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彼の[[1920年代]]の[[自由主義]]体制における国際協調路線は「'''[[幣原外交]]'''」とも称され、軍部の軍拡自主路線「[[田中義一|田中外交]]」と対立した。[[ワシントン体制]]に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、[[1925年]](大正14年)の[[5・30事件]]においては、[[在華紡]](在中国の日系製糸会社)の中国人[[ストライキ]]に対して[[奉天軍閥]]の[[張作霖]]に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。 |
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2020年9月15日 (火) 14:15時点における版
幣原 喜重郎 しではら きじゅうろう | |
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幣原喜重郎の肖像写真 | |
生年月日 |
明治5年8月11日 (1872年9月13日) |
出生地 |
日本・大阪府茨田郡門真一番村 (現:大阪府門真市) |
没年月日 | 1951年3月10日(78歳没) |
死没地 | 日本・東京都世田谷区 |
出身校 | 帝国大学法科大学 卒業 |
前職 | 外務官僚 |
所属政党 |
(無所属→) (同和会→) (日本進歩党→) (民主党→) (同志クラブ→) (民主クラブ→) 民主自由党 |
称号 |
従一位 勲一等旭日桐花大綬章 男爵 法学士(帝国大学・1895年) |
配偶者 | 幣原 雅子 |
子女 |
長男:幣原道太郎 次男:幣原重雄 三男:幣原平三 |
親族 |
岩崎弥太郎(義父) 幣原坦(兄) 加藤高明(義兄) 木内重四郎(義兄) |
サイン | |
内閣 | 幣原内閣 |
在任期間 | 1945年10月9日 - 1946年5月22日 |
天皇 | 昭和天皇 |
在任期間 | 1949年2月11日 - 1951年3月10日 |
初代 復員庁総裁 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年6月15日 - 1947年5月24日 |
副総理(復興庁総裁兼任) | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1947年5月24日 |
初代 第一復員大臣(首相兼任) | |
内閣 | 幣原内閣 |
在任期間 | 1945年12月1日 - 1946年5月22日 |
その他の職歴 | |
初代 第二復員大臣(首相兼任) (1945年12月1日 - 1946年5月22日) | |
内閣総理大臣臨時代理 (1930年11月14日 - 1931年3月10日) | |
第43-44代 外務大臣 (1929年7月2日 - 1931年12月13日) | |
第40-41代 外務大臣 (1924年6月11日 - 1927年4月20日) | |
衆議院議員 (1947年4月26日 - 1951年3月10日) | |
貴族院議員 (1926年1月29日 - 1947年4月25日) |
幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日〈明治5年8月11日〉- 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員(勅選議員[1])、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)などを歴任。
生涯
生い立ち
明治5年8月11日(1872年9月13日)、大阪府門真一番村(現・門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城そばにあった官立大阪中学校から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。
大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年(明治29年)外交官試験に合格し、外務省に転じた[1]。
外務省
外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年(大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使[1]。第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議、ワシントン会議においては全権委員を務める[1]。
外務大臣歴任
外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。
1926年(大正15年)に蔣介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。
1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた[2]。立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された[3]。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。
第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐の頃に近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かっている陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言した逸話が残っている。
第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失。多摩川畔にあった三菱系の農場に移った[4]。
内閣総理大臣
戦後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任[5]。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残るほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている。
GHQのマッカーサーと1946年1月24日に会談。このマッカーサーとの会談で平和主義を提案する。皇室の護持と戦争放棄の考えを幣原の側からマッカーサーに述べたとされる。その前の12月、幣原は風邪で倒れ、病床で「つくづく考えた」のであった。幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査会(松本委員会)がまとめた「松本案」である。
