コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「銭形平次 (大川橋蔵)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 綋繒譙褧を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (清水綋治) - log
1,239行目: 1,239行目:
*第650話「十手無情」[[江夏夕子]]、[[戸部夕子]]、[[藤岡重慶]]、[[小林稔侍]]、[[山本麟一]]、[[福本清三]]
*第650話「十手無情」[[江夏夕子]]、[[戸部夕子]]、[[藤岡重慶]]、[[小林稔侍]]、[[山本麟一]]、[[福本清三]]
*第651話「狙われた密会」[[小林芳宏]]、[[清水めぐみ (女優)|清水めぐみ]]、[[女鹿智子]]、[[浜田寅彦]]
*第651話「狙われた密会」[[小林芳宏]]、[[清水めぐみ (女優)|清水めぐみ]]、[[女鹿智子]]、[[浜田寅彦]]
*第652話「小唄をどこで覚えたか」[[三島ゆり子]]、[[清水治]]、[[山口奈美]]、[[小笠原町子]]
*第652話「小唄をどこで覚えたか」[[三島ゆり子]]、[[清水治]]、[[山口奈美]]、[[小笠原町子]]


1979年
1979年

2020年8月20日 (木) 00:06時点における版

銭形平次
ジャンル 時代劇
原作 野村胡堂
(「銭形平次捕物控」より)
企画 高橋久仁男、水上輝生、田辺嘉昭、渡部健作、久板順一朗、佐伯明、衣川篤夫
監督 長谷川安人鳥居元宏倉田準二荒井岱志斎藤武市黒田義之ほか
監修 佐々木康
出演者 二代目 大川橋蔵
オープニング 舟木一夫「銭形平次」
時代設定 江戸時代
製作
プロデューサー 笠原武、島村精一、杉本直幸、大崎陽一朗、加藤貢
制作 フジテレビジョン東映
放送
音声形式モノラル
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1966年5月4日 - 1984年4月4日
放送時間水曜日20:00 - 20:54
放送枠フジテレビ水曜夜8時枠時代劇
放送分54分
回数888
テンプレートを表示

大川橋蔵・主演『銭形平次』(ぜにがたへいじ)は、1966年5月4日-1984年4月4日まで、フジテレビ系列で毎週水曜20時から放映された連続テレビ時代劇。

野村胡堂の小説『銭形平次捕物控』をテレビドラマ化した。

概要

ドラマ史上最長の全888話[注 1]という金字塔を打ち立て、ギネスブックで世界記録に認定されている[1][2]。連続でない同一俳優、同一主人公のドラマとしては『暴れん坊将軍』(主演:松平健)の832話がこれに次ぐが、既にレギュラー版が中断して久しく、現代の日本においては複数クールの連続ドラマ自体がほとんど製作されなくなっている状況もあって、不滅の記録となっている。

スタート当初は白黒作品であったが[2]、2年目からカラー作品が不定期的に製作されるようになり、1969年5月からカラー化[3]。カラー化第一作は視聴率24.7%[3]。第158話以降は正式なカラー放送である。

1967年には、テレビ版と同じスタッフで、映画版も製作されている。

最高視聴率は、1967年9月の35.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)[4]。1975年頃までは常時20%台を保った[4]

2011年4月発売のパチンコ機『CRびっくりぱちんこ銭形平次withチームZ』(京楽産業.)は本作品のタイアップ機で、演出として実写映像が使用されている。

橋蔵平次誕生

本作はフジテレビと東映東映京都テレビ・プロダクション)の共同製作で[5][6][7][8][9][10]、撮影はフジテレビのスタジオではなく[6]、全て東映京都撮影所(以下、東映京都)の映画スタジオで行われた[6][10][11][12][13]。これは大川橋蔵は出演を受けたとき、東映との専属契約が切れたままの状態だったが[14]、出演を受ける際の条件の一つとして「気心の知れた東映京都の仲間となら」という条件を出したためで[14]、東映京都テレビ・プロがスタッフを引き受ける形で同所で撮影が行われることになった[14]。最初の平次の女房お静役だった八千草薫が一年の予定が長く続いたため、二年半経ったとき「東京から週5日も京都に来ていては他の仕事が出来ない」と番組降板を申し入れたのはフジテレビではなく東映京都だったが[12]再放送を含め全ての著作権はフジテレビが所有しているという[14]。第一回収録1966年2月9日東映京都[6]

東映は1964年2月に東映京都撮影所所長に復帰した岡田茂が、大川博東映社長から東映京都の合理化と時代劇改革の指揮権移譲を受けて[15][16][17]、東映京都の実権を握り[18][19]、東映京都の企画会議は岡田の独演会で、他の出席者は「結構でございます」で会議が終了したといわれる[20]。岡田は所長就任早々、映画での時代劇製作打ち切りを宣言し[16][21][22]、東映京都は任侠映画を中心とした製作とし[23][24][25]、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目をつけ[26][27]、時代劇はテレビへ移行させる方針を打ち出した[26][28][29][30][31][32][33]。岡田は「新しい戦後日本の混乱に、型で見せる時代劇はもう合わない」と判断し[34][35]ギャラの高い大スターを切り[32]、中堅俳優の群像劇で現実味を出す任侠路線を構想した[34][35][36]

岡田は時代劇の大スター、大監督、大脚本家を一人一人説得し[16][37][38][39][40]、専属制を一挙に御破算という荒治療を断行[41][42]。東映退社か、任侠映画の製作に移るか、自身が設立した東映京都テレビ・プロダクション[39][43][44]でのテレビ時代劇製作に移るか、いずれかを選択させ世代交代を押し進めた[22][38][33][45][46]。その他の撮影所の人員はテレビ部門に吸収し[43]、テレビ時代劇を映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り[27][29][43][47]、東映のテレビ事業が『銭形平次』などのヒットで2000年代半ばに於いても日本のテレビ映画制作の約40%に及ぶシェアを占める契機となった[26]。また営業部門や東映東京撮影所東映動画東映本社、劇場他、東映グループへの配置転換と合わせ[24][28]、東映京都の人員を2100人から900人に減らした[21][24][43]

橋蔵主演の映画は興行不振が続き[48][49][50][51][52]、1965年以降、映画出演が減らされた[50]。また1965年から1966年3月の結婚に至るまでの女性スキャンダルが週刊誌等に散々書き立てられ[52][53][54]、人気も落ちており[54][55][56]、岡田の狙いはテレビでの橋蔵人気の挽回であった[51][55]。岡田は「善良性の時代劇はテレビでやったら受ける、お茶の間で。これから善良性のものはテレビでやるから、全部移すと決めた。橋蔵君はヤクザやったってお客が来るわけない。根っこからの善良性のスターに。だから橋蔵君にテレビに移ってくれと言った。案の定テレビの時代劇は当たりました。『水戸黄門』なんかいまだにやってるでしょ。だからウチが先鞭切ったんだ。やらざるをえなかったからやったんだけど」と2005年のインタビューで[33]、他に「東映京都のテコ入れは『銭形平次』などテレビでどんどん時代劇を作ることだった。映画界はテレビを見下していたが、ウチは同居してしまった。時代劇はもう映画ではダメだった」[17]「私が設立した東映京都テレビ・プロダクションは、映画だけでは飯が食えない時代がやってきたことを意味し、これに大川橋蔵さんが真っ先に賛同して人気テレビ時代劇になる『銭形平次』に出演してくれた。橋蔵さんの『京都撮影所を離れたくない。映画でなくてもここでやりましょう』という思いがスタッフの皆にも通じた」などと述べている[28]沢島忠は岡田からの本作演出要請に「時代劇はやりたかったが、テレビに慣れてしまうと映画もいい加減に撮ってしまうのではないかと思い断った」と話している[17]

