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2010年8月23日 (月) 10:30時点における版
谷垣 禎一 たにがき さだかず | |
---|---|
生年月日 | 1945年3月7日(79歳) |
出生地 | 京都府福知山市 |
出身校 | 東京大学 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 法学士 |
親族 | 父・谷垣専一 |
公式サイト | 谷垣禎一公式サイト |
第24代 自由民主党総裁 | |
在任期間 | 2009年9月28日 - 現職 |
第9代 国土交通大臣 | |
内閣 | 福田康夫改造内閣 |
在任期間 | 2008年8月2日 - 2008年9月24日 |
第3-5代 財務大臣 | |
内閣 |
第1次小泉第2次改造内閣 第2次小泉内閣 第2次小泉改造内閣 第3次小泉内閣 第3次小泉改造内閣 |
在任期間 | 2003年9月22日 - 2006年9月26日 |
内閣 | 第1次小泉第1次改造内閣 |
在任期間 | 2003年7月1日 - 2003年11月19日 |
選挙区 |
(京都府第2区→) 京都府第5区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1983年12月19日 - 現職 |
その他の職歴 | |
特命担当大臣 (産業再生機構担当) (産業再生機構(仮称)創設準備担当) (2002年11月8日 - 2003年9月22日) | |
第69代 国家公安委員会委員長 (2002年9月30日 - 2003年9月22日) | |
第3-4代 金融再生委員会委員長 (2000年2月25日 - 2000年7月4日) | |
第56代 科学技術庁長官 (1997年9月11日 - 1998年7月30日) |
谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945年(昭和20年)3月7日 - )とは、日本の政治家、衆議院議員(10期)。自由民主党総裁(第24代)である。
人物概要
科学技術庁長官(第56代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、国家公安委員会委員長(第69代)、産業再生機構担当大臣、財務大臣(第3・4・5代)、自民党政調会長(第50代)、国土交通大臣(第9代)などを歴任した。
旧加藤派を継承して宏池会(谷垣派)会長に就いた後、古賀派との合流後は代表世話人を務めている。きょうと青年政治大学校第3代学長を務めた。
文部大臣(第100代)を務めた谷垣専一の長男。影佐禎昭元陸軍中将は祖父。
経歴
政界入り 宏池会のホープ
京都府福知山市出身。麻布中学校・高等学校を経て、東京大学法学部を卒業。短期間の弁護士生活を経て、元文相で父・谷垣専一の死去に伴う補選で父の地盤を引き継ぎ、1983年(昭和58年)旧京都2区補欠選挙に自民党より出馬し初当選、選挙区に20日間泊り込んで支援した白川勝彦や亡父も属した宏池会に所属。この補選では前尾繁三郎の死去にともない、同じ2区から野中広務も当選している。
自民党では早くから将来を嘱望された。1996年(平成8年)に『文藝春秋』が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では既に3位に選出されており(1位は鳩山由紀夫)、そこでは「政策通でありながら議運・国対で汗をかける政治家」として評価されている。1993年(平成5年)の非自民連立政権では野党自民党の国会対策の中心を担い、1995年(平成7年)に衆院議院運営委員長。1997年(平成9年)、第2次橋本内閣改造内閣の科学技術庁長官として初入閣。
1998年(平成10年)の金融危機にあって、小渕恵三総理大臣は宮澤喜一に大蔵大臣就任を要請。宮澤が就任条件の一つとして谷垣の政務次官就任をあげたため、閣僚経験者でありながら次官となった。続く「金融国会」において金融二法の成立に尽力、引続き国務大臣・金融再生委員会委員長に抜擢されたことで、経済政策のエキスパートとしての評価が高まった。