順番からいえば、憲法制定過程は、幣原・マッカーサー会談(これで大筋合意。しかも、幣原から平和主義を提案。幣原は自分で「病床でつくづく考えた」のであり、マッカーサーからの露骨な圧力はなかったと思われる。連合国側が圧力をかけること自体がポツダム宣言違反、国際法違反であり連合国側は表面的には圧力をかけられないが、しかし、常識から判断して圧力はあったと思われる。)→松本案が完成(松本案自体は45年10月から作り始めていた。)→松本案がマッカーサーによって拒否される(46年2月1日頃。『毎日新聞』のスクープでGHQは内容を知る。)→マッカーサー3原則(3日)→GHQの民生局が草案を作成(8日間で草案を作成。)→マッカーサー草案ができて(13日、松本国務相と吉田外相は「松本案」の返事を聞きに行ったが、逆にマッカーサーから草案を渡される。)閣議が大荒れ(19日)→幣原はマッカーサー案を原案として採用し修正することを決める(同日)→幣原・マッカーサー会談2回目(21日)→修正を求めることを幣原が閣議でいう(22日)→閣議も了解(22日)→昭和天皇も幣原総理を激励という順である。
晩年
旧憲法下最後、そして女性参政権が認められた戦後初の総選挙となる1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、日本自由党が第一党となり総辞職、第1次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣(のちに復員庁総裁兼務)。
1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選[6]。日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加したが、片山内閣の社会主義政策を批判して田中角栄、原健三郎、本間俊一、中山マサ、小平久雄ら幣原派の若手議員とともに民主自由党に参加、衆議院議長に就任する[7]。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてであった(貴族院議長は初代の伊藤博文が第1次内閣と第2次内閣の間に在任しており、他に近衛文麿が議長経験後に首相就任している。衆議院と参議院は幣原の後も例がない)。首相経験者であり、その後も例がない)。1951年(昭和26年)3月10日、議長在任中に心筋梗塞のため[8]死去[9]。享年80(満78歳没)。議長在任中の死去であったことから、葬儀は衆議院葬として行われた[10]。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
栄典
- 位階
- 1903年(明治36年)10月10日 - 従六位[11]
- 1905年(明治38年)12月27日 - 正六位[12]
- 1908年(明治41年)3月30日 - 従五位[13]
- 1911年(明治44年)9月20日 - 正五位[14]
- 1915年(大正4年)12月10日 - 従四位[15]
- 1922年(大正11年)11月10日 - 従三位[16]
- 1925年(大正14年)12月1日 - 正三位[17]
- 1931年(昭和6年)2月16日 - 従二位[18]
- 1951年(昭和26年)3月10日 - 従一位[19]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[20]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 勲二等瑞宝章[21]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[22]
- 1916年(大正5年)8月19日 - 勲一等瑞宝章[23]
- 1920年(大正9年)9月7日 - 男爵・勲一等旭日大綬章[24]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[25]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[26]
- 1931年(昭和6年)12月12日 - 旭日桐花大綬章[27]
- 外国勲章佩用允許
- 1914年(大正5年)6月18日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル第二等勲章[28]
- 1915年(大正4年)11月12日 - オランダ王国:オランジュナッソー第一等勲章[29]
- 1925年(大正14年)7月11日 - ベルギー王国:レオポール勲章グランクロア[30]
- 1926年(大正15年)8月24日 - ペルー共和国:ソレイユ勲章グランクロア[31]
- 1927年(大正16年)4月1日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロア[32]
- 1931年(昭和6年)
逸話
- 「幣原」という語彙は欧米人、とくに英語圏の人間にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から英語で次の様な質問をされた。
- 記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
- 幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です。」
- 旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。
- 関東大震災後、被害を受けた駿河台の住居から駒込の六義園へ引っ越した。引越しの際焼け残った荷物を運ぶ馬車が川に転落、文字通り丸裸の憂き目にあったという。
- 幣原は書道や文章に優れていることで外務省内には知られており、幣原が外務大臣だったときに次官を務めていた吉田茂は、省内の文書が次官の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
- 経歴や行動からクエーカー派クリスチャンであったという説が有力だが判然としていない。
- 濱口雄幸が立憲民政党の総裁になった際、中学校時代からの友人であり懇意であった幣原に副総裁になるよう要請した。その頃幣原は外務大臣は政党と関係を持つべきでないとする信条を持っており、拒絶したという。
- 血盟団事件、二・二六事件の両事件で襲撃の標的となっていたが、病臥中であったことや事前に警官の警告があったことにより事なきを得た。
- 1950年11月20日、国際ケア機構による支援物資「ケア物資」が10万個に達したことを記念し、10万個目の小包を衆議院議長として受け取った。記念式典に出席した連合国軍最高司令官総司令部関係者に対し、英語で感謝の意を伝えるスピーチを行っている[35]。
家族・親族