当時のフジテレビ開発室プロデューサー・高橋久仁男は『銭形平次』が企画された経緯と大川橋蔵の抜擢について、1965年4月の番組改編で、フジがナイター雨傘番組として長谷川一夫主演の大映銭形平次捕物控』を用意していたら、その年は雨が多く5月、6月に『銭形平次捕物控』が立て続けに放映され、視聴率がナイターを上回ったことから、フジの片岡政則編成部長が早速、安永予士人映画部長に原作権の獲得を要請し、高橋が担当となった。日本文藝家協会に打診したところ、原作者側の野村家はテレビ局や制作プロダクションをあまり信用していないので、制作方針を書面にしてくれないと取り次ぎかねると言われた。それで高橋が野村胡堂の著作を一週間かけて読み漁り、六ヶ条のコンセプトをまとめて提出したら野村家から了承を得られた。野村家がOKした決め手になったのは、お静の鉄火肌イメージを一新し、芯は強いが物静かで、夫の職業に口出しせず、台詞廻しも現代的にするという部分で、お静のモデルである野村胡堂の未亡人がこれに共感してくれたという[14]。続いて平次役のキャスティングは歌舞伎を含むビッグスターに打診したが[14]、なかなか諸条件が合わず[14]。苦慮していると東映が制作させて欲しいとアプローチをかけてきたので[14]、「大川橋蔵なら」とフジ側の希望を伝えた[14]。水曜日の夜8時台、時代劇を女性にもみてもらおうと狙いましたが、二枚目でしかも女性ファンにウケると言えば橋蔵さんしかいなかった[57]。すると東映から「橋蔵にテレビに出てくれと言える者はいない」と返答された[14]。仕方なく高橋が橋蔵が所属する新芸術プロの児玉浩嗣社長に直接交渉したら[14]、東映のヤクザ路線や深夜興行に馴染めない橋蔵は[52]、東映との専属契約も切れたままになっており、テレビに少なからず興味を持っていた[14]。橋蔵は「町人マゲの役は初めてだし、テレビに不安もあるから単発ドラマのほうが」とためらったが、高橋は連続物でと押し切った。橋蔵は「京都でまだ映画もやりたい」し[7]、「気心の知れた東映京都の仲間となら」という東映京都で撮影するという条件でオファーを受けた[7][14]。また16mmフィルムによるテレビ映画という条件も付けた[14]

上記のように『実録テレビ時代劇史』での高橋証言では、東映から橋蔵にテレビに出てくれと言える者はいないと返答されたので、フジテレビ主導で大川のテレビ出演を決めたとしているが、当時の文献にはこの話とは真っ向反対の記述がされているものがあり、東映では橋蔵にテレビに出てくれと言える者はいないどころか、東映が橋蔵から条件次第ではテレビ出演も可という了承を貰い[58]、『半七捕物帳』での長谷川一夫の一時間一回のギャラ民放史上最高の一本100万円(番組一回の製作費は約500万円)だったことから[58]、テレビでも高額のギャラを取れると認識した東映は、某代理店に「長谷川以上のギャラを出すなら橋蔵のテレビ初出演を受ける」という意思表示をしたところ、「とんでもない」と蹴られた[58]、しかしこの話を聞いたフジテレビが、東映のいい値に近い線を飲み、出演が決定したというもので、大川のテレビ出演は東映主導で決めたと書かれたものがある[58]。岡田茂は「橋蔵君にテレビに移ってくれと言った。これが要するに『銭形平次』です」などと述べている[33]

野村胡堂の捕物帳ものの人気を改めて見せつけたことからフジテレビもその恩赦に浴しようという算段で製作を決めた[5]。フジテレビの当時の編成局長・村上七郎は「できるなら1965年の暮れからでも放送をスタートしたかったのですが、主役の平次を誰にお願いしようかと五、六人の候補を出して迷っていたのです。先ず平次は若くて美男で、しかも敏捷でなくてはならないという人選に悩みました。だが、橋蔵さんがこの役を引き受けてくれるならばいうことはないと考えていました」と述べている[7]

フジテレビが候補に挙げたのは最初は宇津井健だった[59]。以降、宝田明[59]里見浩太朗[59]などが候補に挙げられたが[59]、いずれも帯に短し襷に長しで[59]、最終的に本郷功次郎で九分九厘決まりかけたが[59]、1965年に拳銃不法所持事件があり白紙に戻された[59]。新たな候補を探している最中にTBS系長谷川一夫主演による『半七捕物帳』が1966年3月からの放送が決まったため、この大物親分に対抗するには天下の橋蔵以外にないと急転直下で橋蔵の起用が決まった[59]。時代劇映画の不振で岐路に立った橋蔵のお茶の間進出であった[59]。長谷川一夫主演の『半七捕物帳』はTBSの水曜劇場枠で『銭形平次』の30分後に放送が始まり[60]、"銭形平次"は長谷川一夫イメージが強く[60]、フジテレビも橋蔵も背水の陣を布かざるを得ない状況となった[60]

里見浩太朗は「『銭形平次』は実は僕に最初に話が来た。『スタジオで撮り、絵がきれいに出るビデオテープを使うならやりたい』と僕が条件を出したが、フジテレビ側が『フィルムで撮る』と譲らないので断った。そのあと橋蔵さんのところへ話を持って行ったらしい。橋蔵さんも当時はテレビ映画を"紙芝居"と呼んで嫌がっていた。しかし所属事務所の社長が『これからはテレビの時代が来る』と説得してやむなく受けたらしい」などと話している[61][62]。里見は1965年に拳銃不法所持で起訴されており[63]、それでもキャスティングされる可能性があったのかは分からない。

製作開始

橋蔵は「映画、演劇、テレビの三つをやってきたいというのがボクの長年の夢でした。演劇の方は年に二回、東映歌舞伎を演らせてもらっているし、今度のテレビで三つの懸案がやっと実現できました。この頃はファンレターの中にもボクのテレビ出演を求めて来る人が目立って多くなって来てるし、時期としても今がいちばんいいのではないか思って、今回の話を承諾しました」と話した[7]。テレビ初出演の初陣を迎えるにあたっては、「劇映画では長谷川一夫さんがおやりになって、見る側からいえばそのイメージが多分に残っていると思う。しかしボクはボクなりの"平次"をやっていきたいとハリキっています。原作では影の薄い恋女房のお静(八千草薫)を前面に押し出して構成、これまでとは違ったものをお見せできる。ボクのファンは家庭婦人が多く、今回のテレビ出演は大きなプラスになると思う」などと抱負を述べた[6]。また「ボクは『0011ナポレオン・ソロ』のファンなんで、あれもいってみれば捕物帳ですし、ああいうスピーディな動きと新しいアイデアを取り入れてみたいです」などと抱負を述べた[7]

高橋久仁男は『銭形平次』は人気が出るまでに1年とふみ、契約も珍しい1年という長期のものにしたところ、当時の橋蔵ブームに恵まれてかスタートから1位という「思いがけぬ成績」で驚いたという[3]。以降もずっと一年契約の延長で、毎年この一年で終わるという考えだったという[3]。"銭形平次"は長谷川一夫イメージが強く苦戦も予想されたが[60][64][65]、スピーディな演出等が受け入れられ高視聴率をマークした[64][65]。高橋は長期に渡る人気の秘密を「野村胡堂の原作と目新しさこそないものの、平次の持つやさしさが、夜八時という家族揃ってテレビを見る時間にすんなり受け入れられた」と話している[3]

映画の頃から橋蔵は娯楽志向で甘い二枚目は衰えてない。京都スタッフも橋蔵の為ならと徹夜覚悟の心意気を見せた。ただ劇場映画にこだわる一部の映画人からはテレビに対する偏見の冷たい視線を受け続けたままだった[14]。そんな時期を乗り越え『銭形平次』は一つの頂点を極めて行く[31]映画会社の中には貸し渋る俳優を解禁しても、時既に遅し鮮度を失った俳優やテレビになじめない俳優も多く居たなかで橋蔵の銭形平次は映画スターが茶の間で見られる事と当時の橋蔵ファンが結婚して家庭テレビを見られるとそのままスライドし高視聴率に繋がった。

