コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

温泉みみず芸者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
温泉みみず芸者
Onsen mimizu geisha
監督 鈴木則文
脚本
出演者
音楽 鏑木創
撮影 古谷伸
編集 神田忠男
製作会社 東映京都
配給 東映
公開 日本の旗 1971年7月3日
上映時間 85分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
前作 温泉こんにゃく芸者
次作 温泉スッポン芸者
テンプレートを表示

温泉みみず芸者』(おんせんみみずげいしゃ)は、1971年に製作された日本映画池玲子主演、鈴木則文監督。東映京都撮影所製作、東映配給。日本ポルノ女優第一号[1][2][3]・池玲子デビュー作[4]

概要

[編集]

東映で1968年から1975年まで計6本製作された東映の"温泉芸者シリーズ"4作目[5][6][7][8][注 1]

本作で主演デビューする池玲子を売り出すため、プロデューサーの天尾完次が池に「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーを付けた[3][12][13][14][15]。今日SEX映像の代名詞として日本で定着する、"ポルノ"という言葉は、本作で生まれた造語である[3][13][16][17][18][19]

あらすじ

[編集]

伊勢志摩の港町で江戸時代よりタコ漁のためのタコツボを開発した多湖家は、生まれる女が全てタコツボ級の名器の持ち主。ところがその名器が仇になり、たびたび借金を作る。噂を聞いた無限精流の性豪・竿師段平とその門下生が温泉町にやってきた。やりたい放題の彼らに対抗するため、多湖家の母娘・初栄と二人の娘、圭子の母娘が、彼らとのセックス三番勝負に挑む。海神大明神の夜祭りに沸き立つ中、空前絶後のセックスバトルが開始される。

出演

[編集]

多湖家

圭子の関係者

  • 馬島敬太郎(板前):小池朝雄
  • 久兵エ(トルコの社長):芦屋雁之助
  • トルコのマネージャー:小島慶四郎
  • 大牟田善吉(マムシホルモンの社長・久兵エの弟):芦屋雁之助(一人二役)
  • 吉川(大牟田の秘書):芦屋雁平
  • 工員(ディスコ売春客):川谷拓三
  • 広瀬(馬島の友人・オトナのオモチャ発明家):山城新伍

土肥温泉

無限精流

文教省の客

その他

スタッフ

[編集]

製作

[編集]

企画

[編集]

企画、及びタイトル命名は岡田茂東映企画製作本部長(のち、同社社長)[注 2][5][16][21][22][23][24]。最初のタイトルは『温泉たこつぼ芸者』であった[12][22][23]。"エロ"と"暴力"を東映の二本柱に据えようと構想した岡田は[16][25][26][27][28]1968年石井輝男を監督に招集して[29][30][31][32][33]、懐刀の天尾完次プロデューサーに抜擢してピンク路線を統括させ[18][31][34][35]、世にいう"異常性愛路線"を始めた[13][23][31][36][37][38]。『徳川女系図』に続いて公開されたのが喜劇的要素を含んだ『温泉あんま芸者』で[8][13][31]、これが"東映温泉芸者シリーズ"としてシリーズ化された[5][13][39]。この"東映温泉芸者シリーズ"は、岡田が大映の"温泉シリーズ"(1963年 - 1964年)をパクったものといわれる[8][40][41]。"東映温泉芸者シリーズ"は、高度経済成長期に男の遊び場として定着した温泉を舞台にハレンチ度も女優の悩殺度も大映版よりグレードアップさせた[8][41]。石井はこの後、グロ要素をより押し出した"異常性愛路線"に突入するため[31][42]、"東映温泉芸者シリーズ"は一作で降り、二作目以降は「岡田チルドレン」に監督を振った[7][16]。『徳川女系図』は五社の映画にピンク女優が出たと騒がれたが[29][43]、岡田が外注のピンク女優を大勢出演させて裸にしたため[30][43]、ピンク業界から反撥を受けた[43][44]。このため『温泉あんま芸者』からは自前(東映専属)のヌード女優を育成してエロ路線を充実させろと指示していた[23][44]。映画の舞台となった温泉は観光地として売り出せるため、ロケ大歓迎のタイアップ作戦で、安上がりの上、スタッフ・キャストは至れり尽くせりだったといわれる[7][45]。東映夏場の恒例企画であったが[7]、段々興行成績が落ち[7][46]、肝心の温泉地もロケお断りとなり[7][12]、やむなく最終作として製作決定したのが本作となる[7][12][46]

鈴木則文のポルノ路線参入

[編集]