幣原喜重郎は幣原九市郎の婿養子である幣原新治郎の次男として生まれた[36]。新治郎の長男、つまり喜重郎の兄に当たる幣原坦(幼名・徳治郎)は東洋史学者で教育行政官[36][37][38][39]。坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ[37][40][39]。由正・澄江夫妻の長男が「コザイの式」で知られている天文学者・古在由秀であり[37][39]、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である[37][39]。古在由秀は最後の東京天文台(国立天文台の前身)台長および国立天文台の初代台長を務め「星の手帖」(既に廃刊)の編集委員としても知られており、2009年(平成21年)には文化功労者に選ばれている。また坦の孫に当たる幣原廣は弁護士で、古在由秀の従弟に当たる。第二東京弁護士会所属であり、副会長経験あり。多数の委員会活動に関与しているため、弁護士会では「多重会務者」などと呼ばれている。
幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟に当たる[41]。ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。したがって雅子は春路・久弥・磯路の異母妹に当たる。
喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。長男・道太郎は元獨協大学教授[36]、次男・重雄は元三菱製紙勤務[36]、三男・平三は夭折。長男は改憲論者であった。なお幣原内閣で大蔵大臣を務めた渋沢敬三も磯路の婿に当たる姻戚である[41]。渋沢敬三は渋沢栄一の孫に当たり、日銀総裁や大蔵大臣を務める傍ら、日本における民俗学の発展に多大な貢献をした学者でもある。また、1947年、岩崎家との縁から、財団法人東洋文庫の理事長に就任し、三菱財閥解体を受けて運営危機に陥った同文庫を翌年に国立国会図書館支部として維持させることに成功した。戦前より続く日本の東洋学研究の中心であった同文庫を解散の危機から救ったその功績は今日少なからず評価されている。
系譜
古在卯之助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古在弥五兵衛 | 良子 | 古在由信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古在由直 | 静子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柳下景由 | 古在由良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清水貞幹 | 豊子 | 古在由重 | 古在豊樹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古在由正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古在由秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
熊沢善庵 | 妙子 | 澄江 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幣原顕 | 幣原廣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幣原新治郎 | 幣原坦 | 幣原幸秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幣原九市郎 | 幣原元 | 和子 | 幣原和寿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
静ヅ | 幣原喜重郎 | 幣原匡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナカ | 幣原道太郎 | 幣原隆太郎 | 幣原慎一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎弥太郎 | 雅子 | 幣原重雄 | 今西健策 | 幣原幸二 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幣原平三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倶子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幣原章二 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎久弥 | 岩崎彦弥太 | 岩崎寛弥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木内重四郎 | 木内良胤 | 木内昭胤 | 木内孝胤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木内信胤 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
磯路 | 渋沢敬三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
喜勢 | 渋沢雅英 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎弥次郎 | 登喜子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
加藤高明 | 加藤厚太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春路 | 悦子 | 岡部長忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岡部長衡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岡部長景 | 岡部長義 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岡部長発 | 岡部長職 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岡部長章 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
櫻井房記 | 須美 | 妙子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎毅太郎 | 岩崎正寛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎弥之助 | 岩崎輝弥 | 岩崎英二郎 | 岩崎透 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎俊弥 | 岩崎純 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後藤象二郎 | 早苗 | 岩崎小弥太 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著作
