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'''日本のダムの歴史'''では、[[日本]]における[[ダム]]の歴史を時代ごとに詳述する(全体を通した年表については[[日本ダム史年表]]参照)。 |
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'''日本のダムの歴史'''では、[[日本]]における[[ダム]]の歴史を時代ごとに詳述する。日本のダム事業史は[[616年]]頃に建設された[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]<ref>[http://www.city.osakasayama.osaka.jp/sosiki/seisakuchoseishitsu/kikakugurupu/sayamaikeguide.html 水面のある風景 狭山池ガイド](大阪狭山市サイト)</ref>より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。 |
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== 凡例 == |
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日本におけるダムの歴史は[[616年]]に完成した[[狭山池 (大阪府)|狭山池ダム]]より始まる。以降時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な事情も変わっていく。 |
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本記事では、[[1964年]](昭和39年)改訂の[[河川法]]・[[1976年]](昭和51年)施行の河川管理施設等構造令に準拠して'''高さ15[[メートル]]'''以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の高さを有する河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「[[堰]]」と表記する。また記事中における人物の肩書き、地域・自治体・組織・施設名は当時の名称を用い、「現在」という表記は[[2015年]](平成27年)を基準とする。全体を通した年表については[[日本ダム史年表]]を参照。 |
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==古代 |
== 古代から中世 == |
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日本におけるダム建設が何時頃から開始されたのかは、明確な資料がないために不明である。[[中国大陸]]より[[弥生時代]]に[[稲作]]が伝来し、[[水田]]や[[畑地]]に用水を供給するための[[灌漑]]技術が次第に浸透したが具体的に灌漑用の[[ため池]]に関する記述が登場するのは『[[古事記]]』と『[[日本書紀]]』であり、特に[[5世紀]]に入ると[[渡来人]]であった[[倭漢氏]]が土木技術において先進的な技能を有していたと記されている。[[仁徳天皇]]の時代に茨田(まんだ)堤や横野堤といった[[堤防]]が建設されたという伝承があり、渡来人または[[仏教]]を伝来した僧侶が中国大陸の最新土木技術を日本に伝え、次第にため池やダム建設技術が向上していったと考えられている<ref>『湖水を拓く』p.93</ref>。「日本最古のため池」とされている[[奈良県]][[奈良市]]に建設された[[蛙股池]](かえるまたいけ)は[[162年]]に建設されたという説と[[607年]][[推古天皇]]の治世下で建設されたという説があり、決着を見ていない<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=97&p=1 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(5)]2015年7月30日閲覧</ref><ref>『ダム年鑑 1991年版』pp.144-145</ref>。こうした古代におけるため池建設において、[[21世紀]]の今に残る[[河川法]]上の[[ダム]]として[[大阪府]]の'''[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]'''([[西除川]])と[[香川県]]の'''[[満濃池]]'''([[金倉川]])がある。 |
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=== 狭山池の建設 === |
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[[file:Sayamaike01.JPG|thumb|200px|日本最古のダム・[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]([[西除川]])。]] |
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狭山池は『日本書紀』の中で[[崇神天皇]]が詔を発して狭山池を建設した、また『古事記』で[[垂仁天皇]]が印色入日子命に命じて狭山池を建設させたという記事があったが<ref name="sayama1">[http://www.city.osakasayama.osaka.jp/gyosei/shinogaiyo/purofuiru/1410315788622.html 大阪狭山市『大阪狭山の歴史』]2015年7月30日閲覧</ref>、明確な建設時期は長らく不明であった。建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「[[平成]]の大改修」と呼ばれる狭山池[[ダム再開発事業]]が[[1980年]](昭和55年)から[[2001年]](平成13年)に掛けて施工された時であった。この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、[[洪水調節]]目的を持たせるというものであったがこの事業において発掘された木製の[[樋管]]を[[年輪年代学|年輪年代測定法]]で測定した結果、[[616年]]に伐採された木材であったことが判明。『古事記』・『日本書紀』の伝承は否定され少なくとも[[7世紀]]前半に建設されたという結論を得た<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1440 『ダム便覧』狭山池ダム(再)]2015年7月30日閲覧</ref>。完成した狭山池は[[645年]]の[[大化の改新]]により[[公地公民制]]を打ち出した[[大和朝廷]]によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。[[732年]](天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]の建立にも関わり、[[聖武天皇]]の信頼を得て[[大僧正]]にまで上り詰めた[[行基]]である<ref name="sayama1"/><ref name="sayama2">[http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/kousei.html 大阪府立狭山池博物館]2015年7月30日閲覧</ref>。しかし[[762年]](天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3,000人を動員して修復が行われた<ref name="sayama1"/>。その後狭山池は幾つかの記録に残され、[[清少納言]]は『[[枕草子]]』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している<ref name="sayama1"/>。 |
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[[鎌倉時代]]に入ると狭山池は[[1202年]](建仁2年)に大改修が実施されるが、この総指揮を執ったのは[[平重衡]]による焼き打ちに遭った[[東大寺]]の再建に尽力した[[重源]]である<ref name="sayama1"/><ref name="sayama2"/>。以後[[安土桃山時代]]まで狭山池に関する記録はなくなるが、[[江戸時代]]に入り再び大改修([[慶長]]の大改修)が行われた。[[関ヶ原の戦い]]で天下人の後継者から[[摂津国]]・[[河内国]]・[[和泉国]]68万石の[[大名]]に転落した[[豊臣秀頼]]の[[家老]]・[[片桐且元]]が[[奉行]]となって堰堤基礎の補強や樋管の交換がなされている<ref name="sayama1"/><ref name="sayama2"/>。[[豊臣氏]]が[[大坂夏の陣]]で滅亡した後狭山池は河内[[狭山藩]]主となった[[後北条氏]]が一旦支配するが、[[1699年]](元禄12年)から[[1721年]](享保6年)、および[[1749年]](寛延2年)に[[江戸幕府]]の[[天領]]となり再び国直轄ダムとなった。[[明治]]以降は[[1904年]](明治37年)、[[1926年]](大正15年/昭和元年)にそれぞれ改修され、2001年平成の大改修を経て現在に至る<ref name="sayama1"/>。狭山池は完成から1,400年以上経過しているが現役で運用されている日本最古のダムである。 |
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=== 満濃池の建設 === |
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[[File:Mannouike-3337-r1.jpg|200px|thumb|日本最大級の[[ため池]]で[[香川県]]最大のダム・[[満濃池]]([[金倉川]])。[[樋門]]は国の[[登録有形文化財]]。]] |
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満濃池は[[大宝 (日本)|大宝]]年間([[701年]]-[[704年]])に[[讃岐国]][[国司]]道守[[朝臣]]によって建設されたという記録(満濃池後碑文)が残っているが<ref>[http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/manno/p03.html 満濃池](大林組サイト)</ref>、[[818年]](弘仁9年)に[[洪水]]が原因で決壊した。当時の[[天皇]]である[[嵯峨天皇]]は[[821年]](弘仁12年)路[[真人]]浜継(みちのまひとはまつぐ)を築池使に任じて満濃池の修築を命じたが、浜継は修築に失敗した。事態を重くみた嵯峨天皇は信任する[[空海]](弘法大師)を築池別当として再度讃岐へ派遣した。空海は着任後約2-3カ月という短期間で修築を完成させた。この大改修によって再建された満濃池は周囲約8.25[[キロメートル]]、[[ダム#諸元|湛水面積]]約81[[ヘクタール]]という大規模な[[人造湖]]だった。しかし30年後の[[851年]](仁寿元年)再び洪水によって決壊、国司であった弘宗王が[[853年]](仁寿3年)に再建を果たしたものの、[[1184年]](元暦元年)5月1日に三度洪水で決壊した。これ以降満濃池は狭山池とは異なり、鎌倉時代の[[守護]]、[[室町時代]]の[[守護大名]][[細川氏]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に讃岐を支配した[[三好氏]]や[[長宗我部氏]]の何れも再建を手掛けず放棄した。池の跡地には次第に人が住むようになり、「池内村」という村落が形成された<ref name="mannou1">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3337 『ダム便覧』満濃池(再)]2015年7月30日閲覧</ref><ref name="mannou2">[http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/ike/iked28.htm 香川県『満濃池』]2015年7月30日閲覧</ref>。 |
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満濃池が再建されるのは実に江戸時代のことである。讃岐は[[豊臣秀吉]]の天下統一以降[[生駒氏]]が讃岐一国を領有していたが、[[1631年]](寛永8年)に[[高松藩]]17万石の第4代藩主である[[生駒高俊]]の代に至り満濃池は450年の時を経て再建された。しかし実際の指揮を執ったのは藩主である高俊ではなく、幕府の信任が厚く[[外祖父]]として高俊を後見していた[[伊勢国]][[津藩]]主・[[藤堂高虎]]であった。高虎自身築城の名手として土木技術に精通していたが、彼は[[1621年]](元和7年)家臣である[[西嶋八兵衛|西嶋八兵衛之友]]を高松へ派遣させた。当時若干26歳という若武者だった八兵衛だが、土木技術に秀でその才能は他藩にも聞こえていた。高松藩客臣として着任した八兵衛は相次ぐ災害で荒廃した領内を視察し、高虎の助言や藩重臣の協力を得て藩内の河川整備を開始する。手掛けた事業は多岐にわたるが特に大規模だったのが[[香東川]]の改修と満濃池の再建であり、[[1628年]](寛永5年)に着手した満濃池再建は3年という短期間で完成した。これにより33郡44村の農地が再び水の恩恵を受けることになった。八兵衛は満濃池のほか90か所におよぶため池も改修したが、灌漑だけでなく[[治水]]にも役立てる改修を行っており[[昭和]]以降の河川事業の基本となる[[河川総合開発事業]]の先駆をなすものであった<ref name="mannou2"/><ref>[http://www.pref.kagawa.lg.jp/tochikai/tameike/repair/nishijima.html 香川県農政水産部『ため池について』]2015年7月30日閲覧</ref>。八兵衛は[[1639年]](寛永16年)に役目を果たし帰藩、以後[[伊賀国|伊賀]]奉行などの藩要職を歴任したが高松藩生駒氏は藩重臣の内部抗争に端を発する[[生駒騒動]]が翌[[1640年]](寛永17年)に勃発し、その責めを負い[[改易]]された。讃岐は高松藩・[[丸亀藩]]・[[多度津藩]]に三分割され、高松藩内にある満濃池は藩の支配から離れて狭山池と同様に天領として幕府の直轄管理下に置かれた<ref name="mannou1"/>。 |
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その後も改修が行われるが[[1854年]](安政元年)7月9日に[[安政の大地震]]が発生してダム底を通る石造の樋管が破損したことが原因でダムが決壊。時期が[[幕末]]の動乱期に当たっており早急に再建できる状況下ではなかった。これを憂慮した榎井村[[庄屋]]・長谷川喜平治は私財を費やし再建に奔走したが事ならず無念の死を遂げた。高松藩家老松崎渋右衛門佐敏は榎井村の長谷川佐太郎や金剛寺村の和泉虎太郎と共に喜平治の志を継ぎ満濃池再建を目指したが、[[尊王攘夷派]]だった渋右衛門は志半ばで政敵の高松藩[[佐幕派]]に[[暗殺]]された。中心人物2名が相次いで非業の死を遂げたものの[[明治維新]]後に渋右衛門の遺志を受け継いだ[[倉敷県]]参事島田泰雄が佐太郎らへの支援を継続、[[1870年]](明治3年)にようやく再建された。満濃池はこの時点で貯水容量が584万6,000[[立方メートル]]という日本最大のダムであったが、[[1906年]](明治39年)、[[1930年]](昭和5年)の2度にわたるかさ上げを経て規模を拡張。[[1941年]](昭和16年)には現行規模に拡張する第3次かさ上げに着手、[[太平洋戦争]]による中断を挟みながら工事は続けられ[[1950年]](昭和25年)には[[昭和天皇]]が工事を視察するなど注目された大事業は[[1961年]](昭和36年)完成した<ref name="mannou1"/><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B4%8E%E6%B8%8B%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-1110237 コトバンク『松崎渋右衛門』]2015年7月30日閲覧</ref>。満濃池は日本最大級のため池として慢性的な[[水不足]]に悩む[[讃岐平野]]を潤している。 |
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=== 昆陽池と大門池 === |
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[[File:Koyaike pond Aerial photograph.jpg|thumb|200px|right|[[1979年]](昭和54年)の[[昆陽池]]<ref name="kokudo">{{国土航空写真}}</ref>。画面左上は天神川。]] |
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上記2ダム以外で古代から中世の日本ダム事業史において特筆されるものに、[[摂津国]]の[[昆陽池]](こやいけ)と[[大和国]]の大門池がある。 |
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昆陽池は[[兵庫県]][[伊丹市]]にあるため池であるが、このため池は狭山池や満濃池とは異なる目的を持っていた。昆陽池は[[武庫川]][[支流]]の天神川に隣接して建設されたが、この土地は西に武庫川、東に[[猪名川]]が流れ[[箕面川]]が合流する地点であり洪水常襲地帯であった。昆陽池は行基によって建設が進められたが、この地の灌漑に加えて洪水調節による治水を昆陽池の目的に据えて[[731年]](天平3年)に完成させた。昆陽池は[[治水ダム]]としても[[多目的ダム]]としても記録に残る日本最初の堰堤であり、流域の治水・[[利水]]に貢献した。昆陽池は1,300年近く経た現在、治水機能は無くなったものの[[上水道]]専用貯水池および[[公園]]として伊丹市が管理しており、[[阪神・淡路大震災]]では[[活断層]]上にあって強い揺れを受けたにも関わらず現役で運用されている<ref>『湖水を拓く』p.95</ref>。 |
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一方大門池は奈良県[[生駒郡]][[三郷町]]、[[信貴山]]の麓を流れる[[大和川]][[水系]]大門川に[[1128年]](大治3年)建設された灌漑専用のため池であるが、特筆されるのは完成時の高さが32.0メートルという屈指の規模で、これは[[紀元前240年]]頃[[趙 (戦国)|趙]]によって建設され当時高さ世界一であったグコーダム([[北宋]])の記録(30.0メートル)を破り世界最高の高さに躍り出た。この記録はその後[[14世紀]]末に[[スペイン]]のアルマンサダムによって破られるまで約300年間にわたり続いた<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.103</ref><ref>[http://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/dam/main/index.html#5 鹿島建設『建設博物館 ダム』]2015年7月30日閲覧</ref>。完成以来約900年間流域の農地を潤していたが、大門川の治水を目的に[[2012年]](平成24年)完成した大門ダムによって水没した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3130 『ダム便覧』大門ダム]2015年7月30日閲覧</ref>。 |
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== 中世・近世 == |
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鎌倉時代、続く[[室町時代]]は重源の狭山池改修以外に取り立ててダムを含む土木技術に関して特段の進歩はなかった。[[応仁の乱]]や[[明応の政変]]、[[関東地方]]における[[享徳の乱]]を契機に日本は[[室町幕府]]の統制力が衰微し、群雄割拠の時代に突入する。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]を通じて治水・灌漑整備が進み、停滞していた土木技術の発展に寄与した。[[富士川]](釜無川)における[[信玄堤]]築造や[[御勅使川]]治水事業のほか[[加藤清正]]・[[成富茂安]]・[[川村重吉]]などの土木技術に精通した戦国武将が登場し、彼らによって培われた技術はやがて江戸時代の大規模河川事業へと発展して行く。 |
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=== 軍事目的の堰堤 === |
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[[ファイル:Ootajo-ki12.jpg|thumb|200px|right|[[豊臣秀吉]]が築いた[[紀州征伐#太田城水攻め|太田城水攻め]]における堰堤の推定位置<ref name="kokudo"/>。右側より伸びる導水堤から[[紀の川]]の河水を流し、城周囲に建設された囲い堤内部に貯水する。]] |
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麻のように乱れた日本の平定に動いた武将として[[織田信長]]がいるが、信長は[[本能寺の変]]で[[明智光秀]]に殺害された。信長の遺志を継ぎ天下統一に乗り出し、[[1590年]](天正18年)に統一を果たしたのが[[豊臣秀吉]]である。秀吉の合戦は[[三木城]]や[[鳥取城]]における[[兵糧攻め]]が知られているが、兵糧攻めと共に用いた攻城方法として水攻めがあった。この水攻めにおいて軍事目的に特化した堰堤を建設している。[[1582年]](天正10年)、[[中国地方]]の大大名である[[毛利輝元]]の部将・[[清水宗治]]が籠る[[備中国]][[高松城 (備中国)|高松城]]を攻撃するに当たり、高松城が周囲を[[湿地]]帯に囲まれた要害であることを知った秀吉は付近を流れる足守川を利用した水攻めを企図した。[[黒田孝高]](官兵衛)の献策とされるこの[[備中高松城の戦い|高松城水攻め]]は高さ7.0メートル、堤頂長約3,000メートル、堤体下部幅約16.7メートルという堰堤を高松城周囲に短期間に建設し、足守川の水を引き入れることで低湿地にある高松城を浸水させるというものであった。水攻め中に本能寺の変が発生し秀吉は[[毛利氏]]と和睦、宗治は自刃して戦いは終結する<ref>[http://www.maff.go.jp/chushi/kj/okayamananbu/3/colum4.html 農林水産省中国四国農政局岡山南部農業水利事業所]2015年7月31日閲覧</ref>。光秀を討ち[[織田氏]]家中の第一人者として天下取りに邁進する秀吉は[[柴田勝家]]ら敵対勢力を滅ぼして行くが、[[徳川家康]]と結んで反抗的な姿勢を見せる[[根来寺]]や[[鈴木重意]]ら[[雑賀衆]]などを討つべく[[1585年]](天正13年)に[[紀州征伐]]を催した。この戦いにおいて[[紀伊国]]の[[国人]]衆・太田党が籠る[[太田城 (紀伊国)|太田城]]を攻撃([[紀州征伐#太田城水攻め|太田城水攻め]])する際にも秀吉は水攻めを用いた。水攻めで建設された堰堤の規模については諸説あるが、[[和歌山大学]]が[[土木工学]]の立場から各種史料を検討した調査によれば導水堤と囲い堤からなる長大な堰堤は高さ6.0メートル、堤体下部幅約30.0メートルの規模と推定され、[[紀の川]]や支流宮井川の河水を導水することで[[ダム#諸元|総貯水容量]]は両堤併せると同じ[[和歌山県]]にある[[山田ダム]](野田原川)を上回る389万4,000立方メートルになるとした。3月28日より開始された建設作業は4月5日にほぼ完了、途中堰堤が決壊するものの4月22日に太田城は開城した<ref>[http://ci.nii.ac.jp/els/110006998372.pdf?id=ART0008909902&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1438306676&cp= 宇民正ら『「太田城水攻め」の土木技術面からの見直し』]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1645 『ダム便覧』山田ダム]2015年7月31日閲覧</ref>。 |
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紀州征伐、[[四国征伐]]、徳川家康との講和、[[九州征伐]]を経て残された敵対勢力は関東を支配する[[北条氏政]]・[[北条氏直|氏直]]父子となり、1590年に秀吉は[[小田原征伐]]の号令を発した。この戦いにおいても秀吉は水攻めを用いている。[[武蔵国]][[忍城]](おしじょう)は後北条氏に従属する[[成田氏長]]の居城であったが、難攻不落の城であった。秀吉は[[石田三成]]に忍城を水攻めにするよう命じる([[忍城の戦い]])。三成は[[大谷吉継]]・[[長束正家]]などと共に軍勢を率いて忍城を包囲、6月5日より地形を検分した上で[[利根川]]・[[荒川 (関東)|荒川]]が形成した[[自然堤防]]を利用した全長約28キロメートルの堰堤([[石田堤]])を約1週間で建設し、利根川・荒川の河水を導水して忍城を水没・開城させる方針を採った。忍城では城主氏長が小田原城に籠城していたため氏長夫人や娘の[[甲斐姫]]、城代[[成田長親]]以下3,000の兵が防戦していたが標高の高い忍城は水攻めを受けても浸水せず、堤防の決壊で却って包囲する豊臣軍に損害が出るなど水攻めは失敗した。忍城は関東の北条方諸城が続々陥落する中で攻撃を凌ぎ、最終的には後北条氏の本拠・[[小田原城]]が7月6日に開城した後、氏長の説得によって7月16日に忍城は開城して戦いは終了した<ref>[http://www.city.gyoda.lg.jp/15/04/12/meisyo/osizyou/rekisi.html 行田市『忍城に関する歴史』]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/isidadutumi.html 行田市教育委員会『石田堤』]2015年7月31日閲覧</ref>。[[小説]]・[[映画]]『[[のぼうの城]]』で知られる忍城の戦いは水攻めの失敗例であるが、備中高松城・紀伊太田城に見られる水攻めは土木技術に通じた秀吉ならではの戦いであり、治水・利水には全く関係ない軍事目的のものとはいえ貯水池を形成する堰堤を短期間で建設したことは特筆される。 |
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なお、小田原征伐で滅亡した後北条氏の城郭群には、[[堀#城の堀|障子堀]]と呼ばれる独特の築城形態があった。[[1973年]](昭和48年)[[山中城]]復元整備中に発掘された障子堀は[[堀]]の底部に規則的な間隔で並べられた畝が存在するもので、江戸時代に刊行された山鹿流軍学書である『武教全書』によれば侵攻してきた軍勢の行動を阻害する本来の防衛目的に加え、平時には堀の水流調節や貯水を行うダム機能があったと解説されている<ref>『戦国の雄 早雲と北条一族』p.130</ref>。何れにしても、軍事目的で堰堤が建設されたのは安土桃山時代に集中しており、特異である。 |
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File:Kawazugahana Embankment site.jpg|[[備中高松城の戦い]]で建設された堰堤の一つ、蛙ヶ鼻堰堤。 |
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File:Ootajo-ki7.jpg|[[紀州征伐#太田城水攻め|太田城水攻め]]で建設された堰堤の一部。 |
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File:Kounosu Ishida Bank 1.JPG|[[忍城の戦い]]で[[石田三成]]が建設した[[石田堤]]。 |
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File:YamanakaJo ShojiBori.JPG|[[山中城]]の[[堀#城の堀|障子堀]]。 |
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=== 江戸時代の水利 === |
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[[File:Irukaike pond 1.JPG|200px|thumb|[[尾張藩]]の強力な支援によって完成した[[入鹿池]]([[五条川]])。]] |
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後北条氏滅亡後、旧領に封じられたのは徳川家康であった。家康は関東入国後一族や有力家臣を各地に配置すると同時に利根川・荒川の治水、灌漑整備に力を注いだ。[[関ヶ原の戦い]]で石田三成らを破り、[[1603年]](慶長8年)に[[征夷大将軍]]に叙されて江戸幕府を開くと、関東における治水・利水事業をさらに加速させるがこの一連の事業に中心的な役割を果たしたのが、[[伊奈忠次]]を祖とする[[関東郡代]][[伊奈氏]]であった。[[備前渠用水]]や[[葛西用水路]]など21世紀の今でも供用されている[[用水路]]の整備を手掛けた伊奈氏であるが、ダムや[[堰]]についても手掛けている。利根川中流域では[[埼玉県]][[さいたま市]]・[[川口市]]付近に存在していた自然の湖沼である見沼を[[寛永]]年間(1624年-1643年)に関東郡代[[伊奈忠治]](忠次の次男)が八丁堤という堰堤を建設して貯水量を増加させ、見沼溜井を完成させた。溜井とは河川を利用した貯水施設のことであるが、こうした溜井は葛西用水路でも建設され、[[大落古利根川]]の松伏溜井や[[琵琶溜井]]、[[元荒川]]の瓦曾根溜井などの溜井が建設され流域の農地に用水が供給された<ref>『利根川百年史』pp.366-367</ref>。また[[小貝川]]では「関東三大堰」と称される堰が建設されたが、[[1634年]](寛永11年)に完成した岡堰、[[1669年]](寛文9年)に完成した豊田堰、[[1722年]](享保7年)に完成した[[福岡堰]]は何れも溜井と同様に河道に貯水を行う形で建設された堰であった<ref>『利根川百年史』pp.368-369</ref>。見沼溜井は供給量の限界に伴い8代将軍・[[徳川吉宗]]の命により[[勘定吟味役]]である[[井沢弥惣兵衛|井沢弥惣兵衛為永]]が[[1728年]](享保13年)6月に[[見沼代用水]]を建設し、見沼は[[干拓]]された<ref>『利根川百年史』pp.373-374</ref>がそれ以外については新田開発に寄与している。 |
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一方、幕府が開かれて以降江戸の町は急速に人口が増加し、当時の[[ロンドン]]や[[パリ]]よりも多い100万人の人口を抱えるようになり[[上水道]]の供給も大きな課題となっていた。1590年、家康は[[大久保長安]]に命じて小石川上水を建設。[[1629年]](寛永9年)頃には[[井の頭池]]や[[善福寺池]]、[[妙正寺池]]を水源とする[[神田上水]]が、そして[[1653年]](承応2年)には[[多摩川]]を取水元とする[[玉川上水]]が完成して江戸の水需要を賄った。こうした用水路に加え、現在の[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]から[[港区 (東京都)|港区]][[赤坂]]付近には赤坂溜池というため池と虎ノ門堰堤という上水道専用堰堤があった。この地には元々濠があったが、堰堤を建設することで濠をせき止め貯水量を増加させて上水道を供給した。[[歌川広重]]の『[[名所江戸百景]]』に「虎ノ門外あふひ坂」図があるが絵の右側に水が越流する堰堤が描かれており、竹村公太郎はこの絵から堰堤の規模は高さ4.0メートル程度の石積み堰堤ではないかと推定している。虎ノ門堰堤・赤坂溜池は明治時代以降に消滅し現存しないが、[[溜池山王駅|溜池山王]]の地名にその名を残している<ref>[http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html 東京都水道局『玉川上水の歴史』]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://token.or.jp/magazine/g201105.html 東京建設業協会『キーマンが語るトウキョウ地図』第2回]2015年7月31日閲覧</ref>。 |
