーや設定があるわけではないけれど『全体で何となく雰囲気が出せればいいかな』と」「独り言やおしゃべりで使う言葉も歌詞に潜り込ませていました。人は会話をする時に必ずしもきちんとした日本語を使っていないし、論理的にもストーリー的にも成立するとは限らない。そんなニュアンスを入れたかったんです。僕の歌詞のほとんどは『とりとめのない、ぼんやりとした壮大な独り言』とも言えますね」と答えている[93]
  93. ^ これに対して小室は「もしかしたら潜在的に女性願望があるかもしれない(笑)。だから『女装しても自然に入り込めちゃうんじゃないか』という変な自信があるんですよ。だから『どうしても分からない』って感じたことがないんです」「『曲』という部屋を用意した後、『壁紙は何色だろう?』『机はどんなだろう?』『電話は誰からかかってくるんだろう?』という設定を作りながら1番を書き終えると、キャラクターが見えてくる。そしてエンディングを迎える頃にはある程度主人公がハッキリしてくる」と答えている。
  94. ^ これに対して山下達郎は「そうそう、まったくその通り」と答えている[581]
  95. ^ FM802NACK5の「JAPANESE DREAM」が代表的である[696][644]
  96. ^ 小室・西村麻聡山田わたるによる企画ユニット。FENCE OF DEFENSEのデビューによりTM NETWORKのサポートメンバーから抜けざるを得なくなった西村・山田への返礼として結成され、1987年1月に全国8ヶ所を周った。ハワード・ジョーンズのコピー・TMの楽曲のインスト・吸血鬼ハンター“D”の楽曲・未発表のオリジナル楽曲が演奏された[175]
  97. ^ 1993年の「avex rave '93」まで正式メンバーとしてキーボードで参加。
  98. ^ 山羊智詞率いるロックバンド。小室はキーボーディスト・作曲家としての参加であり、水江慎一郎 (ex UP-BEAT)、横内健亨(ex ハイソサエティーTENSAW)、朝井泰生今川勉 (ex ECHOES) もメンバーとして名を連ねていた。ツアー途中からに太田明(ex 筋肉少女帯)が参加、1993年頃にデビューアルバムをリリースする予定だったが、レコード会社・所属事務所の都合でアルバムリリース直前に解散。EPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)から発売予定だった1stシングル「No! Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。
  99. ^ 東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトのために結成された小室と久保こーじ松本みつぐ田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。

出典

  1. ^ a b 「Bio File 1970」より。
  2. ^ code 0013 近藤昭雄”. 音楽仕事人 (2007年1月19日). 2019年3月13日閲覧。
  3. ^ Music Voice 小室哲哉が武蔵国府中大使に任命「文化都市になるよう」。木根尚登もアドバイザーに任命。
  4. ^ a b c d オリコン・エンタテインメント刊『オリコン・ウィークリー』1987年4月27日号p.29より。
  5. ^ a b c d e f g h i 集英社刊「non-no」1988年6月5日号「NON-NO CLOSE UP! 2 TM NETWORK」pp.125-129より。
  6. ^ a b c d e スイッチ・パブリッシング刊「Switch」2002年8月号「SIT UP LATE 小室哲哉(GABALL)/原田大三郎(GABALL)」pp.109-113より。
  7. ^ 「Bio File Intro」より。
  8. ^ 「beatfreak issue 062」より。
  9. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1995年10月号p.22より。
  10. ^ a b c d シンコーミュージック・エンタテイメント刊 『Vis Age TETSUYA KOMURO PERSONAL VISUAL BOOK』より。
  11. ^ a b c d e f g h i j 朝日新聞出版刊 『AERA』 1998年12月14日号「現代の肖像 小室哲哉 世界を走る『音楽界の元就』」pp.62-66より。
  12. ^ 木根尚登 2003, p. 20
  13. ^ 神山典士 1997, p. 62
  14. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 90
  15. ^ a b c d e f 文藝春秋刊「週刊文春」1995年4月27日号「阿川佐和子のこの人に会いたい 96回目 小室哲哉『浜ちゃんの曲が今までで一番心配でした』」pp.60-64より。
  16. ^ a b c d リットーミュージック刊 「キーボード・マガジン」 2010年SUMMER号 「Artist Special 小室哲哉 A History of TK as a composer」pp.16-27より。
  17. ^ 神山典士 1997, p. 118
  18. ^ 神山典士 1997, p. 63-64
  19. ^ a b c d e f g h i j k 角川書店刊『月刊カドカワ』1991年10月号「総力特集 TMN 独立する連帯」pp.22-31より。
  20. ^ Bio File 1970より。
  21. ^ ソニー・マガジンズ刊『GB』1986年12月号より。
  22. ^ リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2016年SUMMER号より。
  23. ^ a b リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2003年5月号より。
  24. ^ a b 主婦と生活社刊「週刊女性」1995年8月15日号pp.27-29「ミリオンセラー仕掛人 小室哲哉 すべてを語った…」より。
  25. ^ a b 小学館刊『GORO』1988年5月12日号「ジャパニーズBeatに首ったけ インタビュー・2 小室哲哉(TMネットワーク)」p.31より。
  26. ^ a b c d e f g h 月刊経営塾刊「月刊経営塾」1996年8月号「特別対談 小室哲哉VS野田一夫 『創る極意売る極意』教えます」pp.114-119より。
  27. ^ シンコーミュージック・エンタテイメント刊『ロック・ショウ』1985年10月号p.67より。
  28. ^ a b c 宝島社刊「宝島」1991年2月24日号pp.58-60「電気グルーヴVS小室哲哉(TMN)」より。
  29. ^ a b c d マガジンハウス刊『GINZA』2017年4月号pp.110-113「岡村靖幸 presents 音楽のはなし with 小室哲哉」より。
  30. ^ 角川書店刊 『告白は踊る』(角川文庫版)小室哲哉著pp.107-108より。
  31. ^ 集英社刊「週刊明星」1988年8月4日号「知られざるTM NETWORK 苦難のひたむき過去」p.41より。
  32. ^ a b c 太田出版刊 『SOFT & HARD』 佐々木敦著より。
  33. ^ a b c マガジンハウス刊「平凡Special 1985 僕らの80年代」『木根尚登 レコード店を回った静かな情熱は、時代を超えてみんなの心に。』pp.98-105より。
  34. ^ a b ぴあ刊『『J-MELO』が教えてくれた世界でウケる「日本音楽」』より。
  35. ^ 集英社刊「明星」1988年7月号p.176より。
  36. ^ a b c d e f g h i j k l 宝島社刊「宝島」1995年5月17日号「宝島VIPルーム 小室哲哉 90年代最大のヒットメーカーが語るクールな市場戦略」pp.50-53より。
  37. ^ ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1989年10月号p.78より。
  38. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 2003年6月号「小室哲哉 SPECIAL INTERVIEW TKが語る音楽シーンの変貌 -1988~2003-」pp.67-68より。
  39. ^ a b c 日本音楽制作者連盟刊『音楽主義』Vol.52より。
  40. ^ a b c 集英社刊「Bart」1995年3月13日号『今は、勝てる勝負しかしていない』pp.36-41より。
  41. ^ a b 集英社刊『週刊プレイボーイ』1995年8月15日号「小室哲哉 ジャングルは怖い!」pp.204-205より。
  42. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 162
  43. ^ NHK-FM放送 「ダブルDJショー 近田春夫 × 小室哲哉」(2007年1月6日放送)より。
  44. ^ a b c リットーミュージック刊『サウンド&レコーディング・マガジン』 2015年10月号より。
  45. ^ avexのあの人があんなところまで大移動! a-旅2016〜小室哲哉編〜|avex management Web」より。
  46. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1992年1月20日号p.14より。
  47. ^ 神山典士 1997, p. 194-201
  48. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 98-101
  49. ^ a b c “エイベックスの歴史”. 松浦勝人オフィシャルブログ「仕事が遊びで遊びが仕事」Powered by Ameba. (2006年12月16日). https://ameblo.jp/maxmatsuura/entry-10518384040.html 2006年12月16日閲覧。 
  50. ^ a b c d 【転機 話しましょう】(60)音楽プロデューサー、小室哲哉さん ちょっとした感謝が身を救う 栄光、挫折、復帰…すべての場面にいた“戦友””. msn産経ニュース (2012年4月21日). 2012年4月21日閲覧。
  51. ^ 有限会社スーパーラブ会社概要”. 2019年3月4日閲覧。
  52. ^ 神山典士 1997, p. 205-208
  53. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1997年6月号より。
  54. ^ a b クレタパブリッシング刊「昭和50年男」May Vol.004「シーンを刷新し続けたエピック・ソニーとブームへの布石を築きはじめた小室哲哉」pp.14-17より。
  55. ^ 日経BP社刊『日経エンタテインメント!』1998年3月号「ビジネスとして語る、X解散、GLAYの成功、そして海外進出 『必ず売る、意地でも売る』-日本の音楽産業との10年戦争」24P-28Pより。
  56. ^ 神山典士 1997, p. 275-276
  57. ^ 麻生香太郎 1997, p. 77
  58. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィークリー」1994年1月24日号「SPECIAL対談 小室哲哉&trf」p.4より。
  59. ^ a b 角川書店刊『月刊カドカワ』1994年1月号pp.209-210より。
  60. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 172-173
  61. ^ a b c d e f リットーミュージック刊『ギター・マガジン』2017年4月号『小室哲哉が語る"歌謡曲とギター"』pp.76-79より。
  62. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1993年5月10日号「アーチスト伝言板」p.21より。
  63. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』1993年9月号「TMN The Super Express Interview -'94年の予告-」p.16,「T.UTUと仲間たち(木根尚登/FENES OF DEFENCE)」p.97より。
  64. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1994年8月号pp.160-170より。
  65. ^ ぴあ」1999年12月6日号「小室哲哉 『時代が鳴らす音』」pp.20-24より。
  66. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 角川書店刊『月刊カドカワ』1994年12月号『小室哲哉 疾走するヴィジョン』pp.105-120より。
  67. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 講談社刊『Views』1995年6月号「小室哲哉の『ミラクル』全角度研究」pp.56-67より。
  68. ^ 神山典士 1997, p. 188
  69. ^ 小室哲哉 2009, p. 53
  70. ^ a b c 小室哲哉、CD売上約1億7000万枚”. 日刊スポーツ. 2008年11月4日閲覧。
  71. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 43
  72. ^ a b c 毎日新聞社刊 『サンデー毎日』 2014年4月6日号「〔住吉美紀の熱烈対談〕すみきちのぶっちゃけ堂/107(最終回) 音楽家・小室哲哉」pp.74-78より。
  73. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2000年1月号より。
  74. ^ 麻生香太郎 1997, p. 52
  75. ^ 麻生香太郎 1997, p. 77
  76. ^ 近田春夫 2001, p. 349-350
  77. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 7
  78. ^ 麻生香太郎 1997, p. 47-48
