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[[1998年]]、[[小渕内閣]]で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任。ガイドライン関連法の成立に尽力し、国会答弁では「スーパー政府委員」の異名を取った<ref>[http://web.archive.org/web/20080624110557/http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2003_09_10/index.html 「3候補直撃インタビュー「自民党総裁選」」] Web現代 2003年9月10日、2009年4月19日閲覧。(2008年6月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。[[小渕内閣第1次改造内閣|小渕改造内閣]]でも留任。[[2000年]]には[[第2次森内閣_(改造)|第2次森改造内閣]]で[[法務大臣]]に就任し、この頃から[[自由民主党総裁|総裁]]候補の1人に目されるようになった。 |
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[[2000年]]7月、番町政策研究所(旧河本派)の会長に就任。河本敏夫の死去した[[2001年]]以降、旧河本派は、高村派と称されるようになる。 |
[[2000年]]7月、番町政策研究所(旧河本派)の会長に就任。河本敏夫の死去した[[2001年]]以降、旧河本派は、高村派と称されるようになる。 |
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[[2007年]]11月2日の衆議院外交委員会で、[[化学兵器禁止条約|化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約]]に関して、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[松原仁]]は「昭和20年の敗戦後に中国側へ兵器を引き渡した際の引継書には化学兵器も含まれていた」と指摘したが、高村は「どっちに立証責任があるかといえば、それは条約上の建前からいって、日本側にあるんだろうと思います。これについては引き渡したものですよ、これについては日本側に責任はありませんよと。それは非常に困難なのではないかな、こういうふうな感じを、今御質問を聞きながら思いました」と述べた<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/168/0005/16811020005003a.html [[第168回国会]] 外務委員会 第3号]</ref>。 |
[[2007年]]11月2日の衆議院外交委員会で、[[化学兵器禁止条約|化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約]]に関して、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[松原仁]]は「昭和20年の敗戦後に中国側へ兵器を引き渡した際の引継書には化学兵器も含まれていた」と指摘したが、高村は「どっちに立証責任があるかといえば、それは条約上の建前からいって、日本側にあるんだろうと思います。これについては引き渡したものですよ、これについては日本側に責任はありませんよと。それは非常に困難なのではないかな、こういうふうな感じを、今御質問を聞きながら思いました」と述べた<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/168/0005/16811020005003a.html [[第168回国会]] 外務委員会 第3号]</ref>。 |
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[[2008年]]3月17日に参院予算委員会で、中国・南京などにある抗日記念館の展示内容について、「事実関係に疑義のある展示や青少年の教育上、過度に残虐な表現がある展示がみられることは残念だ」と述べた。[[南京]]や[[盧溝橋]]の抗日記念館には、[[日本軍]]兵士による「[[百人斬り]]」の記事や写真などが掲示されており、高村は「指摘すべきは指摘し、中国側の適切な対処を求めていく」と語った<ref>[http://web.archive.org/web/20080322005135/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080317/plc0803171942008-n1.htm 抗日記念館展示に「残念だ」 高村外相] - 『[[産経新聞]]』2008年3月17日(2008年3月22日時点の[[インターネット |
