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温泉ポン引女中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
温泉ポン引女中
監督 荒井美三雄
脚本 松本功
鳥居元宏
出演者 葵三津子
橘ますみ
岡田眞澄
林真一郎
南原宏治
音楽 八木正生
撮影 吉田貞次
編集 神田忠男
製作会社 東映京都撮影所
配給 日本の旗 東映
公開 日本の旗 1969年6月27日
上映時間 87分
製作国 日本の旗 日本
前作 温泉あんま芸者
次作 温泉こんにゃく芸者
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温泉ポン引女中』(おんせんぽんびきじょちゅう)は、1969年公開の日本映画。製作:東映京都撮影所、配給東映R-18(成人映画)指定[1]

"東映温泉芸者シリーズ"第1弾[2]石井輝男監督による『温泉あんま芸者』に続く[3][4]、石井の弟子・荒井美三雄監督によるシリーズ第2弾[2][4][5][6][7]。"性愛路線"第7作[1][8]

あらすじ

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南紀・白浜温泉を舞台に、身体を張って生きるポン引き女中たちの姿を、笑いを交えエロっぽく描く[6][8]

キャスト

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スタッフ

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    作詞・作曲:八木正生 唄:津島波子(RCAレコード)

製作

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企画

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石井輝男の熱烈な信奉者ながら[9][10]、1969年4月に東映京都撮影所で起きた助監督たちによる石井排斥運動で[11][12][13][14]、助監督側に就かざるを得なかった荒井美三雄の立場をよく知る当時の東映企画本部長・岡田茂[12][15]、助監督たちの足並みを乱すために荒井を監督に昇進すべく[11][12][16][17]、本作を企画[16][17]。岡田の指示を受けた渡邊達人企画部長が、荒井と昵懇だった鳥居元宏に「荒井を一本立ちさせるからお前、脚本を書いてやれ。岡田さんが温泉芸者ものでいい」と言っていると指示した[17]。こうして岡田は石井排斥騒動をうやむやの内にフェードアウトさせた[16]

石井輝男が1968年の『徳川女系図』を皮切りに1969年の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』まで、一年半の間にハイペースで東映京都撮影所で撮った9本のエログロ映画を今日"性愛路線" "異常性愛路線"と呼ぶことが多いが、本来は、岡田が1969年の東映新路線として"性愛もの"シリーズとして打ち出した本作を含む諸作品を指す(東映ポルノ#石井輝男エログロ映画)。1968年の暮れに岡田が発表した1969年"性愛もの"東映ラインナップは、『異常・残酷・虐待物語・元禄女系図』(『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』)『異常性愛記録 ハレンチ』『㊙女子大生・妊娠・中絶』(『㊙女子大生 妊娠中絶』)『㊙トルコ風呂・指先の魔術師』『婦人科秘聞・下半身相談』『温泉ポン引女中』『不良あねご伝』『やざぐれのお万』などだった[18][19]。当時の映画誌に本作『温泉ポン引女中』を"性愛路線第七作"と紹介した記述が見られる[8]

タイトル

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「東映温泉芸者シリーズ」は全作品とも岡田企画で[20][21]、タイトルも全て岡田の命名[20][21]。岡田自身「タイトルがいいだろう」と自慢している[21]。岡田は"東映温泉芸者シリーズ"に対して「今度はふんどし芸者に金魚すくいをさせい」とか[22]、好んで口を挟み[22]、「もっとエゲつなくしろ」と指示していたといわれたが[17]、毎回、奇想天外な珍案奇案のアイデアを考えねばならず、脚本家にはしんどい仕事だった[23]。本作の脚本・鳥居元宏も取材を重ねたが、現実は思ったよりおとなしく、期待したネタが集まらず、「もっとエゲつなくせんと、岡田さんを納得させられん」と筆も進まず困り果てた[17]。すると岡田から、「本社に来い」と呼び出しがかかり「おい、できたか? イメージだけでも話せ」といわれ、何のアイデアもない鳥居はヤケクソ半分で「スッ裸の女がバイクに乗って温泉街を走り回る...そんなイメージです!」と言ったら、岡田が「おっしゃ!それで行け!! タイトルは『温泉ポン引き女中』や!」と閃き、本作のタイトルが決まった[17]

