「岡田茂 (東映)」の版間の差分
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{{内容過剰|date=2012年7月7日 (土) 17:02 (UTC)}} |
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{{Otheruseslist|映画プロデューサー・東映元社長の岡田茂|[[三越]]の元社長の岡田茂|岡田茂 (三越)|脚本・演出家の岡田茂|岡田茂 (脚本・演出家)}} |
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{{ActorActress |
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'''岡田 茂'''(おかだ しげる、[[1924年]][[3月2日]] - [[2011年]][[5月9日]]<ref name=fuho>[http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20110509k0000e040025000c.html 訃報:岡田茂さん87歳=東映名誉会長] 毎日.jp 2011年5月9日閲覧</ref>)は、[[日本]]の[[映画プロデューサー]]。元[[東映]]・[[東急レクリエーション]]社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て[[2006年]]7月から再び東映名誉会長。また、[[2008年]]4月より[[東京急行電鉄]]取締役を務めた。 |
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| 芸名 = 岡田 茂 |
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| ふりがな = おかだ しげる |
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| 愛称 = |
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| 画像ファイル = Ten-Years-of-Toei-1.jpg |
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| 画像サイズ = 200px |
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| 画像コメント = {{small|『東映十年史』(1962年)より}} |
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| 本名 = 岡田 茂 |
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| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> |
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| 出生地 = [[広島県]][[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[西条町 (広島県)|西条町]](現・[[東広島市]]西条) |
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| 死没地 = [[東京都]] |
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| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> |
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| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> |
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| 身長 = |
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| 血液型 = |
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| 生年 = 1924 |
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| 生月 = 3 |
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| 生日 = 2 |
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| 没年 = 2011 |
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| 没月 = 5 |
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| 没日 = 9 |
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| 職業 = [[映画プロデューサー]] |
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| ジャンル = [[映画]] |
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| 活動期間 = |
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| 活動内容 = [[1947年]]:[[東横映画]]に入社<br />[[1971年]]:[[東映]]の代表取締役に就任<br />[[2006年]]:東映名誉会長に再任<br />[[2008年]]:[[東京急行電鉄]]取締役 |
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| 配偶者 = |
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| 著名な家族 = [[岡田裕介]](長男)<br />[[高木美也子]](長女)<!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 --> |
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| 所属劇団 = |
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| 事務所 = |
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| 公式サイト = |
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| 主な作品 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演男優(女優)賞を受賞したような役の作品を入力 --> |
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| アカデミー賞 = |
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| AFI賞 = |
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| 英国アカデミー賞 = |
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| セザール賞 = |
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| エミー賞 = |
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| ジェミニ賞 = |
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| ゴールデングローブ賞 = |
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| ゴールデンラズベリー賞 = |
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| ゴヤ賞 = |
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| グラミー賞 = |
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| ブルーリボン賞 = |
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| ローレンス・オリヴィエ賞 = |
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| 全米映画俳優組合賞 = |
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| トニー賞 = |
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| 日本アカデミー賞 = |
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| その他の賞 = |
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| 備考 = |
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'''岡田 茂'''(おかだ しげる、[[1924年]]〈[[大正]]13年〉[[3月2日]]<!---{{R|toei1195665_1133}}---> - [[2011年]]〈[[平成]]23年〉[[5月9日]]<!---<ref name="毎日新聞20110509web_訃報" />--->)は、[[日本]]の[[映画プロデューサー]]。[[東映]]・[[東急レクリエーション]]社長{{R|東急100年史}}、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て[[2006年]]7月から再び東映名誉会長{{Refnest|group="出典"|{{R|tvasahi200711|nikkei1105|kinejun240303|社長たちの映画史_524-528}}}}。また、[[2008年]]4月より[[東急|東京急行電鉄]]取締役を務めた{{R|toei1195665_1133}}。 |
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[[東映]]"[[中興の祖]]"で{{Refnest|group="出典"|{{R|hochi200711|postseven20131229|広島県人会|あかんやつら|あかん_92|読売新聞20110513web_悼む|ZAKZAK20110509_死去|プレミアムサイゾー20140306|nikkansports110509}}}}、[[松竹]]の[[城戸四郎]]、[[東宝]]の[[森岩雄]]が一線を退いてからは「[[日本映画]]界のドン」であり{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|広島県人会|imidas|ドン|toeich2024|シネマトゥデイ20110511_葬儀|オリコン20110511web_葬儀|deagostini|映画人_122|追悼<!---|社長たちの映画史_524-528|東映キネマ旬報_17|秘宝201107_52--->}}}}、東映はもとより[[日本映画|日本映画界]]を牽引{{R|kinejun240303}}、戦後日本の娯楽産業を創った人物の一人である{{Refnest|group="出典"|{{R|追悼|ニッカン20110510_22-24|nhk110509|波瀾万丈|佛田洋|産経MSN20110514_産経抄|あかん_95|nerima-eizobunka230919}}}}。1971年の東映映画本部長兼テレビ本部長就任以降、1993年の東映会長就任まで、東映映像作品制作の陣頭指揮を執った{{Refnest|group="出典"|{{R|nerima-eizobunka230919|日経BP20060203_岡田茂|animeanime.biz8609}}}}。[[広島県]][[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[西条町 (広島県)|西条町]](現・[[東広島市]]西条)出身{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|波瀾_11-27|toei70th_94|中国放送20000429_ふるさと|東広島}}}}。東広島市[[名誉市民]]{{R|toei1195665_1133}}。 |
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[[松竹]]の[[城戸四郎]]、[[東宝]]の[[森岩雄]]が一線を退いてからは「[[日本映画]]界のドン」であり<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/87533/full/ “日本映画界のドン”岡田茂さん葬儀・告別式に2100人が参列 ]<br />[http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201105100043.html asahi.com(朝日新聞社) 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00294.htm?from=related 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110512-OHT1T00002.htm?from=related 魂受け継ぐ!仲村トオル「伝えていかなければ」…岡田茂・東映名誉会長告別式]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00018.htm 「男の美学」岡田茂氏、家族以外の見舞い断る…東映・樋口顧問明かす]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110510-OHT1T00012.htm 志穂美悦子さん、海外映画祭で空手の相手に…岡田茂氏死去]<br />[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/81379.html 東映の岡田茂名誉会長 死去]<br />[http://www.cinematoday.jp/page/N0032205 日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る]<br />[http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/05/09/20110509k0000e040056000c.html 岡田茂さん死去:戦後映画界のドン 斬新企画、経営近代化 - 毎日jp ]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00005.htm 「日本映画界のドン」東映・岡田茂名誉会長が死去:芸能特集:スポーツ報知]<br />[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110509/enn1105091555017-n1.htm “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で]<br />[http://www.animeanime.biz/all/115101/ 岡田茂氏死去 東映名誉会長 東映アニメ取締役] |
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<br />{{Cite news|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201105120018.html|title=岡田茂氏葬儀 2100人が別れ - 中国新聞|publisher=[[中国新聞]]|date=2011年5月12日}}<br />[http://www.zenkoren.or.jp/pdf/news3.pdf 現名誉会長、岡田茂氏逝去. 日本興行ニュース]<br />[[毎日新聞]]、2011年5月19日17面<br />[[佐藤忠男]]『日本の映画人 -日本映画の創造者たち-』、[[日外アソシエーツ]]、2007年、p122<br />別冊宝島1672『天皇と呼ばれた男たち』2010年1月、p123</ref>、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である<ref name="日刊スポーツ2011510">[[日刊スポーツ]]、2011年5月10日22-24面([http://www.nikkansports.com/iphone/entertainment/news/p-et-tp1-20110510-773486_iphone.html 日刊スポーツ2011年5月10日])</ref>。[[広島県]][[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[西条町 (広島県)|西条町]](現・[[東広島市]]西条)出身<ref name="岡田茂自伝1127">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、[[角川書店]]、2004年、p11-27</ref>。 |
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長男は、[[映画プロデューサー]]で東映社長・会長の[[岡田裕介]]{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|ドン|岡田裕介|pia201121|zakzak201112}}}}。長女は、[[生命倫理学]]者でコメンテーターの[[高木美也子]]{{Refnest|group="出典"|{{R|tvasahi200711|toei1195665_1133|ドン|nikkan_773480}}}}。声優・ナレーターの[[政宗一成]]は[[従甥]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.munnc.com/New/prof/prf000_Masamune3.htm|title=政宗一成 現59歳の生い立ち|publisher=夢吽空|accessdate=2017-10-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090105173700/http://www.munnc.com/New/prof/prf000_Masamune3.htm|archivedate=2009-01-05|url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>。 |
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長男は、映画『[[赤頭巾ちゃん気をつけて#映画|赤頭巾ちゃん気をつけて]]』や『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』などで知られる元[[俳優]]で現東映社長の[[岡田裕介]]。長女は、[[生命倫理学]]者でコメンテーターの[[高木美也子]]。 |
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== 経歴== |
== 経歴== |
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=== 少年時代 === |
=== 少年時代 === |
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[[ファイル:Saijo sakagura okadasyuhan.jpg|250px|right|thumb|生家「岡田酒販」。[[西条酒蔵通り]]に面した場所にある。]] |
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中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた<ref name="岡田茂自伝1127"/><ref name="私の履歴書38">『私の履歴書 経済人38』、p75</ref><ref name="pressnet">[http://www.pressnet.co.jp/2011_05/110521_01.shtml 巨星墜つ 岡田茂氏が死去 東映名誉会長・東広島名誉市民]</ref>。旧制広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島国泰寺高校]])では[[柔道]]に熱中。卒業後は[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現・[[広島大学]])に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のち[[シナリオ]]を読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を[[首席]]で卒業、[[1944年]][[東京大学|東京帝国大学]]経済学部に入学するも待ち構えていたのは[[学徒出陣]]。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の[[仙台空港]]内)で[[戦闘機]]の整備の任務に就いた。当地は[[グラマン]]に爆撃され[[宮城県]][[古川市|古川町]](現在の[[大崎市]])に疎開。[[1945年]][[8月15日]]、終戦を告げる[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した<ref name="岡田茂自伝1127"/><ref name="風雲映画城2932">[[松島利行]]『風雲映画城 下』、[[講談社]]、1992年、p29-32</ref>。 |
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一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_11-27|toei70th_94|私の履歴書_75|プレスネット20110521_巨星墜つ|社長たちの映画史_174-178}}}}。7歳の時、子宝に恵まれない、父の弟夫妻の家に[[養子]]に入る{{R|toei70th_94}}。中学の頃から[[身長]]が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた[[番長#キャラクター類型としての番長|番長]]だった{{R|toei70th_94}}。旧制広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島国泰寺高校]])では[[柔道]]に熱中。[[柔道#段級位制|柔道四段]]{{R|読売新聞20110513web_悼む}}。卒業後は[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現・[[広島大学]])に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のち[[シナリオ]]を読むのに役立ち{{Refnest|group="出典"|{{R|zakzak201112|秘宝201107_52}}}}、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を[[首席]]で卒業{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|私の履歴書_26-28}}}}、[[1944年]][[東京大学|東京帝国大学]]経済学部に入学するも待ち構えていたのは[[学徒出陣]]{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|toei70th_94|東映キネマ旬報_17}}}}。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の[[仙台空港]]内)で[[戦闘機]]の整備の任務に就いた{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|東映キネマ旬報_17}}}}。当地は[[グラマン]]に爆撃され[[宮城県]][[古川市|古川町]](現在の[[大崎市]])に疎開{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|東映キネマ旬報_17}}}}。[[1945年]][[8月15日]]、終戦を告げる[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]を小学校の校庭で直立不動で聞く{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|東映キネマ旬報_17}}}}。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した{{R|波瀾_11-27}}。 |
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終戦後復学。東大経済学部の学友会である[[経友会]]を、[[日本共産党]]が牛耳ろうとするのを猛者を率いて大学の左傾化を阻止した |
終戦後復学。[[共産主義]]の嵐が吹き荒れる中、[[反共主義|反共]]ののろしを上げ{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|悔いなき_318-338}}}}、東大経済学部の学友会である[[経友会]]を、[[日本共産党]]が牛耳ろうとするのを[[木暮剛平]]ら同期の猛者を率いて止め、大学の[[左翼|左傾化]]を阻止した{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|波瀾_11-27}}}}。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることが理不尽だから立ち上がったとしている{{R|私の履歴書_29-32}}。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した{{R|波瀾_24-27}}。その後も[[深作欣二]]を監督に日本共産党に[[前売り#前売り券|前売券]]を購入してもらおうと[[いつかギラギラする日#同タイトルの別企画|『実録日本共産党』を企画する]]など、右も左もない、イデオロギーで仕事はできないと話している{{Refnest|group="出典"|{{R|私の履歴書_29-32|深作欣二_453|男気_20}}}}。 |
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=== 東映入社 - 草創期 === |
=== 東映入社 - 草創期 === |
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[[ |
卒業後は、官庁や銀行は性に合わず、[[製造業]]がいいと、親類のいた郷里の東洋工業(現・[[マツダ]])か、工場が出来たばかりの[[キリンビール広島工場|麒麟麦酒広島工場]]への就職を考えていたが{{R|私の履歴書_9-11}}、日本中が着の身着のままだったから、同郷の[[永野護 (政治家)|永野護]]→[[桜田武]]を紹介してもらい[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]への就職を第一希望にした{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|私の履歴書_9-11|メッセージjp20050515_岡田茂}}}}。<!---東横映画に先に入社していた--->しかし小学生からの幼馴染[[今田智憲]]に誘われ{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|社長たちの映画史_174-178|pressnet08}}}}<!---[[東急電鉄]]元専務で--->、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_174-178|異端の映像_13-42}}}}[[東横映画]]社長・[[黒川渉三]]の自宅に行くと[[マキノ光雄]]、伊藤義、[[浅岡信夫]]ら東横の幹部が[[すき焼き]]をつついて将来を話し合っていて<!---<ref name="私の履歴書_9-11"/>--->、黒川から「女子工員の管理しかないようなつまらない商売はやめておけ、これからは娯楽産業だ。中でも映画だ。俺は映画会社を作る。お前はそこに就職すべきだ。『鶏口となるも牛後となるなかれ』だよ、岡田くん」と誘われ{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|pressnet08|あかん_93}}}}、他の幹部らにも激しく説得された{{Refnest|group="出典"|{{R|en-taxi200509_83|映画人_122|キネ旬1969062_126-128}}}}。特に豪放磊落なマキノの人柄に惹かれ{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_174-178|東映キネマ旬報_17}}}}、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|imidas|toei70th_94|私の履歴書_9-11|nerima-eizobunka230919}}}}。黒川の言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は[[大陸浪人]]たちが蝟集する旧[[満洲映画協会|満映]]系の残党を中核として{{R|東映キネマ旬報_17}}、元々[[京都]]で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者{{R|日経BP20060203_岡田茂}}。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた{{R|クロニクル2_1-8}}。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。 |
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。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた<ref name="クロニクル東映Ⅱ18">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p1-8</ref>。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。 |
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[[1947年]]、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた |
[[1947年]]10月、雑用係(東横映画京都撮影所製作部製作課事務員)からキャリアをスタートさせたが{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34}}}}、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|それでも_149}}}}。製作進行係として最初に担当した[[マキノ雅弘]]監督の『[[金色夜叉#映画版|金色夜叉]]』(1948年)の撮影のとき、[[エキストラ]]のトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという{{Refnest|group="出典"|{{R|メッセージjp20050515_岡田茂|ごきげん映画人生_165_184-190|風雲_19-20}}}}。当時、製作のトップにいた[[マキノ光雄]]に師事{{R|toei70th_94}}。翌[[1948年]]4月、24歳で製作主任に昇格{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|toei70th_94|キネ旬1984041_143-145}}}}。小さな会社で出世も早かった{{R|社長たちの映画史_174-178}}。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と[[鎮魂]]の思いを込めて戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|読売新聞20110513web_悼む|nhk110509|東映キネマ旬報_17|風雲_29-32|クロニクル1_18-19_21|toei70th_61}}}}。[[山本薩夫]]監督で映画化しようと[[東宝]]が動いていたが、岡田が先に映画化権を買った{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_174-178|私の履歴書_34-41}}}}。[[東京大学]][[全日本学生自治会総連合]]の急先鋒で[[日本戦没学生記念会|わだつみ会]]の会長だった[[氏家齊一郎]]や、副会長だった[[渡邉恒雄]]が「[[天皇制]]批判がない」とクレームを付けたり{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_174-178|toei70th_94|私の履歴書_34-41}}}}、会社の看板スターで役員でもあった[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|社長たちの映画史_174-178|toei70th_94|東映キネマ旬報_17|メッセージjp20050515_岡田茂|キネ旬1984041_143-145}}}}。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった{{R|nikkan_773480}}。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り{{R|あかん_102}}、マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って[[1950年]]、映画は完成{{R|沢島忠全仕事_93-108}}。タイトルを『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』に変更し公開。珠玉の[[反戦]]映画、と評価を得て当時では最高の大ヒット{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|ドン|toei70th_94|東映キネマ旬報_17|toei70th_61|春秋sp_104}}}}、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが{{Refnest|group="出典"|{{R|zakzak201112|昭和の劇_141}}}}、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった{{R|風雲_29-32}}。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkan_773480|私の履歴書_34-41|川北}}}}。1948年、[[東映京都撮影所|京都撮影所]](以下、京撮)に従業員組合([[労働組合|労組]])が創立され書記長。翌[[1949年]]、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任{{R|私の30年_37-38}}。 |
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=== 課長昇進 - 撮影所長へ === |
=== 課長昇進 - 撮影所長へ === |
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1951年3月、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し'''東映'''として新しくスタート。社長には[[東京急行電鉄|東急]]専務で経理のプロ・[[大川博]]が就任し、徹底した[[コスト管理]]を推進。大川は京撮で独立王国を築くマキノがどんぶり勘定で映画製作を続けることが東映の[[黒字と赤字|赤字]]体質を招く最大の元凶と見なし{{R|社長たちの映画史_181-183}}、その力を削ぐため東京本社の製作部長に転任させた{{R|社長たちの映画史_181-183}}。マキノの京都復帰を求める[[クーデター]]を先導したのが岡田で{{R|社長たちの映画史_181-183}}、この騒動で岡田は一気に名を上げる{{R|社長たちの映画史_181-183}}。同年入社4年目、28歳で京撮製作課長に抜擢される{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|ドン|nerima-eizobunka230919|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34}}}}。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。所属していた製作部で一番年下なのにその長になり、親分肌で撮影現場を取り仕切る{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|toei70th_94}}}}。他社では50歳を超えなければ就けないポストであった{{R|社長たちの映画史_181-183}}。また従業員組合委員長にも推されて就任。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_181-183|toei70th_94|私の履歴書_46-48}}}}、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映の[[ゼネラルマネージャー]]のような存在となった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|映画人_122|異端の映像_13-42|toeich2024|日経BP20060203_岡田茂|社長たちの映画史_181-183|facebook私と東映神先頌尚_1|映画芸術2011_132}}}}。これを聞いた撮影所内は蜂の巣をつついたよう大騒ぎになった{{R|社長たちの映画史_181-183}}。所内の全員年上の部下たちを前に「今の東映は大ピンチです。私が上司になって『この野郎』と思う人もあるかもしれませんが、みんなの力が必要です。嫌な人は今すぐ言って下さい。すぐに[[部署]]を変えてもらいます。但し、製作は私の方針でやらせてもらいます」と演説{{R|社長たちの映画史_181-183}}。[[配転]]を申し出た者はおらず、京撮の現場実務の一切を掌握した{{R|社長たちの映画史_181-183}}。役者の[[ギャランティ|ギャラ]]査定についても片岡千恵蔵、市川右太衛門、両御大以外はすべて岡田に全権委任された{{R|toei70th_94}}。インタビューで「ずっとゼネラルプロデューサーとして、全体を統率していったんだ」と話す理由はここにある{{R|日経BP20060203_岡田茂}}。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_270-276|ごきげん映画人生_165_184-190|読んだ飲んだ_206-211|京都府生活協同組合連合会}}}}{{efn|[[丹波哲郎]]は「大川は映画のことは何も知らない」(『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』キネマ旬報社、1999年、p137)、[[菅原文太]]は「大川さんは企業家だったが映画を知らなかった。ご自分でそれを知っていて製作そのものにはタッチしなかった。東映に入ってから6年、大川さんにスタジオで逢った事がなかった。岡田さんと俊藤さんが映画を自由に作れるようにした」、[[深作欣二]]は「一回しか大川さんに逢ったことはない」と話している(『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』キネマ旬報社、1994年、p543)。[[俊藤浩滋]]は「大川が作ったのは『[[大いなる旅路]]』(1960年)くらいではないか」と述べている(『[[#任侠映画伝|任侠映画伝]]』p63)。[[中島貞夫]]は「大川博さんは(プロデューサーではなく)映画会社の経営者として、大変優れた人だったと思います」と話している([https://archive.ph/w4veU 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)](Archive))。[[日下部五朗]]は「大川さんは映画とは無縁で、製作の現場もまるで知らない。自分には映画はわからないと知っていたから、企画には口を出さず、ソロバンだけ見ていた」などと話している(『シネマの極道』p42)。大川は映画製作に直接関与することは少なく、会社を代表して「製作(総指揮)」としてクレジットされる存在([https://www.ritsumei.ac.jp/~hosoik/works/paper2010c.pdf 日本映画におけるプロデューサーシステムの歴史的変遷に関する一考察])。岡田自身は「大川社長は超ワンマンで、社長というより法皇的存在で、ぼくはその下にいて映画本部長として文字通り映画を作って売る。(組合問題などが起こる前までは)これに徹していれば役割は充分果たせた」と話している(『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』p76)。}}。大川は経理のプロではあったが、作りたい映画があるわけではなく、その力もない{{R|社長たちの映画史_270-276}}。それを自分で分かっていたから、映画の製作はマキノに任せていた{{R|社長たちの映画史_270-276}}。このため東映は東西の撮影所長に大きな権限が持たされていたため{{R|社長たちの映画史_270-276}}、岡田も撮影所長になることを目標に置いていた{{R|社長たちの映画史_270-276}}。大川にとって岡田は自分にできない映画製作をしてくれる貴重な人材だが、いつ寝首をかかれるか分からない警戒すべき部下でもあった{{R|社長たちの映画史_270-276}}。[[1951年]]の『[[風にそよぐ葦#映画|風にそよぐ葦 前後編]]』はクレジットにないが岡田のプロデュース作で{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|悔いなき_237}}}}、[[東映東京撮影所]]の第1作{{R|悔いなき_237}}。[[木暮実千代]]の大ファンだった岡田は、木暮の自宅に日参して出演交渉し{{R|木暮}}、熱血漢の岡田に木暮が好感を持ったことから{{R|悔いなき_237}}、木暮は東映の映画によく出るようになった{{R|木暮}}。劇場があまりないため[[東宝]]系の[[日本劇場|日劇]]で封切った。当時東映の幹部は東宝から引抜きに遭い、岡田も誘われた{{R|悔いなき_237}}。同年プロデュースした『[[八ツ墓村]]』は同小説最初の映像化{{R|私の履歴書_46-48}}。[[1952年]]、[[京都大学]][[法学部]]卒ながら、[[全日本学生自治会総連合|全学連]]で暴れていて大川社長以下、全員が反対した[[山下耕作]]を入社させる{{R|銀幕_97}}。山下は入社するやすぐ[[労働運動|組合運動]]を始めた。同年、大川社長より、製作予算の全管理を厳命される{{R|東映キネマ旬報_17}}。[[1954年]]から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|facebook私と東映神先頌尚_3}}}}。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。この陣頭指揮を執った{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|toei70th_94}}}}。[[1940年代]]後半の[[東宝争議]]で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した{{R|悔いなき_95}}。 |
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当時の[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオドラマ]]で人気だった[[新諸国物語]]の冒険活劇を題材に[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[大友柳太 |
当時の[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオドラマ]]で人気だった『[[新諸国物語]]』の冒険活劇を題材に[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[大友柳太朗]]主演の『[[笛吹童子]]』シリーズ、[[東千代之介]]主演の『[[里見八犬伝 (1954年の映画)|里見八犬伝]]』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkei1105|imidas}}}}。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした{{R|nikkei1105}}。また当時、[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長がマネージメントをし、[[松竹]]映画に出演していた[[美空ひばり]]をマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル2_1-8|美空ひばり}}}}。[[1956年]]には年間配給収入でトップとなった。 |
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[[1955年]]、アメリカ映画視察で観た[[スコープ・サイズ|シネマスコープ]]映画製作に意欲を燃やし[[1957年]]、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同 |
[[1955年]]、アメリカ映画視察で観た連結型のステージを京撮の新築ステージに導入することを提案し、No.9とNo.10に活用された{{R|toei70th_94}}。同じく視察で見た[[スコープ・サイズ|シネマスコープ]]映画製作に意欲を燃やし[[1957年]]、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年、マキノが志半ばにして死去{{R|社長たちの映画史_315-318}}。京撮製作部長として実権を握り{{R|社長たちの映画史_315-318}}、“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|社長たちの映画史_315-318|秘宝2_276-280}}}}。同年『忍術御前試合』で[[沢島忠]]を監督デビューさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝2_276-280|スポニチ20110510_17}}}}。また監督を目指して入社してきた[[日下部五朗]]を「体がでかい」という理由で無理やりプロデューサー修行させる{{Refnest|group="出典"|{{R|極道_26-27|shinchosha333231}}}}。1958年7月、[[神戸芸能社]]の[[田岡一雄]]社長と話し合い{{R|社長たちの映画史_315-318}}、それまでどの社の専属にもならなかった美空ひばりを東映の専属とした{{R|社長たちの映画史_315-318}}。[[1960年]]京撮所長{{Refnest|group="出典"|{{R|文化通信ジャーナル201106_34|toei70th_94|nerima-eizobunka230919}}}}。[[山城新伍]]主演で[[テレビ]]制作した『[[白馬童子]]』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk110509|秘宝201107_52}}}}。[[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]を高校卒業と同時に入社させた{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_188-190|NEWS24_20110510_思い出}}}}。[[1961年]]、[[萬屋錦之介|中村錦之助 (萬屋錦之介)]]主演・[[内田吐夢]]監督[[宮本武蔵シリーズ (内田吐夢監督作品)|『宮本武蔵』シリーズ]]の製作を決める{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|animeanime.biz8609|東映キネマ旬報_17|石井輝男_118-119}}}}。同年、[[吹き替え]]・[[スタントマン]]の重要性に気づき、日本最初のスタントマンともいわれる{{R|土橋亨}}[[宍戸大全]]を[[大映]]から引き抜く{{R|土橋亨}}。[[第二東映]]の失敗で[[労働運動|組合運動]]が激化{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|映画芸術448}}}}。1961年9月、京撮所長兼製作部長・美術部長・演技部長兼[[東映東京撮影所|東京撮影所]]長兼製作部長{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34}}}}。[[1962年]]10月、36歳の若さで東映[[取締役]]兼[[東映東京撮影所|東京撮影所]]長{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|nerima-eizobunka230919|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34|キネ旬1968121_38-41}}}}(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“[[太平洋のGメン#東映ギャング路線|現代アクション路線]]”で復活させる{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|nerima-eizobunka230919|toei70th_94|秘宝2_276-280|東映_任侠・実録|toei70th_1OO|深作欣二の軌跡_154|仁義沈没_102-244}}}}。この人事は表向きは低迷していた東撮の立て直しであるが{{R|社長たちの映画史_315-318}}、マキノ同様、岡田が京都で絶大な力を持ったことを大川が警戒したという見方もある{{R|社長たちの映画史_315-318}}。1957年に東映に入社した大川の息子・[[大川毅 (実業家)|大川毅]]を自身の後継者にしたい大川博にとって岡田は、東映に欠かせない有能な人材であると同時に息子の最大のライバルでもあった{{R|社長たちの映画史_315-318}}。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。[[佐伯孚治]]、[[鷹森立一]]というベテランを監督デビューさせた反面{{R|風雲_83-88_104-125}}、当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、[[深作欣二]]、[[佐藤純彌]]、[[降旗康男]]や[[新東宝]]から引き抜いた[[石井輝男]]、[[渡辺祐介]]、[[瀬川昌治]]ら若い才能を抜擢した{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|読売新聞20110513web_悼む|産経MSN20110514_産経抄|toei70th_94|東映キネマ旬報_17|石井輝男_118-119|東映_任侠・実録|facebook私と東映中島貞夫_2|クロニクル1_172-175|任侠が青春_12-13<!---|ドン|岡田茂追悼_中島トーク1--->}}}}。また、日活にいられなくなった[[井上梅次]]を誘い『[[暗黒街最後の日]]』(1962年)など、7本を監督してもらう{{R|波瀾_151}}。[[東映ポルノ|好色不良路線]]を目指す岡田の肝いりで、[[梅宮辰夫]]主演の反社会的映画が「[[ひも (映画)#夜の青春シリーズ|夜の青春シリーズ]]」となった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_61|kineweb200310|梅宮|toei70th_102}}}}。[[石井輝男]]は「当時は岡田さんが最高潮で、企画会議でホン(脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さんの一言で製作が決まって、会議なしという感じでした」と述べている{{R|完本石井輝男_129}}。 |
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ギャングシリーズを開拓した |
[[太平洋のGメン#東映ギャング路線|ギャングシリーズ]]を開拓したものの{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|石井輝男_118-119|任侠が青春_26|テレビ成長期の日本映画_134-153}}}}「そもそも日本にギャングなどいない」と{{R|読んだ飲んだ_206-211}}、東映を『[[時代劇]]』路線から『[[人生劇場 飛車角]]』を初めとする[[任侠映画]]{{efn|当時は「[[ヤクザ映画|やくざ映画]]」と呼んだ([[筒井清忠]]編集・板倉宏臣・井上理砂子・中澤まゆみ著『銀幕の昭和「スタア」がいた時代』[[清流出版]]、p237)。}}路線に転換させる{{Refnest|group="出典"|{{R|tvasahi200711|nikkansports110509|nerima-eizobunka230919|日経BP20060203_岡田茂|imidas|映画人_122|toei70th_94|東映キネマ旬報_17|メッセージjp20050515_岡田茂|東映_任侠・実録<!---|ddnavi314297|合同通信369|多元文化4_楊|任侠伝_66-67_116他|東洋経済2101_2|friday82935--->}}}}。[[日活]]、[[大映]]、[[東宝]]など他社も追随し{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|東スポ20110525梶芽衣子|加藤泰映画華_25}}}}、任侠映画は1960年代の大衆映画の最大の分野となった<ref>{{Cite book | 和書 | title = 増補版 日本映画史3 | author= 佐藤忠男|authorlink=佐藤忠男 | year = 2006 | publisher = [[岩波書店]] | isbn = 4-00-026579-2 |pages = 50-51 }}</ref>。しかし他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“東映任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに[[土曜日|土曜]][[深夜]]のオールナイト興行という上映方式を組み{{R|あかん_232}}、これに観客が押し寄せ、任侠映画は[[安保闘争#70年安保|70年安保]]に向けて[[学生運動]]の盛り上がりとともに、[[高度経済成長]]・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした{{Refnest|group="出典"|{{R|東映_任侠・実録|やくざ映画_16-17}}}}。[[東宝]]、[[松竹]]は戦前から[[不動産]]を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|東洋経済2101}}}}。任侠映画と後に手掛ける[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]抜きに[[1960年代]]から[[1970年代]]の日本映画は語れない{{R|市川雷蔵とその時代_364}}。岡田の仕掛けた“[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠路線”〜“実録路線]]”は、その後『[[日本の首領]]』や、『[[鬼龍院花子の生涯]]』などの「女性文芸路線」、『[[極道の妻たち]]』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『[[キイハンター]]』『[[Gメン'75]]』や、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』や『[[極道渡世の素敵な面々]]』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後に[[Vシネマ]]という新ジャンルを切り開いていった{{Refnest|group="出典"|{{R|東映_任侠・実録|クロニクル1_453}}}}。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した{{R|キネ旬2011071_68-70}}。特に1960年代、1970年代の『[[人生劇場 飛車角]]』『[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]]』『[[大奥(秘)物語|大奥{{Color|black|㊙}}物語]]』など、[[任侠映画]]、[[東映ポルノ|東映ポルノ/エログロ映画]]のタイトルの大半は岡田が考えたものである{{Refnest|group="出典"|{{R|hochi200711|ニッカン20110510_22-24|東映キネマ旬報_17|メッセージjp20050515_岡田茂|キネ旬2011071_68-70|遊撃の美学_204|日経佐久間14|toei70th_103|鹿島}}}}。『大奥{{Color|black|㊙}}物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので{{Refnest|group="出典"|{{R|映画人_122|メッセージjp20050515_岡田茂|東映キネマ旬報_17|岡田茂追悼_中島トーク1|スポーツ報知20110510web_訃報|産経MSN20110511_富司純子|クロニクル1_220-221|波瀾_164-165|facebook私と東映中島貞夫_3}}}}、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「{{Color|black|㊙}}物語」という活字を多用した{{R|私の30年_150-151}}。「今ではどこの企業でも部外秘の書類に{{Color|black|㊙}}というハンコを押しているのだから、[[印税|著作料]]をもらいたいぐらい」と話している{{R|悔いなき_137}}。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが[[山田五十鈴]]、[[佐久間良子]]、[[藤純子]]らスター女優を起用して大当たりした。『大奥{{Color|black|㊙}}物語』はブームを呼び{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_Obbligato10|ポスター_39}}}}、その後の[[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥物]]は、この作品の衣装や[[小道具]]がモデルになり{{R|クロニクル1_220-221}}、エッセンスは受け継がれ{{R|キネ旬2011071_44-45}}、現在もテレビドラマ等に繋がる{{R|波瀾_164-165}}。[[1964年]]の『[[二匹の牝犬]]』では[[文学座]]の[[小川眞由美]]と[[六本木]]で遊んでいた[[緑魔子]]を組ませた{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_164-165|toei70th_101}}}}。初めてスクリーン上に女性の[[バストトップ]]を露出した風俗エロス映画は、小川、緑による体当たりの演技で[[モノクローム|モノクロ]]ながら大ヒット{{R|toei70th_101}}。同年[[中島貞夫]]に命じて撮らせた『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』は、[[山田風太郎]]原作の『[[くノ一忍法帖]]』最初の映像化{{Refnest|group="出典"|{{R|facebook私と東映中島貞夫_2|toei70th_Obbligato10|シネマトゥデイ20110605_くノ一忍法帖}}}}。スターの資質を引き出すことにも秀で{{R|kinejun240303}}、[[東宝]]から引き抜いて以来パッとしなかった[[鶴田浩二]]を『[[人生劇場 飛車角]]』で{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|nerima-eizobunka230919|toei70th_94|nikkan_773480|悔いなき_185-190|困った_60}}}}、燻っていた[[高倉健]]を『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』で{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|追悼|toei70th_94|nikkan_773480|東映_任侠・実録|合同通信369|サイゾー201106_健さん|週刊文春20100526web_53|日本俠客伝_22}}}}、『[[不良番長]]』シリーズなどで[[梅宮辰夫]]を売り出す{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|産経MSN20110514_産経抄|風雲_83-88_104-125|kineweb200310|梅宮|toei70th_102}}}}、[[若山富三郎]]を『[[極道シリーズ|極道]]』シリーズで{{R|私の30年_148-149}}、[[菅原文太]]を『現代やくざシリーズ』で売り出す{{Refnest|group="出典"|{{R|追悼|菅原文太伝}}}}。筋金入りの清純派、[[佐久間良子]]の裸のシーンを売り物に[[田坂具隆]]監督で『[[五番町夕霧楼]]』を大ヒットさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|ドン|ニッカン20110510_22-24|animeanime.biz8609|日経佐久間14|toei70th_101|社長たちの映画史_349-350}}}}。本作は[[京都|京]]の[[遊廓|廓]]の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ{{R|クロニクル1_172-175}}。[[内田吐夢]]監督に撮らせた『[[飢餓海峡]]』([[1965年]])も岡田の企画。東映は1964年、[[東急グループ]]を離脱した{{R|悔いなき_185-190}}。 |
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[[1964年]]、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34|東洋経済2101|facebook私と東映神先頌尚_4|toei70th_82|クロニクル2_5-6}}}}。京撮所長に復帰する際、大川から「京都がガタガタになりそうだからお前が京都に行ってくれないと東映そのものがおかしくなる」と言われ{{R|AVジャーナル199512_27}}、「それならすべて私に任せて下さい。荒治療しますけどいいですね」と大川から[[指揮権]]移譲の承認を取り付け{{Refnest|group="出典"|{{R|AVジャーナル199512_27|社長たちの映画史_357-359}}}}、京撮所所長に就任{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|波瀾_164-165|AVジャーナル199512_27|私の30年_139-147|映画時報19643_24|映画時報19645_17|キネ旬1965071_42|産経19950318}}}}。岡田は反対したが大川は1960年に[[第二東映]](1年後にニュー東映と改称)を作り大失敗{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|クロニクル2_1-8|facebook私と東映神先頌尚_3|社長たちの映画史_315-318|社長たちの映画史_357-359|秘宝2_271-276|波瀾_132-134}}}}{{efn|[[野上龍雄]]は「映画製作を甘く見た財界出の大川社長の誤算。手間をかけない作品に客がつく筈がない」と述べている(『[[映画芸術]]』2011年夏号「鎮魂、映画の昭和 岡田茂」p134)。}}。この時、作品量産のため撮影所に[[非正規雇用|臨時雇用]]の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_357-359|私の30年_125-127}}}}。岡田が大川に求めた「全権」は、東映京都作品の企画の全ての企画の決定権だけでなく、撮影所の人事を含めた文字通りの全権だった{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_357-359|産経19950318|あかん_261}}}}、大川社長からの全権委任を盾に、揉めに揉めたも |
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[[1964年]]、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作るが大失敗<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref>『映画秘宝Vol.2 悪趣味邦画劇場』、[[洋泉社]]、1995年、p271-276<br />『波瀾万丈の映画人生』、p132-134</ref>。この時撮影所に量産のため、[[非正規雇用|臨時雇用]]の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた<ref>『私の東映30年』、p125-127</ref>。大川に全権委任され、揉めに揉めたものの大[[リストラ]]を断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="悔いなきわが映画人生147153">『悔いなきわが映画人生』、p147-153</ref><ref name="岡田茂自伝140145">『波瀾万丈の映画人生』、p140-145</ref><ref>[http://www.yidff.jp/docbox/26/box26-1-1.html 日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24 - YIDFF:呉徳洙(オ・ドクス) ]</ref>。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る<ref name="dodo-geneki"/><ref name="business.nikkeibp"/><ref name="日本の映画人"/><ref name="sankei110514"/><ref name="朝日新聞2011517">[[朝日新聞]]、2011年5月17日26面</ref><ref name="財界201167">「[[財界 (雑誌)|財界]]」、2011年6月7日号、財界研究所、p60-62</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20110509-OYT8T00693.htm|title=東映黄金時代築く、岡田茂さん死去|publisher=[[読売新聞]]|date=2011年5月10日}}</ref>。京撮で製作された任侠映画第一作が[[1964年]]高倉健の初主演作『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』<ref>『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p43-44</ref><ref>[[黒沢清]]・[[四方田犬彦]]・[[吉見俊哉]]・[[李鳳宇]]編集『日本映画は生きている 第4巻』[[岩波書店]]、2010年、p269</ref>。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ<ref>『私の東映30年』、p146</ref>。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け<ref name="日本の映画人"/><ref name="財界201167"/><ref>[[小林久三]]『日本映画を創った男-城戸四郎伝』、[[新人物往来社]]、1999年、p347-353</ref>、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任<ref name="日本の映画人"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref name="toei-kyoto">[http://www.toei-kyoto.com/about/hisory.html 東映京都のあゆみ|東映京都ナビ|]</ref><ref name="studios.toei-kyoto">[http://www.studios.toei-kyoto.com/about/history.html 撮影所年表|東映株式会社 京都撮影所|Toei Studios Kyoto]</ref><ref name="東映京都・テレビ映画">『東映京都・テレビ映画25年』東映京都スタジオ、1982年、p1</ref><ref>春日太一『時代劇は死なず!』、集英社、2008年、p32、33</ref>。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった<ref name="風雲映画城83125"/>。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや[[東映アニメーション|東映動画]]へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った<ref name="朝日新聞2011517"/><ref name="岡田茂自伝140145"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/5543642/ “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で(ZAKZAK(夕刊フジ)]</ref>。大監督や大スターも受け入れてくれた事で[[テレビ映画]]の地位は高まった<ref name="岡田茂自伝140145"/><ref>[[大下英治]] 『日本ヒーローは世界を制す』、[[角川書店]]、1995年、p113</ref>。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけだが、当時[[東京オリンピック]]を前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった<ref>春日太一『時代劇は死なず!』、p32、33</ref>。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった<ref>大谷信義[[松竹]]会長談([[日本経済新聞]]、2011年5月10日13面)。</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110509/enn1105091555017-n1.htm “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で - 芸能 - ZAKZAK]</ref>。ただ、この大リストラで多くの才能も失われた<ref name="tobunken">[http://www.tobunken.com/news/news20110511122403.html 唐沢俊一ホームページ :: ニュース :: イベント :: 5月11日投稿]</ref>。[[東映動画]]については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。 |
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のの大[[リストラ]]を断行し{{Refnest|group="出典"|{{R|imidas|ドン|toei70th_94|東洋経済2101|toei70th_60}}}}、2100人いた人員を一気に900人に減らした{{Refnest|group="出典"|{{R|facebook私と東映神先頌尚_3|秘宝2_276-280|社長たちの映画史_357-359|悔いなき_147-153|波瀾_140-145|私の30年_125-127|山形国際_呉徳洙}}}}。また年間の製作本数を100本から60本に減らした{{Refnest|group="出典"|{{R|仁義沈没_102-244|社長たちの映画史_357-359}}}}。東撮所長時代から「客観的に見て京撮の時代劇はやめないとダメだな」と見ており{{R|クロニクル2_5-6}}、京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|東映キネマ旬報_17|クロニクル2_1-8|facebook私と東映神先頌尚_3|東映の軌跡_564-565|石井輝男_118-119|深作欣二_353-354|中原}}}}、テレビ重視に舵を切る{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|映画人_122|nerima-eizobunka230919|産経MSN20110514_産経抄|メッセージjp20050515_岡田茂|kinejun240303|日経BP20060203_岡田茂|東映の軌跡_564-565|朝日新聞20110517_26|財界20110607_60-62<!---|東洋経済2101--->}}}}。[[俊藤浩滋]]と組んで京撮で製作された任侠映画第一作が1964年の高倉健主演作『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|合同通信369|私の30年_125-127|キネ旬2011071_43-44|生きている4_269|任侠伝_224-228}}}}。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|東映の軌跡_564-565|toei70th_105|私の30年_146|toei70th_59}}}}。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け{{Refnest|group="出典"|{{R|映画人_122|nerima-eizobunka230919|pia201121|仁義沈没_102-244|東洋経済2101|財界20110607_60-62|城戸四郎伝_347-353}}}}、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年[[東映京都テレビ・プロダクション|東映京都テレビプロダクション]]を設立して社長を兼任{{Refnest|group="出典"|{{R|映画人_122|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34|仁義沈没_102-244|東洋経済2101|キネ旬2011071_47-52|toei70th_82|死なず_32-33|あかん_215}}}}。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|風雲_83-88_104-125|nerima-eizobunka230919|東洋経済2101}}}}。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや[[東映アニメーション|東映動画]]へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った{{Refnest|group="出典"|{{R|ZAKZAK20110509_死去|toei70th_94|春秋sp_104|仁義沈没_102-244|東洋経済2101|波瀾_140-145|朝日新聞20110517_26|キネ旬2011071_47-52}}}}。大監督や大スターも受け入れてくれた事で[[テレビ映画]]の地位は高まった{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_140-145|日本ヒーロー_113}}}}。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたものだったが、当時[[1964年東京オリンピック]]を前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった{{R|死なず_32-33}}。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった{{Refnest|group="出典"|{{R|ZAKZAK20110509_死去|秘宝201107_52|日本経済新聞20110510_13}}}}。この大リストラにより、[[平山亨]]や[[勝間田具治]]など京撮時代劇の[[ノウハウ]]を身に着けた若手スタッフが新天地で活躍し、新たな地平を切り拓いた反面{{R|toei70th_94}}、多くの才能も失われた{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_60|唐沢俊一公式_20110511}}}}。[[東映動画]]については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている{{R|クロニクル2_1-8}}。1966年10月、東映[[役員 (会社)#日本の会社の役員|常務取締役]]{{R|文化通信ジャーナル201106_34}}。 |
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[[テレビ映画]]に本格的に参入を図った岡田は、特に[[関西]]のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した |
ギャンブル性の強い映画と違い、テレビは局から予算が予め出されるため計算が立つ{{R|あかん_376}}。何よりテレビ製作に求められる「早く安く面白く」は東映京都の最も得意とするところであった{{R|あかん_376}}。また東映京都テレビや東映京都制作所(のち[[東映太秦映像|太秦映像]])だけでなく、京撮本体でもテレビ時代劇の受注を開始させ「お前ら、これからはテレビで食っていけ」という岡田の指示の下、京撮は各テレビ局からテレビ時代劇の制作を請け負い、量産体制に入っていく{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk110509|秘宝201107_52|toei70th_82|あかん_376}}}}。[[テレビ映画]]に本格的に参入を図った岡田は、特に[[関西]]のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した{{R|日本ヒーロー_72-74}}。当時、[[電通]]大阪支社企画室長だった入江雄三を介して[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の芝田研三副社長と東映テレビ次長・[[渡邊亮徳]]を引き合わせた{{Refnest|group="出典"|{{R|キャラクタービジネス_86|toei70th_83}}}}。「子供ものの時代劇で何かおもしろいものを作ってくれ」と岡田から出された要望により、東映で子供向けの時代劇として最初に企画されたのが『[[ワタリ (漫画)#映画|大忍術映画ワタリ]]』で{{R|キャラクタービジネス_86}}、時代劇に[[特撮]]をプラスした『[[仮面の忍者 赤影]]』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの{{Refnest|group="出典"|{{R|日本ヒーロー_72-74|キャラクタービジネス_86|toei70th_83}}}}。『赤影』の大成功によって、[[阪急東宝グループ]]の関西テレビからより強い信頼を得ることができ、長きにわたり良き関係を続けた{{R|toei70th_83}}。ここからは[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]の『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』などを生み、映画スタッフのテレビ進出の先駆けとなった{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝201107_52|仁義沈没_102-244|悔いなき_147-153|日本ヒーロー_113}}}}。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った{{Refnest|group="出典"|{{R|sponichi20110510_kiji|東映_京都のあゆみ|東映_年表京都}}}}<!-- <ref name="0東映京都25年_1"/> -->。当時フジテレビは[[虫プロ]]作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第1シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』以降に繋がる{{R|日本ヒーロー_113}}。[[1969年]]から始まった『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]から協力を依頼され製作を受注したもの{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_83|悔いなき_330-331}}}}。本作は岡田が[[1967年]]発足した東映京都制作所(のち[[東映太秦映像|太秦映像]])が製作した{{Refnest|group="出典"|{{R|facebook私と東映神先頌尚_3|toei70th_83}}}}。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した{{R|toei70th_82}}。その他、[[1968年]]の[[テレビドラマ]]『[[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]]』は、岡田が企画した映画『大奥{{Color|black|㊙}}物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる{{R|キネ旬2011071_44}}。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と[[渡辺岳夫]]にテーマ曲を依頼した{{R|渡辺岳夫の肖像_XX}}。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった{{R|波瀾_164-165}}。関西テレビからは、「この{{Color|black|㊙}}だけは困る。題名は{{Color|black|㊙}}はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという{{Refnest|group="出典"|{{R|メッセージjp20050515_岡田茂|悔いなき_148|秘宝200708_83|死なず_222-225}}}}。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_84|engekilife}}}}、その後『[[長谷川伸シリーズ]]』、[[松平健]]の『[[暴れん坊将軍]]』、[[千葉真一]]の『[[影の軍団シリーズ]]』など、主として異色時代劇の分野を開拓した<!--<ref name="0東映京都25年_1"/>-->。当時他の映画会社はテレビに消極的で、[[1980年代]]半ばには、東映京都製作のテレビ時代劇はテレビ各局に広がり、シェアの90%近くを占め{{R|仁義沈没_102-244}}、その後も高いシェアを占め大きな柱となった{{R|映画人_122}}。これらの施策で東映は映画の斜陽期を乗りきったが、これが今日の[[ディレクター|テレビ局ディレクター]]が、[[テレビドラマ]]感覚で映画を監督するなどテレビ局主導の映画製作という逆転現象を生む遠因になったとする見方もある{{R|秘宝201107_52}}。また1964年開局の新興ネットワーク、[[テレビ東京|東京12チャンネル(現:テレビ東京)]]の名物番組となった1969年放映開始の『[[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]]』は、岡田が進めたお色気路線をテレビ向けにソフトにアレンジしたもの{{R|toei70th_74}}。 |
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一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し[[北島三郎]]の『[[兄弟仁義]]』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkansports110509|産経MSN20110511_富司純子|サンスポ20110510_18}}}}。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。[[1966年]]10月、42歳の若さで東映[[役員 (会社)#日本の会社の役員|常務取締役]]{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34|キネ旬1968121_38-41}}}}。これについて大川博は「私は岡田茂と今田智憲の二人の才能を買い、30代で東映の取締役に登用し、40歳を越すや常務に昇格させ、思う存分に腕を振るわせた」と述べている{{R|キネ旬1968121_38-41}}。同年借金で松竹をクビになった[[藤山寛美]]を一時東映に籍を置かせる{{R|悔いなき_251-252}}。[[1967年]]、[[松竹]]にいた[[菅原文太]]を東映に移籍させ、[[安藤昇]]を東映出演させた{{R|波瀾_219-223}}{{efn|安藤は松竹退社後はフリーという(『[[#ヤクザが認めた|ヤクザが認めた任侠映画]]』p6)。}}。「近い将来、東映の映画部門を担って大川社長を支える両輪となる人物は、製作は岡田茂、営業は[[今田智憲]]を措いてほかにいない」とかねて呼び声が高かったが[[1968年]]5月、共に44歳の若さで岡田が製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、今田は営業の最高責任者・営業本部長兼興行部長に就任{{Refnest|group="出典"|{{R|文化通信ジャーナル201106_34|toei70th_105|活動屋人生_326-334|社長たちの映画史_391-392}}}}。次いで同年9月、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任した{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34|キネ旬1968121_38-41|toei70th_103|toei70th_105}}}}。大川博は「大衆が求める刺激の強い映画を作ることで企業を安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題に沿って徹底した企画を立てている。岡田本部長の権限は、いわば一つの映画会社の社長の立場に匹敵する。自分の思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べている{{R|キネ旬1968121_38-41}}。東映の映画に関する全権を委任され、企画の最終判断と責任を持つゼネラルプロデューサーになった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_103|toei70th_105}}}}。岡田が音頭を取った所謂「[[東映ポルノ|東映ポルノ/エログロ路線、好色路線]]」が、この前後から本格化した{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|pia201121|石井輝男_118-119|toei70th_103|toei70th_101|toei70th_59|任侠伝_66-67_116|大塚英志|toei70th_104}}}}。[[1969年]]、[[渡瀬恒彦]]をスカウト{{Refnest|group="出典"|{{R|BIGtomorrow200910_52|東映_渡瀬恒彦}}}}。1970年6月(旧)東映ビデオ取締役{{R|文化通信ジャーナル201106_34}}。[[1971年]]テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握{{Refnest|group="出典"|{{R|映画人_122|toei70th_94|社長たちの映画史_472-474}}}}。また33歳の若さで[[役員 (会社)|専務]]になっていた大川の息子・[[大川毅 (実業家)|毅]]が[[ボウリング]]、[[タクシー]]、[[ホテル]]などの事業拡大に失敗{{R|社長たちの映画史_472-474}}。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする総合レジャー会社に脱皮させようとしていた{{R|クロニクル2_1-8}}。これに[[労働組合|労組]]が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が東映[[株券|株]]を所有{{R|社長たちの映画史_472-474}}。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって[[竹井博友]]ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_94|社長たちの映画史_472-474}}}}。この窮地に『[[夕刊京都]]』の[[労働争議]]で活躍した「労務屋」長田大全を招聘し{{R|社長たちの映画史_472-474}}、[[ロックアウト]]を決行し何とか乗り切った{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_198-201|歴史が眠る多磨霊園_大川博|文化通信ジャーナル200903_77|仁義沈没_152-155|社長たちの映画史_479-480}}}}。大川博はこの労働争議で心労がたたり体調を崩す{{R|社長たちの映画史_479-480}}。 |
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東映はこの年、東急グループを離脱した<ref name="小説東急王国"/>。一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し[[北島三郎]]の『[[兄弟仁義]]』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた<ref name="sankei110511"/><ref>[[サンケイスポーツ]]、2011年5月10日18面</ref>。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。[[1966年]]、借金で松竹をクビになった[[藤山寛美]]を一時東映に籍を置かせる<ref name="悔いなきわが映画人生251252">『悔いなきわが映画人生』、p251-252</ref>。[[1967年]]、[[松竹]]にいた[[菅原文太]]を東映に移籍させ、[[安藤昇]]を東映出演させた<ref name="岡田茂自伝219223">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p219-223</ref><ref>安藤は松竹退社後はフリーという([[別冊宝島]] (922)『ヤクザが認めた任侠映画』 |
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、2003年、p6)。</ref>。[[1969年]]、[[渡瀬恒彦]]をスカウト<ref name="BIG tomorrow">[[BIG tomorrow]] [[青春出版社]]、2009年10月号、p52</ref><ref name="meistervol9">[http://www.toei.co.jp/meister/vol9/detail/01.html 渡瀬恒彦さん登場!奈村所長と語る『東映京都撮影所』 | 東映]</ref>。[[1966年]]常務、[[1968年]]秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任、岡田が音頭を取った所謂「エログロ路線」「好色路線」が、この前後から本格化した<ref name="任侠映画伝"/>。[[1971年]]テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握<ref name="日本の映画人"/>。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅が[[ボウリング]]、[[タクシー]]、[[ホテル]]などの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。これに[[労働組合|労組]]が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって[[竹井博友]]ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地を[[ロックアウト]]を決行し何とか乗り切った<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p198-201</ref><ref name="ookawa">[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ookawa_h.html 歴史が眠る多磨霊園 大川博]</ref><ref name="文化通信ジャーナル">文化通信ジャーナル2009年3月号、p77</ref>。 |
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大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は[[大川毅 (実業家)|大川毅]][[役員 (会社)|専務]]というのが既定路線で、[[今田智憲]]も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが、周囲から「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が死去{{R|社長たちの映画史_485-487}}。毅から「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また[[五島昇]]の推しもあって、1981年8月25日の東映臨時取締役会に於いて47歳で社長に就任する{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|toei70th_94|文化通信ジャーナル201106_34|仁義沈没_152-155|波瀾_204-209|社長たちの映画史_485-487}}}}。映画に全く興味がない大川毅は映画で儲けた[[利益]]を[[ボウリング場]]経営や[[プロ野球]]の経営に注入し{{Refnest|group="出典"|{{R|映画評論196801|週刊新潮19680601|アサ芸1968}}}}、大川親子は映画製作部門を縮小するか{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬19681001|キネ旬19681201}}}}、[[松竹]]に委ねて{{R|週刊明星19680505}}、東映をボウリング場を柱とする総合[[レジャー産業]]に事業転換させようとしていた{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_391-392|キネ旬19681001|週刊明星19680505|実業界197110|週刊映画1968|映画年鑑 1969年版_107–116}}}}。もしこのとき、大川毅が東映の二代目社長を継いでいたら、以降の東映の映像作品はほとんど生まれていないかも知れず{{R|kinejun240303}}、東映が今日のような映像製作を主体とする会社として存続していないかも知れない{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|社長たちの映画史_524-528}}}}。社内で人望も0で、経営センスもない大川毅が日本映画史に於いてここで唯一にして最大の貢献を果たした{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|社長たちの映画史_485-487}}}}。岡田は[[役員 (会社)|常務]]から三段跳びでの社長就任であった<ref>{{Cite news |author = 西沢正史 |title = 〈人間登場〉 日本映画製作者連盟の会長になった岡田茂氏さん|date =1978年6月8日 |newspaper = [[読売新聞]] |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 5}}</ref>。1971年は映画界全体にとっても大きな節目の年だった{{R|toei70th_94}}。社長就任と同時に1971年8月、[[東映ビデオ]]、[[東映テレビ・プロダクション]]、[[東映京都テレビ・プロダクション]]、東映京都制作所(のち[[東映太秦映像]])[[東映東京撮影所#東映東京制作所|東映東京制作所]]など[[関連会社]]60社の社長に就任{{R|文化通信ジャーナル201106_34}}、東映動画(現・[[東映アニメーション]])、東映化学(現・[[東映ラボ・テック]])会長兼任{{R|文化通信ジャーナル201106_34}}。同月、[[日本経済団体連合会|日本経営者団体連盟]]常任理事{{R|文化通信ジャーナル201106_34}}。大企業を目指し多角的事業で支える大川体制から、映画映像作りを中心とした小回りの利く中小企業プロダクションを目指す岡田商店へと、事業転換を表明{{R|toei70th_94}}。社長に就任するやいなや、このうち不良部門をスパッと切り素早く合理化を推進した{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk110509|toei70th_94|活動屋人生_74-86|多田3|business.nikkei220331}}}}。東京タワータクシーを営業停止に、不採算の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]を[[日拓ホーム]]に譲渡{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk110509|sponichi20110510_kiji}}}}、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営していた東映[[ボウリング]]センター32か所の大半を売却した{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk110509|スポーツ報知20110510web_訃報|歴史が眠る多磨霊園_大川博|活動屋人生_74-86|多田3|toei70th_70}}}}。1972年6月、東映動画に経営企画室長の[[登石雋一]]を社長に派遣、ほぼ半数に当たる150名の希望退職者を募集させ紛糾した{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_12-42|活動屋人生_148-159}}}}。「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と暴言を吐いた{{R|活動屋人生_12-42}}。この時異動したスタッフの本社・本編憎しの[[ルサンチマン]]がのちに東映のテレビ、[[アニメーション|アニメ]]躍進の原動力となった{{R|秘宝201108_44}}。同年7月、[[幸田清]]を東京撮影時所長に抜擢<ref>新潟日報夕刊<連載 ひと賛歌 幸田清 活動屋半世紀⑨>2011年11月22日</ref>。その後も組織のスリム化を断行した{{R|facebook私と東映神先頌尚_4}}。一方で、ボウリングに代わる新規事業として[[住宅]]産業に進出{{R|多田3}}、建売住宅・[[不動産]]分譲、[[マンション]]、[[パチンコ店]]事業にも進出した他、劇場の建て替えを含む再開発プロジェクトを手掛けた{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_12-42|活動屋人生_234-245|toei70th_62}}}}。また、[[ホテル]]チェーン(東映イン、東映ホテル)や[[ゴルフ場]]建設を拡大させるなど事業の再構築を行った{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_62|活動屋人生_12-42}}}}。 |
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大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線だったし、[[今田智憲]]も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周りに「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が逝去。毅が「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また[[五島昇]]の推しもあって社長に就任する<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p204-209</ref>。東映動画(現・[[東映アニメーション]])会長兼任。不採算の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]を[[日拓ホーム]]に譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営し全国32あった東映[[ボウリング]]センターの大半を売り合理化をさらに推進した<ref>小説東映 映画三国志、p289-p297</ref><ref name="ookawa"/><ref name="hochi.yomiuri"/><ref name="eiga20110519">[http://eiga.com/news/20110519/11/ 東映名誉会長・岡田茂氏、9日肺炎のため死去 : 映画ニュース - 映画.com]</ref>。 |
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=== 多角経営への道 === |
=== 多角経営への道 === |
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一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜 |
一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜{{Refnest|group="出典"|{{R|hochi200711|読売新聞20110513web_悼む|東映キネマ旬報_17|多元文化4_楊|多田3|日本映画の現在_19_33-36他|映像のスリット_185-186|困った_70|不良性感度|春秋sp_105<!---|kinejun240303|石井輝男_118-119|toei70th_101--->}}}}。不良性感度で東宝や松竹と全く違う「東映カラー」を作りあげ、後発の新興会社を一流映画会社にのし上げた{{R|読売新聞20110513web_悼む}}。「映画は商品である」が持論{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|ドン}}}}。拡大するテレビ人気に対抗するべくテレビでは扱えない映画ならではの素材として、エロは絶対に外せない路線{{R|toei70th_101}}。「時代を読みながら何でもやる。変幻自在がうちの特徴」と語り{{R|kinejun110622}}、反戦映画から、時代劇、文芸映画、任侠映画、実録映画、キワモノ(エログロ)まで、観客の好みを敏感に読みとり、時に批判を尻目に多種多様な映画を世に放つ{{Refnest|group="出典"|{{R|読売新聞20110513web_悼む|ドン|toeich2024|kinejun110622|business.nikkei220331}}}}。或いは[[映画|洋画]]の[[流行]]に乗っかり、和製オカルト映画、和製パニック映画、和製格闘映画、和製SF映画、和製残酷映画、マシン路線、健全喜劇・スポーツ映画路線と次々、死屍累々の企画を打ち出す{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|秘宝201107_52|toei70th_107}}}}。[[菅原文太]]の『[[仁義なき戦い]]』を初めとする「[[実録シリーズ|実録路線]]」や、大号令をかけて「[[東映ポルノ]]」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|imidas|toeich2024|東映キネマ旬報_17|秘宝2_276-280|東映_任侠・実録|toei70th_1OO|任侠伝_224-228|多田3|映画チラシサイト_新文芸坐石井輝男<!---|日本映画の現在_19_33-36他|活動屋人生_34-35|toei70th_84|中原--->}}}}。こうした極端な男性重視路線は東映の映画館から女性客を消した{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|秘宝201108_45}}}}。「実録映画」という呼称は、[[1972年]]の[[イタリアの映画|イタリア映画]]『[[バラキ (映画)|バラキ]]』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの{{Refnest|group="出典"|{{R|日本映画の現在_19_33-36他|映画100物語_167}}}}。『仁義なき戦い』や『[[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]]』など実録映画の爆発的ヒットがあった1973年は年間配收約80億円と創立2番目の記録を更新した{{R|活動屋人生_43-53}}。「実録路線」はスタンダード化し、その後の[[Vシネマ]]などでも、実録でなければ売れないという公式が確立された{{R|ヤクザが認めた_134-141}}。「東映ポルノ」では、抜擢した[[天尾完次]]プロデューサーが、石井輝男や[[鈴木則文]]とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“[[ポルノ]]”という言葉を移植、[[池玲子]]の売り出しに“日本の[[ポルノ女優]]第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった{{Refnest|group="出典"|{{R|ピンキー_102|秘宝2_259-262}}}}。1972年から始まる“[[日活ロマンポルノ]]”が“[[ポルノ]]”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である{{R|秘宝2_259-262}}。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった[[三原葉子]]、[[谷ナオミ]]、[[賀川雪絵]]ら出演のエロ大作『[[徳川女系図]]』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・[[歌謡曲|歌謡ポップス]]にまで及ぼした{{Refnest|group="出典"|{{R|流行り歌_138-139|Hotwax2_136}}}}。これを皮切りに日活の『[[野良猫ロック]]』シリーズに対抗して池玲子、[[杉本美樹]]、[[大信田礼子]]らの『女番長・ずべ公番長』シリーズ{{R|東映_任侠・実録}}、[[梶芽衣子]]、[[多岐川裕美]]、[[夏樹陽子]]らの『[[女囚さそりシリーズ]]』などを編み出しエロ映画を量産した{{Refnest|group="出典"|{{R|東映_任侠・実録|秘宝200809_81}}}}。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって[[劇画]]原作を実写化するきっかけとなった{{Refnest|group="出典"|{{R|Hotwax2_20|秘宝2_170}}}}。[[クエンティン・タランティーノ|タランティーノ]]の影響から、2000年代に日本国外で続々[[DVD]]化されており再評価(初評価)が進む。『女囚さそりシリーズ』の第4弾『[[女囚さそり 701号怨み節]]』(1974年正月映画)と併映だったのが高倉健の新企画『[[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]]』である{{R|活動屋人生_34-35}}。 [[1970年]]前後には他社の二倍近い興行収入を上げた{{R|多元文化4_楊}}。 |
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エロ映画を量産した。「女囚さそりシリーズ」の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって[[劇画]]原作を実写化するきっかけとなった<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2、p20<br />『映画秘宝Vol.2 悪趣味邦画劇場』、[[洋泉社]]、1995年、p170</ref>。[[クエンティン・タランティーノ|タランティーノ]]の影響から、2000年代に日本国外で続々[[DVD]]化されており再評価(初評価)が進む。[[1970年]]前後には他社の二倍近い興行収入を上げた<ref name="楊 紅雲"/>。しかしこの後、[[カンフー]]ブームが来て併映作品として始めた[[千葉真一]]、[[志穂美悦子]]らの空手映画が受けると、ポルノ映画の主流が日活、[[大蔵映画]]などに移ったこともあってポルノ路線をアッサリ切り捨てた<ref name="satsujinken">[http://summaars.net/satsujinken.html 激突!殺人拳 -SummaArs 藝術大全]</ref><ref name="スポーツ報知2011510">[[スポーツ報知]]、2011年5月10日19面</ref>。[[1972年]]6月、全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部([[テレビランド]]の創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p57</ref>。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部が[[レコード]]の[[原盤権|原盤]]やPR映画の制作、[[演劇]]公演やアニメーションフェスティバル、[[博覧会|地方博]]の[[パビリオン]]の映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」など文化事業を手掛けた<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p67</ref><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p354</ref>。[[1975年]]には撮影所の有効利用策として、我が国[[テーマパーク]]のはしりとも言うべき[[東映太秦映画村]]をオープンした<ref name="映画40年"/><ref>[http://124.83.167.158/select/person/obituaries/archive/news/2011/05/09/20110509dde001060017000c.html 訃報:岡田茂さん 87歳=映画プロデューサー、東映名誉会長 - 毎日新聞]</ref><ref>[[週刊朝日]]、1978年3月3日号、40頁</ref><ref name="日本の映画人"/><ref name="映画村10年の歩み">『映画村10年の歩み』「映画村10年の歩み」編集委会、1985年、82、83頁</ref>。 |
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しかしこの後、[[千葉真一]]・[[志穂美悦子]]らの格闘映画が大ヒットし、千葉の作品は海外でも大ヒットすると{{Refnest|group="出典"|{{R|千葉|toei70th_109}}}}、ポルノ映画の主流が日活・[[大蔵映画]]などに移ったこともあって東映ポルノをアッサリ切り捨て{{R|スポーツ報知20110510_19}}、多くのカラテ映画をシリーズ化させた{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_43-53|toei70th_109|石橋|toei70th_106|toei70th_108}}}}。[[1972年]]6月、それまで各事業部門が社長指令の忠実な実施体であったワンマン経営から、全社上げて経営に当たるという"経営第一主義"を打ち出す{{R|活動屋人生_12-20}}。全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部([[テレビランド]]の創刊等){{R|大塚英志}}、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_70|クロニクル2_57|toei70th_113}}}}。「泥棒と詐欺以外は何でもやれ」などと発言し{{R|多田3}}、全事業部門に例外なく己の担当する分野で、新たな収益源を開拓せよと命じた{{Refnest|group="出典"|{{R|多田3|活動屋人生_12-20}}}}。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部が[[レコード]]の[[原盤権|原盤]]やPR映画の制作、[[演劇]]公演やアニメーションフェスティバル、催事ショー([[キャラクターショー]]、子供ショー){{efn|東映の[[キャラクターショー]]のハシリは、[[渡辺亮徳]](当時テレビ事業部長)などが『[[仮面ライダー]]』のキャラクターを使って、子供集めの[[イベント|催事]]をやったことから始まる(『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』p119)。}}、[[博覧会|地方博]]の[[パビリオン]]の映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」([[日本商工会議所|日商]]主催)など文化事業を手掛けた{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル2_1-8|クロニクル2_67|クロニクル1_354|活動屋人生_114-125}}}}。[[1975年]]には撮影所の有効利用策として、我が国[[テーマパーク]]のはしりとも言うべき[[東映太秦映画村]]をオープンさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|映画人_122|facebook私と東映神先頌尚_3|business.nikkei220331|toei70th_70|悔いなき_180-182|<!---<ref name="キネ旬映画40年_15"/><ref name="週刊朝日19780303_40" />--->活動屋人生_62-73|映画村10年_82-83|映画村|toei70th_114}}}}。 |
