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中谷一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかたに いちろう
中谷 一郎
本名 中村 正昭
生年月日 (1930-10-15) 1930年10月15日
没年月日 (2004-04-01) 2004年4月1日(73歳没)
出生地 日本の旗 日本北海道札幌市
死没地 日本の旗 日本東京都豊島区
身長 174 cm
血液型 AB型
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1957年 - 2004年
配偶者 美苗
主な作品
映画 テレビドラマ
受賞
エランドール賞
新人賞1959年
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中谷 一郎なかたに いちろう[1]1930年10月15日[2] - 2004年4月1日[2])は、日本俳優。本名:中村 正昭。北海道札幌市出身。妻は俳優座の女優・美苗

来歴・人物

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北海道立札幌第一高等学校(現・北海道札幌南高等学校)卒業。早稲田大学第一文学部仏文学科を中退。

親友から「新劇を受けたらどうだ」と助言を受け、演劇の道を志す。

1952年俳優座に第4期生として入団。同期には仲代達矢宇津井健佐藤慶佐藤允らがいる。なお、このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連として喜八一家と呼ばれるようになり[注釈 1]、佐藤慶も2本の岡本作品に出演している。舞台のみならず、映画・テレビで存在感のある脇役として活躍した。

1959年岡本喜八監督による映画『独立愚連隊』で、独立愚連隊の異名を取る日本軍はぐれ者部隊の隊長に扮して、注目を集める。以後、岡本作品の常連となり、『顔役暁に死す』『戦国野郎』『ああ爆弾』などでは準主役的な役どころでたびたび起用された。また私生活では、岡本監督の敷地にある別棟に長年下宿していたほどで、岡本とその家族との絆は後年まで強いものがあった。また、外国テレビドラマ『ライフルマン』では、主演のチャック・コナーズの吹替えを担当した。

映画では、誠実さと豪放磊落らいらくさ、謎めいた面を併せ持った男っぽいキャラクターが持ち味だが、悪役も得意とする。山本薩夫監督の『金環蝕』では、自民党幹事長時代の田中角栄をモデルとした政治家に扮し、見事なそっくりさんぶりを発揮した。『日蓮』(1979)でも弾圧の指揮を執る鎌倉幕府の実力者・平頼綱に扮している。また舞台では、仲代達矢の俳優座退団後、加藤剛と共に劇団を支える屋台骨的存在であった。

1969年、俳優座の先輩・東野英治郎の誘いでテレビ時代劇『水戸黄門』に第1部から初代風車の弥七役でレギュラー出演。そのニヒルで渋い演技と存在感で人気を集め、東野が黄門役を引退した際、弥七役降板を申し入れたが、番組プロデューサーの逸見稔に「降りるなら番組自体を終わらせる」と強引に引き止められたエピソードがあるほどに、『水戸黄門』には欠かせない存在となった。その後も大腸癌糖尿病などの病と闘いながら弥七役として活躍したが、体調不良のため頻繁に休演するようになり、殺陣の場面にも参加しないことが増えていった。第22部放送中に大腸癌で倒れて手術・療養し、その後始まった第23部には病気回復を待って第34話「狸がくれた赤ん坊 -信楽-」から出演となり、第23部での出演は合計7話分となった。中谷弥七の最終シリーズとなった第27部では合計3話分のみに出演、第17話「殿に教えた米の味 -象潟-」から出演し、第19話「二人のご隠居 -村上-」を最後に長期休演[注釈 2]。第28部の番宣ポスターにもその姿と名前があったものの本編には登場せず、そのまま復帰することはなく事実上の降板となり、その後内藤剛志が後任となった。出演回数は歴代のレギュラー出演者では第4位の687回[注釈 3]

また、必殺シリーズ第3弾となる『助け人走る』では、女好きの殺し屋・辻平内を演じ、コミカルな一面でも人気を博した。

昔、街で子供に「弥七だ」と声をかけられたことを『徹子の部屋』で話していたが[出典無効]、その時に声をかけた子供が、実は石橋貴明だったというエピソードがある(石橋本人談)[要出典]。また、プロレスラージャイアント馬場も『水戸黄門』の大ファンで、中谷と出会った時には名前が分からず「おう、弥七」と言ってしまったという。