  79. ^ a b c d e f g h i 講談社刊『月刊現代』1997年7月号『年収20億を越す"天才"はマードックとも手を組んで『T・K(小室哲哉)』はなぜ巨大産業に化けたのか』pp.232-246より。
  80. ^ 講談社刊『Views』1996年8月号「“小室哲哉利権” 500億円に食らいついた音楽ビジネスの『巨人』」pp.28-35より。
  81. ^ a b c 1995年10月23日放送日本テレビスーパーテレビ情報最前線』「噂の天才!仕掛け人小室哲哉の秘密公開」より。
  82. ^ a b c d e f g h i j 小室哲哉天国から地獄、最近は金策に走る”. 日刊スポーツ. 2008年11月4日閲覧。
  83. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年1月号pp.52-55より。
  84. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 162-165
  85. ^ a b c 日本経済新聞1997年1月10日号より。
  86. ^ 小室哲哉 2009, p. 119
  87. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2000年6月号「小室哲哉通信 第29回『国連活動で世界一周中ローマではヒデに会う』」p.124より。
  88. ^ a b c フジテレビ系列2009年12月20日放送『芸能界の告白』より。
  89. ^ a b テレビ朝日系列スーパーモーニング」2008年11月5日分インタビューより。
  90. ^ “金太郎あめ”でファン離れ…金銭問題絶えなかった小室”. スポーツニッポン. 2008年11月4日閲覧。
  91. ^ a b c 日経BP刊「日経エンタテインメント!」1998年10月号「小室哲哉通信 第9回『V5に乗り出した真意は?GLAY、ラルクの見え方』」pp.136-137より。
  92. ^ a b 小室哲哉、ライバルはつんく♂ 引退がよぎったのは宇多田ヒカルより。
  93. ^ a b c d e f g h i j k 新潮社刊「ROLa」2013年11月号「『90年代と僕』小室哲哉インタビュー」pp.48-56より。
  94. ^ a b 講談社刊「ヒットの崩壊」柴那典著より。
  95. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2000年6月号pp.192-193より。
  96. ^ テレビ東京系列みゅーじん/音遊人』 2007年12月23日放送分でコメント。
  97. ^ a b 扶桑社刊 「SPA!」 2003年4月22日号「'90年代をリードしたヒットメーカーに心理的変化が!?」p.6より。
  98. ^ 中間期ディスクロージャー誌(2001年9月中間期)みずほフィナンシャルグループのトピックス”. みずほフィナンシャルグループ. 2013年5月閲覧。
  99. ^ a b 小室氏「時代の寵児」転落の軌跡”. MSN産経ニュース. 2008年11月4日閲覧。
  100. ^ 小室氏がラジオ出演で吐露「なかなか曲が出てこなかった」”. スポーツ報知. 2008年11月4日閲覧。
  101. ^ a b 河出書房新社刊『DOMMUNE OFFICIAL GUIDE BOOK 2』より。
  102. ^ a b c d e f 小室哲哉氏:詐欺容疑で逮捕へ 著作権譲渡と5億円”. 毎日新聞. 2008年11月4日閲覧。
  103. ^ a b 小室容疑者を逮捕 著作権譲渡で5億詐欺”. MSN産経ニュース. 2008年11月4日閲覧。
  104. ^ サンケイスポーツニュース
  105. ^ 小室被告保釈金に妻のKEIKO奔走”. 日刊スポーツ.COM. Nikkan Sports News. (2008年11月22日). 2020年8月2日閲覧。
  106. ^ [1]mns法廷ライブ【小室被告第3回公判(1)】小室被告「改めて音楽しかないと思った」より出典
  107. ^ [2]mns法廷ライブ【小室被告第3回公判(1)】小室被告「改めて音楽しかないと思った」より出典
  108. ^ ゲンダイネット小室哲哉5億円詐欺裁判は何が問題になっているのか
  109. ^ MSN産経ニュース被害男性が出廷 量刑で証言へ 小室第3回公判
  110. ^ mns法廷ライブ【小室被告第3回公判(1)】小室被告「改めて音楽しかないと思った」より出典[3]およびアーカイブされたコピー”. 2009年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年5月4日閲覧。
  111. ^ 森進一が小室哲哉とタッグ!作品作り依頼 - 芸能ニュース : nikkansports.com”. 日刊スポーツ. 2010年5月2日閲覧。
  112. ^ 小室哲哉、冨田勲と41年目の初対面”. BARKS. 2011年12月22日閲覧。
  113. ^ “小室哲哉さん音楽活動を引退 騒動に「お詫びとけじめ」”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2018年1月19日). https://www.asahi.com/articles/ASL1L7F99L1LUCVL01K.html 2018年1月19日閲覧。 
  114. ^ “小室 自身の秘密を明かしながら男女の関係を否定”. 東スポWeb (東京スポーツ). (2018年1月19日). https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/891625/ 2018年1月20日閲覧。 
  115. ^ <小室哲哉 会見全文>50分間の激白…不倫疑惑報道、頭にあった“引退”、KEIKOの容態など”. モデルプレス (2018年1月19日). 2018年1月20日閲覧。
  116. ^ 『文春砲』を跳ね返した小室哲哉の謝罪会見は本当に「大成功」だったのか 週刊女性PRIME 2018/1/22(主婦と生活社、2018年2月6日閲覧)
  117. ^ 地元大分での元気なKEIKO近影5枚 マスク越しの元気な表情”. NEWSポストセブン. Shogakukan Inc. (2019年2月6日). 2020年8月2日閲覧。
  118. ^ a b c d e f g h i j k 小室哲哉・KEIKO夫妻の泥沼離婚調停が始まった”. 文春オンライン. 文藝春秋 (2020年4月15日). 2020年8月2日閲覧。
  119. ^ “[https://president.jp/articles/-/25666 「小室哲哉のウソ」を暴いた文春砲の逆襲 「KEIKO親族怒りの告発」の価値]”. PRESIDENT Online (2019年2月6日). 2020年8月2日閲覧。
  120. ^ a b c 小室哲哉氏がFM生出演「依頼されて」復帰は否定”. 日刊スポーツ (2020年6月12日). 2020年6月12日閲覧。
  121. ^ a b c 小室哲哉、乃木坂46新曲で2年ぶり“復帰” ブランクに苦戦 7回書き直し”. ORICON MUSIC (2020年7月16日). 2020年7月16日閲覧。
  122. ^ マガジンハウス刊『POPEYE』1996年12月10日号pp.148-151より。
  123. ^ a b 立東社刊「PLUM」1986年6月号p.108より。
  124. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1999年5月号「小室哲哉通信 第16回『新プロジェクトのルーツは雑誌のライター時代にあった』」pp.132-133より。
  125. ^ 神山典士 1997, p. 96
  126. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2000年10月号「小室哲哉通信 第33回『TM NETWORK再始動 TKが踏み出した一歩とは?』」pp.132-133より。
  127. ^ a b 講談社刊『Views』1995年10月号「小室哲哉からtrf、ヴェルファーレまで avex traxが創り出す洗脳文化」pp.69-70より。
  128. ^ 光文社刊「FLASH」1995年12月19日号「独占・小室哲哉がいま全力を注ぐ“新恋人”を初公開!」p.9より。
  129. ^ 日経BP刊「日経エンタテインメント!」1997年12月号p.103より。
  130. ^ a b c ヤマハ音楽振興会刊 『TK EOS FACTORY 小室哲哉のシンセ工房』より。
  131. ^ 麻生香太郎 1997, p. 44-45
  132. ^ a b c d 集英社刊「Bart」1995年11月27日号「世界戦略への序章、小室哲哉 インターネット宣言。」pp.14-17より。
  133. ^ a b 日経BP刊「日経エンタテインメント!」1999年8月号p.59より。
  134. ^ a b c d e f g h Yahoo! Internet Guide」2001年6月号pp.238-239「TK×INTERNET NO.1『オフィシャルサイトの変遷』」より。
  135. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1999年4月号pp.180-181より。
  136. ^ a b c d 株式会社ミュージックマガジン刊「ミュージック・マガジン」1999年12月号pp.23-27「小室哲哉 自身が語るこれまでとこれから」より。
  137. ^ TK Gateway STAFF LISTより。
  138. ^ a b ダイヤモンド社刊『FM STATION』1997年5月5日号p.27より。
  139. ^ 角川書店刊「月刊カドカワ」1997年8月号p.202より。
  140. ^ a b 「ぴあ」1998年7月27日号「フランス、香港に続いてグアムに出現 忙しすぎるぞT.KOMURO」pp.28-29より。
  141. ^ a b c d 「ぴあ」1998年12月21日号「小室哲哉の'98年を振り返る。もはや世界標準!?」pp.22-27より。
  142. ^ ぴあ」1999年4月12日号「金子達仁 世紀末才人列伝 其の六 小室哲哉」p.60より。
  143. ^ [4]
  144. ^ 小室哲哉に所ジョージ、秘かに「特許」を取っていた有名人たちより。
  145. ^ 完全オリジナルの新感覚着信音を小室哲哉氏がプロデュース!”. イロメロミックス (2004年8月2日). 2020年5月20日閲覧。
  146. ^ 朝日新聞』2007年7月25日号より。
  147. ^ a b DJTK×Cafe Mai:lish - カフェメイリッシュ公式サイト内のページ。
  148. ^ a b メードカフェが「DJTK」とコラボ - ヘッドマイク付きTKメードも登場 - アキバ経済新聞内のページ。
  149. ^ 詐欺事件謝罪 小室哲哉、再出発ステージ”. スポーツニッポン. 2009年8月23日閲覧。
  150. ^ 小室哲哉、『a-nation'09』で音楽活動再開 ファン5万人に38秒間頭を下げる”. オリコン (2009年8月22日). 2011年1月16日閲覧。
  151. ^ 小室哲哉、AAAライブに"サプライズ"出演「今回の1位が一番嬉しい!」 - ORICON STYLE
  152. ^ 小室哲哉が15年ぶり上海公演 音楽芸術向上貢献で表彰も”. ORICON STYLE (2015年10月26日). 2015年10月26日閲覧。
  153. ^ 【特番/J:COM presents バルトホール オープン記念プレミアムウィーク けやきの森のハーモニー】番組ページ」より。
  154. ^ 小室哲哉×浅倉大介、新ユニット「PANDORA」結成」より。
  155. ^ 超ドSフェスタ 特任大使小室哲哉さん、静岡市長に意気込み語るより。
  156. ^ 安室奈美恵4年代で快挙!ベスト発売前にミリオン”. 日刊スポーツ (2017年11月8日). 2017年11月13日閲覧。
  157. ^ 16年ぶりの「再会」 安室奈美恵に小室哲哉が楽曲提供 平成の歌姫の"有終の美"に花”. ハフィンポスト (2017年11月8日). 2017年11月13日閲覧。
  158. ^ 小室哲哉、会見後初のステージも引退に言及せず”. SANSPO.COM (2018年1月25日). 2018年1月29日閲覧。
  159. ^ PANDORAの小室哲哉&浅倉大介がライブ「演奏を聴いてもらえてうれしい」”. ORICON NEWS (2018年1月26日). 2018年1月29日閲覧。
  160. ^ 小室哲哉さん、1年半ぶりの公の場 福島県双葉郡教育復興ビジョンで「僕も久々に元気をもらった」と笑顔見せる”. ITmedia (2019年8月2日). 2019年8月8日閲覧。
  161. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』1993年3月号より。
  162. ^ a b c d e 市川哲史 2014, p. 168
  163. ^ a b c d 小学館刊「週刊ポスト」1995年4月28日号「小室哲哉(36)『日本のダンス音楽』を創るミリオンセラー請負人」pp.229-231より。
  164. ^ a b c リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2011年8月号「『私の作曲法』小室哲哉インタビュー」pp.28-29より。
  165. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1998年1月号「TETSUYA KOMURO アジアへ広がるプロデュースワーク」pp.79-81より。
  166. ^ a b c d 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2012年5月号「『初音ミク 歌姫を広めた「n次創作」カルチャー』小室哲哉インタビュー」pp.20-21より。
  167. ^ a b c 小室哲哉旧公式サイト1996年5月掲載「コンポーザーとしてのTKを分析する」 白田朗著より。
  168. ^ ぴあ 2015, p. 83
  169. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1993年3月号「TK RAVE FACTORY trf TETSUYA KOMURO」pp.89-90より。
