ル・ジタン
ル・ジタン | |
---|---|
Le Gitan | |
監督 | ジョゼ・ジョヴァンニ |
脚本 | ジョゼ・ジョヴァンニ |
製作 |
レイモン・ダノン アラン・ドロン |
出演者 |
アラン・ドロン ポール・ムーリス |
音楽 | クロード・ボリング |
撮影 | ジャン=ジャック・タルベ |
配給 | 東映洋画 |
公開 |
1975年12月5日 1976年4月24日 |
上映時間 | 103分 |
製作国 |
フランス イタリア |
言語 | フランス語 |
『ル・ジタン』(原題:Le Gitan)は、1975年に製作されたフランス映画。
ストーリー
[編集]“ジタン”の通り名で呼ばれる犯罪者ユーゴ・セナールは、ジプシーの血を引いているために世間から冷たい仕打ちを受けて生きてきた。3年前、仲間に暴力をふるった村の村長を殺害したために刑務所に収監されていたが、そこで知り合った銀行強盗のジョーと共に脱獄し、その後は彼と共にいくつもの銀行を襲っていた。そんな彼らを追う警察のブロー警視、そして暗黒街の大物であるヤン、男たちの様々な思惑が交差する。
キャスト
[編集]役名 | 俳優 | 日本語吹替[1] |
---|---|---|
日本テレビ版 | ||
ジタン (ユーゴ・セナール) |
アラン・ドロン | 久富惟晴 |
ヤン・キュック | ポール・ムーリス | 中条静夫 |
ブロー警視 | マルセル・ボズフィ | 内田稔 |
ニニー | アニー・ジラルド | 荒木道子 |
マルーユ | ベルナール・ジロドー | 徳丸完 |
ジョー | レナート・サルヴァトーリ | 亀井三郎 |
ジャック・ヘルマン | モーリス・バリエ | 千田光男 |
不明 その他 |
筈見純 嶋俊介 遠藤征慈 有馬瑞子 宮内幸平 和田啓 峰恵研 西本裕行 千葉耕市 兼本新吾 神谷和夫 石森達幸 秋元羊介 佐久間あい 大久保正信 内海敏彦 坂上忍 | |
演出 | 長野武二郎 | |
翻訳 | 大野隆一 | |
効果 | スリー・サウンド | |
制作 | コスモプロモーション | |
解説 | 水野晴郎 | |
初回放送 | 1978年10月25日 『水曜ロードショー』 |
※日本語吹替はBD・DVDに収録(ニューライン/ジェネオン発売の旧盤には90分枠放送時の短縮版、アネック発売の新盤には2時間枠放送時の全長版が収録されている[2])。
スタッフ
[編集]- 監督:ジョゼ・ジョヴァンニ
- 製作:レイモン・ダノン、アラン・ドロン
- 原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
- 脚本:ジョゼ・ジョヴァンニ
- 撮影:ジャン=ジャック・タルベ
- 音楽:クロード・ボリング
主な使用車両
[編集]- BMW・5シリーズ初代‐ヤンの愛車として登場。ユーゴが逃走に使用。
- カワサキ・KH‐ユーゴが逃走に使用。
- ランチア・ベータベルリーナ‐ジョーが使用。カーチェイスの末破壊。
- ランドローバー・レンジローバー‐警察のパトカーとして登場。
- シトロエン・CX‐ユーゴ一味が使用。
日本での興行
[編集]アラン・ドロンは日本での人気は高く、1960年の『太陽がいっぱい』以来、映画のヒット率も高かった[3]。1970年代に入ると洋画配給の老舗・東和に新興の日本ヘラルド、東映洋画、松竹・富士映画まで加わり、ドロン映画は買い付け競争が激化した[3]。完全な売り手市場になり、一時最低保証9000万円といわれた売値が跳ね上がり『ル・ジタン』の頃には1億8000万円プラス歩合が相場とも[4]、アクション物なら50万ドル、メロドラマなら25万ドルが相場ともいわれ[3]、かつ企画段階で青田買いしなければ獲得できない状況になった[4]。1972年に東映洋画を設立した岡田茂東映社長が[5][6][7][8][9]、スタート時の洋画ポルノ(洋ピン)買い付けから[9][10][11]、一般映画の買い付けを目指し、柱にしようと構想したのがブルース・リーとアラン・ドロンであった[8][9][12][13]。ドロン映画は1974年の『個人生活』をピークに落ち始めていたものの[3]、岡田社長が1975年のカンヌ国際映画祭で『地獄の黙示録』と『ル・ジタン』を買おとしたが[8]、『地獄の黙示録』は日本ヘラルドが高額で買い付け[8]、『ル・ジタン』だけを50万ドルを越えるドロン映画の最高値で買い付けた[4][8]。『ル・ジタン』を製作したリラ・フィルムは20世紀フォックスを媒介として東和と密接に繋がっているといわれていたため[14]、東和が当然買い付けると見られ、東映洋画が買い付けるとは誰も想像できず、この逆転劇は業界関係者を驚かせた[14]。東和はブルース・リーの『ドラゴンへの道』『ル・ジタン』と続けて東映に買い付けで負け[14]、「東和」という名前だけでは一プロダクションの印象しかないと海外プロデューサーが強く持ち始めたことで、東和は1975年4月9日の臨時株主総会で「東宝東和」に名称を変更した[14]。
