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{{Infobox 河川 |
{{Infobox 河川 |
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|名称=利根川 |
|名称=利根川 |
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|画像=[[ファイル:Estuary of Tone river 20081229.jpg|300px|利根川 |
|画像=[[ファイル:Estuary of Tone river 20081229.jpg|300px|利根川 2004年12月5日撮影]] |
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|画像説明=利根川河口 |
|画像説明=利根川河口空撮([[神栖市]]・[[銚子市]]) |
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|水系等級=[[一級水系]] |
|水系等級=[[一級水系]] |
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|水系=利根川 |
|水系=利根川 |
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|種別=[[一級河川]] |
|種別=[[一級河川]] |
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|延長=322 |
|延長=322 |
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|標高=1, |
|標高=約1,800 |
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|流量= |
|流量=290.43 |
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|観測所= |
|観測所=栗橋観測所[[2001年]]平均値 |
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|流域面積=16,840 |
|流域面積=16,840 |
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|水源=[[大水上山]] |
|水源=[[大水上山]]([[群馬県]]) |
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|河口=[[太平洋]](茨城県 |
|河口=[[太平洋]]([[茨城県]]・[[千葉県]]) |
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|流域= |
|流域=茨城県・[[栃木県]]・群馬県・[[埼玉県]]・千葉県・[[東京都]]・[[長野県]] |
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|脚注= |
|脚注= |
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|出典=『利根川百年史』・『河川便覧 平成十六年版』 |
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|出典= |
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'''利根川'''(とねがわ Tone River)は[[大水上山]]を水源として[[関東地方]]を[[北]]から[[東]]へ流れ、[[太平洋]]に注ぐ[[河川]]。[[河川法]]に基づく[[国土交通省]][[政令]]により[[1965年]]([[昭和]]40年)に指定された'''[[一級河川]]・利根川[[水系]]'''の[[本流]]である。「'''坂東太郎'''」の異名を持つ。河川の規模としては日本最大級の規模を持ち、[[東京都]]を始めとした[[首都圏]]の水源として日本の経済活動上重要な役割を有する、日本を代表する河川の一つである。 |
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== 地理 == |
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[[ファイル:Tonegawa.jpg|thumb|280px|千葉県・茨城県の県境を流れる利根川 2004年12月5日撮影]] |
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[[file:FujiTonegawa.jpg|thumb|200px|上流([[群馬県]][[前橋市]]付近)]] |
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[[ファイル:Tonegawa Toride.jpg|thumb|280px|[[大利根橋]]より見る利根川<br/>[[茨城県]][[取手市]]・[[千葉県]][[我孫子市]]]] |
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[[file:Tone River Shouwa Bridge.JPG|200px|thumb|中流(群馬県[[邑楽郡]][[明和町 (群馬県)|明和町]]付近)]] |
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[[ファイル:FujiTonegawa.jpg|thumb|280px|[[前橋市]][[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[群馬総社駅]]近辺を蛇行する利根川]] |
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[[file:Tonegawa.jpg|thumb|200px|下流([[千葉県|千葉]]・[[茨城県]]境)]] |
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[[ファイル:Tone River.JPG|thumb|280px]] |
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[[群馬県]][[利根郡]][[みなかみ町]]にある[[三国山脈]]の一つ、'''大水上山'''([[標高]]1,840[[メートル]])にその源を発し、[[高崎市]]付近までは概ね南へ流れる。[[烏川]]合流後は流れを東へと向け群馬県・[[埼玉県]]境を流れ、[[江戸川]]を分流させた後は概ね[[茨城県]]と[[千葉県]]の境を流れ、茨城県[[神栖市]]と千葉県[[銚子市]]の境において太平洋([[鹿島灘]])へと注ぐ。[[江戸時代]]以前は[[大落古利根川|大落(おおおとし)古利根川]]が本流の流路となっていたが、度重なる河川改修によって現在の流路となっている(後述)。流路延長は'''約322[[キロメートル]]'''で[[信濃川]]に次いで日本第二位、[[流域面積]]は'''約1万6,840[[平方キロメートル]]'''で日本最大の面積を有する日本屈指の大河川である。流域は[[神奈川県]]を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が[[長野県]][[佐久市]]にも掛かっている。 |
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利根川における[[上流]]・[[中流]]・[[下流]]の区分については、概ね下記の区間に分けられる<ref>『利根川百年史』pp.5-7</ref>。 |
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'''利根川'''(とねがわ Tone River)は、[[群馬県]]最北部の[[みなかみ町]]に端を発し、[[関東平野]]を北西から南東へと流れる[[河川]]。 |
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*'''上流''':水源の大水上山から群馬県[[伊勢崎市]]八斗島(やったじま)まで |
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*'''中流''':群馬県伊勢崎市八斗島から千葉県[[野田市]]関宿(江戸川分流点)まで |
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*'''下流''':千葉県野田市関宿から銚子市の河口まで |
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利根川の水源は大水上山であるが、その詳細が明らかとなったのは[[1954年]](昭和29年)に群馬県山岳連盟所属の「奥利根水源調査登山隊」30名による水源までの遡行調査による<ref>『利根川百年史』p.5</ref>。水源に関する史料としては[[室町時代]]に著された[[源義経]]一代記である『[[義経記]]』が初出で、同書では現在のみなかみ町藤原付近を水源と記している。その後[[1640年代]]に成立した『正保国絵図』において大水上山の名称が初出したが、利根川の源流については江戸時代後期に入ると[[1835年]]([[天保]]7年)に成立した『江戸名所図会』や[[1858年]]([[安政]]5年)に成立した『利根川図志』において異説が出されるなど、長らく不明となっていた。[[明治]]以降本格的な調査が開始され、[[1894年]](明治27年)と[[1926年]]([[大正]]15年/昭和元年)と二度の探検を経て1954年に水源が確定する。さらに[[1975年]](昭和50年)には群馬県による利根川源流域の総合学術調査が実施され、より詳細な実態が解明された<ref>『利根川百年史』p.4</ref>。 |
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利根川の「大河の一滴」は大水上山北東斜面、標高1,800メートル付近にある三角形の[[雪渓]]末端より始まる。源流部は人跡未踏の険しい[[峡谷]]を形成し、大小の沢を集めた後[[矢木沢ダム#奥利根湖|奥利根湖]]へと注ぎ込む。[[矢木沢ダム|矢木沢]]、[[須田貝ダム|須田貝]]、[[藤原ダム|藤原ダム]]通過後南西に流路を変え、[[水上温泉]]付近で諏訪峡を形成しながら南へ流れる。みなかみ町月夜野で赤谷川を、[[沼田市]]で[[片品川]]を合流する辺りでは沼田[[盆地]]を形成するが、両岸は[[河岸段丘]]が発達している。沼田市から[[渋川市]]境に掛けては綾戸渓谷と呼ばれる[[渓谷]]を形成して[[蛇行]]、渋川市内で[[吾妻川|吾妻(あがつま)川]]を合わせると次第に川幅を広げ、[[前橋市]]、高崎市を通過し群馬県西毛地域を流域とする烏川を合流すると流路を東へ向け、伊勢崎市八斗島へ至る。 |
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「[[坂東太郎]]」(ばんどうたろう)の異名を持つ。<ref>「筑紫次郎」([[筑後川]]・「筑紫三郎」といわれる場合も)、「四国三郎」([[吉野川]]・「四国次郎」といわれる場合も)とともに[[日本三大一覧#川・滝|日本三大暴れ川]]の一つに数えられる。</ref> |
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中流域に入ると利根川の川幅は急激に広くなり、群馬県[[佐波郡]][[玉村町]]付近で約500メートル、埼玉県[[熊谷市]]妻沼付近では約900メートルにも及ぶ<ref name="100nenn_7">『利根川百年史』p.7</ref>。途中[[利根大堰]]で河水は[[武蔵水路]]などによって[[荒川 (関東)|荒川]]へ分流するが、間もなく[[渡良瀬川]]を合流して茨城県[[猿島郡]][[五霞町]]内を貫流した後、茨城・千葉県境を流れる。下流域においては野田市関宿で江戸川を、千葉県[[柏市]]で[[利根運河]]をそれぞれ分流するが対岸の茨城県[[守谷市]]で[[鬼怒川]]、[[取手市]]と[[北相馬郡]][[利根町]]の境で[[小貝川]]が合流する。[[香取市]]付近で一旦千葉県内を流れるが[[利根川河口堰]]付近で再度県境を形成し、[[常陸利根川]]と[[黒部川 (千葉県)|黒部川]]を左右より合わせる。ここからは平均して900メートルから1キロメートルの広大な川幅を形成し<ref name="100nenn_7"/>、神栖市・銚子市境において太平洋へと注ぐ。下流域には日本第二位の面積を有する[[霞ヶ浦]]を始め[[北浦]]、[[印旛沼]]、[[牛久沼]]、[[手賀沼]]など多くの天然湖沼を有する。 |
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== 地理 == |
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利根川は、近世以降に大規模な瀬替えが人工的に行われたことで知られている(歴史の項目を参照)。現在は、[[群馬県]]最北端にある[[越後山脈]]にある[[大水上山]]を最深部の[[水源]]とし、[[吾妻川]](あがつまがわ)、[[烏川]]、[[渡良瀬川]]、[[鬼怒川]]など多数の[[川]]を合わせ、千葉県銚子市と茨城県神栖市の境で[[太平洋]]([[鹿島灘]])へと、また、流れの一部は[[江戸川]](旧渡良瀬川下流流路)として[[東京湾]]へと注いでいる。 |
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== 自然 == |
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水系の本川全長は約322kmで、[[信濃川]]に次いで日本第二位の長さを誇る。そのため、流域は[[長野県]][[佐久市]](信濃川の通るまちでもある)、[[群馬県]]、[[栃木県]]、[[茨城県]]、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[東京都]]に跨がる<ref>[http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.17132479&lon=138.61937035&sc=7&mode=map&pointer=off 鳥川水系]</ref>。[[流域面積]]は関東平野全体に広がっていて、約16,840km²となり日本で最大である<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/img/tone03.jpg 利根川水系流域図]</ref>。その大半は、江戸時代の瀬替えによって生じたものである。 |
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利根川流域の自然は、上流・中流・下流において様相が大きく異なることが多い。本節では利根川流域における自然環境について詳述する。ただし水質については別掲して後述する。 |
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=== 気候・水文 === |
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なお、流路の一部は長野県、群馬県、茨城県、埼玉県、千葉県の県境ともなっている。特に江戸川から河口にかけては大部分が千葉県と茨城県の県境となる。 |
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[[File:KurihashiSuiiKansokujo2005-6.jpg|200px|thumb|利根川中流の[[埼玉県]][[加須市]]栗橋にある[[国土交通省]][[関東地方整備局]]の栗橋観測所。過去の[[洪水]]位が示されている。]] |
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利根川流域の[[気候]]は関東平野が[[表日本気候区]]に属しており、概ね温暖湿潤の気候である。しかし流域面積が広大なこともあって上流・中流・下流が一律に温暖湿潤という訳ではなく、季節により相違が見られる。[[降水量]]は年平均で1,300ミリと日本の年平均降水量1,700ミリに比較すると少ない<ref name="tonedam">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonedamu/tonedamu00064.html 国土交通省関東地方整備局利根川ダム統合管理事務所『利根川の特徴』]2011年5月21日閲覧</ref>。 |
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上流部は三国山脈などの高山地帯があり、冬季は雪が多く寒さが厳しい。[[1955年]](昭和30年)から[[2002年]](平成14年)の間における平均累積積雪量は大水上山源流部で16メートル、矢木沢ダム付近で10 - 14メートル、みなかみ町付近や片品川上流部などでは2 -10メートルとなっており<ref name="tonedam"/>、最上流部は関東地方でも屈指の豪雪地帯である。しかしこの積雪が春季には[[融雪]]して[[利根川水系8ダム]]に注ぎ、首都圏の重要な水源となる。一方中流部については夏季は[[太平洋高気圧]]の影響で晴天が多いが暑さも厳しく、[[2007年]](平成19年)[[8月16日]]に熊谷市で記録した40.9℃は同日記録した[[岐阜県]][[多治見市]]と共に日本最高気温記録となった。また群馬県や[[栃木県]]では[[雷雨]]が多くなるのも特徴である。一方冬季には北西の乾燥した[[季節風]]が強く吹き、群馬ではこれを「上州の[[からっ風]]」・「赤城おろし」・「榛名おろし」とも呼ぶ<ref>『利根川百年史』pp.39-41,p.45</ref>。下流部においては[[黒潮]]の影響もあり温暖であり中流部のような猛暑も少ないが、冬季には曇りの日が比較的多い<ref>『利根川百年史』p.39,p.42</ref>。降水量については中・下流部は夏季や秋の[[台風]]シーズンにその極期を迎える。 |
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== 名称 == |
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=== 由来 === |
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利根川に相当する名称の初出は『[[万葉集]]』であり、「刀禰(とね)」と記されている。語源については以下のような諸説があり、現在のところ定説はない。 |
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利根川は上記の気候的な要因もあり、大河川の割には年間流出量が約91.5億トンと日本海側の大河川(信濃川・[[阿賀野川]]など)に比べれば少ない。太平洋側に注ぐ一級河川本流では[[北上川]]に次ぐ流量であり、年平均の流量は埼玉県加須市栗橋の観測地点で毎秒290.43[[立方メートル]]である<ref>『河川便覧 平成十六年版』pp.102-103</ref>。ただし利根川の年平均降水量は観測が開始された[[1900年]](明治33年)以降一貫して減少傾向が続いており、平成に入ると多雨の年と少雨の年の降水量の差が顕著になっている<ref name="tonedam"/>。 |
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*[[アイヌ語]]で「長い」を意味する「タンネ(tanne)」。<ref name="ktr">[[利根川下流河川事務所]][http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/history/column/01_gogenn.htm 「利根川の語源と坂東太郎」]2008年1月26日閲覧</ref><ref name="nif">[http://homepage2.nifty.com/tonegawa/mametisiki.htm 「利根川 豆知識」]2008年1月26日閲覧</ref><ref>[[新村出]]所説という。[[工藤進]][http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/professeurs/doc/kudo27.pdf 「桐生川と利根川 日本河川名の語源について」]2007年10月1日</ref> |
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*{{要検証範囲|date=2010年8月|アイヌ語で「巨大な谷」を意味する}}「トンナイ」。<ref name="ktr"/><ref name="nif"/> |
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*アイヌ語で「湖沼・である」を意味する「ト・ネ(to-ne)」。<ref name="kudo">工藤進[http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/professeurs/doc/kudo27.pdf 「桐生川と利根川 日本河川名の語源について」]2007年10月1日</ref> |
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*水源地の辺りには尖った峰、すなわち「尖き峰(ときみね)」が多く、それが略された。<ref name="ktr"/> |
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*「等禰直(とねのあたい)」あるいは「椎根津彦(しいねつひこ、とねつひこ)」という人名に由来する。<ref name="ktr"/> |
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*「谷川(たにがわ)」と同義。<ref name="kudo"/> |
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=== 地形・地質 === |
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{{節stub}} |
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[[ファイル:Sanbagawa upstream.jpg|200px|thumb|[[神流川 (利根川水系)|神流川]]支流の[[三波川]]に見られる[[三波石]]の露頭。国の[[天然記念物]]。]] |
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[[ファイル:Tanigawadake.jpg|200px|thumb|利根川と[[信濃川]]の[[分水嶺]]である[[三国山脈]]を形成する山岳の一つ、[[谷川岳]]。]] |
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利根川流域の[[地質]]についてであるが、上流部では[[火山活動]]などによる地質形成が主体で、中・下流部の平野部については[[沖積平野]]が主体となっている。利根川最上流部の奥利根周辺は[[先第三紀]]の[[花崗岩]]類が多く占め、比較的堅固な地質となっている。それ以外の山地については主に[[新生代]][[新第三紀]]の[[堆積岩]]が占め、[[関東山地]]、[[八溝山地]]、[[足尾山地]]は[[中生代]]から[[古生代]]に掛けて形成された[[チャート]]や[[砂岩]]、[[粘板岩]]などの堆積岩が主体となっている<ref>『利根川百年史』pp.15-16</ref>。烏川流域、特に[[神流川 (利根川水系)|神流(かんな)川]]一帯は[[三波川変成帯]]と呼ばれる地質であり、神流川の[[三波石峡]]や支流の[[三波川]]では[[三波石]]と呼ばれる緑色の[[結晶片岩]]が多く見られる。群馬県、栃木県を流れる支流の上流部の多くは多くの火山が存在し、これらの噴火活動による火山砕屑物層や風化した花崗岩、[[安山岩]]、[[凝灰岩]]などが地質の多くを占めている。このことから[[地すべり]]や[[土石流]]に伴う被害も多い(後述)。 |
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中・下流部に広がる[[丘陵]]地帯や[[洪積台地]]は[[第四紀]]に形成され、[[古東京湾]]により堆積した砂や泥が主体の固結度の低い下総層群と呼ばれる海成[[地層]]などが主体である。この地層の上に[[関東ローム層]]が覆う。[[沖積低地]]は[[更新世]]の末期より[[完新世]]に掛けて形成された厚い沖積層が主体で、現在の[[東京湾]]沿岸部などでは最大で60メートルから80メートルもの厚みになる。これら洪積台地・沖積低地では第四紀に関東山地など関東平野を囲む周辺山地の隆起運動が活発になり、相対的に平野中央部が沈降する'''関東造盆地運動'''が本格化することで低地には上流から流れてきた土砂が沖積層に堆積。その後沈降していた平野中央部が隆起に転じたことから今度はそこに土砂が堆積し、現在の台地・低地となった<ref name="100nenn15">『利根川百年史』pp.15-19</ref>。こうして形成された山地や台地が現在利根川および利根川水系の[[分水界]]を形成する。分水界は群馬・[[新潟県]]境の三国山脈や群馬・栃木・[[福島県]]境の[[帝釈山脈]]、および茨城県から栃木県に掛けて広がる八溝山地が北側、群馬・長野・埼玉県境の関東山地が西側に位置し、これらの山地の南麓および東麓に降った雨が最終的に利根川へと注ぐ<ref name="100nenn15"/>。 |
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=== 法的な呼称 === |
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河川法に基づく[[政令]]によって[[一級水系]]としての指定を受け、「利根川水系」の名称が用いられる。また、本川は国土交通省令(旧建設省)によって「[[一級河川]]」として指定(明治32年3月27日告示74号)され、法的には「一級河川利根川」の名称が用いられる。一級河川としての指定範囲は、群馬県利根郡みなかみ町藤原地先の大水上山山麓水源から河口までであるが、利根川を実際に管理する国土交通省関東[[地方整備局]]の管轄範囲(指定外区域)は、左岸が群馬県伊勢崎市柴町、右岸が群馬県佐波郡玉村町大字小泉の地点から河口までとなっている。 |
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三国山脈は太平洋と[[日本海]]の[[分水嶺]]であり、ここを境とし南麓は利根川本流を始め大小の沢の水源となるが北麓は[[魚野川]]、[[中津川 (信濃川水系)|中津川]]などの信濃川水系となる<ref>『利根川百年史』p.19</ref>。[[男体山]]や[[日光白根山]]、[[尾瀬]]などが属する帝釈山脈は南麓、東麓に降った雨はそれぞれ鬼怒川、片品川として利根川へ合流するが、北西麓の一部では[[尾瀬沼]]が水源である[[只見川]]が流出し、阿賀野川に合流する阿賀野川水系の一部となっている。八溝山塊、鷲子山塊、鶏足山塊、[[筑波山]]塊を包括する八溝山地およびそれに連なる栃木県[[宇都宮市]]付近の台地、および茨城県中南部に分布する常総台地は南部については渡良瀬川や鬼怒川、小貝川さらに霞ヶ浦に注ぐ河川群として最終的に利根川へと合流するが、北部については[[箒川]]、[[荒川 (栃木県)|荒川]]、[[涸沼川]]などの[[那珂川]]水系として別途太平洋へと注ぐ<ref>『利根川百年史』pp.22-25</ref>。 |
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== 歴史 == |
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利根川は古くから「暴れ川」として知られ、度重なる氾濫と、幾度もの流路の変更が記録されている。とくに江戸(現在の[[東京]])に政治の中心が移ってからは、利根川の治水は最重要課題の一つであり、現在に至るまで様々な河川の改良の試みがなされて来た。 |
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関東山地北部、および[[浅間山]]や[[妙義山]]、[[荒船山]]といった群馬県、埼玉県西部に存在する山地は概ね東麓は吾妻川、烏川、[[小山川]]として利根川に注ぐが、埼玉県内の南麓は荒川水系の河川として荒川に合流し東京湾に注ぐ。また西麓は信濃川水系の小河川として信濃川(千曲川)に合流する。そして埼玉県北部の台地は[[第三紀]]より始まった[[地殻変動]]が、第四紀における海進期の影響で形成された古東京湾によって一旦海底となるがその後の海退期や[[赤城山]]、[[榛名山]]の発達、利根川・荒川上流より運搬された土砂の堆積などによって次第に台地が形成されたものである。この台地は加須市、[[幸手市]]、[[久喜市]]一帯で標高が低くなっており、この一帯に集まった水は利根川もしくは[[中川]]に注ぐ。一方南側は最終的に荒川へと合流するが、江戸時代以降の河川改修によりその様相は変化している<ref>『利根川百年史』pp.24-25</ref>。 |
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たとえば、現在は[[前橋市]]街地の西、群馬県庁のすぐ脇を流れる利根川も、室町時代まではそれより北に流路を取り、[[広瀬川低地]]を流れていた。江戸時代以前には、今の埼玉県内で荒川と合流していたが、合流地点や川筋はしばしば変わった。 |
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=== 地下資源 === |
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[[ファイル:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|200px|thumb|1895年頃の[[足尾銅山]]。日本有数の[[銅]]産出量を誇ったが1973年閉山。]] |
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旧利根川は現在の[[中川]]流路部分を流れており、現在の[[荒川 (関東)|荒川]](旧[[入間川 (埼玉県)|入間川]]流路)が現在の[[元荒川]]流路部分を流れ、旧利根川(現在の[[中川]]流路部分)と合流していた。 |
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利根川流域における地下資源としては[[金]]、[[銀]]、[[銅]]、[[マンガン]]、[[鉄]]といった金属資源や[[石灰石]]、[[硫黄]]、[[天然ガス]]などの非金属資源が存在する。金属資源のうち特に銅については[[1973年]](昭和48年)まで操業されていた'''[[足尾銅山]]'''が著名で、一時期は日本全国の銅産出量の40パーセント強におよぶシェアを誇っていた。その他では金・銀が利根川本流上流や鬼怒川上流の一部、マンガンは渡良瀬川流域、鉄は吾妻川上流域の一部に分布している<ref name="100nenn132">『利根川百年史』pp.132-133</ref>。 |
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一方非金属資源としては硫黄が吾妻川上流域、石灰石が烏川流域で採掘される。また[[石材]]として栃木県の[[大谷石]]や群馬県の三波石が特産として知られ、[[塀]]や高級[[庭石]]として利用されている<ref name="100nenn132"/>。なお天然ガスについては利根川下流域一帯および江戸川下流域の千葉県北中部・東京都東部一帯が[[南関東ガス田]]として知られ、多くの[[ガス田]]が存在した。[[1956年]](昭和31年)以降天然ガス採掘が江戸川下流の東京都[[江東区]]、千葉県[[市川市]]・[[船橋市]]で活発となったが、[[工業用水道]]用途としての[[地下水]]過剰取水と相まって天然ガス採掘によりこの地域で[[地盤沈下]]が深刻化した。このため東京・千葉の両都県当局は当地の業者よりガス採掘権を[[1972年]](昭和47年)に買い上げ、採掘を禁止したことで地盤沈下は収束に向かった。このため現在は天然ガス採掘は行われていない<ref>『利根川百年史』pp.36-37</ref>。 |
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=== 利根川東遷事業 === |
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{{main|利根川東遷事業}} |
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[[江戸時代]]初期までは、江戸湾(現在の[[東京湾]])に注ぐ川であった。しかし、[[東北地方]]や[[北関東]]から[[江戸]]の街への[[水運]]ルートの確保や、関東平野の新田開発の推進を目的として、[[徳川家康]]の号令で[[伊奈忠次]]、[[伊奈忠治|忠治]]らによる利根川を[[渡良瀬川]]水系や[[鬼怒川]]水系と繋ぐ[[瀬替え]]('''利根川東遷事業''')が始まり、最終的には利根川の本流は銚子の方へ流れるようになった(治水上の利根川本流が銚子への流路に確定するのは明治時代である)。なお、利根川水系や渡良瀬川水系は洪水によって流路がしばしば変化していたうえ、東遷事業などに伴う水路の開削・閉鎖が複雑に行われたため、東遷以前の河川を現在の河川と比較対照させるのは難しい。 |
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=== 植生・昆虫 === |
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東遷事業のあらましは、利根川と東隣を流れていた渡良瀬川をつなぎ、その先をさらに鬼怒川水系下流方面へとつなぐというものであった。現在の[[江戸川]]は、下流域はかつての利根川・渡良瀬川水系の流路に沿っている部分もあるが、利根川から分流後の20kmほどの部分は、人工的に開削されたものである。 |
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[[ファイル:Senjōgahara 01.jpg|200px|thumb|日光[[戦場ヶ原]]。[[高層湿原]]として様々な[[高山植物]]が生育する。]] |
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利根川の[[植生]]についても、上流と中・下流域では様相が異なる。上流では山岳地帯が広がるが尾瀬や浅間山北麓では[[高山植物]]が多く自生、尾瀬や日光[[戦場ヶ原]]では[[ミズゴケ]]や[[ツルコケモモ]]などからなる高層湿原が存在する。また標高1,600メートル以上の高山地帯では常緑[[針葉樹林]]である[[オオシラビソ]]や[[コメツガ]]、標高700 - 800メートル付近では[[ブナ]]や[[ミズナラ]]などの樹木が自生している<ref>『利根川百年史』p.59</ref>。しかし渡良瀬川源流部の足尾山地については、足尾銅山の[[煙害]](後述)によって植生が高度に破壊されている。 |
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一方中流では常緑[[広葉樹林]]である[[ヤブツバキ]]・[[アカガシ]]・[[シイ]]などが従来自生していたが田地・宅地開発などによりその自生数は減少し、[[スギ]]・[[ヒノキ]]などの[[植林]]された樹木が多い。また[[河川敷]]では[[ヨシ]]や[[ススキ]]のほか、[[スギナ]]・[[イヌダテ]]・[[カナムグラ]]・[[カヤツリグサ]]などが自生。下流部になると[[コガマ]]・[[マコモ]]など多様な植物が自生する。ヨシの群落は中流から下流にかけての湖沼・[[湿地]]帯に見られるが特に渡良瀬遊水地には大規模なヨシ群落があり、日本唯一当地で自生している[[ハタケテンツキ]]を始め[[ミズアオイ]]・[[フジバカマ]]など[[絶滅危惧種]]が自生している。利根川流域に存在する植物種の総数は2002年の国土交通省調査により'''666種'''が確認されている。[[藻類]]では水質が貧栄養である上流部では少なく、中流・下流に入ると[[ケイソウ]]類が主に分布。特に中流部では[[チャヅツケイソウ]]が広範囲に分布している。霞ヶ浦では水質の悪化により夏季には[[ミクロキスティス]]などの異常繁茂による[[アオコ]]の大発生が問題化した<ref>『利根川百年史』pp.59-60</ref><ref name="toneue">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/shoukai/3-2.htm 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所『植物と陸上昆虫』]2011年5月21日閲覧</ref>。[[外来種]]としては中流には[[セイタカアワダチソウ]]や[[ブタクサ]]が多く繁茂。下流には[[アレチウリ]]、[[オオフサモ]]、[[ボタンウキグサ]]が繁茂しているが特にアレチウリとオオフサモについては固有種への影響が大きいことから[[特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律]](外来生物法)により[[環境省]]から[[特定外来生物]]に指定され、河川管理者である国土交通省などが駆除を行っている<ref name="tonesita">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/sizen/gairai/index.html 国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所『利根川の生物(特定外来生物)』]2011年5月21日閲覧</ref>。 |
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=== カスリーン台風と利根川改訂改修計画 === |
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利根川は[[1947年]]([[昭和]]22年)の[[カスリーン台風]]により未曾有の出水となり、[[埼玉県]][[大利根町]]付近で堤防が決壊。決壊した水は[[東京都]][[江東区]]まで流れ込み、甚大な被害を与えた。この為利根川の本格的治水対策が必要となり、建設省(現・[[国土交通省]])は利根川水系に8箇所の[[ダム]]による治水計画を立案した(現在の[[利根川水系8ダム]]とは位置が異なる)。即ち、利根川本川と[[鬼怒川]]に2箇所、赤谷川・[[吾妻川]]・[[烏川]]・[[神流川 (利根川水系)|神流川]]に各1箇所のダム建設を行うものである。これに基づき、[[藤原ダム]](利根川)、[[相俣ダム]](赤谷川)、[[川俣ダム]](鬼怒川)、[[五十里ダム]](男鹿川)が建設された。 |
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[[昆虫]]については同じ2002年調査で[[節足動物]]である[[クモ]]を含めて'''975種'''が生息しており、内訳は[[甲虫類]]が397種、[[チョウ]]類が170種、[[カメムシ]]類が125種、クモ類が84種の順となっている。分布については上流部の高山地帯に[[ミヤマシロチョウ]]・[[ミヤマモンキチョウ]]・[[エルタテハ]]や[[オゼイトトンボ]]・[[オオルリボシヤンマ]]などの山地・高山に分布する昆虫が生息している。一方中流部・下流部では一般的に見られる昆虫類のほか、湿地に限局的に生息する[[ヒヌマイトトンボ]]・[[ベニイトトンボ]]などの種が見られる。生息する昆虫類の中には国蝶である[[オオムラサキ]]のほか[[ムスジイトトンボ]]、[[アオマツムシ]]などの貴重な種が存在する<ref>『利根川百年史』pp.60-61</ref><ref name="toneue"/>。 |
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また、下流部においては[[江戸川]]の関宿水門を始めとして支流への洪水逆流による浸水を防止する為、殆どの中小支川に水門・排水機場を設けた。また、[[茨城県]]・[[千葉県]]境では菅生調整池等、洪水時には導流堤から水を逃して堤防からの溢水を防止する調節池を数箇所設けた。引堤に関しては埼玉県から利根川河口に至るまで、通常の堤防よりも頑丈で規模の大きい「スーパー堤防」を整備して破堤の回避を図った。 |
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=== 動物 === |
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[[ファイル:Buteo japonicus1.jpg|200px|thumb|[[ノスリ]]。[[渡良瀬遊水地]]に飛来、生息する。]] |
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近年では、[[中国]]産[[外来魚]]の[[ソウギョ]]や[[ハクレン]]、[[コクレン]]、[[アオウオ]]などが増えている。{{節stub}} |
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動物については上流域に[[ツキノワグマ]]、[[ニホンザル]]、[[ニホンジカ]]といった大型種が生息するが、中流域や下流域では大型種は宅地・農地開発によって存在せず、[[キツネ]]や[[タヌキ]]、[[ノウサギ]]、[[ニホンイタチ]]、[[アズマモグラ]]などが生息する。1994年の調査では[[哺乳類]]12種以上、[[爬虫類]]5種、[[両生類]]4種の生息が確認されているが、流域が高度に開発されていることもあり他の一級水系と比べると[[生物多様性]]に乏しい。上流域には局地的ではあるが[[ハコネサンショウウオ]]も生息する。外来種としては[[ヌートリア]]や[[マスクラット]]、[[ウシガエル]]が生息する<ref name="100nenn61">『利根川百年史』p.61</ref><ref name="toneue2">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/shoukai/3-4.htm 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所『鳥と小動物』]</ref>。 |
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[[鳥類]]については植物や昆虫同様上流域と中・下流域で生息する種類が異なる。上流域には[[オオワシ]]・[[イヌワシ]]・[[クマタカ]]といった[[猛禽類]]や[[イワヒバリ]]、[[ホシガラス]]といった高山性の鳥類が生息。矢木沢ダムや藤原ダムといった利根川上流のダムにおいても飛来が確認されている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0612 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』矢木沢ダム]2011年5月21日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0605 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』藤原ダム]2011年5月21日閲覧</ref>。このほか渓流などで[[カワセミ]]や[[サンショウクイ]]なども確認できる。中流部以降では[[スズメ]]や[[カラス]]、[[ホオジロ]]などのごくありふれた鳥類のほかヨシ群生地などで[[カイツブリ]]などが見られる。[[渡り鳥]]としては[[オオハクチョウ]]や[[コハクチョウ]]が霞ヶ浦に飛来するほか、渡良瀬遊水地や渡良瀬川合流部付近は自然植生が豊富なこともあり[[サシバ]]、[[チュウヒ]]、[[ノスリ]]、[[ホオアカ]]などの猛禽類や[[カモ]]、[[シギ]]、[[チドリ]]類が飛来、または定住する<ref name="100nenn61"/><ref name="toneue2"/>。一方外来種としては[[2003年]](平成15年)に取手市において特定外来生物である[[ソウシチョウ]]の1個体が確認されている<ref name="tonesita"/>。利根川流域に生息・飛来する鳥類は'''136種'''を数える<ref name="toneue2"/>。 |
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== 利用 == |
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上流には、[[矢木沢ダム]]など多数の[[ダム]]が建設され、下流部には[[河口堰]]が建設されるなど、[[首都圏]]の[[上水道]]を支えている。[[明治時代]]に鉄道網が発達するまでは、[[東北地方]]の物資や銚子の[[醤油]]などが利根川、江戸川を通じて運ばれており(海上輸送の危険回避・距離短縮の効果)、[[物流]]基盤としても重要な存在であった。[[地方港湾]]指定の潮来港、軽野港がある。 |
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=== 魚類・水生生物 === |
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[[ファイル:Hypophthalmichthys molitrix adult.jpg|200px|thumb|[[ハクレン]]。産卵期には利根川中流域で勢い良く飛び跳ねる姿を確認できる。]] |
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[[首都圏]]の人口が急激に増加するにつれて、[[水道]]需要が次第に逼迫。従来の[[多摩川]]水系では不足するようになり、[[1964年]](昭和39年)の通称「東京砂漠」と呼ばれる大渇水が起こった。これを機に、[[首都圏]]の水源を利根川水系に求める事になり、従来の治水計画を大幅に変更して「水資源開発促進法」を制定。これにより水資源開発公団(現・[[独立行政法人]][[水資源機構]])を誕生させて更に[[ダム]]建設を柱とする水資源整備を進めた。これにより[[矢木沢ダム]]・[[利根大堰]]・[[利根川河口堰]](利根川)、[[奈良俣ダム]](楢俣川)、[[下久保ダム]](神流川)、[[草木ダム]]([[渡良瀬川]])が公団の手によって建設が進められ、建設省も[[薗原ダム]](片品川)・[[川治ダム]](鬼怒川)を建設し[[埼玉県]]や千葉県への利水を強化した。現在は[[八ッ場ダム]](吾妻川)、湯西川ダム(湯西川)、[[南摩ダム]](南摩川)が建設中である。 |
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[[ファイル:RIMG0036.JPG|200px|thumb|[[サケ]]・[[アユ]]遡上のため[[魚道]]の新設などを実施した[[利根大堰]](利根川)。遡上数は上昇傾向にある。]] |
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[[魚類]]については'''8目13科43種'''が確認されており、上流では[[イワナ]]・[[ヤマメ]]・[[カジカ]]が主に、中流では[[オイカワ]]・[[コイ]]・[[ギンブナ]]・[[モツゴ]]・[[ウナギ]]などが生息し、絶滅危惧種の[[ゼニタナゴ]]も一部に生息する。また下流では[[ボラ]]や[[スズキ]]、[[ハゼ]]、[[カタクチイワシ]]などが遡上し、河口部では[[クロダイ]]や[[カレイ]]といった海洋性の魚類も生息している。利根川においては固有種として[[ソウギョ]]や[[ハクレン]]といった[[中華人民共和国|中国]]よりの移入種が生息し、毎年夏になると[[国道4号]][[利根川橋]]付近において産卵のために勢い良く飛び跳ねる姿を確認することができる<ref name="100nenn63">『利根川百年史』pp.63-65</ref><ref name="toneue3">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/shoukai/3-3.htm 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所『魚と水生生物』]2011年5月21日閲覧</ref>。 |
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[[回遊魚]]としては[[アユ]]や[[サケ]]が代表的で、サケについては利根川は太平洋側に注ぐ河川としては'''サケ遡上の南限'''とされている<ref name="toneue3"/>。回遊魚については江戸時代以降の用水路建設、また戦後の利根特定地域総合開発計画などでダムや[[堰]]が利根川流域に多く建設されたことから(後述)、一時これら回遊魚の遡上が大幅に減少した。特に河口から154キロメートル上流にある[[利根大堰]]はこれら回遊魚の遡上を大きく阻害する要因であった。このため堰を管理する水資源開発公団(現[[水資源機構]])は[[1983年]](昭和58年)からサケの遡上調査を開始すると共に[[1995年]](平成7年)からは2年掛けて[[魚道]]の新設と改築を実施。また2005年には[[環境保護団体]]の要望を受け、アユの遡上・降下期に堰のゲートを開く運用が試験的に開始された。こうした官民の協力もあって利根大堰地点でのサケ・アユの遡上数は経年的に増加している<ref>[http://www.water.go.jp/kanto/tone/ 独立行政法人水資源機構利根導水総合事務所]2011年5月21日閲覧</ref>。その一方で[[利根川河口堰]]については完成以後[[ヤマトシジミ]]の生息に影響を与えたなど環境保護団体から指摘を受けている<ref>[http://www.nacsj.or.jp/katsudo/tonegawa/1998/06/post-1.html 財団法人日本自然保護協会『自然保護』 - 河口堰は河川生態系を大幅にかえた - 1998年]2011年5月21日閲覧</ref>。一方特定外来生物として日本各地で問題となっている[[ブラックバス]]や[[ブルーギル]]は利根川流域についても河口堰上流の全域に広範な生息が確認され、[[チャネルキャットフィッシュ]]も生息域が拡大している。また[[メダカ]]を捕食する[[カダヤシ]]の生息が確認された<ref name="tonesita"/>。 |
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2009年現在与党になった民主党は資金確保のため八ッ場ダムを含む数個のダムの建設資金凍結を挙げている。 |
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水生・底生生物については'''177種'''が確認されているが、その主なものは[[トビケラ]]や[[カワケラ]]、[[カゲロウ]]類で主に上流・中流域に多く生息している。一方下流域は河床(川底)が砂質・泥質主体となるので水生生物類の生息は少なくなり。代わりに[[ヒメタニシ]]・[[サカマキガイ]]・[[ゴカイ]]・[[イトミミズ]]などが多く生息するようになる<ref name="100nenn63"/>。利根川下流域では[[山梨県]][[甲府盆地]]や[[福岡県]]・[[佐賀県]]の[[筑後川]]下流域などと共に[[日本住血吸虫症]]の発生地として知られ、宿主である[[ミヤイリガイ]]が生息していた<ref>[http://japanquake2011.hfc.jp/DISEASE/region_category_disease.php?category_id=160&disease_no=180417000&page=1 鹿毛政義『家庭医学大百科 日本住虫吸虫症』]2011年5月21日閲覧</ref>。現在ミヤイリガイは確認されていないが、代わりに特定外来生物で大量斃死(へいし)すると[[水質汚濁]]をひき起こす[[カワヒバリガイ]]が我孫子市・[[印西市]]の利根川流域や霞ヶ浦で新たに確認されている<ref name="tonesita"/>。 |
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=== 電源開発 === |
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一方、[[水力発電]]としても包蔵水力の点で利根川は有力な河川であり、戦前には[[東京電燈]]により[[丸沼ダム]]が既に建設されて居たが、戦後本格的なダム式発電所である[[須田貝ダム]]が東京電力の手によって利根川本川に建設された。群馬県も県営発電事業の促進を図り、県内の多くのダムに発電所を建設して電力需要の確保を図った。以後、[[揚水発電]]所として[[玉原ダム]](発地川)や[[上野ダム]](神流川)が建設されて100万kW以上の出力を有する大規模水力発電所が相次いで誕生した。これら総合開発によって利根川は首都圏の水需要と電力需要に欠かせない「日本の大動脈」となった。 |
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利根川水系は内水面漁獲量では日本全国の総漁獲量に占める割合が約30パーセントと、水系としては日本最大の漁場でありかつ首都圏という大消費地に近い。このため[[漁業協同組合]]の数も多く、流域一都五県で81組合が存在し第1種・第2種・第5種漁業免許を取得している<ref>『利根川百年史』pp.133-135</ref>。 |
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=== ダム事業の見直し === |
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しかし、現在ダム建設は大きな転換点を迎えていて、現在までに幾つものダム計画が中止されている。利根川水系でも例外ではなかった。 |
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== 名称 == |
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一つは水没予定地域の激しい反対運動である。代表的なものに[[沼田ダム計画]]がある。これは利根川8ダム計画の中心として[[群馬県]][[沼田市]]岩本地点の利根川に高さ125m、有効貯水容量8億m³(日本一の有効貯水容量を有するダムは[[奥只見ダム]]〔[[阿賀野川]]水系[[只見川]]〕の4.5億m³であるが、その有効貯水容量の約2倍)、最大出力100万kwの発電という空前規模の[[多目的ダム]]を建設する計画を建設省が進めていた。だが水没世帯数は沼田市中心部が完全に水没するのを始め周辺町村併せて2,200世帯以上という事から猛烈な反対運動を招き、群馬県も事業には難色を示し計画は撤回された。この他、江戸川とは別に利根川の水を東京湾に流す利根川放水路計画や湯殿山ダム計画(烏川)も中止されている。吾妻川の[[八ッ場ダム]]は着工に漕ぎ着けたが、計画発表から着工まで半世紀近くかかっている。 |
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利根川の名称は、『[[万葉集]]』巻第十四に収載されている「東歌」のうち「[[上野国]]の歌」にある以下の[[和歌]]が文献上の初出である<ref name="100nenn_1">『利根川百年史』p.1</ref>。 |
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{{quotation| |
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:刀祢河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敞流伎美可母 (利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす 逢へる君かも) |
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|『万葉集』巻第十四、東歌「上野国の歌」}} |
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この和歌の冒頭にある「'''刀祢河'''」がすなわち利根川のことである。意味は「利根川の浅瀬の場所もよく考えないで真っ直ぐに渡ってしまい、突然波しぶきに当たるように、ばったりお逢いしたあなたです」と解され、庶民女性による寄物陳思の表現様式を採る[[相聞|相聞歌]]である。これについて[[犬養孝]]は自著『万葉の旅(中)』において、上野国の歌でありかつ人が渡河できる程度の川幅であることから、歌に詠まれた利根川の位置は現在の沼田市から渋川市にかけてではないかと推定している<ref name="100nenn_1"/>。 |
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和歌に見える「刀祢」について、これまで様々な説が提唱されたが何れも定説となっておらず、真の意味は未だに不明である。主な説としては利根郡から来た説、水源地の辺りには尖った峰、すなわち「尖き峰(ときみね)」が多くそれが簡略転化したという説、水源である大水上山の別称が「刀嶺岳」・「刀祢岳」・「刀根岳」・「大刀嶺岳」と呼ばれ、それに由来する説<ref name="100nenn_1"/>、「等禰直(とねのあたい)」あるいは「椎根津彦(しいねつひこ、とねつひこ)」という人名に由来する説<ref name="ktr">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/history/column/01_gogenn.htm 国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所『利根川の語源と坂東太郎』]2008年1月26日閲覧</ref>などがある。さらに語源をたどると[[アイヌ語]]に行き着くとされるが、そのアイヌ語の解釈も諸説ある。一例として「長い」を意味する「タンネ(tanne)」<ref name="ktr"/>、「沼や湖のように広くて大きい河川」という意味<ref name="100nenn_1"/>などがある。 |
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発電事業においても、東京電力が[[尾瀬沼]]に高さ85.0mの[[ロックフィルダム]]を建設し、利根川に発電用水を導水する「[[尾瀬原ダム計画]]」が尾瀬の自然破壊を招くという反対運動と[[福島県]]・[[新潟県]]からの水利権を巡る猛反発を受け、計画中止となっている。尚これを契機に日本の自然保護運動が胎動する。 |
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一方、利根川の別称である「'''坂東太郎'''」については、[[足柄峠]]と[[碓氷峠]]を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた<ref>『利根川百年史』p.2</ref>。ちなみに同様の別称を付けられた河川としては[[九州地方]]最大の河川である[[筑後川]]が「筑紫次郎」、[[四国地方]]最大の河川である[[吉野川]]が「四国三郎」と呼ばれるほか、[[中国地方]]最大の河川である[[江の川]]が「中国太郎」と呼ばれることがある<ref>[http://www.cgr.mlit.go.jp/hamada/modules/kasen1/index.php?id=9 国土交通省中国地方整備局浜田河川国道事務所『江の川の概要』]2011年4月22日閲覧</ref>。なお現在利根川は源流から河口まで一貫して「利根川」の名称が用いられており、信濃川や[[淀川]]、筑後川などのように所在地によって河川名が異なることはない<ref group="注">例えば淀川の場合[[滋賀県]]では[[瀬田川]]、[[京都府]]では[[宇治川]]の別称で呼ばれており、淀川の名称は[[木津川 (京都府)|木津川]]と[[桂川 (淀川水系)|桂川]]合流点より[[大阪湾]]河口までの名称となる。ただし河川法上では[[琵琶湖]]流出口から河口までを淀川本流としている。</ref>。 |
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一方、近年の[[公共事業]]再評価や水需要の低下、[[地方自治体]]の財政難による負担軽減ということから[[1990年代]]以降全国的にダム建設が相次いで中止された。利根川水系でも例外ではなく数ヶ所のダムが計画中止となった。代表的なものには[[薗原ダム|戸倉ダム]](片品川)があり、利益受容者の東京都・千葉県・埼玉県が計画参加撤退を表明したことから利根川水系最大規模のダム建設は中止となった。この他[[相俣ダム|川古ダム]](赤谷川)、[[薗原ダム|栗原川ダム]](栗原川)、[[薗原ダム|平川ダム]](泙川)、行川ダム(行川)、東大芦川ダム(東大芦川)、雄川ダム(雄川)が中止となり、利根川の主要支川である[[烏川]]の倉渕ダムも建設凍結となっている。 |
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== 利根川水系 == |
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今後の[[ダム]]建設は建設事業の長期化に伴い、事業費用を負担する地方自治体の財政難、また公共事業に対する厳しい国民の視線やダム建設可能地点の減少等からより難しくなっているが、[[2005年]]([[平成]]17年)国土交通省は下久保ダムの治水容量分を振り替える為に、下久保ダム嵩上げと共に新規のダム建設が最低1箇所は必要という見解を出している。 |
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利根川の流域面積は約1万6,840平方キロメートルであり、比較すると広さは四国地方の面積の80[[パーセント]]<ref name="jyoryu">[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/shoukai/1-1.htm 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所『利根川の紹介』]2011年4月22日閲覧</ref>に相当する。この流域面積内を流れ最終的に利根川へと合流、あるいは[[分流]]する河川は全て'''利根川水系'''に属する。水系内を流れ最終的に利根川に合流する[[支流]]の数は'''815河川'''に上り、淀川水系の964河川、信濃川水系の880河川に次ぐ日本第三位の支流数である<ref name="binran16">『河川便覧 平成十六年版』pp.90-92</ref>。流域自治体は首都である東京都を始め茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県および長野県の一都六県211市区町村にまたがり、流域内には日本の人口の10パーセントに相当する約1,200万人が生活している<ref name="jyoryu"/>。 |
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=== 本流と流域自治体 === |
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== 利根川水系の主要河川・湖沼 == |
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利根川本流は大水上山の水源から太平洋の河口まで流路延長322キロメートルの長さを有するが、この間通過する自治体は群馬県、埼玉県、茨城県、千葉県の四県、25市14町1村に及ぶ。本流の管理については[[1896年]](明治29年)に[[河川法#旧河川法制定|旧河川法]]の制定に伴い、翌[[1897年]](明治30年)[[9月11日]]付[[内務省 (日本)|内務省]]<ref group="注">明治時代から戦後建設省が発足するまでの間、河川管理は内務省の管轄であった。</ref>[[告示]]第59号において管理指定河川区域が定められた。戦後[[1964年]](昭和39年)の河川法改訂に伴い一級河川・[[二級河川]]の河川等級が導入されたことにより、翌1965年[[3月24日]]付[[建設省]](国土交通省)政令で旧河川法下で定められた管理指定河川区域がそのまま一級河川の区域として指定された<ref>『利根川百年史』pp.1596-1601</ref>。現在、河川法の上で一級河川に指定されている利根川の本流は、 |
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=== 河川 === |
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:上流端:群馬県利根郡みなかみ町大字大利根 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
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:下流端:茨城県神栖市波崎新港(左岸)および千葉県銚子市川口町(右岸)の河口 |
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までとなっている<ref>『利根川百年史』p.1596</ref>。このうち現在国土交通省が直轄で管理を行う「指定外区間」は、 |
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:上流端:群馬県伊勢崎市大字柴崎(左岸)と群馬県佐波郡玉村町大字小泉(右岸)<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/gaiyou/3-1.htm 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所『事業概要』]2011年4月22日閲覧</ref> |
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:下流端:茨城県神栖市波崎新港(左岸)および千葉県銚子市川口町(右岸)の河口<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/kanri/kasensenyo.html 国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所『管理 川とその機能を保つ維持管理』]2011年4月22日閲覧</ref> |
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となり、茨城県取手市と千葉県[[我孫子市]]を境として国土交通省[[関東地方整備局]]利根川上流河川事務所と利根川下流河川事務所が分割して管理している。一方指定外区間の上流端より上流域の利根川は河川法第9条第2項に基づく「指定区間」として、国土交通省が[[群馬県知事]]に管理を委任している。このため高崎市以北を流れる利根川は群馬県が河川管理を行うが、矢木沢ダムと藤原ダムについてはそれぞれの[[人造湖]]の上流端からダム直下流に至る区間に限り、国土交通省が直轄管理を行う<ref group="注">国土交通省直轄ダムおよび水資源機構管理ダムについては全て該当する。これを特定水利と専門的には呼ぶ。</ref>。 |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">利根川本流の流域市町村 |
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!流域県 |
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!流域市町村(上流より記載) |
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|[[群馬県]]||align=left|[[利根郡]][[みなかみ町]]、[[沼田市]]、利根郡[[昭和村 (群馬県)|昭和村]]、[[渋川市]]、[[北群馬郡]][[吉岡町]]、[[前橋市]]、[[高崎市]]、[[佐波郡]][[玉村町]]、[[伊勢崎市]]、[[太田市]]、[[邑楽郡]][[大泉町]]、邑楽郡[[千代田町]]、邑楽郡[[明和町 (群馬県)|明和町]]、邑楽郡[[板倉町]] |
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|[[埼玉県]]||align=left|[[本庄市]]、[[深谷市]]、[[熊谷市]]、[[行田市]]、[[羽生市]]、[[加須市]] |
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|- |
