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前田献吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田献吉
まえだ けんきち
生年月日 1835年12月14日
出生地 日本の旗 日本 薩摩国鹿児島城下
(現鹿児島県鹿児島市)
没年月日 (1894-12-21) 1894年12月21日(59歳没)
前職 東京農林学校校長
称号 従三位
大日本帝国憲法発布記念章
勲三等旭日中綬章
正五位
親族 弟・前田正名(山梨県知事)

在任期間 1894年1月23日 - 1894年12月21日

在任期間 1889年3月15日 - 1890年10月20日
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前田 献吉(まえだ けんきち、1835年12月14日(天保6年10月25日[1] - 1894年明治27年)12月21日[2])は、幕末薩摩藩士、明治期の官僚外交官政治家元老院議官貴族院勅選議員錦鶏間祗候従三位勲三等。旧名・正穀[1]

経歴

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薩摩国鹿児島城下で薩摩藩医・前田善安の息子として生まれる[3]戊辰戦争では春日丸に乗船し北越戦争箱館戦争に従軍した[1]

留学費用を稼ぐために高橋新吉、弟・前田正名とともに英和辞書編纂を計画、慶応2年(1866年)に江戸開成所から出された『英和対訳袖珍辞書』を底本として辞書編纂を開始し明治元年(1868年)に完成する。翌年、上海の美華書院の印刷により『和訳英辞書』(通称『薩摩辞書』)の名で刊行した[3][4]

明治3年(1870年8月、私費留学のため妻と共に渡米しフィラデルフィアに滞在[1][3]。明治4年(1871年9月海軍生徒として官費留学となる[1]1873年9月、米国留学中の華頂宮博経親王が病のため帰朝するに際し随従を命ぜられ帰国[1]

1874年7月7日、海軍軍医寮(海軍省医務局の前身)七等出仕に任官[1]。以後、兼内務省六等出仕、海軍省六等出仕、同医務局副長、同医務局長、同医務局副長、同五等出仕などを歴任[1]1877年3月、西南戦争に際し鹿児島に派遣された[1]

1879年5月17日、外務省に転じ五等出仕となり、朝鮮国釜山港在勤の管理官に発令された。以後、総領事元山津在勤)、兼元山港郵便局事務取扱、兼判事、総領事(釜山港在勤)、兼釜山浦郵便局事務総括などを歴任し、1886年3月23日に非職となる[1]

1886年5月22日、駒場農学校長に就任[1]。同年7月22日、学校の再編により東京農林学校長に就任した[1]1889年3月15日、元老院議官に就任[1]1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[1]1894年1月23日、貴族院勅選議員に任じられたが[5]、同年12月、在任中に病のため薨去[2][3]。墓所は中目黒長泉院

親族

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栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』446-451頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』162頁。
  3. ^ a b c d 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、614頁。
  4. ^ 『明治維新人名辞典』「前田正名」896頁。
  5. ^ 『官報』第3169号、明治27年1月24日。
  6. ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
  7. ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
  8. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。

参考文献

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  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 富田仁編『海を越えた日本人名事典』新訂増補、日外アソシエーツ、2005年。