水原弘
水原 弘 | |
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基本情報 | |
出生名 | 高和 正弘(たかわ まさひろ) |
別名 | おミズ |
生誕 | 1935年11月1日 |
出身地 |
日本 東京府 東京市 深川区 (現・東京都 江東区) |
死没 |
1978年7月5日(42歳没) 福岡県 北九州市 戸畑区 |
学歴 | 東京都立赤坂高等学校商業科卒業 |
ジャンル | 歌謡曲・ジャズ・ラテン・洋楽・民謡など |
職業 | 歌手・俳優 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1959年 - 1978年 |
レーベル | 東芝EMI |
事務所 | 渡辺プロダクション、マナセプロダクション等 |
水原 弘(みずはら ひろし、1935年(昭和10年)11月1日 - 1978年(昭和53年)7月5日)は、日本の歌手・俳優である。愛称は「おミズ」。東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。東京都立赤坂高等学校商業科卒業。
概要
[編集]マナセプロダクションに在籍していたが、一時期、渡辺プロダクションに所属。井上ひろし、かまやつひろしとのトリオで「三人ひろし」と呼ばれていた(ただし水原の持ち味は当時の「ロカビリー・アイドル」としては全く異質であったため、後に守屋浩と交代する)。
村松友視がその生涯をまとめた評伝を書き下ろしている(『黒い花びら』村松友視、河出書房新社、2005年)。
略歴
[編集]デビュー曲「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞
[編集]東京都立赤坂高等学校2年の時に、文化放送主催の『素人ジャズ喉自慢』に優勝。その後活動していたジャズ喫茶で渡邊美佐にスカウトされ、芸能界入り。
1957年(昭和32年)ダニー飯田とパラダイス・キングに初代ヴォーカルとして参加するが、翌年には脱退。 昭和33年水原弘とブルーソックスを結成。メンバーには森山加代子・ジェリー藤尾がいた。
1959年(昭和34年)、東京芝浦電気(現・東芝)の音楽レコード事業部の東芝レコード[注 1]から「黒い花びら」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)でレコード・デビュー。夏木陽介主演の東宝映画『青春を賭けろ』に歌手役で出演。「黒い花びら」は発売初年に30万枚、総合計57万枚という当時としては大ヒット作となった。ちなみに最初のマネージャーは渡邊美佐の妹、曲直瀬信子だった。
またこの年から始まった第1回日本レコード大賞を「黒い花びら」で受賞[注 2]。新人デビュー年の大賞受賞は現在においても水原が唯一である。また第10回NHK紅白歌合戦に初出場[注 3]。その後も3年連続で紅白に出場を果たし、独特の甘い“低音”で一世を風靡した。そして20代の女性たちに多大な人気があった。
1960年代前半より各社の映画作品への出演が増え、現代劇作品の主役や時代劇作品の準主役級の役をこなし、多くの人気俳優と共演。共演した俳優から高い評価を得ている。東宝映画『皆殺しの歌、拳銃よさらば』で主役を演じた際には、仲代達矢に「この主役の演技ができるのは水原弘だけだ。」と褒められたというエピソードが残っている。
放蕩三昧の日々により一時低迷
[編集]この頃から取り巻きを引き連れて夜の街を豪遊し、「業界屈指の酒豪」と呼ばれるようになった。「水代わりにレミーマルタン」との逸話が残るほど、日常的な酒浸りや莫大な金額のギャンブルに加えて、所謂高利貸しや闇金融からの多額の借金を抱え、不遇な時代を送る。また、デビュー直後から水原を支え長く婚約状態だった女性が居たが、結局結婚には至らず離別している。