  170. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 139
  171. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1995年8月号「小室哲哉 小室マトリックスの拡散と変容」pp.31-35より。
  172. ^ a b c マガジンハウス刊『POPEYE』1996年11月25日号pp.132-135より。
  173. ^ JNN系列「NEWS23」2015年6月11日放送分より。
  174. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 80
  175. ^ a b c d e f 自由国民社刊「シンプジャーナル」1987年2月号「アルバム『Self Control』インタビュー『高まるボルテージのなかで'87年は』」pp.15-16,「キーボード講座 第19回『今月は、エッセイ風に…』」pp.106-107より。
  176. ^ 小室哲哉のDigitalian論 ーーデジタル時代の新型フェス『THE BIG PARADE』で聞けた本音とは?”. Real Sound. 2014年9月25日閲覧。
  177. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1996年7月号p.21より。
  178. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年5月号p.100より。
  179. ^ a b c d e f ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1989年12月号「小室哲哉 『Digitalianの選択』」pp.18-20より。
  180. ^ 集英社刊『週刊明星』1988年4月7日号p.25より。
  181. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 139
  182. ^ a b c リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2004年6月号より。
  183. ^ a b c 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年12月号「ソロ・インタビュー TM Network」p.22,「キーボード講座 第18回『「第1回 実戦キーボード教室」を終えて』」 pp.106-107より。
  184. ^ a b 「TOYOTA WISH presents 白黒歌合戦 #6 小室哲哉 VS ヒャダイン」より。
  185. ^ a b リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』2014年4月号p.80より。
  186. ^ a b c d e f g 株式会社プレイヤー・コーポレーション刊「Player」1984年5月号pp.56-59「TM NETWORK」, p.215「KEYBOARD MANUAL 第5回 『転調』の効果的なやり方」より。
  187. ^ インターナショナル・ラグジュアリー・メディア刊『ローリング・ストーン』日本版2012年5月号より。
  188. ^ 小室哲哉、m-floを語る「彼らに追従するグループはいない」
  189. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年7月号pp.100-101より。
  190. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1992年9月14日号p.10より。
  191. ^ a b c d 角川書店刊『月刊カドカワ』1992年11月号「立体特集 小室哲哉 [ゼロへの回帰] ソロアルバムの全貌とTMNの行方を探る」pp.125-137より。
  192. ^ [関ジャム 完全燃SHOW 【小室哲哉・三浦大知のタメになる音楽講座ほか音楽企画】 の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)]”. gooテレビ番組. 2019年2月19日閲覧。
  193. ^ 小室哲哉、“いい曲”の条件を語る「ふっと聴いた瞬間に当時の風景とか、匂いとかを思い出す」”. Real Sound. 2017年4月9日閲覧。
  194. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1992年11月号p.25より。
  195. ^ TKMC NON EDIT TALK : 小室哲哉★甲斐よしひろ”. フジテレビ. 2019年11月12日閲覧。
  196. ^ 麻生香太郎 1997, p. 61
  197. ^ 小室哲哉 2009, p. 220
  198. ^ a b 寺島情報企画刊『DTM magazine』2006年5月号より。
  199. ^ ソニー・マガジンズ刊『ギターブック』1991年10月号「TMN EXPO」p.13より。
  200. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1997年1月6・13日合併号「小池聰行と爆笑!対談 感性Ichiban人間登場!!第53回 小室哲哉 97年はアジアに目を向ける一年になりそうです。」p.88より。
  201. ^ a b c d ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1999年10月号「TM NETWORK 再確認と新たな構築」pp.7-9より。
  202. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 129
  203. ^ a b c d シンコーミュージック・エンタテイメント刊『B-PASS』2015年12月号pp.166-171より。
  204. ^ a b c d e f g h i 集英社刊「Bart」1996年11月25日号「小室哲哉 デジタル環境がもたらす、5年後の『音楽』革命。」pp.12-19より。
  205. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 131
  206. ^ a b c “【SPUR】そうだったんだ!? 小室さん”. SPUR.jp. (2017年5月30日). https://spur.hpplus.jp/culture/music/201705/30/N3IpiGg/ 2017年5月30日閲覧。 
  207. ^ a b c d 新潮社刊「FOCUS」1995年9月6日号「ヒット請負人"小室哲哉"36歳の現実」pp.48-51より。
  208. ^ a b c d e f 集英社刊「Bart」1995年10月9日号「BEHIND the MASK 小室哲哉 坂本龍一 対談」pp.16-17より。
  209. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 128
  210. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1999年10月号p.85より。
  211. ^ 小室哲哉 2009, p. 216-217
  212. ^ a b 角川書店刊「CDでーた」2002年4月20日号p.101より。
  213. ^ a b c 講談社刊『GLAMOROUS』2013年3月号「私たちSHIBUYA生まれの小室育ち」p.22より。
  214. ^ 小室哲哉、globe20周年の“真実” 過去の葛藤と「FACES PLACES」意味を初告白 モデルプレスインタビューより。
  215. ^ リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2012年SUMMER号より。
  216. ^ a b 小室哲哉さんが明かす、曲作りのヒミツ 「過去の自分の成功以上に信用できるものはない」”. HUFFPOST. 2017年9月4日閲覧。
  217. ^ a b 「『ドンチャン騒ぎ出来ますか』って何の曲? 和製英語ポップス花盛り」『朝日新聞』1997年11月1日付朝刊、19頁。
  218. ^ 集英社刊「Myojo」1992年7月号p.54より。
  219. ^ a b 角川書店刊『月刊カドカワ』1997年5月号「立体特集 globe FACES PLACES スピリチュアル・メッセージ 小室哲哉 自然発生的オルタナティブとglobeの関係」p.111より。
  220. ^ a b 読売新聞東京本社刊『週刊読売』1997年4月27日号「平成の〝教祖〟を裸にする(3)小室哲哉」pp.40-43より。
  221. ^ “1995/09/06 OA : 渡辺美里”. TK MUSIC CLAMP HOME PAGE. (1995年9月6日). https://www.fujitv.co.jp/TKMC/BACK/TALK/misato.html 2018年11月12日閲覧。 
  222. ^ 小室哲哉 2009, p. 216
  223. ^ フリースタイル刊 『フリースタイル Vol.15』より。
  224. ^ “globe『Remode 1』小室哲哉ロングインタビュー”. music.jp. (2015年8月9日). http://music-book.jp/music/Artistpage/224604 2015年8月9日閲覧。 
  225. ^ 市川哲史 2014, p. 169,177
  226. ^ “trf「WATCH THE MUSIC」小室哲哉インタビュー”. 音楽ナタリー. (2013年2月25日). https://natalie.mu/music/pp/trf_tk 2019年5月17日閲覧。 
  227. ^ a b c エンターブレイン刊「LOGiN」1985年3月号p.189より。
  228. ^ a b c d 読売新聞社刊「月刊KiTAN」1995年10月号pp.7-23「いま!プロデューサー 徹底分析 小室哲哉の秘密」より。
  229. ^ a b ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1999年8月号「小室哲哉 動き出したグローバルマインドの夢」p.100より。
  230. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1999年3月号p.85より。
  231. ^ a b c d 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年2月号「キーボード講座 第7回『冬休み、特別講義』」pp.100-101より。
  232. ^ a b c d e f リットーミュージック刊 「Hiroyuki Sawano 澤野弘之」より。
  233. ^ a b マガジンハウス刊『POPEYE』1996年10月25日号pp.102-107より。
  234. ^ a b 関ジャム 完全燃SHOW』 2015年7月12日放送分のインタビューより。
  235. ^ a b 日経BP刊『日経ネットナビ』1996年9月号「小室哲哉、インターネットのすべてを語る『僕の“現在”を感じてほしい』」pp.36-39より。
  236. ^ a b 公評社刊「公評」1997年11月号より。
  237. ^ a b c d 集英社刊「すばる」2019年3月号「血塗られたシンセサイザー、あるいは魔法のゆくえ――小室哲哉論」pp.310-323より。
  238. ^ a b c 自由国民社刊「シンプジャーナル」1987年12月号pp.14-15より。
  239. ^ ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1990年12月号p.89より。
  240. ^ 立東社刊「プリプロダクション」2001年2月号pp.19-28より。
  241. ^ a b ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』2002年11月号pp.98-99より。
  242. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1993年1月号pp.11-15より。
  243. ^ 小室哲哉 2009, p. 34
  244. ^ ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』1996年12月号p.123より。
  245. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1993年4月号p.162より。
  246. ^ [1周回って知らない話 【小室ファミリーの裏事情&一世を風靡したイケメン集結!】 の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)]”. gooテレビ番組. 2018年12月27日閲覧。
  247. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1996年5月号pp.87-89より。
  248. ^ 学習研究社刊『CD HITS!』1999年10月号p.148より。
  249. ^ 「kom sat radio」より。
  250. ^ 小室哲哉 2009, p. 34
  251. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』2002年3月号Special Fireより。
  252. ^ beatfreak 172issue」より。
  253. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』2003年4月号p.133より。
  254. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』2001年5月号pp.72-73より。
  255. ^ a b c マガジンハウス刊『POPEYE』1996年12月25日号「小室哲哉が明かす『誰にも話してない'97年の世界戦略』。」pp.36-37より。
