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山田太郎 (歌手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やまだ たろう
山田 太郎
第82回優駿牝馬表彰式(2021年5月23日)
基本情報
出生名 西川にしかわ けん
生誕 (1948-08-24) 1948年8月24日(76歳)
出身地 日本の旗 日本東京都台東区
学歴 日本大学第一高等学校
ジャンル 歌謡曲
職業 歌手俳優
新栄プロダクション社長
担当楽器
活動期間 1963年 -
レーベル クラウンレコード
事務所 新栄プロダクション
公式サイト 山田太郎 WEBサイト

山田 太郎(やまだ たろう、1948年8月24日 - )は、東京都台東区出身の歌手俳優馬主実業家。本名は、西川 賢(にしかわ けん)。芸能プロダクション新栄プロダクション」代表取締役社長、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長、ウエスタンファームオーナー[1][2]。妻は元歌手の紅屋おかめ。父は新栄プロ会長及び有限会社北西牧場(現:ウエスタンファーム)の創業者である西川幸男異母弟プロゴルファー西川哲

来歴

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西川一家。中央が太郎、左は父の幸男。
  • 1963年、「清らかな青春」でデビュー
  • 1965年にリリースした「新聞少年」がヒットし、スターとなった。同年の『第16回NHK紅白歌合戦』に同曲で初出場。紅白歌合戦には3回連続出場している(詳細は下記参照)。
  • 1967年には、「勤労少年もの」の第二弾「牛乳少年」をリリースした(1966年に山田寛一が歌った「牛乳少年の歌」とは別曲)。
  • 2011年12月31日、『第44回年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京)に生出演「新聞少年」を披露、以後歌謡特別番組などにも度々出演をしている。
  • 1985年からは父親の家業を継ぎ、歌手業の傍ら、新栄プロダクションの代表取締役社長を務めている。

代表曲

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  • 清らかな青春(1963年)
  • 清く明るく美しく(1964年)
  • 明日を信じよう(1964年)
  • 新聞少年(1965年)- 八反ふじを作詞、島津伸男作曲
  • 友情のうた(1965年)
  • ああ俺たちの鐘が鳴る(1965年)
  • 北風吹いても(1965年、NHK「みんなのうた」)
  • 戦え!オスパー(1965年、テレビアニメ「戦え!オスパー」主題歌)
  • 幸福はこだまする(1966年)
  • 牛乳少年(1967年)- 八反ふじを作詞、島津伸男作曲
  • 若衆笠(1967年)- 八反ふじを作詞、島津伸男作曲
  • あの娘が恋をつれてきた(1967年)
  • 神州天馬侠(1967年、テレビドラマ「神州天馬侠」主題歌)
  • 人妻(1969年)
  • 花街艶歌(1973年)
  • どっこい野郎(1973年、テレビドラマ「どっこい大作」主題歌)
  • 好きさブラックデビル(1982年9月5日、「オレたち昔・アイドル族」名義、美樹克彦とデュエット)
  • ゲートボール音頭(1983年、「山田太郎、美樹克彦、中山大三郎大木凡人」名義、TBSテレビ「街かどテレビ11:00」)
  • 恩義(1990年、千代の富士貢1000勝記念曲。作曲は山田自身)
  • 以心伝心(2002年7月24日、「恩義」以来12年ぶりの新曲)
    • B面:親ごころ
  • 大黒柱(2003年7月24日)
    • B面:男一代
  • 夫婦咲き(2005年9月21日、この曲より12cmシングルで発売)
    • B面:お江戸 浅草 歌暦
  • 花と竜(2010年9月8日、5年ぶりの新曲)
    • B面:男の土俵(A面と共に村田英雄のカバー)
  • やっと咲いたよなぁ(2018年12月19日)
    • B面:おっかさん2018

NHK紅白歌合戦出場歴

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年度/放送回 曲目 対戦相手
1965年(昭和40年)/第16回 新聞少年 園まり
1966年(昭和41年)/第17回 幸福はこだまする 笹みどり
1967年(昭和42年)/第18回 あの娘が恋をつれてきた 山本リンダ
  • このうち、第16回と第17回は山田の歌唱シーンの映像が現存し、両方とも『思い出の紅白歌合戦』(NHK-BS2)で、山田の歌唱を含め全編が再放送されている。
  • 第18回は映像は現存するが、山田の歌唱映像については詳細不明。

テレビ番組

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2010年以降の主な歌番組

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映画

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馬主として

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本名の西川賢名義で日本中央競馬会(JRA)の馬主資格を所有。冠名は「ウエスタン - 」、勝負服の柄は北海道日高郡新ひだか町に生産牧場ウエスタンファーム(旧有限会社北西牧場、2009年名称変更)を持ち、所有馬のほとんどを自家生産するオーナーブリーダーでもある。また、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長といった要職を務めている[1][2]

1968年に弱冠20歳(当時史上最年少)で馬主資格を取得[1]。初勝利は1970年のミスコマコ(同馬はオークスにも出走し20着)。1975年に法人馬主である西川商事株式会社の代表に就任[1]1997年頃、再び個人馬主となる(法人馬主である株式会社西川代表となった父の勝負服を受け継ぐ)。個人馬主となって数年は所有馬の勝ち数が1桁や0の年もあり苦戦していたが、2007年には11勝し、翌2008年も2桁勝利に加え、ウエスタンダンサーで西川商事時代のウエスタンファイブ(1984年札幌3歳ステークス、1985年牝馬東京タイムズ杯)以来23年ぶり(北西牧場生産馬としても23年ぶり)[1]に重賞競走を制覇するなど飛躍している。また近年は短距離路線での活躍が目立つ。

重賞勝ち馬(西川商事時代を含む)

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ウエスタンファーム(北西牧場)の主な生産馬

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e サラブレ、エンターブレイン、2009年8月号、45-47頁
  2. ^ a b 役員・歴代会長紹介”. 日本馬主協会連合会. 2024年6月2日閲覧。

外部リンク

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先代
大八木信行
日本馬主協会連合会 会長
2021 -
次代
現職