[[2008年]]3月17日に参院予算委員会で、中国・南京などにある抗日記念館の展示内容について、「事実関係に疑義のある展示や青少年の教育上、過度に残虐な表現がある展示がみられることは残念だ」と述べた。[[南京]]や[[盧溝橋]]の抗日記念館には、[[日本軍]]兵士による「[[百人斬り]]」の記事や写真などが掲示されており、高村は「指摘すべきは指摘し、中国側の適切な対処を求めていく」と語った<ref>[http://web.archive.org/web/20080322005135/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080317/plc0803171942008-n1.htm 抗日記念館展示に「残念だ」 高村外相] - 『[[産経新聞]]』2008年3月17日(2008年3月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 |
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=== 統一教会との関係 === |
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2017年9月4日 (月) 14:24時点における版
高村 正彦 こうむら まさひこ | |
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| |
生年月日 | 1942年3月15日(82歳) |
出生地 | 日本 山口県周南市 |
出身校 | 中央大学法学部法律学科卒業 |
所属政党 | 自由民主党(麻生派) |
称号 |
弁護士 法学士(中央大学・1965年) |
親族 | 高村坂彦(父) |
公式サイト | 衆議院議員 高村 正彦 =Koumura.net= |
第141代 外務大臣 | |
内閣 |
福田康夫内閣 福田康夫改造内閣 |
在任期間 | 2007年9月26日 - 2008年9月24日 |
第3代 防衛大臣 | |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2007年9月26日 |
第70-71代 法務大臣 | |
内閣 |
第2次森改造内閣 (改造 中央省庁再編前) 第2次森改造内閣 (改造 中央省庁再編後) |
在任期間 | 2000年12月5日 - 2001年4月26日 |
内閣 |
小渕内閣 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1998年7月30日 - 1999年10月5日 |
第50代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 村山内閣 |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (1980年6月23日 - 現職) |
高村 正彦(こうむら まさひこ、1942年3月15日 - )は、日本の政治家、弁護士(登録番号:10863)。自由民主党所属の衆議院議員(12期)、自民党副総裁(第13代)。
経済企画庁長官(第50代)、法務大臣(第70・71代)、防衛大臣(第3代)、外務大臣(第127・141代)、衆議院農林水産委員長、番町政策研究所会長(第3代)を歴任した。
来歴
山口県徳山市(現周南市)出身。父・高村坂彦の衆議院議員初当選を機に東京都へ移る。東京都立立川高等学校、中央大学法学部法律学科卒業。23歳で司法試験に合格。司法修習第20期を修了し、1968年に弁護士登録。同期に江田五月(元参議院議長・法務大臣・科学技術庁長官)、横路孝弘(元衆議院議長)、神崎武法(元公明党代表、郵政大臣)、村井敏邦、五十嵐敬喜がいる。
政界へ
1980年、父・高村坂彦の引退に伴い、第36回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧山口2区から出馬し、初当選。同期で中大法学部の同窓に長野祐也(中曽根派)がいる。小選挙区比例代表並立制導入後は山口1区から出馬し、中選挙区時代も含めて通算12期連続当選している。早くから河本敏夫率いる新政策研究会の次世代を担う領袖候補に目されていた。
1994年、自社さ連立政権の村山内閣で経済企画庁長官に任命され、初入閣。当時大学生だった長男を秘書官に任命し、批判を受けた。1995年、所属していた派閥の名称が、新政策研究会から番町政策研究所に変更される。
橋本内閣