  256. ^ 「KOMU@COM July」より。
  257. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年8月号pp.156-157より。
  258. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1999年12月号「小室哲哉通信 第23回『世紀末を迎え 米国から今、見えるもの』」p.48より。
  259. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1992年11月号pp.67-68より。
  260. ^ マガジンハウス刊『POPEYE』1997年2月10日号p.126より。
  261. ^ 小室哲哉氏 復帰は否定も楽曲制作明かす「オンラインの中で生きる曲を1曲残してみたい」”. スポニチ Sponichi Annex (2020年6月12日). 2020年6月12日閲覧。
  262. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年5月号「TM NETWORK FANKSというリミックスへのアプローチ」p.41より。
  263. ^ a b c d リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2001年10・11月合併号「小室哲哉ロングインタビュー(前編) TKが語るグローバル・トランス展開&プライベート・スタジオついに公開!」pp.23-35より。
  264. ^ a b 集英社刊「MORE」1997年10月号「『スピード2』でハリウッド進出 こっちでは『TK』って呼ばれています 小室哲哉 L.A.マリブの生活」p.10より。
  265. ^ a b c d e 小学館刊『女性セブン』1996年8月22・29日合併号pp.57-63「時代を丸ごとプロデュースする男」, p.119より。
  266. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1985年6月号p.101より。
  267. ^ a b c d e f ヤマハ音楽振興会発行「『月刊エレクトーン』別冊刊行誌『SCORE MAGAZINE』」1989年no.16号pp.18-21より。
  268. ^ リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2018年3月号pp.126-131より。
  269. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊「僕らの音楽 対談集 3」 鳥越俊太郎著pp.78-94より。
  270. ^ a b c 小学館刊「EZ DO LIFE!」DJ KOO著より。
  271. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 91
  272. ^ a b 自由国民社刊「シンプジャーナル」1987年5月号p.103より。
  273. ^ a b c d 立東社刊「PLUM」1986年9月号p.84より。
  274. ^ ぴあ刊「小室哲哉ぴあ TK編」より。
  275. ^ a b c d インターナショナル・ラグジュアリー・メディア刊『ローリング・ストーン』日本版2015年9月号『TK makes the future』pp.27-49より。
  276. ^ 自警会刊「自警」1995年9月号p.22より。
  277. ^ ソニー・マガジンズ刊 『電気じかけの預言者たち』 木根尚登著より。
  278. ^ Web R25 小室哲哉インタビュー「いろんな“音”作りかな」より。
  279. ^ a b c d 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2011年10月号「小室哲哉 & J.Y.Park 今なぜ、K-POPがウケるのか? 日韓のトップクリエイターが分析」pp.42-45より。
  280. ^ ぴあ 2015, p. 69-70
  281. ^ ぴあ 2015, p. 50
  282. ^ a b c d e ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1990年4月号「小室哲哉『アイドル・サウンド』を語る」p.61より。
  283. ^ a b c d e f ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1991年2月号「TMN 小室哲哉 過去の記憶と現在をアクセスするテクノロジー」pp.52-54より。
  284. ^ a b c d e f g h i j k l ダイヤモンド社刊『FM STATION』1996年7月5日号「小室サウンドの正体」pp.20-31より。
  285. ^ a b マガジンハウス刊『POPEYE』1997年1月10-25日合併号pp.148-151より。
  286. ^ a b c d 世界文化社刊「家庭画報」1998年6月号「ライヴな男たち 第6回 小室哲哉 体が忘れない近未来の音で魅せる」pp.347-351より。
  287. ^ ソニー・マガジンズ刊「ピコエンタテインメント」Vol.1 p.38より。
  288. ^ a b c 日本経済新聞社刊「日経トレンディ」1995年4月号「ヒット曲をいかに生み出すか『大御所』小室哲哉氏に聞く」p.18より。
  289. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1999年8月号p.59より。
  290. ^ ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」2000年12月号pp.94-95より。
  291. ^ インターナショナル・ラグジュアリー・メディア刊『ローリング・ストーン』日本版2015年11月号「インスパイアから生まれるオリジナル=発明になる 小室哲哉 音楽家」pp.38-39より。
  292. ^ a b TM NETWORK Official My Spaceの2007年10月21日分のブログより(リンク切れ)。
  293. ^ a b c d e ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 2008年5月号pp.48-53「小室哲哉 駆ける者、拓く道、ミュージック・フロンティアが語るJ-POP20年史」より。
  294. ^ a b c d e [マツコの知らない世界 【SP【初共演!マツコ×小室哲哉&回転寿司の世界】】 の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)]”. gooテレビ番組. 2019年2月19日閲覧。
  295. ^ 株式会社プレイヤー・コーポレーション刊「Player」1984年8月号「KEYBOARD MANUAL 第8回 『哲哉式編曲法』パート1」p.219より。
  296. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1993年10月号pp.27-28より。
  297. ^ a b c d e f g リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2011年10月号「中田ヤスタカ(capsule) × 小室哲哉 シンセ・ポップでヒットを量産する“ネ申クリエイター”頂上対談!!」pp.19-26より。
  298. ^ リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2014年5月号p.29より。
  299. ^ 小室哲哉 2009, p. 121
  300. ^ a b c d e f g h リットーミュージック刊『サウンド&レコーディング・マガジン』2007年1月号「Private Studios #01 小室哲哉 TKCOM STUDIO 13&14」pp.92-97より。
  301. ^ 小室哲哉 2009, p. 121
  302. ^ “小室哲哉の仕事熱心さにファン仰天「熱意を感じる」病室に機材”. MusicVoice. (2016年4月13日). http://www.musicvoice.jp/news/20160413039526/ 2016年4月13日閲覧。 
  303. ^ a b リットーミュージック刊「キーボード・マガジン」2017年10月号pp.6-10より。
  304. ^ a b c d リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2014年12月号「TM NETWORK 壮大な組曲を含む新作『QUIT30』を、デビュー30周年を迎えた3人が語り尽くす」pp.19-31。
  305. ^ a b リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2017年5月号より。
  306. ^ a b c TBS系列『ズバリ言うわよ!』で発言。
  307. ^ フジテレビ系列『とくダネ!』「小室哲哉・全233曲分析・・・意外な事実」より。
  308. ^ ベストセラーズ刊「インテリアJack Vol.5」pp.15より。
  309. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 148-149
  310. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』1996年12月号p.146より。
  311. ^ エンターブレイン刊 『進・電気じかけの預言者たち』木根尚登著より。
  312. ^ a b c d リットーミュージック刊『ギター・マガジン』2019年11月号『Special Interview 小室サウンドを一手に担ったスゴ腕職人 松尾和博』pp.120-127より。
  313. ^ a b c “『DJ KOO、恩師・小室哲哉を語る「命を削っているかような集中力と発想力、仕事の仕方だった」』”. Yahoo!ニュース. (2018年8月26日). https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20180826-00094397/ 2018年8月26日閲覧。 
  314. ^ a b c “エイベックス、小室哲哉氏をゲストに迎えて「高音質の未来」を討論”. RBB TODAY. (2005年6月21日). https://www.rbbtoday.com/article/2005/06/21/23579.html 2005年6月21日閲覧。 
  315. ^ リットーミュージック刊『サウンド&レコーディング・マガジン』2015年10月号pp.44-47より。
  316. ^ 東京スポーツ』2017年8月9日号「オレにも言わせろ!! 小室哲哉編 第2回」p.19より。
  317. ^ 2012年12月15日05時02分の小室哲哉のTwitterの書きこみより。
  318. ^ 2012年12月15日05時06分の小室哲哉のTwitterの書きこみより。
  319. ^ a b c d e f リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2015年SUMMER号「機材で振り返るTM NETWORK 30周年ライブ」pp.8-19より。
  320. ^ 2013年6月19日02時40分の小室哲哉のTwitterの書きこみより。
  321. ^ 2013年6月21日21時25分の小室哲哉のTwitterの書きこみより。
  322. ^ 2013年6月26日23時04分の小室哲哉のTwitterの書きこみより。
  323. ^ a b リットーミュージック刊『キーボード・マガジン』2013年10月号より。
  324. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 91
  325. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1989年12月24日号p.20より。
  326. ^ リットーミュージック刊『キーボードランド』1988年2月号p.34より。
  327. ^ ぴあ 2015, p. 73
  328. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 90-91
  329. ^ a b ピエール中野×小室哲哉 対談 / Best of Tornado / 凛として時雨より。
  330. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1987年8月号pp.68-69より。
  331. ^ a b リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2015年WINTER号pp.72-73より。
  332. ^ a b c ロッキング・オン刊 『Cut』 2015年5月号「『パンチライン』小室哲哉インタビュー」pp.121-123より。
  333. ^ a b c TM NETWORKWORLD HERITAGE DOUBLE-DECADE COMPLETE BOX』ブックレットより。
  334. ^ ソニー・マガジンズ刊小室哲哉「first step in asia」より。
  335. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『ETERNAL NETWORK』より。
  336. ^ globe decade Blog 2005年2月12日『一言お願いしました』より。
  337. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1997年4月号より。
  338. ^ a b ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1997年2月号「globe 小室哲哉の『ハイパープロデュース論'97』」pp.36-39より。
  339. ^ 木根尚登 2003, p. 120-121
  340. ^ 小室哲哉 2009, p. 206