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関東以外でも農業用のため池が日本各地で建設されているが、代表的なものに[[愛知県]]の[[入鹿池]]([[五条川]])がある。当時の[[尾張国]]は家康の四男・[[松平忠吉]]が[[清洲城]]に封じられたが病死、その後九男・[[徳川義直]]が[[名古屋城]]を本拠として62万石を領有した。[[徳川御三家]]の一つである[[尾張藩]]であるが他藩と同様に新田開発を積極的に実施していた。既に伊奈忠次の指導監督下で尾張藩直轄事業として[[宮田用水]]が完成していたが、なおも残る[[小牧市|小牧]]周辺の農地灌漑を図るため、地元の[[郷士]]である江崎善左衛門ら[[入鹿池#入鹿六人衆|入鹿六人衆]]は新田1,000[[町歩]]開発を目的に大規模なため池建設を計画した。調査の結果、入鹿村地点に有力なダムサイトがあることが判明し当地に満濃池に匹敵する巨大なため池を建設することにした。善左衛門ら6名は尾張藩庁に建設許可申請を行うが、これに対し尾張藩は藩主・義直が[[鷹狩り]]と称して自ら現地に赴き実地検分を行い、藩として強力に事業を推進する決定を下した。入鹿池の建設工事は技術的な問題があって難航するが、河内より招聘した河内屋甚九郎という堤防建設の名手の指導で建設が進み、[[1633年]](寛永10年)に完成した。完成当時の高さは26メートル、長さは約180メートルという大規模なダムであり、完成によって小牧周辺の新田開発が進んだ<ref>[http://suido-ishizue.jp/nihon/12/06.html 農林水産省『水土の礎』木津用水と入鹿池]2015年7月31日閲覧</ref>。入鹿池は[[1868年]](慶応4年)5月14日に[[入鹿池#入鹿切れ|入鹿切れ]]というダム決壊事故を起こし、死者941名、負傷者1,471名、流失家屋807戸を出してダム事故としては日本最悪規模の大惨事となった<ref>[http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/owari/owa0050.htm 愛知県総合教育センター・愛知エースネット『入鹿切れ慰霊碑』]2015年7月31日閲覧</ref>が再建。[[1991年]](平成3年)には従来の灌漑目的に加え洪水調節目的を付加するダム再開発事業を実施し、満濃池と並ぶ日本最大級のため池となった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1242 『ダム便覧』入鹿池(再)]2015年7月31日閲覧</ref>。 |
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以上のように、古代から江戸時代までに建設されたダムは基本的に灌漑目的専用であり、ダムの[[ダム#諸元|型式]]も[[アースダム]]に限定されていた。[[コンクリートダム]]の登場は明治時代を待たねばならなかった。 |
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== 明治 == |
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[[1853年]](嘉永6年)6月3日、浦賀沖に[[マシュー・ペリー]]率いる[[アメリカ合衆国]]の艦隊が来航した。翌[[1854年]](嘉永7年/安政元年)に[[日米和親条約]]が締結されて国是であった[[鎖国]]政策が崩壊。[[1858年]](安政5年)に[[日米通商航海条約]]が締結されるにおよび日本国内は[[尊王攘夷運動]]の嵐が吹き荒れ、[[江戸幕府]]の権威は急速に低下。[[1868年]](慶応4年)1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]より始まる[[戊辰戦争]]という内乱を経て、日本は[[明治維新]]を迎えた。[[開国]]に伴い欧米の様々な最新知識が日本に導入されたが、ダムなどの土木技術のみならず後年ダムの建設目的となる電力・水道などの知識が導入され、「[[文明開化]]」の下次第に日本に普及していった。[[明治時代]]は、日本のダム事業史にとっても大きな転換期であった。 |
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=== 近代水道とダム === |
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[[ファイル:Nunobiki dam06bs3200.jpg|200px|thumb|日本初の[[コンクリートダム]]で建設後100年を超える[[布引五本松ダム]]([[生田川]])。国の[[重要文化財]]。]] |
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日米和親条約により[[下田市|下田]]と[[函館市|箱館]]、日米通商航海条約により箱館・[[横浜市|横浜]]・[[新潟市|新潟]]・[[神戸市|兵庫(神戸)]]・[[長崎市|長崎]]が開港した。その後も開港する都市は増え続け、貿易や人口の増加もこれに比例して増加していく。ところが人的交流の拡大は[[感染症]]伝播の危険性を高め、殊に[[上水道]]の衛生整備が不十分だった日本では水系感染症である[[コレラ]]や[[赤痢]]が流行した。特にコレラは無治療時の死亡率が60[[パーセント]]と高く<ref>『感染症事典』p.91</ref>、江戸市中や神戸などで多数の死者を出し「コロリ」と呼ばれて恐れられた。こうした水系感染症を防止するための衛生的観点と、度々都市を襲った[[火災]]による延焼被害を未然に防ぐための防災的観点から、近代水道整備の重要性が叫ばれた。[[1887年]](明治20年)横浜市において実施された[[相模川]]を水源とする水道事業が日本最初の水道事業であるが、[[1890年]](明治23年)には日本初の水道関連法規である水道条例が施行され、水道事業は原則市町村が所管することが定められ、以後相次いで水道事業が各都市で開始された<ref>『湖水を拓く』pp.96-97</ref><ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/kyoku/suidoujigyo/rekishi.html 横浜市水道局『横浜水道の歴史』]2015年7月31日閲覧</ref>。水道を安定的に供給するための水源が求められ、ダムによる水道用貯水池が建設されるようになった。 |
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水道用ダム建設を日本で最初に手掛けたのは長崎市である。[[1889年]](明治22年)の市制施行と同時に本格的な水道施設建設に着手した長崎市は、市内を流れる[[中島川]]水系に水源を求めた。[[1891年]](明治24年)、中島川上流部に[[アースダム]]である'''本河内高部ダム'''を完成させたがこのダムが日本最初の[[市町村営水道用ダム|上水道専用ダム]]である。本河内高部ダム完成により[[浄水場]]も整備され同年5月16日に市内へ給水が開始された。長崎市は水道事業の拡大を続け、[[1903年]](明治36年)には本河内高部ダムの直下に本河内低部ダム(中島川)を、翌[[1904年]](明治37年)には西山ダム(西山川)を建設して増大する水道需要に対処した<ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/150000/156000/p007132.html 長崎市『長崎市水道史年表』]2015年7月31日閲覧</ref>。また1890年にコレラが大流行して1,000人を超える死者を出した神戸市では[[1892年]](明治25年)より上水道事業に着手したが、市内を流れる[[生田川]]と[[湊川 (兵庫県)|新湊川]]に水源を求めた。[[1897年]](明治30年)神戸市は[[イギリス人]][[写真家]]でありながら[[帝国大学]]工科大学[[教授]]・[[内務省 (日本)|内務省]]衛生局顧問技師の職に在った[[ウィリアム・K・バートン]](バルトン)と日本人技師佐野藤次郎らの指導下、生田川上流部に'''[[布引五本松ダム]]'''の建設を開始。[[1900年]](明治33年)完成させて市内に給水を開始した。布引五本松ダムは高さ33.0メートルの[[重力式コンクリートダム]]であり、ここに初めて日本において[[コンクリートダム]]が建設された。また布引五本松ダム完成後の[[1901年]](明治34年)には新湊川の支流である石井川に立ヶ畑ダムの建設が開始され、[[1905年]](明治38年)に完成した。立ヶ畑ダムも重力式コンクリートダムであるが、曲線を描いた堤体である<ref>『湖水を拓く』p.97</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1464 『ダム便覧』布引五本松ダム(元)]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1465 『ダム便覧』立ヶ畑ダム]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://www.jca.apc.org/jade/barton/ba150.htm#ba_asiato 特定非営利活動法人日本下水文化研究会『W・K・バルトン略伝』]2015年8月9日閲覧</ref>。長崎市・神戸市の例を見る通り、水道事業の進展はそれまでアースダムしか建設されなかった日本においてコンクリートダムの建設技術が導入された画期的な出来事であり、布引五本松、本河内低部、西山、立ヶ畑の順に続々と完成している。 |
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市営水道のほか、[[大日本帝国海軍]]も[[軍港]]の整備に伴って需要が高まった上水道を整備した。このうち[[青森県]][[糠部郡]][[大湊村]]([[むつ市]])に設置された海軍[[大湊要港部]]は軍港に水道を供給するため、付近を流れる宇田川に水道用の堰堤を建設した。[[旧海軍大湊要港部水源地堰堤|大湊第一水源地堰堤]]である。[[1909年]](明治42年)に完成したこの堰堤は、高さ7.0メートル、総貯水容量5,000立方メートルと極めて小規模な堰堤であるが、日本で最初に完成した[[アーチ式コンクリートダム|アーチ式堰堤]]である。設計者は当時海軍[[横須賀鎮守府]]建築科長・海軍技師の職に在った[[桜井小太郎]]であり、後に[[丸の内ビル|旧丸の内ビル]]の設計も手掛けている<ref name="ominato">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/SAll.cgi?db3=501 『ダム便覧』大湊ダム]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/181 土木学会選奨土木遺産『大湊第一水源地堰堤』]2015年7月31日閲覧</ref>。また、[[舞鶴鎮守府]]では高さ12.4メートルの桂貯水池堰堤を1901年に完成させ、給水を開始した。桂貯水池堰堤は[[1921年]](大正10年)に完成した岸谷貯水池堰堤と共に21世紀の今も[[舞鶴市]]の水道水源地として利用されており、布引五本松ダムや大湊第一水源地堰堤共々国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>[http://www.suido.maizuru.kyoto.jp/jigyo/bunkazai.html 舞鶴市水道部『水道事業の紹介』]2015年8月1日閲覧</ref><ref name="ominato"/>。 |
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=== 最新技術の紹介 === |
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このように、水道事業の発展に連動するように日本のダム技術も急速に発展したが、これに先立つこと[[1882年]](明治15年)欧米のダム技術を日本に紹介した人物がいる。戊辰戦争の最終戦である[[箱館戦争]]を[[榎本武揚]]や[[土方歳三]]らと戦い抜いた旧幕臣・[[大鳥圭介]]である。当時[[工部省]]工部[[技監]]の職に在った大鳥はアメリカ・[[オハイオ州]][[スプリングフィールド (オハイオ州)|スプリングフィールド]]で刊行された "Construction of Mill Dams" というダム関連の専門書を何らかの方法で入手し[[翻訳]]、4月に[[丸善]]より『堰堤築法新按』として出版した。内容はアメリカのダム建設工程を[[挿絵]]などを用いて初心者にも分かり易くかつ詳細に記し、建設図面も原本で掲載した本格的な土木工学専門書である。この本を出版するに当たり、[[勝海舟]]と[[伊藤博文]]が推薦文を載せている<ref>『湖水を拓く』pp.100-101</ref>。こうした国外最新技術の紹介のほか、バートンを始め[[ファン・ドールン]]、[[ローウェンホルスト・ムルデル]]など当時多数来日した「[[お雇い外国人]]」達が日本人に土木技術を伝え、ダムのみならず日本の河川改修に多大な影響を与えた。また当時完成した水道用ダムのほとんどは21世紀の今も現役で供用されており、本河内高部ダム・低部ダムは[[1982年]](昭和57年)の[[昭和57年7月豪雨|昭和57年7月豪雨(長崎大水害)]]、布引五本松ダム・立ヶ畑ダムは[[1995年]](平成7年)の[[阪神・淡路大震災]]という激烈な[[自然災害]]を経験しても致命的な損害を受けなかった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=229 『ダム便覧』長崎大水害と長崎水害緊急ダム事業]2015年7月31日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3330 『ダム便覧』布引五本松ダム(再)]2015年7月31日閲覧</ref><ref group="注">長崎大水害を契機に本河内高部・低部ダム、西山ダムはダム再開発事業を行い洪水調節目的を加えた多目的ダムとなったが、旧堤体は保存されている。</ref>ことは、建設技術の高さを示している。また明治時代の経験が、[[大正時代]]の本格的なダム建設ブームに繋がってゆく。 |
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File:42-長崎・本河内高部ダム(旧).JPG|日本初の[[市町村営水道用ダム|上水道専用ダム]]、本河内高部ダム([[中島川]])旧堤体<ref group="注">長崎水害緊急ダム事業に伴う本河内高部ダム再開発(治水目的追加)により直上流部に重力式コンクリートダムを建設し機能を移行した。画面手前は新ダムの余水吐。</ref>。 |
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File:Hongochi-teibu Dam.JPG|日本で2番目に完成した[[重力式コンクリートダム]]、本河内低部ダム(中島川)。 |
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File:Old Nishiyama Dam.JPG|日本で3番目に完成した重力式コンクリートダム、西山ダム(西山川)旧堤体<ref group="注">長崎水害緊急ダム事業に伴う西山ダム再開発(治水目的追加)により貯水池内に水没したが、堤体は保存されている。</ref>。 |
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File:Ominato Ⅰ suigenchi weir.jpg|日本初の[[アーチ式コンクリートダム|アーチ式堰堤]]、[[旧海軍大湊要港部水源地堰堤|大湊第一水源地堰堤]](宇田川)。国の[[重要文化財]]。 |
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File:Keisuke Otori 2.jpg|日本初のダム専門書を翻訳・出版した[[大鳥圭介]]。 |
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== 大正 == |
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[[布引五本松ダム]]([[生田川]])に始まる[[コンクリートダム]]の建設は、日本人にダム建設の技術革新をもたらしこれ以降事業者はコンクリートダムを日本各地で計画するようになる。一方、[[殖産興業]]政策が軌道に乗った日本は国力を次第に高めて行った。[[日清戦争]](1894年-1895年)や[[日露戦争]](1905年-1906年)を通じ日本では[[重工業]]が発展するが、重工業の発展は水道需要のみならず[[電力]]需要の増大をもたらした。これらを背景に日本では[[電力会社]]が次々と各地で誕生し電気事業が活発に行われ、[[1911年]](明治44年)には[[電気事業法]]が成立した。[[大正時代]]のダム事業はこの電気事業を抜きには語ることができない。電気事業の発展は、日本のダム技術を大きく花開かせる契機になった。 |
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=== 電気事業とダム === |
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[[File:Oi Dam(2008).jpg|thumb|200px|大正時代最大級のダム事業だった[[大井ダム]]([[木曽川]])。左側建屋は[[関西電力]]大井発電所。]] |
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日本の電気事業は[[1886年]](明治19年)7月の[[東京電燈]]設立を最初とし、[[1887年]](明治20年)には日本橋周辺に電力供給を開始している<ref>『飛騨川 流域の文化と電力』p.510</ref>。[[水力発電]]事業は[[1888年]](明治21年)[[宮城県]]において紡績工場に電力を供給するための[[三居沢発電所]]運転開始が日本初であり、翌[[1890年]](明治23年)には[[足尾銅山]]の[[精錬]]事業に電力を供給する間藤原動所が運転を開始する。しかし前二者は自家用であり商業用としては[[1892年]](明治24年)に[[田辺朔郎]]が[[琵琶湖疏水]]を利用して建設した[[京都府]]の蹴上発電所が第一号であり、[[京都市]]に[[路面電車]]を走らせた。それまでの水力発電は概ね小規模に留まり、ごく簡単な取水用[[堰#固定堰|固定堰]]で事足りていた。日清・日露戦争を経て重工業の発展や一般家庭への電力供給といった電力需要の急増はより大容量での水力発電が必要となり、発電所から都市へ送電するための長距離高圧送電技術と並行して[[調整池]]を有する規模の大きなダム、特に[[重力式コンクリートダム]]を建設するようになった<ref>『湖水を拓く』pp.97-99</ref>。 |
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その端緒となったのが[[栃木県]]に[[1912年]](大正元年)完成した高さ28.7メートルの'''[[黒部ダム (栃木県)|黒部ダム]]'''([[鬼怒川]])である。[[鬼怒川水力電気]]が[[首都圏]]方面への送電を目的に建設したこのダムは日本で5番目に建設された重力式コンクリートダムであるだけでなく、日本初となる[[電力会社管理ダム|発電用コンクリートダム]]であった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0556 『ダム便覧』黒部ダム]2015年8月1日閲覧</ref>。続いて東京電燈は[[1907年]](明治40年)に運転開始した駒橋発電所に続く発電所として下流に八ッ沢発電所を計画、その調整池として[[上野原市|上野原]]を流れる[[相模川]]支流の谷田川に大野ダムを建設した。大野ダムは高さ37.3メートルの[[アースダム]]であるが、[[1914年]](大正3年)の完成時日本一の高さを有した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0955 『ダム便覧』大野ダム]2015年8月1日閲覧</ref>。[[北海道]]では[[王子製紙]]が苫小牧工場の電力需要を満たすため、不凍湖であった[[支笏湖]]の莫大な水量を利用すべく[[藤原銀次郎]]が中心となって支笏湖と流出する河川である[[千歳川]]の開発を計画。[[1904年]](明治37年)に[[王子製紙#千歳発電所|千歳第一発電所]]を建設した。取水堰堤として建設された千歳第一堰堤はコンクリート堰堤としては北海道初であったが、王子製紙は千歳川流域の電力開発をさらに推進。[[1918年]](大正7年)に[[王子製紙#千歳発電所|千歳第三ダム]]を完成させた。千歳第三ダムは高さ23.6メートルの重力式コンクリートダムで、北海道で初めて建設されたコンクリートダムとなった<ref>『北海道のダム 1988』pp.98-101</ref>。[[北陸地方]]では新潟電力が[[新潟県]]の[[加治川]]に当時重力ダムとしては高さ日本一の飯豊川第一ダムを[[1915年]](大正4年)に建設<ref>『日本大堰堤台帳』pp.13-16</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0717 『ダム便覧』飯豊川第一ダム]2015年8月9日閲覧</ref>。[[近畿地方]]では[[宇治川電気]]が[[淀川]]本流、通称宇治川に高さ29メートルの大峯ダムを[[1924年]](大正13年)に完成させ<ref>『日本大堰堤台帳』pp.81-83</ref><ref group="注">志津川ダムとも呼ばれた。1964年に天ヶ瀬ダムが直下流に完成したことで水没し、非現存。</ref>、[[中国地方]]では山陽中央電気が[[広島県]]に[[帝釈川ダム]]([[帝釈川]])を1924年完成させた。帝釈川ダムは[[名勝]]・[[帝釈峡]]に建設され、中国地方で最初のコンクリートダムとなったが完成時の高さ56.4メートルは、当時日本一の高さであった<ref>『日本大堰堤台帳』p.113</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1930 『ダム便覧』帝釈川ダム(元)]2015年8月1日閲覧</ref>。 |
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このように日本各地で盛んに建設された発電用コンクリートダムの中で、日本のダム事業史に特筆されるものとして[[岐阜県]]の'''[[大井ダム]]'''([[木曽川]])がある。日本有数の大河川である木曽川の本流にダムを建設するこの事業は、[[福沢諭吉]]の[[養子]]で[[大同電力]]社長職に在った[[福沢桃介]]により手掛けられた。[[1921年]](大正10年)7月より着工された建設事業は木曽川本流の膨大な[[洪水]]などに阻まれ難航、さらに[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]に発生した[[関東大震災]]で資金調達が滞り事業継続が危ぶまれるなど度重なる困難に直面した。桃介は渡米して大同電力の[[社債]]を売り出すことで資金を調達、また女優・[[マダム貞奴]]の援助などを得て事業を進めた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から4名の土木技術者を招聘して工事を進め、[[津軽ダム#施工|半川締切方式]]の採用、[[ボーリング調査]]の導入など日本初の手法を用いて難工事に対処、総事業費1,952万円(当時)の巨費と従事者数延べ146万人という莫大な投資を行い31名の[[殉職]]者を出して1924年完成した。高さ53.4メートル、[[ダム#諸元|総貯水容量]]2,940万立方メートルは完成当時日本最大級のダムであり、ダムに付設された大井発電所(出力4万2,900キロワット)は当時[[愛知県]]全県の電力需要の半分を賄える電力量に相当した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1057 『ダム便覧』大井ダム]2015年8月1日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=486 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(68)]2015年8月1日閲覧</ref><ref>『湖水を拓く』p.99</ref>。さらにダムにより[[恵那峡]]という新たな観光地も誕生する。桃介は大井ダム完成後、大井ダム上流の木曽川本流に[[落合ダム]]を[[1926年]](大正15年)11月に完成させ、木曽川水系の電力開発に道筋を付けた<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1059 『ダム便覧』落合ダム]2015年8月1日閲覧</ref>。大井ダムを始めとする発電用ダムの完成により、大都市への長距離送電技術の向上と相まって東京・大阪などへの本格的な電力供給が可能になった。 |
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[[市町村営水道用ダム|水道専用ダム]]も明治に引き続きコンクリートダムの建設が続けられ、まず1918年に[[大日本帝国海軍]]は[[呉海軍工廠]]への水道供給を目的として[[本庄ダム]]([[二河川]])を建設、完成当時は東洋一と称された<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1923 『ダム便覧』本庄ダム]2015年8月9日閲覧</ref>。続いて[[神戸市]]は[[1919年]](大正8年)[[千苅ダム]]([[羽束川]])を完成させ<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1467 『ダム便覧』千苅ダム]2015年8月9日閲覧</ref>、[[福岡市]]は1923年曲渕ダム([[室見川]])を完成させた<ref>[http://www.city.fukuoka.lg.jp/mizu/somu/0066.html 福岡市水道局『福岡市水道のあゆみ』]2015年8月9日閲覧</ref>。[[長崎市]]は1926年3月に小ヶ倉ダム([[鹿尾川]])を完成させたが、小ヶ倉ダムは完成当時日本最大の高さを有する水道専用ダムとなった<ref>『日本大堰堤台帳』pp.133-136</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2589 『ダム便覧』小ヶ倉ダム]2015年8月9日閲覧</ref><ref group="注">長崎県には同名の小ヶ倉ダムが別な場所にある。もう一つの小ヶ倉ダムは[[諫早市]]に1975年完成したアースダムである。</ref>。また[[工業用水道]]専用ダムとして、[[八幡製鐵所|官営八幡製鐵所]]([[新日鐵住金]]八幡製鐵所)が1919年より施工を開始し[[1927年]](昭和2年)に完成させた[[河内ダム|河内ダム(河内貯水池)]]は建設当初東洋一であった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3616 『ダム便覧』河内ダム]2015年8月9日閲覧</ref>。 |
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このように大正時代はコンクリートダムの建設が積極的に進められ、ダムの高さに関しては次々に日本一の記録が破られた。ダム建設技術はさらに向上して昭和にはより大規模なダム建設が進められて行く。 |
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File:Kurobe-556-r1.JPG|日本初の[[電力会社管理ダム|発電用コンクリートダム]]、[[黒部ダム (栃木県)|黒部ダム]]([[鬼怒川]])。 |
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File:Ono Dam(Yamanashi prefecture).jpg|完成当時日本一の高さだった大野ダム(谷田川)。国の[[重要文化財]]。 |
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File:Honjo dam.jpg|[[呉海軍工廠]]に水道を供給し、戦後[[呉市]]に移管された[[本庄ダム]]([[二河川]])。国の重要文化財。 |
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File:Sengari dam.JPG|[[神戸市]]に[[上水道]]を供給する[[千苅ダム]]([[羽束川]])。国の[[登録有形文化財]]。 |
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File:Fukuzawa Momosuke 57-year-old.jpg|大井ダム工事現場での[[福沢桃介]]。当時57歳。 |
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=== 稀少なダム型式 === |
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[[File:Sasanagare Dam.jpg|200px|thumb|日本初の[[バットレスダム]]、[[笹流ダム]](笹流川)。[[土木学会選奨土木遺産]]。]] |
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[[File:Hounenike Dam-01.jpg|200px|thumb|日本唯一の五連[[マルチプルアーチダム]]、[[豊稔池ダム]](柞田川)。国の[[重要文化財]]。]] |
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大正時代のダム事業の特徴として挙げられるものの一つに、日本では稀少な[[ダム#型式|型式]]を採用したダムの建設がある。その稀少なダム型式とは[[バットレスダム]]と[[マルチプルアーチダム]]である。 |
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バットレスダムとは貯水池から掛かる[[水圧]]を[[鉄筋コンクリート]]の遮水壁で受け、その遮水壁を複数の[[バットレス]](扶壁)と横桁によって支えることでダムの安定性を保つ型式のダムであり、扶壁ダムとも呼ばれる。日本初のバットレスダムは[[函館市]]の笹流(ささながれ)川に1923年完成した'''[[笹流ダム]]'''である。函館市は横浜市に次いで日本で2番目に上水道事業を行った都市であるが、元々大きな河川が無い上に人口が急速に増加したことで深刻な水不足に悩まされており、大正時代に入ると連日6時間から12時間断水が行われる有様であった。[[1916年]](大正5年)議会はより確実な上水道供給を図るため第二次水道拡張事業を決定し、その根幹事業として[[亀田川]]の支流である笹流川にダムを建設する計画を立てた。1921年に着工した笹流ダムであるが、設計を担当したのは函館出身の[[建築家]]である小野基樹であった。小野は当時極めて高価な資材であった[[コンクリート]]を節減するため、バットレスダムを笹流ダムの型式として採用した。後に小野は1924年の[[土木学会]]誌において「従来のダム建設は膨大な資材と日数を費やす極めて不経済な方法を採っている。バットレスダムは安全堅固で、構成する資材を減らすことで工事費や工期を最小限にできる優越な工法」と主張している。函館の大火に起因する[[セメント]]工場の操業停止による工事中断や、関東大震災による資材の到着遅延など工事は困難を極めたが1923年に完成した。以降コンクリートの凍害などに対応するため[[1949年]](昭和24年)と[[1984年]](昭和59年)の二度修理が行われた。このうち1984年の修理ではバットレス間をコンクリートで埋めて重力式コンクリートダムにする計画案もあったが、歴史的に貴重なダムを改変することを回避。繁雑ではあるがバットレスダムのまま修理を実施した。なお小野は後年[[東京都水道局|東京市水道局]]長として[[小河内ダム]]([[多摩川]])の建設事業に携わった<ref>『北海道のダム 1988』pp.134-135</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0014 『ダム便覧』笹流ダム]2015年8月1日閲覧</ref><ref>[http://www.hk.hkd.mlit.go.jp/deji/history/s_4.html 国土交通省北海道開発局函館開発建設部『土木遺産シリーズ』]2015年8月1日閲覧</ref>。 |