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|[[茨城県]]||align=left|[[古河市]]、[[猿島郡]][[五霞町]]、猿島郡[[境町]]、[[坂東市]]、[[守谷市]]、[[取手市]]、[[北相馬郡]][[利根町]]、[[稲敷郡]][[河内町]]、[[稲敷市]]、[[神栖市]] |
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|- |
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|[[千葉県]]||align=left|[[野田市]]、[[柏市]]、[[我孫子市]]、[[印西市]]、[[印旛郡]][[栄町]]、[[成田市]]、[[香取郡]][[神崎町]]、[[香取市]]、香取郡[[東庄町]]、[[銚子市]] |
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|} |
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=== 支流・分流と流域市町村 === |
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[[file:Kinu River viewing from Akutsu Ohashi in Utsunomiya.jpg|200px|thumb|利根川水系で最も流路延長が長い[[鬼怒川]]]] |
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先述の通り利根川水系には支流が815河川存在するが、利根川に直接合流する一次支流には他の一級水系やその本流に匹敵する大河川が多い。支流で流路延長が最も長いのは'''鬼怒川'''の約176.7キロメートルであり、他の一級水系本流と比較すると同じ関東地方を流れる荒川(173キロメートル)に匹敵する。また流域面積が最も広大なのは'''渡良瀬川'''の約2,601.9平方キロメートルで、この面積は筑後川水系(2,863平方キロメートル)や[[岡山県]]・[[広島県]]を流域とする[[高梁川]]水系(2,670平方キロメートル)、[[富山県]]・[[岐阜県]]を流域とする[[神通川]]水系(2,720平方キロメートル)に匹敵する。流路延長では鬼怒川のほか渡良瀬川と小貝川が100キロメートルを超え、流域面積では渡良瀬川のほか吾妻川、烏川、鬼怒川、小貝川、常陸利根川が1,000平方キロメートルを超える広さを有する<ref name="binran16"/><ref name="100nenn_3">『利根川百年史』p.3</ref>。また利根川より分流する河川(派川)として千葉県野田市関宿で利根川本流より分流する江戸川、千葉県柏市で利根川本流より分流し江戸川に合流する利根運河がある。 |
|||
なお、埼玉県と東京都を流域とする'''中川'''であるが、利根川には合流せず荒川と並走する形で東京湾へと注ぐ。このことから荒川水系と誤解され易いが、1964年の河川法改訂時における建設省河川審議会管理部会の見解によれば、中川は利根川の分流である江戸川の分流・[[旧江戸川]]に合流する[[新中川|新中川放水路]]に流入しているため、水系の定義である「本流より分流し直接海に流入する派川と、その派川に流入する支流の全ては同一水系に所属する」という建前から、河川法改訂後利根川水系が一級河川に指定される際に利根川水系に属する決定が下された<ref name="100nenn_1601">『利根川百年史』p.1601</ref>。このことから中川とその支流は利根川水系の河川であり、荒川水系ではない。また河川法改訂時に支流の名称も幾つか変更されており、従来[[常陸川]]・[[北利根川]]と呼ばれた河川は一括して常陸利根川と名称が統一され、江戸川については江戸川[[放水路]]を本流とし旧江戸川は分流(派川)扱いになり、新中川放水路は新中川の名称になっている<ref name="100nenn_1601"/>。 |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
|||
|+ <strong style="font-size:middle;">利根川水系の主要支流<ref name="100nenn_3"/><ref>『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』pp.448-449</ref> |
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|- |
|- |
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!河川 |
!河川 |
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!流路 |
!流路延長<br/>(km) |
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!流域 |
!流域面積<br/>(km²) |
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!主要 |
!主要二次支流 |
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!主要 |
!主要[[湖沼]] |
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!流域 |
!流域都県 |
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!流域 |
!流域市区郡 |
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|- |
|- |
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|楢俣川||15.0||111.9||湯の小屋川||([[奈良俣ダム|ならまた湖]])||[[群馬県]]||align=left|[[利根郡]] |
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|楢俣川 |
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|15.0 |
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|111.9 |
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|湯の小屋川 |
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|([[奈良俣ダム|ならまた湖]]) |
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|[[群馬県]] |
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|[[利根郡]] |
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|- |
|- |
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|赤谷川||||||須川川||([[相俣ダム|赤谷湖]])||群馬県||align=left|利根郡 |
|||
|赤谷川 |
|||
| |
|||
| |
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|須川川 |
|||
|([[相俣ダム|赤谷湖]]) |
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|群馬県 |
|||
|利根郡 |
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|- |
|- |
||
|[[片品川]]||60.8||673.1||大滝川<br/>泙川<br/>栗原川<br/>根利川||([[丸沼ダム|丸沼]])<br/>菅沼<br/>大尻沼<br/>([[薗原ダム|薗原湖]])||群馬県||align=left|[[沼田市]]・利根郡 |
|||
|片品川 |
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| |
|||
| |
|||
|大滝川<br/>泙川<br/>栗原川<br/>根利川 |
|||
|丸沼<br/>菅沼<br/>([[薗原ダム|薗原湖]]) |
|||
|群馬県 |
|||
|[[沼田市]]・利根郡 |
|||
|- |
|- |
||
|[[吾妻川]]||76.2||1,365.9||万座川<br/>[[白砂川]]<br/>[[四万川]]<br/>温川<br/>名久田川<br/>沼尾川||[[榛名湖]]<br/>([[鹿沢ダム|田代湖]])<br/>([[品木ダム|上州湯の湖]])<br/>([[四万川ダム|奥四万湖]])<br/>(四万湖)||群馬県||align=left|[[渋川市]]・[[吾妻郡]] |
|||
|[[吾妻川]] |
|||
|76.2 |
|||
|1,356.0 |
|||
|万座川<br/>[[白砂川]]<br/>[[四万川]]<br/>温川<br/>名久田川<br/>沼尾川 |
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|[[榛名湖]]<br/>(田代湖)<br/>([[四万川ダム|奥四万湖]])<br/>(四万湖) |
|||
|群馬県 |
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|[[渋川市]]・[[吾妻郡]] |
|||
|- |
|- |
||
| rowspan="3"|[[烏川]] |
| rowspan="3"|[[烏川]] |
||
| rowspan="3"| |
| rowspan="3"|45.2 |
||
| rowspan="3"|1, |
| rowspan="3"|1,800.7 |
||
| rowspan="3"|[[碓氷川]]<br/>[[鏑川]]<br/>[[神流川 (利根川水系)|神流川]] |
| rowspan="3"|[[碓氷川]]<br/>[[鏑川]]<br/>[[神流川 (利根川水系)|神流川]] |
||
| rowspan="3"|([[碓氷湖]])<br/>([[下久保ダム|神流湖]])<br/>([[上野ダム|奥神流湖]]) |
| rowspan="3"|([[碓氷湖]])<br/>([[下久保ダム|神流湖]])<br/>([[上野ダム|奥神流湖]]) |
||
|[[長野県]] |
|[[長野県]] |
||
|[[佐久市]] |
|align=left|[[佐久市]] |
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|- |
|- |
||
|群馬県 |
|群馬県 |
||
|[[高崎市]]・[[安中市]]・[[藤岡市]] |
|align=left|[[高崎市]]・[[安中市]]・[[藤岡市]]・[[富岡市]]・[[甘楽郡]]・[[多野郡]] |
||
|- |
|- |
||
|[[埼玉県]] |
|[[埼玉県]] |
||
|[[児玉郡]] |
|align=left|[[秩父市]]・[[児玉郡]] |
||
|- |
|- |
||
| rowspan="3"|[[渡良瀬川]] |
| rowspan="3"|[[渡良瀬川]] |
||
| rowspan="3"| |
| rowspan="3"|107.6 |
||
| rowspan="3"|2, |
| rowspan="3"|2,601.9 |
||
| rowspan="3"|[[思川 (栃木県)|思川]]<br/>[[秋山川 (栃木県)|秋山川]]<br/>彦間川<br/>松田川<br/>[[桐生川]] |
| rowspan="3"|[[思川 (栃木県)|思川]]<br/>[[秋山川 (栃木県)|秋山川]]<br/>彦間川<br/>松田川<br/>[[桐生川]] |
||
| rowspan="3"|([[草木ダム|草木湖]])<br/>([[渡良瀬遊水地]]) |
| rowspan="3"|([[草木ダム|草木湖]])<br/>(梅田湖)<br/>([[渡良瀬遊水地]]) |
||
|群馬県 |
|群馬県 |
||
|[[みどり市]]・[[桐生市]]・[[太田市]] |
|align=left|[[みどり市]]・[[桐生市]]・[[太田市]]・[[館林市]]・[[邑楽郡]] |
||
|- |
|- |
||
|[[栃木県]] |
|[[栃木県]] |
||
|[[日光市]]・[[足利市]]・[[佐野市]] |
|align=left|[[日光市]]・[[足利市]]・[[佐野市]]・[[小山市]]・[[栃木市]]・[[鹿沼市]]・[[下都賀郡]]・[[上都賀郡]] |
||
|- |
|- |
||
|[[茨城県]] |
|[[茨城県]] |
||
|[[古河市]] |
|align=left|[[古河市]] |
||
|- |
|- |
||
| rowspan="2"|[[鬼怒川]] |
| rowspan="2"|[[鬼怒川]] |
||
| rowspan="2"| |
| rowspan="2"|176.7 |
||
| rowspan="2"|1, |
| rowspan="2"|1,770.6 |
||
| rowspan="2"|[[田川 (利根川水系)|田川]]<br/>[[大谷川 (日光市)|大谷川]]<br/>砥川<br/>男鹿川 |
| rowspan="2"|[[田川 (利根川水系)|田川]]<br/>[[大谷川 (日光市)|大谷川]]<br/>[[砥川]]<br/>男鹿川 |
||
| rowspan="2"|[[中禅寺湖]]<br/>[[湯ノ湖]]<br/>([[川俣ダム|川俣湖]])<br/>([[川治ダム|八汐湖]])<br/>([[五十里ダム|五十里湖]]) |
| rowspan="2"|[[中禅寺湖]]<br/>[[湯ノ湖]]<br/>[[西ノ湖]]<br/>[[鬼怒沼]]<br/>([[川俣ダム|川俣湖]])<br/>([[川治ダム|八汐湖]])<br/>([[五十里ダム|五十里湖]]) |
||
|栃木県 |
|栃木県 |
||
|[[日光市]]・[[宇都宮市]]・[[真岡市]] |
|align=left|[[日光市]]・[[宇都宮市]]・[[真岡市]]・[[下野市]]・[[河内郡 (栃木県)|河内郡]]・[[塩谷郡]]・[[芳賀郡]] |
||
|- |
|- |
||
|茨城県 |
|茨城県 |
||
|[[筑西市]]・[[結城市]]・[[下妻市]] |
|align=left|[[筑西市]]・[[結城市]]・[[下妻市]]・[[守谷市]]・[[常総市]]・[[結城郡]] |
||
|- |
|- |
||
| rowspan="4"|[[江戸川]] |
| rowspan="4"|[[江戸川]] |
||
| rowspan="4"| |
| rowspan="4"|54.7 |
||
| rowspan="4"|200. |
| rowspan="4"|200.3 |
||
| rowspan="4"|[[利根運河]]<br/>[[旧江戸川]] |
| rowspan="4"|[[利根運河]]<br/>[[旧江戸川]] |
||
| rowspan="4"| |
| rowspan="4"| |
||
|[[千葉県]] |
|[[千葉県]] |
||
|[[野田市]]・[[流山市]]・[[松戸市]] |
|align=left|[[野田市]]・[[流山市]]・[[松戸市]]・[[市川市]]・[[船橋市]]・[[浦安市]] |
||
|- |
|- |
||
|埼玉県 |
|埼玉県 |
||
|[[幸手市]]・[[春日部市]]・[[吉川市]] |
|align=left|[[幸手市]]・[[春日部市]]・[[吉川市]]・[[三郷市]]・[[北葛飾郡]] |
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|- |
|- |
||
|茨城県 |
|茨城県 |
||
|[[猿島郡]] |
|align=left|[[猿島郡]] |
||
|- |
|- |
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|[[東京都]] |
|[[東京都]] |
||
|[[葛飾区]]・[[江戸川区]] |
|align=left|[[葛飾区]]・[[江戸川区]] |
||
|- |
|- |
||
| rowspan="2"|[[中川]] |
| rowspan="2"|[[中川]] |
||
| rowspan="2"| |
| rowspan="2"|82.2 |
||
| rowspan="2"| |
| rowspan="2"|986.7 |
||
| rowspan="2"|[[権現堂川]]<br/>[[古利根川]]<br/>[[元荒川]]<br/>[[大場川 (埼玉県)|大場川]]<br/>[[綾瀬川]]<br/>[[新中川]] |
| rowspan="2"|[[権現堂川]]<br/>[[大落古利根川]]<br/>[[元荒川]]<br/>[[大場川 (埼玉県)|大場川]]<br/>[[綾瀬川]]<br/>[[新中川]] |
||
| rowspan="2"| |
| rowspan="2"|([[行幸湖]]) |
||
|埼玉県 |
|埼玉県 |
||
|[[羽生市]]・[[加須市]]・[[久喜市]] |
|align=left|[[羽生市]]・[[加須市]]・[[久喜市]]・幸手市・春日部市・[[越谷市]]・吉川市・[[草加市]]・<br/>三郷市・[[八潮市]]・[[北埼玉郡]]・[[南埼玉郡]]・北葛飾郡 |
||
|- |
|- |
||
|東京都 |
|東京都 |
||
|[[足立区]]・葛飾区・江戸川区 |
|align=left|[[足立区]]・葛飾区・江戸川区 |
||
|- |
|- |
||
| rowspan="2"|[[小貝川]] |
| rowspan="2"|[[小貝川]] |
||
| rowspan="2"|111.8 |
| rowspan="2"|111.8 |
||
| rowspan="2"|1,043. |
| rowspan="2"|1,043.1 |
||
| rowspan="2"|[[五行川]]<br/>谷田川 |
| rowspan="2"|[[五行川]]<br/>谷田川 |
||
| rowspan="2"|[[牛久沼]] |
| rowspan="2"|[[牛久沼]]<br/>(母子島遊水池) |
||
|栃木県 |
|栃木県 |
||
|真岡市・芳賀郡・塩谷郡 |
|align=left|真岡市・芳賀郡・塩谷郡 |
||
|- |
|- |
||
|茨城県 |
|茨城県 |
||
|筑西市・下妻市・常総市 |
|align=left|筑西市・下妻市・常総市・[[つくばみらい市]]・守谷市・[[取手市]]・[[龍ケ崎市]]・<br/>[[つくば市]]・[[牛久市]]・[[真壁郡]]・結城郡・北相馬郡 |
||
|- |
|- |
||
| rowspan="2"|[[ |
| rowspan="2"|[[常陸利根川]] |
||
| rowspan="2"| |
| rowspan="2"|27.5 |
||
| rowspan="2"|2, |
| rowspan="2"|2,156.7 |
||
| rowspan="2"|[[桜川 (茨城県南部)|桜川]]<br/>恋瀬川<br/>巴川<br/>[[小野川 (茨城県)|小野 |
| rowspan="2"|[[桜川 (茨城県南部)|桜川]]<br/>[[恋瀬川]]<br/>巴川<br/>[[小野川 (茨城県)|小野川]]<br/>[[新利根川]]<br/>[[鰐川]] |
||
| rowspan="2"|[[霞ヶ浦]]<br/>[[北浦]]<br/>[[外浪逆浦]]<br/>与田浦 |
| rowspan="2"|[[霞ヶ浦]]<br/>[[北浦]]<br/>[[外浪逆浦]]<br/>与田浦<br/>(南椎尾調整池) |
||
|茨城県 |
|茨城県 |
||
|[[土浦市]]・[[石岡市]]・[[稲敷市]] |
|align=left|[[土浦市]]・[[石岡市]]・[[稲敷市]]・[[かすみがうら市]]・[[小美玉市]]・[[行方市]]・[[鉾田市]]・<br/>[[鹿嶋市]]・[[神栖市]]・[[潮来市]]・[[桜川市]]・筑西市・つくば市・牛久市・[[稲敷郡]] |
||
|- |
|- |
||
|千葉県 |
|千葉県 |
||
|[[香取市]] |
|align=left|[[香取市]] |
||
|} |
|} |
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(注)カッコ内の湖沼は人造湖(ダム湖)。 |
(注)カッコ内の湖沼は人造湖(ダム湖)。 |
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=== |
=== 湖沼 === |
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[[ファイル:Kasumigaura landsat.jpg|200px|thumb|[[ランドサット]]による[[霞ヶ浦]]空撮。左が西浦(狭義の霞ヶ浦)、右が[[北浦]]でその下に[[外浪逆浦]]がある。画面下の河川は利根川。]] |
|||
* [[丸沼]] |
|||
利根川水系は一級水系の中では天然の湖沼が多く存在し、その中には日本第二位の面積を有する'''霞ヶ浦'''がある。湖沼の分布については下流に多く存在するが、これについては[[1910年]](明治43年)に吉田東伍が著した『利根治水論考』においてその成り立ちについて論じられている。同書によれば[[1000年代]]の利根川下流域は'''[[香取海]]'''という巨大な湖沼が形成されており、霞ヶ浦を始め[[北浦]]、[[外浪逆浦|外浪逆(そとなさか)浦]]、[[印旛沼]]が全て一つの湖沼として繋がっていた<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/kasumi/rekishi/05.htm 国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所『昔はどうなっていたか』]2011年4月23日閲覧</ref>。その後鬼怒川や小貝川より運搬された土砂の堆積、江戸時代の河川改修と[[新田]]開発に伴う[[干拓]]などで香取海は次第に縮小し、現在の河道になったと論じている<ref>『利根川百年史』pp.299-300</ref>。湖の成因として霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦は[[海跡湖]]に、その他下流域にある印旛沼、[[手賀沼]]、[[牛久沼]]、[[菅生沼|菅生(すごう)沼]]は何れも[[堰止湖]]に分類される。例外は[[古利根沼]]で、利根川の河川改修により旧流路が河川より分離・残存して誕生した湖沼である。なおかつては内浪逆浦が存在したが、干拓や河道改修により消滅している。 |
|||
* [[菅沼 (沼)|菅沼]] |
|||
* [[榛名湖]] |
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* [[赤城大沼]] |
|||
* [[中禅寺湖]] |
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* [[湯の湖]] |
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* [[菅生沼]] |
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* [[牛久沼]] |
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* [[霞ヶ浦]] |
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* [[霞ヶ浦#地理|北浦]] |
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* [[外浪逆浦]] |
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* [[手賀沼]] |
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* [[印旛沼]] |
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上流域に存在する天然湖沼はその多くが[[火山]]活動に伴って形成されたものである。[[中禅寺湖]]は男体山の[[噴火]]活動による[[溶岩流]]によって河川が堰き止められて形成され、[[榛名湖]]や[[大沼 (赤城山)|赤城大沼]]は榛名山、赤城山の[[火山湖]]である。例外は栃木県[[日光市]]にある[[西ノ湖]]であり、元々中禅寺湖の一部だったのが分離して単独の湖を形成したものである。一方、同じ上流部には戦後盛んになった利根川水系の河川開発(後述)により多くの[[ダム]]が建設され、それに伴い[[人造湖]]も多く誕生した。これら人造湖の中で最大の規模を有するのが利根川本流に建設された矢木沢ダムの人造湖・'''奥利根湖'''であり、その[[ダム#諸元|総貯水容量]]は2億430万[[立方メートル]]で関東地方最大<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&jy=soutyo&kei=(ALL) 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』総貯水容量順位表]2011年4月22日閲覧</ref>、貯水池面積は570[[ヘクタール]]と外浪逆浦に匹敵する<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0612 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』矢木沢ダム]2011年4月22日閲覧</ref>。このほか中・下流部には日本最大級の[[遊水池]]である[[渡良瀬遊水地]](渡良瀬川)を始め、利根川本流の田中・菅生・稲戸井調節池、小貝川の母子島遊水池といった遊水池が存在する。 |
|||
== 利根川水系の河川施設 == |
|||
利根川水系は、流域に[[首都]]たる[[東京都]][[東京特別区|23区]]を中心とする大都市圏が形成されているため、一度大水害が発生すれば日本の政治・経済、ひいては海外の経済にまで影響を及ぼしかねない。この為に治水対策は万全を期さねばならない事は言うまでも無い。また、人口の急増による水需要の逼迫が招いた「東京砂漠」は、[[多摩川]]水系だけの水供給が限界である事を周知させた。これが契機で利根川は[[荒川 (関東)|荒川]]と一体となった総合開発が実施され、多くのダムや堰、用水路が統合管理されている。 |
|||
なお、霞ヶ浦は[[1961年]](昭和36年)に制定された[[水資源機構|水資源開発促進法]]に基づき「湖沼水位調節施設」として[[常陸川水門]]を利用し[[多目的ダム]]化する霞ヶ浦開発事業が実施され<ref>『利根川百年史』pp.1435-1440</ref><ref>『水資源開発公団30年史』pp.121-126</ref>、印旛沼は[[1947年]](昭和21年)より開始された印旛沼開発事業によって[[1969年]](昭和44年)北部調整池と西部調整池に分割された<ref>『利根川百年史』pp.1444-1445</ref><ref>『水資源開発公団30年史』p.13</ref>。何れも首都圏の[[治水]]と[[利水]]を目的に天然湖沼を利用する[[河川総合開発事業]]であった。このほか中禅寺湖は流出口に栃木県によって[[1959年]](昭和34年)中禅寺ダムが建設され中禅寺湖の治水と[[華厳の滝]]の水量調節、および[[水力発電]]能力の増強が図られるなど<ref>『日本の多目的ダム 補助編 1990年版』pp.176-177</ref>天然湖沼の開発が盛んに行われたのも利根川水系の天然湖沼における特徴である。 |
|||
水力発電に関しては、小規模な水路式発電所が各所に建設されており、ダム式発電所は鬼怒川等で20~30m級ダムが建設されているのみであった。戦後奥利根に大規模水力発電施設計画が東京電力により手掛けられたが、利根川が水資源開発指定河川に指定され一旦白紙となった。だが、[[1973年]]の[[オイルショック]]を機に水力が見直され、玉原・神流川等の揚水発電所が建設された。 |
|||
{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">利根川水系の主要湖沼<ref>『河川便覧 平成十六年版』pp.30-31</ref> |
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|- |
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!湖沼 |
|||
!所在地 |
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!流出河川 |
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!成因 |
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!汽水/淡水 |
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!標高(m) |
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!面積(km²) |
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!最大水深(m) |
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!備考 |
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|- |
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|[[霞ヶ浦]](全体)||[[茨城県]]・[[千葉県]]||[[常陸利根川]]||[[海跡湖]]||[[汽水]]/[[淡水]]||align=right|0||align=right|220.0||align=right|7.0||西浦・北浦・外浪逆浦などを包括 |
|||
|- |
|||
|霞ヶ浦(西浦)||茨城県||常陸利根川||海跡湖||淡水||align=right|0||align=right|167.6||align=right|7.0||湖沼水位調節施設 |
|||
|- |
|||
|[[北浦]]||茨城県||[[鰐川]]||海跡湖||淡水||align=right|0||align=right|35.2||align=right|7.8||常陸利根川流域 |
|||
|- |
|||
|[[中禅寺湖]]||[[栃木県]]||[[大谷川 (日光市)|大谷川]]||[[堰止湖]]||淡水||align=right|1,269||align=right|11.8||align=right|163.0||鬼怒川流域<br/>流出口に中禅寺ダムを建設 |
|||
|- |
|||
|[[印旛沼]]||千葉県||長門川<br/>[[印旛放水路]]||堰止湖||淡水||align=right|1.0||align=right|8.9||align=right|1.8||北部・西部調整池に分割 |
|||
|- |
|||
|[[外浪逆浦]]||茨城県・千葉県||常陸利根川||海跡湖||汽水||align=right|0||align=right|5.9||align=right|23.3|| |
|||
|- |
|||
|[[手賀沼]]||千葉県||手賀川||堰止湖||淡水||align=right|3.0||align=right|4.1||align=right|3.8|| |
|||
|- |
|||
|[[牛久沼]]||茨城県||谷田川||堰止湖||淡水||align=right|-||align=right|3.49||align=right|3.0||[[小貝川]]流域 |
|||
|- |
|||
|[[菅生沼]]||茨城県||飯沼川||堰止湖||淡水||align=right|-||align=right|2.3||align=right|2.0|| |
|||
|- |
|||
|[[榛名湖]]||[[群馬県]]||沼尾川||[[火山湖]]||淡水||align=right|-||align=right|1.15||align=right|12.6||[[吾妻川]]流域 |
|||
|- |
|||
|[[大沼 (赤城山)|赤城大沼]]||群馬県||-||火山湖||淡水||align=right|-||align=right|0.88||align=right|12.6|| |
|||
|- |
|||
|[[西ノ湖]]||栃木県||-||遺留湖||淡水||align=right|-||align=right|0.7||align=right|-||中禅寺湖より分離 |
|||
|- |
|||
|[[湯ノ湖]]||栃木県||[[湯川 (日光市)|湯川]]||火山湖||淡水||align=right|-||align=right|0.31||align=right|12.0||鬼怒川流域 |
|||
|- |
|||
|[[鬼怒沼]]||栃木県||[[鬼怒川]]||火山湖||淡水||align=right|-||align=right|0.134||align=right|3.0||[[環境省]][[日本の重要湿地500]] |
|||
|} |
|||
== 利根川開発史 == |
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利根川は「暴れ川」として流域に幾度となく大きな被害を与え、[[洪水]]の度に流路が複雑に変遷する河川であった。その一方で関東地方の母なる川として多くの恵みをもたらす河川でもあり、時の為政者たちは利根川とその支流を治水・利水の面でいかに制御して行くか様々な試みを行った。ここでは利根川本流の治水・利水を中心とした河川開発史について時系列で詳述するが、一部利根川水系の河川開発についても記載する。なお水運、水力発電に関する歴史については、別項目にて後述する。 |
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=== 中世以前 === |
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[[ファイル:Tone riverine system 16century.png|200px|thumb|中世の利根川流路。[[荒川 (関東)|荒川]]を合流させ[[東京湾]]に注ぐ流路であった。[[渡良瀬川]]や[[鬼怒川]]は独立した[[水系]]である。]] |
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[[ファイル:Gyoda Ishida Bank 1.JPG|200px|thumb|[[1590年]]([[天正]]18年)の[[小田原の役]]において[[忍城]]水攻めのために[[石田三成]]が築いた[[石田堤]](埼玉県行田市)。]] |
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利根川流域に人が住むようになったのは[[旧石器時代]]の頃と見られ、河岸段丘や台地の末端部に居を構えて[[狩猟]]生活を行っていたことが群馬県の[[岩宿遺跡]]などで確認されている<ref>『利根川百年史』pp.86-87</ref>。[[縄文時代]]には[[縄文海進]]の影響で現在の埼玉県加須市栗橋より下流の利根川は全て海となっており、その海岸周辺において人々が生活していた。これらは[[貝塚]]の分布によって示され、縄文前期には北は赤城山南麓・西麓や埼玉県[[さいたま市]]、[[元荒川]]流域に多く分布しているが、後期に入ると海退の影響でより下流に生活範囲が広がり、現在の千葉県[[千葉市]]、[[市川市]]、[[松戸市]]などに縄文後期の貝塚が多く見られる。[[弥生時代]]に入り[[稲作]]文化が関東地方にも伝わると、利根川の肥沃な土壌が稲作文化を発達させ次第に定住生活へと移行。[[3世紀]]後半の[[古墳時代]]に入ると現在の栃木県・群馬県両域に当たる[[毛野地方]]を中心に[[前方後円墳]]が多く造られ、埼玉県の[[さきたま古墳群]]を含め利根川流域に強力な勢力が存在していたことが推定されている<ref>『利根川百年史』p.87</ref>。しかし当時は治水という概念は存在せず、肥沃な土壌をもたらす利根川は洪水によって大きな被害を住民にもたらしていた。 |
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江戸時代よりも前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県行田市付近で東と南の二股に分かれた後南東に流路を取り、以後は現在の大落古利根川の流路をたどりながら荒川や[[入間川]]を合わせ、東京湾へと注いでいた。このうち行田市付近では「'''会の川'''」という名称であった。また当時「太日川」という名称であった渡良瀬川は独立した河川として、現在の江戸川の流路を取りながら利根川と並走するするように東京湾へ流れ、鬼怒川は同じく独立した河川として小貝川を合わせ、香取海に注ぐ形態だった。利根川の本流は[[1457年]]([[長禄]]元年)に[[太田資長]](道灌)が現在の埼玉県[[春日部市]]から[[草加市]]を経て東京湾に注ぐ河川を本流に定めたとされている<ref>『利根川百年史』pp.77-78</ref>。また上流部では現在よりも東側、すなわち[[広瀬川 (群馬県)|広瀬川]]の流路をたどり、現在の伊勢崎市付近で烏川と合流していたが[[1543年]]([[天文]]12年)<ref group="注">[[1539年]](天文8年)説もある。</ref>の洪水によって現在の流路が定まった<ref>『利根川百年史』p.79</ref>。このように複雑な流路を形成していた利根川は洪水により頻繁に流路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていた。記録に残る最も古い洪水の記録は、[[奈良時代]]の[[758年]]([[天平宝字]]2年)における鬼怒川の洪水で、「鬼怒川氾濫して二千余頃<ref group="注">「頃」とは当時の面積の単位で、1頃はおよそ1ヘクタールに相当する。この場合2,000ヘクタールの被害があった。</ref>の良田を荒廃に帰せしめ・・・」と被害が記されている。 |
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利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは[[768年]]([[神護景雲]]2年)、鬼怒川筋での流路付け替えである<ref>『利根川百年史』p.141</ref>。一方利水については[[645年]]の[[大化の改新]]後施行された[[班田収授法]]で[[条里制]]が利根川流域にも実施されたのが初見であり、群馬県高崎市や太田市、茨城県南部、埼玉県北部にその遺構が確認されている<ref>『利根川百年史』p.88</ref>。中世利根川流域の河川開発に積極的だったのは[[鎌倉幕府]]で、[[征夷大将軍|将軍]]だった[[源頼朝]]は[[1194年]]([[建久]]5年)には利根川では初となる[[堤防]]の建設を[[武蔵国]]で施工した。続いて[[1199年]]([[正治]]元年)4月、頼朝は東国の[[地頭]]に対して農業用水を開発して開墾を行う命令を下した<ref name="100nenn_89">『利根川百年史』p.89</ref>。その後も幕府による利根川の開発は続けられ、[[1207年]]([[承元]]元年)3月幕府は[[北条時房]]に武蔵国の開発を命じている<ref name="100nenn_89"/>。治水事業についても[[1232年]]([[貞永]]元年)には[[執権]][[北条泰時]]の命により現在の埼玉県熊谷市に'''柿沼堤'''が、[[1253年]]([[建長]]5年)には現在の茨城県猿島郡五霞町付近、[[下総国]]下河辺に堤防が築かれている<ref name="100nenn_305">『利根川百年史』p.305</ref>。これにより[[鎌倉時代]]の田地は[[平安時代]]に比べ約1万6,000[[町歩]]も多い6万6,710町歩となったことが『[[拾芥抄]]』に記されており、流域の農地開発は大いに進展した<ref name="100nenn_89"/>。 |
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[[室町時代]]の利根川流域は[[鎌倉公方]]の支配下にあったが政情は不安定で度々戦乱が勃発。治水・利水事業では見るべきものがなかった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入り利根川流域は[[伊豆国]]より勢力を伸ばした[[後北条氏]]により支配されたが、4代目当主[[北条氏政]]の代である[[1576年]]([[天正]]4年)に長さ900メートルの'''権現堂堤'''が[[権現堂川]]に建設されている<ref name="100nenn_305"/>。[[安土桃山時代]]に移り天下統一に向けて活発な軍事行動を繰り広げていた[[豊臣秀吉]]は、臣従の姿勢を見せない後北条氏に対し[[1590年]](天正18年)[[小田原の役]]を起こすがこの際[[石田三成]]らに対して武蔵国[[忍城]]を水攻めにするよう命令した。6月三成は雨季で増水している利根川・荒川の河水を堤防で堰き止め、忍城を水没させて降伏・開城させる方針をとった。しかし地形上の影響で城内を浸水させることは出来ず、却って堤防が決壊し豊臣軍に大勢の犠牲者を出した。結局忍城は7月16日、後北条氏の本拠である[[小田原城]]開城後に降伏することになる。この時三成によって築造された堤防を'''[[石田堤]]'''と呼び、自然堤防などを利用した全長28キロメートルの堤防を一週間で築き上げている<ref>[http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/isidadutumi.html 行田市教育委員会『石田堤』]2011年4月24日閲覧</ref>。ただしこの堤防は軍事的側面で建設されたもので、利根川の治水には何ら関係がない。 |
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=== 江戸前期の河川事業 === |
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{{main|利根川東遷事業}} |
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[[ファイル:Ina tadatsugu.jpg|200px|thumb|[[伊奈忠次]]銅像(茨城県[[水戸市]])。利根川河川事業の基礎を築いた。]] |
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[[ファイル:100 views edo 033.jpg|200px|thumb|『[[名所江戸百景]]』に描かれた[[葛西用水路]]。江戸では曳舟川とも呼ばれていた。]] |
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後北条氏の滅亡後、その旧領<ref group="注">武蔵国、[[相模国]]、伊豆国、下総国、[[上総国]]一円と沼田を除く上野国、[[下野国]]の南部。</ref>は[[徳川家康]]に与えられ家康は江戸に本拠を定めた。家康は領国経営を直ちに開始するが利根川流域の河川改修も積極的に取り組んだ。最初に行われた事業は[[1594年]]([[文禄]]3年)、忍城主であった家康の四男[[松平忠吉]]が行った'''会の川締切'''である。これは現在の行田市付近で二股に分流していた利根川のうち旧本流であった会の川を締切り、東方向に流路を一本化して渡良瀬川(太日川)に連結するものである。翌[[1595年]](文禄4年)には[[徳川四天王]]の一人で上野[[館林城]]主であった[[榊原康政]]が、利根川左岸に総延長33キロメートル、高さ4.5 - 6メートル、[[天端]](てんば)幅5.5 - 9.1メートルという堤防を建設した。これを'''文禄堤'''と呼び利根川における最初の本格的な大規模堤防である<ref>『利根川百年史』pp.308-309</ref>。このほか同時期には'''中条堤'''も築かれている。これら利根川水系における河川事業は[[関ヶ原の戦い]]で家康が覇権を握り、[[1603年]]([[慶長]]8年)家康が将軍となり[[江戸幕府]]を開いた後は[[譜代大名|三河譜代]]である家臣・[[伊奈忠次]]を祖とする'''[[伊奈氏]]'''が中心的役割を果たして行く。忠次が手掛けた事業としては[[1604年]](慶長9年)烏川を取水元とし利根川沿いに開削した総延長20キロメートルに及ぶ'''[[備前渠用水]]'''<ref group="注">同名の用水路は茨城県[[水戸市]]にも存在する。名の由来は忠次の官職である備前守に由来する。</ref>や上野[[総社藩]]主・[[秋元長朝]]が開発した天狗岩用水下流に開削した'''代官堀'''などがある。忠次の系統は[[代官|代官頭]]、後に'''[[関東郡代]]'''として12代[[伊奈忠尊]]までの間利根川水系の河川開発に携わるが、最大の事業として知られるのが'''[[利根川東遷事業]]'''である。 |
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利根川東遷事業は東京湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする江戸時代最大級の治水事業であり、現在の利根川水系の基礎となった。事業の範囲または目的については東遷事業に関する明確な史料が存在せず、後世の研究者が様々な説や見解を挙げている。開始時期については1594年の会の川締切を挙げるものが多く栗原良輔、佐藤俊郎、本間清利が支持している。終了時期については本間の[[1698年]]([[元禄]]11年)完了説が最も早く、根岸門蔵は[[1871年]](明治4年)、河田羆は[[1890年]](明治23年)の[[利根運河]]開通を以って完了としている。従って利根川東遷事業の明確な事業年数については不詳である。しかし目的については概ね以下の見解でコンセンサスが得られている<ref>『利根川百年史』pp.315-320</ref>。 |
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#幕府本拠である江戸、および利根川流域の水害対策としての治水目的 |
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#利根川流域の新田開発促進 |
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#街道や舟運整備による流通路確保 |
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#[[仙台藩]][[伊達氏]]を[[仮想敵国]]として[[江戸城]]防衛のため大外堀に利根川を利用する軍事目的 |
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利根川東遷事業の主要な事業としてはまず[[1621年]]([[元和]]7年)から[[1654年]]([[承応]]3年)まで3回にわたる'''赤堀川開削'''がある。これは現在[[東北新幹線]]利根川橋梁が渡河する付近の茨城県古河市・五霞町間を開削し、1621年に[[伊奈忠治]]によって行われた利根川と渡良瀬川の連結事業である'''新川通開削'''<ref group="注">『下総国旧事考』では1621年開削とするが、『新編武蔵風土記稿』では[[1642年]](寛永19年)開削説を採る。</ref>と連携して利根川の河水を東へ付け替える事業である<ref>『利根川百年史』pp.311-312</ref>。続いて[[1629年]]([[寛永]]6年)からはそれまで利根川の支流であった荒川が入間川流域に付け替えられ独立した水系となった。これを「'''荒川の西遷'''」と呼び旧流路は[[元荒川]]となって現在に至る<ref>『利根川百年史』p.315</ref>。[[1635年]](寛永12年)から[[1644年]]([[正保]]元年)に掛けては江戸川の開削が実施され、これにより関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成された<ref>『利根川百年史』pp.312-313</ref>。さらに関宿より下流の鬼怒川・小貝川などの改修も行われ、1629年にそれまで鬼怒川に合流していた小貝川を独立した河川として分離。翌[[1630年]](寛永7年)には小貝川下流を付け替えている。そして[[1662年]]([[寛文]]2年)から[[1666年]](寛文6年)に掛けて利根川と霞ヶ浦を連結する'''[[新利根川]]'''が開削され江戸時代前半期における治水事業は一応の区切りが付いた<ref>『利根川百年史』pp.313-314</ref>。 |
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江戸幕府における利根川を主に置いた河川行政は当初は伊奈氏が中心的役割を果たしている。東遷事業が最盛期を迎えていた[[1642年]](寛永19年)3代将軍・[[徳川家光]]は伊奈忠治に対し堤防修築の総指揮を命じ、伊奈氏の河川行政に対する権限が強化された。しかし5代将軍・[[徳川綱吉]]の治世では伊奈氏は関東郡代に任じられたものの[[勘定奉行]]の管轄下に置かれ、相対的に権限は低下した。それでも伊奈氏の河川事業への関わりは強く、4代・[[伊奈忠克]]は'''[[葛西用水路]]'''を[[1660年]]([[万治]]3年)に開削している。また小貝川流域においては伊奈忠治により[[1630年]](寛永7年)に岡堰、5代・[[伊奈忠常]]によって[[1667年]](寛文7年)豊田堰の原型となる堰<ref group="注">豊田堰自体は[[1839年]](天保9年)に完成しているが、その前身となった堰は忠常が建設している。</ref>が建設され、[[1722年]]([[享保]]7年)完成の[[福岡堰]]と共に「'''関東三大堰'''」と総称されている<ref>『利根川百年史』pp.368-369</ref>。伊奈氏による河川工法は「'''伊奈流'''(関東流)」と呼ばれた。 |
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=== 江戸後期の河川事業 === |
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:''[[見沼代用水]]の項目も参照。'' |
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[[ファイル:Saitama Minuma Canal In Saitama Green Trust 1.JPG|200px|thumb|[[さいたま市]]内を流れる[[見沼代用水]]([[見沼代用水東縁|東縁]])。]] |
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[[ファイル:東縁一の関.JPG|200px|thumb|[[見沼通船堀]]東縁一の関([[閘門]])。[[パナマ運河]]と同じ方式で舟を通行させる日本最古の閘門。]] |
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[[ファイル:AsamaYamaS.jpg|200px|thumb|[[浅間山]]空撮。[[1783年]]([[天明]]3年)の大[[噴火]]は利根川の治水に重大な影響を及ぼした。]] |
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[[1716年]]([[享保]]元年)[[紀伊藩]]主であった[[徳川吉宗]]が8代将軍となった。吉宗は[[享保の改革]]を推進するがその中で質素倹約と共に新田開発による[[年貢]]増徴により、厳しい幕府の財政建て直しを志向する。利根川の河川開発においては[[勘定吟味役]]として紀伊藩士であった'''[[井沢為永]]'''(弥惣兵衛)が60歳という高齢でありながら登用された。為永が実施した利根川水系の河川開発として著名なのが'''[[見沼代用水]]'''の開削である。 |
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利根川中流の武蔵国北部・中部における農業用水の水源としては1604年開削の備前渠用水があるが、それ以前より見沼という沼を灌漑用水源として利用していた。見沼は伊奈忠治により寛永年間に現在のさいたま市[[緑区 (さいたま市)|緑区]]に八丁堤という締切堤が建設されてダム化し、「見沼溜井」として1660年開削の葛西用水路と共に重要な水源となっていた。しかし新田開発が進むに連れ灌漑用水の需要増により見沼溜井の供給量とのバランスが崩壊し、享保年間には用水不足が深刻化していた<ref>『利根川百年史』p.366</ref>。このため吉宗は為永に対し[[1725年]](享保10年)9月、「見沼に代わる用水路」すなわち見沼代用水の開削と見沼の[[干拓]]を指示。現在の行田市に取水口を設け2万9,500間の用水を開削、[[星川]]を経由しさらに用水は[[見沼代用水東縁|東縁]]と[[見沼代用水西縁|西縁]]に分かれ旧見沼溜井の両縁に沿って南下する<ref name="100nenn_373">『利根川百年史』p.373</ref>。[[1728年]](享保13年)に用水は完成し303村の田畑1万2,571町、石高換算で約14万9,136石の農地が灌漑の恩恵を受けることとなった。また見沼代用水を利用して[[1731年]](享保16年)[[見沼通船堀]]が開削され、用水は舟運にも利用される多目的用水路へと変化した。なお通船堀に設けられた[[閘門]]はパナマ運河と同じ方式で舟を運行させるが、同形式としては'''日本最古の閘門'''である<ref>『利根川百年史』pp.373-374</ref>。 |
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また上野国内では現在の邑楽郡千代田町と明和町にまたがる'''利根加用水'''が建設された。[[1839年]]([[天保]]10年)同地31村の[[名主]]が連名で利根川からの取水による用水開削を幕府に嘆願したのが始まりで、用水不足に悩む同地に対し利根川から[[谷田川 (群馬県)|谷田川]]に至る長さ700間の用水路が整備された。ところが落差不足で十分に通水できず、[[1846年]]([[弘化]]3年)と[[1855年]]([[安政]]2年)の二度にわたり用水路の改築が実施された<ref>『利根川百年史』p.372</ref>。 |
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幕府による新田開発は次第に利根川下流域にも拡大するが、湖沼の干拓による新田開発も企図された。主なものとして[[手賀沼]]干拓と[[印旛沼]]干拓がある。手賀沼の場合は[[1636年]](寛永13年)に干拓用排水路である弁天堀が開削され、[[1661年]](寛文元年)に本格的な干拓計画が着手されたが挫折。[[1671年]](寛文11年)に海野屋作兵衛の手により最初の干拓が成功し新田234町歩が開発された。しかし[[1676年]]([[延宝]]4年)以降[[1729年]](享保14年)、[[1739年]]([[元文]]4年)の干拓計画は何れも洪水により挫折。[[1785年]](天保5年)の幕府による大規模干拓事業も完成の間もなく利根川の大洪水で大きな被害を受けるなど満足な結果は得られなかった<ref>『利根川百年史』pp.371-372</ref>。一方印旛沼干拓は[[1724年]](享保9年)染谷源右衛門が幕府より6,000両を借用して開始したが資金不足で失敗。続く[[1783年]]([[天明]]元年)には[[老中]]・[[田沼意次]]が、[[1840年]](天保11年)には老中・[[水野忠邦]]が[[天保の改革]]の一環として印旛沼開発計画に着手したが、何れも計画立案した本人が[[失脚]]して中止され、結局実施されなかった<ref>『利根川百年史』p.375</ref>。利根川下流域の干拓で唯一成功したのが'''十六島開発'''で、現在の香取市(旧[[佐原市]])周辺の十六島と呼ばれる[[砂州]]地帯の新田開発であるが、[[常陸国]]江戸崎城主だった[[土岐氏#常陸土岐氏|常陸土岐氏]]の遺臣団が1590年より徳川家康の許可を得て上之島村を開拓したのを皮切りに、[[1640年]](寛永17年)の磯山村開拓まで14村が開拓された<ref>『利根川百年史』pp.376-371</ref>。 |
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一方治水については1728年に徳川吉宗が井沢為永に江戸川の開削と[[庄内古川]]の分離工事を命じたほか、[[1742年]]([[寛保]]2年)8月の利根川大水害後の復旧事業として'''寛保の[[御手伝普請]]'''が同年10月より着手され、[[長州藩]]・[[熊本藩]]・[[津藩]]など西国10藩に対し幕命による河川工事が行われた。この事業は[[木曽三川]]における[[薩摩藩]]の[[宝暦治水]]同様、[[外様大名]]の経済力を削ぐための大名統制策の一環でもあった<ref>『利根川百年史』pp.349-351</ref>。しかし[[1783年]](天明3年)7月に発生した[[浅間山]]大[[噴火]]は[[火砕流]]が[[吾妻川]]に流入して泥流となり利根川、さらには江戸川にまで押し寄せ河床の著しい上昇や堤防などの河川施設破壊によって洪水の危険性が増大した。この対策として堤防修築や川底の掘削、さらに1654年以来となる赤堀川の再掘削が[[1843年]](天保14年)頃に実施され、江戸川の河水流入を制限するために「'''棒出し'''」と呼ばれる水制が同じく天保年間に建設されている<ref>『利根川百年史』pp.356-359</ref><ref group="注">棒出しについては根岸門蔵『利根川治水考』で天保説を挙げるが、[[土木学会]]『明治以前日本土木史』では寛永説を採っている。</ref>。なお、享保以降の幕府内における河川行政は勘定吟味役に井沢為永が重用されたほか、「普請役」や「四川奉行」<ref group="注">1725年成立。勘定奉行支配下で江戸川・鬼怒川・小貝川・利根川下流を管轄する。[[1732年]](享保17年)廃止。</ref>の改廃を経て河川行政は勘定奉行5名による分担任務となった。とはいえ普請を行うには関東郡代伊奈氏の決裁が必要とされ、伊奈氏の影響力はまだ高かった。しかし12代伊奈忠尊の時[[1792年]](寛保4年)不行跡を理由に[[改易]]され、家康以来河川事業に深く関わった伊奈氏はその表舞台から消え以後[[幕末]]に至るまで勘定奉行支配下の「四川用水方普請役」が差配していく<ref>『利根川百年史』pp.174-177</ref>。 |
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江戸時代を通じ利根川東遷事業や浅間山噴火対策など幕府の治水事業により利根川の膨大な河水は渡良瀬川などと共にかつての香取海方面へと流下することとなった。これにより江戸を含めた武蔵国方面では水害の危険性が減少し、新田開発による石高の増加が著しくなった。さらに舟運・海運航路が整備され経済の[[大動脈]]として利根川が活用されるなどの効果をもたらした。反面利根川の水面よりも標高が低い霞ヶ浦など下流低地において逆に水害の危険を増幅させ、明治以降の利根川治水事業を困難にしたという[[副作用]]が生じている<ref>『利根川百年史』pp.339-340</ref>。 |
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=== 近代の利根川治水事業 === |
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[[ファイル:Watarase yusuichi landsat.jpg|200px|thumb|[[渡良瀬遊水地]]空撮。]] |
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[[ファイル:Watarase yusuichi map.png|200px|thumb|渡良瀬遊水地概要図。]] |
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[[ファイル:Paleoedogawa crossroads mlit1989.jpg|thumb|200px|[[江戸川水閘門]](1)と[[行徳可動堰]](2)空撮写真<ref>{{国土航空写真}}</ref>。]] |
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[[1868年]](明治元年)に[[明治政府]]が誕生し、行政機構は大きな変化を遂げた。河川行政については数多の変遷を経て[[1874年]](明治7年)に[[内務省 (日本)|内務省]]が終戦後まで管掌することになり、利根川には[[1875年]](明治8年)[[6月16日]]内務省土木寮利根川出張所が設置された。この出張所が現在の国土交通省関東地方整備局の発祥となる<ref>『利根川百年史』p.188</ref>。また1896年には旧河川法が公布され、利根川は同法の適用を受ける河川に指定された。以後、内務省主導による利根川の治水事業が進められて行く。 |
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政府は[[オランダ]]式治水工法を日本各地の河川に導入するため[[ファン・ドールン]]を招き[[1872年]](明治5年)に利根川の[[測量]]調査などを進めたが<ref>『利根川百年史』p.408</ref>、具体化されたのは[[1886年]](明治19年)に[[ローウェンホルスト・ムルデル]]によって立案された'''利根川改修計画'''である<ref>『利根川百年史』p.418</ref>。これは現在の群馬県佐波郡玉村町から利根川河口までを対象に治水上の要所に堤防を築いて水害に対処するほか、[[利根運河]]を開削して水運の便を改良することが骨子であった。この時初めて利根川の[[治水|計画高水流量]]が算出され、毎秒3,750[[立方メートル]]に定められた<ref>『利根川百年史』p.530</ref>。計画は第1期から第3期まで3分割で進められ、この間[[1890年]](明治23年)には利根運河が完成した。 |
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しかし[[1910年]](明治43年)[[8月]]、関東地方を二つの[[台風]]が連続して襲来しそれに伴う前線の活発化によって利根川は当時最悪の洪水をもたらした。この'''明治43年8月洪水'''は死者769名を出す大災害となり、利根川は中流部において北は現在の前橋市・[[みどり市]]、西は[[富岡市]]から東は野田市、南は[[川越市]]に至る広範囲が浸水し関東平野中央部が一つの巨大な湖になった<ref>『利根川百年史』pp.504-511</ref>。この水害を機に先の利根川改修計画は同年改訂され計画高水流量は毎秒5,570立方メートルに上方修正された。この時事業計画に上ったのが'''[[渡良瀬遊水地]]'''であり、当時深刻化していた[[足尾銅山]]の[[足尾鉱毒事件|鉱毒問題]]解決に治水目的を付加させるとして正式な事業となった<ref>『利根川百年史』pp.568-574</ref>。このほか堤防や護岸建設、[[横利根閘門]]([[1921年]])・印旛[[水門]]([[1922年]])・[[小野川 (茨城県)|小野川]]水門([[1923年]])の新設、利根川下流の新河道開削([[1889年]] - 1922年)、権現堂川の利根川との締切([[1926年]])が本流域で施工され<ref>『利根川百年史』pp.636-657</ref>、江戸川では分流部に'''[[関宿水門]]'''と関宿高水路([[1927年]])を建設して利根川からの分流量を調節するほか、下流部では'''[[江戸川|江戸川放水路]]'''を開削([[1920年]])し流下能力を増強させた。これら一連の利根川改修計画は江戸川放水路の補修が完了した[[1930年]](昭和5年)に一応の完成を見た<ref>『利根川百年史』pp.680-688</ref>。この間1923年([[大正]]12年)の[[関東大震災]]により利根川中流部で堤防の損壊が116箇所発生し、その復旧も行われている<ref>『利根川百年史』pp.731-732</ref>。 |
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利根川改修計画が完成した後も利根川の洪水は度々発生し[[1935年]](昭和10年)[[9月]]と[[1938年]](昭和13年)[[6月]] - [[7月]]、[[1941]]年(昭和16年)7月には改修計画で定めた計画高水流量をはるかに上回る洪水が記録された。特に1938年の洪水は利根川下流部で浸水被害が深刻となり、往時の香取海が再現されたかの浸水範囲となった<ref>『利根川百年史』pp.759-778</ref>。事態を重視した内務省は改修計画に替わる新しい利根川の治水計画策定を検討、[[荒川放水路]]建設の総指揮を執った内務省内務[[技監]][[青山士]](あきら)を委員長とする「利根川治水専門委員会」を設立。計画高水流量を一挙に毎秒1万立方メートルに改める'''利根川改修増補計画'''が1938年に第73回[[帝国議会]]で承認され、翌[[1939年]](昭和14年)より着手された<ref>『利根川百年史』pp.782-787</ref>。この計画における主要事業は'''渡良瀬遊水地の[[洪水調節]]池化'''と、'''利根川放水路'''の建設にある。それまでの渡良瀬遊水地は洪水時に自然に貯留する性格のものであったが、遊水地周囲を堤防で囲み洪水時にはより多くの河水を貯水する[[調整池]]に改良する計画とした。一方利根川放水路計画は現在の千葉県[[我孫子市]]布佐(JR[[布佐駅]]付近)を起点として印旛沼西端を通過し、現在の千葉市[[花見川区]]検見川町と[[海浜幕張]]間付近で東京湾に至る総延長27キロメートルの放水路を建設し、利根川下流の水位を2メートル減少させるほか手賀沼・印旛沼の治水と干拓、利根運河に代わる大規模運河としての利用、さらに掘削残土を埋立地に利用して工業地帯を造成するという多目的の放水路計画である。このほか田中・菅生調節池(利根川)の新規遊水池計画、小貝川付替計画、利根運河の放水路化、利根川中流部の堤防強化が事業内容に盛り込まれた<ref>『利根川百年史』pp.803-831</ref>。 |
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計画はまず緊急な対応が迫られていた昭和10年9月洪水の被害地周辺部の堤防強化を優先、利根川応急増補工事として[[1937年]](昭和12年)に前倒しで開始された。渡良瀬遊水地は堤防建設を開始。利根運河は利根運河株式会社から内務省が運河を買収して利根川からの締切と掘削工事を開始、小貝川では岡堰の可動堰化工事などが開始されたが利根川放水路については用地買収が遅々として進まず、その上[[太平洋戦争]]の激化により予算・資材・人員不足が深刻化。増補計画は一時中断した状態で[[終戦]]を迎えた<ref>『利根川百年史』pp.820-860</ref>。このため利根川の治水は不完全な状態となり治水安全上の不安が憂慮されたが、それは戦後直ちに現実のものとなる。 |
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=== 利根特定地域総合開発計画 === |
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:''ダム事業に関する詳細は[[利根川水系8ダム]]、総合開発全体の流れについては[[河川総合開発事業]]をそれぞれ参照。'' |
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[[ファイル:Kathleen flood.png|200px|thumb|[[カスリーン台風]]における利根川氾濫図。[[東京都]][[江戸川区]]まで濁流が押し寄せた。]] |
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[[ファイル:Ikari-559-r1-2.JPG|200px|thumb|利根川水系初の[[洪水調節]]目的を持ったダム計画となった[[五十里ダム]](男鹿川)。]] |
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[[ファイル:Kyuichi Tokuda speech 1946.jpg|200px|thumb|[[徳田球一]]。彼の提案した利根川総合開発案には後年実現した事業も多い。]] |