大岡越前』『遠山の金さん捕物帳』など[9][13][28][37][38][43][62][66][67]、日本のテレビ時代劇の礎を築く作品を製作発注する契機となった[9][37][43]電通がテレビに参入したのは『銭形平次』が始まった1966年のことで[31][66]、傘下にC.A.Lを設立し[31][66]、『』を皮切りに[66]、テレビ時代劇製作に乗り出し[66]松下電器産業から発注し代表作『水戸黄門』(東映京都下請け[39])などを製作していく[31][66]。岡田は東映京都の映画用ステージをテレビ用に渡していった[32]。「テレビ映画初期時代の姿勢の違いが後世まで影響し、大きな差になって表れた。私はテレビ映画CMも映画と同じ"映像"という観点で捉え、東映は他社に先駆け、映像会社という姿に変貌を遂げた」などと話している[28]岡田裕介は「岡田茂は東映の財産である時代劇をテレビに売っていった」と述べている[29]。1968年春に表面化した東映のお家騒動の煽りで[68]、岡田茂は1968年8月に映画の製作・配給・興行までを一貫させた映画本部長[69][70]、1971年1月にはテレビやCMを含めた映像製作部門の全権を掌握する映画本部長兼テレビ本部長に就任し[26]大川博は「岡田本部長の権限は、いわば一つの映画会社の社長の立場に匹敵する」[69]藤本真澄は「企画から小屋に至るまでとは、えらいこっちゃ」と話すほど[71]大きな権限を持たされたためこれが出来た。1970年前後の東映京都は、任侠映画が3本に対して、テレビドラマ撮影8本というフル回転だった[13]高岩淡は1971年2月のインタビューで当時の京都撮影所のフル稼働について「他社に先んじて思い切って京都撮影所の製作効率化を図った岡田茂本部長(当時)の先見の明がここにおいて生きた」と述べている[72]。また1980年代後半の民放各局で放送された大型時代劇ドラマはほとんど東映京都が作っていた[73]。『銭形平次』などのヒットは、2007年代後半に於いても東映のテレビ事業全体が日本のテレビ映画制作の約40%に及ぶシェアを占める契機となったといわれる[26]

銭形平次四原則と題材

原作者の野村胡堂はこの捕物小説を書くのに四つの原則をもっていた[74]。 1つはの肩を持たない。むしろ横暴徹底的にやっつける。 2つ町人農民の味方になる。 3つ罰することだけが犯罪の解決ではあるまいとの哲学を貫く。 4つ明るい健康な作品にする[74]。 橋蔵はこの四原則にほれこんだ[74]。銭形平次は大映映画での長谷川一夫が18本演じ、番組スタート時は長谷川平次のイメージが色濃く残っていた[75]。橋蔵は当時「長谷川先生とは違った面を出すのに苦労致しました。その為には若さを打ち出し、立ち回りを派手に取り入れるほかはないと思いました」と語っていた[75]ホームドラマ的な捕物帖。家に帰れば女房の尻に敷かれてる気のいい夫、事件がおこれば颯爽とした親分に変身する「良き夫でたくましい職業人」理想の夫像だった。原作は383話しかないので残りはオリジナルで制作された。時には社会面からヒントを得た事も多数あった。橋蔵は銭形平次の京都から歌舞伎舞台東京までの道中では何か良い話はないかと常に本を読む努力家であった[76]。番組が始まった頃は親子の絆を血のつながりで解決出来た。ところがコインロッカーでの子捨てが社会問題になると、血ではなく育ての親との情が中心となる。時代劇とはいえ世相をストーリーに反映してきた。[77]

撮影の改良(1年目から2年目以降へ)

年間53話で撮影は最初の一年間はアフレコ(撮影が終わってからフィルムに合わせて台詞や音を入れる撮影方法)であった。そのため台詞が単調になり橋蔵としてはどうも気分がのらず、シンクロにしたいと力説。しかし東映テレビブロの現況では当時200万から300万する撮影機を購入するわけにはいかない。そっと自分で買おうとまで思い詰めた。幸い東映大川社長の決断で橋蔵の希望が入れられる事になった。これがきっかけで東映テレビ撮影シンクロに切り替わりその他の設備もいろいろ改良が加えられ撮影条件は向上した。たえずスポンサーと検討し脚本家の人数も増やし万全な体制で2年目に突入した。

監督は最初は佐々木康長谷川安人がメインだった[11]。初めは2話を一週間で撮っていたが、橋蔵が忙しくなり、2話を4日間で撮るようになった[11]。それで佐々木が高齢で撮影に困難が生じ、新しい監督として荒井岱志が抜擢された[11]。荒井は松竹では俳優が監督に挨拶に行くものと教わっていたので、東映に「俳優に挨拶に行ってくれ」と言われビックリした[11]。荒井は橋蔵に「僕の顔のアップをキレイに、これが日本一の顔だ、と撮ってほしい。銭形は僕が中心なんだから、僕が立つように。それを心がけてくれればいいですよ」と言われた[11]。荒井は888話中90話を演出した[11]

橋蔵平次のコスチュームも初めは長谷川一夫と同じ腹掛けを付けていたが、2年目からは普通の町人スタイルに変更した。 橋蔵との契約は1年更新だったが4年目の契約時にフジテレビから「橋蔵さんが辞める意思を示さなければ、これから先もずっと続けてほしい」と言われる。

橋蔵が辞め時を悩んだのは3年目が終わった時[4][78]。その後は10年目。橋蔵は「視聴率が良かったので延長に延長を重ね、結局17回も延長してしまった。3年目が終わった時は悩みました。これまでは橋蔵の平次だったけど、これ以上続けると橋蔵そのものが平次になってしまう。イメージが固まるのは役者に取っていいのか、悪いのか?と」その決断を迫られ、「以後はそうであってもいい」と平次になりきる道を選んだ[78]。「こうなったら10年続けようと思いました。10年たったあとはもうがむしゃらです。」などと述べていた[4][78]

十手と投げ銭と立ち回り

半官流の宗家・中島正義氏に十手術を指導してもらい柳生流の中に二挺十手術というのがあり殺陣師と一緒に稽古した[6]。これは十手二刀流みたいなもので踊りのような手も入る派手な技だった。投げ銭も古武道にあるスピーディーなものにした[6]。橋蔵は映画時代から立ち回りに定評があり、から十手に替え激しい立ち回りにも息切れひとつせず廻りを驚かした[79]六代目尾上菊五郎からの厳しい修行の賜物で女形呼吸法と男の呼吸法を使い分けるからだった[80]

豪華なゲストと映画時代からの絆

銭形平次は捕物帖なので前半はゲストが番組を構成し、後半に平次はそれを推理して解決していくというのが全体の流れ。橋蔵はよく、映画では主役だったので出ずっぱりだったが、銭形平次での親分役は脇役的要素が大きいという意味合いの事を言っていた。東映で一緒に映画を作っていた気心の知れたスタッフ(京都東映チーム)とテレビに移っても仕事が出来た事は心強かった。 特にゲストに多くの映画時代の先輩や仲間達が多く出演してくれたのは橋蔵の人柄だと言える。片岡千恵蔵月形竜之介山形勲東千代之介桜町弘子花園ひろみ丘さとみ沢村宗之助美空ひばり黒川弥太郎星美智子里見浩太朗山城新伍瑳峨三智子江利チエミ野際陽子若山富三郎等が映画の作品で共演している。ほとんどが何度も出演し、中には10回以上出てくれる人もいた。東映ではなくとも嵐寛寿郎芦屋雁之助高田浩吉、橋蔵の映画をよく監督したマキノ雅弘の娘マキノ佐代子、演出家の蜷川幸雄(橋蔵没後妻真理子が出版した本のあとがきも書く)なども出演した。当時人気だったアイドル文化人なども多く出演し番組に花を添えた。また歌舞伎界から17代目中村勘三郎の長女波乃久里子や橋蔵の舞台と平行して出ている俳優女優も多かった。

橋蔵親分逸話

  • 橋蔵は銭の投げ方を長谷川一夫に指導を受けた。「長谷川(一夫)先生に伺った事があるのですが、先生は野球の各シーズンの最優秀投手の投げ方を取り入れていたんです。オーバースローであったりアンダースローであったり」と発言している[81]
  • ある日片目を真っ赤にした橋蔵が撮影場所に現れスタッフの一人に「それでは撮影出来ないので明日にしましょう」と言った所「じゃぁ片側から撮れるものだけとってほしい」と言われスタッフも親分の律儀さに驚いた[80]
  • どんなに激しい立ち回りをしても顔だけには決して汗をかかなかったのでスタッフの結髪(けっぱつ)を驚かせた橋蔵[80]。夏の暑い時期などワンシーンごとに衣装を脱ぎカツラを撮ってしまう役者さんもいたが、橋蔵は撮影中汗でメイクが崩れカツラを付け直した事は18年間一回もない[80]
  • 視聴者から「投げた銭はどうするのか?」という質問がきたので八五郎が後で回収するという回を2、3話作った[82]。制作側は聞かれた際は「平次は町人のヒーローであるため無駄にせず必ず子分が拾っている」と返事をしており、疑問に対する答えとしてシリーズ中に一度だけ、子分以外に銭が拾われる展開が描かれる第603話「投げ銭を拾った娘」が作られた[83]
  • 当初から担当している殺陣師谷明憲氏は「古武道の先生から習った十手術を基にして豪快さより華麗な立ち回りを工夫しました。リアルにすると殺伐とするので血糊も控えめにしてます」[84]