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大川からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出<ref name="クロニクル東映189">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p189</ref><ref name="ロードショー19763">「[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]」、[[集英社]]、1976年3月号、p196-p199</ref>。とくに[[ブルース・リー]]と[[アラン・ドロン]]の買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす<ref name="ロードショー19763"/>。この洋画部は[[香港]]製の[[カンフー映画]]だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった<ref name="映画40年">『映画40年 全記録』キネマ旬報増刊、1986年2月13日号、p15</ref><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p67</ref>。洋画部は『[[ドラゴンへの道]]』や『[[ル・ジタン]]』、『[[流されて…]]』、『[[課外授業 (映画)|課外授業]]』 、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』、『[[魔女の宅急便 (スタジオジブリ作品)|魔女の宅急便]]』、『[[四季・奈津子]]』、『[[オルゴール (映画)|オルゴール]]』、『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』や、[[後藤久美子 (女優)|後藤久美子]]主演の『[[ラブ・ストーリーを君に]]』『ガラスの中の少女』、[[ポルノ]]史上最高の大ヒットとなった『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』や[[ポーランド]]映画の名作『[[灰とダイヤモンド]]』、[[アル・パチーノ]]主演・[[ウィリアム・フリードキン]]監督の[[ハードゲイ]]映画『クルージング』、『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』などを配給した<ref name="tobunken"/><ref name="私の履歴書38">『私の履歴書 経済人38』、p75</ref><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p61</ref>。また、『[[それから#映画|それから]]』(1985年)などを自主製作した<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p80</ref>。[[1973年]]「[[テレビランド]]」を[[徳間書店]]に移す<ref name="三流週刊誌編集部">佐々木崇夫『三流週刊誌編集部 -- アサヒ芸能と徳間康快の思い出』バジリコ、2006年、p295、296</ref>。東映本体の制作では『[[トラック野郎]]』シリーズや<ref name="toeininkyo"/><ref>『小説東映 映画三国志』、p307</ref>、[[フランス]]で大ヒットした『[[新幹線大爆破]]』<ref>『私の東映30年』、p160、161</ref>、『[[青春の門#映画版|青春の門]]』、『[[河内のオッサンの唄]]』、[[横山やすし]]主演の『[[唐獅子株式会社]]』、[[田中美佐子]]の映画デビュー作『[[ダイアモンドは傷つかない#映画|ダイアモンドは傷つかない]]』、[[シブがき隊]]主演『[[ヘッドフォン・ララバイ]]』や、『[[柳生一族の陰謀]]』、『[[二百三高地]]』、『[[動乱 (映画)|動乱]]』、『[[制覇]]』<ref>『小説東映 映画三国志』、p309</ref>などの大作を生んだ。正面から[[日露戦争]]を描きたいと[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた<ref>『映画はやくざなり』、笠原和夫、p91-97</ref>。フジテレビを退社した[[五社英雄]]をカムバックさせ『[[鬼龍院花子の生涯]]』、「[[極道の妻たち]]」シリーズなど"女性文芸大作路線"を生み出した<ref name="toeininkyo"/><ref name="クロニクル東映314315">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p314-315、342-343</ref>。[[1975年]][[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]と提携<ref>[[朝日新聞]]、1975年10月29日夕刊、p7</ref>。カンフーブームで買い付けた『[[ドランクモンキー 酔拳]]』など[[ジャッキー・チェン]]映画で、ジャッキーフィーバーを起こした<ref name="dragon">[http://www11.big.or.jp/~dragon/event/19990503_finalwarning.html 新宿ロフト/プラスワン ザ・ファイナル・ウォーニング]</ref>。また労組問題で混乱していた系列の[[東映アニメーション|東映動画]]に[[1974年]]、親友の[[今田智憲]]を社長に据えて建て直し『[[キャンディ・キャンディ]]』や『[[UFOロボ グレンダイザー]]』、『[[銀河鉄道999]]』、『[[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]]』、『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』、『[[北斗の拳]]』、『[[聖闘士星矢]]』、『[[美少女戦士セーラームーン (アニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』、『[[SLAM DUNK|スラムダンク]]』などの作品を生み、日本アニメ海外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を[[西崎義展]]から買い付けしたのを手始めに、続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた<ref name="eiga20110519"/><ref name="私の履歴書38"/><ref name="business.nikkeibp"/><ref name="animagedon">[http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201004120034.html asahi.com(朝日新聞社):ヤマトは「文芸もの」だった?]</ref><ref>『悔いなきわが映画人生』、p183</ref>。『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』が1977年8月に劇場公開されたとき、"アニメブーム"なる言葉が生まれ<ref name="映画40年"/>、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった<ref>緑川亨『日本映画の現在 講座 日本映画7』、[[岩波書店]]、1988年、20頁</ref>。 |
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大川博からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年5月、洋画部([[東映洋画]])を新設し洋画配給業へ進出{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_104|活動屋人生_74-86|活動屋人生_12-20|クロニクル1_189|ロードショー197603_196-199|映画を知るための教科書_182–184|toei70th_115}}}}。とくに[[ブルース・リー]]と[[アラン・ドロン]]の買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす{{R|ロードショー197603_196-199}}。この洋画部は[[香港]]製の[[カンフー映画]]だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル2_67|キネ旬映画40年_15}}}}。[[1973年]]『[[テレビランド]]』を[[徳間書店]]に移す{{R|三流週刊誌_295-296}}。正面から[[日露戦争]]を描きたいと[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に指示して制作した『[[二百三高地]]』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた{{R|やくざなり_91-97}}。フジテレビを退社した[[五社英雄]]をカムバックさせ、『[[鬼龍院花子の生涯]]』『[[極道の妻たち]]』シリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した{{Refnest|group="出典"|{{R|東映_任侠・実録|クロニクル1_314-315他}}}}。[[1975年]][[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]と提携{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_62-73|朝日新聞19751029夕_7}}}}。カンフーブームで買い付けた『[[ドランクモンキー 酔拳]]』など[[ジャッキー・チェン]]映画で、ジャッキーフィーバーを起こした{{Refnest|group="出典"|{{R|李小龍的伝説_19990503|東映 外国映画配給新レーベル「東映トライアングル」設立|toei70th_123}}}}。また労組問題で混乱していた系列の[[東映アニメーション|東映動画]]に[[1974年]]、親友の[[今田智憲]]を社長に据えて建て直し{{R|活動屋人生_87-100}}、日本アニメ日本国外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を[[西崎義展]]から買い付けしたのを手始めに{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_115|多田6}}}}、続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ#テレビアニメシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|私の履歴書_75|東映キネマ旬報_17|toei70th_115|朝日新聞20100412web_ヤマトは文芸もの|悔いなき_182-185}}}}。『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ{{R|キネ旬映画40年_15}}、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった{{R|日本映画の現在_20}}。『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』が、ブームを通り越して今日定着した[[アニメーション映画|劇場アニメ]]の先駆けとなった{{R|toei70th_115}}。1980年1月、[[東急レクリエーション]]社長就任{{R|東急100年史}}。 |
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[[1970年代]]後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p232-233</ref>。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの<ref name="日本映画1984 ">『シネアルバム 日本映画1984 1983年公開映画全集』、p86-89</ref>。[[1983年]]に[[東陽一]]に撮らせた『[[セカンド・ラブ (映画)|セカンド・ラブ]]』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは0の映画であった<ref name="日本映画1984 "/>。外部[[ノウハウ (知的財産権)|ノウハウ]]を起用し<ref name="キネ旬19791">キネマ旬報、1979年1月下旬号、p97</ref>[[角川春樹]]とタッグを組んで、『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』、『[[野性の証明]]』、『[[悪魔が来りて笛を吹く#映像化リスト|悪魔が来りて笛を吹く]]』、『[[白昼の死角#映画版|白昼の死角]]』、『[[蘇える金狼#映画|蘇える金狼]]』、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし ]]』、『[[悪霊島#映像化リスト|悪霊島]]』、『[[スローなブギにしてくれ#映画|スローなブギにしてくれ]]』、『[[魔界転生#映画版|魔界転生]]』、『[[セーラー服と機関銃#映画|セーラー服と機関銃]]』、『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』、『[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]]』、『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』、『[[麻雀放浪記#映画 麻雀放浪記|麻雀放浪記]]』、『[[天と地と#映画|天と地と]]』など、一連の[[角川映画]]を手掛け一時代を築く<ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="eiga20110519"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref name="キネ旬201176364">[[キネマ旬報]]、2011年7月上旬号、p63-64</ref><ref name="角川春樹">[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm 角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去]</ref><ref>『悔いなきわが映画人生』、p182-183<br />『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p309</ref>。その他、自主上映で人気を得ていた柳町光男監督の『[[ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR]]』(1976年)、[[松田聖子]]のデビュー映画で[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]との提携『[[野菊の墓 (映画)|野菊の墓]]』(1981年)、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と提携した『[[誘拐報道]]』(1982年)、[[今村昌平]]の今村プロダクションと共同製作して[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを獲った『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』(1983年)、[[寺山修司]]監督の『[[草迷宮 (映画)|草迷宮]]』(1883年公開)、全真言宗青年連盟との提携『[[空海 (映画)|空海]]』(1984年)などを提携(買取りを含む)、配給した<ref>『悔いなきわが映画人生』、p184</ref>。 |
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[[1970年代]]後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした{{R|波瀾_232-233}}。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの{{R|シネアルバム108_86-89}}。[[1983年]]に[[東陽一]]に撮らせた『[[セカンド・ラブ (映画)|セカンド・ラブ]]』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは皆無の映画であった{{R|シネアルバム108_86-89}}。[[角川春樹]]の後ろ盾となり{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|キネ旬2011071_63-64|活動屋人生_160-171}}}}、タッグを組んで一時代を築く{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬2011071_47-52|スポーツ報知20110510_19|悔いなき_182-185|スポーツ報知20110510web_角川春樹|クロニクル1_309|toei70th_116_117}}}}。その他、1974年に岡田が目論んだ[[いつかギラギラする日#企画経緯|"共産党の実録"という企画]]は実現しなかったが{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝201107_52|深作欣二_453|toei70th_116_117|昭和の劇_344-347|争議あり_353-355|中川_26-29}}}}、岡田の試みた大組織に映画公開前に[[前売り#前売り券|前売り券]]を売り捌くという手法は{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝201107_52|男気_21-23|空振り大三振}}}}、その後『[[夜明けの旗 松本治一郎伝]]』や『[[空海 (映画)|空海]]』、『[[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]]』などの[[伝記映画]]や、東映系でかけられる[[幸福の科学出版]]製作の『[[太陽の法#映画|太陽の法 エル・カンターレへの道]]』(2000年)、『[[黄金の法#アニメ映画|黄金の法 エル・カンターレの歴史観]]』(2003年)のアニメなどが、東映の[[ビジネスモデル]]として引き継がれた{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝201107_52|悔いなき_182-185|空振り大三振}}}}。ただし、幸福の科学との繋がりは2009年の[[幸福実現党]]による政治進出を危惧して『[[仏陀再誕#アニメ映画|仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA]]』を最後に切れている。 |
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[[テレビ映画]]に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『[[暴れん坊将軍]]』、『[[遠山の金さん]]』などの時代劇、『[[特別機動捜査隊]]』、『[[鉄道公安36号]]』などの現代劇<ref>『悔いなきわが映画人生』、p148</ref>、『[[さすらい刑事旅情編]]』に始まる「刑事」シリーズ、初の[[2時間ドラマ]]として特筆される『[[土曜ワイド劇場]]』、一世を風靡した『[[ジャイアントロボ]]』、『[[仮面ライダー]]』([[仮面ライダーシリーズ]])、『[[人造人間キカイダー]]』、『[[バロム・1#特撮テレビドラマ『超人バロム・1』|超人バロム・1]]』などの[[特撮テレビ番組一覧|特撮変身ヒーローもの]]、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』などの[[スーパー戦隊シリーズ]]、『[[宇宙刑事ギャバン]]』から始まる[[メタルヒーローシリーズ]]、『[[柔道一直線]]』、『[[スケバン刑事 (ドラマ第1作)|スケバン刑事]]』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在[[キャラクター商品]]の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている<ref>『悔いなきわが映画人生』、p187</ref>。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため[[1980年]]、日活から[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]を引きぬき、少数予算で映画を制作する[[セントラルアーツ]]を設立<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref name="映画40年"/><ref name="映画秘宝2010年12月">映画秘宝、2010年12月号、p39-46</ref><ref name="仙元誠三">[http://www.moment.gr.jp/2/interview.html talk & interview: 仙元誠三]</ref><ref name="シネマヴェーラ">[http://www.cinemavera.com/timetable.html?no=51 シネマヴェーラ | タイムテーブル]</ref><ref name="キネ旬19791"/>。ここからは[[カラオケ]]ビデオや『[[Vシネマ]]』<ref name="toeininkyo"/>、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[松田優作]]の[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』、『ドラマ[[探偵物語]]』、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、「[[あぶない刑事]]」シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』<ref name="toeininkyo"/>、『[[新宿純愛物語]]』などの[[仲村トオル]]主演映画、『[[少林寺木人拳]]』などのカンフー映画、『[[下落合焼とりムービー]]』、『[[狂い咲きサンダーロード]]』、『[[爆裂都市 BURST CITY]]』、『[[水のないプール]]』、『[[純]]』、『[[泥の河]]』、『[[竜二]]』、『[[魔の刻]]』、[[長渕剛]]の『[[オルゴール (映画)|オルゴール]]』などを生んだ(独立系作品の配給も含む)<ref name="映画秘宝2010年12月"/><ref>『悔いなきわが映画人生』、p184<br />『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』、p1120-1122<br />『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p65<br />『シネアルバム 日本映画1979 1978年公開映画全集』、p182</ref>。[[ビデオテープレコーダ|家庭用ビデオデッキ]]の普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ([[アダルトビデオ]])が爆発的に売れた<ref>週刊新潮、1982年2月4日号、p13</ref>。[[1980年]]、[[東急グループ]]の興行会社・[[東急レクリエーション]]社長に就任、16年ぶりに[[東急グループ]]に復縁し、[[五島慶太]]・[[五島昇]]に対する不義理を解いた<ref name="財界201167"/><ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p233</ref>。[[1984年]]日本衛星放送([[WOWOW]])設立で非常勤取締役(〜2001年)<ref> |
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[http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/tv/jsb.html 検索結果呉越同「星」JSB(日本衛星放送=現WOWOW)のソフト戦略と経営展望]</ref><ref>[http://www.wowow.co.jp/stock/pdf/010620.pdf 取締役選任と常勤取締役担務について - WOWOWオンライン]</ref>。[[1986年]][[黒木瞳]]を『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で、映画主演デビューさせた<ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="sponichi20110511"> |
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[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/11/kiji/K20110511000798790.html?feature=related 悼む声続々…北大路欣也「男として憧れの的」 ― スポニチ Sponichi Annex]</ref><ref name="NEWS24">[http://www.news24.jp/entertainment/news/1617286.html 【続報】北大路欣也、富司純子ら思い出語る | 日テレNEWS24]</ref><ref name="yomiuri20110510">[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110510-OHT1T00012.htm 志穂美悦子さん、海外映画祭で空手の相手に…岡田茂氏死去]</ref>。[[1993年]]、東映会長。[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]と[[孫正義]]による[[テレビ朝日]]買収を阻止した<ref name="財界201167"/>。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である<ref name="岡田茂">内田裕也 俺は最低な奴さ、[[内田裕也]]、[[白夜書房]]、2009年、280頁</ref>。[[瀬川昌治]]は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている<ref name="乾杯!ごきげん映画人生"/>。[[日本経済新聞社]]は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、[[サンケイスポーツ]]は「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、[[松岡功 (実業家)|松岡功]]は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した<ref name="財界201167"/><ref>[http://bizboard.nikkeibp.co.jp/kijiken/summary/20040720/NB1250H_338756a.html 本 新刊の森●パーソナル 波瀾万丈の映画人生]</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/geino/news/110510/gnj1105100506010-n1.htm|title=“ヤクザ映画の父”岡田茂氏が死去|newspaper=サンケイスポーツ|date=2011-05-10|accessdate=2011-05-20}}</ref>。 |
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[[テレビ映画]]に関しては、大川博時代に引き続き制作を進めた。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在[[キャラクター商品]]の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている{{R|悔いなき_185-190}}。1975年テレビ版権営業部を設立し、版権収入の拡大に力を入れる{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_74-86|活動屋人生_62-73}}}}。[[ビデオ]]時代の到来に対応する体制作りにも乗り出し1977年8月、東映芸能と東映ビデオを合併させ東映芸能ビデオを設立(のち[[東映ビデオ]]){{R|悔いなき_185-190}}。翌1978年にはビデオ制作強化のため東映ビデオセンターを設立し{{R|悔いなき_185-190}}、この年カラオケビデオを発売した{{R|悔いなき_185-190}}。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため[[1977年]]12月、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]の商業映画版ともいうべき<ref>[[高平哲郎]]『ぼくたちの七〇年代』[[晶文社]]、2004年、P221</ref>、[[東映セントラルフィルム]]を設立{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_87-100|moment_仙元誠三}}}}。[[日活]]から[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]を[[東映ビデオ]]の製作部門の長として引きぬき{{Refnest|group="出典"|{{R|moment_仙元誠三|活動屋人生_213-223|eidanren|toei70th_119_120}}}}、東映セントラルフィルムと組ませて低予算で映画を制作するセクションが設立され、これが後に[[セントラルアーツ]]となる{{R|toei70th_119_120}}。[[ビデオテープレコーダ|家庭用ビデオデッキ]]の普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ([[アダルトビデオ]])が爆発的に売れた{{R|週刊新潮_19820204_13}}。[[1980年]]、[[東急グループ]]の興行会社・[[東急レクリエーション]]社長に就任、16年ぶりに[[東急グループ]]に復縁し、[[五島慶太]]・[[五島昇]]に対する不義理を解いた{{Refnest|group="出典"|{{R|悔いなき_185-190|財界20110607_60-62|波瀾_233}}}}。「[[映画の日]]」の全国普及にも貢献<ref>「映画界の動き「映画の日」入場料半額制実施」『キネマ旬報』、1981年11月下旬号、176頁</ref>。[[1984年]]日本衛星放送([[WOWOW]])設立で非常勤取締役(〜2001年){{Refnest|group="出典"|{{R|すべてを疑えnodate_呉越同「星」|WOWOW20010620_release}}}}。[[1986年]][[黒木瞳]]を『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で、映画主演デビューさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|NEWS24_20110510_思い出|スポーツ報知20110510_19|スポニチ20110511web_北大路欣也}}}}。[[1989年]]3月期の決算で東映として初めて総売上げ1000億円の大台に乗せる{{R|活動屋人生_224-233}}。[[1990年]]夏から「[[東映まんがまつり]]」を[[鳥山明]]に絞った番組編成の「[[東映アニメフェア]]」に転換させた{{R|活動屋人生_246-256}}。[[1993年]]、東映会長。[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]と[[孫正義]]による[[テレビ朝日]]買収を阻止した{{R|財界20110607_60-62}}。1997年11月「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げる([[#時代劇復興]])。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった{{R|湯布院日記}}。洒脱な[[人柄]]で、パーティーの席などでの[[スピーチ]]も天下一品{{R|nikkansports110509}}。軽妙なあいさつで会場をわかせたといわれる{{R|nikkansports110509}}。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である{{R|俺は最低な奴さ_280}}。[[瀬川昌治]]は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている{{R|ごきげん映画人生_165_184-190}}。[[日本経済新聞社]]は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、[[サンケイスポーツ]]は「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、[[松岡功]]は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した{{Refnest|group="出典"|{{R|財界20110607_60-62|bunkatsushin.com|サンスポ20110510_訃報}}}}。 |
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親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の[[広島弁]]は岡田の社内での罵詈雑言を[[脚本]]の[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]が参考にした、という逸話を持つ<ref name="調査・取材録集成276277">『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』笠原和夫、p276、277、[[太田出版]]、2005年</ref><ref name="昭和の劇14">『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った<ref name="角川春樹"/>。[[早稲田大学]]出身で縁の無い[[小渕恵三]]の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした<ref name="スポーツニッポン2011510"/><ref>[http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20110509k0000e040056000c.html 岡田茂さん死去:戦後映画界のドン 斬新企画、経営近代化 - 毎日jp ]</ref><ref>[http://www.mmjp.or.jp/akuyakusyoukai/diary01.htm 八名信夫の「出会い ふれあい 人の味」日記]</ref>。[[沢島忠]]は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」<ref name="スポーツニッポン2011510"/><ref name="キネ旬201175657"/>、[[北大路欣也]]は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」と話した<ref name="sponichi20110511"/>。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。 |
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恰幅のよさと親分肌で豪放磊落な性格から{{R|pressnet08}}、東大卒と言っても信じてもらえず、「あなたは[[拓殖大学|拓大]]出身じゃないの?」とよくからかわれた{{R|pressnet08}}。『仁義なき戦い』の[[広島弁]]は岡田の社内での罵詈雑言を[[脚本]]の[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]が参考にした、という逸話を持つ{{Refnest|group="出典"|{{R|東洋経済2101|仁義なき集成_276-277}}}}。また菅原文太の[[トレードマーク]]になった広島弁は、岡田が同郷の[[張本勲]]に菅原に広島弁の指導を頼んだものという{{Refnest|group="出典"|{{R|sponichi141202|sportiva220331}}}}。『仁義なき戦い』の菅原の名セリフの抑揚、[[日本語の方言のアクセント|アクセント]]は張本の監修であった{{R|sportiva220331}}。付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った{{Refnest|group="出典"|{{R|悔いなき_185-190|スポーツ報知20110510web_角川春樹}}}}。[[早稲田大学]]出身で縁の無い[[小渕恵三]]の[[後援会]]が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った{{R|pressnet08}}。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした<!---<ref name="毎日新聞20110509web_訃報" />--->{{Refnest|group="出典"|{{R|ドン|スポニチ20110510_17|八名信夫公式}}}}。[[沢島忠]]は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」{{Refnest|group="出典"|{{R|スポニチ20110510_17|キネ旬2011071_56-57}}}}、[[北大路欣也]]は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」{{R|スポニチ20110511web_北大路欣也}}、[[里見浩太朗]]は「すばらしい指揮官だった。あんな人はもう出てこないんじゃないかな。背が高くて二枚目。ダンディーで俳優や女優のあこがれだった」と話した{{R|追悼}}。 |
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1971年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、[[テレビ朝日]]会長、(株)[[東急レクリエーション]]代表取締役会長など多くの要職に就く<ref name="日本の映画人"/>。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/5543642/ “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で.]</ref>。[[1978年]][[日本アカデミー賞]]の創設にも尽力<ref name="academy">[http://www.japan-academy-prize.jp/ 日本アカデミー賞公式サイト]</ref><ref name="きょうは何の日">[http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2010/04/46.html きょうは何の日 1978年4月6日「日本アカデミー賞授賞式が挙行された日」]</ref><ref>小説東映 映画三国志、[[大下英治]]著、徳間書店、1990年、p5-11<br />[[サンケイスポーツ]]、2011年5月10日18面</ref>、会長・名誉会長を歴任し、第30回を迎えた[[2007年]]度より同賞では初めて個人名を冠した'''岡田茂賞'''が新設された<ref name="スポーツ報知2011510"/>。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する<ref>{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/10/kiji/K20110510000789400.html|title=「日本映画界のドン」岡田茂氏逝く|publisher=[[スポーツニッポン]]|date=2011年5月10日}}</ref>。 |
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1978年から1995年まで[[日本映画製作者連盟]]会長{{R|読売19780608}}。この他、[[映画産業団体連合会]]会長、[[日本映画テレビプロデューサー協会|日本映画テレビ製作者協会]]理事長、日本映画海外普及協会理事長、[[テレビ朝日]]会長、(株)[[東急レクリエーション]]代表取締役会長、[[北海道テレビ放送]]取締役<ref>{{Cite book|和書 |editor=HTB社史編集委員会 |title=この10年 |publisher=北海道テレビ放送 |date=1978-11-03 |id={{NDLJP|12275341/110}} |quote=役員}}</ref>など多くの要職に就く{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkansports110509|ドン|映画人_122|中国放送20000429_ふるさと}}}}。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|ZAKZAK20110509_死去|ドン|nikkansports110509|deagostini|文化庁}}}}。1974年[[日本映画製作者連盟#城戸賞|城戸賞]]創設に関わり{{R|週刊映画19741207_2}}、以降1994年まで審査委員長を務める{{Refnest|group="出典"|{{R|映画年鑑 1981年版_60|映画年鑑 1984年版_73|映画年鑑 1990年版_57|映画年鑑 1995年版_55}}}}。[[1978年]][[日本アカデミー賞]]の創設にも尽力{{Refnest|group="出典"|{{R|sponichi20110510_kiji|サンスポ20110510_18|日本アカデミー賞公式|日テレDON20100406何の日}}}}、会長・名誉会長を歴任し、その功績を称えて第30回を迎えた[[2007年]]度より同賞では初めて個人名を冠した'''岡田茂賞'''が新設された{{R|ドン}}。撮影所所長としても数多くのヒット作を世に送り出し{{R|nerima-eizobunka230919}}、辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する{{R|sponichi20110510_kiji}}。[[1985年]]、[[瀬島龍三]]らと[[東京国際映画祭]]を創設{{Refnest|group="出典"|{{R|東急100年史|週刊現代12010512|tokyo14}}}}。 |
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その他、[[1982年]]5月、[[地方自治体]]で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー([[広島市立中央図書館]]隣)の開館にも尽力した。[[1990年]]、岡田を主人公にした「小説東映 映画三国志」という小説が、岡田を師匠と挙げる[[大下英治]]作で[[徳間書店]]から出ている。これを原作とした[[2時間ドラマ]]が[[日本テレビ系|日本テレビ]]で同年6月1日放送され[[中村雅俊]]が岡田を、妻の役は[[黒木瞳]]が演じた。[[1984年]][[褒章|藍綬褒章]]、[[1995年]][[勲二等]][[瑞宝章]]受賞。 |
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郷里広島関係の貢献では、東京広島県人会会長として長く同会の発展に尽力した他{{R|広島県人会}}、[[竹下虎之助]][[広島県知事一覧|広島県知事]]が広島の県勢活性化のため、東京で活躍する広島出身の経済人に知恵を借りようと組織した「広島県産業懇話会」のメンバーでもあった{{R|日経産業841020}}{{efn|他のメンバーは[[住田正二]]、[[小松勇五郎]]、[[山野正登]]、[[佐伯喜一]]、[[山口信夫]]、[[森田康]]ら{{R|日経産業841020}}。}}。その他、[[1982年]]5月、[[地方公共団体|地方自治体]]で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・[[広島市映像文化ライブラリー]]([[広島市立中央図書館]]併設)の開館にも尽力した<ref>[http://filmpres.org/link/hiroshima/ 広島市映像文化ライブラリー / Hiroshima - 映画保存協会]、[https://web.archive.org/web/20160304212619/http://www.minna-no.jp/diaries/view/17855 私的、広島と映画とアニメーション論 20 広島市映像文化ライブラリー](Archive)</ref>。[[1990年]]、岡田を主人公にした『映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる[[大下英治]]作で[[徳間書店]]から出ている{{Refnest|group="出典"|{{R|映画三国志|笠原和夫傑作選}}}}。これを原作として[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]が脚本を担当し、岡田の母親にまで会うなど徹底取材した[[2時間ドラマ]]が、普段は洋画を放送する[[日本テレビ系列|日本テレビ系]]「[[金曜ロードショー|金曜ロードSHOW!]]」枠で同年6月1日放送され、[[中村雅俊]]が岡田を、妻の役は[[黒木瞳]]が演じた{{Refnest|group="出典"|{{R|sponichi20110510_kiji|映画三国志|舛田_391|笠原和夫傑作選}}}}。 |
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[[映画]][[雑誌]]「プレミア」([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で第1位に選ばれた<ref name="プレミア">[[プレミア (雑誌)|プレミア]]([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号、p83</ref><ref name="sairyusha">[http://www.sairyusha.co.jp/ikedame/%E5%BE%A1%E5%A4%A7%E3%83%BB%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8C%82%EF%BC%88%E6%9D%B1%E6%98%A0%EF%BC%89%E6%B0%8F%E3%82%92%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%81%99%E3%82%8B.html 彩流社» ブログアーカイブ » 御大・岡田茂(東映)氏を追悼する]</ref>。 |
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=== 名誉会長へ === |
=== 名誉会長へ === |
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[[2006年]]7月、三代目会長だった[[高岩淡]]が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった{{R|社長たちの映画史_524-528}}。 |
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[[2006年]]7月、三代目社長だった[[高岩淡]]が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった<ref><!--邦画界全体の問題点?なので、岡田茂の経歴本編からは外しました。「日本映画」の項目に移動したらどうでしょうか -->この点はライバルの松竹でも似たような現象が起こり、[[奥山融]]、[[奥山和由]]の親子ワンツー体制を組んだが、松竹は創業家側のクーデターで現在に至っている。東宝も[[松岡功 (実業家)|松岡功]]、[[松岡宏泰]]の親子がグループ経営の中枢にいるが、松岡功は東宝、[[阪急]]の創業者、[[小林一三]]の孫である。これは日本だけでなく、ハリウッドのメジャーでも見られる現象である。いずれにせよ、親子が同じ会社にいるという事が一般的である事を取ってみても、映画界は洋の東西を問わず、前近代的な空気が色濃い世界であるという証左とも言える。</ref>。 |
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=== 死去 === |
=== 死去 === |
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[[2011年]][[5月9日]]、肺炎の為 |
[[2011年]][[5月9日]]午前5時55分、肺炎の為、東京都内の病院で死去{{R|追悼}}<!---<ref name="毎日新聞20110509web_訃報" /><ref name="産経MSN20110509_訃報" />--->{{没年齢|1924|3|2|2011|5|9}}。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった{{R|波瀾_236-237}}。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という{{R|オリコン20110511web_葬儀}}。 |
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== 受賞・受章・ランキング == |
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== 人物 == |
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[[1984年]][[褒章|藍綬褒章]]{{Refnest|group="出典"|{{R|toei1195665_1133|nhk110509}}}}、[[1995年]][[勲二等]][[瑞宝章]]受章{{Refnest|group="出典"|{{R|tvasahi200711|toei1195665_1133|ドン|nhk110509|勲二等}}}}。 |
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{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年1月|section=1}} |
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=== 仁義なき戦い === |
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『[[仁義なき戦い]]』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に[[山口組]]三代目の[[田岡一雄]]組長が訪れて鑑賞した。深作欣二監督は田岡が来ることを知って席を外した。後に間に人を立てて親分が岡田に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる。このシシャの意味は岡田本人も聞かなかった<ref>深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、p270、『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。同作品が製作された1970年代の始めは[[広島抗争]]はまだ燻っていて、いささか危険な状況であり、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫していたという、折り紙付きの難物だった。東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声も多かったが広島出身の岡田がやる気満々で製作実現までに至った<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p57-66</ref>。『仁義なき戦い』は[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]の脚本中の"血風ヤクザオペラ"<ref>「[[EX大衆]]」、2005年10月号</ref>とも"[[広島弁]]の[[シェークスピア]]<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p242</ref>とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々も大きな魅力。笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集めたが、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、[[菅原文太]]や[[金子信雄]]のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという<ref>『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』笠原和夫、p276、277、[[太田出版]]、2005年</ref><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。 |
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映画雑誌『プレミア』([[ハースト婦人画報社|アシェット婦人画報社]])[[2001年]]4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で、[[角川歴彦]]、[[徳間康快]]、[[宮崎駿]]、[[北野武]]、[[出井伸之]]らを抑えて第1位に選ばれた{{Refnest|group="出典"|{{R|プレミア200104_83|彩流社20110510_御大追悼}}}}{{efn|「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された{{R|プレミア200104_83}}。}}。 |
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『仁義なき戦い』の中で重要な役である山守義雄役には当初監督の[[深作欣二]]は[[三国連太郎]]を希望していた。しかし岡田は映画の舞台である広島弁のイントネーションのうまさを買って「[[金子信雄]]にしろ!」と鶴の一声で配役を変更。結果的にこれが大成功を収める<ref>『波瀾万丈の映画人生』、p218-219<br />『悔いなきわが映画人生』、p275<br />深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、p254-p255<br />『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。 |
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[[映画産業団体連合会]]は、第56回「[[映画の日]]」に於いて、ジャンルの縛りを超えた数々の映画を製作し、又、幾多の映画人を育成し続け、生涯を通じて映画界の隆盛に多大な貢献を果たした岡田に[[1993年]]に続き、二度目の特別功労大章を贈った<ref>[https://web.archive.org/web/20130312070933/http://rengo-tsushin.com/modules/movie/index.php?page=article&storyid=1510 連合通信ドットコム - 特別功労大章は東映前名誉会長故岡田茂氏に](Archive)</ref>。 |
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『仁義なき戦い』のシリーズ化は第一作の撮影途中で決定した。岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「[[広島抗争|広島事件]]!」と即答。「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」「お前ね、そこを考えるのがライターじゃないの」「広島事件はまあ待って下さい、もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げて、原作でチラッと出てくる、[[山上光治]]という24歳で自決する殺し屋(演者:[[北大路欣也]])を軸に脚本を書いたのが第二部『[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]』となる。第一部の大ヒットで第三部『[[仁義なき戦い 代理戦争]]』の製作が決定(第二作の公開前)。決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『[[仁義なき戦い 頂上作戦]]』と合わせて物語を終結させ笠原もようやく安堵した。ところが、岡田と深作と[[日下部五朗]]の四人で夜の京都に繰り出したおり、[[四条大橋]]の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁いた。笠原は「あれはもう[[菅原文太|文太]]と[[小林旭|旭]]の別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない」と断った。バーに入って岡田に聞こえないように笠原が深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う。笠原は「よし。なんぼなんでも[[ギャランティー|ギャラ]]が安すぎるから(一本120万円だった)ギャラを上げるなら受けることにしよう。おれが交渉するから、それまでお前は引き受けるな」「わかった。おれのぶんの交渉もよろしくな」と深作と打ち合わせをしていたが、正月に東映本社に挨拶に行った深作は、岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。第五部『[[仁義なき戦い 完結篇]]』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのはこうした経緯から<ref>笠原和夫『映画はやくざなり』、[[新潮社]]、2003年、p68-81</ref>。 |
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== 活動 == |
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*岡田が直接、田岡一雄組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した『[[山口組三代目]]』(1973年)は記録的なヒットを飛ばした。本作は『[[ゴッドファーザー]]』が好きな岡田が、日本で当てはめるなら[[山口組]]だなと考え、これをやるのは自分しかないと製作に着手した<ref name="岡田茂自伝223227">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p223-227</ref>。小説化〜映画化にあたり[[徳間康快]]を呼んだら「頼む。これだけは俺にやらしてくれ」と飛びついてきたという。原作本が[[徳間書店]]から出ているのはこのため。後年の[[稲川聖城]]の半生記『[[修羅の群れ]]』も岡田と徳間でまず小説化を決めたもの。こちらも[[アサヒ芸能]]で連載された<ref name="実話時代">「[[実話時代]]」、2008年2月号、p9</ref><ref name="トップ屋魂">[[大下英治]]『トップ屋魂』、[[KKベストセラーズ]]、2009年、p280-282</ref>。『修羅の群れ』の方は、岡田が[[大下英治]]に本を書かせたが、『山口組三代目』の場合は原作者を作家にすると揉める恐れがあるため、原作は田岡の自伝という形にして、実際にはアサヒ芸能の編集長をしていた人に書かせた。宣伝の必要もなく、映画はバカ当たりした。後にも先にも宣伝も何もしないで、あんなバカ当たりした映画はなかったという<ref name="岡田茂自伝223227"/>。岡田は「この映画は暴力礼賛映画ではない」と説明したが、実際は田岡一雄組長をヒーローのように仕立てあげており、東映の観客調査の満足度は92%と、観客のほとんどは田岡組長の人間ドラマに感動したというデータが出た。全国の映画館主からも続編の要望も出て、根っからのカツドウ屋で、もうけのためなら手段を選ばない主義ともいわれた岡田ゆえ、続編の製作は当たり前と思われたが、各方面からの猛烈な批判が浴びせられた。こうした批判に対して[[新聞記者]]をいっぱい集めた前で「『[[ゴッドファーザー]]』がアメリカで出来て、日本でなぜ田岡一雄伝をやってはいけないんだ。説明してくれ」などと言ってさらに批判が増した<ref name="岡田茂自伝223227"/>。当時の岡田は若手財界人のやり手として売り込み中でもあり思案投げ首状態となった。また『山口組三代目』では芸能界の実名人物は"[[広沢虎造]]"どまりであったが、二部以降になれば"[[美空ひばり]]"がいやでも登場することになる。[[かとう哲也]]の再逮捕で手負い獅子のようになっているひばりが、続編を許すはずがなく続編は一旦はあきらめた<ref>[[週刊朝日]]、1973年6月1日号、p36<br />サンデー毎日、1973年9月9日号、p42、9月23日号、p44<br />岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p190</ref>。 |
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=== 戦争映画 === |
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[[1950年]]、岡田の初プロデュース作『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』は、日本初の「反戦映画」といわれる{{R|山根米原_120}}。 |
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{{Main|日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声}} |
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[[中島貞夫]]の出世作『[[893愚連隊]]』(1966年)、オールスターキャスト『[[あゝ同期の桜]]』(1967年)は、任侠映画全盛で、製作が難しい企画だったが『893愚連隊』は、岡田が企画を通したものである{{Refnest|group="出典"|{{R|facebook私と東映中島貞夫_3|キネ旬2011071_60}}}}。 |
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*しかし翌1974年、続編『[[三代目襲名]]』が製作された。これは山口組の宣伝映画だと警察に睨まれ、裏金取引があるのではないか、と東映は[[家宅捜索]]も受けた。裏取引はないが前売券を組に売ったため、これを今度は共通券は商品法違反、東映と暴力団の癒着、資金源に利用されたとか警察から何かと嫌がらせを受けた<ref name="任侠映画伝"/><ref>[[田中純一郎]]『日本映画発達史 Ⅴ 映像時代の到来』[[中央公論社]]、1970年、p263</ref>。岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだのが1975年に映画化された『[[県警対組織暴力]]』という映画のタイトル<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p82<br />新潮45 新潮社、2004年9月号、p206</ref>。なお山口組のシリーズは当初、三部作の予定で三作目は『山口組三代目 激突篇』というタイトルであったが、世間を騒がせた責任をとって製作を断念、結果的に二部作になった<ref>『日本映画は生きている 第4巻』、p280</ref>。 |
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[[1980年]]の『[[二百三高地]]』は、岡田が「そうだなあ。[[乃木希典|乃木大将]]を中心に創ってみたらひょっとしていけるかな。今まで、乃木将軍を描いた映画はないだろう」という何気ない岡田の一言が『二百三高地』を生む切っ掛けとなった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_107|幸田清_26-136|新潟日報11110708}}}}。 |
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*この後も東映は山口組の全国進攻を描いた映画を多数製作するが、山口組を題材にした映画が多く量産出来たのは、田岡一雄の息子・[[田岡満]]をスタッフに入れていたため<ref name="ヤクザが認めた任侠映画134141"/>。『[[山口組三代目]]』を製作する際、田岡満から自分をプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい、と岡田に申し出があった<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』徳間書店、p248、249</ref>。田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという<ref>「東映実録やくざ映画 無法地帯」、p170-179、240</ref>。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と[[高岩淡]]や[[日下部五朗]]、[[笠原和夫]]ら、多くの関係者が話している<ref name="昭和の劇537546">『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p537-546</ref><ref>「東映実録やくざ映画 無法地帯」、p230-244<br />[http://www.shuyu.gr.jp/tokyo_old/nimoku/dai525/dai525.html 525二木会]</ref>。 |
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{{Main|二百三高地 }} |
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『二百三高地』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。[[太平洋戦争]]、[[大東亜戦争]]を」「あれ、負け戦ですよ、[[日露戦争]]と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、[[太平洋戦争]]の脚本執筆を指示。『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』『[[零戦燃ゆ#映画|零戦燃ゆ]]』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は[[瀬島龍三]]から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。『二百三高地』に瀬島を監修で呼んだのは岡田である<ref>幸田清『人生ちょっといい話』サンドケー出版局、1992年、p55-56</ref>。脚本は書き上がったが[[宮内庁]]の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという{{Refnest|group="出典"|{{R|やくざなり_91-103|昭和の劇_422-424_454-455他}}}}。[[東映太秦映画村]]がオープンした時、岡田は瀬島を撮影所に案内したが<ref>[https://web.archive.org/web/20160304071603/http://www.keizaikai.jp/pages/official/greatperson-list/greatperson-detail.php?MAGAZINE_ID=14&NEWS_ID=0 瀬島龍三 偉人列伝 - 経済界オンライン](Archive)</ref>、岡田が照明や小道具、衣装などのスタッフみんなに声を掛けて回り、それも名前を全て覚えているのに瀬島は感心し、「この職場は統制のない秩序がある。上から強制しなくても秩序がちゃんとできている。本当の理想的な社会だ」と褒めたという{{R|活動屋人生_6-7}}。瀬島は大川毅が退職した1987年に東映の相談役に就任している{{R|活動屋人生_213-223}}。 |
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*[[1950年]]『『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声|きけ、わだつみの声]]』製作時の[[氏家齊一郎]]ら東大の左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた<ref name="キネ旬19844">[[キネマ旬報]]、1984年4月下旬号、p143-145</ref>。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳でその1人が[[富本壮吉]]。富本はこれが縁で映画界入り、後に『[[家政婦は見た!]]』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという。この映画の[[スタッフ]]には[[脚本]]に[[八木保太郎]]、[[舟橋和郎]]ら、[[映画監督|監督]]に[[関川秀雄]]、[[映画音楽|音楽]]・[[伊福部昭]]と、[[レッドパージ]]で他の映画会社を追われた人たちを起用<ref name="風雲映画城2932"/>。また[[俳優|キャスティング]]は[[劇団俳優座|俳優座]]の[[佐藤正之]]に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が[[新劇]]の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの。当時は無名だった[[沼田曜一]]、[[信欣三]]、[[佐野浅夫]]、[[大森義夫]]ら[[俳優座]]、[[民芸]]、[[文学座]]の俳優を起用、やはり感銘を受けた[[杉村春子]]も出演した。スターシステムが各社当然だった時代では異色のキャスティングだった<ref>黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年、p8-p9<br />小説東映 映画三国志、p57-59</ref><ref name="キネ旬19844"/>。こうした新劇の役者も当時[[レッドパージ|パージ]]にあって金に困っていて、[[山城新伍]]には「いま、金に困ってるから、20〜30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという<ref>男気万字固め、[[吉田豪]]、[[エンターブレイン]]、p21</ref>。 |
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=== 人物 === |
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*『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の[[五島慶太]]は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。上映後、岡田に対し「よくやった。これを、とっとけ」と言ってポンと5万円(現在の100万円くらい)を渡したという<ref name="小説東急王国"/>。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの金を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった<ref name="dodo-geneki"/><ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p53-p54</ref><ref name="小説東急王国"/>。 |
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[[1957年]]、47歳で死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳で予算主義を現場で取り仕切る{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝2_276-280|活動屋人生_6-7}}}}。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜ける豪腕により<鬼の岡田>と恐れられた{{R|石井輝男_118-119}}。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000 - 5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中の[[NG (放送用語)|NG]]も2カットに1回しか認めない。当時の東映は[[人件費]]が安く、[[フィルム]]代が高かった。厳格なスケジュール・予算管理が徹底により、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した{{Refnest|group="出典"|{{R|東洋経済2101|活動屋人生_6-7|死なず_213-214}}}}。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬2011071_62-63}}}}。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという{{R|キネ旬2011071_62-63}}。 |
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高身長で押し出しのきく体型。大きな声に強烈な自己発現力。そこから発せられる[[広島弁|広島なまり]]{{R|kinejun110622}}(時に[[近畿方言|関西弁]]・[[関東方言|関東弁]]の場合も)の弁舌は相当な風圧{{R|映画芸術2011_137}}。ひとしきり"吠える"と必ず「なあおい!」が口癖。気の弱い者にはかなりのストレスだったという{{R|映画芸術2011_137}}。 |
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*[[1953年]]、[[深作欣二]]は入社間もない頃、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと "[[性行為|お○○こ]]" する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の[[工藤栄一]]に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという<ref>『東映映画三十年』東映、1981年、p232</ref>。 |
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=== 東映ラインナップ === |
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*[[工藤栄一]]は、岡田を「色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う」と評している<ref>工藤栄一 ダーティ工藤『光と影 映画監督 工藤栄一』ワイズ出版 2002年、p67</ref>。 |
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大川博は映画づくりはズブの素人だったため{{Refnest|group="出典"|{{R|映画撮影223|実業往来199309|経済界850212}}}}、企画選定に干渉せず{{Refnest|group="出典"|{{R|映画撮影223|kinejun196572|大塚}}}}、大川時代の東映は、企画の最終決定は[[マキノ光雄]]が握っていた{{R|w–sankei71115}}。マキノの下で実際の製作を岡田が責任を持って行った{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|w–sankei71115|Hotwax2_181|kinejun1996201}}}}。マキノが1957年に亡くなると企画の最終決定は[[東映東京撮影所|東]]・[[東映京都撮影所|西の両撮影所]]所長が持つようになった{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun196572|w–sankei71115}}}}。つまり岡田は京都撮影所(以下、京撮)所長に就任した1962年から企画の最終決定を持っていた{{Refnest|group="出典"|{{R|映画撮影223|w–sankei71115}}}}。勿論、京撮所長が反対側の[[東映東京撮影所]](以下、東撮)所長が決めた企画をひっくり返すことは出来ない{{R|w–sankei71115}}。大島渚自身が失敗作と認める<ref>{{Cite book|和書|author=大島渚|authorlink=大島渚|year = 1968|title=曠野の歌 深尾道典作品集|chapter=深尾道典の世界|publisher=大光社|isbn=|page=20}}>{{Cite journal|和書 |author = [[増村保造]]・大島渚 |title = 増村保造・大島渚対談 日本映画に就て語ろう 〈二人の作家による日本映画分析〉 |journal = キネマ旬報 |issue = 1972年1月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 76 }}</ref>『天草四郎時貞』は、岡田が東撮所長時代に京撮の辻野公晴の企画を<ref>{{Cite journal|和書|author=[[長部日出雄]]|date=1962年6月号|title=大島渚と『天草四郎時貞』|journal=[[映画評論 (雑誌)|映画評論]]|publisher=映画評論社|pages=17}}</ref> 当時の京撮所長が通したもの{{R|日本映画発達史Ⅳ_133}}。岡田は1964年2月に東撮所長から京撮所長に転任するが、その後の東撮も岡田が残した任侠路線や好色路線を踏襲したことから、岡田は東映作品のラインナップを事実上指揮した{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|完本石井輝男_129|七つの顔を隠し続けた男_51-52|週刊朝日19711126|シナリオ6605|映画撮影243}}}}。岡田は[[1968年]]に製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長{{R|活動屋人生_326-334}}、同年秋に製作から営業までを一貫して統括する映画本部長に就任し映画会社の社長の立場に匹敵する権限が与えられた{{R|キネ旬1968121_38-41}}。1971年1月にテレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握{{Refnest|group="出典"|{{R|映画人_122|文化通信ジャーナル201106_34}}}}。大川の逝去で、このまま1971年8月社長に就任すると長らく取締役を置かないワンマン体制を敷き{{Refnest|group="出典"|{{R|実業往来199309|五島岡田}}}}、2002年6月に相談役になるまでに実質40年の間、東映の企画の最終決定を行った{{Refnest|group="出典"|{{R|nerima-eizobunka230919|実業往来199309|映画撮影202}}}}。この間、岡田のOKが出なければ東映で企画は通らなかった{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_43-53|映画撮影223|シネ・フロント70_89}}}}。 |
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=== 萬屋錦之介と美空ひばり === |
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*東映が[[1954年]]から二本立て体制を始めたのは前年、大川とマキノがアメリカに行ったら二本立てをやっていて「わしらも帰ってやろう」と考えた単純な動機から。「どうやるんですか」と岡田が聞いたら「何でもええ、子供向けのチャラチャラしたもんを1週間に1本やれ(作れ)」と言われたという<ref>『東映映画三十年』東映、1981年、p226</ref>。全員を集めて「やるしかないんだ。三部作を原則にいこう」と檄を飛ばした。いまでいうテレビ番組をつくる感覚であったという<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。 |
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マキノ光雄とともに[[美空ひばり]]を引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長。田岡は「ひばりを[[クレジットタイトル|タイトル・ロール]]の常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。[[萬屋錦之介|中村錦之助]]や[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]は、なにしろ[[歌舞伎]]界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという{{Refnest|group="出典"|{{R|私の履歴書_29-32|クロニクル2_1-8|波瀾_94-104|それでも_151-152}}}}。[[高岩淡]]の証言では、この時の料亭での話し合いには、ひばりとマキノはおらず、岡田と田岡、加藤喜美枝の三者による話し合いで、田岡、加藤が「ひばりの名前を出演者のトップに出せ」と言って聞かないので、「歌舞伎界の御曹司([[萬屋錦之介|中村錦之助]])をトップにしないわけにはいかない。今回はひばりさんはトメ(出演者の最後)にしてください。ひばりさんをトップにするなら、相手役は[[里見浩太朗]]になりますよ」と、岡田がはっきり言い返したので、田岡が感心して「この人の言うとおりや」と逆に加藤を論したという{{Refnest|group="出典"|{{R|アサ芸20130131|銀幕_47}}}}。 |
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田岡は岡田の度胸に惚れ込んで、以来、京都に立ち寄る度にスタッフ全員分の[[きんつば]]を[[土産]]に撮影所の陣中見舞いに訪れ、その労をねぎらうようになったという{{R|あかん_110}}。田岡が京都の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]「[[ベラミ (ナイトクラブ)|ベラミ]]」で[[鳴海清]]に撃たれて負傷した1978年7月11日も、この日の前日焼けた京撮の火事見舞いの帰りだった<ref>{{Cite book | 和書 | title = ベラミ伝説 | author = 吉田一博 | publisher = [[データハウス]] | year = 1991 | id = ISBN 4-88718-100-0 | pages = 215-221 }}</ref>。また後に東映がヤクザ映画に方向転換した際は、取材協力だけでなく、他の組とのトラブルに巻き込まれないように気を配ってくれたという{{R|あかん_110}}。田岡は生前「岡ちゃん、あんたがヤクザなら、俺以上の親分になっとるわ」と感心していたという{{Refnest|group="出典"|{{R|postseven20131229|あかん_110}}}}。 |
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*1954年、製作課長時代に東映に移籍してきた[[萬屋錦之介]]を唯一説得できる存在であった。錦之助は『[[笛吹童子]]』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]の作品には若いファンがいない。だから錦之助や[[東千代之介]]の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、「ダメだ」と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると[[内田吐夢]]や[[伊藤大輔]]、[[田坂具隆]]ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は"巨匠離れ"ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は「そんなこと言ってると人気が落ちるぞ」とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって「岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ」と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、[[有馬稲子]]からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には「年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年棒が多いんだよ」と言うと、有馬は「そうよねー」と頷いていて、錦之助に「お前はそんな柄じゃない」などと説得したが聞き入れず。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し『[[宮本武蔵 (1961年の映画)|宮本武蔵]]』五部作の完結編『[[宮本武蔵 巌流島の決斗]]』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた<ref>[[内田吐夢]]『人間の記録105 映画監督五十年』、[[日本図書センター]]、1999年、、p187-188</ref>。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は「このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ」「お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ」との条件を出し錦之助を説得、[[1966年]]錦之助は東映を円満退社した。 |
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ひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると『岡田さん、岡田さん』と岡田を呼び『岡田さん以外とは話さない』と言っていたという{{Refnest|group="出典"|{{R|美空ひばり|悔いなき_279}}}}。岡田は[[神戸芸能社]]との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは[[小林旭]]と結婚した1962年あたりから映画や[[浅草国際劇場]]での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた{{R|美空ひばり_318-321}}。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、『[[江利チエミ]]で大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです』と、[[新宿コマ劇場]]から要請のあった初の[[座長]]公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた{{R|美空ひばり_318-321}}。『お嬢の座長公演のスタートは、女の花道』との演題で[[川口松太郎]]に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一か月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた[[沢島忠]]を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が『東宝から[[淡島千景]]を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする』という[[バーター]]案で、これにより沢島の貸し出しが決まった{{R|沢島忠全仕事_262_288-294_302-309}}。沢島はこの後[[1967年]]、岡田が『もう時代劇はやらない』というので東映を辞め、東宝系の[[東京映画]]に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した{{Refnest|group="出典"|{{R|沢島忠全仕事_262_288-294_302-309|新宿コマ_公演年譜|Geocities資料庫_沢島忠}}}}。 |
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*予想通り「中村プロダクション」はうまくいかず11年後、錦之介は再び岡田のところへやってきた。「何かいい企画はないか」というから「『[[柳生一族の陰謀]]』をやれ」といった。これが大成功を収めて封切日の夜、錦之助と岡田は二人して抱き合いながら錦之助の母上に成功の報告をしていたという<ref>キネマ旬報、2011年7月上旬号、p62-63</ref>。元気づいた錦之助はこの後、同じ[[深作欣二]]監督で『[[赤穂城断絶]]』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた。この映画は錦之助に[[吉良上野介]]をやらせて、吉良の眼から見た[[忠臣蔵]]にしようとしたが、周囲の歌舞伎関係の人たちから猛反対に遭い断念した。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして「俺が言っておくから、[[松竹]]の[[永山武臣]]会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろう」と言ったが、錦之助は「俺は映画の錦之助として死にたい」と言ったという<ref name="business.nikkeibp"/><ref>キネマ旬報、1997年12月16日号、p16-21</ref><ref name="クロニクル東映282283">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p282-283</ref><ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p105-115、184-188</ref>。 |
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当時22歳の萬屋錦之介と17歳の美空ひばりは、共演後にたちまち恋仲となったが、ふたり共に、これから上り詰めていこうという絶好調の大スター同士で周囲が猛反対した{{R|銀幕_49}}。それでも別れないふたりに田岡は困り果て、岡田に別れさせてくれと頼み、岡田がふたりを別々に呼んで諄々と諭して別れさせたという{{R|銀幕_49}}。 |
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*[[1957年]]、47歳の若さで死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳の若さで予算主義を現場で取り仕切る<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/>。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜けるその豪腕は<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら一回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000~5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中の[[NG]]も二カットに1回しか認めない。当時の東映は、すべての[[経費]]で[[人件費]]がいちばん安く、[[フィルム]]代がいちばん高かったため。こうした<鬼の岡田>の厳格なスケジュール・予算管理が徹底されたからこそ、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した<ref>春日太一『時代劇は死なず!』、p213、214</ref>。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した<ref name="キネ旬201176263">キネマ旬報、2011年7月上旬号、p62-63</ref>。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという<ref name="キネ旬201176263"/>。東映の両御大・[[片岡千恵蔵]]、[[市川右太衛門]]の使う黒塗りの[[ハイヤー]]を中止させ、ロケバスに同乗させた<ref name="乾杯!ごきげん映画人生"/>。 |
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1954年、岡田が製作課長時代に東映に移籍してきた[[萬屋錦之介]]を唯一説得できる存在であった。錦之助は『[[笛吹童子]]』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]の作品には若いファンがいない。だから錦之助や[[東千代之介]]の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、『ダメだ』と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると[[内田吐夢]]や[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[田坂具隆]]ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は“巨匠離れ”ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は『そんなこと言ってると人気が落ちるぞ』とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって『岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ』と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、[[有馬稲子]]からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には『年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年俸が多いんだよ』と言うと、有馬は『そうよねー』と頷いていて、錦之助に『お前はそんな柄じゃない』などと説得したが聞き入れず社長たちの{{R|社長たちの映画史_378-380}}。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し「[[宮本武蔵シリーズ (内田吐夢監督作品)|宮本武蔵シリーズ]]]」五部作の完結編『[[宮本武蔵 巌流島の決斗]]』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた{{R|映画監督五十年_187-188}}。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は『このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ』との条件を出し錦之助を説得{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_391-392|社長たちの映画史_378-380}}}}、[[1966年]]錦之助は東映を円満退社し『中村プロダクション』を設立したが[[1982年]]に倒産、岡田らの口利きで『ビッグヒル新社』という再建会社を設立したがこれも倒産した{{R|週刊新潮_19820311_13}}。錦之介は再び岡田のところへやってきて『[[柳生一族の陰謀]]』へ出演することとなる。 |
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*マキノ光雄とともに[[美空ひばり]]を引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長。田岡は「ひばりを[[クレジットタイトル|タイトル・ロール]]の常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。[[萬屋錦之介|中村錦之助]]や[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]は、なにしろ[[歌舞伎]]界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」 その時、ひばりが「いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから」と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref name="岡田茂自伝94104">『波瀾万丈の映画人生』、p94-104</ref><ref>[[私の履歴書]] 経済人38 [[日本経済新聞社]]、2004年、p29-p32<br />『僕らはそれでも生きていく!』、小石原昭、p151-152</ref>。 |
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=== 格闘映画 === |
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*こうした一件もあってひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると「岡田さん、岡田さん」と岡田を呼び「岡田さん以外とは話さない」と言っていたという<ref>『悔いなきわが映画人生』、p279</ref>。岡田は[[神戸芸能社]]との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは[[小林旭]]と結婚した1962年あたりから映画や[[浅草国際劇場]]での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた<ref name="美空ひばり時代を歌う">[[大下英治]]『美空ひばり-時代を歌う』、[[新潮社]]、1989年、p318-321</ref>。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、「[[江利チエミ]]で大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです」と、[[新宿コマ劇場]]から要請のあった初の[[座長]]公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた<ref name="美空ひばり時代を歌う"/>。「お嬢の座長公演のスタートは、女の花道」との演題で[[川口松太郎]]に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一ヶ月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた[[沢島忠]]を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が「東宝から[[淡島千景]]を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする」という[[バーター]]案で、これにより沢島の貸し出しが決まった<ref name="沢島忠全仕事">『沢島忠全仕事』、p262、288-294、302-309</ref>。沢島はこの後[[1967年]]、岡田が「もう時代劇はやらない」というので東映を辞め、東宝系の[[東京映画]]に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した<ref name="沢島忠全仕事"/><ref>[http://www.koma-sta.co.jp/history/komageki.html 新宿コマ劇場 公演年譜一覧]</ref><ref>[http://www.geocities.jp/kmkr_01/stage02.html 映画監督による舞台演出 沢島忠]</ref>。 |
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格闘をモチーフとした[[アクション映画]]は[[1956年]]の『[[空手打ちシリーズ]]』([[高倉健]][[主演]])からだが、[[1960年代]]に入ると[[柔道]]を正式競技とする[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]を先取りした『[[柔道一代シリーズ]]』([[千葉真一]]主演)や、テレビドラマでも[[桜木健一]]を主役にすえた『[[柔道一直線]]』を制作していた( ⇒ [[#テレビドラマ]])。[[1973年]]の[[空手]]をモチーフとした千葉真一主演『[[ボディガード牙シリーズ]]』は、[[週刊サンケイ]]に連載していた[[梶原一騎]]の[[劇画]]を映画化したもので、『[[巨人の星]]』・『[[あしたのジョー]]』・『[[空手バカ一代]]』と梶原が次々ヒット漫画・劇画を発表していたので岡田は注目していた。 |
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4か国合作『[[東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯]]』(千葉真一主演)のシナリオハンティングで、[[1973年]]の[[夏]]に[[香港]]を訪れた[[高田宏治]]が劇場で『[[燃えよドラゴン]]』を観て「香港にとんでもなく面白い映画がある」と、岡田へ日本で一般公開される前に[[試写会|試写]]で観せた{{R|あかん_344}}。「オモロイやないか。カンフーを[[カラテ]]に置き換えて、千葉で行け(千葉真一を主演に据える){{R|あかん_344}}」と岡田が号令を出して製作したのが[[1974年]]の『[[激突! 殺人拳]]』{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_43-53|toei70th_108|toei70th_109}}}}。[[東映]]にとって久々の大ヒットを飛ばした作品となり、当時の岡田は何をやってもうまくいかなかったが、よっぽど嬉しかったらしく[[祝電]]をいっぱい打っていた{{R|困った_91-92}}。 |
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*[[俊藤浩滋]]が東映に関わるようになるのは[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]「おそめ」に顔を出していて、この「おそめ」の、みな常連客だった[[鶴田浩二]]の東映移籍や、[[水原茂]]の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]監督招聘の仲介などで[[大川博]]と縁を深めていったものだが、東映の「映画」をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に「なにかいい企画はないか」と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。「俺をプロデューサーにしてくれ」と岡田に頼んできたのは俊藤からだという<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p149</ref>。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった<ref>『風雲映画城 下』、p125-130<br />石井妙子『おそめ 伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』、洋泉社、2006年、p269-271</ref><ref name="nikkansports">[http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo011013.html 日刊スポーツ・訃報・俊藤浩滋さん]</ref>。 |
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{{Main|激突! 殺人拳}} |
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[[フランシス・フォード・コッポラ]]が千葉真一と[[アル・パチーノ]]の共演で映画を作りたいと岡田に打診してきたことがある{{R|活動屋人生_62-73}}。[[アメリカ州]]・[[欧州]]・[[東南アジア]]で千葉の主演作品『[[殺人拳シリーズ]]』・『[[地獄拳シリーズ]]』が大ヒットしていた頃、岡田に「海外で勝負させてください」と千葉は頼んだが{{R|ニッカン20030330web_千葉真一}}、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対された{{R|千葉流_242-243}}。[[ジャパンアクションクラブ]](JAC)のことも悩み、他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた{{R|週刊朝日20110107_70}}。 |
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*[[若山富三郎]]は[[1959年]]、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p104-105</ref>。[[1960年]]東映に移籍した[[鶴田浩二]]は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、「現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか」という岡田からの相談を受けた[[俊藤浩滋]]が、「それなら鶴田浩二がぴったりや」と移籍の交渉を引き受け「東宝には[[三船敏郎]]がいるから、どうやったって上に行かれへん」などと鶴田を口説いたもので、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、円満移籍になったという<ref name="風雲映画城83125"/><ref>[[俊藤浩滋]]、[[山根貞男]]『任侠映画伝』[[講談社]]、1999年、p92-94</ref>。 |
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[[鈴木則文]]が提出した三作品の企画を自らで潰しておきながら、京都へ帰ろうと挨拶に来た失意の鈴木に「京都時代に俺とお前で作った『[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]]』のカラテ版をつくる。主演は[[香港]]から呼ぶ。『[[燃えよドラゴン]]』で[[ブルース・リー]]の妹役を演った[[アンジェラ・マオ]]と交渉した香港支社から、今OKの知らせが入った。すぐ脚本の準備に入れ」と電光石火で企画を成立させる{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_110|ちくま13|ちくま14}}}}。「日本語なんか喋れなくてもあの子は売れるぞ。緋牡丹のお竜のカンフー版だ。お前のシリーズになるぞ。題名はこれだ」と岡田が付けた題名が『[[女必殺拳シリーズ|女必殺拳]]』(1974年)であった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_110|ちくま13}}}}。しかしアンジェラ・マオが諸事情で不出演となり、千葉が推薦してきた愛弟子・[[志穂美悦子]]の抜擢となった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_110|ちくま13|秘宝200804_84|週刊朝日19750606_17|秘宝201012_101}}}}。志穂美は「現代版お竜」を謳い文句に、「日本初の[[スタントマン|スタントウーマン]]」と銘打って『女必殺拳』で主演デビュー{{R|週刊サンケイ19740801_28}}、『女必殺拳』はシリーズ化され、志穂美の出世作となった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_110|ちくま13|秘宝200804_84|週刊朝日19750606_17|秘宝201012_101}}}}。志穂美は『華麗なる追跡』などにも主演していく{{R|toei70th_110}}。志穂美に続き、千葉の秘蔵っ子・[[真田広之]]が『[[忍者武芸帖 百地三太夫]]』(1980年)、『[[吼えろ鉄拳]]』(1981年)、『[[燃える勇者]]』(1981年)と主演し、アクションスターとして売り出された{{R|toei70th_111}}。初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、[[ジャッキー・チェン]]の[[カンフー映画|香港カラテ映画]]を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム82_154-155|シネアルバム88_0-5}}}}。[[2002年]]、[[日刊スポーツ映画大賞]]の表彰式で『[[たそがれ清兵衛]]』で主演男優賞を獲得した[[真田広之]]について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した{{R|ニッカンdeadlink_映画大賞}}。 |
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*1960年東映に入社した[[三田佳子]]は、「岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した」と話している<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00294.htm?from=related 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列]<br />[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110511/ent11051106140000-n1.htm 菅原文太、岡田氏に別れ「もうケンカできない」+(1/2ページ) - MSN ] 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列]</ref>。 |
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=== ニュー東映とアクション映画 === |
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*[[1961年]]、東京撮影所長に着任し[[高倉健]]や[[鶴田浩二]]ら男性スターの"現代アクション路線"を敷く<ref name="風雲映画城83125"/><ref>「映画秘宝」2009年3月号、p23</ref>。その配給=ニュー東映の量産体制を担うべく、露骨に日活の「[[小林旭|渡り鳥シリーズ]]」のマネをしろと抜擢したのが深作欣二らだった。深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961年)は、のちに深作がアクション演出を活かしたTVシリーズ「[[キイハンター]]」([[TBSテレビ|TBS]]系、1968年 - 1973年)の先駆けともいえる作品となっている<ref>深作欣二の軌跡、[[キネマ旬報社]]、2003年、p154</ref>。 |
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[[1961年]]、[[東映東京撮影所]]の所長に着任し、[[ニュー東映]]の量産体制を担うべく、[[深作欣二]]ら[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]を[[映画監督|監督]]へ昇格。[[千葉真一]]が初主演で深作の監督デビュー作『[[風来坊探偵 赤い谷の惨劇]]』は、[[日活]]の『[[ギターを持った渡り鳥|渡り鳥シリーズ]]』をマネしろと製作されたものだが、それでも物語はスピーディーかつドライな独自なものに仕上げられた{{R|千葉流_140-141}}。同年に千葉・深作コンビの『[[ファンキーハットの快男児シリーズ]]』は『[[風来坊探偵シリーズ]]』より現代的な作品になっており{{R|千葉流_140-141}}、[[高倉健]]・[[鶴田浩二]]らもニュー東映の“現代アクション路線”に出演していた{{Refnest|group="出典"|{{R|風雲_83-88_104-125|秘宝200903_23}}}}。岡田は[[体操競技|器械体操]]で使用される器具を次々東京撮影所に設置し、千葉へ撮影の合間にトレーニングするよう指示していた。千葉と深作は東映の外に出て、[[1966年]]の[[日本映画|日本]][[台湾映画|台湾]]合作映画『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』でもコンビを組んでいるが、これらはテレビドラマ『[[キイハンター]]』(1968年 - 1973年、[[TBSテレビ|TBS]])の先駆けともいえる作品となっている{{R|深作欣二の軌跡_154}}。深作の[[1962年]]作品『[[誇り高き挑戦]]』は各方面から賞賛されたが、お客が入らず、岡田が深作に「駄目や、全然違うじゃないか。お前、ジャーナリズムとか批評家なんかに褒められて、いい気になったらあかんぞ」「お前、もっとドンパチやれ。ドンパチやらないからいけないんだ。『[[ギャング対Gメン]]』、これをやれ」と同作を撮らせた{{R|監督深作欣二_111}}。岡田は当時テレビで日本でも人気があった「[[アンタッチャブル (テレビドラマ)|アンタッチャブル]]」でいけ、と指示を出し、これを脚本の[[村尾昭]]が馬鹿丁寧にパクり、岡田は「これは面白い」と褒めたが、なんぼなんでもそっくり過ぎな映画になっている{{R|監督深作欣二_111}}。しかし[[三島由紀夫]]は何故かこの作品を褒めたという{{R|監督深作欣二_111}}。 |
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『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』(1965年)は、元々[[三國連太郎]]が、岡田が手がけた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”として、岡田に企画を提出したのが始まり。 |
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*[[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]は、高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の[[勝新太郎]]が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて[[大映]]に引き抜こうとした。引き抜きは阻止したが、松方は1969年から1970年に数本、[[大映]]で主演作品がある<ref name="岡田茂自伝188190"/><ref name="news24"/>。 |
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{{Main|網走番外地 (東映)}} |
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[[大映]]のアクション時代劇を観た岡田は [[吹き替え]]・[[スタントマン]]の重要性に気づくが、当時の東映の大量生産体制でスタントマンを養成する余裕がないため、手っ取り早く、日本最初のスタントマンともいわれる[[宍戸大全]]を大映から引き抜く{{R|土橋亨}}。明るく楽しい時代劇では、いつか観客離れがくると、将来の時代劇アクションという方向性を模索していた。ところが当時は 吹き替え・スタントマンという専門職がまだ確立されていない時代、また宍戸も大映に所属し[[五社協定]]で移籍は不可能であるが、岡田は何のトラブルもなく宍戸を破格の待遇で東映に移籍させた。また100万円をポンと出して諸道具を購入させた。この諸道具は[[1962年]]、大映で[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]主演で『[[忍びの者#映画|忍びの者]]』がシリーズ化されると、諸道具一式と宍戸を込みで大映に貸し出し、一作品当たり50万円(計8本)を請求して充分元を取った{{R|土橋亨}}。宍戸を引き抜いたものの、間もなく時代劇を終了させ、着流しヤクザ路線へ舵を切るため、宍戸をあまり活かせず、宍戸は[[1967年]]フリーとなる{{R|土橋亨}}。 |
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*[[1962年]]、映画『王将』で東映作品に初主演した[[村田英雄]]に「[[金剛力士|仁王]]の[[刺青]]を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p137</ref>。 |
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=== 仁侠映画 === |
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*[[北島三郎]]は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと[[俊藤浩滋]]さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している<ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="hochi2011510">[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00018.htm 「男の美学」岡田茂氏、家族以外の見舞い断る…東映・樋口顧問明かす]</ref>。 |
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[[File:Tsuruta-Koji-5.jpg|thumb|240px|『[[人生劇場 飛車角]]』(1963年)]] |
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岡田プロデュースによる1963年『[[人生劇場 飛車角]]』は、東映任侠路線の幕開けとなった作品で{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkansports110509|nerima-eizobunka230919|東映キネマ旬報_17|東映_任侠・実録|toei70th_1OO|ddnavi314297}}}}、過去何度も映画化された青成瓢吉を主人公とする[[青春映画]]では当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据え[[ヤクザ映画]]に変えたものである{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル1_170-171|昭和の劇_140|追悼上映}}}}。『飛車角』路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkansports110509|nerima-eizobunka230919|秘宝2_276-280|東映_任侠・実録|風雲_83-88_104-125|日本経済新聞20110510_13|任侠が青春_6-11}}}}。 |
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{{Main|人生劇場 飛車角}} |
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この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』『[[御金蔵破り (映画)|御金蔵破り]]』『集団奉行所破り』『大喧嘩』『[[忍者狩り]]』『[[間諜 (1964年の映画)|間謀]]』『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』『[[十兵衛暗殺剣]]』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『[[徳川家康 (1965年の映画)|徳川家康]]』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|私の30年_142-149}}}}。岡田は『[[風にそよぐ葦#映画|風にそよぐ葦]]』(1951年)や『[[陸軍残虐物語]]』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた{{R|スクリプター_123-124}}。 |
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*東映入社後、なかなか芽の出ない[[高倉健]]をスターにしようと[[1962年]]、かつて[[市川崑]]監督が撮って大当たりした[[小島政二郎]]原作の『[[三百六十五夜]]』の再映画化を企画。[[美空ひばり]]を主演にして[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]の[[三人娘]]を総登場させ高倉健、[[鶴田浩二]]を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した<ref>『小説東映 映画三国志』、p211-214<br />『風雲映画城 下』、p72-73</ref>。翌[[1963年]]、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『[[人生劇場 飛車角]]』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて[[1964年]]、岡田が「[[忠臣蔵]]を下敷きにした群集劇を」と企画し[[笠原和夫]]に命じて書かせた『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』シリーズ(-1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した<ref name="クロニクル東映172175"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="マキノ雅弘の世界22"/><ref>『ポスターでつづる東映映画史』、p193</ref>。 |
