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内閣総理大臣としての在任期間は64日間で、[[戦後]]2番目<ref>{{citeweb|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/tsutomu-hata-dead_jp_5c5d4892e4b0974f75b1075d|title=羽田孜元首相が死去、82歳 「省エネルック」がトレードマークだった |publisher=ハフポスト|date=2017-08-29|accessdate=2019-12-26}}</ref>、[[日本国憲法|現行憲法]]下では最短(2022年現在)であった<ref name=ns170829>[https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1879435.html 羽田孜元首相が死去 サラリーマン時代 バス車掌経験] [[日刊スポーツ]]、2017年8月29日、2019年11月24日閲覧。</ref>。詳細は[[羽田内閣]]を参照。 |
内閣総理大臣としての在任期間は64日間で、[[戦後]]2番目<ref>{{citeweb|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/tsutomu-hata-dead_jp_5c5d4892e4b0974f75b1075d|title=羽田孜元首相が死去、82歳 「省エネルック」がトレードマークだった |publisher=ハフポスト|date=2017-08-29|accessdate=2019-12-26}}</ref>、[[日本国憲法|現行憲法]]下では最短(2022年現在)であった<ref name=ns170829>[https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1879435.html 羽田孜元首相が死去 サラリーマン時代 バス車掌経験] [[日刊スポーツ]]、2017年8月29日、2019年11月24日閲覧。</ref>。詳細は[[羽田内閣]]を参照。 |
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2023年1月7日 (土) 06:06時点における版
羽田 孜 はた つとむ | |
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内閣広報室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1935年8月24日 |
出生地 |
日本 東京府東京市蒲田区 (現・東京都大田区) |
没年月日 | 2017年8月28日(82歳没) |
死没地 | 日本 東京都世田谷区 |
出身校 | 成城大学経済学部経営学科 |
前職 | 小田急バス社員 |
所属政党 |
(自由民主党(田中派→竹下派→羽田派)→) (新生党→) (新進党→) (太陽党→) (民政党→) (民主党→) 民進党 |
称号 |
経済学士(成城大学・1954年) 従二位 桐花大綬章 |
配偶者 | 羽田綏子 |
子女 |
羽田雄一郎(長男) 羽田次郎(次男) |
親族 |
羽田貞義(祖父) 羽田武嗣郎(父) 神津健(甥) 羽田健一郎(従兄弟の息子) |
サイン | |
第80代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 羽田内閣 |
在任期間 | 1994年4月28日 - 1994年6月30日 |
天皇 | 上皇(明仁) |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
第96代 大蔵大臣 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
第9・12代 農林水産大臣 | |
内閣 |
第2次中曽根第2次改造内閣 竹下改造内閣 |
在任期間 |
1985年12月28日 - 1986年7月22日 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
内閣 |
(旧長野県第2区→) 長野県第3区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1969年12月27日 - 2012年11月16日 |
その他の職歴 | |
初代 民主党幹事長 (1998年4月 - 2000年9月) | |
初代 民政党代表 (1998年1月 - 1998年4月) | |
初代 太陽党党首 (1996年12月 - 1998年1月) | |
新進党副党首 (党首:海部俊樹) (1994年 - 1996年) | |
初代 新生党党首 (1993年6月23日 - 1994年12月10日) |
羽田 孜(はた つとむ、1935年〈昭和10年〉8月24日 - 2017年〈平成29年〉8月28日)は、日本の政治家。
内閣総理大臣(第80代)、農林水産大臣(第9・12代)、大蔵大臣(第88代)、外務大臣(第115-116代)、衆議院議員(14期)、新生党党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。2012年(平成24年)に政界引退し、晩年は民進党長野県連名誉顧問を務めていた。