番組終了

大スター大川橋蔵のテレビ初出演で大きな話題を呼び、以後、CXの看板番組として約18年間、夜8時台のゴールデンタイムに二桁台の視聴率を維持してきた[8][60]。水曜夜8時はプロ野球シーズンには他局のナイター中継とぶつかる時間帯ながら予想をはるかに上回る人気を獲得した[60]。しかし500話を超えた1976年頃から視聴率が10%にまで落ち[85]、一旦15%くらいまで回復したとされたが[85]、1980年頃から急激に視聴率が低下した[4][78]鹿内春雄フジサンケイグループ議長から1980年6月にフジテレビ代表取締役副社長に就任し、同局のお笑い番組改革を推し進め[86][87]、『スター千一夜』や『銭形平次』のような長寿番組打ち切り対象となり[86]、春秋の番組改編期の度に打ち切りの話が出るようになり[4]、当時のフジテレビ編成局長・日枝久が番組打ち切りを決断した[10]。しかし20年来の付き合いがあった岡田茂東映社長に猛烈な説得工作を浴びあえなく撤回[10]、後始末に奔走させられ酷い目に遭ったという[10]。しかし後に岡田から「何か大義を作って放送回数を延長してくれ」と提案され[25]、「それならフジテレビの"8"にちなんで888回にしましょう」との日枝の案に岡田が了解し[25]、岡田が橋蔵を説得し[25]、橋蔵もこれを受け入れ[25]、1984年4月4日、888回をもって番組終了が決定した[8][25]。この頃橋蔵は前年から続く体調不良に冒されながらも撮影を敢行し、番組終了8ヵ月後の同年12月7日に癌で他界した。

特徴

映画スターだった大川橋蔵が、18年にわたって主役を演じ、ギネスブックで「テレビの1時間番組世界最長出演」と認められた。橋蔵は番組が終了して間もない1984年12月7日に亡くなり、結果として銭形平次は橋蔵のライフワークとなった。橋蔵の棺には平次用の十手と投げ銭が入れられた[88]

脇役陣の活躍も魅力だった。とくに、平次をライバル視する岡っ引き「三ノ輪の万七[注 2]」役で第53話に藤尾純から交代した遠藤太津朗(辰雄)はこれ以降、「憎めない敵役」として人気を博した。森田健作市毛良枝リリーズ京本政樹らがレギュラー出演した時期もあった。

また豪華ゲストも数多く出演した。とくに最終話は美空ひばり里見浩太朗五木ひろし舟木一夫汀夏子がゲスト出演している。1958年TBSで「テレビ版平次俳優第1号」となった若山富三郎や、本作終了後の1987年日本テレビ平次を演じた風間杜夫がゲスト出演した回もある。

オープニングタイトルで流れる主題歌は舟木一夫が歌った(前述の最終話を含め、ゲスト出演も多い)。番組開始時は、「高校三年生」など青春ソングのイメージが強い歌手だった。番組開始当初のオープニングはテーマ音楽のみ流れ、主題歌が使われるのはカラー放送開始後だった。主題歌は途中から本編音楽担当が交代したのと同時に、現代的なビートの利いたアレンジに改められた。シリーズ後期のタイトルバックに使われた寛永通宝を摸した巨大な砂絵は、香川県観音寺市銭形砂絵である。

橋蔵平次は時折超人的な能力を見せており、岡っ引きでありながら侍と対等に渡り合えるほどの剣の腕を持っているだけでなく、得意の投げ銭も落ちてくる柿を真っ二つにしたり縄を千切ったりといった荒技を見せている。

(これは、後の北大路欣也主演版にも引き継がれた)

スタッフ/主題歌/音楽など

  • 原作:野村胡堂
  • 監修:佐々木康(最終回のみ)
  • 企画:高橋久仁男、水上輝生、佐伯明、田辺嘉昭、渡部健作、久板順一朗、衣川篤夫
  • 制作/プロデューサー:笠原武、島村精一、杉本直幸、大崎陽一朗、加藤貢
  • 脚本:野上龍雄、下飯坂菊馬、森田新、櫻井康裕、吉田哲郎、犬塚稔、大野大、松村正温、飛鳥ひろし、西山直人、松山威、井手潤一郎、岸生朗、田坂啓宮川一郎、松村昌治、大野靖子、浅井昭三郎、高田宏治、迫間健、東条正年、高橋稔、幡磨幸治、衣笠浩、柴英三郎、田上雄茶木克彰→ちゃき克彰山田隆之、小谷正治、本山大生、安倍徹郎、土橋成男、鈴木兵吾、佐藤五月、小川英、保利吉紀、中村勝行、林企太子ほか
  • 音楽:阿部皓哉/津島利章
  • 撮影:脇武夫、玉木照芳、平山善樹、木村誠司、柾木兵一、森常次、羽田辰治、安達重穂ほか
  • 照明:岡田耕二、谷川忠雄、佐々木政一、林春海、椹木儀一、藤井光春、前田満、三上隆一、花田勝麿ほか
  • 美術:角井博、中島哲二、塚本隆治、宇佐美亮、下石坂成典ほか
  • 録音:矢部吉三、小金丸輝貴、高井唯夫、諸熊秀喜、田中峯生、大角正夫、林土太郎ほか
  • 整音:山根定男、浜口十四郎、草川石文ほか
  • 記録:桧垣久恵、宮内喜久子、藤原凪子、佐藤利子、森村幸子、野崎八重子、長岡君枝、野口多喜子、谷野和子、満尾敦子、牛田二三子ほか
  • 編集:細谷修三、川上忠、岩本光司、戸川博、島村智之、鳥居勉、上野五男ほか
  • 計測:長谷川武次、山元豊、宮川俊夫、津田宗之、山口鉄雄、水嶋淳一ほか
  • 美粧:林三郎、浜崎敬三ほか
  • 結髪:河野節子、浜崎喜美江、水巻春江ほか
  • かつら:山崎かつら
  • 衣裳:上野徳三郎、小林勝、石倉元一ほか
  • 装飾:関西美工、道畑真二、小川芳男、山中忠知、小笠原佳文、清原和雄、平野元王機、極並浩史、籠尾和人ほか
  • 小道具:高津商会
  • 装置:小原功、高木喜一、松山勇、西川春樹、出井督七、太田正二、曽根富世、曽根美装ほか
  • 演技事務:中久保昇三、坂本藤男、遠山一次ほか
  • 和楽:中本敏生
  • スチル:下村正利
  • 効果:大東産業
  • 助監督:古市真也、中島信宏、太田雅章、尾田耕太郎、高見育男、曽根 勇、西垣吉春、福井司、上杉尚棋、内沢豊ほか
  • 殺陣:谷明憲
  • 進行:丸本晃、北村良一ほか
  • 制作担当:北村良一、藤井雅朗
  • 主題歌
  • 銭形平次
  • 作詞・関沢新一、作曲・安藤実親、編曲・阿部皓哉/山路進一/津島利章
  • 唄・舟木一夫コロムビアレコード
  • 挿入歌
  • 現像:東洋現像所
  • 振付:坂東京三郎
  • 協力:新芸術プロダクション、大川事務所、京都大覚寺香川県観音寺市
  • 予告ナレーター:加藤矢朱雄、山口幸生
  • 監督:佐々木康、小野登、長谷川安人、田坂勝彦、鳥居元宏倉田準二荒井岱志、大野大、久郷久雄、松尾正武、井沢雅彦、岡本静夫、斎藤武市吉川一義黒田義之ほか
  • 制作:東映京都テレビプロダクション東映、フジテレビ