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[[1972年]]、岡田が総指揮を執った[[藤純子]]の『[[純子引退記念映画 関東緋桜一家]]』が大ヒットした後、任侠映画の当たりがもうひとつの状況を迎えた。同年秋に[[安藤昇]]の『[[やくざと抗争]]』が予期せぬヒットを放ったため、即座に続編の製作を命じ、この続編のタイトルに『[[やくざと抗争 実録安藤組]]』というタイトルを付けた。暗中模索の中で岡田の頭にひらめいたのが"実録路線"である{{R|活動屋人生_34-35}}。これが『[[仁義なき戦い]]』の誕生になり、『[[山口組三代目]]』に繋がる{{R|活動屋人生_34-35}}。『仁義なき戦い』シリーズは、[[実録シリーズ|東映実録路線]]といわれ、その後、多くの実録[[ヤクザ映画]]が製作された([[#実録]])。 |
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*東映任侠路線の幕開けとなった『[[人生劇場 飛車角]]』(1963年)で、そのタイトルをめぐって、『[[人生劇場]]』の作者である[[尾崎士郎]]が「飛車角を入れたらヤクザ映画だ」と主張したが一歩も譲らず押し通した<ref name="日経2011510"/><ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p153-p155</ref><ref name="キネ旬201174142">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p41-42</ref>。『人生劇場』は元々、青成瓢吉を主人公とする[[青春映画]]で過去何度も映画化されたものだが、今までと同じでは当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据え[[侠客]]映画に変えたもの<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p170-171<br />『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫、[[荒井晴彦]]、[[絓秀実]]、[[太田出版]]、2002年、p140</ref>。監督には現代的センス溢れる演出を買い[[沢島忠]]を起用した<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="キネ旬201174142"/>。「飛車角」路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="日経2011510"/><ref name="風雲映画城83125"/><ref name="toeininkyo"/><ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』徳間書店、2004年、p6-11</ref>。新しいチャンバラ映画の開発に賭けた岡田の目論見通りにいったのである<ref>鎧を着ている男たち、徳間書店、1987年、p10-13</ref>。映画が大ヒットした理由は、非常に展開がスピーディであったこと、それから当時、[[鶴田浩二]]と[[佐久間良子]]が恋人関係にあって、二人が琴瑟相和すという名演技を見せたこと、ラストの斬新な点など<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="toeininkyo"/><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p140</ref>。大ヒットしたことで『続・飛車角』、『新飛車角』なるものまで作られたが、『新飛車角』の脚本を岡田に書かされたのが[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]だった<ref>[[荒井晴彦]]『争議あり - 脚本家・荒井晴彦全映画論集』、[[青土社]]、2005年、p349</ref>。笠原は言うまでも無く後年、数多くのヤクザ映画の傑作で名声を高めるが、当時はまだヤクザの"ヤ"の字も分からないとき。これを岡田は「原作は使わなくていい(!?)」というとんでもな注文を出したため、笠原は好き勝手なプロットを作って尾崎士郎にお伺いを立てに行った。既に病床に身で、声を出すのも辛そうな尾崎は説明が終わると、嗄れた声で「いいよ」と一言だけ、あとは黙ってしまったという。「オレの小説をメチャクチャにしやがって!」と腹中は煮えくり返る思いがあったに違いないが、もしもあの時、尾崎が元気で突っぱねたら〈東映任侠路線〉の隆盛は無かったのでないか、つまり〈東映任侠路線〉は、尾崎の病気に便乗して芽吹いたものと笠原は話している<ref>鎧を着ている男たち、徳間書店、1987年、p10-13</ref>。1970年代に入って実録路線に転換すると1974年に『実録飛車角・狼どもの仁義』という『仁義なき戦い』と『飛車角』を合体させたようなムチャな映画を製作した。これには尾崎の遺族が抗議した<ref>週刊サンケイ、1974年10月24日号、p33</ref>。 |
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=== 京撮の大リストラ === |
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*この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』、『御金蔵破り』、『集団奉行所破り』、『大喧嘩』、『忍者狩り』、『間謀』、『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』、『[[十兵衛暗殺剣]]』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『[[徳川家康 (1965年の映画)|徳川家康]]』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した<ref name="business.nikkeibp"/><ref>『私の東映30年』、p142-149</ref>。 |
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1964年、所長として[[東映京都撮影所|京都撮影所]]に帰還{{Refnest|group="出典"|{{R|東洋経済2101|社長たちの映画史_357-359|あかん_215|歴史が眠る多磨霊園_大川博}}}}。「日本で最低の撮影所」ともいわれた[[東映東京撮影所]]を『[[人生劇場 飛車角]]』の大ヒットなどで甦らせたばかりであったため、[[鶴田浩二]]などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという{{R|沢島忠全仕事_249}}。大川からの最大のミッションが京撮の合理化で、時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた矢先だった{{Refnest|group="出典"|{{R|東洋経済2101|悔いなき_133}}}}。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断。2100人いた人員を一気に900人に減らした{{Refnest|group="出典"|{{R|facebook私と東映神先頌尚_3|秘宝2_276-280|社長たちの映画史_357-359|深作欣二_353-354|悔いなき_147-153}}}}。それだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないとかなり手荒い事をした{{R|オール読物2006_215}}。岡田が最初に手をつけたのは切りやすい現場スタッフではなく、草創期の[[東横映画]]時代から撮影所を支えてきた歴戦の勇士たちであった。[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]、[[月形龍之介]]以下、時代劇俳優・監督・プロデューサーみんなに辞めてもらう{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|風雲_83-88_104-125|toei70th_60|沢島忠全仕事_249|死なず_28}}}}。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた{{Refnest|group="出典"|{{R|映像のスリット_185-186|昭和の劇_1-4}}}}。まずは[[片岡千恵蔵]]と[[市川右太衛門]]の両〈御大〉。いずれも専属契約解除を通告、千恵蔵は重役待遇で東映に残り、[[任侠映画]]やテレビ時代劇の脇役として活躍した。右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、取締役としてしばらく在籍した後、相談役に退き東映を退社した。続いて〈天皇〉[[松田定次]]はテレビ映画に移管させた。〈法皇〉[[比佐芳武]]には引退を勧告した{{R|あかん_215}}。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、[[平山亨]]らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという{{R|秘宝200710_XX}}。大川社長から「全権」委任を取り付けていた京撮所長時代の岡田の権力は絶大で{{Refnest|group="出典"|{{R|社長たちの映画史_357-359|interview}}}}、役者も岡田に気に入られなければ役も付かない{{R|interview}}、監督でも一流大学を出て[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]をどれだけ長くやろうとも、一本監督をやって岡田が気に入らなければ「あかんわ、これ」と、二本目を撮ってもダメと評価されたら、「お前な、仕事せんでもええけど給料やるわ」と最後通告され{{R|interview}}、入れ替わりが激しかったという{{R|interview}}。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた{{R|品川隆二と近衛十四郎_74-77}}。切られた側の松田定次や[[東千代之介]]などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある{{Refnest|group="出典"|{{R|nerima-eizobunka230919|品川隆二と近衛十四郎_74-77|悔いなき_272}}}}。時代劇は家族視聴が主体だった当時のテレビ視聴形態にマッチしていたこともあり、重要なコンテンツと目をつけて、任侠路線に馴染めず余剰人員となっていた時代劇のプロフェッショナルたちをテレビに送り込むため、[[東映京都テレビ・プロダクション]]を設立してここへ移管させた{{Refnest|group="出典"|{{R|nerima-eizobunka230919|あかん_215|オール読物2006_215}}}}。[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]、[[河野寿一]]、[[佐々木康]]、[[結束信二]]、[[森田新]]、[[村松道平]]、[[松尾正武]]ら{{R|あかん_215}}。幸い、テレビは時代劇を作りたくてしょうがないのに作る場所がなく、それで東映の撮影所で時代劇をどんどん撮っていった{{R|オール読物2006_214}}。また、それまで京都中心部に当てられていた脚本執筆のための旅館を太秦の東映独身寮に移し、旅館代を浮かせた<ref>{{Cite book|和書|author=春日太一|date=2008年1月1日|title=時代劇マガジン(タツミムック)vol17|chapter=東映京都撮影所60年史|publisher=[[辰巳出版]]|page=84|isbn=|ref=}}</ref>。 |
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=== 喜劇 === |
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*[[富司純子|藤純子]]は京都撮影所に見学に行ったところを[[マキノ雅弘]]にスカウトされ東映入りしたというのが定説だが、岡田は自著に、高校生の藤がカメラを買いたいと「おそめ」<ref>[[俊藤浩滋]]の[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]。</ref>にきて[[俊藤浩滋]]にねだっていたのを見初め、映画に出てもらおうとすぐに連絡を取ったと書いている<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p155</ref>。藤純子の当たり役『[[緋牡丹博徒]]』は当時、[[大映]]が[[江波杏子]]で「女賭博師」シリーズをやっていて、なら東映は女の任侠ものをやろう、女剣劇物を書け、と[[鈴木則文]]に命じ始めたもので、当初考えていたタイトルは『女狼』だった<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p126、127</ref>。藤を想定しての企画のため、藤を口説き「着物を脱いで肌の[[刺青]]を見せなければならないよ」と納得させた上で出演させた<ref name="sankei110511"/><ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p136</ref><ref name="nikkansports"/><ref name="キネ旬2011745">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p45</ref>。もともと時代劇に緋牡丹物は幾つかはあったが「緋牡丹」と「博徒」という一見つながりのない言葉を紡いで勢いのある題名を考え付いた<ref name="キネ旬2011745"/>。「緋牡丹のお竜」という設定も岡田が考えたもの<ref name="dodo-geneki"/><ref>小説東映 映画三国志、p247-p248<br />岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p155<br />山平重樹『任侠映画が青春だった』、p129</ref>。 |
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[[1967年]]、東映でも[[喜劇]]路線を敷こうと、当時[[東宝]]にいた[[渥美清]]を引き抜いた{{Refnest|group="出典"|{{R|スポーツ報知20110510web_訃報|悔いなき_145-146}}}}。その頃東宝には[[森繁久弥]]や[[伴淳三郎]]、[[三木のり平]]ら大御所がいて、渥美はほとんど売れていなかった。[[瀬川昌治]]監督の『喜劇・列車』シリーズほか数本に主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは[[松竹]]が一番水に合うと思うよ」と助言{{R|悔いなき_145-146}}。松竹入りした渥美はほどなく『[[男はつらいよ]]』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる[[若山富三郎]]の『[[極道]]』シリーズ、1975年から始まる菅原文太の『[[トラック野郎]]』シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった{{Refnest|group="出典"|{{R|悔いなき_145-146|ポスター_71}}}}。 |
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[[渡辺プロダクション]]社長・[[渡辺晋]]が[[クレイジーキャッツ]]を東映に売り込んできた際、岡田は[[谷啓]]を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払う[[ギャラ]]の三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、[[ハナ肇]]→[[松竹]]、谷啓→東映、[[犬塚弘]]→[[大映]]、[[植木等]]→[[東宝]]、とそれぞれバラで売り出す[[青写真]]を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという{{R|ナベプロ帝国の興亡_XX}}。 |
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*岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた<ref>『スクリプター 女たちの映画史』[[日本テレビ放送網]]、1994年、p123、124</ref>。 |
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=== 東映ポルノ === |
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*[[佐藤純彌]]は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という[[字幕]]をたっぷりした墨の筆跡で、[[榊莫山]]みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった[[澤井信一郎]]は、この岡田の一言が[[トラウマ]]になり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて[[明朝体]]か[[ゴシック体]]にしているという<ref>澤井信一郎・鈴木一誌『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』、ワイズ出版、2006年、p40、118</ref>。 |
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任侠路線と並ぶ柱を作ろうと文芸路線、喜劇路線を試行するが大きな成果が得られず、1960年代後半から独立プロが製作していた[[ピンク映画|エロ映画]]に目を付け、参入を計ったのが[[東映ポルノ]]である。 |
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{{Main|東映ポルノ}} |
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=== 東映洋画(東映洋画部) === |
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*[[佐久間良子]]は、いわゆるお嬢様役から180度異なる[[娼婦]]役に抜擢され代表作とした『[[人生劇場 飛車角]]』や『[[五番町夕霧楼]]』について、岡田や厳しい教えを受けた[[田坂具隆]]監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている<ref name="クロニクル東映172175"/><ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0032205 日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る]<br />東映映画三十年』東映、1981年、125</ref>。 |
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また1960年代後半から中小の配給会社が輸出して利益を挙げていたピンク洋画(洋ピン)に目を付け、エロ路線の拡大を狙い1972年5月、東映に洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出した。 |
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{{Main|東映洋画}} |
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=== 社長就任とフライヤーズ売却 === |
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*東急社長の[[五島昇]]はソリの合わない大川の扱いに頭を悩まし、[[1964年]]に東映を東急グループから切り離すが1967、8年頃、大川ジュニアがやるボウリング場がものすごく儲かり、猛威を振るっていて、岡田の映画づくりとまったく合わず、東大経済学部の後輩でもある岡田に「ウチ(=東急)に来い」「おまえこのまま東映にいても社長になれんぞ。やがて社長は大川ジュニアになる」「ウチで映画の製作をやらせてやる」と誘われるが、「いまは、東映はおれの子分ばかりなんだ。子分達(=撮影所の連中)を見捨てるわけにはいかない」とこれを固辞した<ref name="小説東急王国"/><ref>『任侠映画伝』、p225、226</ref>。五島は岡田を弟分として何かと目を掛け、相当高く評価していた。[[高岩淡]]の話では、1968年に岡田は[[俊藤浩滋]]、[[今田智憲]]の3人で東映を退社し、[[電通]]と組んで独立会社を作るという案を練っていたという。しかし、現場のトップや監督、役者などが集まったこの年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、みな岡田を囲ってもの凄く、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと、それは素晴らしかったです、で退社の話はなくなったんでしょう、と述べている<ref name="文化通信ジャーナル"/>。なお東急との関係は、1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している<ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p191-p196</ref>。 |
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東急社長[[五島昇]]により「ウチ(東急)で映画の製作をやらせてやる」と社長を請われたことがあるが、岡田は固辞している{{R|任侠伝_225-226}}(1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している{{R|波瀾_191-196}})。[[高岩淡]]の話では、1968年に岡田は[[俊藤浩滋]]、[[今田智憲]]の3人で東映を退社し、[[電通]]と組んで独立会社を作るという案を練っていたが、この年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、現場のトップや監督、役者などがみな、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと発言したために退社の話はなくなったのだろう、と述べている{{R|文化通信ジャーナル200903_77}}。 |
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[[1971年]]当時、大川の息子・毅は、[[ボウリング]]クラブ、[[タクシー]]、[[ホテル]]など、映画以外の事業本部長であったが、うまくいかなくなるにつれ[[労働組合]]が騒ぎ始めた{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル2_1-8|オール読物2006_214}}}}。当時は一株株主というのが流行っていて、毅にプレッシャーをかけていた。1971年4月の[[株主総会]]が近づいてきたとき、岡田は毅に「組合の問題は全部私が処理するから、あなたはどこかへ引っ込んでいてくれ。どこかに行ってる間に解決するから」と伝えた。当時一番の目玉企画だった『[[網走番外地 (東映)|網走番外地シリーズ]]』が控えており、東撮の組合がその製作を辞めると言い出した。当時東映の組合は強かったが岡田は「やるならやってみろ。でも今、会社を潰したってしょうがないぜ」と強気で当たった。しかしどうにも埒があかず手がない。京撮は活動屋の巣でもあり、岡田の古巣、かつ直属の部下である高岩淡を中心に岡田に忠実であったため、岡田が最終的に繰り出した戦法は『網走番外地』を京撮で作ることで手を打ち[[ロックアウト]]をかけた{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_198-201|歴史が眠る多磨霊園_大川博|オール読物2006_214}}}}。当時はロックアウト自体どういうことか誰も知らず、給料ストップらしいということが効き目になった。団体交渉で「条件を呑んでくれれば、払わないわけにもいくまい」と伝え紛争は解決した{{Refnest|group="出典"|{{R|文化通信ジャーナル200903_77|仁義沈没_152-155|オール読物2006_214}}}}。全部が終わったのは総会の前日だった{{R|オール読物2006_214}}。大川博社長から初めて「ありがとう」と言ってもらったが、その直後に大川は体調を崩してそのまま逝去した。 |
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*1964年、[[石井輝男]]に撮らせた『御金蔵破り』は、[[フィルム・ノワール]]『[[地下室のメロディー]]』からアイデアを頂いた時代劇。[[ジャン・ギャバン]]を[[片岡千恵蔵]]、[[アラン・ドロン]]を[[大川橋蔵]]のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・[[朝丘雪路]]のスキャンダルをのせた<ref>石井輝男・[[福間健二]]『石井輝男映画魂』、ワイズ出版、134-136、315頁</ref>。1968年の[[工藤栄一]]監督、岡田の企画『産業スパイ』は、当時、産業スパイが流行っていたため<ref>工藤栄一 ダーティ工藤『光と影 映画監督 工藤栄一』、p149</ref>。 |
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大川社長の逝去で、後任社長には岡田・[[坪井与]]・俊籐浩滋・[[片岡千恵蔵]]らの名前が挙がったが、才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという{{R|千恵蔵一代_139-140_196-198}}。 |
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*[[高田宏治]]は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、その[[プロット]]は、ガリレオという主人公が、[[伴天連]]の[[妖術]]師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけが[[ウジ|ウジ虫]]だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から[[小便]]をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという<ref>西谷拓哉・高田宏治『高田宏治東映のアルチザン』、カタログハウス、1997年、p10、11</ref>。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している<ref>西谷拓哉・高田宏治『高田宏治東映のアルチザン』、p186</ref>。[[小沢茂弘]]も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している<ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p79</ref>。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している<ref>『任侠映画伝』、p165</ref>。 |
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社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時[[通産大臣]]だった[[田中角栄]]を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた{{R|それでも_157-158}}。「お断りします。それは[[住友銀行|住友]]ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて[[五島昇]]の所に行ったところ「[[三菱銀行|三菱]]にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行[[頭取]]の[[伊部恭之助]]に会うと慌てて「それは違う。[[堀田庄三]]さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった{{R|それでも_157-158}}。 |
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*日本映画史上ベストテンにしばしば挙がる[[1965年]]、[[内田吐夢]]監督『[[飢餓海峡]]』も岡田の企画。[[東映東京撮影所|東撮]]所長として『[[五番町夕霧楼]]』、『[[人生劇場 飛車角]]』、『[[王将 (1962年の映画)|王将]]』とヒット作を連打し、意気軒昴の岡田が[[東京オリンピック]]の行われる[[1964年]]に向けて、目玉作品として腐心の末決定したのが[[水上勉]]原作の「[[飢餓海峡]]」の映画化であった。「内田吐夢さんに現代劇を撮らせたい」と内田を説得し、脚本に[[鈴木尚之]]を起用したが、大川社長から労組対策で再度[[東映京都撮影所|京撮]]所長に戻れと命じられ、脚本の完成を見ずに、後事を辻野力弥に託し1964年2月京撮に転任した。岡田はヒロイン・杉戸八重役には[[佐久間良子]]を推したが、内田は[[左幸子]]を起用した。脚本、撮影ともに難航、また所長が辻野の後は[[今田智憲]]と三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ。撮影が終了したのが1964年12月初旬。当初、映画の公開は11月を予定していたが、封切は1965年1月に変更となった。完成時の本作は200分に及び、あまりにも長いため、東映はフィルムカットを決定した。これを内田に無断で進めたため、内田が、短縮版を封切るなら「監督・内田吐夢」の文字を外せと強く反発、「カット事件」として大騒ぎになった。[[スポーツ紙]]は競って連日、大見出しで事件を報道し映画界も騒然となった。内田が京都の岡田に相談に来たため、大川社長と二人で話してくれと段取りをつけ、大川と内田の二者面談での歩みより183分の修復版を作ることが決定。直営館では183分の修復版、その他の契約館では167分の短縮版を上映するという条件を内田に飲ませた、と岡田は自伝『悔いなきわが映画人生』には書いている。本作はこの「カット事件」と莫大な予算超過の問題で、岡田以下幹部が大川から始末書の提出、減給処分を受けた。各人が書いた始末書の全文は一字の違いもなく、撮影所の掲示板に張り出され、見学者が後を絶たない程の酷い辱めを受けた。本作の製作のクレジットは大川であるが、岡田は『[[飢餓海峡]]』は3人の所長を代表とする東撮の従業員が打ち立てた青春の記念碑であった、と述べている<ref name="クロニクル東映200201"/><ref name="私説内田吐夢伝"/><ref name="悔いなきわが映画人生144145"/><ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1965/co000150.htm 1965年の映画『飢餓海峡』のスタッフ・キャスト一覧(jmdb)]※初公開時の完全版、およびカット版の上映状況についても記されている。</ref>。 |
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[[1972年]]秋、経営窮状の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げて[[パ・リーグ]]は崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄を[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]・オーナー[[中村長芳]]が[[太平洋クラブ]]の支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌[[1973年]]1月、[[PR]]効果だけが目的と思われる[[不動産]]会社・[[日拓ホーム]]にフライヤーズを売り飛ばした{{Refnest|group="出典"|{{R|多田3|ZAKZAK20141204|sponichi20110510_kiji}}}}。日拓への売却の経緯は「[[今里広記]]を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝([[西村拓郎]]の父)に球団経営を勧めたもの。売却額も8億円と書かれたものが多いが{{Refnest|group="出典"|{{R|スポーツ報知20110510web_訃報|歴史が眠る多磨霊園_大川博|サンデー毎日19730204_23}}}}、岡田は自伝で3億円と書いている{{R|波瀾_211}}。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた{{Refnest|group="出典"|{{R|闘技場の人_14-15_27-28|ZAKZAK20040908_球界}}}}。 |
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*[[1964年]]、大川の命で京撮のリストラ対策に京撮所長に再び戻る。「日本で最低の撮影所」ともいわれた[[東映東京撮影所]]を『[[人生劇場 飛車角]]』などで甦らせたばかりであったため、[[鶴田浩二]]などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという<ref name="沢島忠249">『沢島忠全仕事 - ボンゆっくり落ちやいね』、p249</ref>。京撮所長時代の大リストラではかなり手荒い事をした。"一つの映画のブームは10年"という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断し[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]、[[月形龍之介]]以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう<ref name="business.nikkeibp"/><ref name="風雲映画城83125"/><ref name="沢島忠249"/><ref>春日太一『時代劇は死なず!』、集英社、2008年、p28</ref>。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた<ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref><ref>中島貞夫『映像のスリット わが映画人生』 、p185、186</ref>。時代劇の巨匠・[[松田定次]]を潰すため、その弟子、[[平山亨]]らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという<ref>『映画秘宝』、2007年10月号、[[洋泉社]]</ref>。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた<ref name="品川隆二と近衛十四郎">[[品川隆二]]・[[円尾敏郎]]『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』、[[ワイズ出版]]、2007年、p74-77</ref>。切られた側の松田定次や[[東千代之介]]などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある<ref name="品川隆二と近衛十四郎"/><ref>『悔いなきわが映画人生』、p272</ref>。 |
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[[1973年]]の東映は『[[仁義なき戦い]]』や『[[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]]』など「実録路線」の大ヒットで年間配收73億8000万円と創立以来2番目の記録を更新{{R|活動屋人生_43-53}}、他の追随を許さない好業績を挙げたが、翌[[1974年]]早くも停滞ムードが漂う。岡田は社長就任以降、企画も若手グループにまかせ、あまり介入しなかったが、同年4月の映画企画製作委員会の席上、①19歳以下を掴まえること、②セリング・ポイント(セールスポイント)は1ツであること、③世界の企画動向に注目せよ、④出来上がりの面白いこと、という"製作の4原則"なるものを打ち出し、"今日からオレがOKしなきゃ撮らせない"とハッキリ介入宣言を出した{{R|活動屋人生_43-53}}。翌1975年には映画事業部長を兼任して陣頭指揮にあたり、全作品をプロデュースした{{R|活動屋人生_43-53}}。岡田の映画事業部長兼任はその後も10数年続く{{R|活動屋人生_182-192}}。[[1983年]]から[[1984年]]にかけての映画は企画を見て製作するか否か即決、全面的に岡田が仕立てたラインアップだという{{R|活動屋人生_182-192}}。岡田が社長に就任してからは、東映は岡田の独裁国家となった{{R|極道_171-172}}。企画を提出する際には、岡田の諒解さえ取れば、あとは何をしようと営業も宣伝も文句は言わない。但し岡田は岩盤のように頑固で、日下部五朗が自身がファンだった[[岡本喜八]]監督で映画を撮りたいと、岡田に何度も企画を持って行くが、「あかん!八の字のつく奴は使わん!」と意味不明の理由で、遂に企画が通ることはなかったという{{R|極道_171-172}}。 |
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*平山が手掛けた『[[がんばれ!!ロボコン]]』(1974年 - 1977年)のアイデアは『[[柔道一直線]]』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ。『柔道一直線』は「[[スポ根]]ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える[[視聴率]]を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていた[[エキストラ]]費が膨大にかかり赤字になっていた。『[[ジャイアントロボ]]』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は[[東映アニメーション|東映動画]]の田宮武から、「『[[魔法使いサリー]]』の製作費は赤字だが[[キャラクター商品]]が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは[[実写]]だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛い[[ロボット]]がやればいい」と思いつき「[[スポ根]]」に対して「ロボ根」という発想につながった」という<ref>東映ヒーロー名人列伝 、[[風塵社]]、1999年、p138-142</ref>。 |
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東映グループは月1回、銀座の本社8階会議室で全体会議があり、日本中から、本社の部長以上、映画館の館主、支社長、関連会社社長等、50人くらいを集め、岡田が案件を1件ずつ見ては「儲けが悪いな」「赤字ばっかりじゃないか」等、指摘する。この全体会議は遅れると入れてもらえず、1979年当時、東映テレビ企画営業第二部部長だった[[平山亨]]は遅れて、後で岡田に『お前なんか辞めちまえ』と言われた。会議に出るのが嫌になり役付けを部長代理にしてもらったら、その後岡田に「おう、平山。大丈夫か、体の方は」と言われた。岡田には「平山は病気」ということで報告が行っていたという{{R|泣き虫_246}}。 |
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*[[1969年]]から東映で制作した『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]が岡田に「松下が一人スポンサーになるから一緒にやろう。協力してくれ」と頼みに来て始まったもので<ref name="悔いなきわが映画人生330331"/>、「本格的な時代劇はやはり京都([[東映京都撮影所]])でなければ~ すでに[[東映]]の岡田茂常務にお願いして、任せておけと胸を叩いてくれ、制作現場の態勢を整えてもらった」と、逸見は著書『黄門様はテレビ好き』に書いている<ref>[[逸見稔]]『黄門様はテレビ好き』、[[近代映画社]]、1993年、p115-128</ref>。岡田は[[徳川光圀|水戸光圀]]役は[[片岡千恵蔵]]にしようと、逸見と一緒に千恵蔵を口説きにいったが、「まだまだ。映画の現役だ。テレビに出るのは早い」と千恵蔵が断ったので、発想を変えて[[東野英治郎]]にしたと話している。[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]を抜擢した『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』と『水戸黄門』の受注で、テレビ映画制作は活況を呈した<ref name="東映京都・テレビ映画"/>。岡田の長男・[[岡田裕介]]は逸見にスカウトされ芸能界入りした<ref>『黄門様はテレビ好き』、p96、97</ref>。 |
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=== 実録 === |
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*「[[イナズマンF]]」の20話「蝶とギロチン花地獄作戦」の初号試写を見た時「学生映画なんか作ってるんじゃない!」と怒ったという。 |
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“実録”は[[#仁侠映画]]に留まらず、東映は勿論他社も“実録モノ”を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、[[東宝]]が[[池田大作]]の著作で[[創価学会]]第2代会長・[[戸田城聖]]の半生を映画化した『[[人間革命]]』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『[[いつかギラギラする日#同タイトルの別企画|実録・日本共産党]]』であった{{Refnest|group="出典"|{{R|週刊朝日19731207_42|サンデー毎日19740113_36_19740217_40}}}}。 |
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岡田は他の会社で[[レッドパージ]]された[[家城巳代治]]や[[今井正]]にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが{{R|昭和の劇_259}}、どちらかというと[[右翼|右]]寄りの映画が多いため1974年、その『日本共産党』の映画を企画し{{Refnest|group="出典"|{{R|争議あり_353-355|世界映画事件史_164-170}}}}、製作しようとしたら社内から、一体うちの[[ポリシー]]は何なの?と批判が出た。これを「代々木([[日本共産党]])が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか『[[しんぶん赤旗|赤旗]]』の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。映画のスタイルは『仁義なき戦い』タッチの「実験映画」で、戦後日本の一方の巨大組織誕生秘話を描こうという構想であった{{R|世界映画事件史_164-170}}。ところが制作は中止された。[[山城新伍]]はやはり東映は右寄りだから、おおかた[[宮本顕治]][[日本共産党委員長|委員長]]から[[クレーム]]がきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた[[渡辺政之輔]]の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説{{Refnest|group="出典"|{{R|昭和の劇_344-347|争議あり_353-355}}}}、そうではなく、当時の東映京都の組合にはそれ程の力は無かったので、共産党が伸びるのを面白くない[[右翼]]が圧力をかけてきて流れたという説がある{{R|世界映画事件史_164-170}}。『実録・日本共産党』が成功していれば、社会派現代劇にも道が拓かれたかも知れない{{R|世界映画事件史_164-170}}。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された{{Refnest|group="出典"|{{R|男気_21-23|一言_88-90|濃厚_65-66}}}}。岡田は[[1976年]]、[[部落解放同盟|解放同盟]]と組んで[[松本治一郎]]([[松本龍 (政治家)|松本龍]]の養祖父)の[[伝記]]映画『[[夜明けの旗 松本治一郎伝|夜明けの旗]]』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという{{Refnest|group="出典"|{{R|河原乞食考_77|男気_22}}}}。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『[[いつかギラギラする日]]』の原案という{{Refnest|group="出典"|{{R|争議あり_353-355|世界映画事件史_164-170|惹句術_90}}}}。 |
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*組合活動で会社批判をやっていた[[中島貞夫]]は、岡田に呼び出され「オイ[[能書き]]ばっかりたれとらんと、何ぞ企画出さんかい」と言われ、どうせこちらの企画が通るなずもないと、茶化したつもりで『[[くの一忍法帖]]』なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。当時、[[山田風太郎]]の同作はベストセラーになっていたが、男女の[[忍者]]が"[[陰茎|アレ]]"と"[[陰唇|ソレ]]"を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった。ところが数日後、岡田にまた呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われさらに数日後、「監督やるもんがおらん。お前やってみい」「裸、バンバン入れてなァ」「自分で言い出した企画で一本撮れるなんで、幸せやでえ」と言われた。脳天割りのようなショックを受け、土下座して許しを請うたが、30歳前に一本映画を撮りたいという気持ちとの葛藤で揺れ、やむなく承諾<ref name="『私と東映』中島貞夫"/>。[[萬屋錦之介]]からは「お前とは絶交だ」と言われたが<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p60</ref>、助っ人を同窓生・[[倉本聰]]に頼み、これが自身の監督デビュー作となった。女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航したが、この『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』には、[[深作欣二]]夫人・[[中原早苗]]や[[野川由美子]]、[[芳村真理]]などが出ている。映画はヒットしたため、また岡田から「裸が少ない。もっと盛大に女優を脱がせろ」と、こちらの苦しみなどどこ吹く風の第二弾製作指令が出て二作目『くノ一化粧』を製作<ref name="『私と東映』中島貞夫"/>。今度は男忍者が普通では面白くないと、当時は怪優と呼ばれた[[西村晃]]や[[小沢昭一]]を起用した。中島はその後も[[小川知子 (女優)|小川知子]]や[[大原麗子]]ら、女優を脱がせる仕事が増え、女の裸を見ると胃が痛むようになり以来、治っていないという<ref>中島貞夫『映像のスリット わが映画人生』、p148-165</ref><ref name="毎日新聞2011518">毎日新聞、2011年5月18日11面</ref>。 |
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こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、[[アドバルーン]]だけブチあげて実際は製作されないことが多かった。『田中角栄伝』や『実録・新日鉄』『実録・伊藤忠』『[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|プロ野球黒い霧事件]]』『[[毛利郁子]]愛人刺殺事件』を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない{{Refnest|group="出典"|{{R|週刊サンケイ19750220_28|映画芸術2011_135}}}}。1974年11月に起こった[[荒木虎美]]の「[[別府3億円保険金殺人事件]]」を現代版『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明{{R|週刊サンケイ19750220_28}}。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、[[東海大学]]の創立者・『[[松前重義]]伝』の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという{{R|将軍と_186}}。実録物では他に1974年に『実録・紅白歌合戦』を企画したこともある。当時の[[NHK紅白歌合戦|紅白]]は[[視聴率]]が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない{{R|週刊朝日19741025_36}}。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた{{Refnest|group="出典"|{{R|週刊朝日19731109_38|週刊朝日19750214_37}}}}。 |
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*[[藤山寛美]]が[[1966年]]、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた<ref name="悔いなきわが映画人生251252"/>。寛美がこの頃、東映の[[任侠映画]]に出ているのはこのため。 |
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映画化された物では[[小野田寛郎]]を映画化した『[[ルパング島の奇跡 陸軍中野学校]]』(1974年)は、小野田元少尉の[[ルバング島]]での生活はまったく出てこない映画であった{{R|サンデー毎日19740519_35}}。同年の鶴田浩二主演『あゝ決戦航空隊』は、[[神風特別攻撃隊|神風特攻隊]]の提唱者といわれる大西瀧治郎が人間として魅力があり、大西の死によって徹底抗戦を主張した厚木航空隊の青年将校が思い止どまったという歴史的な秘話もあり、従来の戦記映画にないドラマが出来ると製作させたもの{{R|活動屋人生_43-53}}。1974年暮れから公開された[[フランス映画]]『[[エマニエル夫人]]』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で[[佐久間良子]]を貸し出し『[[雪夫人絵図#1968年版|雪夫人繪圖]]』(1975年)の企画を[[日活]]に売りつけたこともあり、佐久間はまったく脱がず[[昼メロ]]的な映画であった{{R|週刊サンケイ19750424_28}}。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した{{R|週刊朝日19731109_38}}。 |
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*[[中島貞夫]]の三作目で出世作『893愚連隊』(1966年)は、岡田が企画を通してくれたもの<ref name="キネ旬2011760">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p60</ref>。五作目のオールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年) は、大川社長は猛反対したが、俊藤が「岡田さんを巻き込めば出来る」と企画を通してくれたものという<ref name="毎日新聞2011518"/>。1968年の『尼寺{{Color|black|㊙}}物語』は、岡田の企画で「大奥もの」の続編を命じた中島貞夫がシリーズ物を撮るのを嫌うため「大奥をやらないなら[[尼寺]]で考えろ」と命じたもので<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p60</ref>、[[藤純子]]出演55本目にして初めての主演映画。1969年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、東映と太いパイプのあった[[ルポライター]]の[[竹中労]]が岡田に持ち込んできた"時代の風俗ドキュメント"という企画で、[[グァルティエロ・ヤコペッティ]]の『[[世界残酷物語]]』に影響されたものであろうが、[[16mmフィルム|16ミリカメラ]]を手に日本中を走りまわり、[[グループセックス#乱交パーティー|乱交パーティ]]、ヌード・スタジオ、[[浮世風呂]]、[[フーテン]]集会、[[アングラ演劇|アングラ芝居]]、猟奇儀式、[[ボディペインティング]]、[[赤線地帯]]、[[ピンク映画|ブルーフィルム]]撮影現場、[[ストリップ|関西ストリップ]]、[[沖縄県|沖縄]]で[[B-52 (航空機)|B52]]が[[ベトナム]]行きの爆弾を積む現場、等を撮ろうというものであった。しかし岡田に呼びだされた中島は企画は「助平物語だ」と言われたといい、最初から全国のセックスゾーンに目を付けてこれをドキュメントでとらえることを意図していた<ref>渡邊達人『私の東映30年』、p150、151</ref>。劇映画が3000万円ぐらいの製作費のときに1900万やるから好きに使っていい」と言われ、竹中の先導で[[山谷]]の運動の他、[[唐十郎]]を起用し[[ベトナム戦争]]時の沖縄を撮影、それらに性風俗を加味した<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p173、174</ref>。この映画は大ヒットし大川社長に呼ばれ「チミィ、よくやってくれた。役者は一人も出なくて金儲け出来るなんて信じられない」とごほうびをもらったという<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p173、174</ref>。『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』には、他に『[[家畜人ヤプー]]』の[[沼正三]]もマゾヒストとして出演している。当時はまだ「[[奇譚クラブ]]」に連載中だったが、中島は沼に薦められ『家畜人ヤプー』の映画権を代理人の[[康芳夫]]を通じて取得。シナリオも完成したが、[[右翼]]の抗議を恐れた東映が難色を示し頓挫。その後、独立プロでの製作を目指し[[虫プロ]]と提携し、イタリアの映画会社との合作で映画化を試みたが資金難でやはり頓挫している<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p63</ref>。 |
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[[1975年]]の『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』という映画は、岡田が時効が迫った「[[三億円事件]]」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の[[岡田裕介]](後の東映社長)。岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した{{Refnest|group="出典"|{{R|ロマンポルノ_170-171|週刊サンケイ19751211_31|秘宝200804_57}}}}。 |
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*『驚異のドキュメント 日本浴湯物語』(1971年)は、車の中で「またドキュメント、何かないか」と岡田に言われ「いい湯だなホイホイってのはどうです。[[安保闘争#70年安保|70年安保]]も終わってるし、何となくぬるま湯に浸かっている日本列島ってのはどうですかね」と言ったら「おう、それもいけるかもしれんな」と決まった企画。当時流行っていた[[ザ・ドリフターズ]]の「いい湯だな」に引っ掛けたもの。これら"風俗ドキュメント"は、[[出産]]や[[温泉]]、[[ソープランド|トルコ]]のシーンなど商売になった部分を拡げろと指示を出し"セックスドキュメント"としてシリーズ化された。『セックスドキュメント エロスの女王』(1973年)のメインは、ローズ秋山夫妻の[[SMクラブ|SMショウ]]だった。こうしたシリーズ化を最初から「助平物語だ」と言ったように、最初から性風俗の[[ドキュメント]]を売りにしようと考えていた岡田が企画の大本といえる。『瀬降り物語』(1985年)は、以前中島が映画化しようとして中止になった企画だが、[[今村昌平]]が『[[楢山節考]]』で[[カンヌ映画祭]]グランプリを獲ったことで、もう一度考えてみろと指示して中島に撮らせたもの<ref>中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』、ワイズ出版、2004年、p75、97、113、126-132、133、147、148、202、377<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p242、243</ref>。 |
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=== 外国との提携 === |
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*企画を通す際には、岡田社長の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があり、面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫んだ。途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという<ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p152-153</ref>。脚本家・[[掛札昌裕]]が『セックス十番勝負』というタイトルを思いつき、天尾完次プロデューサーに「とんでもない」と言われたが、岡田の前で本読みすると「面白い!」とOKとなった<ref>「映画秘宝」2007年10月号、洋泉社</ref>。脚本家の[[倉本聰]]が東京大学時代の同窓生[[中島貞夫]]監督と『くの一忍法帖』の脚本を書いた際、岡田の本読みに立会い集中力と批評眼に感嘆した<ref name="キネ旬2011760"/><ref>倉本聰『愚者の旅』理論社、2002年、p73</ref>。最初に出来た倉本脚本は、ただ助平なだけだったので、もっと女の魔性を描く内容に書き換えさせた<ref>新潮45 新潮社、p204</ref>。倉本は、これが縁で「ニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない」と、東映に籍を置かせて欲しいと中島を介して岡田に頼んできたという<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』p165-166</ref>。 |
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[[1974年]]の『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』あたりから[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[モスフィルム]]との付き合いが始まり、モスフィルム所長ニコライ・シゾフとの共同製作で[[1980年]]『[[甦れ魔女]]』を製作。この後、[[オオカミ|シベリアオオカミ]]を主人公にした映画、という岡田の企画が8年越しで実現したのが[[1990年]]の『オーロラの下で』{{R|活動屋人生_258-266}}。 |
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{{Main|オーロラの下で}} |
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その後もモスフィルムと提携して合弁会社「トーモス」を設立、[[東映太秦映画村]]のモスクワ版を作るというプロジェクトも進めたがその後の詳細は不明{{R|活動屋人生_258-266}}。モスフィルムの3700本の日本上映権は1990年9月契約した{{R|活動屋人生_258-266}}。 |
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*[[1967年]]、東映でも[[喜劇]]路線を敷こうと、当時[[東宝]]にいた[[渥美清]]を引き抜いた。その頃東宝には[[森繁久弥]]や[[伴淳三郎]]、[[三木のり平]]ら大御所がいて、渥美はほとんど売れてなかった。[[瀬川昌治]]監督の「喜劇・列車」シリーズほか数本主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは[[松竹]]が一番水に合うと思うよ」と助言。松竹入りした渥美はほどなく『[[男はつらいよ]]』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる[[若山富三郎]]の「[[極道]]」シリーズ、1975年から始まる菅原文太の「[[トラック野郎]]」シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p145、146</ref><ref>『ポスターでつづる東映映画史』、p71</ref>。 |
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1974年、[[アメリカ]]の[[ワーナー・ブラザース]]が[[ロバート・ミッチャム]]、[[高倉健]]主演、[[シドニー・ポラック]]監督で映画化した『[[ザ・ヤクザ]]』は、[[東映京都撮影所|東映の京都撮影所]]で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は“[[神風特別攻撃隊|カミカゼ]]”なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという{{R|週刊サンケイ19741020_39}}。この映画の[[エグゼクティブ・プロデューサー]]は俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、[[ポール・シュレイダー]]が脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやり[[メロドラマ]]にした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った{{R|任侠伝_142-144}}。 |
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*[[安藤昇]]とは仲がよく、安藤が弟分の[[菅原文太]]ともども[[松竹]]に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は東映に移籍したもの<ref name="岡田茂自伝219223"/>。安藤も東映を中心に出演するが専属ではなかったという<ref>[[別冊宝島]] (922)『ヤクザが認めた任侠映画』、2003年、p6</ref>。 |
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[[ブルース・リー]]の4本しかない主演映画の日本公開順では最後となった『[[ドラゴンへの道]]』の日本での[[映画配給|配給権]]を巡り、1974年に[[東宝東和]]と激しい争奪戦を展開し[[池玲子]]を[[人身御供]]"にして同作の獲得に成功した。 |
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*[[渡辺プロダクション]]社長・[[渡辺晋]]が[[クレイジーキャッツ]]を東映に売り込んできた際、岡田は[[谷啓]]を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払う[[ギャラ]]の三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、[[ハナ肇]]→[[松竹]]、谷啓→東映、[[犬塚弘]]→[[大映]]、[[植木等]]→[[東宝]]、とそれぞれバラで売り出す[[青写真]]を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという<ref>軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』[[文藝春秋]]、[[1992年]]3月</ref>。 |
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{{Main|ドラゴンへの道}} |
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岡田が設立した東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_115|クロニクル1_189}}}}、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』の大ヒット、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]主演の『[[昼顔 (1967年の映画)|昼顔]]』の[[リバイバル]]ヒットと後{{R|クロニクル2_53}}、この『[[ドラゴンへの道]]』の大ヒットにより洋画部は大きく飛躍した{{Refnest|group="出典"|{{R|ロードショー197603_196-199|toei70th_115|クロニクル2_61}}}}。 |
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*「映画は元来、不良青年がつくるもの」という意味で、岡田が言い出した有名な〔不良性感度〕なる語<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p156-157</ref>の発想について以下のような説明をしている。「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」<ref>『私の東映30年』1991年、p150</ref>。また「私はつくる側としては珍しほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20110513-OYT8T00322.htm 岡田茂・東映名誉会長を悼む 実行力と「不良性」の人]</ref>。 |
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[[1975年]]、東南アジア映画祭(現・[[アジア太平洋映画祭]])でジャカルタに行った際、同じ代表団団長同士というので[[香港]][[ショウ・ブラザーズ]]の[[邵逸夫]]と仲良くなり、その後提携に発展した{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_62-73|朝日新聞19751029夕_7}}}}。当時、香港で『[[仮面ライダー]]』が物凄く人気を呼んでいて、邵は子供物に非常に興味を示し、動画(アニメ)に手をつけたいから応援してくれ、と言われたが「動画はあまり得にならんよ」とアドバイスを贈った。香港は人件費が安いからと邵は動画をやりたがっていたという{{R|活動屋人生_62-73}}。[[三上陸男]]や[[村瀬継蔵]]がショウ・ブラザーズに招かれたのはこの流れと思われる。邵は映画村にも興味を持ち、撮影所のわきに作りたいからと岡田に指導を要請してきたが、タダで知恵は売れない、ノウハウを輸出してやろうと答えたという{{R|活動屋人生_62-73}}。 |
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*1966年当時、[[ピンク映画]]が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めた。ソロバンをはじいてみると[[松竹]]の年間配給よりも総体で上回ることが分かったため、プロデューサーの天尾完次を呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが[[石井輝男]]に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と始まったのが「東映[[ポルノ映画]]」の誕生「エログロ路線」のスタートである<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="eiga-chirashi"/>。当時は[[独立プロ]]がこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があった。その第1弾は[[山田風太郎]]の原作を映画化したエロ[[忍者]]映画『忍びの卍』([[鈴木則文]]監督、1968年)だったのだが、女優が脱がなかった為に興行的に失敗。そこで前記のような指示を出し本格的にピンク路線がスタートした。撮影では[[ヌード]]女優が大挙出演したため、素っ裸の女優が撮影所内を飛び回る状況となり、こっそり覗きにくるスターもいたが、[[若山富三郎]]や[[鶴田浩二]]ら大スターや、[[前貼り]]を扱う羽目になったスタッフらが、冒涜したと声明文を発する事態となった。[[佐藤忠男]]ら[[映画評論家|評論家]]は酷評しマスコミが面白がって取り上げたが、宣伝効果抜群でいずれも大ヒットした<ref>小説東映 映画三国志、p272-283<br />和モノ事典 1970's 人名編、シンコーミュージック・エンタテイメント、2006年12月、p21<br />『石井輝男映画魂』、184-205、339頁<br />『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』、p190-195<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p36、37、220-237</ref>。 |
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[[ジャッキー・チェン]]の日本で最初に劇場公開された主演映画『[[ドランクモンキー 酔拳]]』は、先のゴールデン・ハーベストが東映ポルノに注目してコンタクトしてきた流れから製作の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は[[1979年]]に『[[トラック野郎・熱風5000キロ]]』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった{{Refnest|group="出典"|{{R|東映 外国映画配給新レーベル「東映トライアングル」設立|eiga.com1108}}}}。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『[[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]]』)だけは岡田が「誰がこんなもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である{{R|李小龍的伝説_19990503}}。 |
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*声明文発布の問題は当時のマスコミにも取り上げられ大きな論争を巻き起こした。「東映の作る映画が社会的に不健全映画とされ、反文化的と目されるとなると、東映企業のイメージ・ダウンを招く危険がある」と言われたりしたが、岡田はそんな事にはおかまいなし。「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と反論。この騒動を結局うやむやの内にフェードアウトさせた<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p30、31</ref><ref name="キネ旬19696"/>。 |
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=== 新たな取り組み === |
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*岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、[[江戸時代]]に芝居が"[[河原者|カワラもの]]"と言われたときからの[[興行|見世物]]の役割だ。この二つが、映画にとって[[陰陽]]の[[元素|エレメント]]になっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に摑まえたがるのが困るところだ」などと話していた<ref name="キネ旬201176567">キネマ旬報、2011年7月上旬号、p65-67</ref>。[[加藤泰]]は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している<ref>『加藤泰映画華』、p136</ref>。 |
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『[[新幹線大爆破]]』(1975年)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[パニック映画]]に受けて立つと考えた岡田の企画{{R|私の30年_160-161}}。 |
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{{Main|新幹線大爆破}} |
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『[[トラック野郎]]』([[1975年]] - [[1979年]])は、[[愛川欽也]]が岡田に企画を持ち込み直談判したもの。 |
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*『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』を共同製作した[[佐藤正之]]は岡田について「大映の[[永田雅一]]、松竹の[[城戸四郎]]は[[芸術]]や[[エンターテイメント]]が優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。[[大高宏雄]]は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという[[二分法]]をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は"映画は商品である"ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「[[1960年代]]後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貧欲に取り込んでいった"超=商業主義"とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている<ref>キネマ旬報、2011年7月上旬号、p68-70</ref>。 |
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{{Main|トラック野郎}} |
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便乗企画では深作欣二の『[[暴走パニック 大激突]]』([[1976年]])は『[[新仁義なき戦い 組長の首]]』([[1975年]])の[[カーアクション]]が面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『[[バニシングin60″]]』をミックスして作れと号令したもの{{R|Hotwax3_70}}。 |
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*[[石井輝男]]は岡田の意図を大胆に表現<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>、『徳川女系図』では待女たちに赤い[[褌]]をさせて女相撲をとらせ、[[折檻]]に[[どじょう]]責めを行うなど大衆の喜ぶ見せ場を作り大成功をとった<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>。本作の大ヒットで、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くした。この影響は映画界のみならず音楽界・[[歌謡曲|歌謡ポップス]]にまで及ぼした。ポスターに裸を載せて当ったこともあって、[[三朝れい子]]ら続々と[[レコード]][[ジャケット]]でヌードを披露する歌手が登場。それまで[[フレンチポップス|フレンチ歌謡]]を歌って燻っていた[[奥村チヨ]]が、愛欲路線『恋の奴隷』(1969年)の宣伝で[[セミヌード]]を公開したり、1970年代に入ると[[渥美マリ]]らによる露骨なエロ歌謡が量産され、エロ化の流れは『[[23時ショー]]』などの[[深夜番組]]にも及ぼし、更に[[山本リンダ]]や[[夏木マリ]]らによる"セクシーアクション歌謡"や[[ピンク・レディー]]など、その後の音楽界にも影響を及ぼした<ref>別冊宝島 1499号 流行り歌に隠されたタブー事件史、[[宝島社]]、2008年、p138-p139</ref>。石井のエロ映画は「異常性愛路線」としてさらに量産され、描写が次第に激しくなり、刺激は刺激を呼び、グロテスクになって興行価値を失っていった<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>。しかしながら『徳川いれずみ師 責め地獄』、『[[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]]』などは今なお稀代の[[カルト映画]]として名画座で喝采を浴び続けている<ref>和モノ事典 1970's 人名編、[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]、2006年12月、p21</ref>。また[[1976年]]に日本でも大きな話題を呼んだ『[[スナッフ (映画)|スナッフ]]』を狙い、[[牧口雄二]]に「[[牛裂き]]」をテーマに撮れと指示を出した『[[徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑]]』も、日本では現在非ソフト化ながら、海外では「SHOGUN'S SADISM」のタイトルでビデオ・DVD化され人気があるという<ref>筒井武文、多田功『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』、[[ワイズ出版]]、1996年、p49-50<br />[http://www.japan-shock.com/shogun'ssadism.html Shogun's Sadism] |
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{{Main|暴走パニック 大激突}} |
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</ref>。 |
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[[1979年]]、[[田中健 (俳優)|田中健]]・[[岡田奈々]]主演の『[[暴力戦士]]』は、[[ウォルター・ヒル]]監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの{{Refnest|group="出典"|{{R|石井輝男_233_358|秘宝200711_69}}}}。 |
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*「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」と岡田は話しているが<ref name="dodo-geneki"/>、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い<ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p43<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p36、37、107<br />[http://shinjuku.cool.ne.jp/n_tko/diary0510.html たかおのにっき10月号!!]</ref>。『大奥{{Color|black|㊙}}物語』、『現代ポルノ伝 先天性淫婦』、『残酷異常虐待物語』、『元禄女系図』、『恐怖女子高校』、『徳川セックス禁止令・色情大名』、『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』、『ポルノの帝王』、『色情トルコ日記』、『三匹の牝蜂』、『ネオンくらげ』、『未亡人殺しの帝王』、『尼寺{{Color|black|㊙}}物語』、『温泉みみず芸者』、『温泉あんま芸者』、『温泉こんにゃく芸者』、『({{Color|black|㊙}}女子大寮』、『にっぽん’69セックス猟奇地帯』、『好色妻』、『色罠』、『変態魔』、『後家ごろし』、『多情な乳液』、『悶絶』、『エロ将軍と二十一人の女妾』など<ref>キネマ旬報、2011年7月上旬号、p44、70</ref>、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場の[[インスピレーション]]が非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している<ref name="岡田茂自伝158164"/><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p36、137</ref>。『エロ将軍と二十一人の女妾』は最初"[[エロ]]"はタイトルに付いてなく、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった<ref>「映画秘宝」2007年10月号、洋泉社<br />Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p18、43<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p105</ref>。"エロ○○"のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、[[天尾完次]]プロデューサーや監督の[[鈴木則文]]をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた<ref>「映画秘宝」2009年10月号、洋泉社、p74</ref>。また映画の「クライマックスは"セックス対決"で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で"勝負したら締まる"」という岡田理論であった<ref>「映画秘宝」2009年10月号、p74</ref>。この映画は17歳だった(撮影時16歳)[[池玲子]]のデビュー作<ref>小説東映 映画三国志、p283-288</ref>。天尾が池の[[履歴書]]を成人のものに100%捏造したとされる<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p30、31<br />[http://news.livedoor.com/article/detail/4309868/ 東映ピンキー&バイオレンス映画再ブーム! 鈴木則文監督独占インタビュー]</ref>。 |
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{{Main|暴力戦士}} |
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『[[愛のコリーダ]]』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の“[[本番行為|本番]]”が大きな話題を呼んだ[[松田英子]]を獲得し『[[大奥浮世風呂]]』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある{{R|週刊新潮_19770120_13}}。 |
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*[[鈴木則文]]は、若い時せっせと正統社会派を目指していたが、デビュー作『大阪ど根性物語 どえらい奴』(1965年)の抜擢で、鈴木自身の中に[[コメディ]]的センスを見抜いていた「岡田さんはやっぱり眼力があったんだろうね」と話している<ref>映画秘宝、2007年10月号、p52<br />[[日本経済新聞]]、2011年5月13日、p40</ref>。それは後の[[トラック野郎]]シリーズに繋がったと話している。 |
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=== 時代劇復興 === |
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*『エロ将軍と二十一人の女妾』を作ったきっかけは、『徳川セックス禁止令』という映画の冒頭のナレーション「[[徳川家斉]]に二十一人の愛妾あり」を聞いて「次は『二十一人の女妾』でやろう」と簡単に決めたもの<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p18</ref><ref>映画秘宝、2007年10月号、p52</ref>。この映画は後に91分が30分に編集され、タイトルを『将軍と二十一人の愛妾』に変更された版が、地方の温泉宿など[[有料テレビ]]用に流された<ref>『ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画』、[[樋口尚文]]、[[平凡社]]、2009年、p117、118</ref>。こうした[[東映ビデオ]]製作のポルノ・ビデオは、これまで製作したポルノ・フィルムをコマ切れにし、その中からベッド・シーンなどをピックアップして30分程度の別物にまとめたものだが、同社(社長は岡田が兼務)は、このビデオに勝手に[[映画倫理委員会|映倫マーク]]を付けていた。映倫マークは映画館で上映される際に映倫の審査をパスした上で頂く物だが、再編集すれば再度の審査が必要と映倫は怒り、[[警視庁]]防犯部も「売りさばいた形跡濃厚」と捜査に乗り出した。この1972年当時、岡田は翌年からの「日活ロマンポルノ裁判」の法廷対策などを協議する映倫維持委員会の常任委員長でもあり非常にバツが悪かった<ref>[[サンデー毎日]]、1972年10月29日号、p42</ref>。 |
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『[[柳生一族の陰謀]]』(1978年)は、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。[[山本薩夫]]の『[[忍びの者]]』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもの{{R|クロニクル1_282-283}}。かつては時代劇の切り捨てに辣腕を振るったが{{R|深作欣二_353-354}}、本作の大ヒットで東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた{{Refnest|group="出典"|{{R|kinejun240303|あかん_215|asagei10828}}}}。 |
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{{Main|柳生一族の陰謀 }} |
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元気づいた錦之助はこの後、同じ[[深作欣二]]監督で『[[赤穂城断絶]]』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた{{R|クロニクル1_282-283}}。1996年、萬屋が[[文化庁]]から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして『俺が言っておくから、[[松竹]]の[[永山武臣]]会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろう』と言ったが、錦之助は『俺は映画の錦之助として死にたい』と言ったという{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|クロニクル1_282-283|キネ旬1997122_16-21|波瀾_105-115_184-188}}}}。 |
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*『徳川女系図』より少し前となる『大奥{{Color|black|㊙}}物語』(1967年)は最初、監督・[[今井正]]と脚本は大御所の[[八木保太郎]]で企画した。岡田は東映の屋台骨の任侠路線と並行して、新しい芽となるエロチシズム路線を打ち出す狙いを持ち、「<未知の世界><女の世界>を覗き見」という発想から、将軍以外の立ち入りを許されない男子禁制の女の園、将軍のおたねを宿すことが最上であるとする女たちの権謀術数の世界、皆が知らない[[大奥]]の秘密の部分を見せ場に考えていた<ref>『私の東映30年』、p150、151<br />春日太一『時代劇は死なず!』、p30-32</ref>。ところが、今井と八木はテレビでよくある歴史物語に仕上げようとし、岡田の構想とはまるで違った作品をイメージしていた。八木に全面的に直して下さいとお願いしたが、言うことを聞かないので頭にきてこの二人を降ろし、脚本はチームを作り出来を競わせ、[[中島貞夫]]を監督に起用、岡田の[[懐刀]]・[[翁長孝雄]]に製作させ、後の「東映エログロ路線」を決定づけた<ref name="私と東映中島貞夫3"/><ref name="キネ旬201174445"/><ref>『私の東映30年』、p150、151<br />岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p154<br />「映画秘宝」2007年8月号、p83</ref>。[[キャスト|キャスティング]]も全て岡田によるもの<ref name="キネ旬201174445"/>。この映画は[[富司純子|藤純子]]、[[小川知子 (女優)|小川知子]]、[[佐久間良子]]の3人を並べて主演にした[[オムニバス映画]]だが、当時の藤と小川は新人扱い。小川は本作で先輩女優・[[岸田今日子]]とヌメヌメの[[レズ]]、[[折檻]]シーンなど体当たり演技で中島貞夫に惚れられ、佐久間が下品な芝居をさせられて中島と絶交したため『続・大奥{{Color|black|㊙}}物語』(1967年)の単独主演に大抜擢された。しかし岡田に「まだ裸が足りん!」と怒られ、これ以上はムリと東映をトンズラして[[フェロモン]]歌手としてデビュー。その後、大スターとなった<ref>「映画秘宝」2007年8月号、p83</ref>。岡田が中島を見限って次の監督に抜擢したのが石井輝雄であり作られた映画が『徳川女系図』となる。大奥物はその後、セットやら衣装やらを使い回して[[関西テレビ放送|関西テレビ]]と組みドラマ化させ(「[[大奥 (テレビドラマ)]]」)、エログロなしの硬い内容にして奥様族の人気を集め、その後も何度も[[テレビドラマ]]化、映画化されている<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p148<br />「映画秘宝」2007年8月号、p83<br />春日太一『時代劇は死なず!』、p222-225</ref>。 |
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1996年の[[スカパー!プレミアムサービス|パーフェクTV!]]、1997年[[ディレクTV#日本での展開と撤退|ディレクTV]]開局と[[衛星放送|CS]]のチャンネルが一気に増え{{R|朝日19980720}}、「こんなにたくさんのチャンネル誰が見るんだ」と、専門色を出さないといけないだろうなと考えていたところ{{R|産経19980511}}、1997年に[[C.A.L]]の[[加地隆雄]]社長が岡田を訪ねて来て{{R|産経19980511}}、「時代劇で一つのチャンネルを開きたいんだ。いま時代劇衰退だといわれとるから時代劇を守りたいんだ」と訴えたため{{R|産経19980511}}、「分かった。加地君がそういうならやろう」と{{R|産経19980511}}、多チャンネル時代を視野にいれ{{R|毎日19980130}}〈人気低下が目立ち始めた時代劇の復活〉を掲げ{{R|能村}}、C.A.L、[[電通]]と組み、岡田が音頭を執り{{R|産経19980511}}、東映、C.A.L以外に時代劇の[[コンテンツ]]を持つ[[国際放映]]、[[三船プロダクション|三船プロ]]、[[ユニオン映画]]、Gカンパニーに声をかけ、1997年11月14日、加盟6社で「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げ会長に就任{{Refnest|group="出典"|{{R|産経19980511|能村|産経19980509|AVジャーナル199711_17|週刊新潮19971127}}}}。各社の持つ時代劇コンテンツを各種メディアに供給の他{{R|AVジャーナル199711_17}}、加盟6社が持つ映画やテレビの時代劇ソフトの[[データベース]]作りと管理{{R|AVジャーナル199711_17}}、[[著作権]]への対応{{R|AVジャーナル199711_17}}、海外への作品供給等{{R|AVジャーナル199711_17}}、膨大な過去の財産からビジネス・チャンスを作り出し、日本独自文化である時代劇の維持と再発展を目標にした{{Refnest|group="出典"|{{R|能村|産経19980509|AVジャーナル199711_17|週刊新潮19971127|中日19980508|毎日19980514}}}}。時代劇映画製作の構想もあった{{R|産経19980511}}。 |
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*これら「ポルノ路線」がエスカレートして、外国から人気ポルノ女優を呼び寄せ製作した。これは1970年から1971年にかけて北欧、西欧のポルノ(洋画ポルノ(洋ピン)、[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア映画]])が解禁になり、膨大な成人映画が輸入されて国産ポルノを圧迫するようになったため<ref>映画秘宝、2007年5月号、p99</ref>。1973年には洋画ポルノ専門館の入場物数は229万人以上と、映画全体の一割を占める程になった<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p99</ref>。外国のポルノは本番が当たり前なので、今考えたら不思議なアダ名を付けられていた“本番女優”こと[[シャロン・ケリー]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から呼んで“夜の帝王”と呼ばれた梅宮辰夫と共演させたり、“フリーセックス”の国として有名だった[[スウェーデン]]から[[クリスチーナ・リンドバーグ]]、[[イタリア]]から[[サンドラ・ジュリアン]]を呼び寄せ、果ては女優ではなく『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』で、30センチ巨根が話題となった男優・[[ハリー・リームス]]まで呼んだ<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p248-251</ref>。シャロン・ケリー主演作は『セックス爆弾 ダイアナ・モンロー』として企画されたが、「そんなタイトルでは商売にならない」と一蹴し『色情トルコ日記』に変更させ梅宮と共演させた。本番女優が邦画ポルノに出るという事で、メディアの興味は「果たして彼女は梅宮辰夫と本番をいたすのか?」に集中。シャロンは「梅宮サンさえよければ、ワタシOKね」とリップサービス。対する梅宮も「向うがそのつもりなら、そういう事もあるな」とやる気まんまんのコメントを各所で炸裂。東映も「その結果が知りたければ映画を見よう」とナイス戦略で煽った<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p251</ref>。東映は洋画ポルノの配給もしていたため、例えば[[シャロン・ケリー]]は、この『色情トルコ日記』の後に、シャロン・ケリー主演のアメリカン・[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア]]『ポルノ捜査局 シャロン・ケリー』を輸入し配給しており、こうした話題の提供も、こちらの[[プロモーション]]の意味合いもあった<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p99</ref>。この他、1975年『[[エマニエル夫人]]』の日本での大ヒットを受け、[[シルビア・クリステル]]を日本に呼び、『エマニエル夫人 京都の休日』なる、『[[ローマの休日]]』のエマニエル夫人版を企画したこともある。これには『[[続エマニエル夫人]]』を公開しようとしたヘラルド映画が「営業妨害だ」と怒り、またシルビア・クリステルの出演料も一作目の3万5000フラン(約260万円)から、続編は100万フラン(約7000万円)に跳ね上がったといわれたため、高額のギャラが払い切れず頓挫したといわれる<ref>週刊朝日、1975年8月8日号、p36</ref>。 |
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当時、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の時代劇ドラマが、[[明石家さんま]]の[[バラエティ番組|バラエティ]]に衣替えしたり{{R|週刊新潮19971127}}、テレビの時代劇番組はどれも[[視聴率]]が10%前後と苦戦を強いられ、時代劇を取り巻く環境は年々、厳しさを増していた{{R|週刊新潮19971127}}。岡田は「確かに今は[[トレンディドラマ]]やバラエティに押され気味ですが、[[プロ野球]]を見ている人は年配層だし、お年寄りに時代劇ファンはまだ多い筈です。一社で番組を売るより、みんなで協力した方がいい。今は苦しくとも、長い目で見れば、時代劇が見直される日は必ず来ると思います」と述べた{{R|週刊新潮19971127}}。[[島野功緒|島野功]]は「協議会のメンバーは時代劇を[[マニエリスム|マンネリ化]]させた張本人たちです」と皮肉った{{R|週刊新潮19971127}}。 |
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*サンドラ・ジュリアンと『現代ポルノ伝 先天性淫婦』(1971年)で[[ベッドシーン]]を演じたのが[[宮内洋]]。東映はこの他、[[ひし美ゆり子]](『好色元禄{{Color|black|㊙}}物語』(1975年)他)や[[伴大介]](『処女監禁』(1977年))など、子供の憧れのヒーロー俳優を惜しげもなくポルノに投入した<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p30、31</ref>。なお、サンドラは現場スタッフがカルチャーショックを起こす程、裸が綺麗で以後、現場での前貼りが禁止になったという(下も[[金髪|ブロンド]]だったという)。ひし美の場合は、当時ひし美は低迷していて『好色元禄{{Color|black|㊙}}物語』の出演が話題となって『[[仁義なき戦い|新仁義なき戦い 組長の首]]』に抜擢された。この映画の最初のタイトルは『好色一代女』だったが、岡田がタイトルを変更した<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p70、84、104、105、182</ref>。 |
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1997年12月1日から[[ディレクTV]]でワンダーキャストが経営する委託放送事業「時代劇チャンネル」に対する作品供給を始め{{Refnest|group="出典"|{{R|朝日19980720|毎日19980130|能村}}}}、同チャンネルはトップクラスの人気を誇った{{R|朝日19980720}}。多チャンネル時代のソフト確保は、著作権問題が課題で{{R|毎日19980130}}、これ以後、[[衛星放送]]の時代劇ソフトを巡る動きが急展開した{{Refnest|group="出典"|{{R|毎日19980130|能村}}}}。1998年5月7日に[[東宝]]と[[松竹]]も協議会の参加を決め{{Refnest|group="出典"|{{R|産経19980509|中日19980508}}}}、これにより国内で時代劇に係る製作会社と関連ソフトを持つほとんどが同協議会への加入した{{Refnest|group="出典"|{{R|産経19980509|中日19980508|毎日19980514}}}}。1998年7月からスカパー!の「[[時代劇専門チャンネル]]」を運営するスカイエンターテインメント社(現・[[J SPORTS|ジェイ・スポーツ]])にも同協議会から番組を供給した{{Refnest|group="出典"|{{R|朝日19980720|産経19980509|毎日19980514}}}}。 |
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*なお「ポルノ路線」は1968年の『徳川女系図』以来、5年半で120本を超す作品が作られ「ヤクザ路線」と並ぶ看板路線の地位を占めたが、1973年頃から営業成績が急落。特に1974年2月に公開した[[多岐川裕美]]の主演デビュー作として知られる『[[聖獣学園]]』は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田が宣言し、この年6月に公開された前記の[[シャロン・ケリー]]と[[梅宮辰夫]]のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』をもって撤退を表明した<ref>サンデー毎日、1974年3月24日号、p40</ref><ref>「映画秘宝」2009年9月号、p99</ref>。しかしこれは表向き。[[日活ロマンポルノ]]の自社製作2本+外注1本の3本立ての興行形式に目を付け「自社でできることは自社でやれ」と、1973年春からポルノ補強のため、「500万(製作費)映画」「500万ポルノ」路線を発足。これは『仁義なき戦い』などのヒット作のロングラン態勢確立のため3週目以降の併映に加えたり、二番館の興行収入増を目的にしたもので、東映が1972年以降外注ポルノを発注してきた[[若松プロダクション|若松プロ]]や[[向井寛|向井プロ]]らのピンクプロダクションを切るため<ref>映画秘宝、2008年4月号、p99</ref>。ところが、この1974年のクリスマス映画『[[エマニエル夫人]]』が興収17億円の大ヒット、世間にエロ映画熱が再燃した。『[[エマニエル夫人]]』の配給元は、当時まだ弱小の[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]で、上映館は狭い劇場が多く、満員で入場をお断りされるお客も続出。エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!と、東映得意の前言撤回し1975年正月早々、『下苅り半次郎 {{Color|black|㊙}}観音を探せ』『怪猫トルコ風呂』で「ポルノ路線」を再開させた。同年7月には日活が[[田口久美]]主演で『東京エマニエル夫人』を製作するや、負けじと10月に同じ田口主演で先の[[ハリー・リームス]]映画のパクリ『東京ディープ・スロート夫人』を製作した<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p252、253</ref>。 |
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=== 東映太秦映画村 === |
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*[[内藤誠]]は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・[[小野竜之助]]ともども心底、恐怖した。[[黒岩重吾]]原作の「背徳の伝道者」を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『[[11PM]]』で[[大橋巨泉]]が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった<ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref>『戦う女たち』、[[四方田犬彦]]・鷲谷花、[[作品社]]、2009年、p266、267<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p107</ref>。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している<ref>『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』、p204</ref>。「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『[[人生劇場 飛車角]]』、『昭和侠客伝』、『緋牡丹博徒』など<ref name="キネ旬201174142"/><ref> 『石井輝男映画魂』、p124、125</ref>。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという<ref>『私の東映30年』、p148-149</ref>。 |
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1975年に開村した[[東映太秦映画村]]は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの{{Refnest|group="出典"|{{R|映画村10年_82-83|toei70th_114}}}}。[[高岩淡]]は「撮影所を一般に開放して、撮影風景を見てもらってはどうでしょう」と岡田に提案したところ、岡田は「そんな裏側を見せるもんやない。それに、観客がぎょうさん来たりしたら、監督も役者もやりにくくてかなわんで」と言ったが、しつこく食い下がったら「そんなに言うなら、一日だけやってみい」と言われ実行したら、観客が押し寄せ大盛況で、これに岡田が納得した結果、東映太秦映画村がオープンしたと述べているが{{R|銀幕_150}}、岡田は著書で「[[ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド|ユニバーサル・スタジオ]]同様、日本でもこうした施設を作れば受けるはずだと考えた。その前から撮影所を見学したいという要望が多く寄せられていて、見学には案内人も必要だし、その経費もばかにならない。映画村は商売になると踏んだ」と映画村構想は自身の発案だったと書いている{{R|悔いなき_180-182}}。この案を高岩に話したら高岩は乗り気だったという{{R|悔いなき_180-182}}。 |
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=== 東映セントラルフィルム === |
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*映画の撮影前には監督がスタッフ・キャストを集めて、岡田がダメ出しする何ヵ条を読み上げる。「岡田社長から言われました。面白いけど、こういうところは気を付けろっていう8ヵ条ありますから読み上げます」ってどもりながら。「ああ、おう。だから?」って聞くと、「いや、別にみんなは気にしてもらわなくていいです」と言ったという<ref>男気万字固め、[[吉田豪]]、[[エンターブレイン]]、p20</ref>。 |
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1977年、[[プログラムピクチャー]]の[[アウトソーシング|外注化]]を設立目的として、[[B級映画#早撮り低予算|低予算]]で映画を製作するため[[東映セントラルフィルム]]を設立。日活を辞めた[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]を[[東映ビデオ]]の製作部門の長として引き抜き、黒澤が主に日活出身のスタッフらとともに映画の企画制作を始めたセクションが[[セントラル・アーツ]]である。 |
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{{Main|東映セントラルフィルム}} |
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=== 東急レクリエーション === |
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*1968年、[[山下耕作]]監督、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]脚本、[[鶴田浩二]]主演の「[[博奕打ち 総長賭博]]」は、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。岡田は山下と笠原を呼びつけ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらあかんで!」と一喝した。ところが1年ほどして[[三島由紀夫]]が『映画芸術』同年3月号誌上で絶賛の一文を発表し、急に世間の風向きが変わりその後、多くの文化人がこの映画を賞賛し、今日では東映ヤクザ映画の傑作と評価されている<ref>鎧を着ている男たち、徳間書店、1987年、p160-168</ref>。 |
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1980年に東京急行電鉄取締役と東急レクリエーション社長に就任し、東急グループと東映の冷え切った関係を修復した{{R|財界20110607_60-62}}。[[赤坂エクセルホテル東急|赤坂東急ホテル]]で開かれた岡田の社長就任を祝う会では、東急グループの総帥・[[五島昇]]が人前を憚らず号泣した{{R|財界20110607_60-62}}。岡田は同社の社長を1980年1月から1993年6月まで務め、以降2003年3月まで代表取締役会長、その後も2011年5月に亡くなるまで相談役として30年以上、同社の経営に関与した。東急レクリエーションは、[[渋谷]]・[[新宿]]を中心に都内一等地に大型の劇場チェーンを持つ興行会社で、社長・会長在任中に各劇場の再開発を行った{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_234-245|活動屋人生_267-276}}}}。1987年、東急レクリエーションと東映の提携によるティ・アンド・ティ映画興行(Cinema T&T)を設立して[[有楽町センタービル]](有楽町マリオン)に[[丸の内ルーブル]]をオープンさせ、念願の[[銀座]]地区進出を果たし{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬198632_168-169|キネ旬1987122_164-165|クロニクル2_84|映画館物語_127}}}}、1987年4月に[[東急レクリエーション#かつて運営していた映画館|池袋とうきゅうビル]]を建設{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬198832_166-167|キネ旬198841_166-167}}}}。この時、佐々木興業とチェーンを組んでいた丸の内ルーブル、[[新宿TOKYU MILANO#映画館|ミラノ座]]、[[東急文化会館#映画館|渋谷パンテオン]]を全て東急レクの直営館にした{{R|キネ旬198832_166-167}}。他に1989年9月開業した[[Bunkamura]]内に[[アスミック・エース|ヘラルド・エース]]とコラボして[[ル・シネマ|Bunkamura ル・シネマ]]を{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬198841_166-167|日本ヘラルド映画の仕事}}}}、1993年には[[多摩市]]の[[多摩カリヨン館]]に松竹第一興行とジョイントで[[ビデオシアター]]・[[多摩カリヨン館|多摩カリヨンシアター]]を{{R|活動屋人生_267-276}}、同年[[本厚木]]の[[ミロード#本厚木ミロード|ミロード2]]に[[ミロード#本厚木ミロード|厚木シネマミロード]]等をオープンさせた{{R|活動屋人生_267-276}}。丸の内ルーブルは天井に巨大な[[シャンデリア]]を設置するなど、アクション映画主体の同チェーンに女性層の動員を意識した番組編成を行う先駆けとなった{{R|映画館物語_127}}。他の劇場も椅子のデラックス化や絨毯の張り替えなど、劇場への再投資を積極的に行い、岡田社長就任時に同社は大きく業績を伸ばした{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_267-276|キネ旬1984041_164-165}}}}。『[[E.T.]]』や『[[愛と青春の旅立ち]]』『[[戦場のメリークリスマス]]』『[[007/オクトパシー]]』『[[フラッシュダンス]]』『[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]]』『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』などのヒット作が続出した1983年12月期には、前年対比52%増と創業以来最高の成績を挙げ、売上高176億5000万円と、一興行会社としては空前の成績を残した{{R|キネ旬1984041_164-165}}。これは従来新宿に集まっていた若者が東急レクリエーションの本拠地である渋谷に移動し、渋谷地域のステータスが上がってきたという背景もあった{{R|キネ旬1984041_164-165}}。 |
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=== ミニシアター === |
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*[[三島由紀夫]]とは任侠映画を通じて深い付き合いがあったという。三島は任侠映画のファンで、よく試写室に来ていた。「岡田さん、役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p9</ref>。 |
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岡田は古くから「ミニ・シアター・システム」の構想を持っており{{R|キネ旬197211_115}}、1981年12月、[[新宿TOKYU MILANO]]内に、[[ミニシアター]]の草分け「[[新宿TOKYU MILANO#シネマスクエアとうきゅう|シネマスクエアとうきゅう]]」をオープンさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬1981111_180-181|映画館物語_48-55}}}}。一般公募した館名の中から岡田が「シネマスクエアとうきゅう」を選んだ{{R|映画館物語_48-55}}。 |
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{{Main|新宿TOKYU MILANO#シネマスクエアとうきゅう}} |
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=== 日本アカデミー賞、東京国際映画祭の創設 === |
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*東京撮影所所長時代、[[梅宮辰夫]]を売り出すために考えたのが「[[不良番長]]」シリーズ(1968年-1972年)。これも[[マーロン・ブランド]]の代表作『[[乱暴者]]』([[1953年]])をパクッたもので「不良番長」という題名も岡田が考えた<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.7、p120、121、135</ref>。シリーズ中、5作を監督した[[内藤誠]]は、岡田に「[[ロジャー・コーマン]]の『ワイルド・エンジェル』で映画をやるから観て来い」と言われ、脚本の[[野田幸男]]と一緒に観に行ったという<ref name="toei-video.book10"/>。内藤は当時がもうコーマンばかり観て『白昼の幻想』を観て[[ヒッピー]]文化を研究し『不良番長 出たとこ勝負』(1970年)で「同じように[[暴走族]]を100台集めてバイクの集団を走らせた。映画の撮影なのでルールを守って走りましょうと言ったが、誰も守ってくれず、あれで初めて[[パトカー]]に連行された」と話している<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p109、110</ref>。 |
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1993年、第38回「[[映画の日]]」で、[[映画産業団体連合会]]から特別功労大章を受賞したが(2011年にも受賞)、受賞の功労理由として「[[日本アカデミー賞]]や[[東京国際映画祭]]の創設」が明記された{{R|「ことば抄」朝日新聞、1993年12月9日夕刊p2}}。 |
