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福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。[[1927年]]に旧制東筑中学校(現・[[福岡県立東筑高等学校]])卒業後、上京して[[明治大学]]に入学する。明治大学在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、[[二・二六事件]]の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。[[1932年]]、[[満洲国]]政府に奉職するため渡満、[[新京]]にあった大同学院([[満洲国]]政府の官吏養成機関)に入学する。[[1944年]]、召集を受けて陸軍久留米第12師団に入隊、中支戦線に出動する。[[1945年]]初め大本営に異動、敗戦後処理の研究に従事し、戦後は[[満洲国]]時代から面識のあった[[石原莞爾]]を隠棲していた[[山形県]][[飽海郡]]高瀬村に訪ねて[[東久邇宮内閣]]への入閣を依頼した(その後、石原は羽織袴姿で首相官邸に現れ、入閣を辞退した)。
福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。[[1927年]]に旧制東筑中学校(現・[[福岡県立東筑高等学校]])卒業後、上京して[[明治大学]]に入学する。明治大学在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、[[二・二六事件]]の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。[[1932年]]、[[満洲国]]政府に奉職するため渡満、[[新京]]にあった大同学院([[満洲国]]政府の官吏養成機関)に入学する。[[1944年]]、召集を受けて陸軍久留米第12師団に入隊、中支戦線に出動する。[[1945年]]初め大本営に異動、敗戦後処理の研究に従事し、戦後は[[満洲国]]時代から面識のあった[[石原莞爾]]を隠棲していた[[山形県]][[飽海郡]]高瀬村に訪ねて[[東久邇宮内閣]]への入閣を依頼した(その後、石原は羽織袴姿で首相官邸に現れ、入閣を辞退した)。


三原は若い頃に多くの著名人に会い、教えを受けた。福岡県の先輩[[頭山満]]から、「三原君、天下国家のために己を空しゅうして御奉公すれば、必ず御天道様と米の飯はついて回るもんだよ」。召集を受けた後に[[甘粕正彦]]([[満州国協和会]]の上司)から送られた手紙、「三原君、日満の空は暗い。あとの事はよろしく頼みます」。[[介石]]から、「皆さんは、僕が日本のためにうんぬんしたというけど、僕も随分日本のお世話になったんですよ」。
三原は若い頃に多くの著名人に会い、教えを受けた。福岡県の先輩[[頭山満]]から、「三原君、天下国家のために己を空しゅうして御奉公すれば、必ず御天道様と米の飯はついて回るもんだよ」。召集を受けた後に[[甘粕正彦]]([[満州国協和会]]の上司)から送られた手紙、「三原君、日満の空は暗い。あとの事はよろしく頼みます」。[[介石]]から、「皆さんは、僕が日本のためにうんぬんしたというけど、僕も随分日本のお世話になったんですよ」。


=== 衆議院議員時代 ===
=== 衆議院議員時代 ===

2020年9月15日 (火) 13:29時点における版

三原朝雄
みはら あさお
生年月日 1909年8月20日
出生地 日本の旗 日本 福岡県遠賀郡遠賀町
没年月日 (2001-03-07) 2001年3月7日(91歳没)
死没地 日本の旗 日本 福岡県行橋市
出身校 明治大学
所属政党 自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
親族 長男・三原征彦
次男・三原朝彦
岳父・山縣初男

内閣 第1次大平内閣
在任期間 1978年12月7日 - 1979年11月9日

日本の旗 第34代 防衛庁長官
内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年11月28日

日本の旗 第96代 文部大臣
内閣 第2次田中角榮内閣第2次改造内閣
在任期間 1974年11月11日 - 1974年12月9日

選挙区 福岡県第2区
当選回数 8回
在任期間 1963年11月21日 - 1986年6月2日

選挙区 遠賀郡選挙区
当選回数 5回
在任期間 1950年4月23日 - 1963年10月31日
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三原 朝雄(みはら あさお、1909年(明治42年)8月20日 - 2001年(平成13年)3月7日)は、日本政治家衆議院議員、また文部大臣防衛庁長官総理府総務長官を歴任した。勲一等旭日大綬章(1986年)。北九州市議会議員の三原征彦は長男、衆議院議員の三原朝彦は次男にあたる。陸軍軍人の山縣初男は岳父である。