1996年には第2次橋本内閣では、閣僚経験者でありながら池田行彦外務大臣の下で外務政務次官に就任し、ペルー日本大使公邸人質事件では解決に向けて奔走した。
小渕内閣
1998年、小渕内閣で外務大臣に就任。ガイドライン関連法の成立に尽力し、国会答弁では「スーパー政府委員」の異名を取った[1]。小渕改造内閣でも留任。2000年には第2次森改造内閣で法務大臣に就任し、この頃から総裁候補の1人に目されるようになった。
2000年7月、番町政策研究所(旧河本派)の会長に就任。河本敏夫の死去した2001年以降、旧河本派は、高村派と称されるようになる。
山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の「YKK」に森喜朗を加えた「MYKK」に高村を加えて、「MY3K」と称されることもあった。この頃、小泉の後継を窺い、麻生太郎、古賀誠、平沼赳夫らと共に士志の会を結成した。
2003年、自由民主党総裁選挙に出馬。高村派所属議員の他、宏池会堀内派の林義郎やその長男・林芳正、大勇会の鈴木恒夫や森英介[2]、平沢勝栄らが高村の推薦人に名を連ね、保守党党首から自民党に復党した野田毅も高村を支援した。結果は最下位(54票)に終わったものの、議員票では高村派議員数の16人を大きく上回る47票を獲得。一定の存在感を示した。
郵政民営化反対
総務会で郵政民営化法案の提出に反対した[3][4]。衆議院本会議の採決では棄権した。後に参議院の審議で付帯決議付きの法案が可決され、過疎地の郵便局も存続の見通しが立ったため、衆議院の解散後に賛成の立場を明らかにし、自民党の公認を受けた。
2006年自由民主党総裁選挙では、同じ山口県選出の安倍晋三を高村派を挙げて支持し、安倍内閣では内閣府特命担当大臣(金融担当)に山本有二、在職中に死去した農林水産大臣・松岡利勝の後任に赤城徳彦を送り込んだ(赤城は事務所費問題が発覚し短期間で更迭)。2007年、第1次安倍改造内閣では防衛大臣に任命される。
安倍の後継総裁を選出する2007年自由民主党総裁選挙では、早くから麻生太郎包囲網に参加し、福田康夫を支持。
福田内閣
福田康夫内閣では外務大臣に任じられる。福田康夫改造内閣でも再任された。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、全国的に自民党への猛烈な逆風が吹き荒れる中、保守王国・山口県で圧倒的な強さを見せ、山口1区で民主党新人の高邑勉を破り、10選(派閥領袖で小選挙区で当選したのは高村、麻生太郎、二階俊博、古賀誠の4人)。高邑には5万票弱の大差をつけたが、比例復活を許した。山口1区で次点以下の候補が比例復活は初。
第二次安倍内閣
2012年自由民主党総裁選挙では、再び安倍晋三への支持を表明。総裁に当選した安倍の下、自民党副総裁に起用された。番町政策研究所の会長職は、副総裁を退任した大島理森が継いだ。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、山口1区で11選。
2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では、山口1区で12選。
2017年1月30日、自由民主党副総裁の連続在任日数が1586日となり、歴代最長となる[6]。
政策・主張
北朝鮮に対する姿勢
『毎日新聞』による小渕内閣の外相時代の評価は高く、北朝鮮問題でも「拉致問題解決なくしてコメ支援なし」の原則を公言していた。当時は北朝鮮に宥和的な政治家が対朝外交の主導権を握っていて、積極的な議員外交が繰り広げられていた[7]。
中国に対する姿勢
2007年11月2日の衆議院外交委員会で、化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約に関して、民主党の松原仁は「昭和20年の敗戦後に中国側へ兵器を引き渡した際の引継書には化学兵器も含まれていた」と指摘したが、高村は「どっちに立証責任があるかといえば、それは条約上の建前からいって、日本側にあるんだろうと思います。これについては引き渡したものですよ、これについては日本側に責任はありませんよと。それは非常に困難なのではないかな、こういうふうな感じを、今御質問を聞きながら思いました」と述べた[8]。
2008年3月17日に参院予算委員会で、中国・南京などにある抗日記念館の展示内容について、「事実関係に疑義のある展示や青少年の教育上、過度に残虐な表現がある展示がみられることは残念だ」と述べた。南京や盧溝橋の抗日記念館には、日本軍兵士による「百人斬り」の記事や写真などが掲示されており、高村は「指摘すべきは指摘し、中国側の適切な対処を求めていく」と語った[9]。
統一教会との関係