  341. ^ a b リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2011年SPRING No.372 pp.14-29より。
  342. ^ 小室哲哉 2009, p. 206
  343. ^ ヤマハ音楽振興会刊「K's MAGAZINE 3」p.22より。
  344. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1990年6月号「天と地と CONCERNING HEAVEN AND EARTH Tetsuya Komuro Long Interview」pp.9-10より。
  345. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 137
  346. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 113
  347. ^ 近田春夫 2001, p. 348
  348. ^ YOJI BIOMEHANIKA × 小室哲哉 レジェンド同士の初対談”. 音楽ナタリー. 2015年6月10日閲覧。
  349. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年3月号p.130より。
  350. ^ a b TK TALK : - TK - series No.2 近田春男 & TK”. フジテレビ. 2019年11月12日閲覧。
  351. ^ a b c 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1999年7月号「小室哲哉通信 第18回『復活!TM NETWORK その真意、その中身』」pp.50-51より。
  352. ^ ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1996年6月号「『FRIENDSHIP』セルフライナーノーツ」p.113より。
  353. ^ 祥伝社刊「Boon」1995年6月号「小室哲哉 with マーク・パンサー ジャングル講座をSTUDY」p.196より。
  354. ^ 小室哲哉『JOBS#1』インタビュー(Billboard JAPAN×RakutenMusic/楽天ブックス)”. Billboard JAPAN. 2017年3月15日閲覧。
  355. ^ a b マガジンハウス刊『POPEYE』1997年2月25日号pp.120-121より。
  356. ^ a b メディアファクトリー刊「ザッピィ」2001年8月号「小室マニュアル2001 VOL.3『TKは作らないといけない』」p.46より。
  357. ^ 集英社刊「Myojo」1995年4月号付録「Young Song」pp.4-8より。
  358. ^ a b 集英社刊「週刊明星」1989年9月28日号「スーパーロック・グループの魅力大解剖 TM NETWORK まるかじり!」pp.69-73より。
  359. ^ a b c d プレジデント社刊「プレジデント」1995年5月号「『ミリオンセラー請負人』小室哲哉という男」pp.98-103より。
  360. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2017年4月号「小室哲哉『宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた』」pp.44-46より。
  361. ^ a b c d 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2014年12月号「TM NETWORK デビュー30周年で活動が活発化する3人が今だから語る、日本の音楽シーンを変革してきた“伝説の30年”」pp.48-49より。
  362. ^ a b c 木根尚登 2003, p. 122-123
  363. ^ 立東社刊「PLUM」1985年11月号p.89より。
  364. ^ 中央公論新社刊「Marie claire」1989年3月号p.210より。
  365. ^ “木根尚登が"TMN終了ライブ"と"TM NETWORKヒットの秘密"を振り返る【特集第8回】”. Cocotame. (2019年5月16日). https://cocotame.jp/contents/feature/tmn-movie08/ 2019年5月16日閲覧。 
  366. ^ リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2001年12月号「特集 小室哲哉 後編 TKが語るシンセ・サウンドの展望&自宅スタジオ潜入レポート TK interview & studio report <2> ROJAM TECH FIVE STUDIO」pp.32-40より。
  367. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1995年1月号p.250より。
  368. ^ 角川書店刊「CDでーた」1995年10月5日号「小室哲哉の新ユニット始動! 新曲『Joy to the love(globe)』〈プロデューサーに専念してきたけど…〉」p.7より。
  369. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 111
  370. ^ 日経BP刊「日経エンタテインメント!」1999年7月号p.51より。
  371. ^ セブン&アイ出版刊「時代をつかみとる思考」小室哲哉著より。
  372. ^ 神山典士 1997, p. 179
  373. ^ a b c d e f 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1999年10月号「小室哲哉通信 第21回『TM NETWORK プロジェクト終了宣言から5年。再始動に隠されたホントの狙い』」pp.26-29より。
  374. ^ 木根尚登 2003, p. 77
  375. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 113
  376. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1988年6月号p.140より。
  377. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1996年7月号p.28より。
  378. ^ “DJ Kooも知らなかった!?小室哲哉が明かす、TRFデビュー秘話「Empire 成功の代償」トークイベント しゃベルシネマ【第6回】”. ニッポン放送. (2016年5月6日). http://www.1242.com/lf/articles/3931/ 2016年5月6日閲覧。 
  379. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1997年5月号p.42より。
  380. ^ 小室哲哉 2009, p. 99-102
  381. ^ 新潮社刊「週刊新潮」1997年6月12日「『To』台湾 『大赤字公演』でも笑う小室哲哉の深謀」p.40より。
  382. ^ a b c d 幻冬舎刊「破壊者」松浦勝人著より。
  383. ^ a b 立東社刊『KB special』1997年4月号より。
  384. ^ a b 集英社刊「Bart」1995年10月23日号「『ジャングル』の次、インターネットの世界へ」pp.48-49より。
  385. ^ 「ASCII.jp:インテル、Pentium IIIユーザー向けインターネットサービス“WebOutfitter”の日本語版提供を開始」より。
  386. ^ 「ASCII.jp:インテル、1月に“WebOutfitterサービス”で小室ファミリーと連携したミレニアム記念イベントを開催」より。
  387. ^ TM NETWORK TOUR MAJOR TURN-ROUND Supported by ROJAM.COM』パンフレットより。
  388. ^ 寺島情報企画刊『DTM magazine』2005年8月号より。
  389. ^ iTunes Music Store JAPAN サービスインへのTKコメント
  390. ^ “功労者・小室哲哉も“夢”の実現に安堵!「少しは役にたったかもね」 SME系楽曲がiTunes配信”. RBB TODAY (RBB TODAY). (2012年11月7日). http://www.rbbtoday.com/article/2012/11/07/97337.html 2011年11月7日閲覧。 
  391. ^ 扶桑社刊『Numéro TOKYO』2013年2月号より。
  392. ^ a b c d 扶桑社刊 「SPA!」2010年8月3日号「『エッジな人々』小室哲哉インタビュー」pp.134-137より。
  393. ^ a b 春風亭小朝、小室哲哉に訊いた「ヒット曲の書き方」とは…!? 「ちょっと歌いづらい歌を作ると…」”. TOKYO FM+ (2020年7月19日). 2020年7月20日閲覧。
  394. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年11月号「キーボード講座 第16回『キーボードを始めよう!と思ってる初心者へのアドバイス』」p.97より。
  395. ^ Yahoo! Internet Guide」2001年8月号「TK×INTERNET NO.3『香港上場-アジアへ本格進出』」pp.292-293より。
  396. ^ 藤本健のDigital Audio Laboratory 第196回:WMAロスレスの音楽配信サイト「@MUSIC HD Sound」 ~ 小室氏とavexが提唱するHDサウンドとは? ~”. AV Watch (2005年6月28日). 2020年5月22日閲覧。
  397. ^ 近田春夫 2001, p. 337
  398. ^ 近田春夫 2001, p. 338
  399. ^ TK流目標達成術 ~ひとつのことに集中していたら、きっと僕はダメになっていた~”. 東洋経済オンライン (2017年2月1日). 2020年5月22日閲覧。
  400. ^ CAMPセミナー@法政大学 「創らなければ何も始まらない」“はたらく”の根底にあるクリエイター意識”. CAMP (2017年8月10日). 2020年5月22日閲覧。
  401. ^ メディアファクトリー刊 『続・電気仕掛けの預言者たち』 木根尚登著より。
  402. ^ 小室哲哉、さかなクンと共演NGの理由”. 2020年2月23日閲覧。
  403. ^ 立東社刊「PLUM」1986年10月号p.85より。
  404. ^ フジテレビ系列「新堂本兄弟」2004年10月31日放送分より。
  405. ^ 文藝春秋刊「週刊文春」1998年4月2日号より。
  406. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1999年7月12日号pp.94より。
  407. ^ ぴあ 2015, p. 70
  408. ^ テレビ東京系列Crossroad』2016年8月13日放送分より。
  409. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 85
  410. ^ 麻生香太郎 1997, p. 42-43
  411. ^ 連載:麻生香太郎の「テレビの壺」から『うさんくさい“小室劇場”』より。
  412. ^ ダイアモンド社刊『FM STATION』1991年9月16日号pp.12-13より。
  413. ^ a b c d 朝日新聞社刊「週刊朝日」1995年12月15日号pp.32-33より。
  414. ^ 神山典士 1997, p. 166
  415. ^ a b 徳間書店刊「月刊エンタメ」2018年4月号「俺たちのTK ~小室哲哉~伝説」pp.36-39より。
  416. ^ a b 新潮社刊『週刊新潮』2019年1月3・10日新年特大号p.178より。
  417. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1996年2月号「小室哲哉&久保こーじ 音楽工房の頭脳と心臓」pp.11-13より。
  418. ^ 神山典士 1997, p. 166
  419. ^ 幼年期の終わり』の英名をTMのアルバムタイトルに引用、その後『Rendez-vous in Space 2001』で共作を果たす。
  420. ^ 公式サイトより。
  421. ^ 幻冬舎刊 『ももこの21世紀日記 N.03』 さくらももこ著より、さくらは「自分の抱いていた哲哉さんのイメージにギャップを感じた」と記している。
  422. ^ 『TETSUYA KOMURO CELEBRITY PLAYLIST』より。
  423. ^ Tetsuya_Komuroの2011年11月27日のツイート- X(旧Twitter)
  424. ^ マガジンハウス刊「an・an」1996年7月26日号p.12より。
  425. ^ 美術出版社刊『美術手帖』2018年1月号「分析するアーティストと創造する科学者 小室哲哉×脇田玲」pp.64-65より。
  426. ^ ORUMOK RECORDS』 VTRブックレットより。
  427. ^ 日本テレビ系列『スッキリ!!』2008年11月4日放送分より。
  428. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 142-143
  429. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 6
  430. ^ a b c d e リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2017年6月号より。
  431. ^ 光文社刊「女性自身」1999年11月16日号p.31より。
  432. ^ “直電話で…マイケル“秘話”小室に新曲依頼していた”. 夕刊フジ (ZAKZAK). (2009年7月13日). http://www.zakzak.co.jp/gei/200907/g2009071326_all.html 2011年2月3日閲覧。 
  433. ^ エムオン・エンタテインメント刊「WHAT's IN?」1998年2月号より。