石井輝男の"異常性愛路線"は一年半の間にハイペースで撮られたもので[31][47]、"温泉芸者シリーズ"の方は、毎年夏一作の恒例映画であったため[7]、シリーズ4作目の本作製作時には石井の"異常性愛路線"は終了していた[12][42][48]。「ヤクザ映画以外にもう1本ラインがないと興行が弱い。若者のラインを何とか確立したい」と考えた岡田が天尾と相談し[49]、新人時代から目をかけていた鈴木則文を東映エロ路線の柱に据えようと考えた[16][19][42]。映画の内容から交渉した温泉地から全部ロケを断られ[12]、予算の都合上、タイアップが必要で、天尾が「鈴木の実家は静岡伊豆だったな」と思いついた[12]。鈴木と天尾は親友だった[50]。鈴木は当時、俊藤浩滋の要請で任侠映画路線を着実に歩んでいた[46]。天尾と渡邊達人企画部長から「これ一本やってくれたら俊藤さんに返すから。岡田さんの方針通り頼むよ」といわれ、「映画は大衆娯楽」と岡田と信念が一致する鈴木はこれを受けた[12][16][51]。鈴木は「岡田さんにはめられたんだよ。他に撮れる監督がいないんだからさ。やらないとは言えない。なかなか素人では撮れない。石井さんだってちゃんとプロの女優を使ってるんだよ。俺みたいに熱く人間として使ってないからね」などと述べている[21]。鈴木は「映画は見世物なんだから、エロで何が悪い!」と東映ポルノを軽視する東映京都の風潮に反発を抱いていた[16]

鈴木はこの後、任侠映画に戻ることはなかった[46]。岡田は天尾と鈴木のコンビで東映ポルノ路線の続行を厳命[12]、鈴木はこの路線に踏み込んだことで秘めたる才能を開花させた[52]。本作以降、鈴木の作風は大きく変わり[21]、新たなステージに突入[50]、東映ポルノ路線の連作へ突き進む[53][54][55]。今日評価される鈴木のエロ喜劇、ナンセンスコメディは本作を始まりとしている[19][36][53][56]。「岡田チルドレン」中島貞夫[57]、『大奥物語』で、岡田と共に東映ポルノ路線を開拓した人物であるが[23]、"温泉芸者シリーズ"の前作、3作目の『温泉こんにゃく芸者』で監督を務めており[28][58][59]、東映ポルノを本格化させた[28][60]。東映ポルノのローテーションを鈴木と中島の二人で回していると若手監督から不満の声も出た[23][59][61]

池玲子と杉本美樹のスカウト

[編集]

"温泉芸者シリーズ"2作目の『温泉あんま芸者』から「自前(東映専属)のヌード女優を育成しろ」と岡田は指示していたが[44]、もっとフレッシュな"脱げる女優"の発掘が急がれた[62]白羽の矢が立てられたのは大原麗子大信田礼子だったのだが[62][63]、二人はヌードを断固拒否し東映を離れ[注 3][62]、テレビに進出した[62][63]。東映は特に大信田に執着していた[65]。そこへ現れた救世主が"第三のレイコ"こと池玲子だった[62]

岡田が天尾と鈴木を東映本社に呼び出し「温泉芸者をやれい。タイトルは『温泉たこつぼ芸者』や。ええな」と指示[16]。岡田が「女優はどうするんだ?パンチのある子を探せよ」と伝えると天尾が「スケジュールもつまってるし、石井作品で使った脱げる子にしたいと思っています。鈴木クンもそうしようと..」と答えていると岡田が「鈴木、お前、ほんとにそれでええのか。新しい映画を作る気はないのか?」と鈴木に迫り、鈴木が咄嗟に「いや、新人で行きたいです」「大型新人で勝負したい」と啖呵を切ってしまい、新人をスカウトしなくてはならない羽目になった[12]

池のスカウト経緯については諸説あり[13][66]ロケハン先の喫茶店で天尾と鈴木が雑誌グラビアで見つけた[13][39][65]週刊誌のグラビア(ヌード)で見つけた[67]、雑誌にファッションモデルとして載っていた[14]六本木辺りの不良の溜まり場にたむろしていた[40]銀座クラブホステスだったなどがあるが[14]、製作年に近い文献では1971年12月28日の東京スポーツに「作家戸川昌子が経営する東京・青山クラブ『青い部屋』で池と杉本が二人で飲んでいた。二人とも売れないモデル業に嫌気がさしてドロップアウトの最中。そこをアタックし出演OKにこぎつけた」[66]、『近代映画』1972年3月号の記述もこれに似ており「前歴はフリーのヌードモデル。作家・戸川昌子が経営する東京・青山のクラブ『青い部屋』でボーイフレンドと飲んでいたところを、たまたま来ていた天尾完次プロデューサーがそのジャンボ級バストに一目惚れ。『ぜひやってみないか。あなたならスターになれる』と口説かれてポルノ女優の誕生となった」[2]、『映画評論』1972年11月号には「鈴木が『温泉みみず芸者』の主演女優を探しに上京。時間切れで、明日京都へ帰らなければならないという夜、プロデューサーといらいらしながら酒を飲んでいる、と向こうのカウンターにほの白く浮かんだ女の顔があった。それがある日突然私の運命が変わった池玲子だった。かくして一人の女優が誕生」と書かれており[68]、1971年5月に青山のスナックで遊んでいたなり[14][65]、青山の飲食店で池を見つけたとするものが多い。『日本映画俳優全集 女優編』でも「青山のスナックで天尾と鈴木にスカウトされた」と書かれている[4]。鈴木は2011年のインタビューで「青山のバーに池と杉本の二人が一緒にいた。一緒に飲みに行ったプロデューサーの天尾がこれを使おうと言った」[69]、2014年の著書『下品こそ、この世の花』でも「天尾と飲んでいたらカウンターの向こうに若い女の顔が仄白く浮かんだ。もうあの子でいこうかと決めた」と話している[70]。1990年の大下英治の著書『映画三国志 小説東映』の中で「天尾が池の経歴を100%創作した」という記述があり[65]藤木TDCは『映画秘宝』の連載で「青山のクラブ『青い部屋』でスカウトしたというシンデレラ物語は全てフィクション。天尾のイメージする新人が発見できず、男性週刊誌、二流の実話誌のグラビアに"ケイ真紀"や"真木圭子"という名で活動していたヌードモデルを東映が強力な政治力で池の過去を封印し、新人女優・"池玲子"として再生した」と指摘した[65]。この指摘を受けてかどうかは不明だが、鈴木は2013年の著書『東映ゲリラ戦記』で「修善寺でロケハン中、書店で天尾と二人で若い娘のグラビアが掲載されたあらゆる週刊誌を読み漁り、そこでエリザベス・テイラーに似た池玲子を見つけた。すぐに東京へ戻って出版社で池を探し出した。天尾が妹役の杉本美樹も探して京都に二人を連れてきた。二人とも全くの素人。アルバイトでグラビアモデルをやってるが、どこの事務所にも所属していない。池はグラビアの名前はカメラマンが適当につくり、その度に名前が違っているという。天尾は、二人は友達関係で、青山にある戸川昌子の店で有名な『青い部屋』へ遊びに行っている時、天尾と鈴木に会い、女優にならないかとスカウトされた。面白そうだから一回ぐらいやってもいいっと思った、というストーリィを作った」などと述べている[12]

