「赤城宗徳」の版間の差分
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
m Cewbot: ウィキ文法修正 104: Unbalanced quotes in ref name |
||
55行目: | 55行目: | ||
[[農林水産大臣|農林大臣]](第25・32-34・42代)、[[防衛大臣|防衛庁長官]](第11代)、[[内閣官房長官]](第17代)、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](15期)、[[茨城県議会|茨城県会]]議員、[[茨城県]][[上野村 (茨城県真壁郡)|上野村]]長、[[自由民主党政務調査会#政務調査会長|自由民主党政務調査会長]](第13代)、同[[自由民主党総務会#総務会長|総務会長]](第8代)、同[[自由民主党幹事長#補佐役|副幹事長]]、同茨城県支部連合会会長などを歴任<ref name="広報うしく120101"/><ref name="コトバンク">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%20%E5%AE%97%E5%BE%B3-1636877|title=赤城 宗徳|accessdate=2023-11-29|website=[[コトバンク]]|publisher=DIGITALIO}}</ref>。 |
[[農林水産大臣|農林大臣]](第25・32-34・42代)、[[防衛大臣|防衛庁長官]](第11代)、[[内閣官房長官]](第17代)、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](15期)、[[茨城県議会|茨城県会]]議員、[[茨城県]][[上野村 (茨城県真壁郡)|上野村]]長、[[自由民主党政務調査会#政務調査会長|自由民主党政務調査会長]](第13代)、同[[自由民主党総務会#総務会長|総務会長]](第8代)、同[[自由民主党幹事長#補佐役|副幹事長]]、同茨城県支部連合会会長などを歴任<ref name="広報うしく120101"/><ref name="コトバンク">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%20%E5%AE%97%E5%BE%B3-1636877|title=赤城 宗徳|accessdate=2023-11-29|website=[[コトバンク]]|publisher=DIGITALIO}}</ref>。 |
||
弟は[[日本放送協会|NHK]]専務理事を務めた赤城正武<ref name="コトバンク"/>、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた[[赤城徳彦]]<ref name="コトバンク/>。 |
弟は[[日本放送協会|NHK]]専務理事を務めた赤城正武<ref name="コトバンク"/>、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた[[赤城徳彦]]<ref name="コトバンク" />。 |
||
== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
2023年12月11日 (月) 01:11時点における版
赤城 宗徳 あかぎ むねのり | |
---|---|
生年月日 | 1904年12月2日 |
出生地 | 茨城県真壁郡上野村(現・筑西市) |
没年月日 | 1993年11月11日(88歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科 |
所属政党 |
(無所属→) (翼賛政治会→) (護国同志会→) (日本協同党→) (無所属→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党(岸派→椎名派→河本派) |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 紺綬褒章 衆議院永年在職議員 法学士 |
配偶者 | 妻・赤城ヒサ |
親族 | 孫・赤城徳彦 |
第25・32-34・42代 農林大臣 | |
内閣 |
第1次岸改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 第3次池田改造内閣 第1次佐藤内閣 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 |
1957年7月10日 - 1958年6月12日 1963年7月18日 - 1965年6月3日 1971年7月5日 - 1972年7月7日 |