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[[1947年]](昭和22年)9月、利根川流域を'''[[カスリーン台風]]'''が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与えた。特に利根川は現在の埼玉県加須市、旧[[大利根町]]付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都[[葛飾区]]・[[江戸川区]]にまで達した。また烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は日本全国で1,910名であったが利根川流域だけで1,100名が死亡している<ref>『利根川百年史』pp.874-880</ref>。当時の日本は治水事業の停滞と森林の乱伐による荒廃により各地で水害が頻発。人的・経済的被害は膨大なものとなっていた。水害の続発が敗戦で疲弊した日本経済にさらなる悪影響を及ぼすことを懸念した[[内閣]][[経済安定本部]]は、内務省解体後河川行政を継承した[[建設省]]に対し新たな河川改修計画の作成を命じた。これが河川改訂改修計画であり、日本の主要10水系<ref group="注">利根川のほかには[[北上川]]、[[鳴瀬川]]・[[江合川]]、[[最上川]]、信濃川、[[常願寺川]]、[[木曽川]]、淀川、吉野川、筑後川の各水系が指定された。信濃川と常願寺川以外はダム計画が立てられている。</ref>を対象に治水・砂防の総合的対策が検討された。この中で利根川は従来の利根川改修増補計画をさらに改定した'''利根川改訂改修計画'''が[[1949年]](昭和24年)に策定されたが、この際に導入されたのが[[ダム]]による治水対策である。 |
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既に利根川水系では1926年、鬼怒川支流の男鹿川に'''[[五十里ダム]]'''を建設する計画が立てられていたが、地質の問題や戦争などがあり事業は中断していた。しかしカスリーン台風の被害を受けて利根川の計画高水流量は毎秒1万7,000立方メートルに上方修正され、内毎秒1万4,000立方メートルを堤防、渡良瀬・田中・菅生・稲戸井の四遊水池および利根川放水路にて調節し、残り毎秒3,000立方メートルを上流のダム群で調節する方針が採られた。この時利根川上流域では19箇所のダム建設候補地が検討されたが、最終的に決定を見たのは'''[[藤原ダム|藤原]]'''・'''[[沼田ダム計画|沼田]]'''(利根川)、'''[[相俣ダム|相俣]]'''(赤谷川)、'''[[薗原ダム|薗原]]'''([[片品川]])、'''[[八ッ場ダム|八ッ場]]'''(吾妻川)、'''[[下久保ダム|坂原]]'''([[神流川 (利根川水系)|神流川]])の6ダム計画であった。また鬼怒川では五十里ダムに加え'''[[川俣ダム]]'''(鬼怒川)が、渡良瀬川では'''[[草木ダム]]'''の前身にあたる神戸ダム(渡良瀬川)が計画される。これらのダム計画は[[1956年]](昭和31年)の五十里ダムを皮切りに藤原([[1957年]])、相俣([[1959年]])の各ダムが完成し、ダム事業は進展を見る。一方下流部においては新規に[[常陸利根川]]拡幅を主軸とする霞ヶ浦放水路、小貝川付替、利根川河口導流堤、[[行徳可動堰]](江戸川)などの計画が立てられた<ref>『利根川百年史』pp.923-960</ref>。 |
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この当時治水に並ぶ喫緊の課題としては極端な食糧と電力の不足があり、これを解決させるために1926年[[東京帝国大学]][[教授]]だった[[物部長穂]]が提唱した河水統制という概念が戦前より内務省によって河水統制計画として[[錦川]]などで始まり、戦後[[テネシー川流域開発公社]](TVA)を模範とした[[河川総合開発事業]]として治水のほか[[水力発電]]、灌漑などを目的に積極的に進められていた。こうした河川開発を強力かつ広範囲に実施すべく[[1950年]](昭和25年)、当時の[[第3次吉田内閣]]は[[国土総合開発法]]を制定し日本の22地域<ref group="注">22地域の詳細は[[河川総合開発事業#特定地域総合開発計画]]を参照</ref>を対象とした特定地域総合開発計画を推進。利根川水系も対象地域に指定され翌[[1951年]](昭和26年)12月に'''利根特定地域総合開発計画'''が[[閣議]]決定された<ref>『利根川百年史』p.1208</ref>。これ以降利根川の河川事業は利根川水系全体にわたり、治水・利水の両面を目的とした総合開発計画に移行する。 |
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利根川水系における河川総合開発は1936年に当時の[[東京市]]が主体となって実施した江戸川河水統制事業が最初であり、江戸川水閘門を利用して新規用水を確保するものであった<ref>『利根川百年史』pp.1243-1244</ref>。続いて群馬県が水力発電を主目的として利根川最上流部にダムを建設する群馬県利根川河水統制計画を1937年に着手、これに1940年東京市による東京市第三次水道拡張事業の水源として共同参加したが、戦争により実現には至らなかった<ref>『利根川百年史』pp.1380-1382</ref>。戦後利根川改訂改修計画の策定で治水事業が先行したが、利根特定地域総合開発計画の立案により大規模河川総合開発へと発展した。同計画は改訂改修計画の治水・砂防事業に加え計画ダム群の[[多目的ダム]]化、[[尾瀬原ダム計画|尾瀬原ダム]](只見川)から片品川への導水(尾瀬分水)を含む水力発電計画、印旛沼・手賀沼干拓、[[両総用水]]建設([[1970年]])、および[[国道4号]]、[[国道6号]]などの道路網整備を包括した大規模事業であり、この計画において現在首都・東京の最大の水源である'''[[矢木沢ダム]]'''(利根川)が初登場する<ref>『国土総合開発特定地域の栞』pp.25-31</ref>。 |
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なおこの頃利根川の治水や利水について様々な案が提唱された。その一例として[[日本共産党]][[書記長]]であった[[徳田球一]]による案がある。徳田は1949年に『利根川水系の綜合改革 - [[社会主義]]建設の礎石 - 』という冊子を発表。その中で利根川の惨状は封建[[徳川氏|徳川]]と[[帝国主義]][[天皇制]]の責任であると断じた上で<ref>『利根川水系の綜合改革』p.3</ref>利根川放水路・霞ヶ浦放水路・小貝川付替による下流部治水に加え、江戸川・古利根川・元荒川を大拡張し、さらに埼玉県[[本庄市]]から東京都[[立川市]]まで利根川と[[多摩川]]を連結する大[[運河]]を設けて水運と灌漑、[[上水道]]・[[工業用水道]]に利用。[[房総半島]]では利根川と房総半島の小河川を繋ぐ運河を千葉県[[茂原市]]まで建設して積極的な干拓を図るとした。また山間部には多数のダムを積極的に建設するほか[[ソビエト連邦]]より大量の木材を輸入して植林を図ることも重要であると論じた<ref>『利根川水系の綜合改革』pp.5-18</ref>。費用については[[独占資本]]家や大ヤミ業者から8,000億円を徴収することで賄えるとも述べている<ref>『利根川水系の綜合改革』p.30</ref>。この案は建設省によって採用されたものではないが、後年徳田の構想に近似した形で[[武蔵水路]]や[[房総導水路]]が建設されている。 |
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=== 利根川水系水資源開発基本計画 === |
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[[ファイル:Yagisawa-612-r1.jpg|200px|thumb|[[矢木沢ダム]](利根川)。利根川水系最大の貯水容量を持つ、東京都の水源である。]] |
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[[ファイル:Gyoda Tone River Toneozeki 1.jpg|200px|thumb|利根大堰取水口。ここから[[武蔵水路]]・見沼代用水・[[埼玉用水路]]が取水され首都圏へ送水される。]] |
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利根特定地域総合開発計画が進められていた当時の日本は[[朝鮮戦争]]に伴う[[特需景気]]以降経済成長が著しく、[[高度経済成長]]に突き進み始める時代だった。経済成長は急激な工業用水道需要の増大を招いたほか、人口も東京を中心に増加が顕著となり上水道需要も次第にひっ迫するに至った。[[1957年]](昭和32年)には東京都の水源として[[小河内ダム]]が多摩川に完成するも、需要はさらに増加し遂には[[1964年]](昭和39年)東京砂漠と呼ばれる東京都大[[渇水]]が起きる。また農業技術の進歩は耕地拡大を加速させ農業用水の不足を招き、こうした状況下で[[1958年]](昭和33年)利根川下流域を中心とした[[昭和33年塩害]]が発生。農地への被害が甚大となった。こうした理由もあり豊富な水量を持つ利根川水系の水利用が緊急の課題となる。 |
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1961年水資源開発促進法が制定され翌[[1962年]](昭和37年)水資源開発公団、現在の[[独立行政法人]][[水資源機構]]が発足。利根川と淀川を対象とした水資源広域総合開発が開始された<ref group="注">現在は利根川、淀川のほか荒川、[[豊川]]、木曽川、吉野川、筑後川の各水系が開発対象となっている。</ref>。公団は'''利根川水系水資源開発基本計画'''を策定して水系の水資源総合開発に着手した。まず矢木沢ダム([[1967年]])と[[下久保ダム]](神流川。[[1968年]])を水源とし中流部に[[利根大堰]]を建設([[1969年]])、利根導水路(武蔵水路・朝霞水路)建設により利根川と荒川を連結して[[東京都水道局]]の[[三郷浄水場]]へ導水して東京都への水需要を満たす方針とした。これら施設のほか公団は利根川下流に[[利根川河口堰]]([[1971年]])を建設し[[塩害]]防止と首都圏の水供給を強化するほか、上流部には[[群馬用水]]を建設(1969年)し赤城山・榛名山麓の新規開墾を促進させ、中流部では見沼代用水や[[埼玉用水路]]の整備による関東中央部の灌漑強化、印旛沼開発による印旛沼干拓(1968年)、房総導水路([[1997年]])による房総半島中南部への利水を次々と実施した<ref>『水資源開発公団30年史』pp.110-170</ref><ref>[http://www.water.go.jp/kanto/bouso/03rekishi/s03.htm 独立行政法人水資源機構房総導水路管理所『房総導水路の歴史』]2011年5月7日閲覧</ref>。さらに日本第二の湖沼である霞ヶ浦も首都圏の水がめとすべく[[常陸川水門]]([[1963年]])を利用してダム化する霞ヶ浦総合開発事業も実施([[1996年]])<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/kasumi/rekishi/ri_kaihatsu.htm 国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所『霞ヶ浦開発事業』]2011年5月7日閲覧</ref>。草木ダム([[1976年]])、[[奈良俣ダム]](楢俣川。[[1991年]])なども完成し首都・東京を中心とした首都圏の治水・利水が強化された。なお利根導水路により利根川水系と荒川水系が連結されたことで、両水系を一体化した総合開発が不可欠になったことから[[1974年]](昭和49年)本計画は'''利根川・荒川水系水資源開発基本計画'''と改組された。 |
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利根川は1964年の河川法改訂により一級河川に指定され、以後建設省を中心とした治水事業が継続して実施された。[[1965年]](昭和40年)治水の新指針となる'''利根川水系工事実施基本計画'''が策定され、以降数度に及ぶ改定が行われ現在は毎秒2万2,000立方メートルを[[治水|基本高水流量]]として改修を行っている。この間渡良瀬遊水地の調節池化が1997年に完成、さらに遊水地内に貯水池を設けて多目的ダム化する[[渡良瀬遊水地#谷中湖|渡良瀬貯水池]]が[[1989年]]([[平成]]元年)完成し治水・利水が強化された。田中調節池(1965年)、菅生調節池(1960年)といった遊水池も完成<ref>『利根川百年史』pp.1067-1069</ref>。ダムでは薗原ダム(1965年)、川俣ダム(1965年)、[[川治ダム]](鬼怒川。[[1983年]])が完成し首都圏の治水・利水に供されている。また[[内水氾濫]]の防止、新規用水の確保と[[水質汚濁]]が顕著だった手賀沼の水質改善を目的に利根川と江戸川を結ぶ多目的[[人工河川]](流況調整河川)である利根川広域導水事業・[[北千葉導水路]]([[2000年]])が建設された。なおこの事業において利根運河が野田導水路として[[1978年]](昭和53年)に復活している。さらに中川、大落古利根川などの洪水を江戸川に流下させるため[[2007年]](平成18年)には世界最大級の地下河川である[[首都圏外郭放水路]]が完成している<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/project/gaikaku/frame_index.html 国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所『首都圏外郭放水路』]2011年5月7日閲覧</ref>。 |
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利根川および利根川水系は連綿と続いた治水・利水事業により日本の経済活動上・国民生活上極めて重要な河川として大きな位置を占めている。現在'''利根川水系河川整備計画'''の策定が国土交通省により進められているが、その前段階として'''利根川水系河川整備基本方針'''が示されている。この方針では堤防・護岸整備や既存の河川施設を維持・整備するほか、八ッ場ダム、湯西川ダム(湯西川)、[[南摩ダム]](南摩川)などの多目的ダム事業、稲戸井調節池(利根川)そして利根川放水路計画の施工を盛り込んでいる<ref name="kasen25">『利根川水系河川整備基本方針』基本高水等に関する資料 p.25</ref>。 |
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=== 開発と地域摩擦 === |
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:''[[足尾鉱毒事件]]、[[沼田ダム計画]]、[[八ッ場ダム]]、[[中止したダム事業]]の項目も参照。'' |
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[[ファイル:Shozo Tanaka.jpg|200px|thumb|[[田中正造]]。[[足尾鉱毒事件]]の解決に生涯を費やし、渡良瀬遊水地建設にも反対した。]] |
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[[ファイル:Yanba-624-r1.jpg|200px|thumb|2006年時点における[[八ッ場ダム]]サイト予定地([[吾妻川]])。1952年の計画発表以来未だ完成していない。]] |
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[[ファイル:Maehara Seiji-1.jpg|200px|thumb|[[鳩山由紀夫内閣]]の[[国土交通大臣]]であった[[前原誠司]]。彼の打ち出した八ッ場ダム事業中止は流域自治体からの強い反発を受けた。]] |
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利根川の河川開発により、流域住民は恩恵を受けた一方で開発に伴う様々な犠牲や、流域住民間さらには自治体間の対立など問題が生じた。 |
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現在の埼玉県熊谷市付近に[[1592年]](天正20年)建設が開始された'''中条堤'''は、従来からあった自然堤防を増築するなどして形成された堤防である。この堤防は幾つかの堤防と連携し洪水の際は堤防上流部に貯水を行い、その後水位が低下すると共に自然に利根川へと流出する遊水池の役割も果たす機能を有する。その洪水調節量は毎秒4,000立方メートルと現在の[[利根川水系8ダム|利根川上流ダム群]]に匹敵する処理能力を持ち、容量を超えた分は越流堤を介して忍方面へ流す。このため堤防を境として上流部の上郷地区、下流の下郷地区では堤防の運用について利害が相反し常に対立していた。すなわち上郷地区では中条堤の高さを出来るだけ低くして洪水の被害を避けたいとする一方、下郷地区では逆に高くして洪水被害を避けようと考えたため、堤防決壊後の修復では激しく対立した。江戸時代には幕府の絶対的統制下で両地区合同の中条堤組合が作られ、対立は最小限に食い止められたが明治に入り中央の統制力が弱まると、中条堤に替わる新堤防建設を求める上郷と堤の維持・強化を求める下郷が激しく対立。遂には警官隊と住民の衝突や[[埼玉県知事]]の不信任決議が埼玉県議会で採択されるなどの事態に発展した。最終的に内務省が利根川改修計画の一環として今日見られる連続堤防方式での治水計画による改修を行ったことにより事態は収拾されたが、高度な治水機能を有していた中条堤の機能はこれにより損なわれた<ref>『利根川百年史』pp.516-523</ref>。また利根川改修増補計画以降挙げられていた'''小貝川付替計画'''は、新河道のルートとなる[[北相馬郡]]布川町(現在の[[利根町]])を中心に猛烈な反対が起こり、[[1953年]](昭和28年)11月には取材に来ていた[[朝日新聞]]・[[読売新聞]]・[[毎日新聞]]などの記者団が大勢の地元住民によって[[暴行]]・[[監禁]]される事件も発生。最終的に[[1980年]](昭和55年)の治水計画改訂時に付替計画は廃止され、堤防補強を行うことになった<ref>『利根川百年史』pp.950-951</ref>。 |
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一方ダムや遊水池建設に伴う住民移転などの犠牲も河川事業の拡大に伴い増加した。'''渡良瀬遊水地'''は当初治水に加え'''[[足尾鉱毒事件]]'''の[[鉱毒]]対策として計画されたが、建設予定地に擬された栃木県[[下都賀郡]][[谷中村]](現在の[[栃木市]])の約300[[世帯]]を移転させる事態となり、[[田中正造]]らの反対運動も起こったが結局[[土地収用法]]による[[強制執行]]などの手段も駆使した結果村民は各所へ散り、谷中村は廃村となった<ref>『利根川百年史』pp.564-569</ref>。また戦後の利根川改定改修計画で計画された藤原ダムでは建設省が地元住民の了解を得ずに工事を開始したことに水没住民が態度を硬化、群馬県の仲裁や新しく赴任したダム工事事務所長の誠意ある態度により軟化するまで激しい反対闘争をひき起こした<ref>『湖水を拓く』pp.20-21</ref>。片品川の薗原ダムでも[[老神温泉]]が一部水没するなどしたため反対運動が激化、当時[[蜂の巣城紛争]]として日本全国に知れ渡った[[松原ダム|松原]](筑後川)・[[下筌ダム]](津江川)反対闘争と並び「東の薗原、西の松原・下筌」と表現された<ref>『利根川百年史』p.1379</ref>。さらに吾妻川の'''八ッ場ダム'''では[[川原湯温泉]]水没に地元が猛反発し[[1952年]](昭和27年)の計画発表から現在に至るまで約60年経っても完成できない状況となっている。そして利根川上流ダム群の中核に模されていた'''沼田ダム計画'''は、水没世帯数2,200世帯という類例のない規模となることから水没予定地の[[沼田市]]のみならず群馬県も反対。[[1972年]](昭和47年)[[第1次田中角栄内閣]]により計画は断念された<ref>『沼田市史 通史編三』pp.649-652</ref>。こうした水没地域への生活保護対策として[[1973年]](昭和48年)[[水源地域対策特別措置法]]が施行され、川治ダムなど<ref group="注">川治ダム以外では八ッ場ダム、桐生川ダム([[桐生川]])、南摩ダム(南摩川)、湯西川ダム(湯西川)および霞ヶ浦開発が対象となっている。</ref>が指定対象となり補償金かさ上げや地域開発などが行われたほか下流受益地の都県からの拠出金により[[財団法人]]利根川・荒川水源地域対策基金が1976年に設立され、水没地域に対する助成が行われている<ref>『利根川百年史』p.1353</ref>。 |
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他方で広域河川開発に伴う受益地同士による利害対立も顕在化した。利根川改修増補計画で登場した利根川放水路計画はカスリーン台風の被害が深刻だった東京都と埼玉県が強く推進したのに対し、手賀沼や印旛沼などの開発に支障を来たすことを懸念した千葉県との間で意見の相違があり、用地買収や莫大な事業費捻出問題もあり事業は進展しなかった。そのうち放水路建設予定地は宅地化や農地化が高度になされて放水路の建設は極めて困難となり、現在まで未着工となっている<ref>『利根川百年史』pp.945-946</ref>。また尾瀬原ダムより利根川水系へ分水する尾瀬分水計画はダム計画自体の環境破壊に対する[[厚生省]](現在の[[厚生労働省]])、[[文部省]](現在の[[文部科学省]])、[[日本自然保護協会]]の反対に加えて只見川および合流先である阿賀野川の慣行[[水利権]]を持つ[[福島県]]と[[新潟県]]が分水に反発。分水を求める東京都など一都五県と激しく対立し福島・新潟県側には他の東北五県が加担して尾瀬分水は関東地方対[[東北地方]]の政治問題に発展した。この問題は[[1996年]](平成8年)に事業者である[[東京電力]]が[[尾瀬]]の水利権を放棄したことで終息する<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=223 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』水利権とダム(2) - 分水 -]2011年5月10日閲覧</ref><ref>[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/33-05_06/33-5_6-13272.pdf 尾崎三吉『尾瀬原・只見川・利根川の水力開発概要』土木学会誌第33巻5・6号]2011年5月10日閲覧</ref>。 |
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[[1990年代]]以降は環境保護や[[公共事業]]に対する厳しい日本国民の視線もあり、ダム事業を始めとする河川開発も批判の対象となった。こうした中で[[第2次橋本内閣]]による大規模公共事業縮小<ref group="注">この時に[[徳島県]]で建設省が進めていた[[細川内ダム計画]]([[那賀川]])が凍結、後に中止されている。以後大規模ダム事業の中止・凍結が相次ぐ。</ref>や[[第1次小泉内閣]]の「[[骨太の方針]]」により利根川水系でも[[戸倉ダム計画]](片品川)など多くのダム事業が中止された。そして[[2009年]](平成21年)の[[第45回衆議院議員総選挙]]で大勝した[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]は[[マニフェスト]]に「'''八ッ場ダム中止'''」を盛り込み、発足した[[鳩山由紀夫内閣]]の[[国土交通大臣]]・[[前原誠司]]は八ッ場ダム中止だけでなく計画・建設中の[[国土交通省直轄ダム]]事業の凍結を発表した<ref>国土交通省河川局河川計画課{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/yosan/gaiyou/yosan/h22/h22damjigyo.pdf 『新たな基準に沿った検証の対象とするダム事業を選定する考え方について』]}}2011年5月10日閲覧</ref>。しかしこの方針に下流受益地である東京都など一都五県の知事のみならずダム建設予定地である[[吾妻郡]][[長野原町]]や川原湯温泉組合が猛反発し、民主党政権と対立する状況になっている。また[[堤防#高規格堤防|高規格堤防]](スーパー堤防)について[[2010年]](平成22年)の[[事業仕分け (行政刷新会議)|事業仕分け]]で廃止が決定されたが、これに[[石原慎太郎]][[東京都知事]]が「必要」と異論を唱えている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110314/plc11031421450043-n1.htm 産経ニュース2011年3月14日記事]2011年5月10日閲覧</ref>。 |
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[[2008年]](平成20年)に[[内閣府]][[中央防災会議]]が発表した資料によれば、カスリーン台風と同じ洪水被害が発生した場合最悪で死者は最大3,800人、罹災者数は160万人に上ると推測している<ref>[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/suigai/080325kisya.html 内閣府中央防災会議『利根川の洪水氾濫時の死者数・孤立者数等の公表について』]2011年5月10日閲覧</ref>。このため[[河川工学]]の専門家からは「八ッ場ダムなどの治水公共事業は必要」とする意見も多い<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/TopIndex.html 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』]2011年5月10日閲覧</ref>。他方で[[市民団体]]が八ッ場ダムなどの事業負担金差し止め[[訴訟]]を起こし、係争している<ref>毎日新聞栃木版2011年3月25日記事</ref>。河川事業に対する多様な意見や政府の方針転換などもあり、日本最大級の河川における治水・利水事業は岐路を迎えている。 |
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== 河川施設 == |
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利根川および利根川水系では奈良時代より治水事業が開始され、江戸時代より本格的な利水事業が始まっているが水害は繰り返し流域を襲い、その被害額も次第に顕著なものとなっていた。東京が首都に定められて以降治水安全度の向上や人口増加、工業地帯拡張による水道需要・電力需要の増大、および新田開発や干拓による農地拡大を背景に利根川水系全体を見通した河川開発が求められるようになった。カスリーン台風以後利根川水系は多目的ダムを中心とした河川総合開発事業が展開され、現在利根川水系は日本の国民生活・経済活動上において重要な役割を担っている。本項目では利根川および利根川水系における[[ダム]]、[[堰]]、[[遊水池]]、水路([[放水路]]、[[用水路]]、導水路)、[[水力発電]]事業および[[砂防]]事業について記述する。 |
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=== ダム・堰 === |
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[[ファイル:Naramata Dam.jpg|200px|thumb|利根川水系ではダムの高さが最も高い[[奈良俣ダム]](楢俣川)。日本でも第4位の高さである。]] |
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記録上、完成年代が判明している利根川水系における最初の堰は1630年完成の'''岡堰'''(小貝川)、ダムでは1912年完成の'''[[黒部ダム (栃木県)|黒部ダム]]'''(鬼怒川)と'''[[逆川ダム]]'''(逆川)の水力発電用ダム群である。洪水調節目的のダムとしては1926年に当時の内務省が鬼怒川改修計画の一環として計画した'''五十里ダム'''(男鹿川)が最初であるが、終戦まで着工は見送られた。戦後カスリーン台風を受けて策定された一連の河川総合開発事業によって利根川水系には'''藤原ダム'''(利根川)を皮切りに多数のダム・堰が建設・改築され、首都圏の治水・利水に貢献している。建設中のダムは五十里ダムの人造湖・五十里湖に注ぐ湯西川に国土交通省が施工している'''湯西川ダム'''がある。しかし民主党政権のダム事業見直しによって、八ッ場ダム(吾妻川)、南摩ダム(南摩川)、倉渕ダム(烏川)など幾つかのダム事業が停滞している。 |
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ダムの高さでは'''奈良俣ダム'''(楢俣川)、[[ダム#諸元|総貯水容量]]では'''矢木沢ダム'''(利根川)が最大。なお'''[[丸沼ダム]]'''(大滝川)は日本で6基しかない[[バットレスダム]]の中では最大規模であり、国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0595 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』丸沼ダム]2011年5月14日閲覧</ref>。 |
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表記について、高さはメートル、総貯水容量は1,000立方メートルとする。水色欄はいわゆる利根川上流ダム群、黄色欄は工事中、桃色欄は2009年12月民主党政権による事業の再検討を求められている事業である。各ダムおよび用語についての解説は当該リンク参照。ダムデータについては[[財団法人]][[日本ダム協会]]『ダム便覧』を基にしている。 |
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=== 主な河川施設(ダム・堰など) === |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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!{{Nowrap|本流・<br/>一次支流}}<br /> |
!{{Nowrap|[[本流]]・<br/>一次[[支流]]}}<br /> |
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!二次支流<br /> |
!二次支流<br /> |
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!三次支流<br /> |
!三次支流<br /> |
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!四次支流<br /> |
!四次支流<br /> |
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!{{Nowrap|河川施設}}<br /> |
!{{Nowrap|河川施設}}<br /> |
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![[日本のダム#河川局長通達による分類|分類]]<ref>『利根川百年史』pp.1669-1670</ref><br/> |
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!型式<br /> |
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![[ダム#型式一覧|型式]]<br /> |
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!高さ<br /> |
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![[ダム#諸元|高さ]]<br /> |
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![[ダム#諸元|総貯水容量]]<br /> |
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!{{Nowrap|事業者}}<br /> |
!{{Nowrap|事業者}}<br /> |
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!完成年<br/> |
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!備考<br /> |
!備考<br /> |
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|-bgcolor="lightblue" |
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|利根川||||||||[[矢木沢ダム]]||||[[アーチ式コンクリートダム|アーチ]]||align="right"|131.0||align="right"|204,300||[[水資源機構]]||1967||[[ダム湖百選]] |
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|- |
|- |
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|利根川||||||||[[ |
|利根川||||||||[[須田貝ダム]]||Ⅰ||[[重力式コンクリートダム|重力]]||align="right"|72.0||align="right"|28,500||[[東京電力]]||1955||旧名楢俣ダム |
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|-bgcolor="lightblue" |
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|利根川||||||||[[藤原ダム]]||||重力||align="right"|95.0||align="right"|52,490||[[国土交通省]]||1957|| |
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|- |
|- |
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|利根川|||||||| |
|利根川||||||||小森ダム||Ⅳ||重力||align="right"|33.0||align="right"|855||東京電力||1958|| |
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|- |
|- |
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|利根川|||||||| |
|利根川||||||||綾戸ダム||||[[堰]]||align="right"|14.5||align="right"|-||東京電力||1928||<ref group="注">完成年は導水先である[[佐久発電所]]の運転開始年とする。</ref> |
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|- |
|- |
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|利根川|||||||| |
|利根川||||||||坂東大堰||||堰||align="right"|-||align="right"|-||[[土地改良区]]||1951||<ref>『利根川百年史』p.1233</ref> |
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|- |
|- |
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|利根川|||||| |
|利根川||||||||[[利根大堰]]||||堰||align="right"|-||align="right"|-||水資源機構||1968||[[武蔵大橋]] |
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|- |
|- |
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|利根川||||||||[[利根 |
|利根川||||||||[[利根川河口堰]]||||堰||align="right"|7.0||align="right"|90,000||水資源機構||1971|| |
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|-bgcolor="lightblue" |
|||
|楢俣川||||||||[[奈良俣ダム]]||||[[ロックフィルダム|ロックフィル]]||align="right"|158.0||align="right"|90,000||水資源機構||1991||ダム湖百選 |
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|- |
|- |
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| |
|赤谷川||||||||赤三調整池||Ⅳ||重力||align="right"|17.1||align="right"|19||[[東京発電]]||1966|| |
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|-bgcolor="lightblue" |
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|赤谷川||||||||[[相俣ダム]]||||重力||align="right"|67.0||align="right"|25,000||国土交通省||1959||ダム湖百選 |
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|- |
|- |
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| |
|薄根川||発知川||||||[[玉原ダム]]||Ⅳ||ロックフィル||align="right"|116.0||align="right"|14,800||東京電力||1981|| |
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|-bgcolor="lightblue" |
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|[[片品川]]||||||||[[薗原ダム]]||||重力||align="right"|76.5||align="right"|20,310||国土交通省||1965|| |
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|- |
|- |
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| |
|片品川||||||||平出ダム||Ⅲ||重力||align="right"|40.0||align="right"|1,400||[[群馬県]]||1964|| |
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|- |
|- |
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| |
|片品川||大滝川||(丸沼)||||[[丸沼ダム]]||Ⅳ||[[バットレスダム|バットレス]]||align="right"|32.1||align="right"|13,600||東京電力||1931||国の[[重要文化財]] |
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|- |
|- |
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| |
|[[吾妻川]]||||||||大津ダム||Ⅳ||重力||align="right"|19.6||align="right"|108||東京電力||1931|| |
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|-bgcolor="pink" |
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|吾妻川||||||||[[八ッ場ダム]]||||重力||align="right"|116.0||align="right"|107,500||国土交通省||未定|| |
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|- |
|- |
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| |
|吾妻川||(河道外)||||||[[鹿沢ダム]]||Ⅳ||[[アースダム|アース]]||align="right"|18.2||align="right"|5,628||東京電力||1927|| |
||
|- |
|- |
||
| |
|吾妻川||[[白砂川]]||||||白砂ダム||Ⅳ||重力||align="right"|26.8||align="right"|630||東京電力||1940|| |
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|-bgcolor="yellow" |
|||
|吾妻川||白砂川||湯川||||[[品木ダム]]||||重力||align="right"|43.5||align="right"|1,668||国土交通省||1965||[[ダム再開発事業|再開発]]中 |
|||
|-bgcolor="pink" |
|||
|吾妻川||万座川||||||万座ダム||||重力||align="right"|90.0||align="right"|8,900||国土交通省||未定||<ref>『河川開発』第78号pp.20-21</ref> |
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|- |
|- |
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| |
|吾妻川||鍛冶屋沢川||||||鍛冶屋沢ダム||Ⅳ||重力||align="right"|39.2||align="right"|257||東京電力||1929|| |
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|- |
|- |
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| |
|吾妻川||[[四万川]]||||||[[四万川ダム]]||||重力||align="right"|89.5||align="right"|8,600||群馬県||1999|| |
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|- |
|- |
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| |
|吾妻川||四万川||||||中之条ダム||Ⅲ||アーチ||align="right"|42.0||align="right"|1,180||群馬県||1959|| |
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|- |
|- |
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| |
|(河道外)||||||||真壁ダム||Ⅳ||重力||align="right"|26.1||align="right"|1,143||東京電力||1928|| |
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|- |
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|[[吾妻川]]||||||||大津ダム||重力||align="right"|19.6||align="right"|108||東京電力|| |
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|-bgcolor="pink" |
|-bgcolor="pink" |
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| |
|[[烏川]]||||||||倉渕ダム||||重力||align="right"|85.6||align="right"|11,600||群馬県||未定|| |
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|- |
|- |
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| |
|烏川||[[碓氷川]]||||||[[碓氷湖|坂本ダム]]||||重力||align="right"|36.3||align="right"|778||群馬県||1994|| |
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|- |
|- |
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| |
|烏川||碓氷川||霧積川||||霧積ダム||||重力||align="right"|59.0||align="right"|2,500||群馬県||1975|| |
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|- |
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|-bgcolor="yellow" |
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| |
|烏川||碓氷川||中木川||||[[中木ダム]]||Ⅳ||重力||align="right"|41.0||align="right"|1,600||[[安中市]]||1959||1979年再開発<ref>[http://www.city.annaka.gunma.jp/reiki_int/reiki_honbun/ar35405981.html 安中市中木ダム操作規程]2011年5月11日閲覧</ref> |
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|-bgcolor="pink" |
|-bgcolor="pink" |
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| |
|烏川||碓氷川||九十九川||増田川||増田川ダム||||ロックフィル||align="right"|76.3||align="right"|5,800||群馬県||未定|| |
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|- |
|- |
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| |
|烏川||[[鏑川]]||市野萱川||||市野萱川取水ダム||||重力||align="right"|25.0||align="right"|-||群馬県||1992|| |
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|- |
|- |
||
| |
|烏川||鏑川||市野萱川||相沢川||相沢川取水ダム||||重力||align="right"|16.5||align="right"|-||群馬県||1992|| |
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|- |
|- |
||
| |
|烏川||鏑川||市野萱川||屋敷川||屋敷川取水ダム||||重力||align="right"|16.0||align="right"|-||群馬県||1992|| |
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|- |
|- |
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| |
|烏川||鏑川||市野萱川||道平川||道平川ダム||||重力||align="right"|70.0||align="right"|5,100||群馬県||1992|| |
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|-bgcolor="pink" |
|||
|[[烏川]]||||||||倉渕ダム||重力||align="right"|85.6||align="right"|11,600||群馬県||事業見直し対象 |
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|- |
|- |
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|烏川|| |
|烏川||鏑川||南牧川||大仁田川||大仁田ダム||||重力||align="right"|54.4||align="right"|437||群馬県||2001|| |
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|- |
|- |
||
|烏川|| |
|烏川||鏑川||丹生川||||丹生ダム||Ⅳ||アース||align="right"|20.0||align="right"|1,400||群馬県||1952|| |
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|- |
|- |
||
|烏川|| |
|烏川||[[神流川 (利根川水系)|神流川]]||||||[[上野ダム]]||||重力||align="right"|120.0||align="right"|18,400||東京電力||2005|| |
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|-bgcolor=" |
|-bgcolor="lightblue" |
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|烏川|| |
|烏川||神流川||||||[[下久保ダム]]||||重力||align="right"|129.0||align="right"|130,000||水資源機構||1968||ダム湖百選 |
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|- |
|- |
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|烏川|| |
|烏川||神流川||||||[[神水ダム]]||Ⅳ||重力||align="right"|20.5||align="right"|235||群馬県||1967|| |
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|- |
|- |
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|烏川|| |
|烏川||神流川||塩沢川||||塩沢ダム||||重力||align="right"|38.0||align="right"|280||群馬県||1995|| |
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|- |
|- |
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| |
|[[早川 (群馬県)|早川]]||||||||早川ダム||Ⅳ||アース||align="right"|29.1||align="right"|900||土地改良区||1943|| |
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|- |
|- |
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| |
|[[小山川]]||間瀬川||||||間瀬ダム||Ⅳ||重力||align="right"|27.5||align="right"|560||土地改良区||1938|| |
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|-bgcolor="lightblue" |
|||
|[[渡良瀬川]]||||||||[[草木ダム]]||||重力||align="right"|140.0||align="right"|60,500||水資源機構||1976||ダム湖百選 |
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|- |
|- |
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| |
|渡良瀬川||||||||高津戸ダム||Ⅲ||重力||align="right"|29.0||align="right"|689||群馬県||1973|| |
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|-bgcolor="lightblue" |
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|渡良瀬川||||||||[[渡良瀬遊水地#谷中湖|渡良瀬貯水池]]||||堰||align="right"|8.5||align="right"|26,400||国土交通省||1990|| |
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|- |
|- |
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| |
|渡良瀬川||庚申川||||||庚申ダム||||重力||align="right"|29.0||align="right"|195||[[栃木県]]||1985|| |
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|- |
|- |
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| |
|渡良瀬川||黒坂石川||||||黒坂石ダム||Ⅲ||重力||align="right"|24.0||align="right"|117||群馬県||1980|| |
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|- |
|- |
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| |
|渡良瀬川||[[桐生川]]||||||桐生川ダム||||重力||align="right"|60.5||align="right"|12,200||群馬県||1982|| |
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|- |
|- |
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| |
|渡良瀬川||松田川||||||松田川ダム||||重力||align="right"|56.0||align="right"|1,800||栃木県||1995|| |
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|-bgcolor="pink" |
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|渡良瀬川||[[思川 (栃木県)|思川]]||南摩川||||[[南摩ダム]]||||ロックフィル||align="right"|86.5||align="right"|51,000||水資源機構||未定|| |
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|[[江戸川]]||||||||[[行徳可動堰]]||||堰||align="right"|-||align="right"|-||国土交通省||1957|| |
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|[[ |
|[[中川]]||[[権現堂川]]||||||[[行幸湖|権現堂調節池]]||||堰||align="right"|14.5||align="right"|4,113||[[埼玉県]]||1991|| |
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|- |
|- |
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|[[ |
|中川||[[元荒川]]||||||[[末田須賀堰]]||||堰||align="right"|-||align="right"|-||水資源機構||1994|| |
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|- |
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|[[ |
|[[鬼怒川]]||||||||[[川俣ダム]]||||アーチ||align="right"|117.0||align="right"|87,600||国土交通省||1966|| |
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|- |
|- |
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| |
|鬼怒川||||||||[[黒部ダム (栃木県)|黒部ダム]]||Ⅲ||重力||align="right"|33.9||align="right"|2,366||東京電力||1912||1987年再開発 |
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|- |
|- |
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| |
|鬼怒川||||||||[[川治ダム]]||||アーチ||align="right"|140.0||align="right"|83,000||国土交通省||1983|| |
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|- |
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| |
|鬼怒川||||||||小網ダム||Ⅲ||重力||align="right"|23.5||align="right"|627||栃木県||1958|| |
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|- |
|- |
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| |
|鬼怒川||||||||中岩ダム||Ⅲ||重力||align="right"|26.3||align="right"|1,488||東京電力||1924|| |
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|- |
|- |
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|鬼怒川||||||||佐貫[[頭首工]]||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1966||<ref name="kinu">[http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/04_ryuik/history2.htm 国土交通省関東地方整備局鬼怒川河川事務所『鬼怒川・小貝川の紹介』]2011年5月11日閲覧</ref> |
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|渡良瀬川||黒坂石川||||||黒坂石ダム||重力||align="right"|24.0||align="right"|117||群馬県|| |
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|鬼怒川||||||||岡本頭首工||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1986||<ref name="kinu"/> |
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|鬼怒川||||||||勝瓜頭首工||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1975||<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=475&p=2 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(61)~鬼怒川のダム(上)]2011年5月11日閲覧</ref> |
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|渡良瀬川||松田川||||||松田川ダム||重力||align="right"|56.0||align="right"|1,800||栃木県|| |
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|-bgcolor="pink" |
|||
|渡良瀬川||[[思川 (栃木県)|思川]]||南摩川||||[[南摩ダム]]||ロックフィル||align="right"|86.5||align="right"|51,000||水資源機構||事業見直し対象 |
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|- |
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| |
|鬼怒川||土呂部川||||||土呂部ダム||Ⅳ||重力||align="right"|21.6||align="right"|225||東京電力||1963|| |
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|- |
|- |
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| |
|鬼怒川||男鹿川||||||[[五十里ダム]]||||重力||align="right"|112.0||align="right"|55,000||国土交通省||1956|| |
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|-bgcolor="yellow" |
|||
|鬼怒川||男鹿川||湯西川||||湯西川ダム||||重力||align="right"|119.0||align="right"|75,000||国土交通省||2011|| |
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|- |
|- |
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| |
|鬼怒川||男鹿川||湯西川||三河沢川||三河沢ダム||||重力||align="right"|48.5||align="right"|899||栃木県||2003|| |
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|- |
|- |
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| |
|鬼怒川||逆川||||||[[逆川ダム]]||Ⅳ||アース||align="right"|18.2||align="right"|92||東京電力||1912|| |
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|- |
|- |
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|鬼怒川||||||||[[ |
|鬼怒川||[[砥川]]||||||[[今市ダム]]||||重力||align="right"|75.5||align="right"|9,100||東京電力||1988|| |
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|- |
|- |
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|鬼怒川||||||||[[ |
|鬼怒川||砥川||ネベ沢川||||[[栗山ダム (栃木県)|栗山ダム]]||||ロックフィル||align="right"|97.5||align="right"|7,070||東京電力||1988|| |
||
|- |
|- |
||
|鬼怒川|||||||| |
|鬼怒川||[[大谷川 (日光市)|大谷川]]||([[中禅寺湖]])||||中禅寺ダム||||重力||align="right"|6.4||align="right"|25,100||栃木県||1959||1998年再開発 |
||
|- |
|- |
||
|鬼怒川|||||||| |
|鬼怒川||白石川||||||[[西古屋ダム]]||Ⅳ||重力||align="right"|21.5||align="right"|547||東京電力||1963|| |
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|- |
|- |
||
|鬼怒川|||||||| |
|鬼怒川||[[田川 (利根川水系)|田川]]||田川放水路||||田川可動堰||||堰||align="right"|-||align="right"|-||国土交通省||1972||<ref>『利根川百年史』p.1051</ref> |
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|- |
|- |
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| |
|[[小貝川]]||||||||君島堰||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1976||<ref>『利根川百年史』p.1041</ref> |
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|- |
|- |
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| |
|小貝川||||||||[[福岡堰]]||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1722||1971年改築<ref>『利根川百年史』p.369</ref> |
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|- |
|- |
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| |
|小貝川||||||||岡堰||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1630||1996年改築<ref name="kinu"/> |
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|- |
|- |
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| |
|小貝川||||||||豊田堰||||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区||1667||1978年改築<ref name="kinu"/> |
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|- |
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|小貝川||松本川||||||大郷戸ダム||||アース||align="right"|27.7||align="right"|289||栃木県||1986|| |