来歴・人物

生い立ち

福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学に入学する。明治大学在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。1932年満洲国政府に奉職するため渡満、新京にあった大同学院(満洲国政府の官吏養成機関)に入学する。1944年、召集を受けて陸軍久留米第12師団に入隊、中支戦線に出動する。1945年初め大本営に異動、敗戦後処理の研究に従事し、戦後は満洲国時代から面識のあった石原莞爾を隠棲していた山形県飽海郡高瀬村に訪ねて東久邇宮内閣への入閣を依頼した(その後、石原は羽織袴姿で首相官邸に現れ、入閣を辞退した)。

三原は若い頃に多くの著名人に会い、教えを受けた。福岡県の先輩頭山満から、「三原君、天下国家のために己を空しゅうして御奉公すれば、必ず御天道様と米の飯はついて回るもんだよ」。召集を受けた後に甘粕正彦満州国協和会の上司)から送られた手紙、「三原君、日満の空は暗い。あとの事はよろしく頼みます」。蔣介石から、「皆さんは、僕が日本のためにうんぬんしたというけど、僕も随分日本のお世話になったんですよ」。

衆議院議員時代

1950年、福岡県議会議員となる。その後政界への進出を考え、1963年の衆院選で初当選。はじめは自由民主党大野伴睦派に属していた。大野の死後に大野派は分裂、三原は村上勇派に参加し、水田三喜男がその後を継いだ水田派に属した。1974年、当選4回ながら第2次田中再改造内閣で文部大臣として初入閣。福田内閣時には防衛庁長官、第1次大平内閣時には総理府総務長官をそれぞれ歴任した。1976年に水田が死去し翌年に派閥が解散してからは無派閥となった。以後三原は引退まで無派閥で通したが、実質的には隠れ田中角栄派だった(このことから次男の朝彦は田中派を引き継いだ竹下派に入会し、その後新党さきがけへの参加を経て現在に至る)。

防衛庁長官時代に、それまで非公式に行われてきた有事法制の研究を公式に開始した(その後、長い議論を経て有事法案が国会を通過したのは2003年)。「防衛族のドン」というニックネームで呼ばれたことがある。

総理府総務長官時代に、それまでの内閣で手つかずであった元号問題に取り組んだ。在任中に元号法案が国会で可決された。

年譜

エピソード

敗戦少し前に軍務で静岡県に駐屯した際、近くにあった満洲国協和会の友人の郷里を留守中に訪問し、その時一人で家にいた友人の弟に初対面であったにもかかわらず大金を託したというエピソードがある(潮文社編 『心に残るとっておきの話』、潮文社)。同文献によると、この三原の行為を受けた友人の弟(著者)は、かつて日本には貧しいながらも温かい何かがあった、と感じている。

信条

  • 「天下国家のために己を空しくして御奉公すれば、必ず御天道様と米の飯はついて回る」
  • 「下座にて仏心を行ずる」
  • 「相手の腹中に信を置く」

参考文献

  • 三原朝雄 『わが激動の八十八年』、西日本新聞社1996年11月。
  • 北澤和郎 「数十秒の記憶」『心に残るとっておきの話』、潮文社、1993年12月10日。

外部リンク


議会
先代
前田正男
日本の旗 衆議院内閣委員長
1972年 - 1973年
次代
徳安実蔵
公職
先代
稲村左近四郎
日本の旗 沖縄開発庁長官
第9代:1978年 - 1979年
次代
小渕恵三
先代
稲村左近四郎
日本の旗 総理府総務長官
第28代:1978年 - 1979年
次代
小渕恵三
先代
坂田道太
日本の旗 防衛庁長官
第34代:1976年 -1977年
次代
金丸信
先代
奥野誠亮
日本の旗 文部大臣
第96代:1974年
次代
永井道雄
先代
木村俊夫
日本の旗 内閣官房副長官 (政務担当)
1971年 -1972年
次代
山下元利
党職
先代
安倍晋太郎
自由民主党国会対策委員長
第23代 : 1977年 - 1978年
次代
金丸信