内閣総理大臣としての在任期間は64日間で、戦後2番目[1]、現行憲法下では最短(2022年現在)であった[2]。詳細は羽田内閣を参照。
生涯
生い立ち
東京府東京市蒲田区(現、東京都大田区)にて羽田武嗣郎、とし子[3]夫妻の長男として生まれる[4]。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、父の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。
1942年(昭和17年)第二延山小学校(現:品川区立第二延山小学校)に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年(昭和19年)3月に父の郷里である長野県に疎開する。終戦後、1946年(昭和21年)に父が公職追放となる。1951年(昭和26年)に長野県上田市の上田第二中学校に入学。この頃から議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが不合格となり、東京都世田谷区の成城学園高等学校に入学する。1954年(昭和29年)に成城大学経済学部経営学科に進学する。大学3年生の時にハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまったことがある。
小田急バス勤務時代
1958年(昭和33年)成城大学を卒業[5]。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞社・日本経済新聞社などを受験したが失敗し、父のコネで小田急バスの試験を受けて同年[5]に入社する。小田急バス入社後は吉祥寺営業所を経て[6][7]、観光課に配属され観光バスツアーの企画を担当した[2]。春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、父の友人である野田宇太郎の協力を得て「文学散歩」「史跡散歩」などのバスツアーに力を入れ、時にはバス車掌も務めた[2]。その他に学生や老人会、企業などの慰安旅行、幼稚園の遠足や学校の修学旅行、さらには皇族のバス旅行も企画した。バス定期券を売り、車掌としての添乗業務では高齢者の体調に気を配り、雪の中でワイパーが壊れたバスの窓拭きをした[5]。
小田急バス勤務中の1965年(昭和40年)に綏子(やすこ)夫人と結婚。もともと第一志望ではなかったもののバス会社の仕事にやりがいを見出していたこともあり、父親の後継者として政界入りする気持ちはなかったが、1963年(昭和38年)に父が脳出血で倒れ半身不随となり、地元(上田市)の後援会から政界入りを懇願されて1968年(昭和43年)10月、10年半にわたり勤務した小田急バスを退職した[2][4][5]。
なお、政界入りの際は上田市を地盤とする旧長野2区から出馬し、小選挙区制導入後は長野3区選出となったが、羽田自身は東京6区に属する世田谷区に在住していた[8]。
政界入り
1969年(昭和44年)12月、第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自民党公認で立候補し、7万3325票を獲得しトップ当選を果たした。自民党の派閥は佐藤栄作→田中角栄派に所属した。
羽田は、郵政政務次官を経て農林政務次官となり、農林族としてそのキャリアを歩むこととなる。衆議院農林水産委員長、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年米価を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内産業としての農業の位置づけや、国際経済における農業貿易問題を思考するもので、加藤紘一などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。1984年(昭和59年)には、自民党を代表し牛肉とオレンジをめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌年の1985年(昭和60年)12月に、牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、第2次中曽根再改造内閣で農林水産大臣として初入閣する[4]。ちなみにこの時自治大臣として小沢一郎も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきたコメの自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし1986年(昭和61年)の衆参同日選挙後、成立した第3次中曽根内閣で農水相は羽田から安倍派の加藤六月に交代し、農協の反対にもあい米価は据え置かれることとなった(農水相在任中、当時農水官僚だった荒井聰に対し、初当選同期で党派・与野党・保革を超えて個人的な親交があった横路孝弘が道知事時代の北海道庁への出向を命じている)。しかし、農水相を降りた羽田は、翌年の1987年(昭和62年)に、生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという政府・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。