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|- |
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|[[常陸利根川]]||[[桜川 (茨城県南部)|桜川]]||(河道外)||||南椎尾調整池||||ロックフィル||align="right"|27.4||align="right"|560||水資源機構||1991|| |
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|- |
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|[[黒部川 (千葉県)|黒部川]]||||||||黒部川総合開発||||-||align="right"|-||align="right"|1,060||千葉県||1989||<ref group="注">黒部川の川底を掘削して河道内の容量を増加させ、確保した容量を治水と上水道供給に利用する河川総合開発事業。</ref> |
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|- |
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|高田川||||||||白石貯水池||Ⅳ||アース||align="right"|19.5||align="right"|1,190||[[銚子市]]||1958|| |
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|- |
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|[[房総導水路]]||(真亀川)||(十文字川)||||[[東金ダム]]||||アース||align="right"|28.3||align="right"|2,300||水資源機構||1995|| |
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|- |
|||
|房総導水路||([[村田川]])||(村田川)||||[[長柄ダム]]||||アース||align="right"|52.0||align="right"|10,000||水資源機構||1993|| |
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|} |
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=== 遊水池・水門 === |
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[[ファイル:Hitachi river rocks.jpg|200px|thumb|利根川水系最大級の[[水門]]・[[常陸川水門]]([[常陸利根川]])。[[霞ヶ浦]]を堰き止めダム化することで[[首都圏]]の水需要を賄う。]] |
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利根川水系における遊水池としては[[1919年]](大正8年)完成の'''渡良瀬遊水地'''(渡良瀬川)が最初である。完成当時の渡良瀬遊水地は自然調節型の遊水池であったが、利根川改修増補計画で洪水調節池として改修が始まり、現在の第一・第二・第三調節池に拡張が完了したのは1997年と約80年にわたる事業であった。利根川本流には増補計画により'''田中調節池'''と'''菅生調節池'''という二つの遊水池が完成し、現在は'''稲戸井調節池'''が拡張事業を行っている。また小貝川は流域が平地主体でダム建設の適地がなく、洪水調節施設は存在しなかったが[[1986年]](昭和61年)の水害で茨城県[[下館市]](現・[[筑西市]])などが浸水被害を受けたため、1990年に流域初となる洪水調節施設・'''母子島'''(はこじま)'''遊水池'''が建設された<ref>『流域紀行 - 鬼怒・小貝』pp.54-59</ref>。利根川水系には大規模な遊水池が建設中のものを含めて'''5箇所'''存在し、一級水系では随一である。 |
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一方[[水門]]は明治時代以降の利根川改修計画において、利根川本流の洪水が支流や湖沼に逆流するのを防止するため建設されたものが多いが、当時は水運が盛んだったこともあり通行を妨げないための[[閘門]]も多く備えられていた。現存する日本最古の閘門・'''見沼通船堀閘門'''や国の重要文化財に指定されている'''[[横利根閘門]]'''(横利根川)といった土木史的に貴重なものもある。戦後は河川総合開発の観点で'''常陸川水門'''(常陸利根川)といった湖沼の水位を調整し治水のほか利水にも役立てる多目的の水門が建設されている。 |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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!{{Nowrap|[[本流]]・<br/>一次[[支流]]}}<br /> |
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!二次支流<br /> |
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!三次支流<br /> |
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!{{Nowrap|河川施設}}<br /> |
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![[ダム#型式一覧|型式]]<br /> |
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![[ダム#諸元|高さ]]<br /> |
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![[ダム#諸元|総貯水容量]]<br /> |
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!{{Nowrap|事業者}}<br /> |
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!完成年<br/> |
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!備考<br /> |
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|利根川||||||田中調節池||[[遊水池]]||align="right"|10.1||align="right"|68,200||[[国土交通省]]||1965||<ref name="100nenn935">『利根川百年史』p.935</ref> |
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|-bgcolor="yellow" |
|-bgcolor="yellow" |
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| |
|利根川||||||稲戸井調節池||遊水池||align="right"|11.1||align="right"|19,100||国土交通省||未定||<ref name="100nenn935"/><ref name="kasen31">『利根川水系河川整備基本方針』基本高水等に関する資料 p.31</ref> |
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|- |
|- |
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| |
|利根川||||||菅生調節池||遊水池||align="right"|12.1||align="right"|26,900||国土交通省||1960||<ref name="100nenn935"/> |
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|- |
|- |
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| |
|[[渡良瀬川]]||||||[[渡良瀬遊水地]]||遊水池||align="right"|-||align="right"|171,800||国土交通省||1919||1997年全事業完成<ref name="kasen31"/> |
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|- |
|- |
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|[[江戸川]]||||||[[関宿水門|関宿水閘門]]||[[水門]]||align="right"|-||align="right"|-||国土交通省||1927|| |
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| |
|江戸川||[[旧江戸川]]||||[[江戸川水閘門]]||水門||align="right"|-||align="right"|-||国土交通省||1943|| |
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|[[小貝川]]||||||母子島遊水池||遊水池||align="right"|-||align="right"|5,000||国土交通省||1990|| |
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|小貝川||谷田川||([[牛久沼]])||牛久沼水門||水門||align="right"|-||align="right"|14,000||国土交通省||1953||1978年改築<ref name="100nenn1615">『利根川百年史』p.1615</ref><ref group="注">貯水容量の1,400万立方メートルは牛久沼の治水容量である。</ref> |
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|鬼怒川||白石川||||||[[西古屋ダム]]||重力||align="right"|21.5||align="right"|547||東京電力|| |
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|- |
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|[[手賀川]]||([[手賀沼]])||||手賀沼水門||水門||align="right"|-||align="right"|5,600||[[農林水産省]]||1967||<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/suiho/kasentou/inbanuma/gaiyou/tega-risui.html 千葉県『手賀沼の諸元及び利水状況』]2011年5月28日閲覧</ref><ref>[http://tgn.sakura.ne.jp/Htm/Ph047_1.html 写真集『手賀沼』]2011年5月28日閲覧。写真中に河川占用許可看板がある。</ref> |
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|[[小貝川]]||||||||[[福岡堰]]||堰||align="right"|-||align="right"|-||土地改良区|| |
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| |
|長門川||([[印旛沼]])||||印旛水門||水門||align="right"|-||align="right"|19,700||国土交通省||1964||<ref name="100nenn1615"/><ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/suiho/kasentou/inbanuma/gaiyou/inba-risui.html 千葉県『印旛沼の諸元及び利水状況』]2011年5月28日閲覧</ref> |
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| |
|横利根川||||||横利根水門||水門||align="right"|-||align="right"|-||国土交通省||1971|| |
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| |
|横利根川||||||[[横利根閘門]]||水門||align="right"|-||align="right"|-||関東建設弘済会||1921||国の重要文化財<ref name="100nenn1615"/> |
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|- |
|- |
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| |
|[[常陸利根川]]||([[霞ヶ浦]])||||[[常陸川水門]]||水門||align="right"|-||align="right"|1,253,000||国土交通省||1968|| |
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|- |
|- |
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| |
|[[黒部川 (千葉県)|黒部川]]||||||黒部川水門||水門||align="right"|-||align="right"|-||[[水資源機構]]||1970|| |
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|} |
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=== 放水路・分水路 === |
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[[ファイル:Kasukabe2006 06 07.JPG|200px|thumb|[[首都圏外郭放水路]]の調圧水槽。]] |
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利根川は江戸時代の利根川東遷事業以降河川の付替えが活発に実施されたが、河水を安全に流下させたり、平野部を流れる支流や分流の内水氾濫を防ぐ目的で放水路や分水路の建設も積極的に実施された。1920年に'''江戸川放水路'''が開削されたのを皮切りに、主に江戸川・中川流域を中心にした放水路の建設が進められた。 |
|||
特に中川については平地主体でありダム建設の適地がないこと、下流に比べ上流域の流域面積が広く洪水の際には東京都内を中心に浸水被害の危険性が高く、カスリーン台風や[[狩野川台風]](1958年)で大きな被害を受けていることもあり放水路による治水対策が堤防建設と共に図られた。1933年に東京都と埼玉県が中川・綾瀬川・芝川三川総合改修増補計画に基づいて中川、綾瀬川、[[芝川]](荒川水系)に放水路を建設する計画を立て、戦争による中断を挟み1962年に中川と芝川の事業を完成させた。この時に開削されたのが中川と旧江戸川を繋ぐ'''新中川放水路'''([[新中川]])である<ref>『利根川百年史』p.1061</ref>。その後も[[内水氾濫]]防止を目的に中川と江戸川を連結する放水路整備が進められ、'''三郷'''・'''幸手'''・'''綾瀬川放水路'''さらには世界最大級の地下河川である'''首都圏外郭放水路'''が建設されており、中川流域には5本の放水路が存在している。 |
|||
一方利根川本流に計画されている'''利根川放水路'''は1938年の利根川改修増補計画で我孫子市から印旛沼を経由し検見川を結ぶ昭和放水路計画として初登場し、以後利根川改訂改修計画・利根特定地域総合開発計画でも採用されたが莫大な事業費と流域の都市化による補償問題の難航が予想されることで手付かずとなり、長らく「幻の計画」であった。この間印旛沼の治水を目的に'''印旛放水路'''が建設されているが、利根川水系河川整備基本方針によって長門川・印旛放水路を拡幅し、印旛沼を洪水調節池に利用する形で利根川下流の治水を図る新放水路計画として再度事業化の方向性が示されている<ref name="kasen25"/>。 |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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|- |
|- |
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!style="width:5em;"|所在地 |
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|[[印旛沼]]||||||||[[印旛放水路]]||[[放水路]]||align="right"|-||align="right"|-||[[千葉県]]||[[花見川]] |
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!style="width:6em;"|河川 |
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!style="width:10em;"|名称 |
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!style="width:8em;"|管理者 |
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!style="width:5em;"|完成年 |
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!備考 |
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|-bgcolor="yellow" |
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|[[千葉県]]||利根川||利根川放水路||[[国土交通省]]||未定||align="left"|1939年より計画されたが補償問題や工事費高騰などで着手できず。基本方針で修正案が立案された。 |
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|- |
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|[[栃木県]]||[[渡良瀬川]]||岩井分水路||国土交通省||1967||align="left"|[[足利市]]の岩井山で湾曲する渡良瀬川の流下能力を増強するため、岩井山北部に建設された分水路。 |
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|横利根川||||||||[[横利根閘門]]||水門||align="right"|-||align="right"|-||国土交通省||国の重要文化財 |
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|- |
|- |
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|千葉県||[[江戸川]]||関宿高水路||国土交通省||1927||align="left"|江戸川が利根川より分流する[[野田市]]関宿地点の流下能力を増強するため、[[関宿水門]]と共に建設された分水路。 |
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|[[常陸利根川]]||[[霞ヶ浦]]||||||[[常陸川水門]]||水門||align="right"|-||align="right"|1,253,000||国土交通省|| |
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|- |
|- |
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|千葉県||江戸川||江戸川放水路||国土交通省||1920||align="left"|1964年の[[河川法]]改訂時に江戸川の本流に定められる。 |
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|常陸利根川||霞ヶ浦||桜川||(河道外)||南椎尾調整池||ロックフィル||align="right"|27.4||align="right"|560||[[農林水産省]]|| |
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|- |
|- |
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|[[埼玉県]]||[[中川]]||幸手放水路||埼玉県||1999||align="left"|中川上流の流下能力を増強させるため中川・江戸川間を連結する放水路<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/page/kasen.html 埼玉県杉戸県土整備事務所『河川の改修や排水機場の管理など』中川上流排水機場・幸手放水路について]2011年5月16日閲覧</ref>。 |
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|黒部川||||||||黒部川総合開発||-||align="right"|-||align="right"|1,060||千葉県||自流水貯留 |
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|- |
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|埼玉県||中川||[[三郷放水路]]||国土交通省||1978||align="left"|中川中流の流下能力を増強させるため中川・江戸川間を連結する放水路。中川の浄化にも利用<ref>『利根川百年史』pp.1101-1105</ref>。 |
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|黒部川||||||||黒部川水門||水門||align="right"|-||align="right"|-||水資源機構|| |
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|- |
|- |
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|埼玉県||中川||[[首都圏外郭放水路]]||国土交通省||2006||align="left"|中川、[[大落古利根川]]などの洪水を地下トンネルへ導水し、江戸川へ放流する地下放水路。 |
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|高田川||||||||白石貯水池||アース||align="right"|19.5||align="right"|1,190||[[銚子市]]|| |
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|- |
|- |
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|[[東京都]]||中川||[[新中川|新中川放水路]]||国土交通省||1962||align="left"|現在の[[新中川]]。中川下流の流下能力を増強させるため中川・[[旧江戸川]]間を連結する放水路。 |
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|[[房総導水路]]||(真亀川)||(十文字川)||||[[東金ダム]]||アース||align="right"|28.3||align="right"|2,300||水資源機構|| |
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|- |
|- |
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|埼玉県||[[綾瀬川]]||[[綾瀬川放水路]]||国土交通省||1996||align="left"|綾瀬川の流下能力を増強させるため綾瀬川・中川間を連結する放水路。綾瀬川の浄化にも利用<ref>[http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000003200/hpg000003157.htm 草加市『綾瀬川放水路』]2011年5月30日閲覧</ref>。 |
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|房総導水路||([[村田川]])||(長柄川)||||[[長柄ダム]]||アース||align="right"|52.0||align="right"|10,000||水資源機構|| |
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|- |
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|栃木県||[[田川 (利根川水系)|田川]]||田川放水路||国土交通省||1972||align="left"|田川の流下能力を増強させるため田川可動堰と共に建設された放水路。 |
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|- |
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|千葉県||[[印旛沼]]||[[印旛放水路]]||千葉県||1969||align="left"|印旛沼総合開発事業の一環として印旛沼の治水目的に建設された放水路。新川・[[花見川]]と通称される。 |
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|千葉県||[[小野川 (千葉県)|小野川]]||小野川放水路||千葉県||2004||align="left"|[[香取市]]を流れる都市河川・小野川の内水氾濫防止を目的に建設された放水路<ref>[http://h-crisis.niph.go.jp/system/files/uploaded/468196/20080801154204959.pdf 千葉県土整備部河川環境課『平成16年千葉県水害報告書』第6章治水施設の効果について(1)小野川放水路 2007年]2011年5月16日閲覧</ref> |
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|} |
|} |
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:[[2010年]]時点におけるデータ。黄色欄は工事中、桃色欄は[[民主党]]政権により[[2009年]]12月に事業見直し指定を受けたダム事業。 |
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=== 用水路・導水路 === |
=== 用水路・導水路 === |
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[[ファイル:Musashi suiro gyoda city.JPG|200px|thumb|[[武蔵水路]]。利根川から荒川へ導水し東京都に水を供給する。]] |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
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利根川水系における用水路事業は、[[1526年]]([[大永]]元年)に[[長野業正]]が拡張した烏川の'''長野堰用水'''が記録上の初見となる<ref group="注">『疏水名鑑』では1000年以上前に長野康業が開削したと記すが、『群馬県史』などの長野氏関連文献に康業の名は確認できない。史料上で長野氏の動向が確認できるのは室町時代後期以降である。また1526年当時の長野氏当主も諸説ある。詳細は[[上野長野氏]]を参照。</ref><ref>[http://www.inakajin.or.jp/sosui_old/gunma/a/375/index.html 農林水産省『疏水名鑑』 - 長野堰用水 - ]2011年5月14日閲覧</ref><ref>『利根川百年史』p.1232</ref>。江戸時代には関東郡代伊奈氏や井沢為永といった幕臣により'''備前渠用水'''、'''葛西用水路'''、'''見沼代用水'''などの大規模農業用水路が整備され、新田が飛躍的に開発された。戦後の食糧増産体制や農業技術の進歩による耕地拡大で農業用水不足が顕在化し、対策として'''[[両総用水]]'''や'''[[大利根用水]]'''、さらに利根川上流ダム群を水源とする'''房総導水路'''などが建設された。また従来からある農業用水路の合理化・取水口の統廃合も行われ(合口)、'''[[埼玉用水路]]'''・邑楽用水路・坂東大堰用水などの合口用水路も整備された。地域における重要な水道施設である用水路の幾つかは、[[疏水百選]]に認定されている<ref>[http://www.inakajin.or.jp/sosui_old/hyakusen/hyakusen1.html 農林水産省『疏水名鑑』疏水百選]2011年5月14日閲覧</ref>。 |
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一方導水路としては'''武蔵水路'''が荒川との間を連結する形で建設され東京都に水道を供給するほか、治水・利水・手賀沼浄化を目的とした'''北千葉導水路'''が利根川・江戸川間を連結している。北千葉導水路建設に先立ち'''利根運河'''が「野田緊急暫定導水路」として代替役割を担う形で1978年に復活、北千葉導水路完成後も地域の憩いの場として整備されている。ただし利根川と霞ヶ浦、そして[[那珂川]]を連結して霞ヶ浦の浄化と首都圏への新規利水を目的に建設中の'''[[霞ヶ浦導水事業]]'''は、那珂川の水質悪化を懸念する栃木県・茨城県那珂川[[漁業協同組合]]が事業差し止め訴訟を起こすなど頑強な反対運動を起こしており<ref>[http://zenryuuren.com/index.php?id=48 全国流域連絡会議]2011年5月14日閲覧</ref>、事業は進捗していない。 |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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!style="width:5em;"|所在地 |
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!用水路名 |
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!style="width:6em;"|河川 |
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!所在地 |
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!style="width:10em;"|名称 |
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!事業者 |
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!style="width:8em;"|管理者 |
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!style="width:5em;"|完成年 |
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!style="width:10em;"|水源 |
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!style="width:9em;"|取水口 |
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!備考 |
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|[[群馬県]]||利根川||[[群馬用水]]||[[水資源機構]]||1969||[[利根川水系8ダム|利根川上流ダム群]]||(綾戸ダム)||align="left"|[[東京電力]]綾戸ダム湖に取水口を設置し取水。[[疏水百選]]。 |
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|群馬県||利根川||坂東大堰用水||[[土地改良区]]||1951||||坂東大堰||align="left"|広瀬・桃木・天狗岩・大正・中群馬用水を統合(合口)。広瀬用水は疏水百選。 |
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|[[埼玉県]]||利根川||[[備前渠用水]]||土地改良区||1604||||||align="left"|[[伊奈忠次]]建設。疏水百選。 |
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|埼玉県||利根川||[[見沼代用水]]||土地改良区||1728||利根川上流ダム群||[[利根大堰]]||align="left"|[[井沢為永]]建設。1969年利根大堰に取水口を変更。疏水百選。 |
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|埼玉県||利根川||[[埼玉用水路]]||土地改良区||1969||利根川上流ダム群||利根大堰||align="left"|[[葛西用水路|葛西]]・羽生領・古利根用水などを統合。1995年・2003年に改築。葛西用水路は疏水百選。 |
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|埼玉県||利根川||[[武蔵水路]]||水資源機構||1969||利根川上流ダム群||利根大堰||align="left"|[[荒川 (関東)|荒川]]に連結し[[秋ヶ瀬取水堰]]で朝霞水路に導水し東京都へ送水。 |
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|- |
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|群馬県||利根川||邑楽用水路||土地改良区||1969||利根川上流ダム群||利根大堰||align="left"|利根加・明和・北川辺用水を統合。 |
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|[[千葉県]]||利根川||[[大利根用水]]||土地改良区||1951||||||align="left"|1992年改築。疏水百選。 |
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|千葉県||利根川||北総東部用水||水資源機構||1971||利根川上流ダム群|||| |
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|千葉県||利根川||成田用水||土地改良区||1971||[[川治ダム]]||||align="left"|[[成田空港]]周辺整備関連事業。 |
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|千葉県||利根川||[[両総用水]]||[[農林水産省]]<br/>水資源機構<br/>土地改良区||1967||||||align="left"|疏水百選。 |
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|千葉県||利根川||[[房総導水路]]||水資源機構||1997||利根川上流ダム群||||align="left"|千葉県[[大多喜町]]まで導水。[[長柄ダム]]・[[東金ダム]]で貯留。 |
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|千葉県||利根川||東総用水||水資源機構<br/>土地改良区||1989|||||| |
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|群馬県||[[烏川]]||長野堰用水||土地改良区||1526||||長野堰||align="left"|完成年は史料上確認できる[[長野業正]]による改築年とする。疏水百選。 |
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|- |
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|群馬県||[[神流川 (利根川水系)|神流川]]||埼玉北部用水||農林水産省||1954||[[下久保ダム]]||神流川頭首工||align="left"|1980年改築。下久保ダムの[[放流 (ダム)#不特定利水|不特定利水]]供給分を利用。 |
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|- |
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|群馬県||[[渡良瀬川]]||渡良瀬沿岸用水||土地改良区||1984||[[草木ダム]]||大間々頭首工<br/>太田頭首工<br/>邑楽頭首工||align="left"|岡登・待矢場・三栗谷用水などを統合。疏水百選。 |
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|千葉県||利根川<br/>[[江戸川]]||[[利根運河]]||国土交通省||1890||||||align="left"|旧名派川利根川。 |
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|千葉県||利根川<br/>江戸川||[[北千葉導水路]]||国土交通省||2000||||||align="left"|流況調整河川。 |
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|茨城県||[[霞ヶ浦]]||霞ヶ浦用水||水資源機構<br/>土地改良区||1994||霞ヶ浦||||align="left"|霞ヶ浦・[[鬼怒川]]間を連絡する用水路。南椎尾調整池で貯留。 |
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|-bgcolor="pink" |
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|茨城県||利根川<br/>霞ヶ浦<br/>[[那珂川]]||[[霞ヶ浦導水事業|霞ヶ浦導水]]||国土交通省||未定||||||align="left"|現在事業見直し。那珂川・桜川([[水戸市]])間のみ運用中。 |
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|} |
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=== 水力発電事業 === |
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:''[[水力発電]]、[[揚水発電]]、[[電力会社管理ダム#東京電力]]の項目も参照。'' |
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[[ファイル:Matou Suiryoku.jpg|200px|thumb|利根川水系では[[帝国繊維|下野麻紡績]]所野発電所と並ぶ最初期の[[水力発電所]]、[[足尾銅山]]間瀬原動所跡。]] |
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[[ファイル:Yagisawa power station.jpg|200px|thumb|[[東京電力]][[矢木沢ダム#矢木沢発電所|矢木沢発電所]]。利根川水系における[[揚水発電]]の端緒となった。]] |
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利根川および利根川水系における水力発電事業は、日本の水力発電史と共に歩んでいる。日本最初の水力発電所は、[[1888年]](明治21年)に[[宮城県]]の宮城紡績会社が運転を開始した自家発電用の三居沢発電所<ref>[http://www.tohoku-epco.co.jp/pr/sankyozawa/index.html 東北電力『三居沢電気百年館』]2011年6月2日閲覧</ref><ref group="注">現在も東北電力三居沢発電所(1,000キロワット)として稼働している。</ref>であるが、2年後の[[1890年]](明治23年)8月に[[帝国繊維|下野麻紡績]]が運転を開始した自家発電用の'''所野発電所'''(15[[キロワット]]。廃止)が、利根川水系最初の水力発電所となる<ref>『利根川百年史』pp.1284-1285</ref>。同年12月には足尾銅山自家発電用の'''間瀬原動所'''(間瀬発電所。廃止)が運転を開始。続いて日本初の商業用水力発電所である[[京都府]]の[[琵琶湖疏水|蹴上発電所]]運転開始(1891年)から2年後の[[1893年]](明治26年)には商業用としては利根川水系初となる'''日光発電所'''が日光電力の手で運転を開始した<ref>『利根川百年史』p.1285</ref>。日光発電所は現在[[東京電力]]日光第二発電所として110年以上経た今日も稼働しており、利根川水系において現役で運転している水力発電所としては最古のものである<ref>[http://www.jepoc.or.jp/cgi-bin/hydropp/viewdetail_sum.cgi?pp=52&ownerNo=003&areaNo=03&riverSys=3070 社団法人電力土木技術協会『水力発電データベース』東京電力日光第二発電所]2011年6月2日閲覧</ref>。 |
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大正以降における利根川水系の水力発電事業は、[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争]]以降の電力需要急増により日本各地で[[電力会社]]が乱立する中で他地域と同様に多くの電力会社が設立され、競争や[[企業合併]]を繰り返していく。この中で[[鬼怒川水力電気]]は鬼怒川上流部での電力開発に取り組み、1912年日本初の[[電力会社管理ダム|発電専用]]の[[コンクリートダム]]である'''黒部ダム'''を鬼怒川本流に建設、当時としては利根川水系屈指の'''下滝発電所'''(現・鬼怒川発電所)が稼働する<ref>『利根川百年史』p.1287</ref>。群馬県内では[[東京電燈]]や関東水力電気などが利根川水系の水力発電開発を進め、当時としては屈指の出力である6万6,000キロワットの'''[[佐久発電所]]'''などが運転を開始する<ref>[http://www.suiryoku.com/gallery/gunma/saku/saku.html 『水力ドットコム』東京電力佐久発電所]2011年5月15日閲覧</ref>。しかし[[1939年]](昭和14年)[[日本発送電#電力管理法|電力管理法]]制定により[[日本発送電]]が、1941年[[日本発送電#配電統制令|配電統制令]]発令により関東配電が発足すると、各電力会社は[[戦時体制]]の下強制的に合併させられ水力開発は一時的に停滞する。 |
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戦後1951年の利根特定地域総合開発計画が策定され利根川水系は多目的ダムに付随した水力発電所が建設されるが、同年[[日本発送電#電気事業再編成令|電気事業再編成令]]で日本発送電が[[企業分割|分割]]・[[民営化]]され、関東配電と合併する形で東京電力が発足。戦前より計画された奥利根・鬼怒川上流の電力開発を進めた。高度経済成長期に入り[[火力発電]]が主力となると、これを補完するため[[揚水発電]]が注目され1965年には利根川最上流部に混合揚水発電である'''[[矢木沢ダム#矢木沢発電所|矢木沢発電所]]'''の運転が開始される。[[1982年]](昭和57年)には利根川水系初の100万キロワット級揚水発電所・'''[[藤原ダム#藤原・玉原発電所|玉原発電所]]'''が完成。[[1988年]](昭和63年)には鬼怒川流域に'''[[今市ダム|今市発電所]]'''の運転が開始され、2005年には信濃川水系も利用する'''[[神流川発電所]]'''の運転が一部開始された。神流川発電所は全面稼動すれば282万キロワットと'''日本最大'''の水力発電所となる。新規に計画されている水力発電所としては八ッ場ダムの目的に水力発電が2008年に追加され、出力1万1,400キロワットの水力発電所が計画されているダム事業見直し(前述)で事業は進捗しておらず、ダム反対派からはその効果を疑問視されている<ref>[http://yamba-net.org/modules/problem/index.php?content_id=28 八ッ場あしたの会『八ッ場ダムと発電』]2011年5月15日閲覧</ref>。 |
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現在利根川水系で最大の水力発電所は出力120万キロワットの玉原発電所である。事業者としては東京電力のほか[[公営企業]]の群馬県企業局と栃木県企業局がある。特に多目的ダムの水力発電事業に参加しており、八ッ場ダムの水力発電事業は群馬県企業局が事業者である。民間企業では[[日本カーリット]]が同社群馬工場への送電を目的として利根川筋に'''広桃発電所'''を有するほか、足尾銅山間瀬原動所以来[[大谷川 (日光市)|大谷川]]・渡良瀬川流域で水力発電事業を展開していた[[古河グループ]]系列・[[古河電気工業]]の子会社である古河日光発電が、関連企業への送電などを目的とする水力発電所を有している<ref>[http://www.furukawanh.co.jp/techinfo/story1.htm 古河日光発電株式会社『当社水力発電の歴史』]2011年5月15日閲覧</ref>。特殊な所では日光二社一寺([[日光東照宮]]、[[日光二荒山神社]]、[[日光山輪王寺]])の自家発電用として二社一寺協同組合が管理する'''滝尾発電所'''が存在する<ref>[http://j-water.jp/database/detail.php?no=18 『小水力発電データベース』日光二社一寺自家用協同組合滝尾発電所]2011年5月15日閲覧</ref>。なお水力発電所の所在には流域偏在があり、利根川本流・吾妻川・片品川・渡良瀬川・鬼怒川流域に多く存在する一方、烏川流域は神流川を除く(烏川・[[鏑川]]・[[碓氷川]])と少ない<ref>『利根川百年史』pp.1288-1289</ref>。また当然ながら流域が平地主体の小貝川・江戸川・中川および常陸利根川流域には水力発電所が存在しない。 |
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以下は利根川および利根川水系における主要な水力発電所の一覧である。出力の単位はキロワットであり、認可(最大)出力が1万キロワット以上の発電所を掲載対象としている。データは[http://www.jepoc.or.jp/cgi-bin/hydropp/selectpp.cgi 社団法人電力土木技術協会『水力発電データベース』利根川水系発電所一覧]を出典としている。 |
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{| class="sortable wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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!{{Nowrap|河川流域}}<br /> |
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|[[武蔵水路]] |
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!発電所<br /> |
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|[[埼玉県]] |
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!認可出力<br /> |
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|水資源機構 |
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!常時出力<br /> |
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!{{Nowrap|発電形式}}<br /> |
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!発電方式<br/> |
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!取水元<br/> |
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!事業者<br /> |
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!運転開始年<br /> |
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!備考<br /> |
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|利根川||[[矢木沢ダム#矢木沢発電所|矢木沢]]||align="right"|240,000||align="right"|0||ダム式||[[揚水発電|混合揚水式]]||[[矢木沢ダム]](上池)<br/>[[須田貝ダム]](下池)||[[東京電力]]||1965|| |
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|[[見沼代用水]] |
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|埼玉県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|利根川||須田貝||align="right"|46,200||align="right"|4,000||ダム式||調整池式||須田貝ダム||東京電力||1955|| |
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|[[埼玉用水路]] |
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|埼玉県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|利根川||[[藤原ダム#藤原・玉原発電所|藤原]]||align="right"|22,000||align="right"|4,100||ダム式||調整池式||[[藤原ダム]]||東京電力||1956|| |
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|[[葛西用水路]] |
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|埼玉県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|利根川||水上||align="right"|18,600||align="right"|9,000||水路式||調整池式||||東京電力||1953|| |
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|邑楽用水路 |
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|群馬県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|利根川||上牧||align="right"|31,500||align="right"|5,800||水路式||調整池式||小森ダム||東京電力||1958|| |
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|野田導水路([[利根運河]]) |
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|[[千葉県]] |
|||
|国土交通省 |
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|- |
|- |
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|利根川||小松||align="right"|13,300||align="right"|8,400||水路式||流れ込み式||||東京電力||1922|| |
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|[[北千葉導水路]] |
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|千葉県 |
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|国土交通省 |
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|- |
|- |
||
|利根川||岩本||align="right"|29,600||align="right"|11,800||水路式||流れ込み式||||東京電力||1949|| |
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|[[房総導水路]] |
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|千葉県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|利根川||[[佐久発電所|佐久]]||align="right"|76,800||align="right"|22,400||水路式||調整池式||綾戸ダム<br/>[[真壁ダム]]||東京電力||1928|| |
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|成田用水 |
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|千葉県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|利根川<br/>発地川||[[藤原ダム#藤原・玉原発電所|玉原]]||align="right"|1,200,000||align="right"|0||ダム式||純揚水式||[[玉原ダム]](上池)<br/>藤原ダム(下池)||東京電力||1982|| |
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|東総用水 |
|||
|千葉県 |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|楢俣川||奈良俣||align="right"|12,800||align="right"|0||ダム式||貯水池式||[[奈良俣ダム]]||群馬県企業局||1989|| |
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|北総東部用水 |
|||
|千葉県 |
|||
|水資源機構 |
|||
|- |
|- |
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|[[片品川]]||一の瀬||align="right"|10,700||align="right"|860||水路式||調整池式||[[丸沼ダム]]||東京電力||1937|| |
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|[[両総用水]]([[栗山川]]) |
|||
|千葉県 |
|||
|[[農林水産省]] |
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|- |
|- |
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|片品川||白根||align="right"|10,300||align="right"|3,400||水路式||流れ込み式||||東京電力||1954|| |
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|[[印旛放水路]]<br/>(新川・[[花見川]]) |
|||
|千葉県 |
|||
|千葉県 |
|||
|- |
|- |
||
|片品川||鎌田||align="right"|11,600||align="right"|2,400||水路式||調整池式||||東京電力||1954|| |
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|[[大利根用水]] |
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|千葉県 |
|||
|千葉県 |
|||
|- |
|- |
||
|片品川||岩室||align="right"|19,600||align="right"|10,500||水路式||調整池式||||東京電力||1915|| |
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|[[霞ヶ浦]]用水 |
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|[[茨城県]] |
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|水資源機構 |
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|- |
|- |
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|片品川||白沢||align="right"|26,600||align="right"|0||ダム水路式||貯水池式||[[薗原ダム]]||群馬県企業局||1964|| |
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|[[霞ヶ浦導水事業|霞ヶ浦導水]] |
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|- |
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|茨城県 |
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|片品川||上久屋||align="right"|19,000||align="right"|8,600||水路式||調整池式||||東京電力||1925|| |
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|国土交通省 |
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|- |
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|片品川||伏田||align="right"|13,000||align="right"|7,500||水路式||調整池式||||東京電力||1926|| |
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|- |
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|[[吾妻川]]||西窪||align="right"|19,000||align="right"|9,500||水路式||調整池式||||東京電力||1933|| |
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|- |
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|吾妻川||羽根尾||align="right"|12,000||align="right"|5,100||水路式||調整池式||||東京電力||1925|| |
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|-bgcolor="yellow" |
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|吾妻川||(八ッ場)||align="right"|11,400||未定||未定||未定||[[八ッ場ダム]]||群馬県企業局||未定||計画中 |
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|- |
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|吾妻川||松谷||align="right"|25,400||align="right"|14,800||水路式||調整池式||鍛冶屋沢ダム||東京電力||1929|| |
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|- |
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|吾妻川||原町||align="right"|27,400||align="right"|14,200||水路式||調整池式||||東京電力||1937|| |
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|- |
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|吾妻川||箱島||align="right"|24,800||align="right"|14,700||水路式||調整池式||||東京電力||1951|| |
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|- |
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|吾妻川||金井||align="right"|14,200||align="right"|8,200||水路式||流れ込み式||||東京電力||1922|| |
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|- |
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|[[白砂川]]||川中||align="right"|14,600||align="right"|6,100||水路式||調整池式||白砂ダム||東京電力||1940|| |
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|- |
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|[[四万川]]||中之条||align="right"|11,000||align="right"|650||ダム水路式||調整池式||中之条ダム||群馬県企業局||1960|| |
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|- |
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|[[神流川 (利根川水系)|神流川]]<br/>南相木川||[[神流川発電所|神流川]]||align="right"|470,000||align="right"|0||ダム式||純揚水式||[[南相木ダム]](上池)<br/>[[上野ダム]](下池)||東京電力||2005||一部運転 |
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|- |
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|神流川||下久保||align="right"|15,000||align="right"|0||ダム式||貯水池式||[[下久保ダム]]||群馬県企業局||1968|| |
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|- |
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|[[渡良瀬川]]||東||align="right"|20,300||align="right"|0||ダム式||貯水池式||[[草木ダム]]||群馬県企業局||1976|| |
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|- |
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|渡良瀬川||小平||align="right"|36,200||align="right"|0||水路式||流れ込み式||||群馬県企業局||1976|| |
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|- |
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|庚申川||足尾||align="right"|10,000||align="right"|994||ダム水路式||調整池式||庚申ダム||栃木県企業局||1985|| |
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|- |
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|黒坂石川||沢入||align="right"|11,000||align="right"|400||ダム水路式||調整池式||黒坂石ダム||群馬県企業局||1981|| |
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|- |
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|[[鬼怒川]]||川俣||align="right"|27,000||align="right"|0||ダム式||調整池式||[[川俣ダム]]||東京電力||1963|| |
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|鬼怒川||鬼怒川||align="right"|127,000||align="right"|11,200||水路式||調整池式||[[黒部ダム (栃木県)|黒部ダム]]<br/>[[逆川ダム]]||東京電力||1912||旧名下滝発電所<br/>1963年再開発 |
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|- |
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|鬼怒川||風見||align="right"|10,200||align="right"|4,500||水路式||流れ込み式||佐貫頭首工||栃木県企業局||1964|| |