登場人物

メインキャスト

銭形平次 / 演:大川橋蔵
主人公。
お静 / 演:八千草薫(1話 - 157話)、鈴木紀子(158話 - 208話)、香山美子(209話 - 888話)
妻。
八五郎 / 演:佐々十郎(1話 - 52話)、林家珍平(53話 - 888話)
平次一の子分。

岡っ引き

三の輪の万七 / 演:藤尾純(1話 - 52話)、遠藤辰雄→遠藤太津朗(53話 - 888話)
平次のライバル。
お神楽の清吉 / 演:池俊一→池信一(1話 - 779話)、田井克幸(868話 - 888話)
万七の子分。
お品 / 演:宮園純子(1話 - 52話)、城野ゆき(209話ほか)
父・利助の後をついで御用聞きを務めている。
太吉 / 演:川浪公次郎(1話 - 52話)
お品の子分。
石原の利助 / 演:高松錦之助(1話ほか)
かつては腕利きの岡っ引きだったが、高齢のため現役を引退した。
留造 / 演:有光豊(780話 - 867話)
清吉に代わって万七の子分となった。
新吉 / 演:渋谷哲平(868話 - 888話)
平次の二人目の子分。

奉行所

笹野新三郎 / 演:神田隆(1話 - 52話)、黒川弥太郎(53 - 104話、469話ほか)、根上淳(108話ほか)
樋口一平 / 演:永田光男(131話 - 787話・888話)
榊兵助 / 演:下塚誠(625話 - 665話)
青柳伸之介 / 演:森田健作(666話 - 787話)
矢吹圭一郎 / 演:森次晃嗣(788話 - 867話・888話)
森川左内 / 演:滝田裕介(868話 - 888話)

小料理屋「ひょうたん」

お弓 / 演:鈴村由美(1話 - 157話)、土田早苗(158話 - 262話)
お勝 / 演:武田禎子→武田てい子(209話 - 519話)
おゆき / 演:永野裕紀子(262話 - 364話)
おせん / 演:酒井靖乃(365話 - 468話)
おちよ / 演:林寛子(469話 - 519話)

居酒屋「喜らく」

おせん / 演:海原千里(520話 - 571話)
おつる / 演:海原万里(520話 - 571話)
長吉 / 演:田渕岩夫(520話 - 571話)

居酒屋「かすが」

お照 / 演:春日照代(625話 - 664話)
三吉 / 演:春日三球(625話 - 664話)
お京 / 演:久永智子(625話 - 664話)

居酒屋「わかな」

おちか / 演:正司照江(666話 - 712話)
お町 / 演:酒井ゆきえ(666話 - 712話)
松吉 / 演:鎌倉俊明(666話 - 867話・888話)

その他

お民 / 演:園佳也子(53話 - 208話)
爲吉 / 演:神戸瓢介(53話 - 468話)
道庵 / 演:西山辰夫
健太 / 演:吉田次昭(469話 - 519話)
善太 / 演:京本政樹(788話 - 867話・888話)

配役

期間 銭形平次 お静 八五郎 三輪の万七 お神楽の清吉 その他 準レギュラー
1話 - 52話 大川橋蔵 八千草薫 佐々十郎 藤尾純 池俊一
53話 - 107話 大川橋蔵 八千草薫 林家珍平 遠藤辰雄 池信一
108話 - 157話 大川橋蔵 八千草薫 林家珍平 遠藤辰雄 池信一
  • お民:園佳也子
  • お弓:鈴村由美
  • 樋口一平:永田光男
  • 爲吉:神戸瓢介
  • 笹野新三郎:根上淳
158話 - 208話 大川橋蔵 鈴木紀子 林家珍平 遠藤辰雄 池信一
  • お民:園佳也子
  • お弓:土田早苗
  • 樋口一平:永田光男
  • 爲吉:神戸瓢介
209話 - 230話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
231話 - 262話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
  • お弓:土田早苗
  • 樋口一平:永田光男
  • 雷門の寅蔵:天王寺虎之助
  • 爲吉:神戸瓢介
  • 市松:徳田実
  • お勝:武田禎子
263話 - 364話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
  • おゆき:永野裕紀子
  • 樋口一平:永田光男
  • 爲吉:神戸瓢介
  • お勝:武田禎子
365話 - 468話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
  • おせん:酒井靖乃
  • 樋口一平:永田光男
  • 爲吉:神戸瓢介
  • お勝:武田てい子
469話 - 519話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
  • おちよ:林寛子
  • 笹野新三郎:黒川弥太郎
  • 樋口一平:永田光男
  • 爲吉:神戸瓢介
  • 健太:吉田次昭
  • お勝:武田てい子
520話 - 571話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
572話 - 624話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
625話 - 665話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
666話 - 712話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
713話 - 736話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
737話 - 779話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 池信一
  • おきよ:市毛良枝
  • おくみ:桂木文
  • 樋口一平:永田光男
  • 松吉:鎌倉俊明
  • 青柳伸之介:森田健作
780話 - 787話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗
  • 留造:有光豊
  • おきよ:市毛良枝
  • おくみ:桂木文
  • 青柳伸之介:森田健作
  • 樋口一平:永田光男
  • 松吉:鎌倉俊明
788話 - 851話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗
  • おきよ:市毛良枝
  • おくみ:桂木文
  • 留造:有光豊
  • 松吉:鎌倉俊明
  • 善太:京本政樹
  • 矢吹圭一郎:森次晃嗣
852話 - 867話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗
  • おきよ:市毛良枝
  • おさと:島村美妃
  • 留造:有光豊
  • 松吉:鎌倉俊明
  • 善太:京本政樹
  • 矢吹圭一郎:森次晃嗣
868話 - 887話 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 田井克幸
888話[89] 大川橋蔵 香山美子 林家珍平 遠藤太津朗 田井克幸
  • おきよ:市毛良枝
  • 新吉:渋谷哲平
  • 松吉:鎌倉俊明
  • 善太:京本政樹
  • 森川左内:滝田裕介
  • 樋口一平:永田光男
  • 矢吹圭一郎:森次晃嗣

TV版放映リスト

※ 量が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。右にある[表示]をクリックすると一覧表示される。

1967年

1968年

1969年

1970年

1971年

1972年

1973年

1974年

1975年

1976年

1977年

1978年

1979年

1980年

1981年

1982年

1983年

1984年

放映ネット局

系列は当番組終了時(1984年4月)のもの。

放送対象地域 放送局 系列 ネット形態 備考
関東広域圏 フジテレビ フジテレビ系列 制作局
北海道 札幌テレビ 日本テレビ系列 時差ネット 番組開始から1972年3月まで[注 3]
北海道文化放送 フジテレビ系列 同時ネット 開局直後の1972年4月から
青森県 青森放送 日本テレビ系列 時差ネット 番組開始から1975年3月まで[注 4]
青森テレビ TBS系列 1975年4月から最終話まで
岩手県 岩手放送 [注 5]
宮城県 仙台放送 フジテレビ系列 同時ネット
秋田県 秋田放送 日本テレビ系列 時差ネット 番組開始から1969年9月まで
秋田テレビ フジテレビ系列
テレビ朝日系列
同時ネット 1969年10月から最終話まで[注 6]
山形県 山形放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
時差ネット 番組開始から1970年3月まで
山形テレビ フジテレビ系列 同時ネット 1970年4月から最終話まで

