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二匹の牝犬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二匹の牝犬
監督 渡邊祐介
脚本 下飯坂菊馬、渡邊祐介
出演者 小川真由美
緑魔子
杉浦直樹
沢村貞子
若水ヤエ子
宮園純子
北村和夫
宮口精二 
音楽 渡辺宙明
撮影 西川庄衛
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1964年3月12日
上映時間 91分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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二匹の牝犬』(にひきのめすいぬ)は、1964年の日本映画R-18(旧成人映画)指定[1][2]白黒映画東映東京撮影所製作、東映配給。主演:小川真由美、監督:渡邊祐介

概要

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1961年新東宝から東映東京撮影所(以下、東映東京)に移籍した渡邊祐介(渡辺裕介)監督が、娯楽作を連発した後[3]小川真由美緑魔子を起用して製作した"悪女"シリーズ第一作[4][5]1960年代後半から本格化する東映ポルノの原点とも評される[6]。小川真由美は、1963年から1964年に放送されたテレビドラマ孤独の賭け』(NET)で初めて悪女を演じた後、本作に抜擢された[5][7]。映画初主演となる本作でもトルコ嬢に扮し、セックスと小川の裸を売った宣伝が功を奏して大ヒットし、小川に次々と映画のオファーが殺到した[8]。また小川の"悪女"イメージが決定的となった[5][9][10]。小川の出演は所属した文学座の1963年の二度に渡る大量離脱による分裂騒動で傾いた劇団の借金返済のためといわれている[5][6][8]。また本作で映画デビューした緑魔子[11]も小川とふてぶてしい娼婦姉妹を演じて小川同様"悪女"イメージが付き、1960年代に東映の"悪女もの""風俗路線"に多数出演、任侠映画の併映作品として東映の一角を担った[6][12]。緑は本作で第15回(1964年度)ブルーリボン賞を受賞。緑は1960年代から1970年代にかけて倦怠的なムードで特異な人気を得た[5][9][13]

ストーリー

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赤線地帯を振り出しに、男から男へ渡り歩く女・並木朝子。トルコ嬢になり身体を元手に荒稼ぎし、法の目をくぐり証券会社の営業部員・関根啓三と組み大金を貯めていた。ある日、異母妹の夏子が上京し朝子の部屋に居すわる。夏子はセックスを塵ほどにも思わない現代娘で、遣り手婆のテツに誘われ簡単に売春婦になる。朝子はトルコ風呂を辞め、関根との結婚を夢みるようになるが、関根は朝子から全てを搾り取ろうと考えていたワルで夏子とも交渉を持った。が大暴落し関根は夏子との結婚を餌に朝子の株を帳消しにしようと考える。しかし関根は夏子の肉体の虜になっていく[1][7][14]。 

キャスト

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スタッフ

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製作経緯

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企画

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企画、及び映画タイトル命名は、岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)[15][16]。本作公開時には東映京都撮影所所長に転任していたが、前任の東映東京時代に現状打破としてギャング路線東映名作路線任侠路線などと共に岡田が考案したエロ路線の一本である[3][7][17]。岡田はこの前の年1963年にエロ描写が話題を呼んだ佐久間良子主演『五番町夕霧楼』をプロデュースして大ヒットさせていたが[18][19]、『五番町夕霧楼』の場合は、文芸大作という体を成していた[20][21]。しかし『二匹の牝犬』の場合は原作もないオリジナル脚本で、主役の二人が娼婦を演じるというエロを前面に出した画期的な女性映画であった[2][6]。日本映画は1950年代頃までは男優中心で、突出した大女優を除けば、女優は時代劇でも現代劇でも基本的には刺身のツマ扱いだった[6]。ところが1960年代に入ってテレビの台頭と同時に映画の斜陽が始まった[20][21][22]。この打開策として邦画各社が一斉に力を入れ始めたのがエロチシズムを売りものにした成人映画[19][23]、ここから女優を主役にした映画がたくさん作られはじめていた[6][19]。 