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|- |
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|土呂部川||栗山||align="right"|42,000||align="right"|5,100||水路式||調整池式||土呂部ダム||東京電力||1944|| |
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|- |
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|男鹿川||川治第一||align="right"|15,300||align="right"|4,800||ダム水路式||貯水池式||[[五十里ダム]]||栃木県企業局||1956|| |
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|- |
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|[[砥川]]||今市||align="right"|1,050,000||align="right"|0||ダム水路式||純揚水式||[[栗山ダム (栃木県)|栗山ダム]](上池)<br/>[[今市ダム]](下池)||東京電力||1988|| |
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|[[大谷川 (日光市)|大谷川]]||細尾||align="right"|15,700||align="right"|10,300||水路式||調整池式||中禅寺ダム||古河日光発電||1906|| |
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|} |
|} |
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=== 砂防事業 === |
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[[ファイル:AshioKodoku1.jpg|200px|thumb|重荒廃地域に指定されている渡良瀬川流域の[[足尾山地]]。植生は破壊され崩落が続いている。]] |
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{{座標一覧|article=Category:利根川の橋}} |
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[[ファイル:足尾砂防ダム・1.jpg|200px|thumb|日本最大級の[[砂防ダム]]・足尾砂防ダム(渡良瀬川)。]] |
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{{-}}<!-- ←これがないと次の表の幅が狭くなる --> |
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利根川流域では浅間山、赤城山、榛名山、男体山など多くの火山が存在し、これらが活発な火山活動を繰り返すことで火山灰などの堆積物や風化しやすい花崗岩、安山岩などの地質を形成している。また[[褶曲|褶曲]](しゅうきょく)や[[断層]]などが複雑に入り組み、河川による侵食もあって堅固とはいえない状態である。このため崩壊、禿しょ(とくしょ。[[はげ山]]のこと)地、滑落崖地の増大といった山地の荒廃が進んでおり、利根川水系では[[谷川岳]]周辺、男体山・赤城山・足尾、浅間・草津白根一帯が'''重荒廃地域'''<ref group="注">重荒廃地域の定義は何れも大規模な1崩壊面積が0.3平方キロメートル以上、1禿しょ面積が2平方キロメートル以上、滑落崖地面積が1平方キロメートル以上存在する山地を指し、日本全国で14地域が指定されている。</ref>に、日光・上信越、多野・秩父地域が'''一般荒廃地域'''<ref group="注">一般荒廃地域の定義は崩壊地(1パーセント以上)・禿しょ地(10パーセント以上)・滑落崖地(5パーセント以上)が点在し、延べ面積が地域の相当量を占め、治水上重大な被害を及ぼす可能性がある地域を指す。日本全国で26地域が指定されている。</ref>として国土交通省砂防部より指定されている<ref>『河川便覧 平成十六年版』p.206</ref>。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
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利根川流域の土砂災害で顕著なものとしては1783年の浅間山大噴火による吾妻川[[ラハール|火山泥流]]災害(死者1,500人以上)、1910年の明治43年8月洪水による吾妻川・烏川流域の土石流災害(死者212人)、1935年9月の烏川土石流災害(死者51人)、カスリーン台風による赤城山土石流災害(死者420人)が挙げられる<ref>『利根川百年史』pp.1486-1489</ref>。また渡良瀬川流域では足尾銅山から排出される[[亜硫酸ガス]]による煙害や鉱石巻上げの動力源として[[薪炭]]を使用するための森林乱伐、さらに[[1887年]](明治20年)4月8日の松木大火<ref group="注">足尾地域では毎年春に山焼きを行うのが恒例であったが、突風に煽られ野火が延焼し大火となった。</ref>によって源流部は草木が全く生育しない禿しょ地になっていた。このため洪水による土砂被害は著しく現在の渡良瀬遊水地付近にあった赤麻沼は[[ダムと環境#堆砂|堆砂]]が激しくなった<ref>『利根川百年史』pp.1491-1494</ref>。日光の大谷川流域では稲荷川を中心とした男体山系の崩壊が著しく、[[1902年]](明治35年)には台風により大谷川・稲荷川の土砂災害や洪水で死者156人を出し、日光東照宮の[[神橋]]が流失した。以後も大雨による土砂災害が反復して襲ったほか<ref>『利根川百年史』pp.1498-1499</ref>、1949年12月には[[直下型地震|直下型]]の[[今市地震]]が発生し[[思川 (栃木県)|思川]]上流域で425箇所におよぶ土砂崩落が発生した<ref>『利根川百年史』pp.1577-1578</ref>。そして鬼怒川上流部では現在の五十里ダム上流部に当たる海尻付近で[[1683年]]([[天和]]3年)10月20日に発生した南会津地震<ref group="注">マグニチュードは6.8と推定されている。</ref>により、男鹿川右岸の葛老山が380万立方メートルに及ぶ量の地すべりを起こし、高さ70メートルの[[天然ダム]]が誕生。ダムは40年にわたり男鹿川を堰き止めその総貯水容量は6,400万立方メートルと現在の五十里ダムよりも大きい貯水池を形成し、付近の五十里集落が水没する被害を出したほか[[1723年]](享保8年)9月9日[[集中豪雨]]によってダムが決壊、現在の[[宇都宮市]]にまで濁流が押し寄せる被害を与えている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=475&p=1 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(61) ~ 鬼怒川のダム(上)(五十里・川俣)]2011年5月15日閲覧</ref>。 |
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こうした土砂災害を防ぐべく、明治時代より国主導による砂防事業が利根川流域でも実施された。記録上では[[1882年]](明治12年)に内務省土木寮利根川出張所が榛名山で行ったのが初出だが、[[1897年]](明治30年)3月[[砂防法]]が施行されると本格的な事業となった。その端緒となったのが栃木県営で実施された日光の'''稲荷川砂防事業'''が[[1899年]](明治32年)より3年間継続実施され、巨石積の[[砂防ダム]]が建設されている。しかし1902年の台風で砂防ダムはことごとく破壊され、日露戦争もあって中断を余儀なくされた<ref>『利根川百年史』pp.1506-1507</ref>。1919年には同じ稲荷川で利根川水系初となるコンクリート製の砂防ダム、'''稲荷川第二砂防ダム'''が建設された<ref>『利根川百年史』p.1508</ref>。また1937年には'''日向砂防ダム'''が完成するが、戦後二度にわたるかさ上げを行い高さ46メートル、計画貯砂量150万立方メートルの巨大砂防ダムとなった。また大谷川本流には床固工54基に及ぶ'''大谷川中流流路工'''を1971年に建設。蛇行した流路の直線化も行い大谷川下流の土砂災害を防いでいる。さらに男体山には'''大薙山腹工'''を建設し男体山東南斜面の地すべりを防ぐ工事を行っている<ref>『利根川百年史』pp1565-1574</ref>。 |
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足尾銅山周辺の渡良瀬川上流域では足尾鉱毒事件の社会問題化もあり政府は[[古河鉱業]]に対し鉱毒予防命令を出し、1897年から9ヵ年にわたる土砂災害防止対策を行わせた<ref>『利根川百年史』p.1520</ref>。しかし[[植林]]は全て失敗し禿しょ地は改善されない傾向が続き根本的な砂防対策が求められ、1936年'''足尾砂防ダム'''計画が立案された。高さ37メートル、計画貯砂量500万立方メートルという日本最大級の砂防ダム計画は1950年に着工され、1967年に完成する<ref>『利根川百年史』pp.1561-1564</ref>。この他烏川、神流川、片品川、赤城山渓流などで国土交通省や流域自治体による砂防事業が継続的に実施されている。これにより大規模な土砂災害は減少したものの、足尾銅山の煙害などによる渡良瀬川上流の植生は未だ完全な回復を見ていない。 |
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== 水質 == |
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:''吾妻川中和事業についての詳細は[[品木ダム]]を参照。'' |
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利根川の[[水質]]は、本流については加須市栗橋における計測で2009年の平均値で[[生物化学的酸素要求量]](BOD)が1.3mg/lと概ね良好な水質が保たれている<ref name="suisitu">[http://www.mlit.go.jp/common/000135677.pdf 国土交通省『平成21年全国一級河川の水質現況』p.159]2011年5月23日閲覧</ref>。主要な支流では渡良瀬川、鬼怒川、小貝川では利根川同様水質は良好な数値を維持しているが、都市部を流れる支流については水質が良いとは言いがたい。 |
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{| class="wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">利根川水系主要河川のBOD値(mg/l)<ref name="suisitu"/> |
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!河川 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|BOD |
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!河川 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|BOD |
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!河川 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|BOD |
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!河川 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|BOD |
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|利根川上流||[[群馬大橋]]||bgcolor="lightblue"|0.9||[[神流川 (利根川水系)|神流川]]||神流川橋||bgcolor="lightblue"|0.8||鬼怒川中流||川島橋||bgcolor="lightblue"|0.7||[[利根運河]]||合流部||bgcolor="lightblue"|8.7 |
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|- |
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|利根川中流||[[加須市]]栗橋||bgcolor="lightblue"|1.3||[[渡良瀬川]]中流||[[渡良瀬大橋]]||bgcolor="lightblue"|1.7||鬼怒川下流||[[豊水橋]]||bgcolor="lightblue"|1.2||[[江戸川]]||新葛飾橋||bgcolor="lightblue"|1.7 |
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|- |
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|利根川下流||[[銚子大橋]]||bgcolor="lightblue"|1.6||渡良瀬川下流||[[渡良瀬遊水地#谷中湖|渡良瀬貯水池]]||bgcolor="lightblue"|3.8||[[小貝川]]||文巻橋||bgcolor="lightblue"|1.9||[[中川]]||[[飯塚橋]]||bgcolor="lightblue"|3.4 |
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|- |
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|[[烏川]]||[[高崎市]]岩鼻||bgcolor="lightblue"|1.6||[[鬼怒川]]上流||[[日光市]]川治||bgcolor="lightblue"|0.7||[[手賀川]]||手賀沼水門||bgcolor="lightblue"|5.2||[[綾瀬川]]||手代橋||bgcolor="lightblue"|3.7 |
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|} |
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[[ファイル:Saitama Ayase River 1.JPG|200px|thumb|[[綾瀬川]]。往時より水質は改善したが未だ「日本一汚い川」の汚名を背負う。]] |
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特に中川と支流の綾瀬川については高度経済成長に伴う流域の都市化で、[[生活排水]]が流入。[[下水道]]整備も未熟だったこともあって急速に[[水質汚濁]]が進行した。国土交通省が毎年発表する一級河川の水質現況において中川と綾瀬川はワーストランキングで毎年上位に名を連ねる不名誉な状況が継続していた。両河川のBOD平均値は1989年時点において中川は7.3mg/l、綾瀬川に至っては17.8mg/lであり「ドブ川」の体であった。このため埼玉県などの流域自治体において中川・綾瀬川浄化のための諸施策を講じた結果水質は著しく改善。2009年段階のBOD平均値は中川で3.0mg/l、綾瀬川で3.8mg/lと水質改善度は最も高かった。しかしワーストランキングからの脱却は果たせず、日本の主要な一級河川165河川中で綾瀬川は日本一、中川は日本第二位の汚い川に位置している<ref>国土交通省『平成21年全国一級河川の水質現況』p.5</ref><ref group="注">ただしこの値は相対的なもので、[[猪名川]]や[[大和川]]、[[鶴見川]]といったワースト常連の河川も急速に水質改善が進んでいるためである。</ref>。利根川水系全体を俯瞰した場合、BOD平均値が最も低いのは神流川で、逆に最も高いのは利根運河である<ref name="suisitu"/>。なお、足尾鉱毒事件による[[重金属]]汚染が問題化した渡良瀬川については現在も継続的な水質調査が実施され、特に首都圏の水がめである草木ダムについては管理者の水資源機構が灌漑期(夏季)には毎日、非灌漑期(冬季)には毎週厳重な水質監視を続けている<ref>『水資源開発公団30年史』p.161</ref>。 |
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一方、湖沼については[[化学的酸素要求量]](COD)で水質が主に計測されるが、利根川上流の人造湖に関しては概ね良好な水質であるのに対し下流の湖沼については水質汚濁が顕著で、河川よりも深刻となっている。 |
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{| class="wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">利根川水系主要湖沼のCOD値(mg/l)<ref name="suisitu"/><ref name="abiko">[http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/19,34862,65,762,html 我孫子市『手賀沼水質情報 全国湖沼汚濁度順位発表』]2011年5月23日閲覧</ref> |
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!湖沼 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|COD |
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!湖沼 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|COD |
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!湖沼 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|COD |
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!湖沼 |
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!観測地点 |
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!style="width:4em;"|COD |
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|- |
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|[[矢木沢ダム#奥利根湖|奥利根湖]]||[[矢木沢ダム]]||bgcolor="lightblue"|2.0||薗原湖||[[薗原ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.7||八汐湖||[[川治ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.3||[[霞ヶ浦]]||湖心||bgcolor="lightblue"|9.3 |
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|- |
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|藤原湖||[[藤原ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.2||[[下久保ダム#神流湖|神流湖]]||[[下久保ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.9||[[手賀沼]]||||bgcolor="lightblue"|8.6||[[北浦]]||[[神宮橋]]||bgcolor="lightblue"|10.1 |
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|- |
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|ならまた湖||[[奈良俣ダム]]||bgcolor="lightblue"|2.1||草木湖||[[草木ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.5||[[牛久沼]]||||bgcolor="lightblue"|8.0||[[外浪逆浦]]||||bgcolor="lightblue"|8.8 |
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|- |
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|赤谷湖||[[相俣ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.2||川俣湖||[[川俣ダム]]||bgcolor="lightblue"|1.5||[[印旛沼]]||||bgcolor="lightblue"|8.6||[[常陸利根川]]||<ref group="注">本調査において常陸利根川は霞ヶ浦の一部として、湖沼の扱いを受けている。</ref>||bgcolor="lightblue"|9.3 |
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|} |
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[[ファイル:Teganuma2646.jpg|200px|thumb|[[手賀沼]]。[[北千葉導水路]]などの対策により水質は往時に比べ大幅に改善している。]] |
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霞ヶ浦を始めとする利根川下流部の湖沼は、河川の水質汚濁同様高度経済成長に伴う都市化と下水道整備の遅れによる生活排水や[[畜産]]、農業関連の排水が処理されずに流入し、河川と異なり水域内に長期間滞留することで水質汚濁が遷延化する。[[環境省]]が2009年に実施した『平成21年度公共用水域の水質測定結果発表』において北浦が[[宮城県]]の[[伊豆沼]]と共に汚染度ワースト1となったほか、10位までに霞ヶ浦・常陸利根川(同率3位)、手賀沼・印旛沼(同率5位)、牛久沼(7位<ref group="注">宮城県の[[長沼ダム|長沼]]と同率7位である。</ref>)が入り、ワースト10の中に利根川水系の湖沼が6箇所も入るという不名誉な状態となっている<ref name="abiko"/>。こうした水質汚濁により霞ヶ浦では特産の[[ワカサギ]]漁が衰退するなど漁業資源にも深刻な影響を与えた。このため河川浄化の取り組みが国や地方自治体によって進められている。特に手賀沼については清浄な利根川の河水を導水して水質改善を図るため1972年より利根川広域導水事業が治水・利水目的を含めた河川総合開発事業として実施され、1978年に野田緊急暫定導水路(利根運河)、2000年に'''北千葉導水路'''が完成。手賀沼に毎秒10立方メートルを導水することで水質改善を図った<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/gentone/index.html 国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所『北千葉導水路運転状況』]2011年5月22日閲覧</ref>。また1984年には[[水質汚濁防止法]]を湖沼に特化した[[湖沼水質保全特別措置法]](湖沼法)が制定され日本の10湖沼<ref group="注">利根川水系以外では琵琶湖、[[八郎潟]]、[[児島湖]]、[[諏訪湖]]、[[野尻湖]]、[[宍道湖]]、[[中海]]および[[釜房ダム]]貯水池([[釜房ダム#釜房湖|釜房湖]])が指定されている。</ref>が指定<ref>[http://www-gis.nies.go.jp/explain/kisei_w_detail.html 国立環境研究所『湖沼水質保全特別措置法に基づく指定地域』]2011年5月22日閲覧</ref>。利根川水系では北浦・常陸利根川を含む霞ヶ浦、手賀沼および印旛沼の3湖沼が指定、水質汚濁防止の施策や規制が流域自治体で採られている。こうした施策により手賀沼の水質は2003年以降7年連続で水質が日本一改善された湖沼となり<ref name="abiko"/>、導水路の効果は実証されたがその他の湖沼においては改善に乏しい状態が続いている。このため国土交通省では関東一の清流である那珂川<ref name="suisitu"/><ref group="注">[[久慈川]]、多摩川支流の[[浅川]]と並んで関東地方では最もBOD平均値が低い。</ref>の河水を霞ヶ浦に導水して水質改善を図る'''霞ヶ浦導水事業'''を施工しているが、栃木・茨城両県の那珂川漁業協同組合が那珂川の水質悪化を理由に反対している(前述)。 |
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[[ファイル:Shinaki Dam lake.jpg|200px|thumb|[[品木ダム]](左)と上州湯の湖(湯川)。[[中和]]事業の要であり湖内で中和が促進される。]] |
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一方自然環境が原因の水質汚染も存在した。群馬県を流れる利根川の支流・吾妻川は流域に[[草津温泉]]・[[万座温泉]]や硫黄鉱山が存在し、この一帯を水源に持つ万座川や[[白砂川]]といった吾妻川支流は河水の酸性度が高かった。特に白砂川支流の'''湯川'''は[[草津白根山]]を水源とすることから[[pH]]は平均'''1.8'''と[[希塩酸]]や[[希硫酸]]並の酸性度であった<ref>『日本の多目的ダム 1963年版』pp.418-419</ref>。こうした酸性河川が吾妻川に流入するため吾妻川の酸性度も高く、鉄[[釘]]は10日でほぼ溶解、[[コンクリート]]は30日で30パーセント近く減量するなど河川工作物への影響も大きかった<ref>『利根川百年史』p.1774</ref>。魚類は全く生息せず、農業用水にも不適で合流後の利根川の水質悪化も招き、「死の川」と形容されていた。このため群馬県は世界初の河川[[中和]]事業である'''[[品木ダム#吾妻川酸性水中和事業|吾妻川中和事業]]'''を1961年より開始、湯川などに中和工場を建設して石灰を投入し下流の'''[[品木ダム]]'''で中和する対策を講じた。これにより吾妻川の酸性度は改善され、魚類も生息する河川へと蘇った<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/sinaki/dam/index.html 国土交通省関東地方整備局品木ダム水質管理所『中和事業について』]2011年5月22日閲覧</ref>。中和事業は現在国土交通省による直轄事業となり、老朽化した施設の改築や万座ダムなどの万座川中和を含めた吾妻川上流総合開発事業が計画されているが、民主党鳩山由紀夫内閣によるダム事業見直しに伴い同事業は見直し対象となっている。 |
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なお、利根大堰から取水される武蔵水路は荒川へと導水されるが、この利根川の河水を利用した[[隅田川]]の水質改善も行われた。1961年当時の隅田川はBODが38mg/lと水質汚濁が激しく[[メタンガス]]も湧出する河川だったが、利根大堰建設における目的の一つとして隅田川浄化が挙げられ、利根川上流ダム群より利根大堰、武蔵水路を経由し秋ヶ瀬取水堰で朝霞水路に導水された利根川の河水が[[新河岸川]]へ放流され、隅田川へと至る。同時に下水道整備も実施されたことで隅田川のBODは1975年には環境基準を下回り、2002年には4.9mg/lにまで改善された。これにより1961年に中断した[[早慶レガッタ]]の隅田川開催が1978年に復活するなど、隅田川の水質改善には利根川が大きく関わっている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=202 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』こうして隅田川でレガッタが復活した]2011年5月22日閲覧</ref>。 |
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== 交通 == |
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利根川流域における交通手段は奈良時代から江戸時代に掛けては'''[[水運]]'''を主とした水上交通網が発達していたが、明治時代以降[[道路]]・[[鉄道]]による'''陸上交通網'''が整備されるのに伴って水運は衰退。現在は流域を縦横に道路網・[[鉄道網]]が高度に発達しており、交通・物流の面からも利根川流域は幾つもの要衝を抱える重要な位置を占めている。以下水運、道路、鉄道の利根川流域における発達について述べる。 |
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=== 水運 === |
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:''[[利根運河]]の項目も参照'' |
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[[ファイル:ToneUnga.png|200px|thumb|[[利根運河]]流路図。]] |
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[[ファイル:Tone Canal in 1915.JPG|200px|thumb|1915年頃の利根運河。汽船も運航し往来は盛況だった。]] |
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[[ファイル:赤岩001.jpg|200px|thumb|利根川に残る数少ない[[渡船]]の一つ、[[赤岩渡船]]。]] |
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[[ファイル:Yagiriowatashi.jpg|200px|thumb|江戸川を渡る[[矢切の渡し]]。]] |
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利根川における水運の歴史は[[835年]]([[承和]]2年)6月29日の[[太政官符]]において、利根川旧河道である現在の隅田川に常設の[[渡船]]が存在し物流を行っていたことが確認されるほか、『万葉集』巻十四・三三八四番の和歌にも帆掛舟による水運が行われていたことを示唆する文言が記されている<ref name="100nenn376">『利根川百年史』p.376</ref>。鎌倉時代から室町時代に掛けて関東地方に[[貨幣経済]]が浸透すると[[市場]]が発展、関東各地の特産品が水運を利用して[[京都]]方面へ流通しており、『旧大禰宜家文書』・『香取文書』により[[1372年]]([[応安]]5年)から[[1419年]]([[応永]]26年)に掛けて8箇所の水路[[関所]]が設置され<ref group="注">成立順に行徳(市川市)・長島(江戸川区)・猿俣(葛飾区)・戸崎([[三郷市]])・大堺([[八潮市]])・鶴ヶ曽根(八潮市)・彦名(三郷市)と成立年代不明の鷺宮(久喜市)の8箇所。</ref>、商船から[[津料]]を徴収していた<ref name="100nenn376"/>。戦国時代に入ると後北条氏が関東に勢力を伸ばすが、当時軍事・水運の要衝であった[[関宿城]]を巡る攻防が繰り広げられる。関宿城は3代当主・[[北条氏康]]が『喜連川文書』において「一国を獲るに等しい」と評価した要衝であり、城主の[[簗田晴助]]・[[簗田持助|持助]]父子と争った末[[1572年]](天正2年)氏康の跡を継いだ北条氏政が落城させ、付近一帯を直接の支配下に置いた<ref>『戦国の魁 早雲と北条一族』p.89,p.94</ref>。以後利根川水系の水運は後北条氏の支配下となり、氏政の弟である[[北条氏照]]による[[判物]]で航路の拡大が見て取れる<ref>『利根川百年史』pp.376-377</ref>。 |
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江戸時代に入ると、幕府は後北条氏の整備した水運航路を整備・拡大する一方で江戸防衛の観点から利根川への架橋は禁止され、代わりに渡船の設置が行われた。しかしこの渡船についても[[1616年]]([[元和]]2年)8月の触れで幕府指定の「定船場」と呼ばれる渡船場以外での渡船を厳禁とした。この時定められた定船場は上野国白井渡から[[下総国]]神崎までの15箇所である<ref>『利根川百年史』pp.96-97</ref>。一方で利根川を物流の大動脈として利用するための整備が利根川東遷事業と連携して幕府によって実施され、[[1671年]](寛文11年)[[河村瑞賢]]による[[東廻り航路]]整備を機に利根川は江戸への廻米には欠かせない航路となり、東遷事業以降東北・北関東諸藩の廻米が本格化した<ref>『利根川百年史』pp.378-379</ref>。[[水戸藩]]では3代藩主・[[徳川綱條]]が[[1706年]]([[宝永]]3年)[[松波勘十郎]]を登用、松波は[[涸沼]]と北浦を連結して那珂湊から直接利根川への水運を図る'''勘十郎堀'''を着工したが、激しい[[農民一揆]]が起こり勘十郎堀は未完に終わっている<ref>『新編藩史総覧』p.77</ref>。また見沼代用水を利用した'''[[見沼通船堀]]'''が1731年開削され、利根川中流の物流が強化された。 |
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この廻米を輸送・備蓄するための拠点として'''[[河岸]]'''の整備も同時に行われた。[[1599年]](慶長4年)に伊奈忠次が権現堂河岸を設けたのを皮切りに、水運遡行の上流端で[[中山道]]と連絡する上野国倉賀野河岸(高崎市)から河口の飯沼河岸(銚子市)まで利根川本流・支流の各所におびただしい数の河岸が設けられ、銚子や足尾などから[[高瀬舟]]で各河岸へ年貢米や足尾銅山の銅、特産物<ref group="注">主なものとして[[大豆]]、[[麻]]、[[タバコ]]、[[木材]]、[[塩]]、[[魚]]、[[茶]]、[[醤油]]、[[綿]]などがある。</ref>が輸送された。河岸の発展に伴い荷の積み下ろしを生業とする'''河岸[[問屋]]'''が成立し、そこに[[旅籠]]など様々な店舗が開業して人口が増加し一つの町が形成された。例えば下総国境河岸(猿島郡[[境町]])では[[1785年]]([[天明]]5年)時点で409戸、1,851人が暮らしている<ref>『利根川百年史』pp.383-385</ref>。しかし河岸の多くは市場構造や商品流通構造の変化、さらに河川が運搬する土砂による航行の支障などがあり盛衰を繰り返し、荷物の運搬を巡る河岸間の紛争も続発。最終的に[[水戸街道]]に近く那珂川水運で運搬された荷物の運搬に至便な下総国布施河岸(我孫子市)が[[1724年]](享保8年)に幕府[[評定所]]の裁決で公認ルートとして認可され、鬼怒川・利根川下流の物流を独占して繁栄した<ref>『利根川百年史』pp.387-388</ref>。 |
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明治に入っても引き続き利根川の水運は活発で、[[1871年]](明治4年)には[[汽船]]が就航。内国通運(現[[日本通運]])の通運丸など数十隻の汽船が利根川を航行した<ref>『利根川百年史』p.128</ref>。こうした中[[1878年]](明治11年)に[[内務卿]]・[[大久保利通]]は北上川から東京湾を結ぶ内陸運河構想を『一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺』として[[太政大臣]]・[[三条実美]]に建議した。この構想では印旛沼を利用した運河建設が提案されていたが[[紀尾井坂の変]]で大久保が[[暗殺]]された後、茨城[[県令]]・[[人見寧]]が[[1884年]](明治17年)5月に『茨城県五工事起業提言』を[[太政官]]に提出。大久保の印旛沼運河に替わる運河として'''[[利根運河]]'''の建設を提案した。これに対し千葉県は当初反対したが、当時利根川改修計画を進めていた内務卿・[[山田顕義]]が予定地視察後に運河建設を[[ヨハニス・デ・レーケ]]、後に改修計画立案の中心となるローウェンホルスト・ムルデルに命じると賛成に転じ、[[1888年]](明治21年)運河工事が開始された<ref>『利根川百年史』pp.452-462</ref>。1890年に完成した利根運河の開通で東京 - 鬼怒川・銚子間航路は従来の関宿経由に比べ38キロメートルの航路短縮と、3日の行程を1日に短縮する効果があり利用船舶は激増。翌1891年には1日平均103隻、年間'''3万7,594隻'''が航行している<ref name="100nenn465">『利根川百年史』p.468</ref>。運営には利根運河株式会社が設立され、運河の管理を行っていた。 |
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しかし鉄道や道路整備といった陸上交通網の発達(後述)は次第に水運自体を衰退させ、利根運河も1935年には1日平均20隻以下にまで利用船舶が落ち込み、1941年7月洪水で堤防が決壊し運河自体の使用が不能になった。河川管理者の内務省は利根川改修増補計画の一環として利根運河の放水路化を計画し、利根運河株式会社から運河を買収するが放水路計画自体が頓挫し、運河は1978年に野田暫定緊急導水路として復活するまで事実上廃川となった<ref name="100nenn465"/>。また汽船も1939年末までに全廃され、渡船も最盛期の1884年には利根川に89箇所、江戸川に28箇所の渡船場があった<ref>『利根川百年史』p.97</ref>が[[モータリゼーション]]の発達で次第にその姿を消してゆく。現在も運航している渡船は伊勢崎市の'''[[島村渡船]]'''([[群馬県道295号新地今泉線]])、熊谷市と邑楽郡[[千代田町]]を結ぶ'''[[赤岩渡船]]'''([[埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線]])、取手市の'''[[小堀の渡し]]'''などわずかしかない。また江戸川には[[伊藤左千夫]]の[[小説]]『[[野菊の墓]]』や[[映画]]『[[男はつらいよ]]』、[[細川たかし]]の[[演歌]]などで知られ[[松戸市]]と葛飾区を結ぶ'''[[矢切の渡し]]'''が、潮来市・香取市では[[水郷]]巡りとして観光用の船が運航している。 |
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=== 道路 === |
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[[ファイル:Tonebridge.jpg|200px|thumb|利根川に架橋された道路橋では最も歴史が古い[[利根橋]]。写真は1963年架け替えの4代目。]] |
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[[file:Tonegawabashi.jpg|200px|thumb|[[国道4号]][[利根川橋 (国道4号)|利根川橋]]。[[1924年]](大正13年)供用開始。]] |
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利根川流域の道路交通については、後北条氏が本拠である相模国[[小田原城]]と関東各地の主要な支城を結ぶ軍事的交通網の整備を進めたのが発祥となる<ref>『利根川百年史』p.127</ref>。その後江戸幕府は江戸[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]を起点とする[[五街道]]の整備を進め、利根川流域では[[奥州街道]]、[[日光道中]]、[[中山道]]が整備された。またこれとは別に[[水戸街道]]、[[成田街道|佐倉街道]]が利根川流域において整備されている。奥州街道、日光道中、水戸街道については利根川を渡河するが、利根川への木造橋梁の架橋は禁止されていた。このため[[舟橋]]が設けられたがこれも期間限定的で、史料上確認されているのは『慶長記』に記された1600年の栗橋における舟橋と、『房川御船場図』に記された将軍の日光社参拝で臨時に架橋された[[1843年]](天保14年)の栗橋における舟橋程度しかない<ref>『利根川百年史』p.96</ref>。橋梁の代わりに設けられたのが幕府公認の定船場15箇所で(前述)、その後流通の発達に伴い河岸の整備が進み、河岸より荷揚げされた荷物を運搬するための街道整備が行われた。 |
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明治に入り道路交通網の整備が進むが、利根川に本格的な道路橋が架橋されたのは[[1885年]](明治18年)の'''[[利根橋]]'''であり<ref name="maebashi">[http://www.maebashi-cvb.com/tourism/view/i-kanko/04tone.htm 前橋観光コンベンション協会『前橋まるごとガイド』]2011年5月25日閲覧</ref> |
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、続いて'''坂東橋'''が[[1901年]](明治34年)に完成している<ref name="tanken">[http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/azuma-bridge/azuma-bridge.htm 『産業技術遺産探訪』旧・吾嬬橋(旧・坂東橋)]2011年5月25日閲覧</ref><ref group="注">1959年に現在の坂東橋が架橋され、旧橋は[[吾妻郡]][[六合村]]の白砂川に架橋し直されている。</ref>。中流部では[[1922年]](大正11年)に木造として熊谷・太田間に架橋された'''[[刀水橋]]'''があり、[[1924年]](大正13年)には栗橋・古河間に'''[[利根川橋 (国道4号)|利根川橋]]'''が架橋され、以後[[坂東大橋]](1926年)、[[大利根橋]](1930年)、[[上武大橋]](1934年)が相次いで架橋された<ref name="100nenn130">『利根川百年史』p.130</ref>。こうした道路橋の建設により従来利根川の主要な交通手段であった水運は陸上交通へと取って代わり、水運は衰退して行く。開通当初は[[砂利]]道であったが、利根特定地域総合開発計画において旧奥州街道・日光道中である'''[[国道4号]]'''や旧水戸街道である'''[[国道6号]]'''の整備も盛り込まれたことで、道路幅員や[[舗装]]といった道路整備が行われ[[北関東]]と[[南関東]]を結ぶ重要な道路交通網として利用されている。 |
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利根川流域には国道4号、国道6号を始め[[国道14号]](千葉街道)、[[国道16号]]、[[国道17号]]、[[国道18号]](中山道)、[[国道50号]]、[[国道51号]]、[[国道119号]](日光街道)、[[国道120号]](沼田街道)、[[国道121号]](日光例幣使街道)、[[国道122号]](会津西街道)などの[[国道]]を始め、おびただしい数の[[県道]]が縦横無尽に走行している。また[[高速道路]]網整備により、利根川本流には上流より[[関越自動車道]]、[[北関東自動車道]]、[[東北自動車道]]、[[常磐自動車道]]、[[東関東自動車道]]が、支流には[[上信越自動車道]]が渡河しており関東と東北・[[北陸地方]]を結ぶ重要な交通網となっている。しかし交通量の増加に伴って主要な橋梁では[[交通渋滞]]が多く発生、対策として[[群馬大橋]]、[[新上武大橋]]、[[新利根川橋]]などの[[バイパス道路]]や[[下総利根大橋有料道路]]などの[[有料道路]]橋の整備が行われている。 |
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このほか利根川には[[自転車]]専用道路も存在する。特に中流部から下流部にかけては堤防上の管理用道路を利用したサイクリングコースが自治体などにより整備されている。一例としては行田市から加須市までの間、総延長16.7キロメートルにおよぶ[[利根サイクリングコース]]があり、二箇所のサイクリングセンターで自転車の無料貸し出しも行われており多くの市民が利用する<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091204-109.html 埼玉県都市整備課『利根サイクリングコース』2011年5月28日閲覧]</ref>。対岸には渡良瀬川から利根川に沿って整備された自転車道路、[[茨城県道503号古河坂東自転車道線]]がある。県道の自転車専用道路は珍しい。 |
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{| class="wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">利根川の主要道路橋(緑色欄は有料)<ref name="maebashi"/><ref name="tanken"/><ref name="100nenn130"/> |
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!橋梁 |
!橋梁 |
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!供用道路 |
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!供用年 |
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!左岸所在地 |
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!右岸所在地 |
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!備考 |
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|沼田大橋||[[国道17号]]||||群馬県[[沼田市]]||群馬県沼田市||[[沼田バイパス]] |
|||
|[[沼田大橋]] |
|||
|[[国道17号]] |
|||
| |
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|[[群馬県]][[沼田市]] |
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|群馬県沼田市 |
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|[[沼田バイパス]] |
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|- |
|- |
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|鷺石橋||||1929||群馬県沼田市||群馬県沼田市||歩行者専用 |
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|[[鷺石橋]] |
|||
|[[国道120号]] |
|||
| |
|||
|群馬県沼田市 |
|||
|群馬県沼田市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|新鷺石橋||[[国道120号]]||1970||群馬県沼田市||群馬県沼田市|| |
|||
|[[大正橋]] |
|||
|[[国道353号]] |
|||
| |
|||
|群馬県[[渋川市]] |
|||
|群馬県渋川市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|大正橋||[[国道353号]]||||群馬県[[渋川市]]||群馬県渋川市|| |
|||
|[[坂東橋]] |
|||
|-bgcolor="lightgreen" |
|||
|国道17号 |
|||
|第一利根川橋||[[関越自動車道]]||1985||群馬県渋川市||群馬県渋川市|| |
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| |
|||
|群馬県渋川市 |
|||
|群馬県渋川市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|坂東橋||国道17号||1901||群馬県渋川市||群馬県渋川市||1959年架け替え |
|||
|[[新坂東橋]] |
|||
|国道17号 |
|||
| |
|||
|群馬県[[前橋市]] |
|||
|群馬県[[北群馬郡]][[吉岡町]] |
|||
|[[前橋渋川バイパス]] |
|||
|- |
|- |
||
|新坂東橋||国道17号||2010||群馬県[[前橋市]]||群馬県[[北群馬郡]][[吉岡町]]||[[前橋渋川バイパス]] |
|||
|[[上毛大橋]] |
|||
|[[群馬県道161号南新井前橋線]] |
|||
| |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|群馬県北群馬郡吉岡町 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
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|[[上毛大橋]]||[[群馬県道161号南新井前橋線|群馬県道161号]]||1997||群馬県前橋市||群馬県北群馬郡吉岡町|| |
|||
|[[大渡橋 (利根川)|大渡橋]] |
|||
|[[群馬県道6号前橋箕郷線]] |
|||
| |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
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|大渡橋||群馬県道6号前橋箕郷線|群馬県道6号||1921||群馬県前橋市||群馬県前橋市||1983年架け替え |
|||
|[[中央大橋]] |
|||
|[[群馬県道10号前橋安中富岡線]] |
|||
| |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
| |
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|- |
|- |
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|中央大橋||[[群馬県道10号前橋安中富岡線|群馬県道10号]]||1973||群馬県前橋市||群馬県前橋市|| |
|||
|[[群馬大橋]] |
|||
|国道17号 |
|||
| |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|[[高崎前橋バイパス|高前バイパス]] |
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|- |
|- |
||
|[[ |
|[[群馬大橋]]||国道17号||1953||群馬県前橋市||群馬県前橋市||[[高崎前橋バイパス]] |
||
|[[群馬県道27号高崎駒形線]] |
|||
| |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|群馬県高崎市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[利根橋]]||[[群馬県道109号石倉前橋停車場線|群馬県道109号]]||1885||群馬県前橋市||群馬県前橋市||1963年架け替え |
|||
|[[横手大橋]] |
|||
|[[群馬県道13号前橋長瀞線]] |
|||
| |
|||
|群馬県前橋市 |
|||
|群馬県高崎市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[平成大橋]]||||1991||群馬県前橋市||群馬県前橋市|| |
|||
|[[福島橋]] |
|||
|[[群馬県道40号藤岡大胡線]] |
|||
| |
|||
|群馬県[[佐波郡]][[玉村町]] |
|||
|群馬県佐波郡玉村町 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[南部大橋]]||||1978||群馬県前橋市||群馬県前橋市|| |
|||
|[[玉村大橋]] |
|||
|[[群馬県道40号藤岡大胡線]] |
|||
| |
|||
|群馬県[[佐波郡]][[玉村町]] |
|||
|群馬県佐波郡玉村町 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[昭和大橋 (群馬県)|昭和大橋]]||[[群馬県道27号高崎駒形線|群馬県道27号]]||1986||群馬県前橋市||群馬県[[高崎市]]|| |
|||
|[[五料橋]] |
|||
|[[国道354号]] |
|||
| |
|||
|群馬県[[伊勢崎市]] |
|||
|群馬県佐波郡玉村町 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[横手大橋]]||[[群馬県道13号前橋長瀞線|群馬県道13号]]||2001||群馬県前橋市||群馬県高崎市|| |
|||
|[[坂東大橋]] |
|||
|-bgcolor="lightgreen" |
|||
|[[国道462号]] |
|||
|利根川橋||[[北関東自動車道]]||2001||群馬県前橋市||群馬県高崎市|| |
|||
| |
|||
|群馬県伊勢崎市 |
|||
|[[埼玉県]][[本庄市]] |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[福島橋]]||[[群馬県道40号藤岡大胡線|群馬県道40号]]||1926||群馬県[[佐波郡]][[玉村町]]||群馬県佐波郡玉村町||1985年架け替え |
|||
|[[上武大橋]] |
|||
|[[群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線|群馬県道・埼玉県道14号<br/>伊勢崎深谷線]] |
|||
| |
|||
|群馬県伊勢崎市 |
|||
|埼玉県[[深谷市]] |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[玉村大橋]]||群馬県道40号||2001||群馬県佐波郡玉村町||群馬県佐波郡玉村町|| |
|||
|[[新上武大橋]] |
|||
|[[国道17号]] |
|||
| |
|||
|群馬県[[太田市]] |
|||
|埼玉県深谷市 |
|||
|[[上武道路]] |
|||
|- |
|- |
||
|[[五料橋]]||[[国道354号]]||1969||群馬県[[伊勢崎市]]||群馬県佐波郡玉村町|| |
|||
|[[刀水橋]] |
|||
|[[国道407号]] |
|||
| |
|||
|群馬県太田市 |
|||
|埼玉県[[熊谷市]] |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[坂東大橋]]||[[国道462号]]||1926||群馬県伊勢崎市||埼玉県[[本庄市]]||1930年架け替え |
|||
|[[利根大堰#武蔵大橋|武蔵大橋]] |
|||
|[[栃木県道・群馬県道・埼玉県道20号足利邑楽行田線|栃木県道・群馬県道・埼玉県道20号<br/>足利邑楽行田線]] |
|||
| |
|||
|群馬県[[邑楽郡]][[千代田町]] |
|||
|埼玉県[[行田市]] |
|||
|[[利根大堰]] |
|||
|- |
|- |
||
|[[上武大橋]]||[[群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線|群馬・埼玉県道14号]]||1934||群馬県伊勢崎市||埼玉県[[深谷市]]|| |
|||
|[[昭和橋 (利根川)|昭和橋]] |
|||
|[[国道122号]] |
|||
| |
|||
|群馬県邑楽郡[[明和町 (群馬県)|明和町]] |
|||
|埼玉県[[羽生市]] |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[新上武大橋]]||国道17号||1992||群馬県[[太田市]]||埼玉県深谷市||[[上武道路]] |
|||
|[[埼玉大橋]] |
|||
|[[埼玉県道46号加須北川辺線]] |
|||
| |
|||
|埼玉県[[加須市]] |
|||
|埼玉県加須市 |
|||
| |
|||
|- |
|- |
||
|[[刀水橋]]||[[国道407号]]||1922||群馬県太田市||埼玉県[[熊谷市]]||1943年架け替え |
|||
|[[利根川橋 (国道4号)|利根川橋]] |
|||
|[[国道4号]] |
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| |
|||
|[[茨城県]][[古河市]] |
|||
|埼玉県[[久喜市]] |
|||
|[[日光街道]] |
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|- |
|- |
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|[[利根大堰#武蔵大橋|武蔵大橋]]||[[栃木県道・群馬県道・埼玉県道20号足利邑楽行田線|栃木・群馬・埼玉県道20号]]||1968||群馬県[[邑楽郡]][[千代田町]]||埼玉県[[行田市]]||[[利根大堰]] |
|||
|[[新利根川橋]] |
|||
|国道4号 |
|||
| |
|||
|茨城県[[猿島郡]][[境町]] |
|||
|茨城県猿島郡[[五霞町]] |
|||
|[[新4号国道|春日部古河バイパス]] |
|||
|- |
|- |
||
|[[昭和橋 (利根川)|昭和橋]]||[[国道122号]]||1962||群馬県邑楽郡[[明和町 (群馬県)|明和町]]||埼玉県[[羽生市]]|| |
|||
|[[境大橋]] |
|||
|-bgcolor="lightgreen" |
|||
|[[茨城県道・千葉県道17号結城野田線|茨城県道・千葉県道17号<br/>結城野田線]] |
|||
|利根川橋||[[東北自動車道]]||1972||群馬県邑楽郡明和町||埼玉県羽生市|| |
|||
| |
|||
|茨城県[[猿島郡]][[境町]] |
|||
|[[千葉県]][[野田市]] |
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| |
|||
|- |
|- |
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|[[埼玉大橋]]||[[埼玉県道46号加須北川辺線|埼玉県道46号]]||1972|||埼玉県[[加須市]]||埼玉県加須市||完成時は有料 |
|||
|[[下総利根大橋]] |
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|[[茨城県道・千葉県道162号岩井関宿野田線|茨城県道・千葉県道162号<br/>岩井関宿野田線]] |
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| |
|||
|茨城県[[坂東市]] |
|||
|[[千葉県]][[野田市]] |
|||
|[[下総利根大橋有料道路]] |
|||
|- |
|- |
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|[[利根川橋 (国道4号)|利根川橋]]||[[国道4号]]||1924||[[茨城県]][[古河市]]||埼玉県[[久喜市]]||[[日光街道]]<br/>2009年架け替え |
|||
|[[芽吹大橋]] |
|||
|[[茨城県道・千葉県道3号つくば野田線|茨城県道・千葉県道3号<br/>つくば野田線]] |
|||
| |
|||
|茨城県[[坂東市]] |
|||
|[[千葉県]][[野田市]] |
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| |
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|- |
|- |
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|[[新利根川橋]]||国道4号||1981||茨城県[[猿島郡]][[境町]]||茨城県猿島郡[[五霞町]]||[[新4号国道|春日部古河バイパス]] |
|||
|[[新大利根橋]] |
|||
|[[茨城県道・千葉県道47号守谷流山線]] |
|||
| |
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|茨城県[[取手市]] |
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|千葉県[[柏市]] |
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|[[茨城県道・千葉県道47号守谷流山線|守谷街道]] |
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|- |
|- |
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|[[境大橋]]||[[茨城県道・千葉県道17号結城野田線|茨城・千葉県道17号]]||1964||茨城県猿島郡[[境町]]||[[千葉県]][[野田市]]|| |
|||
|[[大利根橋]] |
|||
|-bgcolor="lightgreen" |
|||
|[[国道6号]] |
|||
|[[下総利根大橋有料道路|下総利根大橋]]||[[茨城県道・千葉県道162号岩井関宿野田線|茨城・千葉県道162号]]||1990||茨城県[[坂東市]]||千葉県野田市||[[下総利根大橋有料道路]] |
|||
| |
|||
|茨城県取手市 |
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|千葉県[[我孫子市]] |
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|[[水戸街道]] |
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|- |
|- |
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|[[芽吹大橋]]||[[茨城県道・千葉県道3号つくば野田線|茨城・千葉県道3号]]||1958||茨城県坂東市||千葉県野田市|| |
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|[[栄橋 (我孫子市・利根町)|栄橋]] |
|||
|-bgcolor="lightgreen" |
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|[[千葉県道・茨城県道4号千葉竜ヶ崎線]] |
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|[[利根川橋 (常磐自動車道)|利根川橋]]||[[常磐自動車道]]||1981||茨城県[[守谷市]]||千葉県[[柏市]]|| |
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| |
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|茨城県[[北相馬郡]][[利根町]] |
|||
|千葉県我孫子市 |
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|- |
|- |
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|[[新大利根橋]]||[[茨城県道・千葉県道47号守谷流山線|茨城・千葉県道47号]]||1980||茨城県[[取手市]]||千葉県柏市||[[茨城県道・千葉県道47号守谷流山線|守谷街道]]<br/>完成時は有料 |
|||
|[[若草大橋]] |
|||
|[[茨城県道・千葉県道68号美浦栄線]] |
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|茨城県北相馬郡利根町 |
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|千葉県[[印旛郡]][[栄町]] |
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|[[若草大橋有料道路]] |
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|- |
|- |
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|[[大利根橋]]||[[国道6号]]||1930||茨城県取手市||千葉県[[我孫子市]]||[[水戸街道]]<br/>1974年架け替え |
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|[[長豊橋]] |
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|[[国道408号]] |
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|茨城県[[稲敷郡]][[河内町]] |
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|千葉県[[成田市]] |
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|- |
|- |
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|[[栄橋 (我孫子市・利根町)|栄橋]]||[[千葉県道・茨城県道4号千葉竜ヶ崎線|千葉・茨城県道4号]]||1971|||茨城県[[北相馬郡]][[利根町]]||千葉県我孫子市|| |
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|[[水郷大橋]] |
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|-bgcolor="lightgreen" |
|||
|[[国道51号]] |
|||
|[[若草大橋]]||[[茨城県道・千葉県道68号美浦栄線|茨城・千葉県道68号]]||2006||茨城県北相馬郡利根町||千葉県[[印旛郡]][[栄町]]||[[若草大橋有料道路]] |
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|[[斜張橋]] |
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|茨城県[[稲敷市]] |
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|千葉県[[香取市]] |
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| |
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|- |
|- |
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|[[長豊橋]]||[[国道408号]]||1967||茨城県[[稲敷郡]][[河内町]]||千葉県[[成田市]]|| |
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|[[利根川大橋]] |
|||
|[[茨城県道・千葉県道260号谷原息栖東庄線|茨城県道・千葉県道260号<br/>谷原息栖東庄線]] |
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|茨城県[[神栖市]] |