田中派から竹下派へ
羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。1985年(昭和60年)2月、竹下登による田中派の派中派・創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。1987年(昭和62年)11月、中曽根康弘の後継指名を受けた竹下登が自民党総裁に就任し、竹下内閣が成立する。1988年(昭和63年)12月27日、竹下改造内閣では再び農水大臣に就任する。しかしリクルート事件、消費税導入による世論の逆風を受け、竹下内閣は1989年(平成元年)に退陣した。
政治改革
第1次海部内閣が成立すると、羽田は自民党幹事長となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。自民党内に設置された政治改革推進本部の本部長となった伊東正義、本部長代理の後藤田正晴とともに政治改革推進派の中核となる。羽田は、政治と金の問題と、国際政治に日本が対応するために政治改革を必要と考え、選挙制度改革を中心にした政治改革を主張し、金丸から「熱病にうかされている」とまで言われる[4]。また、党内議論の中で後に自民党幹事長となる石破茂などの改革派若手とひざ詰めで議論し、若手の信頼を得た。羽田は小選挙区比例代表並立制の導入を主張するが、加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎(いわゆる「YKK」)らは、竹下派支配に反対し海部内閣倒閣を目論み、選挙制度改革を中心とする政治改革に反対して、1991年(平成3年)9月に政治改革関連法案は廃案となった。政治改革が頓挫する中で若手議員は敗北感を覚えるが、羽田はそんな中にあって若手を叱咤し、政治改革は伏流として残ることになる。
1989年半ば、国会改革委員長に就任していた羽田は訪米した際、C-SPANを知ることになる。これは、議会のやり取り、ニュースキャスターの討論会など、政治を専門に24時間放送する衛星放送の番組である。ありのままの国会を国民に見せることで、国民の関心が高まり、国会運営の活性化になると考えた羽田は、こうした仕組みの日本への導入を訴えた。
自民党離党、細川連立内閣
1991年(平成3年)11月に成立した宮澤内閣で大蔵大臣に就任し、入閣。1992年(平成4年)、金丸の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である小渕恵三の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から中立の立場を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わしめる。羽田は、小沢、当選同期の奥田敬和、渡部恒三らとともに改革フォーラム21(羽田派)を結成し、代表に就任。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗印に集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、1993年(平成5年)4月に病気辞任した渡辺美智雄の後任として、外相就任を宮澤に打診された。これは羽田を閣内に封じ込めるために後藤田正晴副総理が考えた天元の一石であった。しかし、羽田は野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。同年6月、宮澤首相が政治改革関連法案の成立を断念したため、羽田派は野党から提出された内閣不信任決議案に賛成した。羽田は6月23日、自民党を小沢一郎らとともに集団離党。新生党を結成し、党首に就任した。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。これに先立つ、6月24日に既に、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合の5党首が非自民・非共産連立政権を目指すことに合意し、羽田は連立政権の首班候補として最有力視されていたが、日本新党代表の細川護煕を連立政権首班とすることに合意する。羽田は細川内閣に、副総理兼外務大臣として入閣した。
改新騒動
細川政権は政治改革、コメの部分的自由化を実現し、新生党は連立与党の中核としてこれを支えたが、細川首相は金銭スキャンダルなどを理由に1994年(平成6年)4月8日の電撃的に辞意を表明。後継首相について小沢は、自民党の渡辺美智雄に「渡辺さんの派閥(渡辺派)から多数の同調者を引き連れて合流すれば首相に擁立する」と持ちかけ、渡辺も一時は離党を表明するが同調者が少数にとどまり撤回。結局、連立与党は後継首相に羽田を推すことで合意し、4月25日国会で羽田が首相に指名された。ところがその直後、連立与党のうち新生党、日本新党、民社党などが衆議院で統一会派「改新」を結成すると発表。改新は総勢130議席で、与党第1党であった社会党の74議席を大きく上回るもので、社会党の連立与党内での地位低下を図った動きであった。首相指名後の統一会派発表という事態に社会党の委員長村山富市は猛反発し、与党党首会談を途中退席、連立政権からの離脱を発表し、村山は「何の相談もなく連立の枠組みを大きく変えたことに、数で政治をろう断する意志がありありだ。連立政権の性格からして許されない」と激しく批判、袂を分ちあった[9]。羽田は懸命に社会党の連立復帰を試みたが功を奏せず、4月28日に羽田内閣は少数与党内閣として発足した。元来、小沢は羽田が細川の後継首相となることには、平成6年度予算成立後の政局を見据え反対ないし消極的であり、渡辺美智雄との提携を企図していたこともあって、羽田と小沢の関係にひびが入り始める。ただ小沢が、細川の後継首相に羽田を擁立するのを躊躇したのは、乱世ゆえに「平時の羽田」のキャリアが傷つくのを避けるためだったという見方もある。