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[[1978年]]から始まった[[日本アカデミー賞]]は当時、[[電通]]開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの{{Refnest|group="出典"|{{R|sponichi20110510_kiji|日本アカデミー賞公式|日テレDON20100406何の日}}}}。名称を始め色々物議を醸すイベントだが、第4回(1981年)の[[黒澤明]]の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『[[影武者 (映画)|影武者]]』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。 |
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*このシリーズのプロデューサー・吉田達は、東京撮影所の作品が全然当らないので、岡田が京都からテコ入れに来ると、朝早くから岡田が撮影所の玄関前で演説を始めて、アジテーターで演説が上手く、“みんなで作ろうヒット作”と全員が乗せられ元気になったという。「あの人に扱き使われてもまったく疲れなかった。僕は現在でも尊敬してます」と話している<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.7、p135<br />[http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-2004/kaiho-0404/kaiho0404-02.htm 私の新人時代, 吉田 達 (東映)]</ref>。なお「不良番長」シリーズは、岡田には「よう出来た、オモロイなー!」と手を叩いて喜んでもらえたが、他の重役や良識を持ったスタッフからは嫌がられ、[[俊藤浩滋]]には「“不良番長”なんか作ってたらロクなプロデューサーにならないぞ!」と言われたという<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.7、p137</ref>。 |
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[[1985年]]に日本アカデミー賞の特別賞として創設された同賞編集賞が、三年後の[[1988年]]から正賞に昇格したのは、組織委員会委員・[[浦岡敬一]]が委員長だった岡田に「編集賞を正賞にして下さい」と直訴し「監督と同等に話し合える編集者を育てられるかな」と問われ「任せて下さい」との返答を受け「では、今年から正賞にしよう」と、岡田の一声で決まったもの{{R|浦岡_14-15}}。 |
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*[[1969年]]の十月大作『[[日本暗殺秘録]]』は、岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と[[天尾完次]]に命じて始まった企画<ref>渡邊達人『私の東映30年』、p149</ref>。渡邊が[[血盟団事件]]で[[井上準之助]]を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている<ref>渡邊達人『私の東映30年』、p149</ref>。監督の中島貞夫が同じ年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』を当てたので、岡田に次は「“[[テロリズム|テロ]]”をやらせてください」って頼んだ、と話しているため<ref name="私と東映中島貞夫3"/>、企画・製作・脚本・監督の流れは、中島→岡田→渡邊→笠原・中島→中島の順と思われる。製作にクレジットされている大川は最終的な了承のみと考えられる。 |
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[[1985年]]から始まった[[東京国際映画祭]]は、当時[[日本映画製作者連盟]]会長を務めていた岡田や[[瀬島龍三]]らを中心に創設されたものである{{Refnest|group="出典"|{{R|東急100年史|週刊現代12010512|tokyo14|「ことば抄」朝日新聞、1993年12月9日夕刊p2}}}}。 |
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*[[浅草]]の有名[[すき焼き]]店「いろは」をモデルにした清純派・[[佐久間良子]]の映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、佐久間を号泣させた<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p16</ref>。 |
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=== 不良性感度 === |
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*25歳まで[[広告代理店]]で[[サラリーマン]]をやっていた[[渡瀬恒彦]]が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという<ref name="BIG tomorrow"/><ref name="meistervol9"/>。 |
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1960年代に東映が時代劇から任侠路線へ、さらに暴力とエロチシズムの路線に踏み込んでいったとき、岡田がこれを〔不良性感度〕と呼んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|hochi200711|秘宝201107_52|東映キネマ旬報_17|テレビ成長期の日本映画_134-153|多田3|多元文化4_楊|七つの顔を隠し続けた男_51-52|不良性感度|日本映画発達史Ⅳ_265|波瀾_156-157<!---|ds20151119|活動屋人生_43-53--->}}}}。以降、1970年代、80年代に於いても〔不良性感度〕の維持と推進は東映の基本路線となった{{Refnest|group="出典"|{{R|日本映画の現在_19_33-36他|映画撮影223}}}}。また〔不良性感度〕は他社に真似られた{{R|テレビ成長期の日本映画_134-153}}。言葉の初出は『[[キネマ旬報]]』1965年11月上旬号で、井沢淳、高橋英一、日高真也らが参加した匿名の座談会中、このうちの誰かが京都撮影所を訪ね、岡田撮影所長と話をし、岡田が"不良性感度"という言葉を使い、他の出席者が「なんだいそりゃ」と驚き、岡田が以下のように話していたというもの(座談会形式のため要約)「映画界の不振を救うルールを発見した。それは不良性感度の開発だ。つまり社会の不良性がどんどん進んでいる。この不良性を早くキャッチして、それに合わせた企画を立てる奴がこれからは勝ちで、その点から言えばやくざ映画なんかはもう駄目で、来年からはこの不良性の感度をもっと良好にせないかん。映画を作っているものも昔は不良少年の集まりで、不良の方が流行の感度に敏感だ。今は一流大学を出た人間が多すぎる。だからここで不良と称される連中も製作に入れて彼らの敏感さを活かしていく。善良性感度の方はテレビにまかせておけばいい、映画は不良性感度の養成だ」{{R|キネ旬1965111_42}}。また「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」とも話し{{Refnest|group="出典"|{{R|テレビ成長期の日本映画_134-153|私の30年_150}}}}、「私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している{{Refnest|group="出典"|{{R|読売新聞20110513web_悼む|クロニクル2_1-8}}}}。 |
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岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、[[江戸時代]]に芝居が“[[河原者|カワラもの]]”と言われたときからの[[興行|見世物]]の役割だ。この二つが、映画にとって[[陰陽]]の[[元素|エレメント]]になっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に掴まえたがるのが困るところだ」などと話していた{{R|キネ旬2011071_65-67}}。[[加藤泰]]は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している{{R|加藤泰映画華_136}}。 |
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*[[1969年]]、[[こむら返り]]の病気で苦しむ[[マキノ雅弘]]を日活に売り飛ばす(マキノ談<ref>マキノ雅弘 『マキノ雅弘自伝 映画渡世 地の巻』 [[平凡社]]、1977年、p432、433</ref>)。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている<ref>『マキノ雅弘自伝 映画渡世 地の巻』、p447</ref>。[[小沢茂弘]]を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後[[易者]]や[[山伏]]などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている<ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p7、18、21、63、89、90、96、206</ref>。 |
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総売上げ1000億円の大台に乗せ、史上最高の好決算を記録した[[1989年]]のインタビューでは「映画製作ってのは[[性風俗関連特殊営業|風俗産業]]みたいなもんだからね、絶えず大衆の求めているものは揺れ動いてるからな。ファッションだな、これについてゆくためには、まったく別の発想を入れ込むこともやらにゃダメなんだ。ある時期、[[角川春樹]]クンに頼んでシャシン入れてもらったのも、[[西崎義展]]クンに入って来てアニメ映画の革命を起こしたのも、みんな"それ"だよ」と話した{{R|活動屋人生_234-245}}。 |
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*[[1970年]]頃、同郷で中学の後輩、[[カルビー]]社長・[[松尾孝]]が常務時代の岡田を訪ねて来て、[[スポンサー]]になれるいい作品はないか、というので、営業の天才と評価していた[[渡邊亮徳]]が「今度の[[毎日放送]]の新企画は絶対当たります。わたしが言うんだから間違いない。どこかいいスポンサーはないでしょうか」と自身満々に話していた『[[仮面ライダー]]』を松尾に薦めた。カルビーの手掛けた[[仮面ライダースナック]]は社会現象になった<ref>[[大下英治]] 『日本ヒーローは世界を制す』、[[角川書店]]、1995年、p19、20、29、30</ref>。 |
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岡田が提唱した〔不良性感度〕路線は、ヤクザ、エロ、グロを追求したが、1975年の『[[爆発! 暴走族]]』では、ついに各地の本物の[[暴走族]]グループを集結させるに至った{{R|完本石井輝男_577_579}}。本作で映画初主演したのが[[岩城滉一]]である。 |
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*[[高倉健]]は1970年「[[ヤクザ映画]]で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した<ref name="サンデー毎日19721210">サンデー毎日、1972年12月10日号、p26-29</ref>。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない<ref name="サンデー毎日19721210"/><ref>サンデー毎日、1972年12月10日号、p27</ref>。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは"高倉健蒸発""仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た"などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)<ref>『任侠映画伝』、p224-232</ref>。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の<ref name="サンデー毎日19721210"/>映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる<ref name="cyzo201106"/><ref name="サンデー毎日19721210"/><ref>サンデー毎日、1974年11月12日号、p50<br />[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110511/enn1105111250012-n1.htm 東映・岡田茂名誉会長しめやかに通夜 健さんは弔電 - 芸能 - ZAKZAK]<br />[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110510/enn1105101600017-n1.htm 東映ドン岡田茂さん死去…健さん、文太、松方が通す“仁義” - 芸能 - ZAKZAK]<br />[http://bunshun.jp/shukanbunshun/thisweek_life/110526_1.html 岡田茂元東映会長の葬儀を欠席した健さん流“弔い方”週刊文春2010年5月26日号、p53]</ref>。 |
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[[田中純一郎]]は「岡田茂が"いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ"といっているのは、時流に惑溺した不見識な見解といわねばならない。指導者はつねに時流を抜いた批判性の上に立脚して、全体的な判断力を持たなければ危険だからである」と批判した{{R|日本映画発達史Ⅳ_265}}。 |
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*[[1971年]]から始まる「女番長」シリーズは、ヤクザ映画以外にもう1本、若者のラインがないと興行が弱いとシリーズ化させたもの。この「女番長」と書いて「スケバン」と読ませるのは[[鈴木則文]]監督の発想。当時から「スケバン」という言葉はあったが、あまり出版物には出ておらず、たいていカタカナ表記であった<ref>「映画秘宝」2009年4月号、洋泉社、p66</ref>。鈴木は「岡田さんが『牝蜂』って言葉が好きで、何かと「牝蜂でいこう!」って言うから、それだけじゃつまらんと『女番長』と付けた」と話している<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p103</ref>。 |
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=== 「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」 === |
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*後期の「女番長」シリーズを監督した[[関本郁夫]]は、初監督作<ref>公開順では「女番長 タイマン勝負」(1974年)。</ref>「女番長 玉突き遊び」(1974年)で、主演の[[叶優子]]を撮影中の事故で脚を骨折させ、撮影が丸一年中断、たまたま岡田が京都撮影所に来たので制作部長と謝りに行ったら、夜飲みに行くまで暇だった岡田が、「どこまで撮ったんだ、見せてみろ」と、仮つなぎもしてないバラバラのフィルムを見てくれた。試写の間は生きたここちがしなかったというが、岡田が「なかなかよう撮ってる。面白かったぞ」と言ってくれたため、制作部長もその場にいたおかげで、その後も引き続き映画が撮れるようになったという<ref>「映画秘宝」2009年4月号、洋泉社、p68</ref>。 |
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1964年に「海抜ゼロメートル」という原作のタイトルを『[[二匹の牝犬]]』に変更してヒットさせ、題名を付けるのに絶対の自信をつけたといわれる<ref>{{Cite book | 和書 | title = 東映ゲリラ戦記 | author= 鈴木則文|authorlink=鈴木則文 | publisher = [[筑摩書房]] | page = 24 | year = 2012 | id = ISBN 978-4-480-81838-6 | ref = }}</ref>。「タイトルというのは実は興行の中で一番難しいんだ」{{R|オール読物2006_216}}「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」などと岡田は話しているが{{R|メッセージjp20050515_岡田茂}}、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い{{Refnest|group="出典"|{{R|ニッカン20110510_22-24|東映キネマ旬報_17|toei70th_103|鹿島|Hotwax8_43|ピンキー_36-37_107}}}}。『[[大奥(秘)物語|大奥{{Color|black|㊙}}物語]]』『[[現代ポルノ伝 先天性淫婦]]』『[[残酷・異常・虐待物語 元禄女系図]]』『[[恐怖女子高校 女暴力教室|恐怖女子高校]]』『[[徳川セックス禁止令 色情大名]]』『はだか大名』『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』『[[ポルノの帝王]]』『[[色情トルコ日記]]』『[[二匹の牝犬]]』『[[三匹の牝蜂]]』『[[ネオンくらげ]]』『[[未亡人ごろしの帝王]]』『尼寺㊙物語尼寺{{Color|black|㊙}}物語』『[[温泉みみず芸者]]』『[[温泉あんま芸者]]』『[[温泉こんにゃく芸者]]』『[[東京ふんどし芸者]]』『{{Color|black|㊙}}女子大寮』『[[セックスドキュメントシリーズ#シリーズ|にっぽん'69 セックス猟奇地帯]]』『好色妻』『色罠』『変態魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』『エロ将軍と二十一人の女妾』『[[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]]』など{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|読んだ飲んだ_206-211|toei70th_103|波瀾_164-165|facebook私と東映中島貞夫_3|鹿島|toei70th_104|toei70th_107|キネ旬2011071_44_70}}}}、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し{{R|波瀾_164-165}}、「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場の[[インスピレーション]]が非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_164-165|悔いなき_36_137}}}}。『[[エロ将軍と二十一人の愛妾]]』は最初“[[エロ]]”はタイトルに付いておらず、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝200710_XX|Hotwax8_43|Hotwax8_18|ピンキー_105}}}}。“エロ○○”のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、[[天尾完次]]プロデューサーや監督の[[鈴木則文]]をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_103|秘宝200910_74}}}}。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論であった{{R|秘宝200910_74}}。天尾が池の[[履歴書]]を成人のものに100%捏造したとされる{{Refnest|group="出典"|{{R|ピンキー_30-31|メンズサイゾー20090822_ピンキー}}}}。本作の食いつきがいいと池玲子主演で二作目の製作を指示、〈悪女もの〉でタイトルを『先天性毒婦』に決めた{{R|ちくま1}}。池はまだ16歳であった。ところが後〈悪女もの〉というコンセプトは吹っ飛び、『[[現代ポルノ伝 先天性淫婦]]』と改題され公開された{{Refnest|group="出典"|{{R|ちくま1|ちくま3}}}}。また[[浅草]]の有名[[すき焼き]]店「[[木村荘平|いろは]]」をモデルにした映画に『[[あかさたな#映画版|妾二十一人 ど助平一代]]』(1969年)というタイトルを付け、主演の[[佐久間良子]]を号泣させた{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|レトロスペクティブ|Hotwax8_16}}}}。当初のタイトル案は『[[あかさたな]]』で、佐久間はこれ以降、自身の将来に不安を感じ舞台やテレビにシフトすることになる{{Refnest|group="出典"|{{R|東映キネマ旬報_17|日経佐久間14|toei70th_103|日経佐久間15}}}}。温泉芸者の取材をしてこいと指示を受けた[[鳥居元宏]]が、何のアイデアも浮かばず困っていると、岡田に呼び出され、「イメージだけでも話せ」と迫られ、やけくそ半分に「スッ裸の女がバイクに乗って温泉街を走り回る..そんなイメージです!」と答えると「おっしゃ!それで行け!!」と岡田が付けたタイトルが『[[温泉ポン引女中]]』(1969年、[[荒井美三雄]]監督){{R|あかん_268}}。 |
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[[内藤誠]]は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・[[小野竜之助]]ともども心底、恐怖した{{R|東映キネマ旬報_17}}。[[黒岩重吾]]原作の『背徳の伝道者』を『[[夜の手配師 すけ千人斬り]]』と題名を変え、これを『[[11PM]]』で[[大橋巨泉]]が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった{{Refnest|group="出典"|{{R|ニッカン20110510_22-24|戦う女たち_266-267|ピンキー_107}}}}。黒岩は「お金は戴きますが…」と原作料を請求した上で、名前はクレジットから消えたという{{R|レトロスペクティブ}}。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している{{R|遊撃の美学_204}}。また「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『[[人生劇場 飛車角]]』『[[昭和侠客伝]]』『[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]]』『[[やくざと抗争 実録安藤組]]』『[[人斬り与太 狂犬三兄弟]]』など{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_34-35|映画芸術2011_137|キネ旬2011071_41-42|石井輝男_124-125}}}}。『[[県警対組織暴力]]』の題名は、ヤクザ映画を圧迫する警察の圧力にムシャクシャしていた岡田が便所の中で思いついたのは有名であるが、『人斬り与太 狂犬三兄弟』も題名に難航していて、岡田が便所から飛び出して「出たー!狂犬三兄弟や!」と出したものという{{R|映画芸術2011_137}}。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという{{R|私の30年_148-149}}。この他、1964年の時代劇『[[大殺陣]]』{{R|あかん_191}}、『[[忍者狩り]]』、『[[間諜 (1964年の映画)|間謀]]』も岡田の命名{{R|仁義沈没_116-119}}。[[鳥居元宏]]の監督デビュー作『[[十七人の忍者 大血戦]]』(1966年)は、忍者映画という企画で脚本段階のうちから、鳥居を呼びつけ「タイトル決まったで!『十七人の忍者 大血戦』や」というので、鳥居が「(忍者は)十七人も出てきませんよ」と反論すると「ええわ。新人監督の映画は題名を続編みたいにした方が売りやすいやろ」と、内容は関係なく1963年の『[[十七人の忍者]]』の続編のようなタイトルにした{{R|あかん_197}}。『[[強盗放火殺人囚]]』(1975年)は、[[高田宏治]]が「『大阪脱獄囚 非常線突破』いう題目で脚本を書いてたら、知らん間に岡田さんに題名に変えられてしもた。そしたら女性ファンに『こんなえげつないタイトルの映画作るようじゃおしまいね』なんていわれてフラれてもうた」と述べている<ref>[http://www.laputa-jp.com/laputa/program/takadakoji/sakuhin3.html 鉄腕脚本家 高田宏治/ラピュタ阿佐ケ谷 作品解説 3]</ref>。その他、『[[新幹線大爆破]]』(1975年)、1978年の『[[柳生一族の陰謀]]』というまんまのタイトルや{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_223-227|自由が丘武蔵野館}}}}、翌1979年の『[[真田幸村の謀略]]』{{R|キネ旬1978052_177}}。『[[恐竜・怪鳥の伝説]]』(1977年)、『[[地獄 (1979年の映画)|地獄]]』(1979年){{R|あかん_372}}『[[突入せよ! あさま山荘事件]]』(2002年){{R|原正人}} のタイトルも岡田の命名。 |
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*[[1971年]]、大川博社長の逝去で、後任社長には岡田、[[坪井与]]、俊籐浩滋、[[片岡千恵蔵]]らの名前が挙がったが、やはり抜群の才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという<ref>[[田山力哉]]『千恵蔵一代』[[社会思想社]]、1987年、p139、140、196-198</ref>。 |
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[[1981年]]の『[[冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-]]』は、[[千葉真一]]と佐藤公彦、[[真田広之]]の三人で、『冒険者たちのメロディー』というタイトルを付けて岡田のところに行ったら、岡田が『爆発! カミカゼ野郎』と変更した。「社長、このタイトルはどうも…」というと岡田がカーッと怒り、千葉は初めて岡田と喧嘩した。もうこりゃダメだと思い「すいません"カミカゼ"残します。その替り"爆発"はとって下さい」と言ったところ、横から佐藤が「アドベンチャー・カミカゼ」と英語タイトルを出し、結局何とか上記タイトルで収まった<ref>[[高平哲郎]]『話は映画ではじまった PART1 男編』[[晶文社]]、1984年、p132</ref>。 |
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*岡田が社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時[[通産大臣]]だった[[田中角栄]]を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは[[住友銀行|住友]]ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて[[五島昇]]の所に行ったところ「[[三菱銀行|三菱]]にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行[[頭取]]の[[伊部恭之助]]に会うと慌てて「それは違う。[[堀田庄三]]さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった<ref>『僕らはそれでも生きていく!』、小石原昭、p157-158</ref>。 |
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岡田のタイトル命名で失敗したケースは『[[武士道残酷物語]]』『[[陸軍残虐物語]]』など。これらはヤクザや[[右翼]]が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという{{R|新潮45p200409_204}}。また、『突入せよ! あさま山荘事件』も、製作総指揮の[[原正人]]らが、公開後の反省会で、「(今の時代は)やはり"突入せよ"ではなく、"救出せよ"で行くべきだった」という結論に達している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fcg-r.co.jp/forum/column/okura/2734/|title=第397回 原田眞人監督の時代劇、戦争映画、そして…|accessdate=2015-10-01|publisher=エフシージー総合研究所|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151001010541/http://www.fcg-r.co.jp/forum/column/okura/2734/|archivedate=2015-10-01|url-status=dead|url-status-date=2019-07-27|date=2015-06-08|author=大倉明}}</ref>。 |
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<!--大仰に書いているが内輪の構想段階でつぶれたプロジェクトの裏話にしか読めない*[[1982年]]に『[[海峡 (映画)|海峡]]』というタイトルで[[青函トンネル]]を題材にした映画が東宝で作られたが、これ以前の[[1979年]]頃、[[菅原文太]]が[[愛知和男]]の選挙の応援の帰りの汽車の中で、[[竹下登]]と愛知と話し、田中角栄の発案で[[日本鉄道建設公団|鉄建公団]]が建設中の青函トンネルを映画化したらどうだろう、という話が出て、菅原が俊藤に相談、俊藤が岡田に聞くと「面白いかもわからんな」と岡田が田中角栄にコンタクトを取り、岡田と俊藤、菅原、愛知の4人で田中に会いに行くと田中は大喜びで、すぐその場で鉄建公団の[[川島廣守]]総裁に電話をかけて一発OKとなった。しかし[[黒部ダム]]のようなドラマチックな話がないため脚本が難しく困っていると『[[太陽を盗んだ男]]』の関係から、菅原が[[長谷川和彦]]を推薦するから、俊藤は若い感性による斬新な切り口での人間ドラマを期待し、長谷川にいっぱい金を渡して[[北海道]]に取材旅行に行かせたら、長谷川は飲み食いで金を全て使い切った挙句、「[[竜飛岬]]に[[UFO]]が降りてくる」という脚本を持って行って俊藤が激怒、結局この企画は頓挫した<ref>『任侠映画伝』、p236-238</ref>。--> |
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=== 批判と評価 === |
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*[[1972年]]秋、経営窮状の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げて[[パ・リーグ]]は崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄を[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]・オーナー[[中村長芳]]が[[太平洋クラブ]]の支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌[[1973年]]1月、[[PR]]効果だけが目的と思われる[[不動産]]会社・[[日拓ホーム]]にフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「[[今里広記]]を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝([[西村拓郎]]の父)に球団経営を勧めたもの。売却額は8億円と書かれたものが多いが<ref>[[サンデー毎日]]、1973年2月4日号、p23</ref><ref name="ookawa"/><ref name="hochi.yomiuri"/>、岡田は自伝で3億円と書いている<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p211</ref>。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた<ref>闘技場の人、佐山一郎、1992年12月、p14、15、27、28</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_09/g2004090811.html 映画界のドン、球界のドンをチクリ]</ref>。 |
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ニュー東映で監督へ昇格した深作欣二は[[1953年]]に入社し、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと“[[性行為|おまんこ]]”する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の[[工藤栄一]]に「あれは誰です?」と聞くと「[[東映京都撮影所|京撮]]の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという{{R|東映三十年_232}}。工藤は、岡田を「色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う」と評している{{R|光と影_67}}。 [[1955年]]、後の東京撮影時所長・幸田清が、現場で下働きして数ヵ月後、事務方に配属の辞令を受けたが、当時30歳の岡田製作課長に抗議にいったら、「現場が好きか」と聞かれ、希望通り現場に籍を置けることになった。一課長が辞令をねじ曲げたことに驚いたという<ref>新潟日報夕刊<連載 ひと賛歌 幸田清 活動屋半世紀⑤>2011年11月15日</ref>。 |
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岡田が[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて仕掛けた「[[任侠映画]]」や「[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]」、「[[東映ポルノ]]」は、"女性の観客にまったく迎合しないアウトロー映画群"ともいわれ<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0033507 暴力とセックスはあたりまえ!ヤクザ、スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝]</ref>、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。[[武井昭夫]]は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。[[全学共闘会議|全共闘]]学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから[[日活ロマンポルノ|日活のポルノ映画]]も新しい客層をつくるというより、むしろほどなく[[マンネリ]]となって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている{{R|戦後史_269-270}}。[[マキノ雅弘]]は「岡田茂や俊藤浩滋はハッキリいえば二人とも、映画人としては[[ゲテモノ]]なんです」と述べている{{R|週刊文春19810903_139-142}}。 |
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*[[テレビドラマ]]「[[長谷川伸シリーズ]]」をやってた頃、[[俊藤浩滋]]の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の[[山下耕作]]に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と[[高岩淡]]にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下"さん"」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している<ref>『将軍と呼ばれた男 映画監督山下耕作』 共著者:円尾敏郎、ワイズ出版、1999年、p82、185</ref>。 |
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[[山城新伍]]は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、[[永田雅一]]さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」などと話していた{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬ベスト下_84|キネ旬1976061_118}}}}。 |
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*[[1973年]]、東映の企画で黒崎出版から発行されていた「[[テレビランド]]」を編集スタッフごと[[徳間書店]]に移したが、これを[[徳間康快]]社長と二人で[[銀座]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]で決めた<ref name="三流週刊誌編集部"/>。徳間書店の「テレビランド」刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の「[[アニメージュ]]」創刊、[[宮崎駿]]([[スタジオジブリ]])等へと展開していく足がかりとなった<ref name="三流週刊誌編集部"/>。徳間が活字(出版、[[東京タイムズ]])、オーディオ(音楽、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]])文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年[[大映]]を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった<ref>萩原信一郎『龍になった男 小説・徳間康快』、2001年、p151</ref>。 |
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[[奥山和由]]は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、[[田中角栄]]のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も[[勝新太郎|勝新]]、[[石原裕次郎|裕次郎]]、[[松田優作]]と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた{{R|結局、どうすりゃ_195}}。[[1987年]]に奥山が企画した『[[ハチ公物語]]』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は[[渋谷]]が舞台なので[[東急グループ]]に出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え[[五島昇]]を紹介。東急グループは出資を決め、さらに[[三井物産]]も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力な[[宣伝|プロモーション]]や大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった{{R|逆転のシナリオ_33-34}}。[[1989年]]岡田は奥山を松竹とは別の場所で生かしてやりたい、と東映で金を出してやるから『大霊界~死んだらどうなる』みたいなの考えろと言ったら、奥山は「『大霊界』はカンベンして下さい」と初演されて間もない[[今井雅之]]の『[[THE WINDS OF GOD]]』を映画化したいと持って来たという{{R|活動屋人生_234-245}}。その後の経過は不明だが1995年に松竹で最初の映画化が行われた。 |
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*[[富司純子|藤純子]]は約10年間の東映専属で"任侠映画の花"として一世を風靡、90本の映画に出演し[[1972年]]、[[歌舞伎]]俳優の[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊五郎]]と結婚し引退を表明した。俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑なで諦めざるを得なかった。ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため<ref>サンデー毎日、1972年3月19日号、p44</ref>。看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。挙式3ヵ月前に封切られた「緋牡丹博徒シリーズ」第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の[[私鉄|私鉄電車]]の[[中吊り広告]]や、普段付き合いのない[[週刊誌]]まで広告を出した。藤は新しい企画には出ないとこちらも頑なであったが、引退記念映画の製作を俊藤に断固要求し藤を説得<ref>『任侠映画伝』、p166、164</ref>、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけ、東映オールスター結集による引退記念映画『関東緋桜一家』を製作。これを藤の挙式直前に封切った。『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p177</ref><ref>[[九州スポーツ]]、2007年7月4日18面</ref>。藤純子引退の後、すぐに"ポスト藤純子"探しを始めた<ref>『任侠映画伝』、p165</ref>。[[トヨタ]]と[[タイアップ]]し賞品付きで藤の後継者を一般募集した。映画館のロビーに「ポスト藤純子ご推薦ください、合格者は100万円、推薦者には[[トヨタ・セリカ|セリカ]]を進呈」というポスターを張り出した。<!--合格したのは[[中村英子]]だったとされるが、中村は俊藤がスカウトしたとされるため、一般の本当の新人を募集したのかは不明。これでは「Wikipedia発の都市伝説」-->この後『緋ぢりめん博徒』に出演した中村英子、[[藤宏子|藤浩子]]、[[土田早苗]]、[[堀越陽子|堀越光恵]]、[[松平純子]]、[[池玲子]]の6人を和服の似合う美人に仕立てあげ、"ポスト藤純子"として順繰り売り出したが、時代が任侠映画を求めておらず、中村は元を取る前2年で結婚引退。藤、土田、堀越はテレビに、松平は歌手に、池は別路線に転身した。 |
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東映映画の大ファンで関連著作も多い[[杉作J太郎]]は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さんの大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている{{R|秘宝201108_45}}。 |
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*ただ[[日活ロマンポルノ|ポルノにシフト]]した[[日活]]を辞めてフリーになった[[梶芽衣子]]は、"ポスト藤純子"として東映が呼んで、任侠路線ではなく別路線の「[[女囚さそりシリーズ]]」(1972-1973年)でスターになった<ref name="悪趣味邦画劇場259262"/><ref>[[杉作J太郎]]・植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、徳間書店、1999年、p1、11、27<br />サンデー毎日、1972年3月19日号、p44<br />サンデー毎日、1973年3月16日号、p42<br />サンデー毎日、1973年9月23日号、p46<br />サンデー毎日、1973年12月9日号、p38<br />サンデー毎日、1974年2月3日号、p36<br />週刊サンケイ、1974年6月27日号、p26<br />週刊朝日、1974年5月17日号、p37、38</ref>。『[[女囚701号/さそり]]』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『[[女囚さそり 第41雑居房]]』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は[[俊藤浩滋]]が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという<ref>東京スポーツ 連載「梶芽衣子 あいつの好きそなブルース」⑩~⑯ 2011年6月</ref>。岡田や俊藤の説得がなければ「[[女囚さそりシリーズ]]」は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している<ref>[http://ameblo.jp/meikokaji/day-20090609.html 「女をやめたい」梶芽衣子4 梶芽衣子 オフィシャルブログ2009-06-09]</ref>。 |
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映画美術の第一人者・[[井川徳道]]は、[[近代映画協会]]の[[新藤兼人]]の口利きで岡田を紹介してもらい、東映京都撮影所に移籍した<ref>[https://archive.md/wjYZD 『私と東映』×井川 徳道氏(第1回 / 全3回) - Facebook](Archive)</ref>。東撮で長く仕事をしていたおり、松竹の[[篠田正浩]]から誘いを受けたことがあり、たまには芸術映画をやりたいと「しばらく京都を離れたい」と岡田に掛け合うが「映画は娯楽やぞ。一般の人が楽しんでこその映画や。評論家に選ばれるのではなく、東映のシステムの中でやってほしい」と諭され、その言葉に感銘を受けた井川は東映京都撮影所で今日まで60年以上の長きに渡り美術セットを作り続けている{{R|あかん_270}}。 |
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*この他、当時高校三年生だった[[檀ふみ]]も"ポスト藤純子"と騒がれ東映入りした。壇は[[高岩淡]]の姪にあたる。壇は藤純子のキャラクターとは違うが、浪人中に[[NHK総合テレビジョン|NHK]]から声がかかり「[[連想ゲーム]]」のレギュラー解答者に登場、お茶の間のアイドルになった<ref>週刊サンケイ、1972年11月26日号、p38、39<br />週刊サンケイ、1979年3月15日号、p32、36</ref>。 |
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東映映画の[[キャッチコピー|惹句]]を量産した関根忠郎は、岡田と顔を合わせる度に「いいかキミ、おもしろい惹句を書けよ。大衆受けするヤツをな。誰にでも分かるヤツな。芸術は要らんぞ。映画は客が来てナンボだからな!」と言われたという{{R|熱風201112}}。「これまで岡田会長が世に送った娯楽映画の数と同じ数だけ、わが師匠、橘喜代次と私とで書いた娯楽一点張りの惹句が残っている筈です」「岡田会長。私はこれまで大量の映画惹句を量産してきましたが、こと〈ゲイジュツ〉に惑わされたことはありません。なぜなら東映映画には、幸か不幸か高尚難解な芸術至上作品が見当たらなかったからです。私にとって岡田茂会長は、これからも〈映画の巨人〉であり続けます」などと話した{{R|熱風201112}}。 |
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*[[1973年]]から始まる『仁義なき戦い』シリーズは、[[実録シリーズ|東映実録路線]]といわれ、その後、多くの実録[[ヤクザ映画]]が製作されたが、"実録"はヤクザ映画に留まらず、東映は勿論他社も"実録モノ"を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、[[東宝]]が[[池田大作]]の著作で[[創価学会]]第2代会長・[[戸田城聖]]の半生を映画化した『[[人間革命]]』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『実録・日本共産党』であった<ref>週刊朝日、1973年12月7日号、p42</ref><ref>サンデー毎日、1974年1月13日号、p36、1974年2月17日号、p40</ref>。 |
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『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』を共同製作した[[佐藤正之]]は岡田について「大映の[[永田雅一]]、松竹の[[城戸四郎]]は[[芸術]]や[[エンターテイメント]]が優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。[[大高宏雄]]は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという[[二分法]]をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は“映画は商品である”ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「[[1960年代]]後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貪欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている{{R|キネ旬2011071_68-70}}。 |
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*岡田は他の会社で[[レッドパージ]]された[[家城巳代治]]や[[今井正]]にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが<ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p259</ref>、どちらかというと[[右翼|右]]寄りの映画が多いため、その『日本共産党』の映画を企画し<ref name="争議あり ">『争議あり - 脚本家・荒井晴彦全映画論集』、p353-355</ref>製作しようとしたら社内から、一体うちの[[ポリシー]]は何なの?と批判が出た。これを「代々木([[日本共産党]])が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか「[[赤旗]]」の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。ところが制作は中止された。[[山城新伍]]はやはり東映は右寄りだから、おおかた[[宮本顕治]][[日本共産党委員長|委員長]]から[[クレーム]]がきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた[[渡辺政之輔]]の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説もある<ref name="争議あり "/><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p344-347</ref>。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された<ref>一言いうたろか、山城新伍、広済堂出版、p88-90<br />男気万字固め、[[吉田豪]]、[[エンターブレイン]]、p21-23<br />濃厚民族、[[浅草キッド]]、[[スコラマガジン]]、p65-66</ref>。岡田は[[1976年]]、[[部落解放同盟|解放同盟]]と組んで[[松本治一郎]]([[松本龍 (政治家)|松本龍]]の養祖父)の[[伝記]]映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという<ref>現代・河原乞食考~役者の世界って何やねん?、山城新伍、[[解放出版社]]、p77-77<br />男気万字固め、吉田豪、エンターブレイン、p22</ref>。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『[[いつかギラギラする日]]』の原案という<ref name="争議あり "/><ref>関根忠郎・[[山根貞男]]・[[山田宏一]]『惹句術―映画のこころ』[[講談社]]、p90</ref>。 |
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翁長孝雄は「東映調というのはつまりは岡田茂調です。統一した色があるんじゃなくて、とにかく先見の明で先へ先へ行くという。それで当たらないと判断したら、アッという間に次に行く。とにかく攻めの姿勢で、攻めることこそ守ることという発想なんです」と述べている{{R|あかん_271}}。 |
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*こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、[[アドバルーン]]だけブチあげて実際は製作されないことが多かった。「田中角栄伝」や「実録・新日鉄」「実録・伊藤忠」「[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|プロ野球黒い霧事件]]」「[[毛利郁子愛人刺殺事件]]」を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない<ref>週刊サンケイ、1975年2月20日号、p28</ref>。1974年11月に起こった[[荒木虎美]]の「[[3億円保険金殺人事件]]」を現代版『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明<ref>週刊サンケイ、1975年2月20日号、p28</ref>。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、[[東海大学]]の創立者・「[[松前重義]]伝」の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという<ref>『将軍と呼ばれた男 映画監督山下耕作』 共著者:円尾敏郎、ワイズ出版、1999年、p186</ref>。実録物では他に1974年に「実録・紅白歌合戦」を企画したこともある。当時の[[NHK紅白歌合戦|紅白]]は[[視聴率]]が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない<ref>週刊朝日、1974年10月25日号、p36</ref>。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた<ref>週刊朝日、1973年11月9日号、p38、1975年2月14日号、p37</ref>。 |
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[[高岩淡]]は1983年の映画誌の座談会で「[[萬屋錦之介]]さん、[[鶴田浩二]]さん、[[高倉健]]さん、[[菅原文太]]さん、[[佐久間良子]]さん、[[三田佳子]]さん、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]さん、[[深作欣二]]さん、[[降旗康男]]さん、[[佐藤純彌]]さん、みんな岡田茂社長が育てたスタッフと役者さんです。東映黄金時代の若者たちがいま映画界の第一線で頑張っているとはっきり言えます」と述べている<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[高岩淡]](東映常務取締役企画製作部長・京都撮影所長)・鈴木常承(東映取締役営業部長)・小野田啓(東映宣伝部長)、司会・北浦馨 | title = 本誌・特別座談会 『今期百十億を達成 来季は百三十億が目標』 |journal = 映画時報 |issue = 1983年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16 }}</ref>。 |
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*映画化された物では[[小野田寛郎]]を映画化した『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)は、小野田元少尉の[[ルバング島]]での生活はまったく出てこない映画であった<ref>サンデー毎日、1974年5月19日号、p35</ref>。1974年暮れから公開された[[フランス映画]]『[[エマニエル夫人]]』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で[[佐久間良子]]を貸し出し『雪夫人繪圖』(1975年)の企画を[[日活]]に売りつけたこともある。例によって佐久間はまったく脱がず[[昼メロ]]的な映画であった<ref>週刊サンケイ、1975年4月24日号、p28</ref>。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した<ref>週刊朝日、1973年11月9日号、p38</ref>。 |
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[[中島貞夫]]は「岡田さんは東映の方向を大転換しなければ駄目だと考えていたから、僕が切り込み隊長の役割を担うことになったんです。変わったことをやるのが僕の宿命になったわけです。使い勝手が良かったから色々声をかけてもらうことになりました。僕にとっても岡田さんは話しやすい人でね。理屈で攻めるとすぐに『馬鹿もん!』と言って来るんだけど、時間が経つと『おい、昨日の話、あれな…』となるタイプでした。岡田さんはマキノさんの流れを汲む映画青年でしたね。新しいことをやらないと客が入らなことが分かっていて、何かこちらからぶつけると、駄目元でやってみようという決断が出来る人でした。僕が監督になったのが[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の年ですけど、それと前後して古い監督や俳優さんはほとんどいなくなって若い作り手が登場したんです」<ref>{{Cite journal |和書 |url = http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2954 |title = 総特集=菅原文太<small>-反骨の肖像- </small>/【インタビュー】 中島貞夫 飢えていた文ちゃん |author= |journal = [[現代思想 (雑誌)|現代思想]] |issue =2015年4月臨時増刊号 |publisher = [[青土社]] |ISBN = 978-4-7917-1298-4 |pages = 62–63頁 }}</ref>「日本映画界には優れたプロデューサーが何人かいて、また、経営者として優れた人もいた。岡田さんの場合は、その両方が出来る人だった。日本映画界で、映画を作ることと、商売すること両方をきちっとできた人は殆どいない。しかも、映画界というのが非常に苦しくなった時にそれをやってのけた。こんな人は、多分岡田さんが初めてだったんじゃないかと思いますし、今後もそういう方は出てくるのかなあ、という危惧はあります」と話している。岡田さんが京都の若手監督らを集めて『あのなあ、映画でメシ食っていこうや』『映画でメシ食っていこうという覚悟のあるヤツらだけでやろうや』と言ったことがある。その言葉が昭和40年代の映画界がどん底のなかで、東映が生き残った原動力かと思う(抜粋)」などと話している{{R|同期の桜2}}。[[大高宏雄]]も、「映画製作と、映画会社経営双方にまたがる矛盾そのものを、そうと悟られずに生き続けた稀有な映画人」であり「カツドウヤと資本家。ありえないことをやってのけた」と岡田を評した<ref>[https://web.archive.org/web/20140202095656/http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-2011/2011-06.html 一般社団法人 日本映画テレビプロデューサー協会](Archive)</ref>。[[松岡功]]も「岡田さんのように映画を作る才能と会社を経営する才能の両方を持っている方はなかなかいません。これからも出てこないと思います。私を含め岡田さんは全映画人のあこがれであり目標でした」と評している{{R|bunkatsushin.com}}。 |
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*[[1975年]]の『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』という映画は、岡田が時効が迫った「[[三億円事件]]」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の[[岡田裕介]]で、現在の東映社長。言うまでもなく岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した<ref>『ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画』、[[樋口尚文]]、[[平凡社]]、2009年、p170、171</ref><ref>週刊サンケイ、1975年12月11日号、p31</ref><ref>映画秘宝、2008年4月号、p57</ref>。 |
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[[鈴木則文]]は映画を辞めようと思案していた時、珍しく自宅で静養していた岡田を尋ねた{{R|映画芸術2011_135}}。鈴木はまだ映画を辞める心境だと言ってないのに何故か急に岡田はこれまでの自分の体験を話し始めた。最後に「己を足らざるを知り、ただちにそれを学べ」という言葉がある。忘れずに覚えておけよとしみじみ語った。鈴木はその[[格言]]の[[語源]]を[[漢字辞典]]などで調べてみたが発見できなかった。それは造語の天才である岡田が、その時即座に創った格言だったのである{{R|映画芸術2011_135}}。この教えは、鈴木の胸に深く刻み込まれてその後の映画人生の指針になったという。岡田茂は傑出した映画人であった。が、同時に優れた[[教育者]]でもあったと述べている{{R|映画芸術2011_135}}。「その性質は峻巌にして[[秋霜烈日]]。180センチを超える体格の持ち主で柔道三段。「[[三国志]]」や「[[水滸伝]]」に登場する豪傑のような人であった。押し出しの強い[[広島弁]]が特徴で、スマートに政財界の重鎮と渡り合ったかと思えば、その辺の方々にも睨みをきかせ、それでも愛された稀有な人でもあった。経営者としては、非常にシビアな面もあり、人員整理や人事異動を容赦なく行なった。〈[[国粋主義]]〉のレッテルを貼られ、[[GHQ]]に禁止されていた[[時代劇]]が解禁され、その隆盛とともに岡田茂の擡頭がはじまった。[[市川右太衛門]]、[[片岡千恵蔵]]に替わる新しいスターの作品を連発し、敗戦国、日本国民の溜飲を下げ、娯楽に飢えていた国民の渇望を潤し東映株式会社の礎を築いた」<ref>ちくま<連載 鈴木則文 東映ゲリラ戦記㉑>筑摩書房、2013年7月号、p60-63</ref>「激変する時代の中で、落日の斜陽を浴びて悪戦苦斗する映画産業を護り抜き、また商売の要である幾多の人気俳優や有能なスタッフを育て上げた功績は、彼の並外れた〈人間力〉のしからしむるところであった。岡田茂こそ日本映画産業の衰退とともに[[廃語|死語]]となりつつある〈活動屋〉という言葉にふさわしい〔最後の活動屋プロデューサー〕なのだ」{{R|映画芸術2011_135}} などと岡田を評している。 |
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*また実録では無いが、名作『[[新幹線大爆破]]』(1975年)は、岡田直接の企画<ref>渡邊達人『私の東映30年』1991年、p160、161</ref>。『[[仁義なき戦い]]』を始めとする「[[実録シリーズ|実録ヤクザ物]]」が主流路線として絶好調だった[[1974年]]5月、「実録路線」だけではいずれ材料がなくなる、次にどんなものを作ればいいか、という岡田と[[天尾完次]]の話し合いで、岡田の一つの考え方として「大体[[アメリカ]]でヒットしているものが、間もなく日本でも受けるようになる。だから常にアメリカの動向を観察していなければならない」というのがあり、そのときアメリカで『[[大地震 (1974年の映画)|大地震]]』、『[[サブウェイ・パニック]]』、『[[タワーリング・インフェルノ]]』など、いわゆる[[パニック映画]]非常に受けていて、間もなく日本に輸入されてくるはず、それが『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』などの後をうけて大当たりするはずだ、という結論に達した。では、それを日本でやるとすると材料は何かと考え、[[日本航空インターナショナル|日航機]][[ハイジャック|乗っ取り]]などが候補に上がったが、その中で日本だけにあって題材となるものといえば[[新幹線]]しかない、新幹線を乗っ取る、あるいは爆発させるというストーリーは日本だけでしか出来ないし、外国に持っていっても遜色ないものが出来るに違いない、それをやろうじゃないか、というのがこの企画のスタートだった<ref>[[キネマ旬報]]1975年7月上旬夏の特別号「新幹線大爆破にしかけたスリルのサスペンスについて」p88-94</ref>。1975年3月の[[山陽新幹線]]の[[博多]]開業に合わせて公開しようとした便乗企画。当時、国鉄へ日に何回か爆破の脅迫電話がかかってくる事実をヒントに製作に着手したもので、当初のタイトルは『新幹線爆破魔を追え』というタイトルで、この年ヒットしていた『[[サブウェイ・パニック]]』(日本公開1975年)+『[[大空港 (映画)|大空港]]』(1970年)の新幹線版という触れこみであった<ref>週刊サンケイ、1975年2月20日号、p28</ref><ref>週刊朝日、1975年2月14日号、p37</ref>。『新幹線大爆破』は、『[[タワーリング・インフェルノ]]』に正面からぶつけるという興業的タイミングの悪さで惨敗。『タワーリング・インフェルノ』は当時の史上最高興収を記録した<ref>佐藤忠男、山根貞男編集『シネアルバム(46) 日本映画1976 1975年公開映画全集』芳賀書店、1976、p190、191</ref>。便乗企画では『[[愛のコリーダ]]』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の"[[本番行為|本番]]"が大きな話題を呼んだ[[松田英子]]を獲得し『[[大奥浮世風呂]]』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある<ref>[[週刊新潮]]、1977年1月20日号、p13</ref>。 |
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『[[毎日新聞]]』は「反社会的な題材や過激な描き方がしばしば物議を醸し、歯に衣着せぬ発言で批判も受けた。しかし時代感覚は鋭く、大胆で豪快な人柄を慕う人も多く、プロデューサーとしても経営者としても、日本映画史に大きな足跡を残したことは間違いない」と評した{{R|mainichi110509}}。 |
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*[[1975年]]から始まり、東映の[[ドル箱]]シリーズとなった[[トラック野郎]]は、第1作の『[[トラック野郎・御意見無用]]』が公開初日に都内の東映直営館が大盛況で、即座にシリーズ化を決定した。第2作『[[トラック野郎・爆走一番星|爆走一番星]]』のタイトルは岡田の命名<ref>[[鈴木則文]]、[[宮崎靖男]]、[[小川晋]]「映画『トラック野郎』大全集 」、[[洋泉社]]、2010年、p48</ref>。岡田は[[由美かおる]]が[[贔屓|御ヒイキ]]らしく、[[1976年]]の第4作『[[トラック野郎・天下御免|天下御免]]』の[[ヒロイン|マドンナ]]は、岡田の一言で決まったという。この映画は当初、[[サーカス|サーカス団]]を舞台にしてタイトルも『一番星とサーカスの花』の予定だった。由美は当時20代半ば、[[鈴木則文]]が「由美かおるは[[空中ブランコ]]の美少女、[[タイツ]]姿も似合うでしょう」と提案すると岡田は「そうや、ぴったしやないか」と膝を打ったが、撮影を予定していた[[木下サーカス]]から、脚本にあるサーカスのイメージが古過ぎるなどの[[クレーム]]が付き、サーカスは中止。由美の設定は、空中ブランコの美少女から[[美術大学]]出身の[[デザイナー]]に変更され内容、タイトルも変わった<ref>『トラック野郎風雲録』、[[鈴木則文]]、[[国書刊行会]]、2010年、p66-69</ref>。第8作『[[トラック野郎・一番星北へ帰る|一番星北へ帰る]]』は、当初『波頭を越える一番星』というタイトルで[[沖縄県|沖縄]]を舞台に撮影する予定だったが、米軍基地の問題や、岡田が「舞台が南じゃ映画は当たらない。北にしろ!」という指令もあって[[東北地方]]が舞台に変更された<ref>「映画『トラック野郎』大全集 」、p108</ref>。 |
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[[高崎俊夫]]は「岡田茂の訃報を聞いて、しみじみと"巨星堕つ"の感を抱いた映画ファンは多いのではないだろうか。豪胆な言動から〈最後のカツドウ屋〉と呼ばれ、東映の自由闊達な気風を作り上げた不世出の大プロデューサー。岡田茂の波瀾に富む映画人生はそのまま戦後生まれた若い映画会社・東映の歴史にピタリと重なる。1951年、東映が設立されると岡田は[[経理]]のプロ・大川博と根っ子からの活動屋・マキノ光雄(1957年死去)という全く相反する[[個性]]の[[接着剤]]の役割を果たし、[[高度経済成長]]を背景に、東京・京都撮影所長を歴任するなかで、古参の監督の首を切り、大胆な超合理化を推し進める冷徹な[[マキャヴェリズム|マキャベリスト]]的な側面と、時代の空気と大衆の好み、欲望をいち早く察知する予見者の資質を併せ持つ岡田の稀有な才能は一挙に開花した。映画のブームは10年とばかりに、反戦映画、時代劇、任侠、実録、エログロ、文芸大作と次々に新路線を打ち出した。岡田の標する〈不良性感度〉は東映独自のカラーとして深く浸透した」などと評している{{R|東映キネマ旬報_17}}。 |
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*[[1976年]]の[[牧口雄二]]監督『戦後猟奇犯罪史』も、当時凄い人気だった「[[テレビ三面記事 ウィークエンダー|ウイークエンダー]]」(日本テレビ)の便乗企画<ref name="女獄門帖">『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』、[[ワイズ出版]]、1996年、p44</ref>。最初は[[松竹映画]]『[[復讐するは我にあり]]』より先に「[[西口彰事件]]」を取り上げた第一話と、第三話「[[大久保清事件]]」の二話構成だったが、撮影2日前に「[[克美茂愛人絞殺事件]]」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p201</ref>。[[泉ピン子]]を[[レポーター]]役で出演させ[[ワイドショー]]構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった<ref name="女獄門帖"/>。 |
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増當竜也は「岡田茂は映画をあくまでも〝商品〟とみなし、その時々の流行を見据えながら芸術性などどこ吹く風、右も左も問わない作品製作に勤しみ続けた。そこを揶揄する向きもあるだろうが、逆にその潔い姿勢が東映という映画会社を存続させ得たことも間違いないだろうし、結果としても現在残された作品群も立派に映画として屹立し続けているのである」と評価している{{R|kinejun240303}}。 |
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*この頃の東映を[[パロディ]]にしたくて山城新伍が作ったのが[[1980年]]の『ミスターどん兵衛』という映画。原作料の話をしたら岡田は「そんなもん、パクれ!」「東映の作品見てみろ!『[[網走番外地]]』は『手錠のままの脱獄』(1958年)の[[盗作|パクり]]だ!原作料もヘッタクレもねぇ、パクれ!」と言った。このネタを使ったのが『ミスターどん兵衛』の中の会議のシーンで「『ラムの大通り』(1971年)っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンという<ref>男気万字固め、吉田豪、エンターブレイン、p17<br />濃厚民族、岡田駿之、浅草キッド、スコラマガジン、p66</ref>。山城は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、[[永田雅一]]さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」と話していた<ref>『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』、p84</ref>。 |
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[[岡田裕介]]は「岡田茂は東映カラーを作り上げた人間だと思いますが、私自身は先輩プロデューサーとして岡田茂を誰よりも研究してまいりました。テレビ映画が急成長していった1960年代に、今まであった東映映画の財産を、岡田茂はすべてテレビに移行していきました。『水戸黄門』や『遠山の金さん』など、時代劇でヒットしたシリーズをすべてテレビに売っていった印象があるのです。その時、映画の東映に何が残ったのか、それは"反テレビ"という思想であったと私は認識しています。テレビで出来るものは次々にテレビへ売って、映画ではテレビでやれないものを目指す。岡田茂の思想にはそれがあった。ですからヤクザ映画や、[[道路交通法]]を破っていく『トラック野郎シリーズ』など、テレビでは絶対できないものを次々に作っていきました。それで主人公はおのずと[[アウトロー]]になっていったのです。岡田茂自身がアウトローを目指し、好んでエロティックな方向の作品を作ったのではなく、かなり[[確信犯#原義と異なる解釈|確信的]]にそちらの方向にへ東映の映画を持っていった。それが岡田茂が守ろうとした東映カラーだと私は思います。また当時の東映の直営館は、そんなアウトローの世界を[[疑似体験]]できるような環境にありました。映画館の中でたばこ吸っても咎められませでしたし、映画館そのものが入口から出口まで東映ワールドであったと思います。ですから岡田茂は最初に[[シネコン]]で映画を観たときに『俺の時代は終わった』という言い方をしました。シネコンのようにどの会社の作品も同じ環境で鑑賞できる状況になると、東映の世界が崩れてしまいます。しかもシネコンはスーパーマーケットの傍らに設営されているものも多く、ファミリーで楽しめる商業モールのイメージを守らなくていけない。また観客もそういうものを求めるようになってきました。岡田茂は『不良性感度のあるもの、そういう映画しか観客は観ないんだ』と発言しましたが、いつの間にか観客は"良性"のものしか見ないようになってきたのです。こういう上映館の環境も含めた時代の流れは、東映にとって不利な状況であると感じています。そういう状況の中、東映の映画はどのような特徴を出していくのか。それは弊社がもともとやってきた[[B級映画]]を復活させて、そこから若い人材を発掘し、育成していくことだと思います。(中略)男女の嗜好も含め、観客の[[ニーズ]]は変化してきていますが、時代とピントの合ったB級映画を我々はこれから作っていかなくてはいけない。これまでの流れを見ても、時代を先取りした作品を東映は発表し、社会的なモラルから言えばギリギリの企画を、東映は実現して成功させてまいりました。今シネコンに対応した安全な企画が多い中で、そこに安住せず独自の企画で勝負するのが東映の映画ですし、またそれが弊社に課せられた使命だとも感じています」などと話している{{Refnest|group="出典"|{{R|pia201121|東映の軌跡_564-565}}}}。 |
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*[[丹波哲郎]]から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773179.html 表気配り忘れない繊細な人/岡田さん偲ぶ - 芸能ニュース : nikkansports.com]</ref>。また丹波が親しかった元東宝副社長・[[藤本真澄]]と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこの[[ポルノ]]の国から来たの」などと言い非常に嫌われた<ref>丹波哲郎『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』キネマ旬報社、1999年</ref>。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという<ref>田中文雄『神(ゴジラ)を放った男―映画製作者・田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年、p139</ref>。 |
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2004年の自伝『波瀾万丈の映画人生』を出版した際の[[報知新聞]]のインタビューで岡田は「映画の世界ほど面白いものはないし、東映ほどドラマチックな会社もない。誰にだって人生のジ・エンドは必ず来る。悔いはない」と話した{{R|ドン}}。 |
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*[[山下耕作]]が撮った[[1974年]]の『あゝ決戦航空隊』は、[[児玉誉士夫]]が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなく[[ロッキード事件]]でペシャンコになった<ref>『将軍と呼ばれた男 映画監督山下耕作』 共著者:円尾敏郎、ワイズ出版、1999年、p162</ref>。 |
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== その他の企画作品・関与作品 == |
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*[[松方弘樹]]が主演俳優となるのは1974年の映画『脱獄・広島殺人囚』と、[[NHK大河ドラマ]]『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』からであるが『勝海舟』は当初の主演[[渡哲也]]が、急病により途中から松方に交代したもの。松方は渡、[[渡瀬恒彦]]兄弟と付き合いがあり受けるか迷ったが、最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ代役を受けるハラを決めたという<ref>サンデー毎日、1974年3月3日号、p35</ref>。しかし『勝海舟』は、神経質でひ弱な海舟が出来あがり結果的に不人気で、松方も放送終了後「NHKはくだらん」と発言したりでトラブルが多かった<ref>サンデー毎日、1974年12月29日号、p34</ref>。松方が[[仁科亜季子|仁科明子]]と恋仲になるのは、このドラマで夫婦役をやってからだが、松方は当時既婚者で、仁科の父・[[岩井半四郎 (10代目)|岩井半四郎]]が激怒し、マスコミを賑わせた。ドラマの評価は芳しくなかったが、彼らの知名度は飛躍的に上げた<ref>[http://gree.jp/matsukata_hiroki/blog/entry/577433217 松方弘樹 公式ブログ/恩人・岡田茂の薫陶 - GREE]</ref>。 |
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<!-- 時系列順 --> |
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=== 映画 === |
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==== くノ一忍法 ==== |
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1964年、組合活動で会社批判ばかりをやっていた[[中島貞夫]]を監督デビューさせたのが『[[くノ一忍法]]』。 |
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{{Main|くノ一忍法}} |
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==== 御金蔵破り ==== |
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*1974年、[[山口百恵]]が主演した東宝『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした<ref>週刊朝日、1975年8月15日、p38-41</ref>。翌[[1975年]]の[[ゴールデンウイーク]]は、東宝が山口百恵の『[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]』、松竹が[[桜田淳子]]の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『[[県警対組織暴力]]』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる<ref name="映画秘宝201012"/><ref>サンデー毎日、1975年5月18日、p44</ref>。なお『潮騒』の併映は[[和田アキ子]]の『お姐さんお手やわらかに』、『スプーン一杯の幸せ』の併映は[[中村雅俊]]の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が[[志穂美悦子]]主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し"青春路線"に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した<ref name="映画秘宝201012"/>。その第1作が[[渡瀬恒彦]]、[[伊吹吾郎]]以来、自信を持って送り出した新人・[[星正人]]主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『[[愛と誠]]』に似ていた<ref name="映画秘宝201012"/>。 |
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1964年、[[石井輝男]]に撮らせた『御金蔵破り』は、[[フィルム・ノワール]]『[[地下室のメロディー]]』からアイデアを頂いた時代劇{{R|石井輝男_134-136_315}}。[[ジャン・ギャバン]]を[[片岡千恵蔵]]、[[アラン・ドロン]]を[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・[[朝丘雪路]]のスキャンダルをのせた{{R|石井輝男_134-136_315}}。1968年の[[工藤栄一]]監督、岡田の企画『産業スパイ』は、当時、産業スパイが流行っていたため{{R|光と影_149}}。 |
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==== 飢餓海峡 ==== |
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*1974年、[[アメリカ]]の[[ワーナー・ブラザース]]が[[ロバート・ミッチャム]]、[[高倉健]]主演、[[シドニー・ポラック]]監督で映画化した『[[ザ・ヤクザ]]』は、[[東映京都撮影所|東映の京都撮影所]]で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は"[[神風特攻隊|カミカゼ]]"なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという<ref>週刊サンケイ、1974年10月20日号、p39</ref>。この映画の[[エグゼクティブ・プロデューサー]]は俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、[[ポール・シュレイダー]]が脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやり[[メロドラマ]]にした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った<ref>『任侠映画伝』、p142-144</ref>。 |
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日本映画史上ベストテンにしばしば挙がる[[1965年]]、[[内田吐夢]]監督『[[飢餓海峡]]』も岡田の企画。 |
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{{Main|飢餓海峡}} |
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==== 緋牡丹博徒 ==== |
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*岡田が[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて仕掛けた「[[任侠映画]]」や「[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]」は、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。[[武井昭夫]]は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。[[全学共闘会議|全共闘]]学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから[[日活ロマンポルノ|日活のポルノ映画]]も新しい客層をつくるというより、むしろほどなく[[マンネリ]]となって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている<ref>[[武井昭夫]]『戦後史のなかの映画』、[[星雲社]]、p269、270</ref>。 |
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[[富司純子|藤純子]]の当たり役となった『[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]]』(1968年)も岡田の企画。 |
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{{Main|緋牡丹博徒シリーズ}} |
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==== 不良番長 ==== |
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*東映映画の大ファンで関連著作も多い[[杉作J太郎]]は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さん大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている<ref>「映画秘宝」2011年8月号、p45</ref>。 |
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[[梅宮辰夫]]を売り出すために考えたのが『[[不良番長]]』シリーズ(1968年-1972年)。 |
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{{Main|不良番長}} |
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==== 仁義なき戦い ==== |
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*1974年、[[香港]]の[[ゴールデン・ハーベスト]]社が「高度な技術水準」を誇る日本の[[ポルノ映画]]に目を付け、東映ポルノの監督や女優を借り入れしたいと東映に打診してきた。当時の香港はポルノをオープンに作ることはできず、技術も未熟。また裸になる女優も少なく、女優で指名されたのが、ゴールデン・ハーベスト社の[[レイモンド・チョウ]]社長お気に入りといわれた[[池玲子]]であった。当時、[[ブルース・リー]]の4本しかない空手映画<ref>本来はブルース・リーは[[カンフー映画]]なのだが、日本のマスメディアは長い間、空手映画と表記した。</ref>の4本目『[[ドラゴンへの道|THE WAY OF THE DRAGON]]』を巡り、東映洋画と[[東宝東和]]が激しい争奪戦をしていた。前3作は東宝東和[[配給]]で日本でも爆発的大ヒットを記録し、ちょうど争っていたこの年の8月に『THE WAY OF THE DRAGON』も[[ニューヨーク]]で公開され大ヒットを記録。配給権を獲得すれば大儲けは確実という情勢で、争いは熾烈を極めた。岡田の「是が非でもとれ」の至上命令を受け<ref name="クロニクル東映189"/>、池玲子を"[[人身御供]]"にし東映はこの『THE WAY OF THE DRAGON』の獲得に成功。タイトルを『[[ドラゴンへの道]]』として翌[[1975年]]公開、映画は大ヒットし東映洋画部が躍進する切っ掛けとなった<ref name="ロードショー19763"/>。この『[[ドラゴンへの道]]』を見た岡田の感想は「なんや電気紙芝居みたいやな」だったという<ref name="クロニクル東映189"/>。東宝東和は配給を予定して『ドラゴン電光石火』と言うタイトルまで付けていたといわれる。なお、池は当初、出稼ぎを渋っていたが、レイモンド・チョウから"女ブルース・リーに"という殺し文句により承諾。当時は東映初の"国際女優"と騒がれ、撮影を終え帰国した池は、自分はまったく脱がなかったと説明。「香港ではスターは脱がないの。ヌード専門の代役がいて裸は要求されなかったわ。これからは演技力で勝負したい」と話したが、作られた映画は何故か『悪魔の生首(魅影心魔)』という[[ホラー映画]]であった<ref>[[週刊朝日]]、1974年2月22日号、p36、8月9日号、p37、9月20日号、p37、9月27日号、p36</ref><ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p51</ref>。なお、東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け<ref name="クロニクル東映189"/>、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』は大ヒット、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]主演の『[[昼顔 (映画)|昼顔]]』を[[リバイバル]]ヒットさせていたが<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p-53</ref>、この『[[ドラゴンへの道]]』獲得で洋画部は大きく飛躍した<ref name="ロードショー19763"/><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p61</ref>。 |
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『[[仁義なき戦い]]』の製作に初期段階から大きく関与した。 |
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また劇中の広島弁セリフは、脚本の[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]が岡田の罵詈雑言を参考にしたものである{{Refnest|group="出典"|{{R|仁義なき集成_276-277|昭和の劇_1-4|infoseek}}}}。 |
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{{Main|仁義なき戦い}} |
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==== 山口組三代目 ==== |
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*[[ジャッキー・チェン]]の日本で最初に劇場公開された主演映画『[[ドランクモンキー 酔拳]]』は、この流れから監督の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は[[1979年]]に『[[トラック野郎]] 熱風5000キロ』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『[[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]]』)だけは岡田が「誰がこんなんもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である<ref name="dragon"/>。 |
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『[[ゴッドファーザー]]』が好きな岡田は、「日本で当てはめるなら[[山口組]]だなと考え、これをやるのは自分しかない」と思い立ち、直接山口組の[[田岡一雄]]組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した{{R|波瀾_223-227}}。 |
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{{Main|山口組三代目 (映画)}} |
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本作と続編『[[三代目襲名]]』製作の際に警察に睨まれ、何かと嫌がらせを受けた岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだ映画のタイトルが1975年に映画化された『[[県警対組織暴力]]』。 |
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*1974年『[[激突! 殺人拳]]』から[[千葉真一]]主演で始まる空手映画は、岡田が[[ブルース・リー]]の[[カンフー映画]]を真似て始めたもので、任侠ものが下火になっていた東映にとってもエポックメーキングな作品となった<ref name="satsujinken"/>。当時は何をやってもうまくいかず、久々の大当たりがよっぽど嬉しかったらしく、[[祝電]]をいっぱい打っていたという<ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p91、92</ref>。さらに[[ニュー・ライン・シネマ|ニュー・ライン・シネマ社]]が「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と東映から興行権を買い、英題『[[:en:The Street Fighter|The Street Fighter]]』とネーミングして、[[1974年]][[11月12日]]から[[セントルイス]]・[[アトランタ]]・[[ニューオーリンズ]]・[[ワシントンD.C]]など、主に[[アメリカ合衆国|全米]]中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出た<ref name="brucelee">「本家[[ブルース・リー]]をしのぐ[[千葉真一]]」 [[報知新聞]]、1974年(昭和49年)[[12月27日]]付[[朝刊]]。</ref>。その後、[[1975年]]の1月下旬から、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)]]のRKO劇場や[[マンハッタン]]でも封切りされ、千葉の代表作となった<ref name="brucelee"/>。過去の[[日本映画]]で、比較的入ったといわれる『[[砂の女]]』や、[[ニューヨーク・タイムズ]]などの批評欄をにぎわした[[黒澤明]]作品でさえ、アートシアター系で上映された程度であった<ref name="brucelee"/>。同時期に上映されていた[[パニック映画]]『[[エアポート'75]]』『[[オデッサ・ファイル]]』、[[ミュージカル映画]]『[[星の王子さま]]』などの大作を押えて、『The Street Fighter』が5位進出したと<ref>[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]、1974年12月18日付。</ref>、アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]』の12月18日付にも掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた<ref name="brucelee"/>。このヒットで[[ヨーロッパ]]・[[オーストラリア]]・[[カナダ]]の映画会社が、東映に『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた<ref name="brucelee"/>。ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な空手と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」が挙げられている<ref name="brucelee"/>。千葉真一の熱狂的ファンである[[クエンティン・タランティーノ]]が脚本を手がけた『[[トゥルー・ロマンス]]』では、主人公が映画館で『激突! 殺人拳』を観ているシーンを描いている<ref>洋泉社MOOK 別冊映画秘宝 グラインドハウス映画入門、[[洋泉社]]、2007年、p164</ref>。 |
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{{Main|県警対組織暴力}} |
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この後も東映は山口組の全国進攻を描いた映画を多数製作するが、山口組を題材にした映画が多く量産出来たのは、岡田が田岡一雄と昵懇の間柄だったことと{{Refnest|group="出典"|{{R|ddnavi314297 |
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*スケ番シリーズを打ち切って、折からのブームに乗り空手路線を掲げる。「現代版お竜」を謳い文句に「日本初の[[スタントマン|スタントウーマン]]」と銘打ち『[[女必殺拳]]』(1974年)で主演デビューさせたのが[[志穂美悦子]]であった<ref>週刊サンケイ、1974年8月1日号、p28</ref>。最初は[[アンジェラ・マオ]]主演で企画したが諸事情で実現せず、志穂美の抜擢となったとされる<ref>映画秘宝、2008年4月号、p84<br />週刊朝日、1975年6月6日、p17</ref><ref name="映画秘宝201012">映画秘宝、2010年12月号、p101</ref>。 |
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|bookbang|二木会525_高岩淡|映画論叢18}}}}、田岡一雄の息子・[[田岡満]]をスタッフに入れていたため{{R|ヤクザが認めた_134-141}}。『[[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]]』を製作する際、岡田が田岡一雄に田岡満をプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい、と申し出た{{R|任侠が青春_248-249}}。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と[[高岩淡]]や[[日下部五朗]]、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]ら、多くの関係者が話している{{Refnest|group="出典"|{{R|昭和の劇_537-546|無法地帯_230-244|二木会525_高岩淡}}}}。 |
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==== その他 ==== |
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*[[アラン・ドロン]]主演の『[[ル・ジタン]]』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった<ref name="ロードショー19763"/>。『[[地獄の黙示録]]』(1979年)も[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]で買おうとしたが、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]が相当金を出して落としたという<ref name="ロードショー19763"/>。 |
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[[1969年]]の十月大作『[[日本暗殺秘録]]』は、「エロの次はテロや」という岡田の思いつきで始まった企画{{R|あかん_273}}。岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と[[天尾完次]]に命じて始まった{{R|私の30年_149}}。渡邊が[[血盟団事件]]で[[井上準之助]]を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている<ref name="私の30年_149}}。監督の中島貞夫が同じ年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』を当てたので、岡田に次は「“[[テロリズム|テロ]]”をやらせてください」って頼んだ、と話しているため{{R|facebook私と東映中島貞夫_3}}、企画・製作・脚本・監督の流れは、中島→岡田→渡邊→笠原・中島→中島の順と思われる。製作にクレジットされている大川は最終的な了承のみと考えられる。 |
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1977年の映画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所#実写映画|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』は、漫画の連載翌年に初めて実写映像化されたもので、主演の[[両津勘吉]]を[[せんだみつお]]が演じた。岡田は撮影現場まで来て、記者の前でせんだの肩を叩き「これからは[[男はつらいよ|寅さん]]に負けないような(長期シリーズ)に」と言っていたが、シリーズ化はされず1本で終わった。理由は不明。またビデオソフト化もされていないこともあって非常に知名度も低いが、ビデオソフト化されないのは、原作者が「ノー」と言っているからとせんだは話している{{R|人間コク宝2_55}}。 |
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*[[荒川博]]の養子で、暴漢事件で有名な[[荒川尭]]が[[1975年]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を引退すると荒川を銀座に連れて行き、契約金3000万円で俳優にスカウト。[[岡田茉莉子]]や[[宮園純子]]など綺麗どころの女優を同席させ口説いたが、興行師の息子で[[美空ひばり]]にも可愛がられ、芸能人の友達も一杯いた荒川にはあまり効かず、断られてしまった。<ref>「別冊宝島」1245号 プロ野球タブーの真相、宝島社、2006年1月、p112</ref>。 |
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1977年、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、[[東宝]]、[[松竹]]、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]等の映画会社も断った[[西崎義展]]が持ち込んだ劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を買い付け大ヒット。続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ#テレビアニメシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]を手がけた他、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。これらが興した松本零士ブーム、[[サイエンス・フィクション|SF]]ブーム、アニメブームにも貢献した。西崎は「岡田さんは商売が上手いから、1年の半分はヤマトやって、あとの半分は自分のところの作品を作って、うまく人を回してもうけた」と話していたという{{Refnest|group="出典"|{{R|日経BP20060203_岡田茂|朝日新聞20100412web_ヤマトは文芸もの}}}}。 |
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*1975年に開村した[[東映太秦映画村]]は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの<ref name="映画村10年の歩み"/>。 |
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[[伊藤俊也]]は、[[1977年]]の『[[犬神の悪霊]]』と[[1982年]]の『[[誘拐報道]]』の間に[[日本テレビ系列|日本テレビ系]][[木曜スペシャル]]枠で『テロと国家』、『右手にコーラン、左手に石油』という[[ドキュメンタリー]]を撮っているが<ref>[https://web.archive.org/web/20110907190747/http://www.dgj.or.jp/essay/article/000331.html 伊藤俊也 「真実は虚構にあり」 - 日本映画監督協会](Archive)</ref>、これは日本テレビの報道局長から相談を受けた岡田が伊藤を推薦したもの<ref>[[山口猛]]『逆回転のフィルム ―七〇年代の映画作家たち』[[東京新聞|東京新聞出版部]]、1981年、p51-52</ref>。『誘拐報道』は[[伊藤俊也]]が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたものである{{Refnest|group="出典"|{{R|週刊新潮_19820211_13|asagei5144}}}}。翌1983年の『[[白蛇抄]]』も伊藤が「[[小柳ルミ子]]の初主演作で」と企画を出し岡田もOKを出したが、原作の官能描写の凄さに[[渡辺晋]]が激怒し岡田を呼びつけ、「ウチの可愛い娘を頼んだぞ」と言ったという{{R|asagei5144}}。 |
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*深作欣二の傑作の一つ『暴走パニック 大激突』([[1976年]])は『新・仁義なき戦い 組長の首』([[1975年]])のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『[[バニシングin60″]]』をミックスして作れと号令したもの<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.3、p70</ref>。[[1979年]]、[[田中健 (俳優)|田中健]]・[[岡田奈々]]主演の『暴力戦士』は、[[ウォルター・ヒル]]監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの<ref>『石井輝男映画魂』、233、358頁</ref>。この『暴力戦士』には他に、欠食児童状態([[石橋凌]]談)の[[ARB (バンド)|ARB]]が出演している。石橋はプロデューサーに「好きなもの食べなさい」「音楽を必ず5曲は使うから」と騙されて出演したが「うっすらとしか曲は流れなかった」「僕の中では永遠に葬りたい」などと話している<ref>「映画秘宝」2007年11月号、p69</ref>。 |
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1978年、[[野村証券]]の[[瀬川美能留]]相談役(当時)が、社内の会合で「今年は[[野村徳七 (二代)|野村徳七]]翁の生誕百年という記念すべき年。徳七翁の軌跡を記録に残しておけんものか」とつぶやいたという話を聞いた岡田が「それはやはり映画が一番」と働きかけ、東映系のPR映画製作会社、日本産業映画センター製作、野村証券、[[大和銀行]]、[[東京生命保険|東京生命]]の共同企画で野村徳七の伝記映画『驀直進前』が製作された<ref>吉田伊佐夫『人あり縁あり ー十一人の財界交遊記ー』[[文芸社]]、2000年、p93</ref>。1991年の映画『[[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]]』は、雑誌『[[経済界 (出版社)|経済界]]』の主幹・[[佐藤正忠]]が「東映が[[福沢諭吉]]を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_246-256|佐藤}}}}。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった{{Refnest|group="出典"|{{R|やくざなり_106|昭和の劇_556}}}}。1983年の『[[唐獅子株式会社]]』は企画を聞いて"[[横山やすし]]主演"という条件で製作を即断した{{R|活動屋人生_182-192}}。[[1991年]]の『[[動天]]』は [[なかにし礼]]が突如、岡田のところへ来て「映画を作りたいから協力してくれ」「製作資金は[[トーメン]]が面倒見てくれる。前売りも100万枚確保します。東映には迷惑かけませんから」というから、トーメンの[[北村恒夫]]社長を囲んで会い、北村の「なかにし君のロマンに賭けたい」という言葉に納得して製作した{{R|活動屋人生_246-256}}。1999年の『[[金融腐蝕列島#映像作品|金融腐蝕列島〔呪縛〕]]』は、[[原正人]]が岡田に東映での配給を頼んできたもの{{R|原正人}}。2002年の『[[突入せよ! あさま山荘事件|突入せよ!「あさま山荘」事件]]』の映画タイトルは岡田の命名{{R|原正人}}。 |
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*[[舘ひろし]]は[[1976年]]、[[松田優作]]と共演した『[[暴力教室]]』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、[[石原プロモーション]]に入社するまでは東映に籍を置いたという<ref>[[スポーツニッポン]]2011年6月11日26面≪舘ひろし スポニチ連載「我が道」コラム⑪≫</ref>。 |
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[[1979年]]の[[森下愛子]]の初主演映画『[[十代 恵子の場合]]』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と[[内藤誠]]に命じたものという{{R|ニッカン20110510_22-24}}。また内藤監督の『[[ネオンくらげ]]』(1973年)は、音楽も担当してもらった[[三上寛]]の[[LPレコード]]から自分でストーリーを作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるところが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している{{R|flowerwild20090701_内藤誠3}}。 |
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*[[1977年]]、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った[[西崎義展]]が持ち込んだ劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を買い付け大ヒット。続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]を手がけた他、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。これらが興した松本零士ブーム、 [[サイエンス・フィクション|SF]]ブーム、アニメブームにも貢献した。西崎は「岡田さんは商売が上手いから、1年の半分はヤマトやって、あとの半分は自分のところの作品を作って、うまく人を回してもうけた」と話していたという<ref name="business.nikkeibp"/><ref name="animagedon"/>。 |
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中島貞夫監督の『[[瀬降り物語]]』([[1985年]])は、中島は20年前に出して没になった企画を「オマエ、アレやってみろ」と、中島も忘れていた企画を撮らせてもらったものという{{R|同期の桜2}}。 |
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*1977年、日活を辞めた[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]に「黒澤、今、何やってんだ?」と声をかけ「今は浪人してます」「それじゃ東映来て好きなことやれ」と引き抜き、黒澤が日活出身のスタッフらとともに東映セントラルフィルム(配給会社)の中に、映画の企画と制作を始めたのが[[セントラルアーツ]]の始まり<ref name="映画秘宝2010年12月"/><ref name="仙元誠三"/><ref name="シネマヴェーラ"/>。黒澤は[[松田優作]]の[[マネジメント]]に近いことをやっていたため、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』、「ドラマ[[探偵物語]]」など、一連の松田優作作品や、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、「[[あぶない刑事]]」シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』シリーズなどがここで制作された。 |
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1986年の『[[火宅の人#映画|火宅の人]]』の映画化は、深作から「映画化させて欲しい」と頼まれた[[高岩淡]]が岡田に掛け合い、当時東映は女性文芸物を当てていて「今やうち向きやな。よし、やったろ!」と岡田がOKを出したもの{{R|銀幕_160}}。 |
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*1977年の映画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所#実写作品|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』は、漫画の連載翌年に初めて実写映像化されたもので、主演の[[両津勘吉]]を[[せんだみつお]]が演じた。岡田は撮影現場まで来て、記者の前でせんだの肩を叩き「これからは[[男はつらいよ|寅さん]]に負けないような(長期シリーズ)に」と言っていたが、シリーズ化はされず1本で終わった。理由は不明。またビデオソフト化もされていないこともあって非常に知名度も低いが、ビデオソフト化されないのは、原作者が「ノー」と言っているからとせんだは話している<ref>[[吉田豪]]『続・人間コク宝 ドトウの濃縮人生インタビュー集』[[コアマガジン]]、2007年、p55</ref>。 |
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[[1989年]]の映画『[[社葬 (映画)|社葬]]』は、[[鶴田浩二]]の[[葬儀]]で、葬儀委員長を務めた岡田のアイデア{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル1_346|立松_177}}}}。 |
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*[[1978年]]から始まった[[日本アカデミー賞]]は当時、[[電通]]開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの<ref name="academy"/><ref name="きょうは何の日"/>。岡田が[[東宝]]専務だった[[藤本真澄]]、[[日活]]社長・村上覚、[[松竹]]専務・奥山融に協力を求め創設に至った<ref>小説東映 映画三国志、p5-11</ref>。名称を始め色々物議があるイベントだが、第4回(1981年)の[[黒澤明]]の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『[[影武者]]』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。<いつか必ず、黒澤が頭を下げてくるような、権威ある日本アカデミー賞にしてやる>と心に誓ったという<ref>小説東映 映画三国志、p7-11</ref>。 |
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=== テレビドラマ === |