またポルノ女優になることを母親は賛成し「映画の仕事を始めてマジメになった」と話していたという文献と[14]、母親は猛反対していたとする文献がある[13]。杉本美樹は池と同時にスカウトされたとする文献が多いが[14]荒木一郎湘南ナンパされた一人という説もある[14]。池と杉本はいろんな事務所に出たり入ったりして、出演料を吊り上げたり、東映が管理できないため、天尾が友人の荒木なら大丈夫だろうと荒木の事務所(現代企画、社長は荒木)に預けた[17][69]。荒木は「美樹は下着のモデルをやってて、東映でチョロチョロ出てたんだけどね。何かパッとしないけど、要するに身体が凄いのね。スタイルがいい。東映はとにかく女優を育てなきゃいけないっていう時期で、それで池と杉本をウチの事務所に預かったの」と述べている[17][71]。二人を皮切りに東映専属のポルノ女優の大半は荒木がマネジメントを務めた[17]

ポルノ女優第一号

[編集]

鈴木と天尾がスカウトした池玲子を面接した岡田は即決で「主演をやらせろ」と命令[65]、池と杉本の「二人を育てろ」と指示した[21][65]。池は当時、文化学院高校二年在学中の16歳(映画公開時17歳[3][4]。父は東京都内で建築設計事務所を経営する硬い家系だったが、学校にも行かず親とも断絶していた[2][72]。妹役の杉本は18歳で問題なかったが[12]、姉役の池の方が16歳だったため、一般映画とはいえ、映画の内容からそのままでは東映への批判は勿論、文部省なども黙っていないと考え、履歴書を18歳に捏造することにした[13][54][65][73]。劇中、慰安旅行に来た文部省御一行と芸者が破廉恥行為をするシーンも用意されていた[12]。天尾と鈴木は「本当の年齢がバレないよう干支を聞かれたときは間違いないこと」と念押しさせ[12][41]記者会見では質問事項を予想し、予め用意したものを池に語らせた[13]

無名の新人女優・池玲子を何とか売り出したいと考えた天尾は、それまでのピンク女優という言い方ではなく、成人映画のイメージを一新したい、何か新鮮なセックス女優をアピールする代名詞はないかとあれこれ思案し「衝撃のポルノ女優池玲子」とキャッチフレーズを付けた[3][12][14][74]。岡田社長からも承認を得て[75]広告にも「ポルノ映画誕生」と大きくキャッチコピーを打った[2]。これが"ポルノ"という言葉の誕生で[3][13][74][76]、今日SEX映像の代名詞として日本で定着する、"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語である[3][14][16]。"ポルノグラフィ"という言葉は、文学絵画写真等の官能表現の一分野として存在はしていたが、知る人のみが知る異端の業界用語で一般には知られてなかった[12][13]。これ以前は、ヌードとセックスを売り物にした映画は"ピンク映画""お色気映画""セクシー映画"など、曖昧な呼称で表現されていた[12][14][17]。天尾は「新しいセックス路線の幕開けだ」と自慢した[12]。当時、東映女優に力を入れていた「平凡パンチ」のグラビアにこのキャッチフレーズが書かれたことで[13]、これに芸能マスコミが喰いつき、"ポルノ女優第一号池玲子"に取材が殺到、"ポルノ"という言葉が各メディアに氾濫した[12][14]。「平凡パンチ」の池のゴージャスなヌードグラビアには、たいてい鈴木のポエムが掲載され、池のヌードをワンランク上昇させる知的援護射撃がなされた[13]。"ポルノ"という言葉はスポーツ新聞から、夕刊紙週刊誌などに拡散され[12]川上宗薫梶山季之といった作家の官能小説には"ポルノ小説"という言葉が付けられた[12]日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り[12][14][39]、本作『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及、"ポルノ"という言葉が日本に広く認知され定着していった[14]