  434. ^ 小室哲哉 2009, p. 183
  435. ^ 「世界の小室」へ本格進出 全米No.1ポップストリオ「ハンソン」プロデュース
  436. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1999年7月号「小室哲哉 世紀末前夜、最強のTRAP始動」pp.73-75より。
  437. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1999年10月号p.7より。
  438. ^ 集英社刊『週刊プレイボーイ』1991年4月9日号p.210より。
  439. ^ 角川書店刊『月刊カドカワ』1994年7月号pp.293-295より。
  440. ^ a b c 株式会社スコラ刊「スコラ」1996年2月8日号「小室哲哉の懐刀、久保こーじの全貌。」p.119より。
  441. ^ a b c 角川書店刊『月刊カドカワ』1996年7月号「スペシャル・メッセージ tk-trapの手法 久保こーじ」pp.129-134より。
  442. ^ a b 講談社刊『週刊現代』1996年7月27日号「ドラッグ疑惑の次は盗作疑惑 天才オペテン師か 小室哲哉の『決定的恥部』総点検」pp.172-175より。
  443. ^ 「TK MUSIC CLAMP」1995年9月20日放送分「NON EDIT TALK : 小室哲哉★久保こーじ」より。
  444. ^ a b 立東社刊『KB special』1998年4月号pp.55-56より。
  445. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1995年8月28日号p.12より。
  446. ^ a b 学習研究社刊『CD HITS!』1999年8月号p.15より。
  447. ^ a b c d e シンコーミュージック・エンタテイメント刊『B-PASS ALL AREA』Vol.6 「浅倉大介 PANDORA Be The One」pp.58-73より。
  448. ^ 木根尚登 2003, p. 116-117
  449. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1991年9月号「YOSHIKI VS 小室哲哉 芸術性と大衆性への戦略」pp.18-21より。
  450. ^ Musicman-net 第154回 音楽評論家 吉見佑子氏【後半】」より。
  451. ^ a b ロッキング・オン刊「ROCKIN'ON JAPAN」1992年1月号「V2 YOSHIKI+小室哲哉 シーンを震撼させる、驚異の高等戦略家ユニットの腹を探る徹底インタビュー」p.78より。
  452. ^ ロッキング・オン刊「ART OF LIFE」YOSHIKI・市川哲史著p.147より。
  453. ^ a b 第143回 伊東 宏晃 氏 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長 | Musicman-NET」より。
  454. ^ 角川書店刊『月刊カドカワ』1995年5月号p.235より。
  455. ^ a b c d “DJ KOOインタビュー#2 伝説の“小室スタジオ”では「TRFがレコーディングする側で、篠原涼子ちゃんや安室奈美恵ちゃんが…」”. ザテレビジョン. (2020年3月8日). https://thetv.jp/news/detail/225905/1414256/ 2020年5月11日閲覧。 
  456. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1995年12月号「brand new man of trf 新たな挑戦を確かな実力に変えて」pp.33-35、「Xmas Music 読本'95 安室奈美恵 SPECIAL INTERVIEW」p.86より。
  457. ^ 読売新聞」1995年4月20日号夕刊p.7より。
  458. ^ ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』1996年4月号p.73より。
  459. ^ “天然・DJ KOOを翻弄した小室哲哉の「アメとムチ」”. NEWSポストセブン. (2016年3月29日). https://www.news-postseven.com/archives/20160329_397507.html 2019年2月20日閲覧。 
  460. ^ 小室哲哉「ガチで嫉妬したのは坂本龍一と吉田拓郎の2人」より。
  461. ^ 株式会社スコラ刊「スコラ」1995年10月26日号p.169より。
  462. ^ a b c ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1998年4月号「SUPER TALK SESSION JEAN MICHEL JARRE & TETSUYA "TK" KOMURO 国境を越える音楽のアイデンティティ」p.111より。
  463. ^ 日本テレビ系列「NEWS ZERO」2016年6月16日放送分より。
  464. ^ 立東社刊『KB special』1998年2月号「久保こーじのプライベート・スタジオ潜入記 ここがTK流シーケンス研究室!?」pp.11-16より。
  465. ^ a b インターナショナル・ラグジュアリー・メディア刊『ローリング・ストーン』日本版2015年12月号「hide 12人が語る普遍のクリエイティヴィティ 小室哲哉 × I.N.A.『hideがいてくれたからこそテクノロジーが追いつけた』」p.36より。
  466. ^ a b 「Tetsuya komuro★LA直撃!独占ロング・インタビュー '97年は本格的に世界へアプローチしていく!」スコラ刊「all about avex」pp.6-8より。
  467. ^ a b c d プレイヤー・コーポレーション刊「Player」1984年3月号p.199「KEYBOARD MANUAL 第3回 シンセサイザーによるリズムの構成」より。
  468. ^ a b 株式会社プレイヤー・コーポレーション刊「Player」1984年9月号p.221「KEYBOARD MANUAL 第9回 「『哲哉式編曲法』パート2」より。
  469. ^ 自由国民社刊「シンプジャーナル」1986年5月号「キーボード講座 第10回『コードの押さえ方』」pp.100-101より。
  470. ^ リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2006年9月号p.220より。
  471. ^ a b 立東社刊『KB special』1989年3月号「TM“小室哲哉”なりきり講座(前編)」p.10,「TM“小室哲哉”なりきり講座(後編)」 p.26より。
  472. ^ ヤマハミュージックメディア刊「月刊エレクトーン」2005年2月号p.5より。
  473. ^ リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2002年8月号より。
  474. ^ a b 立東社刊『KB special』1992年9月号「Making of SUPER BAND 新・TMネットワーク&TMN なりきり講座」p.26より。
  475. ^ キネマ旬報社刊「キネマ旬報」1990年6月下旬号「特集 天と地と 小室哲哉インタビュー」pp.20-21より。
  476. ^ 角川書店刊『CDでーた』1989年12月20日号「1stソロ『Digitalian is eating breakfast』発表!」p.4より。
  477. ^ “『小室哲哉』 SPECIAL INTERVIEW”. hot express. (2005年12月1日). https://web.archive.org/web/20051201061914/http://www.hotexpress.co.jp/interview/komurotetsuya/index.htm 2005年12月1日閲覧。 
  478. ^ 立東社刊『KB special』1992年12月号「THIS IS THE HIT FACTORY」p.4-7より。
  479. ^ 立東社刊『KB special』1993年1月号pp.21-25より。
  480. ^ a b TKMC NON EDIT TALK : 小室哲哉★坂本龍一”. フジテレビ. 2019年11月13日閲覧。
  481. ^ 久保こーじのBUZZ LEAGUE: Digital Performer」より。
  482. ^ a b 久保こーじのBUZZ LEAGUE: Logic Pro X」より。
  483. ^ リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2014年5月号より。
  484. ^ KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX TM NETWORK ARENA TOUR」パンフレットより。
  485. ^ 神山典士 1997, p. 193
  486. ^ 神山典士 1997, p. 192
  487. ^ a b ソニー・マガジンズ刊 『TMN "RHYTHM RED" TOUR DOCUMENT』より。
  488. ^ ジェイ・スカイ・ビー株式会社設立について」より。
  489. ^ 小学館刊「週刊ポスト」1997年1月31日号「小室哲哉(38) 日本を制覇した音楽プロデューサーは世界をめざす」pp.237-239より。
  490. ^ a b 集英社刊「Bart」1997年8月11日号「電脳2大インタビュー [Prat 2] 小室哲哉『僕の音楽はプリクラみたいなものかもしれない…』」pp.35-36より。
  491. ^ リットーミュージック刊『キーボード・マガジン』2002年7月号pp.17-18より。
  492. ^ 近田春夫 2001, p. 352
  493. ^ 小室哲哉 & 中谷彰宏 1998, p. 119
  494. ^ 近田春夫 2001, p. 341-342
  495. ^ 小室哲哉 2009, p. 33
  496. ^ 小室哲哉 2009, p. 132
  497. ^ 小室哲哉 2009, p. 202
  498. ^ 小室哲哉 2009, p. 202
  499. ^ マガジンハウス刊「an・an」2012年3月14日号「WHO'S HOT? この人に注目!第117回 小室哲哉『やってきた仕事をようやく肯定してもらえた気がした』」pp.70-71より。
  500. ^ 集英社刊『週刊プレイボーイ』2007年7月16日号「鈴木おさむ×小室哲哉(後編)」pp.80-81より。
  501. ^ 小室哲哉 2009, p. 70-72
  502. ^ テレビ朝日系列『オーラの泉2008年5月3日放送分でコメント。
  503. ^ 小室哲哉 2009, p. 121-122
  504. ^ a b 集英社刊「MEN'S NON-NO」2012年8月号「あの人に会いたい Vol.8 小室哲哉」pp.138-139より。
  505. ^ 小室哲哉がSNSをフル活用中「ファン予想の裏をかく」「サプライズも必要」、KEIKOの復帰は…”. 産経ニュース (2015年5月24日). 2015年5月24日閲覧。
  506. ^ a b “1億人の平成史 『第17回 小室哲哉さんの「平成のpop music:渦中からの証言」(2)』”. 毎日新聞. (2018年1月8日). https://www.mainichi.co.jp/heisei-history/interview/17.html 2018年1月8日閲覧。 
  507. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1990年5月号付属MINI BOOKより。
  508. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1997年7月14日号p.77より。
  509. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1999年9月号「TM NETWORK 『絶対に好きなようにしかやらない。そうでないと意味がないから』」p.87より。
  510. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1990年3月4日号p.17より。
  511. ^ a b c オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1996年1月1・8日合併号p.28より。
  512. ^ 立東社刊『KB special』1997年1月号「REMEMBER ME? KINE NAOTO」pp.8-14より。
  513. ^ 立東社刊『KB special』1997年9月号「Headline News 木根尚登 アルバム『エルマーの冒険』インタビュー」p.47より。
  514. ^ 中央公論新社刊「中央公論」1997年3月号p.103より。
  515. ^ 「Get Wild Song Mafia」ライナーノーツより。
  516. ^ 麻生香太郎 1997, p. 42
  517. ^ 麻生香太郎 1997, p. 54-55
  518. ^ 麻生香太郎 1997, p. 58
  519. ^ 麻生香太郎 1997, p. 58-60
  520. ^ 麻生香太郎 1997, p. 62
  521. ^ 麻生香太郎 1997, p. 246-247
  522. ^ 宝島社刊「宝島」1987年8月号p.85より。
  523. ^ 角川書店刊『月刊カドカワ』1990年9月号pp.136-139より。
  524. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1991年12月号p.27より。
  525. ^ 日経BP社刊『DAISUKE的にOK!?』浅倉大介著pp.6-7, pp.193-194より。
  526. ^ TKが日向大介氏のラジオ番組にゲスト出演!より。
  527. ^ “【米グラミー賞】(後編)「日本の音楽はセクシーじゃない。沢尻エリカのように踊り狂え」ノミネート作曲家”. Yahoo!ニュース. (2020年1月27日). https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20200127-00160300/ 2020年1月29日閲覧。 