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*『[[柳生一族の陰謀]]』(1978年)は、[[千葉真一]]が「裏柳生」というタイトルで深作欣二に提出した企画<ref name="サムライへの道">[[JJサニー千葉]]『千葉流 サムライへの道』、[[ぶんか社]]、2010年、p59-61</ref>。それを岡田が『柳生一族の陰謀』という、まんまのタイトルに変えた<ref>[http://home.r00.itscom.net/akirasan/sonny-chiba-2003_3_15_jiyugaoka.htm ]</ref>。元々、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。[[山本薩夫]]の『[[忍びの者]]』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもので、深作も『仁義なき戦い』シリーズを終えたところで、まだ一度も手掛けていない時代劇をやりたいという希望があり、時代劇の再興が悲願だった岡田にも依存はなかく、ここへ千葉がいいタイミングで、いい企画を提出した。千葉はそれまで色々企画を持って行っても、ほとんど取り入れてもらえなかったというが、この企画はよくすぐに映画化が決まったという<ref name="クロニクル東映282283"/><ref name="サムライへの道"/>。みんながノッて、日下部が錦之助さんにお願いできれば」というので、高岩が錦之助に出演交渉に行き、錦之助は12年ぶりの東映作品を快諾したというが<ref name="キネ旬201176263"/>、岡田は「中村プロダクション」がうまくいかなくなった錦之介が、岡田のところへやってきて「何かいい企画はないか」というから「『柳生一族の陰謀』をやれ」といった、と話しており、この辺りのいきさつは不明。映画は大ヒットし、東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた<ref>『惹句術―映画のこころ』、p90</ref>。翌1979年の『真田幸村の陰謀』のタイトルも岡田の命名<ref>キネマ旬報、1978年5月下旬号、p177</ref>。岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』、『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや[[右翼]]が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという<ref>新潮45 [[新潮社]]、2004年9月号、p204</ref>。なお、千葉は若い時、岡田に「海外で勝負させてください」と話したら、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対した<ref>『千葉流 サムライへの道』、p242-243</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html nikkansports.com > 芸能 > インタビュー > 千葉真一]</ref>。[[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパンアクションクラブ(JAC)]]のことも悩み他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた<ref>週刊朝日、2011年1月7日・14日、p70</ref>。 |
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[[1969年]]から東映で制作した『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]が岡田に「松下が一人スポンサーになるから一緒にやろう。協力してくれ」と頼みに来て始まったもので{{Refnest|group="出典"|{{R|悔いなき_330-331|toei70th_83}}}}、「本格的な時代劇はやはり京都でなければ(中略)すでに[[東映]]の岡田茂常務(中略)にお願いし、任せておけと胸を叩いてくれ、制作現場の態勢を整えてもらっていた」と、逸見は著書『黄門様はテレビ好き』に書いている{{R|黄門様_121}}。岡田は[[徳川光圀|水戸光圀]]役は[[片岡千恵蔵]]にしようと、逸見と一緒に千恵蔵を口説きにいったが、「まだまだ。映画の現役だ。テレビに出るのは早い」と千恵蔵が断ったので、発想を変えて[[東野英治郎]]にしたと話している。[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]を抜擢した『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』と『水戸黄門』の受注で、テレビ映画制作は活況を呈した{{R|toei70th_82}}<!--- <ref name="0東映京都25年_1"/> --->。岡田の長男・[[岡田裕介]]は逸見にスカウトされ芸能界入りした{{R|黄門様_96-97}}。『水戸黄門』は1976年に東京に制作を移すという話が出たことがあったが、逸見が京都での撮影存続を岡田に頼み、岡田が組織をスリム化して新たに[[東映太秦映像]]を作ったことで最終回まで京都での製作が存続したという{{R|facebook私と東映神先頌尚_4}}。 |
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[[1968年]]のテレビドラマ「[[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]]」は、岡田が1967年に企画・製作した映画『[[大奥(秘)物語|大奥{{Color|black|㊙}}物語]]』から、[[エログロ]]部分を外し豪華時代劇に変えてテレビドラマ化したもの。 |
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*[[角川春樹]]が、[[独立プロ]]のプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだったと述べている。『[[悪魔が来りて笛を吹く#映像化リスト|悪魔が来りて笛を吹く]]』はそうした一本だが、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは[[角川映画]]の2作目『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』から、具体的な仕事の縁が始まり、『[[野性の証明]]』の後、岡田からの要請で、角川は[[角川春樹事務所]]を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』、『[[白昼の死角#映画版|白昼の死角]]』、『[[魔界転生#映画版|魔界転生]]』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた<ref name="キネ旬201176364"/>。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという<ref name="キネ旬201176364"/>。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」<ref name="キネ旬201176364"/>、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した<ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="角川春樹"/>。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。[[1976年]]に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』で、配給が東映洋画、撮影が[[日活撮影所]]、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した<ref name="キネ旬201176364"/>。また、『[[セーラー服と機関銃#映画|セーラー服と機関銃]]』、『[[天と地と#映画|天と地と]]』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が[[松岡功 (実業家)|松岡功]]に仁義を通して話をつけた<ref name="キネ旬201176364"/>。岡田は角川による[[メディアミックス]]を大きくバックアップした。しかし[[2005年]]に大ヒットした『[[男たちの大和/YAMATO]]』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた<ref>「[[日経ビジネス]]』」2006年2月20日号、[[日経BP]]、p108-111</ref>。[[角川映画]]は[[キャッチフレーズ]]が[[流行語]]となるなど話題を呼び<ref>『東映映画三十年』東映、1981年、p188、189、201、212</ref>観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。 |
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{{Main|大奥 (1968年のテレビドラマ)}} |
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[[1970年]]頃、同郷で中学の先輩、[[カルビー]]社長・[[松尾孝]]が常務時代の岡田を訪ねて来て、[[スポンサー]]になれるいい作品はないか、というので、営業の天才と評価していた[[渡邊亮徳]]が「今度の[[毎日放送]]の新企画は絶対当たります。わたしが言うんだから間違いない。どこかいいスポンサーはないでしょうか」と自信満々に話していた『[[仮面ライダー]]』を松尾に薦めた。カルビーの手掛けた[[仮面ライダースナック]]は社会現象になった{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_81|日本ヒーロー_19-20_29-30|キャラクタービジネス_25}}}}。『仮面ライダー』は「[[第二次怪獣ブーム|変身ブーム]]」を巻き起こして「仮面ライダー変身ベルト」など、キャラクター商品も大ヒットし東映に膨大な利益をもたらし「テレビがこんなにお金になることを初めて知った」と岡田に言わしめたという<ref>[[テレビブロス]]2012年6月23日号、p8</ref>。カルビーも仮面ライダースナックの大ヒットで、1973年に本社を広島から東京に移した{{R|toei70th_81}}。岡田は[[岡田京子]]の芸名の名付け親で、京子は女優としての実働も3年間と短く早死にしているが『[[仮面ライダーストロンガー]]』(1975年)の岬ユリ子こと[[仮面ライダーストロンガー#電波人間タックル|電波人間タックル]]役で出演していたことで没後25年以上たっても根強いファンが多いといわれる。このタックル役での出演は岡田のゴリ押しだという{{R|泣き虫_174_299}}。 |
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*[[1979年]]の[[森下愛子]]の初主演映画『十代 恵子の場合』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と[[内藤誠]]に命じたものという<ref name="日刊スポーツ2011510"/>。また内藤監督の『ネオンくらげ』(1973年)は、音楽も担当してもらった[[三上寛]]の[[LPレコード]]から自分でストーリー作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるとこが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している<ref>[http://www.flowerwild.net/2009/07/2009-07-01_190000.php flowerwild.net - 内藤誠、『番格ロック』を語る vol.3]</ref>。 |
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また[[1983年]]に『[[おしん]]』([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])の放送が始まると松尾がおしんにぞっこんになり、「綾子ちゃんをわが社の[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に」と切望。おしん役の[[小林綾子]]が東映所属だったため、やはり松尾に頼まれ小林がカルビー『[[かっぱえびせん]]』でCM初出演した<ref>{{Cite journal|和書 |year = |title = 『やめられない、とまらない』カルビー松尾孝社長(71歳)の"おしん狂い"」 小林綾子ちゃんのCMデビュー|journal = [[週刊朝日]] |issue = [[1983年]]([[昭和]]58年)7月15日号 |publisher = [[朝日新聞社]] |pages=27 - 29}}</ref>。 |
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*[[五社英雄]]は[[1980年]]に[[銃刀法違反]]容疑での逮捕や、会社の[[労組]]問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた[[佐藤正之]]が岡田に"五社を何かに使ってやってくれ"と頼んできたので<ref name="キネ旬201176263"/><ref>山口猛『映画美術とは何か-美術監督・西岡善信と巨匠たちとの仕事』、[[平凡社]]、2000年、p221</ref>。岡田が五社に"一度会社に顔を出せよ"と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は"お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな"と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに"負けっぷりがいい"と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。"どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ"と言われ、持って行った企画が[[宮尾登美子]]の小説「櫂」だった。しかし「櫂」は話が地味過ぎるということで、[[日下部五朗]]が持ってきた『[[鬼龍院花子の生涯]]』を映画化することになった。"これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい"と岡田が五社を監督に抜擢し<ref name="キネ旬201176263"/>五社の映画界復帰が決まった。"この作品がヒットしたら「櫂」も「陽暉楼」も撮らして下さい"と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り「陽暉楼」「櫂」と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。これらは東映に新たな"女性文芸大作路線"を確立させた<ref name="クロニクル東映314315"/><ref>『さよならだけが人生さ - 五社英雄という生き方』、五社巴、講談社、1995年、 p71-108{{ASIN|4062063611}}</ref><ref>五社の映画製作の経緯は、脚本でコンビを組んだ高田宏治の著作などにも詳しい(西谷拓哉・高田宏治『高田宏治東映のアルチザン』、カタログハウス、1997年)</ref><ref name="hochi2011510"/>。 |
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{{Main|おしん#『おしん』の反響}} |
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『[[長谷川伸シリーズ]]』をやっていた頃、[[俊藤浩滋]]の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の[[山下耕作]]に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と[[高岩淡]]にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下“さん”」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している{{R|将軍と_82_185}}。 |
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*『[[鬼龍院花子の生涯]]』を企画した[[日下部五朗]]によると、最初の企画会議で、この『鬼龍院花子の生涯』も岡田に「暗い」と一旦却下されたが、岡田は自分より輪をかけてドスケベだから、2回目の交渉で「これは土佐の大親分が妻妾同居で1階に正妻を、向かいに妾を住ませて、双方の家を行き来してヤリまくる話です」と話したら、一発逆転でOKが出たという。[[流行語]]にもなった「なめたらいかんぜよ!」の台詞で[[夏目雅子]]の代表作となった映画として有名だが、日下部によると夏目の演じた[[ヒロイン]]松恵役は当初、[[梶芽衣子]]が演じる予定であったという。梶は日下部にプロットと原作本を送ってきて、これを読んだ日下部が「これは映画になる」と直感し、原作小説を買い取り映画化の準備をはじめたと話している。女優が本を送ってくるということは「自分がヒロインをやりたい」という暗黙の意思表示であるが、日下部は[[和田勉]]が演出した[[日本放送協会|NHK]][[テレビドラマ|ドラマ]]「[[ザ・商社]]」(1980年)で、既に脱いでいた夏目を「この子は脱げる」と松恵役に起用しようとした。松恵役は梶がやるにはあまりにも大人びているなどと梶を説得し、松恵役以外の役の代替案を提示したが、梶は断固譲らず。企画のきっかけを与えてくれた功労者との交渉は結局決裂したという<ref>週刊現代、2010年1月23日号、p62-67</ref><ref>[[東京スポーツ]]連載 <東映伝説のプロデューサー日下部五朗の「無頼派活動屋人生」>2010年4月6日~4月30日</ref>。 |
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平山が手掛けた『[[がんばれ!!ロボコン]]』(1974年 - 1977年)のアイデアは『[[柔道一直線]]』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ<ref>[http://riderproducer.blog.fc2.com/blog-date-201204-1.html 泣き虫プロデューサーの「いいから、俺にしゃべらせろ!」 201204]</ref>。『柔道一直線』は「[[スポ根]]ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える[[視聴率]]を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていた[[エキストラ]]費が膨大にかかり赤字になっていた。『[[ジャイアントロボ]]』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は[[東映アニメーション|東映動画]]の田宮武から、「『[[魔法使いサリー]]』の製作費は赤字だが[[キャラクター商品]]が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは[[実写]]だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛い[[ロボット]]がやればいい」と思いつき「[[スポ根]]」に対して「ロボ根」という発想につながった」という{{R|東映ヒーロー名人列伝_138-142}}。平山が1977年6月、子供番組担当の部として新設された東映テレビ企画営業第二部(発足は1976年10月)の部長に抜擢されたのは「頑張ったから平山を部長に」と[[渡邊亮徳]]が岡田へ進言してくれたのだろうと平山は話している{{R|泣き虫_174_208}}。 |
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*日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。[[1983年]]に[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを取った『[[楢山節考]]』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。[[1979年]]の映画賞を独占した『[[復讐するは我にあり]]』は、原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、[[佐木隆三]]夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に掛け合ったら「バカもん!連続殺人犯の話なんか暗くて当たるか!」と怒鳴られ、あえなく頓挫。これは[[今村昌平]]監督で松竹で映画化された。このため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に[[木下恵介]]さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実は[[にっかつロマンポルノ]]10本分くらい、ドバーッと[[濡れ場]]があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ[[清川虹子]]に[[左とん平]]が乗っかるシーンしかない。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している<ref>週刊現代、2010年1月23日号</ref><ref><東映伝説のプロデューサー日下部五朗の「無頼派活動屋人生」></ref>。 |
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1974年の[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』で急病を患った主演[[渡哲也]]の代役が[[松方弘樹]]だった。渡の突然の降板に次の代役が決まらず、[[倉本聰]]が岡田に直談判して松方に決まった{{R|愚者の旅_84-93}}。最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ松方は代役を受けるハラを決めた{{R|サンデー毎日19740303_35}}。 |
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*[[1980年]]に『[[二百三高地]]』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。[[太平洋戦争]]、[[大東亜戦争]]を」「あれ、負け戦ですよ、[[日露戦争]]と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、[[太平洋戦争]]の脚本執筆を指示。『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は[[瀬島龍三]]から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。脚本は書き上がったが[[宮内庁]]の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p91-103</ref><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p422-424、454、455、489-491、506</ref>。 |
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{{Main|勝海舟 (NHK大河ドラマ) }} |
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== 映画人との関わり == |
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*笠原はこの後、アイドル映画([[中森明菜]]、[[近藤真彦]]共演の『愛・旅立ち』)や、他社脚本も手掛けるが、[[1989年]]に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、[[奥山和由]])はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している<ref name="昭和の劇537546"/>。 |
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<!-- 時系列順 --> |
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=== 監督 === |
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[[1969年]]、[[腓返り]]の病気で苦しむ[[マキノ雅弘]]を日活に売り飛ばす(マキノ談{{R|マキノ雅弘自伝地_432-433}})。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている{{R|マキノ雅弘自伝地_447}}。[[小沢茂弘]]を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後[[易者]]や[[山伏]]などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている{{R|困った_7_18_21他}}。 |
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[[佐藤純彌]]は1963年に『[[陸軍残虐物語]]』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という[[字幕]]をたっぷりした墨の筆跡で、[[榊莫山]]みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった[[澤井信一郎]]は、この岡田の一言が[[トラウマ]]になり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて[[明朝体]]か[[ゴシック体]]にしているという{{R|映画の呼吸_40_118}}。 |
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*[[奥山和由]]は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、[[田中角栄]]のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も[[勝新太郎|勝新]]、[[石原裕次郎|裕次郎]]、[[松田優作]]と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた<ref>『結局、どうすりゃ売れるんですか。』[[田原総一朗]]、[[ぶんか社]]、1999年、p195</ref>。 |
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岡田は[[牧口雄二]]の監督デビュー作『[[玉割り人ゆき]]』<ref>[https://web.archive.org/web/20120402054424/http://www.showanavi.jp/column/laputa-asagaya/08/ 第8回「玉割り人ゆき」 忘れられない名画 ~昭和の名作映画を語る](Archive)</ref>(1975年)を高く評価、本作は当時、岡田が進めていた低価格で製作される「ニューポルノ」「500万円ポルノ」の一本であったが{{efn|実際は『玉割り人ゆき』は1000万円で製作。}}三本立ての一本として全国封切りの番線に昇格した{{R|月刊シナリオ19756_14-17}}。1976年の『[[戦後猟奇犯罪史]]』は、当時凄い人気だった『[[テレビ三面記事 ウィークエンダー|ウイークエンダー]]』(日本テレビ)の便乗企画{{R|女獄門帖_44}}。最初は[[松竹映画]]『[[復讐するは我にあり]]』より先に「[[西口彰事件]]」を取り上げた第一話と、第三話「[[大久保清事件]]」の二話構成だったが、撮影2日前に「[[克美茂]]愛人絞殺事件」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった{{R|ピンキー_201}}。[[泉ピン子]]を[[レポーター]]役で出演させ[[ワイドショー]]構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった{{R|女獄門帖_44}}。同年の『[[徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑]]』は、当時大ヒットしていた『[[スナッフ/SNUFF]]』を狙い、「[[牛裂き]]」をテーマに撮れと牧口に指示を出して製作された<ref>筒井武文・多田功(編)『女獄門帖引き裂かれた尼僧』〈日本カルト映画全集8〉ワイズ出版、1996年、p49-50</ref>。 |
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*[[山口百恵]]と結婚した[[三浦友和]]を岡田は「こいつをいつか東映のスターにする。これで成功させて次々やるんだ」と『[[獣たちの熱い眠り]]』(1981年)という映画を製作。"ウェイク・アップ友和!"という惹句を付けて、三浦をそれまでの青春スターから、[[ハードボイルド]]役者として売り出しを図ったが、三浦は東映ではスターになれなかった<ref>『惹句術―映画のこころ』、p400-402</ref>。 |
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[[五社英雄]]は[[1980年]]に[[銃刀法違反]]容疑での逮捕や、会社の[[労組]]問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた[[佐藤正之]]が岡田に“五社を何かに使ってやってくれ”と頼んできたので{{Refnest|group="出典"|{{R|キネ旬2011071_62-63|映画美術_221}}}}。岡田が五社に“一度会社に顔を出せよ”と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は“お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな”と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに“負けっぷりがいい”と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。“どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ”と言われ、持って行った企画が[[宮尾登美子]]の小説『[[櫂 (小説)#映画|櫂]]』だった。しかし『櫂』は話が地味過ぎるということで、[[日下部五朗]]が持ってきた『[[鬼龍院花子の生涯#映画|鬼龍院花子の生涯]]』を映画化することになった。“これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい”と岡田が五社を監督に抜擢し{{R|キネ旬2011071_62-63}}、五社の映画界復帰が決まった。“この作品がヒットしたら『櫂』も『陽暉楼』も撮らして下さい”と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り『陽暉楼』『櫂』と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。『鬼龍院花子の生涯』は東映の営業も劇場の支配人の誰一人お客が来ると予想する者はおらず、「来ると読んだのはワシだけ」と岡田は自慢している{{R|活動屋人生_182-192}}。「五社君も昔の『[[三匹の侍]]』の彼とはガラリと変わったからねえ。彼、行き詰まってぼくを頼って来たとき、言ったんですよ。[[チャンバラ]]なら東映はやりたくないと、そういって男と女のからみ、情念の世界を画かせたんですが、誰もあんなに五社君が変わるとは思っていなかったでしょうよ、新しい才能を開いてみせましたわね」と岡田は話している{{R|活動屋人生_182-192}}。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた{{Refnest|group="出典"|{{R|クロニクル1_314-315他|さよならだけが人生さ_71-108|スポーツ報知20110510web_見舞い断る}}}}。 |
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*[[つかこうへい]]の[[戯曲]]を映画化した『[[蒲田行進曲]]』(1982年)は、[[角川春樹]]が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな[[楽屋落ち]]の話なんか当たるわけない」と断り<ref name="映画監督 深作欣二397399">深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』、p397-399</ref><ref>『[[キネマ旬報]]』2000年10月下旬号、[[キネマ旬報社]]、p69</ref>[[松竹]]に話を持って行ったもの<ref name="スポーツ報知2011510"/>。しかし深作欣二が、[[松竹大船撮影所]]の雰囲気は違う。撮るのは[[東映京都撮影所]]じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の[[角川映画]]は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった<ref name="映画監督 深作欣二397399"/>深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』、p398</ref>。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、[[配給収入]]も17億6千万円という大ヒットを記録した<ref name="映画監督 深作欣二397399"/>。 |
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{{Main|鬼龍院花子の生涯}} |
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[[若松孝二]]は[[パレスチナ]]の[[日本赤軍]]と交流を持ったため、10数回警察から[[捜索|ガサ入れ]]を受け『[[赤軍-PFLP・世界戦争宣言]]』(1971年)は[[シネマート新宿|新宿文化]]で上映禁止にされ、『[[天使の恍惚]]』(1972年)は、公開を延ばされ、『[[キスより簡単]]』(1989年)は、神奈川県警が[[バンダイ]]を訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、[[公安警察|公安]]が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している{{R|時効なし。_87-89}}。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、[[若松プロダクション|若松プロ]]があった[[原宿セントラルアパート]]のマンションを売る羽目になったという{{R|時効なし。_120}}。[[横山博人]]は1986年に東映から『[[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、[[全共闘世代]]を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している{{R|横山博人公式_卍とフリーター1}}。 |
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*『[[修羅の群れ]]』(1984年)は映画制作にクレジットはないが、岡田が[[稲川聖城]]の半生を映画化しようと懇意の[[大下英治]]に原作を書かせたもの<ref name="実話時代"/><ref name="トップ屋魂"/>。大下はこれをきっかけにヤクザをテーマにした小説を書くようになった。小説及び映画のタイトルは大下と俊藤で決めた。「修羅」という言葉は大下が好きで入れた。ヤクザ映画のタイトルに「修羅」という語が多く使われ始めたのはこの作品以降である<ref name="トップ屋魂"/>。1982年の『[[誘拐報道]]』は[[伊藤俊也]]が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたもの<ref>週刊新潮、1982年2月11日号、p13</ref>。また1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌「[[経済界 (出版社)|経済界]]」の主幹・[[佐藤正忠]]が「東映が福沢諭吉を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p106</ref><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p556</ref>。 |
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1982年の東映新年会に呼ばれた[[井筒和幸]]は、岡田が「去年、ヒットしたのは『[[典子は、今]]』と『[[エレファント・マン (映画)|エレファント・マン]]』です。そういうモノを企画しろ!」と檄を飛ばすのを見て「東映のドンは何とスゴい発想をするもんやなあ」と思ったという<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title =井筒和幸の毒舌ストレート時評 《アホか、お前ら!》 ROUND407 東電役員報酬平均3700万!? 退職金も年金もナシにせえ! |journal= [[アサヒ芸能]] |issue= 2011年5月26日号|publisher= [[徳間書店]] |pages= 52 }}</ref>。 |
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*岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、[[内田裕也]]が[[1983年]]、初めて脚本を書いた『[[十階のモスキート]]』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「[[警察官]]がね、最後は挫折して、ついに[[郵便局]]に[[強盗]]に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で映画化され[[崔洋一]]が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に[[安藤昇]]が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」「コミック雑誌なんかいらない」「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、[[リポーター|テレビレポーター]]がガーって行って、それで[[フィクション]]と[[ノンフィクション]]を交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、[[マイク]]を股間から取り出して、[[ホームベース]]に投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画は[[アルゴ・ピクチャーズ|ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]]で製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし[[早稲田大学]]の反映研グループの上映からスタートし、[[奥山和由]]が「僕に任せてくれ」と言って[[松竹]]の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところが[[カンヌ映画祭]]の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『[[コミック雑誌なんかいらない]]』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。[[毎日映画コンクール]]でも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。[[高岩淡]]が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」と[[しかと]]。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございま~す」と言ってやった。これは俺の人生でも最高の[[リベンジ]]だった、と内田は話している。[[2009年]]、内田の娘婿・[[本木雅弘]]が企画した(内田はまったく係わっていないが)『[[おくりびと]]』が[[第81回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、配給を[[松竹]]が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/87495/ 内田裕也「かわいがってくれた」]</ref><ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref name="岡田茂"/><ref name="スポーツニッポン2011510"/>。 |
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[[大島渚]]は1987年5月8日に[[新文芸坐|文芸坐ル・ピリエ]]で開催された「大島渚シンポジウム」で「岡田茂さんは広島の出でガラは悪いが、映画を当てるのは個人の情熱やでと言った。錦之介が久々に『柳生一族の陰謀』を当てたが、これは錦之介の情熱だった。客は選択眼が鋭い。その映画にかかっている情熱を直感する」などと褒めている{{R|キネ旬19870602}}。 |
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*内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り([[東宝]]は俳優や映画監督([[黒澤明]]以外)は会長室に絶対に入れない)[[岡田裕介]]は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が[[岸恵子]]と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが[[鶴田浩二]]とな、付き合ってたんだけど、ワシが[[箱根]]の[[旅館]]に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。[[田岡一雄|山口組の三代目]]が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」と話している<ref name="岡田茂"/><ref>[http://twitter.com/#!/UCHIDAYUYA/status/67588685733953536 Twitter / 内田裕也: 尊敬する先輩 東映 岡田 茂さん~]</ref>。 |
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[[1999年]]の『[[おもちゃ (1999年の映画)|おもちゃ]]』では、監督の深作欣二と脚本の[[新藤兼人]]が[[祇園]]のことをあまりにも知らないので、1ヶ月祇園で遊ばせた{{R|立松_177}}。 |
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*[[吉田拓郎]]と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ''[[ニューミュージック]]的映画作り'' という意味不明の題名を付け、東映の社内誌「東映」に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席も[[リクライニングシート|リクライニング]]のいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明<ref>現代・河原乞食考~役者の世界って何やねん?、山城新伍、解放出版社、p49-50</ref>。 |
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[[白倉伸一郎]]は[[1990年]]、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に『[[仮面ライダーシリーズ]]』を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。[[2003年]]、1月の深作欣二の[[葬式]]は、岡田の号令で東映全社を上げて盛大に行われた{{R|中原}}。岡田は[[中原早苗]]に「どや、黒澤明の葬式に負けんやろ」と話していたという{{R|中原}}。 |
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*岡田と40年以上の付き合いがあったという[[日枝久]]は、[[フジテレビ]]の編成局長時代に長寿ドラマ「[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]」の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110516/ent11051607340002-n1.htm 追悼 岡田茂・東映名誉会長 豪放磊落、最後の「活動屋」]</ref>。「[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]」の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、[[大川橋蔵]]の説得を得られたのも岡田の計らいという<ref name="財界201167"/>。 |
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=== プロデューサー他、製作関係者 === |
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*[[1986年]]、当時26歳の[[黒木瞳]]の映画主演デビュー作『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で[[ホステス]]役をさせるため、実際に[[銀座]]の[[高級クラブ]]で[[アルバイト]]させた<ref name="スポーツニッポン2011510"/><ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="sponichi20110511"/><ref name="NEWS24"/><ref name="yomiuri20110510"/><ref>[http://www.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201105090131.html?ref=reca 「活動屋一代」岡田茂さん死去、県内からも悼む声]<br />[http://www.pressnet.co.jp/vip/vip_08.shtml ザ・ウィークリープレスネット VIPインタビュー 岡田 茂 東映 相談役]</ref>。 |
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[[俊藤浩滋]]が東映に関わるようになるのは[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー (酒場)|バー]]『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった[[鶴田浩二]]の東映移籍や、[[水原茂]]の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]監督招聘の仲介などで[[大川博]]と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_149|デイリー130818}}}}。「ヤクザみたいなものを辞めるとき、僕のところに来て『あんたの下に入れてくれんか。付き人みたいに俺、勉強したいんだ。プロデューサーに将来なりたい』『それはいいけど、おまえ大丈夫か?そんなに金は入らんで』と言ったら『いやいや、金なら大丈夫です。心配いりません』って言うから俺の下に入れた」と岡田は話している{{R|オール読物2006_218}}。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった{{Refnest|group="出典"|{{R|ニッカン20011013web_訃報|風雲_125-130|おそめ_269-271}}}}。俊藤はヤクザの細かいことを全部知っていてヤクザ映画の時代になって伸びた{{R|オール読物2006_218}}。大川博が岡田は「岡田」と呼び捨てだったが、俊藤には「俊ちゃん」と呼んでいたと俊藤の凄さを表現する記述が一部の文献に見られるが{{R|shinchosha333231}}、俊藤は東映の社員ではない外部プロデューサーであり、岡田は大川の会社直属の部下であるため、接し方は違って当たり前なのである。 |
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[[高田宏治]]は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、その[[プロット (物語)|プロット]]は、ガリレオという主人公が、[[伴天連]]の[[妖術]]師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけが[[ウジ|ウジ虫]]だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から[[小便]]をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという{{R|高田宏治_10-11}}。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している{{R|高田宏治_186}}。[[小沢茂弘]]も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している{{R|困った_79}}。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している{{R|任侠伝_165}}。 |
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*[[若松孝二]]は[[パレスチナ]]の[[日本赤軍]]と交流を持ったため、10数回警察から[[捜索|ガサ入れ]]を受け『[[赤軍-PFLP・世界戦争宣言]]』(1971年)は[[シネマート新宿|新宿文化]]で上映禁止にされ、『[[天使の恍惚]]』(1972年)は、公開を延ばされ、『[[キスより簡単]]』(1989年)は、神奈川県警が[[バンダイ]]を訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、[[公安警察|公安]]が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している<ref>[[若松孝二]]『時効なし。』、ワイズ出版、2004年、p87-89</ref>。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、[[若松プロダクション|若松プロ]]があった[[原宿]]セントラルアパートのマンションを売る羽目になったという<ref>『時効なし。』、p120</ref>。[[横山博人]]は1986年に東映から『[[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、[[全共闘世代]]を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している<ref>[http://ateliercat.exblog.jp/758858/ 映画監督 横山博人ブログ : 『卍』と『フリーター』のあいだ 1]</ref>。 |
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1957年、監督志望で入社してきた[[日下部五朗]]を「体もでかいし、力もありそうだ」と無理やりプロデューサー修行させた{{Refnest|group="出典"|{{R|極道_26-27|shinchosha333231}}}}。 |
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*[[1987年]]、[[松竹]]の[[奥山和由]]が企画した『[[ハチ公物語]]』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は[[渋谷]]が舞台なので[[東急グループ]]に出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え[[五島昇]]を紹介。東急グループは出資を決め、さらに[[三井物産]]も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力な[[プロモーション]]や大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった<ref>[[大高宏雄]]『日本映画 逆転のシナリオ』、[[WAVE出版]]、2000年、p33-34</ref>。 |
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日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。[[1983年]]に[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを取った『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。[[1979年]]の映画賞を独占した『[[復讐するは我にあり]]』は、映画化権を巡るトラブルでも知られるが([[復讐するは我にあり#映画]])、日下部が原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、[[佐木隆三]]夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に直談判をしたが、当時は実録路線も勢いを失った時期で「もう、実録ものはアカン言うとるやろ! 連続殺人鬼みたいな暗い話、当たるか! そんな原作、どっかへ行って売って来い」と、岡田の鶴の一声で中止させられたと話している{{R|極道_130-134}}。これが[[今村昌平]]監督で松竹で映画化され高い評価を得たため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に[[木下恵介]]さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実は[[にっかつロマンポルノ]]10本分くらい、ドバーッと[[濡れ場]]があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった{{R|極道_130-134}}。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ[[清川虹子]]に[[左とん平]]が乗っかるシーンしかない。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現しており{{R|活動屋人生_160-171}}、岡田は日下部の話を真に受けていた可能性がある。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している{{Refnest|group="出典"|{{R|週刊現代_20100123_XX|東スポ20100406他}}}}。 |
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*[[1989年]]の映画『[[社葬 (映画)|社葬]]』は、[[鶴田浩二]]の[[葬儀]]で、葬儀委員長を務めた岡田のアイデア<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p346</ref>。 |
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[[徳間康快]]と仲が良く[[1974年]]に[[大映]]を買収した徳間を[[日本映画製作者連盟]](以下、映連)に引き入れ、徳間の[[メディアミックス]]に力を貸した。以下の[[角川春樹]]・[[奥山和由]]も同様である。 |
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*[[白倉伸一郎]]は、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に「[[仮面ライダーシリーズ]]」を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。 |
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{{Main|徳間康快#エピソード}} |
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岡田は[[角川春樹]]と[[奥山和由]]を非常に評価し彼らを支援した{{R|活動屋人生_246-256}}。角川は「[[独立プロ]]のプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだった」と述べている。『[[悪魔が来りて笛を吹く#1979年版|悪魔が来りて笛を吹く]]』はそうした一本だが{{R|活動屋人生_102-113}}、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは[[角川映画]]の2作目『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』から、具体的な仕事の縁が始まり、『[[野性の証明]]』の後、岡田からの要請で、角川は[[角川映画|角川春樹事務所]]を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『[[白昼の死角#映画|白昼の死角]]』『[[魔界転生#1981年|魔界転生]]』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた{{R|キネ旬2011071_63-64}}。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという{{R|キネ旬2011071_63-64}}。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」{{R|キネ旬2011071_63-64}}、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した{{Refnest|group="出典"|{{R|スポーツ報知20110510_19|スポーツ報知20110510web_角川春樹}}}}。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。[[1976年]]に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』で、配給が東映洋画、撮影が[[日活撮影所]]、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した{{R|キネ旬2011071_63-64}}。また、『[[セーラー服と機関銃 (映画)|セーラー服と機関銃]]』『[[天と地と#映画|天と地と]]』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が[[松岡功]]に仁義を通して話をつけた{{R|キネ旬2011071_63-64}}。岡田は角川による[[メディアミックス]]を大きくバックアップした。しかし[[2005年]]に大ヒットした『[[男たちの大和/YAMATO]]』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた{{R|日経ビジネス20060220_108-111}}。[[角川映画]]は[[キャッチフレーズ]]が[[流行語]]となるなど話題を呼び{{R|東映三十年_188-189_201_212}}、観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。 |
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*[[渡辺淳一]]の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんは[[性行為|アッチ]]の方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した<ref>『僕らはそれでも生きていく!』小石原昭、p154</ref>。 |
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[[1990年]]、角川が50億円かけて製作した『[[天と地と#映画|天と地と]]』の配給は当初[[東宝]]だったが、事情で商談が決裂し、角川が岡田に泣きついてきて配給を東映洋画部で引き受けることになった{{R|活動屋人生_246-256}}。その時の角川からは狂気以上のものが出ていて、もういっぺん教祖になれると岡田は見極めたという{{R|活動屋人生_246-256}}。「前売り券を500万枚売る。そのうち、東映で100万枚引き受けてくれ」と啖呵を切って角川はその通り400万枚を前売りで売り切った。前売り券が[[金券ショップ]]で叩き売られて劇場は閑散としていたともいわれるが<ref>[[樋口尚文]]『「砂の器」と「日本沈没」 70年代日本の超大作映画』、[[筑摩書房]]、2004年、p231</ref>、岡田は「前売り券の着券率、抜群だというね」と話していた{{R|活動屋人生_246-256}}。岡田は角川を評して「軽井沢で夜7時から夜明けまで神仏に祈りを捧げるっていうな、それも年何回も祭事を催すというからな。それぐらいでないとあのエネルギー、とてもじゃないが出ないよ。そういう誰も持ち得ない狂気が劇場へ観客を殺到させてるんだな」と感心していた{{R|活動屋人生_246-256}}。「いま欲しいのはそういう狂気を発する教祖サマ、育てて出てくるもんじゃないからな。教祖サマ、出てこないと流れを変えるほどの大ヒット作品生まれないわな」と話し[[奥山和由]]を非常に評価していた{{R|活動屋人生_246-256}}。 |
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*[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]が[[孫正義]]と組んで[[旺文社]]から[[テレビ朝日]]の全[[株式]]を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、[[20世紀フォックス|FOX]]とも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、[[朝日新聞社]]がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した<ref name="財界201167"/>。 |
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[[つかこうへい]]の[[戯曲]]を映画化した『[[蒲田行進曲]]』(1982年)は、[[角川春樹]]が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな[[楽屋落ち]]の話なんか当たるわけない」と断り{{Refnest|group="出典"|{{R|toei70th_116_117|深作欣二_397-399|キネ旬2000102_69}}}}、[[松竹]]に話を持って行ったもの{{R|スポーツ報知20110510_19}}。しかし深作欣二が、[[松竹大船撮影所]]の雰囲気は違う。撮るのは[[東映京都撮影所]]じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の[[角川映画]]は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった{{R|深作欣二_397-399}}。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、[[配給収入]]も17億6千万円という大ヒットを記録した{{R|深作欣二_397-399}}。 |
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*1996年、[[萬屋錦之介]]が[[文化庁]]から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。 |
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この時期の岡田は、かつてのようなヒット作を見抜く嗅覚は衰えており、1977年の『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』の企画は最初は岡田に持ち込まれたが「そんな蛇腹([[明治時代]]の[[軍服 (大日本帝国海軍)|軍服]])の話(明治物)が受けるかい」と岡田が断り東宝で製作され大ヒット{{R|銀幕_145}}、1983年日本映画史上に残る記録的大ヒット作となった『[[南極物語]]』も、[[蔵原惟繕]]は最初に岡田に持ち込んだが「犬の映画なんか、当たるか」と突っぱねたという{{R|あかん_393}}。但し岡田は[[オオカミ]]を主人公にした『[[オーロラの下で]]』は作っている。『南極物語』での後悔からか、[[奥山和由]]が資金面で困って岡田に頼んできた『[[ハチ公物語]]』(1987年)は、製作に力を貸している{{R|黙示録103}}。奥山はもともと岡田が作った"不良性感度"映画が大好きで{{R|黙示録103}}、東映に入るつもりだった{{R|黙示録103}}。『ハチ公物語』の前に渋谷で[[軍人]]のような眼光で[[コート (衣服)|コート]]を羽織りながら歩く大柄な岡田を目撃したことがあり、「わあ、かっこいい。映画界にこういう人がいるんだ」と男として惚れた{{R|黙示録103}}。「岡田さんのもとだったら、我を忘れて戦争のような仕事でも出来る」と思い、「いつか岡田さんと仕事がしたい」と考えていたという{{R|黙示録103}}。奥山は「岡田茂、角川春樹、そして自分という三角形というのが明確に見えていました。お互い認め合う存在だったと思います。三人で会うことはほとんどなかったですけど、三人で映画界を振り回していこうみたいな生意気な感覚は凄く強くありました。そこに共通したものは『プロデューサー』だと思っているんです。この三人に徳間康快さんが入ろうものなら『[[日本映画テレビプロデューサー協会|プロデューサー協会]]を早く解散させろ。あそこにいるのは全部プロデューサーじゃない。我々だけで本物のプロデューサー協会を作ろう』みたいな話をしてました」などと述べている{{R|黙示録218}}。 |
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*[[2002年]]、[[日刊スポーツ映画大賞]]の表彰式で『[[たそがれ清兵衛]]』で主演男優賞を獲得した[[真田広之]]について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した<ref>[http://www.nikkansports.com/news2/entert2/02movie/021229movie00.html nikkansports.com / Entertainment / 日刊スポーツ映画大賞 / 表彰式]</ref>。真田も東映が『[[忍者武芸帖 百地三太夫]]』(1980年)、『[[魔界転生]]』(1981年)、『[[吼えろ鉄拳]]』(1981年)、『[[冒険者カミカゼ]]』(1981年)、『[[燃える勇者]]』(1981年)と、主演映画を連打させ、アクションスターとして売り出された人だが、初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、[[ジャッキー・チェン]]の[[カンフー映画|香港カラテ映画]]を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという<ref>[[佐藤忠男]]、[[山根貞男]]責任編集『シネアルバム 日本映画1981 1980年公開映画全集』芳賀書店、1981年、p154、155<br />『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開映画全集』、p0-5</ref>。 |
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笠原和夫は[[1989年]]に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、[[奥山和由]])はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している{{R|昭和の劇_537-546}}。 |
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*[[1994年]]、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は[[田部文一郎]])会員が急に増え、現在4000人と在京[[県人会]]の中で一番多いともいわれる<ref name="pressnet"/><ref>[http://www.1350.jp/furusato/furu001.htm ふるさとを想う]</ref>。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため<ref>[[中国新聞]]・別冊、2009年1月29日、p1-7</ref>。毎年1月にある総会には出席者が1200~1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」とぶった。2008年から名誉会長となり、現在の会長(八代目)は林有厚([[東京ドーム (企業)|東京ドーム]]社長)。 |
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1986年の映画『[[火宅の人#映画|火宅の人]]』で、キャメラマンの[[木村大作]]が[[東映#オープニング|東映伝統の三角マークのオープニング]]を変更して[[日本海]]で新たに撮影したオープニングを使おうとした。深作、プロデューサーともOKを出したが、「会社の顔を変えるとは何事だ」と岡田が一喝して、却下させた<ref>石渡均編『キャメラマン魂 日本映画を築いた撮影監督たち』[[フィルムアート社]]、1996年、p.70、木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』[[キネマ旬報社]]、2009年、p.158</ref>。 |
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*出身地の東広島市西条の[[フジ (チェーンストア)|フジグラン]]西条店内に東映系初の[[シネマコンプレックス|シネコン]]「Tジョイ」開業の時、オープニングセレモニーに出席している<ref name="pressnet"/>。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、'''東映の役者がみんな来た'''、という話がある。 |
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[[2001年]]の『[[千年の恋 ひかる源氏物語]]』で[[特撮]]を担当した[[佛田洋]]は、[[ハリウッド]]でのワールドプレミアに、岡田茂会長、主演の[[吉永小百合]]、[[高岩淡]]社長、[[岡田裕介]]プロデューサーら数名と同行。[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]の一ヶ月後であったが、それよりも岡田茂の[[オーラ]]の凄さにビビったという。朝、ホテルの食堂で離れたとこにいたら「こっちへ来いよ」と岡田に言われたが、あまりにもオーラが凄すぎて「いや、僕はこっちで」と遠慮した。「ぶっちゃけテロの余韻より岡田会長の存在感のほうが僕には強烈でした」「僕の大好きな東映不良性感度映画を大量に世に送り出したご本人でしょ。[[ミニチュア]]がやりたくて東京に出てきた自分が、その岡田さんと一瞬でも接点を持つなんて思いもしなかった。今思うとあのとき一緒に食事をしとけばよかったなぁ。とにかく『千年の恋』と言うと(テロや特撮のことより)そのときのことを思い出します」と話している{{R|佛田洋}}。 |
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*[[映画]][[雑誌]]「[[プレミア (雑誌)|プレミア]]」([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号の特集「'''決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング'''」で[[角川歴彦]]、[[徳間康快]]、[[宮崎駿]]、[[北野武]]、[[出井伸之]]らを抑えて'''第1位'''に選ばれた。「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された<ref name="プレミア"/><ref name="sairyusha"/>。 |
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=== 俳優 === |
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東横映画時代の1947年、『女だけの夜』と『[[三本指の男]]』の[[原節子]]の出演は岡田が出演交渉して出てもらったという{{R|悔いなき_185-190}}。また[[高峰三枝子]]、[[木暮実千代]]、[[三浦光子]]、[[花柳小菊]]、[[山根寿子]]なども、岡田が度々出演交渉したと話している{{R|悔いなき_185-190}}。 |
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[[若山富三郎]]は[[1959年]]、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという{{R|波瀾_104-105}}。[[1960年]]東映に移籍した[[鶴田浩二]]は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』という岡田からの相談を受けた[[俊藤浩滋]]が、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と移籍の交渉を引き受け『東宝には[[三船敏郎]]がいるから、どうやったって上に行かれへん』などと鶴田を口説いたもので、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、円満移籍になったという{{Refnest|group="出典"|{{R|風雲_83-88_104-125|任侠伝_92-94}}}}。 |
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[[松方弘樹]]と[[北大路欣也]]は高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の[[勝新太郎]]が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて[[大映]]に引き抜こうとした。松方の大映へのレンタル移籍は、岡田の指示によるもの<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140823_271983.html?DETAIL 『仁義なき戦い』撮影時の松方弘樹 2か月寝なかった熱い時代]</ref>。松方は1969年から1970年に数本、[[大映]]で主演作品がある{{Refnest|group="出典"|{{R|波瀾_188-190|NEWS24_20110510_思い出}}}}。 |
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岡田がプロデュースした1961年から始まる「[[宮本武蔵 (1961年の映画)|宮本武蔵]]」シリーズ五部作に{{Refnest|group="出典"|{{R|animeanime.biz8609|波瀾_129-130}}}}、当時"志村妙子"名義で東映に所属して端役出演を続けていた[[太地喜和子]]を岡田が大役に抜擢したが{{R|悔いなき_189-190}}、太地は「[[文学座]]の試験に受かったから舞台の道に進む」と大役を断ったという{{R|悔いなき_189-190}}。岡田は「太地さんが志村妙子として東映に残っていれば、映画界から大スターへの足跡を辿ることになったと思う」と話している{{R|悔いなき_189-190}}。 |
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1961年、急な[[東映東京撮影所]]所長転任で、家族で住む家が見つかるまで東映が借りていた[[東京都|東京]]花房山([[上大崎]])の佐々木邸に引っ越す{{R|岡田裕介}}。[[ふすま]]一枚隔てた部屋に東映に入ったばかりの[[小林稔侍]]が住んでいて、朝になると当時まだ小学生だった[[岡田裕介]]と[[高木美也子]]が小林を起こしに来て、岡田所長が出勤するのをみんなで見送った。こうした一つ屋根の下で過ごした生活が数ヶ月続いた。その後どんどん出世して岡田に小林は会うたび「おっ、元気か?」と声をかけられた。小林は売れない時代を長く送っていたため、周りからみたらおかしく映る光景であったという{{R|スポニチ201094}}。この関係で小林は岡田の通夜の進行を務めた{{R|女性自身_通夜}}。 |
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東映入社後、なかなか芽の出ない[[高倉健]]をスターにしようと[[1962年]]、かつて[[市川崑]]監督が撮って大当たりした[[小島政二郎]]原作の『[[三百六十五夜]]』の再映画化を企画。[[美空ひばり]]を主演にして[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]の[[三人娘]]を総登場させ高倉健、[[鶴田浩二]]を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した{{R|風雲_72-73}}。翌[[1963年]]、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『[[人生劇場 飛車角]]』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて[[1964年]]、岡田が「[[忠臣蔵]]を下敷きにした群集劇を」と企画し[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に命じて書かせた『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』シリーズ( - 1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した{{Refnest|group="出典"|{{R|東映_任侠・実録|クロニクル1_172-175|日本俠客伝_22|ポスター_193}}}}。 |
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[[1962年]]、映画『王将』で東映作品に初主演した[[村田英雄]]に「[[金剛力士|仁王]]の[[刺青]]を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた{{R|悔いなき_137}}。 |
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[[藤山寛美]]が[[1966年]]、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた{{R|悔いなき_251-252}}。寛美がこの頃、東映の[[任侠映画]]に出ているのはこのため。 |
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[[安藤昇]]と仲がよく、安藤が弟分の[[菅原文太]]ともども[[松竹]]に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は1967年東映に移籍したもの{{R|波瀾_219-223}}。安藤は「いい男たちだね」と折に触れ、岡田と[[五社英雄]]、[[勝新太郎]]の3人の話をよくしていたという{{R|安藤向谷}}。安藤は岡田を「戦友のようなものだ」とよく言っていた{{R|安藤向谷}}。安藤が俳優に転向した当時、映画関係者は「安藤組」にピリピリしていたが、岡田だけは腹が据わって妙な気遣いがまったくなかったという{{R|安藤向谷}}。安藤が東映に移籍したとき、「お近づきのしるし」と岡田は俊藤も誘って安藤を[[ソープランド|ソープ]]へ連れて行き、そこから付き合いが始まった{{R|安藤向谷}}。安藤は東映の専属ではなかったという{{R|ヤクザが認めた_6}}。 |
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[[佐久間良子]]は、いわゆるお嬢様役から180度異なる[[娼婦]]役に岡田に抜擢され代表作とした『[[人生劇場 飛車角]]』や『[[五番町夕霧楼]]』について<ref>日本経済新聞2012年2月11日40面『私の履歴書 佐久間良子⑪』</ref>、岡田や厳しい教えを受けた[[田坂具隆]]監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている{{Refnest|group="出典"|{{R|ニッカン20110510_22-24|シネマトゥデイ20110511_葬儀|クロニクル1_172-175|東映三十年_125}}}}。 |
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[[北島三郎]]は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと[[俊藤浩滋]]さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している{{Refnest|group="出典"|{{R|ニッカン20110510_22-24|スポーツ報知20110510_19|スポーツ報知20110510web_見舞い断る}}}}。北島の『[[函館の女]]』の映画化を[[長門裕之]]の人間プロダクションが企画して、長門の叔父・[[マキノ雅弘|マキノ雅裕]]監督で松竹が映画化しようとしたが、撮影が半分近く進んだ段階で、岡田と俊藤が松竹の[[城戸四郎]]社長に「北島は東映の専属だ。松竹には出さん」とねじ込み製作が中止された{{R|週刊文春19820218_74}}。北島は東映と専属契約していたわけではないが、人間プロはこれに懲りて以降、自主製作はしなくなった{{R|週刊文春19820218_74}}。 |
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[[里見浩太朗]]は、2021年3月に行われた[[岡田裕介]]のお別れの会で、「私は貴方のお父様、前会長に育てて頂きました。東映という誰もが憧れる時代劇の世界に身を投じ、以来、映画、舞台、テレビにと幸運な[[花道#舞台設備以外の「花道」|花道]]を歩ませて頂きました。感謝に堪えません。裕介さん、貴方もまた大プロデューサーとして、数々の素晴らしい作品を世に残されました。私は貴方とお会いする時、いつもお父様と会っていた時と同じような思いで接していたような気がします」などと述べ、祭壇に向かって手を合わせた<ref>{{Cite news|url= https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/movies/2870196/ |title= 里見浩太朗と笑福亭鶴瓶、舘ひろしの贈る言葉 東映・岡田裕介さんお別れの会 |newspaper= [[東京スポーツ|東スポWEB]] |publisher = [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]] |date= 2021-03-10 |accessdate= 2021-03-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210324222945/https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/movies/2870196/ |archivedate= 2021-03-24 }}{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202103100000328.html |title= 里見浩太朗、東映岡田会長「亡くなる4日前会った」 |newspaper= [[日刊スポーツ]] |publisher = [[日刊スポーツ新聞社]] |date= 2021-03-10 |accessdate= 2021-03-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210310121033/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202103100000328.html |archivedate= 2021-03-10 }}[https://www.oricon.co.jp/news/2186793/full/ 東映会長・岡田裕介さん『お別れ会』 吉永小百合、西田敏行、広瀬すずら“贈る言葉” ]</ref>。 |
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[[三田佳子]]は『岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した』と話している{{Refnest|group="出典"|{{R|女性自身_通夜|スポーツ報知20110510web_菅原文太|産経MSN20110511_菅原文太}}}}。 |
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25歳まで[[広告代理店]]で[[サラリーマン]]をやっていた[[渡瀬恒彦]]が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという{{Refnest|group="出典"|{{R|BIGtomorrow200910_52|東映_渡瀬恒彦}}}}。 |
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[[高倉健]]は1970年「[[ヤクザ映画]]で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した{{Refnest|group="出典"|{{R|サンデー毎日19721210_26-29|friday83868}}}}。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない{{Refnest|group="出典"|{{R|サンデー毎日19721210_26-29|サンデー毎日19721210_27}}}}。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは“高倉健蒸発”“仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や[[大部屋俳優]]を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解){{Refnest|group="出典"|{{R|ds20151119|任侠伝_224-232|asagei28944}}}}。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる{{Refnest|group="出典"|{{R|サイゾー201106_健さん|週刊文春20100526web_53|サンデー毎日19721210_26-29|サンデー毎日19741112_50|ZAKZAK20110511_通夜|ZAKZAK20110510_仁義}}}}。 |
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[[日活ロマンポルノ|ポルノ]]にシフトした[[日活]]を辞めてフリーになった[[梶芽衣子]]は、“ポスト藤純子”として東映が売り出し、任侠路線ではなく別路線の『[[女囚さそりシリーズ]]』(1972年 - 1973年)でスターになった{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝2_259-262|サンデー毎日19720319_44|ピンキー_1_11_27}}}}<!---<ref name="サンデー毎日19730316_42" /> |
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<ref name="サンデー毎日19730923_46" /><ref name="サンデー毎日19731209_38" /><ref name="サンデー毎日19740203_36" /><ref name="週刊サンケイ19740627_26" /><ref name="週刊朝日19740517_37-38" />--->。『[[女囚701号/さそり]]』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『[[女囚さそり 第41雑居房]]』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は[[俊藤浩滋]]が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという{{R|東スポ201106梶芽衣子}}。岡田や俊藤の説得がなければ『[[女囚さそりシリーズ]]』は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している{{Refnest|group="出典"|{{R|梶芽衣子公式_女をやめたい4|hochi151019}}}}。 |
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[[丹波哲郎]]から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物{{R|好きなヤツ_136-146}}。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている{{Refnest|group="出典"|{{R|好きなヤツ_136-146|ニッカン20110509web_気配り}}}}。ゴルフコンペで大川博の取り巻きの重役連中が、大川にオベッカばかりしている時に、岡田は媚びるどころかそっぽを向いているのを見て、丹波は岡田を認めたという{{R|好きなヤツ_136-146}}。また丹波が親しかった元東宝副社長・[[藤本真澄]]と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこの[[ポルノグラフィ|ポルノ]]の国から来たの(来た人)」などと言い非常に嫌われた{{R|好きなヤツ_136-146}}。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという{{R|神を放った_139}}。 |
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『[[仮面ライダーV3]]』の[[風見志郎]]役で有名になった[[宮内洋]]は、当時は東映の社員俳優だったが、『仮面ライダーV3』と同時期に[[香港]]最大の映画会社だった[[ショウ・ブラザーズ]]と10本契約が決まりそうで、『仮面ライダーV3』の撮影が始まって2日目に宮内の師匠・丹波哲郎が岡田社長に「宮内を『仮面ライダーV3』から降ろしてくれ」と直談判したが、岡田から拒否された{{R|zakzak180327}}。宮内は「あのとき、僕が香港に行っていたら、また人生が変わっていたかもしれませんね」と述べている{{R|zakzak180327}}。 |
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1974年、[[山口百恵]]が主演した東宝『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした{{R|週刊朝日19750815_38-41}}。翌[[1975年]]の[[ゴールデンウイーク]]は、東宝が山口百恵の『[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]』、松竹が[[桜田淳子]]の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『[[県警対組織暴力]]』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる{{Refnest|group="出典"|{{R|秘宝201012_101|サンデー毎日19750518_44}}}}。なお『潮騒』の併映は[[和田アキ子]]の『お姐さんお手やわらかに』『スプーン一杯の幸せ』の併映は[[中村雅俊]]の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が[[志穂美悦子]]主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し“青春路線”に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した{{R|秘宝201012_101}}。その第1作が[[渡瀬恒彦]]、[[伊吹吾郎]]以来、自信を持って送り出した新人・[[星正人]]主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『[[愛と誠]]』に似ていた{{R|秘宝201012_101}}。 |
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[[アラン・ドロン]]主演の『[[ル・ジタン]]』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった{{R|ロードショー197603_196-199}}。『[[地獄の黙示録]]』(1979年)も[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]で買おうとしたが、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]が相当金を出して落としたという{{R|ロードショー197603_196-199}}。 |
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[[荒川博]]の養子で、暴漢事件で有名な[[荒川尭]]が[[1975年]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を引退すると高倉健の後釜候補として契約金3000万円で俳優にスカウトしたが{{Refnest|group="出典"|{{R|荒川堯|プロ野球タブー_112}}}}、荒川が眼を悪化させたためスカウトを断念した{{R|荒川堯}}。 |
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[[1980年]]前後の岡田を始め、当時の東映を[[パロディ]]にしたくて山城新伍が作ったのが1980年の『[[ミスターどん兵衛]]』という映画。始まってまもなく、梅宮辰夫扮する撮影所長が、幹部にカツを入れるため、挨拶するシーンの台詞はそのまま岡田が話した台詞{{R|月刊シナリオ19804_14}}。「ええか、ここでヒットした作品を見てみい。『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』は『[[手錠のままの脱獄]]』、『[[不良番長]]』は『[[地獄の天使]]』、みんな盗んだもんやないか! ま、一生懸命盗んでも、おまえらの才能ではモトネタと似ても似つかんものになるから問題も起きん」{{R|月刊シナリオ19804_14}}。また会議のシーンで「『ラムの大通り』っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンも同様という{{Refnest|group="出典"|{{R|濃厚_66|男気_17}}}}。 |
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[[舘ひろし]]は[[1976年]]、[[松田優作]]と共演した『[[暴力教室 (1976年の映画)|暴力教室]]』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、[[石原プロモーション]]に入社するまでは東映に籍を置いたという{{R|スポニチ20110611_26}}。 |
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[[内田裕也]]は映画の構想が持ち上がるたび“いの一番”に岡田に相談に出向いたという<ref>[https://megalodon.jp/2015-0519-0208-32/mainichi.jp/enta/news/20110521dde012200050000c3.html 深よみエンタ:内田裕也容疑者逮捕 震災で何かが壊れた?=佐藤雅昭]</ref>。岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、内田が[[1983年]]に初めて脚本を書いた『[[十階のモスキート]]』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「[[警察官]]がね、最後は挫折して、ついに[[郵便局]]に[[強盗]]に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で映画化され[[崔洋一]]が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に[[安藤昇]]が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」『コミック雑誌なんかいらない』「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、[[リポーター|テレビレポーター]]がガーって行って、それで[[フィクション]]と[[ノンフィクション]]を交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、[[マイク]]を股間から取り出して、[[ホームベース]]に投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画は[[アルゴ・ピクチャーズ|ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]]で製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし[[早稲田大学]]の反映研グループの上映からスタートし、[[奥山和由]]が「僕に任せてくれ」と言って[[松竹]]の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところが[[カンヌ映画祭]]の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『[[コミック雑誌なんかいらない]]』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。[[毎日映画コンクール]]でも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。[[高岩淡]]が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」と[[しかと]]。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございま〜す」と言ってやった。これは俺の人生でも最高の[[リベンジ]]だった、と内田は話している{{R|俺は最低な奴さ_280}}。[[2009年]]、内田の娘婿・[[本木雅弘]]が企画した(内田はまったく係わっていないが)『[[おくりびと]]』が[[第81回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、配給を[[松竹]]が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという{{Refnest|group="出典"|{{R|スポニチ20110510_17|俺は最低な奴さ_280|ニッカン20110510_内田裕也}}}}。内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り([[東宝]]は俳優や[[黒澤明]]以外の映画監督は会長室に絶対に入れない)[[岡田裕介]]は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が[[岸恵子]]と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが[[鶴田浩二]]とな、付き合ってたんだけど、ワシが[[箱根]]の[[旅館]]に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。[[田岡一雄|山口組の三代目]]が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」などと話している{{Refnest|group="出典"|{{R|俺は最低な奴さ_280|内田|twitter_内田裕也}}}}。 |
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[[1986年]]からシリーズ化された『[[極道の妻たち]]』は、企画の日下部五朗が当初、「"極妻"は東映の監督陣と日本を代表する女優たちとで回していきたい」と、一作目の主演女優を[[岩下志麻]]、二作目を[[十朱幸代]]、三作目を[[三田佳子]]、四作目を[[山本陽子]]、五作目を[[吉永小百合]]という構想を練っていた{{R|アサ芸2013620_66-69}}。ところが、四作目の製作が決定した際に、岡田が「やっぱり岩下に戻そうや」と鶴の一声を発して以降は長く岩下が主演を務め、"極妻"は岩下、の印象が強くなった{{R|アサ芸2013620_66-69|thetv51353}}。 |
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1986年、当時26歳の[[黒木瞳]]の映画主演デビュー作『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で[[ホステス]]役をさせるため、実際に[[銀座]]の[[高級クラブ]]で[[アルバイト]]させた{{Refnest|group="出典"|{{R|pressnet08|スポーツ報知20110510web_志穂美悦子|朝日新聞20110509web_広島|プレスネットnodate_インタビュー|sonae.sankei}}}}。 |
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=== 経済人他 === |
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兄弟分ともいわれた[[五島昇]]と岡田は同じ親分肌で面倒見がよく{{Refnest|group="出典"|{{R|pressnet08|五島岡田|悔いなき_216-220|経済界19800321|経済界19830524|週刊宝石19850531}}}}、"ケンカも経営も上手"で{{R|経済界19800321}}、共に[[永野重雄]]の"秘蔵っ子"といわれた{{R|経済界19800321}}。岡田は[[都道府県人会|広島県人会]]で永野や[[田部文一郎]]、[[山口信夫]]、[[桜田武]]ら、[[財界四天王]]のグループと付き合いがあり{{Refnest|group="出典"|{{R|pressnet08|朝日20070301|日経19940518|kamotsuru}}}}、特に永野に可愛がられ{{Refnest|group="出典"|{{R|悔いなき_216-220|財界001107}}}}、永野は「岡田君は男にもてる。男の中の男です。人情に厚い人で、人に頼まれるとイヤと言えない。郷里が生んだ名優です」などと岡田を評し、岡田の[[後見人]]を自称していた{{R|経済界19800321}}。また五島昇の後ろ盾には、[[五島慶太]]の東大同期[[石坂泰三]]や[[水野成夫]]、[[小林中]]らがおり{{Refnest|group="出典"|{{R|日経_五島昇|実業界19840801}}}}、財界の付き合いは共通した部分があった。岡田のボス大川博と五島が反目になったのは1964年の事だが{{R|日経_五島昇}}、この時五島は石坂泰三から「何をグズグズしているのだ。[[東急グループ]]には女を裸にして売り物にするような商売は要らない」とカミナリを落とされ、東映を切り離しを決断したものだったが{{R|日経_五島昇}}、女を裸にして売り物にする映画を東映で始めたのは岡田であった。大川と五島が反目になったため、岡田は東映幹部時代は表立って財界の付き合いは出来なかった。このため1971年の社長就任時も財界では無名といわれた{{R|朝日20070301}}。[[エンターテインメント]]業界では財界との付き合いはビジネス上でも不可欠であるが、大川も亡くなり財界との付き合いは表立って出来るようになった。そこで岡田の財界での売り出しを後押ししたのが永野と五島{{R|経済界19800321}}。前述の人物たちは戦後の日本を形作った財界人で{{R|実業界19840801}}、映画会社社長の岡田ではスケールが違うが<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[竹中労]] |year = | title = 連載・日本映画縦断・26 『東映京撮/映画づくりの現場から・下 〔回想のマキノ映画・その5〕』 | journal = キネマ旬報 |issue = 1974年9月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 128 }}</ref>、大物財界人の支援を受けてメキメキ頭角を現し押しも押されもせぬ"映画界のドン"といわれるようになった{{R|経済界19800321}}。永野重雄が会長を務める[[日本商工会議所]]100周年イベント全国郷土祭の運営を岡田が請け負い{{Refnest|group="出典"|{{R|朝日20070301|活動屋人生_118-119}}}}、映画屋の東映にこの大イベントが出来るのか不安視されたが、事業部や[[東映動画]]で培ったイベント事業のノウハウを活かしてこれを成功され永野から信頼を得た{{Refnest|group="出典"|{{R|朝日20070301|活動屋人生_118-119}}}}。このイベントは[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]に7万人を動員して1978年10月22日に開催された{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_118-119|渋沢社史}}}}。あまり知られていないが、これがおそらくスポーツイベント以外で国立競技場を初めて使用されたケースと見られる{{R|悔いなき_216-220}}。このイベントには、[[佐伯勇]]や[[鹿内春雄]]、川内通康らの協力を得て成功させたもので{{R|悔いなき_216-220}}、[[昭和天皇]]の臨席もあった{{R|悔いなき_216-220}}。永野は五島昇を買って自身の後継に据えようとしたため{{R|日経_五島昇}}、五島もこれに応え、[[経団連]]など他の財界団体の活動を控え[[日本商工会議所|商工会議所]](以下、日商)をメインに財界活動をするようになった{{R|日経_五島昇}}。日商で五島の後ろ盾だったのが、永野の他、[[今里広記]]、[[石坂泰三]]、[[小山五郎]]、[[大槻文平]]、[[瀬島龍三]]らで<ref>{{Cite book|和書|author=松井志郎|year=1986|title=五島昇 財界革新を狙う東急グループの総帥|publisher=ぱる出版|pages = 223-225 }}</ref>、財界との付き合いを全く持たなかった瀬島を財界に引き込んだのは永野と五島だった{{Refnest|group="出典"|{{R|日経_五島昇|瀬島|週刊現代19810924}}}}。この関係で岡田は瀬島と付き合いも生まれ{{R|経済界19830524}}、五島と瀬島を1986年11月28日に取締役相談役として東映に迎え入れた{{Refnest|group="出典"|{{R|活動屋人生_213-223|キネ旬198712_170-171}}}}。瀬島は岡田を「義理人情にあつい『[[人生劇場]]』を地でいくようなチャーミングな方」と評した{{R|経済界19830524}}。五島と瀬島は東映の[[取締役会]]にも出席したため、東映の幹部が緊張し、[[議長]]の岡田も通常の東映の幹部会議より言葉が丁寧になったという笑い話がある{{R|映画時報19874_17}}。岡田は永野の盟友・今里広記にも惚れられ{{R|経済界19830524}}、今里を囲む若手財界人の勉強会「混交会(今里会)」を、[[牛尾治朗]]や前野徹、青井忠雄、[[角田式美]]、[[本庄正則]]<ref>[https://web.archive.org/web/20180814050737/https://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20141024_12.html 【伊藤園特集】右手に合理主義、左手に義理人情を携え…商人道をひた走る/伊藤園の21世紀戦略](Internet Archive)</ref>、西村昭孝らを集めて作り{{Refnest|group="出典"|{{R|悔いなき_216-220|週刊宝石19850621}}}}、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]の売却はこのグループによって行われた{{Refnest|group="出典"|{{R|読売730117|週刊サンケイ19730209|週刊現代19730205}}}}。新球団日拓ホーム・フライヤーズの新役員には財界の新興ヤングパワーが名を連ね、売名のため毎年[[オーナー]]を替えるのではと噂された{{R|週刊現代19730205}}。1985年5月に今里が亡くなった後{{R|週刊宝石19850531}}、岡田と岡田の子分・本庄{{R|悔いなき_216-220}}、高木禮二、[[櫻田慧]]、数佐三郎、太刀川恒夫、藤本秀朗らの「オーケー会」が合体して「岡田茂を囲む会」が出来た{{R|悔いなき_216-220}}。親分肌の岡田はこの新興会社のオーナー社長たちから頼りにされて、これが財界から、任侠映画をもじり、"岡田一家"と呼ばれるようになった{{Refnest|group="出典"|{{R|pressnet08|経済界19830524|週刊宝石19850531}}}}。 |
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[[1973年]]、東映の企画で黒崎出版から発行されていた『[[テレビランド]]』を編集スタッフごと[[徳間書店]]に移したが、これを[[徳間康快]]社長と二人で[[銀座]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]で決めた{{R|三流週刊誌_295-296}}。徳間書店の『テレビランド』刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の『[[アニメージュ]]』創刊、[[宮崎駿]]([[スタジオジブリ]])等へと展開していく足がかりとなった{{R|三流週刊誌_295-296}}。徳間が活字(出版、[[東京タイムズ]])、オーディオ(音楽、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]])文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年[[大映]]を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった{{R|龍になった男_151}}。 |
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[[三越]](現・[[三越伊勢丹]])社長の[[岡田茂 (三越)|岡田茂]]と[[同姓同名]]で、同じ[[ワンマン]]社長で仲がよく{{Refnest|group="出典"|{{R|週刊文春19730910_24|ロードショー197712_189|実業界19771115_19}}}}、兄弟分として付き合った{{R|実業界19771115_19}}。1973年11月から三越が始めた[[三越映画劇場]]は{{R|経営評論197309_19}}、岡田が三越岡田社長にアイデアを話したものを具体化したもの。 |
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{{Main|三越映画劇場}} |
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三越岡田社長からは[[ボウリング場]]の整理や、流通業のアドバイスを受けた<ref name="週刊文春19730910_24"/>。[[1977年]]に一緒に映画を製作をしようとしたが{{Refnest|group="出典"|{{R|ロードショー197712_189|実業界19771115_19}}}}、三越岡田社長が[[東宝映画]]の取締役だったことから、三越は東宝と『[[燃える秋]]』を製作した。[[1982年]]に[[三越事件]]が起きたときには、これを基に映画を製作しようとし{{R|編集ばか_79}}、[[内藤誠]]に脚本を書かせたが、やっぱり付き合いがあってマズいと中止させた{{R|編集ばか_79}}。しかし内藤と[[桂千穂]]とで[[にっかつ]]に本を持って行き、これをにっかつが[[1983年]]に『[[女帝 (1983年の映画)|女帝]]』として映画化した{{R|編集ばか_79}}。 |
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[[山下耕作]]が撮った[[1974年]]の『[[あゝ決戦航空隊]]』は、[[児玉誉士夫]]が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなく[[ロッキード事件]]でペシャンコになった{{R|将軍と_162}}。 |
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[[吉田拓郎]]と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ''[[ニューミュージック]]的映画作り'' という意味不明の題名を付け、東映の社内誌『東映』に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席も[[リクライニングシート|リクライニング]]のいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明{{R|河原乞食考_49-50}}。 |
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岡田と40年以上の付き合いがあったという[[日枝久]]は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の編成局長時代に長寿ドラマ『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した{{R|産経MSN20110516_最後の活動屋}}。『銭形平次』の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]の説得を得られたのも岡田の計らいという{{R|財界20110607_60-62}}。 |
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[[渡辺淳一]]の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんは[[性行為|アッチ]]の方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した{{R|それでも_154}}。 |
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[[住友銀行]](現・[[三井住友銀行]])業務本部長時代の[[樋口廣太郎]]が、[[アサヒビール]]を[[ダイエー]]の[[中内㓛]]に売ろうとしたことがあり{{R|kigyoka20150527}}、実家がアサヒビールの特約店だった岡田が「ビールは難しいから」と中内に買収を断りなさいと進言し、アサヒビールの[[中條高徳]]に内密にこれを伝えたという{{R|kigyoka20150527}}。またNET(現・[[テレビ朝日]])を巡る大川博と[[旺文社]]・[[赤尾好夫]]との関係も改善した<ref>[https://president.jp/articles/-/17502?page=2 松下幸之助、中内功……名経営者の「言葉の使い方」7つの法則]</ref>。 |
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[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]が[[孫正義]]と組んで[[旺文社]]から[[テレビ朝日]]の全[[株式]]を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、[[20世紀スタジオ|FOX]]とも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、[[朝日新聞社]]がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した{{R|財界20110607_60-62}}。 |
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[[1994年]]、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は[[田部文一郎]])会員が急に増え、現在4000人と在京[[県人会]]の中で一番多いともいわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|広島県人会|中国放送20000429_ふるさと|プレスネット20110521_巨星墜つ}}}}。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため{{Refnest|group="出典"|{{R|広島県人会|中国新聞別冊20090129_1-7}}}}。毎年1月にある総会には出席者が1200〜1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」と「[[ひろしまフラワーフェスティバル|フラワーフェスティバル]]ばかりに頼らないで別のイベントをやんなきゃ。その点、京都を見なさいよ、ダーッと一年中祭を並べてるんだ。それでお客が来るんだから。消費を伸ばす意味で、近郊や遠くから来てもらえるイベントがもっともっと必要だね」などとぶった{{R|広島県人会}}。2008年から名誉会長となり、現在の会長(8代目)は林有厚([[東京ドーム (企業)|東京ドーム]]社長){{R|広島県人会}}。 |