続く森内閣では、2000年(平成12年)の加藤の乱に際して加藤紘一と行動を共にして挫折。この際、山崎拓と二人だけで本会議に不信任票を投じに行こうとする加藤に対し、「加藤先生、あなたは大将なんだから! 一人で突撃なんてダメですよ!」と慰留するシーンが話題となり、テレビで度々放送された。
小泉政権~総裁選初出馬
「加藤の乱」後は宏池会分裂により一時厳しい立場に追い込まれたが、2001年(平成13年)に小泉純一郎が首相となると谷垣は重用され、2002年(平成14年)秋以降は常に閣僚の座にあった。とりわけ要職である財務大臣を3年にわたって無難に務めあげたことで表舞台での活躍が増し、広く認知されるきっかけとなった。党でも2005年(平成17年)、小里貞利の引退により、会長席が空いた宏池会・小里派から加藤紘一最高顧問が離脱したのを機に、谷垣派を形成して派閥の領袖となる。こうして名実ともに総裁候補となり、ポスト小泉「麻垣康三」の一人と目されるようになっていき、2006年(平成18年)9月の総裁選初出馬へと至った。
総裁選にあたっては、政権構想として
- 財政再建(2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ)
- 東アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話をとれる「アジアホットライン」の構築)
- 地域社会の活性化(法人税、地方交付税などの税体系の見直しを通じた税収の地域間格差の是正にとりくむ)
といった政策を提示した。
9月20日、投開票が行われた結果、谷垣は703票中102票(国会議員66・地方36)を獲得。安倍晋三、麻生太郎に次いで最下位に終わったが、投票までの論戦で政策的に安倍・麻生との対立軸を明確に打ち出して目標としていた三桁の票を確保したことは健闘と評価された。
安倍・福田・麻生政権と宏池会再結集
敗北に終わった総裁選をうけて成立した安倍政権では、谷垣派からの閣僚・党三役への登用はゼロで、党内非主流派に回ることになった。与党が過半数割れした2007年7月の参院選後は、安倍内閣の政治姿勢に対して公然と疑問を呈するなど批判の度を強めていたが、直後の内閣・党役員人事でも谷垣派からの要職起用は無かった。
同年9月、安倍総理の突然の辞任を受け、2007年自民党総裁選への出馬を検討したが、福田康夫の立候補にともない派としての支持を約束、自らの立候補は見送った。総裁に就任した福田からの要請で政調会長に就任、初の三役入りを果たした。
福田政権の誕生を機に、懸案であった宏池会再結集の動きが一気に具体化し、翌年1月には古賀派との合併が決定(「中宏池会構想」)。5月に発足した新派閥では代表世話人となったが、新派閥の総裁候補は棚上げされたままで、派内には麻生支持議員も少なくなく、派として谷垣を一枚岩で支援する体制は整わなかった。谷垣自身、政調会長として十分に指導力を発揮したとはいえず、手腕にしばしば疑問の声があがった。2008年(平成20年)8月2日の内閣改造では国土交通大臣に就任。翌月の福田退陣表明による総裁選では出馬に意欲を見せたが、福田政権の責任者という立場も考慮し出馬を断念、宏池会は自主投票となった。同総裁選では世代交代をアピールした若手の出馬表明が相次いだ他、足元の宏池会からも与謝野馨や麻生を率先して支持する議員が現れるなど、2回続けて出馬を見送った谷垣の総裁候補としての立場は微妙なものとなっていた。
自民党が野党に転落することになった2009年(平成21年)総選挙では、対抗馬である民主党の小原舞の猛追を受けながらも小選挙区で当選した。
自由民主党総裁
2009年
2009年(平成21年)9月28日、有効投票総数499票中300票を獲得し、第24代自由民主党総裁に選出された。内閣総理大臣未経験者の自民党総裁就任は河野洋平に次いで2人目である(ただし、河野洋平は森喜朗の計らいで衆議院議長に就任している)。「弁護士経験者たる自民党総裁」は初代・鳩山一郎以来2人目。
10月、政権奪還を意識する観点から自民党「影の内閣」の設置に意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけばポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した[1]。