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|千葉県[[香取郡]][[東庄町]] |
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|[[利根川河口堰]] |
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|[[水郷大橋]]||[[国道51号]]||1977||茨城県[[稲敷市]]||千葉県[[香取市]]|| |
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|[[利根かもめ大橋]] |
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|-bgcolor="lightgreen" |
|||
|[[茨城県道・千葉県道198号銚子波崎線]] |
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|[[利根川橋 (東関東自動車道)|利根川橋]]||[[東関東自動車道]]||1987||千葉県香取市||千葉県香取市|| |
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|茨城県神栖市 |
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|千葉県[[銚子市]] |
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|[[銚子新大橋有料道路]] |
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|- |
|- |
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|[[小見川大橋]]||茨城・千葉県道44号||1973||千葉県香取市||千葉県香取市|| |
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|[[銚子大橋]] |
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|- |
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|[[国道124号]] |
|||
|[[利根川河口堰|利根川大橋]]||[[茨城県道・千葉県道260号谷原息栖東庄線|茨城・千葉県道260号]]||1971||茨城県[[神栖市]]||千葉県[[香取郡]][[東庄町]]||[[利根川河口堰]] |
|||
| |
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|-bgcolor="lightgreen" |
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|茨城県神栖市 |
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|[[利根かもめ大橋]]||茨城・千葉県道198号||2000||茨城県神栖市||千葉県[[銚子市]]||[[銚子新大橋有料道路]] |
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|千葉県銚子市 |
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|- |
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|[[銚子大橋]]||[[国道124号]]||1962|||茨城県神栖市||千葉県銚子市|| |
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|} |
|} |
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{{座標一覧|article=Category:利根川の橋}} |
|||
{{-}}<!-- ←これがないと次の表の幅が狭くなる --> |
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== |
=== 鉄道 === |
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[[ファイル:Chiba Prefectural Railways Noda Line.JPG|200px|thumb|利根運河を渡河する[[千葉県営鉄道]]野田線。]] |
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* [[島村渡船]]([[群馬県道295号新地今泉線]]) |
|||
[[ファイル:LineMap JobanAndTX.png|200px|thumb|利根川下流域における鉄道路線の一部([[常磐線]]・[[つくばエクスプレス]]など)。]] |
|||
* [[赤岩渡船]]([[埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線]]) |
|||
[[ファイル:Kawarayuonsen Station Bldg.jpg|200px|thumb|JR[[吾妻線]][[川原湯温泉駅]]駅舎。八ッ場ダムが完成すれば現駅舎は水没する。]] |
|||
* [[小堀の渡し|小堀渡船]] |
|||
[[1872年]](明治5年)の[[新橋駅]] - [[横浜駅]]間における鉄道開業以降、関東地方では急速に鉄道網の整備が進められた。[[1880年]](明治14年)には日本初の[[私鉄]]である[[日本鉄道]]が発足<ref group="注">1906年に国有化され、路線は国鉄を経て再度の民営化により現在は東日本旅客鉄道の所有である。</ref>。[[1883年]](明治16年)に[[上野駅]] - [[熊谷駅]]間を開通させたのを皮切りに翌1884年には[[高崎駅]] - [[前橋駅]]間が、1891年には日本鉄道奥州線(現・[[東北本線]])、1895年には日本鉄道土浦線(現・[[常磐線]])が[[田端駅]] - [[土浦駅]]間で開通した。こうした鉄道網発達に伴い利根川にも鉄道[[橋梁]]が建設され、[[1885年]](明治18年)に利根川初の橋梁である'''東北本線利根川橋梁'''が完成、続いて[[1896年]](明治29年)には'''常磐線利根川橋梁'''が完成した<ref name="100nenn129">『利根川百年史』p.129</ref>。 |
|||
* [[富田渡船]] |
|||
日本鉄道による利根川流域の鉄道網整備は他社を刺激し、以後続々と鉄道の敷設が進む。1894年に[[総武本線#総武鉄道|総武鉄道]](現・[[総武本線]])、[[1897年]](明治30年)に成田鉄道(現・[[成田線]])、[[1903年]](明治36年)に[[東武鉄道]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]の利根川橋梁が完成し3年後の[[1906年]](明治39年)[[羽生駅]] - [[川俣駅]]間が開通。[[1911年]](明治44年)に[[千葉県営鉄道]]野田線(現・[[東武野田線]])、[[1916年]](大正5年)には流山[[軽便鉄道]](現・[[流鉄]])がそれぞれ運行を開始した<ref name="100nenn129"/>。こうした鉄道網の整備は道路網の整備と並行して進められており、陸上交通網が発達することで水運から輸送の座を奪った。特に千葉県営鉄道野田線と流山軽便鉄道の開通はそれまで水運を利用していた野田の[[醤油]]、流山の[[みりん]]製造業が鉄道輸送に切り替えたことで水運業者は大打撃を受け、後に利根運河が廃止される一因にもなった。また1909年に開通した[[両毛線]]は沿線の栃木県[[足利市]]や群馬県[[桐生市]]の[[織物]]業輸送に利用され、鬼怒川方面からの流通が水運から離れたことも水運衰退の要因となっている<ref name="100nenn129"/>。 |
|||
== 利根川ゆかりのもの == |
|||
*旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[重巡洋艦]]にこの[[川]]から名前をとった「[[利根 (重巡洋艦)|利根]]」がある。 |
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*[[前田金属工業]]の工具ブランド「TONE」は利根川を語源としている。 |
|||
*この利根川を境にして、北側が[[北関東]]、南側が[[南関東]]と呼ばれる事がある。 {{see also|北関東}} |
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利根川流域の鉄道網は戦後に入ると東京への通勤に利用するための鉄道網整備が進められ、[[複線化]]や複数の[[鉄道会社]]による[[相互乗り入れ]]などによる路線拡充が行われたほか、新規路線の整備も進められ2005年の[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]開通まで多くの鉄道路線が整備された。利根川における橋梁で最も新しいのがつくばエクスプレス利根川橋梁である。現在利根川本流を渡河する鉄道路線は上流から[[上越線]]、両毛線、東武伊勢崎線、[[東武日光線]]、東北本線、[[東北新幹線]]、つくばエクスプレス、常磐線、[[鹿島線]]があり、流域内には[[東日本旅客鉄道]]の[[上越新幹線]]、[[長野新幹線]]、[[信越本線]]、[[吾妻線]]、[[高崎線]]、[[八高線]]、[[武蔵野線]]、[[日光線]]、[[水戸線]]、総武本線、成田線、[[京葉線]]が走行し、私鉄では先述の東武鉄道、流鉄のほか[[京成電鉄]]、[[新京成電鉄]]、[[東葉高速鉄道]]、[[北総鉄道]]、[[銚子電鉄]]、[[秩父鉄道]]、[[上信電鉄]]、[[上毛電鉄]]、[[わたらせ渓谷鉄道]]、[[真岡鐵道]]、[[野岩鉄道]]、[[関東鉄道]]、[[鹿島臨海鉄道]]といった私鉄各社の本線・支線が縦横に走行している。また[[地下鉄]]では[[都営新宿線]]、[[東西線]]が江戸川下流域を走行する。これらの鉄道路線は特に利根川以南の路線で年間の利用旅客数が多く、カスリーン台風のような大水害が発生すれば首都圏の鉄道網が大規模に寸断される危険性がある。 |
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== 利根川写真集 == |
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<gallery> |
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画像:MusashiOhashiToneRiver.jpg|武蔵大橋。群馬県千代田町側から |
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画像:Tone River Shouwa Bridge.JPG|昭和橋。群馬県明和町側から |
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画像:Tonegawabashi.jpg|利根川橋。国道4号。茨城県古河市側から |
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画像:ToneRiver_Ootonebashi.JPG|大利根橋(我孫子市-取手市)より北方向 |
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画像:Tonegawa.jpg|千葉県・茨城県の県境を流れる利根川 |
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画像:Tonegawa Toride.jpg|[[大利根橋]]より見る利根川 |
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画像:FujiTonegawa.jpg|[[前橋市]][[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[群馬総社駅]]近辺を蛇行する利根川 |
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ファイル:Estuary of Tone river 20081229.jpg|利根川河口 |
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</gallery> |
|||
鉄道に関しては河川開発による路線変更例がある。草木ダムでは当時の[[日本国有鉄道|国鉄]][[足尾線]](現・わたらせ渓谷鉄道)の一部区間が水没するため、事業者の水資源開発公団と国鉄の間で特殊補償交渉が行われた。最大の問題点はダムによって水没する[[草木駅]]の存廃であったが、結果的にダム湖右岸部に[[草木トンネル]]を建設し[[神戸駅 (群馬県)|神戸駅]] - [[沢入駅]]間を繋ぐことになり、草木駅は廃止された<ref>『利根川百年史』p.1401</ref>。吾妻線に関しては八ッ場ダムの建設により路線の一部が水没するため、現在付け替え工事が検討されているがダム事業見直しに伴い今後の見通しは不透明である。ダムが完成した場合は[[川原湯温泉駅]]が水没する。また沼田ダム計画の折には上越線の一部区間と[[沼田駅]]、[[岩本駅]]が水没するためダム湖沿いに新路線と新沼田駅の建設が予定されていたが、1972年にダム計画が中止となるに及んでこれらの路線変更計画も白紙となった<ref>[http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_08.pdf 産業計画会議『東京の水は利根川から - 8億トンの沼田ダムを建設せよ』]2011年5月26日閲覧</ref>。上越新幹線は関越自動車道と共に沼田市街地を大きく迂回しているが、これは沼田ダム建設が念頭にあったという[[新潟大学]][[名誉教授]](河川工学)の大熊孝による指摘がある<ref>[http://www.pref.gunma.jp/gikai/z1111027.html 群馬県議会八ッ場ダム対策特別委員会議事録]2011年5月26日閲覧</ref>。 |
|||
== 関連項目 == |
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* [[新利根川]] |
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なお、利根川上流域に当たる群馬県と新潟県、長野県境は[[勾配]]が急なため、鉄道の敷設に関し特別な対策が取られていた。上越線上りでは湯檜曽川沿岸を走る[[土合駅]] - [[湯檜曽駅]]間に[[ループ線]]が設けられている。一方信越本線では[[碓氷川]]沿岸を走る[[横川駅]] - [[軽井沢駅]]間<ref group="注">1997年長野新幹線開通に伴いこの区間は廃止される。</ref>に[[アプト式#アプト式ラックレール|アプト式ラックレール]]を用いた[[ラック式鉄道]]を1893年より日本で唯一採用していたが、1963年に廃止されている<ref group="注">アプト式ラックレールはその後1990年に[[長島ダム]]([[大井川]])建設に伴う[[大井川鐵道井川線]]付け替えにおいて[[アプトいちしろ駅]] - [[長島ダム駅]]間で採用され復活している。</ref>。 |
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* [[古利根川]] |
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{| class="wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:small;" |
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* [[手賀沼]] |
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|+ <strong style="font-size:middle;">利根川の鉄道橋梁<ref name="100nenn130"/> |
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* [[印旛沼]] |
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* [[足尾鉱毒事件]] |
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!橋梁 |
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* [[茨城県道503号古河坂東自転車道線]] - 渡良瀬川・利根川に沿って整備されている[[自転車道]] |
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!鉄道路線 |
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* [[利根サイクリングコース]] |
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!供用年<ref group="注">年代は特記しない限り路線開通年とする。</ref> |
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* [[利根川橋]] |
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!上り側最寄駅 |
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* [[日本二十五勝]] |
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!下り側最寄駅 |
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!備考 |
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|上越線第八利根川橋梁||[[上越線]]||1931||[[水上駅]]||[[湯檜曽駅]]|| |
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|上越線第七利根川橋梁||上越線||1931||水上駅||湯檜曽駅|| |
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|上越線第六利根川橋梁||上越線||1931||水上駅||湯檜曽駅|| |
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|- |
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|上越線第五利根川橋梁||上越線||1924||[[岩本駅]]||[[沼田駅]]|| |
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|- |
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|上越線第四利根川橋梁||上越線||1924||[[津久田駅]]||岩本駅|| |
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|- |
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|上越線第三利根川橋梁||上越線||1924||津久田駅||岩本駅|| |
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|- |
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|上越線第二利根川橋梁||上越線||1924||津久田駅||岩本駅|| |
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|- |
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|上越線第一利根川橋梁||上越線||1924||[[渋川駅]]||[[敷島駅]]|| |
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|両毛線利根川橋梁||[[両毛線]]||1909||[[新前橋駅]]||[[前橋駅]]|| |
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|東武伊勢崎線利根川橋梁||[[東武伊勢崎線]]||1903||[[羽生駅]]||[[川俣駅]]||1962年改築 |
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|東武日光線利根川橋梁||[[東武日光線]]||1929||[[栗橋駅]]||[[新古河駅]]|| |
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|東北本線利根川橋梁||[[東北本線]]||1885||栗橋駅||[[古河駅]]||1980年改築 |
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|東北新幹線新利根川橋梁||[[東北新幹線]]||1974||[[大宮駅]]||[[小山駅]]||年代は橋梁の完成年 |
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|つくばエクスプレス利根川橋梁||[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]||2005||[[柏田中駅]]||[[守谷駅]]|| |
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|常磐線利根川橋梁||[[常磐線]]||1896||[[天王台駅]]||[[取手駅]]||1959年改築 |
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|常磐線新利根川橋梁||常磐線||1977||天王台駅||取手駅|| |
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|[[鹿島線利根川橋梁]]||[[鹿島線]]||1970||[[十二橋駅]]||[[潮来駅]]|| |
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|} |
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== 観光 == |
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[[ファイル:Kegon falls nikko 2006-11-04.jpg|200px|thumb|[[日光国立公園]]・国の[[名勝]]・[[日本の滝百選]]に指定・選定された[[華厳滝]]([[大谷川 (日光市)|大谷川]])。]] |
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[[ファイル:Kusatsu yubatake 200503.jpg|200px|thumb|[[草津温泉]]の源泉である湯畑。[[上信越高原国立公園]]。]] |
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利根川流域には[[自然公園]]が多く存在し、その中に山、湿原、峡谷、滝、湖沼などの[[景勝地]]や[[温泉]]が存在する。また多くの[[文化財]]や観光地も存在する。これらの多くは先述した道路網や鉄道網の発達で首都圏からの交通アクセスも至便であることから、多くの観光客が訪問する。また河川施設や河川自体についても地域の観光資源や身近な[[レクリェーション]]スポットとして多くの市民に利用されている。 |
|||
自然公園としては三国山脈、浅間山、草津白根山などを含んだ[[上信越高原国立公園]]、日光・鬼怒川を始めとした[[日光国立公園]]、[[至仏山]]・片品川源流の[[尾瀬国立公園]]といった[[国立公園]]、妙義山・荒船山を中心とした[[妙義荒船佐久高原国定公園]]や筑波山・霞ヶ浦・水郷一帯を中心とした[[水郷筑波国定公園]]の[[国定公園]]のほか、多くの[[県立自然公園]]が存在する。こうした自然公園内には多くの景勝地が存在するが、国の[[名勝]]や[[日本の滝百選]]、[[日本百名山]]に選定されたものも多い。国の名勝に指定されたものとして[[華厳滝]]と中禅寺湖、[[三波石峡]](神流川)、[[吾妻峡]](吾妻川)、[[吹割の滝]](片品川)が、日本の滝百選には華厳の滝・吹割の滝のほか[[霧降の滝]]、常布の滝、不動滝が、日本百名山には至仏山、谷川岳、[[平ヶ岳]]、[[巻機山]]、男体山、日光白根山、[[皇海山]]、[[武尊山]]、赤城山、草津白根山、[[四阿山]]、浅間山、筑波山が選定。国の[[天然記念物]]には十六島ホタルエビ発生地(千葉県)、三波川の[[サクラ]]と吹割の滝(群馬県)が指定され[[浅間山#浅間山熔岩樹型|浅間山熔岩樹型]]は国の[[特別天然記念物]]に指定されている<ref name="100nenn68">『利根川百年史』p.68</ref>。この他の景勝地としては湿原では戦場ヶ原、[[鬼怒沼|鬼怒沼湿原]]、玉原湿原など、峡谷では照葉峡・諏訪峡・綾戸渓谷(利根川)、[[高津戸峡]](渡良瀬川)、[[龍王峡]]と[[瀬戸合峡]](鬼怒川)など、湖沼では霞ヶ浦や中禅寺湖、榛名湖などがある。 |
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利根川流域には温泉が多く湧出し、関東地方に存在する主要な温泉地の多くは利根川流域内に存在する。この中には[[伊香保温泉]]、[[草津温泉]]、[[鬼怒川温泉]]といった日本で知名度の高い温泉郷が存在するほか、[[宝川温泉]]、[[水上温泉]]、[[四万温泉]]、[[猿ヶ京温泉]]、万座温泉、老神温泉、[[川治温泉]]、[[湯西川温泉]]など多数の温泉がある。[[霧積温泉]]は映画『[[人間の証明]]』の舞台にもなった。しかし川原湯温泉については八ッ場ダム建設に伴い現在の温泉は完成後に水没することから、現在代替の源泉と温泉地整備が図られているが進捗は遅れている。また矢木沢ダム建設により[[湯の花温泉]]が水没。猿ヶ京温泉や老神温泉は相俣ダム・薗原ダム建設に伴って一部の旅館が移転を余儀なくされている。景勝地・温泉以外の観光地としては草木湖畔の[[みどり市立富弘美術館]]、[[碓氷峠鉄道文化むら]]、[[日光江戸村]]、[[東武ワールドスクウェア]]、[[牛久大仏]]などがある。また夏には[[花火大会]]が流域の各所で行われ、冬には利根川上流域や鬼怒川上流域において多くの[[スキー場]]が営業する。 |
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利根川流域にある文化財としては[[国連教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]に登録されている日光東照宮などの日光社寺を始め、国の[[史跡]]・[[重要文化財]]として丸沼ダム、[[碓氷第三橋梁]]などの碓氷鉄道施設遺産群(群馬県)、足尾銅山跡(栃木県)、横利根閘門(茨城県)、[[伊能忠敬]]旧宅(千葉県)が、[[特別史跡]]として[[日光杉並木]]街道、[[大谷磨崖仏]]、常陸[[国分寺]]跡・常陸[[国分尼寺]]跡などがある<ref>『利根川百年史』p.67</ref>。県の史跡としては埼玉県が最多で見沼通船堀遺跡・[[鷲宮神社]]寛保治水碑・栗橋関所跡・川俣関所跡・石田堤・忍城・伊奈忠次墓などがあり、この他田中正造旧宅・[[二宮尊徳]]墓(栃木県)、榊原康政画像と墓など4箇所(群馬県)、[[熊沢蕃山]]墓(茨城県)がある<ref name="100nenn68"/>。 |
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なお、河川開発により建設されたダムや[[河川敷]]についてであるが、ダムは矢木沢・奈良俣・相俣・下久保・草木の各ダム湖が所在自治体の推薦により[[ダム湖百選]]に財団法人[[ダム水源地環境整備センター]]より選定されている。川治ダムでは観光用の日本初国産[[バス|水陸両用バス]]の運行が開始され鬼怒川地域の新たな観光スポットとなったほか<ref>[http://www.tochigiji.or.jp/8689.html 社団法人栃木県観光物産協会『とちぎ観光・物産ガイド』]2011年5月27日閲覧</ref>、毎年夏に矢木沢・奈良俣両ダムの[[放流 (ダム)#試験放流|試験放流]]が実施され多くの観光客が訪れるなど<ref>[http://www.water.go.jp/kanto/numata/ 独立行政法人水資源機構沼田総合管理所]2011年5月27日閲覧</ref><ref group="注">2011年は行われない。</ref>観光資源として活用されている。また利根川中流・下流部の河川敷は広大であることから多くの流域住民が散歩や[[スポーツ]]、[[サイクリング]]などに利用しており、[[ゴルフ場]]も多く存在する。利根川水系河川整備計画策定に当たり流域住民に行ったアンケートによれば河川敷の利用について様々な意見が出されたが、[[ラジコン飛行機]]の使用については愛好家が河川敷に専用の場所を設けるよう要望する一方でそれに反対する住民もいるほか、[[イヌ]]の散歩による糞に対する苦情や[[水上バイク]]利用に対する苦情も多く出されており、河川をレクリェーションの場として整備する方針を掲げている国土交通省は対応に苦慮している<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/river/shihon/river_shihon00000145.html 国土交通省関東地方整備局『利根川水系に関するご意見』]2011年5月27日閲覧</ref>。 |
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== 民俗 == |
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[[ファイル:Teganuma in Ciba Japan.jpg|200px|thumb|手賀沼の[[河童]]像。]] |
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[[ファイル:San002.JPG|200px|thumb|戸ヶ崎香取神社([[三郷市]])の[[三匹獅子舞]]。毎年7月に行われる。]] |
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利根川流域の[[民俗]]は、当然ながら水に関するものが多い。古くより暴れ川として洪水の被害を多くもたらした利根川の流域住民は、自己防衛として「'''水塚'''」と呼ばれる洪水を避けるための家屋を建てている。この家屋は利根川中流部の群馬県館林市・邑楽郡、栃木県足利市・栃木市、茨城県古河市、埼玉県加須市に集中して築造された<ref>『利根川百年史』p.91</ref>。「水塚」は[[納屋]]や[[母屋]]よりも高い位置に造られ、『板倉町史』によれば概ね3 - 5メートルの[[盛土]]上に建てられている。これは谷田川堤防の高さとほぼ同一であり、非常用の備蓄食糧や農作業に必要な農具などを格納し洪水時には[[仏壇]]を避難させた。また「'''揚舟'''」と呼ばれる小舟を軒下に吊るし、非常時には物資輸送や避難民救助に使用した。この「水塚」は[[木曽川]]の「水屋」と同様の水防システムであり、加須市を中心に[[輪中]]も存在していた<ref>『利根川百年史』pp.92-93</ref>。これらはカスリーン台風の際にも有効に機能している。 |
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水害より流域を守るため[[水神]]に捧げる[[人身御供]]も行われていた。一例として埼玉県幸手市には「'''順禮'''(じゅんれい)'''供養塔'''」が建立されているが、これは利根川の洪水で堤防決壊寸前の所に偶然通りかかった母子連れの[[巡礼]]者が人柱として自ら川に入水し、洪水と堤防決壊を抑えた。このため住民がこの母子を供養し水防の守護神として祀るために建立したという伝承である<ref>『利根川百年史』p.101</ref>。利根川上流域や鬼怒川下流域では「川の流れは3[[尺]]流れれば水神様が清める」という信仰が伝わっており、[[湧水]]や沢、堰付近に水神を祀る水神宮が存在し、正月には供物を捧げたほか群馬県利根郡では「お茶祭り」という祭礼も行われた。弘法大師・[[空海]]の伝説も各所に残り、「弘法清水」・「弘法[[井戸]]」と呼ばれる湧水や井戸が利根川流域にも広く分布している<ref>『利根川百年史』pp.100-101</ref>。群馬県邑楽郡板倉町にある雷電神社は[[雷]]を呼んで[[雨乞い]]をする習慣の中で、[[雷神]]を祀っている<ref>『利根川百年史』p.102</ref>。 |
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水神信仰に関連して'''[[河童]]'''の伝説も利根川流域には伝わる。河童は利根川が流域の農業・漁業資源をもたらすことからその恩恵対象として信仰される一方で、洪水という災害を招く意味での[[妖怪]]という両面の意味で表現されている。流域に伝わる伝承の多くは人間に悪戯を働くため住民に捕らえられ、謝罪する際のお詫びとして河童秘伝の薬法を伝授するという内容であり、河童の薬法を基にした家伝薬が伝わっているという。また『望海毎談』という書物には「子っこ」という河童が居て、毎年その居を変えるが河童が居るところには災いが多いと記している<ref>『利根川百年史』pp.101-102</ref>。牛久沼にも河童の伝説は多く、牛久沼畔で暮らした[[日本画]]家の[[小川芋銭]]は1938年に『河童百図』という河童の画集を発表している。 |
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利根川流域に伝わる民俗芸能は自然を背景として農業を主とした生産活動に深く関連する。最も多く分布するのが'''[[獅子舞]]'''で、三匹一組の[[三匹獅子舞]]が大きな特徴である。悪霊退散の祈願や収穫感謝の祝いとして上流部・中流部を中心に多く行われ、埼玉県は日本一の獅子舞王国とされている。発展形として獅子の代わりに水神である[[龍]]を用い龍頭舞とする地域もある。年頭には'''御歩射'''(おびしゃ)という[[弓]]で的を射てその年の[[豊作]]・[[凶作]]を占う神事が千葉・茨城県境の利根川下流部一帯で行われていたほか、村祭りでは神楽や囃子が行われた。また農作業や織物、さらには堤防建設の際に歌われる「作業歌」も民俗芸能として伝わっている<ref>『利根川百年史』pp.102-103</ref>。 |
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== 利根川に関連する人物 == |
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*[[北条氏政]] - 後北条氏第四代当主。関宿城を獲得し利根川の水運を掌握。'''権現堂堤'''を建設する。 |
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*[[松平忠吉]] - 徳川家康四男。武蔵国忍城主時代に利根川東遷事業の端緒である'''会の川締切'''を行う。 |
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*[[榊原康政]] - 徳川家康家臣で徳川四天王の一人。利根川本流の本格的な堤防となる'''文禄堤'''を建設する。 |
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*[[伊奈忠次]] - 徳川家康家臣。'''備前渠用水'''を始め利根川の治水・利水事業に深く関わる。忠次以降12代伊奈忠尊まで続く'''関東郡代'''・伊奈氏の初代。 |
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*[[井沢為永]] - 通称弥惣兵衛。享保の改革で徳川吉宗により勘定吟味役に取り立てられ、'''見沼代用水'''を建設する。 |
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*[[田沼意次]] - 江戸幕府老中。印旛沼の干拓と放水路事業を計画し実行に移すが、反対派により失脚。 |
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*[[水野忠邦]] - 江戸幕府老中。天保の改革において印旛沼干拓と放水路事業を計画するが、反対派により失脚。 |
|||
*[[ローウェンホルスト・ムルデル]] - 近代利根川治水事業の創始者。利根川の計画高水流量を初めて算出。'''利根運河'''建設の総指揮を執る。 |
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*[[田中正造]] - [[衆議院議員]]。'''足尾鉱毒事件'''を告発。'''渡良瀬遊水地'''建設に反対する。 |
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*[[徳田球一]] - 衆議院議員・日本共産党書記長。『利根川水系の綜合改革』を著し利根川総合開発の私案を発表。'''房総導水路'''・'''武蔵水路'''構想を最初に発案。 |
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*[[松永安左エ門]] - [[東邦電力]]社長・[[産業計画会議]]議長。「電力の鬼」と呼ばれた実業家。日本最大の多目的ダム計画・'''沼田ダム計画'''を立案。 |
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*[[前原誠司]] - 衆議院議員。鳩山由紀夫内閣の国土交通大臣時代に'''八ッ場ダム事業中止'''を決断するが、流域自治体・水没予定地住民の反発を招く。 |
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== 参考文献 == |
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本記事において参考にした文献([[PDF]]を含む)と[[ウェブサイト]]を列記する。なおPDFとウェブサイトのリンクについては脚注節の「出典」(次項)を参照。 |
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=== 書籍・PDF === |
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*尾崎三吉『尾瀬原・只見川・利根川の水力発電概要』土木学会誌第33巻5・6号、土木学会。1948年 |
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*建設省『国土総合開発特定地域の栞』1951年 |
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*建設省[[河川局]]監修・財団法人[[ダム技術センター]]編『日本の多目的ダム 補助編 1990年版』[[山海堂]]。1990年 |
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*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』山海堂。1963年 |
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*国土交通省『平成21年全国一級河川の水質現況』2009年 |
|||
*国土交通省河川局『利根川水系河川整備基本方針』2005年 |
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*国土交通省河川局河川計画課『新たな基準に沿った検証の対象とするダム事業を選定する考え方について』2009年 |
|||
*財団法人国土開発技術研究センター・利根川百年史編集委員会編『利根川百年史』建設省関東地方建設局。1987年 |
|||
*財団法人日本自然保護協会『自然保護』 - 河口堰は河川生態系を大幅に変えた - 1998年 |
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*財団法人水資源協会編『水資源開発公団30年史』水資源開発公団。1992年 |
|||
*産業計画会議編『東京の水は利根川から - 8億トンの沼田ダムを建設せよ』[[ダイヤモンド社]]。1959年 |
|||
*[[社団法人]][[日本河川協会]]監修『河川便覧 平成十六年版』国土開発調査会。2004年 |
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*[[常陽新聞]]新社編『流域紀行 - 鬼怒・小貝』常陽新聞新社。1992年 |
|||
*全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第78号、1992年 |
|||
*高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』[[鹿島出版会]]。2006年 |
|||
*千葉県県土整備部河川環境課『平成16年千葉県水害報告書』2007年 |
|||
*徳田球一『利根川水系の綜合開発 - 社会主義建設の礎石』日本共産党出版局。1949年 |
|||
*内閣府中央防災会議『利根川の洪水氾濫時の死者数・孤立者数等の公表について』記者発表資料。2008年 |
|||
*沼田市史編さん委員会編『沼田市史 通史編三』沼田市。2002年 |
|||
*別冊歴史読本『戦国の魁 早雲と北条一族』[[新人物往来社]]。2005年 |
|||
*臨時増刊歴史と旅『新編藩史総覧』[[秋田書店]]。1988年 |
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=== ウェブサイト === |
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*我孫子市『手賀沼水質情報』 |
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*行田市[[教育委員会]]『石田堤』 |
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*[[群馬県議会]]『八ッ場ダム対策特別委員会議事録』 |
|||
*古河日光発電株式会社『当社水力発電の歴史』 |
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*国土交通省関東地方整備局『利根川水系に関するご意見』 |
|||
*国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所 |
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*国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所 |
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*国土交通省関東地方整備局鬼怒川河川事務所 |
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*国土交通省関東地方整備局品木ダム水質管理所 |
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*国土交通省関東地方整備局利根川下流管理事務所 |
|||
*国土交通省関東地方整備局利根川上流管理事務所 |
|||
*国土交通省関東地方整備局利根川ダム統合管理事務所 |
|||
*国土交通省[[中国地方整備局]]浜田河川国道事務所『江の川の概要』 |
|||
*[[国立環境研究所]]『湖沼水質保全特別措置法に基づく指定地域』 |
|||
*埼玉県杉戸県土整備事務所『河川の改修や排水管理など』 |
|||
*埼玉県都市整備課『利根サイクリングコース』 |
|||
*財団法人日本ダム協会『ダム便覧』 |
|||
*産業技術遺産探訪『旧吾嬬橋』(個人サイト) |
|||
*写真集『手賀沼』(個人サイト) |
|||
*社団法人電力土木技術協会『水力発電所データベース』 |
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*社団法人栃木県観光物産協会『とちぎ観光・物産ガイド』 |
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*水力ドットコム『東京電力佐久発電所』(個人サイト) |
|||
*全国小水力利用推進協議会『小水力発電データベース』 |
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*全国流域連絡会議 |
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*草加市『綾瀬川放水路』 |
|||
*千葉県『印旛沼の諸元及び利水状況』 |
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*千葉県『手賀沼の諸元及び利水状況』 |
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*[[東北電力]]『三居沢電気百年館』 |
|||
*独立行政法人水資源機構利根導水総合事務所 |
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*独立行政法人水資源機構沼田総合事務所 |
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*独立行政法人水資源機構房総導水路管理所 |
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*[[農林水産省]]『疏水名鑑』 |
|||
*前橋観光コンベンション協会『前橋まるごとガイド』 |
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*八ッ場あしたの会『八ッ場ダムと発電』 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references /> |
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=== 注釈 === |
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<div class="references-small"><references group="注"/></div> |
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== |
=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Tone River}} |
{{Commonscat|Tone River}} |
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*[[一級水系]] |
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* [http://www.tonejo.go.jp/index.htm 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所] |
|||
*[[紀の川]] - 紀伊藩時代に井沢為永が河川事業を実施。利根川の河川事業に生かされる。 |
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* [http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/index.htm 国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所] |
|||
*[[荒川 (関東)|荒川]] - かつては利根川の支流で現在は利根川水系と一体化した河川事業を展開。 |
|||
* [http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/ara_02_01_01.htm 荒川の歴史] |
|||
*[[那珂川]] - 霞ヶ浦導水事業で利根川水系と連携。 |
|||
* [http://www.water.go.jp/index.html 独立行政法人水資源機構] |
|||
*[[多摩川]] - 利根川と並ぶ東京都の水源。 |
|||
*[[関東平野]] |
|||
*[[北関東]] - [[南関東]] |
|||
*[[利根 (重巡洋艦)]] - 軍艦名に利根川の名称を付ける。 |
|||
*[[承平天慶の乱#平将門の乱|平将門の乱]] - 平安時代に発生した[[承平天慶の乱]]の一つ。[[平将門]]が朝廷に反旗を翻し利根川流域を一時制圧。 |
|||
*[[享徳の乱]] - [[古河公方]]派と[[堀越公方]]派に分かれた室町時代の戦乱。旧利根川流路を境に東西関東が対立。 |
|||
*[[神流川の戦い]] - 1582年に神流川で起こった北条氏政と[[滝川一益]]の戦い。[[織田氏]]勢力が利根川流域より駆逐される。 |
|||
*[[日本のダムの歴史]] - [[日本ダム史年表]] |
|||
*[[ダム建設の是非]] |
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{{DEFAULTSORT:とねかわ}} |
{{DEFAULTSORT:とねかわ}} |
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[[Category:利根川水系|*]] |
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[[Category:関東地方の歴史]] |
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[[Category:関東地方の地理]] |
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[[Category:群馬県の河川]] |
[[Category:群馬県の河川]] |
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[[Category:埼玉県の河川]] |
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[[Category:茨城県の河川]] |
[[Category:茨城県の河川]] |
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[[Category:千葉県の河川]] |
[[Category:千葉県の河川]] |
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[[Category:埼玉県の一級河川]] |
[[Category:埼玉県の一級河川]] |
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[[Category:利根川水系|*]] |
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[[ca:Riu Tone]] |
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[[fi:Tone]] |
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[[hu:Tone folyó]] |
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[[id:Sungai Tone]] |
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[[it:Tone (fiume)]] |
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[[ru:Тоне (река)]] |
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[[uk:Тоне (річка)]] |
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[[zh:利根川]] |
[[zh:利根川]] |
2011年6月2日 (木) 13:43時点における版
利根川 | |
---|---|
水系 | 一級水系 利根川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 322 km |
平均流量 |
290.43 m3/s (栗橋観測所2001年平均値) |
流域面積 | 16,840 km2 |
水源 | 大水上山(群馬県) |
水源の標高 | 約1,800 m |
河口・合流先 | 太平洋(茨城県・千葉県) |
流域 | 茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・長野県 |
利根川(とねがわ Tone River)は大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ河川。河川法に基づく国土交通省政令により1965年(昭和40年)に指定された一級河川・利根川水系の本流である。「坂東太郎」の異名を持つ。河川の規模としては日本最大級の規模を持ち、東京都を始めとした首都圏の水源として日本の経済活動上重要な役割を有する、日本を代表する河川の一つである。
地理
群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、大水上山(標高1,840メートル)にその源を発し、高崎市付近までは概ね南へ流れる。烏川合流後は流れを東へと向け群馬県・埼玉県境を流れ、江戸川を分流させた後は概ね茨城県と千葉県の境を流れ、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の流路となっていたが、度重なる河川改修によって現在の流路となっている(後述)。流路延長は約322キロメートルで信濃川に次いで日本第二位、流域面積は約1万6,840平方キロメートルで日本最大の面積を有する日本屈指の大河川である。流域は神奈川県を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が長野県佐久市にも掛かっている。
利根川における上流・中流・下流の区分については、概ね下記の区間に分けられる[1]。
利根川の水源は大水上山であるが、その詳細が明らかとなったのは1954年(昭和29年)に群馬県山岳連盟所属の「奥利根水源調査登山隊」30名による水源までの遡行調査による[2]。水源に関する史料としては室町時代に著された源義経一代記である『義経記』が初出で、同書では現在のみなかみ町藤原付近を水源と記している。その後1640年代に成立した『正保国絵図』において大水上山の名称が初出したが、利根川の源流については江戸時代後期に入ると1835年(天保7年)に成立した『江戸名所図会』や1858年(安政5年)に成立した『利根川図志』において異説が出されるなど、長らく不明となっていた。明治以降本格的な調査が開始され、1894年(明治27年)と1926年(大正15年/昭和元年)と二度の探検を経て1954年に水源が確定する。さらに1975年(昭和50年)には群馬県による利根川源流域の総合学術調査が実施され、より詳細な実態が解明された[3]。
利根川の「大河の一滴」は大水上山北東斜面、標高1,800メートル付近にある三角形の雪渓末端より始まる。源流部は人跡未踏の険しい峡谷を形成し、大小の沢を集めた後奥利根湖へと注ぎ込む。矢木沢、須田貝、藤原ダム通過後南西に流路を変え、水上温泉付近で諏訪峡を形成しながら南へ流れる。みなかみ町月夜野で赤谷川を、沼田市で片品川を合流する辺りでは沼田盆地を形成するが、両岸は河岸段丘が発達している。沼田市から渋川市境に掛けては綾戸渓谷と呼ばれる渓谷を形成して蛇行、渋川市内で吾妻(あがつま)川を合わせると次第に川幅を広げ、前橋市、高崎市を通過し群馬県西毛地域を流域とする烏川を合流すると流路を東へ向け、伊勢崎市八斗島へ至る。
中流域に入ると利根川の川幅は急激に広くなり、群馬県佐波郡玉村町付近で約500メートル、埼玉県熊谷市妻沼付近では約900メートルにも及ぶ[4]。途中利根大堰で河水は武蔵水路などによって荒川へ分流するが、間もなく渡良瀬川を合流して茨城県猿島郡五霞町内を貫流した後、茨城・千葉県境を流れる。下流域においては野田市関宿で江戸川を、千葉県柏市で利根運河をそれぞれ分流するが対岸の茨城県守谷市で鬼怒川、取手市と北相馬郡利根町の境で小貝川が合流する。香取市付近で一旦千葉県内を流れるが利根川河口堰付近で再度県境を形成し、常陸利根川と黒部川を左右より合わせる。ここからは平均して900メートルから1キロメートルの広大な川幅を形成し[4]、神栖市・銚子市境において太平洋へと注ぐ。下流域には日本第二位の面積を有する霞ヶ浦を始め北浦、印旛沼、牛久沼、手賀沼など多くの天然湖沼を有する。
自然
利根川流域の自然は、上流・中流・下流において様相が大きく異なることが多い。本節では利根川流域における自然環境について詳述する。ただし水質については別掲して後述する。
気候・水文
利根川流域の気候は関東平野が表日本気候区に属しており、概ね温暖湿潤の気候である。しかし流域面積が広大なこともあって上流・中流・下流が一律に温暖湿潤という訳ではなく、季節により相違が見られる。降水量は年平均で1,300ミリと日本の年平均降水量1,700ミリに比較すると少ない[5]。
上流部は三国山脈などの高山地帯があり、冬季は雪が多く寒さが厳しい。1955年(昭和30年)から2002年(平成14年)の間における平均累積積雪量は大水上山源流部で16メートル、矢木沢ダム付近で10 - 14メートル、みなかみ町付近や片品川上流部などでは2 -10メートルとなっており[5]、最上流部は関東地方でも屈指の豪雪地帯である。しかしこの積雪が春季には融雪して利根川水系8ダムに注ぎ、首都圏の重要な水源となる。一方中流部については夏季は太平洋高気圧の影響で晴天が多いが暑さも厳しく、2007年(平成19年)8月16日に熊谷市で記録した40.9℃は同日記録した岐阜県多治見市と共に日本最高気温記録となった。また群馬県や栃木県では雷雨が多くなるのも特徴である。一方冬季には北西の乾燥した季節風が強く吹き、群馬ではこれを「上州のからっ風」・「赤城おろし」・「榛名おろし」とも呼ぶ[6]。下流部においては黒潮の影響もあり温暖であり中流部のような猛暑も少ないが、冬季には曇りの日が比較的多い[7]。降水量については中・下流部は夏季や秋の台風シーズンにその極期を迎える。
利根川は上記の気候的な要因もあり、大河川の割には年間流出量が約91.5億トンと日本海側の大河川(信濃川・阿賀野川など)に比べれば少ない。太平洋側に注ぐ一級河川本流では北上川に次ぐ流量であり、年平均の流量は埼玉県加須市栗橋の観測地点で毎秒290.43立方メートルである[8]。ただし利根川の年平均降水量は観測が開始された1900年(明治33年)以降一貫して減少傾向が続いており、平成に入ると多雨の年と少雨の年の降水量の差が顕著になっている[5]。
地形・地質
利根川流域の地質についてであるが、上流部では火山活動などによる地質形成が主体で、中・下流部の平野部については沖積平野が主体となっている。利根川最上流部の奥利根周辺は先第三紀の花崗岩類が多く占め、比較的堅固な地質となっている。それ以外の山地については主に新生代新第三紀の堆積岩が占め、関東山地、八溝山地、足尾山地は中生代から古生代に掛けて形成されたチャートや砂岩、粘板岩などの堆積岩が主体となっている[9]。烏川流域、特に神流(かんな)川一帯は三波川変成帯と呼ばれる地質であり、神流川の三波石峡や支流の三波川では三波石と呼ばれる緑色の結晶片岩が多く見られる。群馬県、栃木県を流れる支流の上流部の多くは多くの火山が存在し、これらの噴火活動による火山砕屑物層や風化した花崗岩、安山岩、凝灰岩などが地質の多くを占めている。このことから地すべりや土石流に伴う被害も多い(後述)。
中・下流部に広がる丘陵地帯や洪積台地は第四紀に形成され、古東京湾により堆積した砂や泥が主体の固結度の低い下総層群と呼ばれる海成地層などが主体である。この地層の上に関東ローム層が覆う。沖積低地は更新世の末期より完新世に掛けて形成された厚い沖積層が主体で、現在の東京湾沿岸部などでは最大で60メートルから80メートルもの厚みになる。これら洪積台地・沖積低地では第四紀に関東山地など関東平野を囲む周辺山地の隆起運動が活発になり、相対的に平野中央部が沈降する関東造盆地運動が本格化することで低地には上流から流れてきた土砂が沖積層に堆積。その後沈降していた平野中央部が隆起に転じたことから今度はそこに土砂が堆積し、現在の台地・低地となった[10]。こうして形成された山地や台地が現在利根川および利根川水系の分水界を形成する。分水界は群馬・新潟県境の三国山脈や群馬・栃木・福島県境の帝釈山脈、および茨城県から栃木県に掛けて広がる八溝山地が北側、群馬・長野・埼玉県境の関東山地が西側に位置し、これらの山地の南麓および東麓に降った雨が最終的に利根川へと注ぐ[10]。
三国山脈は太平洋と日本海の分水嶺であり、ここを境とし南麓は利根川本流を始め大小の沢の水源となるが北麓は魚野川、中津川などの信濃川水系となる[11]。男体山や日光白根山、尾瀬などが属する帝釈山脈は南麓、東麓に降った雨はそれぞれ鬼怒川、片品川として利根川へ合流するが、北西麓の一部では尾瀬沼が水源である只見川が流出し、阿賀野川に合流する阿賀野川水系の一部となっている。八溝山塊、鷲子山塊、鶏足山塊、筑波山塊を包括する八溝山地およびそれに連なる栃木県宇都宮市付近の台地、および茨城県中南部に分布する常総台地は南部については渡良瀬川や鬼怒川、小貝川さらに霞ヶ浦に注ぐ河川群として最終的に利根川へと合流するが、北部については箒川、荒川、涸沼川などの那珂川水系として別途太平洋へと注ぐ[12]。
関東山地北部、および浅間山や妙義山、荒船山といった群馬県、埼玉県西部に存在する山地は概ね東麓は吾妻川、烏川、小山川として利根川に注ぐが、埼玉県内の南麓は荒川水系の河川として荒川に合流し東京湾に注ぐ。また西麓は信濃川水系の小河川として信濃川(千曲川)に合流する。そして埼玉県北部の台地は第三紀より始まった地殻変動が、第四紀における海進期の影響で形成された古東京湾によって一旦海底となるがその後の海退期や赤城山、榛名山の発達、利根川・荒川上流より運搬された土砂の堆積などによって次第に台地が形成されたものである。この台地は加須市、幸手市、久喜市一帯で標高が低くなっており、この一帯に集まった水は利根川もしくは中川に注ぐ。一方南側は最終的に荒川へと合流するが、江戸時代以降の河川改修によりその様相は変化している[13]。
地下資源
利根川流域における地下資源としては金、銀、銅、マンガン、鉄といった金属資源や石灰石、硫黄、天然ガスなどの非金属資源が存在する。金属資源のうち特に銅については1973年(昭和48年)まで操業されていた足尾銅山が著名で、一時期は日本全国の銅産出量の40パーセント強におよぶシェアを誇っていた。その他では金・銀が利根川本流上流や鬼怒川上流の一部、マンガンは渡良瀬川流域、鉄は吾妻川上流域の一部に分布している[14]。
一方非金属資源としては硫黄が吾妻川上流域、石灰石が烏川流域で採掘される。また石材として栃木県の大谷石や群馬県の三波石が特産として知られ、塀や高級庭石として利用されている[14]。なお天然ガスについては利根川下流域一帯および江戸川下流域の千葉県北中部・東京都東部一帯が南関東ガス田として知られ、多くのガス田が存在した。1956年(昭和31年)以降天然ガス採掘が江戸川下流の東京都江東区、千葉県市川市・船橋市で活発となったが、工業用水道用途としての地下水過剰取水と相まって天然ガス採掘によりこの地域で地盤沈下が深刻化した。このため東京・千葉の両都県当局は当地の業者よりガス採掘権を1972年(昭和47年)に買い上げ、採掘を禁止したことで地盤沈下は収束に向かった。このため現在は天然ガス採掘は行われていない[15]。
植生・昆虫
利根川の植生についても、上流と中・下流域では様相が異なる。上流では山岳地帯が広がるが尾瀬や浅間山北麓では高山植物が多く自生、尾瀬や日光戦場ヶ原ではミズゴケやツルコケモモなどからなる高層湿原が存在する。また標高1,600メートル以上の高山地帯では常緑針葉樹林であるオオシラビソやコメツガ、標高700 - 800メートル付近ではブナやミズナラなどの樹木が自生している[16]。しかし渡良瀬川源流部の足尾山地については、足尾銅山の煙害(後述)によって植生が高度に破壊されている。
一方中流では常緑広葉樹林であるヤブツバキ・アカガシ・シイなどが従来自生していたが田地・宅地開発などによりその自生数は減少し、スギ・ヒノキなどの植林された樹木が多い。また河川敷ではヨシやススキのほか、スギナ・イヌダテ・カナムグラ・カヤツリグサなどが自生。下流部になるとコガマ・マコモなど多様な植物が自生する。ヨシの群落は中流から下流にかけての湖沼・湿地帯に見られるが特に渡良瀬遊水地には大規模なヨシ群落があり、日本唯一当地で自生しているハタケテンツキを始めミズアオイ・フジバカマなど絶滅危惧種が自生している。利根川流域に存在する植物種の総数は2002年の国土交通省調査により666種が確認されている。藻類では水質が貧栄養である上流部では少なく、中流・下流に入るとケイソウ類が主に分布。特に中流部ではチャヅツケイソウが広範囲に分布している。霞ヶ浦では水質の悪化により夏季にはミクロキスティスなどの異常繁茂によるアオコの大発生が問題化した[17][18]。外来種としては中流にはセイタカアワダチソウやブタクサが多く繁茂。下流にはアレチウリ、オオフサモ、ボタンウキグサが繁茂しているが特にアレチウリとオオフサモについては固有種への影響が大きいことから特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)により環境省から特定外来生物に指定され、河川管理者である国土交通省などが駆除を行っている[19]。
昆虫については同じ2002年調査で節足動物であるクモを含めて975種が生息しており、内訳は甲虫類が397種、チョウ類が170種、カメムシ類が125種、クモ類が84種の順となっている。分布については上流部の高山地帯にミヤマシロチョウ・ミヤマモンキチョウ・エルタテハやオゼイトトンボ・オオルリボシヤンマなどの山地・高山に分布する昆虫が生息している。一方中流部・下流部では一般的に見られる昆虫類のほか、湿地に限局的に生息するヒヌマイトトンボ・ベニイトトンボなどの種が見られる。生息する昆虫類の中には国蝶であるオオムラサキのほかムスジイトトンボ、アオマツムシなどの貴重な種が存在する[20][18]。
動物
動物については上流域にツキノワグマ、ニホンザル、ニホンジカといった大型種が生息するが、中流域や下流域では大型種は宅地・農地開発によって存在せず、キツネやタヌキ、ノウサギ、ニホンイタチ、アズマモグラなどが生息する。1994年の調査では哺乳類12種以上、爬虫類5種、両生類4種の生息が確認されているが、流域が高度に開発されていることもあり他の一級水系と比べると生物多様性に乏しい。上流域には局地的ではあるがハコネサンショウウオも生息する。外来種としてはヌートリアやマスクラット、ウシガエルが生息する[21][22]。
鳥類については植物や昆虫同様上流域と中・下流域で生息する種類が異なる。上流域にはオオワシ・イヌワシ・クマタカといった猛禽類やイワヒバリ、ホシガラスといった高山性の鳥類が生息。矢木沢ダムや藤原ダムといった利根川上流のダムにおいても飛来が確認されている[23][24]。このほか渓流などでカワセミやサンショウクイなども確認できる。中流部以降ではスズメやカラス、ホオジロなどのごくありふれた鳥類のほかヨシ群生地などでカイツブリなどが見られる。渡り鳥としてはオオハクチョウやコハクチョウが霞ヶ浦に飛来するほか、渡良瀬遊水地や渡良瀬川合流部付近は自然植生が豊富なこともありサシバ、チュウヒ、ノスリ、ホオアカなどの猛禽類やカモ、シギ、チドリ類が飛来、または定住する[21][22]。一方外来種としては2003年(平成15年)に取手市において特定外来生物であるソウシチョウの1個体が確認されている[19]。利根川流域に生息・飛来する鳥類は136種を数える[22]。
魚類・水生生物
魚類については8目13科43種が確認されており、上流ではイワナ・ヤマメ・カジカが主に、中流ではオイカワ・コイ・ギンブナ・モツゴ・ウナギなどが生息し、絶滅危惧種のゼニタナゴも一部に生息する。また下流ではボラやスズキ、ハゼ、カタクチイワシなどが遡上し、河口部ではクロダイやカレイといった海洋性の魚類も生息している。利根川においては固有種としてソウギョやハクレンといった中国よりの移入種が生息し、毎年夏になると国道4号利根川橋付近において産卵のために勢い良く飛び跳ねる姿を確認することができる[25][26]。