1965年3月10日、警視庁による「錦政会」(のちの稲川会の前身となった組織)に対する第一次頂上作戦に絡んで、横浜市港北区にある綱島温泉の旅館「石水亭」が捜索を受ける。旅館経営者や賭博開帳関係者が逮捕される中、前年5月に行われた花札賭博に水原が関与、50万円を巻き上げられた事が発覚。事情聴取を受ける事態となる。この事で事実上の芸能界追放となり、ここから2年間は表舞台から遠ざかる一方で、借金返済に苦しめられる日々となる。
「君こそわが命」で“奇跡のカムバック”
[編集]1967年(昭和42年)、この当時マネージャーを務めた長良じゅんの奔走などにより、2月、佳川ヨコとの競作で「君こそわが命」(作詞:川内康範・作曲:猪俣公章)をリリース。その歌唱力と売り上げで佳川を圧倒し大ヒット。“奇跡のカムバック”と称され、同年末に第9回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞。第18回NHK紅白歌合戦へも6年ぶり・4回目の復帰出場を達成する。その後も活躍は続けていたものの、相変わらず酒に溺れる日々は続き、次第に病気がちになっていった。
1970年(昭和45年)、アース製薬のエアゾール式殺虫剤『ハイアース』のテレビCMに由美かおるとともに出演。水原を起用した同商品のホーロー看板も造られ、全国津々浦々に設置された。カムバックから3年が経過したこの時期、再び放蕩三昧の生活に舞い戻る。膨れ上がる借金で取立人に追われながら、クラブ、キャバレーの地方営業や様々な仕事を昼夜を問わず、休む間もなくこなさざるを得なくなった。このCM出演も、その最中で起用されたものであった。
1973年(昭和48年)、第24回NHK紅白歌合戦に通算10回目の出場を果たす。1971年(昭和46年)の第22回同様「トリ前」を務め、代表曲「君こそわが命」(紅白では通算3回目)を歌唱した。しかし水原自身、この同年・第24回紅白が生涯最後の出場と成る。翌1974年(昭和49年)の第25回は再び落選し、以降も紅白への復活は果たせなかった。また当年夏ごろには3億5000万円もの借金を抱えていたという[1]。
晩年・42歳で死去
[編集]1977年(昭和52年)1月12日、巡業先の金沢市で体調不良を訴え緊急入院。すでにアルコール依存症からくる影響で肝臓は正常に機能しなくなっており、黄疸や腹水の症状も起こしていた。新宿の朝日生命成人病研究所附属病院に2月末まで入院加療し、一旦退院するが同年6月末まで自宅静養に専念する。
同年7月から仕事に復帰したものの、アルコール性の急性肝炎から慢性肝炎に移行、肝硬変を発症しており、度々極度の貧血などの症状で倒れるなど、もはや極めて深刻な状況を迎えていた。医師から「このままの生活を続けたら1年以内の命」と警告されるも、莫大な借金返済のため、金融業者は満身創痍の水原を、ときにランクの低い歌手より安いギャラでも、「馬車馬のように」全国を営業させた。
それでも水原は、酒を手放すことはなかった。医師から飲酒を厳しく禁じられるも、水原はストレスに耐えかね、「これぐらいなら」とワインを隠れて飲んでいたという[1]。この最晩年期、服用していた薬の副作用で顔に吹き出物が目立つようになり、それを隠すように口髭をたくわえ始めていた。
1978年(昭和53年)6月24日未明、北九州市小倉北区の宿泊先「ホテルニュー田川(現・アートホテル小倉ニュータガワ)」の客室トイレで大量に吐血し、瀕死の状態だったところをホテルで食事をとっていて遅れたマネージャー美山淳に発見される。同市戸畑区の健和総合病院(現・戸畑けんわ病院)に救急搬送されるも、既に血液の1/3が失われていた。その後一時は意識が回復し、憔悴する美山に「馬鹿野郎、俺は死なねーよ」と話しかけるなど小康状態を見せるが、既に内臓のあちこちから出血がみられ、実質的には手がつけられない状況だった。それでも水原は歌を諦めず、再度「奇跡のカムバック」を目指していたという。
だが水原の願いは届かぬまま、再び意識不明の重体に陥り、吐血から11日後の同年7月5日未明、同院で肝硬変の重症化による食道静脈瘤破裂のため死去。42歳没。残った借金は当時の額で9000万円とも言われる。