池には「"ポルノ"という言葉は綺麗でエロティックで凄く良い意味なんだ」と言い含め[13]、池も「全然いやらしくないし、すっごく可愛い感じがする」と喜んでいたという[12]。この他、池に「一万人に一人の名器」とキャッチフレーズを付けたが[2]、池は「そんなこと気にしてたら何もできないわ。ボーイフレンドは30~40人。体験はもちろんあるわよ。だけどみんな物足りないものばっかりだったわ」などと豪語した[2]。池は美貌と巨乳で人気女優にのし上がった[77]

妹役の杉本は出番は少なめ。最初とラストのセックス対決のみ出てきて裸にもならない。 

その他キャスティング

[編集]

由利徹ら、東映コメディのオールスターで固められ、恒例の作家スペシャルゲストには、団鬼六らが出演[13]

裸の大将山下清役でも広く知られる芦屋雁之助が、池と濃厚なセックスシーンを演じる。

脚本

[編集]

石井輝男との"異常性愛路線"に於ける脚本コンビとしても知られる掛札昌裕は、鈴木の親友で本作で初めてコンビを組んだ[21][23]。鈴木は「『温泉みみず芸者』は掛札の才能に負うところ大だね」と述べている[21]。脚本第一稿は掛札が全て書いた[50][78]。鈴木とのシナリオ作りは色々なアイデアが出たという[79]。その最中に岡田から「クライマックスは“セックス対決”で行こう」「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論を指示[23][41]時代劇の三番勝負を思わせるこの理論から、鈴木が時代劇タッチに膨らませ、母娘とセックス対決する竿師段平には名和宏 をキャスティングした[41][50]。「ヤクザ映画ばかり幅を利かせて面白くない。何か新しい事をやろう!」という天尾と鈴木の情熱に名和は出演を快諾した[80]。本作以降、"東映温泉芸者シリーズ"のエンディングには必ず、竿師段平との“セックス対決”が用意されている[68]。東映ポルノの“セックス対決”という伝統もここからスタートした[22][53]。岡田は"東映温泉芸者シリーズ"に対して「今度はふんどし芸者に金魚すくいをさせい」とか[34]、好んで口を挟み[34]、「もっとエゲつなくしろ」と指示していたといわれたが[16]、毎回、奇想天外な珍案奇案のアイデアを考えねばならず、脚本家にはしんどい仕事だった[81]。シリーズ二作目の脚本を頼まれた鳥居元宏は、取材で期待したネタが集まらず困っていると岡田から呼び出しがかかり「イメージだけでも話せ」といわれ、何のアイデアもない鳥居はヤケクソ半分で「スッ裸の女がバイクに乗って温泉街を走り回る...そんなイメージです!」と言ったら、岡田が「おっしゃ!それで行け!! タイトルは『温泉ポン引き女中』や!」と閃き、"温泉芸者シリーズ"二作目の製作とタイトルが決まった[16]

撮影

[編集]

鈴木が静岡の親類の有力者に頭を下げまわって1971年夏に静岡県伊豆土肥温泉で長期ロケ[5][12][39][81]。「『伊豆の踊子』みたいな観光映画だから」と言って認めてもらった[41]。池は脱ぎっぷりがよく、宣伝用の撮影で伊豆に連れて行ったら、即座に全裸になって海へ入って行き、たいていのことでは驚かぬカツドウ屋を驚かせた[2][12][13][79]。「こんな女たちを暴れさせたら、今までにない映画ができるだろう」と鈴木たちスタッフを喜ばせた[79]小池朝雄も「この子は将来楽しみな大器だね」と気に入り、俳優として基礎知識をコーチした[12]。未成年といってもその肢体はバスト98cm、ウエスト59cm、ヒップ80cmという見事な成熟ぶりで、カメラの前に豊満な裸体を晒し、名器のタコツボで性豪をダウンさせるセックス場面も堂々と演ってのけた[73]。鈴木は池と杉本の持つ安っぽくうらぶれた色気を俗な描写で活かしきった[36]。鈴木は「僕の中に俳優志向がある。テーマ主義ではないし、作家なんかあんまり尊敬してない。小津安二郎より原節子の方が好きだし。幼少の頃からそうだから『温泉みみず芸者』が決まったとき『よし、自分の力でスターを1人作ろう!』と思った。池にもピッタリの素材だったし、そういう撮り方になっているよ」[50]、「監督は必ず女優の魅力を見つけないといけない。別にポルノじゃなくても、エロティシズムは必要なんだよ。映画の艶になるわけだからね。それが娯楽映画を撮る監督の務めですよ。当時もよく『何故こういうポルノ映画を撮るのか』と聞かれたけど、俺は『無名の子が一夜にして有名になる..そういう神話を作るために俺は映画監督をやっている』と答えたんだ。俺はあの二人がいなくなっても映画を作れる自信があった。新しい子で撮ればいいんだからね」などと話している[13][54]

タイトル変更

[編集]