脚本

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前作・高倉健主演のベタベタなギャング映画恐喝』を監督した渡邊祐介に[24]、岡田が「そんなにベタベタしたいなら、女の細胞に興味を持て」「ノースターで女を描いてみろ」と指示[24]売春防止法施行から六年目で、この法律に頭に来ていた渡辺はすぐに飛びついた[24]。渡邊が脚本を下飯坂菊馬と組みたいと希望[25]、渡邊と下飯坂は、この後もコンビで多くの作品を手掛けた。

キャスティング

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半年かけて脚本を完成させロケハンも済ませたが、ノースターどころか、なかなか女優が見つからず。渡邊と助監督で足を棒にして文学座研究生の小川真由美と東宝のテレビ部に所属して当時"島蓉子"という芸名で活動していた緑魔子を[12]、小川の妹役として渡邊が起用を決めた[12][24]

主演の小川真由美は、1963年に新藤兼人監督『』で映画初出演し本作が二作目。前述のように文学座の借金返済のため小川と、三津田健宮口精二北村和夫本山可久子草野大悟岸田森ら、同劇団の俳優がユニット出演している[5][6][26]。小川は1963年10月4日から放送されたNET・東映共同制作『孤独の賭け』での乾百子役に「小川の悪女役っておもしろいじゃないか」と目を付けられ本作主演に抜擢された[10]。小川は文学座の所属でありながらトルコ嬢の役に「こんな役やるの?」と嫌がったが、岡田が「そうだよ。この役が君の役だ」と説得された[15]。小川は本作に続き、同じ岡田プロデュースの『悪女』に起用され[10][24]、小川は役柄だけではなく、小川自身も悪女というイメージが付くほど、強烈な悪女イメージが付いた[10]。取材のカメラマンから「不敵な笑いを浮かべて下さい」と言われたり[10]、身体をこわして逓信病院に入院したら、テイシンを聞き間違えたか「悪女小川真由美、セイシン病院に入院!」と週刊誌に書かれた[10]。当時の小川はまだ二十代半ば。悪女のレッテルにオタオタし、何とか悪女イメージから脱却しようと杉村春子の娘役でホームドラマに出て、純情可憐なイメージを振りまいたが、なかなか悪女イメージを払拭できなかった[10]。しかし文学座の分裂騒動で中堅どころがごっそり抜けた幸運もあり、同劇団で早くから主役に抜擢され[10]、年を重ねるに連れ、舞台でも映画やテレビでも女探偵から阿部定まで幅広い役をこなし、何でも出来る"変化女優"といわれるようになり、女優として名声を高めていった[10]

緑魔子は九州訛りが酷く[24]、芝居が素人同然だったため岡田は「そんな女を使って、フィルムがメチャクチャになるぞ」と反対したが、緑は懸命に勉強し演技力を身に付けた[13]。緑はこの時代には珍しく英語が流暢に話せるインテリだったが[13][15]、当時の状況としてはかなり衝撃的な全裸のシャワーシーンを演じるなど大胆に裸体を披露し、デビュー作で新劇人に囲まれながら強烈なオーラを放った[13]。渡邊は「東宝演劇部に席を置くというだけの全くの素人に近い人だった」「映画のエの字も知らない子だったが、ただ眼玉が人並み外れて素晴らしかった」 「スターは会社が作るというが、50%は彼女自身が作り上げた」などと評価した[24]。緑は本作の演技によりこの年のブルーリボン賞新人賞を受賞している。緑はこの後1968年にフリーとなるまで東映の専属として27本もの東映のプログラムピクチャーをメインとし"アングラ"や"新劇"といったバックボーンを持たずに、多くの作品で個性的な役を演じた[27]溝口健二増村保造からはるかのちの五社英雄関本郁夫へと連なるキャットファイトの系譜の内でも小川と緑の迫力と美しさは群を抜くとも評された[6]。 

宣伝

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公開時の惹句は「げっぷが出るほど抱かせてやる」であった[28]

興行

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岡田はカラーで撮影させたかったが営業が反対し白黒映画になった[15]。当時は少しでもこけそうな映画は全部白黒で撮っていた[29]。しかし大ヒットし後になって「何でカラーにしなかったんだ」と言われたという[15]。 