なお、現在は、テレビ朝日系列

福島県 福島中央テレビ 日本テレビ系列 時差ネット [注 7]
福島テレビ フジテレビ系列 時差ネット
→ 同時ネット
[注 8]
山梨県 山梨放送 日本テレビ系列 時差ネット
新潟県 新潟放送 TBS系列 番組開始から1976年3月まで
新潟総合テレビ フジテレビ系列 同時ネット
→ 時差ネット
→ 同時ネット
[注 9]
長野県 信越放送 TBS系列 時差ネット 番組開始から1969年3月まで
長野放送 フジテレビ系列 同時ネット 1969年4月から最終話まで
静岡県 静岡放送 TBS系列 時差ネット 番組開始から1968年11月まで
テレビ静岡 フジテレビ系列 同時ネット 1969年12月から最終話まで
富山県 北日本放送 日本テレビ系列 時差ネット 番組開始から1969年3月まで
富山テレビ フジテレビ系列 同時ネット 1969年4月から最終話まで
石川県 北陸放送 TBS系列 時差ネット 番組開始から1969年3月まで
石川テレビ フジテレビ系列 同時ネット 1969年4月から最終話まで
福井県 福井放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
時差ネット 番組開始から1969年9月まで
福井テレビ フジテレビ系列 同時ネット 1969年4月から最終話まで
中京広域圏 東海テレビ
近畿広域圏 関西テレビ
鳥取県
島根県
日本海テレビ 日本テレビ系列 時差ネット 番組開始から1970年3月まで
山陰中央テレビ フジテレビ系列 同時ネット 1970年4月から最終話まで
岡山県
香川県
西日本放送 日本テレビ系列 時差ネット 番組開始から1969年3月まで
岡山放送 フジテレビ系列 同時ネット 1969年4月から最終話まで
広島県 広島テレビ 日本テレビ系列 時差ネット
→ 同時ネット
番組開始から1975年9月まで[注 10]
テレビ新広島 フジテレビ系列 同時ネット 1975年10月から最終話まで
山口県 山口放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
時差ネット [注 11]
徳島県 四国放送 日本テレビ系列
愛媛県 南海放送 番組開始から1969年11月まで
テレビ愛媛 フジテレビ系列 同時ネット 1969年12月から最終話まで
高知県 高知放送 日本テレビ系列 時差ネット
福岡県 テレビ西日本 フジテレビ系列 同時ネット
佐賀県 サガテレビ
長崎県 長崎放送 TBS系列 時差ネット 番組開始から1969年3月まで
テレビ長崎 フジテレビ系列
日本テレビ系列
1969年4月から1984年3月まで[注 12]
熊本県 熊本放送 TBS系列 番組開始から1969年3月まで
テレビ熊本 フジテレビ系列
テレビ朝日系列
同時ネット 1969年4月から最終話まで
大分県 大分放送 TBS系列 時差ネット 番組開始から1970年3月まで
テレビ大分 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1970年4月から最終話まで[注 13]
宮崎県 宮崎放送 TBS系列 番組開始から1970年3月まで
テレビ宮崎 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
同時ネット 1970年4月から最終話まで
鹿児島県 南日本放送 TBS系列 時差ネット [注 14]
沖縄県 沖縄テレビ フジテレビ系列 時差ネット
→ 同時ネット
[注 15]

最終話時点のフジテレビ系列局の中で、本放送を行った実績が一度もないのはテレビ山口鹿児島テレビの2局であった[注 16]

映画版

銭形平次
監督 山内鉄也
脚本 田坂啓山内鉄也
出演者 大川橋蔵舟木一夫水野久美大辻伺郎
音楽 津島利章
撮影 古谷伸
編集 宮本信太郎
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1967年10月10日
上映時間 89分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
テンプレートを表示

概要

親方の死の真相を探るためお上から十手を預かり、鳶職人から岡っ引きとなった平次の誕生とその初手柄を描いた。TVシリーズからのキャストは大川の他に遠藤、池信一、鈴村由美だけだが、鈴村はTVとは違う役で出演している。1967年10月10日公開。

スタッフ

配役

製作

企画は当時の東映京都撮影所所長・岡田茂[65]。「テレビで再び盛り上がった橋蔵の人気を映画に返してもらわにゃソン」と[65]、「橋蔵くんも乗気だし、不振の時代劇に活を入れるためにも、来年早々には実現したい」と製作を決めた[65]。当初テレビ版は1967年4月までの放送を予定していたが[65]、それ以降も1967年6月の御園座での東映歌舞伎の舞台があり[65]、橋蔵も「映画にカムバックするなら映画でしかやれない新しいものがやりたい」という希望と東映サイドの興行成績の確実性が第一とする考えとで調整が難航し製作公開が遅れた[65]。橋蔵のスクリーンカムバックは1965年11月に撮影され、1966年3月公開の『旗本やくざ』以来一年半ぶりで[65][91]、橋蔵最後の映画出演作となる。

人気絶頂の舟木一夫の撮影は3日間の強行スケジュールであった[92]

パチンコ

2つの会社から3種類のパチンコ機が発売されているが、752話『鬼面組御用!』を激アツのリーチに採用している点など、類似点が多い。

脚注

注釈

  1. ^ テレビ朝日のクイズ番組『クイズタイムショック(田宮・山口版)』も888回放送された。
  2. ^ ただし、一部「万吉」名義でクレジットされた回があるが、台詞として発音される時は「まんしち」と発音しており、クレジットの名義のみが「万吉」となっている理由は不明。
  3. ^ 札幌テレビ(STV)は1972年3月31日まで、フジテレビ系列にも加盟していた。ちなみに水曜22時から放送されていた。
  4. ^ 1969年秋時点では、土曜日22:30 - 23:25[90]
  5. ^ 岩手県では、岩手めんこいテレビ(mit)開局後の1991年4月1日以降、同局が一部作品を再放送した。
  6. ^ ただし、秋田テレビ(AKT)は最終話のみ時差ネット。
  7. ^ 福島中央テレビ(FCT)は1970年4月から1971年9月まで当番組をネット。現在は日本テレビ系シングルネット局で、1981年9月30日までテレビ朝日系列にも加盟していた。
  8. ^ 放送開始から1970年3月までと1971年10月から1983年3月までは時差ネット。1983年4月から最終話までは同時ネット。なお、同局は1983年9月30日まで、TBS系列にも加盟していた。
  9. ^ 新潟総合テレビ(NST)は1976年4月から1981年3月まで同時ネット。1981年4月から1983年9月までは時差ネット(月曜21時)に移行。1983年10月から最終話までは再度同時ネット。なお、同局は1981年3月31日まで日本テレビ系列、1983年9月30日までテレビ朝日系列にも加盟していた。
  10. ^ 広島テレビ(HTV)は放送開始から1969年9月までは金曜20時からの時差ネット。10月から金曜20時は中国放送でネットされていた日本プロレス中継を同時ネット。1969年10月から1975年9月までは同時ネット。ただし、1969年10月以降の一時期、日曜21時から時差ネットを行った事がある。なお、同局は1975年9月30日まで、フジテレビ系列にも加盟していた。
  11. ^ 山口県では、当番組放送時のフジテレビ系列にも加盟していたテレビ山口(TYS)の編成上の都合により、同局開局後も山口放送(KRY)が放送を継続した。なお、1976年6月の時点では金曜22:00に放送していた。
  12. ^ テレビ長崎(KTN)での当番組は、同局ネット改編の度に放送時間が移動(月曜20:00→日曜21:00→金曜22:00→金曜20:00)、末期は金曜20時から2日遅れで放送するも、最終話は日本テレビ系の『太陽にほえろ!』を長崎放送(NBC)から移行の上、同時ネットを開始したため未放送。長崎地区は1984年3月30日(キー局は同年3月28日)放送分が最終話となった。
  13. ^ テレビ大分(TOS)は土曜13:00 → 日曜18:00 → 平日ドラマ再放送枠と、放送時間が移動しての時差ネットが行われていた。
  14. ^ 鹿児島県では、当番組放送時のフジテレビ系列局鹿児島テレビ(KTS)の編成上の都合により、同局開局後も南日本放送(MBC)が放送を継続(木曜23:00 → 金曜16:00 → 火曜22:00)。定期放送はキー局よりも約1年遅れでネットされ、1984年9月を以って終了(MBCが同年10月から、火曜22時台に自社制作番組どーんと鹿児島』の放送を開始したため。最終回スペシャルは、キー局よりも半年遅れの1984年10月6日午後のローカルセールス枠内で放送)。なお、1985年4月以降の一部作品再放送並びに後続の『北大路欣也シリーズ』全作品は鹿児島テレビ(KTS)が放送した。
  15. ^ 沖縄テレビ(OTV)は番組開始から1969年3月までは時差ネット。1969年4月から最終話までは同時ネット。
  16. ^ 前者は現在はTBS系単独加盟。また後者については現在はフジテレビ系単独である上、先述したように本放送終了後に一部話数の再放送も行われた。