『温泉みみず芸者』は、元は岡田が天尾と鈴木をタコのよく獲れる海岸に行かせて撮らせようという企画で、タイトルも最初は『温泉たこつぼ芸者』であったが[13][22][23]、伊豆で撮影中の鈴木に岡田が電話してきて「考えたけど、たこつぼは弱い。たこつぼはやめてタイトルは『温泉みみず芸者』にしろ」と言ってきた[12][13][22][23][41]。鈴木が「もうたこつぼを使って撮影してますよ。地中のじめじめしたみみずより、明るい太陽と海の方がいいと思います」と反論したが「中身はいいからタイトルだけは"みみず"で行け。何でもいいから、みみずにしろ! その方が当たる!判ったな」とタイトルを変更した[12][22][23]。タイトルは"みみず"なのに"タコ"ばかり出るのはこのため[13]。この"みみず"とは、女性器の名器の一つとされる"ミミズ千匹"のことで[82]1967年梶山季之が小説『女の警察』で造語として使って知られるようになり[82][83]、本作のタイトルを皮切りに[82]ポルノ映画のタイトルに使われたことなどで、名器の代表としてイメージ付けられ、世間へと浸透していった[82]。本編で何度も"たこ"たこつぼ"というのにタイトルの"みみず"という言葉は、本編では一切出ないいい加減さである[41]

宣伝

[編集]

公開時の惹句は「スゴイの三字がすべてを語る芸者シリーズ第四弾。男殺しの"ミミズ・タコツボ・密の味"!! 大型新人"ポルノ女優"池玲子誕生!」[73]

二、三年前までは鶴田浩二高倉健主演のヤクザ映画を作りさえすれば大当たりで、劇場がパンク寸前だったが[84]マンネリが飽きられたか[84]、1971年2月ごろからヤクザ映画は客足がガタ落ちしており[84][85]、本作は新しいエロ路線と期待され、利用できるものは何でも利用しようとハイエナのような宣伝戦略が練られた[85]映画パンフレットには、みみず千匹、タコツボ、数の子天井..などと名器一覧表が掲載された[85]

興行

[編集]

シナリオ段階で映倫から厳重注意を受け、成人指定にするよう指導された[12]。しかし地方の館主から、「女もの軟派ものは是非欲しいが、18歳未満の成人指定は勘弁してくれ」と強い要望が出た[12]地方条例が厳しい県もあり、成人指定だと町中にポスターも貼れず、新聞にも広告を打てないケースもあり宣伝が限定された[12]。このため映倫には、平身低頭、ひたすら揉み手のおべんちゃらで一般指定を勝ち取った[12]

作品の評価

[編集]

興行成績

[編集]

"不良性感度"を東映映画の座標軸とする岡田社長は、池のマスメディアの食いつきの良さから、本作製作中に池玲子主演第二作製作を決定した[12][13][50][79]。「"悪女もの"でタイトルも決めた。"先天性毒婦"や」[12][50]。鈴木は「毒婦って..あの子はまだ16歳、未成年ですぜ」と言い返そうとしたがやめた[12]。池は脱ぎっぷりの良さと作品内に於けるオープンなセックス観も加わり、男性ファンを虜にした[13]。池の陽性エロスはたちまち人気を集め大ヒットした[73][79]

岡田は「恥ずかしいもんか。客に喜んでもらったんだ、立派な仕事だよ」と述べている[86]。"温泉芸者シリーズ"最終作の予定であったが[7]、本作の大ヒットにより、さらに三作品が製作された。

斎藤正治は"東映温泉芸者シリーズ"をザ・ドリフターズ主演・渡邊祐介監督による松竹"全員集合シリーズ"とともに、70年代日本にもっともふさわしい"喜劇シリーズ"と評価している(1972年の論調)[68]。その理由として"東映温泉芸者シリーズ"が、70年代風俗を、貪欲に咀嚼している点を挙げている[68]

逸話

[編集]
  • 町山智浩が1995年頃、NHK教育深夜番組土曜ソリトン SIDE-B」に出演した際、関根勤から「俺ね、『温泉みみず芸者』が大好きなんだよ」と言われ、「ラストのセックス対決で負けた名和宏が入り江にぷか~んと浮かんでいると、名和の精子海水が真っ白に広がるのを俯瞰で撮るシーンとか」と言われて話が盛り上がり、番組中『温泉みみず芸者』の話をずっとしてたら丸ごとカットされたという[87]。この海をザーメンで汚すシーンは、琵琶湖牛乳を流して撮影したと名和が話している[80]
  • 本作は鶴田浩二主演の任侠映画傷だらけの人生』との併映で、前述の通り成人映画ではなく一般映画であった[13]。このため小学生でも観ることができ、小学5年生が「お姉さんのオッパイは、おかあさんのとぜんぜん違います」と池にファンレターを書いたという珍しい現象が起きた[13]。"ポルノ女優は乳を出してナンボ"ということを浸透させた影響力は絶大で、池は後に歌手活動を始めた際も、歌唱中に観客から「脱げ!脱げ!」とブーイングが起きる事態も発生した[13]

同時上映

[編集]

傷だらけの人生

ゲームソフト化

[編集]

パソコンゲーム黎明期の1984年1月にCSKソフトウェアプロダクツゲームソフト化した。芸者圭子と竿師段平のセックスバトルをゲーム化したものだったが、グラフィック的にはエレクト度は0であった[88]。 