羽田内閣
羽田は「改革と協調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を挙げた。同内閣は新生党から8人、公明党から6人が入閣し一・一ライン(小沢、公明党の市川雄一)主導内閣と言われた[10]。
細川内閣でのコメ市場の部分開放、政治改革関連法そして国民福祉税構想、内閣改造と続いた中で改新騒ぎがおこり、社会党はもはや行動できないと判断し、さきがけも同一行動を取り、一・一ライン、細川内閣から続いた武村・村山とのぶつかりでもあった[10]。
内閣官房長官の熊谷弘は「いずれにしても暫定的な内閣だと覚悟していた。どうやって連立を維持すれば次の段階にいけるかと。(連立与党内は)正直言ってばらばらになりかけていた。新生党内もそうだったんじゃないかな。僕は党レベルの動きには一歩遅れた。情報が無いわけじゃないんだが、次々と進行するから少しずつずれてね」[11]と述べている。
永野茂門法相が「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言すると直後に更迭した。在任中に公共料金値上げの年内凍結や、首相官邸直通のFAX設置などを打ち出していった。1994年(平成6年)5月12日の衆議院本会議での「1969年の日米首脳間で交わされた有事における沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという密約の真相」に関する村山富市の質問や同年5月16日の参議院本会議で「沖縄への核再持ち込み密約について調査すべき」とする市川正一の質問に対し、首相として沖縄核再持ち込み密約を否定し、調査の必要は無いと答弁をした[12][13]。
予算案は成立したが、少数与党状態の解消を狙って行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の中選挙区制による総選挙実施を招くということで、結局6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣の在任期間はわずか64日だった。前日6月24日の夜に羽田と小沢が官邸の首相執務室に10時間こもり[14]、官房副長官の石原信雄は「羽田さんは解散する気持ちだったと思います。私ども事務方としては、国会解散あるべしという前提で準備していたんです。しかし、小沢さんが来て、羽田さんとずいぶん長い間話をされて帰った後、総辞職することになったんです。」[15]と回顧している。
新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ
6月30日自社さ連立政権・村山内閣が発足し、野党に転落した。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に新進党が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、小沢らの打診で副党首となった。
1995年(平成7年)12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突した。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていった。1996年(平成8年)の、第41回衆議院議員総選挙で自身は新設の長野3区で小選挙区一本で出馬し重複立候補している新党さきがけ党首で社民党・自民党推薦する井出正一に圧勝も新進党自体が敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し太陽党を結成、党首となった。
1997年(平成9年)12月に新進党が分党すると、1998年(平成10年)1月8日 に、 民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、フロム・ファイブ、民主改革連合が院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)結成。同年1月28日、太陽党、国民の声、フロムファイブが統合して民政党を結成し、代表となった。さらに4月27日には民主党、民政党、新党友愛、民改連が統合し、新・民主党が結成され、初代幹事長に就任。首相経験者の政党幹事長就任は前例がなく「羽田は首相再登板の目を覗っている」との見方もあったが、その後は事実上の名誉職である特別代表、最高顧問を歴任した。
2004年(平成16年)5月、国民年金への加入が義務付けられた1986年(昭和61年)4月から首相在任期間を含む1995年(平成7年)7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任した。
