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柳本直太郎

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柳本 直太郎
やなぎもと なおたろう
生年月日 (1848-04-10) 1848年4月10日嘉永元年3月7日
出生地 越前国足羽郡福井(現・福井県福井市
没年月日 (1913-03-13) 1913年3月13日(64歳没)
出身校 慶應義塾
(現・慶應義塾大学
称号 従五位勲六等
子女 京子(娘・伊藤篤太郎妻)、直人(息子)、フク子(娘・久保武妻)、直士(息子)
親族 久兵衛(父)、光子(妹・福島敬典妻)

在任期間 1894年2月28日 - 1897年6月26日
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柳本 直太郎(やなぎもと なおたろう[1][2]1848年4月10日嘉永元年3月7日[1])- 1913年大正2年)3月13日[1])は明治時代日本官僚教育者。旧越前福井藩士は直満、は久斎[1]、明治初年の名は寛敬[3]第一大学区第一番中学東京大学の前身の1つ)学長、東京外国語学校東京外国語大学の前身)校長、第3代名古屋市長を歴任した。

来歴

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嘉永元年3月7日1848年4月10日)、柳本久兵衛の子として越前国福井に生まれる。微禄の福井藩士だったが、その才を認められて文久元年(1861年)3月に英語の学習を命じられ、翌年、江戸に設けられていた幕府洋学研究教育機関・蕃書調所に入った[1]元治元年(1864年)10月、英学修業のため横浜に遊学[4]。幕府が設けた横浜英学所で英語通訳養成を行っていたサミュエル・ロビンス・ブラウンのもとで学んだという[5]慶応2年(1866年)2月には慶應義塾に入社[6]。さらに慶応3年(1867年)4月、福井藩製造奉行佐々木権六(長淳)の通訳兼従者として軍器購入のため米国に派遣され、アンドリュー・ジョンソン大統領ユリシーズ・グラント臨時陸軍長官に謁見[4][7]明治元年(1868年)10月に帰国した後は、翌年9月から再び横浜に遊学した[4]

明治3年(1870年)3月、前年に新政府が設けた大学の少助教となり、翌年7月に大学が廃され文部省が新設されると文部中助教に進んだ[8][9]。また明治3年7月には米国に留学する華頂宮博経親王の随行を命じられ、在職のまま再び渡米[10]。親王とともにブルックリン工科大学英語版で入学予備教育を受け、在米少弁務使森有礼からは杉浦弘蔵(畠山義成)、湯地治右衛門(定基)とともに米国留学生総代を命じられたが[11]、母が病にかかり余命わずかとなったことを受けて明治5年(1872年)1月に帰国している[12]

帰国後は文部大助教、文部少教授、文部省七等出仕、文部省六等出仕を経て10月に少督学に就任。明治7年(1874年)4月に再び文部省六等出仕となったのち、同年9月に出仕を免じられた[8][13]。この間、南校御用掛兼教場監事(のち監事長)となり、英語課程で窮理学を担当。明治5年3月の南校行幸の際には自然地理学大意を演述している。また同年8月の学制制定により南校が第一大学区第一番中学に改められるとほどなく学長に進み[8][14]、少督学に転じてからは新設された第一大学区督学局の事務を担当。明治6年(1873年)6月、他の6大学区に督学局が置かれると第二大学区督学事務兼勤となり、各大学区督学局が1局に合併される翌年4月まで第一・第二大学区の学事を監督した[15]。明治7年4月、東京外国語学校副長兼開成学校副長に転じ、翌月には東京外国語学校長に就任した[16]。このほか、省外では明治6年3月に東京府浅草栄久町に開設された私塾・明新学舎の校主となっている[17]

免出仕後は明治8年(1875年)2月から翌年まで鳥取変則中学校に勤務[18]。明治10年(1877年)1月、兵庫県御用掛となり、同県少書記官、大書記官に進んだのち、明治17年(1884年)1月に長崎県大書記官に転じた[8][19]。明治19年(1886年)7月、さらに愛知県書記官に転じ、明治26年(1893年)3月に非職となるまで在職[20]。その後、明治27年(1894年)2月から明治30年(1897年)6月まで名古屋市長を務めた[21]大正2年(1913年3月13日享年66で死去。墓所は名古屋市八事霊園[1]