注釈

[編集]
  1. ^ "東映温泉芸者シリーズ"は、1968年『温泉あんま芸者』(石井輝男監督)[9]1969年温泉ポン引女中』(荒井美三雄監督)、1970年温泉こんにゃく芸者』(中島貞夫監督)、1971年『温泉みみず芸者』、1972年温泉スッポン芸者』(鈴木則文監督)、1973年温泉おさな芸者』(鷹森立一監督)の6本[7][10]日本映画製作者連盟の「温泉芸者シリーズ」では5作品[11]
  2. ^ 1971年8月17日大川博死去により、1971年8月25日東映社長に就任。
  3. ^ 大原は東映専属だったが[64]、大信田は東映専属ではなく、渡辺プロダクションに所属していた[62]

出典

[編集]
  1. ^ 監督全集 1988, p. 214.
  2. ^ a b c d e f g 「ポルノ女優の身上調査 池玲子」『近代映画』、近代映画社、1972年3月、166頁。 
  3. ^ a b c d e f g ポルノ女優第一号を創った男たち/春日太一”. PR誌ちくま. 筑摩書房. 2017年12月23日閲覧。セクシー女優のあの興奮をもう一度!”. アサ芸プラス (2013年6月27日). 2017年12月23日閲覧。プレイバック芸能スキャンダル史 池玲子 2度の逮捕で一時活動休止した元祖ポルノ女優”. 日刊ゲンダイ. 株式会社日刊現代 (2014年7月4日). 2017年8月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。福永邦昭 (2016年10月28日). “【今だから明かす あの映画のウラ舞台】女優編(下) 池玲子の「肉弾戦」で東映ポルノ女優宣伝 三越屋上でセミヌード撮影会 (1/2ページ)”. 夕刊フジ. 産業経済新聞社. 2017年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。
  4. ^ a b c 俳優全集 1980, p. 61.
  5. ^ a b c d 温泉みみず芸者”. 日本映画製作者連盟. 2017年12月23日閲覧。温泉みみず芸者”. 東映ビデオオフィシャルサイト. 東映ビデオ株式会社. 2017年12月23日閲覧。温泉みみず芸者”. 東映ビデオオンラインショップ. 東映ビデオ株式会社. 2015年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。笑うポルノ、ヌケるコメディ”. シネマヴェーラ渋谷. 2015年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。
  6. ^ ぴあシネマ 1998, p. 163.
  7. ^ a b c d e f g h i j アナーキー 2012, p. 89.
  8. ^ a b c d 猛爆撃 1997, pp. 232–233, 237.
  9. ^ 温泉あんま芸者(成人指定)”. 東映ビデオオンラインショップ. 東映ビデオ株式会社. 2015年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。
  10. ^ 杉作J太郎・植地毅『不良番長 浪漫アルバム』徳間書店、2017年、121頁。ISBN 978-4-19-864354-6 
  11. ^ 温泉芸者シリーズ”. 日本映画製作者連盟. 2017年12月23日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 東映ゲリラ戦記 2012, pp. 8–31, 54–73, 220–221.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z PV 1999, pp. 36–37, 48–51, 102–106, 212–213, 220–221, 232–237.
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 悪趣味邦画 1995, pp. 143–145, 258–261, 276–280.
  15. ^ 轟夕起夫「下品こそ この世の花 過激! 笑激! 幻妖映画大名 鈴木則文の世界! 鈴木則文まかりとおる!~」『映画秘宝』、洋泉社、2013年12月、52-53頁。 
  16. ^ a b c d e f g h i j k あかんやつら 2013, pp. 261–269.
  17. ^ a b c d e まわり舞台 2016, pp. 130–150.
  18. ^ a b スパルタの海 スパルタの海公式サイトstaffcast 2017年12月23日閲覧
  19. ^ a b c 中島貞夫「デイリースポーツ連載「中島貞夫 傑作選劇場」『デイリースポーツ』2014年5月20日、20頁。 
  20. ^ PV 1999, pp. 48–51.
  21. ^ a b c d e f Hotwax8 2007, pp. 14–26, 40–44.
  22. ^ a b c d e f 鈴木則文「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 欲望をとらえる握力のひと」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2011年7月上旬号、61頁。 
  23. ^ a b c d e f g h i j k 東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂」『映画秘宝』、洋泉社、2011年8月、44-47,53-57,61,66。 
  24. ^ 福田和也「ゲスト 岡田茂(東映・相談役) 東映ヤクザ映画の時代 『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の舞台裏は」『オール讀物』、文藝春秋、2006年3月、221頁。 
  25. ^ 遊撃の美学 2004, p. 113.
  26. ^ 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6 中島貞夫「チンピライズムとアナーキズムー東映映画を振り返り」『1970年代とは何だったのか』扶桑社、2011年冬号、114-115頁。 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、227-228頁。ISBN 4-06-209594-7 