2009年(平成21年)8月、脳梗塞後遺症等の体調不安が囁かれる中、8月30日に行われる衆院選への立候補を最後に政界を引退する考えを表明した。衆院選について、「大きく考えれば、最後の選挙になるだろうというのが常識的なところだ」「後継者は党や後援会と相談して決めたい」と述べ、また長男の羽田雄一郎について周辺に「世襲は認めない」と伝え、後継として擁立しない考えを示した[16][17]。
2009年(平成21年)9月16日に、民主党政権が発足し長年の宿願であった政権交代が実現された。この日国会で行われた首班指名投票では体調不良により投票箱のある演壇に自力で上り下りすることができなかったため、小沢一郎に片腕を支えられながら投票を行った(以降も投票の際、他の民主党衆議院議員が介添えをしながら行なっていた)。かつて政権交代を目指して自民党を離党した時の盟友同士でありながらその後の政局の流れで訣別した羽田と小沢のツーショットが計らずも政権交代当日に再現された。民主党代表選挙でも投票の際、登壇するのに介添えを必要としていた。
小沢との関係はかなり回復し、陸山会の土地取引に絡む政治資金規正法違反事件の渦中になる小沢に対し「俺とお前は一心同体だ、羽田グループとして全面的に支える」と明言した。また2010年9月民主党代表選挙でも小沢を支持していた[18]。
政界引退・晩年
民主党政権発足翌年の2010年(平成22年)9月28日、時事通信社の取材において、政界引退を表明した[19]。
2012年(平成24年)11月16日の衆議院解散で政界引退。「自民党の政治に終止符を打ったのは、今でも歴史の必然、私に課せられた天命だった」とした上で[20][21]、2009年の政権交代は「私なりに満足のいく、改革の成果」であるとした[22]。今後の活動については「多難な時期を迎えた我が国の再生にわずかなりともご奉公できる道を探し続ける」とコメント[23]。長年の盟友である小沢は「議会制民主主義を確立させるべく、長年共に歩んだ同志。勇退は誠に残念だ。政治の第一線を退かれても、引き続きこの国の将来のため、親しく指導していただきたい」と述べた[22]。
同2012年の衆議院議員選挙では、地元(長野3区)後援会からは長男の羽田雄一郎(当時:国土交通大臣)を後継として参議院から鞍替え出馬させようという意向もあったが[24]、時の首相であった野田佳彦が民主党のマニフェストにも盛り込んだ世襲禁止の方針からこれを認めなかった[25][26]。
2013年(平成25年)4月29日、桐花大綬章を受章[27]。
2017年(平成29年)8月28日午前7時6分、東京都世田谷区の自宅で[8]老衰のため死去。満82歳没[28][29]。同年9月5日、従二位追叙が日本政府により決定された[30]。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 身長172cm、体重75kg。[要説明]
- 特徴的な半袖ジャケットのスーツ(省エネルック)の推進者で、当時は普及しなかったが、後にクールビズの先駆けと評価された[2]。
- 羽田の自宅(東京都世田谷区)があった東京6区の歴代選出代議士は、岩國哲人~石井紘基~小宮山洋子~越智隆雄(自民党)~小宮山。岩國は羽田の側近、石井と小宮山は成城学園高校の後輩で親密。石井が殺害された後の補欠選挙で、当時参議院議員であった小宮山を担ぎ出し、選挙対策本部長を務めたのは羽田である。→「石井紘基刺殺事件」も参照
- 首相在任中、答弁が長い事を参議院議院運営委員会から注意された。田中眞紀子からは「多弁にして空疎」と評された。
- 語尾に「~というふうに」というフレーズを多用する。ほかに「アレする」「真正面から」「率直に言ってて」などのフレーズも多用(羽田語と揶揄された)。
- 田中角栄の愛弟子で親中派議員の代表格であり、日中友好団体である日中国際交流協会の会長[31]なども務めた。羽田内閣時代に永野茂門法務大臣が「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言すると、即座に永野法相を更迭した。また、 2005年6月には、自身の政治資金パーティーで小泉純一郎首相の靖国神社参拝を批判し「(中国の反発は)被害者の悲鳴だ。なぜ独り善がりで突っ張っているのか。戦争は絶対やらないという覚悟を持っているなら、何回詫びても限界があるとは思わない」と述べた。なお、首相在任中の靖国神社参拝には否定的であるが、羽田自身と長男で民主党参院国会対策委員長の羽田雄一郎もみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会のメンバーに名を連ねており、羽田はかつて同会の会長も務めて靖国神社参拝をしてはいる。→「靖国神社問題」も参照小沢一郎の側近であり、自民党から新進党まで羽田とも行動を共にした平野貞夫からは「羽田さんは歴史観、国家観が社会党的だ」と批判されていた。首相退陣後は、人民服風のマオカラースーツを愛用して20~30着も持ったとされ[32]、中国メディアの取材に対して羽田家の先祖が中国からの渡来人である秦氏と伝わることが理由と述べている[32]。また、秦氏が徐福と所縁があるともされることから日本徐福会の名誉会長も務めた[33]。