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出身地の東広島市西条の[[フジグラン東広島]]内に東映系初の[[シネマコンプレックス|シネコン]]「[[フジグラン東広島#T・ジョイ東広島|Tジョイ]]」開業の時{{R|広島県人会}}、オープニングセレモニーに出席している{{R|プレスネット20110521_巨星墜つ}}。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、'''東映の役者がみんな来た'''、という話がある。 |
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== 著書 == |
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* {{Cite book | 和書 | title = 悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年 | author = 岡田茂 | publisher = 財界研究所 | year = 2001 | id = ISBN 4-87932-016-1 | ref = 悔いなき }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝 | author = 岡田茂 | publisher = [[角川書店]] | year = 2004 | id = ISBN 4-04-883871-7 | ref = 波瀾 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 私の履歴書 経済人 38 | author = 岡田茂、[[大賀典雄]]、[[伊藤雅俊 (1924年生の実業家)|伊藤雅俊]]、林原健、[[井植敏]]、[[松原治]] | publisher = [[日本経済新聞社]] | year = 2004| id = | ref =私の履歴書 経済人 38}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{reflist|2 |
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|refs= |
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書名とページのみの出典は[[#参考文献|参考文献]]へリンクしている。 |
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<!---インタビュー---> |
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<ref name="日経BP20060203_岡田茂">{{Cite book |和書 | author = [[金田信一郎]] |year = 2006 | title = テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史 | chapter = 岡田茂・東映相談役インタビュー | publisher = [[日経BP社]] | pages = 211-215 | isbn=4-8222-0158-9 }}({{cite news |title= NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとヤクザ、2つの映画で復活した |newspaper= [[日経ビジネス]] |date= 2006-02-06 |url= https://business.nikkei.com/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml |accessdate= 2015-07-03 |archiveurl= https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml |archivedate= 2011年8月10日 |deadlinkdate= 2017年10月 }})</ref> |
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<ref name="日経ビジネス20060220_108-111">『[[日経ビジネス]]』2006年2月20日号、p108-111</ref> |
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<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂">{{Cite web|和書|url=https://megalodon.jp/2014-0824-0151-22/dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf|format=PDF|title=岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・[[福田和也]]|date=2005-05-15|work=[[メッセージ.jp]]|publisher=[[BSフジ]]|page=|accessdate=2018-09-28}}(Internet Archive)</ref> |
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<!---東映・東急公式---> |
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==著書== |
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*悔いなきわが映画人生/自著 財界研究所 |
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*波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝/自著 [[角川書店]] |
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<ref name="東映キネマ旬報_17">{{Cite journal|和書|author=|title=追悼特集プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・[[高崎俊夫]]/【追悼特集】プロデューサー、岡田茂 対談佐藤純彌×吉田達 文・金澤誠|journal=東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17|issue=2011年8月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|pages=2-9}}([https://web.archive.org/web/20150703103304/https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 Vol.17])</ref> |
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<ref name="岡田茂追悼_中島トーク1">[https://www.facebook.com/note.php?note_id=328099280538067 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)]</ref> |
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<ref name="同期の桜2" >[https://www.facebook.com/note.php?note_id=328099920538003 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)]</ref> |
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<ref name="facebook私と東映中島貞夫_2">[https://archive.md/w0j2z 第2回『私と東映』x 中島貞夫監督 (全5回)](Archive)</ref> |
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<ref name="facebook私と東映中島貞夫_3">[https://archive.md/2juuT 第3回『私と東映』x 中島貞夫監督 (全5回)](Archive)</ref> |
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<ref name="facebook私と東映神先頌尚_3">[https://archive.md/PRCY 第3回『私と東映』x 神先頌尚 (全4回)](Archive)</ref> |
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<ref name="facebook私と東映神先頌尚_4">[https://archive.md/GvIK 第4回『私と東映』x 神先頌尚 (全4回)](Archive)</ref> |
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<ref name="toeich2024">{{Cite web|author=|title=3月のオススメ特集 | 岡田茂生誕100年【東映映画 百花繚乱】|url=https://www.toeich.jp/feature/detail/okada-shigeru|date=2024|website=[[東映チャンネル]]|publisher=東映衛星放送|accessdate=2024年3月3日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240223213745/https://www.toeich.jp/feature/detail/okada-shigeru|archivedate=2024年2月23日}}</ref> |
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<ref name="toei70th_61">[https://note.com/toei70th/n/nc872b1a641e9 61.第4章「行け行け東映・積極経営推進」 第7節「東映社会派映画の名匠 関川秀雄と家城巳代治」] - 東映</ref> |
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<ref name="toei70th_103">[https://note.com/toei70th/n/n88a9fe816295 103.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第5節「東映ゼネラルプロデューサー岡田茂・映画企画の歩み5刺激性好色映画」] - 東映</ref> |
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<ref name="toei70th_119_120">[https://note.com/toei70th/n/nb666f84a29ad 119.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第9節「プロデューサー黒澤満 東映ニューアクション1 松田優作と舘ひろし」]、[https://note.com/toei70th/n/nf4e1252cca2f 第9節「プロデューサー黒澤満 東映ニューアクション2 東映セントラルフィルムからセントラル・アーツ」] - 東映</ref> |
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<ref name="toei70th_123">[https://note.com/toei70th/n/n08f0cec2526c 123.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第10節「1980年代東映配給香港映画」] - 東映</ref> |
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<!---辞典・追悼・評伝等---> |
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==参考文献== |
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*[http://www.toei.co.jp/annai/outline/history.html 社史|東映株式会社] |
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*東映十年史/東映(1962年) |
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*東映映画三十年/東映(1981年) |
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<ref name="tvasahi200711">{{Cite news |title=【訃報】“任きょう映画の父”が87歳で|work=tv asahi 芸能&ニュース テレ朝芸能&ニュース|publisher=[[テレビ朝日]] |date=2011-05-09|url=https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20110509_060|accessdate=2020-12-24 |
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*クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ][Ⅱ][Ⅲ]/岡田茂発行 東映(1992年) |
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|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201008192055/https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20110509_060|archivedate=2020-08-08}}</ref> |
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*小説東映 映画三国志/[[大下英治]]著 徳間書店(1990年) |
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<ref name="NEWS24_20110510_思い出">[https://web.archive.org/web/20150518085826/http://www.news24.jp/entertainment/news/1617286.html 【続報】北大路欣也、富司純子ら思い出語る | 日テレNEWS24](Archive)</ref> |
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*[[私の履歴書]] 経済人38/[[日本経済新聞社]](2004年) |
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<ref name="読売新聞20110513web_悼む">{{Cite news|author=福永聖二|title=岡田茂・東映名誉会長を悼む 実行力と「不良性」の人|url=http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20110513-OYT8T00322.htm|date=2011-05-09|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|accessdate=2024年3月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110518130538/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20110513-OYT8T00322.htm|archivedate=2011年5月10日}}</ref> |
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*私の東映30年/渡邊達人著(1991年) |
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<!---<ref name="読売新聞20110510web_訃報">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20110509-OYT8T00693.htm|title=東映黄金時代築く、岡田茂さん死去|publisher=[[読売新聞]]|date=2011年5月10日}}</ref> |
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*風雲映画城 下/[[松島利行]]著 [[講談社]](1992年) |
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<ref name="読売新聞20110510_XX">『[[読売新聞]]』2011年5月10日</ref>---> |
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*日本の映画人 -日本映画の創造者たち-/[[佐藤忠男]]著 [[日外アソシエーツ]](2007年) |
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<ref name="nikkei1105">{{Cite news|author=|title=訃報:岡田茂さん87歳=東映名誉会長く|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/|date=2011-05-09|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|accessdate=2024年3月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221212124713/https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/|archivedate=2012年12月12日}}[https://www.nikkei.com/article/DGKDASDD090IA_Z00C11A5TJ2000/ 東映名誉会長・岡田茂氏死去 誰よりも邦画愛す]</ref> |
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*[[キネマ旬報]]、2011年7月上旬号他 |
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<ref name="mainichi110509">{{Cite news|author=|title=訃報:岡田茂さん87歳=東映名誉会長く|url=http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20110509k0000e040025000c.html|date=2011-05-09|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|accessdate=2024年3月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110510011014/mainichi.jp/enta/cinema/news/20110509k0000e040025000c.html|archivedate=2011年5月10日}}</ref> |
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*[[映画秘宝]]、[[洋泉社]](2011年8月号他) |
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<ref name="kinejun110622">{{Cite web|author=前野裕一|title=最後のカツドウ屋、岡田茂さんの一面|url=https://www.kinejun.com/kinejun/editorial_blog/tabid/141/EntryID/190/Default.aspx|date=2011-06-22|website=[[キネマ旬報]]|publisher=[[キネマ旬報社]]|accessdate=2024年3月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110721024942/https://www.kinejun.com/kinejun/editorial_blog/tabid/141/EntryID/190/Default.aspx|archivedate=2011年7月21日}}</ref> |
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*鎧を着ている男たち/[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]著 [[徳間書店]](1987年) |
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<ref name="波瀾万丈">[https://www.kadokawa.co.jp/product/200309000153/ 波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝 - 角川書店]、[http://bizboard.nikkeibp.co.jp/kijiken/summary/20040720/NB1250H_338756a.html 本 新刊の森●パーソナル 波瀾万丈の映画人生]</ref> |
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*一言いうたろか/山城新伍著 広済堂出版(1993年) |
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*現代・河原乞食考~役者の世界って何やねん?/[[山城新伍]]著 [[解放出版社]](1997年) |
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*仁義なき戦い 浪漫アルバム/杉作J太郎、植地毅著 徳間書店(1998年) |
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<ref name="シネマトゥデイ20110511_葬儀">[https://www.cinematoday.jp/news/N0032205 日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る]</ref> |
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*丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ/丹波哲郎著 [[キネマ旬報]]社(1999年) |
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<ref name="追悼">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110510-773480.html 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん - 日刊スポーツ]、[https://web.archive.org/web/20110830092613/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110511/ent11051110590007-n1.htm “教え子”高倉健、岡田氏に弔電「大きな時代の節目」 - 産経ニュース](Archive)、[https://web.archive.org/web/20110528141522/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00294.htm 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列](Archive)、 [https://web.archive.org/web/20110903025045/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201105100045.html 小林旭「最後の大物がいなくなった」 - 朝日新聞デジタル](Archive)、[https://web.archive.org/web/20110524012201/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00018.htm 「男の美学」岡田茂氏、家族以外の見舞い断る…東映・樋口顧問明かす](Archive)、[https://web.archive.org/web/20110512010201/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110510-OHT1T00012.htm 志穂美悦子さん、海外映画祭で空手の相手に…岡田茂氏死去 スポーツ報知す] (Archive)、[https://web.archive.org/web/20110528141532/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110512-OHT1T00002.htm 魂受け継ぐ!仲村トオル「伝えていかなければ」…岡田茂・東映名誉会長告別式](Archive)、[https://web.archive.org/web/20120515121018/www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news//CK2012051202000139.html 中日スポーツ:岡田茂さん没後1年 1200人しのぶ](Archive)、[https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1605975/ 岡田茂 通夜(岡田茂) - 女性自身]、[https://www.toei.co.jp/release/public/1196718_1140.html 新文芸坐にて故・岡田茂名誉会長追悼上映、決定! | 東映「広報」]、[https://twitter.com/nikkan_tokyo/statuses/67450199274037249 東映名誉会長・岡田茂さんが亡くなりました。 - Twitter]、[https://web.archive.org/web/20161019105218/https://twitter.com/matsuda_miyuki/status/67948701569654784 松田美由紀 on Twitter: "東映・岡田茂名誉会長が死去](Archive)</ref> |
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*東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム/[[杉作J太郎]]・植地毅著 徳間書店(1999年) |
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<ref name="nikkansports110509">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773081.html 「やくざ映画の父」東映岡田茂氏死去87歳]"([https://megalodon.jp/2014-0914-1949-54/www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773081.html アーカイブ〈ウェブ魚拓〉])[[日刊スポーツ]]2011年5月9日(2015年11月7日閲覧。)、[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773179.html 気配り忘れない繊細な人/岡田さん偲ぶ - 芸能ニュース : nikkansports.com]</ref> |
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*僕らはそれでも生きていく!/小石原昭著 財界研究所(2000年) |
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<ref name="nikkan_773480">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110510-773480.html 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん - 日刊スポーツ]</ref> |
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*男気万字固め/[[吉田豪]]著 [[エンターブレイン]](2001年) |
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<ref name="追悼上映">[https://web.archive.org/web/20110913142641/http://www.toei.co.jp/release/movie/1196463_979.html 故 岡田茂名誉会長追悼『人生劇場 飛車角』上映 | 東映映画](Archive)</ref> |
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*楽天楽観 映画監督 [[佐々木康]]/円尾敏郎著 [[ワイズ出版]](2003年) |
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<ref name="bunkatsushin.com">[https://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?id=1673&bc=2 「故岡田茂名誉会長を偲ぶ会 髙岩淡・泊懋両相談役を慰労する会」盛大に開催]</ref> |
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*映画はやくざなり/笠原和夫著 [[新潮社]](2003年) |
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<ref name="勲二等" >[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773081.html 「やくざ映画の父」東映岡田茂氏死去87歳]"([https://megalodon.jp/2014-0914-1949-54/www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773081.html アーカイブ〈ウェブ魚拓〉])[[日刊スポーツ]]2011年5月9日(2015年11月7日閲覧。)[https://web.archive.org/web/20141101011407/http://friday.kodansha.ne.jp/archives/13923/ 「大勲位」も「勲一等」も! 勲章販売中 最高1億2000万円](Archive)「95年秋の叙勲 勲一等・勲二等」『読売新聞』1995年11月3日朝刊</ref> |
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*濃厚民族/[[浅草キッド]]著 [[スコラマガジン]](2003年) |
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<ref name="東広島">[https://web.archive.org/web/20130613210914/http://www.47news.jp/localnews/chiikisaisei/46/articles/640638.html 通りの名物は時代劇 市民、地元愛込め熱演 - 47News](Archive)、[https://higashihiroshima-digital.com/news-201128-3/ 【追悼 岡田裕介氏】東広島との つながり深く。 東映の会長 岡田裕介さんを しのんで]</ref> |
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*[[新潮45]] [[新潮社]](2004年9月号) |
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<ref name="岡田裕介">{{NHK人物録|D0009071119_00000}}[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/ 岡田茂・東映名誉会長が死去 日本経済新聞2011/5/9]、[https://web.archive.org/web/20150721071249/http://www.asahi.com/articles/DA3S11251460.html (私の1970年)岡田裕介 有楽町の行列に感激:朝日新聞デジタル](Archive)、[https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20201120_120 【訃報】東映・岡田裕介会長、71歳で…小百合主演作多く手がけ…]、[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202011290001132.html 東映岡田裕介さん、父茂さんの心配した柔軟さが武器に]、[https://www.sanspo.com/article/20201121-NL5I3MNNIBOBNB37OQBPIO55UU/ 東映グループ岡田裕介会長が急逝 「いのちの停車場」打ち合わせ中に倒れる]、[https://www.tokyo-np.co.jp/article/69777 岡田裕介さん死去 東映会長、71歳]{{Cite news|author=|title=東映率いた映画界のドン・岡田裕介さん、急死 「カリスマ」父・茂氏の後継ぎ尽力|url=https://hochi.news/articles/20201120-OHT1T50236.html|date=2020-11-21|newspaper=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|accessdate=2020-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201121090825/https://hochi.news/articles/20201120-OHT1T50236.html|archivedate=2020-11-21}}[https://www.zakzak.co.jp/article/20201216-HHZA4ZO4JZNF3AET7RRDOA6QDA/ 【映画に生きた男 岡田裕介という異才】目黒・花房山育ち 父親が東京撮影所所長になるとともに移り住む (1/2ページ) ]{{Cite news|author=内野小百美|title=「吉永さんと会う前、必ずおなか痛くなるんだよ」…岡田裕介さん悼む|url=https://hochi.news/articles/20201120-OHT1T50241.html|date=2020-11-21|newspaper=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|accessdate=2020-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201121090719/https://hochi.news/articles/20201120-OHT1T50241.html|archivedate=2020-11-21}}</ref> |
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*「仁義なき戦い」調査・取材録集成/笠原和夫著 [[太田出版]](2005年) |
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<ref name="pia201121">{{Cite news|author=[[樋口尚文]]|title=追悼 岡田裕介さん 東映カラーのルネッサンスを夢見て|work=ぴあニュース|publisher=[[ぴあ]]|date=2020-11-21|url=https://web.archive.org/web/20201121020103/https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_7aebdf1a-29cf-493f-bd18-f899af7da94b.html|accessdate=2020-12-24 |
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*Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2(2005年)、3(2005年)、7(2007年)、8(2007年)/シンコーミュージック・エンタテイメント |
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|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201121020103/https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_7aebdf1a-29cf-493f-bd18-f899af7da94b.html|archivedate=2020-11-21}}</ref> |
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*Hotwax presents 和モノ事典 1970's 人名編/[[シンコーミュージック・エンタテイメント]](2006年) |
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<ref name="zakzak201112">{{Cite web|和書|author=伊藤彰彦|url=https://www.zakzak.co.jp/ent/news/201214/enn2012140001-n1.html|title=【映画に生きた男 岡田裕介という異才】2代目の悲哀 豪放磊落な父と正反対、しなやかさと忍耐を武器に (1/2ページ) |accessdate=2020-12-24|publisher=夕刊フジ|date=2020-12-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213231506/https://www.zakzak.co.jp/ent/news/201214/enn2012140001-n1.html|archivedate=2020-12-13}}{{Cite web|和書|author=小張アキコ|url=https://www.zakzak.co.jp/ent/news/201126/enn2011260004-n1.html|title=東映G会長・岡田裕介氏「吉永小百合を世界トップの女優に」の夢抱いて 「いのちの停車場」完成待たずの急死はあまりに悲しい (1/2ページ)|accessdate=2020-12-24|publisher=夕刊フジ|date=2020-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201126022529/https://www.zakzak.co.jp/ent/news/201126/enn2011260004-n1.html|archivedate=2020-11-26}}</ref> |
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*[[別冊宝島]] 1499号 流行り歌に隠されたタブー事件史/[[宝島社]](2008年) |
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<ref name="flowerwild20090701_内藤誠3">[http://www.flowerwild.net/2009/07/2009-07-01_190000.php flowerwild.net - 内藤誠、『番格ロック』を語る vol.3]</ref> |
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*昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫/笠原和夫・[[荒井晴彦]]・[[絓秀実]]著 太田出版(2002年) |
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<ref name="facebook私と東映神先頌尚_1">[https://archive.md/NB7Mc 第1回『私と東映』x 神先頌尚 (全4回) | Facebook](Archive)</ref> |
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*任侠映画が青春だった/山平重樹著 徳間書店(2004年) |
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<ref name="東洋経済2101">{{Cite web|和書|author=早見俊|authorlink=早見俊|title=「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼|url=https://toyokeizai.net/articles/-/396351|website=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|date=2021-01-23|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2022-07-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123043145/https://toyokeizai.net/articles/-/396351|archivedate=2021-01-23}}[https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2 page=2]、[https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=3 page=3]</ref> |
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*日本ヒーローは世界を制す/[[大下英治]]著 [[角川書店]](1995年) |
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<ref name="映画村" >[https://web.archive.org/web/20110921102841/http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/kanko_sukikirai/110917.html 東映社長 岡田裕介さん - 京都新聞](archive)</ref> |
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*日本映画縦断Ⅰ 傾向映画の時代、同Ⅱ 異端の映像/[[竹中労]]著 白川書院(1975年) |
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<ref name="kamotsuru" >[https://www.kamotsuru.jp/history/ これまでの150年 KAMOTSURU HISTORY] - [https://www.kamotsuru.jp/ 賀茂鶴]</ref> |
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*文化通信ジャーナル2009年3月号 |
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*日本映画は生きている 第4巻/[[黒沢清]]・[[四方田犬彦]]・[[吉見俊哉]]・[[李鳳宇]]編集 [[岩波書店]](2010年) |
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<!---映画関係ネット記事---> |
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<ref name="文化庁">[https://web.archive.org/web/20130120095139/http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/03eiga_shinkou/eigashinkou_kondankai_giji_07.html 映画振興に関する懇談会(第7回)議事要旨](Archive)</ref> |
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<ref name="tokyo14">[http://www.eiga-portal.com/eigasai/tokyo14/classic/01.shtml DVD映画ポータル 第14回東京国際映画祭 ニッポン・シネマ・クラシック]</ref> |
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<ref name="多元文化4_楊">{{Cite journal|和書|author=楊紅雲 |title=任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に |journal=多元文化 |ISSN=13463462 |publisher=名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |year=2004 |month=mar |issue=4 |page=201 |naid=120000974864 |doi=10.18999/muls.4.191 |url=https://hdl.handle.net/2237/8264 |accessdate=2021-12-01}}</ref> |
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<ref name="kinejun240303">{{Cite web|author=増當竜也|title=東映チャンネル:岡田茂生誕100年『東映映画 百花繚乱』|url=https://www.kinejun.com/article/view/35897|date=2024-03-03|website=[[キネマ旬報|キネ旬WEB]]|publisher=[[キネマ旬報社]]|accessdate=2024年3月15日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240303163918/https://www.kinejun.com/article/view/35897|archivedate=2024年3月3日}}</ref> |
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<ref name="多田3">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/64647/|title=第3回〝不良性感度〟という二代目社長岡田茂のビジョン 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.1-2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022年7月17日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101615/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/64647/|archivedate=2022年1月27日}}</ref> |
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<ref name="多田6">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/new/74765/|title=第6回 1977年『宇宙戦艦ヤマト』大ヒットの舞台裏を語った東映会長・多田憲之 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022-03-04|accessdate=2022年7月17日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220305025818/https://conex-eco.co.jp/new/74765/|archivedate=2022年3月4日}}</ref> |
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<ref name="nerima-eizobunka230919">{{Cite web|和書|date=2023-09-19|title=東映東京撮影所の<いま> ~東映東京撮影所所長・木次谷良助氏が語る~|url=https://nerima-eizobunka.com/topics/972/|website=映像∞文化のまち ねりま|publisher=[[練馬区役所]]|accessdate=2024-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230929160025/https://nerima-eizobunka.com/topics/972/|archivedate=2023-09-29}}</ref> |
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<ref name="二木会525_高岩淡">[http://shuyu.gr.jp/tokyo_old/nimoku/dai525/dai525.html 「戦艦大和出撃!」]:第525回二木会</ref> |
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<ref name="hochi200711">{{Cite news |title=手塚治新社長インタビュー「東映全社員が企画者」コロナ禍で映画業界大打撃も「映画とは何か、映画館に行くことの意味を再考するタイミングです」|url=https://hochi.news/articles/20200710-OHT1T50313.html|date=2020-07-11|newspaper=[[スポーツ報知]]|publisher=[[報知新聞社]]|accessdate=2020-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200711083611/https://hochi.news/articles/20200710-OHT1T50313.html|archivedate=2020-07-11}}[https://web.archive.org/web/20211124210925/https://hochi.news/articles/20200710-OHT1T50313.html?mode=photo&photoid=2 東映の歴代社長](Archive)</ref> |
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<ref name="日テレDON20100406何の日">[https://web.archive.org/web/20110814091950/http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2010/04/46.html きょうは何の日 1978年4月6日「日本アカデミー賞授賞式が挙行された日」](Archive)</ref> |
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<ref name="日本アカデミー賞公式">[https://www.japan-academy-prize.jp/history/index.php 日本アカデミー賞の歴史 日本アカデミー賞公式サイト]</ref> |
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<ref name="合同通信369">[https://godotsushin.net/column/369/ コラム|東映京撮・盟友対談(2) ]</ref> |
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<ref name="business.nikkei220331">{{Cite web|和書|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=6|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|page=3|accessdate=2022-07-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402022350/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=6|archivedate=2022-04-02}}</ref> |
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<ref name="日経佐久間14" >[https://www.nikkei.com/article/DGKDZO38795740U2A210C1BC8000/ 佐久間良子(14) 休養申し入れ] -日本経済新聞2012年2月15日40面『私の履歴書 佐久間良子⑭』</ref> |
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<ref name="日経佐久間15" >[https://www.nikkei.com/article/DGKDZO38826260V10C12A2BC8000/ 佐久間良子(15) 新天地 舞台・テレビに活躍の場 稽古漬け、「春の雪」は連日満員] -日本経済新聞2012年2月16日36面『私の履歴書 佐久間良子⑮』</ref> |
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<ref name="deagostini">[https://web.archive.org/web/20141231220632/http://deagostini.jp/site/tnd/pretop/director.html 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI](Archive)</ref> |
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<ref name="あかんやつら">[https://web.archive.org/web/20160825085044/http://hon.bunshun.jp/articles/-/4958?page=2 『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文庫化記念 水道橋博士×春日太一トークイベント](Archive)、[https://web.archive.org/web/20160904033150/http://hon.bunshun.jp/articles/-/5132?page=2 東映の歴史とは、すなわち、成功と蹉跌とが糾う、生き残りの歴史である。――水道橋博士(第4回)](Archive)、[https://web.archive.org/web/20161128195653/http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/bunko/20160705-OYT8T50090.html 『あかんやつら』 春日太一著 評・石井千湖 : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)]</ref> |
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<ref name="postseven20131229" >[https://www.news-postseven.com/archives/20131229_231432.html?DETAIL 山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂]</ref> |
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<ref name="bookbang">{{Cite news |date= |author=山川光彦 |url=https://www.bookbang.jp/article/770978/2 |title=松本人志も憧れた「島田紳助」が引退に追い込まれた理由とは? タブーになった暴力団と芸能人の繋がり |newspaper=Book Bang |publisher=[[新潮社]] |accessdate=2024年3月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240223231050/https://www.bookbang.jp/article/770978/2 |archivedate=2024年2月23日 }}</ref> |
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<ref name="メンズサイゾー20090822_ピンキー">東映ピンキー&バイオレンス映画再ブーム! 鈴木則文監督独占インタビュー:[https://www.menscyzo.com/2009/08/post_176.html 前編]・[https://www.menscyzo.com/2009/08/pv.html 後編]<!-- 日付は配信先Livedoor http://news.livedoor.com/article/detail/4309868/ より取得 --></ref> |
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<ref name="プレミアムサイゾー20140306">[http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2014/03/post_4948/ 【春日太一】伝説のアウトロー映画集団東映の血風録 【premium限定連載】ドキュメンタリー監督・松江哲明のタブーを越えたドキュメント 第2回「しのぎに来たヤクザさえも撃退」伝説のアウトロー映画集団東映の血風録]</ref> |
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<ref name="京都府生活協同組合連合会">[https://kyotofu-seikyoren.com/publicity/coop_kyoto/100/talk_talk.html 「映画のまち京都」のこれまでとこれから - 京都府生活協同組合連合会]</ref> |
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<ref name="ZAKZAK20141204">[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20141204/bbl1412041140007-n1.htm 菅原文太さん死去で思い出す東映フライヤーズ身売り話 岡田社長の懐深さが染みた夜]</ref> |
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<ref name="おそめ_269-271">[[石井妙子 (ノンフィクション作家)|石井妙子]]『おそめ:伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』洋泉社、2006年、p269-271。ISBN 4-89691-984-X</ref> |
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<ref name="ニッカン20110510_内田裕也">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp1-20110510-773485.html 内田裕也「かわいがってくれた」]</ref> |
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<ref name="sportiva220331">{{Cite web|和書|title=張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」|date=2022-03-31|author=木村元彦|authorlink=木村元彦|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/03/31/post_86/index_7.php|accessdate=2024-03-02|website=[[Sportiva|Web Sportiva]]|publisher=[[集英社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220331034219/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/03/31/post_86/index_7.php|archivedate=2022-03-31}}</ref> |
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<ref name="シネマトゥデイ20110605_くノ一忍法帖">[https://www.cinematoday.jp/news/N0032531 森下悠里がM字開脚を解禁!!『くノ一忍法帖』でのくノ一衣装からは横チチとふんどしがチラリ!!]</ref> |
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<ref name="すべてを疑えnodate_呉越同「星」">[https://web.archive.org/web/20031017165353/http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/tv/jsb.html 呉越同「星」JSB(日本衛星放送=現WOWOW)のソフト戦略と経営展望]:すべてを疑え!! MAMO's Site(Archive)</ref> |
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<ref name="渋沢社史">[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_siryo.php?sid=15560 東京商工会議所『東京商工会議所百年史』(1979.07) - 渋沢社史データベース資料編]</ref> |
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<ref name="sportiva220331">{{Cite web|和書|title=張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」|date=2022-03-31|author=木村元彦|authorlink=木村元彦|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/03/31/post_86/index_7.php|accessdate=2024-03-02|website=[[Sportiva|Web Sportiva]]|publisher=[[集英社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220331034219/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/03/31/post_86/index_7.php|archivedate=2022-03-31}}</ref> |
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<ref name="石橋">[https://masaishi.exblog.jp/8811578/ 負けるわけにゃいきまっせんばい! 71 : 石橋雅史の万歩計]</ref> |
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<ref name="朝日新聞19751029夕_7">『[[朝日新聞]]』1975年10月29日夕刊、p7</ref> |
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<ref name="日経産業841020">{{Cite news |author=牛越弘・四方田武紀 |title=広島県(5)郷里離れ郷里に熱い視線(産業人国記) |newspaper=[[日経産業新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1984-10-20 |page=12 }}</ref> |
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<ref name="「ことば抄」朝日新聞、1993年12月9日夕刊p2">「ことば抄」朝日新聞、1993年12月9日夕刊p2</ref> |
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<ref name="朝日19980720">{{Cite news |author = 山瀬一彦・竹内修平・鈴木直哉・竹内雄平・浜田陽太郎・原淳三郎 |title = データが包む『@デジタル 何が情報社会なのか』 |date = 1998年7月20日 |newspaper = [[朝日新聞]] |publisher = [[朝日新聞社]] |page = 13 }}</ref> |
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<ref name="朝日20070301">{{Cite news |title = (ニッポン人国記)拝啓、渋沢栄一様:夜逃げが原点の財界人生|date = 2007年3月1日 |newspaper = [[朝日新聞]] |publisher = [[朝日新聞社]] |page = 1 }}</ref> |
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<ref name="朝日新聞20100412web_ヤマトは文芸もの">[https://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201004120034.html asahi.com(朝日新聞社):ヤマトは「文芸もの」だった?]</ref> |
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<ref name="朝日新聞20110509web_広島">[https://web.archive.org/web/20110518092915/http://www.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201105090131.html?ref=reca 「活動屋一代」岡田茂さん死去、県内からも悼む声](Archive)</ref> |
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<ref name="朝日新聞20110517_26">『[[朝日新聞]]』2011年5月17日26面</ref> |
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<ref name="日経_五島昇">{{Cite news |title =日本商工会議所名誉会頭五島昇氏(15) 石坂泰三氏―東映切り離しへ (私の履歴書)|date = 1989年3月15日 |newspaper = 日本経済新聞 |publisher = [[日本経済新聞社]] |pages = 32 }}{{Cite news |title =前日本商工会議所名誉会頭五島昇氏(21) 永野会頭―財界外交(私の履歴書)|date = 1989年3月21日 |newspaper = 日本経済新聞 |publisher = [[日本経済新聞社]] |pages = 32 }}{{Cite news |title =前日本商工会議所名誉会頭五島昇氏(23) 日韓交流―政変後のパイプ (私の履歴書)|date = 1989年3月24日 |newspaper =日本経済新聞|publisher =日本経済新聞社|pages = 32 }}</ref> |
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<ref name="日経19940518">{{Cite news |title =東映会長岡田茂氏―被爆地の重みふまえて (中四国へのメッセージ)|date = 1994年5月18日 |newspaper = 日本経済新聞 |publisher = [[日本経済新聞社]] |pages = 中国・四国特集33頁 }}</ref> |
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<ref name="日本経済新聞20110510_13">「大谷信義松竹会長談」『日本経済新聞』2011年5月10日13面。</ref> |
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<ref name="読売730117">{{Cite news |title = プロ球団は変身する企業PR、濃厚に新型オーナー次々登場|date = 1973年1月17日 |newspaper = [[読売新聞]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 19 }}</ref> |
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<ref name="読売19780608">{{Cite news |author = 西沢正史 |title = 〈人間登場〉 日本映画製作者連盟の会長になった岡田茂氏さん|date =1978年6月8日 |newspaper = 読売新聞 |publisher = 読売新聞社 |pages = 5}}</ref> |
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<ref name="原正人">「時代の証言者 映画を届ける 原正人(21)」読売新聞2013年11月30日</ref> |
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<ref name="産経19950318">{{cite news |author = |title =【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター |newspaper = [[産業経済新聞]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |date=1995-3-18 |page= 朝刊特集}}</ref> |
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<ref name="産経MSN20110514_産経抄">{{Cite news|url=https://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm|title=【産経抄】5月14日|publisher=[[産経新聞]]|date=2011年5月14日1面、[[産経新聞#コラム『産経抄』|産経抄]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110518131744/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm|archivedate=2011年5月18日}}</ref> |
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<ref name="産経MSN20110516_最後の活動屋">[https://web.archive.org/web/20110810175856/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110516/ent11051607340002-n1.htm 追悼 岡田茂・東映名誉会長 豪放磊落、最後の「活動屋」]</ref> |
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<ref name="市川雷蔵とその時代_364">室岡まさる『市川雷蔵とその時代』[[徳間書店]]、1993年、p364。ISBN 4-19-555237-0</ref> |
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<ref name="産経19980511">{{Cite news |author = 細野憲昭 |title = 【話の肖像画】 東映会長 岡田茂さん(4) 変わった時代劇を作りたい |date = 1998年5月11日 |newspaper = [[産経新聞]]夕刊 |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 1 }}</ref> |
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<ref name="産経19980509">{{Cite news |author = |title = 時代劇コンテンツ推進協東宝、松竹も参加CSに番組供給へ |date = 1998年5月9日 |newspaper = [[産経新聞]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 第4社会 }}</ref> |
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<ref name="毎日19980130">{{Cite news |author = 細野憲昭 |title = 〔追跡〕TV・芸能 時代劇に春の足音 - - 多チャンネル化、高齢化社会を追い風に |date = 1998年1月30日 |newspaper = [[毎日新聞]] |publisher = [[毎日新聞社]] |page = 29 }}</ref> |
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<ref name="中日19980508">{{Cite news |author = |title = 東宝と松竹も加わる CS『時代劇チャンネル』 |date = 1998年5月8日 |newspaper = [[東京新聞]] |publisher = [[中日新聞社]] |page = TV解説面12頁2 }}</ref> |
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<ref name="毎日19980514">{{Cite news |author = |title = 〔情報ファイル〕 時代劇映像産業が結集 |date = 1998年5月14日 |newspaper = [[毎日新聞]] |publisher = [[毎日新聞社]] |page = 25 }}</ref> |
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<ref name="中国新聞別冊20090129_1-7">[[中国新聞]]別冊2009年1月29日、p1-7</ref> |
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<ref name="中国放送20000429_ふるさと">[https://web.archive.org/web/20020212154304/http://www.1350.jp/furusato/furu001.htm ふるさとを想う](Archive)</ref> |
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<ref name="新潟日報11110708" >[[新潟日報]]夕刊<連載 ひと賛歌 幸田清 活動屋半世紀①②>2011年11月7、8日</ref> |
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<!---スポーツ新聞---> |
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<ref name="スポニチ201094">スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍(4)』(2010年9月4日)</ref> |
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<ref name="スポニチ20110510_17">『[[スポーツニッポン]]』2011年5月10日17面</ref> |
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<ref name="スポニチ20110611_26">[[舘ひろし]]「我が道11」『[[スポーツニッポン]]』2011年6月11日26面</ref> |
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<ref name="sponichi141202">{{Cite news|title=張本勲氏 東映つながりで親交 「広島弁指導させてもらった」|date=2014-12-02|author=|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/12/02/kiji/K20141202009388190.html|accessdate=2023年4月16日|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=スポーツニッポン新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141202061825/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/12/02/kiji/K20141202009388190.html|archivedate=2014年12月2日}}</ref> |
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<ref name="スポーツ報知20110510_19">『[[スポーツ報知]]』2011年5月10日19面</ref> |
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<ref name="スポーツ報知20110510web_訃報">[https://web.archive.org/web/20110528151213/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00019.htm 引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々](Archive)</ref> |
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<ref name="ニッカン20110510_22-24">[https://megalodon.jp/2015-0412-2242-30/www.nikkansports.com/iphone/entertainment/news/p-et-tp1-20110510-773486_iphone.html 「東映を一流にした男」品田雄吉さん語る](Archive)『[[日刊スポーツ]]』2011年5月10日22-24面</ref> |
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<ref name="ニッカンdeadlink_映画大賞">[https://archive.is/20081010194659/http://www.nikkansports.com/news2/entert2/02movie/021229movie00.html 日刊スポーツ映画大賞 / 表彰式(archive)]</ref> |
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<ref name="サンスポ20110510_18">『[[サンケイスポーツ]]』2011年5月10日18面</ref> |
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<ref name="サンスポ20110510_訃報">{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/geino/news/110510/gnj1105100506010-n1.htm|title=“ヤクザ映画の父”岡田茂氏が死去|newspaper=サンケイスポーツ|date=2011-05-10|accessdate=2011-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110521092007/http://www.sanspo.com/geino/news/110510/gnj1105100506010-n1.htm|archivedate=2011年5月21日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> |
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<ref name="デイリー130818" >{{Cite book|和書|author=日下部五朗|date=2013年8月18日|title=[[デイリースポーツ]]連載「日下部五朗 私の名画座招待席」|publisher=[[デイリースポーツ]]|ref=傑作選}}</ref> |
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<ref name="東スポ20100406他">「東映伝説のプロデューサー日下部五朗の『無頼派活動屋人生』」『[[東京スポーツ]]』2010年4月6日 - 4月30日</ref> |
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<ref name="東スポ20110525梶芽衣子">[[梶芽衣子]]「あいつの好きそなブルース」『[[東京スポーツ]]』2011年5月25日</ref> |
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<ref name="東スポ201106梶芽衣子">[[梶芽衣子]]「あいつの好きそなブルース」11 - 16『[[東京スポーツ]]』2011年6月</ref> |
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<ref name="荒川堯">{{cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|date=1975-05-16|publisher=[[朝日新聞社]]|page=37|title=プロ野球悲劇のスター映画界へ? 荒川尭(元ヤクルト)のこれから}}{{Cite news |title = 芸能人・荒川堯やはり絶望 視力0.7 非情なドクターストップ 東映交渉を打切る フジも断念か 診察ショックに青ざめ |date = 1975年5月21日 |newspaper = [[サンケイスポーツ]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 15 }}</ref> |
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<!---映画関係の雑誌---> |
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<ref name="キネ旬1965071_42">井沢淳・[[瓜生忠夫]]・[[大黒東洋士]]・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『[[キネマ旬報]]』1965年7月上旬号、p42</ref> |
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<ref name="kinejun196572" >{{Cite journal|和書 |author =井沢淳・[[瓜生忠夫]]・[[大黒東洋士]]・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿| title = 日本映画企画製作批判―これからの企画製作はいかにすすめるべきか| journal = キネマ旬報 |issue = 1965年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 12、16頁}}</ref> |
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<ref name="キネ旬19681001">{{Cite journal |和書 |author = 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・キネマ旬報編集部 |title = TOPIC JOURNAL 東映大改革・今田智憲は傍系へ 大川ジュニアの復帰は近い? |journal = キネマ旬報 |issue = 1968年10月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 28-29頁 }}</ref> |
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<ref name="キネ旬19681201">{{Cite journal |和書 |author = キネマ旬報編 |title = 日本映画の現勢Ⅴ 『特集 日本映画の首脳たち 五社首脳とその人脈 異才の経営者 大川博』 文・今村金衛 |journal = キネマ旬報 |issue = 1968年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 119-121頁 }}</ref> |
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<ref name="キネ旬19870602">{{Cite journal|和書 |author = 竹入栄二郎 |title = やぶにらみ ●第2回文芸坐シンポジウム 大島渚篇(1) |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1987年6月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 175 }}</ref> |
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<ref name="秘宝201107_52">「東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『[[#秘宝|映画秘宝]]』2011年7月号、p52</ref> |
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<ref name="シナリオ6605" >{{Cite journal | 和書 |author = [[池上金男]]・下飯坂菊馬・[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]・[[野上竜雄]]・[[佐治乾]]・[[宮川一郎]]・[[国弘威雄]] | journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] | volume = 1966年5月号| title = ≪座談会≫ 若い世代の発言そのⅠ・東映 『東映への直言する』 | publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | page = 30 }}</ref> |
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<ref name="文化通信ジャーナル200903_77">『[[#文化通信J|文化通信ジャーナル]]』2009年3月号、p77</ref> |
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<ref name="文化通信ジャーナル201106_34">{{Cite journal |和書 |author= |title =岡田茂 年譜 |journal=月刊文化通信ジャーナル |volume=2011年6月号 |publisher=文化通信社 |pages=34–37頁 }}</ref> |
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<ref name="AVジャーナル199512_27">「戦後50年 東映 岡田茂会長インタビュー おもしろおかしく生きて勲二瑞宝」『AVジャーナル』1995年12月号、p27</ref> |
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<ref name="AVジャーナル199711_17">『AVジャーナル』1997年11月号、p17</ref> |
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<ref name="映画時報19643_24">「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、p24-26</ref> |
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<ref name="映画時報19645_17">「座談会 日本映画界はどう進むべきか? ―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、p20-21</ref> |
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<ref name="映画時報19874_17">『映画時報』1987年4月号、p17</ref> |
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<ref name="週刊映画1968">{{Cite news |title = 一九六八新年放談会東映、綜合レジャー会社に発展ジュニア体制確立の動き |date = 1968年1月1日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 7 }}{{Cite news |title = 綜合娯楽会社を目指す積極作東映大川社長経営方針を語る |date = 1968年1月13日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 4 }}</ref> |
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<ref name="週刊映画19741207_2">『週刊映画ニュース』1974年12月7日号、p2</ref> |
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<ref name="映画年鑑 1969年版_107–116">『映画年鑑 1969年版』、pp107–116</ref> |
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<ref name="ロードショー197712_189">邦画マンスリー 洋画に大攻勢をかけた秋の大作戦線と、転換期を迎えた邦画界『[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]』1977年12月号、p189</ref> |
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<ref name="映画芸術448" >{{Cite journal |和書 |author = [[山下賢章]]・岡田裕・満友敬司・[[荒井晴彦]]・[[佐伯俊道]]・[[松原信吾]] |title = 撮影所は戦場だった | journal = [[映画芸術]] |issue = 2014年夏号 No.448 | publisher = 編集プロダクション映芸 | page= 63–63 }}</ref> |
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<ref name="映画論叢18" >{{Cite journal |和書 |author = 布村建 |title = 極私的東映および教育映画部回想 |journal = 映画論叢vol.18 |issue = 2014年7月号 |publisher = [[国書刊行会]] |page = 30 }}</ref> |
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<ref name="映画評論196801">{{Cite journal |和書 |author = 竹中労 |authorlink = 竹中労 |journal = [[映画評論 (雑誌)|映画評論]] |issue = 1968年1月号 |title = 〔特集〕邦画五社の御健斗全調査 『東映二代目襲名{{Color|black|㊙}}物語』 |publisher = 新映画 |pages = 57-62頁 }}</ref> |
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<ref name="映画撮影202" >{{Cite journal|和書|author=香西靖仁|date=1993年8月号|title=映画界で確保していた陣地の売り渡しが困難の根本的な要因といえよう 日活の会社更生法適用申請の事実に迫る(1)|journal=映画撮影 No.202|publisher=日本映画撮影監督協会|page=28}}</ref> |
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<ref name="映画撮影223" >{{Cite journal|和書|author=|date=1995年4月号|title=撮影所には多様な作品をつくる職人の力も若いパワーも存在している 全東映労連映研集会 『どうしたら東映映画は再生できるか』|journal=映画撮影 No.223|publisher=[[日本映画撮影監督協会]]|page=37、40-41頁}}</ref> |
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<ref name="映画撮影243" >{{Cite journal|和書|author=杉崎光俊・高橋邦夫・緒形承武・木崎敬一郎|date=1997年1月号|title=空前の危機に見舞われて日本映画大手はやっと思い腰を上げるか 1997年を迎えた日本映画の現状を語る 全東映労連映研集会|journal=映画撮影 No.243|publisher=[[日本映画撮影監督協会]]|page=28}}</ref> |
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<ref name="シネ・フロント70_89" >{{Cite journal|和書|author=植田泰治|date=1981年3月号|title=一九八〇年の日本映画を考える(上) 企画が行き詰まったとき、いつでも帰っていける安全な世界だった『二百三高地』|journal=シネ・フロント No.70|publisher=シネ・フロント社|page=20}}{{Cite journal|和書|author=堀江毅|year=1984|issue=1984年3月号|title=1983年の日本映画を考える=2 一億円かけて1人の作家を育てる力はないと会社はいうけれど…|journal=シネ・フロント No.89|publisher=シネ・フロント社|pages=29-30}}</ref> |
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<ref name="オール読物2006_214" >『[[#オール読物2006|東映ヤクザ映画の時代 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の舞台裏は]]』p214-215</ref> |
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<ref name="熱風201112">関根忠郎「連載 物語 私の映画惹句術 第十五章ー映画製作現場の人々」、『熱風』第9巻第12号、[[スタジオジブリ]]、2011年12月、pp70-71</ref> |
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<ref name="ちくま1" >ちくま<連載 鈴木則文 東映ゲリラ戦記①>筑摩書房、2011年10月号、p16-20</ref> |
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<ref name="ちくま3" >ちくま<連載 鈴木則文 東映ゲリラ戦記③>筑摩書房、2011年12月号、p28-31</ref> |
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<ref name="ちくま13" >ちくま<連載 鈴木則文 東映ゲリラ戦記⑬>筑摩書房、2012年10月号、p46-50</ref><ref name="ちくま14" >ちくま<連載 鈴木則文 東映ゲリラ戦記⑭>筑摩書房、2012年10月号、p54-58</ref> |
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<ref name="プレミア200104_83">『[[プレミア (雑誌)|プレミア]]』[[ハースト婦人画報社|アシェット婦人画報社]]、2001年4月号、p83</ref> |
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<!---その他大衆雑誌---> |
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<ref name="w–sankei71115" >{{Cite journal | 和書 |author = [[三鬼陽之助]] | journal = [[SPA!|週刊サンケイ]] | volume = 1971年11月5日号 | title = 三鬼陽之助のトップ会談〈第95回〉 "任侠路線で観客頂戴いたします" ゲスト・東映社長岡田茂氏 | publisher = [[産業経済新聞社]] | page = 137 }}</ref> |
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<!---<ref name="週刊サンケイ19740627_26">『[[週刊サンケイ]]』1974年6月27日号、p26</ref>---> |
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<ref name="週刊サンケイ19730209">{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1973年2月9日号 | title = 八億円で球団を買った『日拓』社長の"列島改造的"前歴『社名もあがるし安い買物』とうそぶく男の告発もされた"開発"猛進| journal = [[SPA!|週刊サンケイ]] | publisher = [[産業経済新聞社]] | pages= 30 }}</ref><ref name="週刊サンケイ19740801_28">『[[週刊サンケイ]]』1974年8月1日号、p28</ref> |
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<ref name="週刊新潮19971127">{{Cite journal |和書 |author = |title = TEMPO サイト&サウンド 東映会長音頭でテレビ時代劇『再生工場』の成否 |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1997年11月27日号 |publisher = [[新潮社]] |pages = 36 }}</ref> |
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<ref name="週刊朝日19711126" >{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊朝日]] |issue = [[1971年]]([[昭和]]46年)[[10月15日]]号 127頁 |title = 映倫泣かせの男が映画の目付け役に |quote= 東映の新社長岡田茂といえば、ヘッドプロデューサーとして、今の東映作品体制をきずいた人。やくざ路線、刺激路線などを手がけて、映倫とは犬猿の仲であることは周知の事実... |publisher = [[朝日新聞社]] }}</ref> |
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<ref name="週刊現代19730205">{{Cite journal|和書 |author = | title =ルック旧東映は毎年オーナーが変わる? | journal = [[週刊現代]] |issue = 1973年2月25日号 |publisher = [[講談社]] | pages = 34 }}</ref> |
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<ref name="週刊現代19810924">{{Cite journal|和書 |author = | title =ワイドコラム・ルック・るっく人と事件『瀬島龍三氏が東商副会頭』は日韓新シフトが狙い?| journal = [[週刊現代]] |issue = 1981年9月24日号 |publisher = [[講談社]] | pages = 46 }}</ref> |
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<ref name="週刊文春19730910_24">呼吸はピッタリ 二人の岡田茂氏『[[週刊文春]]』1973年9月10日号、p24</ref> |
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<ref name="週刊新潮19680601">{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1968年6月1日号 |title = 〔タウン〕 東映"激震"の思わぬ波紋 |publisher = [[新潮社]] | pages = 15頁 }}</ref> |
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<ref name="週刊宝石19850531">{{Cite journal|和書 |author = | title = ZIGZAG 大接近 『財界のドンをも目指す、東映・岡田茂社長の計略!?』 | journal = [[週刊宝石]] |issue = 1985年5月31日号 |publisher = [[光文社]] | pages = 51 }}</ref> |
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<ref name="週刊宝石19850621">{{Cite journal|和書 |author = | title =財界の角栄 今里広記氏書かれざる墓碑銘| journal = [[週刊宝石]] |issue = 1985年6月21日号 |publisher = [[光文社]] | pages = 194-195 }}</ref> |
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<ref name="アサ芸1968">{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[アサヒ芸能]] |issue = 1968年4月21日号 88頁 |title = CORNER コーナー ムホンの噂とぶ東映城 |publisher = [[徳間書店]] }}{{Cite journal |和書 |author = |journal = アサヒ芸能 |issue = 1968年6月2日号 |title = CORNER コーナー 泣いて息子を切った大川社長 |publisher = 徳間書店 |pages = 114頁 }}</ref> |
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<ref name="アサ芸20130131">『[[アサヒ芸能]]』2013年1月31日号</ref> |
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<ref name="週刊明星19680505">{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊明星]] |issue = 1968年5月5日号 |title = ポスト日本映画 佐久間良子が初の他社出演セックスに体当たりで『わが闘争』|publisher = [[集英社]] |pages = 118頁 }}</ref> |
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<ref name="新潮45p200409_204">『[[新潮45]]』2004年9月号、p204</ref><!-- "新潮45"では新潮の45号に解釈できるので旧誌名より"新潮45p"とする --> |
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<ref name="BIGtomorrow200910_52">『[[BIG tomorrow]]』[[青春出版社]]、2009年10月号、p52</ref> |
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<ref name="interview">{{Cite journal |和書 |author = 高鳥都|title = 悪役一代 唐沢民賢インタビュー 『役者一筋"芸歴"67年 87歳 未だ現役』 |journal =別冊裏歴史 昭和の不思議101 2021年夏の男祭号 ミリオンムック83 |issue = 2021年7月15日号 |publisher = [[大洋図書]] |pages = 102、106頁 }}</ref> |
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<ref name="プロ野球タブー_112">『プロ野球タブーの真相:スポーツ紙が書かない“球界裏事件簿”』〈[[別冊宝島]]1245〉[[宝島社]]、2006年1月、p112。ISBN 4-7966-5002-4</ref> |
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<!---経済誌---> |
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<ref name="五島岡田" >{{Cite journal |和書 |author = |title =五島東急軍団、岡田東映が16年ぶりに"復縁"|journal = 経済界 | volume = 1983年3月21日号 |publisher = 経済界 |pages = 18-21}}{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊新潮]] | volume = 1984年6月28日号 | title = 明暗クッキリの松竹と東映の息子 | publisher = [[新潮社]] | page = 17 }}{{Cite journal|和書|author=岡本明久・星野行彦・富田泰和|date=1987年4月号|title=日本映画の現状をどう打開するか(5) 東映の労働運動は岡田社長ワンマン体制を打破し企画と経営の民主化をかちとることが目標です 全東映労連映研集会|journal=シネ・フロント No.70|publisher=シネ・フロント社|page=28}}</ref> |
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<ref name="財界001107" >{{Cite journal|和書 |author = | title = 東映会長・岡田茂の『悔いなきわが映画人生』連載第三回|chapter= 永野重雄。日商会頭との不思議な縁 | journal = [[財界 (雑誌)|財界]] |issue = 2000年11月7日号 |publisher = 財界研究所 | pages = 88}}</ref> |
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<ref name="財界20110607_60-62">『[[財界 (雑誌)|財界]]』2011年6月7日号、p60-62</ref> |
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<ref name="経済界19800321">{{Cite journal|和書 |author = 河合基吉 | title = 五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終 | journal = [[経済界 (出版社)|経済界]] |issue = 1980年3月21日号 |publisher = 経済界 | pages = 18 - 21 }}</ref> |
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<ref name= "経済界19830524">{{Cite journal|和書 |author = 佐藤正忠 | title = 核心レポート 財界の若き首領(ドン) 岡田茂東映社長の魅力 | journal = 経済界 |issue = 1983年3月25日号 |publisher = 経済界 | pages = 26 - 29 }}</ref> |
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<ref name="経済界850212" >{{Cite journal |和書 |author = |title =佐藤正忠の極意対談 ゲスト東映社長・岡田茂|journal =経済界 | volume = 1985年2月12日号 |publisher =[[経済界 (出版社)|経済界]] |page = 81 }}</ref> |
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<ref name="実業界197110">{{Cite journal |和書 |author = |journal = 実業界 |issue = 1970年10月号 |title = 東映新社長に岡田茂氏が就任 大川体制からいかに脱皮するか |publisher = 実業界 |pages = 58-59頁 }}</ref> |
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<ref name="実業界19771115_19">トピックス 三越映画進出の賑やかな周辺 ー社長同士が仲のいい東映とドッキングかー『実業界』1977年11月15日号、p19</ref> |
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<ref name="実業界19840801">{{Cite journal|和書 |author = | title = 五島昇日商会頭に奉られた毀誉褒貶 | journal = 実業界 |issue = 1984年8月1日号 |publisher = 実業界 | pages = 16 }}</ref> |
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<ref name="実業往来199309" >{{Cite journal |和書 |author = 中野忠良|title =遂に破綻した東映・岡田茂22年間の"狂気の経営"|journal =実業往来| volume = 1993年9月号 |publisher =実業往来社 | pages = 30 - 34 }}</ref> |
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<ref name="経営評論197309_19">経営ジャーナル 三越がミニ映画館チェーン座席50で本支店の豪華ムード『経営評論』1973年9月号、p19</ref> |
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<!---書籍---> |
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<ref name="日本映画発達史Ⅳ_133">『[[#日本映画発達史Ⅳ|日本映画発達史Ⅳ]]』p133</ref> |
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<ref name="日本映画発達史Ⅳ_265">『[[#日本映画発達史Ⅳ|日本映画発達史Ⅳ]]』p265</ref> |
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<ref name="映画人_122">『[[#日本の映画人|日本の映画人]]』p122</ref> |
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<ref name="日本映画の現在_19_33-36他">緑川亨『日本映画の現在』〈講座日本映画7〉、[[岩波書店]]、1988年、p19、33-36、208、304-306、347。ISBN 4-00-010257-5</ref> |
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<ref name="日本映画の現在_20">緑川亨『日本映画の現在』〈講座日本映画7〉、[[岩波書店]]、1988年、p20。ISBN 4-00-010257-5</ref> |
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<ref name="生きている4_269">『[[#生きている|日本映画は生きている]]』4、p269</ref> |
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<!---<ref name="日本映画史3" >{{Cite book | 和書 | title = 増補版 日本映画史3 | author= 佐藤忠男|authorlink=佐藤忠男 | year = 2006 | publisher = [[岩波書店]] | isbn = 4-00-026579-2 |pages = 50-51 }}</ref>---> |
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<ref name="テレビ成長期の日本映画_134-153">『[[#テレビ成長期の日本映画|テレビ成長期の日本映画]]』p134-153</ref> |
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<ref name="映画を知るための教科書_182–184">『[[教科書]]』p182–184</ref> |
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<ref name="ロマンポルノ_170-171">[[樋口尚文]]、『ロマンポルノと実録やくざ映画:禁じられた70年代日本映画』〈[[平凡社新書]]476〉2009年、p170-171。ISBN 978-4-582-85476-3</ref> |
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<ref name="映画100物語_167">『映画100物語:日本映画篇 -小津安二郎から宮崎駿ヘ、映画に託した私たちの夢:1921〜1995』[[読売新聞社]]、1995年、p167。ISBN 4-643-95069-2</ref> |
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<ref name="シネアルバム108_86-89">[[山根貞男]](責任編集)『日本映画1984:1983年公開日本映画全集』〈シネアルバム108〉芳賀書店、1984年、p86-89。ISBN 4-8261-0108-2</ref> |
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<ref name="シネアルバム82_154-155">[[佐藤忠男]]・[[山根貞男]](責任編集)『日本映画1981:1980年公開日本映画全集』〈シネアルバム82〉芳賀書店、1981年、p154-155。ISBN 4-8261-0082-5</ref> |