1999年(平成11年)、「大衆音楽の殿堂」(財団法人古賀政男音楽文化振興財団運営)顕彰歌手に選ばれた。
作品
[編集]シングル
[編集]アルバム
[編集]- 水原弘 ラテンを歌う(JPO-1040)
- 黒い花びら(JPO-1050)
- おミズと加代ちゃんのクリスマス・イブ(JPO-1161)※森山加代子との共演盤
- 魅惑の声 第1集~水原弘 ヒット・ソング集(JPO-1108)
- 黒田節~水原弘民謡を歌う(JPO-3023)
- 魅惑の声 第2集~水原弘 ザ・ビッグ・ヒット・パレード集(JPO-1158)
- おミズ再びラテンを歌う(JPO-3025)
- 魅惑の声 第3集~水原弘 ヒット・ソング集(JPO-1202)
- 素晴らしい人生(JPO-1322)
以上10インチ盤
- 男のうた(TP-6014)
- 君こそわが命(TP-7091)※初期モノラル曲はステレオ再録音
- 水原弘オン・ステージ 歌い続けて10年(TP-9005)※ライブ盤
- 軍歌(TP-7334)
- 夜に歌う(TP-7437)
- 夢の競演(TP-7474)※4曲収録 和田弘とマヒナスターズ、黒木憲とのオムニバス盤 (和田弘とマヒナスターズは全曲演奏も担当)
- 九段の母 水原弘 軍歌を歌う(TP-8098)
- 人生劇場(TP-8127)
- 水原弘オン・ステージ~こんばんは水原弘です(TP-8199/8200)※ライブ盤
- 雪国~水原弘 抒情歌を唄う(TP-8240)
- 初公開!熱唱!水原弘(TOCT-6225/6)※再録音、未発表曲集(CD)
- 絶唱 水原弘 最後の録音盤 ※晩年の再録音(CD)
ベスト盤LP
- 黒い花びら~水原弘歌謡デラックス(TP-4011/2)
- こころで唄う(TR-6125/6)
- 水原弘デラックス(TP-8078)※夢の競演 収録の4曲含む(「花と蝶」は和田弘とマヒナスターズが演奏したヴァージョン)
- 水原弘全曲集(TP-60019)
映画出演
[編集]- 青春を賭けろ(1959年、東宝)
- 檻の中の野郎たち(1959年、東宝)
- 「黒い落葉」より 青春を吹き鳴らせ(1959年、日活)
- 黒い花びら(1960年、東宝)
- 嵐を呼ぶ楽団(1960年、東宝)
- 別離の歌(1960年、東宝)
- みな殺しの歌より 拳銃よさらば!(1960年、東宝)
- 銀座の恋人たち(1961年、東宝)
- 飛び出した女大名(1961年、大映)
- ドドンパ酔虎伝(1961年、大映)
- 黒い三度傘(1961年、大映)
- メキシコ無宿(1962年、日活)
- べらんめぇ芸者と大阪娘(1962年、東映)
- 若者たちの夜と昼(1962年、東映)
- クレージーの花嫁と七人の仲間(1962年、松竹)
- かっこいい若者たち(1962年、大映)
- 夢で逢いましょ(1962年、東宝)
- ひばり・チエミのおしどり千両傘(1963年、東映)
- 夜霧の上州路(1963年、東映)
- この首一万石(1963年、東映)
- 悪名波止場(1963年、大映)
- 駿河遊侠伝 破れ鉄火(1964年、大映)
- 駿河遊侠伝 度胸がらす(1965年、大映)
- 男の挑戦(1968年、松竹)
- 霧にむせぶ夜(1968年、松竹)
- 関東流れ者(1971年、日活)
テレビドラマ出演
[編集]- 嵐のなかでさよなら(1966年、NET・東映)− 青星文人 役
- 弥次喜多隠密道中 第9話「帰って来た男」(1971年、NTV・歌舞伎座テレビ室) - 石打の仙太郎 役
- 銭形平次 第336話「平次対用心棒」(1972年、フジテレビ・東映) - 松永清兵ヱ 役
- 非情のライセンス(第1シリーズ) 第26話「兇悪の番外地」(1973年、NET・東映)− 渋谷八郎 役
- ご存知遠山の金さん(1974年8月18日・爆薬を抱いた男、テレビ朝日) - 紙屋藤八役