回遊魚としてはアユやサケが代表的で、サケについては利根川は太平洋側に注ぐ河川としてはサケ遡上の南限とされている[26]。回遊魚については江戸時代以降の用水路建設、また戦後の利根特定地域総合開発計画などでダムや堰が利根川流域に多く建設されたことから(後述)、一時これら回遊魚の遡上が大幅に減少した。特に河口から154キロメートル上流にある利根大堰はこれら回遊魚の遡上を大きく阻害する要因であった。このため堰を管理する水資源開発公団(現水資源機構)は1983年(昭和58年)からサケの遡上調査を開始すると共に1995年(平成7年)からは2年掛けて魚道の新設と改築を実施。また2005年には環境保護団体の要望を受け、アユの遡上・降下期に堰のゲートを開く運用が試験的に開始された。こうした官民の協力もあって利根大堰地点でのサケ・アユの遡上数は経年的に増加している[27]。その一方で利根川河口堰については完成以後ヤマトシジミの生息に影響を与えたなど環境保護団体から指摘を受けている[28]。一方特定外来生物として日本各地で問題となっているブラックバスやブルーギルは利根川流域についても河口堰上流の全域に広範な生息が確認され、チャネルキャットフィッシュも生息域が拡大している。またメダカを捕食するカダヤシの生息が確認された[19]。
水生・底生生物については177種が確認されているが、その主なものはトビケラやカワケラ、カゲロウ類で主に上流・中流域に多く生息している。一方下流域は河床(川底)が砂質・泥質主体となるので水生生物類の生息は少なくなり。代わりにヒメタニシ・サカマキガイ・ゴカイ・イトミミズなどが多く生息するようになる[25]。利根川下流域では山梨県甲府盆地や福岡県・佐賀県の筑後川下流域などと共に日本住血吸虫症の発生地として知られ、宿主であるミヤイリガイが生息していた[29]。現在ミヤイリガイは確認されていないが、代わりに特定外来生物で大量斃死(へいし)すると水質汚濁をひき起こすカワヒバリガイが我孫子市・印西市の利根川流域や霞ヶ浦で新たに確認されている[19]。
利根川水系は内水面漁獲量では日本全国の総漁獲量に占める割合が約30パーセントと、水系としては日本最大の漁場でありかつ首都圏という大消費地に近い。このため漁業協同組合の数も多く、流域一都五県で81組合が存在し第1種・第2種・第5種漁業免許を取得している[30]。
名称
利根川の名称は、『万葉集』巻第十四に収載されている「東歌」のうち「上野国の歌」にある以下の和歌が文献上の初出である[31]。
— 『万葉集』巻第十四、東歌「上野国の歌」
- 刀祢河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敞流伎美可母 (利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす 逢へる君かも)
この和歌の冒頭にある「刀祢河」がすなわち利根川のことである。意味は「利根川の浅瀬の場所もよく考えないで真っ直ぐに渡ってしまい、突然波しぶきに当たるように、ばったりお逢いしたあなたです」と解され、庶民女性による寄物陳思の表現様式を採る相聞歌である。これについて犬養孝は自著『万葉の旅(中)』において、上野国の歌でありかつ人が渡河できる程度の川幅であることから、歌に詠まれた利根川の位置は現在の沼田市から渋川市にかけてではないかと推定している[31]。
和歌に見える「刀祢」について、これまで様々な説が提唱されたが何れも定説となっておらず、真の意味は未だに不明である。主な説としては利根郡から来た説、水源地の辺りには尖った峰、すなわち「尖き峰(ときみね)」が多くそれが簡略転化したという説、水源である大水上山の別称が「刀嶺岳」・「刀祢岳」・「刀根岳」・「大刀嶺岳」と呼ばれ、それに由来する説[31]、「等禰直(とねのあたい)」あるいは「椎根津彦(しいねつひこ、とねつひこ)」という人名に由来する説[32]などがある。さらに語源をたどるとアイヌ語に行き着くとされるが、そのアイヌ語の解釈も諸説ある。一例として「長い」を意味する「タンネ(tanne)」[32]、「沼や湖のように広くて大きい河川」という意味[31]などがある。
一方、利根川の別称である「坂東太郎」については、足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた[33]。ちなみに同様の別称を付けられた河川としては九州地方最大の河川である筑後川が「筑紫次郎」、四国地方最大の河川である吉野川が「四国三郎」と呼ばれるほか、中国地方最大の河川である江の川が「中国太郎」と呼ばれることがある[34]。なお現在利根川は源流から河口まで一貫して「利根川」の名称が用いられており、信濃川や淀川、筑後川などのように所在地によって河川名が異なることはない[注 1]。
利根川水系
利根川の流域面積は約1万6,840平方キロメートルであり、比較すると広さは四国地方の面積の80パーセント[35]に相当する。この流域面積内を流れ最終的に利根川へと合流、あるいは分流する河川は全て利根川水系に属する。水系内を流れ最終的に利根川に合流する支流の数は815河川に上り、淀川水系の964河川、信濃川水系の880河川に次ぐ日本第三位の支流数である[36]。流域自治体は首都である東京都を始め茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県および長野県の一都六県211市区町村にまたがり、流域内には日本の人口の10パーセントに相当する約1,200万人が生活している[35]。
本流と流域自治体
利根川本流は大水上山の水源から太平洋の河口まで流路延長322キロメートルの長さを有するが、この間通過する自治体は群馬県、埼玉県、茨城県、千葉県の四県、25市14町1村に及ぶ。本流の管理については1896年(明治29年)に旧河川法の制定に伴い、翌1897年(明治30年)9月11日付内務省[注 2]告示第59号において管理指定河川区域が定められた。戦後1964年(昭和39年)の河川法改訂に伴い一級河川・二級河川の河川等級が導入されたことにより、翌1965年3月24日付建設省(国土交通省)政令で旧河川法下で定められた管理指定河川区域がそのまま一級河川の区域として指定された[37]。現在、河川法の上で一級河川に指定されている利根川の本流は、
- 上流端:群馬県利根郡みなかみ町大字大利根
- 下流端:茨城県神栖市波崎新港(左岸)および千葉県銚子市川口町(右岸)の河口
までとなっている[38]。このうち現在国土交通省が直轄で管理を行う「指定外区間」は、
となり、茨城県取手市と千葉県我孫子市を境として国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所と利根川下流河川事務所が分割して管理している。一方指定外区間の上流端より上流域の利根川は河川法第9条第2項に基づく「指定区間」として、国土交通省が群馬県知事に管理を委任している。このため高崎市以北を流れる利根川は群馬県が河川管理を行うが、矢木沢ダムと藤原ダムについてはそれぞれの人造湖の上流端からダム直下流に至る区間に限り、国土交通省が直轄管理を行う[注 3]。
流域県 | 流域市町村(上流より記載) |
---|---|
群馬県 | 利根郡みなかみ町、沼田市、利根郡昭和村、渋川市、北群馬郡吉岡町、前橋市、高崎市、佐波郡玉村町、伊勢崎市、太田市、邑楽郡大泉町、邑楽郡千代田町、邑楽郡明和町、邑楽郡板倉町 |
埼玉県 | 本庄市、深谷市、熊谷市、行田市、羽生市、加須市 |
茨城県 | 古河市、猿島郡五霞町、猿島郡境町、坂東市、守谷市、取手市、北相馬郡利根町、稲敷郡河内町、稲敷市、神栖市 |
千葉県 | 野田市、柏市、我孫子市、印西市、印旛郡栄町、成田市、香取郡神崎町、香取市、香取郡東庄町、銚子市 |
支流・分流と流域市町村
先述の通り利根川水系には支流が815河川存在するが、利根川に直接合流する一次支流には他の一級水系やその本流に匹敵する大河川が多い。支流で流路延長が最も長いのは鬼怒川の約176.7キロメートルであり、他の一級水系本流と比較すると同じ関東地方を流れる荒川(173キロメートル)に匹敵する。また流域面積が最も広大なのは渡良瀬川の約2,601.9平方キロメートルで、この面積は筑後川水系(2,863平方キロメートル)や岡山県・広島県を流域とする高梁川水系(2,670平方キロメートル)、富山県・岐阜県を流域とする神通川水系(2,720平方キロメートル)に匹敵する。流路延長では鬼怒川のほか渡良瀬川と小貝川が100キロメートルを超え、流域面積では渡良瀬川のほか吾妻川、烏川、鬼怒川、小貝川、常陸利根川が1,000平方キロメートルを超える広さを有する[36][41]。また利根川より分流する河川(派川)として千葉県野田市関宿で利根川本流より分流する江戸川、千葉県柏市で利根川本流より分流し江戸川に合流する利根運河がある。
なお、埼玉県と東京都を流域とする中川であるが、利根川には合流せず荒川と並走する形で東京湾へと注ぐ。このことから荒川水系と誤解され易いが、1964年の河川法改訂時における建設省河川審議会管理部会の見解によれば、中川は利根川の分流である江戸川の分流・旧江戸川に合流する新中川放水路に流入しているため、水系の定義である「本流より分流し直接海に流入する派川と、その派川に流入する支流の全ては同一水系に所属する」という建前から、河川法改訂後利根川水系が一級河川に指定される際に利根川水系に属する決定が下された[42]。このことから中川とその支流は利根川水系の河川であり、荒川水系ではない。また河川法改訂時に支流の名称も幾つか変更されており、従来常陸川・北利根川と呼ばれた河川は一括して常陸利根川と名称が統一され、江戸川については江戸川放水路を本流とし旧江戸川は分流(派川)扱いになり、新中川放水路は新中川の名称になっている[42]。
河川 | 流路延長 (km) |
流域面積 (km²) |
主要二次支流 | 主要湖沼 | 流域都県 | 流域市区郡 |
---|---|---|---|---|---|---|
楢俣川 | 15.0 | 111.9 | 湯の小屋川 | (ならまた湖) | 群馬県 | 利根郡 |
赤谷川 | 須川川 | (赤谷湖) | 群馬県 | 利根郡 | ||
片品川 | 60.8 | 673.1 | 大滝川 泙川 栗原川 根利川 |
(丸沼) 菅沼 大尻沼 (薗原湖) |
群馬県 | 沼田市・利根郡 |
吾妻川 | 76.2 | 1,365.9 | 万座川 白砂川 四万川 温川 名久田川 沼尾川 |
榛名湖 (田代湖) (上州湯の湖) (奥四万湖) (四万湖) |
群馬県 | 渋川市・吾妻郡 |
烏川 | 45.2 | 1,800.7 | 碓氷川 鏑川 神流川 |
(碓氷湖) (神流湖) (奥神流湖) |
長野県 | 佐久市 |
群馬県 | 高崎市・安中市・藤岡市・富岡市・甘楽郡・多野郡 | |||||
埼玉県 | 秩父市・児玉郡 | |||||
渡良瀬川 | 107.6 | 2,601.9 | 思川 秋山川 彦間川 松田川 桐生川 |
(草木湖) (梅田湖) (渡良瀬遊水地) |
群馬県 | みどり市・桐生市・太田市・館林市・邑楽郡 |
栃木県 | 日光市・足利市・佐野市・小山市・栃木市・鹿沼市・下都賀郡・上都賀郡 | |||||
茨城県 | 古河市 | |||||
鬼怒川 | 176.7 | 1,770.6 | 田川 大谷川 砥川 男鹿川 |
中禅寺湖 湯ノ湖 西ノ湖 鬼怒沼 (川俣湖) (八汐湖) (五十里湖) |
栃木県 | 日光市・宇都宮市・真岡市・下野市・河内郡・塩谷郡・芳賀郡 |
茨城県 | 筑西市・結城市・下妻市・守谷市・常総市・結城郡 | |||||
江戸川 | 54.7 | 200.3 | 利根運河 旧江戸川 |
千葉県 | 野田市・流山市・松戸市・市川市・船橋市・浦安市 | |
埼玉県 | 幸手市・春日部市・吉川市・三郷市・北葛飾郡 | |||||
茨城県 | 猿島郡 | |||||
東京都 | 葛飾区・江戸川区 | |||||
中川 | 82.2 | 986.7 | 権現堂川 大落古利根川 元荒川 大場川 綾瀬川 新中川 |
(行幸湖) | 埼玉県 | 羽生市・加須市・久喜市・幸手市・春日部市・越谷市・吉川市・草加市・ 三郷市・八潮市・北埼玉郡・南埼玉郡・北葛飾郡 |
東京都 | 足立区・葛飾区・江戸川区 | |||||
小貝川 | 111.8 | 1,043.1 | 五行川 谷田川 |
牛久沼 (母子島遊水池) |
栃木県 | 真岡市・芳賀郡・塩谷郡 |
茨城県 | 筑西市・下妻市・常総市・つくばみらい市・守谷市・取手市・龍ケ崎市・ つくば市・牛久市・真壁郡・結城郡・北相馬郡 | |||||
常陸利根川 | 27.5 | 2,156.7 | 桜川 恋瀬川 巴川 小野川 新利根川 鰐川 |
霞ヶ浦 北浦 外浪逆浦 与田浦 (南椎尾調整池) |
茨城県 | 土浦市・石岡市・稲敷市・かすみがうら市・小美玉市・行方市・鉾田市・ 鹿嶋市・神栖市・潮来市・桜川市・筑西市・つくば市・牛久市・稲敷郡 |
千葉県 | 香取市 |
(注)カッコ内の湖沼は人造湖(ダム湖)。
湖沼
利根川水系は一級水系の中では天然の湖沼が多く存在し、その中には日本第二位の面積を有する霞ヶ浦がある。湖沼の分布については下流に多く存在するが、これについては1910年(明治43年)に吉田東伍が著した『利根治水論考』においてその成り立ちについて論じられている。同書によれば1000年代の利根川下流域は香取海という巨大な湖沼が形成されており、霞ヶ浦を始め北浦、外浪逆(そとなさか)浦、印旛沼が全て一つの湖沼として繋がっていた[44]。その後鬼怒川や小貝川より運搬された土砂の堆積、江戸時代の河川改修と新田開発に伴う干拓などで香取海は次第に縮小し、現在の河道になったと論じている[45]。湖の成因として霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦は海跡湖に、その他下流域にある印旛沼、手賀沼、牛久沼、菅生(すごう)沼は何れも堰止湖に分類される。例外は古利根沼で、利根川の河川改修により旧流路が河川より分離・残存して誕生した湖沼である。なおかつては内浪逆浦が存在したが、干拓や河道改修により消滅している。
上流域に存在する天然湖沼はその多くが火山活動に伴って形成されたものである。中禅寺湖は男体山の噴火活動による溶岩流によって河川が堰き止められて形成され、榛名湖や赤城大沼は榛名山、赤城山の火山湖である。例外は栃木県日光市にある西ノ湖であり、元々中禅寺湖の一部だったのが分離して単独の湖を形成したものである。一方、同じ上流部には戦後盛んになった利根川水系の河川開発(後述)により多くのダムが建設され、それに伴い人造湖も多く誕生した。これら人造湖の中で最大の規模を有するのが利根川本流に建設された矢木沢ダムの人造湖・奥利根湖であり、その総貯水容量は2億430万立方メートルで関東地方最大[46]、貯水池面積は570ヘクタールと外浪逆浦に匹敵する[47]。このほか中・下流部には日本最大級の遊水池である渡良瀬遊水地(渡良瀬川)を始め、利根川本流の田中・菅生・稲戸井調節池、小貝川の母子島遊水池といった遊水池が存在する。
なお、霞ヶ浦は1961年(昭和36年)に制定された水資源開発促進法に基づき「湖沼水位調節施設」として常陸川水門を利用し多目的ダム化する霞ヶ浦開発事業が実施され[48][49]、印旛沼は1947年(昭和21年)より開始された印旛沼開発事業によって1969年(昭和44年)北部調整池と西部調整池に分割された[50][51]。何れも首都圏の治水と利水を目的に天然湖沼を利用する河川総合開発事業であった。このほか中禅寺湖は流出口に栃木県によって1959年(昭和34年)中禅寺ダムが建設され中禅寺湖の治水と華厳の滝の水量調節、および水力発電能力の増強が図られるなど[52]天然湖沼の開発が盛んに行われたのも利根川水系の天然湖沼における特徴である。
湖沼 | 所在地 | 流出河川 | 成因 | 汽水/淡水 | 標高(m) | 面積(km²) | 最大水深(m) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
霞ヶ浦(全体) | 茨城県・千葉県 | 常陸利根川 | 海跡湖 | 汽水/淡水 | 0 | 220.0 | 7.0 | 西浦・北浦・外浪逆浦などを包括 |
霞ヶ浦(西浦) | 茨城県 | 常陸利根川 | 海跡湖 | 淡水 | 0 | 167.6 | 7.0 | 湖沼水位調節施設 |
北浦 | 茨城県 | 鰐川 | 海跡湖 | 淡水 | 0 | 35.2 | 7.8 | 常陸利根川流域 |
中禅寺湖 | 栃木県 | 大谷川 | 堰止湖 | 淡水 | 1,269 | 11.8 | 163.0 | 鬼怒川流域 流出口に中禅寺ダムを建設 |
印旛沼 | 千葉県 | 長門川 印旛放水路 |
堰止湖 | 淡水 | 1.0 | 8.9 | 1.8 | 北部・西部調整池に分割 |
外浪逆浦 | 茨城県・千葉県 | 常陸利根川 | 海跡湖 | 汽水 | 0 | 5.9 | 23.3 | |
手賀沼 | 千葉県 | 手賀川 | 堰止湖 | 淡水 | 3.0 | 4.1 | 3.8 | |
牛久沼 | 茨城県 | 谷田川 | 堰止湖 | 淡水 | - | 3.49 | 3.0 | 小貝川流域 |
菅生沼 | 茨城県 | 飯沼川 | 堰止湖 | 淡水 | - | 2.3 | 2.0 | |
榛名湖 | 群馬県 | 沼尾川 | 火山湖 | 淡水 | - | 1.15 | 12.6 | 吾妻川流域 |
赤城大沼 | 群馬県 | - | 火山湖 | 淡水 | - | 0.88 | 12.6 | |
西ノ湖 | 栃木県 | - | 遺留湖 | 淡水 | - | 0.7 | - | 中禅寺湖より分離 |
湯ノ湖 | 栃木県 | 湯川 | 火山湖 | 淡水 | - | 0.31 | 12.0 | 鬼怒川流域 |
鬼怒沼 | 栃木県 | 鬼怒川 | 火山湖 | 淡水 | - | 0.134 | 3.0 | 環境省日本の重要湿地500 |
利根川開発史
利根川は「暴れ川」として流域に幾度となく大きな被害を与え、洪水の度に流路が複雑に変遷する河川であった。その一方で関東地方の母なる川として多くの恵みをもたらす河川でもあり、時の為政者たちは利根川とその支流を治水・利水の面でいかに制御して行くか様々な試みを行った。ここでは利根川本流の治水・利水を中心とした河川開発史について時系列で詳述するが、一部利根川水系の河川開発についても記載する。なお水運、水力発電に関する歴史については、別項目にて後述する。
中世以前
利根川流域に人が住むようになったのは旧石器時代の頃と見られ、河岸段丘や台地の末端部に居を構えて狩猟生活を行っていたことが群馬県の岩宿遺跡などで確認されている[54]。縄文時代には縄文海進の影響で現在の埼玉県加須市栗橋より下流の利根川は全て海となっており、その海岸周辺において人々が生活していた。これらは貝塚の分布によって示され、縄文前期には北は赤城山南麓・西麓や埼玉県さいたま市、元荒川流域に多く分布しているが、後期に入ると海退の影響でより下流に生活範囲が広がり、現在の千葉県千葉市、市川市、松戸市などに縄文後期の貝塚が多く見られる。弥生時代に入り稲作文化が関東地方にも伝わると、利根川の肥沃な土壌が稲作文化を発達させ次第に定住生活へと移行。3世紀後半の古墳時代に入ると現在の栃木県・群馬県両域に当たる毛野地方を中心に前方後円墳が多く造られ、埼玉県のさきたま古墳群を含め利根川流域に強力な勢力が存在していたことが推定されている[55]。しかし当時は治水という概念は存在せず、肥沃な土壌をもたらす利根川は洪水によって大きな被害を住民にもたらしていた。
江戸時代よりも前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県行田市付近で東と南の二股に分かれた後南東に流路を取り、以後は現在の大落古利根川の流路をたどりながら荒川や入間川を合わせ、東京湾へと注いでいた。このうち行田市付近では「会の川」という名称であった。また当時「太日川」という名称であった渡良瀬川は独立した河川として、現在の江戸川の流路を取りながら利根川と並走するするように東京湾へ流れ、鬼怒川は同じく独立した河川として小貝川を合わせ、香取海に注ぐ形態だった。利根川の本流は1457年(長禄元年)に太田資長(道灌)が現在の埼玉県春日部市から草加市を経て東京湾に注ぐ河川を本流に定めたとされている[56]。また上流部では現在よりも東側、すなわち広瀬川の流路をたどり、現在の伊勢崎市付近で烏川と合流していたが1543年(天文12年)[注 4]の洪水によって現在の流路が定まった[57]。このように複雑な流路を形成していた利根川は洪水により頻繁に流路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていた。記録に残る最も古い洪水の記録は、奈良時代の758年(天平宝字2年)における鬼怒川の洪水で、「鬼怒川氾濫して二千余頃[注 5]の良田を荒廃に帰せしめ・・・」と被害が記されている。
利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは768年(神護景雲2年)、鬼怒川筋での流路付け替えである[58]。一方利水については645年の大化の改新後施行された班田収授法で条里制が利根川流域にも実施されたのが初見であり、群馬県高崎市や太田市、茨城県南部、埼玉県北部にその遺構が確認されている[59]。中世利根川流域の河川開発に積極的だったのは鎌倉幕府で、将軍だった源頼朝は1194年(建久5年)には利根川では初となる堤防の建設を武蔵国で施工した。続いて1199年(正治元年)4月、頼朝は東国の地頭に対して農業用水を開発して開墾を行う命令を下した[60]。その後も幕府による利根川の開発は続けられ、1207年(承元元年)3月幕府は北条時房に武蔵国の開発を命じている[60]。治水事業についても1232年(貞永元年)には執権北条泰時の命により現在の埼玉県熊谷市に柿沼堤が、1253年(建長5年)には現在の茨城県猿島郡五霞町付近、下総国下河辺に堤防が築かれている[61]。これにより鎌倉時代の田地は平安時代に比べ約1万6,000町歩も多い6万6,710町歩となったことが『拾芥抄』に記されており、流域の農地開発は大いに進展した[60]。
室町時代の利根川流域は鎌倉公方の支配下にあったが政情は不安定で度々戦乱が勃発。治水・利水事業では見るべきものがなかった。戦国時代に入り利根川流域は伊豆国より勢力を伸ばした後北条氏により支配されたが、4代目当主北条氏政の代である1576年(天正4年)に長さ900メートルの権現堂堤が権現堂川に建設されている[61]。安土桃山時代に移り天下統一に向けて活発な軍事行動を繰り広げていた豊臣秀吉は、臣従の姿勢を見せない後北条氏に対し1590年(天正18年)小田原の役を起こすがこの際石田三成らに対して武蔵国忍城を水攻めにするよう命令した。6月三成は雨季で増水している利根川・荒川の河水を堤防で堰き止め、忍城を水没させて降伏・開城させる方針をとった。しかし地形上の影響で城内を浸水させることは出来ず、却って堤防が決壊し豊臣軍に大勢の犠牲者を出した。結局忍城は7月16日、後北条氏の本拠である小田原城開城後に降伏することになる。この時三成によって築造された堤防を石田堤と呼び、自然堤防などを利用した全長28キロメートルの堤防を一週間で築き上げている[62]。ただしこの堤防は軍事的側面で建設されたもので、利根川の治水には何ら関係がない。
江戸前期の河川事業
後北条氏の滅亡後、その旧領[注 6]は徳川家康に与えられ家康は江戸に本拠を定めた。家康は領国経営を直ちに開始するが利根川流域の河川改修も積極的に取り組んだ。最初に行われた事業は1594年(文禄3年)、忍城主であった家康の四男松平忠吉が行った会の川締切である。これは現在の行田市付近で二股に分流していた利根川のうち旧本流であった会の川を締切り、東方向に流路を一本化して渡良瀬川(太日川)に連結するものである。翌1595年(文禄4年)には徳川四天王の一人で上野館林城主であった榊原康政が、利根川左岸に総延長33キロメートル、高さ4.5 - 6メートル、天端(てんば)幅5.5 - 9.1メートルという堤防を建設した。これを文禄堤と呼び利根川における最初の本格的な大規模堤防である[63]。このほか同時期には中条堤も築かれている。これら利根川水系における河川事業は関ヶ原の戦いで家康が覇権を握り、1603年(慶長8年)家康が将軍となり江戸幕府を開いた後は三河譜代である家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏が中心的役割を果たして行く。忠次が手掛けた事業としては1604年(慶長9年)烏川を取水元とし利根川沿いに開削した総延長20キロメートルに及ぶ備前渠用水[注 7]や上野総社藩主・秋元長朝が開発した天狗岩用水下流に開削した代官堀などがある。忠次の系統は代官頭、後に関東郡代として12代伊奈忠尊までの間利根川水系の河川開発に携わるが、最大の事業として知られるのが利根川東遷事業である。
利根川東遷事業は東京湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする江戸時代最大級の治水事業であり、現在の利根川水系の基礎となった。事業の範囲または目的については東遷事業に関する明確な史料が存在せず、後世の研究者が様々な説や見解を挙げている。開始時期については1594年の会の川締切を挙げるものが多く栗原良輔、佐藤俊郎、本間清利が支持している。終了時期については本間の1698年(元禄11年)完了説が最も早く、根岸門蔵は1871年(明治4年)、河田羆は1890年(明治23年)の利根運河開通を以って完了としている。従って利根川東遷事業の明確な事業年数については不詳である。しかし目的については概ね以下の見解でコンセンサスが得られている[64]。
利根川東遷事業の主要な事業としてはまず1621年(元和7年)から1654年(承応3年)まで3回にわたる赤堀川開削がある。これは現在東北新幹線利根川橋梁が渡河する付近の茨城県古河市・五霞町間を開削し、1621年に伊奈忠治によって行われた利根川と渡良瀬川の連結事業である新川通開削[注 8]と連携して利根川の河水を東へ付け替える事業である[65]。続いて1629年(寛永6年)からはそれまで利根川の支流であった荒川が入間川流域に付け替えられ独立した水系となった。これを「荒川の西遷」と呼び旧流路は元荒川となって現在に至る[66]。1635年(寛永12年)から1644年(正保元年)に掛けては江戸川の開削が実施され、これにより関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成された[67]。さらに関宿より下流の鬼怒川・小貝川などの改修も行われ、1629年にそれまで鬼怒川に合流していた小貝川を独立した河川として分離。翌1630年(寛永7年)には小貝川下流を付け替えている。そして1662年(寛文2年)から1666年(寛文6年)に掛けて利根川と霞ヶ浦を連結する新利根川が開削され江戸時代前半期における治水事業は一応の区切りが付いた[68]。
江戸幕府における利根川を主に置いた河川行政は当初は伊奈氏が中心的役割を果たしている。東遷事業が最盛期を迎えていた1642年(寛永19年)3代将軍・徳川家光は伊奈忠治に対し堤防修築の総指揮を命じ、伊奈氏の河川行政に対する権限が強化された。しかし5代将軍・徳川綱吉の治世では伊奈氏は関東郡代に任じられたものの勘定奉行の管轄下に置かれ、相対的に権限は低下した。それでも伊奈氏の河川事業への関わりは強く、4代・伊奈忠克は葛西用水路を1660年(万治3年)に開削している。また小貝川流域においては伊奈忠治により1630年(寛永7年)に岡堰、5代・伊奈忠常によって1667年(寛文7年)豊田堰の原型となる堰[注 9]が建設され、1722年(享保7年)完成の福岡堰と共に「関東三大堰」と総称されている[69]。伊奈氏による河川工法は「伊奈流(関東流)」と呼ばれた。
江戸後期の河川事業
- 見沼代用水の項目も参照。
1716年(享保元年)紀伊藩主であった徳川吉宗が8代将軍となった。吉宗は享保の改革を推進するがその中で質素倹約と共に新田開発による年貢増徴により、厳しい幕府の財政建て直しを志向する。利根川の河川開発においては勘定吟味役として紀伊藩士であった井沢為永(弥惣兵衛)が60歳という高齢でありながら登用された。為永が実施した利根川水系の河川開発として著名なのが見沼代用水の開削である。
利根川中流の武蔵国北部・中部における農業用水の水源としては1604年開削の備前渠用水があるが、それ以前より見沼という沼を灌漑用水源として利用していた。見沼は伊奈忠治により寛永年間に現在のさいたま市緑区に八丁堤という締切堤が建設されてダム化し、「見沼溜井」として1660年開削の葛西用水路と共に重要な水源となっていた。しかし新田開発が進むに連れ灌漑用水の需要増により見沼溜井の供給量とのバランスが崩壊し、享保年間には用水不足が深刻化していた[70]。このため吉宗は為永に対し1725年(享保10年)9月、「見沼に代わる用水路」すなわち見沼代用水の開削と見沼の干拓を指示。現在の行田市に取水口を設け2万9,500間の用水を開削、星川を経由しさらに用水は東縁と西縁に分かれ旧見沼溜井の両縁に沿って南下する[71]。1728年(享保13年)に用水は完成し303村の田畑1万2,571町、石高換算で約14万9,136石の農地が灌漑の恩恵を受けることとなった。また見沼代用水を利用して1731年(享保16年)見沼通船堀が開削され、用水は舟運にも利用される多目的用水路へと変化した。なお通船堀に設けられた閘門はパナマ運河と同じ方式で舟を運行させるが、同形式としては日本最古の閘門である[72]。
また上野国内では現在の邑楽郡千代田町と明和町にまたがる利根加用水が建設された。1839年(天保10年)同地31村の名主が連名で利根川からの取水による用水開削を幕府に嘆願したのが始まりで、用水不足に悩む同地に対し利根川から谷田川に至る長さ700間の用水路が整備された。ところが落差不足で十分に通水できず、1846年(弘化3年)と1855年(安政2年)の二度にわたり用水路の改築が実施された[73]。
幕府による新田開発は次第に利根川下流域にも拡大するが、湖沼の干拓による新田開発も企図された。主なものとして手賀沼干拓と印旛沼干拓がある。手賀沼の場合は1636年(寛永13年)に干拓用排水路である弁天堀が開削され、1661年(寛文元年)に本格的な干拓計画が着手されたが挫折。1671年(寛文11年)に海野屋作兵衛の手により最初の干拓が成功し新田234町歩が開発された。しかし1676年(延宝4年)以降1729年(享保14年)、1739年(元文4年)の干拓計画は何れも洪水により挫折。1785年(天保5年)の幕府による大規模干拓事業も完成の間もなく利根川の大洪水で大きな被害を受けるなど満足な結果は得られなかった[74]。一方印旛沼干拓は1724年(享保9年)染谷源右衛門が幕府より6,000両を借用して開始したが資金不足で失敗。続く1783年(天明元年)には老中・田沼意次が、1840年(天保11年)には老中・水野忠邦が天保の改革の一環として印旛沼開発計画に着手したが、何れも計画立案した本人が失脚して中止され、結局実施されなかった[75]。利根川下流域の干拓で唯一成功したのが十六島開発で、現在の香取市(旧佐原市)周辺の十六島と呼ばれる砂州地帯の新田開発であるが、常陸国江戸崎城主だった常陸土岐氏の遺臣団が1590年より徳川家康の許可を得て上之島村を開拓したのを皮切りに、1640年(寛永17年)の磯山村開拓まで14村が開拓された[76]。
一方治水については1728年に徳川吉宗が井沢為永に江戸川の開削と庄内古川の分離工事を命じたほか、1742年(寛保2年)8月の利根川大水害後の復旧事業として寛保の御手伝普請が同年10月より着手され、長州藩・熊本藩・津藩など西国10藩に対し幕命による河川工事が行われた。この事業は木曽三川における薩摩藩の宝暦治水同様、外様大名の経済力を削ぐための大名統制策の一環でもあった[77]。しかし1783年(天明3年)7月に発生した浅間山大噴火は火砕流が吾妻川に流入して泥流となり利根川、さらには江戸川にまで押し寄せ河床の著しい上昇や堤防などの河川施設破壊によって洪水の危険性が増大した。この対策として堤防修築や川底の掘削、さらに1654年以来となる赤堀川の再掘削が1843年(天保14年)頃に実施され、江戸川の河水流入を制限するために「棒出し」と呼ばれる水制が同じく天保年間に建設されている[78][注 10]。なお、享保以降の幕府内における河川行政は勘定吟味役に井沢為永が重用されたほか、「普請役」や「四川奉行」[注 11]の改廃を経て河川行政は勘定奉行5名による分担任務となった。とはいえ普請を行うには関東郡代伊奈氏の決裁が必要とされ、伊奈氏の影響力はまだ高かった。しかし12代伊奈忠尊の時1792年(寛保4年)不行跡を理由に改易され、家康以来河川事業に深く関わった伊奈氏はその表舞台から消え以後幕末に至るまで勘定奉行支配下の「四川用水方普請役」が差配していく[79]。
江戸時代を通じ利根川東遷事業や浅間山噴火対策など幕府の治水事業により利根川の膨大な河水は渡良瀬川などと共にかつての香取海方面へと流下することとなった。これにより江戸を含めた武蔵国方面では水害の危険性が減少し、新田開発による石高の増加が著しくなった。さらに舟運・海運航路が整備され経済の大動脈として利根川が活用されるなどの効果をもたらした。反面利根川の水面よりも標高が低い霞ヶ浦など下流低地において逆に水害の危険を増幅させ、明治以降の利根川治水事業を困難にしたという副作用が生じている[80]。
近代の利根川治水事業
1868年(明治元年)に明治政府が誕生し、行政機構は大きな変化を遂げた。河川行政については数多の変遷を経て1874年(明治7年)に内務省が終戦後まで管掌することになり、利根川には1875年(明治8年)6月16日内務省土木寮利根川出張所が設置された。この出張所が現在の国土交通省関東地方整備局の発祥となる[82]。また1896年には旧河川法が公布され、利根川は同法の適用を受ける河川に指定された。以後、内務省主導による利根川の治水事業が進められて行く。
政府はオランダ式治水工法を日本各地の河川に導入するためファン・ドールンを招き1872年(明治5年)に利根川の測量調査などを進めたが[83]、具体化されたのは1886年(明治19年)にローウェンホルスト・ムルデルによって立案された利根川改修計画である[84]。これは現在の群馬県佐波郡玉村町から利根川河口までを対象に治水上の要所に堤防を築いて水害に対処するほか、利根運河を開削して水運の便を改良することが骨子であった。この時初めて利根川の計画高水流量が算出され、毎秒3,750立方メートルに定められた[85]。計画は第1期から第3期まで3分割で進められ、この間1890年(明治23年)には利根運河が完成した。
しかし1910年(明治43年)8月、関東地方を二つの台風が連続して襲来しそれに伴う前線の活発化によって利根川は当時最悪の洪水をもたらした。この明治43年8月洪水は死者769名を出す大災害となり、利根川は中流部において北は現在の前橋市・みどり市、西は富岡市から東は野田市、南は川越市に至る広範囲が浸水し関東平野中央部が一つの巨大な湖になった[86]。この水害を機に先の利根川改修計画は同年改訂され計画高水流量は毎秒5,570立方メートルに上方修正された。この時事業計画に上ったのが渡良瀬遊水地であり、当時深刻化していた足尾銅山の鉱毒問題解決に治水目的を付加させるとして正式な事業となった[87]。このほか堤防や護岸建設、横利根閘門(1921年)・印旛水門(1922年)・小野川水門(1923年)の新設、利根川下流の新河道開削(1889年 - 1922年)、権現堂川の利根川との締切(1926年)が本流域で施工され[88]、江戸川では分流部に関宿水門と関宿高水路(1927年)を建設して利根川からの分流量を調節するほか、下流部では江戸川放水路を開削(1920年)し流下能力を増強させた。これら一連の利根川改修計画は江戸川放水路の補修が完了した1930年(昭和5年)に一応の完成を見た[89]。この間1923年(大正12年)の関東大震災により利根川中流部で堤防の損壊が116箇所発生し、その復旧も行われている[90]。
利根川改修計画が完成した後も利根川の洪水は度々発生し1935年(昭和10年)9月と1938年(昭和13年)6月 - 7月、1941年(昭和16年)7月には改修計画で定めた計画高水流量をはるかに上回る洪水が記録された。特に1938年の洪水は利根川下流部で浸水被害が深刻となり、往時の香取海が再現されたかの浸水範囲となった[91]。事態を重視した内務省は改修計画に替わる新しい利根川の治水計画策定を検討、荒川放水路建設の総指揮を執った内務省内務技監青山士(あきら)を委員長とする「利根川治水専門委員会」を設立。計画高水流量を一挙に毎秒1万立方メートルに改める利根川改修増補計画が1938年に第73回帝国議会で承認され、翌1939年(昭和14年)より着手された[92]。この計画における主要事業は渡良瀬遊水地の洪水調節池化と、利根川放水路の建設にある。それまでの渡良瀬遊水地は洪水時に自然に貯留する性格のものであったが、遊水地周囲を堤防で囲み洪水時にはより多くの河水を貯水する調整池に改良する計画とした。一方利根川放水路計画は現在の千葉県我孫子市布佐(JR布佐駅付近)を起点として印旛沼西端を通過し、現在の千葉市花見川区検見川町と海浜幕張間付近で東京湾に至る総延長27キロメートルの放水路を建設し、利根川下流の水位を2メートル減少させるほか手賀沼・印旛沼の治水と干拓、利根運河に代わる大規模運河としての利用、さらに掘削残土を埋立地に利用して工業地帯を造成するという多目的の放水路計画である。このほか田中・菅生調節池(利根川)の新規遊水池計画、小貝川付替計画、利根運河の放水路化、利根川中流部の堤防強化が事業内容に盛り込まれた[93]。
計画はまず緊急な対応が迫られていた昭和10年9月洪水の被害地周辺部の堤防強化を優先、利根川応急増補工事として1937年(昭和12年)に前倒しで開始された。渡良瀬遊水地は堤防建設を開始。利根運河は利根運河株式会社から内務省が運河を買収して利根川からの締切と掘削工事を開始、小貝川では岡堰の可動堰化工事などが開始されたが利根川放水路については用地買収が遅々として進まず、その上太平洋戦争の激化により予算・資材・人員不足が深刻化。増補計画は一時中断した状態で終戦を迎えた[94]。このため利根川の治水は不完全な状態となり治水安全上の不安が憂慮されたが、それは戦後直ちに現実のものとなる。
利根特定地域総合開発計画
1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与えた。特に利根川は現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都葛飾区・江戸川区にまで達した。また烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は日本全国で1,910名であったが利根川流域だけで1,100名が死亡している[95]。当時の日本は治水事業の停滞と森林の乱伐による荒廃により各地で水害が頻発。人的・経済的被害は膨大なものとなっていた。水害の続発が敗戦で疲弊した日本経済にさらなる悪影響を及ぼすことを懸念した内閣経済安定本部は、内務省解体後河川行政を継承した建設省に対し新たな河川改修計画の作成を命じた。これが河川改訂改修計画であり、日本の主要10水系[注 12]を対象に治水・砂防の総合的対策が検討された。この中で利根川は従来の利根川改修増補計画をさらに改定した利根川改訂改修計画が1949年(昭和24年)に策定されたが、この際に導入されたのがダムによる治水対策である。
既に利根川水系では1926年、鬼怒川支流の男鹿川に五十里ダムを建設する計画が立てられていたが、地質の問題や戦争などがあり事業は中断していた。しかしカスリーン台風の被害を受けて利根川の計画高水流量は毎秒1万7,000立方メートルに上方修正され、内毎秒1万4,000立方メートルを堤防、渡良瀬・田中・菅生・稲戸井の四遊水池および利根川放水路にて調節し、残り毎秒3,000立方メートルを上流のダム群で調節する方針が採られた。この時利根川上流域では19箇所のダム建設候補地が検討されたが、最終的に決定を見たのは藤原・沼田(利根川)、相俣(赤谷川)、薗原(片品川)、八ッ場(吾妻川)、坂原(神流川)の6ダム計画であった。また鬼怒川では五十里ダムに加え川俣ダム(鬼怒川)が、渡良瀬川では草木ダムの前身にあたる神戸ダム(渡良瀬川)が計画される。これらのダム計画は1956年(昭和31年)の五十里ダムを皮切りに藤原(1957年)、相俣(1959年)の各ダムが完成し、ダム事業は進展を見る。一方下流部においては新規に常陸利根川拡幅を主軸とする霞ヶ浦放水路、小貝川付替、利根川河口導流堤、行徳可動堰(江戸川)などの計画が立てられた[96]。
この当時治水に並ぶ喫緊の課題としては極端な食糧と電力の不足があり、これを解決させるために1926年東京帝国大学教授だった物部長穂が提唱した河水統制という概念が戦前より内務省によって河水統制計画として錦川などで始まり、戦後テネシー川流域開発公社(TVA)を模範とした河川総合開発事業として治水のほか水力発電、灌漑などを目的に積極的に進められていた。こうした河川開発を強力かつ広範囲に実施すべく1950年(昭和25年)、当時の第3次吉田内閣は国土総合開発法を制定し日本の22地域[注 13]を対象とした特定地域総合開発計画を推進。利根川水系も対象地域に指定され翌1951年(昭和26年)12月に利根特定地域総合開発計画が閣議決定された[97]。これ以降利根川の河川事業は利根川水系全体にわたり、治水・利水の両面を目的とした総合開発計画に移行する。
利根川水系における河川総合開発は1936年に当時の東京市が主体となって実施した江戸川河水統制事業が最初であり、江戸川水閘門を利用して新規用水を確保するものであった[98]。続いて群馬県が水力発電を主目的として利根川最上流部にダムを建設する群馬県利根川河水統制計画を1937年に着手、これに1940年東京市による東京市第三次水道拡張事業の水源として共同参加したが、戦争により実現には至らなかった[99]。戦後利根川改訂改修計画の策定で治水事業が先行したが、利根特定地域総合開発計画の立案により大規模河川総合開発へと発展した。同計画は改訂改修計画の治水・砂防事業に加え計画ダム群の多目的ダム化、尾瀬原ダム(只見川)から片品川への導水(尾瀬分水)を含む水力発電計画、印旛沼・手賀沼干拓、両総用水建設(1970年)、および国道4号、国道6号などの道路網整備を包括した大規模事業であり、この計画において現在首都・東京の最大の水源である矢木沢ダム(利根川)が初登場する[100]。
なおこの頃利根川の治水や利水について様々な案が提唱された。その一例として日本共産党書記長であった徳田球一による案がある。徳田は1949年に『利根川水系の綜合改革 - 社会主義建設の礎石 - 』という冊子を発表。その中で利根川の惨状は封建徳川と帝国主義天皇制の責任であると断じた上で[101]利根川放水路・霞ヶ浦放水路・小貝川付替による下流部治水に加え、江戸川・古利根川・元荒川を大拡張し、さらに埼玉県本庄市から東京都立川市まで利根川と多摩川を連結する大運河を設けて水運と灌漑、上水道・工業用水道に利用。房総半島では利根川と房総半島の小河川を繋ぐ運河を千葉県茂原市まで建設して積極的な干拓を図るとした。また山間部には多数のダムを積極的に建設するほかソビエト連邦より大量の木材を輸入して植林を図ることも重要であると論じた[102]。費用については独占資本家や大ヤミ業者から8,000億円を徴収することで賄えるとも述べている[103]。この案は建設省によって採用されたものではないが、後年徳田の構想に近似した形で武蔵水路や房総導水路が建設されている。
利根川水系水資源開発基本計画
利根特定地域総合開発計画が進められていた当時の日本は朝鮮戦争に伴う特需景気以降経済成長が著しく、高度経済成長に突き進み始める時代だった。経済成長は急激な工業用水道需要の増大を招いたほか、人口も東京を中心に増加が顕著となり上水道需要も次第にひっ迫するに至った。1957年(昭和32年)には東京都の水源として小河内ダムが多摩川に完成するも、需要はさらに増加し遂には1964年(昭和39年)東京砂漠と呼ばれる東京都大渇水が起きる。また農業技術の進歩は耕地拡大を加速させ農業用水の不足を招き、こうした状況下で1958年(昭和33年)利根川下流域を中心とした昭和33年塩害が発生。農地への被害が甚大となった。こうした理由もあり豊富な水量を持つ利根川水系の水利用が緊急の課題となる。
1961年水資源開発促進法が制定され翌1962年(昭和37年)水資源開発公団、現在の独立行政法人水資源機構が発足。利根川と淀川を対象とした水資源広域総合開発が開始された[注 14]。公団は利根川水系水資源開発基本計画を策定して水系の水資源総合開発に着手した。まず矢木沢ダム(1967年)と下久保ダム(神流川。1968年)を水源とし中流部に利根大堰を建設(1969年)、利根導水路(武蔵水路・朝霞水路)建設により利根川と荒川を連結して東京都水道局の三郷浄水場へ導水して東京都への水需要を満たす方針とした。これら施設のほか公団は利根川下流に利根川河口堰(1971年)を建設し塩害防止と首都圏の水供給を強化するほか、上流部には群馬用水を建設(1969年)し赤城山・榛名山麓の新規開墾を促進させ、中流部では見沼代用水や埼玉用水路の整備による関東中央部の灌漑強化、印旛沼開発による印旛沼干拓(1968年)、房総導水路(1997年)による房総半島中南部への利水を次々と実施した[104][105]。さらに日本第二の湖沼である霞ヶ浦も首都圏の水がめとすべく常陸川水門(1963年)を利用してダム化する霞ヶ浦総合開発事業も実施(1996年)[106]。草木ダム(1976年)、奈良俣ダム(楢俣川。1991年)なども完成し首都・東京を中心とした首都圏の治水・利水が強化された。なお利根導水路により利根川水系と荒川水系が連結されたことで、両水系を一体化した総合開発が不可欠になったことから1974年(昭和49年)本計画は利根川・荒川水系水資源開発基本計画と改組された。
利根川は1964年の河川法改訂により一級河川に指定され、以後建設省を中心とした治水事業が継続して実施された。1965年(昭和40年)治水の新指針となる利根川水系工事実施基本計画が策定され、以降数度に及ぶ改定が行われ現在は毎秒2万2,000立方メートルを基本高水流量として改修を行っている。この間渡良瀬遊水地の調節池化が1997年に完成、さらに遊水地内に貯水池を設けて多目的ダム化する渡良瀬貯水池が1989年(平成元年)完成し治水・利水が強化された。田中調節池(1965年)、菅生調節池(1960年)といった遊水池も完成[107]。ダムでは薗原ダム(1965年)、川俣ダム(1965年)、川治ダム(鬼怒川。1983年)が完成し首都圏の治水・利水に供されている。また内水氾濫の防止、新規用水の確保と水質汚濁が顕著だった手賀沼の水質改善を目的に利根川と江戸川を結ぶ多目的人工河川(流況調整河川)である利根川広域導水事業・北千葉導水路(2000年)が建設された。なおこの事業において利根運河が野田導水路として1978年(昭和53年)に復活している。さらに中川、大落古利根川などの洪水を江戸川に流下させるため2007年(平成18年)には世界最大級の地下河川である首都圏外郭放水路が完成している[108]。
利根川および利根川水系は連綿と続いた治水・利水事業により日本の経済活動上・国民生活上極めて重要な河川として大きな位置を占めている。現在利根川水系河川整備計画の策定が国土交通省により進められているが、その前段階として利根川水系河川整備基本方針が示されている。この方針では堤防・護岸整備や既存の河川施設を維持・整備するほか、八ッ場ダム、湯西川ダム(湯西川)、南摩ダム(南摩川)などの多目的ダム事業、稲戸井調節池(利根川)そして利根川放水路計画の施工を盛り込んでいる[109]。
開発と地域摩擦
利根川の河川開発により、流域住民は恩恵を受けた一方で開発に伴う様々な犠牲や、流域住民間さらには自治体間の対立など問題が生じた。
現在の埼玉県熊谷市付近に1592年(天正20年)建設が開始された中条堤は、従来からあった自然堤防を増築するなどして形成された堤防である。この堤防は幾つかの堤防と連携し洪水の際は堤防上流部に貯水を行い、その後水位が低下すると共に自然に利根川へと流出する遊水池の役割も果たす機能を有する。その洪水調節量は毎秒4,000立方メートルと現在の利根川上流ダム群に匹敵する処理能力を持ち、容量を超えた分は越流堤を介して忍方面へ流す。このため堤防を境として上流部の上郷地区、下流の下郷地区では堤防の運用について利害が相反し常に対立していた。すなわち上郷地区では中条堤の高さを出来るだけ低くして洪水の被害を避けたいとする一方、下郷地区では逆に高くして洪水被害を避けようと考えたため、堤防決壊後の修復では激しく対立した。江戸時代には幕府の絶対的統制下で両地区合同の中条堤組合が作られ、対立は最小限に食い止められたが明治に入り中央の統制力が弱まると、中条堤に替わる新堤防建設を求める上郷と堤の維持・強化を求める下郷が激しく対立。遂には警官隊と住民の衝突や埼玉県知事の不信任決議が埼玉県議会で採択されるなどの事態に発展した。最終的に内務省が利根川改修計画の一環として今日見られる連続堤防方式での治水計画による改修を行ったことにより事態は収拾されたが、高度な治水機能を有していた中条堤の機能はこれにより損なわれた[110]。また利根川改修増補計画以降挙げられていた小貝川付替計画は、新河道のルートとなる北相馬郡布川町(現在の利根町)を中心に猛烈な反対が起こり、1953年(昭和28年)11月には取材に来ていた朝日新聞・読売新聞・毎日新聞などの記者団が大勢の地元住民によって暴行・監禁される事件も発生。最終的に1980年(昭和55年)の治水計画改訂時に付替計画は廃止され、堤防補強を行うことになった[111]。
一方ダムや遊水池建設に伴う住民移転などの犠牲も河川事業の拡大に伴い増加した。渡良瀬遊水地は当初治水に加え足尾鉱毒事件の鉱毒対策として計画されたが、建設予定地に擬された栃木県下都賀郡谷中村(現在の栃木市)の約300世帯を移転させる事態となり、田中正造らの反対運動も起こったが結局土地収用法による強制執行などの手段も駆使した結果村民は各所へ散り、谷中村は廃村となった[112]。また戦後の利根川改定改修計画で計画された藤原ダムでは建設省が地元住民の了解を得ずに工事を開始したことに水没住民が態度を硬化、群馬県の仲裁や新しく赴任したダム工事事務所長の誠意ある態度により軟化するまで激しい反対闘争をひき起こした[113]。片品川の薗原ダムでも老神温泉が一部水没するなどしたため反対運動が激化、当時蜂の巣城紛争として日本全国に知れ渡った松原(筑後川)・下筌ダム(津江川)反対闘争と並び「東の薗原、西の松原・下筌」と表現された[114]。さらに吾妻川の八ッ場ダムでは川原湯温泉水没に地元が猛反発し1952年(昭和27年)の計画発表から現在に至るまで約60年経っても完成できない状況となっている。そして利根川上流ダム群の中核に模されていた沼田ダム計画は、水没世帯数2,200世帯という類例のない規模となることから水没予定地の沼田市のみならず群馬県も反対。1972年(昭和47年)第1次田中角栄内閣により計画は断念された[115]。こうした水没地域への生活保護対策として1973年(昭和48年)水源地域対策特別措置法が施行され、川治ダムなど[注 15]が指定対象となり補償金かさ上げや地域開発などが行われたほか下流受益地の都県からの拠出金により財団法人利根川・荒川水源地域対策基金が1976年に設立され、水没地域に対する助成が行われている[116]。
他方で広域河川開発に伴う受益地同士による利害対立も顕在化した。利根川改修増補計画で登場した利根川放水路計画はカスリーン台風の被害が深刻だった東京都と埼玉県が強く推進したのに対し、手賀沼や印旛沼などの開発に支障を来たすことを懸念した千葉県との間で意見の相違があり、用地買収や莫大な事業費捻出問題もあり事業は進展しなかった。そのうち放水路建設予定地は宅地化や農地化が高度になされて放水路の建設は極めて困難となり、現在まで未着工となっている[117]。また尾瀬原ダムより利根川水系へ分水する尾瀬分水計画はダム計画自体の環境破壊に対する厚生省(現在の厚生労働省)、文部省(現在の文部科学省)、日本自然保護協会の反対に加えて只見川および合流先である阿賀野川の慣行水利権を持つ福島県と新潟県が分水に反発。分水を求める東京都など一都五県と激しく対立し福島・新潟県側には他の東北五県が加担して尾瀬分水は関東地方対東北地方の政治問題に発展した。この問題は1996年(平成8年)に事業者である東京電力が尾瀬の水利権を放棄したことで終息する[118][119]。
1990年代以降は環境保護や公共事業に対する厳しい日本国民の視線もあり、ダム事業を始めとする河川開発も批判の対象となった。こうした中で第2次橋本内閣による大規模公共事業縮小[注 16]や第1次小泉内閣の「骨太の方針」により利根川水系でも戸倉ダム計画(片品川)など多くのダム事業が中止された。そして2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で大勝した民主党はマニフェストに「八ッ場ダム中止」を盛り込み、発足した鳩山由紀夫内閣の国土交通大臣・前原誠司は八ッ場ダム中止だけでなく計画・建設中の国土交通省直轄ダム事業の凍結を発表した[120]。しかしこの方針に下流受益地である東京都など一都五県の知事のみならずダム建設予定地である吾妻郡長野原町や川原湯温泉組合が猛反発し、民主党政権と対立する状況になっている。また高規格堤防(スーパー堤防)について2010年(平成22年)の事業仕分けで廃止が決定されたが、これに石原慎太郎東京都知事が「必要」と異論を唱えている[121]。
2008年(平成20年)に内閣府中央防災会議が発表した資料によれば、カスリーン台風と同じ洪水被害が発生した場合最悪で死者は最大3,800人、罹災者数は160万人に上ると推測している[122]。このため河川工学の専門家からは「八ッ場ダムなどの治水公共事業は必要」とする意見も多い[123]。他方で市民団体が八ッ場ダムなどの事業負担金差し止め訴訟を起こし、係争している[124]。河川事業に対する多様な意見や政府の方針転換などもあり、日本最大級の河川における治水・利水事業は岐路を迎えている。
河川施設
利根川および利根川水系では奈良時代より治水事業が開始され、江戸時代より本格的な利水事業が始まっているが水害は繰り返し流域を襲い、その被害額も次第に顕著なものとなっていた。東京が首都に定められて以降治水安全度の向上や人口増加、工業地帯拡張による水道需要・電力需要の増大、および新田開発や干拓による農地拡大を背景に利根川水系全体を見通した河川開発が求められるようになった。カスリーン台風以後利根川水系は多目的ダムを中心とした河川総合開発事業が展開され、現在利根川水系は日本の国民生活・経済活動上において重要な役割を担っている。本項目では利根川および利根川水系におけるダム、堰、遊水池、水路(放水路、用水路、導水路)、水力発電事業および砂防事業について記述する。
ダム・堰
記録上、完成年代が判明している利根川水系における最初の堰は1630年完成の岡堰(小貝川)、ダムでは1912年完成の黒部ダム(鬼怒川)と逆川ダム(逆川)の水力発電用ダム群である。洪水調節目的のダムとしては1926年に当時の内務省が鬼怒川改修計画の一環として計画した五十里ダム(男鹿川)が最初であるが、終戦まで着工は見送られた。戦後カスリーン台風を受けて策定された一連の河川総合開発事業によって利根川水系には藤原ダム(利根川)を皮切りに多数のダム・堰が建設・改築され、首都圏の治水・利水に貢献している。建設中のダムは五十里ダムの人造湖・五十里湖に注ぐ湯西川に国土交通省が施工している湯西川ダムがある。しかし民主党政権のダム事業見直しによって、八ッ場ダム(吾妻川)、南摩ダム(南摩川)、倉渕ダム(烏川)など幾つかのダム事業が停滞している。
ダムの高さでは奈良俣ダム(楢俣川)、総貯水容量では矢木沢ダム(利根川)が最大。なお丸沼ダム(大滝川)は日本で6基しかないバットレスダムの中では最大規模であり、国の重要文化財に指定されている[125]。
表記について、高さはメートル、総貯水容量は1,000立方メートルとする。水色欄はいわゆる利根川上流ダム群、黄色欄は工事中、桃色欄は2009年12月民主党政権による事業の再検討を求められている事業である。各ダムおよび用語についての解説は当該リンク参照。ダムデータについては財団法人日本ダム協会『ダム便覧』を基にしている。
本流・ 一次支流 |
二次支流 |
三次支流 |
四次支流 |
河川施設 |
分類[126] |
型式 |
高さ |
総貯水容量 |
事業者 |
完成年 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
利根川 | 矢木沢ダム | アーチ | 131.0 | 204,300 | 水資源機構 | 1967 | ダム湖百選 | ||||
利根川 | 須田貝ダム | Ⅰ | 重力 | 72.0 | 28,500 | 東京電力 | 1955 | 旧名楢俣ダム | |||
利根川 | 藤原ダム | 重力 | 95.0 | 52,490 | 国土交通省 | 1957 | |||||
利根川 | 小森ダム | Ⅳ | 重力 | 33.0 | 855 | 東京電力 | 1958 | ||||
利根川 | 綾戸ダム | 堰 | 14.5 | - | 東京電力 | 1928 | [注 17] | ||||
利根川 | 坂東大堰 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1951 | [127] | ||||
利根川 | 利根大堰 | 堰 | - | - | 水資源機構 | 1968 | 武蔵大橋 | ||||
利根川 | 利根川河口堰 | 堰 | 7.0 | 90,000 | 水資源機構 | 1971 | |||||
楢俣川 | 奈良俣ダム | ロックフィル | 158.0 | 90,000 | 水資源機構 | 1991 | ダム湖百選 | ||||
赤谷川 | 赤三調整池 | Ⅳ | 重力 | 17.1 | 19 | 東京発電 | 1966 | ||||
赤谷川 | 相俣ダム | 重力 | 67.0 | 25,000 | 国土交通省 | 1959 | ダム湖百選 | ||||
薄根川 | 発知川 | 玉原ダム | Ⅳ | ロックフィル | 116.0 | 14,800 | 東京電力 | 1981 | |||
片品川 | 薗原ダム | 重力 | 76.5 | 20,310 | 国土交通省 | 1965 | |||||
片品川 | 平出ダム | Ⅲ | 重力 | 40.0 | 1,400 | 群馬県 | 1964 | ||||
片品川 | 大滝川 | (丸沼) | 丸沼ダム | Ⅳ | バットレス | 32.1 | 13,600 | 東京電力 | 1931 | 国の重要文化財 | |
吾妻川 | 大津ダム | Ⅳ | 重力 | 19.6 | 108 | 東京電力 | 1931 | ||||
吾妻川 | 八ッ場ダム | 重力 | 116.0 | 107,500 | 国土交通省 | 未定 | |||||
吾妻川 | (河道外) | 鹿沢ダム | Ⅳ | アース | 18.2 | 5,628 | 東京電力 | 1927 | |||
吾妻川 | 白砂川 | 白砂ダム | Ⅳ | 重力 | 26.8 | 630 | 東京電力 | 1940 | |||
吾妻川 | 白砂川 | 湯川 | 品木ダム | 重力 | 43.5 | 1,668 | 国土交通省 | 1965 | 再開発中 | ||
吾妻川 | 万座川 | 万座ダム | 重力 | 90.0 | 8,900 | 国土交通省 | 未定 | [128] | |||
吾妻川 | 鍛冶屋沢川 | 鍛冶屋沢ダム | Ⅳ | 重力 | 39.2 | 257 | 東京電力 | 1929 | |||
吾妻川 | 四万川 | 四万川ダム | 重力 | 89.5 | 8,600 | 群馬県 | 1999 | ||||
吾妻川 | 四万川 | 中之条ダム | Ⅲ | アーチ | 42.0 | 1,180 | 群馬県 | 1959 | |||
(河道外) | 真壁ダム | Ⅳ | 重力 | 26.1 | 1,143 | 東京電力 | 1928 | ||||
烏川 | 倉渕ダム | 重力 | 85.6 | 11,600 | 群馬県 | 未定 | |||||
烏川 | 碓氷川 | 坂本ダム | 重力 | 36.3 | 778 | 群馬県 | 1994 | ||||
烏川 | 碓氷川 | 霧積川 | 霧積ダム | 重力 | 59.0 | 2,500 | 群馬県 | 1975 | |||
烏川 | 碓氷川 | 中木川 | 中木ダム | Ⅳ | 重力 | 41.0 | 1,600 | 安中市 | 1959 | 1979年再開発[129] | |
烏川 | 碓氷川 | 九十九川 | 増田川 | 増田川ダム | ロックフィル | 76.3 | 5,800 | 群馬県 | 未定 | ||
烏川 | 鏑川 | 市野萱川 | 市野萱川取水ダム | 重力 | 25.0 | - | 群馬県 | 1992 | |||
烏川 | 鏑川 | 市野萱川 | 相沢川 | 相沢川取水ダム | 重力 | 16.5 | - | 群馬県 | 1992 | ||
烏川 | 鏑川 | 市野萱川 | 屋敷川 | 屋敷川取水ダム | 重力 | 16.0 | - | 群馬県 | 1992 | ||
烏川 | 鏑川 | 市野萱川 | 道平川 | 道平川ダム | 重力 | 70.0 | 5,100 | 群馬県 | 1992 | ||
烏川 | 鏑川 | 南牧川 | 大仁田川 | 大仁田ダム | 重力 | 54.4 | 437 | 群馬県 | 2001 | ||
烏川 | 鏑川 | 丹生川 | 丹生ダム | Ⅳ | アース | 20.0 | 1,400 | 群馬県 | 1952 | ||
烏川 | 神流川 | 上野ダム | 重力 | 120.0 | 18,400 | 東京電力 | 2005 | ||||
烏川 | 神流川 | 下久保ダム | 重力 | 129.0 | 130,000 | 水資源機構 | 1968 | ダム湖百選 | |||
烏川 | 神流川 | 神水ダム | Ⅳ | 重力 | 20.5 | 235 | 群馬県 | 1967 | |||
烏川 | 神流川 | 塩沢川 | 塩沢ダム | 重力 | 38.0 | 280 | 群馬県 | 1995 | |||
早川 | 早川ダム | Ⅳ | アース | 29.1 | 900 | 土地改良区 | 1943 | ||||
小山川 | 間瀬川 | 間瀬ダム | Ⅳ | 重力 | 27.5 | 560 | 土地改良区 | 1938 | |||
渡良瀬川 | 草木ダム | 重力 | 140.0 | 60,500 | 水資源機構 | 1976 | ダム湖百選 | ||||
渡良瀬川 | 高津戸ダム | Ⅲ | 重力 | 29.0 | 689 | 群馬県 | 1973 | ||||
渡良瀬川 | 渡良瀬貯水池 | 堰 | 8.5 | 26,400 | 国土交通省 | 1990 | |||||
渡良瀬川 | 庚申川 | 庚申ダム | 重力 | 29.0 | 195 | 栃木県 | 1985 | ||||
渡良瀬川 | 黒坂石川 | 黒坂石ダム | Ⅲ | 重力 | 24.0 | 117 | 群馬県 | 1980 | |||
渡良瀬川 | 桐生川 | 桐生川ダム | 重力 | 60.5 | 12,200 | 群馬県 | 1982 | ||||
渡良瀬川 | 松田川 | 松田川ダム | 重力 | 56.0 | 1,800 | 栃木県 | 1995 | ||||
渡良瀬川 | 思川 | 南摩川 | 南摩ダム | ロックフィル | 86.5 | 51,000 | 水資源機構 | 未定 | |||
江戸川 | 行徳可動堰 | 堰 | - | - | 国土交通省 | 1957 | |||||
中川 | 権現堂川 | 権現堂調節池 | 堰 | 14.5 | 4,113 | 埼玉県 | 1991 | ||||
中川 | 元荒川 | 末田須賀堰 | 堰 | - | - | 水資源機構 | 1994 | ||||
鬼怒川 | 川俣ダム | アーチ | 117.0 | 87,600 | 国土交通省 | 1966 | |||||
鬼怒川 | 黒部ダム | Ⅲ | 重力 | 33.9 | 2,366 | 東京電力 | 1912 | 1987年再開発 | |||
鬼怒川 | 川治ダム | アーチ | 140.0 | 83,000 | 国土交通省 | 1983 | |||||
鬼怒川 | 小網ダム | Ⅲ | 重力 | 23.5 | 627 | 栃木県 | 1958 | ||||
鬼怒川 | 中岩ダム | Ⅲ | 重力 | 26.3 | 1,488 | 東京電力 | 1924 | ||||
鬼怒川 | 佐貫頭首工 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1966 | [130] | ||||
鬼怒川 | 岡本頭首工 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1986 | [130] | ||||
鬼怒川 | 勝瓜頭首工 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1975 | [131] | ||||
鬼怒川 | 土呂部川 | 土呂部ダム | Ⅳ | 重力 | 21.6 | 225 | 東京電力 | 1963 | |||
鬼怒川 | 男鹿川 | 五十里ダム | 重力 | 112.0 | 55,000 | 国土交通省 | 1956 | ||||
鬼怒川 | 男鹿川 | 湯西川 | 湯西川ダム | 重力 | 119.0 | 75,000 | 国土交通省 | 2011 | |||
鬼怒川 | 男鹿川 | 湯西川 | 三河沢川 | 三河沢ダム | 重力 | 48.5 | 899 | 栃木県 | 2003 | ||
鬼怒川 | 逆川 | 逆川ダム | Ⅳ | アース | 18.2 | 92 | 東京電力 | 1912 | |||
鬼怒川 | 砥川 | 今市ダム | 重力 | 75.5 | 9,100 | 東京電力 | 1988 | ||||
鬼怒川 | 砥川 | ネベ沢川 | 栗山ダム | ロックフィル | 97.5 | 7,070 | 東京電力 | 1988 | |||
鬼怒川 | 大谷川 | (中禅寺湖) | 中禅寺ダム | 重力 | 6.4 | 25,100 | 栃木県 | 1959 | 1998年再開発 | ||
鬼怒川 | 白石川 | 西古屋ダム | Ⅳ | 重力 | 21.5 | 547 | 東京電力 | 1963 | |||
鬼怒川 | 田川 | 田川放水路 | 田川可動堰 | 堰 | - | - | 国土交通省 | 1972 | [132] | ||
小貝川 | 君島堰 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1976 | [133] | ||||
小貝川 | 福岡堰 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1722 | 1971年改築[134] | ||||
小貝川 | 岡堰 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1630 | 1996年改築[130] | ||||
小貝川 | 豊田堰 | 堰 | - | - | 土地改良区 | 1667 | 1978年改築[130] | ||||
小貝川 | 松本川 | 大郷戸ダム | アース | 27.7 | 289 | 栃木県 | 1986 | ||||
常陸利根川 | 桜川 | (河道外) | 南椎尾調整池 | ロックフィル | 27.4 | 560 | 水資源機構 | 1991 | |||
黒部川 | 黒部川総合開発 | - | - | 1,060 | 千葉県 | 1989 | [注 18] | ||||
高田川 | 白石貯水池 | Ⅳ | アース | 19.5 | 1,190 | 銚子市 | 1958 | ||||
房総導水路 | (真亀川) | (十文字川) | 東金ダム | アース | 28.3 | 2,300 | 水資源機構 | 1995 | |||
房総導水路 | (村田川) | (村田川) | 長柄ダム | アース | 52.0 | 10,000 | 水資源機構 | 1993 |
遊水池・水門
利根川水系における遊水池としては1919年(大正8年)完成の渡良瀬遊水地(渡良瀬川)が最初である。完成当時の渡良瀬遊水地は自然調節型の遊水池であったが、利根川改修増補計画で洪水調節池として改修が始まり、現在の第一・第二・第三調節池に拡張が完了したのは1997年と約80年にわたる事業であった。利根川本流には増補計画により田中調節池と菅生調節池という二つの遊水池が完成し、現在は稲戸井調節池が拡張事業を行っている。また小貝川は流域が平地主体でダム建設の適地がなく、洪水調節施設は存在しなかったが1986年(昭和61年)の水害で茨城県下館市(現・筑西市)などが浸水被害を受けたため、1990年に流域初となる洪水調節施設・母子島(はこじま)遊水池が建設された[135]。利根川水系には大規模な遊水池が建設中のものを含めて5箇所存在し、一級水系では随一である。
一方水門は明治時代以降の利根川改修計画において、利根川本流の洪水が支流や湖沼に逆流するのを防止するため建設されたものが多いが、当時は水運が盛んだったこともあり通行を妨げないための閘門も多く備えられていた。現存する日本最古の閘門・見沼通船堀閘門や国の重要文化財に指定されている横利根閘門(横利根川)といった土木史的に貴重なものもある。戦後は河川総合開発の観点で常陸川水門(常陸利根川)といった湖沼の水位を調整し治水のほか利水にも役立てる多目的の水門が建設されている。
本流・ 一次支流 |
二次支流 |
三次支流 |
河川施設 |
型式 |
高さ |
総貯水容量 |
事業者 |
完成年 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
利根川 | 田中調節池 | 遊水池 | 10.1 | 68,200 | 国土交通省 | 1965 | [136] | ||
利根川 | 稲戸井調節池 | 遊水池 | 11.1 | 19,100 | 国土交通省 | 未定 | [136][137] | ||
利根川 | 菅生調節池 | 遊水池 | 12.1 | 26,900 | 国土交通省 | 1960 | [136] | ||
渡良瀬川 | 渡良瀬遊水地 | 遊水池 | - | 171,800 | 国土交通省 | 1919 | 1997年全事業完成[137] | ||
江戸川 | 関宿水閘門 | 水門 | - | - | 国土交通省 | 1927 | |||
江戸川 | 旧江戸川 | 江戸川水閘門 | 水門 | - | - | 国土交通省 | 1943 | ||
小貝川 | 母子島遊水池 | 遊水池 | - | 5,000 | 国土交通省 | 1990 | |||
小貝川 | 谷田川 | (牛久沼) | 牛久沼水門 | 水門 | - | 14,000 | 国土交通省 | 1953 | 1978年改築[138][注 19] |
手賀川 | (手賀沼) | 手賀沼水門 | 水門 | - | 5,600 | 農林水産省 | 1967 | [139][140] | |
長門川 | (印旛沼) | 印旛水門 | 水門 | - | 19,700 | 国土交通省 | 1964 | [138][141] | |
横利根川 | 横利根水門 | 水門 | - | - | 国土交通省 | 1971 | |||
横利根川 | 横利根閘門 | 水門 | - | - | 関東建設弘済会 | 1921 | 国の重要文化財[138] | ||
