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橘ますみ (女優)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たちばな ますみ
橘 ますみ
本名 同じ
生年月日 (1945-11-05) 1945年11月5日(79歳)
出生地 大阪府大阪市
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1966年 - 1971年
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橘 ますみ(たちばな ますみ、1945年11月5日 - )は、日本女優。本名同じ[1]大阪府大阪市出身。身長160cm。B87?cm、W60cm、H88cm(1968年6月)[2][注 1]特技方位[5]

経歴

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『日本映画俳優全集・女優編』や『週刊明星』など、文献の多くで大阪市生まれと記載されているが[6][7]、『映画情報』1969年9月号では「終戦直後の東京で生まれた」と記述され[4]、芸能界を引退して間もない自宅マンションで取材を受けた『週刊平凡』1971年10月4日号のインタビュー記事では静岡県生まれとし[1]、『スポーツニッポン』1969年5月19日に掲載された京都府清滝川渓谷での水着取材では「静岡の浜辺で育ち、夏は毎日海で暮らした」と橘は話している[3]

6人姉妹の6女[6]1964年四天王寺学園高校を卒業[1]。同年CMガールのオーディションに受験したことがきっかけで芸能界入り[1][6]。母親は猛反対した[1]1966年東映入社[6]。翌1967年、『博奕打ち』の脇役で映画デビュー[6]1968年4月6日から放送されたテレビドラマ『大奥』(フジテレビ/関西テレビ)は、新人・橘を売り出す意図もあり[8]、第1話から第4話までのヒロイン・お楽の方を演じて20歳から32歳までを演じ分け[5]、お茶の間の人気をさらった[4]倉田準二監督から内面の演技を要求され、芝居の難しさを知り、「色気がない。恋愛しろといわれ閉口した」と話している[5]

1968年、石井輝男監督の「異常性愛路線」第2弾『温泉あんま芸者』がキャスティングに難航したため[9]、主役に抜擢される[9]。本作は唯一、バージンを守り通す役のため脱がなかったが[9]、同じ石井監督の1969年の『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』で初めてヌードになった[1][10]。以降、石井作品の常連女優の一人となって脱ぎまくり[1]、スターダムにのし上がる[1]。1969年の東映カレンダーの表紙も飾り[4]、同年、日本映画製作者協会新人賞(現・エランドール賞新人賞)受賞。スポーツニッポン』1969年5月19日には「東映性愛路線をひとり占めにしている」と記載される[3]。『週刊明星』1969年12月28日号に「一連の東映物にはほとんど出演しているいわば女優」と記載される[7]。出演した計43作品のうち、約3分の1でヌードになった[1]。橘自身も「大きなバストが自慢」と話していた[3]。また、男性週刊誌などのグラビアで均整のとれた肢体を惜しげもなくさらして男性を悩殺し、圧倒的な人気を得た[1]。 

1970年12月、持病の気管支炎を悪化させ、女優生活にも嫌気がさしてきた時期でもあり、中途半端に続けるよりはいいと東映に辞表を提出したが[1]、お色気路線のエース格を東映も手放せず、休暇をもらい3か月後の1971年3月に『ずべ公番長 ざんげの値打ちもない』で仕事に復帰した。同年6月の東映との契約切れで再度辞表を、今度は大川博社長に提出したが、「気分転換に台湾でも行って遊んでおいで」となだめられ、台湾旅行に行った。ところが、父のいない橘にとって父親代わりの存在だった大川が、同年8月17日に急逝した。ショックが大きく女優廃業を決意し、1971年9月22日に辞表が正式に受理され、25歳で芸能界を引退した[1]。女優引退を決意した理由を「この4年間、身分不相応にチヤホヤされたり、外面だけいい女の子になって、性格が歪んでいく自分が怖くなったの。それに女優同士の変なライバル意識みたいなものの中で生きているのがとても耐えられなくなった」と話した[1]。女優業に終始猛反対した母親は『温泉あんま芸者』撮影中の粟津温泉に「みっともない!ギャラぶんのお金はお母さんが払うからすぐ帰ってらっしゃい」と電話してくるほどで[1]、娘の芸能界引退を大喜びしたという[1]。「普通の女の子の生活がしたい」とその後、東京のデザイン会社で月給4万円のOLになった[1][6]

映画デビューの前には、トニー谷司会の番組『アベック歌合戦』(読売テレビ)でアシスタントを務めていた。

2012年3月から5月に東京ラピュタ阿佐ヶ谷にて「東映異常性愛路線のミューズ 橘ますみ伝説」というタイトルで橘の特集上映が組まれた[11]

出演作品

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映画

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 身長159cm。B86cm、W58cm、H88cm(1969年5月)[3]、B86cm、W59cm、H88cm(1969年9月)[4]。身長159cm。B86cm、W58cm、H87cm(1971年10月)[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「《この女性(ひと)の生き方》 いまや世をあげてのポルノ・ブーム。だが、その陰で、ひっそりと姿を消していった"ハダカ"女優がいた。 『70万円の人気スターの座を捨て月給4万円のOLに… 東映お色気女優のエース なぜ橘ますみ(25歳)は突然女優を廃業したのか』」『週刊平凡1971年昭和46年)10月4日号 144–145頁、平凡出版 
  2. ^ 「〈ワイド特集グラビア〉初夏を彩るビキニ女優 ー各社推せんのグラマー十三人 大映安田道代東映・橘ますみ、日活浜川智子テアトル・ド・ポッシュ賀川雪江、東映・御影京子、日活・太田雅子他 文・佐藤重臣」『アサヒ芸能1968年昭和43年)6月2日号 4–5頁、徳間書店 
  3. ^ a b c d “《裸の季節》(4) 橘ますみ 水着が窮屈なのね 苦しそうな自慢のバスト”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 12. (1969年5月19日) 
  4. ^ a b c d 「〈トピック・コーナー〉『ハッスルしてます」『映画情報』1969年昭和44年)9月号 67頁、国際情報社 
  5. ^ a b c 「テレビ 橘ますみの"自信" 演技より方位で」『週刊サンケイ1968年昭和43年)4月29日号 111頁、産業経済新聞社 
  6. ^ a b c d e f 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、423頁。 
  7. ^ a b 週刊明星1969年昭和44年)12月28日号 150頁、集英社 
  8. ^ 「テレビ 関西の力作が関東に挑戦 四月改編の各局ドラマ作品から」『週刊読売1968年昭和43年)3月8日号 128-129頁、読売新聞社 
  9. ^ a b c 「〔ポスト 日本映画〕東映セックス路線2人の新人 清純の橘ますみ 度胸の英三枝」『週刊明星1968年昭和43年)6月9日号 118頁、集英社 
  10. ^ 「〈内幕レポート〉 脱がされたタレント50人のそれから だれもが見たがる美女の裸、その損得勘定」『アサヒ芸能1969年昭和44年)9月4日号 118頁、徳間書店 
  11. ^ 「東映異常性愛路線のミューズ橘ますみ伝説」

外部リンク

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