2003年7月25日、放送1000回を記念した『水戸黄門』の歴代キャストが集合したTBS系列で放送された特別番組において、中谷がVTRで出演し、久々に姿を見せたが、これが事実上最後のテレビ出演となった。同年12月15日放送の『水戸黄門 1000回記念スペシャル』では過去のレギュラー出演者たちが出演したが、中谷は過去のVTRを使用する形で出演した。

2004年4月1日午前9時42分、咽頭癌のため東京都豊島区の病院で死去。73歳没[3][4]。葬儀では、2代目佐々木助三郎および5代目水戸光圀役の里見浩太朗が弔辞を読んだ。

その後、第27部限りで消えていた『水戸黄門風車の弥七役が中谷の死から3年後の2007年内藤剛志に引き継がれることとなった。

顔立ちが非常に似ているため、俳優仲間からは「ミンクさん」という愛称で呼ばれていた。

エピソード

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中谷は所属する俳優座の大先輩東野英治郎に誘われて『水戸黄門』に出演することとなったが、始まる直前「そう長くは続かないな……」とつぶやいていた。理由は本人いわく「今さらやる必要があるものなのか」と疑問を持つほど古臭い代物であったこと、当時東野は悪役専門であったため観る人がいないのではという不安、主題歌「ああ人生に涙あり」のメロディが暗い、の3点。しかし本人の不安に反し、東野黄門は第1部からシリーズを重ねるごとに視聴率が上昇していった。結果的には引き受けて良かったわけであるが、中谷はなぜ続いているかについて「レギュラーとして出演する俳優は芝居をするな」と東野からアドバイスされたからだと明かしている。

中谷によると、最初は試行錯誤の連続だったこともあって東野らレギュラー俳優も芝居をしていたが、第3部辺りになると東野が「長く続けるには芝居ばっかりしていたら飽きられる」とレギュラー俳優にアドバイスしていた。その結果、定番の印籠シーンが生まれた。また、中谷が演じた風車の弥七は、黄門一行がピンチになると風車形の手裏剣を悪人に投げつけて、屋根などから「宙返り」をしながら飛び降りてきて登場し、悪人たちと大立ち回りを演じた末に一行を救うというパターンが定着する。東野は『水戸黄門』をライフワークにすると決めていた。定番シーンをやるべきだとアドバイスしていたため、東野はかなり先を見ていたことになる。

ちなみに中谷は、東野が芝居をしない代わりに考え付いたものが、有名な「カッカッカッカッ……」という高笑いであると明かしている。

ジャイアント馬場からはプライベートで会う時も含めて、役名の「弥七」で呼ばれていた。

実家は美容院。6人兄弟の長男であり、姉は小児科医。弟は小樽ベイシティ開発社長を務めた中村憲正。

出演作品

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映画

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テレビドラマ

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吹き替え

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担当俳優

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映画

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ドラマ

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人形劇

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後任(声優)

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中谷の没後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

後任(俳優)

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中谷の没後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

脚注

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注釈

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  1. ^ 中谷は助演ばかりだが本数は一番多い。
  2. ^ 結局この話が中谷弥七としては最後の弥七としての出演になった。
  3. ^ 第1位はうっかり八兵衛役の高橋元太郎の871回、第2位は2代目佐々木助三郎および5代目水戸光圀役の里見浩太朗の725回、第3位はかげろうお銀・疾風のお娟役の由美かおるの717回。
  4. ^ 1000回記念スペシャルはVTR出演。
  5. ^ 必殺シリーズ通算第200回記念。

出典

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  1. ^ a b c d e f ゴジラ大百科 1993, p. 126, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  2. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「10月15日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、294頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  3. ^ 俳優の中谷一郎さん死去 「水戸黄門」の風車の弥七役」『朝日新聞』2004年4月2日。オリジナルの2004年4月5日時点におけるアーカイブ。2023年6月6日閲覧。
  4. ^ “「風車の弥七」逝く… 中谷一郎さん死去 73歳、咽頭がんで”. ZAKZAK. (2004年4月2日). オリジナルの2004年4月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040405191416/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2004_04/g2004040216.html 2013年5月19日閲覧。 
  5. ^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–538, 「主要特撮作品配役リスト」
  6. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 91, 「『怪談』作品解説/俳優名鑑」

参考文献

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外部リンク

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