第11代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
第17代 内閣官房長官 | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
選挙区 |
(茨城県第3区→) 旧茨城3区 |
当選回数 | 15回 |
在任期間 |
1937年4月30日 - 1938年2月14日 1942年4月30日 - 1945年12月18日 1952年10月1日 - 1976年12月9日 1979年10月7日 - 1990年1月24日 |
茨城県会議員 | |
在任期間 | 1935年[1] - 1944年[1] |
その他の職歴 | |
茨城県上野村長 (1931年[1] - 1945年[1]) | |
第13代 自由民主党政務調査会長 総裁:佐藤栄作 (1965年 - 1966年) | |
第8代 自由民主党総務会長 総裁:池田勇人 (1961年 - 1963年) |
赤城 宗徳(あかぎ むねのり、1904年〈明治37年〉12月2日 - 1993年〈平成5年〉11月11日)は、日本の政治家、教育者、剣道範士。栄典は正三位勲一等。
農林大臣(第25・32-34・42代)、防衛庁長官(第11代)、内閣官房長官(第17代)、衆議院議員(15期)、茨城県会議員、茨城県上野村長、自由民主党政務調査会長(第13代)、同総務会長(第8代)、同副幹事長、同茨城県支部連合会会長などを歴任[1][2]。
弟はNHK専務理事を務めた赤城正武[2]、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた赤城徳彦[2]。
来歴・人物
茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主を務めた家に生まれる。若くして父康助[3]を失い、母むめと祖父喜八郎に育てられる。
旧制下妻中学校卒業。旧制水戸高等学校を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。地元の上野村長を経て、1937年衆議院議員総選挙に立候補し初当選する[4]。しかし、その翌年選挙費用の超過により、裁判で「当選無効」となり[5]、衆議院議員を失職する[6]。1942年の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け再選する。当選後、岸信介率いる護国同志会、その後は日本協同党に所属して活動するが、戦後、公職追放を受ける。その最中に行われた1947年の第1回統一地方選挙では妻のヒサが上野村長に当選し、全国で3人生まれた女性首長の一人となった[注釈 1]。
1952年、追放解除後の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選、政界に復帰する。政界に復帰後は吉田茂政権打倒に動き、1954年自由党を離党し鳩山一郎を総裁とする日本民主党に参加した。その後、1955年、保守合同にともない自由民主党に参加、岸派に属した。
1957年、第1次岸内閣の農林大臣として初入閣する。農相に就任した赤城を待ち受けていたのが日ソ漁業交渉であり、赤城は、イシコフ・ソ連漁業大臣との間に「100日漁業交渉」と呼ばれる激烈な交渉を繰り広げた。この漁業交渉がきっかけとなって、後年赤城は日ソ親善協会会長を務める。第2次岸内閣で内閣官房長官、そして、日米安保条約改定をめぐる政局では、1959年第2次岸改造内閣にて主務大臣である防衛庁長官に就任する。1960年、安保闘争に際して反対する数万人規模のデモが連日国会を囲む中、首相岸信介に自衛隊の治安出動を打診されるが、“自衛隊が国民の敵になりかねない”と反対したことで知られる。
1962年、岸が派閥を福田赳夫に譲る言動を取るとそれに猛反発し、川島正次郎、椎名悦三郎らと川島派を結成し岸と決別。川島派を継いだ椎名派が解散した後は三木→河本派に加わった。総務会長時には将来総理となる官房長官大平正芳に「法案の閣議決定の前に総務会にご連絡願いたい」という書簡を送り現状の自民党のシステムを作った。1964年6月、下館市民会館建設費として10万円寄付により1966年2月12日紺綬褒章受章[8][9]。1971年、第3次佐藤改造内閣でも農林大臣を務める。1975年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。1976年の総選挙で落選するが、1979年に国政復帰。1990年に政界を引退し、地盤を(当時農林水産省の官僚だった)孫の徳彦に譲る。
霞ヶ浦高等学校の校長を1956年から1990年まで務めた。1956年から1967年までは学校法人霞ヶ浦高等学校の理事長も兼務した。
1993年11月11日死去、88歳。死没日をもって正三位に叙され、銀杯一組を賜った[10]。