キャスティング

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主演の葵三津子掛札昌裕夫人で[24]、同じ石井組が縁で結婚した[24]橘ますみ片山由美子は石井映画の常連女優。東映ポルノ唯一の出演作と見られる岡田眞澄の出演経緯は不明。あけみ役の山口火奈子は、山口洋子オーナーを務めていた銀座の著名クラブ「姫」のナンバーワン、月収100万円を稼ぐ元ホステス[25][26][27]、ホステスの収入はいいが、"実"だけではなく"名"も欲しいと元東映ニューフェイス・山口洋子ママの推薦により[26]、映画界入りし本作で女優デビュー。白浜温泉に流れてきた東京のゴーゴー・ガールに扮し、全裸も披露し岡田眞澄を誘惑する役どころ[25][26]。女優に志願した動機を「店に現れる有名女優が女優気取りでむしょうに腹が立つ。くだらない連中を見返したいから」と話した[26]。この他、ノンクレジットで小池朝雄胡桃沢耕史(清水正二郎)が出演[24]。葵三津子は清水が「お風呂のシーンでお尻を触ってきて、怒ってもヘラヘラでふざけていた」と話している[24]棚下照生が清水の知り合いで、葵が棚下の飲み仲間だったことから、この年の衆議院選に清水が出馬した際、ウグイス嬢を一週間頼まれ「しみしょう、しみしょう、しみずしょうじろうでございます」と連呼したが清水は落選したという[24]

撮影

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石井輝男の"異常性愛路線"の助監督を務めた荒井美三雄監督だけに、前半は弾まないが、後半は石井ですらやらなかった変態描写が暴走[2]暴力団が開催する野獣パーティでは女性を動物さながらに扱い、女体盛り股間に乗せる、風呂場での暗黒舞踏、大浴場にモーターボートを突っ込ませ女中を大虐殺するなどスプラッター描写を展開させる[2][6][24][28]。暗黒舞踏のパートはノンクレジットの土方巽が協力し[2]、当時の暗黒舞踏一党がユニット出演した[7][29][30]

興行

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荒井監督の師匠・石井輝男監督の『やくざ刑罰史 私刑!』との同時上映だったが、当時赤字続きで[31]負債100億円を越え[32]、いまにも潰れるのでないかとウワサされた[33]日活の製作担当・堀雅彦常務が1969年の夏から、日活お家芸の"青春路線"を中止させ[34]、「なんでもかんでも東映のマネをしろ」とプロデューサーに厳命し[33][34]、題名から内容まで徹底的に東映作品のマネをした映画製作を決定した[33][34][35]。当時東宝以外の松竹、日活、大映は東映のマネをしようと必死の努力を続けた[36]。日活は"マネマネ路線"[33]"第二東映"[35]と陰口をたたかれながら[33][35]、『博徒無情』と『残酷おんな私刑』を本作『温泉ポン引女中』『やくざ刑罰史 私刑!』にぶつけた[33]。お互い顰蹙を買う題名の映画で動員数を競ったが[33]、日活は本家東映を退け興行合戦に勝利し、五社のトップに突如躍り出る異変を起こし映画界を驚かせた[33]