10月19日には、秋季例大祭が行われている靖国神社へ参拝した。自由民主党総裁の靖国神社参拝は2006年(平成18年)8月15日(終戦の日)の小泉純一郎内閣総理大臣(当時)以来3年2ヶ月ぶりの参拝となる[2]。谷垣は『産経新聞』の取材を受け、2006年(平成18年)の自由民主党総裁選で「首相に就任した場合は参拝を自粛する」と表明していた[2]ことについて、「当時の国際関係を考慮し、総理はあの時点では差し控えるべきだという意味です」[3]と述べ、「野党になったから参拝したのか?」との質問には「野党であるということを斟酌してというよりも、戦争で亡くなられた英霊をお祀りする場は必要だと思う」と答えている[3]。
靖国神社に代わる国立追悼施設の建設については、総裁選時に「他の施設を造るのは賛成できない」と述べており[4]、この時も記者団に対し、「戦争に従軍した方々は『戦死したら靖国神社に祭られる』という思いを持って亡くなった方が大勢いるので、その重みはある」と述べ、慎重な構えを見せた[5]。
2009年(平成21年)11月15日、東京都昭島市内でサイクリング中、逆走して来た別の自転車と接触し負傷[6]、左目の周囲を数針縫う治療を受けた[7]。自宅で静養後、11月24日に活動を再開した[7]。
11月26日、民主党や公明党などが成立を目指す外国人参政権について「反対だ」と明言した。また、「党全体を賛成の方向でまとめていくつもりは全くない」とも語り、自民党としても外国人参政権に賛成をしないという意向を示した[8]。
天皇特例会見問題では、民主党政権を批判[9][10][11][12][13]。小沢一郎民主党幹事長の“国事行為発言”についても批判[14]し、「天皇の政治利用」とする認識を示した[15]。また、天皇の訪韓にも慎重な姿勢を示した[16]。
2010年
2010年(平成22年)1月1日、自由民主党総裁として、自民党本部から全国の党員・党友組織自由国民会議会員に向けて新年のメッセージを送った[17]。
1月4日、伊勢神宮に参拝。記者たちに「特に政治とカネの問題を見ると、必ず内閣総辞職、あるいは解散によって国民に信を問うところまで求めていかなければならない」と述べ、偽装献金問題などを追求し鳩山由紀夫首相の辞任を強く求めていく考えを強調。また、衆参同日選の可能性について「1つの選択肢として視野に置く必要がある」と述べた。民主党の小沢一郎幹事長については、小沢が先日の天皇特例会見を内閣の助言と承認に基づく「国事行為」だとして正当化したことに触れ「小沢幹事長のごときにいたっては、あたかも内閣が判断をすれば天皇陛下に何でもお願いできるかのような表現すら取っている。まったく日本国憲法の構造をはき違えたものだ」と批判した[18]。
1月7日の新年初の自民党総裁定例記者会見にて、産経新聞の記者から「鳩山首相がTwitterを始められましたが、総裁はやられるのか?」との質問に対し「つぶやくようなことはしない。ごまめの歯ぎしりでもあるまいし」と否定し、フリーランスの記者から「鳩山首相がブログを始めましたが、総裁としてブログを書くつもりはあるか?」との質問に対しては「具体的に考えていない」と答えた[19][20]。
1月19日、BSフジの番組「BSフジLIVE PRIME NEWS」にて、永住外国人への地方選挙権付与法案について「米軍普天間飛行場移設問題を地方の首長選(2010年1月24日の名護市長選)に委ねようとする動きを見ていると、地方参政権を付与するのがいいのかどうか」と述べ、外国人参政権に反対する意向を改めて表明。賛否では党議拘束をかけるべきだとの考えを示した[21][22]。
2月11日(建国記念の日)、民間団体主催の式典であいさつし、「現在、わが国は非常に厳しい経済情勢のもとにありますが」「むしろ、危機は飛躍するための好機であるととらえ、今こそ人づくり国づくりに力を尽くす時であると考えます」と述べた。また、「国の発展には、伝統文化の継承と心豊かな人材の育成が必要不可欠」として、道徳教育の必要性などを訴えた[23]。
2月25日、鳩山由紀夫内閣がまとめた天皇の公的行為に関する見解[24]について、国会内で記者団に「象徴天皇のデリケートさに全く何の配慮もない、政治的英知を欠いた見解だ。その都度その都度便宜的に判断すればいいという答えだが、憲法のイロハも心得ない噴飯物の解釈だ」と批判した[25]。