NHK紅白歌合戦出場歴
[編集]年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
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1959年(昭和34年)/第10回 | 初 | 黒い花びら | 11/25 | 水谷良重 | 紅白初出場 |
1960年(昭和35年)/第11回 | 2 | 恋のカクテル | 10/27 | 水谷良重(2) | |
1961年(昭和36年)/第12回 | 3 | 禁じられた恋のボレロ | 11/25 | 松尾和子 | |
1967年(昭和42年)/第18回 | 4 | 君こそわが命 | 02/23 | 園まり | 6年ぶりに復帰出場 |
1968年(昭和43年)/第19回 | 5 | 愛の渚 | 09/23 | 西田佐知子 | |
1969年(昭和44年)/第20回 | 6 | 君こそわが命(2回目) | 16/23 | 梓みちよ | |
1970年(昭和45年)/第21回 | 7 | へんな女 | 02/24 | 和田アキ子 | |
1971年(昭和46年)/第22回 | 8 | こんど生まれて来る時は | 24/25 | 水前寺清子 | トリ前 |
1972年(昭和47年)/第23回 | 9 | お嫁に行くんだね | 17/23 | 平田隆夫とセルスターズ | |
1973年(昭和48年)/第24回 | 10 | 君こそわが命(3回目) | 21/22 | 都はるみ | トリ前(2)・生涯最後の紅白出場 |
(注意点)
- 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
- 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
秘話
[編集]1973年(昭和48年)の年明け頃から、暴力団追放運動が盛んになり、美空ひばりが実弟の不祥事発覚や、デビュー以来の山口組及び三代目組長・田岡一雄との公私にわたる長年の親密な関わりが問題視されたことをきっかけに、全国の公会堂や市民会館での公演をボイコットされていた時、水原は演劇プロデューサーの黒田耕司から名古屋御園座での4月公演「美空ひばり特別公演」の芝居「かすりの女」[2]への出演を依頼された。「歌手でありながら自分は歌わず、芝居でのひばりの相手役だけの出演」という依頼であったにもかかわらず、水原は「お嬢(美空ひばり)が困っているんだ。本当の友ならこういう時に助けてあげるのが筋だろう」と、これを快諾。水原の男気にはひばり本人を始め、舞台関係者も感激したという[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 後の東芝音楽工業→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパンを経て、現在のユニバーサルミュージックLLC。
- ^ 水原は1959年デビューの新人歌手で受賞の為、第1回レコード大賞は「新人賞」を設けなかった。
- ^ その後第12回まで連続出場したが、第13回以降第17回まで落選となる。
出典
[編集]- ^ a b “暴力金融に食い物にされ死期を早めた水原弘”. 株式会社日刊現代 (2013年1月17日). 2023年5月30日閲覧。
- ^ “映画監督による舞台演出の記録 沢島忠/沢島正継/澤島忠”. 資料庫. 2013年11月4日閲覧。
- ^ 『美空ひばり 花のいのち』 黒田耕司著 小学館(1990年)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]※一部に戦前の同名異人俳優の出演作品が記載されている。
- 水原弘 - 日本映画データベース
- 水原弘 - allcinema
- 水原弘 - KINENOTE
- Hiroshi Mizuhara - IMDb