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<ref name="シネアルバム88_0-5">[[佐藤忠男]]・[[山根貞男]](責任編集)『日本映画1982:1981年公開日本映画全集』〈シネアルバム88〉芳賀書店、1982年、p0-5。ISBN 4-8261-0088-4</ref> |
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<ref name="ポスター_39">『[[#ポスター|ポスターでつづる東映映画史]]』p39</ref> |
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<ref name="ポスター_71">『[[#ポスター|ポスターでつづる東映映画史]]』p71</ref> |
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<ref name="ポスター_193">『[[#ポスター|ポスターでつづる東映映画史]]』p193</ref> |
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<ref name="中原">{{Cite book |和書 |author=中原早苗 |authorlink=中原早苗 |year=2009 |title=女優魂 中原早苗 |publisher=ワイズ出版 |page=176 |isbn=978-4-89830-235-4 }}</ref> |
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<ref name="美空ひばり_318-321">[[大下英治]]『美空ひばり:時代を歌う』[[新潮社]]、1989年、p318-321。ISBN 4-10-365402-3</ref> |
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<ref name="品川隆二と近衛十四郎_74-77">[[品川隆二]]・[[円尾敏郎]]『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』[[ワイズ出版]]、2007年、p74-77。ISBN 978-4-89830-206-4</ref> |
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<ref name="無法地帯_230-244">高橋賢『無法地帯:東映実録やくざ映画』p230-244。ISBN 4-87233-754-9</ref> |
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<ref name="遊撃の美学_204">中島貞夫(著)河野真吾(編)『遊撃の美学:映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、p204。ISBN 4-89830-173-8</ref> |
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<ref name="読んだ飲んだ_206-211">鹿島茂・福田和也・松原隆一郎『読んだ、飲んだ、論じた 鼎談書評二十三夜』飛鳥新社、p206-211。ISBN 4-87031-685-4</ref> |
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<ref name="城戸四郎伝_347-353">[[小林久三]]『日本映画を創った男:城戸四郎伝』[[新人物往来社]]、1999年、p347-353。ISBN 4-404-02800-8</ref> |
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<ref name="中川_26-29" >『[[#中川|中川右介・角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年]]』p 26-29</ref> |
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<ref name="七つの顔を隠し続けた男_51-52">『[[#七つの顔を隠し続けた男|七つの顔を隠し続けた男]]』p51-52</ref> |
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<ref name="日本俠客伝_22">山田宏一『日本俠客伝:マキノ雅弘の世界』ワイズ出版、2007年、p22。ISBN 978-4-89830-220-0</ref> |
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<ref name="千恵蔵一代_139-140_196-198">[[田山力哉]]『千恵蔵一代』[[社会思想社]]、1987年、p139-140、196-198。ISBN 4-390-60295-0</ref> |
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<ref name="戦う女たち_266-267"><!-- 実物が確認できれば相当する論文を選んでコメントアウト解除。内容:四方田犬彦「女の戦いはなぜ悲しいのか」・鷲谷花「撮影所時代の『女性アクション映画』」・板倉史明「視線と眩暈」・斉藤綾子「緋牡丹お竜論」・志村三代子「アクション・ヒロインとしての安田道代」・真魚八重子「気高き裸身の娘たち」・四方田犬彦「志穂美悦子必殺・追跡・13階段」・内藤誠「東京ローカルとしての『女性アクション』」・鷲谷花「ポスト撮影所時代の『女性アクション映画』」・石田美紀「『美』に抗うアニメーション」 -->[[四方田犬彦]]・鷲谷花(編)『戦う女たち:日本映画の女性アクション』[[作品社]]、2009年、p266-267。ISBN 978-4-86182-256-8</ref> |
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<ref name="戦後史_269-270">[[武井昭夫]]『戦後史のなかの映画』スペース伽耶<!--[[星雲社]]は発売-->、2003年、p269-270。ISBN 4-434-03555-X</ref> |
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<ref name="争議あり_353-355">[[荒井晴彦]]『争議あり:脚本家・荒井晴彦全映画論集』[[青土社]]、2005年、p353-355。ISBN 4-7917-6211-8</ref><ref name="キャラクタービジネス_25" >『[[#キャラクタービジネス|渡邊亮徳・日本のキャラクタービジネスを築き上げた男]]』p25-26</ref> |
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<ref name="神を放った_139">田中文雄『神(ゴジラ)を放った男:映画製作者・田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年、p139。ISBN 4873760704</ref> |
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<!---<ref name="人間コク宝2_55">[[吉田豪]]『人間コク宝:ドトウの濃縮人生インタビュー集』続、[[コアマガジン]]、2007年、p55。ISBN 978-4-86252-238-2</ref>---> |
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<ref name="編集ばか_79">[[坪内祐三]]・名田屋昭二・[[内藤誠]] フィギュール彩(40) 『編集ばか』[[彩流社]]、2015年、p79。ISBN 978-4-7791-7041-6</ref> |
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<ref name="深作欣二の軌跡_154">菅原文太ほか『映画監督深作欣二の軌跡』〈[[キネマ旬報]]臨時増刊1380〉キネマ旬報社、2003年、p154</ref> |
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<ref name="仁義なき集成_276-277">『[[#調査・取材録集成|「仁義なき戦い」調査・取材録集成]]』p276-277</ref> |
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<ref name="キャラクタービジネス_86" >『[[#キャラクタービジネス|渡邊亮徳・日本のキャラクタービジネスを築き上げた男]]』p86-91</ref> |
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<ref name="日本ヘラルド映画の仕事" >{{Cite book | 和書 | title = 日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン| author = 谷川建司| publisher = パイ インターナショナル | year = 2017 | id = ISBN 978-4-7562-4817-6 | pages = 258-259 }}</ref> |
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<ref name="千葉流_140-141">{{Cite book |和書 |author=JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |language = 日本語 |pages = 140-141 |isbn = 4821142694 |ref = }}</ref> |
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<ref name="千葉流_242-243">[[JJサニー千葉]]『千葉流サムライへの道』[[ぶんか社]]、2010年、p242-243。ISBN 978-4-8211-4269-9</ref> |
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<ref name="渡辺岳夫の肖像_XX">加藤義彦・鈴木啓之・濱田高志(編著)渡辺浩光(監修)『作曲家・渡辺岳夫の肖像』ブルース・インターアクションズ、2010年。ISBN 978-4-86020-391-7</ref> |
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<ref name="瀬島">{{Cite book|和書|author=|year=1995|title=幾山河 瀬島龍三回想録|publisher=産経新聞ニュースサービス|isbn=4594018092|pages = 351-353 }}{{Cite book|和書|author=保阪正康|authorlink=保阪正康|year=1987|title=瀬島龍三 参謀の昭和史|publisher=文藝春秋〈文春文庫〉|isbn=4-163421106|pages = 207-215 }}</ref> |
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<ref name="東映ヒーロー名人列伝_138-142">平山亨『東映ヒーロー名人列伝』〈平山亨叢書3〉[[風塵社]]、1999年、p138-142。ISBN 4-938733-63-3</ref> |
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<ref name="闘技場の人_14-15_27-28">佐山一郎『闘技場の人』河出書房新社、1992年12月、p14-15、27-28。ISBN 4-309-00797-X</ref> |
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<ref name="笠原和夫傑作選">{{Cite book|和書|author=笠原和夫|authorlink=笠原和夫 (脚本家)|year=2018|title=笠原和夫傑作選 第一巻 博奕打ち 総長賭博―初期~任侠映画篇|publisher=[[国書刊行会]]|chapter=解題 『映画三国志 映画に夢をかける男たち』 文・伊藤彰彦|isbn=978433606309-0|page=477}}</ref> |
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<ref name="映画館物語_48-55" >『[[#映画館物語|80年代映画館物語]]』p48-55</ref> |
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<ref name="黙示録103">{{Cite book |和書 |author=春日太一 |authorlink=春日太一 |year=2019 |title=黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=9784163911083 |pages=103–123 }}</ref> |
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<ref name="黙示録218">{{Cite book |和書 |author=春日太一 |year=2019 |title=黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄 |publisher=文藝春秋 |isbn=9784163911083 |pages=218–221 }}</ref> |
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<ref name="光と影_149">工藤栄一・ダーティ工藤『光と影:映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p149。ISBN 4-89830-133-9</ref> |
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<ref name="光と影_67">工藤栄一・ダーティ工藤『光と影:映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p67。ISBN 4-89830-133-9</ref> |
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<ref name="活動屋人生_6-7">『[[#活動屋人生|映画界のドン 岡田茂の活動屋人生]]』p6-7</ref> |
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<ref name="活動屋人生_12-42">『[[#活動屋人生|映画界のドン 岡田茂の活動屋人生]]』p12-42</ref> |
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<ref name="活動屋人生_34-35">『[[#活動屋人生|映画界のドン 岡田茂の活動屋人生]]』p34-35</ref> |
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<!---<ref name="活動屋人生_304-311">『[[#活動屋人生|映画界のドン 岡田茂の活動屋人生]]』p304-311</ref>---> |
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<ref name="活動屋人生_326-334">『[[#活動屋人生|映画界のドン 岡田茂の活動屋人生]]』p326-334</ref> |
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<!---<ref name="東映キネマ17_東映キネマ4-7">[http://toei-video.book10.jp/book.php?tId=ToODVVbpDX&p=8 東映キネマ旬報vol.17 -p4-7 | 東映]</ref>---> |
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<ref name="私の履歴書_9-11">『[[#私の履歴書|私の履歴書]]』経済人38、p9-11</ref> |
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<ref name="私の履歴書_46-48">『[[#私の履歴書|私の履歴書]]』経済人38、p46-48</ref> |
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<ref name="私の履歴書_75">『[[#私の履歴書|私の履歴書]]』経済人38、p75</ref> |
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=== 出典(リンク) === |
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== 参考文献 == |
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** {{Cite book | 和書 | title = 1:傾向映画の時代 | year = 1974 | id = | ref = 傾向映画 }}{{Cite book | 和書 | title = 2:異端の映像 | year = 1975 | id = | ref = 異端の映像 }} |
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* {{Cite journal | 和書 | journal = 月刊シナリオ | volume = 1975年6月号他 | publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | ref =シナリオ19756 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = ポスターでつづる東映映画史:東映ポスター集 | author = 東映ポスター集製作委員会(編) | publisher = [[青心社]] | year = 1980 | ref = ポスター }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 惹句術:映画のこころ | author1=関根忠郎|author2=山根貞男|authorlink2=山根貞男|author3=山田宏一|authorlink3=山田宏一 | publisher = [[講談社]] | year = 1986 | id = ISBN 4-06-202005-X | ref = 惹句術 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 映像のスリット:わが映画人生 | author = 中島貞夫 | publisher = [[芸艸堂]] | year = 1987 | id = ISBN 4-7538-0122-5 | ref = スリット }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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<!--{{Cite book | 和書 | title = 映画三国志:小説東映 | author=大下英治|authorlink=大下英治 | publisher = 徳間書店 | year = 1990 | id = ISBN 4-19-124210-5 | ref = 映画三国志 }}←小説を出典にするのはまずいでしょう。--> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 鎧を着ている男たち:やくざは男社会のパロディ | author= 笠原和夫|authorlink=笠原和夫 (脚本家) | publisher = [[徳間書店]] | year = 1987 | id = ISBN 4-19-553454-2 | ref = 鎧 }}(増補改題:{{Cite book | 和書 | title = 破滅の美学:ヤクザ映画への鎮魂曲 | series = 幻冬舎アウトロー文庫 | author = | publisher = 幻冬舎 | year = 1997 | id = ISBN 4-87728-506-7 }}) |
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* {{Cite book | 和書 | title = 私の東映30年 | author = 渡邊達人 | publisher = 渡邊達人 | year = 1991 | id = | ref = 私の30年 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = クロニクル東映:1947-1991 | volume = 1, 2, 3 | author = 東映 | publisher = 東映 | year = 1992 | id = | ref = クロニクル }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 風雲映画城 | volume = 下 | author= 松島利行|authorlink=松島利行 | publisher = [[講談社]] | year = 1992 | id = ISBN 4-06-206226-7 | ref = 風雲 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 石井輝男映画魂 | author1=石井輝男|author2=福間健二|authorlink2=福間健二 | publisher = ワイズ出版 | year = 1992 | id = ISBN 4-948735-08-6 | ref = 石井輝男 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 一言いうたろか:新伍の日本映画大改造 | author= 山城新伍|authorlink=山城新伍 | publisher = 広済堂出版 | year = 1993 | id = ISBN 4-331-50421-2 | ref = 一言 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 映画編集とは何か 浦岡敬一の技法 | author=浦岡敬一|authorlink=浦岡敬一|editor=山口猛|editor-link=山口猛| publisher = [[平凡社]] | year = 1994 | id = ISBN 978-4-58-228227-6 | ref = 浦岡}} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 活動屋人生こぼれ噺 | author = 幸田清 | publisher = 銀河出版| year = 1995 | id = ISBN 4-9064-36-66-8 | ref = 幸田清 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 日本ヒーローは世界を制す | author=大下英治|authorlink=大下英治 | publisher = [[角川書店]] | year = 1995 | id = ISBN 4-04-883416-9 | ref = 日本ヒーロー }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 困った奴ちゃ:東映ヤクザ監督の波乱万丈生 | author = 小沢茂弘・高橋聰 | publisher = ワイズ出版 | year = 1996 | id = ISBN 4-948735-57-4 | ref = 困った }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 高田宏治東映のアルチザン | author = 西谷拓哉・高田宏治 | publisher = [[カタログハウス]] | year = 1997 | id = ISBN 4905943337 | ref = 高田宏治 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 現代・河原乞食考:役者の世界って何やねん? | author = 山城新伍 | publisher = [[解放出版社]] | year = 1997 | id = ISBN 4-7592-5120-0 | ref = 河原乞食考 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 仁義なき戦い浪漫アルバム | author = 杉作J太郎、植地毅 | publisher = 徳間書店 | year = 1998 | id = ISBN 4-19-860846-6 | ref = 浪漫アルバム }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ | author = 丹波哲郎 | publisher = [[キネマ旬報]]社 | year = 1999 | id = ISBN 4-87376-229-4 | ref = 丹波哲郎 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 任侠映画伝 | author = 俊藤浩滋・山根貞男 | publisher = 講談社 | year = 1999 | id = ISBN 4-06-209594-7 | ref = 任侠映画伝 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 将軍と呼ばれた男:映画監督山下耕作 | author = 山下耕作・円尾敏郎 | publisher = ワイズ出版 | year = 1999 | id = ISBN 4-89830-002-2 | ref = 将軍と }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム | author=杉作J太郎・植地毅(編著)|authorlink=杉作J太郎 | publisher = 徳間書店 | year = 1999 | id = ISBN 4-19-861016-9 | ref = ピンキー }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 僕らはそれでも生きていく!:読むと元気がでる本 | author = 小石原昭 | publisher = 財界研究所 | year = 2000 | id = ISBN 4-87932-014-5 | ref = それでも }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 沢島忠全仕事:ボンゆっくり落ちやいね | author= 澤島忠|authorlink=沢島忠 | publisher = ワイズ出版 | year = 2001 | id = ISBN 4-89830-096-0 | ref = 沢島忠全仕事 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 男気万字固め | author= 吉田豪|authorlink=吉田豪 | publisher = [[エンターブレイン]] | year = 2001 | id = ISBN 4-7577-0488-7 | ref = 男気 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 昭和の劇:映画脚本家笠原和夫 | author1=笠原和夫|author2=荒井晴彦|authorlink2=荒井晴彦|author3=絓秀実|authorlink3=絓秀実 | publisher = 太田出版 | year = 2002 | id = ISBN 4-87233-695-X | ref = 昭和の劇 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 映画監督深作欣二の軌跡 | author = 関口裕子 | publisher = [[キネマ旬報社]] | year = 2003 | id = ISBN| ref = 軌跡}} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 映画監督深作欣二 | author = 深作欣二・山根貞男 | publisher = ワイズ出版 | year = 2003 | id = ISBN 4-89830-155-X | ref = 監督深作欣二 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 映画主義者深作欣二 | author=立松和平|authorlink=立松和平 | publisher = 文春ネスコ | year = 2003 | id = ISBN 978-4890361816 | ref = 立松 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 楽天楽観映画監督佐々木康 | author1=佐々木康|authorlink1=佐々木康|author2=佐々木真|author3=佐々木康子(監修)|editor1=円尾敏郎|editor2=横山幸則 | publisher = [[ワイズ出版]] | year = 2003 | id = ISBN 4-89830-160-6 | ref = 佐々木康 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 映画はやくざなり | author = 笠原和夫 | publisher = [[新潮社]] | year = 2003 | id = ISBN 4-10-460901-3 | ref = やくざなり }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = ヤクザが認めた任侠映画 | series = 別冊宝島922 | publisher = 宝島社 | year = 2003 | id = ISBN 4-7966-3743-5 | ref = ヤクザが認めた }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite book | 和書 | title = 濃厚民族:15大対談集 | author= 浅草キッド|authorlink=浅草キッド (お笑いコンビ) | publisher = [[スコラマガジン]] | year = 2003 | id = ISBN 4-902307-01-4 | ref = 濃厚 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 任侠映画が青春だった:全証言伝説のヒーローとその時代 | author= 山平重樹|authorlink=山平重樹 | publisher = 徳間書店 | year = 2004 | id = ISBN 4-19-861797-X | ref = 任侠が青春 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = [[私の履歴書]] | volume = 経済人38 | editor=日本経済新聞社|editor-link=日本経済新聞社 | publisher = 日本経済新聞社 | year = 2004 | id = ISBN 4-532-16901-1 | ref = 私の履歴書 }} |
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* {{Cite journal | 和書 | journal = [[新潮45]] | publisher = [[新潮社]] | volume = 2004年9月号 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 「仁義なき戦い」をつくった男たち <small>深作欣二と笠原和夫</small> | author = 山根貞男・米原尚志 | publisher = [[日本放送出版協会]] | year = 2005 | id = ISBN 4-14-080854-3 | ref = 山根米原 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 「仁義なき戦い」調査・取材録集成 | author = 笠原和夫 | publisher = [[太田出版]] | year = 2005 | id = ISBN 4-87233-948-7 | ref = 調査・取材録集成 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 | publisher = [[シンコーミュージック・エンタテイメント]] | id = | ref = Hotwax }} |
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** vol. 2 (2005) ISBN 4-401-75101-9。vol. 3 (2005) ISBN 4-401-75102-7。vol. 7 (2007) ISBN 978-4-401-75111-2。vol. 8 (2007) ISBN 978-4-401-75116-7。 |
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* {{Cite book | 和書 | title = {{small|Hotwax責任編集}} 映画監督 舛田利雄 {{small|~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~}}| author1=舛田利雄|authorlink1=舛田利雄|author2=佐藤利明|authorlink2=佐藤利明|author3=高護|authorlink3=高護| publisher = [[シンコーミュージック・エンタテイメント]] | year = 2007 | id = ISBN 978-4-401-75117-4 | ref = 舛田}} |
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* {{Cite book | 和書 | series = [[別冊宝島]]1499 | title = 流行り歌に隠されたタブー事件史 | publisher = [[宝島社]] | year = 2008 | id = ISBN 978-4-7966-6178-2 | ref = 流行り歌 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 時代劇は死なず!:京都太秦の「職人」たち | author = 春日太一 | publisher = 集英社 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-08-720471-1 | series = 集英社新書 | ref = 死なず }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 --> |
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* {{Cite journal | 和書 | journal = 文化通信ジャーナル | volume = 2009年3月号 | ref = 文化通信J }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = テレビ成長期の日本映画 | author = 北浦寛之 | publisher = [[名古屋大学出版会]]| | year= 2018 | id = ISBN 978-4-8158-0905-8 | ref = テレビ成長期の日本映画 }} |
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* {{Cite book | 和書 | title = 高倉健 七つの顔を隠し続けた男 | author= 森功|authorlink=森功 | publisher = 講談社 | year= 2017 | id = ISBN 978-4-06-220551-1 | ref = 七つの顔を隠し続けた男 }} |
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* {{Cite book |和書 |title=社長たちの映画史 |author=中川右介 |authorlink=中川右介 |publisher= [[日本実業出版社]] |year=2023 |id=ISBN 978-4-8158-0905-8 |ref=社長たちの映画史 }} |
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== 関連ウェブサイト == |
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* [https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml 日経プレミアム : 岡田茂インタビュー]([[アーカイブ|archive]]) |
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* {{Cite web|和書|url=https://megalodon.jp/2014-0824-0151-22/dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf|format=PDF|title=岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也|date=2005-05-15|work=[[メッセージ.jp]]|publisher=[[BSフジ]]|page=|accessdate=2018-09-28}}(archive) |
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* [https://web.archive.org/web/20150703103304/https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト] |
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* [https://web.archive.org/web/20160307234926/https://hiroken.gr.jp/commity/kouhou/KenjinkaiNews-/News40.pdf 東京広島県人会 ニュースAutumn 2011 Vol.13-No.2] |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
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* {{allcinema name|116871|岡田茂}} |
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*[http://www.toei.co.jp/ 東映ホームページ] |
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* {{Kinejun name|100332|岡田茂}} |
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*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0049860.htm 日本映画データベース 岡田茂] |
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* {{jmdb name|0049860|岡田茂}} |
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*[http://dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ] |
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* {{IMDb name|0645435|Shigeru Okada}} |
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*[http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】] |
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*[http://www14.ocn.ne.jp/~usubaka/link.html 全日本バイオレンス委員会 リンク集] |
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*[http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/henai.html 偏愛キネマ館] |
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おかだ しげる 岡田 茂 | |
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『東映十年史』(1962年)より | |
本名 | 岡田 茂 |
生年月日 | 1924年3月2日 |
没年月日 | 2011年5月9日(87歳没) |
出生地 | 広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条) |
死没地 | 東京都 |
職業 | 映画プロデューサー |
ジャンル | 映画 |
活動内容 |
1947年:東横映画に入社 1971年:東映の代表取締役に就任 2006年:東映名誉会長に再任 2008年:東京急行電鉄取締役 |
著名な家族 |
岡田裕介(長男) 高木美也子(長女) |
岡田 茂(おかだ しげる、1924年〈大正13年〉3月2日 - 2011年〈平成23年〉5月9日)は、日本の映画プロデューサー。東映・東急レクリエーション社長[1]、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長[出典 1]。また、2008年4月より東京急行電鉄取締役を務めた[6]。
東映"中興の祖"で[出典 2]、松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり[出典 3]、東映はもとより日本映画界を牽引[4]、戦後日本の娯楽産業を創った人物の一人である[出典 4]。1971年の東映映画本部長兼テレビ本部長就任以降、1993年の東映会長就任まで、東映映像作品制作の陣頭指揮を執った[出典 5]。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身[出典 6]。東広島市名誉市民[6]。
長男は、映画プロデューサーで東映社長・会長の岡田裕介[出典 7]。長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子[出典 8]。声優・ナレーターの政宗一成は従甥[41]。
経歴
[編集]少年時代
[編集]一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた[出典 9]。7歳の時、子宝に恵まれない、父の弟夫妻の家に養子に入る[34]。中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった[34]。旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)では柔道に熱中。柔道四段[12]。卒業後は旧制広島高校(現・広島大学)に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のちシナリオを読むのに役立ち[出典 10]、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を首席で卒業[出典 11]、1944年東京帝国大学経済学部に入学するも待ち構えていたのは学徒出陣[出典 12]。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就いた[出典 13]。当地はグラマンに爆撃され宮城県古川町(現在の大崎市)に疎開[出典 14]。1945年8月15日、終戦を告げる昭和天皇による玉音放送を小学校の校庭で直立不動で聞く[出典 15]。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した[33]。
終戦後復学。共産主義の嵐が吹き荒れる中、反共ののろしを上げ[出典 16]、東大経済学部の学友会である経友会を、日本共産党が牛耳ろうとするのを木暮剛平ら同期の猛者を率いて止め、大学の左傾化を阻止した[出典 17]。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることが理不尽だから立ち上がったとしている[49]。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した[50]。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなど、右も左もない、イデオロギーで仕事はできないと話している[出典 18]。
東映入社 - 草創期
[編集]卒業後は、官庁や銀行は性に合わず、製造業がいいと、親類のいた郷里の東洋工業(現・マツダ)か、工場が出来たばかりの麒麟麦酒広島工場への就職を考えていたが[53]、日本中が着の身着のままだったから、同郷の永野護→桜田武を紹介してもらい日清紡績への就職を第一希望にした[出典 19]。しかし小学生からの幼馴染今田智憲に誘われ[出典 20]、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった[出典 21]東横映画社長・黒川渉三の自宅に行くとマキノ光雄、伊藤義、浅岡信夫ら東横の幹部がすき焼きをつついて将来を話し合っていて、黒川から「女子工員の管理しかないようなつまらない商売はやめておけ、これからは娯楽産業だ。中でも映画だ。俺は映画会社を作る。お前はそこに就職すべきだ。『鶏口となるも牛後となるなかれ』だよ、岡田くん」と誘われ[出典 22]、他の幹部らにも激しく説得された[出典 23]。特に豪放磊落なマキノの人柄に惹かれ[出典 24]、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める[出典 25]。黒川の言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は大陸浪人たちが蝟集する旧満映系の残党を中核として[47]、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者[31]。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた[60]。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。
1947年10月、雑用係(東横映画京都撮影所製作部製作課事務員)からキャリアをスタートさせたが[出典 26]、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた[出典 27]。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという[出典 28]。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事[34]。翌1948年4月、24歳で製作主任に昇格[出典 29]。小さな会社で出世も早かった[44]。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と鎮魂の思いを込めて戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意[出典 30]。山本薩夫監督で映画化しようと東宝が動いていたが、岡田が先に映画化権を買った[出典 31]。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり[出典 32]、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした[出典 33]。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった[40]。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り[70]、マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って1950年、映画は完成[71]。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て当時では最高の大ヒット[出典 34]、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが[出典 35]、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった[66]。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作[出典 36]。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され書記長。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任[75]。
課長昇進 - 撮影所長へ
[編集]1951年3月、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。大川は京撮で独立王国を築くマキノがどんぶり勘定で映画製作を続けることが東映の赤字体質を招く最大の元凶と見なし[76]、その力を削ぐため東京本社の製作部長に転任させた[76]。マキノの京都復帰を求めるクーデターを先導したのが岡田で[76]、この騒動で岡田は一気に名を上げる[76]。同年入社4年目、28歳で京撮製作課長に抜擢される[出典 37]。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。所属していた製作部で一番年下なのにその長になり、親分肌で撮影現場を取り仕切る[出典 38]。他社では50歳を超えなければ就けないポストであった[76]。また従業員組合委員長にも推されて就任。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され[出典 39]、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった[出典 40]。これを聞いた撮影所内は蜂の巣をつついたよう大騒ぎになった[76]。所内の全員年上の部下たちを前に「今の東映は大ピンチです。私が上司になって『この野郎』と思う人もあるかもしれませんが、みんなの力が必要です。嫌な人は今すぐ言って下さい。すぐに部署を変えてもらいます。但し、製作は私の方針でやらせてもらいます」と演説[76]。配転を申し出た者はおらず、京撮の現場実務の一切を掌握した[76]。役者のギャラ査定についても片岡千恵蔵、市川右太衛門、両御大以外はすべて岡田に全権委任された[34]。インタビューで「ずっとゼネラルプロデューサーとして、全体を統率していったんだ」と話す理由はここにある[31]。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった[出典 41][注釈 1]。大川は経理のプロではあったが、作りたい映画があるわけではなく、その力もない[80]。それを自分で分かっていたから、映画の製作はマキノに任せていた[80]。このため東映は東西の撮影所長に大きな権限が持たされていたため[80]、岡田も撮影所長になることを目標に置いていた[80]。大川にとって岡田は自分にできない映画製作をしてくれる貴重な人材だが、いつ寝首をかかれるか分からない警戒すべき部下でもあった[80]。1951年の『風にそよぐ葦 前後編』はクレジットにないが岡田のプロデュース作で[出典 42]、東映東京撮影所の第1作[83]。木暮実千代の大ファンだった岡田は、木暮の自宅に日参して出演交渉し[84]、熱血漢の岡田に木暮が好感を持ったことから[83]、木暮は東映の映画によく出るようになった[84]。劇場があまりないため東宝系の日劇で封切った。当時東映の幹部は東宝から引抜きに遭い、岡田も誘われた[83]。同年プロデュースした『八ツ墓村』は同小説最初の映像化[77]。1952年、京都大学法学部卒ながら、全学連で暴れていて大川社長以下、全員が反対した山下耕作を入社させる[85]。山下は入社するやすぐ組合運動を始めた。同年、大川社長より、製作予算の全管理を厳命される[47]。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始[出典 43]。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。この陣頭指揮を執った[出典 44]。1940年代後半の東宝争議で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した[87]。
当時のNHKのラジオドラマで人気だった『新諸国物語』の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太朗主演の『笛吹童子』シリーズ、東千代之介主演の『里見八犬伝』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる[出典 45]。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした[3]。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画に出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した[出典 46]。1956年には年間配給収入でトップとなった。
1955年、アメリカ映画視察で観た連結型のステージを京撮の新築ステージに導入することを提案し、No.9とNo.10に活用された[34]。同じく視察で見たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年、マキノが志半ばにして死去[89]。京撮製作部長として実権を握り[89]、“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う[出典 47]。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた[出典 48]。また監督を目指して入社してきた日下部五朗を「体がでかい」という理由で無理やりプロデューサー修行させる[出典 49]。1958年7月、神戸芸能社の田岡一雄社長と話し合い[89]、それまでどの社の専属にもならなかった美空ひばりを東映の専属とした[89]。1960年京撮所長[出典 50]。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす[出典 51]。北大路欣也と松方弘樹を高校卒業と同時に入社させた[出典 52]。1961年、中村錦之助 (萬屋錦之介)主演・内田吐夢監督『宮本武蔵』シリーズの製作を決める[出典 53]。同年、吹き替え・スタントマンの重要性に気づき、日本最初のスタントマンともいわれる[97]宍戸大全を大映から引き抜く[97]。第二東映の失敗で組合運動が激化[出典 54]。1961年9月、京撮所長兼製作部長・美術部長・演技部長兼東京撮影所長兼製作部長[出典 55]。1962年10月、36歳の若さで東映取締役兼東京撮影所長[出典 56](以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる[出典 57]。この人事は表向きは低迷していた東撮の立て直しであるが[89]、マキノ同様、岡田が京都で絶大な力を持ったことを大川が警戒したという見方もある[89]。1957年に東映に入社した大川の息子・大川毅を自身の後継者にしたい大川博にとって岡田は、東映に欠かせない有能な人材であると同時に息子の最大のライバルでもあった[89]。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。佐伯孚治、鷹森立一というベテランを監督デビューさせた反面[104]、当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、深作欣二、佐藤純彌、降旗康男や新東宝から引き抜いた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治ら若い才能を抜擢した[出典 58]。また、日活にいられなくなった井上梅次を誘い『暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう[108]。好色不良路線を目指す岡田の肝いりで、梅宮辰夫主演の反社会的映画が「夜の青春シリーズ」となった[出典 59]。石井輝男は「当時は岡田さんが最高潮で、企画会議でホン(脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さんの一言で製作が決まって、会議なしという感じでした」と述べている[112]。
ギャングシリーズを開拓したものの[出典 60]「そもそも日本にギャングなどいない」と[81]、東映を『時代劇』路線から『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画[注釈 2]路線に転換させる[出典 61]。日活、大映、東宝など他社も追随し[出典 62]、任侠映画は1960年代の大衆映画の最大の分野となった[117]。しかし他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“東映任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに土曜深夜のオールナイト興行という上映方式を組み[118]、これに観客が押し寄せ、任侠映画は70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした[出典 63]。東宝、松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの[出典 64]。任侠映画と後に手掛ける実録ヤクザ映画抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない[121]。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった[出典 65]。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した[123]。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥㊙物語』など、任侠映画、東映ポルノ/エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである[出典 66]。『大奥㊙物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので[出典 67]、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「㊙物語」という活字を多用した[134]。「今ではどこの企業でも部外秘の書類に㊙というハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している[135]。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥㊙物語』はブームを呼び[出典 68]、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり[131]、エッセンスは受け継がれ[138]、現在もテレビドラマ等に繋がる[132]。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた[出典 69]。初めてスクリーン上に女性のバストトップを露出した風俗エロス映画は、小川、緑による体当たりの演技でモノクロながら大ヒット[139]。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化[出典 70]。スターの資質を引き出すことにも秀で[4]、東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で[出典 71]、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で[出典 72]、『不良番長』シリーズなどで梅宮辰夫を売り出す[出典 73]、若山富三郎を『極道』シリーズで[147]、菅原文太を『現代やくざシリーズ』で売り出す[出典 74]。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた[出典 75]。本作は京の廓の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ[106]。内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画。東映は1964年、東急グループを離脱した[141]。
1964年、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る[出典 76]。京撮所長に復帰する際、大川から「京都がガタガタになりそうだからお前が京都に行ってくれないと東映そのものがおかしくなる」と言われ[153]、「それならすべて私に任せて下さい。荒治療しますけどいいですね」と大川から指揮権移譲の承認を取り付け[出典 77]、京撮所所長に就任[出典 78]。岡田は反対したが大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作り大失敗[出典 79][注釈 3]。この時、作品量産のため撮影所に臨時雇用の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた[出典 80]。岡田が大川に求めた「全権」は、東映京都作品の企画の全ての企画の決定権だけでなく、撮影所の人事を含めた文字通りの全権だった[出典 81]、大川社長からの全権委任を盾に、揉めに揉めたも のの大リストラを断行し[出典 82]、2100人いた人員を一気に900人に減らした[出典 83]。また年間の製作本数を100本から60本に減らした[出典 84]。東撮所長時代から「客観的に見て京撮の時代劇はやめないとダメだな」と見ており[152]、京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行[出典 85]、テレビ重視に舵を切る[出典 86]。俊藤浩滋と組んで京撮で製作された任侠映画第一作が1964年の高倉健主演作『日本侠客伝』[出典 87]。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ[出典 88]。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け[出典 89]、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任[出典 90]。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった[出典 91]。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや東映動画へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った[出典 92]。大監督や大スターも受け入れてくれた事でテレビ映画の地位は高まった[出典 93]。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたものだったが、当時1964年東京オリンピックを前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった[181]。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった[出典 94]。この大リストラにより、平山亨や勝間田具治など京撮時代劇のノウハウを身に着けた若手スタッフが新天地で活躍し、新たな地平を切り拓いた反面[34]、多くの才能も失われた[出典 95]。東映動画については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている[60]。1966年10月、東映常務取締役[61]。
ギャンブル性の強い映画と違い、テレビは局から予算が予め出されるため計算が立つ[186]。何よりテレビ製作に求められる「早く安く面白く」は東映京都の最も得意とするところであった[186]。また東映京都テレビや東映京都制作所(のち太秦映像)だけでなく、京撮本体でもテレビ時代劇の受注を開始させ「お前ら、これからはテレビで食っていけ」という岡田の指示の下、京撮は各テレビ局からテレビ時代劇の制作を請け負い、量産体制に入っていく[出典 96]。テレビ映画に本格的に参入を図った岡田は、特に関西のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した[187]。当時、電通大阪支社企画室長だった入江雄三を介して関西テレビの芝田研三副社長と東映テレビ次長・渡邊亮徳を引き合わせた[出典 97]。「子供ものの時代劇で何かおもしろいものを作ってくれ」と岡田から出された要望により、東映で子供向けの時代劇として最初に企画されたのが『大忍術映画ワタリ』で[188]、時代劇に特撮をプラスした『仮面の忍者 赤影』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの[出典 98]。『赤影』の大成功によって、阪急東宝グループの関西テレビからより強い信頼を得ることができ、長きにわたり良き関係を続けた[189]。ここからは大川橋蔵の『銭形平次』などを生み、映画スタッフのテレビ進出の先駆けとなった[出典 99]。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映がフジテレビに道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った[出典 100]。当時フジテレビは虫プロ作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『ゲゲゲの鬼太郎』以降に繋がる[183]。1969年から始まった『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔から協力を依頼され製作を受注したもの[出典 101]。本作は岡田が1967年発足した東映京都制作所(のち太秦映像)が製作した[出典 102]。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した[151]。その他、1968年のテレビドラマ『大奥』は、岡田が企画した映画『大奥㊙物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる[194]。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と渡辺岳夫にテーマ曲を依頼した[195]。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった[132]。関西テレビからは、「この㊙だけは困る。題名は㊙はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという[出典 103]。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され[出典 104]、その後『長谷川伸シリーズ』、松平健の『暴れん坊将軍』、千葉真一の『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇の分野を開拓した。当時他の映画会社はテレビに消極的で、1980年代半ばには、東映京都製作のテレビ時代劇はテレビ各局に広がり、シェアの90%近くを占め[103]、その後も高いシェアを占め大きな柱となった[22]。これらの施策で東映は映画の斜陽期を乗りきったが、これが今日のテレビ局ディレクターが、テレビドラマ感覚で映画を監督するなどテレビ局主導の映画製作という逆転現象を生む遠因になったとする見方もある[45]。また1964年開局の新興ネットワーク、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の名物番組となった1969年放映開始の『プレイガール』は、岡田が進めたお色気路線をテレビ向けにソフトにアレンジしたもの[201]。
一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた[出典 105]。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年10月、42歳の若さで東映常務取締役[出典 106]。これについて大川博は「私は岡田茂と今田智憲の二人の才能を買い、30代で東映の取締役に登用し、40歳を越すや常務に昇格させ、思う存分に腕を振るわせた」と述べている[99]。同年借金で松竹をクビになった藤山寛美を一時東映に籍を置かせる[203]。1967年、松竹にいた菅原文太を東映に移籍させ、安藤昇を東映出演させた[204][注釈 4]。「近い将来、東映の映画部門を担って大川社長を支える両輪となる人物は、製作は岡田茂、営業は今田智憲を措いてほかにいない」とかねて呼び声が高かったが1968年5月、共に44歳の若さで岡田が製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、今田は営業の最高責任者・営業本部長兼興行部長に就任[出典 107]。次いで同年9月、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任した[出典 108]。大川博は「大衆が求める刺激の強い映画を作ることで企業を安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題に沿って徹底した企画を立てている。岡田本部長の権限は、いわば一つの映画会社の社長の立場に匹敵する。自分の思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べている[99]。東映の映画に関する全権を委任され、企画の最終判断と責任を持つゼネラルプロデューサーになった[出典 109]。岡田が音頭を取った所謂「東映ポルノ/エログロ路線、好色路線」が、この前後から本格化した[出典 110]。1969年、渡瀬恒彦をスカウト[出典 111]。1970年6月(旧)東映ビデオ取締役[61]。1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握[出典 112]。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅がボウリング、タクシー、ホテルなどの事業拡大に失敗[212]。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする総合レジャー会社に脱皮させようとしていた[60]。これに労組が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が東映株を所有[212]。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける[出典 113]。この窮地に『夕刊京都』の労働争議で活躍した「労務屋」長田大全を招聘し[212]、ロックアウトを決行し何とか乗り切った[出典 114]。大川博はこの労働争議で心労がたたり体調を崩す[217]。
大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は大川毅専務というのが既定路線で、今田智憲も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが、周囲から「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が死去[218]。毅から「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また五島昇の推しもあって、1981年8月25日の東映臨時取締役会に於いて47歳で社長に就任する[出典 115]。映画に全く興味がない大川毅は映画で儲けた利益をボウリング場経営やプロ野球の経営に注入し[出典 116]、大川親子は映画製作部門を縮小するか[出典 117]、松竹に委ねて[225]、東映をボウリング場を柱とする総合レジャー産業に事業転換させようとしていた[出典 118]。もしこのとき、大川毅が東映の二代目社長を継いでいたら、以降の東映の映像作品はほとんど生まれていないかも知れず[4]、東映が今日のような映像製作を主体とする会社として存続していないかも知れない[出典 119]。社内で人望も0で、経営センスもない大川毅が日本映画史に於いてここで唯一にして最大の貢献を果たした[出典 120]。岡田は常務から三段跳びでの社長就任であった[229]。1971年は映画界全体にとっても大きな節目の年だった[34]。社長就任と同時に1971年8月、東映ビデオ、東映テレビ・プロダクション、東映京都テレビ・プロダクション、東映京都制作所(のち東映太秦映像)東映東京制作所など関連会社60社の社長に就任[61]、東映動画(現・東映アニメーション)、東映化学(現・東映ラボ・テック)会長兼任[61]。同月、日本経営者団体連盟常任理事[61]。大企業を目指し多角的事業で支える大川体制から、映画映像作りを中心とした小回りの利く中小企業プロダクションを目指す岡田商店へと、事業転換を表明[34]。社長に就任するやいなや、このうち不良部門をスパッと切り素早く合理化を推進した[出典 121]。東京タワータクシーを営業停止に、不採算の東映フライヤーズを日拓ホームに譲渡[出典 122]、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営していた東映ボウリングセンター32か所の大半を売却した[出典 123]。1972年6月、東映動画に経営企画室長の登石雋一を社長に派遣、ほぼ半数に当たる150名の希望退職者を募集させ紛糾した[出典 124]。「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と暴言を吐いた[234]。この時異動したスタッフの本社・本編憎しのルサンチマンがのちに東映のテレビ、アニメ躍進の原動力となった[236]。同年7月、幸田清を東京撮影時所長に抜擢[237]。その後も組織のスリム化を断行した[150]。一方で、ボウリングに代わる新規事業として住宅産業に進出[231]、建売住宅・不動産分譲、マンション、パチンコ店事業にも進出した他、劇場の建て替えを含む再開発プロジェクトを手掛けた[出典 125]。また、ホテルチェーン(東映イン、東映ホテル)やゴルフ場建設を拡大させるなど事業の再構築を行った[出典 126]。
多角経営への道
[編集]一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜[出典 127]。不良性感度で東宝や松竹と全く違う「東映カラー」を作りあげ、後発の新興会社を一流映画会社にのし上げた[12]。「映画は商品である」が持論[出典 128]。拡大するテレビ人気に対抗するべくテレビでは扱えない映画ならではの素材として、エロは絶対に外せない路線[139]。「時代を読みながら何でもやる。変幻自在がうちの特徴」と語り[246]、反戦映画から、時代劇、文芸映画、任侠映画、実録映画、キワモノ(エログロ)まで、観客の好みを敏感に読みとり、時に批判を尻目に多種多様な映画を世に放つ[出典 129]。或いは洋画の流行に乗っかり、和製オカルト映画、和製パニック映画、和製格闘映画、和製SF映画、和製残酷映画、マシン路線、健全喜劇・スポーツ映画路線と次々、死屍累々の企画を打ち出す[出典 130]。菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「東映ポルノ」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した[出典 131]。こうした極端な男性重視路線は東映の映画館から女性客を消した[出典 132]。「実録映画」という呼称は、1972年のイタリア映画『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの[出典 133]。『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など実録映画の爆発的ヒットがあった1973年は年間配收約80億円と創立2番目の記録を更新した[251]。「実録路線」はスタンダード化し、その後のVシネマなどでも、実録でなければ売れないという公式が確立された[252]。「東映ポルノ」では、抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉を移植、池玲子の売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった[出典 134]。1972年から始まる“日活ロマンポルノ”が“ポルノ”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である[254]。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子、谷ナオミ、賀川雪絵ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした[出典 135]。これを皮切りに日活の『野良猫ロック』シリーズに対抗して池玲子、杉本美樹、大信田礼子らの『女番長・ずべ公番長』シリーズ[100]、梶芽衣子、多岐川裕美、夏樹陽子らの『女囚さそりシリーズ』などを編み出しエロ映画を量産した[出典 136]。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって劇画原作を実写化するきっかけとなった[出典 137]。タランティーノの影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。『女囚さそりシリーズ』の第4弾『女囚さそり 701号怨み節』(1974年正月映画)と併映だったのが高倉健の新企画『ゴルゴ13』である[260]。 1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた[240]。
しかしこの後、千葉真一・志穂美悦子らの格闘映画が大ヒットし、千葉の作品は海外でも大ヒットすると[出典 138]、ポルノ映画の主流が日活・大蔵映画などに移ったこともあって東映ポルノをアッサリ切り捨て[263]、多くのカラテ映画をシリーズ化させた[出典 139]。1972年6月、それまで各事業部門が社長指令の忠実な実施体であったワンマン経営から、全社上げて経営に当たるという"経営第一主義"を打ち出す[267]。全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部(テレビランドの創刊等)[208]、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった[出典 140]。「泥棒と詐欺以外は何でもやれ」などと発言し[231]、全事業部門に例外なく己の担当する分野で、新たな収益源を開拓せよと命じた[出典 141]。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部がレコードの原盤やPR映画の制作、演劇公演やアニメーションフェスティバル、催事ショー(キャラクターショー、子供ショー)[注釈 5]、地方博のパビリオンの映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」(日商主催)など文化事業を手掛けた[出典 142]。1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村をオープンさせた[出典 143]。
大川博からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年5月、洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出[出典 144]。とくにブルース・リーとアラン・ドロンの買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす[279]。この洋画部は香港製のカンフー映画だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった[出典 145]。1973年『テレビランド』を徳間書店に移す[283]。正面から日露戦争を描きたいと笠原和夫に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた[284]。フジテレビを退社した五社英雄をカムバックさせ、『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』シリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した[出典 146]。1975年香港のショウ・ブラザーズと提携[出典 147]。カンフーブームで買い付けた『ドランクモンキー 酔拳』などジャッキー・チェン映画で、ジャッキーフィーバーを起こした[出典 148]。また労組問題で混乱していた系列の東映動画に1974年、親友の今田智憲を社長に据えて建て直し[290]、日本アニメ日本国外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を西崎義展から買い付けしたのを手始めに[出典 149]、続編の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』など、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ、『銀河鉄道999』などの松本零士作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた[出典 150]。『宇宙戦艦ヤマト』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ[282]、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった[294]。『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』が、ブームを通り越して今日定着した劇場アニメの先駆けとなった[281]。1980年1月、東急レクリエーション社長就任[1]。
1970年代後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした[295]。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの[296]。1983年に東陽一に撮らせた『セカンド・ラブ』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは皆無の映画であった[296]。角川春樹の後ろ盾となり[出典 151]、タッグを組んで一時代を築く[出典 152]。その他、1974年に岡田が目論んだ"共産党の実録"という企画は実現しなかったが[出典 153]、岡田の試みた大組織に映画公開前に前売り券を売り捌くという手法は[出典 154]、その後『夜明けの旗 松本治一郎伝』や『空海』、『福沢諭吉』などの伝記映画や、東映系でかけられる幸福の科学出版製作の『太陽の法 エル・カンターレへの道』(2000年)、『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』(2003年)のアニメなどが、東映のビジネスモデルとして引き継がれた[出典 155]。ただし、幸福の科学との繋がりは2009年の幸福実現党による政治進出を危惧して『仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA』を最後に切れている。
テレビ映画に関しては、大川博時代に引き続き制作を進めた。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている[141]。1975年テレビ版権営業部を設立し、版権収入の拡大に力を入れる[出典 156]。ビデオ時代の到来に対応する体制作りにも乗り出し1977年8月、東映芸能と東映ビデオを合併させ東映芸能ビデオを設立(のち東映ビデオ)[141]。翌1978年にはビデオ制作強化のため東映ビデオセンターを設立し[141]、この年カラオケビデオを発売した[141]。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため1977年12月、ATGの商業映画版ともいうべき[307]、東映セントラルフィルムを設立[出典 157]。日活から黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として引きぬき[出典 158]、東映セントラルフィルムと組ませて低予算で映画を制作するセクションが設立され、これが後にセントラルアーツとなる[311]。家庭用ビデオデッキの普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ(アダルトビデオ)が爆発的に売れた[312]。1980年、東急グループの興行会社・東急レクリエーション社長に就任、16年ぶりに東急グループに復縁し、五島慶太・五島昇に対する不義理を解いた[出典 159]。「映画の日」の全国普及にも貢献[314]。1984年日本衛星放送(WOWOW)設立で非常勤取締役(〜2001年)[出典 160]。1986年黒木瞳を『化身』で、映画主演デビューさせた[出典 161]。1989年3月期の決算で東映として初めて総売上げ1000億円の大台に乗せる[318]。1990年夏から「東映まんがまつり」を鳥山明に絞った番組編成の「東映アニメフェア」に転換させた[319]。1993年、東映会長。1996年、ルパート・マードックと孫正義によるテレビ朝日買収を阻止した[172]。1997年11月「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げる(#時代劇復興)。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった[320]。洒脱な人柄で、パーティーの席などでのスピーチも天下一品[15]。軽妙なあいさつで会場をわかせたといわれる[15]。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である[321]。瀬川昌治は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている[63]。日本経済新聞社は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、サンケイスポーツは「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、松岡功は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した[出典 162]。
恰幅のよさと親分肌で豪放磊落な性格から[55]、東大卒と言っても信じてもらえず、「あなたは拓大出身じゃないの?」とよくからかわれた[55]。『仁義なき戦い』の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本の笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ[出典 163]。また菅原文太のトレードマークになった広島弁は、岡田が同郷の張本勲に菅原に広島弁の指導を頼んだものという[出典 164]。『仁義なき戦い』の菅原の名セリフの抑揚、アクセントは張本の監修であった[326]。付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った[出典 165]。早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った[55]。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした[出典 166]。沢島忠は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」[出典 167]、北大路欣也は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」[317]、里見浩太朗は「すばらしい指揮官だった。あんな人はもう出てこないんじゃないかな。背が高くて二枚目。ダンディーで俳優や女優のあこがれだった」と話した[23]。
1978年から1995年まで日本映画製作者連盟会長[329]。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長、北海道テレビ放送取締役[330]など多くの要職に就く[出典 168]。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した[出典 169]。1974年城戸賞創設に関わり[332]、以降1994年まで審査委員長を務める[出典 170]。1978年日本アカデミー賞の創設にも尽力[出典 171]、会長・名誉会長を歴任し、その功績を称えて第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された[17]。撮影所所長としても数多くのヒット作を世に送り出し[30]、辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する[190]。1985年、瀬島龍三らと東京国際映画祭を創設[出典 172]。
郷里広島関係の貢献では、東京広島県人会会長として長く同会の発展に尽力した他[9]、竹下虎之助広島県知事が広島の県勢活性化のため、東京で活躍する広島出身の経済人に知恵を借りようと組織した「広島県産業懇話会」のメンバーでもあった[341][注釈 6]。その他、1982年5月、地方自治体で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー(広島市立中央図書館併設)の開館にも尽力した[342]。1990年、岡田を主人公にした『映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる大下英治作で徳間書店から出ている[出典 173]。これを原作として笠原和夫が脚本を担当し、岡田の母親にまで会うなど徹底取材した2時間ドラマが、普段は洋画を放送する日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」枠で同年6月1日放送され、中村雅俊が岡田を、妻の役は黒木瞳が演じた[出典 174]。
名誉会長へ
[編集]2006年7月、三代目会長だった高岩淡が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった[5]。
死去
[編集]2011年5月9日午前5時55分、肺炎の為、東京都内の病院で死去[23]87歳没。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった[346]。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という[20]。
受賞・受章・ランキング
[編集]1984年藍綬褒章[出典 175]、1995年勲二等瑞宝章受章[出典 176]。
映画雑誌『プレミア』(アシェット婦人画報社)2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で、角川歴彦、徳間康快、宮崎駿、北野武、出井伸之らを抑えて第1位に選ばれた[出典 177][注釈 7]。
映画産業団体連合会は、第56回「映画の日」に於いて、ジャンルの縛りを超えた数々の映画を製作し、又、幾多の映画人を育成し続け、生涯を通じて映画界の隆盛に多大な貢献を果たした岡田に1993年に続き、二度目の特別功労大章を贈った[350]。
活動
[編集]戦争映画
[編集]1950年、岡田の初プロデュース作『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』は、日本初の「反戦映画」といわれる[351]。
中島貞夫の出世作『893愚連隊』(1966年)、オールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年)は、任侠映画全盛で、製作が難しい企画だったが『893愚連隊』は、岡田が企画を通したものである[出典 178]。
1980年の『二百三高地』は、岡田が「そうだなあ。乃木大将を中心に創ってみたらひょっとしていけるかな。今まで、乃木将軍を描いた映画はないだろう」という何気ない岡田の一言が『二百三高地』を生む切っ掛けとなった[出典 179]。
『二百三高地』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。太平洋戦争、大東亜戦争を」「あれ、負け戦ですよ、日露戦争と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、太平洋戦争の脚本執筆を指示。『大日本帝国』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は瀬島龍三から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。『二百三高地』に瀬島を監修で呼んだのは岡田である[355]。脚本は書き上がったが宮内庁の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという[出典 180]。東映太秦映画村がオープンした時、岡田は瀬島を撮影所に案内したが[358]、岡田が照明や小道具、衣装などのスタッフみんなに声を掛けて回り、それも名前を全て覚えているのに瀬島は感心し、「この職場は統制のない秩序がある。上から強制しなくても秩序がちゃんとできている。本当の理想的な社会だ」と褒めたという[359]。瀬島は大川毅が退職した1987年に東映の相談役に就任している[309]。
人物
[編集]1957年、47歳で死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳で予算主義を現場で取り仕切る[出典 181]。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜ける豪腕により<鬼の岡田>と恐れられた[96]。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000 - 5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中のNGも2カットに1回しか認めない。当時の東映は人件費が安く、フィルム代が高かった。厳格なスケジュール・予算管理が徹底により、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した[出典 182]。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した[出典 183]。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという[361]。
高身長で押し出しのきく体型。大きな声に強烈な自己発現力。そこから発せられる広島なまり[246](時に関西弁・関東弁の場合も)の弁舌は相当な風圧[362]。ひとしきり"吠える"と必ず「なあおい!」が口癖。気の弱い者にはかなりのストレスだったという[362]。
東映ラインナップ
[編集]大川博は映画づくりはズブの素人だったため[出典 184]、企画選定に干渉せず[出典 185]、大川時代の東映は、企画の最終決定はマキノ光雄が握っていた[368]。マキノの下で実際の製作を岡田が責任を持って行った[出典 186]。マキノが1957年に亡くなると企画の最終決定は東・西の両撮影所所長が持つようになった[出典 187]。つまり岡田は京都撮影所(以下、京撮)所長に就任した1962年から企画の最終決定を持っていた[出典 188]。勿論、京撮所長が反対側の東映東京撮影所(以下、東撮)所長が決めた企画をひっくり返すことは出来ない[368]。大島渚自身が失敗作と認める[371]『天草四郎時貞』は、岡田が東撮所長時代に京撮の辻野公晴の企画を[372] 当時の京撮所長が通したもの[373]。岡田は1964年2月に東撮所長から京撮所長に転任するが、その後の東撮も岡田が残した任侠路線や好色路線を踏襲したことから、岡田は東映作品のラインナップを事実上指揮した[出典 189]。岡田は1968年に製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長[205]、同年秋に製作から営業までを一貫して統括する映画本部長に就任し映画会社の社長の立場に匹敵する権限が与えられた[99]。1971年1月にテレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握[出典 190]。大川の逝去で、このまま1971年8月社長に就任すると長らく取締役を置かないワンマン体制を敷き[出典 191]、2002年6月に相談役になるまでに実質40年の間、東映の企画の最終決定を行った[出典 192]。この間、岡田のOKが出なければ東映で企画は通らなかった[出典 193]。
萬屋錦之介と美空ひばり
[編集]マキノ光雄とともに美空ひばりを引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった山口組の田岡一雄組長。田岡は「ひばりをタイトル・ロールの常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。中村錦之助や大川橋蔵は、なにしろ歌舞伎界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという[出典 194]。高岩淡の証言では、この時の料亭での話し合いには、ひばりとマキノはおらず、岡田と田岡、加藤喜美枝の三者による話し合いで、田岡、加藤が「ひばりの名前を出演者のトップに出せ」と言って聞かないので、「歌舞伎界の御曹司(中村錦之助)をトップにしないわけにはいかない。今回はひばりさんはトメ(出演者の最後)にしてください。ひばりさんをトップにするなら、相手役は里見浩太朗になりますよ」と、岡田がはっきり言い返したので、田岡が感心して「この人の言うとおりや」と逆に加藤を論したという[出典 195]。
田岡は岡田の度胸に惚れ込んで、以来、京都に立ち寄る度にスタッフ全員分のきんつばを土産に撮影所の陣中見舞いに訪れ、その労をねぎらうようになったという[385]。田岡が京都のクラブ「ベラミ」で鳴海清に撃たれて負傷した1978年7月11日も、この日の前日焼けた京撮の火事見舞いの帰りだった[386]。また後に東映がヤクザ映画に方向転換した際は、取材協力だけでなく、他の組とのトラブルに巻き込まれないように気を配ってくれたという[385]。田岡は生前「岡ちゃん、あんたがヤクザなら、俺以上の親分になっとるわ」と感心していたという[出典 196]。
ひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると『岡田さん、岡田さん』と岡田を呼び『岡田さん以外とは話さない』と言っていたという[出典 197]。岡田は神戸芸能社との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは小林旭と結婚した1962年あたりから映画や浅草国際劇場での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた[388]。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、『江利チエミで大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです』と、新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた[388]。『お嬢の座長公演のスタートは、女の花道』との演題で川口松太郎に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一か月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が『東宝から淡島千景を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする』というバーター案で、これにより沢島の貸し出しが決まった[389]。沢島はこの後1967年、岡田が『もう時代劇はやらない』というので東映を辞め、東宝系の東京映画に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した[出典 198]。
当時22歳の萬屋錦之介と17歳の美空ひばりは、共演後にたちまち恋仲となったが、ふたり共に、これから上り詰めていこうという絶好調の大スター同士で周囲が猛反対した[392]。それでも別れないふたりに田岡は困り果て、岡田に別れさせてくれと頼み、岡田がふたりを別々に呼んで諄々と諭して別れさせたという[392]。
1954年、岡田が製作課長時代に東映に移籍してきた萬屋錦之介を唯一説得できる存在であった。錦之助は『笛吹童子』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、片岡千恵蔵や市川右太衛門の作品には若いファンがいない。だから錦之助や東千代之介の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、『ダメだ』と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると内田吐夢や伊藤大輔、田坂具隆ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は“巨匠離れ”ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は『そんなこと言ってると人気が落ちるぞ』とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって『岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ』と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、有馬稲子からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には『年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年俸が多いんだよ』と言うと、有馬は『そうよねー』と頷いていて、錦之助に『お前はそんな柄じゃない』などと説得したが聞き入れず社長たちの[393]。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し「宮本武蔵シリーズ]」五部作の完結編『宮本武蔵 巌流島の決斗』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた[394]。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は『このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ』との条件を出し錦之助を説得[出典 199]、1966年錦之助は東映を円満退社し『中村プロダクション』を設立したが1982年に倒産、岡田らの口利きで『ビッグヒル新社』という再建会社を設立したがこれも倒産した[395]。錦之介は再び岡田のところへやってきて『柳生一族の陰謀』へ出演することとなる。
格闘映画
[編集]格闘をモチーフとしたアクション映画は1956年の『空手打ちシリーズ』(高倉健主演)からだが、1960年代に入ると柔道を正式競技とする東京オリンピックを先取りした『柔道一代シリーズ』(千葉真一主演)や、テレビドラマでも桜木健一を主役にすえた『柔道一直線』を制作していた( ⇒ #テレビドラマ)。1973年の空手をモチーフとした千葉真一主演『ボディガード牙シリーズ』は、週刊サンケイに連載していた梶原一騎の劇画を映画化したもので、『巨人の星』・『あしたのジョー』・『空手バカ一代』と梶原が次々ヒット漫画・劇画を発表していたので岡田は注目していた。
4か国合作『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(千葉真一主演)のシナリオハンティングで、1973年の夏に香港を訪れた高田宏治が劇場で『燃えよドラゴン』を観て「香港にとんでもなく面白い映画がある」と、岡田へ日本で一般公開される前に試写で観せた[396]。「オモロイやないか。カンフーをカラテに置き換えて、千葉で行け(千葉真一を主演に据える)[396]」と岡田が号令を出して製作したのが1974年の『激突! 殺人拳』[出典 200]。東映にとって久々の大ヒットを飛ばした作品となり、当時の岡田は何をやってもうまくいかなかったが、よっぽど嬉しかったらしく祝電をいっぱい打っていた[397]。
フランシス・フォード・コッポラが千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を作りたいと岡田に打診してきたことがある[274]。アメリカ州・欧州・東南アジアで千葉の主演作品『殺人拳シリーズ』・『地獄拳シリーズ』が大ヒットしていた頃、岡田に「海外で勝負させてください」と千葉は頼んだが[398]、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対された[399]。ジャパンアクションクラブ(JAC)のことも悩み、他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた[400]。
鈴木則文が提出した三作品の企画を自らで潰しておきながら、京都へ帰ろうと挨拶に来た失意の鈴木に「京都時代に俺とお前で作った『緋牡丹博徒』のカラテ版をつくる。主演は香港から呼ぶ。『燃えよドラゴン』でブルース・リーの妹役を演ったアンジェラ・マオと交渉した香港支社から、今OKの知らせが入った。すぐ脚本の準備に入れ」と電光石火で企画を成立させる[出典 201]。「日本語なんか喋れなくてもあの子は売れるぞ。緋牡丹のお竜のカンフー版だ。お前のシリーズになるぞ。題名はこれだ」と岡田が付けた題名が『女必殺拳』(1974年)であった[出典 202]。しかしアンジェラ・マオが諸事情で不出演となり、千葉が推薦してきた愛弟子・志穂美悦子の抜擢となった[出典 203]。志穂美は「現代版お竜」を謳い文句に、「日本初のスタントウーマン」と銘打って『女必殺拳』で主演デビュー[407]、『女必殺拳』はシリーズ化され、志穂美の出世作となった[出典 204]。志穂美は『華麗なる追跡』などにも主演していく[401]。志穂美に続き、千葉の秘蔵っ子・真田広之が『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)、『吼えろ鉄拳』(1981年)、『燃える勇者』(1981年)と主演し、アクションスターとして売り出された[408]。初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、ジャッキー・チェンの香港カラテ映画を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという[出典 205]。2002年、日刊スポーツ映画大賞の表彰式で『たそがれ清兵衛』で主演男優賞を獲得した真田広之について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した[411]。
ニュー東映とアクション映画
[編集]1961年、東映東京撮影所の所長に着任し、ニュー東映の量産体制を担うべく、深作欣二ら助監督を監督へ昇格。千葉真一が初主演で深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』は、日活の『渡り鳥シリーズ』をマネしろと製作されたものだが、それでも物語はスピーディーかつドライな独自なものに仕上げられた[412]。同年に千葉・深作コンビの『ファンキーハットの快男児シリーズ』は『風来坊探偵シリーズ』より現代的な作品になっており[412]、高倉健・鶴田浩二らもニュー東映の“現代アクション路線”に出演していた[出典 206]。岡田は器械体操で使用される器具を次々東京撮影所に設置し、千葉へ撮影の合間にトレーニングするよう指示していた。千葉と深作は東映の外に出て、1966年の日本台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』でもコンビを組んでいるが、これらはテレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年、TBS)の先駆けともいえる作品となっている[102]。深作の1962年作品『誇り高き挑戦』は各方面から賞賛されたが、お客が入らず、岡田が深作に「駄目や、全然違うじゃないか。お前、ジャーナリズムとか批評家なんかに褒められて、いい気になったらあかんぞ」「お前、もっとドンパチやれ。ドンパチやらないからいけないんだ。『ギャング対Gメン』、これをやれ」と同作を撮らせた[414]。岡田は当時テレビで日本でも人気があった「アンタッチャブル」でいけ、と指示を出し、これを脚本の村尾昭が馬鹿丁寧にパクり、岡田は「これは面白い」と褒めたが、なんぼなんでもそっくり過ぎな映画になっている[414]。しかし三島由紀夫は何故かこの作品を褒めたという[414]。
『網走番外地』(1965年)は、元々三國連太郎が、岡田が手がけた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”として、岡田に企画を提出したのが始まり。
大映のアクション時代劇を観た岡田は 吹き替え・スタントマンの重要性に気づくが、当時の東映の大量生産体制でスタントマンを養成する余裕がないため、手っ取り早く、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く[97]。明るく楽しい時代劇では、いつか観客離れがくると、将来の時代劇アクションという方向性を模索していた。ところが当時は 吹き替え・スタントマンという専門職がまだ確立されていない時代、また宍戸も大映に所属し五社協定で移籍は不可能であるが、岡田は何のトラブルもなく宍戸を破格の待遇で東映に移籍させた。また100万円をポンと出して諸道具を購入させた。この諸道具は1962年、大映で市川雷蔵主演で『忍びの者』がシリーズ化されると、諸道具一式と宍戸を込みで大映に貸し出し、一作品当たり50万円(計8本)を請求して充分元を取った[97]。宍戸を引き抜いたものの、間もなく時代劇を終了させ、着流しヤクザ路線へ舵を切るため、宍戸をあまり活かせず、宍戸は1967年フリーとなる[97]。
仁侠映画
[編集]岡田プロデュースによる1963年『人生劇場 飛車角』は、東映任侠路線の幕開けとなった作品で[出典 207]、過去何度も映画化された青成瓢吉を主人公とする青春映画では当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据えヤクザ映画に変えたものである[出典 208]。『飛車角』路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた[出典 209]。
この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』『御金蔵破り』『集団奉行所破り』『大喧嘩』『忍者狩り』『間謀』『くの一忍法』『十兵衛暗殺剣』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『徳川家康』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した[出典 210]。岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた[421]。
1972年、岡田が総指揮を執った藤純子の『純子引退記念映画 関東緋桜一家』が大ヒットした後、任侠映画の当たりがもうひとつの状況を迎えた。同年秋に安藤昇の『やくざと抗争』が予期せぬヒットを放ったため、即座に続編の製作を命じ、この続編のタイトルに『やくざと抗争 実録安藤組』というタイトルを付けた。暗中模索の中で岡田の頭にひらめいたのが"実録路線"である[260]。これが『仁義なき戦い』の誕生になり、『山口組三代目』に繋がる[260]。『仁義なき戦い』シリーズは、東映実録路線といわれ、その後、多くの実録ヤクザ映画が製作された(#実録)。
京撮の大リストラ
[編集]1964年、所長として京都撮影所に帰還[出典 211]。「日本で最低の撮影所」ともいわれた東映東京撮影所を『人生劇場 飛車角』の大ヒットなどで甦らせたばかりであったため、鶴田浩二などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという[422]。大川からの最大のミッションが京撮の合理化で、時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた矢先だった[出典 212]。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断。2100人いた人員を一気に900人に減らした[出典 213]。それだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないとかなり手荒い事をした[424]。岡田が最初に手をつけたのは切りやすい現場スタッフではなく、草創期の東横映画時代から撮影所を支えてきた歴戦の勇士たちであった。片岡千恵蔵や市川右太衛門、月形龍之介以下、時代劇俳優・監督・プロデューサーみんなに辞めてもらう[出典 214]。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた[出典 215]。まずは片岡千恵蔵と市川右太衛門の両〈御大〉。いずれも専属契約解除を通告、千恵蔵は重役待遇で東映に残り、任侠映画やテレビ時代劇の脇役として活躍した。右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、取締役としてしばらく在籍した後、相談役に退き東映を退社した。続いて〈天皇〉松田定次はテレビ映画に移管させた。〈法皇〉比佐芳武には引退を勧告した[182]。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、平山亨らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという[427]。大川社長から「全権」委任を取り付けていた京撮所長時代の岡田の権力は絶大で[出典 216]、役者も岡田に気に入られなければ役も付かない[428]、監督でも一流大学を出て助監督をどれだけ長くやろうとも、一本監督をやって岡田が気に入らなければ「あかんわ、これ」と、二本目を撮ってもダメと評価されたら、「お前な、仕事せんでもええけど給料やるわ」と最後通告され[428]、入れ替わりが激しかったという[428]。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた[429]。切られた側の松田定次や東千代之介などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある[出典 217]。時代劇は家族視聴が主体だった当時のテレビ視聴形態にマッチしていたこともあり、重要なコンテンツと目をつけて、任侠路線に馴染めず余剰人員となっていた時代劇のプロフェッショナルたちをテレビに送り込むため、東映京都テレビ・プロダクションを設立してここへ移管させた[出典 218]。大川橋蔵、河野寿一、佐々木康、結束信二、森田新、村松道平、松尾正武ら[182]。幸い、テレビは時代劇を作りたくてしょうがないのに作る場所がなく、それで東映の撮影所で時代劇をどんどん撮っていった[431]。また、それまで京都中心部に当てられていた脚本執筆のための旅館を太秦の東映独身寮に移し、旅館代を浮かせた[432]。
喜劇
[編集]1967年、東映でも喜劇路線を敷こうと、当時東宝にいた渥美清を引き抜いた[出典 219]。その頃東宝には森繁久弥や伴淳三郎、三木のり平ら大御所がいて、渥美はほとんど売れていなかった。瀬川昌治監督の『喜劇・列車』シリーズほか数本に主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは松竹が一番水に合うと思うよ」と助言[433]。松竹入りした渥美はほどなく『男はつらいよ』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる若山富三郎の『極道』シリーズ、1975年から始まる菅原文太の『トラック野郎』シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった[出典 220]。
渡辺プロダクション社長・渡辺晋がクレイジーキャッツを東映に売り込んできた際、岡田は谷啓を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払うギャラの三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、ハナ肇→松竹、谷啓→東映、犬塚弘→大映、植木等→東宝、とそれぞれバラで売り出す青写真を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという[435]。
東映ポルノ
[編集]任侠路線と並ぶ柱を作ろうと文芸路線、喜劇路線を試行するが大きな成果が得られず、1960年代後半から独立プロが製作していたエロ映画に目を付け、参入を計ったのが東映ポルノである。
東映洋画(東映洋画部)
[編集]また1960年代後半から中小の配給会社が輸出して利益を挙げていたピンク洋画(洋ピン)に目を付け、エロ路線の拡大を狙い1972年5月、東映に洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出した。
社長就任とフライヤーズ売却
[編集]東急社長五島昇により「ウチ(東急)で映画の製作をやらせてやる」と社長を請われたことがあるが、岡田は固辞している[436](1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している[437])。高岩淡の話では、1968年に岡田は俊藤浩滋、今田智憲の3人で東映を退社し、電通と組んで独立会社を作るという案を練っていたが、この年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、現場のトップや監督、役者などがみな、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと発言したために退社の話はなくなったのだろう、と述べている[215]。
1971年当時、大川の息子・毅は、ボウリングクラブ、タクシー、ホテルなど、映画以外の事業本部長であったが、うまくいかなくなるにつれ労働組合が騒ぎ始めた[出典 221]。当時は一株株主というのが流行っていて、毅にプレッシャーをかけていた。1971年4月の株主総会が近づいてきたとき、岡田は毅に「組合の問題は全部私が処理するから、あなたはどこかへ引っ込んでいてくれ。どこかに行ってる間に解決するから」と伝えた。当時一番の目玉企画だった『網走番外地シリーズ』が控えており、東撮の組合がその製作を辞めると言い出した。当時東映の組合は強かったが岡田は「やるならやってみろ。でも今、会社を潰したってしょうがないぜ」と強気で当たった。しかしどうにも埒があかず手がない。京撮は活動屋の巣でもあり、岡田の古巣、かつ直属の部下である高岩淡を中心に岡田に忠実であったため、岡田が最終的に繰り出した戦法は『網走番外地』を京撮で作ることで手を打ちロックアウトをかけた[出典 222]。当時はロックアウト自体どういうことか誰も知らず、給料ストップらしいということが効き目になった。団体交渉で「条件を呑んでくれれば、払わないわけにもいくまい」と伝え紛争は解決した[出典 223]。全部が終わったのは総会の前日だった[431]。大川博社長から初めて「ありがとう」と言ってもらったが、その直後に大川は体調を崩してそのまま逝去した。