  27. ^ 奇想の天才再降臨! 鈴木則文ふたたび『鈴木規文インタビュー』」『映画秘宝』、洋泉社、2007年10月、53頁。 
  28. ^ a b c 「妄想、異形の人々 Mondo Cinemaverisque 日本の危ない映画、大集合!!」『映画秘宝』、洋泉社、2006年10月、80頁。 
  29. ^ a b ピンク映画 1969, pp. 150–151.
  30. ^ a b 風雲映画城 1992, pp. 144–145.
  31. ^ a b c d e f 映画魂 1992, pp. 118–119, 184–216, 333–334.
  32. ^ 仁義なき 2012, pp. 112–116.
  33. ^ 新文芸坐石井輝男 映画チラシ藤木TDC「東映『大奥』シリーズ 『大奥』ものは、本来男のエロ妄想映画なのだ!」『映画秘宝』、洋泉社、2007年8月、83頁。 鈴木義昭「東映ニューポルノの世界 監督名鑑1 荒井美三雄」『映画秘宝』、洋泉社、2013年8月、68頁。 柳下毅一郎「柳下毅一郎の新刊レビュー 『東映ゲリラ戦記』」『映画秘宝』、洋泉社、2014年1月、103頁。 磯田勉「ラピュタ阿佐ヶ谷は東映エロス時代劇!」『映画秘宝』、洋泉社、2016年3月、29頁。 
  34. ^ a b c シネマの極道 2012, pp. 52–53.
  35. ^ 日下部五朗『健さんと文太 映画プロデューサーの仕事論』光文社、2015年、62頁。ISBN 978-4-334-03897-7 柳下毅一郎「柳下毅一郎の新刊レビュー 『東映ゲリラ戦記』」『映画秘宝』、洋泉社、2014年1月、103頁。 
  36. ^ a b c 女優と裸体 1994, pp. 95–96.
  37. ^ 春日太一『仁義なき日本沈没―東宝vs.東映の戦後サバイバル”. 新潮社. 2017年12月23日閲覧。
  38. ^ 佐藤重臣「エロが国家を保護しはじめたのか ハレンチ化を一手に背負う東映映画に流れるものは?」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1969年7月上旬号、42-44頁。 田中純一郎・園崎昌勝「初夏の大映・東映京都撮影所訪問 2所長会見記」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1969年7月下旬号、104-105頁。 鹿島茂『甦る昭和脇役名画館』講談社、2005年、231頁。ISBN 4-06-213137-4 藤木TDC「石井輝男一周忌 遂に解禁!『異常性愛記録ハレンチ』 日本のセクスプロイテーション映画史における石井輝男の東映異常性愛路線が占める位置」『映画秘宝』、洋泉社、2006年9月、77頁。 奇想の天才再降臨! 鈴木則文ふたたび『掛札昌裕インタビュー』」『映画秘宝』、洋泉社、2007年10月、57頁。 鈴木義昭「帰ってきた! 日本のセクスプロイテーション映画興亡史 第8回 1968年の日本映画メジャー五社vs独立プロのピンク戦争」『映画秘宝』、洋泉社、2009年7月、56-57頁。 鈴木義昭「帰ってきた! 日本のセクスプロイテーション映画興亡史 第9回 東映500万ポルノ~誕生から衰退まで」『映画秘宝』、洋泉社、2009年8月、62-65頁。 
  39. ^ a b c d 福永邦昭「【今だから明かす あの映画のウラ舞台】女優編(下) 池玲子の「肉弾戦」で東映ポルノ女優宣伝 三越屋上でセミヌード撮影会 (1/2ページ)」『夕刊フジ』、産業経済新聞社、2016年10月28日、 オリジナルの2017年3月25日時点におけるアーカイブ、2017年12月23日閲覧 
  40. ^ a b 磯田勉「追悼上映がシネマヴェーラ渋谷で開催 天尾完次を偲ぶ」『映画秘宝』、洋泉社、2013年12月、25頁。 
  41. ^ a b c d e f g h 鈴木義昭・柳下毅一郎真魚八重子磯田勉「鈴木則文 『恐怖女子高校』『温泉芸者』『関東テキヤ一家』を語る。/東映セックスコメディの到達点 温泉芸者って何だ!? 日本映画における温泉芸者映画の歴史」『映画秘宝』、洋泉社、2009年10月、70-74頁。 
  42. ^ a b c 磯田勉「ラピュタ阿佐ヶ谷は東映エロス時代劇!」『映画秘宝』、洋泉社、2016年3月、29頁。 
  43. ^ a b c 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋、1989年、313頁。ISBN 4-16-343010-5 
  44. ^ a b c 「さらば!我らが天才監督 追悼総力特集 猟奇・残酷・お母さん・地獄拳 石井輝男の世界 東映異常性愛路線とは」『映画秘宝』、洋泉社、2005年11月、33,38。 
  45. ^ 山城新伍『映画通のタネ本 語り明かしたかった37項』青春出版社、1979年、82-83頁。 
  46. ^ a b c d 新風雲録 2014, pp. 226–228.
  47. ^ 高鳥都「『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』日本初DVD化&石井輝男の世界 共同脚本・掛札昌裕が語る異常性愛路線の作り方」『映画秘宝』、洋泉社、2017年9月、70-71頁。 
  48. ^ 藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第8回 スケバンへの道~Enter the Sukeban~その1」『映画秘宝』、洋泉社、2006年11月、112頁。 
  49. ^ 「東映『女番長』シリーズのすべて鈴木則文に訊く『女番長』シリーズ誕生秘話」『映画秘宝』、洋泉社、2009年4月、66-67頁。 
  50. ^ a b c d e f g 「我らの娯楽映画王、三たび登場!! 鈴木則文 待ってました!スペシャル対談 鈴木則文vs掛札昌裕 奇想の秘密 / この傑作も見逃すな! 『温泉みみず芸者』」『映画秘宝』、洋泉社、2008年6月、54-57,61。 
  51. ^ 磯田勉「ラピュタ阿佐ヶ谷は東映エロス時代劇!」『映画秘宝』、洋泉社、2016年3月、29頁。 
  52. ^ 「偉大なる娯楽映画監督、逝く! ありがとう、鈴木則文 天下御免の三角マークよ永遠なれ! 鈴木さんとの懐かしい日々 掛札昌裕」『映画秘宝』、洋泉社、2014年8月、4頁。 