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バットレスダムはその後1927年[[岡山県]]に[[恩原ダム]](恩原川)、[[1929年]](昭和4年)[[富山県]]に[[真川ダム|真川調整池]](牛首谷川)と[[真立ダム]](マッタテ川)、[[1931年]](昭和6年)[[群馬県]]に[[丸沼ダム]](大滝川)そして[[1936年]](昭和11年)[[鳥取県]]に[[三滝ダム]](三滝川)が建設された。しかしバットレスダムはコンクリートの量こそ節減可能であるが、構造が複雑であるため[[型枠]]を造るための[[人件費]]が高騰する上、薄い部材は[[気象]]の影響を受け易いことから完成後の[[メンテナンス]]も頻繁に実施しなければならないというデメリットがあった。しかも当時は高価だったコンクリートが次第に廉価になるに従い、相対的に不経済になることから三滝ダムを最後に日本では全く建設されなくなった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=603 『ダム便覧』ダム温故知新(第17回)]2015年8月1日閲覧</ref>。また上記のダムのほかに[[新潟県]]に[[高野山ダム]]、[[長野県]]に小諸発電所第一調整池というバットレスダムも存在していたが、高野山ダムは[[1971年]](昭和46年)に[[ダム再開発事業]]が行われて[[ロックフィルダム]]に変更<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0759 『ダム便覧』高野山ダム]2015年8月1日閲覧</ref><ref>『ダム総覧 1976年版』pp.62-63</ref>、小諸発電所第一調整池は[[1928年]](昭和3年)に7名の死者を出した[[杉の木貯水池#旧第一調整池決壊事故|小諸発電所第一調整池決壊事故]]後に撤去され<ref>『千曲川電力所のあゆみ』p.37</ref><ref group="注">調整池自体は近くの場所にアースダムとして再建。通称[[杉の木貯水池]]として供用され、旧調整池跡は公園になっている。</ref>何れも現存しない。日本では8か所建設され6か所が現存する稀少な型式であり、日本最大規模のバットレスダムである丸沼ダムは国の重要文化財<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0595 『ダム便覧』丸沼ダム]2015年8月1日閲覧</ref>、恩原ダムは国の[[登録有形文化財]]に登録され<ref>[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/118864 文化庁『文化遺産オンライン』平作原発電所恩原貯水池]2015年8月1日閲覧</ref>、残りも[[土木学会選奨土木遺産]]に認定されている。 |
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一方マルチプルアーチダムであるが、日本では[[香川県]][[観音寺市]]の柞田(くにた)川に建設された'''[[豊稔池ダム]]'''が初の例である。[[満濃池]]を筆頭に数多くのため池がある香川県は慢性的な水不足に悩む土地柄であり、安定した用水の供給が絶えず求められていた。香川県は用排水改良事業を県西部の柞田川流域で実施する方針を打ち出し、柞田川上流にダムを建設して下流農地に農業用水を供給する計画を立てた。これが豊稔池ダムであり、当初重力式コンクリートダムとして計画したところ、基礎岩盤が当初の計測よりも深い位置にあったことから型式を当時アメリカで最先端のダム技術であったマルチプルアーチダムに変更した。1926年3月より開始されたダム建設の設計指導は日本初のコンクリートダム・布引五本松ダムの設計・建設に携わった佐野藤次郎が担当し、技師2名が参加。毎晩講習会を開いて技術者を養成しながら地元民を中心に延べ15万人を動員する工事を行い、4年の歳月を費やして[[1930年]](昭和5年)完成した。豊稔池ダムは老朽化対策のため[[1994年]](平成6年)にダム再開発事業を実施したが、地元住民から「外観を変えないで欲しい」という要望が多かったことから、景観や外観を損なわないように上流面中心の補修を実施した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3048 『ダム便覧』豊稔池ダム(再)]2015年8月1日閲覧</ref>。再開発終了後、ダムは日本唯一の五連マルチプルアーチダムという稀少性や農業史的に重要であるなどの理由で[[2006年]](平成18年)に国の重要文化財に指定された<ref>[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158595 文化庁『文化遺産オンライン』豊稔池堰堤]2015年8月1日閲覧</ref>。なお日本のマルチプルアーチダムは豊稔池ダム以外では[[1961年]](昭和36年)[[宮城県]]で完成したダブルアーチダムの[[大倉ダム]]([[大倉川 (宮城県)|大倉川]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0292 『ダム便覧』大倉ダム]2015年8月1日閲覧</ref>のみで、日本では2か所しかなくバットレスダムよりもさらに稀少である。 |
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File:Onbara-1852-r1.JPG|[[恩原ダム]](恩原川)。国の[[登録有形文化財]]。 |
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File:Magawa-dam.jpg|[[真川ダム|真川調整池]](牛首谷川)。土木学会選奨土木遺産。 |
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File:Mattate-dam.jpg|[[真立ダム]](マッタテ川)。土木学会選奨土木遺産。 |
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File:Marunumadam-2005-10-28 10-33-48 Fri -1130463228-.01.jpg|日本最大のバットレスダム、[[丸沼ダム]](大滝川)。国の重要文化財。 |
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File:Mitaki Dam lake survey 1974.jpg|日本最後のバットレスダム、[[三滝ダム]](三滝川)空撮。土木学会選奨土木遺産<ref name="kokudo"/>。 |
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=== 慣行水利権者との争い === |
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[[File:Imawatari Dam survey 1982.jpg|200px|thumb|[[宮田用水]]事件を解決に導いた[[今渡ダム]]([[木曽川]])空撮<ref name="kokudo"/>。]] |
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[[File:Komaki-816-r1.JPG|200px|thumb|[[小牧ダム#庄川流木争議|庄川流木事件]]の舞台となった[[小牧ダム]]([[庄川]])。国の[[登録有形文化財]]。]] |
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こうして大正時代のダム事業は主に電気事業者が中心となって日本各地にダムを建設していった。しかし、水力発電のために河川から取水することで下流の水量が減少し農業用水、あるいは当時盛んに実施されていた[[流木]]に対する影響が表面化した。[[1896年]](明治29年)に日本初の河川関連法規である[[河川法#旧河川法制定|旧河川法]]、1911年には電気事業法が成立したがこれらの法律では対応し得ない状況であり、江戸時代以前より農業用水を取水している農民や[[林業]]を営む流木業者が持つ[[慣行水利権]]と電気事業者が獲得した新規発電用水利権が衝突する例が発生した。 |
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この時期の農業に関する慣行水利権者と電気事業者の対立として知られるのが'''宮田用水事件'''である。[[宮田用水]]は[[徳川家康]]が[[御囲堤]]の建設を[[伊奈忠次]]に命じた[[1608年]](慶長13年)にその歴史を遡る。当初は御囲堤によって従来使用していた農業用水取水口が閉鎖されることに対する代替事業の性格があったが、その後長期間を掛けて整備された農業用水であり、[[木津用水|木津(こっつ)用水]]と並んで[[濃尾平野]]南部約1万7,000[[ヘクタール]]の主要な水源となっていた。1924年8月16日に大井ダムは貯水を開始したが、宮田用水組合はこの時期は灌漑期間中であるから9月下旬まで貯水開始を遅らせて欲しいと事前に要望していた。ところが大同電力は組合に無断で貯水を開始したことから下流の農地では折からの[[旱魃]]もあって取水量が減少して農民は大混乱を来たし、流域各所で水争いが頻発した。組合側はこれを福沢桃介ら大同電力の暴挙と厳しく非難、下流水利権の保護を強力に要請した。当初大同電力は大井発電所使用許可における付帯命令書で下流水利権への支障がある場合は関係者と協議して適当な対策を講じることという条項があったため、木曽川に仮堰を設置して用水取水を円滑にする対策を採っていた。しかし仮堰の設置に掛かる費用が重くなり1929年1月に仮堰設置負担金の支払いを拒否した。このため再度取水量が不安定になり下流域の農地では流血を伴う水争いや[[小作争議]]にまで発展する事態になった。宮田用水組合と木津用水組合は水利権の許認可を持つ岐阜県を始め[[愛知県]]や河川行政を監督する[[内務省 (日本)|内務省]]、電力行政を監督する[[逓信省]]、農政を監督する[[農林省]]に対し繰り返し[[陳情]]書や意見書を提出した。1930年より[[愛知県知事]]が調停に立つ姿勢を見せ、[[1933年]](昭和8年)には両組合が大井ダム下流に逆調整池を建設して木曽川の水量を一定にするよう陳情書を提出したことから事態は動き出す<ref>『木曽三川流域誌』pp.415-418,pp.472-474</ref>。 |
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逆調整池とは発電用ダムの[[放流 (ダム)|放流]]によって下流の河川水量が不均等になることで起こる弊害を防ぐため、ダムを建設して上流からの放流水を貯水することで水量を貯水池で調整し(逆調整)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/JitenKM.cgi?id=291 『ダム便覧』ダム事典(用語・解説)]2015年8月2日閲覧</ref>、下流には均等な水量を放流して水位の変動による影響を最小限に抑える目的をもったダムのことである。当時大同電力と、[[飛騨川]]流域の電力開発を進めていた[[東邦電力]]は奇しくも同じ地点に逆調整池の建設計画を進めていた。この逆調整池が[[今渡ダム]](木曽川)である。木曽川と飛騨川の合流点直下に建設するこのダムによって、大井ダムのみならず飛騨川上流の水力発電所から放流される水量も調節できることで急速に計画が具体化。大同・東邦両電力は愛岐水力という[[合弁会社]]を設立して[[1935年]](昭和10年)より今渡ダムの建設を進め、[[1939年]](昭和14年)に完成する。しかし放流する水量を巡る意見の相違が解決せず、戦時中の[[1942年]](昭和17年)5月に至り灌漑期間中の条件付きではあるが毎秒100[[立方メートル]]の放流が義務付けられたことで、都合20年近くにおよぶ争議は解決した<ref>『木曽三川流域誌』pp.610-616</ref>。 |
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一方流木に関する慣行水利権者と電気事業者との対立として知られるのが'''[[小牧ダム#庄川流木争議|庄川流木事件]]'''である。[[1917年]](大正6年)、[[日本電力]]の子会社である庄川水力電気社長・[[浅野総一郎]]は[[庄川]]本流に[[小牧ダム]]を建設するため、富山県に発電用水利権の許可申請を提出。2年後の1919年に許認可が下りて[[1925年]](大正14年)に小牧ダムの建設に着手した。しかし庄川本流にダムを建設することで、飛騨・[[五箇山]]方面からの流木が途切れることで木材運搬と従事する労務者の生活に多大な支障が出ること危惧した飛州木材はダム建設に反対、1926年10月5日にダム建設差し止めの[[仮処分申請]]を[[裁判所]]に提出した。この争議において中心的な役割を果たしたのは、飛州木材[[専務取締役]]で、終戦時に[[近衛文麿]]や[[中野正剛]]、[[宇垣一成]]らと共に終戦工作に奔走した平野増吉であった。平野は1927年12月31日にある人間の仲介で浅野総一郎と面談したが、席上浅野は「流木が流れないから発電工事に故障を申し立てるのは怪しからん」と出会い頭に放言、さらに「君の山には木が何本あって、一本幾らだ。山ぐるみ残らず買ってやるから値段を言いなさい。[[名古屋市|名古屋]]での相場で買ってやる」と高飛車な態度に終始した。 |
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その後庄川水力電気と飛州木材の対立は先鋭化して法廷闘争や流血事件に発展、中野正剛[[逓信大臣]]の調停も失敗に終わるなど泥沼であった。膠着した事態が動くのは1930年10月、[[大阪地方裁判所]]で行われた堰堤仮排水路締切禁止の仮処分申請を巡る[[民事訴訟]]であり、大阪地裁は飛州木材の流木権を認め、庄川水力電気の横暴を戒める一方で双方の和解を勧告した。民事訴訟は取り下げられ、同時期に行われた[[行政訴訟]]は敗訴したものの庄川水力電気が木材会社の株式取得や流木業者の失業補償、さらに[[国道156号]]の原型となる「百万円道路」建設などを行うことで[[1933年]](昭和8年)8月に全面解決を見た<ref name="shogawa">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=321 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【27】]2015年8月1日閲覧</ref>。なお飛州木材は飛騨川筋においても、瀬戸第一発電所の取水を巡る日本電力との紛争が発生し一時は一触即発の事態に陥ったが、岐阜県議会議長の仲介によりダムに流筏路を建設することで1924年和解が成立した。これを[[飛騨川流域一貫開発計画#益田川流木事件|益田川流木事件]]と呼ぶ<ref>『飛騨川 流域の文化と電力』pp.738-740</ref>。 |
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何れの例も、[[私権]]の保護が不十分であった時期の紛争であり、庄川流木事件を戦った平野も「[[日本国憲法]]があればここまでにはなっていなかっただろう」と後に語っている<ref name="shogawa"/>。ダム事業を巡る補償問題の初期例であり、この問題はダム事業の宿命として昭和・平成に至るまで永遠の課題になって行く。 |
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== 昭和1(1926年-1944年) == |
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大正時代のダム建設ブームにより日本のダム技術は明治以前に比べて飛躍的に向上し、高さ50メートルを超えるダム建設も盛んに行われた。一方で宮田用水事件や庄川流木事件に見られる[[慣行水利権]]者との摩擦は、日本における河川行政・法整備が実情に追い付いていないという現実を露呈させた。さらに治水事業との整合性や利水事業者同士による開発事業の衝突など、[[河川法#旧河川法制定|旧河川法]]や[[電気事業法]]では解決できず[[政治家]]による調停に委ねる例も出て、河川行政の抜本的な改革が問われつつあった。また、[[満州事変]]以降次第に日本は[[軍国主義]]の風潮が高まり、河川事業にもその暗い影が差して行ったのが昭和初期のダム事業を取り巻く環境である。 |
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=== 多目的ダムの登場 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+'''主な河水統制事業'''<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.63-64</ref><ref>『利根川百年史』p.1299</ref> |
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!事業者 |
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!年代 |
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!種別 |
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!出来事 |
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!対象水系・河川(ダム名) |
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| rowspan="2"|[[内務省 (日本)|内務省]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[616年]] |
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| rowspan="1"|直轄 |
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| align=left|日本最初のダムである[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]([[大阪府]])が完成する。 |
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|align="left"|[[北上川]]([[田瀬ダム|田瀬]])<br/>[[名取川]]([[釜房ダム|釜房]])<br/>[[鬼怒川]]([[五十里ダム|五十里]])<br/>[[淀川]]([[琵琶湖]])<br/>[[由良川]]([[大野ダム (京都府)|大野]])<br/>[[猪名川]](猪名川) |
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| rowspan="1"|委託 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[664年]] |
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|align="left"|[[江戸川]]*[[東京市]]に委託 |
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| align=left|中大兄皇子(後の[[天智天皇]])、筑紫野に[[御笠川]]を堰き止め[[水城]]を建設。軍事目的でのダム建設事例では初。 |
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| rowspan="4"|県 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[731年]] |
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| rowspan="1"|単独 |
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| align=left|[[行基]]、[[摂津]]に[[昆陽池]]を建設。多目的小堰堤としては日本初([[洪水調節]]・[[灌漑|かんがい]])。 |
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|align="left"|[[相模川]]([[相模ダム|相模]])<br/>[[揖保川]](引原)<br/>[[錦川]]([[向道ダム|向道]])<br/>[[木屋川]]([[木屋川ダム|木屋川]])<br/>[[小丸川]](松尾) |
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| rowspan="1"|[[国庫]]補助 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[732年]] |
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|align="left"|[[旭川 (岡山県)|旭川]]([[旭川ダム|旭川]])<br/>[[黒瀬川]]([[二級ダム|二級]])<br/>[[厚東川]]([[厚東川ダム|厚東川]])<br/>[[大野川]](百枝) |
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| align=left|狭山池、行基の総指揮による大改築が行われる。 |
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| rowspan="1"|河川改良補助 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[821年]] |
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|align="left"|[[諏訪湖]]([[釜口水門]]) |
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| align=left|[[満濃池]]、弘法大師[[空海]]の指揮下で再建・改修される。 |
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| rowspan="1"|中小河川<br/>改良補助 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1128年]] |
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|align="left"|浅瀬石川([[沖浦ダム|沖浦]])<br/>黒瀬川(二級)<br/>[[香東川]]([[内場ダム|内場]]) |
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| align=left|[[大和国|大和]]で大門池が完成。高さ32.0メートルはその後14世紀末まで世界一。 |
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|[[電力会社]]||単独||align="left"|[[奥入瀬川]]([[十和田湖]])<br/>[[玉川 (秋田県)|玉川]]([[田沢湖]]・神代・夏瀬)<br/>[[猪苗代湖]]<br/>[[青木湖]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1202年]] |
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| align=left|狭山池、[[重源]]の総指揮による大改築が行われる。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1582年]] |
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| align=left|[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]、[[備中国]][[高松城 (備中国)|高松城]]攻略で足守川を人工的に堰き止める([[備中高松城の戦い|高松城水攻め]])。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1585年]] |
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| align=left|羽柴秀吉、[[紀州征伐]]・[[太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦い|第二次太田城の戦い]]で[[紀の川]]を人工的に堰き止める([[紀州征伐#太田城水攻め|太田城水攻め]])。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1590年]] |
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| align=left|[[石田三成]]、[[小田原征伐]]-[[忍城]]攻めで[[荒川 (関東)|荒川]]を人工的に堰き止めるが、大雨でダム決壊し失敗。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1608年]] |
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| align=left|[[豊臣秀頼]]、家老の[[片桐且元]]に命じて狭山池を改修する。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1631年]] |
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| align=left|[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]主・[[生駒高俊]]、外祖父[[藤堂高虎]]の援助で満濃池の改修を行う。 |
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|} |
|} |
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[[1896年]](明治29年)に制定された旧河川法では治水事業は[[堤防]]整備を主体とした河川改修が主眼であり、ダムを活用するという流れはなかった。またダム事業自体も単一事業者が単一の目的で建設しており、複数の事業者が関与することもなかった。こうした状況下で宮田用水事件や庄川流木事件、あるいは同一河川における水力発電事業で複数の事業者が[[水利権]]の所在を巡り対立するなどの事案が多発する。従来の法整備では太刀打ちできない現実を目の当たりにした行政は、大正時代より[[逓信省]]、[[農林省]]がそれぞれ[[水力発電]]・[[灌漑]]目的の立場から法改正を画策したが河川行政を管轄する[[内務省 (日本)|内務省]]の猛反対によって陽の目を見なかった。ようやく法整備に関する事態が動き出したのは[[1926年]](大正15年)8月26日に[[勅令]]第270号として公布された河川行政監督令である。即ち当時盛んだった水力発電に係る河川占用の許可を[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の[[許認可]]事項とする内容のもので、内務省の河川行政への専管業務を強化する意図があった<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.69</ref>。またダムの基準についても従来曖昧だったものを統一するため、[[1935年]](昭和10年)5月27日内務省は[[省令]]第36号として河川堰堤規則を、6月15日には逓信省が省令第18号として発電用高堰堤規則をそれぞれ制定。二つの政令によって「'''基礎岩盤からの高さが15メートル以上'''(河川堰堤規則ではアースダムは高さ10メートル以上)」というダムの基準が日本で初めて確立した<ref>『日本大堰堤台帳』pp.1-19</ref>。 |
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こうした流れの中、一人の学者がその後の日本における河川行政の流れを大きく変える論文を発表する。[[東京帝国大学]][[教授]]・[[東京大学地震研究所|東京帝国大学地震研究所]]研究員・内務省[[土木研究所|土木試験所]]長の職に在った当時38歳の'''[[物部長穂]]'''である。物部は[[1920年]](大正9年)に[[耐震構造]]に関する論文で第一回[[土木学会]]賞を受賞、その後耐震構造学の権威として[[重力式コンクリートダム]]の耐震理論を確立し今日まで[[地震]]による重力ダムの致命的な損壊を防ぐ重要な基礎を築いた。[[河川工学]]にも精通する物部は1926年に『わが国に於ける河川水量の調節並びに貯水事業について』という論文を発表し、[[河川総合開発事業|河川総合開発]]・'''[[多目的ダム]]'''建設の必要性を主張した。論文の要旨は以下の通りである<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.59-60</ref><ref>『湖水を拓く』pp.102-103</ref>。 |
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#河道が全能力を発揮する期間は極めて短いので、貯水による河川水量の調節は[[洪水]]防御上有利。 |
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#発電が[[渇水]]に苦しむのは冬季であり、冬季には大洪水の心配はないから治水容量は発電に利用可能。夏季の渇水には多目的として貯水池を少し大きくする。 |
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#貯水池地点は日本では一般に有利な地点が少ないので、多目的に利用する。治水・灌漑用はなるべく平地に近く、発電用は上流部が有利なので水系一貫的に効率・有機的な運用を行う。 |
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#大規模貯水池の下流には逆調整池を設け、貯水池埋没対策として、将来は大規模な[[砂防]]事業を進める。 |
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#民間企業の貯水池も治水・利水の総合計画にするため[[補助金]]など助成策を講じる。 |
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#計画は、公平な立場にある河川管理者が統制する。 |
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同年12月には内務省内務技師である萩原俊一も共同貯水池建設事業の国による斡旋と調査の必要性を内務大臣に上申しているが、物部論文は大きな反響を呼ぶ。内務省では内務省内務[[技監]]・後に内務省土木会議議長を兼務した[[青山士]](あきら)がこれに注目した。青山は日本人で唯一[[パナマ運河]]の建設事業に参加し、帰国後[[大河津分水路]]や[[荒川放水路]]の建設事業で総指揮を執るなど当時第一線で活躍していた内務官僚である<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=241 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【9】]</ref>。当時[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[1910年]](明治43年)より[[テネシー川流域開発公社]](TVA)による[[テネシー川]]総合開発が始まり、[[1913年]](大正2年)からはマイアミ川総合開発に基づく5か所のダム建設も実施していた。また法整備という面でも1913年に治水・[[利水]]の統一水法として近代水法の模範となった[[プロイセン]]水法を皮切りに欧米で相次いで河川関連法規が制定、[[1934年]](昭和8年)にそれら欧米水法の完成形として[[オーストリア]]水法が成立するなど国外では河川総合開発に対する動きが加速していた。青山は[[1935年]](昭和10年)10月に土木会議を開催、物部論文を最優先とする河川事業を国策で推進することを決定した。ここに河川総合開発事業の前身となる[[河川総合開発事業#河水統制事業|河水統制事業]]が開始された<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.60</ref>。 |