  528. ^ ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』1991年10月号「TMN MUSIC AT AN EXPOSITION」p.25より。
  529. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1995年6月号p.102より。
  530. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1992年2月号「V2+TMN」p.17より。
  531. ^ a b c ダイヤモンド社刊『FM STATION』1997年1月5日号「小室哲哉 97年戦略」pp.22-27より。
  532. ^ “TRF「TRF 20TH Anniversary COMPLETE SINGLE BEST」特集”. natalie. (2012年11月21日). https://natalie.mu/music/pp/trf 2019年5月17日閲覧。 
  533. ^ ぴあ」1995年3月28日号「trf Interview」p.270より。
  534. ^ a b ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1995年4月号p.70より。
  535. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1996年1月20日号p.35より。
  536. ^ “【あの時・trfの奇跡】(5)時代を切り開いた衝撃のダンス音楽”. スポーツ報知. (2016年2月23日). https://web.archive.org/web/20160329102530/http://www.hochi.co.jp/feature/TO001019/20160223-OHT1T50090.html 2016年2月23日閲覧。 
  537. ^ “小室哲哉の曲は、ピアノで弾くと美しさが実感できる! TRF・DJ KOO×大森靖子 対談”. J-WAVE NEWS. (2018年8月1日). https://this.kiji.is/397336272921314401?c=0 2018年8月1日閲覧。 
  538. ^ エクスメディア刊「START OVER」原田大三郎著p.184より。
  539. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』2002年2月号Special Fireより。
  540. ^ 集英社刊「Bart」1996年6月24日号「400万枚の男、小室哲哉に迫る!!」pp.15-19より。
  541. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2018年9月号p.17, p.34より。
  542. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』1996年4月号p.57より。
  543. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1996年5月号pp.7-11より。
  544. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年2月号p.14より。
  545. ^ 株式会社スコラ刊「スコラ」1996年9月12日号p.49より。
  546. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1998年10月12日号p.34より。
  547. ^ 角川書店刊「CDでーた」1996年6月5日号p.19より。
  548. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1998年5月号より。
  549. ^ 角川書店刊「CDでーた」1995年11月5・20日合併号「安室奈美恵 トップ・シンガーをめざして――!!」p.28より。
  550. ^ 角川書店刊「CDでーた」1995年12月5日号p.41より。
  551. ^ 角川書店刊「CDでーた」1996年4月5日号「安室奈美恵 新曲『Don't wanna cry』発表 私らしいNEW COLOR」p.12より。
  552. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1996年9月号p.11より。
  553. ^ beatfreak 115issue」より。
  554. ^ FM STATION INTERVIEW NAMIE AMUROより。
  555. ^ ぴあ」1999年8月16・23日合併号「今のわたし 安室奈美恵 独占インタビュー」p.74より。
  556. ^ ソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』2001年1月号「安室奈美恵 20世紀を脱ぎ捨てて」p.89より。
  557. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」2001年1月1・8日合併号「小室哲哉×安室奈美恵」pp.11-18より。
  558. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1996年6月3日号p.13より。
  559. ^ 角川書店刊『月刊カドカワ』1998年2月号p.100より。
  560. ^ @nisi_p (2020年7月20日). "nisi-p (part2style)さんはTwitterを使っています". X(旧Twitter)より2020年7月22日閲覧
  561. ^ ソニー・マガジンズ刊「first step in asia」より。
  562. ^ ソニー・マガジンズ刊 『ギターブック』 1998年7月号p.85より。
  563. ^ 立東社刊『KB special』1998年7月号p.9, p.65より。
  564. ^ 新潮社刊「FOCUS」1998年7月15日号「『世界のコムロ』目指すTK-W杯記念イベントでヨーロッパデビュー」p.33より。
  565. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1999年3月1日号p.94より。
  566. ^ ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1998年10月号「甲斐よしひろ オトナによるオトナのためのロックが生まれる」pp.57-59より。
  567. ^ ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1998年11月号「Catch Up 大人の男ふたりがしかけた、第2弾シングル」pp.60-61より。
  568. ^ ソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1998年12月号「Close Up 時代の先を見据えた音楽 甲斐よしひろ」pp.178-179より。
  569. ^ ソニー・マガジンズ刊「WHAT's IN?」1999年4月号p.48より。
  570. ^ あゆ「喉ちぎれそう」小室楽曲に悪戦苦闘」より。
  571. ^ 角川書店刊『月刊カドカワ』1990年2月号pp.53-54より。
  572. ^ ソニー・マガジンズ刊『TMN 最後の嘘』藤井徹貫著pp.244-245より。
  573. ^ 『Album outernet / Single garden By TK』より。
  574. ^ 太田出版刊『楕円とガイコツ』山下邦彦著p.18より。
  575. ^ リットーミュージック刊 『サウンド&レコーディング・マガジン』 2012年11月号p.34より。
  576. ^ 立東社刊『KB special』1996年1月号より。
  577. ^ a b 読売新聞社刊「週刊読売」1997年1月26日号「小室サウンドってみんな同じじゃないか」pp.146-147より。
  578. ^ a b 講談社刊『Views』1996年9月号「槇原敬之 ボクの小室サウンド批判」pp.73-79「メガヒット!『安室300万枚はこうして作られた』」pp.144-151より。
  579. ^ 読売新聞東京本社刊『週刊読売』1996年8月18日・25日合併号p.168より。
  580. ^ a b 講談社刊「Views」1996年12月号「ポストTK 『プロデューサーの時代』を作る天才たち」pp.58-65より。
  581. ^ a b c ロッキング・オン刊「Cut」1997年1月号pp.112-113「山下達郎 vs ホイチョイ・プロダクションズ」より。
  582. ^ ソニー・マガジンズ刊「PATi PATi」1997年6月号p.152より。
  583. ^ TOKYO FMディア・フレンズ」1999年9月29日放送分より。
  584. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2007年5月号「R&Bブームが生まれた背景は?」p.107より。
  585. ^ 2008年11月8日 朝日新聞社「小室が飽きた小室サウンド」より。
  586. ^ Co_ClassicJazzの2012年8月11日23時26分のツイート- X(旧Twitter)
  587. ^ Co_ClassicJazzの2012年8月11日23時27分のツイート- X(旧Twitter)
  588. ^ 北辰堂出版刊 『贋作・盗作音楽夜話』 玉木宏樹著より。
  589. ^ 森進一 新曲は小室哲哉プロデュース 男は仕事で認めてもらう - 芸能ニュース : sankei.jp.msn.com”. MSN産経ニュース. 2010年6月15日閲覧。
  590. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』2011年2月号より。
  591. ^ 2013年4月26日23時24分 djafrojackのツイート- X(旧Twitter)
  592. ^ 中村正人×大村泰子「私とドリカム2」対談より。
  593. ^ 亀田誠治が“四つ打ち”曲が増えた理由を解説 「TKサウンドが若いバンドに影響を与えた」』より。
  594. ^ “小室転調”誕生のきっかけは渡辺美里「My Revolution」? 亀田誠治とGLAYがインパクトの重要性を語る』より。
  595. ^ NHK教育テレビジョン亀田音楽専門学校』2016年1月14日放送分より。
  596. ^ tsudanaoshiの2017年7月27日15時51分 その1のツイート- X(旧Twitter)
  597. ^ tsudanaoshiの2017年7月27日15時51分 その2のツイート- X(旧Twitter)
  598. ^ 毎日新聞社刊 『サンデー毎日』 2017年12月3日号p.58より。
  599. ^ 「松任谷由実、生涯現役宣言「ユーミンのまま死にたい」…小室引退には「気の毒だが運命」」より。
  600. ^ a b 双葉社刊「EX大衆」2018年7月号pp.47-49より。
  601. ^ ポニーキャニオン音楽出版刊「ヒット曲は発明だ!」羽島亨著pp.167-173より。
  602. ^ a b [関ジャム 完全燃SHOW 【90年代と小室哲哉!大ヒットしたTKサウンドの秘密】 の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)]”. gooテレビ番組. 2019年2月19日閲覧。
  603. ^ 神山典士 1997, p. 276-277
  604. ^ 神山典士 1997, p. 189
  605. ^ オリコン・エンタテインメント刊「オリコン・ウィーク The Ichiban」1996年6月11日号pp.75-81より。
  606. ^ 小室哲哉は「人を見る目」のある人間だった - ハックルベリーに会いに行く」より。
  607. ^ ぴあ刊「ぴあ music complex」1992年1月1-15日合併号pp.46-49より。
  608. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1995年4月24日号p.47より。
  609. ^ a b 河出書房新社刊 『無差別級 ナンシー関対論集』 ナンシー関著 p.99より。
  610. ^ a b c d e 扶桑社刊 「SPA!」 1996年4月3日号pp.36-45「200万枚を軽く売る"ヒット曲製造マシン"の高等戦術を大分析!ニッポン人がハマッた小室哲哉ブランドのカラクリ」より。
  611. ^ 光文社刊『週刊宝石』1997年5月22日号pp.42-43より。
  612. ^ 朝日新聞』1997年7月1日号(夕刊)より。
  613. ^ 集英社刊 「週刊プレイボーイ」 1997年1月28日号pp.46-49「<両さん、マンガを超える"コムロ・ワールド"に驚く>の巻!?」より。
  614. ^ 集英社刊『週刊少年ジャンプ』1997年7月14日号(31号)より。
  615. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1997年8月5日号p.100より。
  616. ^ 『フェスはただの音楽鑑賞会じゃない』リリー・フランキーが考える“理想のフェス”とは?」より。
  617. ^ 新潮社刊 『大人のための恋愛ドリル』(文庫版) 柴門ふみ著より。
  618. ^ a b “古市憲寿 H Jungle with tの歌詞に“今”を重ねる「ちゃんと思ったことを言っていこうと」”. TOKYO FM+. (2020年5月3日). https://tfm-plus.gsj.mobi/news/fm2JT97nLc.html?showContents=detail 2020年5月20日閲覧。 
  619. ^ a b “小室哲哉の楽曲は「自由と破壊」を感じる?広瀬香美・古市憲寿がその魅力を語る”. 日本テレビ. (2020年7月1日). https://www.ntv.co.jp/konkurabe/articles/25lrv5jb2zdqc47n75.html 2020年7月1日閲覧。 
  620. ^ 花伝社刊「オルタナティブロックの社会学」南田勝也著p.161より。