同時上映

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脚注

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  1. ^ a b 温泉ポン引女中”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e 「秘宝よいこの夏休み課外授業 温泉芸者って何だ!?」『映画秘宝2009年平成21年)10月号 70-71頁、洋泉社 
  3. ^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、163頁。ISBN 4-89215-904-2 
  4. ^ a b セクシー・ダイナマイト 1997, pp. 232–233.
  5. ^ 温泉ポン引女中 | 東映ビデオ株式会社
  6. ^ a b c 051:阿鼻叫喚の地獄絵図~温泉ポン引女中 | 高木マニア堂 - 東スポWeb
  7. ^ a b 「土方巽の踊った時代【対談】石井輝男×荒井美三雄」『映画秘宝2004年平成16年)5月号 66-69頁、洋泉社 
  8. ^ a b c 「今月の映画」『映画情報』第34巻第8号、国際情報社、1969年8月1日、54 - 55頁、NDLJP:10339822/54 
  9. ^ 昭和桃色 2011, pp. 152–157.
  10. ^ 【映画】石井輝男映画魂 公式ブログ: 荒井美三雄氏(Internet Archive)
  11. ^ a b 映画魂 1992, pp. 197–205.
  12. ^ a b c 「〔トップに聞く〕 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る」『キネマ旬報1969年昭和44年)6月下旬号 126-128頁、キネマ旬報社 
  13. ^ 佐藤重臣「エロを国家が保護しはじめたのか ハレンチ化を一手に背負う東映映画に流れるものは?」『キネマ旬報1969年昭和44年)7月上旬号 42-44頁、キネマ旬報社 
  14. ^ 「さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 京都撮影所助監督声明事件の真相」『映画秘宝2005年平成17年)11月号 42-43頁、洋泉社 
  15. ^ あかんやつら 2013, pp. 263–266.
  16. ^ a b c ピンキー・バイオレンス 1999, pp. 36-37、220-221.
  17. ^ a b c d e f あかんやつら 2013, pp. 266–269.
  18. ^ 「ピンク色に染まる"ヤクザ東映"」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1969年1月5日号、45頁。 
  19. ^ 「〔げいのう ルック〕 呆れはてた東映ハレンチ作品目録」『週刊読売1969年昭和44年)2月6日号 32頁、読売新聞社 
  20. ^ a b 三鬼陽之助「三鬼陽之介のトップ会談 『任侠路線で"観客頂戴いたします"』 東映社長・岡田茂氏」『週刊サンケイ1971年昭和46年)11月5日号 137頁、産業経済新聞社 
  21. ^ a b c 岡田茂(東映・相談役)×福田和也「東映ヤクザ映画『黄金時代』を語ろう 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』……」『オール読物2006年平成18年)3月号 221頁、文藝春秋 
  22. ^ a b 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、52-53頁。ISBN 978-410333231-2 
  23. ^ 映画人烈伝 1980, pp. 146-151、198.
  24. ^ a b c d e f 「葵三津子インタビュー『石井輝男監督は変態だけど、思いやりがありました』」『映画秘宝2014年平成26年)9月号 80-82頁、洋泉社 
  25. ^ a b 「銀座ホステスが"温泉ポン引女中"」『週刊文春1969年昭和44年)6月9日号、文藝春秋、20頁。 
  26. ^ a b c d 「男性遍歴50数人を誇る新人女優」『週刊現代1969年昭和44年)6月12日号、講談社、33頁。 
  27. ^ 「全裸もへっちゃらの100万円ホステス 『お金の次は名前よ』とデビュー」『週刊明星1969年昭和44年)6月15日号 134頁、集英社 
  28. ^ 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 温泉芸者&ポルノ時代劇この体位がすごい!BEST5 文・多田遠志」『映画秘宝2011年平成23年)8月号 55頁、洋泉社 
  29. ^ 昭和桃色 2011, pp. 158–163.
  30. ^ vol.06 室伏鴻|1 - Body Arts Laboratory Interview
  31. ^ 高木教典「自壊の中の日本映画・その2『腐敗映画を生む経済機構―五社"転落"の過程』」『朝日ジャーナル1969年昭和44年)3月30日号、朝日新聞社、17 - 21頁。 
  32. ^ 初山有恒「自壊の中の日本映画・その3『エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげに』」『朝日ジャーナル1969年昭和44年)3月30日号、朝日新聞社、23 - 26頁。 
  33. ^ a b c d e f g h 「日活"マネマネ路線"に屈した本家東映」『週刊読売1969年昭和44年)7月25日号 31頁、読売新聞社 
  34. ^ a b c 「"貧すれば…"か、日活ヤクザ、ピンクに転向」『週刊朝日1969年昭和44年)7月4日号、朝日新聞社、113頁。 
  35. ^ a b c 「清川虹子が助っ人東映やくざ路線」『週刊文春1969年昭和44年)8月11日号、文藝春秋、20頁。 
  36. ^ 初山有恒「自壊の中の日本映画・その3『エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげに』」『朝日ジャーナル1969年昭和44年)3月30日号、朝日新聞社、23 - 26頁。 

参考文献

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外部リンク

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