常陸利根川 | (霞ヶ浦) | 常陸川水門 | 水門 | - | 1,253,000 | 国土交通省 | 1968 | ||
黒部川 | 黒部川水門 | 水門 | - | - | 水資源機構 | 1970 |
放水路・分水路
利根川は江戸時代の利根川東遷事業以降河川の付替えが活発に実施されたが、河水を安全に流下させたり、平野部を流れる支流や分流の内水氾濫を防ぐ目的で放水路や分水路の建設も積極的に実施された。1920年に江戸川放水路が開削されたのを皮切りに、主に江戸川・中川流域を中心にした放水路の建設が進められた。
特に中川については平地主体でありダム建設の適地がないこと、下流に比べ上流域の流域面積が広く洪水の際には東京都内を中心に浸水被害の危険性が高く、カスリーン台風や狩野川台風(1958年)で大きな被害を受けていることもあり放水路による治水対策が堤防建設と共に図られた。1933年に東京都と埼玉県が中川・綾瀬川・芝川三川総合改修増補計画に基づいて中川、綾瀬川、芝川(荒川水系)に放水路を建設する計画を立て、戦争による中断を挟み1962年に中川と芝川の事業を完成させた。この時に開削されたのが中川と旧江戸川を繋ぐ新中川放水路(新中川)である[142]。その後も内水氾濫防止を目的に中川と江戸川を連結する放水路整備が進められ、三郷・幸手・綾瀬川放水路さらには世界最大級の地下河川である首都圏外郭放水路が建設されており、中川流域には5本の放水路が存在している。
一方利根川本流に計画されている利根川放水路は1938年の利根川改修増補計画で我孫子市から印旛沼を経由し検見川を結ぶ昭和放水路計画として初登場し、以後利根川改訂改修計画・利根特定地域総合開発計画でも採用されたが莫大な事業費と流域の都市化による補償問題の難航が予想されることで手付かずとなり、長らく「幻の計画」であった。この間印旛沼の治水を目的に印旛放水路が建設されているが、利根川水系河川整備基本方針によって長門川・印旛放水路を拡幅し、印旛沼を洪水調節池に利用する形で利根川下流の治水を図る新放水路計画として再度事業化の方向性が示されている[109]。
所在地 | 河川 | 名称 | 管理者 | 完成年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
千葉県 | 利根川 | 利根川放水路 | 国土交通省 | 未定 | 1939年より計画されたが補償問題や工事費高騰などで着手できず。基本方針で修正案が立案された。 |
栃木県 | 渡良瀬川 | 岩井分水路 | 国土交通省 | 1967 | 足利市の岩井山で湾曲する渡良瀬川の流下能力を増強するため、岩井山北部に建設された分水路。 |
千葉県 | 江戸川 | 関宿高水路 | 国土交通省 | 1927 | 江戸川が利根川より分流する野田市関宿地点の流下能力を増強するため、関宿水門と共に建設された分水路。 |
千葉県 | 江戸川 | 江戸川放水路 | 国土交通省 | 1920 | 1964年の河川法改訂時に江戸川の本流に定められる。 |
埼玉県 | 中川 | 幸手放水路 | 埼玉県 | 1999 | 中川上流の流下能力を増強させるため中川・江戸川間を連結する放水路[143]。 |
埼玉県 | 中川 | 三郷放水路 | 国土交通省 | 1978 | 中川中流の流下能力を増強させるため中川・江戸川間を連結する放水路。中川の浄化にも利用[144]。 |
埼玉県 | 中川 | 首都圏外郭放水路 | 国土交通省 | 2006 | 中川、大落古利根川などの洪水を地下トンネルへ導水し、江戸川へ放流する地下放水路。 |
東京都 | 中川 | 新中川放水路 | 国土交通省 | 1962 | 現在の新中川。中川下流の流下能力を増強させるため中川・旧江戸川間を連結する放水路。 |
埼玉県 | 綾瀬川 | 綾瀬川放水路 | 国土交通省 | 1996 | 綾瀬川の流下能力を増強させるため綾瀬川・中川間を連結する放水路。綾瀬川の浄化にも利用[145]。 |
栃木県 | 田川 | 田川放水路 | 国土交通省 | 1972 | 田川の流下能力を増強させるため田川可動堰と共に建設された放水路。 |
千葉県 | 印旛沼 | 印旛放水路 | 千葉県 | 1969 | 印旛沼総合開発事業の一環として印旛沼の治水目的に建設された放水路。新川・花見川と通称される。 |
千葉県 | 小野川 | 小野川放水路 | 千葉県 | 2004 | 香取市を流れる都市河川・小野川の内水氾濫防止を目的に建設された放水路[146] |
用水路・導水路
利根川水系における用水路事業は、1526年(大永元年)に長野業正が拡張した烏川の長野堰用水が記録上の初見となる[注 20][147][148]。江戸時代には関東郡代伊奈氏や井沢為永といった幕臣により備前渠用水、葛西用水路、見沼代用水などの大規模農業用水路が整備され、新田が飛躍的に開発された。戦後の食糧増産体制や農業技術の進歩による耕地拡大で農業用水不足が顕在化し、対策として両総用水や大利根用水、さらに利根川上流ダム群を水源とする房総導水路などが建設された。また従来からある農業用水路の合理化・取水口の統廃合も行われ(合口)、埼玉用水路・邑楽用水路・坂東大堰用水などの合口用水路も整備された。地域における重要な水道施設である用水路の幾つかは、疏水百選に認定されている[149]。
一方導水路としては武蔵水路が荒川との間を連結する形で建設され東京都に水道を供給するほか、治水・利水・手賀沼浄化を目的とした北千葉導水路が利根川・江戸川間を連結している。北千葉導水路建設に先立ち利根運河が「野田緊急暫定導水路」として代替役割を担う形で1978年に復活、北千葉導水路完成後も地域の憩いの場として整備されている。ただし利根川と霞ヶ浦、そして那珂川を連結して霞ヶ浦の浄化と首都圏への新規利水を目的に建設中の霞ヶ浦導水事業は、那珂川の水質悪化を懸念する栃木県・茨城県那珂川漁業協同組合が事業差し止め訴訟を起こすなど頑強な反対運動を起こしており[150]、事業は進捗していない。
所在地 | 河川 | 名称 | 管理者 | 完成年 | 水源 | 取水口 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
群馬県 | 利根川 | 群馬用水 | 水資源機構 | 1969 | 利根川上流ダム群 | (綾戸ダム) | 東京電力綾戸ダム湖に取水口を設置し取水。疏水百選。 |
群馬県 | 利根川 | 坂東大堰用水 | 土地改良区 | 1951 | 坂東大堰 | 広瀬・桃木・天狗岩・大正・中群馬用水を統合(合口)。広瀬用水は疏水百選。 | |
埼玉県 | 利根川 | 備前渠用水 | 土地改良区 | 1604 | 伊奈忠次建設。疏水百選。 | ||
埼玉県 | 利根川 | 見沼代用水 | 土地改良区 | 1728 | 利根川上流ダム群 | 利根大堰 | 井沢為永建設。1969年利根大堰に取水口を変更。疏水百選。 |
埼玉県 | 利根川 | 埼玉用水路 | 土地改良区 | 1969 | 利根川上流ダム群 | 利根大堰 | 葛西・羽生領・古利根用水などを統合。1995年・2003年に改築。葛西用水路は疏水百選。 |
埼玉県 | 利根川 | 武蔵水路 | 水資源機構 | 1969 | 利根川上流ダム群 | 利根大堰 | 荒川に連結し秋ヶ瀬取水堰で朝霞水路に導水し東京都へ送水。 |
群馬県 | 利根川 | 邑楽用水路 | 土地改良区 | 1969 | 利根川上流ダム群 | 利根大堰 | 利根加・明和・北川辺用水を統合。 |
千葉県 | 利根川 | 大利根用水 | 土地改良区 | 1951 | 1992年改築。疏水百選。 | ||
千葉県 | 利根川 | 北総東部用水 | 水資源機構 | 1971 | 利根川上流ダム群 | ||
千葉県 | 利根川 | 成田用水 | 土地改良区 | 1971 | 川治ダム | 成田空港周辺整備関連事業。 | |
千葉県 | 利根川 | 両総用水 | 農林水産省 水資源機構 土地改良区 |
1967 | 疏水百選。 | ||
千葉県 | 利根川 | 房総導水路 | 水資源機構 | 1997 | 利根川上流ダム群 | 千葉県大多喜町まで導水。長柄ダム・東金ダムで貯留。 | |
千葉県 | 利根川 | 東総用水 | 水資源機構 土地改良区 |
1989 | |||
群馬県 | 烏川 | 長野堰用水 | 土地改良区 | 1526 | 長野堰 | 完成年は史料上確認できる長野業正による改築年とする。疏水百選。 | |
群馬県 | 神流川 | 埼玉北部用水 | 農林水産省 | 1954 | 下久保ダム | 神流川頭首工 | 1980年改築。下久保ダムの不特定利水供給分を利用。 |
群馬県 | 渡良瀬川 | 渡良瀬沿岸用水 | 土地改良区 | 1984 | 草木ダム | 大間々頭首工 太田頭首工 邑楽頭首工 |
岡登・待矢場・三栗谷用水などを統合。疏水百選。 |
千葉県 | 利根川 江戸川 |
利根運河 | 国土交通省 | 1890 | 旧名派川利根川。 | ||
千葉県 | 利根川 江戸川 |
北千葉導水路 | 国土交通省 | 2000 | 流況調整河川。 | ||
茨城県 | 霞ヶ浦 | 霞ヶ浦用水 | 水資源機構 土地改良区 |
1994 | 霞ヶ浦 | 霞ヶ浦・鬼怒川間を連絡する用水路。南椎尾調整池で貯留。 | |
茨城県 | 利根川 霞ヶ浦 那珂川 |
霞ヶ浦導水 | 国土交通省 | 未定 | 現在事業見直し。那珂川・桜川(水戸市)間のみ運用中。 |
水力発電事業
- 水力発電、揚水発電、電力会社管理ダム#東京電力の項目も参照。
利根川および利根川水系における水力発電事業は、日本の水力発電史と共に歩んでいる。日本最初の水力発電所は、1888年(明治21年)に宮城県の宮城紡績会社が運転を開始した自家発電用の三居沢発電所[151][注 21]であるが、2年後の1890年(明治23年)8月に下野麻紡績が運転を開始した自家発電用の所野発電所(15キロワット。廃止)が、利根川水系最初の水力発電所となる[152]。同年12月には足尾銅山自家発電用の間瀬原動所(間瀬発電所。廃止)が運転を開始。続いて日本初の商業用水力発電所である京都府の蹴上発電所運転開始(1891年)から2年後の1893年(明治26年)には商業用としては利根川水系初となる日光発電所が日光電力の手で運転を開始した[153]。日光発電所は現在東京電力日光第二発電所として110年以上経た今日も稼働しており、利根川水系において現役で運転している水力発電所としては最古のものである[154]。
大正以降における利根川水系の水力発電事業は、日清・日露戦争以降の電力需要急増により日本各地で電力会社が乱立する中で他地域と同様に多くの電力会社が設立され、競争や企業合併を繰り返していく。この中で鬼怒川水力電気は鬼怒川上流部での電力開発に取り組み、1912年日本初の発電専用のコンクリートダムである黒部ダムを鬼怒川本流に建設、当時としては利根川水系屈指の下滝発電所(現・鬼怒川発電所)が稼働する[155]。群馬県内では東京電燈や関東水力電気などが利根川水系の水力発電開発を進め、当時としては屈指の出力である6万6,000キロワットの佐久発電所などが運転を開始する[156]。しかし1939年(昭和14年)電力管理法制定により日本発送電が、1941年配電統制令発令により関東配電が発足すると、各電力会社は戦時体制の下強制的に合併させられ水力開発は一時的に停滞する。
戦後1951年の利根特定地域総合開発計画が策定され利根川水系は多目的ダムに付随した水力発電所が建設されるが、同年電気事業再編成令で日本発送電が分割・民営化され、関東配電と合併する形で東京電力が発足。戦前より計画された奥利根・鬼怒川上流の電力開発を進めた。高度経済成長期に入り火力発電が主力となると、これを補完するため揚水発電が注目され1965年には利根川最上流部に混合揚水発電である矢木沢発電所の運転が開始される。1982年(昭和57年)には利根川水系初の100万キロワット級揚水発電所・玉原発電所が完成。1988年(昭和63年)には鬼怒川流域に今市発電所の運転が開始され、2005年には信濃川水系も利用する神流川発電所の運転が一部開始された。神流川発電所は全面稼動すれば282万キロワットと日本最大の水力発電所となる。新規に計画されている水力発電所としては八ッ場ダムの目的に水力発電が2008年に追加され、出力1万1,400キロワットの水力発電所が計画されているダム事業見直し(前述)で事業は進捗しておらず、ダム反対派からはその効果を疑問視されている[157]。
現在利根川水系で最大の水力発電所は出力120万キロワットの玉原発電所である。事業者としては東京電力のほか公営企業の群馬県企業局と栃木県企業局がある。特に多目的ダムの水力発電事業に参加しており、八ッ場ダムの水力発電事業は群馬県企業局が事業者である。民間企業では日本カーリットが同社群馬工場への送電を目的として利根川筋に広桃発電所を有するほか、足尾銅山間瀬原動所以来大谷川・渡良瀬川流域で水力発電事業を展開していた古河グループ系列・古河電気工業の子会社である古河日光発電が、関連企業への送電などを目的とする水力発電所を有している[158]。特殊な所では日光二社一寺(日光東照宮、日光二荒山神社、日光山輪王寺)の自家発電用として二社一寺協同組合が管理する滝尾発電所が存在する[159]。なお水力発電所の所在には流域偏在があり、利根川本流・吾妻川・片品川・渡良瀬川・鬼怒川流域に多く存在する一方、烏川流域は神流川を除く(烏川・鏑川・碓氷川)と少ない[160]。また当然ながら流域が平地主体の小貝川・江戸川・中川および常陸利根川流域には水力発電所が存在しない。
以下は利根川および利根川水系における主要な水力発電所の一覧である。出力の単位はキロワットであり、認可(最大)出力が1万キロワット以上の発電所を掲載対象としている。データは社団法人電力土木技術協会『水力発電データベース』利根川水系発電所一覧を出典としている。
河川流域 |
発電所 |
認可出力 |
常時出力 |
発電形式 |
発電方式 |
取水元 |
事業者 |
運転開始年 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
利根川 | 矢木沢 | 240,000 | 0 | ダム式 | 混合揚水式 | 矢木沢ダム(上池) 須田貝ダム(下池) |
東京電力 | 1965 | |
利根川 | 須田貝 | 46,200 | 4,000 | ダム式 | 調整池式 | 須田貝ダム | 東京電力 | 1955 | |
利根川 | 藤原 | 22,000 | 4,100 | ダム式 | 調整池式 | 藤原ダム | 東京電力 | 1956 | |
利根川 | 水上 | 18,600 | 9,000 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1953 | ||
利根川 | 上牧 | 31,500 | 5,800 | 水路式 | 調整池式 | 小森ダム | 東京電力 | 1958 | |
利根川 | 小松 | 13,300 | 8,400 | 水路式 | 流れ込み式 | 東京電力 | 1922 | ||
利根川 | 岩本 | 29,600 | 11,800 | 水路式 | 流れ込み式 | 東京電力 | 1949 | ||
利根川 | 佐久 | 76,800 | 22,400 | 水路式 | 調整池式 | 綾戸ダム 真壁ダム |
東京電力 | 1928 | |
利根川 発地川 |
玉原 | 1,200,000 | 0 | ダム式 | 純揚水式 | 玉原ダム(上池) 藤原ダム(下池) |
東京電力 | 1982 | |
楢俣川 | 奈良俣 | 12,800 | 0 | ダム式 | 貯水池式 | 奈良俣ダム | 群馬県企業局 | 1989 | |
片品川 | 一の瀬 | 10,700 | 860 | 水路式 | 調整池式 | 丸沼ダム | 東京電力 | 1937 | |
片品川 | 白根 | 10,300 | 3,400 | 水路式 | 流れ込み式 | 東京電力 | 1954 | ||
片品川 | 鎌田 | 11,600 | 2,400 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1954 | ||
片品川 | 岩室 | 19,600 | 10,500 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1915 | ||
片品川 | 白沢 | 26,600 | 0 | ダム水路式 | 貯水池式 | 薗原ダム | 群馬県企業局 | 1964 | |
片品川 | 上久屋 | 19,000 | 8,600 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1925 | ||
片品川 | 伏田 | 13,000 | 7,500 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1926 | ||
吾妻川 | 西窪 | 19,000 | 9,500 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1933 | ||
吾妻川 | 羽根尾 | 12,000 | 5,100 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1925 | ||
吾妻川 | (八ッ場) | 11,400 | 未定 | 未定 | 未定 | 八ッ場ダム | 群馬県企業局 | 未定 | 計画中 |
吾妻川 | 松谷 | 25,400 | 14,800 | 水路式 | 調整池式 | 鍛冶屋沢ダム | 東京電力 | 1929 | |
吾妻川 | 原町 | 27,400 | 14,200 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1937 | ||
吾妻川 | 箱島 | 24,800 | 14,700 | 水路式 | 調整池式 | 東京電力 | 1951 | ||
吾妻川 | 金井 | 14,200 | 8,200 | 水路式 | 流れ込み式 | 東京電力 | 1922 | ||
白砂川 | 川中 | 14,600 | 6,100 | 水路式 | 調整池式 | 白砂ダム | 東京電力 | 1940 | |
四万川 | 中之条 | 11,000 | 650 | ダム水路式 | 調整池式 | 中之条ダム | 群馬県企業局 | 1960 | |
神流川 南相木川 |
神流川 | 470,000 | 0 | ダム式 | 純揚水式 | 南相木ダム(上池) 上野ダム(下池) |
東京電力 | 2005 | 一部運転 |
神流川 | 下久保 | 15,000 | 0 | ダム式 | 貯水池式 | 下久保ダム | 群馬県企業局 | 1968 | |
渡良瀬川 | 東 | 20,300 | 0 | ダム式 | 貯水池式 | 草木ダム | 群馬県企業局 | 1976 | |
渡良瀬川 | 小平 | 36,200 | 0 | 水路式 | 流れ込み式 | 群馬県企業局 | 1976 | ||
庚申川 | 足尾 | 10,000 | 994 | ダム水路式 | 調整池式 | 庚申ダム | 栃木県企業局 | 1985 | |
黒坂石川 | 沢入 | 11,000 | 400 | ダム水路式 | 調整池式 | 黒坂石ダム | 群馬県企業局 | 1981 | |
鬼怒川 | 川俣 | 27,000 | 0 | ダム式 | 調整池式 | 川俣ダム | 東京電力 | 1963 | |
鬼怒川 | 鬼怒川 | 127,000 | 11,200 | 水路式 | 調整池式 | 黒部ダム 逆川ダム |
東京電力 | 1912 | 旧名下滝発電所 1963年再開発 |
鬼怒川 | 風見 | 10,200 | 4,500 | 水路式 | 流れ込み式 | 佐貫頭首工 | 栃木県企業局 | 1964 | |
土呂部川 | 栗山 | 42,000 | 5,100 | 水路式 | 調整池式 | 土呂部ダム | 東京電力 | 1944 | |
男鹿川 | 川治第一 | 15,300 | 4,800 | ダム水路式 | 貯水池式 | 五十里ダム | 栃木県企業局 | 1956 | |
砥川 | 今市 | 1,050,000 | 0 | ダム水路式 | 純揚水式 | 栗山ダム(上池) 今市ダム(下池) |
東京電力 | 1988 | |
大谷川 | 細尾 | 15,700 | 10,300 | 水路式 | 調整池式 | 中禅寺ダム | 古河日光発電 | 1906 |
砂防事業
利根川流域では浅間山、赤城山、榛名山、男体山など多くの火山が存在し、これらが活発な火山活動を繰り返すことで火山灰などの堆積物や風化しやすい花崗岩、安山岩などの地質を形成している。また褶曲(しゅうきょく)や断層などが複雑に入り組み、河川による侵食もあって堅固とはいえない状態である。このため崩壊、禿しょ(とくしょ。はげ山のこと)地、滑落崖地の増大といった山地の荒廃が進んでおり、利根川水系では谷川岳周辺、男体山・赤城山・足尾、浅間・草津白根一帯が重荒廃地域[注 22]に、日光・上信越、多野・秩父地域が一般荒廃地域[注 23]として国土交通省砂防部より指定されている[161]。
利根川流域の土砂災害で顕著なものとしては1783年の浅間山大噴火による吾妻川火山泥流災害(死者1,500人以上)、1910年の明治43年8月洪水による吾妻川・烏川流域の土石流災害(死者212人)、1935年9月の烏川土石流災害(死者51人)、カスリーン台風による赤城山土石流災害(死者420人)が挙げられる[162]。また渡良瀬川流域では足尾銅山から排出される亜硫酸ガスによる煙害や鉱石巻上げの動力源として薪炭を使用するための森林乱伐、さらに1887年(明治20年)4月8日の松木大火[注 24]によって源流部は草木が全く生育しない禿しょ地になっていた。このため洪水による土砂被害は著しく現在の渡良瀬遊水地付近にあった赤麻沼は堆砂が激しくなった[163]。日光の大谷川流域では稲荷川を中心とした男体山系の崩壊が著しく、1902年(明治35年)には台風により大谷川・稲荷川の土砂災害や洪水で死者156人を出し、日光東照宮の神橋が流失した。以後も大雨による土砂災害が反復して襲ったほか[164]、1949年12月には直下型の今市地震が発生し思川上流域で425箇所におよぶ土砂崩落が発生した[165]。そして鬼怒川上流部では現在の五十里ダム上流部に当たる海尻付近で1683年(天和3年)10月20日に発生した南会津地震[注 25]により、男鹿川右岸の葛老山が380万立方メートルに及ぶ量の地すべりを起こし、高さ70メートルの天然ダムが誕生。ダムは40年にわたり男鹿川を堰き止めその総貯水容量は6,400万立方メートルと現在の五十里ダムよりも大きい貯水池を形成し、付近の五十里集落が水没する被害を出したほか1723年(享保8年)9月9日集中豪雨によってダムが決壊、現在の宇都宮市にまで濁流が押し寄せる被害を与えている[166]。
こうした土砂災害を防ぐべく、明治時代より国主導による砂防事業が利根川流域でも実施された。記録上では1882年(明治12年)に内務省土木寮利根川出張所が榛名山で行ったのが初出だが、1897年(明治30年)3月砂防法が施行されると本格的な事業となった。その端緒となったのが栃木県営で実施された日光の稲荷川砂防事業が1899年(明治32年)より3年間継続実施され、巨石積の砂防ダムが建設されている。しかし1902年の台風で砂防ダムはことごとく破壊され、日露戦争もあって中断を余儀なくされた[167]。1919年には同じ稲荷川で利根川水系初となるコンクリート製の砂防ダム、稲荷川第二砂防ダムが建設された[168]。また1937年には日向砂防ダムが完成するが、戦後二度にわたるかさ上げを行い高さ46メートル、計画貯砂量150万立方メートルの巨大砂防ダムとなった。また大谷川本流には床固工54基に及ぶ大谷川中流流路工を1971年に建設。蛇行した流路の直線化も行い大谷川下流の土砂災害を防いでいる。さらに男体山には大薙山腹工を建設し男体山東南斜面の地すべりを防ぐ工事を行っている[169]。
足尾銅山周辺の渡良瀬川上流域では足尾鉱毒事件の社会問題化もあり政府は古河鉱業に対し鉱毒予防命令を出し、1897年から9ヵ年にわたる土砂災害防止対策を行わせた[170]。しかし植林は全て失敗し禿しょ地は改善されない傾向が続き根本的な砂防対策が求められ、1936年足尾砂防ダム計画が立案された。高さ37メートル、計画貯砂量500万立方メートルという日本最大級の砂防ダム計画は1950年に着工され、1967年に完成する[171]。この他烏川、神流川、片品川、赤城山渓流などで国土交通省や流域自治体による砂防事業が継続的に実施されている。これにより大規模な土砂災害は減少したものの、足尾銅山の煙害などによる渡良瀬川上流の植生は未だ完全な回復を見ていない。
水質
- 吾妻川中和事業についての詳細は品木ダムを参照。
利根川の水質は、本流については加須市栗橋における計測で2009年の平均値で生物化学的酸素要求量(BOD)が1.3mg/lと概ね良好な水質が保たれている[172]。主要な支流では渡良瀬川、鬼怒川、小貝川では利根川同様水質は良好な数値を維持しているが、都市部を流れる支流については水質が良いとは言いがたい。
河川 | 観測地点 | BOD | 河川 | 観測地点 | BOD | 河川 | 観測地点 | BOD | 河川 | 観測地点 | BOD |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
利根川上流 | 群馬大橋 | 0.9 | 神流川 | 神流川橋 | 0.8 | 鬼怒川中流 | 川島橋 | 0.7 | 利根運河 | 合流部 | 8.7 |
利根川中流 | 加須市栗橋 | 1.3 | 渡良瀬川中流 | 渡良瀬大橋 | 1.7 | 鬼怒川下流 | 豊水橋 | 1.2 | 江戸川 | 新葛飾橋 | 1.7 |
利根川下流 | 銚子大橋 | 1.6 | 渡良瀬川下流 | 渡良瀬貯水池 | 3.8 | 小貝川 | 文巻橋 | 1.9 | 中川 | 飯塚橋 | 3.4 |
烏川 | 高崎市岩鼻 | 1.6 | 鬼怒川上流 | 日光市川治 | 0.7 | 手賀川 | 手賀沼水門 | 5.2 | 綾瀬川 | 手代橋 | 3.7 |
特に中川と支流の綾瀬川については高度経済成長に伴う流域の都市化で、生活排水が流入。下水道整備も未熟だったこともあって急速に水質汚濁が進行した。国土交通省が毎年発表する一級河川の水質現況において中川と綾瀬川はワーストランキングで毎年上位に名を連ねる不名誉な状況が継続していた。両河川のBOD平均値は1989年時点において中川は7.3mg/l、綾瀬川に至っては17.8mg/lであり「ドブ川」の体であった。このため埼玉県などの流域自治体において中川・綾瀬川浄化のための諸施策を講じた結果水質は著しく改善。2009年段階のBOD平均値は中川で3.0mg/l、綾瀬川で3.8mg/lと水質改善度は最も高かった。しかしワーストランキングからの脱却は果たせず、日本の主要な一級河川165河川中で綾瀬川は日本一、中川は日本第二位の汚い川に位置している[173][注 26]。利根川水系全体を俯瞰した場合、BOD平均値が最も低いのは神流川で、逆に最も高いのは利根運河である[172]。なお、足尾鉱毒事件による重金属汚染が問題化した渡良瀬川については現在も継続的な水質調査が実施され、特に首都圏の水がめである草木ダムについては管理者の水資源機構が灌漑期(夏季)には毎日、非灌漑期(冬季)には毎週厳重な水質監視を続けている[174]。
一方、湖沼については化学的酸素要求量(COD)で水質が主に計測されるが、利根川上流の人造湖に関しては概ね良好な水質であるのに対し下流の湖沼については水質汚濁が顕著で、河川よりも深刻となっている。
湖沼 | 観測地点 | COD | 湖沼 | 観測地点 | COD | 湖沼 | 観測地点 | COD | 湖沼 | 観測地点 | COD |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
奥利根湖 | 矢木沢ダム | 2.0 | 薗原湖 | 薗原ダム | 1.7 | 八汐湖 | 川治ダム | 1.3 | 霞ヶ浦 | 湖心 | 9.3 |
藤原湖 | 藤原ダム | 1.2 | 神流湖 | 下久保ダム | 1.9 | 手賀沼 | 8.6 | 北浦 | 神宮橋 | 10.1 | |
ならまた湖 | 奈良俣ダム | 2.1 | 草木湖 | 草木ダム | 1.5 | 牛久沼 | 8.0 | 外浪逆浦 | 8.8 | ||
赤谷湖 | 相俣ダム | 1.2 | 川俣湖 | 川俣ダム | 1.5 | 印旛沼 | 8.6 | 常陸利根川 | [注 27] | 9.3 |
霞ヶ浦を始めとする利根川下流部の湖沼は、河川の水質汚濁同様高度経済成長に伴う都市化と下水道整備の遅れによる生活排水や畜産、農業関連の排水が処理されずに流入し、河川と異なり水域内に長期間滞留することで水質汚濁が遷延化する。環境省が2009年に実施した『平成21年度公共用水域の水質測定結果発表』において北浦が宮城県の伊豆沼と共に汚染度ワースト1となったほか、10位までに霞ヶ浦・常陸利根川(同率3位)、手賀沼・印旛沼(同率5位)、牛久沼(7位[注 28])が入り、ワースト10の中に利根川水系の湖沼が6箇所も入るという不名誉な状態となっている[175]。こうした水質汚濁により霞ヶ浦では特産のワカサギ漁が衰退するなど漁業資源にも深刻な影響を与えた。このため河川浄化の取り組みが国や地方自治体によって進められている。特に手賀沼については清浄な利根川の河水を導水して水質改善を図るため1972年より利根川広域導水事業が治水・利水目的を含めた河川総合開発事業として実施され、1978年に野田緊急暫定導水路(利根運河)、2000年に北千葉導水路が完成。手賀沼に毎秒10立方メートルを導水することで水質改善を図った[176]。また1984年には水質汚濁防止法を湖沼に特化した湖沼水質保全特別措置法(湖沼法)が制定され日本の10湖沼[注 29]が指定[177]。利根川水系では北浦・常陸利根川を含む霞ヶ浦、手賀沼および印旛沼の3湖沼が指定、水質汚濁防止の施策や規制が流域自治体で採られている。こうした施策により手賀沼の水質は2003年以降7年連続で水質が日本一改善された湖沼となり[175]、導水路の効果は実証されたがその他の湖沼においては改善に乏しい状態が続いている。このため国土交通省では関東一の清流である那珂川[172][注 30]の河水を霞ヶ浦に導水して水質改善を図る霞ヶ浦導水事業を施工しているが、栃木・茨城両県の那珂川漁業協同組合が那珂川の水質悪化を理由に反対している(前述)。
一方自然環境が原因の水質汚染も存在した。群馬県を流れる利根川の支流・吾妻川は流域に草津温泉・万座温泉や硫黄鉱山が存在し、この一帯を水源に持つ万座川や白砂川といった吾妻川支流は河水の酸性度が高かった。特に白砂川支流の湯川は草津白根山を水源とすることからpHは平均1.8と希塩酸や希硫酸並の酸性度であった[178]。こうした酸性河川が吾妻川に流入するため吾妻川の酸性度も高く、鉄釘は10日でほぼ溶解、コンクリートは30日で30パーセント近く減量するなど河川工作物への影響も大きかった[179]。魚類は全く生息せず、農業用水にも不適で合流後の利根川の水質悪化も招き、「死の川」と形容されていた。このため群馬県は世界初の河川中和事業である吾妻川中和事業を1961年より開始、湯川などに中和工場を建設して石灰を投入し下流の品木ダムで中和する対策を講じた。これにより吾妻川の酸性度は改善され、魚類も生息する河川へと蘇った[180]。中和事業は現在国土交通省による直轄事業となり、老朽化した施設の改築や万座ダムなどの万座川中和を含めた吾妻川上流総合開発事業が計画されているが、民主党鳩山由紀夫内閣によるダム事業見直しに伴い同事業は見直し対象となっている。
なお、利根大堰から取水される武蔵水路は荒川へと導水されるが、この利根川の河水を利用した隅田川の水質改善も行われた。1961年当時の隅田川はBODが38mg/lと水質汚濁が激しくメタンガスも湧出する河川だったが、利根大堰建設における目的の一つとして隅田川浄化が挙げられ、利根川上流ダム群より利根大堰、武蔵水路を経由し秋ヶ瀬取水堰で朝霞水路に導水された利根川の河水が新河岸川へ放流され、隅田川へと至る。同時に下水道整備も実施されたことで隅田川のBODは1975年には環境基準を下回り、2002年には4.9mg/lにまで改善された。これにより1961年に中断した早慶レガッタの隅田川開催が1978年に復活するなど、隅田川の水質改善には利根川が大きく関わっている[181]。
交通
利根川流域における交通手段は奈良時代から江戸時代に掛けては水運を主とした水上交通網が発達していたが、明治時代以降道路・鉄道による陸上交通網が整備されるのに伴って水運は衰退。現在は流域を縦横に道路網・鉄道網が高度に発達しており、交通・物流の面からも利根川流域は幾つもの要衝を抱える重要な位置を占めている。以下水運、道路、鉄道の利根川流域における発達について述べる。
水運
- 利根運河の項目も参照
利根川における水運の歴史は835年(承和2年)6月29日の太政官符において、利根川旧河道である現在の隅田川に常設の渡船が存在し物流を行っていたことが確認されるほか、『万葉集』巻十四・三三八四番の和歌にも帆掛舟による水運が行われていたことを示唆する文言が記されている[182]。鎌倉時代から室町時代に掛けて関東地方に貨幣経済が浸透すると市場が発展、関東各地の特産品が水運を利用して京都方面へ流通しており、『旧大禰宜家文書』・『香取文書』により1372年(応安5年)から1419年(応永26年)に掛けて8箇所の水路関所が設置され[注 31]、商船から津料を徴収していた[182]。戦国時代に入ると後北条氏が関東に勢力を伸ばすが、当時軍事・水運の要衝であった関宿城を巡る攻防が繰り広げられる。関宿城は3代当主・北条氏康が『喜連川文書』において「一国を獲るに等しい」と評価した要衝であり、城主の簗田晴助・持助父子と争った末1572年(天正2年)氏康の跡を継いだ北条氏政が落城させ、付近一帯を直接の支配下に置いた[183]。以後利根川水系の水運は後北条氏の支配下となり、氏政の弟である北条氏照による判物で航路の拡大が見て取れる[184]。
江戸時代に入ると、幕府は後北条氏の整備した水運航路を整備・拡大する一方で江戸防衛の観点から利根川への架橋は禁止され、代わりに渡船の設置が行われた。しかしこの渡船についても1616年(元和2年)8月の触れで幕府指定の「定船場」と呼ばれる渡船場以外での渡船を厳禁とした。この時定められた定船場は上野国白井渡から下総国神崎までの15箇所である[185]。一方で利根川を物流の大動脈として利用するための整備が利根川東遷事業と連携して幕府によって実施され、1671年(寛文11年)河村瑞賢による東廻り航路整備を機に利根川は江戸への廻米には欠かせない航路となり、東遷事業以降東北・北関東諸藩の廻米が本格化した[186]。水戸藩では3代藩主・徳川綱條が1706年(宝永3年)松波勘十郎を登用、松波は涸沼と北浦を連結して那珂湊から直接利根川への水運を図る勘十郎堀を着工したが、激しい農民一揆が起こり勘十郎堀は未完に終わっている[187]。また見沼代用水を利用した見沼通船堀が1731年開削され、利根川中流の物流が強化された。
この廻米を輸送・備蓄するための拠点として河岸の整備も同時に行われた。1599年(慶長4年)に伊奈忠次が権現堂河岸を設けたのを皮切りに、水運遡行の上流端で中山道と連絡する上野国倉賀野河岸(高崎市)から河口の飯沼河岸(銚子市)まで利根川本流・支流の各所におびただしい数の河岸が設けられ、銚子や足尾などから高瀬舟で各河岸へ年貢米や足尾銅山の銅、特産物[注 32]が輸送された。河岸の発展に伴い荷の積み下ろしを生業とする河岸問屋が成立し、そこに旅籠など様々な店舗が開業して人口が増加し一つの町が形成された。例えば下総国境河岸(猿島郡境町)では1785年(天明5年)時点で409戸、1,851人が暮らしている[188]。しかし河岸の多くは市場構造や商品流通構造の変化、さらに河川が運搬する土砂による航行の支障などがあり盛衰を繰り返し、荷物の運搬を巡る河岸間の紛争も続発。最終的に水戸街道に近く那珂川水運で運搬された荷物の運搬に至便な下総国布施河岸(我孫子市)が1724年(享保8年)に幕府評定所の裁決で公認ルートとして認可され、鬼怒川・利根川下流の物流を独占して繁栄した[189]。
明治に入っても引き続き利根川の水運は活発で、1871年(明治4年)には汽船が就航。内国通運(現日本通運)の通運丸など数十隻の汽船が利根川を航行した[190]。こうした中1878年(明治11年)に内務卿・大久保利通は北上川から東京湾を結ぶ内陸運河構想を『一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺』として太政大臣・三条実美に建議した。この構想では印旛沼を利用した運河建設が提案されていたが紀尾井坂の変で大久保が暗殺された後、茨城県令・人見寧が1884年(明治17年)5月に『茨城県五工事起業提言』を太政官に提出。大久保の印旛沼運河に替わる運河として利根運河の建設を提案した。これに対し千葉県は当初反対したが、当時利根川改修計画を進めていた内務卿・山田顕義が予定地視察後に運河建設をヨハニス・デ・レーケ、後に改修計画立案の中心となるローウェンホルスト・ムルデルに命じると賛成に転じ、1888年(明治21年)運河工事が開始された[191]。1890年に完成した利根運河の開通で東京 - 鬼怒川・銚子間航路は従来の関宿経由に比べ38キロメートルの航路短縮と、3日の行程を1日に短縮する効果があり利用船舶は激増。翌1891年には1日平均103隻、年間3万7,594隻が航行している[192]。運営には利根運河株式会社が設立され、運河の管理を行っていた。
しかし鉄道や道路整備といった陸上交通網の発達(後述)は次第に水運自体を衰退させ、利根運河も1935年には1日平均20隻以下にまで利用船舶が落ち込み、1941年7月洪水で堤防が決壊し運河自体の使用が不能になった。河川管理者の内務省は利根川改修増補計画の一環として利根運河の放水路化を計画し、利根運河株式会社から運河を買収するが放水路計画自体が頓挫し、運河は1978年に野田暫定緊急導水路として復活するまで事実上廃川となった[192]。また汽船も1939年末までに全廃され、渡船も最盛期の1884年には利根川に89箇所、江戸川に28箇所の渡船場があった[193]がモータリゼーションの発達で次第にその姿を消してゆく。現在も運航している渡船は伊勢崎市の島村渡船(群馬県道295号新地今泉線)、熊谷市と邑楽郡千代田町を結ぶ赤岩渡船(埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線)、取手市の小堀の渡しなどわずかしかない。また江戸川には伊藤左千夫の小説『野菊の墓』や映画『男はつらいよ』、細川たかしの演歌などで知られ松戸市と葛飾区を結ぶ矢切の渡しが、潮来市・香取市では水郷巡りとして観光用の船が運航している。
道路
利根川流域の道路交通については、後北条氏が本拠である相模国小田原城と関東各地の主要な支城を結ぶ軍事的交通網の整備を進めたのが発祥となる[194]。その後江戸幕府は江戸日本橋を起点とする五街道の整備を進め、利根川流域では奥州街道、日光道中、中山道が整備された。またこれとは別に水戸街道、佐倉街道が利根川流域において整備されている。奥州街道、日光道中、水戸街道については利根川を渡河するが、利根川への木造橋梁の架橋は禁止されていた。このため舟橋が設けられたがこれも期間限定的で、史料上確認されているのは『慶長記』に記された1600年の栗橋における舟橋と、『房川御船場図』に記された将軍の日光社参拝で臨時に架橋された1843年(天保14年)の栗橋における舟橋程度しかない[195]。橋梁の代わりに設けられたのが幕府公認の定船場15箇所で(前述)、その後流通の発達に伴い河岸の整備が進み、河岸より荷揚げされた荷物を運搬するための街道整備が行われた。
明治に入り道路交通網の整備が進むが、利根川に本格的な道路橋が架橋されたのは1885年(明治18年)の利根橋であり[196] 、続いて坂東橋が1901年(明治34年)に完成している[197][注 33]。中流部では1922年(大正11年)に木造として熊谷・太田間に架橋された刀水橋があり、1924年(大正13年)には栗橋・古河間に利根川橋が架橋され、以後坂東大橋(1926年)、大利根橋(1930年)、上武大橋(1934年)が相次いで架橋された[198]。こうした道路橋の建設により従来利根川の主要な交通手段であった水運は陸上交通へと取って代わり、水運は衰退して行く。開通当初は砂利道であったが、利根特定地域総合開発計画において旧奥州街道・日光道中である国道4号や旧水戸街道である国道6号の整備も盛り込まれたことで、道路幅員や舗装といった道路整備が行われ北関東と南関東を結ぶ重要な道路交通網として利用されている。
利根川流域には国道4号、国道6号を始め国道14号(千葉街道)、国道16号、国道17号、国道18号(中山道)、国道50号、国道51号、国道119号(日光街道)、国道120号(沼田街道)、国道121号(日光例幣使街道)、国道122号(会津西街道)などの国道を始め、おびただしい数の県道が縦横無尽に走行している。また高速道路網整備により、利根川本流には上流より関越自動車道、北関東自動車道、東北自動車道、常磐自動車道、東関東自動車道が、支流には上信越自動車道が渡河しており関東と東北・北陸地方を結ぶ重要な交通網となっている。しかし交通量の増加に伴って主要な橋梁では交通渋滞が多く発生、対策として群馬大橋、新上武大橋、新利根川橋などのバイパス道路や下総利根大橋有料道路などの有料道路橋の整備が行われている。
このほか利根川には自転車専用道路も存在する。特に中流部から下流部にかけては堤防上の管理用道路を利用したサイクリングコースが自治体などにより整備されている。一例としては行田市から加須市までの間、総延長16.7キロメートルにおよぶ利根サイクリングコースがあり、二箇所のサイクリングセンターで自転車の無料貸し出しも行われており多くの市民が利用する[199]。対岸には渡良瀬川から利根川に沿って整備された自転車道路、茨城県道503号古河坂東自転車道線がある。県道の自転車専用道路は珍しい。
橋梁 | 供用道路 | 供用年 | 左岸所在地 | 右岸所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
沼田大橋 | 国道17号 | 群馬県沼田市 | 群馬県沼田市 | 沼田バイパス | |
鷺石橋 | 1929 | 群馬県沼田市 | 群馬県沼田市 | 歩行者専用 | |
新鷺石橋 | 国道120号 | 1970 | 群馬県沼田市 | 群馬県沼田市 | |
大正橋 | 国道353号 | 群馬県渋川市 | 群馬県渋川市 | ||
第一利根川橋 | 関越自動車道 | 1985 | 群馬県渋川市 | 群馬県渋川市 | |
坂東橋 | 国道17号 | 1901 | 群馬県渋川市 | 群馬県渋川市 | 1959年架け替え |
新坂東橋 | 国道17号 | 2010 | 群馬県前橋市 | 群馬県北群馬郡吉岡町 | 前橋渋川バイパス |
上毛大橋 | 群馬県道161号 | 1997 | 群馬県前橋市 | 群馬県北群馬郡吉岡町 | |
大渡橋 | 群馬県道6号 | 1921 | 群馬県前橋市 | 群馬県前橋市 | 1983年架け替え |
中央大橋 | 群馬県道10号 | 1973 | 群馬県前橋市 | 群馬県前橋市 | |
群馬大橋 | 国道17号 | 1953 | 群馬県前橋市 | 群馬県前橋市 | 高崎前橋バイパス |
利根橋 | 群馬県道109号 | 1885 | 群馬県前橋市 | 群馬県前橋市 | 1963年架け替え |
平成大橋 | 1991 | 群馬県前橋市 | 群馬県前橋市 | ||
南部大橋 | 1978 | 群馬県前橋市 | 群馬県前橋市 | ||
昭和大橋 | 群馬県道27号 | 1986 | 群馬県前橋市 | 群馬県高崎市 | |
横手大橋 | 群馬県道13号 | 2001 | 群馬県前橋市 | 群馬県高崎市 | |
利根川橋 | 北関東自動車道 | 2001 | 群馬県前橋市 | 群馬県高崎市 | |
福島橋 | 群馬県道40号 | 1926 | 群馬県佐波郡玉村町 | 群馬県佐波郡玉村町 | 1985年架け替え |
玉村大橋 | 群馬県道40号 | 2001 | 群馬県佐波郡玉村町 | 群馬県佐波郡玉村町 | |
五料橋 | 国道354号 | 1969 | 群馬県伊勢崎市 | 群馬県佐波郡玉村町 | |
坂東大橋 | 国道462号 | 1926 | 群馬県伊勢崎市 | 埼玉県本庄市 | 1930年架け替え |
上武大橋 | 群馬・埼玉県道14号 | 1934 | 群馬県伊勢崎市 | 埼玉県深谷市 | |
新上武大橋 | 国道17号 | 1992 | 群馬県太田市 | 埼玉県深谷市 | 上武道路 |
刀水橋 | 国道407号 | 1922 | 群馬県太田市 | 埼玉県熊谷市 | 1943年架け替え |
武蔵大橋 | 栃木・群馬・埼玉県道20号 | 1968 | 群馬県邑楽郡千代田町 | 埼玉県行田市 | 利根大堰 |
昭和橋 | 国道122号 | 1962 | 群馬県邑楽郡明和町 | 埼玉県羽生市 | |
利根川橋 | 東北自動車道 | 1972 | 群馬県邑楽郡明和町 | 埼玉県羽生市 | |
埼玉大橋 | 埼玉県道46号 | 1972 | 埼玉県加須市 | 埼玉県加須市 | 完成時は有料 |
利根川橋 | 国道4号 | 1924 | 茨城県古河市 | 埼玉県久喜市 | 日光街道 2009年架け替え |
新利根川橋 | 国道4号 | 1981 | 茨城県猿島郡境町 | 茨城県猿島郡五霞町 | 春日部古河バイパス |
境大橋 | 茨城・千葉県道17号 | 1964 | 茨城県猿島郡境町 | 千葉県野田市 | |
下総利根大橋 | 茨城・千葉県道162号 | 1990 | 茨城県坂東市 | 千葉県野田市 | 下総利根大橋有料道路 |
芽吹大橋 | 茨城・千葉県道3号 | 1958 | 茨城県坂東市 | 千葉県野田市 | |
利根川橋 | 常磐自動車道 | 1981 | 茨城県守谷市 | 千葉県柏市 | |
新大利根橋 | 茨城・千葉県道47号 | 1980 | 茨城県取手市 | 千葉県柏市 | 守谷街道 完成時は有料 |
大利根橋 | 国道6号 | 1930 | 茨城県取手市 | 千葉県我孫子市 | 水戸街道 1974年架け替え |
栄橋 | 千葉・茨城県道4号 | 1971 | 茨城県北相馬郡利根町 | 千葉県我孫子市 | |
若草大橋 | 茨城・千葉県道68号 | 2006 | 茨城県北相馬郡利根町 | 千葉県印旛郡栄町 | 若草大橋有料道路 |
長豊橋 | 国道408号 | 1967 | 茨城県稲敷郡河内町 | 千葉県成田市 | |
水郷大橋 | 国道51号 | 1977 | 茨城県稲敷市 | 千葉県香取市 | |
利根川橋 | 東関東自動車道 | 1987 | 千葉県香取市 | 千葉県香取市 | |
小見川大橋 | 茨城・千葉県道44号 | 1973 | 千葉県香取市 | 千葉県香取市 | |
利根川大橋 | 茨城・千葉県道260号 | 1971 | 茨城県神栖市 | 千葉県香取郡東庄町 | 利根川河口堰 |
利根かもめ大橋 | 茨城・千葉県道198号 | 2000 | 茨城県神栖市 | 千葉県銚子市 | 銚子新大橋有料道路 |
銚子大橋 | 国道124号 | 1962 | 茨城県神栖市 | 千葉県銚子市 |
鉄道
1872年(明治5年)の新橋駅 - 横浜駅間における鉄道開業以降、関東地方では急速に鉄道網の整備が進められた。1880年(明治14年)には日本初の私鉄である日本鉄道が発足[注 34]。1883年(明治16年)に上野駅 - 熊谷駅間を開通させたのを皮切りに翌1884年には高崎駅 - 前橋駅間が、1891年には日本鉄道奥州線(現・東北本線)、1895年には日本鉄道土浦線(現・常磐線)が田端駅 - 土浦駅間で開通した。こうした鉄道網発達に伴い利根川にも鉄道橋梁が建設され、1885年(明治18年)に利根川初の橋梁である東北本線利根川橋梁が完成、続いて1896年(明治29年)には常磐線利根川橋梁が完成した[200]。
日本鉄道による利根川流域の鉄道網整備は他社を刺激し、以後続々と鉄道の敷設が進む。1894年に総武鉄道(現・総武本線)、1897年(明治30年)に成田鉄道(現・成田線)、1903年(明治36年)に東武鉄道伊勢崎線の利根川橋梁が完成し3年後の1906年(明治39年)羽生駅 - 川俣駅間が開通。1911年(明治44年)に千葉県営鉄道野田線(現・東武野田線)、1916年(大正5年)には流山軽便鉄道(現・流鉄)がそれぞれ運行を開始した[200]。こうした鉄道網の整備は道路網の整備と並行して進められており、陸上交通網が発達することで水運から輸送の座を奪った。特に千葉県営鉄道野田線と流山軽便鉄道の開通はそれまで水運を利用していた野田の醤油、流山のみりん製造業が鉄道輸送に切り替えたことで水運業者は大打撃を受け、後に利根運河が廃止される一因にもなった。また1909年に開通した両毛線は沿線の栃木県足利市や群馬県桐生市の織物業輸送に利用され、鬼怒川方面からの流通が水運から離れたことも水運衰退の要因となっている[200]。
利根川流域の鉄道網は戦後に入ると東京への通勤に利用するための鉄道網整備が進められ、複線化や複数の鉄道会社による相互乗り入れなどによる路線拡充が行われたほか、新規路線の整備も進められ2005年の首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開通まで多くの鉄道路線が整備された。利根川における橋梁で最も新しいのがつくばエクスプレス利根川橋梁である。現在利根川本流を渡河する鉄道路線は上流から上越線、両毛線、東武伊勢崎線、東武日光線、東北本線、東北新幹線、つくばエクスプレス、常磐線、鹿島線があり、流域内には東日本旅客鉄道の上越新幹線、長野新幹線、信越本線、吾妻線、高崎線、八高線、武蔵野線、日光線、水戸線、総武本線、成田線、京葉線が走行し、私鉄では先述の東武鉄道、流鉄のほか京成電鉄、新京成電鉄、東葉高速鉄道、北総鉄道、銚子電鉄、秩父鉄道、上信電鉄、上毛電鉄、わたらせ渓谷鉄道、真岡鐵道、野岩鉄道、関東鉄道、鹿島臨海鉄道といった私鉄各社の本線・支線が縦横に走行している。また地下鉄では都営新宿線、東西線が江戸川下流域を走行する。これらの鉄道路線は特に利根川以南の路線で年間の利用旅客数が多く、カスリーン台風のような大水害が発生すれば首都圏の鉄道網が大規模に寸断される危険性がある。
鉄道に関しては河川開発による路線変更例がある。草木ダムでは当時の国鉄足尾線(現・わたらせ渓谷鉄道)の一部区間が水没するため、事業者の水資源開発公団と国鉄の間で特殊補償交渉が行われた。最大の問題点はダムによって水没する草木駅の存廃であったが、結果的にダム湖右岸部に草木トンネルを建設し神戸駅 - 沢入駅間を繋ぐことになり、草木駅は廃止された[201]。吾妻線に関しては八ッ場ダムの建設により路線の一部が水没するため、現在付け替え工事が検討されているがダム事業見直しに伴い今後の見通しは不透明である。ダムが完成した場合は川原湯温泉駅が水没する。また沼田ダム計画の折には上越線の一部区間と沼田駅、岩本駅が水没するためダム湖沿いに新路線と新沼田駅の建設が予定されていたが、1972年にダム計画が中止となるに及んでこれらの路線変更計画も白紙となった[202]。上越新幹線は関越自動車道と共に沼田市街地を大きく迂回しているが、これは沼田ダム建設が念頭にあったという新潟大学名誉教授(河川工学)の大熊孝による指摘がある[203]。
なお、利根川上流域に当たる群馬県と新潟県、長野県境は勾配が急なため、鉄道の敷設に関し特別な対策が取られていた。上越線上りでは湯檜曽川沿岸を走る土合駅 - 湯檜曽駅間にループ線が設けられている。一方信越本線では碓氷川沿岸を走る横川駅 - 軽井沢駅間[注 35]にアプト式ラックレールを用いたラック式鉄道を1893年より日本で唯一採用していたが、1963年に廃止されている[注 36]。
橋梁 | 鉄道路線 | 供用年[注 37] | 上り側最寄駅 | 下り側最寄駅 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
上越線第八利根川橋梁 | 上越線 | 1931 | 水上駅 | 湯檜曽駅 | |
上越線第七利根川橋梁 | 上越線 | 1931 | 水上駅 | 湯檜曽駅 | |
上越線第六利根川橋梁 | 上越線 | 1931 | 水上駅 | 湯檜曽駅 | |
上越線第五利根川橋梁 | 上越線 | 1924 | 岩本駅 | 沼田駅 | |
上越線第四利根川橋梁 | 上越線 | 1924 | 津久田駅 | 岩本駅 | |
上越線第三利根川橋梁 | 上越線 | 1924 | 津久田駅 | 岩本駅 | |
上越線第二利根川橋梁 | 上越線 | 1924 | 津久田駅 | 岩本駅 | |
上越線第一利根川橋梁 | 上越線 | 1924 | 渋川駅 | 敷島駅 | |
両毛線利根川橋梁 | 両毛線 | 1909 | 新前橋駅 | 前橋駅 | |
東武伊勢崎線利根川橋梁 | 東武伊勢崎線 | 1903 | 羽生駅 | 川俣駅 | 1962年改築 |
東武日光線利根川橋梁 | 東武日光線 | 1929 | 栗橋駅 | 新古河駅 | |
東北本線利根川橋梁 | 東北本線 | 1885 | 栗橋駅 | 古河駅 | 1980年改築 |
東北新幹線新利根川橋梁 | 東北新幹線 | 1974 | 大宮駅 | 小山駅 | 年代は橋梁の完成年 |
つくばエクスプレス利根川橋梁 | つくばエクスプレス | 2005 | 柏田中駅 | 守谷駅 | |
常磐線利根川橋梁 | 常磐線 | 1896 | 天王台駅 | 取手駅 | 1959年改築 |
常磐線新利根川橋梁 | 常磐線 | 1977 | 天王台駅 | 取手駅 | |
鹿島線利根川橋梁 | 鹿島線 | 1970 | 十二橋駅 | 潮来駅 |
観光
利根川流域には自然公園が多く存在し、その中に山、湿原、峡谷、滝、湖沼などの景勝地や温泉が存在する。また多くの文化財や観光地も存在する。これらの多くは先述した道路網や鉄道網の発達で首都圏からの交通アクセスも至便であることから、多くの観光客が訪問する。また河川施設や河川自体についても地域の観光資源や身近なレクリェーションスポットとして多くの市民に利用されている。
自然公園としては三国山脈、浅間山、草津白根山などを含んだ上信越高原国立公園、日光・鬼怒川を始めとした日光国立公園、至仏山・片品川源流の尾瀬国立公園といった国立公園、妙義山・荒船山を中心とした妙義荒船佐久高原国定公園や筑波山・霞ヶ浦・水郷一帯を中心とした水郷筑波国定公園の国定公園のほか、多くの県立自然公園が存在する。こうした自然公園内には多くの景勝地が存在するが、国の名勝や日本の滝百選、日本百名山に選定されたものも多い。国の名勝に指定されたものとして華厳滝と中禅寺湖、三波石峡(神流川)、吾妻峡(吾妻川)、吹割の滝(片品川)が、日本の滝百選には華厳の滝・吹割の滝のほか霧降の滝、常布の滝、不動滝が、日本百名山には至仏山、谷川岳、平ヶ岳、巻機山、男体山、日光白根山、皇海山、武尊山、赤城山、草津白根山、四阿山、浅間山、筑波山が選定。国の天然記念物には十六島ホタルエビ発生地(千葉県)、三波川のサクラと吹割の滝(群馬県)が指定され浅間山熔岩樹型は国の特別天然記念物に指定されている[204]。この他の景勝地としては湿原では戦場ヶ原、鬼怒沼湿原、玉原湿原など、峡谷では照葉峡・諏訪峡・綾戸渓谷(利根川)、高津戸峡(渡良瀬川)、龍王峡と瀬戸合峡(鬼怒川)など、湖沼では霞ヶ浦や中禅寺湖、榛名湖などがある。
利根川流域には温泉が多く湧出し、関東地方に存在する主要な温泉地の多くは利根川流域内に存在する。この中には伊香保温泉、草津温泉、鬼怒川温泉といった日本で知名度の高い温泉郷が存在するほか、宝川温泉、水上温泉、四万温泉、猿ヶ京温泉、万座温泉、老神温泉、川治温泉、湯西川温泉など多数の温泉がある。霧積温泉は映画『人間の証明』の舞台にもなった。しかし川原湯温泉については八ッ場ダム建設に伴い現在の温泉は完成後に水没することから、現在代替の源泉と温泉地整備が図られているが進捗は遅れている。また矢木沢ダム建設により湯の花温泉が水没。猿ヶ京温泉や老神温泉は相俣ダム・薗原ダム建設に伴って一部の旅館が移転を余儀なくされている。景勝地・温泉以外の観光地としては草木湖畔のみどり市立富弘美術館、碓氷峠鉄道文化むら、日光江戸村、東武ワールドスクウェア、牛久大仏などがある。また夏には花火大会が流域の各所で行われ、冬には利根川上流域や鬼怒川上流域において多くのスキー場が営業する。
利根川流域にある文化財としては国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産に登録されている日光東照宮などの日光社寺を始め、国の史跡・重要文化財として丸沼ダム、碓氷第三橋梁などの碓氷鉄道施設遺産群(群馬県)、足尾銅山跡(栃木県)、横利根閘門(茨城県)、伊能忠敬旧宅(千葉県)が、特別史跡として日光杉並木街道、大谷磨崖仏、常陸国分寺跡・常陸国分尼寺跡などがある[205]。県の史跡としては埼玉県が最多で見沼通船堀遺跡・鷲宮神社寛保治水碑・栗橋関所跡・川俣関所跡・石田堤・忍城・伊奈忠次墓などがあり、この他田中正造旧宅・二宮尊徳墓(栃木県)、榊原康政画像と墓など4箇所(群馬県)、熊沢蕃山墓(茨城県)がある[204]。
なお、河川開発により建設されたダムや河川敷についてであるが、ダムは矢木沢・奈良俣・相俣・下久保・草木の各ダム湖が所在自治体の推薦によりダム湖百選に財団法人ダム水源地環境整備センターより選定されている。川治ダムでは観光用の日本初国産水陸両用バスの運行が開始され鬼怒川地域の新たな観光スポットとなったほか[206]、毎年夏に矢木沢・奈良俣両ダムの試験放流が実施され多くの観光客が訪れるなど[207][注 38]観光資源として活用されている。また利根川中流・下流部の河川敷は広大であることから多くの流域住民が散歩やスポーツ、サイクリングなどに利用しており、ゴルフ場も多く存在する。利根川水系河川整備計画策定に当たり流域住民に行ったアンケートによれば河川敷の利用について様々な意見が出されたが、ラジコン飛行機の使用については愛好家が河川敷に専用の場所を設けるよう要望する一方でそれに反対する住民もいるほか、イヌの散歩による糞に対する苦情や水上バイク利用に対する苦情も多く出されており、河川をレクリェーションの場として整備する方針を掲げている国土交通省は対応に苦慮している[208]。
民俗
利根川流域の民俗は、当然ながら水に関するものが多い。古くより暴れ川として洪水の被害を多くもたらした利根川の流域住民は、自己防衛として「水塚」と呼ばれる洪水を避けるための家屋を建てている。この家屋は利根川中流部の群馬県館林市・邑楽郡、栃木県足利市・栃木市、茨城県古河市、埼玉県加須市に集中して築造された[209]。「水塚」は納屋や母屋よりも高い位置に造られ、『板倉町史』によれば概ね3 - 5メートルの盛土上に建てられている。これは谷田川堤防の高さとほぼ同一であり、非常用の備蓄食糧や農作業に必要な農具などを格納し洪水時には仏壇を避難させた。また「揚舟」と呼ばれる小舟を軒下に吊るし、非常時には物資輸送や避難民救助に使用した。この「水塚」は木曽川の「水屋」と同様の水防システムであり、加須市を中心に輪中も存在していた[210]。これらはカスリーン台風の際にも有効に機能している。
水害より流域を守るため水神に捧げる人身御供も行われていた。一例として埼玉県幸手市には「順禮(じゅんれい)供養塔」が建立されているが、これは利根川の洪水で堤防決壊寸前の所に偶然通りかかった母子連れの巡礼者が人柱として自ら川に入水し、洪水と堤防決壊を抑えた。このため住民がこの母子を供養し水防の守護神として祀るために建立したという伝承である[211]。利根川上流域や鬼怒川下流域では「川の流れは3尺流れれば水神様が清める」という信仰が伝わっており、湧水や沢、堰付近に水神を祀る水神宮が存在し、正月には供物を捧げたほか群馬県利根郡では「お茶祭り」という祭礼も行われた。弘法大師・空海の伝説も各所に残り、「弘法清水」・「弘法井戸」と呼ばれる湧水や井戸が利根川流域にも広く分布している[212]。群馬県邑楽郡板倉町にある雷電神社は雷を呼んで雨乞いをする習慣の中で、雷神を祀っている[213]。
水神信仰に関連して河童の伝説も利根川流域には伝わる。河童は利根川が流域の農業・漁業資源をもたらすことからその恩恵対象として信仰される一方で、洪水という災害を招く意味での妖怪という両面の意味で表現されている。流域に伝わる伝承の多くは人間に悪戯を働くため住民に捕らえられ、謝罪する際のお詫びとして河童秘伝の薬法を伝授するという内容であり、河童の薬法を基にした家伝薬が伝わっているという。また『望海毎談』という書物には「子っこ」という河童が居て、毎年その居を変えるが河童が居るところには災いが多いと記している[214]。牛久沼にも河童の伝説は多く、牛久沼畔で暮らした日本画家の小川芋銭は1938年に『河童百図』という河童の画集を発表している。
利根川流域に伝わる民俗芸能は自然を背景として農業を主とした生産活動に深く関連する。最も多く分布するのが獅子舞で、三匹一組の三匹獅子舞が大きな特徴である。悪霊退散の祈願や収穫感謝の祝いとして上流部・中流部を中心に多く行われ、埼玉県は日本一の獅子舞王国とされている。発展形として獅子の代わりに水神である龍を用い龍頭舞とする地域もある。年頭には御歩射(おびしゃ)という弓で的を射てその年の豊作・凶作を占う神事が千葉・茨城県境の利根川下流部一帯で行われていたほか、村祭りでは神楽や囃子が行われた。また農作業や織物、さらには堤防建設の際に歌われる「作業歌」も民俗芸能として伝わっている[215]。
利根川に関連する人物
- 北条氏政 - 後北条氏第四代当主。関宿城を獲得し利根川の水運を掌握。権現堂堤を建設する。
- 松平忠吉 - 徳川家康四男。武蔵国忍城主時代に利根川東遷事業の端緒である会の川締切を行う。
- 榊原康政 - 徳川家康家臣で徳川四天王の一人。利根川本流の本格的な堤防となる文禄堤を建設する。
- 伊奈忠次 - 徳川家康家臣。備前渠用水を始め利根川の治水・利水事業に深く関わる。忠次以降12代伊奈忠尊まで続く関東郡代・伊奈氏の初代。
- 井沢為永 - 通称弥惣兵衛。享保の改革で徳川吉宗により勘定吟味役に取り立てられ、見沼代用水を建設する。
- 田沼意次 - 江戸幕府老中。印旛沼の干拓と放水路事業を計画し実行に移すが、反対派により失脚。
- 水野忠邦 - 江戸幕府老中。天保の改革において印旛沼干拓と放水路事業を計画するが、反対派により失脚。
- ローウェンホルスト・ムルデル - 近代利根川治水事業の創始者。利根川の計画高水流量を初めて算出。利根運河建設の総指揮を執る。
- 田中正造 - 衆議院議員。足尾鉱毒事件を告発。渡良瀬遊水地建設に反対する。
- 徳田球一 - 衆議院議員・日本共産党書記長。『利根川水系の綜合改革』を著し利根川総合開発の私案を発表。房総導水路・武蔵水路構想を最初に発案。
- 松永安左エ門 - 東邦電力社長・産業計画会議議長。「電力の鬼」と呼ばれた実業家。日本最大の多目的ダム計画・沼田ダム計画を立案。
- 前原誠司 - 衆議院議員。鳩山由紀夫内閣の国土交通大臣時代に八ッ場ダム事業中止を決断するが、流域自治体・水没予定地住民の反発を招く。
参考文献
本記事において参考にした文献(PDFを含む)とウェブサイトを列記する。なおPDFとウェブサイトのリンクについては脚注節の「出典」(次項)を参照。
書籍・PDF
- 尾崎三吉『尾瀬原・只見川・利根川の水力発電概要』土木学会誌第33巻5・6号、土木学会。1948年
- 建設省『国土総合開発特定地域の栞』1951年
- 建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター編『日本の多目的ダム 補助編 1990年版』山海堂。1990年
- 建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』山海堂。1963年
- 国土交通省『平成21年全国一級河川の水質現況』2009年
- 国土交通省河川局『利根川水系河川整備基本方針』2005年
- 国土交通省河川局河川計画課『新たな基準に沿った検証の対象とするダム事業を選定する考え方について』2009年
- 財団法人国土開発技術研究センター・利根川百年史編集委員会編『利根川百年史』建設省関東地方建設局。1987年
- 財団法人日本自然保護協会『自然保護』 - 河口堰は河川生態系を大幅に変えた - 1998年
- 財団法人水資源協会編『水資源開発公団30年史』水資源開発公団。1992年
- 産業計画会議編『東京の水は利根川から - 8億トンの沼田ダムを建設せよ』ダイヤモンド社。1959年
- 社団法人日本河川協会監修『河川便覧 平成十六年版』国土開発調査会。2004年
- 常陽新聞新社編『流域紀行 - 鬼怒・小貝』常陽新聞新社。1992年
- 全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第78号、1992年
- 高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』鹿島出版会。2006年
- 千葉県県土整備部河川環境課『平成16年千葉県水害報告書』2007年
- 徳田球一『利根川水系の綜合開発 - 社会主義建設の礎石』日本共産党出版局。1949年
- 内閣府中央防災会議『利根川の洪水氾濫時の死者数・孤立者数等の公表について』記者発表資料。2008年
- 沼田市史編さん委員会編『沼田市史 通史編三』沼田市。2002年
- 別冊歴史読本『戦国の魁 早雲と北条一族』新人物往来社。2005年
- 臨時増刊歴史と旅『新編藩史総覧』秋田書店。1988年
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- 農林水産省『疏水名鑑』
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- 八ッ場あしたの会『八ッ場ダムと発電』
脚注
注釈
- ^ 例えば淀川の場合滋賀県では瀬田川、京都府では宇治川の別称で呼ばれており、淀川の名称は木津川と桂川合流点より大阪湾河口までの名称となる。ただし河川法上では琵琶湖流出口から河口までを淀川本流としている。
- ^ 明治時代から戦後建設省が発足するまでの間、河川管理は内務省の管轄であった。
- ^ 国土交通省直轄ダムおよび水資源機構管理ダムについては全て該当する。これを特定水利と専門的には呼ぶ。
- ^ 1539年(天文8年)説もある。
- ^ 「頃」とは当時の面積の単位で、1頃はおよそ1ヘクタールに相当する。この場合2,000ヘクタールの被害があった。
- ^ 武蔵国、相模国、伊豆国、下総国、上総国一円と沼田を除く上野国、下野国の南部。
- ^ 同名の用水路は茨城県水戸市にも存在する。名の由来は忠次の官職である備前守に由来する。
- ^ 『下総国旧事考』では1621年開削とするが、『新編武蔵風土記稿』では1642年(寛永19年)開削説を採る。
- ^ 豊田堰自体は1839年(天保9年)に完成しているが、その前身となった堰は忠常が建設している。
- ^ 棒出しについては根岸門蔵『利根川治水考』で天保説を挙げるが、土木学会『明治以前日本土木史』では寛永説を採っている。
- ^ 1725年成立。勘定奉行支配下で江戸川・鬼怒川・小貝川・利根川下流を管轄する。1732年(享保17年)廃止。
- ^ 利根川のほかには北上川、鳴瀬川・江合川、最上川、信濃川、常願寺川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の各水系が指定された。信濃川と常願寺川以外はダム計画が立てられている。
- ^ 22地域の詳細は河川総合開発事業#特定地域総合開発計画を参照
- ^ 現在は利根川、淀川のほか荒川、豊川、木曽川、吉野川、筑後川の各水系が開発対象となっている。
- ^ 川治ダム以外では八ッ場ダム、桐生川ダム(桐生川)、南摩ダム(南摩川)、湯西川ダム(湯西川)および霞ヶ浦開発が対象となっている。
- ^ この時に徳島県で建設省が進めていた細川内ダム計画(那賀川)が凍結、後に中止されている。以後大規模ダム事業の中止・凍結が相次ぐ。
- ^ 完成年は導水先である佐久発電所の運転開始年とする。
- ^ 黒部川の川底を掘削して河道内の容量を増加させ、確保した容量を治水と上水道供給に利用する河川総合開発事業。
- ^ 貯水容量の1,400万立方メートルは牛久沼の治水容量である。
- ^ 『疏水名鑑』では1000年以上前に長野康業が開削したと記すが、『群馬県史』などの長野氏関連文献に康業の名は確認できない。史料上で長野氏の動向が確認できるのは室町時代後期以降である。また1526年当時の長野氏当主も諸説ある。詳細は上野長野氏を参照。
- ^ 現在も東北電力三居沢発電所(1,000キロワット)として稼働している。
- ^ 重荒廃地域の定義は何れも大規模な1崩壊面積が0.3平方キロメートル以上、1禿しょ面積が2平方キロメートル以上、滑落崖地面積が1平方キロメートル以上存在する山地を指し、日本全国で14地域が指定されている。
- ^ 一般荒廃地域の定義は崩壊地(1パーセント以上)・禿しょ地(10パーセント以上)・滑落崖地(5パーセント以上)が点在し、延べ面積が地域の相当量を占め、治水上重大な被害を及ぼす可能性がある地域を指す。日本全国で26地域が指定されている。
- ^ 足尾地域では毎年春に山焼きを行うのが恒例であったが、突風に煽られ野火が延焼し大火となった。
- ^ マグニチュードは6.8と推定されている。
- ^ ただしこの値は相対的なもので、猪名川や大和川、鶴見川といったワースト常連の河川も急速に水質改善が進んでいるためである。
- ^ 本調査において常陸利根川は霞ヶ浦の一部として、湖沼の扱いを受けている。
- ^ 宮城県の長沼と同率7位である。
- ^ 利根川水系以外では琵琶湖、八郎潟、児島湖、諏訪湖、野尻湖、宍道湖、中海および釜房ダム貯水池(釜房湖)が指定されている。
- ^ 久慈川、多摩川支流の浅川と並んで関東地方では最もBOD平均値が低い。
- ^ 成立順に行徳(市川市)・長島(江戸川区)・猿俣(葛飾区)・戸崎(三郷市)・大堺(八潮市)・鶴ヶ曽根(八潮市)・彦名(三郷市)と成立年代不明の鷺宮(久喜市)の8箇所。
- ^ 主なものとして大豆、麻、タバコ、木材、塩、魚、茶、醤油、綿などがある。
- ^ 1959年に現在の坂東橋が架橋され、旧橋は吾妻郡六合村の白砂川に架橋し直されている。
- ^ 1906年に国有化され、路線は国鉄を経て再度の民営化により現在は東日本旅客鉄道の所有である。
- ^ 1997年長野新幹線開通に伴いこの区間は廃止される。
- ^ アプト式ラックレールはその後1990年に長島ダム(大井川)建設に伴う大井川鐵道井川線付け替えにおいてアプトいちしろ駅 - 長島ダム駅間で採用され復活している。
- ^ 年代は特記しない限り路線開通年とする。
- ^ 2011年は行われない。
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関連項目
- 一級水系
- 紀の川 - 紀伊藩時代に井沢為永が河川事業を実施。利根川の河川事業に生かされる。
- 荒川 - かつては利根川の支流で現在は利根川水系と一体化した河川事業を展開。
- 那珂川 - 霞ヶ浦導水事業で利根川水系と連携。
- 多摩川 - 利根川と並ぶ東京都の水源。
- 関東平野
- 北関東 - 南関東
- 利根 (重巡洋艦) - 軍艦名に利根川の名称を付ける。
- 平将門の乱 - 平安時代に発生した承平天慶の乱の一つ。平将門が朝廷に反旗を翻し利根川流域を一時制圧。
- 享徳の乱 - 古河公方派と堀越公方派に分かれた室町時代の戦乱。旧利根川流路を境に東西関東が対立。
- 神流川の戦い - 1582年に神流川で起こった北条氏政と滝川一益の戦い。織田氏勢力が利根川流域より駆逐される。
- 日本のダムの歴史 - 日本ダム史年表
- ダム建設の是非