4月16日、韓国の与党であるハンナラ党の鄭夢準代表から、日本における永住外国人への地方選挙権付与に協力するよう求められたが、「憲法上の問題もあり自民党は反対の立場だ」と述べた[26]。
4月22日、自民党本部にて行われた定例記者会見で、鳩山由紀夫の元秘書が東京地方裁判所にて有罪判決が出たことに関して「弁護士は総理を守る、依頼者を守るのが仕事で、総理の責任は説明責任をきちっと果たす」と述べ、弁護士の国会への参考人招致を求めていく方針を示し、「鳩山首相は、秘書の疑惑は議員の責任と、過去に誠にあっぱれな発言された経緯があります[27]。ご自身の責任も明らかにすべきであると、申し上げたいと思います」と追及する構えを見せた。舛添要一参議院議員より離党届が提出された問題では、「比例代表から選出されており、議員辞職をするのが筋」と離党届を受理しない旨を示唆した。また、フリーランスの記者から「この程、Twitter[19]を始められた心境の変化について」を尋ねられた際には「若い方々から多くの方の生の声を聞く、非常に良い手法であると。必ずしも、公式の、四角四面の街頭演説や集会では得られない声が返ってくるということもある」と周りから勧められた事を述べた[28][29]。
4月28日、宮崎県で家畜伝染病である口蹄疫が拡がっていることを受けて、宮崎県で口蹄疫の視察をした。2日後、口蹄疫対策本部(本部長・谷垣禎一総裁)を設置し、政府に対し万全の対策を講じるよう申し入れ。野党の自民党が対策本部を設置する異例の事態となった[30]。
2010年(平成22年)7月の第22回参議院議員通常選挙を控え、「与党を過半数割れに追い込めなかった場合は総裁を引責辞任する」と表明し、背水の陣を敷いて選挙戦に臨んだ。自民党は51議席を獲得して改選第1党となり、連立与党は過半数を割り込んだため、谷垣は総裁続投を表明した。
人物・エピソード
身長176cm、体重80kg、血液型O。
読売新聞がキャリア官僚100人を対象に実施したアンケート(2001年1月に紙面掲載)によれば、「2010年に活躍が予想される政治家」で1位(2位石原慎太郎、3位額賀福志郎)、「21世紀中に首相になって欲しい政治家」では石原と共に1位に選ばれている[32]。
当初から弁護士志望で政治家になる気は全く無く、父からも「こういう仕事は世襲じゃないんだから、お前は継ぐな」と言われていたが、1983年(昭和58年)6月27日に父が急死、当時株主総会の集中日で弁護士として多忙を極めていた所を後援会から「ホテルで缶詰め」にされ、「警察の取り調べのように」出馬を要請された。7月3日に出馬を承諾、8月7日には補選で当選という慌ただしさだった[33]。なお、日本の歴史上で「弁護士経験者たる総理大臣」は初代日本社会党委員長片山哲と初代自民党総裁鳩山一郎のみ、「弁護士経験者たる自民党総裁」は鳩山一郎と谷垣のみである。
麻布中学時代は剣道部、麻布高校時代は山岳部に所属。いずれにおいても部活の先輩であった橋本龍太郎に指導を受けた。その縁で、橋本龍太郎が会長を務めていた日本山岳ガイド協会の会長を、谷垣自身が現在務めている。山岳部にのめり込んで大学を何回も留年したり 、司法試験で何度も不合格になるなど、エリートらしからぬエピソードも持っている。
他に趣味として落語鑑賞とサイクリング。サイクリングにはロードバイクやマウンテンバイクを愛用し、何度もロードレースに参加し好タイムで完走している。政界でも指折りの自転車愛好者で、自転車活用推進議員連盟と日本サイクリング協会の会長を務め、総裁就任後は選挙応援や地方遊説にも自転車を活用している[6]。自転車関連でのメディア露出も多く、例えばムック本『イエローバイシクル[1][2]』では、111.28kmの距離(いわゆる「ロングライド」の距離である)を同誌編集長と共に自転車で走りながら語り合うという前代未聞のインタビューを受けたり、単行本『自転車会議』には共著者として名を連ねたりしているほどである。