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第一に計画されたのは[[五十里ダム]]である。[[利根川]]の大支流・[[鬼怒川]]に合流する男鹿川に計画された五十里ダムは鬼怒川改修計画の一環として治水を主目的に1926年より計画されたが、河水統制事業としてその後水力発電目的が加わり[[1940年]](昭和15年)より着工された<ref>『湖水を拓く』pp.104-106</ref>。完成例としては[[愛知県]]が[[庄内川]]水系山口川に1933年完成させた[[山口ダム (愛知県)|山口ダム]]が日本初であり、治水・灌漑・[[上水道]]供給が目的の河水統制事業であった(後に廃止)。翌[[1934年]](昭和9年)には[[青森県]]が[[沖浦ダム]](浅瀬石川)、1935年には[[香川県]]が[[長柄ダム (香川県)|長柄ダム]]([[綾川]])の建設にそれぞれ着手するなど当初は[[地方自治体]]が先駆けて河水統制事業を手掛けた。[[1937年]](昭和12年)になると念願であった河水統制事業調査費が予算として認められ、[[内閣]]に河水調査協議会が設置されて本格的な調査が64河川で開始、1940年には調査費の[[国庫]]補助も開始された。こうした動きにより右表にある通り多くの河川で多目的ダムなどの河水統制事業が着手され、1940年には現存する日本初の多目的ダムとして[[山口県]]が'''[[向道ダム]]'''([[錦川]])を完成させた<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2054 『ダム便覧』向道ダム]2015年8月2日閲覧</ref>。地方自治体にやや遅れて内務省も[[国土交通省直轄ダム|直轄ダム事業]]による多目的ダム建設を計画、[[琵琶湖]]河水統制事業や[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム|北上川五大ダム]]の第一弾である[[田瀬ダム]]([[猿ヶ石川]])、[[釜房ダム]](碁石川)、[[大野ダム (京都府)|大野ダム]]([[由良川]])、猪名川ダム([[猪名川]])などが計画・施工された<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.60-61,p63</ref><ref>『河川総合開発調査実績概要』第一巻pp1-2</ref>。しかし河水統制事業は程なく軍部に翻弄されてゆく。 |
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File:Koudou-2054-r1.JPG|現存する日本初の[[多目的ダム]]、[[向道ダム]]([[錦川]])。 |
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File:Yamaguchi Dam 1.jpg|日本初の河水統制事業、[[山口ダム (愛知県)|山口ダム]](山口川)。現在運用はされていない。 |
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File:Ikari-559-r1-2.JPG|日本で最初に計画された[[国土交通省直轄ダム|直轄ダム]]、[[五十里ダム]](男鹿川)。[[1956年]](昭和31年)完成。 |
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File:Kotougawa-2064-r1.JPG|最初期に計画された多目的ダムの一つ、[[厚東川ダム]]([[厚東川]])。戦後[[宇部興産]]が事業に参入し[[1950年]](昭和25年)完成 |
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=== 台湾・朝鮮のダム事業 === |
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[[File:Coral Lake Tainan from airplane window.JPG|200px|thumb|八田與一の手によって建設された[[烏山頭ダム]]([[曽文渓]])空撮。]] |
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[[File:SupongDamOct2010-2.jpg|200px|thumb|完成当時世界有数の規模だった[[水豊ダム]]([[鴨緑江]])。画面左側が[[中華人民共和国|中国]]領、右側が[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]領。]] |
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当時の日本は[[1895年]](明治28年)[[日清戦争]]の勝利によって[[台湾]]を併合、1910年に[[日韓併合]]を行い[[朝鮮半島]]を併合し両地域は日本の統治下にあった。日本統治下の台湾や朝鮮半島においても、ダム建設が進められていた。 |
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台湾において日本人が手掛けた代表的なダムとして、'''[[烏山頭ダム|烏山頭(ウサントウ)ダム]]'''がある。[[台南州]]を流れる[[曽文渓]]は全長140キロメートルの台湾第三の大河であり、流域には[[香川県]]と同面積の15万ヘクタールにおよぶ[[嘉南平原]]が広がる。しかし嘉南平原は慢性的な水不足と排水不良に悩まされており、農業生産力の向上には嘉南平原の灌漑整備が不可欠であった。[[台湾総督府]]は嘉南平原に農業用水を供給するため、用水路である[[嘉南大圳]](たいしゅう。用水路のこと)の整備を計画する。この嘉南大圳建設に携わったのが台湾総督府内務局土木課に勤務していた'''[[八田與一]]'''である。[[小樽港]]築港に携わった東京帝国大学教授[[広井勇]]門下で、物部長穂・青山士と同門である八田は曽文渓支流の官田渓に烏山頭ダムを建設すると共に台湾最大の河川である[[濁水渓]]より水を導水して、嘉南平原に水を供給するという嘉南大圳事業を計画した。[[1920年]](大正9年)より着工された烏山頭ダムは高さ56.0メートルのアースダムであり、総貯水容量は1億5,000万立方メートルと完成当時日本最大、東洋一の規模を誇る大ダムであった。ダム建設はトンネル工事中に[[石油]]が噴出したことによる爆発事故で50名が死亡したり、[[関東大震災]]の余波で事業費が削減され労務者を大量[[解雇]]せざるを得ないという苦難に遭遇したが、解雇した労務者の再就職に奔走したり、学校や病院などを建設して労務環境を高めるなど現地での信頼を高めて行った。総事業費5,413万円と10年の歳月を費やしダムを含む嘉南大圳は完成し、[[コメ]]や[[サツマイモ]]などの増産に大きく寄与する。完成当時「八田堰堤」と呼ばれていた烏山頭ダムの人造湖は珊瑚潭と命名された<ref name="usanto">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/WAll.cgi?db3=135 『ダム便覧』烏山頭ダム]2015年8月2日閲覧</ref><ref name="taiwan">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=111 『ダム便覧』ダムの書籍あれこれ(8)]</ref><ref>『日本大堰堤台帳』pp.289-292</ref><ref>[http://www.wra.gov.tw/ct.asp?xItem=47852&CtNode=7221 台湾経済部水利署『烏山頭水庫』]2015年8月9日閲覧</ref>。 |
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その後も八田は土木事業に携わるが1942年に灌漑事業調査のため[[フィリピン]]へ[[大洋丸]]で向かう途中[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]に[[雷撃]]を受けて船が沈没し殉職、妻は1945年の日本敗戦時に烏山頭ダムの放水口に投身[[自殺]]するという悲劇を産んだ。しかし[[愛知用水]]の10倍におよぶ給水面積を有する嘉南大圳はその後も嘉南平原を潤しており、台湾で八田は「嘉南大圳の父」として尊敬されて[[銅像]]<ref group="注">事業が難航して思案に暮れている八田をモチーフとしており、通常の銅像とは趣を異にする。</ref>が建立され、八田の命日である5月8日には毎年地元農民によって墓前祭も催されるほか、[[2011年]](平成23年)には八田與一記念公園が完成し[[馬英九]][[台湾総統]]も記念式典に出席している<ref name="usanto"/><ref name="taiwan"/><ref>[[時事通信]]2011年5月8日記事。</ref>。長編[[アニメ]]映画『[[パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜]]』は八田を描いた作品である。なお台湾では烏山頭ダムのほかに日本統治下で建設されたダムとして水社ダム(日月潭水庫)がある。水力発電を目的に1934年建設されたこのダムの人造湖は'''[[日月潭]]'''の名で知られるが、元々天然湖沼である日月潭にダムを建設すると同時に濁水渓に建設した武界ダムから水を導水して貯水容量を増加させることで発電を行う。総貯水容量1億7,200万立方メートルに規模が拡大した日月潭は台湾最大の湖であり、台湾の主要な観光地の一つでもある。ダムは日本の敗戦で[[中華民国]]に接収された後、[[台湾電力]]が管理している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/WAll.cgi?db3=152 『ダム便覧』水社ダム、日月潭水庫]2015年8月9日閲覧</ref><ref>[http://www.wra.gov.tw/ct.asp?xItem=12638&ctNode=3136&comefrom=lp#3136 台湾経済部水利署『日月潭水庫』]2015年8月9日閲覧</ref>。 |
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朝鮮半島における日本人が手掛けた代表的なダムとしては、[[鴨緑江]]の'''[[水豊ダム|水豊(スープン)ダム]]'''がある。水豊ダムは[[朝鮮総督府]]と[[中国東北地方]]に日本が建国した[[満州国]]との共同事業として建設されたダムである。日本の[[傀儡政権]]であった満州国では重工業の発展や[[南満州鉄道]]の敷設が進む一方で電力需要に対する供給が不足していた。朝鮮総督府や[[関東軍]]、満州国国務院は豊富な水量を有する鴨緑江の河川総合開発を企図、1936年に[[南次郎]]が第7代[[朝鮮総督]]に就任したことで計画は積極的に進められ、1937年1月には鮮満鴨緑江共同技術委員会を設置。ダム建設に関する具体的な調査が開始された。8月には事業主体である鴨緑江水電が設立され、初代社長には朝鮮半島で水力発電事業を展開していた[[チッソ|朝鮮窒素肥料]]の[[野口遵]](したがう)が就任した。ダム建設によって朝鮮・満州国合計で約1万5,000戸という空前規模の移転戸数が生じ、約7万人もの住民が移転を余儀なくされたが、移転に従う住民がいる一方で[[自作農]]などはダム建設に強硬に反対し、事業者側は宣伝工作や強制撤去などの実力行使を以って移転させている。また労務環境も悪く、多くの殉職者を出している。こうした経緯を経て水豊ダムは[[1944年]](昭和19年)に完成する。高さ107.0メートル、出力70万キロワットという当時日本最大のダム・水力発電所であった<ref name="supun">[http://www.nuis.ac.jp/ic/library/kiyou/6_hirose.pdf 広瀬貞三『「満州国」における水豊ダム建設』]2015年8月2日閲覧</ref>。なお野口遵は朝鮮半島において1929年赴戦江に漢岱里ダム、1937年長津江に葛田里ダムなどを建設したほか、水利組合により1927年[[蟾津江]]に蟾津江ダムが完成している<ref>『日本大堰堤台帳』pp.165-177</ref><ref group="注">1965年に[[韓国]]政府がダム再開発事業を行い、旧ダムは水没している。</ref>。 |
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===ダム建設の黎明~狭山池・満濃池~=== |
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[[画像:Sayamaike01.JPG|thumb|250px|日本最古のダム・[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]([[西除川]]・[[大阪府]])]] |
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日本のダム事業史を語る上で、冒頭に挙げるべきダムとして[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]と[[満濃池|満濃池]]がある。 |
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さらに旧満州国内では第二[[松花江]]に'''豊満(フォンマン)ダム'''が1937年より満州国国務院水力電気建設局の手で施工を開始している。松花江総合開発の一環として天然湖沼である[[鏡泊湖|鏡泊(チンポー)湖]]の水力発電事業と共に計画された高さ91メートル、長さ1,110メートル、総貯水容量125億立方メートル、出力70万キロワットの多目的ダムで、当時アメリカの[[フーバーダム]]([[コロラド川]])に次ぐ東洋一の巨大[[人造湖]]であったが移転戸数が8,400戸とこちらも多くの住民が移転を余儀なくされている。豊満ダムも戦時中の物資不足によって工事が中断、続く日本の敗戦と満州国崩壊によって[[ソビエト連邦]]軍が侵攻し発電機を奪われ、さらに[[国共内戦]]で[[中国人民解放軍]]と[[中国国民党]]軍がダム争奪戦を繰り広げるなど完成まで激動の歴史であった。豊満ダムでも労務環境が悪く、多くの中国人労働者が[[腸チフス]]や[[発疹チフス]]に罹患して死亡した。これについて日本では「強制労働」と誤った報道がされたため、当時ダム工事に従事した技術者が書籍を出版して劣悪な条件下で落命した中国人労務者に謝罪する一方で「強制労働」の誤報に反論した。日本人労務者は[[1953年]](昭和28年)まで当地に留まりダム管理を行っている<ref name="taiwan"/><ref name="supun"/>。これら日本統治下に在った地域のダムは、日本の敗戦により現地政府に接収されている。 |
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'''狭山池'''は[[古事記]]や[[日本書紀]]にも記載があるダムで、日本最古のダムと呼ばれているが完成年が判明したのはダムに使用されていた木製の樋管を[[年輪年代学|年輪年代測定法]]によって調べたことによるもので、[[飛鳥時代]]の[[616年]]の完成であった<ref>なお、樋管は[[大阪府立狭山池博物館]]に保存されている。</ref>。[[大化の改新]]で全国の農地が[[公地公民制]]で国有化され、狭山池も[[大和朝廷]]の直轄管理施設となった。[[奈良時代]]の[[732年]]([[天平]]4年)に狭山池は大改修が行われるが、その総指揮を執ったのは後に[[聖武天皇]]に招聘され[[東大寺]]大仏建立にも携わり、[[大僧正]]の位まで上り詰めた僧'''[[行基]]'''であった。日本各地を巡り布教した行基は各地で土木事業を行っていたが狭山池のかさ上げ大改築にも携わった。 |
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Yoichi Hatta.jpg|[[八田與一]]。[[台湾]]では今なお尊崇の念を持たれている。 |
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File:LAKE JITSUGETSUTAN DISTRICT.jpg|[[1944年]](昭和19年)に[[アメリカ空軍]]が空撮した[[日月潭]]とダム・水力発電所位置図。 |
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File:Sui-ho Dam under construction.JPG|建設中の水豊ダム。 |
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File:Fengman Dam.jpg|豊満ダム(第二[[松花江]])と豊満発電所。 |
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=== 日本発送電とダム === |
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狭山池は[[1202年]]([[建仁]]2年)に[[重源]]によって、[[1608年]]([[慶長]]13年)に[[摂津国|摂津]][[大坂城]]主・[[豊臣秀頼]]の命を受けた家老・[[片桐且元]]の手で改修された<ref>これを慶長の大改修と呼ぶ。</ref>。慶長の改修は[[関ヶ原の戦い]]で天下人の後継者から1城主に転落した秀頼の数少ない内政でもあった。これらは1988年([[昭和]]63年)の発掘調査で年代が確定している。現在狭山池は[[1980年]](昭和55年)より21年を費やして従来の[[かんがい]]目的に加え[[洪水調節]]機能を兼備した[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]として再開発がなされたものである<ref>これを平成の大改築とも呼ぶ。</ref>。現在は[[大阪府]]土木部ダム砂防課が管理している。 |
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{{main|日本発送電}} |
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[[Image:Tsukabaru-2808-r1.JPG|thumb|200px|戦前では最も高かった塚原ダム([[耳川]])。国の[[登録有形文化財]]。]] |
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電力会社による発電用ダムの建設は大井ダム以降、より大規模なダムの建設を手掛ける方向性が強くなった。水力発電は渇水時に発電能力が減衰する欠点があったが、これを[[火力発電所]]で補うことである程度解消できた(水主火従)。電力会社はより大容量の貯水池を有する水力発電所建設を計画し、ダム建設もそれに比例して大規模なものになっていった。[[1929年]](昭和4年)に完成した高さ79.0メートルの[[小牧ダム]]([[庄川]])は、庄川流木事件という問題を抱えては居たが物部長穂の耐震理論を最初に導入した重力式コンクリートダムであった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0816 『ダム便覧』小牧ダム]2015年8月2日閲覧</ref>。またこの頃より[[コンクリート]]に関する技術も進歩し、従来のコンクリートダムではコンクリートに玉石を混合した玉石コンクリートが主力だったが、玉石を使わない硬練りコンクリートの研究が進められた。実用化されたのは[[宮崎県]]の[[耳川]]に建設された'''塚原'''(つかばる)'''ダム'''であり、日本で初めて可動式ケーブルクレーンをコンクリート打設に用いたほか、[[中庸熱セメント]]を主成分とした硬練りコンクリートをダム本体に使用した。塚原ダムは[[1938年]](昭和13年)完成するが、高さ87.0メートルは戦前のダムとしては日本で最も高く、歴史的な土木遺産として小牧ダム共々国の[[登録有形文化財]]に登録された<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.103</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2808 『ダム便覧』塚原ダム]2015年8月2日閲覧</ref>。また日本有数の急流河川である[[黒部川]]では、[[高峰譲吉]]が[[アルミニウム]][[精錬]]の電源として黒部川の開発に[[1917年]](大正6年)に着手、その後[[日本電力]]が事業を承継し1936年に[[小屋平ダム]](黒部川)と黒部川第二発電所、1940年に[[仙人谷ダム]](黒部川)と黒部川第三発電所を完成させた。このダム・発電所工事は難工事であり、[[雪崩]]や[[吉村昭]]の『高熱隧道』で知られる灼熱の[[トンネル]]工事などで多くの[[殉職]]者を出しながら完成した<ref>『湖水を拓く』p.100</ref>。こうした河川一貫の水力発電事業は戦後さらに活発化する。 |
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しかし、電力会社を巡る環境は[[戦時体制]]に突き進む日本の国情の中次第に厳しい情勢に追い込まれた。当時日本には[[東京電燈]]、[[東邦電力]]、日本電力、[[大同電力]]、[[宇治川電気]]のいわゆる「五大電力会社」が電気事業の中心にあり、日本各地の河川で開発を進めていたが配電[[シェア]]の獲得競争は極めて激しく、[[鶴見騒擾事件]]など実力行使を伴う紛争も絶えなかった。こうした激烈で無秩序なシェア競争に対して電気事業を民間に任せることは不適当とする意見も逓信省内部から出始めた。[[1927年]](昭和2年)電力行政を司る逓信省電気局は臨時電気事業調査部を局内に設置、電気事業の矛盾をどう解決するかについて議論し、翌年報告書を提出した。その内容は半官半民の国策会社を設立して電力開発を任せるべきという提言だったが、満州事変勃発後は国家が積極的に電力統制を行うべきという急進的な意見が軍部や逓信省、[[企画院]]などで主流となり、彼らが内閣調査局のメンバーを占めたことで電力国有化の流れが強くなった<ref name="hida1">『飛騨川 流域の文化と電力』pp.552-554</ref>。1936年、[[広田内閣]]の逓信大臣で電力国有化論者である[[頼母木桂吉]]は電力国有化法案の提出を示唆するが、電力業界の猛反発を招き撤回した。しかし[[第1次近衛内閣]]が発足すると[[永井柳太郎]]逓信大臣が再度電力国有化について言及し、[[国家総力戦]]の下で[[国家総動員法]]と共に[[日本発送電#電力管理法|電力管理法]]案と日本発送電株式会社法案などを提出。東邦電力社長の[[松永安左エ門]]らは猛反発するが軍部の圧力は厳しく松永は隠退を余儀なくされ、1938年4月5日に法案は可決成立した。ここに「半官半民」の国策電力会社である'''[[日本発送電]]'''が翌[[1939年]](昭和14年)4月に発足する。「半官半民」と謳ってはいるが総裁以下高級幹部の任免権は内閣が握り、監督部署である逓信省電気局の命令で事業を実施したため、本質は発送電事業の国有化であった<ref name="hida1"/><ref name="tadami1">『電源只見川開発史』pp.97-99</ref>。 |
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一方'''満濃池'''は[[大宝 (日本)|大宝]]年間([[701年]]~[[704年]])に[[讃岐国|讃岐]][[国司]]道守[[朝臣]]によって建設されたという記録が残っているが、まもなく決壊したという。満濃池を語る上で欠かせないのが弘法大師・'''[[空海]]'''であるが、彼は前任の築池使・路[[真人]]浜継の要請により[[嵯峨天皇]]の命を受け築池別当として[[821年]]([[弘仁]]12年)に大改修を行った。この大改修に従事した人間は推定32万人と記され、当時の讃岐国の人口が推定28万人であることを考えると、いかに多くの人員を動員した大事業であるかということがよくわかる。だがこの大改修で築かれた堰堤もしばらく後に再度決壊、[[1184年]]([[元暦]]元年)の決壊以後は再建されず放棄された。 |
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電力管理法第2条および電力管理法施行令第2条において、出力5,000キロワット以上の水力発電所は原則日本発送電が開発または所有することが定められ、発電所に付属するダムについても同様の措置が取られた。このため大井ダムを始め出力が5,000キロワット以上の水力発電所に付属するダムについては「出資」という名の下に強制的な接収を受けた。また開発中の河川における発電用水利権も同様に5,000キロワット以上の発電計画を有するものは日本発送電に接収され、例えば[[只見川]]の発電用水利権を有していた東京電燈は事実上開発不可能な立場に追い込まれた<ref name="hida1"/><ref name="tadami1"/>。さらに1941年には[[日本発送電#配電統制令|配電統制令]]が公布され、「五大電力会社」を含む日本に存在した全ての電力会社は解散し9配電会社に統合させられた。これにより電力の国家統制が完成し、日本発送電は戦時体制維持のため活発な水力発電事業を展開する。ダム事業としては主なものとして[[1943年]](昭和18年)の完成以来破られていない日本最大の[[ダム#諸元|湛水面積]]を有する[[雨竜第一ダム]]([[雨竜川]]・[[北海道]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0040 『ダム便覧』雨竜第一ダム]2015年8月2日閲覧</ref>、[[1945年]](昭和20年)に完成した当時日本第2位の高さを有する[[三浦ダム]](王滝川・[[長野県]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0994 『ダム便覧』三浦ダム]2015年8月2日閲覧</ref>、当時[[天竜川]]最大規模だった[[平岡ダム]](天竜川・長野県)<ref name="hiraoka">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1001 『ダム便覧』平岡ダム]2015年8月2日閲覧</ref>、当時[[四国地方]]最大規模だった[[長沢ダム]]([[吉野川]]・[[高知県]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2306 『ダム便覧』長沢ダム]2015年8月2日閲覧</ref>などがある。しかし戦況の悪化に伴い資材・人員不足が深刻となり、平岡ダムや宮下ダム(只見川)などでは[[中国人]]や[[朝鮮人]]などを[[強制労働]]に使役させる<ref name="hiraoka"/><ref>『電源只見川開発史』p.113</ref>など非人道的な労務管理を行った。さらに[[空襲]]による設備破壊や施設酷使による設備故障も重なり、満足な電力供給が行えないまま終戦を迎えることになる。 |
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満濃池が再建されるのは実に[[江戸時代]]のことであり、[[1631年]]([[寛永]]8年)讃岐[[高松藩]]17万石の藩主・[[生駒高俊]]の時、高俊の外祖父である[[藤堂高虎]]の家臣・[[西嶋八兵衛]]が高虎の命で高松に赴き満濃池を再建、新田開発に寄与した。だが高俊は[[生駒騒動]]の咎で[[出羽国|出羽]]に左遷、以後満濃池は[[天領]]として[[江戸幕府]]の直轄管理施設<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=237 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』 文献における補償の精神~満濃池~]</ref>とされた。[[明治時代]]以後は満濃池[[土地改良区]]の管理に置かれ、数度の改修を経て[[1961年]](昭和36年)の改修で現在の姿(堤高32.0[[メートル]]・[[アースダム]])となった。毎年6月に行われる「ゆる抜き」([[放流 (ダム)|放水]])は讃岐平野に夏の訪れを告げる一大風物詩でもある。 |
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File:Sennindani Dam.jpg|[[仙人谷ダム]]([[黒部川]])。難工事は『高熱隧道』で知られる。 |
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File:Uryu1-40-r1.JPG|日本最大の[[ダム#諸元|湛水面積]]を有する[[雨竜第一ダム]]([[雨竜川]])。[[朱鞠内湖]]の名で知られる。 |
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File:Nagasawa Dam.jpg|[[日本発送電]]末期に完成した[[長沢ダム]]([[吉野川]])。 |
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File:Hiraoka Dam free flow.jpg|[[平岡ダム]]([[天竜川]])。[[強制労働]]により落命した人々の[[慰霊碑]]が近傍に建立されている。 |
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=== 軍部の介入 === |
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これ以外に特筆されるのは[[摂津]]の'''[[昆陽池]]'''(こやいけ。[[兵庫県]][[伊丹市]])と[[大和国|大和]]の'''大門池'''([[奈良県]][[生駒郡三郷町]])がある。昆陽池は[[731年]](天平3年)に行基によって建設されたが、当初からかんがいの他に'''[[洪水調節]]'''を目的として建設されており、高さは15.0メートル未満ではあるものの日本における[[多目的ダム]]・[[治水ダム]]の初見である。大門池は[[大和川]]水系大門川に[[1128年]]([[大治 (日本)|大治]]3年)建設されたが、高さが32.0メートルで紀元前に[[趙 (戦国)|趙]]によって建設され当時世界一であったグコーダム([[北宋]])の記録(30.0メートル)を破り世界一の高さを有するダムに躍り出た。この記録はその後[[14世紀]]末に[[スペイン]]のアルマンサダムによって破られるまで約300年間にわたり続いた。 |
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[[File:Sagami Dam(2014).jpg|200px|thumb|[[相模ダム]]([[相模川]])。陸海軍が合同[[観兵式]]を行い反対する住民に圧力を掛けた。[[1947年]](昭和22年)完成。]] |