大川社長の逝去で、後任社長には岡田・坪井与・俊籐浩滋・片岡千恵蔵らの名前が挙がったが、才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという[438]。
社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時通産大臣だった田中角栄を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた[439]。「お断りします。それは住友ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて五島昇の所に行ったところ「三菱にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行頭取の伊部恭之助に会うと慌てて「それは違う。堀田庄三さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった[439]。
1972年秋、経営窮状の西鉄ライオンズ、東映フライヤーズ両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げてパ・リーグは崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄をロッテ・オーナー中村長芳が太平洋クラブの支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌1973年1月、PR効果だけが目的と思われる不動産会社・日拓ホームにフライヤーズを売り飛ばした[出典 224]。日拓への売却の経緯は「今里広記を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝(西村拓郎の父)に球団経営を勧めたもの。売却額も8億円と書かれたものが多いが[出典 225]、岡田は自伝で3億円と書いている[442]。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた[出典 226]。
1973年の東映は『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など「実録路線」の大ヒットで年間配收73億8000万円と創立以来2番目の記録を更新[251]、他の追随を許さない好業績を挙げたが、翌1974年早くも停滞ムードが漂う。岡田は社長就任以降、企画も若手グループにまかせ、あまり介入しなかったが、同年4月の映画企画製作委員会の席上、①19歳以下を掴まえること、②セリング・ポイント(セールスポイント)は1ツであること、③世界の企画動向に注目せよ、④出来上がりの面白いこと、という"製作の4原則"なるものを打ち出し、"今日からオレがOKしなきゃ撮らせない"とハッキリ介入宣言を出した[251]。翌1975年には映画事業部長を兼任して陣頭指揮にあたり、全作品をプロデュースした[251]。岡田の映画事業部長兼任はその後も10数年続く[445]。1983年から1984年にかけての映画は企画を見て製作するか否か即決、全面的に岡田が仕立てたラインアップだという[445]。岡田が社長に就任してからは、東映は岡田の独裁国家となった[446]。企画を提出する際には、岡田の諒解さえ取れば、あとは何をしようと営業も宣伝も文句は言わない。但し岡田は岩盤のように頑固で、日下部五朗が自身がファンだった岡本喜八監督で映画を撮りたいと、岡田に何度も企画を持って行くが、「あかん!八の字のつく奴は使わん!」と意味不明の理由で、遂に企画が通ることはなかったという[446]。
東映グループは月1回、銀座の本社8階会議室で全体会議があり、日本中から、本社の部長以上、映画館の館主、支社長、関連会社社長等、50人くらいを集め、岡田が案件を1件ずつ見ては「儲けが悪いな」「赤字ばっかりじゃないか」等、指摘する。この全体会議は遅れると入れてもらえず、1979年当時、東映テレビ企画営業第二部部長だった平山亨は遅れて、後で岡田に『お前なんか辞めちまえ』と言われた。会議に出るのが嫌になり役付けを部長代理にしてもらったら、その後岡田に「おう、平山。大丈夫か、体の方は」と言われた。岡田には「平山は病気」ということで報告が行っていたという[447]。
実録
[編集]“実録”は#仁侠映画に留まらず、東映は勿論他社も“実録モノ”を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、東宝が池田大作の著作で創価学会第2代会長・戸田城聖の半生を映画化した『人間革命』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『実録・日本共産党』であった[出典 227]。
岡田は他の会社でレッドパージされた家城巳代治や今井正にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが[450]、どちらかというと右寄りの映画が多いため1974年、その『日本共産党』の映画を企画し[出典 228]、製作しようとしたら社内から、一体うちのポリシーは何なの?と批判が出た。これを「代々木(日本共産党)が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか『赤旗』の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。映画のスタイルは『仁義なき戦い』タッチの「実験映画」で、戦後日本の一方の巨大組織誕生秘話を描こうという構想であった[451]。ところが制作は中止された。山城新伍はやはり東映は右寄りだから、おおかた宮本顕治委員長からクレームがきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた渡辺政之輔の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説[出典 229]、そうではなく、当時の東映京都の組合にはそれ程の力は無かったので、共産党が伸びるのを面白くない右翼が圧力をかけてきて流れたという説がある[451]。『実録・日本共産党』が成功していれば、社会派現代劇にも道が拓かれたかも知れない[451]。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された[出典 230]。岡田は1976年、解放同盟と組んで松本治一郎(松本龍の養祖父)の伝記映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという[出典 231]。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『いつかギラギラする日』の原案という[出典 232]。
こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、アドバルーンだけブチあげて実際は製作されないことが多かった。『田中角栄伝』や『実録・新日鉄』『実録・伊藤忠』『プロ野球黒い霧事件』『毛利郁子愛人刺殺事件』を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない[出典 233]。1974年11月に起こった荒木虎美の「別府3億円保険金殺人事件」を現代版『羅生門』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明[457]。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、東海大学の創立者・『松前重義伝』の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという[459]。実録物では他に1974年に『実録・紅白歌合戦』を企画したこともある。当時の紅白は視聴率が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない[460]。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた[出典 234]。
映画化された物では小野田寛郎を映画化した『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)は、小野田元少尉のルバング島での生活はまったく出てこない映画であった[463]。同年の鶴田浩二主演『あゝ決戦航空隊』は、神風特攻隊の提唱者といわれる大西瀧治郎が人間として魅力があり、大西の死によって徹底抗戦を主張した厚木航空隊の青年将校が思い止どまったという歴史的な秘話もあり、従来の戦記映画にないドラマが出来ると製作させたもの[251]。1974年暮れから公開されたフランス映画『エマニエル夫人』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で佐久間良子を貸し出し『雪夫人繪圖』(1975年)の企画を日活に売りつけたこともあり、佐久間はまったく脱がず昼メロ的な映画であった[464]。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した[461]。
1975年の『実録三億円事件 時効成立』という映画は、岡田が時効が迫った「三億円事件」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の岡田裕介(後の東映社長)。岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した[出典 235]。
外国との提携
[編集]1974年の『樺太1945年夏 氷雪の門』あたりからソ連のモスフィルムとの付き合いが始まり、モスフィルム所長ニコライ・シゾフとの共同製作で1980年『甦れ魔女』を製作。この後、シベリアオオカミを主人公にした映画、という岡田の企画が8年越しで実現したのが1990年の『オーロラの下で』[468]。
その後もモスフィルムと提携して合弁会社「トーモス」を設立、東映太秦映画村のモスクワ版を作るというプロジェクトも進めたがその後の詳細は不明[468]。モスフィルムの3700本の日本上映権は1990年9月契約した[468]。
1974年、アメリカのワーナー・ブラザースがロバート・ミッチャム、高倉健主演、シドニー・ポラック監督で映画化した『ザ・ヤクザ』は、東映の京都撮影所で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は“カミカゼ”なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという[469]。この映画のエグゼクティブ・プロデューサーは俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、ポール・シュレイダーが脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやりメロドラマにした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った[470]。
ブルース・リーの4本しかない主演映画の日本公開順では最後となった『ドラゴンへの道』の日本での配給権を巡り、1974年に東宝東和と激しい争奪戦を展開し池玲子を人身御供"にして同作の獲得に成功した。
岡田が設立した東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け[出典 236]、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』の大ヒット、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』のリバイバルヒットと後[471]、この『ドラゴンへの道』の大ヒットにより洋画部は大きく飛躍した[出典 237]。
1975年、東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)でジャカルタに行った際、同じ代表団団長同士というので香港ショウ・ブラザーズの邵逸夫と仲良くなり、その後提携に発展した[出典 238]。当時、香港で『仮面ライダー』が物凄く人気を呼んでいて、邵は子供物に非常に興味を示し、動画(アニメ)に手をつけたいから応援してくれ、と言われたが「動画はあまり得にならんよ」とアドバイスを贈った。香港は人件費が安いからと邵は動画をやりたがっていたという[274]。三上陸男や村瀬継蔵がショウ・ブラザーズに招かれたのはこの流れと思われる。邵は映画村にも興味を持ち、撮影所のわきに作りたいからと岡田に指導を要請してきたが、タダで知恵は売れない、ノウハウを輸出してやろうと答えたという[274]。
ジャッキー・チェンの日本で最初に劇場公開された主演映画『ドランクモンキー 酔拳』は、先のゴールデン・ハーベストが東映ポルノに注目してコンタクトしてきた流れから製作の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった[出典 239]。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』)だけは岡田が「誰がこんなもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である[287]。
新たな取り組み
[編集]『新幹線大爆破』(1975年)は、アメリカのパニック映画に受けて立つと考えた岡田の企画[474]。
『トラック野郎』(1975年 - 1979年)は、愛川欽也が岡田に企画を持ち込み直談判したもの。
便乗企画では深作欣二の『暴走パニック 大激突』(1976年)は『新仁義なき戦い 組長の首』(1975年)のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『バニシングin60″』をミックスして作れと号令したもの[475]。
1979年、田中健・岡田奈々主演の『暴力戦士』は、ウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの[出典 240]。
『愛のコリーダ』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の“本番”が大きな話題を呼んだ松田英子を獲得し『大奥浮世風呂』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある[478]。
時代劇復興
[編集]『柳生一族の陰謀』(1978年)は、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。山本薩夫の『忍びの者』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもの[479]。かつては時代劇の切り捨てに辣腕を振るったが[169]、本作の大ヒットで東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた[出典 241]。
元気づいた錦之助はこの後、同じ深作欣二監督で『赤穂城断絶』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた[479]。1996年、萬屋が文化庁から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして『俺が言っておくから、松竹の永山武臣会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろう』と言ったが、錦之助は『俺は映画の錦之助として死にたい』と言ったという[出典 242]。
1996年のパーフェクTV!、1997年ディレクTV開局とCSのチャンネルが一気に増え[483]、「こんなにたくさんのチャンネル誰が見るんだ」と、専門色を出さないといけないだろうなと考えていたところ[484]、1997年にC.A.Lの加地隆雄社長が岡田を訪ねて来て[484]、「時代劇で一つのチャンネルを開きたいんだ。いま時代劇衰退だといわれとるから時代劇を守りたいんだ」と訴えたため[484]、「分かった。加地君がそういうならやろう」と[484]、多チャンネル時代を視野にいれ[485]〈人気低下が目立ち始めた時代劇の復活〉を掲げ[486]、C.A.L、電通と組み、岡田が音頭を執り[484]、東映、C.A.L以外に時代劇のコンテンツを持つ国際放映、三船プロ、ユニオン映画、Gカンパニーに声をかけ、1997年11月14日、加盟6社で「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げ会長に就任[出典 243]。各社の持つ時代劇コンテンツを各種メディアに供給の他[488]、加盟6社が持つ映画やテレビの時代劇ソフトのデータベース作りと管理[488]、著作権への対応[488]、海外への作品供給等[488]、膨大な過去の財産からビジネス・チャンスを作り出し、日本独自文化である時代劇の維持と再発展を目標にした[出典 244]。時代劇映画製作の構想もあった[484]。
当時、日本テレビの時代劇ドラマが、明石家さんまのバラエティに衣替えしたり[489]、テレビの時代劇番組はどれも視聴率が10%前後と苦戦を強いられ、時代劇を取り巻く環境は年々、厳しさを増していた[489]。岡田は「確かに今はトレンディドラマやバラエティに押され気味ですが、プロ野球を見ている人は年配層だし、お年寄りに時代劇ファンはまだ多い筈です。一社で番組を売るより、みんなで協力した方がいい。今は苦しくとも、長い目で見れば、時代劇が見直される日は必ず来ると思います」と述べた[489]。島野功は「協議会のメンバーは時代劇をマンネリ化させた張本人たちです」と皮肉った[489]。
1997年12月1日からディレクTVでワンダーキャストが経営する委託放送事業「時代劇チャンネル」に対する作品供給を始め[出典 245]、同チャンネルはトップクラスの人気を誇った[483]。多チャンネル時代のソフト確保は、著作権問題が課題で[485]、これ以後、衛星放送の時代劇ソフトを巡る動きが急展開した[出典 246]。1998年5月7日に東宝と松竹も協議会の参加を決め[出典 247]、これにより国内で時代劇に係る製作会社と関連ソフトを持つほとんどが同協議会への加入した[出典 248]。1998年7月からスカパー!の「時代劇専門チャンネル」を運営するスカイエンターテインメント社(現・ジェイ・スポーツ)にも同協議会から番組を供給した[出典 249]。
東映太秦映画村
[編集]1975年に開村した東映太秦映画村は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの[出典 250]。高岩淡は「撮影所を一般に開放して、撮影風景を見てもらってはどうでしょう」と岡田に提案したところ、岡田は「そんな裏側を見せるもんやない。それに、観客がぎょうさん来たりしたら、監督も役者もやりにくくてかなわんで」と言ったが、しつこく食い下がったら「そんなに言うなら、一日だけやってみい」と言われ実行したら、観客が押し寄せ大盛況で、これに岡田が納得した結果、東映太秦映画村がオープンしたと述べているが[492]、岡田は著書で「ユニバーサル・スタジオ同様、日本でもこうした施設を作れば受けるはずだと考えた。その前から撮影所を見学したいという要望が多く寄せられていて、見学には案内人も必要だし、その経費もばかにならない。映画村は商売になると踏んだ」と映画村構想は自身の発案だったと書いている[273]。この案を高岩に話したら高岩は乗り気だったという[273]。
東映セントラルフィルム
[編集]1977年、プログラムピクチャーの外注化を設立目的として、低予算で映画を製作するため東映セントラルフィルムを設立。日活を辞めた黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として引き抜き、黒澤が主に日活出身のスタッフらとともに映画の企画制作を始めたセクションがセントラル・アーツである。
東急レクリエーション
[編集]1980年に東京急行電鉄取締役と東急レクリエーション社長に就任し、東急グループと東映の冷え切った関係を修復した[172]。赤坂東急ホテルで開かれた岡田の社長就任を祝う会では、東急グループの総帥・五島昇が人前を憚らず号泣した[172]。岡田は同社の社長を1980年1月から1993年6月まで務め、以降2003年3月まで代表取締役会長、その後も2011年5月に亡くなるまで相談役として30年以上、同社の経営に関与した。東急レクリエーションは、渋谷・新宿を中心に都内一等地に大型の劇場チェーンを持つ興行会社で、社長・会長在任中に各劇場の再開発を行った[出典 251]。1987年、東急レクリエーションと東映の提携によるティ・アンド・ティ映画興行(Cinema T&T)を設立して有楽町センタービル(有楽町マリオン)に丸の内ルーブルをオープンさせ、念願の銀座地区進出を果たし[出典 252]、1987年4月に池袋とうきゅうビルを建設[出典 253]。この時、佐々木興業とチェーンを組んでいた丸の内ルーブル、ミラノ座、渋谷パンテオンを全て東急レクの直営館にした[498]。他に1989年9月開業したBunkamura内にヘラルド・エースとコラボしてBunkamura ル・シネマを[出典 254]、1993年には多摩市の多摩カリヨン館に松竹第一興行とジョイントでビデオシアター・多摩カリヨンシアターを[493]、同年本厚木のミロード2に厚木シネマミロード等をオープンさせた[493]。丸の内ルーブルは天井に巨大なシャンデリアを設置するなど、アクション映画主体の同チェーンに女性層の動員を意識した番組編成を行う先駆けとなった[497]。他の劇場も椅子のデラックス化や絨毯の張り替えなど、劇場への再投資を積極的に行い、岡田社長就任時に同社は大きく業績を伸ばした[出典 255]。『E.T.』や『愛と青春の旅立ち』『戦場のメリークリスマス』『007/オクトパシー』『フラッシュダンス』『探偵物語』『時をかける少女』などのヒット作が続出した1983年12月期には、前年対比52%増と創業以来最高の成績を挙げ、売上高176億5000万円と、一興行会社としては空前の成績を残した[501]。これは従来新宿に集まっていた若者が東急レクリエーションの本拠地である渋谷に移動し、渋谷地域のステータスが上がってきたという背景もあった[501]。
ミニシアター
[編集]岡田は古くから「ミニ・シアター・システム」の構想を持っており[502]、1981年12月、新宿TOKYU MILANO内に、ミニシアターの草分け「シネマスクエアとうきゅう」をオープンさせた[出典 256]。一般公募した館名の中から岡田が「シネマスクエアとうきゅう」を選んだ[504]。
日本アカデミー賞、東京国際映画祭の創設
[編集]1993年、第38回「映画の日」で、映画産業団体連合会から特別功労大章を受賞したが(2011年にも受賞)、受賞の功労理由として「日本アカデミー賞や東京国際映画祭の創設」が明記された[505]。
1978年から始まった日本アカデミー賞は当時、電通開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの[出典 257]。名称を始め色々物議を醸すイベントだが、第4回(1981年)の黒澤明の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『影武者』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。
1985年に日本アカデミー賞の特別賞として創設された同賞編集賞が、三年後の1988年から正賞に昇格したのは、組織委員会委員・浦岡敬一が委員長だった岡田に「編集賞を正賞にして下さい」と直訴し「監督と同等に話し合える編集者を育てられるかな」と問われ「任せて下さい」との返答を受け「では、今年から正賞にしよう」と、岡田の一声で決まったもの[506]。
1985年から始まった東京国際映画祭は、当時日本映画製作者連盟会長を務めていた岡田や瀬島龍三らを中心に創設されたものである[出典 258]。
不良性感度
[編集]1960年代に東映が時代劇から任侠路線へ、さらに暴力とエロチシズムの路線に踏み込んでいったとき、岡田がこれを〔不良性感度〕と呼んだ[出典 259]。以降、1970年代、80年代に於いても〔不良性感度〕の維持と推進は東映の基本路線となった[出典 260]。また〔不良性感度〕は他社に真似られた[114]。言葉の初出は『キネマ旬報』1965年11月上旬号で、井沢淳、高橋英一、日高真也らが参加した匿名の座談会中、このうちの誰かが京都撮影所を訪ね、岡田撮影所長と話をし、岡田が"不良性感度"という言葉を使い、他の出席者が「なんだいそりゃ」と驚き、岡田が以下のように話していたというもの(座談会形式のため要約)「映画界の不振を救うルールを発見した。それは不良性感度の開発だ。つまり社会の不良性がどんどん進んでいる。この不良性を早くキャッチして、それに合わせた企画を立てる奴がこれからは勝ちで、その点から言えばやくざ映画なんかはもう駄目で、来年からはこの不良性の感度をもっと良好にせないかん。映画を作っているものも昔は不良少年の集まりで、不良の方が流行の感度に敏感だ。今は一流大学を出た人間が多すぎる。だからここで不良と称される連中も製作に入れて彼らの敏感さを活かしていく。善良性感度の方はテレビにまかせておけばいい、映画は不良性感度の養成だ」[509]。また「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」とも話し[出典 261]、「私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している[出典 262]。
岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、江戸時代に芝居が“カワラもの”と言われたときからの見世物の役割だ。この二つが、映画にとって陰陽のエレメントになっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に掴まえたがるのが困るところだ」などと話していた[511]。加藤泰は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している[512]。
総売上げ1000億円の大台に乗せ、史上最高の好決算を記録した1989年のインタビューでは「映画製作ってのは風俗産業みたいなもんだからね、絶えず大衆の求めているものは揺れ動いてるからな。ファッションだな、これについてゆくためには、まったく別の発想を入れ込むこともやらにゃダメなんだ。ある時期、角川春樹クンに頼んでシャシン入れてもらったのも、西崎義展クンに入って来てアニメ映画の革命を起こしたのも、みんな"それ"だよ」と話した[238]。
岡田が提唱した〔不良性感度〕路線は、ヤクザ、エロ、グロを追求したが、1975年の『爆発! 暴走族』では、ついに各地の本物の暴走族グループを集結させるに至った[513]。本作で映画初主演したのが岩城滉一である。
田中純一郎は「岡田茂が"いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ"といっているのは、時流に惑溺した不見識な見解といわねばならない。指導者はつねに時流を抜いた批判性の上に立脚して、全体的な判断力を持たなければ危険だからである」と批判した[507]。
「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」
[編集]1964年に「海抜ゼロメートル」という原作のタイトルを『二匹の牝犬』に変更してヒットさせ、題名を付けるのに絶対の自信をつけたといわれる[514]。「タイトルというのは実は興行の中で一番難しいんだ」[515]「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」などと岡田は話しているが[54]、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い[出典 263]。『大奥㊙物語』『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』『恐怖女子高校』『徳川セックス禁止令 色情大名』『はだか大名』『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』『ポルノの帝王』『色情トルコ日記』『二匹の牝犬』『三匹の牝蜂』『ネオンくらげ』『未亡人ごろしの帝王』『尼寺㊙物語尼寺㊙物語』『温泉みみず芸者』『温泉あんま芸者』『温泉こんにゃく芸者』『東京ふんどし芸者』『㊙女子大寮』『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』『好色妻』『色罠』『変態魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』『エロ将軍と二十一人の女妾』『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』など[出典 264]、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し[132]、「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場のインスピレーションが非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している[出典 265]。『エロ将軍と二十一人の愛妾』は最初“エロ”はタイトルに付いておらず、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった[出典 266]。“エロ○○”のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、天尾完次プロデューサーや監督の鈴木則文をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた[出典 267]。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論であった[522]。天尾が池の履歴書を成人のものに100%捏造したとされる[出典 268]。本作の食いつきがいいと池玲子主演で二作目の製作を指示、〈悪女もの〉でタイトルを『先天性毒婦』に決めた[525]。池はまだ16歳であった。ところが後〈悪女もの〉というコンセプトは吹っ飛び、『現代ポルノ伝 先天性淫婦』と改題され公開された[出典 269]。また浅草の有名すき焼き店「いろは」をモデルにした映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、主演の佐久間良子を号泣させた[出典 270]。当初のタイトル案は『あかさたな』で、佐久間はこれ以降、自身の将来に不安を感じ舞台やテレビにシフトすることになる[出典 271]。温泉芸者の取材をしてこいと指示を受けた鳥居元宏が、何のアイデアも浮かばず困っていると、岡田に呼び出され、「イメージだけでも話せ」と迫られ、やけくそ半分に「スッ裸の女がバイクに乗って温泉街を走り回る..そんなイメージです!」と答えると「おっしゃ!それで行け!!」と岡田が付けたタイトルが『温泉ポン引女中』(1969年、荒井美三雄監督)[530]。
内藤誠は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・小野竜之助ともども心底、恐怖した[47]。黒岩重吾原作の『背徳の伝道者』を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『11PM』で大橋巨泉が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった[出典 272]。黒岩は「お金は戴きますが…」と原作料を請求した上で、名前はクレジットから消えたという[527]。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している[124]。また「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『人生劇場 飛車角』『昭和侠客伝』『緋牡丹博徒』『やくざと抗争 実録安藤組』『人斬り与太 狂犬三兄弟』など[出典 273]。『県警対組織暴力』の題名は、ヤクザ映画を圧迫する警察の圧力にムシャクシャしていた岡田が便所の中で思いついたのは有名であるが、『人斬り与太 狂犬三兄弟』も題名に難航していて、岡田が便所から飛び出して「出たー!狂犬三兄弟や!」と出したものという[362]。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという[147]。この他、1964年の時代劇『大殺陣』[535]、『忍者狩り』、『間謀』も岡田の命名[536]。鳥居元宏の監督デビュー作『十七人の忍者 大血戦』(1966年)は、忍者映画という企画で脚本段階のうちから、鳥居を呼びつけ「タイトル決まったで!『十七人の忍者 大血戦』や」というので、鳥居が「(忍者は)十七人も出てきませんよ」と反論すると「ええわ。新人監督の映画は題名を続編みたいにした方が売りやすいやろ」と、内容は関係なく1963年の『十七人の忍者』の続編のようなタイトルにした[537]。『強盗放火殺人囚』(1975年)は、高田宏治が「『大阪脱獄囚 非常線突破』いう題目で脚本を書いてたら、知らん間に岡田さんに題名に変えられてしもた。そしたら女性ファンに『こんなえげつないタイトルの映画作るようじゃおしまいね』なんていわれてフラれてもうた」と述べている[538]。その他、『新幹線大爆破』(1975年)、1978年の『柳生一族の陰謀』というまんまのタイトルや[出典 274]、翌1979年の『真田幸村の謀略』[541]。『恐竜・怪鳥の伝説』(1977年)、『地獄』(1979年)[542]『突入せよ! あさま山荘事件』(2002年)[543] のタイトルも岡田の命名。
1981年の『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は、千葉真一と佐藤公彦、真田広之の三人で、『冒険者たちのメロディー』というタイトルを付けて岡田のところに行ったら、岡田が『爆発! カミカゼ野郎』と変更した。「社長、このタイトルはどうも…」というと岡田がカーッと怒り、千葉は初めて岡田と喧嘩した。もうこりゃダメだと思い「すいません"カミカゼ"残します。その替り"爆発"はとって下さい」と言ったところ、横から佐藤が「アドベンチャー・カミカゼ」と英語タイトルを出し、結局何とか上記タイトルで収まった[544]。
岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや右翼が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという[545]。また、『突入せよ! あさま山荘事件』も、製作総指揮の原正人らが、公開後の反省会で、「(今の時代は)やはり"突入せよ"ではなく、"救出せよ"で行くべきだった」という結論に達している[546]。
批判と評価
[編集]ニュー東映で監督へ昇格した深作欣二は1953年に入社し、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと“おまんこ”する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の工藤栄一に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという[547]。工藤は、岡田を「色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う」と評している[548]。 1955年、後の東京撮影時所長・幸田清が、現場で下働きして数ヵ月後、事務方に配属の辞令を受けたが、当時30歳の岡田製作課長に抗議にいったら、「現場が好きか」と聞かれ、希望通り現場に籍を置けることになった。一課長が辞令をねじ曲げたことに驚いたという[549]。
岡田が1960年代から1970年代にかけて仕掛けた「任侠映画」や「実録ヤクザ映画」、「東映ポルノ」は、"女性の観客にまったく迎合しないアウトロー映画群"ともいわれ[550]、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。武井昭夫は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。全共闘学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから日活のポルノ映画も新しい客層をつくるというより、むしろほどなくマンネリとなって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている[551]。マキノ雅弘は「岡田茂や俊藤浩滋はハッキリいえば二人とも、映画人としてはゲテモノなんです」と述べている[552]。
山城新伍は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、永田雅一さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」などと話していた[出典 275]。
奥山和由は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、田中角栄のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も勝新、裕次郎、松田優作と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた[555]。1987年に奥山が企画した『ハチ公物語』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は渋谷が舞台なので東急グループに出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え五島昇を紹介。東急グループは出資を決め、さらに三井物産も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力なプロモーションや大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった[556]。1989年岡田は奥山を松竹とは別の場所で生かしてやりたい、と東映で金を出してやるから『大霊界~死んだらどうなる』みたいなの考えろと言ったら、奥山は「『大霊界』はカンベンして下さい」と初演されて間もない今井雅之の『THE WINDS OF GOD』を映画化したいと持って来たという[238]。その後の経過は不明だが1995年に松竹で最初の映画化が行われた。
東映映画の大ファンで関連著作も多い杉作J太郎は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さんの大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている[249]。
映画美術の第一人者・井川徳道は、近代映画協会の新藤兼人の口利きで岡田を紹介してもらい、東映京都撮影所に移籍した[557]。東撮で長く仕事をしていたおり、松竹の篠田正浩から誘いを受けたことがあり、たまには芸術映画をやりたいと「しばらく京都を離れたい」と岡田に掛け合うが「映画は娯楽やぞ。一般の人が楽しんでこその映画や。評論家に選ばれるのではなく、東映のシステムの中でやってほしい」と諭され、その言葉に感銘を受けた井川は東映京都撮影所で今日まで60年以上の長きに渡り美術セットを作り続けている[558]。
東映映画の惹句を量産した関根忠郎は、岡田と顔を合わせる度に「いいかキミ、おもしろい惹句を書けよ。大衆受けするヤツをな。誰にでも分かるヤツな。芸術は要らんぞ。映画は客が来てナンボだからな!」と言われたという[559]。「これまで岡田会長が世に送った娯楽映画の数と同じ数だけ、わが師匠、橘喜代次と私とで書いた娯楽一点張りの惹句が残っている筈です」「岡田会長。私はこれまで大量の映画惹句を量産してきましたが、こと〈ゲイジュツ〉に惑わされたことはありません。なぜなら東映映画には、幸か不幸か高尚難解な芸術至上作品が見当たらなかったからです。私にとって岡田茂会長は、これからも〈映画の巨人〉であり続けます」などと話した[559]。
『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を共同製作した佐藤正之は岡田について「大映の永田雅一、松竹の城戸四郎は芸術やエンターテイメントが優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。大高宏雄は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという二分法をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は“映画は商品である”ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「1960年代後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貪欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている[123]。
翁長孝雄は「東映調というのはつまりは岡田茂調です。統一した色があるんじゃなくて、とにかく先見の明で先へ先へ行くという。それで当たらないと判断したら、アッという間に次に行く。とにかく攻めの姿勢で、攻めることこそ守ることという発想なんです」と述べている[560]。
高岩淡は1983年の映画誌の座談会で「萬屋錦之介さん、鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さん、佐久間良子さん、三田佳子さん、笠原和夫さん、深作欣二さん、降旗康男さん、佐藤純彌さん、みんな岡田茂社長が育てたスタッフと役者さんです。東映黄金時代の若者たちがいま映画界の第一線で頑張っているとはっきり言えます」と述べている[561]。
中島貞夫は「岡田さんは東映の方向を大転換しなければ駄目だと考えていたから、僕が切り込み隊長の役割を担うことになったんです。変わったことをやるのが僕の宿命になったわけです。使い勝手が良かったから色々声をかけてもらうことになりました。僕にとっても岡田さんは話しやすい人でね。理屈で攻めるとすぐに『馬鹿もん!』と言って来るんだけど、時間が経つと『おい、昨日の話、あれな…』となるタイプでした。岡田さんはマキノさんの流れを汲む映画青年でしたね。新しいことをやらないと客が入らなことが分かっていて、何かこちらからぶつけると、駄目元でやってみようという決断が出来る人でした。僕が監督になったのが東京オリンピックの年ですけど、それと前後して古い監督や俳優さんはほとんどいなくなって若い作り手が登場したんです」[562]「日本映画界には優れたプロデューサーが何人かいて、また、経営者として優れた人もいた。岡田さんの場合は、その両方が出来る人だった。日本映画界で、映画を作ることと、商売すること両方をきちっとできた人は殆どいない。しかも、映画界というのが非常に苦しくなった時にそれをやってのけた。こんな人は、多分岡田さんが初めてだったんじゃないかと思いますし、今後もそういう方は出てくるのかなあ、という危惧はあります」と話している。岡田さんが京都の若手監督らを集めて『あのなあ、映画でメシ食っていこうや』『映画でメシ食っていこうという覚悟のあるヤツらだけでやろうや』と言ったことがある。その言葉が昭和40年代の映画界がどん底のなかで、東映が生き残った原動力かと思う(抜粋)」などと話している[563]。大高宏雄も、「映画製作と、映画会社経営双方にまたがる矛盾そのものを、そうと悟られずに生き続けた稀有な映画人」であり「カツドウヤと資本家。ありえないことをやってのけた」と岡田を評した[564]。松岡功も「岡田さんのように映画を作る才能と会社を経営する才能の両方を持っている方はなかなかいません。これからも出てこないと思います。私を含め岡田さんは全映画人のあこがれであり目標でした」と評している[322]。
鈴木則文は映画を辞めようと思案していた時、珍しく自宅で静養していた岡田を尋ねた[458]。鈴木はまだ映画を辞める心境だと言ってないのに何故か急に岡田はこれまでの自分の体験を話し始めた。最後に「己を足らざるを知り、ただちにそれを学べ」という言葉がある。忘れずに覚えておけよとしみじみ語った。鈴木はその格言の語源を漢字辞典などで調べてみたが発見できなかった。それは造語の天才である岡田が、その時即座に創った格言だったのである[458]。この教えは、鈴木の胸に深く刻み込まれてその後の映画人生の指針になったという。岡田茂は傑出した映画人であった。が、同時に優れた教育者でもあったと述べている[458]。「その性質は峻巌にして秋霜烈日。180センチを超える体格の持ち主で柔道三段。「三国志」や「水滸伝」に登場する豪傑のような人であった。押し出しの強い広島弁が特徴で、スマートに政財界の重鎮と渡り合ったかと思えば、その辺の方々にも睨みをきかせ、それでも愛された稀有な人でもあった。経営者としては、非常にシビアな面もあり、人員整理や人事異動を容赦なく行なった。〈国粋主義〉のレッテルを貼られ、GHQに禁止されていた時代劇が解禁され、その隆盛とともに岡田茂の擡頭がはじまった。市川右太衛門、片岡千恵蔵に替わる新しいスターの作品を連発し、敗戦国、日本国民の溜飲を下げ、娯楽に飢えていた国民の渇望を潤し東映株式会社の礎を築いた」[565]「激変する時代の中で、落日の斜陽を浴びて悪戦苦斗する映画産業を護り抜き、また商売の要である幾多の人気俳優や有能なスタッフを育て上げた功績は、彼の並外れた〈人間力〉のしからしむるところであった。岡田茂こそ日本映画産業の衰退とともに死語となりつつある〈活動屋〉という言葉にふさわしい〔最後の活動屋プロデューサー〕なのだ」[458] などと岡田を評している。
『毎日新聞』は「反社会的な題材や過激な描き方がしばしば物議を醸し、歯に衣着せぬ発言で批判も受けた。しかし時代感覚は鋭く、大胆で豪快な人柄を慕う人も多く、プロデューサーとしても経営者としても、日本映画史に大きな足跡を残したことは間違いない」と評した[566]。
高崎俊夫は「岡田茂の訃報を聞いて、しみじみと"巨星堕つ"の感を抱いた映画ファンは多いのではないだろうか。豪胆な言動から〈最後のカツドウ屋〉と呼ばれ、東映の自由闊達な気風を作り上げた不世出の大プロデューサー。岡田茂の波瀾に富む映画人生はそのまま戦後生まれた若い映画会社・東映の歴史にピタリと重なる。1951年、東映が設立されると岡田は経理のプロ・大川博と根っ子からの活動屋・マキノ光雄(1957年死去)という全く相反する個性の接着剤の役割を果たし、高度経済成長を背景に、東京・京都撮影所長を歴任するなかで、古参の監督の首を切り、大胆な超合理化を推し進める冷徹なマキャベリスト的な側面と、時代の空気と大衆の好み、欲望をいち早く察知する予見者の資質を併せ持つ岡田の稀有な才能は一挙に開花した。映画のブームは10年とばかりに、反戦映画、時代劇、任侠、実録、エログロ、文芸大作と次々に新路線を打ち出した。岡田の標する〈不良性感度〉は東映独自のカラーとして深く浸透した」などと評している[47]。
増當竜也は「岡田茂は映画をあくまでも〝商品〟とみなし、その時々の流行を見据えながら芸術性などどこ吹く風、右も左も問わない作品製作に勤しみ続けた。そこを揶揄する向きもあるだろうが、逆にその潔い姿勢が東映という映画会社を存続させ得たことも間違いないだろうし、結果としても現在残された作品群も立派に映画として屹立し続けているのである」と評価している[4]。
岡田裕介は「岡田茂は東映カラーを作り上げた人間だと思いますが、私自身は先輩プロデューサーとして岡田茂を誰よりも研究してまいりました。テレビ映画が急成長していった1960年代に、今まであった東映映画の財産を、岡田茂はすべてテレビに移行していきました。『水戸黄門』や『遠山の金さん』など、時代劇でヒットしたシリーズをすべてテレビに売っていった印象があるのです。その時、映画の東映に何が残ったのか、それは"反テレビ"という思想であったと私は認識しています。テレビで出来るものは次々にテレビへ売って、映画ではテレビでやれないものを目指す。岡田茂の思想にはそれがあった。ですからヤクザ映画や、道路交通法を破っていく『トラック野郎シリーズ』など、テレビでは絶対できないものを次々に作っていきました。それで主人公はおのずとアウトローになっていったのです。岡田茂自身がアウトローを目指し、好んでエロティックな方向の作品を作ったのではなく、かなり確信的にそちらの方向にへ東映の映画を持っていった。それが岡田茂が守ろうとした東映カラーだと私は思います。また当時の東映の直営館は、そんなアウトローの世界を疑似体験できるような環境にありました。映画館の中でたばこ吸っても咎められませでしたし、映画館そのものが入口から出口まで東映ワールドであったと思います。ですから岡田茂は最初にシネコンで映画を観たときに『俺の時代は終わった』という言い方をしました。シネコンのようにどの会社の作品も同じ環境で鑑賞できる状況になると、東映の世界が崩れてしまいます。しかもシネコンはスーパーマーケットの傍らに設営されているものも多く、ファミリーで楽しめる商業モールのイメージを守らなくていけない。また観客もそういうものを求めるようになってきました。岡田茂は『不良性感度のあるもの、そういう映画しか観客は観ないんだ』と発言しましたが、いつの間にか観客は"良性"のものしか見ないようになってきたのです。こういう上映館の環境も含めた時代の流れは、東映にとって不利な状況であると感じています。そういう状況の中、東映の映画はどのような特徴を出していくのか。それは弊社がもともとやってきたB級映画を復活させて、そこから若い人材を発掘し、育成していくことだと思います。(中略)男女の嗜好も含め、観客のニーズは変化してきていますが、時代とピントの合ったB級映画を我々はこれから作っていかなくてはいけない。これまでの流れを見ても、時代を先取りした作品を東映は発表し、社会的なモラルから言えばギリギリの企画を、東映は実現して成功させてまいりました。今シネコンに対応した安全な企画が多い中で、そこに安住せず独自の企画で勝負するのが東映の映画ですし、またそれが弊社に課せられた使命だとも感じています」などと話している[出典 276]。
2004年の自伝『波瀾万丈の映画人生』を出版した際の報知新聞のインタビューで岡田は「映画の世界ほど面白いものはないし、東映ほどドラマチックな会社もない。誰にだって人生のジ・エンドは必ず来る。悔いはない」と話した[17]。
その他の企画作品・関与作品
[編集]映画
[編集]くノ一忍法
[編集]1964年、組合活動で会社批判ばかりをやっていた中島貞夫を監督デビューさせたのが『くノ一忍法』。
御金蔵破り
[編集]1964年、石井輝男に撮らせた『御金蔵破り』は、フィルム・ノワール『地下室のメロディー』からアイデアを頂いた時代劇[567]。ジャン・ギャバンを片岡千恵蔵、アラン・ドロンを大川橋蔵のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・朝丘雪路のスキャンダルをのせた[567]。1968年の工藤栄一監督、岡田の企画『産業スパイ』は、当時、産業スパイが流行っていたため[568]。
飢餓海峡
[編集]日本映画史上ベストテンにしばしば挙がる1965年、内田吐夢監督『飢餓海峡』も岡田の企画。
緋牡丹博徒
[編集]藤純子の当たり役となった『緋牡丹博徒』(1968年)も岡田の企画。
不良番長
[編集]梅宮辰夫を売り出すために考えたのが『不良番長』シリーズ(1968年-1972年)。
仁義なき戦い
[編集]『仁義なき戦い』の製作に初期段階から大きく関与した。 また劇中の広島弁セリフは、脚本の笠原和夫が岡田の罵詈雑言を参考にしたものである[出典 277]。
山口組三代目
[編集]『ゴッドファーザー』が好きな岡田は、「日本で当てはめるなら山口組だなと考え、これをやるのは自分しかない」と思い立ち、直接山口組の田岡一雄組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した[539]。
本作と続編『三代目襲名』製作の際に警察に睨まれ、何かと嫌がらせを受けた岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだ映画のタイトルが1975年に映画化された『県警対組織暴力』。
この後も東映は山口組の全国進攻を描いた映画を多数製作するが、山口組を題材にした映画が多く量産出来たのは、岡田が田岡一雄と昵懇の間柄だったことと[出典 278]、田岡一雄の息子・田岡満をスタッフに入れていたため[252]。『山口組三代目』を製作する際、岡田が田岡一雄に田岡満をプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい、と申し出た[573]。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と高岩淡や日下部五朗、笠原和夫ら、多くの関係者が話している[出典 279]。
その他
[編集]1969年の十月大作『日本暗殺秘録』は、「エロの次はテロや」という岡田の思いつきで始まった企画[576]。岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と天尾完次に命じて始まった[577]。渡邊が血盟団事件で井上準之助を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている[578]、これは日本テレビの報道局長から相談を受けた岡田が伊藤を推薦したもの[579]。『誘拐報道』は伊藤俊也が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたものである[出典 280]。翌1983年の『白蛇抄』も伊藤が「小柳ルミ子の初主演作で」と企画を出し岡田もOKを出したが、原作の官能描写の凄さに渡辺晋が激怒し岡田を呼びつけ、「ウチの可愛い娘を頼んだぞ」と言ったという[581]。
1978年、野村証券の瀬川美能留相談役(当時)が、社内の会合で「今年は野村徳七翁の生誕百年という記念すべき年。徳七翁の軌跡を記録に残しておけんものか」とつぶやいたという話を聞いた岡田が「それはやはり映画が一番」と働きかけ、東映系のPR映画製作会社、日本産業映画センター製作、野村証券、大和銀行、東京生命の共同企画で野村徳七の伝記映画『驀直進前』が製作された[582]。1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が「東映が福沢諭吉を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの[出典 281]。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった[出典 282]。1983年の『唐獅子株式会社』は企画を聞いて"横山やすし主演"という条件で製作を即断した[445]。1991年の『動天』は なかにし礼が突如、岡田のところへ来て「映画を作りたいから協力してくれ」「製作資金はトーメンが面倒見てくれる。前売りも100万枚確保します。東映には迷惑かけませんから」というから、トーメンの北村恒夫社長を囲んで会い、北村の「なかにし君のロマンに賭けたい」という言葉に納得して製作した[319]。1999年の『金融腐蝕列島〔呪縛〕』は、原正人が岡田に東映での配給を頼んできたもの[543]。2002年の『突入せよ!「あさま山荘」事件』の映画タイトルは岡田の命名[543]。
1979年の森下愛子の初主演映画『十代 恵子の場合』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と内藤誠に命じたものという[24]。また内藤監督の『ネオンくらげ』(1973年)は、音楽も担当してもらった三上寛のLPレコードから自分でストーリーを作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるところが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している[586]。
中島貞夫監督の『瀬降り物語』(1985年)は、中島は20年前に出して没になった企画を「オマエ、アレやってみろ」と、中島も忘れていた企画を撮らせてもらったものという[563]。
1986年の『火宅の人』の映画化は、深作から「映画化させて欲しい」と頼まれた高岩淡が岡田に掛け合い、当時東映は女性文芸物を当てていて「今やうち向きやな。よし、やったろ!」と岡田がOKを出したもの[587]。
1989年の映画『社葬』は、鶴田浩二の葬儀で、葬儀委員長を務めた岡田のアイデア[出典 283]。
テレビドラマ
[編集]1969年から東映で制作した『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔が岡田に「松下が一人スポンサーになるから一緒にやろう。協力してくれ」と頼みに来て始まったもので[出典 284]、「本格的な時代劇はやはり京都でなければ(中略)すでに東映の岡田茂常務(中略)にお願いし、任せておけと胸を叩いてくれ、制作現場の態勢を整えてもらっていた」と、逸見は著書『黄門様はテレビ好き』に書いている[590]。岡田は水戸光圀役は片岡千恵蔵にしようと、逸見と一緒に千恵蔵を口説きにいったが、「まだまだ。映画の現役だ。テレビに出るのは早い」と千恵蔵が断ったので、発想を変えて東野英治郎にしたと話している。大川橋蔵を抜擢した『銭形平次』と『水戸黄門』の受注で、テレビ映画制作は活況を呈した[151]。岡田の長男・岡田裕介は逸見にスカウトされ芸能界入りした[591]。『水戸黄門』は1976年に東京に制作を移すという話が出たことがあったが、逸見が京都での撮影存続を岡田に頼み、岡田が組織をスリム化して新たに東映太秦映像を作ったことで最終回まで京都での製作が存続したという[150]。
1968年のテレビドラマ「大奥」は、岡田が1967年に企画・製作した映画『大奥㊙物語』から、エログロ部分を外し豪華時代劇に変えてテレビドラマ化したもの。
1970年頃、同郷で中学の先輩、カルビー社長・松尾孝が常務時代の岡田を訪ねて来て、スポンサーになれるいい作品はないか、というので、営業の天才と評価していた渡邊亮徳が「今度の毎日放送の新企画は絶対当たります。わたしが言うんだから間違いない。どこかいいスポンサーはないでしょうか」と自信満々に話していた『仮面ライダー』を松尾に薦めた。カルビーの手掛けた仮面ライダースナックは社会現象になった[出典 285]。『仮面ライダー』は「変身ブーム」を巻き起こして「仮面ライダー変身ベルト」など、キャラクター商品も大ヒットし東映に膨大な利益をもたらし「テレビがこんなにお金になることを初めて知った」と岡田に言わしめたという[595]。カルビーも仮面ライダースナックの大ヒットで、1973年に本社を広島から東京に移した[592]。岡田は岡田京子の芸名の名付け親で、京子は女優としての実働も3年間と短く早死にしているが『仮面ライダーストロンガー』(1975年)の岬ユリ子こと電波人間タックル役で出演していたことで没後25年以上たっても根強いファンが多いといわれる。このタックル役での出演は岡田のゴリ押しだという[596]。
また1983年に『おしん』(NHK連続テレビ小説)の放送が始まると松尾がおしんにぞっこんになり、「綾子ちゃんをわが社のコマーシャルに」と切望。おしん役の小林綾子が東映所属だったため、やはり松尾に頼まれ小林がカルビー『かっぱえびせん』でCM初出演した[597]。
『長谷川伸シリーズ』をやっていた頃、俊藤浩滋の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の山下耕作に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と高岩淡にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下“さん”」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している[598]。
平山が手掛けた『がんばれ!!ロボコン』(1974年 - 1977年)のアイデアは『柔道一直線』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ[599]。『柔道一直線』は「スポ根ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える視聴率を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていたエキストラ費が膨大にかかり赤字になっていた。『ジャイアントロボ』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は東映動画の田宮武から、「『魔法使いサリー』の製作費は赤字だがキャラクター商品が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは実写だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛いロボットがやればいい」と思いつき「スポ根」に対して「ロボ根」という発想につながった」という[600]。平山が1977年6月、子供番組担当の部として新設された東映テレビ企画営業第二部(発足は1976年10月)の部長に抜擢されたのは「頑張ったから平山を部長に」と渡邊亮徳が岡田へ進言してくれたのだろうと平山は話している[601]。
1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』で急病を患った主演渡哲也の代役が松方弘樹だった。渡の突然の降板に次の代役が決まらず、倉本聰が岡田に直談判して松方に決まった[602]。最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ松方は代役を受けるハラを決めた[603]。
映画人との関わり
[編集]監督
[編集]1969年、腓返りの病気で苦しむマキノ雅弘を日活に売り飛ばす(マキノ談[604])。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている[605]。小沢茂弘を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後易者や山伏などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている[606]。
佐藤純彌は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という字幕をたっぷりした墨の筆跡で、榊莫山みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった澤井信一郎は、この岡田の一言がトラウマになり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて明朝体かゴシック体にしているという[607]。
岡田は牧口雄二の監督デビュー作『玉割り人ゆき』[608](1975年)を高く評価、本作は当時、岡田が進めていた低価格で製作される「ニューポルノ」「500万円ポルノ」の一本であったが[注釈 8]三本立ての一本として全国封切りの番線に昇格した[609]。1976年の『戦後猟奇犯罪史』は、当時凄い人気だった『ウイークエンダー』(日本テレビ)の便乗企画[610]。最初は松竹映画『復讐するは我にあり』より先に「西口彰事件」を取り上げた第一話と、第三話「大久保清事件」の二話構成だったが、撮影2日前に「克美茂愛人絞殺事件」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった[611]。泉ピン子をレポーター役で出演させワイドショー構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった[610]。同年の『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』は、当時大ヒットしていた『スナッフ/SNUFF』を狙い、「牛裂き」をテーマに撮れと牧口に指示を出して製作された[612]。
五社英雄は1980年に銃刀法違反容疑での逮捕や、会社の労組問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた佐藤正之が岡田に“五社を何かに使ってやってくれ”と頼んできたので[出典 286]。岡田が五社に“一度会社に顔を出せよ”と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は“お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな”と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに“負けっぷりがいい”と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。“どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ”と言われ、持って行った企画が宮尾登美子の小説『櫂』だった。しかし『櫂』は話が地味過ぎるということで、日下部五朗が持ってきた『鬼龍院花子の生涯』を映画化することになった。“これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい”と岡田が五社を監督に抜擢し[361]、五社の映画界復帰が決まった。“この作品がヒットしたら『櫂』も『陽暉楼』も撮らして下さい”と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り『陽暉楼』『櫂』と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。『鬼龍院花子の生涯』は東映の営業も劇場の支配人の誰一人お客が来ると予想する者はおらず、「来ると読んだのはワシだけ」と岡田は自慢している[445]。「五社君も昔の『三匹の侍』の彼とはガラリと変わったからねえ。彼、行き詰まってぼくを頼って来たとき、言ったんですよ。チャンバラなら東映はやりたくないと、そういって男と女のからみ、情念の世界を画かせたんですが、誰もあんなに五社君が変わるとは思っていなかったでしょうよ、新しい才能を開いてみせましたわね」と岡田は話している[445]。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた[出典 287]。
若松孝二はパレスチナの日本赤軍と交流を持ったため、10数回警察からガサ入れを受け『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』(1971年)は新宿文化で上映禁止にされ、『天使の恍惚』(1972年)は、公開を延ばされ、『キスより簡単』(1989年)は、神奈川県警がバンダイを訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「Vシネマ」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、公安が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している[616]。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、若松プロがあった原宿セントラルアパートのマンションを売る羽目になったという[617]。横山博人は1986年に東映から『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、全共闘世代を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している[618]。
1982年の東映新年会に呼ばれた井筒和幸は、岡田が「去年、ヒットしたのは『典子は、今』と『エレファント・マン』です。そういうモノを企画しろ!」と檄を飛ばすのを見て「東映のドンは何とスゴい発想をするもんやなあ」と思ったという[619]。
大島渚は1987年5月8日に文芸坐ル・ピリエで開催された「大島渚シンポジウム」で「岡田茂さんは広島の出でガラは悪いが、映画を当てるのは個人の情熱やでと言った。錦之介が久々に『柳生一族の陰謀』を当てたが、これは錦之介の情熱だった。客は選択眼が鋭い。その映画にかかっている情熱を直感する」などと褒めている[620]。
1999年の『おもちゃ』では、監督の深作欣二と脚本の新藤兼人が祇園のことをあまりにも知らないので、1ヶ月祇園で遊ばせた[589]。
白倉伸一郎は1990年、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に『仮面ライダーシリーズ』を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。2003年、1月の深作欣二の葬式は、岡田の号令で東映全社を上げて盛大に行われた[170]。岡田は中原早苗に「どや、黒澤明の葬式に負けんやろ」と話していたという[170]。
プロデューサー他、製作関係者
[編集]俊藤浩滋が東映に関わるようになるのは内縁の妻・上羽秀が経営していた銀座のバー『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった鶴田浩二の東映移籍や、水原茂の東映フライヤーズ監督招聘の仲介などで大川博と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという[出典 288]。「ヤクザみたいなものを辞めるとき、僕のところに来て『あんたの下に入れてくれんか。付き人みたいに俺、勉強したいんだ。プロデューサーに将来なりたい』『それはいいけど、おまえ大丈夫か?そんなに金は入らんで』と言ったら『いやいや、金なら大丈夫です。心配いりません』って言うから俺の下に入れた」と岡田は話している[623]。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった[出典 289]。俊藤はヤクザの細かいことを全部知っていてヤクザ映画の時代になって伸びた[623]。大川博が岡田は「岡田」と呼び捨てだったが、俊藤には「俊ちゃん」と呼んでいたと俊藤の凄さを表現する記述が一部の文献に見られるが[93]、俊藤は東映の社員ではない外部プロデューサーであり、岡田は大川の会社直属の部下であるため、接し方は違って当たり前なのである。
高田宏治は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、そのプロットは、ガリレオという主人公が、伴天連の妖術師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけがウジ虫だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から小便をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという[627]。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している[628]。小沢茂弘も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している[629]。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している[630]。
1957年、監督志望で入社してきた日下部五朗を「体もでかいし、力もありそうだ」と無理やりプロデューサー修行させた[出典 290]。
日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。1983年にカンヌ国際映画祭でグランプリを取った『楢山節考』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。1979年の映画賞を独占した『復讐するは我にあり』は、映画化権を巡るトラブルでも知られるが(復讐するは我にあり#映画)、日下部が原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、佐木隆三夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に直談判をしたが、当時は実録路線も勢いを失った時期で「もう、実録ものはアカン言うとるやろ! 連続殺人鬼みたいな暗い話、当たるか! そんな原作、どっかへ行って売って来い」と、岡田の鶴の一声で中止させられたと話している[631]。これが今村昌平監督で松竹で映画化され高い評価を得たため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に木下恵介さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実はにっかつロマンポルノ10本分くらい、ドバーッと濡れ場があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった[631]。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ清川虹子に左とん平が乗っかるシーンしかない。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現しており[298]、岡田は日下部の話を真に受けていた可能性がある。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している[出典 291]。
徳間康快と仲が良く1974年に大映を買収した徳間を日本映画製作者連盟(以下、映連)に引き入れ、徳間のメディアミックスに力を貸した。以下の角川春樹・奥山和由も同様である。
岡田は角川春樹と奥山和由を非常に評価し彼らを支援した[319]。角川は「独立プロのプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだった」と述べている。『悪魔が来りて笛を吹く』はそうした一本だが[634]、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは角川映画の2作目『人間の証明』から、具体的な仕事の縁が始まり、『野性の証明』の後、岡田からの要請で、角川は角川春樹事務所を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『魔界転生』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた[297]。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという[297]。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」[297]、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した[出典 292]。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。1976年に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『犬神家の一族』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『人間の証明』で、配給が東映洋画、撮影が日活撮影所、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した[297]。また、『セーラー服と機関銃』『天と地と』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が松岡功に仁義を通して話をつけた[297]。岡田は角川によるメディアミックスを大きくバックアップした。しかし2005年に大ヒットした『男たちの大和/YAMATO』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた[635]。角川映画はキャッチフレーズが流行語となるなど話題を呼び[636]、観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。
1990年、角川が50億円かけて製作した『天と地と』の配給は当初東宝だったが、事情で商談が決裂し、角川が岡田に泣きついてきて配給を東映洋画部で引き受けることになった[319]。その時の角川からは狂気以上のものが出ていて、もういっぺん教祖になれると岡田は見極めたという[319]。「前売り券を500万枚売る。そのうち、東映で100万枚引き受けてくれ」と啖呵を切って角川はその通り400万枚を前売りで売り切った。前売り券が金券ショップで叩き売られて劇場は閑散としていたともいわれるが[637]、岡田は「前売り券の着券率、抜群だというね」と話していた[319]。岡田は角川を評して「軽井沢で夜7時から夜明けまで神仏に祈りを捧げるっていうな、それも年何回も祭事を催すというからな。それぐらいでないとあのエネルギー、とてもじゃないが出ないよ。そういう誰も持ち得ない狂気が劇場へ観客を殺到させてるんだな」と感心していた[319]。「いま欲しいのはそういう狂気を発する教祖サマ、育てて出てくるもんじゃないからな。教祖サマ、出てこないと流れを変えるほどの大ヒット作品生まれないわな」と話し奥山和由を非常に評価していた[319]。
つかこうへいの戯曲を映画化した『蒲田行進曲』(1982年)は、角川春樹が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな楽屋落ちの話なんか当たるわけない」と断り[出典 293]、松竹に話を持って行ったもの[263]。しかし深作欣二が、松竹大船撮影所の雰囲気は違う。撮るのは東映京都撮影所じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の角川映画は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった[638]。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、配給収入も17億6千万円という大ヒットを記録した[638]。
この時期の岡田は、かつてのようなヒット作を見抜く嗅覚は衰えており、1977年の『八甲田山』の企画は最初は岡田に持ち込まれたが「そんな蛇腹(明治時代の軍服)の話(明治物)が受けるかい」と岡田が断り東宝で製作され大ヒット[640]、1983年日本映画史上に残る記録的大ヒット作となった『南極物語』も、蔵原惟繕は最初に岡田に持ち込んだが「犬の映画なんか、当たるか」と突っぱねたという[641]。但し岡田はオオカミを主人公にした『オーロラの下で』は作っている。『南極物語』での後悔からか、奥山和由が資金面で困って岡田に頼んできた『ハチ公物語』(1987年)は、製作に力を貸している[642]。奥山はもともと岡田が作った"不良性感度"映画が大好きで[642]、東映に入るつもりだった[642]。『ハチ公物語』の前に渋谷で軍人のような眼光でコートを羽織りながら歩く大柄な岡田を目撃したことがあり、「わあ、かっこいい。映画界にこういう人がいるんだ」と男として惚れた[642]。「岡田さんのもとだったら、我を忘れて戦争のような仕事でも出来る」と思い、「いつか岡田さんと仕事がしたい」と考えていたという[642]。奥山は「岡田茂、角川春樹、そして自分という三角形というのが明確に見えていました。お互い認め合う存在だったと思います。三人で会うことはほとんどなかったですけど、三人で映画界を振り回していこうみたいな生意気な感覚は凄く強くありました。そこに共通したものは『プロデューサー』だと思っているんです。この三人に徳間康快さんが入ろうものなら『プロデューサー協会を早く解散させろ。あそこにいるのは全部プロデューサーじゃない。我々だけで本物のプロデューサー協会を作ろう』みたいな話をしてました」などと述べている[643]。
笠原和夫は1989年に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、奥山和由)はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している[574]。
1986年の映画『火宅の人』で、キャメラマンの木村大作が東映伝統の三角マークのオープニングを変更して日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとした。深作、プロデューサーともOKを出したが、「会社の顔を変えるとは何事だ」と岡田が一喝して、却下させた[644]。
2001年の『千年の恋 ひかる源氏物語』で特撮を担当した佛田洋は、ハリウッドでのワールドプレミアに、岡田茂会長、主演の吉永小百合、高岩淡社長、岡田裕介プロデューサーら数名と同行。同時多発テロ事件の一ヶ月後であったが、それよりも岡田茂のオーラの凄さにビビったという。朝、ホテルの食堂で離れたとこにいたら「こっちへ来いよ」と岡田に言われたが、あまりにもオーラが凄すぎて「いや、僕はこっちで」と遠慮した。「ぶっちゃけテロの余韻より岡田会長の存在感のほうが僕には強烈でした」「僕の大好きな東映不良性感度映画を大量に世に送り出したご本人でしょ。ミニチュアがやりたくて東京に出てきた自分が、その岡田さんと一瞬でも接点を持つなんて思いもしなかった。今思うとあのとき一緒に食事をしとけばよかったなぁ。とにかく『千年の恋』と言うと(テロや特撮のことより)そのときのことを思い出します」と話している[27]。
俳優
[編集]東横映画時代の1947年、『女だけの夜』と『三本指の男』の原節子の出演は岡田が出演交渉して出てもらったという[141]。また高峰三枝子、木暮実千代、三浦光子、花柳小菊、山根寿子なども、岡田が度々出演交渉したと話している[141]。
若山富三郎は1959年、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという[645]。1960年東映に移籍した鶴田浩二は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』という岡田からの相談を受けた俊藤浩滋が、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と移籍の交渉を引き受け『東宝には三船敏郎がいるから、どうやったって上に行かれへん』などと鶴田を口説いたもので、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、円満移籍になったという[出典 294]。
松方弘樹と北大路欣也は高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の勝新太郎が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて大映に引き抜こうとした。松方の大映へのレンタル移籍は、岡田の指示によるもの[647]。松方は1969年から1970年に数本、大映で主演作品がある[出典 295]。
岡田がプロデュースした1961年から始まる「宮本武蔵」シリーズ五部作に[出典 296]、当時"志村妙子"名義で東映に所属して端役出演を続けていた太地喜和子を岡田が大役に抜擢したが[649]、太地は「文学座の試験に受かったから舞台の道に進む」と大役を断ったという[649]。岡田は「太地さんが志村妙子として東映に残っていれば、映画界から大スターへの足跡を辿ることになったと思う」と話している[649]。
1961年、急な東映東京撮影所所長転任で、家族で住む家が見つかるまで東映が借りていた東京花房山(上大崎)の佐々木邸に引っ越す[37]。ふすま一枚隔てた部屋に東映に入ったばかりの小林稔侍が住んでいて、朝になると当時まだ小学生だった岡田裕介と高木美也子が小林を起こしに来て、岡田所長が出勤するのをみんなで見送った。こうした一つ屋根の下で過ごした生活が数ヶ月続いた。その後どんどん出世して岡田に小林は会うたび「おっ、元気か?」と声をかけられた。小林は売れない時代を長く送っていたため、周りからみたらおかしく映る光景であったという[650]。この関係で小林は岡田の通夜の進行を務めた[651]。
東映入社後、なかなか芽の出ない高倉健をスターにしようと1962年、かつて市川崑監督が撮って大当たりした小島政二郎原作の『三百六十五夜』の再映画化を企画。美空ひばりを主演にして江利チエミ、雪村いづみの三人娘を総登場させ高倉健、鶴田浩二を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した[652]。翌1963年、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『人生劇場 飛車角』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて1964年、岡田が「忠臣蔵を下敷きにした群集劇を」と企画し笠原和夫に命じて書かせた『日本侠客伝』シリーズ( - 1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した[出典 297]。
1962年、映画『王将』で東映作品に初主演した村田英雄に「仁王の刺青を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた[135]。
藤山寛美が1966年、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた[203]。寛美がこの頃、東映の任侠映画に出ているのはこのため。
安藤昇と仲がよく、安藤が弟分の菅原文太ともども松竹に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は1967年東映に移籍したもの[204]。安藤は「いい男たちだね」と折に触れ、岡田と五社英雄、勝新太郎の3人の話をよくしていたという[654]。安藤は岡田を「戦友のようなものだ」とよく言っていた[654]。安藤が俳優に転向した当時、映画関係者は「安藤組」にピリピリしていたが、岡田だけは腹が据わって妙な気遣いがまったくなかったという[654]。安藤が東映に移籍したとき、「お近づきのしるし」と岡田は俊藤も誘って安藤をソープへ連れて行き、そこから付き合いが始まった[654]。安藤は東映の専属ではなかったという[655]。
佐久間良子は、いわゆるお嬢様役から180度異なる娼婦役に岡田に抜擢され代表作とした『人生劇場 飛車角』や『五番町夕霧楼』について[656]、岡田や厳しい教えを受けた田坂具隆監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている[出典 298]。
北島三郎は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと俊藤浩滋さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している[出典 299]。北島の『函館の女』の映画化を長門裕之の人間プロダクションが企画して、長門の叔父・マキノ雅裕監督で松竹が映画化しようとしたが、撮影が半分近く進んだ段階で、岡田と俊藤が松竹の城戸四郎社長に「北島は東映の専属だ。松竹には出さん」とねじ込み製作が中止された[658]。北島は東映と専属契約していたわけではないが、人間プロはこれに懲りて以降、自主製作はしなくなった[658]。
里見浩太朗は、2021年3月に行われた岡田裕介のお別れの会で、「私は貴方のお父様、前会長に育てて頂きました。東映という誰もが憧れる時代劇の世界に身を投じ、以来、映画、舞台、テレビにと幸運な花道を歩ませて頂きました。感謝に堪えません。裕介さん、貴方もまた大プロデューサーとして、数々の素晴らしい作品を世に残されました。私は貴方とお会いする時、いつもお父様と会っていた時と同じような思いで接していたような気がします」などと述べ、祭壇に向かって手を合わせた[659]。
三田佳子は『岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した』と話している[出典 300]。
25歳まで広告代理店でサラリーマンをやっていた渡瀬恒彦が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという[出典 301]。
高倉健は1970年「ヤクザ映画で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した[出典 302]。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない[出典 303]。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは“高倉健蒸発”“仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)[出典 304]。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる[出典 305]。
ポルノにシフトした日活を辞めてフリーになった梶芽衣子は、“ポスト藤純子”として東映が売り出し、任侠路線ではなく別路線の『女囚さそりシリーズ』(1972年 - 1973年)でスターになった[出典 306]。『女囚701号/さそり』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『女囚さそり 第41雑居房』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は俊藤浩滋が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという[673]。岡田や俊藤の説得がなければ『女囚さそりシリーズ』は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している[出典 307]。
丹波哲郎から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物[676]。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている[出典 308]。ゴルフコンペで大川博の取り巻きの重役連中が、大川にオベッカばかりしている時に、岡田は媚びるどころかそっぽを向いているのを見て、丹波は岡田を認めたという[676]。また丹波が親しかった元東宝副社長・藤本真澄と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこのポルノの国から来たの(来た人)」などと言い非常に嫌われた[676]。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという[678]。
『仮面ライダーV3』の風見志郎役で有名になった宮内洋は、当時は東映の社員俳優だったが、『仮面ライダーV3』と同時期に香港最大の映画会社だったショウ・ブラザーズと10本契約が決まりそうで、『仮面ライダーV3』の撮影が始まって2日目に宮内の師匠・丹波哲郎が岡田社長に「宮内を『仮面ライダーV3』から降ろしてくれ」と直談判したが、岡田から拒否された[679]。宮内は「あのとき、僕が香港に行っていたら、また人生が変わっていたかもしれませんね」と述べている[679]。
1974年、山口百恵が主演した東宝『伊豆の踊子』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした[680]。翌1975年のゴールデンウイークは、東宝が山口百恵の『潮騒』、松竹が桜田淳子の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『県警対組織暴力』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる[出典 309]。なお『潮騒』の併映は和田アキ子の『お姐さんお手やわらかに』『スプーン一杯の幸せ』の併映は中村雅俊の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が志穂美悦子主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し“青春路線”に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した[406]。その第1作が渡瀬恒彦、伊吹吾郎以来、自信を持って送り出した新人・星正人主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『愛と誠』に似ていた[406]。
アラン・ドロン主演の『ル・ジタン』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった[279]。『地獄の黙示録』(1979年)もカンヌで買おうとしたが、日本ヘラルドが相当金を出して落としたという[279]。
荒川博の養子で、暴漢事件で有名な荒川尭が1975年、ヤクルトスワローズを引退すると高倉健の後釜候補として契約金3000万円で俳優にスカウトしたが[出典 310]、荒川が眼を悪化させたためスカウトを断念した[682]。
1980年前後の岡田を始め、当時の東映をパロディにしたくて山城新伍が作ったのが1980年の『ミスターどん兵衛』という映画。始まってまもなく、梅宮辰夫扮する撮影所長が、幹部にカツを入れるため、挨拶するシーンの台詞はそのまま岡田が話した台詞[684]。「ええか、ここでヒットした作品を見てみい。『網走番外地』は『手錠のままの脱獄』、『不良番長』は『地獄の天使』、みんな盗んだもんやないか! ま、一生懸命盗んでも、おまえらの才能ではモトネタと似ても似つかんものになるから問題も起きん」[684]。また会議のシーンで「『ラムの大通り』っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンも同様という[出典 311]。
舘ひろしは1976年、松田優作と共演した『暴力教室』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、石原プロモーションに入社するまでは東映に籍を置いたという[687]。
内田裕也は映画の構想が持ち上がるたび“いの一番”に岡田に相談に出向いたという[688]。岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、内田が1983年に初めて脚本を書いた『十階のモスキート』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「警察官がね、最後は挫折して、ついに郵便局に強盗に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、ATGで映画化され崔洋一が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『コミック雑誌なんかいらない!』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に安藤昇が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」『コミック雑誌なんかいらない』「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、テレビレポーターがガーって行って、それでフィクションとノンフィクションを交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、マイクを股間から取り出して、ホームベースに投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画はニュー・センチュリー・プロデューサーズで製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし早稲田大学の反映研グループの上映からスタートし、奥山和由が「僕に任せてくれ」と言って松竹の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところがカンヌ映画祭の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『コミック雑誌なんかいらない』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。毎日映画コンクールでも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。高岩淡が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」としかと。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございま〜す」と言ってやった。これは俺の人生でも最高のリベンジだった、と内田は話している[321]。2009年、内田の娘婿・本木雅弘が企画した(内田はまったく係わっていないが)『おくりびと』が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、配給を松竹が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという[出典 312]。内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り(東宝は俳優や黒澤明以外の映画監督は会長室に絶対に入れない)岡田裕介は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が岸恵子と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが鶴田浩二とな、付き合ってたんだけど、ワシが箱根の旅館に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。山口組の三代目が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」などと話している[出典 313]。
1986年からシリーズ化された『極道の妻たち』は、企画の日下部五朗が当初、「"極妻"は東映の監督陣と日本を代表する女優たちとで回していきたい」と、一作目の主演女優を岩下志麻、二作目を十朱幸代、三作目を三田佳子、四作目を山本陽子、五作目を吉永小百合という構想を練っていた[692]。ところが、四作目の製作が決定した際に、岡田が「やっぱり岩下に戻そうや」と鶴の一声を発して以降は長く岩下が主演を務め、"極妻"は岩下、の印象が強くなった[692][693]。
1986年、当時26歳の黒木瞳の映画主演デビュー作『化身』でホステス役をさせるため、実際に銀座の高級クラブでアルバイトさせた[出典 314]。
経済人他
[編集]兄弟分ともいわれた五島昇と岡田は同じ親分肌で面倒見がよく[出典 315]、"ケンカも経営も上手"で[699]、共に永野重雄の"秘蔵っ子"といわれた[699]。岡田は広島県人会で永野や田部文一郎、山口信夫、桜田武ら、財界四天王のグループと付き合いがあり[出典 316]、特に永野に可愛がられ[出典 317]、永野は「岡田君は男にもてる。男の中の男です。人情に厚い人で、人に頼まれるとイヤと言えない。郷里が生んだ名優です」などと岡田を評し、岡田の後見人を自称していた[699]。また五島昇の後ろ盾には、五島慶太の東大同期石坂泰三や水野成夫、小林中らがおり[出典 318]、財界の付き合いは共通した部分があった。岡田のボス大川博と五島が反目になったのは1964年の事だが[706]、この時五島は石坂泰三から「何をグズグズしているのだ。東急グループには女を裸にして売り物にするような商売は要らない」とカミナリを落とされ、東映を切り離しを決断したものだったが[706]、女を裸にして売り物にする映画を東映で始めたのは岡田であった。大川と五島が反目になったため、岡田は東映幹部時代は表立って財界の付き合いは出来なかった。このため1971年の社長就任時も財界では無名といわれた[702]。エンターテインメント業界では財界との付き合いはビジネス上でも不可欠であるが、大川も亡くなり財界との付き合いは表立って出来るようになった。そこで岡田の財界での売り出しを後押ししたのが永野と五島[699]。前述の人物たちは戦後の日本を形作った財界人で[707]、映画会社社長の岡田ではスケールが違うが[708]、大物財界人の支援を受けてメキメキ頭角を現し押しも押されもせぬ"映画界のドン"といわれるようになった[699]。永野重雄が会長を務める日本商工会議所100周年イベント全国郷土祭の運営を岡田が請け負い[出典 319]、映画屋の東映にこの大イベントが出来るのか不安視されたが、事業部や東映動画で培ったイベント事業のノウハウを活かしてこれを成功され永野から信頼を得た[出典 320]。このイベントは国立競技場に7万人を動員して1978年10月22日に開催された[出典 321]。あまり知られていないが、これがおそらくスポーツイベント以外で国立競技場を初めて使用されたケースと見られる[698]。このイベントには、佐伯勇や鹿内春雄、川内通康らの協力を得て成功させたもので[698]、昭和天皇の臨席もあった[698]。永野は五島昇を買って自身の後継に据えようとしたため[706]、五島もこれに応え、経団連など他の財界団体の活動を控え商工会議所(以下、日商)をメインに財界活動をするようになった[706]。日商で五島の後ろ盾だったのが、永野の他、今里広記、石坂泰三、小山五郎、大槻文平、瀬島龍三らで[711]、財界との付き合いを全く持たなかった瀬島を財界に引き込んだのは永野と五島だった[出典 322]。この関係で岡田は瀬島と付き合いも生まれ[700]、五島と瀬島を1986年11月28日に取締役相談役として東映に迎え入れた[出典 323]。瀬島は岡田を「義理人情にあつい『人生劇場』を地でいくようなチャーミングな方」と評した[700]。五島と瀬島は東映の取締役会にも出席したため、東映の幹部が緊張し、議長の岡田も通常の東映の幹部会議より言葉が丁寧になったという笑い話がある[715]。岡田は永野の盟友・今里広記にも惚れられ[700]、今里を囲む若手財界人の勉強会「混交会(今里会)」を、牛尾治朗や前野徹、青井忠雄、角田式美、本庄正則[716]、西村昭孝らを集めて作り[出典 324]、東映フライヤーズの売却はこのグループによって行われた[出典 325]。新球団日拓ホーム・フライヤーズの新役員には財界の新興ヤングパワーが名を連ね、売名のため毎年オーナーを替えるのではと噂された[720]。1985年5月に今里が亡くなった後[701]、岡田と岡田の子分・本庄[698]、高木禮二、櫻田慧、数佐三郎、太刀川恒夫、藤本秀朗らの「オーケー会」が合体して「岡田茂を囲む会」が出来た[698]。親分肌の岡田はこの新興会社のオーナー社長たちから頼りにされて、これが財界から、任侠映画をもじり、"岡田一家"と呼ばれるようになった[出典 326]。
1973年、東映の企画で黒崎出版から発行されていた『テレビランド』を編集スタッフごと徳間書店に移したが、これを徳間康快社長と二人で銀座のクラブで決めた[283]。徳間書店の『テレビランド』刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の『アニメージュ』創刊、宮崎駿(スタジオジブリ)等へと展開していく足がかりとなった[283]。徳間が活字(出版、東京タイムズ)、オーディオ(音楽、徳間ジャパン)文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年大映を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった[721]。
三越(現・三越伊勢丹)社長の岡田茂と同姓同名で、同じワンマン社長で仲がよく[出典 327]、兄弟分として付き合った[724]。1973年11月から三越が始めた三越映画劇場は[725]、岡田が三越岡田社長にアイデアを話したものを具体化したもの。
三越岡田社長からはボウリング場の整理や、流通業のアドバイスを受けた[722]。1977年に一緒に映画を製作をしようとしたが[出典 328]、三越岡田社長が東宝映画の取締役だったことから、三越は東宝と『燃える秋』を製作した。1982年に三越事件が起きたときには、これを基に映画を製作しようとし[726]、内藤誠に脚本を書かせたが、やっぱり付き合いがあってマズいと中止させた[726]。しかし内藤と桂千穂とでにっかつに本を持って行き、これをにっかつが1983年に『女帝』として映画化した[726]。
山下耕作が撮った1974年の『あゝ決戦航空隊』は、児玉誉士夫が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなくロッキード事件でペシャンコになった[727]。
吉田拓郎と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ニューミュージック的映画作り という意味不明の題名を付け、東映の社内誌『東映』に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席もリクライニングのいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明[728]。
岡田と40年以上の付き合いがあったという日枝久は、フジテレビの編成局長時代に長寿ドラマ『銭形平次』の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した[729]。『銭形平次』の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、大川橋蔵の説得を得られたのも岡田の計らいという[172]。
渡辺淳一の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんはアッチの方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した[730]。
住友銀行(現・三井住友銀行)業務本部長時代の樋口廣太郎が、アサヒビールをダイエーの中内㓛に売ろうとしたことがあり[731]、実家がアサヒビールの特約店だった岡田が「ビールは難しいから」と中内に買収を断りなさいと進言し、アサヒビールの中條高徳に内密にこれを伝えたという[731]。またNET(現・テレビ朝日)を巡る大川博と旺文社・赤尾好夫との関係も改善した[732]。
1996年、ルパート・マードックが孫正義と組んで旺文社からテレビ朝日の全株式を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、FOXとも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、朝日新聞社がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した[172]。
1994年、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は田部文一郎)会員が急に増え、現在4000人と在京県人会の中で一番多いともいわれる[出典 329]。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため[出典 330]。毎年1月にある総会には出席者が1200〜1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」と「フラワーフェスティバルばかりに頼らないで別のイベントをやんなきゃ。その点、京都を見なさいよ、ダーッと一年中祭を並べてるんだ。それでお客が来るんだから。消費を伸ばす意味で、近郊や遠くから来てもらえるイベントがもっともっと必要だね」などとぶった[9]。2008年から名誉会長となり、現在の会長(8代目)は林有厚(東京ドーム社長)[9]。
出身地の東広島市西条のフジグラン東広島内に東映系初のシネコン「Tジョイ」開業の時[9]、オープニングセレモニーに出席している[43]。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、東映の役者がみんな来た、という話がある。
著書
[編集]- 岡田茂『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。ISBN 4-87932-016-1。
- 岡田茂『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年。ISBN 4-04-883871-7。
- 岡田茂、大賀典雄、伊藤雅俊、林原健、井植敏、松原治『私の履歴書 経済人 38』日本経済新聞社、2004年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 丹波哲郎は「大川は映画のことは何も知らない」(『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』キネマ旬報社、1999年、p137)、菅原文太は「大川さんは企業家だったが映画を知らなかった。ご自分でそれを知っていて製作そのものにはタッチしなかった。東映に入ってから6年、大川さんにスタジオで逢った事がなかった。岡田さんと俊藤さんが映画を自由に作れるようにした」、深作欣二は「一回しか大川さんに逢ったことはない」と話している(『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』キネマ旬報社、1994年、p543)。俊藤浩滋は「大川が作ったのは『大いなる旅路』(1960年)くらいではないか」と述べている(『任侠映画伝』p63)。中島貞夫は「大川博さんは(プロデューサーではなく)映画会社の経営者として、大変優れた人だったと思います」と話している(岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)(Archive))。日下部五朗は「大川さんは映画とは無縁で、製作の現場もまるで知らない。自分には映画はわからないと知っていたから、企画には口を出さず、ソロバンだけ見ていた」などと話している(『シネマの極道』p42)。大川は映画製作に直接関与することは少なく、会社を代表して「製作(総指揮)」としてクレジットされる存在(日本映画におけるプロデューサーシステムの歴史的変遷に関する一考察)。岡田自身は「大川社長は超ワンマンで、社長というより法皇的存在で、ぼくはその下にいて映画本部長として文字通り映画を作って売る。(組合問題などが起こる前までは)これに徹していれば役割は充分果たせた」と話している(『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』p76)。
- ^ 当時は「やくざ映画」と呼んだ(筒井清忠編集・板倉宏臣・井上理砂子・中澤まゆみ著『銀幕の昭和「スタア」がいた時代』清流出版、p237)。
- ^ 野上龍雄は「映画製作を甘く見た財界出の大川社長の誤算。手間をかけない作品に客がつく筈がない」と述べている(『映画芸術』2011年夏号「鎮魂、映画の昭和 岡田茂」p134)。
- ^ 安藤は松竹退社後はフリーという(『ヤクザが認めた任侠映画』p6)。
- ^ 東映のキャラクターショーのハシリは、渡辺亮徳(当時テレビ事業部長)などが『仮面ライダー』のキャラクターを使って、子供集めの催事をやったことから始まる(『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』p119)。
- ^ 他のメンバーは住田正二、小松勇五郎、山野正登、佐伯喜一、山口信夫、森田康ら[341]。
- ^ 「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された[348]。
- ^ 実際は『玉割り人ゆき』は1000万円で製作。
出典
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- 東映『クロニクル東映:1947-1991』 1, 2, 3、東映、1992年。
- 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年。ISBN 4-06-206226-7。
- 石井輝男、福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年。ISBN 4-948735-08-6。
- 山城新伍『一言いうたろか:新伍の日本映画大改造』広済堂出版、1993年。ISBN 4-331-50421-2。
- 浦岡敬一 著、山口猛 編『映画編集とは何か 浦岡敬一の技法』平凡社、1994年。ISBN 978-4-58-228227-6。
- 幸田清『活動屋人生こぼれ噺』銀河出版、1995年。ISBN 4-9064-36-66-8。
- 大下英治『日本ヒーローは世界を制す』角川書店、1995年。ISBN 4-04-883416-9。
- 小沢茂弘・高橋聰『困った奴ちゃ:東映ヤクザ監督の波乱万丈生』ワイズ出版、1996年。ISBN 4-948735-57-4。
- 西谷拓哉・高田宏治『高田宏治東映のアルチザン』カタログハウス、1997年。ISBN 4905943337。
- 山城新伍『現代・河原乞食考:役者の世界って何やねん?』解放出版社、1997年。ISBN 4-7592-5120-0。
- 杉作J太郎、植地毅『仁義なき戦い浪漫アルバム』徳間書店、1998年。ISBN 4-19-860846-6。
- 丹波哲郎『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』キネマ旬報社、1999年。ISBN 4-87376-229-4。
- 俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年。ISBN 4-06-209594-7。
- 山下耕作・円尾敏郎『将軍と呼ばれた男:映画監督山下耕作』ワイズ出版、1999年。ISBN 4-89830-002-2。
- 杉作J太郎・植地毅(編著)『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年。ISBN 4-19-861016-9。
- 小石原昭『僕らはそれでも生きていく!:読むと元気がでる本』財界研究所、2000年。ISBN 4-87932-014-5。
- 澤島忠『沢島忠全仕事:ボンゆっくり落ちやいね』ワイズ出版、2001年。ISBN 4-89830-096-0。
- 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年。ISBN 4-7577-0488-7。
- 笠原和夫、荒井晴彦、絓秀実『昭和の劇:映画脚本家笠原和夫』太田出版、2002年。ISBN 4-87233-695-X。
- 関口裕子『映画監督深作欣二の軌跡』キネマ旬報社、2003年。ISBN。
- 深作欣二・山根貞男『映画監督深作欣二』ワイズ出版、2003年。ISBN 4-89830-155-X。
- 立松和平『映画主義者深作欣二』文春ネスコ、2003年。ISBN 978-4890361816。
- 佐々木康、佐々木真、佐々木康子(監修) 著、円尾敏郎、横山幸則 編『楽天楽観映画監督佐々木康』ワイズ出版、2003年。ISBN 4-89830-160-6。
- 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年。ISBN 4-10-460901-3。
- 『ヤクザが認めた任侠映画』宝島社〈別冊宝島922〉、2003年。ISBN 4-7966-3743-5。
- 浅草キッド『濃厚民族:15大対談集』スコラマガジン、2003年。ISBN 4-902307-01-4。
- 山平重樹『任侠映画が青春だった:全証言伝説のヒーローとその時代』徳間書店、2004年。ISBN 4-19-861797-X。
- 日本経済新聞社 編『私の履歴書』 経済人38、日本経済新聞社、2004年。ISBN 4-532-16901-1。
- 『新潮45』2004年9月号、新潮社。
- 山根貞男・米原尚志『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』日本放送出版協会、2005年。ISBN 4-14-080854-3。
- 笠原和夫『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』太田出版、2005年。ISBN 4-87233-948-7。
- 『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲』シンコーミュージック・エンタテイメント。
- vol. 2 (2005) ISBN 4-401-75101-9。vol. 3 (2005) ISBN 4-401-75102-7。vol. 7 (2007) ISBN 978-4-401-75111-2。vol. 8 (2007) ISBN 978-4-401-75116-7。
- 『Hotwax presents 和モノ事典 1970's 人名編』シンコーミュージック・エンタテイメント、2006年。ISBN 4-401-75109-4。
- 岡田茂(東映・相談役)×福田和也「東映ヤクザ映画の時代 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の舞台裏は」『オール読物』、文藝春秋、2006年3月。
- 佐藤忠男 編『日本の映画人:日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 978-4-8169-2035-6。
- 舛田利雄、佐藤利明、高護『Hotwax責任編集 映画監督 舛田利雄 ~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~』シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年。ISBN 978-4-401-75117-4。
- 『流行り歌に隠されたタブー事件史』宝島社〈別冊宝島1499〉、2008年。ISBN 978-4-7966-6178-2。
- 春日太一『時代劇は死なず!:京都太秦の「職人」たち』集英社〈集英社新書〉、2008年。ISBN 978-4-08-720471-1。
- 『文化通信ジャーナル』2009年3月号。
- 黒沢清、四方田犬彦、吉見俊哉、李鳳宇(編集)『日本映画は生きている』 4巻、岩波書店、2010年。978-4-00-028394-6。
- 『ベスト・オブ・キネマ旬報』 下 (1967-1993)、キネマ旬報社。ISBN 4-87376-101-8。
- 『キネマ旬報』2011年7月上旬号他。
- 『映画秘宝』2011年8月号他、洋泉社。
- 鈴木義昭『昭和桃色映画館 まぼろしの女優、伝説の性豪、闇の中の活動屋たち』社会評論社、2011年。ISBN 978-4-7845-0964-5。
- 富司純子他「鎮魂、映画の昭和 岡田茂 安藤庄平 加藤彰 高田純 沖山秀子 長門裕之」『映画芸術』、編集プロダクション映芸、2011年8月号。
- 春日太一『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』新潮社〈新潮新書〉、2012年。ISBN 978-4-10-610459-6。
- 石井輝男・福間健二『完本石井輝男映画魂』ワイズ出版、2012年。ISBN 978-4-89830-257-6。
- 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4。
- 平山亨『泣き虫プロデューサーの遺言状 ~TVヒーローと歩んだ50年~』講談社、2012年。ISBN 4-0636-49-00-8。
- 『映画秘宝EX 鮮烈!アナーキー日本映画史1959-1979』洋泉社、2012年。ISBN 978-4-86248-918-0。
- 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2013年。
- 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4-1637-68-10-6。
- 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年。ISBN 978-4-5757-14-01-2。
- 春日太一「特別企画 『現代の軍師』16人の素顔 知られざるエピソードでつづる伝説の男たち 翁長孝雄 『映画界のドン・岡田茂』を支え続けた現場力」『文藝春秋special「日本の軍師100人」』第26巻、文藝春秋、2013年・冬。
- 中島貞夫『デイリースポーツ連載「中島貞夫 傑作選劇場」』デイリースポーツ、2014年。
- 大下英治『仮面ライダーから牙狼へ 渡邊亮徳・日本のキャラクタービジネスを築き上げた男』竹書房、2014年。ISBN 978-4-8124-8997-0。
- 中川右介『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』角川マガジンズ、2014年。ISBN 4-047-31905-8。
- 斉藤守彦『80年代映画館物語』洋泉社、2014年。ISBN 978-4-8003-0529-9。
- 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年。
- 斉藤守彦『映画を知るための教科書 1912~1979』洋泉社、2016年。ISBN 978-4-8003-0698-2。
- 森功『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』講談社、2017年。ISBN 978-4-06-220551-1。
- 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 978-4-8158-0905-8。
- 森功『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』講談社、2017年。ISBN 978-4-06-220551-1。
- 中川右介『社長たちの映画史』日本実業出版社、2023年。ISBN 978-4-8158-0905-8。
関連ウェブサイト
[編集]- 日経プレミアム : 岡田茂インタビュー(archive)
- “岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也” (PDF). メッセージ.jp. BSフジ (2005年5月15日). 2018年9月28日閲覧。(archive)
- 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト
- 東京広島県人会 ニュースAutumn 2011 Vol.13-No.2
外部リンク
[編集]- 岡田茂 - allcinema
- 岡田茂 - KINENOTE
- 岡田茂 - 日本映画データベース
- Shigeru Okada - IMDb