  621. ^ “小室哲哉・脇田玲インタビュー完全版 「アルスエレクトロニカ」舞台裏を語る”. SENSORS. (2016年10月21日). http://www.sensors.jp/post/tetsuya-komuro-akira-wakita-ars.html 2016年10月21日閲覧。 
  622. ^ “【大鶴義丹 それってOUTだぜ!】「小室引退」で薄れゆく20世紀、純文学的な歌詞が離婚後の心に染みた タブロイドに噛み付かれないためには…”. zakzak. (2018年1月31日). https://www.zakzak.co.jp/ent/news/180131/ent1801315299-n1.html 2018年1月31日閲覧。 
  623. ^ “ミッツ・マングローブ「不倫欝と小室哲哉の想い出」”. AERA.dot. (2018年2月7日). https://dot.asahi.com/wa/2018020600059.html 2018年2月7日閲覧。 
  624. ^ “クリエイターズ・セレクション Vol.39”. BANDAI CHANNEL. (2018年12月26日). https://www.b-ch.com/contents/feat_creators_selection/backnumber/v39/ 2019年2月12日閲覧。 
  625. ^ 自由国民社刊『シンプジャーナル』1986年8月号p.18より。
  626. ^ 角川書店刊「CDでーた」1997年12月5日号「1987-1997 J-POP mini BOOK [女性ボーカリスト編]」p.95より。
  627. ^ “小室哲哉、平成J-POPの立役者 『引退』は回すべき皿がなくなったのか”. J-CAST. (2018年1月30日). https://www.j-cast.com/trend/2018/01/30319853.html 2018年1月30日閲覧。 
  628. ^ “変わらないのは“歌の力” 田家秀樹氏”. 西日本新聞. (2019年4月14日). https://www.nishinippon.co.jp/item/n/502548/ 2020年5月21日閲覧。 
  629. ^ “小室哲哉のBOXセット 「平成の女性群像」を見るような”. J-CAST. (2019年4月16日). https://www.j-cast.com/trend/2019/04/16355395.html?p=all 2019年4月17日閲覧。 
  630. ^ ダイヤモンド社刊『FM STATION』1990年1月21日号p.20より。
  631. ^ 扶桑社刊 「SPA!」 1995年6月21日号p.7より。
  632. ^ a b 日本共産党中央委員会刊「グラフこんにちは日本共産党です」1995年3月19日号p.33より。
  633. ^ 講談社刊「Views」1996年3月号「本人、母、旧友が真実を始めて語った 小室哲哉 苦悩と七転八倒の日々」p.50より。
  634. ^ 神山典士 1997, p. 281
  635. ^ 集英社刊「Bart」1996年3月11日号「オザケン幻想に迷い込んだ彼ら。」p.27より。
  636. ^ 朝日新聞社刊 『聞いて極楽』 ナンシー関著より。
  637. ^ a b 文藝春秋刊「考えるヒット」近田春夫著pp.304-312より。
  638. ^ 近田春夫 2001, p. 26
  639. ^ 近田春夫 2001, p. 359
  640. ^ “ミスチル桜井と小室哲哉を結ぶjpopならではの表現手法とは…”. BLOGOS. (2017年2月5日). https://web.archive.org/web/20170206103437/http://blogos.com/article/208830/ 2017年2月5日閲覧。 
  641. ^ 文藝春秋刊「週刊文春」1996年5月16日号「小室哲哉 究極の『ツギハギ・パクリ音楽』」p.186より。
  642. ^ a b 新潮社刊『週刊新潮』1996年7月4日号「一週間で六十億円売上げ 新人歌手『華原朋美』の黒い成上り」pp.54-55より。
  643. ^ INFAS publications刊「STUDIO VOICE」1996年9月号pp.36-37「『小室哲哉』という名の空虚なマジョリティ」より。
  644. ^ a b 朝日新聞出版刊『週刊朝日』1996年10月11日号「小室哲哉がトップを獲れない謎のヒットチャートの『良識』」pp.40-41より。
  645. ^ 朝日新聞出版刊『週刊朝日』1997年8月29日号より。
  646. ^ 「富澤一誠の俺が言う!」から「“声のルックス”の良さが時代をつかむ!」より。
  647. ^ “電撃引退の小室哲哉さん、本当に“賞味期限”切れたのか 90年代、高音カラオケで頂点に”. 産経ニュース. (2018年2月1日). http://www.sankei.com/premium/news/180201/prm1802010008-n1.html 2018年2月1日閲覧。 
  648. ^ 毎日新聞社刊 『ポップ・カルチャー』 宮台真司松沢呉一著より。
  649. ^ 批評家・佐々木敦が驚いた、CAPSULEの実験的なアプローチ」より。
  650. ^ 講談社刊『ニッポンの音楽』佐々木敦著pp.217-219より。
  651. ^ 竹書房刊『私も「ヴィジュアル系」だった頃。』市川哲史著p.325より。
  652. ^ 市川哲史 2014, p. 165
  653. ^ 日経BP刊「日経エンタテインメント! 80's名作Special」pp.92-93より。
  654. ^ 市川哲史 2014, p. 167,174
  655. ^ 市川哲史 2014, p. 167
  656. ^ 市川哲史 2014, p. 174
  657. ^ 市川哲史 2014, p. 179
  658. ^ 池田信夫 blog 2008年11月5日 小室哲哉シンドローム
  659. ^ 小室哲哉の名言「今年はレイヴが来る」を振り返る - 【B面】犬にかぶらせろ!」より。
  660. ^ a b “小室哲哉が生んだシンデレラストーリーとカラオケの関係性”. NEWSポストセブン. (2018年2月5日). https://www.news-postseven.com/archives/20180205_648813.html 2018年2月5日閲覧。 
  661. ^ ASCII.jp:日本生まれの初音ミク、アメリカ育ちのヒップホップ【前編】 (5/6)|四本淑三の「ミュージック・ギークス!」」より。
  662. ^ 扶桑社刊『すべてのJ-POPはパクリである〜現代ポップス論考』マキタスポーツ著pp.44-45より。
  663. ^ ぴあ 2015, p. 66
  664. ^ ぴあ 2015, p. 115
  665. ^ アルテスパブリッシング刊 『相倉久人にきく昭和歌謡史』相倉久人松村洋著pp.289-290より。
  666. ^ “『音楽評論家・鹿野淳「小室さんの音楽的な手法、遺伝子は今も残っている」』”. HUFFPOST. (2018年1月21日). http://www.huffingtonpost.jp/abematimes/kanojun_a_23339015/ 2018年1月21日閲覧。 
  667. ^ “浜田雅功をさらに躍進させたなど小室哲哉が残した数々の功績”. @niftyニュース. (2018年2月5日). https://web.archive.org/web/20180206002622/https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12180-649051/ 2018年2月5日閲覧。 
  668. ^ a b FACT刊「サラバ!平成狂想曲」p.157より。
  669. ^ “『小室哲哉が週刊文春より愛された理由』”. AERA dot.. (2018年1月27日). https://dot.asahi.com/dot/2018012600068.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=social 2018年1月27日閲覧。 
  670. ^ 「『小室事変』について、鈴木涼美から2、3の意見」より。
  671. ^ “ダンスの時代の幕開け 平成5年の「EZ DO DANCE」(trf)【柴那典 平成ヒット曲史】”. Bookbang. (2019年11月15日). https://www.bookbang.jp/heiseijpop/article/202 2020年6月2日閲覧。 
  672. ^ Pヴァイン刊『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』矢野利裕著pp.228-231, pp.233-234より。
  673. ^ 立東社刊『KB special』1996年8月号より。
  674. ^ リットーミュージック刊 『キーボード・マガジン』 2017年SUMMER号 p.69より。
  675. ^ CMJKオフィシャルブログ 『LOST CONTROL』 『SEVEN DAYS WAR その1』より。
  676. ^ principalcmjkの2012年10月16日20時20分のツイート- X(旧Twitter)
  677. ^ principalcmjkの2014年7月19日1時15分のツイート- X(旧Twitter)
  678. ^ 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年3月号p.95より。
  679. ^ “小室哲哉引退は「日本人クリエイター」にとって何を意味するのか? ☆Taku Takahashiに聞いた”. block.fm. (2018年1月19日). https://block.fm/news/tetsuyakomuro_career 2018年1月19日閲覧。 
  680. ^ 『小室哲哉さん曲、アレンジ | 音楽制作会社ネクスト・デザイン代表コラム』より。
  681. ^ エムオン・エンタテインメント刊『リスアニ!』Vol.1 p.108より。
  682. ^ エムオン・エンタテインメント刊『リスアニ!』Vol.4.1 pp.82-88より。
  683. ^ エムオン・エンタテインメント刊『リスアニ!』Vol.4 p.120より。
  684. ^ 平井堅 純国産R&Bの金字塔「JAPANESE SINGER」特集・インタビュー」より。
  685. ^ ASCII.jp:「カタギでも音楽は出来る」 ニコ動・ペンプロさんの決意 (2/7)」より。
  686. ^ 日本テレビ系列ZIP!』2013年11月8日分のゴールデンボンバーインタビューより。
  687. ^ “小室哲哉×tofubeats 対談実現! J-POPとダンス・ミュージックの幸福な関係”. rockinon.com. (2015年2月10日). https://rockinon.com/feat/komurotetsuya_tofubeats_201502/page:1 2015年2月10日閲覧。 
  688. ^ “tofubeatsインタビュー「僕は毎回、最後だと思ってやってる」と語る彼の最新作『POSITIVE』とは?”. T-SITEニュース. (2015年9月11日). https://web.archive.org/web/20150914225309/http://top.tsite.jp/news/j-pop/i/25375613/ 2015年9月11日閲覧。 
  689. ^ tofubeats、小室哲哉は「J-POPの大先輩、というかJ-POPそのもの」コラボ曲の試聴開始より。
  690. ^ “関ジャニ∞にヒャダインがTKサウンドの魅力を説く 丸山隆平「こういう観点で見たことなかった」”. Real Sound. (2015年10月5日). http://realsound.jp/2015/10/post-4764.html 2015年10月5日閲覧。 
  691. ^ 毎日新聞(大阪版)」2018年9月8日号夕刊p.2「『わたしの90年代』TKサウンド×音楽クリエーター・ヒャダインさん 日本をとりこにした『違和感』」より。
  692. ^ “小室哲哉×BiSH運営(松隈ケンタ&渡辺淳之介)インタビュー”. billboard Japan. (2016年3月8日). http://www.billboard-japan.com/special/detail/1590 2016年3月8日閲覧。 
  693. ^ シンコーミュージック・エンタテイメント刊『B-PASS ALL AREA』Vol.4より。
  694. ^ 「【BRIAN SHINSEKAI インタビュー】80〜90年代のポップスとEDM以降をつなぐアーティストは自分でも面白いと思う」より。
  695. ^ “作詞家 zoppに聞く、平成カラオケソングの傾向「歌うのが難しい曲の方がたくさん歌われている」”. Real Sound. (2018年12月28日). https://realsound.jp/2018/12/post-298711.html 2019年2月15日閲覧。 
  696. ^ 朝日新聞』1998年1月9日付夕刊、7頁。参考
  697. ^ 秋元康氏、作詞家売上日本一に 総売上6859.1万枚で阿久悠さん上回る”. オリコン (2013年2月28日). 2013年4月7日閲覧。
  698. ^ 麻生香太郎 1997, p. 62-63
  699. ^ 麻生香太郎 1997, p. 64
  700. ^ 麻生香太郎 1997, p. 66-67
  701. ^ 麻生香太郎 1997, p. 70-72
  702. ^ 角川書店刊「CDでーた」1999年12月5日号「J-POP MUSIC LIFE '90→'00」p.92より。
  703. ^ 朝日新聞社刊「読むJ-POP 1945-2004」田家秀樹著pp.306-307より。
  704. ^ ディスクユニオン刊 「作編曲家 大村雅朗の軌跡 1951-1997」 ・田渕浩久著より。
  705. ^ “今、J-POPとは何か?「リズム」から見えてくる2010年代の変化”. 現代ビジネス. (2019年12月18日). https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69027 2019年12月18日閲覧。 

参考文献

関連項目

外部リンク