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電力国家統制を成し遂げ、国家総力戦に突き進む軍部が次に狙ったのが河川行政、特に河水統制事業であった。[[航空機]]の生産や[[軍艦]]建造など軍備増強を図る上で水力発電事業や水道整備は欠かせなかったが、電力事業を掌握したことから今度は河川行政に直接介入し、軍部に都合が良い河川開発を企てた。北上川水系では五大ダム事業の一環として建設が進められていた田瀬ダムにおいて、[[大船渡市|大船渡]]に人工[[オクタン価|ハイオク]][[ガソリン]]工場の建設を[[カネボウ|鐘淵紡績]]と計画していた[[大日本帝国海軍]]は、[[制空権]]確保の重要性という大義名分で事業者である内務省土木局に対し、田瀬ダムの目的に水力発電を追加し、建設を予定している大船渡の人工ハイオクガソリン工場に電力を供給するよう強く迫った。このため当初[[洪水調節]]が主目的であった田瀬ダムは発電目的が追加された<ref>『北上川百十年史』pp.442-443</ref>。由良川水系では治水と水力発電を目的として施工中だった大野ダムについて、海軍は[[舞鶴海軍工廠]]への電力供給を第一にするよう迫り、水力発電を主目的にされて本来の治水目的は副次的なものに変更された<ref>『多目的ダム全集』p.55</ref>。[[広島県]]の[[二級ダム]]([[黒瀬川]])は[[呉海軍工廠]]の上水道供給を求める海軍が事業に参入<ref>『日本の多目的ダム 1963年版』p.266</ref>。[[愛媛県]]の[[柳瀬ダム]]([[銅山川 (四国)|銅山川]])では1935年の第一次分水協定でようやく愛媛県と[[徳島県]]が合意した発電計画の放棄に対し、電力行政を逓信省から吸収した[[軍需省]]が1945年に水力発電事業を追加するように求め同年第二次分水協定を締結させた<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=125&p=2 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(10)]2010年8月2日閲覧</ref>。 |
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軍部は日本各地の河水統制事業に強引な圧力を掛けて自らの目的を押し通したが、その極めつけが[[相模ダム]]([[相模川]])建設反対住民に対する圧力である。相模ダムは1934年に[[神奈川県議会]]において相模川河水統制事業の中心事業として建設が議決され、1937年より工事が開始された。ダムによって[[神奈川県]]と[[山梨県]]で合計136[[世帯]]が移転を余儀なくされることになり、住民はダム建設に反対する。しかし相模ダムの目的に水力発電があり、[[横須賀海軍工廠]]を含む[[京浜工業地帯]]や[[相模原市|相模原]]への電力供給という目的があったことから反対する住民に対し軍が圧力を掛けた。すなわち[[小磯国昭]]、[[荒木貞夫]]、[[杉山元]]といった[[大日本帝国陸軍]]の中枢にいる軍人が海軍と共同で、「河水統制事業絶対反対用地不売同盟」を結成して激しくダム建設に反対していた[[津久井郡]][[日連村]]([[藤野町]]の前身)勝瀬地区において陸海軍合同[[観兵式]]を行い、住民に対し示威行動を行った。陸海軍の強い圧力に耐えきれない住民はダム事業の補償を受け入れたが、どんぶり勘定に近い内容の補償金額であり禍根を残した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=244 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【11】]2015年8月2日閲覧</ref>。こうした強引な手法に加え、海軍[[佐世保鎮守府]]が施工し1944年に完成した[[長崎県]]の相当ダム(牟田川)では[[ウェーク島の戦い]]で[[捕虜]]としたアメリカ軍兵士200名を強制労働に使役させ、54名を死亡させる負の歴史を作った<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=412 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【52】]</ref>。 |
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===軍事目的のダム建設=== |
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[[ファイル:Ootajo-ki12.jpg|thumb|250px|right|[[豊臣秀吉]]が築いた[[紀州征伐#太田城水攻め|太田城水攻め]]における堰堤の推定位置。<ref>{{国土航空写真}}</ref>]] |
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この時期のダム建設の特徴として、もう一つは軍事目的でのダム建設といった側面を持つ事象がいくつか挙げられる。古くは[[664年]]、[[朝鮮半島]]における[[白村江の戦い]]で[[唐]]・[[新羅]]連合軍に敗れた大和朝廷は、九州防衛のために春日城・[[大野城 (筑前国)|大野城]]と共に御笠川を堰き止めて[[水城]]を現在の[[福岡県]][[筑紫野市]]に建設した。連合軍が上陸した際に水城を決壊させ、洪水で打撃を与える作戦であった<ref>現在は貯水をしなかったという学説が濃厚となっている。</ref>。 |
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このようになりふり構わず突き進んだ[[太平洋戦争]]も次第に日本不利の戦況となり、資材や人員の欠乏は日を追う毎に深刻となった。ダム事業もこうした事情から進捗が滞るが、1944年[[小磯内閣]]は全ての資源を戦争に投入する[[決戦非常措置要綱]]を発令した<ref>『日本の多目的ダム 1963年版』p.306</ref>。要綱発令によりダム事業のほとんどが事業遂行不可能となり、中断に追い込まれた。特に猪名川ダムは予算が付いていたにも関わらず中止され、戦後も事業が再開することはなかった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=507 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(74)]2015年8月2日閲覧</ref>。各地の山林は乱伐によって極端に保水力が低下。河川改修も完全に停滞し、修繕がままならぬ状態で日本は終戦を迎えた。後に残されたのは荒廃した国土であり、それは戦後直ちに大きな災害をもたらすことになる。 |
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こうした水攻めを最も得意としたのが'''[[豊臣秀吉]]'''である。知略に優れた秀吉は土木技術にも秀で、[[備中国|備中]][[備中高松城の戦い|高松城攻防戦]]([[1582年]])では高さ7.0メートル、下部幅20.0メートル、堤長2,800メートルの巨大な堰堤を19日間で建設し足守川を堰き止めた。また、[[紀伊国|紀伊]][[紀州征伐#太田城水攻め|太田城攻防戦]]([[1585年]])では堤高5.0メートル、堤長6,000メートルの堰堤をわずか6日間で建設し[[紀の川]]を堰き止めている。城攻めは秀吉の得意戦術であったが、大規模な堰堤を建設して城攻めを行ったのは土木に精通する秀吉ならではである。[[1590年]]の[[小田原征伐]]においては[[石田三成]]が[[成田氏長]]夫人ら3,000の兵が篭る[[武蔵国|武蔵]][[忍城]]攻防戦において[[利根川]]を堰き止めて水攻めを行っている。だがこの水攻めで忍城を水没させることはできず<ref>堤防よりも忍城の標高が高かったため水没させることが出来ず、城兵から「水の便が良くなった」と揶揄(やゆ)されたと伝えられている。</ref>、逆に大雨で堰堤が決壊し豊臣軍に多くの死者を出した。結局忍城は[[小田原城]]開城(7月6日)の後、城主氏長<ref>小田原征伐の折に城主である氏長は小田原城に籠城しており、開城の際に降伏している。</ref>の説得によって7月16日開城となる。現在でも遺構の一部が「石田堤」として残っている。 |
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<gallery widths="190" heights="140"> |
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File:Tase Dam.jpg|[[田瀬ダム]]([[猿ヶ石川]])。人工[[オクタン価|ハイオク]][[ガソリン]]工場の電力供給を海軍に要求された。[[1954年]](昭和29年)完成。 |
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File:Ohno Dam.jpg|[[大野ダム (京都府)|大野ダム]]([[由良川]])。[[舞鶴海軍工廠]]の電力供給を海軍に要求された。[[1960年]](昭和35年)完成。 |
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File:Nikyu Dam.JPG|[[二級ダム]]([[黒瀬川]])。上水道事業に海軍が参入した。戦時中の[[1942年]](昭和17年)完成。 |
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File:Nagara Dam (Kagawa Pref.).jpg|[[長柄ダム (香川県)|長柄ダム]]([[綾川]])。[[決戦非常措置要綱]]による中断を経て[[1952年]](昭和27年)完成。 |
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</gallery> |
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==昭和2(1945年-1954年)== |
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このように古代におけるダム建設は、一部を除けば全てが[[かんがい]]を目的としており、技術的に未発達だったこともあり型式も全て'''アースダム'''であった。[[コンクリートダム]]の登場は明治時代を待たねばならなかった。 |
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[[太平洋戦争]]で敗戦した日本は、国力も国土も極めて疲弊した状態に在った。[[決戦非常措置要綱]]の発令で物資の全てを戦争に費やしたことで河川事業はダムを含め完全に停滞し、新規計画も修繕もままならない状況であった。電力に関しては物資不足による事業中断に加え、民間の電力需要が爆発的に増大し電力の需給バランスは一挙に崩壊して深刻な[[停電]]が頻発した。さらに[[コメ]]を始めとする農業生産力も低下して食糧不足が深刻化、[[1946年]](昭和21年)には[[皇居前広場]]に25万人が集まる[[飯米獲得人民大会|飯米獲得人民大会(食糧メーデー)]]が開かれるなど日本の社会は大きな混乱を来たしていた。戦災からの復興を果たさねばならない中で、混乱に拍車を掛けたのは連年襲い来る[[水害]]であった。 |
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=== 襲い来る災害 === |
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==近代(1868年~1945年)== |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+1945年-1954年に発生した主な水害<ref name="kishocho">[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/index_1945.html 気象庁『災害をもたらした気象事例(昭和20-63年)]2015年8月4日閲覧</ref><ref name="kyudai">[https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/suigai/outline1.html 九州大学附属図書館『昭和28年西日本大水害の概況』]2015年8月4日閲覧</ref> |
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!西暦 |
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!年代 |
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!和暦 |
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!出来事 |
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!災害 |
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!死者 |
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!行方不明者 |
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| rowspan="2"|[[1945年]] |
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| rowspan="2"|昭和20年 |
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| align=left|[[入鹿池]]([[愛知県]])、豪雨により決壊([[入鹿池#入鹿切れ|入鹿切れ]])。日本ダム史上最悪の決壊事故で941人死亡。 |
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|align="left"|[[枕崎台風]] |
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|align="right"|2,473 |
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|align="right"|1,283 |
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|align="left"|[[阿久根台風]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1882年]] |
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|align="right"|377 |
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| align=left|[[工部省]]工部技監・[[大鳥圭介]]、日本で初となるダム技術解説書『堰堤築法新按』を翻訳・刊行する。 |
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|align="right"|74 |
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|[[1947年]]||昭和22年||align="left"|[[カスリーン台風]]||align="right"|1,077||align="right"|853 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1891年]] |
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| align=left|日本最初の水道専用ダム、本河内高部ダムが[[長崎市]]に完成する。 |
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|[[1948年]]||昭和23年||align="left"|[[アイオン台風]]||align="right"|512||align="right"|326 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1900年]] |
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| align=left|日本最初の[[重力式コンクリートダム]]、[[布引五本松ダム]]([[生田川]])が[[神戸市]]に完成する。 |
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| rowspan="3"|[[1949年]] |
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| rowspan="3"|昭和24年 |
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| align=left|[[電気事業法]]施行。これ以降全国の河川で水力発電事業が着手される。 |
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|align="left"|[[デラ台風]] |
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|align="right"|252 |
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|align="right"|216 |
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|align="left"|[[ジュディス台風]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1918年]] |
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|align="right"|154 |
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| align=left|日本最初の民間企業所有ダム、千歳第三ダム([[千歳川]])が[[王子製紙]]株式会社の手により完成する。 |
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|align="right"|25 |
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|align="left"|[[キティ台風]] |
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| align=left|[[小牧ダム#庄川流木争議|庄川流木争議]]。庄川の流木権を巡り[[庄川水力電気]]と[[飛州木材]]が激しい対立闘争を起こす(~[[1933年]]) |
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|align="right"|135 |
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|align="right"|25 |
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|[[1950年]]||昭和25年||align="left"|[[ジェーン台風]]||align="right"|398||align="right"|141 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1919年]] |
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| align=left|関東水電([[東京電力]]の前身)、尾瀬沼に水力発電用のダムを建設する[[尾瀬原ダム計画]]を立案する。 |
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|[[1951年]]||昭和26年||align="left"|[[ルース台風]]||align="right"|572||align="right"|371 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1923年]] |
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| align=left|日本最初の[[バットレスダム]]、[[笹流ダム]](笹流川)が[[函館市]]に完成する。 |
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|[[1952年]]||昭和27年||align="left"|ダイナ台風||align="right"|65||align="right"|72 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1924年]] |
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| align=left|[[大井ダム]]([[木曽川]])が完成。初めて堤高が50mを超え、大ダム時代の幕開けとなる。 |
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| rowspan="4"|[[1953年]] |
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| align=left|宮田用水事件。大井ダム建設に端を発する[[宮田用水]]の取水問題。[[水利権|慣行水利権]]を巡り[[大同電力]]と下流農民が争う(~[[1939年]]) |
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| rowspan="4"|昭和28年 |
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|align="left"|[[昭和28年西日本水害]] |
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|align="right"|759 |
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|align="right"|242 |
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|align="left"|[[紀州大水害]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1928年]] |
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|align="right"|713 |
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| align=left|[[杉の木貯水池#旧第一調整池決壊事故|小諸発電所第一調整池決壊事故]](長野県)。7人が死亡する大惨事となる。 |
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|align="right"|411 |
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|align="left"|南山城水害 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[1930年]] |
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|align="right"|290 |
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| align=left|日本唯一の五連[[マルチプルアーチダム]]、[[豊稔池ダム]]([[香川県]][[観音寺市]])が完成する。 |
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|align="right"|140 |
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|align="left"|[[昭和28年台風第13号|台風13号]] |
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| align=left|日本の統治下に置かれていた台湾に於いて、当時世界最大の[[烏山頭ダム]]([[台南州]])が完成する。 |
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|align="right"|393 |
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|align="right"|85 |
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|} |
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治水事業の停滞、加えて戦時中に行われた日本各地の森林乱伐は治水安全度を極度に低下させていた。そうした状況において、毎年のように[[台風]]や水害が来襲し、日本各地に甚大な被害をもたらした。 |
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[[1945年]](昭和20年)は[[原爆投下]]の惨禍を受けた直後の[[広島県]]を襲った[[枕崎台風]]、西日本各地に大雨をもたらした[[阿久根台風]]が襲来。[[1947年]](昭和22年)は日本最大の河川・[[利根川]]を決壊させて[[首都]]・[[東京都|東京]]を含む[[関東平野]]の大部分を水没させた[[カスリーン台風]]が[[関東地方]]と[[東北地方]]を襲い、[[1948年]](昭和23年)には[[アイオン台風]]が前年のカスリーン台風の惨禍冷めやらぬ中東北地方を襲って[[北上川]]を氾濫させ[[岩手県]][[一関市]]が壊滅的打撃を被った。[[1949年]](昭和24年)には[[デラ台風]]と[[ジュディス台風]]が[[九州地方]]に上陸して豪雨被害が多発し、さらに[[キティ台風]]が関東地方を直撃した。[[1950年]](昭和25年)に[[ジェーン台風]]が[[近畿地方]]を中心に多くの河川を氾濫させ、翌[[1951年]](昭和26年)には[[ルース台風]]が西日本を再度襲い[[山口県]]で大きな被害が生じた。[[1952年]](昭和27年)にはダイナ台風が[[静岡県]]を中心に被害を与えている<ref name="kishocho"/>。右表にもある通り1946年を除き毎年大型台風などが日本に上陸し、多くの[[死者]]・[[行方不明者]]や家屋・農地流失などの被害が続出している。 |
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特に[[1953年]](昭和28年)は水害による甚大な被害が夏季に集中的に発生した「水害の当たり年」であった。まず6月25日から28日に掛けて[[梅雨前線]]による[[昭和28年西日本水害]]<ref group="注">[[気象庁]]はこの災害について正式な災害名を付けていない。災害名は土木学会の調査報告書の基づき便宜的に記載する。</ref>が九州北部で発生。[[阿蘇山]]や[[英彦山]]、[[背振山地]]を中心に多い所で期間降水量が1,000[[ミリ]]以上となる猛烈な[[集中豪雨]]が降ったことで九州最大の河川である[[筑後川]]を始め[[白川 (熊本県)|白川]]、[[遠賀川]]、[[嘉瀬川]]、[[大分川]]など九州北部の河川が大小問わず全て氾濫。[[熊本市]]中心部は[[阿蘇山]]の[[火山灰]]を含む泥で埋まり、[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]は洪水が流れ込んで水没。さらに[[九州電力]]が建設していた[[夜明ダム]](筑後川)が上流から流れ来る濁流に耐えきれず決壊するなど都市部・山間部問わず九州北部各地に大きな被害を与え、死者・行方不明者1,001名を出す九州地方戦後最悪の水害となった<ref name="kyudai"/><ref>『筑後川五十年史』pp.124-125</ref>。7月16日から7月17日に掛けては同じ梅雨前線が今度は[[紀伊半島]]で再び集中豪雨を降らせ([[紀州大水害]]・南紀豪雨)、特に[[日高川]]や[[有田川]]流域で[[堤防]]決壊や[[がけ崩れ]]などを引き起こし死者・行方不明者1,124名という戦後日本の集中豪雨災害において最悪の人的被害をもたらした。8月11日から15日には[[京都府]]南部で集中豪雨が発生(南山城水害)し、[[大正池 (井手町)|大正池]](玉川)が決壊する<ref group="注">1960年に重力式コンクリートダムとして再建されている。</ref>など死者・行方不明者430名。そして9月22日から26日に掛けては[[昭和28年台風第13号|台風13号]]が近畿地方を直撃して[[淀川]]・[[由良川]]に過去最悪の水害をもたらし、死者・行方不明者488名という甚大な災禍となった<ref name="kishocho"/><ref>[http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/know/old/flood/b022.html 国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所『洪水の記録』]2015年8月4日閲覧</ref><ref>『日本の多目的ダム 1963年版』p.164</ref>。これらの災害は映像が残されており、全体の被災状況は[https://www.youtube.com/watch?v=RnLodeO1j14 『昭和ニュース』]にて、西日本水害による[[熊本県]]下の被災状況は[http://www.kagakueizo.org/create/other/5583/ 『県政ニュース』(閲覧注意)]において視聴可能である。 |
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1953年はこのように毎月日本各地で多くの死者・行方不明者を伴う水害が発生した。年間全体で見ると水害による全死傷者数は1万5,181名となり[[伊勢湾台風]]が上陸した[[1959年]](昭和34年)に次ぐ戦後2番目の人的被害を出しているが、さらに深刻だったのは水害による被害額である。1953年の年間水害被害総額は約5,941億円で同年の名目[[国民所得]](約584億1,500万円)の10倍が水害により失われた計算となる。この数値を[[2004年]](平成16年)物価で換算すると被害額は約3兆2,401億円という莫大な額になり、水害被害額としては戦後最悪の被害額となっている<ref>『河川便覧 2004年版』pp.54-55</ref>。連年日本全土を襲った水害は、敗戦からの復興を目指す日本経済に大きな打撃を与え、復興の大きな阻害要因となった。 |
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<gallery widths="190" heights="140"> |
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File:kathleen_flood.png|[[カスリーン台風]]による[[利根川]]破堤に伴う浸水範囲。[[東京都]][[江戸川区]]まで水没している。 |
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File:Daifuku, Asakura in 1953.JPG|[[昭和28年西日本水害]]による、[[福岡県]][[朝倉郡]]大福村([[朝倉市]])の被災状況。[[流木]]が一面に広がる。 |
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File:Yoake dam.JPG|昭和28年西日本水害において建設中に両岸が決壊した[[夜明ダム]]([[筑後川]])。 |
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File:Taishōike Kyoto JPN 001.jpg|南山城水害で決壊し多くの死者を出した[[大正池 (井手町)|大正池]](玉川)。[[1960年]](昭和35年)に重力ダムとして再建。 |
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=== 建設省の発足 === |
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[[File:Fujiwara Dam.jpg|200px|thumb|利根川改訂改修計画で建設された[[藤原ダム]]([[利根川]])。[[1958年]](昭和33年)完成。]] |