- 『外交五十年』中公文庫。ISBN 4-122013-91-7。
- 『幣原喜重郎 - 外交五十年 人間の記録.64』、日本図書センター。ISBN 4-820543-09-1。
- ※ただし刊行時期が、占領下(読売新聞社、1951年)であるため、戦後についての執筆部分の信頼性には、疑問の声もある。
脚注
- ^ a b c d 『幣原喜重郎』 - コトバンク
- ^ 『官報』第1166号、昭和5年11月17日、p.284、『官報』第1256号、昭和6年3月10日、p.194
- ^ 井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p.114
- ^ 五百籏頭真 1997, p. 108
- ^ 『官報』号外、昭和20年10月9日
- ^ 『第23回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1948年、366頁。
- ^ 『官報』第6625号、昭和24年2月15日、p.115
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)14頁
- ^ 『官報』第7250号、昭和26年3月13日、p.212
- ^ 『衆議院先例集 昭和38年版』衆議院事務局、1963年、630-631頁。
- ^ 『官報』第6085号「叙任及辞令」1903年10月12日。
- ^ 『官報』第6750号「叙任及辞令」1905年12月28日。
- ^ 『官報』第7425号「叙任及辞令」1908年3月31日。
- ^ 『官報』第8477号「叙任及辞令」1911年9月21日。
- ^ 『官報』第1009号「叙任及辞令」1915年12月11日。
- ^ 『官報』第3085号「叙任及辞令」1922年11月11日。
- ^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」1926年1月27日。
- ^ 『官報』第1245号「叙任及辞令」1931年2月25日。
- ^ 『官報』第7252号「叙任及辞令」1951年3月15日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第2431号「授爵、叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第1488号「叙任及辞令」1931年12月14日。
- ^ 『官報』第566号「叙任及辞令」1914年6月20日。
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
- ^ 『官報』第3868号「叙任及辞令」1925年7月15日。
- ^ 『官報』第4206号「叙任及辞令」1926年8月30日。
- ^ 『官報』第79号「叙任及辞令」1927年4月7日。
- ^ 『官報』第1426号「叙任及辞令」1931年9月29日。
- ^ 『官報』第1500号「叙任及辞令」1931年12月29日。
- ^ 「ケア物資 十万個は幣原さんに」『日本経済新聞』昭和25年11月21日3面
- ^ a b c d 『池上彰と学ぶ日本の総理 30』、9頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』、コ73頁。
- ^ 『人事興信録 第9版』、シ21-シ22頁。
- ^ a b c d 新・未知への群像 古在由秀氏 1 - インターネットアーカイブ内のページ
- ^ 『人事興信録 第9版』、シ22頁。
- ^ a b 『閨閥 新特権階級の系譜』 「三菱財閥」創業家・岩崎家 大財閥“三菱王国”を築いた岩崎一族の系譜 394-407頁
参考文献
- 浅野豊美『帝国日本の植民地法制 - 法域統合と帝国秩序』名古屋大学出版会、2008年(平成20年)。ISBN 4-815-80585-7。
- 岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』PHP研究所。ISBN 4-569610-83-8。
- 岡崎久彦『吉田茂とその時代』PHP研究所〈PHP文庫〉。ISBN 4-569660-69-X。
- 塩田潮『最後の御奉公 - 宰相 幣原喜重郎』文藝春秋。ISBN 4-163463-80-1。
- 馬場伸也『満州事変への道 - 幣原外交と田中外交』中公新書。ISBN 4-121003-02-0。
- 伊藤之雄『政党政治と天皇』(日本の歴史22)講談社/新版:講談社学術文庫。ISBN 978-4-06-291922-7。
- 幣原喜重郎『外交五十年』読売新聞社刊。ISBN 978-4-12-206109-5。
- 神一行『閨閥 新特権階級の系譜』講談社文庫。ISBN 978-4061855625。
- 『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年(昭和6年)6月23日。
- 『週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 30 幣原喜重郎・片山哲・芦田均』小学館、2012年(平成24年)8月28日。
- 五百籏頭真『占領期―首相たちの新日本』読売新聞社、1997年12月。
伝記
- 塩田潮『日本国憲法をつくった男 - 宰相幣原喜重郎』文春文庫 1998年。ISBN 4-167516-03-9。
- 新版『日本国憲法をつくった男 - 宰相幣原喜重郎』朝日文庫 2017年。ISBN 4-02-261893-0。
- 岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』PHP文庫 2003年。ISBN 4-569579-93-0。
- 服部龍二『幣原喜重郎 外交と民主主義』有斐閣、2006年/増補版:吉田書店、2017年
- 宇治田直義『日本宰相列伝17 幣原喜重郎』時事通信社 1985年。旧版:同「三代宰相列伝」
関連書籍
- 『日本国憲法 9条に込められた魂』鉄筆文庫。ISBN 4-907580-07-X。
関連項目
- 田中義一
- 日本国憲法第9条(発案者をめぐる議論)
- 岩崎家 - 三菱の創業者一族。幣原家と姻戚関係にある。
- 三島由紀夫 - 幣原について、「世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる」(『二・二六事件について』初出:週刊読売 1968年2月23日号に掲載)、「不忠の臣」と述べ(林房雄との対談『対話・日本人論』、番町書房、1966年。夏目書房(新版)、2002年)および、作品『英霊の聲』でも批判している。
外部リンク
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