愛読書は四書五経など中国の古典や宋代の詩人・蘇東坡の漢詩などで、しばしば中国の故事を引用する。また読書を巡るインタビューでは、竹越与三郎の『二千五百年史』、田口卯吉の『日本開化小史』、北畠親房『神皇正統記』、新井白石『読史余論』といった史論への嗜好を語っている[34]。キリスト教系の政財官界人の親睦会「インターナショナル・VIP・クラブ」の講師を務め、「国会議員が集まって聖書を読みながら祈る会」を発足させたメンバー議員の一人。ワイン愛好家で名誉ソムリエの称号を持つ。もっともかつての宏池会の同僚代議士であった森田一によれば、ワインは蘊蓄派というよりガブ呑み派の酒豪だという。読売ジャイアンツの熱烈なファンであり、東京ドームで野球観戦する際にはプロ野球選手のプレーに批評を加えるほど[35]。京都遺族会会長を務める。
2004年(平成16年)6月4日、井上喜一内閣府特命担当大臣が佐世保小6女児同級生殺害事件について「元気な女性が多くなってきたということですかな」などと発言したため、問題の本質から外れているとして批判を浴びた。この発言を受けて、谷垣禎一財務大臣が6月5日、岡山市で行われた講演と、逢沢一郎外務副大臣の政治資金パーティーでの講演で、「カッターナイフで頸動脈を切るというような犯罪は昔は男の犯罪だった」「放火なんていうのはどちらかというと女性の犯罪」などと発言したため、性別によって犯罪の種類が決まっているというようなニュアンスと受け取られて同じく批判を浴びた。実際には統計上、放火の罪により服役している女性の数は2000年代と1960年代では共に男性より少ないことが判明している。
週刊文春(2005年12月8日号)で1988年(昭和63年)訪中時に女性を買春し、中国公安当局に尋問されたと報じられた[36][37]。これを受けて谷垣は名誉を棄損されたとして、謝罪広告の掲載と2200万円の損害賠償を求めて週刊文春の発行元である文藝春秋側を提訴[38]。1審(東京地裁)は名誉棄損の成立を認めて文藝春秋側に330万円の支払いを命じ[39]、2審(東京高裁)では1審判決を支持した上で賠償額を220万円に減額[40]。その後最高裁は文藝春秋側の上告を棄却し、2審判決が確定した[41]。
略歴
- 1963年 麻布高等学校卒業。
- 1972年 東京大学法学部卒業。以後断続的に父・専一の秘書を勤める。
- 1979年 司法試験合格。
- 1982年 司法修習34期(同期に山口なつお、伊東秀子、千葉景子、松野信夫)修了し弁護士登録。
- 1983年 旧京都2区補選において衆議院議員に初当選。
- 1986年 衆議院議事進行係に就任。
- 1988年 郵政政務次官に就任。
- 1990年 防衛政務次官に就任。
- 1995年 衆院議運委員長に就任。
- 1996年 自由民主党総務局長に就任。
- 1997年9月11日 科学技術庁長官に就任(翌年7月30日まで)。
- 1998年 大蔵政務次官に就任。
- 2000年2月25日 金融再生委員会委員長に就任(同年7月4日まで)。
- 2000年11月21日 「加藤の乱」に際し、派閥の会長であった加藤紘一と行動を共にする。
- 2002年9月30日 国家公安委員会委員長に就任(翌年9月22日まで)。
- 2002年11月8日 産業再生機構(仮称)担当大臣兼務(前同。翌年4月10日、呼称から「(仮称)」が外れる)。
- 2003年7月1日 食品安全担当大臣兼務(前同)。
- 2003年9月22日 財務大臣に就任(第1次小泉第2次改造内閣)。
- 2003年11月19日 財務大臣に再任(第2次小泉内閣、第2次小泉改造内閣)。
- 2005年9月21日 財務大臣に再任(第3次小泉内閣、第3次小泉改造内閣)。
- 2005年9月26日 宏池会会長に就任。(加藤派→小里派→谷垣派)
- 2006年9月 自民党総裁選に出馬、3位。
- 2006年10月 自民党総務に就任。
- 2007年9月 自民党政調会長に就任。
- 2008年5月13日 旧谷垣派と旧古賀派の合流に伴い、宏池会の代表世話人に就任。
- 2008年8月2日 国土交通大臣に就任。(福田康夫内閣改造内閣)
- 2009年9月28日 自民党総裁選で当選し自由民主党総裁に就任(中央政治大学院総長、影の内閣たる政権力委員会総理大臣にも就任)。
- 2010年6月9日 自民党ネットサポーターズクラブ最高顧問に就任。
家族 親族
- 実家
- 自家
- 妻・佳子との間に二女あり
系譜
- 谷垣家
影佐禎昭━━━娘 ┃ ┏谷垣禎一 ┣━━━━━┫ ┃ ┗男 谷垣松次郎━谷垣専一