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戦前の河川行政を担っていた[[内務省 (日本)|内務省]]は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の命令により1947年解体され、[[戦災復興院]]、[[建設院]]を経て1948年に[[国土交通省]]の前身となる'''[[建設省]]'''が発足し旧内務省の河川行政を継承した<ref>『湖水を拓く』</ref>。その建設省はカスリーン・アイオン両台風による重大な被害を受け、治水調査会を設けて新たな治水対策を検討。利根川・北上川を始め日本の主要10河川<ref group="注">北上川、江合川・[[鳴瀬川]]、最上川、利根川、[[信濃川]]、[[常願寺川]]、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の10河川。江合川は北上川水系であるが、江合川放水路で鳴瀬川と連結しているため一括りになっている。</ref>で新たな治水計画である改訂改修計画を1949年に作成した。改訂改修計画は従来の堤防建設を基本とした治水計画に、ダムによる[[洪水調節]]を積極的に組み込んだことが大きな特徴となっている<ref>『河川総合開発調査実績概要 第1巻』p.7</ref>。 |
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この改訂改修計画において計画・構想されたダムとして、[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム|北上川五大ダム事業]]である[[石淵ダム]]([[胆沢川]])・[[田瀬ダム]]([[猿ヶ石川]])・[[湯田ダム]]([[和賀川]])・[[四十四田ダム]](北上川)・[[御所ダム]]([[雫石川]])<ref>『北上川改訂改修計画』p.3</ref>、[[最上川]]水系では[[都道府県営ダム|県営ダム事業]]である荒沢ダム([[赤川]])<ref group="注">当時の赤川は最上川の支流であり、赤川放水路完成により最上川水系と分離して独立する。</ref>と[[管野ダム]]([[置賜野川]])<ref>『最上川改訂改修計画』pp.3-4</ref>、利根川水系では[[藤原ダム]]・[[沼田ダム計画|岩本ダム]](利根川)・[[薗原ダム]]([[片品川]])・[[相俣ダム]](赤谷川)・[[八ッ場ダム]]([[吾妻川]])・[[下久保ダム|坂原ダム]]([[神流川 (利根川水系)|神流川]])<ref>『利根川改訂改修計画』巻末折込</ref>、[[吉野川]]水系では[[早明浦ダム]](吉野川)と[[柳瀬ダム]]([[銅山川 (四国)|銅山川]])<ref>『吉野川改訂改修計画』p.3</ref>などがある。その後1953年に発生した一連の水害被害を受け、[[第5次吉田内閣]]の時に治山治水対策協議会が設置され、ダムによる洪水調節の重要性を明記した治山治水基本対策要綱が[[閣議]]で決定。これに基づき[[木曽川]]水系や淀川水系、筑後川水系でもダムによる洪水調節計画が立案され、発電用ダムに治水目的を追加した[[丸山ダム]](木曽川)のほか、[[天ヶ瀬ダム]](淀川)・[[高山ダム]]([[名張川]])、[[松原ダム]]([[筑後川]])・[[下筌ダム]](津江川)などのダムが計画された<ref>『日本の多目的ダム 1963年版』p.144,p.152,p.180</ref>。 |
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また、戦争により中断した直轄ダム事業も建設省の手によって続々再開し、新規のダム事業も施工を開始した。1947年に石淵ダム着工、1948年に[[鳴子ダム]]([[江合川]])着工、1948年に永瀬ダム([[物部川]])<ref group="注">1956年の完成後、管理を高知県に移管させ、現在に至る。</ref>と柳瀬ダム着工、1950年に[[猿谷ダム]]([[熊野川]])着工および[[五十里ダム]](男鹿川)と田瀬ダムの工事が再開され、これ以降も日本各地で[[国土交通省直轄ダム|建設省直轄ダム事業]]が進められて行く<ref name="dam64">『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.64</ref>。 |
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なお、ダムを建設する上で不可欠である建設業界の動きであるが、戦前は[[セメント]]を大量に使用するという理由から[[商工省]]化学局無機課が監督していた。しかし建設業者を具体的に監督するための法令はなく、資本・技術・社会的信用が欠如した悪徳建設業者がはびこる状況だった。悪徳業者は[[下請け]]の一括化、受注の[[ダンピング]]、果ては手抜き工事の横行という触法行為を半公然に行うという有様であり<ref name="gyosha">『湖水を拓く』p.112</ref>、こうした粗末な行為によって建設業界全体への信用が低下しただけでなく、ダム建設にも影響を及ぼした例がある。[[北海道]]の[[幌内川]]に建設された[[幌内ダム]]は、[[1940年]](昭和15年)12月に当時の幌内川送電が事業主体として建設した高さ13.4メートルの堰堤であったが、半年後の翌[[1941年]](昭和16年)6月に死者60名を出す[[幌内ダム#幌内ダム決壊事故|幌内ダム決壊事故]]が発生した。戦時中であったため根本的な原因は不明であるが、事故後の[[北海道庁]]による検証では施工業者はダム工事のイロハである基礎岩盤までの掘削を行わず、岩盤上に堆積した砂礫層に直接ダム本体の[[コンクリート]]を打設していた。容易に水が浸透する砂礫層は[[水圧]]に極めて弱いため、ダムを建設する際には必ず川に堆積する砂礫層を完全に除去して堅い基礎岩盤を露出させ、その上にダム本体のコンクリートを打設するのが基本中の基本であるが、当時の施工業者はそれを行わなかった。さらに試験的に貯水を行う試験湛水においても、監督官庁である道庁の許可を得ず無断で湛水を始めるという法令違反も犯していた<ref name="horonai">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/SAll.cgi?db3=504 『ダム便覧』幌内ダム]2015年8月4日閲覧</ref>。戦後建設省が発足し、国土復興を円滑に進める上で建設業者への指導監督を明確化させる必要性が高まったことから、建設業者の監督官庁は建設省に移行し、1949年には[[建設業法]]が制定されて業者登録制を採用。請負契約内容の原則化と悪質業者への取締規定を設けて綱紀粛正を図った<ref name="gyosha"/>。決壊した幌内ダムは1951年に新しい建設業法に則った建設業者により施工・再建されている<ref name="horonai"/><ref group="注">1973年、需要の低下と発電所の故障を契機にダムは廃止され、以降砂防ダムとして機能している。</ref>。 |
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File:Ishibuchi-237-r1.JPG|[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム|北上川五大ダム]]の一つ、[[石淵ダム]]([[胆沢川]])。[[2012年]](平成24年)[[胆沢ダム]]試験湛水に伴い水没。 |
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ファイル:Maruyama Dam 1954.jpg|建設中の[[丸山ダム]]([[木曽川]])。1955年完成。 |
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File:Yanase-2243-r1.jpg|[[吉野川]]改訂改修計画に盛り込まれた[[柳瀬ダム]]([[銅山川 (四国)|銅山川]])。[[1953年]](昭和28年)完成。 |
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File:Horonai Dam survey 1978.jpg|手抜き工事で決壊事故を起こした[[幌内ダム]]([[幌内川]])空撮<ref name="kokudo"/>。[[1951年]](昭和26年)再建後[[1973年]](昭和48年)廃止。 |
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=== 食糧増産とダム === |
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[[File:Kamogawa-1476-r1.JPG|200px|thumb|[[農林水産省直轄ダム|農林省直轄ダム]]では初のコンクリートダムである[[鴨川ダム]](鴨川)。[[東条湖]]の名で有名。]] |
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一方、[[農林省]]では国営土地改良事業・国営農業水利事業を開始した。敗戦時の農地面積は[[1936年]](昭和11年)当時を100とした場合、86.4[[パーセント]]に縮小していた。[[1952年]](昭和27年)に至ってようやく90パーセントにまで回復するものの、戦争や相次ぐ水害による農地への被害によって農地面積は戦前の水準まで回復していなかった。農業生産率は1950年の段階で戦前の水準まで回復し、1952年には123パーセントに上昇しているものの人口増加率が同年で127パーセントになっているため、食糧供給を充足するだけの生産能力にはなっていない。終戦直後の極端な食糧不足は食糧メーデーという形で国民の不満が爆発。国民の不満を解消するために農林省は食糧増産を急務の課題とした。また1946年の[[農地改革]]と自作農創設特別措置法によってそれまで[[地主]]に従属していた[[小作農]]が[[自作農]]として独立したこと、翌1947年に[[農業協同組合法]]が制定されて[[農業協同組合]]が日本各地に設立されたことで、新たな農地管理のための法整備も不可欠となっていた<ref>『河川総合開発調査実績概要 第1巻』p.6</ref><ref>『湖水を拓く』pp.110-111</ref>。1949年、農林省は[[土地改良法]]を制定。耕作地・耕作者中心主義に立脚した農業制度への切り替え、それまで地域によって異なっていた農業関連制度の統一、[[土地改良区]]を中心とする農業集団化制度の確立、そして国営・県営土地改良事業の制度化を柱として、農業の生産性を向上させる目的があった。土地改良事業・農業水利事業は未開発地の開拓農地や既開墾農地に対する灌漑整備を図るため、大規模な用水路整備を行うことで生産性の向上に加え安定的に用水を供給する狙いがあった<ref>[http://www.maff.go.jp/j/nousin/kikaku/gaiyou/ 農林水産省『土地改良法』]2015年8月4日閲覧</ref>。用水整備を行う上で、水源として積極的に建設されたのが、ダムであった。 |
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1947年に着手された国営東条川農業水利事業と国営野洲川農業水利事業が[[農林水産省直轄ダム|農林省直轄ダム事業]]としては最初となる。国営東条川農業水利事業は[[兵庫県]]の[[加古川]]流域における4,000ヘクタールの農地開発を目的に計画された事業で、加古川水系東条川の二次支流である鴨川に、[[東条湖]]の名で知られる'''[[鴨川ダム]]'''を建設した。鴨川ダムは農林省が手掛けた最初のコンクリートダムであり、1951年に完成する。鴨川ダムの完成後も用水整備は続けられ、東条川農業水利事業が[[1964年]](昭和39年)に完了した後も引き続き加古川西部農業水利事業や東播用水事業など加古川流域の[[播磨平野]]における灌漑整備が進められ、一連の事業は[[1993年]](平成5年)に完成する。加古川流域では鴨川ダムのほか大川瀬ダム([[東条川]])、糀屋ダム(仕出原川)、[[つくはら湖|呑吐(どんど)ダム]]([[志染川]])、川代ダム([[篠山川]])が建設され灌漑のみならず[[上水道]]や[[工業用水道]]供給にも利用されている<ref>[http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/sekei/kokuei/kakogawa/kakogawa04.html 農林水産省近畿農政局『加古川流域の課題』]2015年8月4日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1476 『ダム便覧』鴨川ダム]2015年8月4日閲覧</ref>。一方国営野洲川農業水利事業は、[[琵琶湖]]に流入する河川の中で最大級の規模を有する[[滋賀県]]の[[野洲川]]上流にに[[野洲川ダム]]を建設して、[[近江平野]]南部の用水供給を図る事業で1951年に完成した<ref>[http://suido-ishizue.jp/history/kinki/shiga.htm 『水土の礎』水土整備の歴史年表・近畿]2015年8月4日閲覧</ref>。完成以来流域の農地に用水を供給したがダム本体が老朽化したため、[[2001年]](平成13年)から[[ダム再開発事業]]に着手し、[[2009年]](平成21年)に完成した。以後ダムの管理は[[甲賀市]]、[[野洲市]]、[[栗東市]]、[[湖南市]]、[[守山市]]の5市が共同で行っている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3195 『ダム便覧』野洲川ダム(再)]2015年8月4日閲覧</ref>。 |
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[[東北地方]]では北上川の支流である滝名川に'''[[山王海ダム]]'''が1953年完成している。滝名川流域は河川の流量が少ない割に農地面積が広く、用水の需給バランスはすでに江戸時代の段階で破綻していた。また狭い流域内に27か所もの取水[[堰]]が建設され、[[盛岡藩]]と[[八戸藩]]により流域が分割されたことで水の運用が極めて複雑になった。このため[[頭首工]]付近の[[志和稲荷神社]]では300年以上にわたり通算36回にもおよぶ水争い「志和の水喧嘩」が発生し、そのうち5回は流血沙汰となり死者も出る激しい水争いもあった。慢性的な水不足を解消するため当時の[[紫波郡]][[志和村]]([[紫波町]])村長らが大規模ため池を山王海地点に建設する構想を立て、[[1926年]](大正15年)より農林省をはじめ各方面への[[陳情]]に奔走した結果、様々な紆余曲折を経ながら戦後国営山王海農業水利事業として着手。延べ71万人を動員し、総事業費4億2,500万円を投じた山王海ダムは構想から27年後に完成した。完成当時、ダム本体には「平安 山王海 1952」という文字が刻まれたが、これは「水争いが永遠に無くなり、平安であって欲しい」という願いを込めて当時の[[国分謙吉]][[岩手県知事]]が植樹したものである<ref>『北上川の今と昔』pp.50-51</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0236 『ダム便覧』山王海ダム(元)]2015年8月4日閲覧</ref>。山王海ダムは農地面積の拡大による用水不足に対応するため[[1990年]](平成2年)からダム再開発事業を行い。ダム本体のかさ上げと共に隣接する葛丸ダム(葛丸川)とトンネルで湖水を融通して貯水量の増加を図った。2001年に完成した新しい山王海ダムは農業用ダムとしては日本最大規模を有するダムとなったが、堤体には「平安 山王海 2001」と引き続きメッセージが植樹されている。 |
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このほか[[福島県]]の矢吹原野に用水を供給するため[[阿賀野川]][[水系]]から[[阿武隈川]]水系に流域変更を行う[[羽鳥ダム]]([[鶴沼川]])<ref>[http://www.dam-net.jp/backnumber/005/contents/suigenchi.html 一般財団法人水源地環境センター『ダム水源地ネット』羽鳥ダム]2015年8月4日閲覧</ref>など、日本各地で農業用ダムは盛んに建設され、灌漑整備も進められた結果コメを始めとする農作物の生産は拡大していった。 |
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File:Dondodam-7d396a05.JPG|鴨川ダムと連携して[[播磨平野]]に水を供給する[[つくはら湖|呑吐ダム]]([[志染川]])。[[神戸市]]の水源でもある。 |
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File:Yasugawa-1353-r1.jpg|[[ダム再開発事業]]中の[[野洲川ダム]]([[野洲川]])。[[2009年]](平成21年)に再開発が完成した。 |
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File:Sannoukai-263-r1.JPG|「志和の水喧嘩」を根絶させた[[山王海ダム]](滝名川)。[[2001年]](平成13年)にダム再開発事業が完成した。 |
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File:Hatori-490-r1.jpg|[[羽鳥湖]]の名でも知られる[[羽鳥ダム]]([[鶴沼川]])。[[1956年]](昭和31年)完成。 |
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=== 電気事業再編 === |
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[[File:MATSUNAGA Yasuzaemon.jpg|200px|thumb|電気事業再編成の立役者となった[[松永安左エ門]]。「電力の鬼」とあだ名された松永は権力を嫌う硬骨漢でもあった。]] |
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[[国家総力戦]]を遂行するため設立された[[日本発送電]]は、終戦後も引き続き水力発電事業を進めていた。敗戦により[[石炭]]、[[石油]]、[[ガス]]といったあらゆる資源が欠乏する中で電力は唯一利用できるエネルギーとして、広範に利用された。特に一般家庭など民需における電力消費は[[灯火管制]]が解除されたことで急激に増大。1945年の年間[[電力量]]は約195億[[キロワット時]]だったのが、1947年には294億キロワット時と100億キロワット時も増加した。ところが肝心の電力設備は[[空襲]]による変電・送電施設の破壊や既存発電施設の酷使による設備故障、石炭不足による[[火力発電所]]の稼働率低下などが重なり電力供給能力が低下する中急激な需要が拡大して需給バランスは崩壊。停電が頻繁に発生していた。また石炭や石油は合理化の問題や輸入のための[[外貨]]獲得が困難でコスト上の問題もはらんでおり、未開発の有望な地点が多く残されている水力発電に対する期待は大きかった。1947年、当時経済政策全般を管掌していた内閣[[経済安定本部]]は河川総合開発調査協議会を本部内に設置。内務省、農林省、商工省と共同で24河川において総合開発調査を開始し、電力行政を管掌する商工省では[[阿賀野川]]、[[黒部川]]、[[犀川 (長野県)|犀川]]、[[神戸川 (島根県)|神戸川]]、吉野川、[[玖珠川]]、[[球磨川]]、[[十和田湖]]、[[猪苗代湖]]の7河川2湖沼を調査河川として水力発電計画を立案<ref>『河川総合開発調査実績概要 第1巻』p.3</ref>、日本発送電は協議会に沿った形で、または独自に[[只見川]]や[[飛騨川]]における[[朝日ダム]]などの水力発電事業に着手した。しかし[[戦時体制]]を進める上で電気事業の立場から協力した日本発送電の存在を総司令部が見逃すはずはなく、1948年日本発送電と9配電会社は[[過度経済力集中排除法]]における第二次指定会社の対象企業として[[持株整理委員会]]より指定を受けた<ref>『飛騨川 流域の文化と電力』p.240,p.644</ref>。 |
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日本発送電を解体するに当たり、発電・送電・配電の一体化では一致を見たものの解体後の新組織形態を従来の日本全国一社経営とするか、地域別に[[電力会社]]を設立して分割するかで激しい意見対立が発生。1949年政府は電気事業再編成審議会を設立し、意見集約を図った。審議会では審議委員長である旧[[東邦電力]]社長の[[松永安左エ門]]が9ブロックに地域分割した電力会社設立を強硬に主張。最終的に付帯意見であった松永案が総司令部の意向もあって政府案となり国会に電気事業再編成法案が提出されたが審議は紛糾、政府や与党内にも反対意見が根強く審議未了となった。業を煮やした総司令部は再編成が成立するまで新規電気事業の許可を凍結すると政府に強固な圧力を掛け、最終的に[[ポツダム政令]]という伝家の宝刀を用いて1950年'''[[日本発送電#電気事業再編成令|電気事業再編成令]]'''と公益事業令を発令、属地主義に基づく配分作業が開始された。しかし水力発電の有望な未開発地点が多く残された東北地方・[[中部地方]]・[[北陸地方]]については発電用[[水利権]]の帰属を巡り紛糾。特に電力会社垂涎の的であった只見川流域については、[[本名ダム]]・上田(うわだ)ダムの発電用水利権帰属を巡る[[東北電力]]と[[東京電力]]の争いが河川管理者である[[福島県]]・[[新潟県]]を巻き込み、ひいては東北地方対[[関東地方]]・新潟県の争いという地域間紛争に発展。法廷闘争や国会の[[参考人招致]]にまで問題が拡大した<ref name="hidagawa">『飛騨川 流域の文化と電力』pp.560-565</ref><ref>『電源只見川開発史』pp.239-291,pp.311-389</ref>。 |
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最終的には公益事業委員会の裁定により、これら紛糾した水利権帰属問題は[[物部長穂]]が1926年の論文で主張した「河川一貫開発」に基づき、例えば[[木曽川]]水系では本流は旧[[大同電力]]の流れをくむ[[関西電力]]が、飛騨川など[[岐阜県]]内の支流は旧東邦電力の流れをくむ[[中部電力]]が水利権を継承するというように属地外については旧電力会社の流れをくむ新会社が一社で一河川を独占的に開発する方向で解決し、以後[[北海道電力]]の日高電源一貫開発計画や中部電力の[[飛騨川流域一貫開発計画]]のように水系・流域で一貫した水力開発計画が着手された。1951年5月1日、日本発送電は9電力会社<ref group="注">北海道電力・東北電力・東京電力・北陸電力・中部電力・関西電力・[[中国電力]]・[[四国電力]]・九州電力。[[沖縄電力]]は[[1972年]](昭和47年)の[[沖縄返還]]以後に誕生した。</ref>に[[企業分割|分割]]・[[民営化]]され電力国家管理は終焉を迎えた<ref name="hidagawa"/>。なお電力行政を司る商工省はこの間1949年に廃止され、[[通商産業省]]が新たに発足し電力行政を継承している。 |
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しかし設立間もない9電力会社は経営基盤が弱く、大規模な水力発電開発を遂行するだけの経営的な体力が不足していた。さらに1950年の[[朝鮮戦争]]に伴う[[特需景気]]が電力需要をさらに急増させ、記録的な渇水もあって深刻な電力危機に直面した。このため大規模な水力発電事業を政府の[[財政投融資]]で円滑に実施する必要性が生じ<ref>『湖水を拓く』p.109</ref>、この目的を以って1952年7月に電源開発促進法が成立。9月には政府と9電力会社が共同出資して[[高碕達之助]]を初代総裁とする[[特殊法人]]・'''[[電源開発]]'''が発足した。電源開発は電源開発促進法第13条に基づき、只見川のように大規模でかつ実施が困難な電力開発地点や北上川、[[熊野川]]など国土総合開発(後述)の観点で河川総合開発との整合性を図る必要のある地点、球磨川など電力の地域需要を調整する上で重要な地点を開発することが定められた。北上川五大ダムである石淵ダムの水力発電事業(胆沢第一発電所)<ref group="注">胆沢ダム完成に伴い旧発電所は廃止され、新しい胆沢第一発電所に機能が移管されている。</ref>を事業の出発点とした電源開発であるが、北海道電力が資金面の問題で電源開発に事業を移管した[[糠平ダム]]([[音更川]])を中心事業とする十勝糠平系一貫電源開発事業などに発足当初から取り掛かった。電源開発はその後只見川や[[天竜川]]、[[庄川]]などにおいて日本のダム事業史において大きな足跡を残すダムを建設するようになる<ref>『電源開発30年史』pp.72-78,pp.94-95</ref>。 |
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File:Asahi-1083-r1.jpg|[[日本発送電]]最末期に計画された[[朝日ダム]]([[飛騨川]])。[[中部電力]]が継承し1953年完成。 |
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File:Honna-488-r1.jpg|水利権を巡り紛糾した[[本名ダム]]([[只見川]])。[[東北電力]]が継承し1954年完成。 |
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File:Isawa I power station.jpg|[[電源開発]]が事業の第一歩を記した旧胆沢第一発電所。胆沢ダム完成により新発電所に機能移転。 |
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File:NukabiraDam1.JPG|電源開発により建設された[[糠平ダム]]([[音更川]])。糠平湖は[[北海道]]有数の[[人造湖]]。1956年完成。 |
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=== 河川総合開発事業の成立 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+特定地域総合開発計画に関わる主なダム事業<ref>『国土総合開発特定地域の栞』pp.12-65</ref><ref>[http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/suido-kanri/senen-kougyouyou-suidou1.html 宮城県『仙塩工業用水道について』]2015年8月5日閲覧</ref><ref>『日本の多目的ダム 1963年版』p.194</ref> |
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!特定地域 |
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!対象水系 |
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!主なダム |
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|align="left"|十和田岩木川||align="left"|[[岩木川]]<br/>[[奥入瀬川]]||align="left"|[[目屋ダム|目屋]](岩木川) |
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|align="left"|[[北上特定地域総合開発計画|北上]]||align="left"|[[北上川]]<br/>[[鳴瀬川]]||align="left"|[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム|北上川五大ダム]]<br/>[[岩洞ダム|岩洞]](丹藤川)・[[豊沢ダム|豊沢]](豊沢川)<br/>[[鳴子ダム|鳴子]]([[江合川]])・[[花山ダム|花山]]([[迫川]]) |
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|align="left"|仙塩||align="left"|[[名取川]]||align="left"|[[大倉ダム|大倉]]([[大倉川 (宮城県)|大倉川]]) |
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|align="left"|阿仁田沢||align="left"|[[米代川]]<br/>[[雄物川]]||align="left"|[[鎧畑ダム|鎧畑]]([[玉川 (秋田県)|玉川]])・萩形(小阿仁川)<br/>森吉(小又川) |
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|align="left"|[[最上川#最上特定地域総合開発計画|最上]]||align="left"|[[最上川]]||align="left"|[[高坂ダム|高坂]]([[鮭川]])・荒沢([[赤川]]) |
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|align="left"|[[只見特定地域総合開発計画|只見]]||align="left"|[[阿賀野川]]<br/>[[信濃川]]||align="left"|[[奥只見ダム|奥只見]]・[[田子倉ダム|田子倉]](只見川)<br/>[[黒又川第一ダム|黒又川第一]]・[[黒又川第二ダム|黒又川第二]](黒又川) |
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| align=left|[[小牧ダム]]([[庄川]])が完成。日本初の大規模機械化施工技術による建設が行われる。 |
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|align="left"|[[利根川#利根特定地域総合開発計画|利根]]||align="left"|[[利根川]]||align="left"|[[利根川水系8ダム|利根川上流ダム群]]<br/>[[川俣ダム|川俣]]([[鬼怒川]])・[[五十里ダム|五十里]](男鹿川) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1933年]] |
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| align=left|[[沖浦ダム]](浅瀬石川)、[[多目的ダム]]として日本で初めて施工が開始される。 |
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|align="left"|飛越||align="left"|[[常願寺川]]<br/>[[庄川]]<br/>[[神通川]]||align="left"|[[成出ダム|成出]]・[[椿原ダム|椿原]](庄川)<br/>打保(神通川) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1935年]] |
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| align=left|河川堰堤規則・発電用高堰堤規則発令。高さ15メートル以上というダムの基準が日本で初出。 |
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|align="left"|[[天竜川#天竜東三河特定地域総合開発計画|天竜東三河]]||align="left"|[[天竜川]]<br/>[[豊川]]||align="left"|[[佐久間ダム|佐久間]]・[[秋葉ダム|秋葉]](天竜川)<br/>[[美和ダム|美和]]・[[高遠ダム|高遠]]([[三峰川]])・[[宇連ダム|宇連]]([[宇連川]]) |
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| align=left|[[内務省 (日本)|内務省]]、[[物部長穂]]の提言を受け全国7河川1湖沼において「河水統制事業」に着手。[[河川総合開発事業]]のはしりとなる。 |