  53. ^ a b c 石田伸也「故・鈴木則文監督 座右の銘は「下品こそ、この世の花」」『週刊ポスト』2017年4月21日号、NEWSポストセブン、2017年4月13日、157-164頁、 オリジナルの2017年4月17日時点におけるアーカイブ、2017年12月23日閲覧 
  54. ^ a b c 東映ピンキー&バイオレンス映画再ブーム! 鈴木則文監督独占インタビュー”. ライブドア. LINE (2009年8月22日). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。
  55. ^ 風雲録 2010, pp. 292–293.
  56. ^ 「KING OF ENTERTAINMENT 映画監督鈴木則文、フォーエバー!」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2014年7月下旬号、54-55頁。 
  57. ^ 東映株式会社 (2012年5月9日). “岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)”. facebook.com. 2015年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。東映株式会社 (2012年5月13日). “岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)”. facebook.com. 2015年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。
  58. ^ 遊撃の美学 2004, pp. 220–230.
  59. ^ a b 「特集評伝・新鋭監督16人衆 伊藤俊也」『映画評論』1972年12月、106頁。 
  60. ^ 「追悼・天尾完次」『映画秘宝』、洋泉社、2014年1月、65-66頁。 
  61. ^ 佐藤重臣「1972年日本映画総特集 日活ロマンポルノあるのみ」『映画評論』1973年2月号、42-43頁。 
  62. ^ a b c d e f 「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第11回 スケバンへの道~Enter the Sukeban~その4」『映画秘宝』、洋泉社、2007年2月、99頁。 
  63. ^ a b 「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第9回 スケバンへの道~Enter the Sukeban~その2」『映画秘宝』、洋泉社、2006年12月、114頁。 
  64. ^ 俳優全集 1980, p. 143.
  65. ^ a b c d e f g h 藤木TDC「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第12回 スケバンへの道~Enter the Sukeban~その5」『映画秘宝』、洋泉社、2007年4月、99頁。 
  66. ^ a b 「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第13回 スケバンへの道~Enter the Sukeban~その6」『映画秘宝』、洋泉社、2007年4月、99頁。 
  67. ^ 「ポルノ女優から『大物政治家の甥』まで覚せい剤事件を彩った男女 デビュー前から"転落"していた池玲子の場合」『週刊サンケイ』、産業経済新聞社、1979年6月23日、25頁。 
  68. ^ a b c d 斉藤正治「特集 大東映を流れる"血" 鈴木・中島・深作」『映画評論』1972年11月号、60-61頁。 
  69. ^ a b 昭和桃色映画館 2011, pp. 152–153, 248.
  70. ^ この世の花 2014, pp. 160–163.
  71. ^ 鈴木義昭「荒木一郎インタビュー後編 永遠の不良少年と、女優たちの70年代」『映画秘宝』、洋泉社、2006年9月、82頁。 
  72. ^ 忘れられない人・池玲子さんのこと”. ☆沈黙図書館☆ (2018年5月4日). 2022年6月6日閲覧。
  73. ^ a b c d 猥褻 1993, pp. 176–177.
  74. ^ a b 「東映ポルノの巨匠 鈴木則文の美学 『下品こそ、この世の花、』」『週刊ポスト』2017年4月21日号、小学館、160頁。 
  75. ^ 「あの女優が惜しげもなく肢体を解き放った グラビアを彩ったオンナたち」『アサヒ芸能』2011年11月3日号、徳間書店、38頁。 
  76. ^ 猛爆撃 1997, p. 237.
  77. ^ 藤木TDC『流行り歌に隠されたタブー事件史』宝島社別冊宝島1499〉、2008年、137頁。ISBN 978-4-7966-6178-2 
  78. ^ 桂千穂『桂千穂のシナリオはイタダキで書け!』メディアミックス、2017年、193頁。ISBN 978-4-86201-667-6 
  79. ^ a b c d e 日本不良映画 2016, pp. 47, 74–81.
  80. ^ a b PV 1999, pp. 70–71.
  81. ^ a b 映画人烈伝 1980, pp. 146–151, 198.
  82. ^ a b c d 性的なことば 2010, pp. 325–326.
  83. ^ 有栖川寧 (2007年7月11日). “日本性豪列伝 梶山季之”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社): p. 13 
  84. ^ a b c 「ついにダウンした東映ヤクザ路線」『週刊新潮』、新潮社、1971年6月5日号、15頁。 
  85. ^ a b c 「『温泉みみず芸者』の(秘)売出し作戦」『週刊新潮』、新潮社、1971年7月3日号、15頁。 
  86. ^ 私の経営説法 1995, pp. 21–31.
  87. ^ 「偉大なる娯楽映画監督、逝く! ありがとう、鈴木則文 天下御免の三角マークよ永遠なれ! 町山智浩」『映画秘宝』、洋泉社、2014年8月、8頁。 
  88. ^ PV 1999, pp. 100–101.

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]