出典

  1. ^ 銭形平次 (主演:大川橋蔵)【セレクション放送】
  2. ^ a b 役者(後篇) コラム 舟木一夫 オン・ザ・ロード 2014
  3. ^ a b c d e “TVあらかると 長寿の秘密は?”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 8. (1980年5月2日) 
  4. ^ a b c d e f “げいのう舞台再訪 神田明神下『銭形平次』 橋蔵の心意気で18年 故野村胡堂の江戸情緒漂う”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 9. (1983年10月8日) 
  5. ^ a b “橋蔵の『平次』撮影はじまる フジと東映が共同製作 初の連続テレビ映画”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 8. (1966年2月11日) 
  6. ^ a b c d e f g “こんばんは フジテレビの連続ドラマ『銭形平次』に出演の大川橋蔵です 投げ銭に"古武道"の型 柳生流十手さばきで猛勉”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 8. (1966年2月12日) 
  7. ^ a b c d e f 「TV-TOPICS テレビの話題 『捕物名人"橋蔵平次"登場 フジテレビで新しく始まる連続ドラマ番組『銭形平次』でテレビ初出演する大川橋蔵さん』」『近代映画』1966年3月号、近代映画社、203 - 204頁。 
  8. ^ a b c 〈ドキュメント東映全史〉 テレビ映画 『銭形平次』、888回の最長寿記録で最終回を迎える他」『クロニクル東映 1947―1991』 2巻、東映株式会社、1992年、42、46、78頁頁。 
  9. ^ a b c 東映株式会社 京都撮影所 Toei Studios Kyoto 東映京都の歩み 撮影所年表
  10. ^ a b c d e 岡本耕治 (2011年5月16日). “追悼 岡田茂・東映名誉会長 豪放磊落、最後の活動屋”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集 追悼 岡田茂・東映名誉会長 豪放磊落、最後の「活動屋」
  11. ^ a b c d e f g 「あゝ監督人生 荒井岱志インタビュー PART6 文・春日太一」『時代劇マガジン (タツミムック)vol.19』、辰巳出版、2008年12月12日、110 - 111頁。 
  12. ^ a b 「ジャーナル テレビ 八千草が平次に三下り半」『サンデー毎日』1968年12月15日号、毎日新聞社、45頁。 
  13. ^ a b c “大暴れ!ハレンチ・ドラマ 大きいお仙の影響 対決する『女殺し―』『お蘭』 女アクション続々と登場 テレビ界新番組大異変”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 5. (1969年9月7日) “ミニルポ 探訪『東映京都撮影所活気あるTV 映画』”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 3. (1969年3月13日) 
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 能村庸一『実録テレビ時代劇史』筑摩書房、2014年、159-162頁頁。ISBN 9784480431257 
  15. ^ 「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、映画時報社、24-26頁。 「座談会 日本映画界はどう進むべきか? ―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。 井沢淳・瓜生忠夫大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。 岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、164- 165頁。ISBN 404883871-7 
  16. ^ a b c 渡邊達人『私の東映30年』1991年、139-147頁。 
  17. ^ a b c “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日) 
  18. ^ 「お楽しみ案内 映画・舞台 『その'退屈男'罷りならぬ 映画・歌舞伎先輩スターからヒジ鉄を食った大川橋蔵の立ち場』」『週刊サンケイ』1965年2月22日号、産業経済新聞社、54–55頁。 
  19. ^ 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年、261頁頁。ISBN 9784163768106 
  20. ^ 池上金男笠原和夫・下菊坂菊馬・佐治乾野上竜雄宮川一郎国弘威雄「《座談会》若い世代の発言その1・東映へ直言する」『シナリオ』1966年5月号、日本シナリオ作家協会、30頁。 
  21. ^ a b 「家」の履歴書 岡田茂(東映株式会社代表取締役会長)」『週刊文春』2002年1月17日号、文藝春秋、75頁。 
  22. ^ a b 「戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27 - 28頁。 
  23. ^ 東映ポスター集製作委員会「東映任侠路線興亡史」『ポスターでつづる東映映画史』青心社、1980年、189頁。ISBN 4-948735-08-6 中原早苗『女優魂 中原早苗』ワイズ出版、2009年、176頁。ISBN 9784898302354 東映の岡田茂名誉会長 死去 | NHK「かぶん」ブログ:NHK(Internet Archive)
  24. ^ a b c 黒沢清四方田犬彦吉見俊哉李鳳宇(編)「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 2.任侠やくざ映画の時代 文・内藤誠」『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者岩波書店、2010年、269頁。ISBN 978-4-00-028394-6 
  25. ^ a b c d e f 「東映・岡田茂さんを偲ぶ 『時間が解決してくれる。我慢だよ、との教えが今も心に残っています』 文・日枝久」『財界』2011年6月7日号、財界研究所、61頁。 
  26. ^ a b c d e 佐藤忠男(編)『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6 
  27. ^ a b “【読書】波瀾万丈の映画人生』岡田茂著”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 読書2頁. (2004年7月19日) “【産経抄】”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 1. (2011年5月14日) 
  28. ^ a b c d e 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、147-152頁。ISBN 4879320161 
  29. ^ a b c 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、564頁。 
  30. ^ 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年、144頁。ISBN 978481580905-8 「東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。 春日太一『時代劇は死なず! 京都太秦の「職人」たち』集英社、2008年、27 - 33、216 - 220頁頁。ISBN 978-4-08-720471-1 織井優佳 (1999年9月25日). “スター(航海新世紀へ朝日新聞創刊120周年)【大阪】”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 15 “【読書】波瀾万丈の映画人生』岡田茂著”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 読書2頁. (2004年7月19日) “【産経抄】”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 1. (2011年5月14日) 
  31. ^ a b c d e 能村庸一 (2011年9月). “テレビ時代劇60年の軌跡 (1)-(5)”. 日本経済新聞夕刊 (日本経済新聞社): p. 1 
  32. ^ a b c 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也” (PDF). メッセージ.jp. BSフジ (2005年5月15日). 2018年9月2日閲覧。(archive)
  33. ^ a b c d 山根貞男・米原尚志『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫 『東映の神髄』とはなにか 聞き書き 東映元社長・岡田茂』日本放送出版協会、2005年、129-130頁。ISBN 4140808543 
  34. ^ a b 織井優佳 (1999年9月25日). “スター(航海新世紀へ朝日新聞創刊120周年)【大阪】”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 15 
  35. ^ a b 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、312 - 325頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  36. ^ 増沢一彦 (1995年8月14日). “〔映画百年〕(32) 東映の設立 時代劇解禁が恵の風に(連載)”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7 
  37. ^ a b c 春日太一『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』新潮社、2012年、103-107頁。ISBN 978-4-10-610459-6 
  38. ^ a b c 春日太一『時代劇は死なず! 京都太秦の「職人」たち』集英社〈集英社新書〉、2008年、27 - 28、217 - 227頁頁。ISBN 9784087204711 