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|align="left"|[[木曽川#木曽特定地域総合開発計画|木曽]]||align="left"|[[木曽川]]||align="left"|[[丸山ダム|丸山]](木曽川)・[[横山ダム|横山]]([[揖斐川]])<br/>[[牧尾ダム|牧尾]](王滝川)・[[朝日ダム|朝日]]([[飛騨川]]) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1937年]] |
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| align=left|[[三滝ダム]]([[鳥取県]][[智頭町]])が完成。以後、日本においてバットレスダムは建設されなくなる。 |
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|align="left"|[[紀の川#吉野熊野特定地域総合開発計画|吉野熊野]]||align="left"|[[紀の川]]<br/>[[新宮川]]||align="left"|[[大迫ダム|大迫]]([[紀の川]])・[[津風呂ダム|津風呂]](津風呂川)<br/>[[猿谷ダム|猿谷]]・[[風屋ダム|風屋]]([[熊野川]])・[[池原ダム|池原]]([[北山川]]) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1938年]] |
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| align=left|戦前では堤高が日本一の塚原ダム([[耳川]])が完成する。 |
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|align="left"|大山出雲||align="left"|[[斐伊川]]<br/>[[旭川 (岡山県)|旭川]]||align="left"|[[三成ダム|三成]](斐伊川)<br/>[[湯原ダム|湯原]]・社口(旭川) |
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| align=left|国家による電力統制策により[[日本発送電]]株式会社が発足。発電用ダムが全て国家管理される。 |
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|align="left"|芸北||align="left"|[[太田川]]||align="left"|[[王泊ダム|王泊]]([[温井ダム#滝山川|滝山川]])[[ダム再開発事業|再開発]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1940年]] |
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| align=left|[[向道ダム]]([[錦川]])、多目的ダムとして日本で初めて完成、供用される。 |
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|align="left"|錦川||align="left"|[[錦川]]||align="left"|[[菅野ダム|菅野]]・水越(錦川) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1941年]] |
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| align=left|[[田瀬ダム]](猿ヶ石川)が内務省により着工。直轄ダム第1号となる。 |
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|align="left"|那賀川||align="left"|[[那賀川]]||align="left"|[[長安口ダム|長安口]]・[[川口ダム|川口]]・小見野々(那賀川)<br/>大美谷(大美谷川) |
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| align=left|[[幌内ダム#幌内ダム決壊事故|幌内ダム決壊事故]](北海道)。60人が死亡する大惨事となる。 |
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|align="left"|北九州||align="left"|[[遠賀川]]||align="left"|力丸(八木山川) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1943年]] |
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| align=left|[[雨竜第1ダム|雨竜第一ダム]](雨竜川)が完成。日本最大の湛水面積の[[朱鞠内湖]]が誕生する。 |
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|align="left"|南九州||align="left"|[[大淀川]]<br/>[[肝属川]]||align="left"|[[高隈ダム|高隈]](串良川) |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1944年]] |
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| align=left|「決戦非常措置要領」発令により、ほぼ全てのダム事業が強制的に中断される。 |
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|} |
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{{main|河川総合開発事業}} |
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敗戦により荒廃した国土を復興させるに当たり、[[台湾]]や[[朝鮮半島]]など戦前統治下にあった地域が喪失したことで日本本土の資源を有効に開発することが絶対的な条件であった。内閣経済安定本部は、[[水資源]]の豊富な日本では戦前から活発に実施されていた河水統制事業をさらに積極的に推進することで、水力発電や灌漑といった[[利水]]開発を促進する必要があると考えていた。これは、戦勝国である[[アメリカ合衆国|アメリカ]]において、[[ニューディール政策]]の柱であった[[テネシー川流域開発公社]] (TVA)が[[世界恐慌]]以後のアメリカ経済回復に大きな役割を果たしたという前例があり、総司令部民政局の官僚の多くがニューディール政策を信奉する[[ニューディーラー]]であったことも背景にある<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.61</ref>。先述したように1947年の河川総合開発調査協議会設置以降、建設省は治水事業の立場から改訂改修計画や治山治水緊急対策要綱を制定してダム事業を推進、農林省は国営土地改良事業や国営農業水利事業の水源として農業用ダムを活用、商工省や日本発送電、および分割・民営化後に誕生した9電力会社や電源開発は大規模水力発電所計画において必須となる発電用ダムを日本各地で建設していた。また[[地方自治体]]による河水統制事業も続々再開され[[相模ダム]]([[相模川]])や[[厚東川ダム]]([[厚東川]])、松尾ダム([[小丸川]])などが完成。1950年には総司令部よりアメリカ合衆国対日援助見返資金が供出されて[[国庫]]の補助が充実したことから、さらに多くの河川で河水統制事業が計画されるに至った。これ以降、国庫補助を受けて建設される地方自治体の多目的ダムを[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]と呼ぶ<ref>『湖水を拓く』pp.105-107</ref><ref name="dam64"/>。 |
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各事業者によってそれぞれの立場から河川開発が活発化するに連れて、一河川における治水事業と利水事業をより合理的に運用することで開発が遅れている地方の地域開発を促進するという気運が高まっていった。1950年[[第3次吉田内閣]]は[[国土総合開発法]]を成立させ、資源開発・産業振興・国土保全・災害防除などに関して高度の総合施策を必要とし、実施することで著しい効果が期待できる地域を「特定地域」と定め、治水・[[砂防]]・土地改良・水力発電・[[道路]][[港湾]]整備などを包括して実施する'''[[河川総合開発事業#特定地域総合開発計画|特定地域総合開発計画]]'''の策定に入った。特定地域総合開発計画は国土総合開発法第10条に基づき計画されるものであり、「国土を総合的に利用、開発、促進し、並びに産業立地の適正化を図る」という同法の目的を達成させるために計画される、地域開発を発展・高度化させた総合開発計画である。北海道を除く日本各地から51地域が指定申請を行い、翌1951年に19地域が、[[1957年]](昭和32年)に3地域が指定された。これら22地域のうち北奥羽・能登・対馬の3特定地域は河川整備計画がなく、四国西南と阿蘇特定地域はダム計画が消滅したが残る地域は程度の差はあれダム事業による河川開発が計画に盛り込まれた<ref>『国土総合開発特定地域の栞』p.12</ref><ref>『木曽三川治水事業のあゆみ』p.506-507</ref>。 |
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===近代水道整備とダム=== |
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[[ファイル:Nunobiki dam06bs3200.jpg|250px|thumb|日本初のコンクリートダムで建設後100年を超える[[布引五本松ダム]]([[生田川]]・[[神戸市]])]] |
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近代におけるダム建設の歴史は、[[1854年]]の[[日米和親条約]]締結・[[1858年]]の[[日米修好通商条約]]締結による開国に始まる。日米和親条約により下田・箱館([[函館]])が、日米修好通商条約により神奈川(横浜)・函館・長崎・新潟・兵庫(神戸)が開港し、以後開港した都市は急速に人口が増加した。このため飲料水の供給は重要な課題となったが、当時は河川から直接取水していたこともあり[[コレラ]]・[[赤痢]]などの水系[[感染症]]が多発。多くの死者を出した。これを防ぐべく近代[[上水道]]事業が[[横浜市]]を皮切りに次第に普及していった。この中で全国第3番目の水道事業を開始した[[長崎市]]で[[1891年]](明治14年)に'''本河内高部ダム'''が完成した。それまで[[灌漑|かんがい]]用しか建設されなかったダムであったが、この時日本で初めて上水道専用のダム<ref>[[1982年]](昭和57年)の[[長崎大水害]]を機に、長崎県による「長崎水害緊急治水ダム事業」として洪水調節目的を加えた[[多目的ダム]]として現在施工中である。</ref>として完成したのである。 |
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主なものとして、まず[[北上特定地域総合開発計画]]は日本の TVA とも呼ばれ、岩手県内では北上川五大ダムによる治水と電源開発による水力発電、[[岩洞ダム]](丹藤川)などによる土地改良事業などが、宮城県内では鳴子ダムや[[花山ダム]]([[迫川]])による江合川・迫川の治水、[[鳴瀬川]]の治水が主な柱となっている。[[只見特定地域総合開発計画]]は只見川流域の水力発電開発が柱であり、電源開発による[[奥只見ダム|奥只見]]・[[田子倉ダム]](只見川)という巨大ダム事業を基幹として只見川・阿賀野川の一貫水力発電開発が計画された。[[利根川#利根特定地域総合開発計画|利根特定地域総合開発計画]]は[[矢木沢ダム]](利根川)を筆頭とする[[利根川水系8ダム|利根川上流ダム群]]や[[川俣ダム]]([[鬼怒川]])・五十里ダムの鬼怒川上流ダム群によって利根川の治水を図ると同時に複数の用水路建設による[[関東平野]]一帯の灌漑事業と[[首都圏]]への電力供給が目的である。[[天竜川#天竜東三河特定地域総合開発計画|天竜東三河特定地域総合開発計画]]は[[美和ダム|美和]]・[[高遠ダム]]([[三峰川]])による天竜川上流域の治水と発電、[[宇連ダム]]([[宇連川]])を水源とする[[豊川用水]]の整備による[[渥美半島]]への灌漑、天竜川を利用した電源開発の水力発電事業が骨子であり、その根幹として計画されたのが[[佐久間ダム]](天竜川)である。[[木曽川#木曽特定地域総合開発計画|木曽特定地域総合開発計画]]は丸山ダムや[[横山ダム]]([[揖斐川]])を中心とする木曽川の治水、中部電力が進めていた[[飛騨川流域一貫開発計画]]の水力発電事業、[[牧尾ダム]](王滝川)を水源とする[[知多半島]]への灌漑が主目的であり、日本最大級の用水路である[[愛知用水]]は本計画で推進された。[[紀の川#吉野熊野特定地域総合開発計画|吉野熊野特定地域総合開発計画]]は300年来の悲願である[[大和盆地]]への用水供給を図るため、[[紀の川]]と熊野川という[[紀伊半島]]の二大河川を猿谷ダムによってトンネルで連結して導水。[[和歌山平野]]への灌漑を図ると同時に[[大迫ダム]](紀の川)や[[津風呂ダム]](津風呂川)を建設して[[奈良市]]などへ水を供給(十津川・紀の川総合開発事業)するほか、[[池原ダム]]([[北山川]])など熊野川流域の水力発電開発を電源開発が行うという計画である<ref>『国土総合開発特定地域の栞』pp.12-42</ref>。こうした大規模総合開発は治水整備を強化させたほか、従来慢性的な水不足に悩まされていても有効な解決策が見出せなかった地域に用水の恩恵を与え、大都市圏への電力供給を強化させて[[高度経済成長]]の礎を作った。所定の目的を達した特定地域総合開発計画は[[1967年]](昭和42年)に完了した<ref>『木曽三川治水事業のあゆみ』p.507</ref>。 |
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さらに[[1900年]](明治23年)には[[神戸市]]が[[生田川]]に'''[[布引五本松ダム]]'''を完成させた。同じく水道用であるこのダムは、日本で初めて建設された[[コンクリートダム]]であった。ちなみにこの両ダムは現在でも現役で稼働しているが、本河内高部ダムは[[1982年]](昭和57年)の[[長崎大水害]]、布引五本松ダムは[[1995年]](平成7年)の[[阪神・淡路大震災]]という激甚災害を経験しながらも多少の損傷は受けながらも致命的な損壊を受けなかったという逸話を残している。 |
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一方、当初から特定地域の対象外である北海道は、独自の総合開発計画が策定されていた。1950年に[[北海道開発法]]が制定され、翌1951年に[[増田甲子七]]を初代長官とする[[北海道開発庁]]と[[地方支分部局]]である[[北海道開発局]]が発足した。北海道開発局は建設省の治水事業と農林省の土地改良事業を一括して実施する機関であり、北海道のダム事業は'''北海道総合開発計画'''に基づき北海道開発局が主体で実施した。最初に着目した河川は北海道最大の河川・[[石狩川]]であり、1950年に石狩川水域開発計画が策定されてダムによる総合開発が計画された。まず石狩川支流の[[雨竜川]]に農林省の国営土地改良事業と[[北海道企業局]]による水力発電事業の共同事業として1953年に'''鷹泊ダム'''が完成した。利水専用であるが北海道初の多目的ダムである。続いて計画されたのが[[三笠市]]を流れる幾春別川の[[桂沢ダム]]である。[[1934年]](昭和9年)より構想された北海道初の治水目的を持つ多目的ダムであるが、電源開発による水力発電事業、三笠市の[[上水道]]供給も目的としており、[[1957年]](昭和32年)に完成した。以後北海道においてもダム建設が盛んになり、[[金山ダム]]([[空知川]])や[[大夕張ダム]]([[夕張川]])、[[岩尾内ダム]]([[天塩川]])などの大規模ダムが計画・建設されてゆく<ref>『石狩川』pp.43-45</ref><ref>『北海道のダム』pp.57-58,pp.85-86</ref>。 |
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===電力開発とダム技術の発展=== |
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[[Image:Oi Dam power station.jpg|thumb|350px|[[大井ダム]]([[岐阜県]]・[[木曽川]])。左側にあるのは[[関西電力]]大井発電所]] |
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[[Image:Tsukabaru-2808-r1.JPG|thumb|250px|戦前では最も高かった塚原ダム([[宮崎県]]・[[耳川]])。国の[[登録有形文化財]]。]] |
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[[image:Marunumadam-2005-10-28 10-33-48 Fri -1130463228-.01.jpg|200px|thumb|[[バットレスダム]]六基の一つで国の[[重要文化財]]に指定された[[丸沼ダム]]([[群馬県]]・大滝川)]] |
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[[大正時代]]に入ると、本格的なコンクリートダム建設の時代に入る。この頃は[[殖産興業]]政策が実を結ぶと同時に[[日清戦争]]・[[日露戦争]]などに伴い重化学工業が発達、それに伴い大量の電力消費が必要となり各河川で'''[[水力発電]]'''開発が行われた。また明治以降欧米の技術が日本に紹介されるようになったが、ダムについても例外ではなかった。[[箱館戦争]]で[[榎本武揚]]・[[土方歳三]]らと共に新政府軍に抵抗し、その後[[工部省]]工部技監となった'''[[大鳥圭介]]'''は[[1882年]](明治15年)4月に[[丸善]]より『'''堰堤築法新按'''』を翻訳・刊行した。これは日本で初となるダム技術の専門書であり、図面などを取り入れて日本人に分かりやすく解説している。[[勝海舟]]と[[伊藤博文]]の推薦文が載せられているこの書籍はその後の日本ダム技術における出発点になった。時代の要請と新技術の流入により、欧米に遅ればせながらも日本にダム建設ブームが到来する。 |
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物部長穂が論文で提唱した「河川一貫開発」の概念はこうした施策により確立した。戦前に実施された河水統制事業は河川改修の一部として位置付けられていたが、戦後河川改修の中心事業として重要な位置を占めることになった。このため1951年、名称が'''[[河川総合開発事業]]'''に変更された。以後、河川総合開発事業は日本の河川事業において中心的な役割を果たして行く<ref>『木曽三川治水事業のあゆみ』p.513</ref>。 |
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嚆矢となったのは[[王子製紙]]株式会社が苫小牧の製紙工場に電力を供給するために建設された[[千歳川]]の水力発電所群である。[[1910年]](明治43年)の千歳第一ダム(小堰堤)を皮切りに千歳川に4基のダム・小堰堤を建設した。この中で[[1918年]](大正8年)に完成した千歳第三ダムは[[北海道]]初のコンクリートダムでもあった<ref>同年[[空知川]]に旧・野花南ダムが建設されたが、[[1971年]](昭和46年)の[[ダム再開発事業]]により水没し現存しない。</ref>。その後電力供給を生業とする企業が続々誕生するが、特に[[福澤諭吉]]の養子で大同電力を率い「電力王」と渾名された'''[[福澤桃介]]'''、[[東邦電力]]を率い「電力の鬼」とあだ名され戦後も電力行政に深く関わった'''[[松永安左エ門]]'''らは大規模な水力発電開発で名を上げた。彼らを始め全国で勃興した電力会社は、急流かつ水量の豊富な河川に目をつけ電源開発を積極的に実施した。特に開発されたのが[[木曽川]]・[[天竜川]]・[[信濃川]]であり、[[1924年]](大正13年)に完成した'''[[大井ダム]]'''(木曽川)は日本初の50メートル級ダムとして当時は「世界のビッグ・プロジェクト」として広く喧伝された。その後ダム建設はさらに巨大化・高度化し[[浅野総一郎]]による[[庄川]]電源開発の一環として[[1930年]](昭和5年)に建設された小牧ダムは日本初の大規模な機械化工程で建設され、[[1938年]](昭和13年)には戦前では最も堤高が高い'''塚原ダム'''([[耳川]])が建設されたが、これらはいずれも発電専用のダムであった。この他[[鉄道省]]<ref>[[日本国有鉄道|国鉄]]の前身。現在の[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]。</ref>は[[首都圏 (日本)|首都圏]]の鉄道網に電力を供給するべく[[宮中ダム]]([[信濃川]])を始め小千谷などに水力発電所([[信濃川発電所]])を建設、最大出力では屈指の発電量を誇った。 |
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File:Ure-1219-r1.jpg|[[天竜川#天竜東三河特定地域総合開発計画|天竜東三河特定地域総合開発計画]]で建設された[[豊川用水]]の水源、[[宇連ダム]]([[宇連川]])。[[1958年]](昭和33年)完成。 |
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File:Yokoyama Dam left view.jpg|[[木曽川#木曽特定地域総合開発計画|木曽特定地域総合開発計画]]で建設された[[横山ダム]]([[揖斐川]])。[[1964年]](昭和39年)完成。 |
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File:Osako-1567-r1.jpg|[[紀の川#吉野熊野特定地域総合開発計画|吉野熊野特定地域総合開発計画]]で計画された[[大迫ダム]]([[紀の川]])。[[1973年]](昭和48年)完成。 |
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File:Katsurazawa-49-r1.JPG|北海道初の治水目的を持つ多目的ダム、[[桂沢ダム]](幾春別川)。[[ダム再開発事業]]中。 |
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== 昭和3(1955年-1969年) == |
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この時代のダム建設の特徴として'''[[バットレスダム]]'''が集中的に建設されていることも挙げられる。全国で2番目に水道事業を立ち上げた[[函館市]]が、上水道供給のための水源として笹流川に[[1923年]](大正12年)に建設した[[笹流ダム]]を嚆矢として、[[丸沼ダム]](片品川)など八ヶ所でバットレスダムが建設された。コンクリートは当時極めて高価であったため、できる限り節約して建設費を抑えたいとするのが事業者の本音であった。このためコンクリート量を節減できるバットレスダムは経済的な工法としてもてはやされたが、間もなくダムを構成する扶壁の型枠を作るための人件費が高騰。さらに地震に弱いという欠点が明らかになり、地震多発国・日本では堤高の高いバットレスダムの建設が困難という現実が判明した。このため大ダム志向となりつつあった事業者から敬遠され。[[1937年]](昭和12年)[[鳥取県]]に建設された[[三滝ダム]](北股川)を最後として以後全く建設されなくなった。笹流ダムから僅か14年間しか建設されなかったバットレスダム、六基が現存<ref>残り二基の内[[高野山ダム]]([[新潟県]])は改修でロックフィルダムとなりバットレスダムとしては消滅。小諸発電所第一調整池([[長野県]])は[[1928年]](昭和3年)に決壊し、その後[[アースダム]]として別な場所に再建された。</ref>しており丸沼ダムは国の[[重要文化財]]に指定された。ちなみに1910年に建設された千歳第一ダムは重力式バットレスダムという極めて特異な型式である。 |
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[[1952年]](昭和27年)、[[サンフランシスコ平和条約]]締結により日本は[[連合国軍最高司令官総司令部]]の占領から解き放たれた。[[朝鮮戦争]]による[[特需景気]]は日本の奇跡的復興の序曲となりその後[[1960年代]]の[[高度経済成長]]へと突き進んでいった。経済成長に伴い[[道路]]・[[鉄道]]・[[港湾]]を始めさまざまな[[インフラストラクチャー]]整備が大規模に計画、着手されていった。ダム事業においても、この時期は日本のダム事業史に残る大規模プロジェクトが多く手掛けられた時期でもあった。 |
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=== 大ダム時代 === |
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この他[[香川県]]に1930年建設された'''[[豊稔池ダム]]'''は日本唯一の五連続の[[マルチプルアーチダム]]である。この時期はバラエティに富んだ型式のダムが建設された時代でもあった。 |
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[[File:Kurobe Dam survey.jpg|200px|thumb|日本一の高さを有する[[黒部ダム]]([[黒部川]])。[[立山黒部アルペンルート]]の主要な観光地である。[[1963年]](昭和38年)完成。]] |
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[[明治時代]]の[[布引五本松ダム]]([[生田川]])建設で[[コンクリートダム]]技術が導入され、[[大正時代]]には[[バットレスダム]]や[[マルチプルアーチダム]]という新たな[[ダム#型式|型式]]が導入された日本のダム技術は昭和に入ると[[物部長穂]]によるコンクリートダム耐震理論の導入、塚原ダム([[耳川]])における[[コンクリート]]打設の近代化手法導入によってさらに発展した。戦後に入り欧米の最新技術が導入されることでこの傾向はさらに顕著となる。ダムの型式にも新たな型式が登場した。まず岩石や土を積み上げて建設される[[ロックフィルダム]]であるが、設計理論の未確立、[[洪水]]処理への不安、土木機械の未成熟による岩石盛り立ての困難さなどにより戦前は建設されなかった。特に[[粘土]]など透水性の低い土質をダム本体中心部に据えて水を遮る[[ロックフィルダム#土質遮水壁型ロックフィルダム|土質遮水壁型ロックフィルダム]]は[[温暖湿潤気候]]の日本において、最適[[含水比]]による土質配合が不可能とされていたが最新土木技術導入により、ロックフィルダムが日本でも建設され始めた<ref name="type">『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.103-106</ref>。[[1947年]](昭和22年)日本初のロックフィルダム施工例として[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム事業|北上川五大ダム]]の一つである[[石淵ダム]]([[胆沢川]]。53.0メートル)の建設が[[岩手県]]で開始され、[[1951年]](昭和26年)には完成例として日本初となる[[小渕ダム|小渕防災溜池]]([[久々利川]]。20.5メートル)が[[岐阜県]]で完成した<ref name="type"/><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1074 『ダム便覧』小渕防災溜池]2015年8月7日閲覧。</ref>。石淵・小渕両ダムはダム上流部にコンクリートを舗装して水を遮る[[ロックフィルダム#コンクリートフェイシングフィルダム|コンクリート表面遮水壁型ロックフィルダム]]だったが、土質遮水壁型についても[[1960年]](昭和35年)に完成した岩手県の[[岩洞ダム]](丹藤川。42.0メートル)が第一号として建設され、以後日本におけるロックフィルダムの主流となる<ref name="type"/>。 |
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[[アーチ式コンクリートダム]]はダム本体のコンクリート量を節減できる点で経済的な型式だが、強固な両側[[岩盤]]の存在が建設の絶対条件であり<ref group="注">これが欠如したことでフランスのマルパッセダムは決壊している。</ref>、洪水処理の不安に加え世界有数の[[地震]]大国である日本において建設することへの技術的不安があり建設が躊躇されていた。アーチ式堰堤としては[[1909年]](明治42年)に完成した[[旧海軍大湊要港部水源地堰堤|大湊第一水源地堰堤]](宇田川)が日本初であるが高さ7.0メートルのごく小規模なもので、高さ15メートルを超えるアーチダムとしては[[島根県]]に建設された[[三成ダム]]([[斐伊川]]。35.0メートル)が初である<ref name="type"/>。しかし高さが100メートルを超えるアーチダムの建設は不安を払拭できなかった。[[九州電力]]が[[宮崎県]]の耳川最上流部に建設した[[上椎葉ダム]]は、当初[[重力式コンクリートダム]]として建設される予定であったが、総司令部の下部機関であるアメリカ合衆国海外技術顧問団 (OCI) が両側基礎岩盤の堅固さを理由にアーチダムの建設を提言。以後 OCI の助言の下に建設を進め高さ110.0メートルのアーチダムとして[[1955年]](昭和30年)に完成した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=307&p=6 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(35)]2015年8月7日閲覧</ref>。続いて[[宮城県]]に建設された[[鳴子ダム]]([[江合川]]。94.0メートル)は日本人だけで手掛けられ<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0290 『ダム便覧』鳴子ダム]2015年8月7日閲覧</ref>、[[電子計算機]]の導入による迅速な設計や岩盤力学の発展もあってアーチダムの知見が日本でも深まり100メートル級の大規模アーチダムが盛んに建設された<ref name="type"/>。さらにアーチダムの応用形として重力式コンクリートダムの特徴も兼備した[[重力式アーチダム]]も[[埼玉県]]に[[1961年]](昭和36年)建設された[[二瀬ダム]]([[荒川 (関東)|荒川]]。95.0メートル)以降大規模なダムが建設された<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=GA&jy=kou 『ダム便覧』順位表(重力式アーチダム)堤高順]2015年8月7日閲覧</ref><ref group="注">完成例としては1930年宮崎県に建設された芋洗谷ダム(芋洗谷川)が最初である。</ref>。 |
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===日本発送電と戦時体制=== |
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[[Image:Hiraoka Dam.jpg|250px|thumb|left|[[平岡ダム]]([[長野県]]・[[天竜川]])。現在ダム傍には[[強制労働]]で落命した強制労働者の[[慰霊碑]]がある]] |
