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2020年12月26日 (土) 10:33時点における版
有田 喜一(ありた きいち、1901年4月30日 - 1986年2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員選挙に通算9回当選した。
経歴
兵庫県氷上郡氷上町(現在の丹波市)出身。柏原中学、八高を経て、東京帝国大学経済学部出身。政界入りする前は逓信省大阪逓信局長や運輸省海運総局長を歴任した官僚だった。政治家となってからは芦田均と行動をともにしたが、保守合同により自由民主党が結成されると旧芦田派の一部とともに岸派に入り、岸派の分裂後は福田派に属した。福田赳夫の右腕といわれ、福田が自民党幹事長を務めていた1966年その下で党経理局長を務めた。衆議院石炭対策特別委員会委員長などを経て、1966年第1次佐藤内閣第2次改造内閣で文部大臣兼科学技術庁長官として初入閣。1968年第2次佐藤内閣第2次改造内閣に防衛庁長官として入閣。1972年第1次田中角榮内閣に経済企画庁長官として3度目の入閣をした。1976年の衆院選で落選し引退。
1973年勲一等旭日大綬章受章。
実直かつ寡黙な性格で知られ、外航船舶建造利子補給法の立案者でありながら、その立法をめぐる造船疑獄に全く無関係だった。
年譜
- 1922年 第八高等学校文科甲類卒業
- 1925年:東京帝国大学経済学部を卒業、逓信省に入省。
- 鳥取郵便局長
- 札幌逓信局業務課長
- 1935年7月:逓信局業務課長
- 1936年10月:東北振興電力株式会社監理官
- 1937年6月:逓信省電気局監理課長
- 1939年4月:電気庁長官総務課長
- 1939年8月:逓信省大臣官房文書課長
- 1941年6月:逓信省大臣官房蔵書課長
- 1941年10月:大阪通信局長
- 1944年5月:運輸逓信省海運総局総務局長
- 1945年8月:運輸省海運総局海運局長
- 1946年2月:運輸省海運総局長官
- 1947年:船舶公団総裁
- 1948年:芦田内閣の下で内閣官房次長に就任。
- 1949年:民主党公認で衆議院総選挙に立候補し初当選。
- 1966年:第1次佐藤内閣第2次改造内閣に文部大臣兼科学技術庁長官
- 1968年:第2次佐藤内閣第2次改造内閣に防衛庁長官
- 1972年:第1次田中角榮内閣に経済企画庁長官として3度目の入閣。当初入閣を拒んだため田中首相が長官を兼務したが、その後福田の説得で入閣。
- 1976年:総選挙に落選し政界から引退。
- 1977年:日本海運振興会の会長に就任。
- 1986年2月9日:心不全のため死去。享年84。
エピソード
- 船舶公団総裁時代に、第1次計画造船の推進役として戦後の造船業復興にあたった。
- 防衛庁長官時代に第4次防衛力整備計画を編成し、初の国防白書を公表した。
- 同じ運輸省だった佐藤栄作と共に吉田茂や松野鶴平から政界入りを誘われたが、実兄の岸信介の薦めもあって自由党からの出馬を選んだ佐藤に対し、有田は芦田首相下で官房次長を務めた手前もって民主党から出馬。共に1949年衆院選で当初選を飾った。なお他に同期として池田勇人・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二などがいる。