著書
- 『その後』鳥羽書房、1938年。NDLJP:1080450。
- 南方圏を視る (長谷長次共著 新日本同志会 1941年)
- パプアの農業建設 ニューギニア開発の方針 (南方建設中央研究所 1943年)
- 『苦悩する農村 農業問題管見』万有社、1953年。NDLJP:2502850。
- わが百姓の記 (平凡社 1958年)
- 『ラテン・アメリカの旅より』全国拓植農業協同組合連合会、1958年。NDLJP:2986334。
- 平将門 (産業経済新聞社 1960年、角川選書 1970年)
- 将門記 真福寺本評釈 (サンケイ新聞出版局 1964年)
- ふるさとの心 (共同通信社開発局, 1966年)
- 記者席からみた国会十年の側面史 安保から安保まで (鈴木孝信共編 サンケイ新聞社出版局 1969年)
- あの日その時 (文化総合出版 1971年)
- 将門地誌 (毎日新聞社 1972年)
- 今だからいう (文化総合出版 1973年)
- 初心生涯 (文化総合出版 1975年)
- 赤城宗徳と平将門 (楡の木会 1976年6月)
- 『素顔のソ連邦』徳間書店、1980年12月。NDLJP:11926983。
- 『日ソ関係を考える 激動の大正・昭和を生きて』新時代社、1982年4月。NDLJP:11926841。
- 私の平将門 (崙書房 1983年11月)
- わが百姓の記 日本の農業と農村を想う(筑波書林、1985年)、小冊子
系譜
- 赤城氏
中曽根康弘 ┃ ┣━━━┳美智子 ┃ ┃ 小林儀一郎━━━蔦子 ┃ ┗美恵子 ┏渥美昭夫 ┃ ┃ ┃ 渥美育郎━━━╋渥美謙二 ┃ ┃ ┃ ┗渥美健夫 ┃ ┃ ┏渥美直紀 ┣━━┫ ┃ ┗渥美雅也 ┏伊都子 ┃ 鹿島守之助 ┃石川六郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣よし子 鹿島精一 ┣━━━━┫ ┃ ┃ ┃平泉渉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━卯女 ┣三枝子 ┃ ┃ ┃ ┃ 鹿島岩蔵━━いと ┗鹿島昭一 ┃ ┃ ┏公子 梁瀬長太郎━梁瀬次郎━━━━┫ ┗弘子 ┃ ┃ ┏━━━━稲山孝英 稲山伝太郎━稲山嘉寛━━━┫ ┗━━━━稲山繁孝 ┃ 赤城喜八郎━━赤城康助 ┃ ┃ ┏━━赤城正武━━博子 ┣━━━┫ ┃ ┗━━赤城宗徳 むめ ┃ ┣━━━━━━赤城毅彦━━━赤城徳彦 ┃ ヒサ
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 『広報うしく 2012年1月1日号』(PDF) 1064巻、牛久市市民活動課、2012年1月1日、16頁 。2023年11月29日閲覧。
- ^ a b c “赤城 宗徳”. コトバンク. DIGITALIO. 2023年11月29日閲覧。
- ^ http://kingendaikeizu.net/seizi/akagi.htm
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 9頁。
- ^ 『茨城の国会議員列伝』100頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』426頁。
- ^ 『明野町史』1244頁。
- ^ 筑西市名誉市民
- ^ 『官報』第11756号9-13頁 昭和41年2月21日号
- ^ 『官報』第1296号8-9頁 平成5年12月8日号
参考文献
- 明野町史編さん委員会編『明野町史』明野町、1985年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 市村眞一著『茨城の国会議員列伝』崙書房出版、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、9-10頁)
関連項目
議会 | ||
---|---|---|
先代 林百郎 |
衆議院懲罰委員長 1980年 - 1981年 |
次代 中野四郎 |
公職 | ||
先代 倉石忠雄 重政誠之 井出一太郎 |
農林大臣 第42代:1971年 - 1972年 第32-34代:1963年 - 1965年 第25代:1957年 - 1958年 |
次代 足立篤郎 坂田英一 三浦一雄 |
先代 伊能繁次郎 |
防衛庁長官 第11代:1959年 - 1960年 |
次代 江﨑真澄 |
先代 愛知揆一 |
内閣官房長官 第19代:1958年 - 1959年 |
次代 椎名悦三郎 |
党職 | ||
先代 周東英雄 |
自由民主党政務調査会長 第13代:1965年 - 1966年 |
次代 水田三喜男 |
先代 保利茂 |
自由民主党総務会長 第8代:1961年 - 1963年 |
次代 藤山愛一郎 |