- 初入閣の際、閣僚名簿を発表する後藤田正晴内閣官房長官に名前を「はだしゅう」と誤読された。
- 1994年(平成6年)11月8日、テレビ番組『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に小池百合子からの紹介で出演したことがある。ちなみに翌日ゲストに指名したのは山口敏夫。
- 三枝成彰と親密で、俳優・歌手の小坂一也とも親交があった。
- 同郷(長野県上田市)のプロボクサーでスーパーミドル級世界王座挑戦2度の実績有す西澤ヨシノリの後援会会長を務める。
- 引退表明し鹿島アントラーズを退団したジーコに対し、総理大臣顕彰を与えた。
- バレーボール好きで、全日本チームの試合会場で観戦することも多く、地元の長野県バレーボール協会会長を2007年まで16年間務めた。
- 自動車ファンとしても有名であり、稲田大二郎を始めとした多くの人物とも親交があった。その縁もあり、東京オートサロンの名誉会長も務めていた。
- 2007年(平成19年)7月、シンガポールに設立されたマザーズ・キッス・ファウンデーションの名誉総裁を務める。
- パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー[34]。
- 新宗教崇教真光の46周年秋季大祭(2005年)に出席し、来賓として祝辞を述べている[35]。
- 衆議院議員時代に、キリスト教系道徳再武装運動に基づいたイニシアティブス・オブ・チェンジの顧問を務めていた[36]。
- 日中国会議員書画展へ書画を提供している[37]。
所属していた団体・議員連盟
- 民主党たばこ産業政策議員連盟(顧問)[38]
- 北京オリンピックを支援する議員の会(顧問)
- 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(顧問)
- 地下式原子力発電所政策推進議員連盟(顧問)
家族
- 羽田雄一郎は長男。参議院議員として5期務め国土交通大臣を歴任したが、5期目任期途中の2020年(令和2年)12月27日、新型コロナウイルス感染症のため、53歳で急死した[39][40]。
- 羽田次郎は次男。2011年(平成23年)の世田谷区議会議員選挙に民主党公認で立候補し落選、2017年(平成29年)の第48回衆議院議員総選挙に希望の党比例東京ブロックで立候補し落選。2021年(令和3年)に兄・雄一郎の死去に伴う補欠選挙で参院議員に当選。
- 羽田貞義は祖父。師範学校校長。
- 羽田武嗣郎は父。元衆議院議員。
- 羽田健一郎は従兄弟の息子。長和町長、孜本人の最後の後援会長。
- 神津藤平は母方の祖父、長野電鉄創立者・元社長。
- 神津進は弟。
- 神津健は甥。衆議院議員。
- 妻の綏子は元カルピス会長・津下紋太郎の孫、元オカモト副社長・津下綱平の子。
系譜
羽田貞義━━羽田武嗣郎━━羽田孜━━羽田雄一郎・羽田次郎
略歴
- 1935年(昭和10年)
- 8月24日 出生する(父・武嗣郎、母・とし子)。
- 1969年(昭和44年)
- 12月 第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補して、初当選。
- 1985年(昭和60年)
- 12月28日 農林水産大臣。
- 1988年(昭和63年)
- 12月27日 農林水産大臣。
- 1991年(平成3年)
- 11月5日 大蔵大臣。
- 1993年(平成5年)
- 6月23日 自民党を離党。新生党党首。
- 8月9日 副総理兼外務大臣。
- 1994年(平成6年)
- 4月25日 内閣総理大臣に指名。直後に改新騒動があった。
- 4月28日 内閣総理大臣。羽田内閣が成立。社会党の連立離脱により少数与党内閣として発足。
- 6月25日 自由民主党による内閣不信任案の提出を受け、内閣総辞職。
- 12月10日 新進党副党首。
- 1995年(平成7年)
- 12月27日 第2代新進党党首選挙で小沢一郎に敗れる。
- 1996年(平成8年)
- 新進党を離党し小沢と決別(その後和解)。太陽党党首。
- 1998年(平成10年)
- 1月 民政党代表。
- 4月28日 民主党初代幹事長。以後、特別代表、最高顧問を歴任する。
- 2000年(平成12年)
- 9月 民主党特別代表。
- 2002年(平成14年)
- 12月 民主党最高顧問。
- 2009年(平成23年)
- 10月 民主党最高顧問。
- 2012年(平成24年)
- 11月16日 政界引退。
- 2013年(平成25年)
- 2017年(平成29年)
- 8月28日 老衰のため死去。従二位叙位。
選挙歴
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