親族

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栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『明治維新人名辞典』1026頁。
  2. ^ 『福沢諭吉門下』。『新訂 政治家人名事典』。『新訂増補 海を越えた日本人名事典』。『明治の若き群像』 251頁。『幕末維新大人名事典 下巻』。『明治大正人物事典 II』。
  3. ^ 『職員録』明治3年4月、86丁表。大學南校一覧/明治文化研究会発行」、hdl:20.500.12000/37800 金井之恭ほか共纂 『明治史料 顕要職務補任録 下巻』 成章堂、1903年5月増補再版、574頁
  4. ^ a b c 熊澤(2007)、282頁。
  5. ^ 塩崎智 「幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察(2)」(『拓殖大学語学研究』第116号、2007年12月、NAID 110006992835)149頁。
  6. ^ 『慶應義塾150年史資料集 1』。
  7. ^ 福永郁雄 「明治ニューヨーカー物語 : 近代ビジネスマンの夜明け (一)」(『季刊 汎』5、PMC出版、1987年6月)69-70頁。高木不二 「慶応期の越前藩政と中央政局」(『近代日本研究』第16巻、慶應義塾福澤研究センター、2000年3月、NAID 120005347358)46-48頁。長野栄俊 「佐々木権六(長淳)に関する履歴・伝記史料の紹介」(『若越郷土研究』第52巻第2号、福井県郷土誌懇談会、2008年3月、NAID 120005739828)39-41頁、45頁、48-51頁。
  8. ^ a b c d 「公文録・明治十四年・第二百七十二巻」。
  9. ^ 倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、32-34頁、45-46頁、262-263頁。
  10. ^ 倉沢剛著 『幕末教育史の研究 三 諸藩の教育政策』 吉川弘文館、1986年4月、ISBN 4642032533、734-738頁。前掲 『学制の研究』 209-211頁。
  11. ^ 塩崎智 「幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察(1)」(『拓殖大学語学研究』第114号、2007年3月、NAID 110006405594)124-127頁。前掲 「幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察(2)」 129-130頁、134-138頁。塩崎智 「幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察(3)」(第117号、2008年3月、NAID 110006992844)39頁。『新聞雑誌』第6号、明治4年7月、2丁表。
  12. ^ 柳本少助教帰朝之儀ニ付伺」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治四年・第百三十八巻」)。「米国留学帰朝御届」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治五年・第四十六巻」)。
  13. ^ 『太政官日誌』明治5年第80号、1丁裏明治5年第88号、5頁明治7年第139号、5頁
  14. ^ 『壬申四月改 南校一覧』 課程1丁表-2丁表『東京帝国大学五十年史 上冊』 東京帝国大学、1932年11月、336頁。東京大学百年史編集委員会編 『東京大学百年史 通史一東京大学、1984年3月、ISBN 4130010514、184-185頁、266頁、270頁。
  15. ^ 前掲 『学制の研究』 580-585頁。国立教育研究所編 『日本近代教育百年史 第一巻 教育政策1』 教育研究振興会、1974年8月、744-746頁。
  16. ^ 野中正孝編著 『東京外国語学校史』 不二出版、2008年11月、ISBN 9784835057675、15-17頁。
  17. ^ 「明新学舎」(東京都立教育研究所編 『東京教育史資料大系 第一巻』 東京都立教育研究所、1971年3月)。
  18. ^ 鳥取市編 『新修鳥取市史 第五巻』 鳥取市、2008年3月、82-85頁。
  19. ^ 東京日日新聞』第2743号、1881年2月2日、1面。『官報』第106号、1883年11月2日、5頁第163号、1884年1月17日、1頁
  20. ^ 『官報』第927号、1886年8月3日、14頁第2915号、1893年3月22日、246頁
  21. ^ 『名古屋市会史 第一巻』 名古屋市会事務局、1939年10月、384頁『名古屋市会史 第二巻』 名古屋市会事務局、1940年10月、254-256頁
  22. ^ 柳本直太郎日本掃苔帳
  23. ^ 福島敬典(読み)ふくしま よしのりコトバンク
  24. ^ 福島縫次郎(読み)ふくしま ぬいじろうコトバンク
  25. ^ 大館尚氏藤島神社、2011.01.29
  26. ^ 「福島縫次郎」(猪野三郎編輯 『昭和三年版 大衆人事録』 帝国秘密探偵社ほか、1927年10月)
  27. ^ 岩津都希雄著 『伊藤篤太郎 : 初めて植物に学名を与えた日本人』改訂増補版、八坂書房、2016年3月、ISBN 9784896941982、175-176頁、274頁。
  28. ^ 柳本直人」(内尾直二編輯 『第十四版 人事興信録 下』 人事興信所、1943年10月)。
  29. ^ a b 医学博士 久保武」(井関九郎監修 『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壱)』 発展社、1922年9月)。
  30. ^ 『太政官日誌』明治6年第22号、4頁。
  31. ^ 『太政官日誌』明治7年第139号、5頁
  32. ^ 『東京日日新聞』第2788号、1881年3月29日、1面。
  33. ^ 『官報』第210号、1884年3月14日、4頁
  34. ^ 『官報』第2254号、1891年1月7日、34頁
  35. ^ 『官報』第2550号、1891年12月28日、355頁
  36. ^ 『官報』第3009号、1893年7月11日、107頁

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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