弁護士時代に世界基督教統一神霊協会の訴訟代理人を務めており、1980年には統一教会の女性信者が強制改宗させられているとして、裁判所に人身保護請求を行なってその信者を解放させたことがある[10]。しかし「今は何の関係もない」としている[11]。また1989年の政治資金収支報告書によれば、霊感商法の元締め的会社であるとされる「ハッピーワールド」から時価380万円の高級車(日産・セドリック)を提供されている[12]。
いわゆる勝共推進議員であったが、外務大臣に就任した年の『週刊ポスト』(1998年12月4日号)誌上では統一教会との関係について、冷戦構造下において共産主義反対というところで一致していただけで統一教会の弁護士をやめる際に今後は一切、相談は受けないことを申し入れたこと、統一教会の教祖文鮮明に対してビザ発給などで便宜を図ったことはないこと、1999年の入国に協力するつもりはないことなどを語っている。
党名
第45回衆議院議員総選挙での惨敗後、舛添要一が党再生を議論する政権構想会議の席上で提起した「『自由民主党』の党名変更」についていち早く反対を表明し、「選挙に負けて自虐的になったのかもしれないが、敗戦直後に『日の丸・君が代反対』という人が出たのに近い発想だ。党名を変えて目くらましをしようというのはあまりにも情けない」と舛添を牽制した。政権構想会議の座長だった伊吹文明ら党幹部の多くも反対したため、党名変更の賛成論は広がらなかった[13]。
歴史関連
2013年5月13日、政務調査会長・高市早苗が、テレビで「村山談話」を批判した。批判は、「第2次安倍内閣の歴史認識が、歴代内閣とは違う点」が強調された。これに関し、「総理が一生懸命に説明しようとしているのに、政府・与党の幹部が誤解を受けたり、利用されたりする発言をすることがあってはならない」と、珍しく苦言を呈した[14]。
2014年5月5日の会談において、中国共産党序列3位の張徳江の「日本側に主たる問題がある」という発言に対し、「『主たる原因』という表現は中国側にも原因があると認めたもの」と反論した。また、「どちらが『主たる原因』かは双方に立場はあるが、互いにしっかり話し合っていくことが必要だ」と述べた[15]。
政治資金
- 道路特定財源を資金源とする道路運送経営研究会(道路特定財源の一般財源化に反対している)から献金を受けている[16]。
- 「全国貸金業政治連盟」(全政連):サラ金業界の政治団体で、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』にここから政治献金を受けていると報じられた[17]。
不祥事
- 福田康夫内閣の外務大臣任期中、大規模な政治資金パーティーを自粛すると定めた大臣規範に反し、パーティを開催して約5390万円の収入を得ていたことが政治資金収支報告書で分かった[18]。
- 高村の政党支部が、それぞれ農水省と経産省の補助金交付が決まっていた企業から計60万円の寄付を受けていたことが、2015年に発覚した[19]。政治資金規正法では、補助金交付決定から1年以内の企業からの寄付を禁じている[19]。
家族・親族
高村家
- 母・すず[21](北海道出身[21]、旧姓中山[21])
- 兄・幸男(数学者、お茶の水女子大学名誉教授)
- 妻、2男1女。長男の正大(1970年11月14日 - )は高村が経済企画庁長官であった1994年及び同じく外務大臣であった2008年に大臣秘書官に就任している。なお、1994年時点で正大は23歳で慶應義塾大学法学部政治学科在学中であったため、『日刊ゲンダイ』に批判された[22]。
主な所属団体・議員連盟
- 神道政治連盟国会議員懇談会[23][24]
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会[23]
- 武道議員連盟会 会長[25]
- 少林寺拳法振興議員連盟会 会長[25]
- 人間の安全保障議員連盟会 会長[25]
- 安全と情報を考える会 会長[25]
- 入国管理体制を考える有志の会 会長[25]
- 日中友好議員連盟(会長)[25]
- 日本スペイン友好議員連盟会 会長[25]
- 日本ペルー友好議員連盟会 会長[25]
- 日本ギリシャ友好議員連盟会 会長[25]
- 日本イラン友好議員連盟会 会長[25]
- 日ロ友好議員連盟会 会長[25]
- 日本・ニュージーランド友好議員連盟会 会長[25]
- TABLE FOR TWO 支援議員連盟会 会長[25]
- 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(常任幹事)[26]
- 時代に適した風営法を求める議員連盟[27]
- 健康・省エネ住宅を推進する議員連盟会 会長[25]
- 自然エネルギー促進議員連盟会 会長[25]
- 日韓議員連盟(副会長)[要出典]
- 北京オリンピックを支援する議員の会(副会長)[信頼性要検証]