政党内比例順位 /政党当選者数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当 | 第32回衆議院議員総選挙 | 1969年12月27日 | 34 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 7万3325票 | 29.9 | 3 | 1/6 | / |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 37 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 6万7307票 | 27.4 | 3 | 1/5 | / |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月 5日 | 41 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 6万1243票 | 26.5 | 3 | 3/5 | / |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月 7日 | 44 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 7万1160票 | 30.8 | 3 | 3/6 | / |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年 6月22日 | 44 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 8万943票 | 32.4 | 3 | 1/6 | / |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 48 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 7万1880票 | 32.2 | 3 | 1/4 | / |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年 7月 6日 | 50 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 8万8908票 | 34.1 | 3 | 1/5 | / |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年 2月18日 | 54 | 旧長野2区 | 自由民主党 | 7万1192票 | 25.5 | 3 | 2/5 | / |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 7月18日 | 57 | 旧長野2区 | 新生党 | 14万6870票 | 51.2 | 3 | 1/5 | / |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 61 | 長野3区 | 新進党 | 16万1670票 | 62.6 | 1 | 1/3 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 64 | 長野3区 | 民主党 | 16万3382票 | 61.2 | 1 | 1/4 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 68 | 長野3区 | 民主党 | 15万203票 | 58.5 | 1 | 1/3 | / |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 9月11日 | 70 | 長野3区 | 民主党 | 14万3728票 | 51.1 | 1 | 1/3 | / |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 8月30日 | 74 | 長野3区 | 民主党 | 13万8614票 | 47.5 | 1 | 1/4 | / |
脚注
出典
- ^ “羽田孜元首相が死去、82歳 「省エネルック」がトレードマークだった”. ハフポスト (2017年8月29日). 2019年12月26日閲覧。
- ^ a b c d e 羽田孜元首相が死去 サラリーマン時代 バス車掌経験 日刊スポーツ、2017年8月29日、2019年11月24日閲覧。
- ^ 羽田としさん死去/羽田孜元首相の母 四国新聞、2001年10月13日、2019年11月24日閲覧。
- ^ a b c d 本田雅俊 (2008-07-29). 総理の辞め方. PHP研究所. pp. 213-221. ISBN 978-4-569-70085-4
- ^ a b c d 羽田孜さん死去 朝日新聞「天声人語 」、2017年8月29日、2019年11月24日閲覧。
- ^ 訃報 非自民連立政権、元首相の羽田孜さん82歳 毎日新聞、2017年8月28日、2019年11月24日閲覧。
- ^ 小田急バス吉祥寺営業所勤務時代の羽田孜氏(中央)。1960年撮影。 毎日新聞、2017年8月28日、2019年11月24日閲覧。
- ^ a b 羽田孜元首相が死去 産経新聞、2017年8月28日、2019年11月24日閲覧。
- ^ 芹川洋一著、平成政権史、日経プレミアシリーズ、2018年、81頁、日本経済新聞出版社
- ^ a b 平成政権史82頁
- ^ 海部氏を首相候補に擁立(94年)元官房長官・熊谷弘氏(下) 小沢氏独断で敗北、ぼう然日本経済新聞
- ^ 衆議院本会議1994年5月12日議事録
- ^ 参議院本会議5月16日議事録
- ^ 平成政権史、83頁
- ^ 石原信雄著、首相官邸の決断―内閣官房副長官 石原信雄の2600日、中央公論社、1997年、171頁