所属議員連盟や関係団体等
- 自民党ネットサポーターズクラブ(最高顧問)
- 新憲法制定議員同盟(顧問)
- 日本サイクリング協会、自転車活用推進議員連盟(会長)
- 社団法人日本蕎麦協会(会長)
- 北京オリンピックを支援する議員の会(副会長)
- 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(常任幹事)
- 日韓議員連盟(常任幹事)
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
- たばこと健康を考える議員連盟
- 日本会議国会議員懇談会(相談役)
脚注
- ^ “自民、影の内閣見送り…“大臣”ポスト争い心配”. 読売新聞. (2009年10月9日) 2009年10月21日閲覧。[リンク切れ]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。
- ^ a b “谷垣氏、秋季例大祭の靖国神社を参拝 自民総裁では3年2カ月ぶり”. 産経新聞. (2009年10月19日) 2009年12月24日閲覧。
- ^ a b 石橋文登 (2009年10月25日). “【政治部デスクの斜め書き】谷垣総裁の靖国参拝に思うこと (1/3ページ)”. 産経新聞 2009年12月24日閲覧。
- ^ “自民党総裁選記者会見要旨(2) (2/2ページ)”. 産経新聞. (2009年9月19日) 2010年3月25日閲覧。
- ^ 自民 谷垣総裁が靖国神社参拝NHKニュース 2009年10月19日[リンク切れ]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。
- ^ a b “谷垣総裁が自転車事故”. 産経新聞. (2009年11月15日) 2009年12月1日閲覧。
- ^ a b “自転車事故の自民・谷垣総裁が活動再開”. 産経新聞. (2009年11月24日) 2009年12月1日閲覧。
- ^ “外国人参政権付与に反対=谷垣自民総裁”. 時事通信社. (2009年11月26日) 2009年12月29日閲覧。
- ^ “天皇会見に批判相次ぐ=自民”. 時事通信社. (2009年12月13日) 2009年12月24日閲覧。
- ^ “自民・谷垣氏、「感覚めちゃくちゃ」と首相批判 天皇陛下と中国副主席会見”. 産経新聞. (2009年12月13日) 2009年12月24日閲覧。
- ^ “谷垣総裁、首相の天皇陛下会見指示を批判”. 日テレNEWS24. (2009年12月14日) 2009年12月29日閲覧。
- ^ “「権力抑制の感覚欠如」=首相の特例会見要請に-自民・谷垣氏”. 時事通信社. (2009年12月13日) 2009年12月24日閲覧。
- ^ "天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見問題について 谷垣禎一総裁談話" (Press release). 自由民主党. 14 December 2009. 2009年12月29日閲覧。
- ^ “小沢発言に自民党から猛批判続出”. 日刊スポーツ. (2009年12月16日) 2009年12月24日閲覧。
- ^ “首相、宮内庁の対応批判…「責任転嫁だ」野党”. 読売新聞. (2009年12月14日) 2009年12月24日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “政府・小沢氏を改めて批判 谷垣氏”. 産経新聞. (2009年12月15日) 2009年12月24日閲覧。
- ^ "【メッセージ】谷垣禎一総裁新春メッセージ 2010.01.01" (Press release). 自由民主党. 1 January 2010. 2010年1月1日閲覧。
- ^ “「総辞職、解散に追い込む」 谷垣氏が伊勢神宮参拝”. 産経新聞. (2010年1月4日) 2010年1月4日閲覧。
- ^ a b "谷垣禎一総裁 定例記者会見" (Press release). 自由民主党. 7 January 2010. 2010年1月7日閲覧。
- ^ 谷垣禎一総裁定例記者会見(2010.1.7) - YouTubeLDP Channelより