  39. ^ a b c 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)
  40. ^ 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17』2011年8月1日、東映ビデオ、3頁。 
  41. ^ 岡田茂〈ドキュメント東映全史〉 多角化は進んでも東映の看板はやはり映画 文・岡田茂」『クロニクル東映 1947―1991』 2巻、東映株式会社、1992年、5 - 6頁。 
  42. ^ 滝沢一「ある岡田茂論」『映画時報』1972年1月号、映画時報社、20頁。 「東映・岡田茂会長インタビュー『製作配給の赤字をどう止めるか』」『AVジャーナル』1994年1月号、文化通信社、23頁。 
  43. ^ a b c d e f 浜田奈美 (2011年5月17日). “『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1 
  44. ^ 岡田茂(東映・常務取締役)・今田智憲(東映・常締役)・堀江朝光(東映取締役)、聞く人・北浦馨「東映グループの勝利の実態 関連事業への協力とヴィジョンを語る」『映画時報』1968年11月号、映画時報社、17頁。 「東映・岡田茂会長インタビュー『儂に残された仕事はこれなんだよ』」『AVジャーナル』1994年7月号、文化通信社、28頁。 
  45. ^ あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)
  46. ^ 伊藤恵理奈 (2014年5月7日). “(人生の贈りもの)映画監督・中島貞夫:5 テレビが描かないヤクザを『実録』”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. be水曜2面 
  47. ^ 「東映京都撮影所60年史 文・春日太一」『時代劇マガジン (タツミムック)vol.17』、辰巳出版、2008年1月1日、84 - 85頁。 
  48. ^ 「匿名座談会 如何にしてこの危機を乗り切るか 経営者は頂上作戦に大童わ 五社長も危機突破に陣頭指揮 東映王国も"新体制確立運動"展開」『映画時報』1965年8月号、映画時報社、15-17頁。 
  49. ^ “封切映画興行記録”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 3. (1965年7月10日) 
  50. ^ a b 「ニュースコーナー製作 『東映、俳優行政など基本方針きまる 来年は創立十五周年の記念映画製作』」『映画時報』1965年12月号、映画時報社、23頁。 
  51. ^ a b 「がいど・映画 『裏街道に脱出した大川橋蔵黒の二枚目、スリ、盗賊で再出発』」『週刊サンケイ』1964年9月7日号、産業経済新聞社、51頁。 
  52. ^ a b c 石堂淑朗「追いつめられた銭形平次 大川橋蔵」『怠惰への挑発』三一書房、1966年、102 - 110頁。 
  53. ^ 龍居竹之介「追悼 大川橋蔵の気配り人生五十五年」『知識』1985年3月号、アートプロダクション・ノア「知識」出版部、182 - 189頁。 
  54. ^ a b 「スクリーン '66日本映画界の10大ニュース今年も凶作だった(2)大川橋蔵ついに結婚」『週刊朝日』1966年12月30日号、朝日新聞社、101頁。 
  55. ^ a b 「タウン映画 はなやかなテレビ初出演への陰の声」『週刊新潮』1966年1月8日号、新潮社、21頁。 
  56. ^ 東映京撮・盟友対談(2) 合同通信オンライン
  57. ^ 1983年5月26日朝日新聞夕刊
  58. ^ a b c d 「極秘調査 テレビ・タレント稼ぎ高番付け ピンからキリまである需要と供給の関係」『週刊サンケイ』1966年4月18日号、産業経済新聞社、112-114頁。 
  59. ^ a b c d e f g h i 「ポスト テレビ・ラジオ 橋蔵/長谷川/松方が三ツ巴の"捕物帳"合戦」『週刊明星』1966年1月16日号、集英社、102頁。 
  60. ^ a b c d e f 「特報 橋蔵・真理子さんのオメデタ騒ぎ」『週刊明星』1966年6月12日号、集英社、40-41頁。 
  61. ^ “我が道 里見浩(24) オファーあった『銭形平次』”. スポーツニッポン (東京: スポーツニッポン新聞社): p. 24. (2012年7月25日) 
  62. ^ a b “木村政雄編集長インタビュー『納得すれば、楽しんでやらせていただく。』 里見浩太朗 俳優”. 5L(ファイブエル). (2015年8月5日). オリジナルの2019年8月20日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2019-0820-0251-35/www.5lweb.jp/info.php?type=article&id=A0000041&detail=true 2018年1月11日閲覧。 
  63. ^ プレイバック芸能スキャンダル史 ハワイから拳銃を持ち帰った里見浩太朗「ピストル⇔暴力団⇔芸能界 黒い霧におおわれた因果関係」『週刊読売』1965年3月7日号、読売新聞社、15頁。 「あのとき話題になった彼女を追って"お姫さま"から"悪女"へピストル事件の北条きく子」『週刊読売』1966年1月14日号、読売新聞社、94-97頁。 
  64. ^ a b 「グラビア」『週刊平凡』1966年2月24日号、平凡出版、18頁。 
  65. ^ a b c d e f g h i 「極秘レポート 気になるスターの未公開情報 大川橋蔵が映画にカムバック!!」『週刊明星』1966年10月9日号、集英社、47頁。 
  66. ^ a b c d e f 能村庸一『実録テレビ時代劇史』筑摩書房、2014年、162-190頁頁。ISBN 9784480431257 
  67. ^ 春日太一特別企画 『現代の軍師』16人の素顔 知られざるエピソードでつづる伝説の男たち 翁長孝雄 『映画界のドン・岡田茂』を支え続けた現場力」『文藝春秋special「日本の軍師100人」 vol.26』2013年冬号、文藝春秋、106頁。 泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代 パート3:時代は映画からテレビへ
  68. ^ 「〔特集〕邦画五社の御健斗全調査 『東映二代目襲名物語』 文・竹中労」『映画評論』1968年1月号、新映画、57-62頁。 「往来ドキュメント 『再び"東映城"を狙撃した怪文書』」『実業往来』1970年11月2日号、実業往来社、124-129頁。 「頂点に達した東映の内部不満」『週刊現代』1968年5月30日号、講談社、82-83頁。 
  69. ^ a b 「日本映画の現勢Ⅴ 『特集 日本映画の首脳たち 五社首脳とその人脈 異才の経営者 大川博』 文・今村金衛」『キネマ旬報』1968年12月上旬号、キネマ旬報社、119-121頁。 
  70. ^ 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、326 - 334頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  71. ^ 藤本真澄(東宝・専務取締役)・白井昌夫(松竹・専務取締役)・岡田茂(東映・常務取締役)、聞く人・北浦馨「夢を売る英雄たちの会談 3人のゼネラル・プロデューサーの果断なる現実処理」『映画時報』1968年10月号、映画時報社、18頁。 
  72. ^ 高岩淡(東映京都撮影所所長代理)「才能と個性の発見で新路線を開発」『映画時報』1971年2月号、映画時報社、17頁。 
  73. ^ 高岩淡(東映専務取締役)・鈴木常承(東映・常務取締役営業部長)・小野田啓 (東映・宣伝部長、役員待遇)、聞き手・北浦馨「誌上・特別座談会 東映"87"へ快進撃開始 『若手スターで久々に大型娯楽時代劇 うんと派手にと岡田社長がゴーサイン』」『映画時報』1987年4月号、映画時報社、14頁。 
  74. ^ a b c 天声人語”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1. (1984年12月9日) 
  75. ^ a b “『銭形平次』18年―大川橋蔵さん 死去”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 1. (1984年12月7日) 
  76. ^ 毎日新聞1984年12月7日余録
  77. ^ 1983年10月8日東京新聞夕刊
  78. ^ a b c d 「大川橋蔵独占インタビュー 『今は全力を尽くした喜びだけがあるけれど…』 888回で終了する『銭形平次』」『週刊明星』1984年4月5日号、集英社、107–109頁。 
  79. ^ 1980年5月2日朝日新聞夕刊
  80. ^ a b c d 大川真理子『ふたりひとつ わたしの橋蔵親分』フジテレビ出版、1985年。ISBN 4893530569 
  81. ^ 1966年2月12日毎日新聞
  82. ^ 1983年5月26日朝日新聞夕刊
  83. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 2』講談社、2003年。 
  84. ^ 1983年5月26日朝日新聞夕刊
  85. ^ a b 「町奉行日記」トークショー | 京都ヒストリカ国際映画祭
  86. ^ a b 横澤彪氏 元フジテレビジョン・エグゼクティブプロデューサー「面白いことをどれだけまじめにやるかに燃えていた」(Internet Archive)
  87. ^ 木村政雄の私的ヒストリー 第51話木村政雄の私的ヒストリー 第70話
  88. ^ 山田風太郎人間臨終図巻 I』 ISBN 4-19-891477-X
  89. ^ エンドロール後に、大川橋蔵によるお別れ挨拶が放送された。
  90. ^ 東奥日報1969年10月付けテレビ欄
  91. ^ 「芸能 "橋蔵親分"のとんだ失態」『週刊読売』1967年6月16日号、読売新聞社、55頁。 
  92. ^ 「SCREEN 試写室 『銭形平次』」『週刊明星』1967年10月15日号、集英社、61頁。 

外部リンク

フジテレビ 水曜20時台
前番組 番組名 次番組
フジテレビ今週のヒット15
【ここまで歌謡番組】
銭形平次
ザ・わかるっチャー
【クイズ枠】
フジテレビ系 水曜20:55 - 20:56
フジテレビ今週のヒット15
(20:00 - 20:56)
銭形平次
(1966 - 1973.9)
【1分縮小して継続】
FNNニュース
(20:55 - 21:00)
フジテレビ系 水曜20:54 - 20:55枠
銭形平次
(20:00 - 20:55)
銭形平次
(1973.4 - 1975.9)
【更に1分縮小して継続】
FNNニュース
(20:54 - 21:00)
【1分拡大して継続】