秋元長朝
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 寛永5年8月29日(1628年9月26日) |
別名 | 孫三郎(通称)、孫四郎 |
戒名 | 江月院殿巨岳元誉大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市総社町総社の光巌寺 |
官位 | 越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 上杉憲盛、氏憲、徳川家康、秀忠 |
藩 | 上野総社藩主 |
氏族 | 秋元氏 |
父母 | 秋元景朝、上杉憲政養女妙耕院 |
子 | 泰朝、小笠原某室、渋川某室 |
秋元 長朝(あきもと ながとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。上野国総社藩主。官位は越中守。館林藩秋元家初代。
生涯
[編集]始め庁鼻和上杉氏に仕えた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、主君の氏憲が小田原城に籠もったため、長朝もこれに従って北条方に与して深谷城を守備した。長朝は攻め寄せる豊臣軍を相手に奮戦し、よく城を持ちこたえたが、本城小田原城の開城に伴い、敵将前田利家と浅野長政の猛攻を察知して、杉田因幡と謀って開城し深谷を兵火から守った。その後しばらくは隠棲していたが、文禄元年(1592年)に井伊直政の推挙を受けて徳川家康の家臣となり、直政配下として上野国碓氷郡内に4000石を与えられた。
慶長5年(1600年)の会津征伐の前に上杉景勝詰問の使者として会津に赴いた。同年の関ヶ原の戦いでは対上杉守備隊に属した。さらに戦後も家康の命で再び会津に赴いて景勝に降伏を勧め、これを受け入れさせた。この功により、6000石を加増され1万石となり、上野国総社藩に転封となった。慶長9年(1604年)、利根川から引水するという治水工事に大きな成功を収め、所領の収穫を倍増させた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも従軍して功を挙げた。元和8年(1622年)、嫡男・泰朝に家督を譲って隠居し、寛永5年(1628年)に死去した。享年83。
系譜
[編集]父母
子女
- 秋元泰朝(長男)
- 小笠原某室
- 渋川某室