- ^ “外国人地方参政権付与法案には「反対」 自民・谷垣氏”. フジサンケイ ビジネスアイ. (2010年1月19日) 2010年2月13日閲覧。
- ^ “外国人地方参政権付与法案には「反対」 自民・谷垣氏”. 産経新聞. (2010年1月19日) 2010年3月25日閲覧。
- ^ “「建国記念の日」奉祝中央式典 自民・谷垣総裁、「新しい国づくり」に向けた決意述べる”. フジニュースネットワーク. (2010年2月11日) 2010年2月13日閲覧。
- ^ “「天皇の公的行為について」の政府見解全文”. 産経新聞. (2010年2月25日) 2010年2月27日閲覧。
- ^ “天皇公的行為の見解批判=自民党の谷垣氏”. 時事ドットコム (時事通信社). (2010年2月25日) 2010年2月25日閲覧。
- ^ “ハンナラ党代表、参政権付与を要請 自公代表に”. 日本経済新聞. (2010年4月16日) 2010年4月17日閲覧。
- ^ 加藤紘一の秘書が2003年(平成15年)に逮捕された際、鳩山由紀夫は街頭演説にて「秘書の疑惑は議員の責任」と発言した経緯がある為。
- ^ "谷垣禎一総裁 定例記者会見 2010/4/22" (Press release). 自由民主党. 22 April 2010. 2010年5月16日閲覧。
- ^ 谷垣禎一総裁定例記者会見(2010.4.22) - YouTubeLDP Channelより
- ^ 口蹄疫対策本部記者会見(2010.4.30) - YouTubeLDPchannelより
- ^ “「尊敬するのは聖徳太子」自民・谷垣氏 邦夫氏への対抗心も…”. 産経新聞. (2010年3月18日) 2010年3月25日閲覧。
- ^ 『読売新聞』 2001年1月6日
- ^ 『週刊文春』2003年9月11日号・阿川佐和子との対談より。
- ^ 早野透『政治家の本棚』朝日新聞社290頁
- ^ 森田一氏が語る「谷垣禎一論」 森田実の言わねばならぬ 2010年1月11日付
- ^ 「【花田紀凱の週刊誌ウォッチング】『週刊文春』(12月8日号)の「谷垣禎一財務大臣 中国人女性『買春』疑惑」産経新聞 2005年12月3日
- ^ 「最大野党トップまでもが中国に負い目!? 谷垣・自民党総裁が嵌った「ハニー・トラップ」 鹿島圭介」新潮45 2009/11月号
- ^ “谷垣財務相が文春を提訴 名誉棄損と損害賠償求め”. 47NEWS (共同通信社). (2005年12月12日) 2010年3月24日閲覧。
- ^ 文藝春秋に330万円賠償命令 谷垣前財務相への名誉棄損で フジサンケイ ビジネスアイ 2007年7月10日
- ^ “2審は文春の賠償減額 名誉棄損で谷垣氏勝訴”. 47NEWS (共同通信社). (2008年5月29日) 2010年3月24日閲覧。
- ^ “谷垣元国交相の勝訴確定 中国買春報道”. 47NEWS (共同通信社). (2008年11月11日) 2010年3月24日閲覧。
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 冬柴鐵三 |
国土交通大臣 第9代:2008年 |
次代 中山成彬 |
先代 塩川正十郎 |
財務大臣 第3・4・5代:2003年 - 2006年 |
次代 尾身幸次 |
先代 創設 |
特命担当大臣(食品安全) 2002年 - 2003年 |
次代 小野清子 |
先代 創設 |
特命担当大臣(産業再生機構) 2002年 - 2003年 |
次代 金子一義 |
先代 村井仁 |
国家公安委員会委員長 第69代:2002年 - 2003年 |
次代 小野清子 |
先代 越智通雄 |
金融再生委員会委員長 第3・4代:2000年 |
次代 久世公堯 |
先代 近岡理一郎 |
科学技術庁長官 第56代:1997年 - 1998年 |
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議会 | ||
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次代 現職 |
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