後世への影響

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本作は東映東京に於ける"風俗映画路線"、及び東映に於けるエロティシズム映画のプラットフォームになった一本である[6][26]。本作のヒットにより、岡田は渡邊監督、小川真由美緑魔子コンビで『悪女』を企画[24]。この作品で岡田は初めて梅宮をスケコマシ役として登場させた[30][31]。梅宮の好演を観て岡田と園田実彦が企画したのが梅宮辰夫緑魔子コンビによる1965年の『ひも[32][33][34]。これを岡田が「夜の青春シリーズ」としてシリーズ化[34]東映東京撮影所に置き土産として残し、東映京都撮影所所長に転任した[34]。渡邊祐介はセックスを風俗の面から捉えることに大反対で「夜の青春シリーズ」には参加せず、この路線に興味を失った[24]。園田実彦は「夜の青春シリーズ」などをプロデュース後、1960年代後半に大川毅東映専務と活動屋重役とのお家騒動があった際、映画撮影中に失踪[35]日活にプロデューサーとして収まり『ハレンチ学園』などの企画をしている[35]

また岡田はこの『二匹の牝犬』から始まるエロティシズム路線を時代劇に持ち込めないか企図し[36]、後に中島貞夫に『くノ一忍法』を作らせた[36]。これが京都撮影所所長に転任後「任侠映画」と共に路線化した「東映ポルノ」である[36]