- ^ “羽田元首相、今回の衆院選最後に政界引退へ” (2009年8月3日). 2009年8月8日閲覧。
- ^ “羽田元首相、今回限りを示唆=「最後の選挙」” (2009年8月3日). 2009年8月8日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “羽田元首相が小沢氏支持” (日本語). 徳島新聞. (2010年8月26日) 2010年9月15日閲覧。
- ^ “羽田元首相、今期限りで政界引退へ”. 時事通信. (2010年9月28日) 2010年9月28日閲覧。
- ^ “羽田元首相が議員活動に幕 連続14期当選”. 信毎web (信濃毎日新聞社). (2012年11月17日) 2012年11月22日閲覧。
- ^ “羽田孜氏「自民党政治に終止符、天命だった」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年11月17日) 2012年11月22日閲覧。
- ^ a b “羽田元首相が議員活動に幕 連続14期当選”. 信毎web (信濃毎日新聞社). (2012年11月17日) 2012年11月22日閲覧。
- ^ “羽田孜氏「自民党政治に終止符、天命だった」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年11月17日) 2012年11月22日閲覧。
- ^ 羽田元首相後援会、雄一郎氏を後継に 2012年衆院選 長野 中日新聞、2012年11月20日、2019年11月24日閲覧。
- ^ “羽田国交相、公認せず=野田首相 - 「脱世襲」自民と差【12衆院選】”. 時事通信. (2012年11月17日) 2012年11月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 羽田国交相を公認せず 民主、世襲禁止を徹底 日本経済新聞、2012年11月18日、2019年11月24日閲覧。
- ^ “羽田元首相に桐花大綬章=倍賞千恵子さん旭日小綬章 - 春の叙勲”. 時事ドットコム (2013年4月29日). 2013年4月29日閲覧。
- ^ “羽田元首相が死去、82歳=現行憲法で最短”. 時事ドットコム (2017年8月28日). 2017年8月28日閲覧。
- ^ “羽田孜・元首相が死去 82歳 非自民連立政権担う”. 朝日新聞デジタル. (2017年8月28日) 2017年8月29日閲覧。
- ^ “羽田孜元首相に従二位…政府”. 読売新聞 (2017年9月5日). 2017年9月6日閲覧。
- ^ “理事長挨拶”. 一般社団法人日中国際交流協会. 2018年4月19日閲覧。
- ^ a b “日前首相羽田爱穿中山装”. 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。
- ^ 鳥居貞儀・徐福友好塾『徐福さん 伝承地に見る徐福像と徐福伝説』ネスト企画、2005年12月、171頁。
- ^ パチンコチェーンストア協会理事・会員リスト
- ^ 『崇教真光』誌平成17年12月号」
- ^ IC役員名簿
- ^ [1] NPO法人日中国会議員書画展実行委員会
- ^ “「たばこ一箱800円」増税シナリオ”. FACTA (ファクタ出版株式会社). (2010年10月5日) 2021年5月5日閲覧。
- ^ 急死の羽田雄一郎元国交相、新型コロナ感染が判明 - 産経ニュース 2020年12月28日
- ^ 立憲民主党の羽田雄一郎・参院幹事長が死去…父親は元首相 - 読売新聞オンライン 2020年12月27日
関連項目
- 羽田内閣
- 民主党の閣僚経験者一覧
- 竹下派七奉行
- ネオ・ニューリーダー
- 民主党娯楽産業健全育成研究会
- 省エネルック
- 小田急バス
- 村上春樹
- 宇野宗佑 - 総理在任2か月。
外部リンク
- 『羽田孜』 - コトバンク
- 第80代総理大臣 羽田孜【歴代総理列伝】 - YouTube(TBS NEWS)
公職 | ||
---|---|---|
先代 細川護煕 |
内閣総理大臣 第80代:1994年 |
次代 村山富市 |
先代 後藤田正晴 |
国務大臣(副総理) 1993年 - 1994年 |
次代 河野洋平 |
先代 武藤嘉文 |
外務大臣 第116代:1993年 - 1994年 |
次代 柿沢弘治 |
先代 海部俊樹(兼任) |
大蔵大臣 第96代:1991年 - 1992年 |
次代 林義郎 |
先代 佐藤守良 佐藤隆 |
農林水産大臣 第9代:1985年 - 1986年 第12代:1988年 - 1989年 |
次代 加藤六月 堀之内久男 |
議会 | ||
先代 田邊國男 |
衆議院農林水産委員長 1981年 - 1982年 |
次代 山崎平八郎 |
党職 | ||
先代 新設 |
民主党特別代表 2000年 - 2002年 |
次代 最終 |
先代 結成 |
民主党幹事長 初代:1998年 - 2000年 |
次代 菅直人 |
先代 結成 |
民政党代表 初代:1998年 |
次代 民主党へ |
先代 結成 |
太陽党党首 初代:1996年 - 1998年 |
次代 民政党へ |
先代 結成 |
新生党党首 初代:1993年 - 1994年 |
次代 新進党へ |
先代 結成 |
改革フォーラム21代表 初代:1992年 - 1993年 |
次代 最終 |