『ル・ジタン』は配給3億2000万円でトントン[10]。東映洋画は『ブーメランのように』(1976年12月日本公開)も買い付け公開したが、1億円の欠損を出し急ブレーキがかかり[3][10][15]、岡田社長が「二度とドロンの映画は扱いたくない」と発言し[16]、「もう(ドロン映画は)やめた」とドロン映画の配給から撤退し[3]、東映洋画も洋画買い付け業務が停滞に至った[10]。劇場が空いたため、ここに入って来たのが角川映画や『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメーション映画であった[17][18]。
アラン・ドロンは人気と映画のヒットが結びつかず[3][16]、1973年に出演したレナウンのダーバンのCMは、同社を株式上場に導いたといわれるほど大ヒットし[19]、来日すると大勢の女性ファンが押し寄せるが[16]、その後もドロン映画は興行が落ち続けた[16][20]。
脚注
[編集]- ^ “ル・ジタン”. www.newline-sonic.com. ニューライン. 2023年5月23日閲覧。
- ^ “(株)フィールドワークスのツイート - 2022年7月19日”. Twitter. 2023年5月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g “〔みみよりコーナー〕 〈急落ドロン株〉 ソロバンあわない”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1977年2月22日)
- ^ a b c 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・脇田巧彦・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 東映の苦渋に充ちた49年下期決算」『キネマ旬報』1975年5月下旬号、キネマ旬報社、162 - 163頁。
- ^ “輸入ポルノで協力、東映と松竹”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1972年4月24日)“〔あんぐる〕 東映の洋画輸入配給”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1972年5月2日)
- ^ 「〈ニュースメーカーズ〉 やっぱりエロ!!脱ヤクザ東映商法」『週刊ポスト』1972年5月5日号、小学館、31頁。
- ^ 「映画界の動き東映もポルノに着手」『キネマ旬報』1972年6月上旬号、キネマ旬報社、144頁。
- ^ a b c d e 「荻昌弘ジャンボ対談(26) 東映社長岡田茂氏 '76年洋画界の地図を大きくかえる東映・岡田社長の野心と情熱ー B・リー A・ドロンで洋画界に殴り込み!」『ロードショー』1976年3月号、集英社、196 - 199頁。
- ^ a b c 鈴木常承・福永邦昭・小谷松春雄・野村正昭「"東映洋画部なくしてジャッキーなし!" ジャッキー映画、日本公開の夜明け」『ジャッキー・チェン 成龍讃歌』、辰巳出版、2017年7月20日発行、104 - 107頁、ISBN 978-4-7778-1754-2。
- ^ a b c d 岡田敬三(東映洋画配給部室長)「東映洋画部ー興行に携わる映画人魂」『シナリオ』1979年11月号、日本シナリオ作家協会、158 - 161頁。
- ^ 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル インデペンデントの今後の道」『キネマ旬報』1980年9月上旬号、キネマ旬報社、166頁。
- ^ 竹中労「連載・日本映画縦断・45 『なぜ、異端の系譜なのか?下 対談・山田宏一・白井佳夫・竹中労」『キネマ旬報』1975年6月下旬号、キネマ旬報社、121頁。
- ^ 「〈ルック映画〉 こちらが本物ブルース・リー"最後の作品"」『週刊現代』1974年10月17日号、講談社、35頁。
- ^ a b c d 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・脇田巧彦・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 社名変更を余儀なくされた東和」『キネマ旬報』1975年6月上旬号、キネマ旬報社、163頁。
- ^ 立川健二郎「興行価値 外国映画 東映洋画部の自主製作路線第一歩」『キネマ旬報』1977年8月下旬号、キネマ旬報社、173頁。
- ^ a b c d 「〈This Week〉 OL諸君!来日したドロンが泣いてるゾ」『週刊文春』1977年5月19日号、文藝春秋、21頁。
- ^ 東映株式会社『クロニクル東映 1947ー1991〔Ⅰ〕』東映、1992年、277頁。
- ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、258-261頁。
- ^ 「広告にみる時代を彩るスターたち《男優篇》」『キネマ旬報』2000年5月下旬号、キネマ旬報社、28頁。
- ^ 「〈This Week〉 神通力もいまは昔のドロン映画」『週刊文春』1979年1月18日号、文藝春秋、22頁。「〈This Week〉 ダーバンのCMに便乗するドロンの映画『虫けらの死』」『週刊文春』1978年4月13日号、文藝春秋、21頁。