著書
その他
- 日中国会議員書画展へ書画を提供している[28]。
出典
- ^ 「3候補直撃インタビュー「自民党総裁選」」 Web現代 2003年9月10日、2009年4月19日閲覧。(2008年6月24日時点のアーカイブ)
- ^ “河野グが首相支持決定 2人は高村氏の推薦人に”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年9月5日) 2012年11月30日閲覧。
- ^ [http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-13/02_03_0.html “郵政民営化 与党側 特別委設置を提案 共産党は法案撤回要求”]. しんぶん赤旗. (2005年5月13日) 2014年6月10日閲覧。
- ^ “郵政民営化反対派も正念場/対決姿勢も思惑それぞれ”. 東奥日報. (2005年2月16日) 2014年6月10日閲覧。
- ^ 高村副総裁が横審委員に 日本相撲協会
- ^ 高村副総裁、連続在任1586日…歴代最長に
- ^ 「争点論点 日朝関係 前外相 高村正彦 vs 論説委員 重村智計」毎日新聞 1999年
- ^ 第168回国会 外務委員会 第3号
- ^ 抗日記念館展示に「残念だ」 高村外相 - 『産経新聞』2008年3月17日(2008年3月22日時点のアーカイブ)
- ^ 人身保護請求事例
- ^ 週刊現代1999年2月27日号『現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト』(一覧全文書き写し 『カルト被害を考える会』より)
- ^ 第143回国会 参議院 法務委員会 第3号 平成10年9月22日
- ^ 『週刊文春』2009年12月3日 幹事会で「党名変更」を主張 舛添氏は「新党」結成に動くか
- ^ “高市政調会長を沈黙させた高村副総裁の一喝”. 週刊文春. (2013年5月30日) 2014年6月10日閲覧。文藝春秋
- ^ “高村氏「11月に首脳会談を」 中国序列3位に意向”. 日本経済新聞. (2014年5月5日) 2014年6月10日閲覧。
- ^ http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b169030.htm
- ^ 『しんぶん赤旗』2003年9月12日付
- ^ 『産経新聞』2008年9月12日
- ^ a b 『読売新聞』2015年3月3日
- ^ a b 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』52頁
- ^ a b c 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』61頁
- ^ 「サミット直前、長男を大臣秘書官に起用した高村外相の公私混同」 『日刊ゲンダイ』2008年8月2日[リンク切れ]
- ^ a b 俵義文、日本会議の全貌、花伝社、2016年
- ^ “神道政治連盟国会議員懇談会”. 神政連 WEB NEWS. 2014年4月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “衆議院議員 高村正彦 プロフィール”. 2014年4月20日閲覧。
- ^ “連盟役員”. 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟. 2009年9月10日閲覧。
- ^ “パチンコが突きつける「賭博民営化」の矛盾カジノとクラブの法改正に暗雲”. 日経ビジネス. (2014年2月28日). オリジナルの2014年3月1日時点におけるアーカイブ。 2014年2月28日閲覧。
- ^ [1]NPO法人日中国会議員書画展実行委員会
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 小渕恵三 町村信孝 |
外務大臣 第127代:1998年 - 1999年 第141代:2007年 - 2008年 |
次代 河野洋平 中曽根弘文 |
先代 小池百合子 |
防衛大臣 第3代:2007年 |
次代 石破茂 |
先代 保岡興治 |
法務大臣 第71代:2000年 - 2001年 |
次代 森山眞弓 |
先代 寺澤芳男 |
経済企画庁長官 第50代:1994年 - 1995年 |
次代 宮崎勇 |
議会 | ||
先代 大原一三 |
衆議院農林水産委員長 1991年 - 1993年 |
次代 平沼赳夫 |
党職 | ||
先代 大島理森 |
自由民主党副総裁 第13代:2012年 - |
次代 現職 |
先代 (集団指導体制) |
番町政策研究所会長 初代:2000年 - 2012年 |
次代 大島理森 |