同時上映

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脚注

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  1. ^ a b 二匹の牝犬 - 日本映画情報システム
  2. ^ a b 二匹の牝犬”. 日本映画製作者連盟. 2020年4月7日閲覧。
  3. ^ a b 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年、87-111頁。ISBN 4-06-206226-7 
  4. ^ 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年、568頁。 
  5. ^ a b c d e f 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、166-167,652頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i 『鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979』洋泉社映画秘宝EX〉、2012年、53,90-93頁。ISBN 978-4-86248-918-0 杉作J太郎・植地毅(編著)『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、34頁。ISBN 4-19-861016-9 
  7. ^ a b c 「グラビア」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1964年3月下旬号、68頁。 
  8. ^ a b 黒田邦雄「ザ・インタビュー 小川真由美」『キネマ旬報』1984年昭和59年)4月下旬号 120-123頁、キネマ旬報社、1984年。 
  9. ^ a b 悪女礼讃 ~スクリーンの妖花たち|作品解説1/ラピュタ阿佐ケ谷
  10. ^ a b c d e f g h i 石崎勝久「モーレツ・スーパーレディに接近 ここかと思えばまたあちら、変身に変身をかさねる小川真由美の巻」『映画情報』、国際情報社、1973年9月号、62-64頁。 
  11. ^ 二匹の牝犬(1964) allcinema Movie&DVD Datebase
  12. ^ a b c 「映画女優 緑魔子の時代【前編】 緑魔子インタビュー」『映画秘宝』、洋泉社、2009年6月、76-77頁。 「映画女優 緑魔子の時代【後編】 緑魔子インタビュー」『映画秘宝』、洋泉社、2009年7月、78-79頁。 
  13. ^ a b c d 『悪趣味邦画劇場〈映画秘宝2〉』洋泉社、1995年、257-258頁。ISBN 978-4-89691-170-1 
  14. ^ 「日本映画紹介」『キネマ旬報』1964年4月春の特別号、94頁。 
  15. ^ a b c d e 岡田茂『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年、158-159頁。ISBN 4-04-883871-7 
  16. ^ 「日本映画製作者名鑑」『キネマ旬報』1966年3月上旬号、34頁。 桂千穂「下飯坂菊馬」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、218頁。ISBN 4-88296-801-0 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、62頁。ISBN 4-89830-173-8 
  17. ^ 「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』 1巻、東映、1992年、174-175頁。 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕私の新人時代 - 日本映画テレビプロデューサー協会 吉田達、『波瀾万丈の映画人生』、145-157頁、春日太一『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』新潮社〈新潮新書〉、2012年、102-103頁。ISBN 978-4-10-610459-6 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、118-119頁。ISBN 4-948735-08-6 二階堂卓也『ピンク映画史』彩流社、2014年、158頁。ISBN 978-4-7791-2029-9 『悪趣味邦画劇場〈映画秘宝2〉』洋泉社、1995年、276-280頁。ISBN 978-4-89691-170-1 「鎮魂、映画の昭和 岡田茂他 」『映画芸術』、編集プロダクション映芸、2011年8月号、132頁。 桂千穂「鈴木尚之」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、850頁。ISBN 4-88296-801-0 
  18. ^ 昭和の銀幕に輝くヒロイン 佐久間良子スペシャル/ラピュタ阿佐ヶ谷日経スペシャル 私の履歴書 ~女優・佐久間良子(前編)2015年5月17日”. 私の履歴書. BSジャパン. 2015年6月8日閲覧。(私の履歴書)佐久間良子(12) 人生の師 温かい助言で殻を破る 主役に抜てき、「実力派」へ”. 日本経済新聞 (2012年2月12日). 2015年7月9日閲覧。日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る
  19. ^ a b c 鈴木義昭『ピンク映画水滸伝—その二十年史』青心社、1983年、34-35頁。 
  20. ^ a b 「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』 1巻、東映、1992年、174-175頁。 
  21. ^ a b 東映株式会社映像事業部(企画・編集)『東映映画三十年:あの日、あの時、あの映画』東映、1981年、120-121頁。 
  22. ^ トピックス: 日本映画産業のピークと斜陽のはじまり | J-Pitch
  23. ^ 佐藤忠男、吉田智恵男『日本映画女優史』芳賀書店、1975年、158頁。 
  24. ^ a b c d e f g h i 渡辺祐介. “日本映画 この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか 渡辺祐介における喜劇と栄光? ー新東宝からドリフターズまでー”. 映画芸術」 No266 (映画芸術社): 41-43頁. 
  25. ^ 桂千穂「鈴木尚之」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、218頁。ISBN 4-88296-801-0 
  26. ^ a b 高護(ウルトラ・ヴァイヴ)『日本映画名作完全ガイド 昭和のアウトロー編ベスト400 1960‐1980シンコーミュージック、2008年、22頁。ISBN 978-4-401-75122-8 
  27. ^ 『歌謡曲番外地 Vol.1』シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、114頁。ISBN 978-4-401-75112-9 
  28. ^ 「芝山幹郎が選ぶ永遠の銀幕スター 艶のある日本の女優30人 誇らしげに悪魔の味方を 緑魔子」『月刊プレイボーイ』、集英社、2007年2月号付録、19頁
  29. ^ 『波瀾万丈の映画人生』、150頁。
  30. ^ “梅宮辰夫さん インタビュー 昭和キネマ横丁 - Part2”. 昭和キネマ横丁 (邦画5社共同企画). (2014年). オリジナルの2014年12月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141205024607/http://kineyoko.jp/archives/interview/tatsuo-umemiya/2 2018年1月30日閲覧。 
  31. ^ 「『昭和キネマ横丁』インタビュー 梅宮辰夫東映アーリーデイズ」『映画秘宝』 2014年11月号、洋泉社、79頁。 
  32. ^ 高護他「『不良番長シリーズ』 梅宮辰夫インタビュー」『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol. 7』シンコーミュージック・エンタテイメント、121頁。ISBN 978-4-401-75111-2 
  33. ^ 桂千穂成沢昌茂」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、781頁。ISBN 4-88296-801-0 
  34. ^ a b c 成沢昌茂. “日本映画 この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか 『夜の青春シリーズ』誕生とその周辺”. 「映画芸術」 No266 (映画芸術社): 51-53頁. 
  35. ^ a b 「人気NO.1の『ハレンチ学園』が打ち切りに!?」『週刊明星』、集英社、1970年11月15日号、150頁。 
  36. ^ a b c 中島貞夫. “日本映画 この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか やくざ襲撃前夜のゴールデンエージ?”. 「映画芸術」 No266 (映画芸術社): 43-45頁. 

外部リンク

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