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水力発電事業は[[富国強兵]]政策をひた走る日本の国益に沿うものであり、全国各地で盛んに建設事業が執り行われた。だが、電力会社による強引な開発に対し、地元の住民が激しく反発することもあった。特に顕著だったのが[[庄川]]と[[木曽川]]であり、庄川では[[浅野総一郎]]率いる[[庄川水力電気]]([[日本電力]]の子会社)が、庄川に[[小牧ダム]]を、また[[昭和電力]]([[大同電力]]の子会社)祖山ダムを建設しようとしたのに対し、木材運搬の手段として庄川の流木を行っていた[[飛州木材]]<ref>同時期[[飛騨川]]で[[日本電力]]を相手に益田川流木事件を起こしている。</ref>が流木を行う権利(流木権)を主張し15年にわたって法廷闘争や流血事件として争った'''[[小牧ダム#庄川流木争議|庄川流木争議]]'''([[1918年]]・大正8年)や、[[大井ダム]]建設によって[[濃尾平野]]の17,000[[ヘクタール]]に用水を供給する[[宮田用水]]・[[木津用水]]の取水が困難となり、下流の[[土地改良区]]・農民が[[大同電力]]に[[水利権]]の所在を求めてやはり15年間係争した'''宮田用水事件'''([[1924年]]・大正13年)が発生した。最終的には和解によって決着したが、補償交渉の進め方や水利権調整など河川事業に多大な問題提起を投げ掛けた。 |
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[[中空重力式コンクリートダム]]はコンクリート量を節減しつつダム本体の安定性を確保できる経済的な型式として[[イタリア]]より導入され、[[中部電力]]が[[1957年]](昭和32年)に[[井川ダム]]([[大井川]]。103.6メートル)を完成させたのが日本初である<ref name="type"/>。中部電力は大井川において井川ダム以後も[[1962年]](昭和37年)に同型式として当時世界最大の高さを有した[[畑薙第一ダム]](125.0メートル)と[[畑薙第二ダム]](69.0メートル)を建設しており、大井川は日本で13か所しかない中空重力ダムが3か所、しかも三連続で建設されている日本唯一の例である<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1168 『ダム便覧』畑薙第一ダム]2015年8月7日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=HG&jy=kou 『ダム便覧』順位表(中空重力式コンクリートダム)堤高順]2015年8月7日閲覧</ref>。このほか複数のダム型式の特徴を複合させた[[コンバインダム]]は、[[1953年]](昭和28年)岩手県の石羽根ダム([[和賀川]])が第一号として完成している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=GF&jy=kou 『ダム便覧』順位表(重力式コンクリート・フィル複合ダム)堤高順]2015年8月7日閲覧</ref>。 |
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昭和に入ると次第に戦争の影響がダム建設にも及び始めた。特に電力業界にその影響は及び、[[国家総力戦]]の遂行を目論む[[東條英機]]を中心とした軍部[[統制派]]の圧力により[[第1次近衛内閣]]は[[1938年]](昭和13年)に[[国家総動員法]]と同時に[[日本発送電#電力管理法|電力管理法]]を施行。翌[[1939年]](昭和14年)には[[特殊法人]]として'''[[日本発送電|日本発送電株式会社]]'''を発足させた。発電・送電を一元化し効率的な電力需給態勢を整えるという名目で全国の電力会社を強制的に解散・統合させ半官半民という形で立ち上げたが、実質的には電力国有化と大差なく各電力会社・民間企業・[[都道府県]]が保有していた水力発電所と共に[[電力会社管理ダム|発電専用ダム]]も国家管理となった<ref>ただし[[王子製紙]]の千歳第三・第四ダムだけは対象外、水力発電所では[[日本軽金属]]も対象外となった</ref>。さらに[[1943年]](昭和18年)には[[東條内閣]]が'''[[軍需省]]'''を設置して発電事業を統合させ、[[戦闘機]]生産のための電力供給を目的に水力発電開発を推進した。火急の開発を迫られた日本発送電では、建設事業では[[雨竜第1ダム|雨竜第一ダム]](雨竜川)や[[平岡ダム]](天竜川)などにおいて、捕虜となった連合国軍兵士などを[[強制労働]]に従事させるなど、戦時下における負の部分が垣間見られた。 |
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これらダム技術の急速な発展は、日本に大ダム建設時代を到来させた。1955年に完成した[[丸山ダム]]([[木曽川]]。98.2メートル)は日本における100メートル級大ダムの号砲となった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1084 『ダム便覧』丸山ダム(元)]2015年8月7日閲覧</ref>。[[1956年]](昭和31年)完成した[[佐久間ダム]]([[天竜川]]。155.5メートル)はドリルジャンボなど大型土木機械による本格的機械化工法の導入・工事現場における安全管理・国際[[競争入札]]の導入など日本における大型土木事業の基礎を築き、日本の重電・建機メーカーに技術的な自信を与えて国外へ雄飛する契機を作るなど日本土木史に残る「金字塔」となった<ref>『電発30年史』pp.79-89</ref>。[[東京都水道局]]が1957年に完成させた[[多摩川]]の[[小河内ダム]](149.0メートル)は世界最大級の水道用ダムとして、[[首都]]・[[東京都|東京]]の重要な水源となった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0692 『ダム便覧』小河内ダム]2015年8月7日閲覧</ref>。[[北陸電力]]が[[常願寺川]]有峰発電計画の中心事業として[[1959年]](昭和34年)に完成させた[[有峰ダム]]([[和田川 (常願寺川水系)|和田川]]。140.0メートル)は[[国際復興開発銀行]]の支援により建設され<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0841 『ダム便覧』有峰ダム]2015年8月7日閲覧</ref>、1960年には日本最大の重力式コンクリートダムとして完成以来記録が破られていない[[奥只見ダム]]([[只見川]]。157.0メートル)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0500 『ダム便覧』奥只見ダム]2015年8月7日閲覧</ref>、1961年には日本初の100メートル級大規模ロックフィルダムであり「21世紀の[[ピラミッド]]」と形容された[[御母衣ダム]]([[庄川]]。131.0メートル)が完成した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1095 『ダム便覧』御母衣ダム]2015年8月7日閲覧</ref>。 |
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また、河水統制事業も軍部の影響が浸透し、軍需産業発展のために事業を行う色彩が強くなった。特に[[横須賀海軍工廠]]への水道・電力供給が期待された[[相模ダム]]([[相模川]])では反対する住民に対し[[荒木貞夫]]や[[小磯国昭]]、[[杉山元]]といった陸軍首脳陣がダム予定地において陸軍閲兵式を敢行して反対する住民に圧力を掛け、さらに[[呉海軍工廠]]への水道・電力供給を目的とした[[二級ダム]]([[黒瀬川]])建設など、本来の目的であった国土開発から脱線した、軍需目的での河水統制事業が進められた。[[1941年]](昭和16年)[[太平洋戦争]]が勃発し次第に戦況が悪化するとダム建設も資金難・資材難等から相次いで建設を中断する事業が出始めた。 |
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そして日本の大ダム建設における真打となったのが、日本最大の高さ・186.0メートルを有する[[黒部川]]の'''[[黒部ダム]]'''である。人跡未踏の[[黒部峡谷]]に大正時代から計画された黒部ダムは当時の[[関西電力]]社長・[[太田垣士郎]]の決断で1956年より建設が開始された。しかし物資を運搬するために建設された[[長野県]][[大町市]]からダムサイトを結ぶ[[関電トンネル]]の掘削に始まる工事は難工事の連続であり、険阻な黒部峡谷は度重なる[[労働災害]]を招いた。さらに1959年12月[[フランス]]で[[マルパッセダム]]決壊事故が発生し事業に融資する国際復興開発銀行が高さの変更を勧告するなど困難が連続した。関西電力の年間電力収入の半分に当たる約513億円<ref group="注">現在の貨幣価値に直すと1兆円以上の額となる。</ref>の事業費、延べ約1,000万人におよぶ従事者を動員した黒部ダムは[[1963年]](昭和38年)に完成した。[[立山黒部アルペンルート]]の中心的な観光地として年間数百万人の観光客を集める黒部ダムは、[[石原裕次郎]]・[[三船敏郎]]主演の『[[黒部の太陽]]』<ref group="注">1968年公開。公開終了後石原の意向で封印されていたが、ダム完成50周年を機に封印が解かれDVDが発売された。</ref>や[[織田裕二]]主演の『[[ホワイトアウト]]』において映画の舞台となっている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0848 『ダム便覧』黒部ダム]2015年8月7日閲覧</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)8月、[[小磯内閣]]は敗色が濃厚となった日本は本土決戦に備えて全ての資源・資産を戦争遂行のために消費することを決定。これに伴い「'''決戦非常措置要領'''」を発令した。これにより沖浦ダムや三浦ダムを除くほとんど全てのダム事業が、戦時体制維持のために強制的に中止を余儀なくされた。さらに資材拠出のために森林の乱伐が全国で繰り広げられ、これが後の戦後打ち続く大水害の要因となった。このような施策を行うも「要領」発令の1年後である[[1945年]](昭和20年)8月、日本は戦争に敗れ、後に残されたのは戦火と乱伐により荒廃した国土だけとなった。 |
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==戦後(1945年~1954年)== |
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File:Kamishiiba-2815-r1.JPG|[[アーチ式コンクリートダム|アーチダム]]として初の100メートル級ダム、[[上椎葉ダム]]([[耳川]])。[[1955年]](昭和30年)完成。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
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File:Sakumadam-0A3N80pbxFs6g.JPG|日本の土木技術に大きな影響を与えた[[佐久間ダム]]([[天竜川]])。[[1956年]](昭和31年)完成。 |
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File:Okutadami Dam 001.jpg|日本最大の[[重力式コンクリートダム|重力ダム]]、[[奥只見ダム]]([[只見川]])。[[1960年]](昭和35年)完成。 |
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File:Miboro Dam.jpg|日本初の100メートル級[[ロックフィルダム]]、[[御母衣ダム]]([[庄川]])。[[1961年]](昭和36年)完成。 |
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File:Hatanagi1dam-0A3N80pbxFs6g.JPG|日本最大の[[中空重力式コンクリートダム|中空重力ダム]]、[[畑薙第一ダム]]([[大井川]])。[[1962年]](昭和37年)完成。 |
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=== 水資源の開発 === |
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{{main|水資源機構}} |
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[[File:Yagisawa Dam 2.jpg|200px|thumb|[[東京都|首都・東京]]など[[首都圏 (日本)|首都圏]]の水がめ[[矢木沢ダム]]([[利根川]])。[[1967年]](昭和42年)完成。]] |
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河水統制事業に始まる一連の[[河川総合開発事業]]は、一部の例外を除き当初の主要な目的は[[治水]]([[洪水調節]])と[[農地]]への[[灌漑]]、水力発電が主体であったが、[[1950年]](昭和25年)の[[国土総合開発法]]に基づく[[河川総合開発事業#特定地域総合開発計画|特定地域総合開発計画]]や各河川の河川総合開発事業において、治水と灌漑、水力発電開発に加えて[[上水道]]や[[工業用水道]]の供給を目的とした事業が盛り込まれている。[[市町村営水道用ダム|水道専用ダム]]については、[[日米和親条約]]以降の開港に伴う港湾都市の人口増加や[[コレラ]]など水系[[感染症]]の蔓延予防などで上水道の整備が不可欠になったことで明治時代に建設されたが、水道関連法規として[[1890年]](明治23年)に成立した水道条例は水道敷設に重点を置いたもので、法整備は遅れていた。戦後の特需景気以降日本の重工業は急成長を遂げ、[[四大工業地帯]]を中心とする[[工業地帯]]が発展。工場の増加と生産性向上に伴い工業用水需要が次第にひっ迫していった。当時工業用水は[[地下水]]に依存していたことで日本各地で[[地盤沈下]]が[[社会問題]]化、また地下水だけでは最早工業用水需要を賄うことが出来ず、[[京浜工業地帯]]・[[阪神工業地帯]]・[[北九州工業地帯]]を中心に深刻な用水不足が生じた。また経済発展や食糧供給の好転により人口も急増、特に大都市圏の人口増加が顕著となり上水道需要もひっ迫。[[1964年]](昭和39年)の通称「東京沙漠」と呼ばれる東京都大渇水など各地で[[水不足]]が深刻となった<ref>『水資源開発公団』p.2,p.329</ref><ref>『湖水を拓く』p.125</ref>。 |
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このため上水道や工業用水道を安定的に確保するための水資源整備が強く求められた。特に[[首都圏 (日本)|首都圏]]における水資源整備については政府や関係する省庁以外でも具体的なプランの発表があった。戦後[[日本共産党]][[書記長]]となった[[徳田球一]]は[[1949年]](昭和24年)、『利根川水系の綜合改革 社会主義建設の礎石』という論文を[[パンフレット]]で発表。徳田はこの中で利根川と荒川、多摩川を大[[運河]]で連結して利根川上流部に建設する多数のダムから用水を多摩川まで導水し、東京の水需要を好転させるべきであると主張した<ref>『利根川水系の綜合改革 社会主義建設の礎石』pp.11-14</ref>。また電気事業再編成を主導した[[松永安左エ門]]は1956年に政財界・学界の有力者を集めて[[産業計画会議]]を発足させたが、主要な提言の一つである[[沼田ダム計画]](利根川。後述)において利根川の水行政を一元化させるため「利根川開発庁」を設置すべきであると主張している<ref name="numata">[http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_08.pdf 『東京の水は利根川から』p.8]</ref>。こうして水資源の開発は河川事業において治水や電気事業に並ぶ重要な関心事になりつつあった。 |
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水道行政は[[内務省 (日本)|内務省]]・[[建設省]]が河川・建設行政の一元化を狙い、水質保全を重視する所管官庁の[[厚生省]]との間で激しく対立したが、最終的に1957年1月[[石橋内閣]]において厚生省が水道行政を所管することで決着し[[水道法]]が成立した<ref>『湖水を拓く』pp.112-113</ref>。しかし水資源開発に関連する新法案の制定を巡り再び各省庁間における対立が激しくなる。1959年厚生省は「水道用水公団案」を発表し京阪神・北九州において広域水資源開発を構想した<ref name="kodan">『水資源開発公団二十年史』pp.3-6</ref>。すると1960年には建設省が「水資源開発公団案」、[[農林省]]が「水利開発管理公団案」、[[通商産業省]]が「工業用水公団案」を発表してそれぞれの省庁が所管する事業中心の[[特殊法人]]設立を主張した。一時は暗礁に乗り上げるかと思われたが[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]水資源特別委員会の委員長だった[[田中角栄]]が[[池田勇人]][[内閣総理大臣]]や[[大平正芳]][[内閣官房長官]]を説得し、自由民主党は建設省案を支持したが残る三省は[[伊東正義]]農林省農地局長らを中心に「用水事業公団案」を提出し再度対立する。このため[[福田赳夫]][[自由民主党政務調査会長]]が2公団並立を政府に提案し、調整されたが財政面で[[大蔵省]]が2本立てに反対し一本化を要求<ref>『水資源開発公団二十年史』pp.345-347</ref>。最終的に総理大臣裁定により1961年「水資源開発公団案」が政府案としてまとめられ、第38回[[通常国会]]で審議されたが審議未了となった。続く第39回[[臨時国会]]の[[衆議院]]建設委員会で再び上程されたが、この時[[日本社会党]]が1955年に設立された[[愛知用水公団]]の統合を主張。最終的に自由民主党と[[民社党]]による原案に日本社会党の主張する「愛知用水公団の可及的速やかな統合」が[[附帯決議]]として加わり、衆議院・[[参議院]]両院で三党の賛成により10月に可決成立。[[水資源開発促進法]]が11月に、水資源開発公団法が翌1962年2月に公布されて5月に特殊法人である'''水資源開発公団'''が発足した<ref name="kodan"/>。[[独立行政法人]][[水資源機構]]の前身である。 |
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公団は建設・農林・厚生・通商産業四省を主務官庁とし、内閣総理大臣が水資源開発において緊急に実施する必要がある河川を関係各所と協議の上で「水資源開発水系」に指定。水資源開発基本計画(フルプラン)を作成して河川広域総合開発を実施することを目的にしている<ref>『水資源開発公団二十年史』pp.9-10</ref>。発足と同時に[[利根川]][[水系]]と[[淀川]]水系が水資源開発水系に指定され、建設省が施工していた[[矢木沢ダム]](利根川)・[[下久保ダム]]([[神流川 (利根川水系)|神流川]])・[[高山ダム]]([[名張川]])が公団に事業移管された。公団は矢木沢ダムを水源として[[武蔵水路]]・朝霞水路を通じて利根川から荒川へ導水して東京都に水道用水を供給する[[利根導水路]]事業を実施、1964年の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]直前に完成させて「東京沙漠」に苦しむ首都を救った。同年には[[筑後川]]水系が水資源開発水系に指定され、[[江川ダム]](小石原川)が計画された。[[1965年]](昭和40年)には木曽川水系が開発水系に指定され、日本社会党による附帯決議に示された愛知用水公団の統合が[[1968年]](昭和43年)に実現し[[愛知用水]]と[[豊川用水]]が公団の管理下に入ると共に、総合開発を巡って各省庁で対立していた[[岩屋ダム]]([[馬瀬川]])が公団事業として計画された。[[1966年]](昭和41年)には[[四国地方]]最大の河川・[[吉野川]]水系が開発水系に指定され、[[吉野川#吉野川総合開発計画|吉野川総合開発計画]]の中心である[[早明浦ダム]](吉野川)が建設省より事業移管され、[[池田ダム]](吉野川)と[[香川用水]]が計画された。[[1974年]](昭和49年)には荒川水系が開発水系に指定され、利根川と一体化した水資源開発が計画され後に[[滝沢ダム]](中津川)と[[浦山ダム]](浦山川)が建設省より事業移管された<ref>『水資源開発公団二十年史』pp.14-25</ref>。最後に[[豊川]]水系が[[1990年]](平成2年)に開発水系に指定され、豊川用水の管理と改築が開始されている<ref>『水資源開発公団30年史』p.33</ref>。 |
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公団が手掛けた最初のダム事業は[[1970年]](昭和45年)に完成した[[青蓮寺ダム]](青蓮寺川)である<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1316 『ダム便覧』青蓮寺ダム]2015年8月7日閲覧</ref>が、矢木沢ダムなど建設省から事業が移管されて建設されたダムも多い。公団による水資源開発により、四国四県の水瓶として「四国のいのち」と称される早明浦ダムや<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2322 『ダム便覧』早明浦ダム]2015年8月7日閲覧</ref>、首都・東京の重要な水源となった矢木沢ダム、[[東海三県]]の水瓶である[[牧尾ダム]](王滝川)や岩屋ダム<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1116 『ダム便覧』岩屋ダム]2015年8月7日閲覧</ref>、[[1978年]](昭和53年)の[[昭和53-54年福岡市渇水|福岡市大渇水]]で緊急的に給水を実施した[[寺内ダム]](佐田川)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2430 『ダム便覧』寺内ダム]2015年8月7日</ref>など、地域の重要な水源として機能しているダムが多い。しかし、特に[[2000年代]]以降これらの水資源整備を実施しても解消できない水不足が発生している(後述)。 |
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File:Shorenji-1316-r1.jpg|公団が手掛けた最初のダム、[[青蓮寺ダム]](青蓮寺川)。1970年完成。 |
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File:Egawa-2424-r1.JPG|[[筑後川]]水系では最初の公団ダム事業、[[江川ダム]](小石原川)。[[1972年]](昭和47年)完成。 |
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File:Iwaya Dam.jpg|[[愛知県|愛知]]・[[岐阜県|岐阜]]・[[三重県|三重]]の水瓶、[[岩屋ダム]]([[馬瀬川]])。[[1976年]](昭和51年)完成。 |
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File:Sameura Dam.jpg|「四国のいのち」、[[早明浦ダム]]([[吉野川]])。ダムの貯水率は四国全域に影響を及ぼす。[[1978年]](昭和53年)完成。 |
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File:Naramata Dam.jpg|ダムの高さでは関東地方最大の[[奈良俣ダム]]([[楢俣川]])。[[1990年]](平成2年)完成。 |
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=== ダム関連法規の整備 === |
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[[File:Miwa Dam discharge 60 cubic meters per second.jpg|200px|thumb|[[特定多目的ダム法]]適用の第一号、[[美和ダム]]([[三峰川]])。1959年完成。]] |
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河川総合開発事業や各事業者によるダム開発が進むに連れ、[[1896年]](明治29年)に成立した[[河川法#旧河川法制定|旧河川法]]ではいよいよ対応が難しくなった。そもそも旧河川法は[[堤防]]による治水に重点を置いた法律であり、河川管理も区間毎に管理者が異なる区間主義を採用していた。このため物部論文に基づく河川一貫開発・管理の概念で実施されている河川総合開発事業との間に根本的な食い違いが生じていた。またダム建設に伴う費用配分や管理形態も、大正時代の単一事業者によるダム事業と異なり、複数の事業者が関わる多目的ダムの建設が多くなることで[[所有権]]の問題が新たに発生した。加えて[[日本国憲法]]が施行されたことにより国の行政や制度が大変革し、それに合致した新制度を河川行政に導入しなければならないという現実も生じていた<ref name="horitsu">『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.72-78</ref>。 |
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まず変更が行われたのは多目的ダムに関する法整備である。旧河川法では河川管理施設<ref group="注">現行の河川法ではダムをはじめ堰、水門、堤防、護岸、床止め、樹林帯など河川の流水によって生ずる公利の増進、水害の除却または軽減する効用を有する施設を指す。</ref>は「河川の付属物」と認定されるが、認定されると管理は原則河川管理者である[[建設大臣]]([[国土交通大臣]]。以下同じ)または[[都道府県知事]]が行い、[[私権]]は排除される。しかし複数の管理者による事業である多目的ダムでは私権の排除ができないため、[[民法]]第244条-262条に定められた共有物持分規定に則った管理が定められた。この方法では負担額に応じてダム所有権が割り振られ管理は共同管理となるが、河川管理者の専管事項である治水目的の責任所在が不明確になる欠点があった。河川法では河川管理者以外に[[洪水調節]]を委ねることはできないため、対策として旧河川法に付属する省令として1954年に昭和29年建設省令第11号、(旧)河川法第4条第2項の規定に基づく共同施設に関する省令が発令された。この省令では「河川の付属物」における私権の排除という規定を除外することで民法の共有物規定に基づき管理される多目的ダムも「河川の付属物」に含め、管理を原則河川管理者に一元化することで治水事業を容易にさせるという目的があった。しかし付属物と認定する際には費用を負担した共同事業者の同意が必要で、同意が得られないとこの省令は無効になるという欠点が新たに生じた<ref name="horitsu"/>。こうした共同施設としてのダム管理における欠点は主に以下の四点に集約される<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.74</ref>。 |
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#建設工事の[[受託]]・[[委託]]契約を事業者毎に取る必要が生じる。このため会計が二本立てとなって工事の能率が阻害される。 |
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#労働災害など万が一における責任の所在が不明確になる。 |
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#治水目的が重要な位置を占める多目的ダムでは治水事業の一元的な管理を河川管理者が行使できず、災害の際に重大な結果をもたらす危険性がある。 |
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#巨額な資産を投資する重要な財産でありながら、共有持分についての[[登記]]や[[担保]]を行う方法がない。 |
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殊に[[国土交通省直轄ダム|建設省直轄ダム]]事業の場合は、こうした弊害が強く現れるために法整備が必要となった。上記の諸問題を解決するため1957年に施行されたのが'''[[特定多目的ダム法]]'''である。同法は建設大臣が事業者である直轄ダム事業において、計画・建設・管理を一貫して建設大臣が行い、直轄ダムの所有権は建設大臣に帰属することが明記された。これにより従来の民法における共有物持分規定は適用されず、複数の利水事業者が事業に参加しても所有権は認められない。その代わりとして事業に参加する利水事業者には「多目的ダムによる一定量の流水の貯留を一定の地域において確保する権利」すなわちダム使用権が設定された。この権利は[[不動産]]の権利規定を準用しており、[[抵当権]]の設定については[[登記簿]]の代わりにダム使用登録簿を作成して登録する。これにより権利の移動を明確にして担保価値を把握し易くした。ただし権利の移動に関しては建設大臣の許可が必要である<ref name="horitsu"/>。また[[経理]]的な問題に関しては特定多目的ダム建設工事[[特別会計]]が設置され、財源に関する制度的保障が確立されただけでなく道路や港湾などの特別会計の先駆となった。特定多目的ダム法が適用された第一号のダムは、[[天竜川#天竜東三河特定地域総合開発計画|天竜東三河特定地域総合開発計画]]で建設され1959年に完成した[[長野県]]の[[美和ダム]]([[三峰川]])である<ref>『湖水を拓く』p.126</ref>。特定多目的ダム法成立以後、建設省(国土交通省)によって建設されるほとんどの多目的ダムは同法に基づき建設され、これらのダムは[[多目的ダム#特定多目的ダム|特定多目的ダム]]と呼ばれる。ただし同法成立以前に完成した直轄ダムについては遡及して適用されず、直轄ダムの内の幾つかは、同法の適用を受けていないダムもある(後述)。 |
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そして河川総合開発の発展により時代に合わなくなった旧河川法自体の改正が[[河野一郎]]建設大臣の強力な推進もあって1964年に難産の末成立、翌1965年に施行された。この改正河川法を旧河川法と対比して'''[[河川法#新河川法制定|新河川法]]'''と呼ぶ。最大の特徴は物部論文が主張していた河川一貫開発・管理を法制化したことである。まず河川管理について、旧河川法で規定されていた河川法適用河川・河川法準用河川の区分を廃止、原則国が管理する[[一級河川]](水系)と都道府県が管理する[[二級河川]](水系)に区分した。ただし一級河川については、一定の区間について都道府県に管理を委任できる(指定区間)と定めたため、特定多目的ダム法の適用範囲は、一級河川で国が管理する区間(指定外区間)に建設される直轄ダムに適用される。またダムの基準についても、従来の河川堰堤規則や発電用高堰堤規則といった戦前に発令された省令を廃止し、第3款第44条で「基礎岩盤からの高さが15メートル以上」と法律上で明確に規定した<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.78</ref><ref name="kasenho">[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S39/S39HO167.html 法令データ提供システム『河川法』]2015年8月7日閲覧</ref>。ただし河川法におけるダムの基準は利水目的のダムに対しての基準であり、多目的ダムを含む治水目的のダムは適用外だった。治水目的のダムに河川法第44条で定められたダムの基準が援用されたのは、[[1976年]](昭和51年)に[[政令]]第199号として制定された'''河川管理施設等構造令'''である。この二つの法令によりダムの基準が確立し、高さ15メートル以下の河川管理施設は例え外観がダムであっても[[堰]]の扱いとなり、[[砂防ダム]]は例え15メートル以上の高さで砂防以外の目的を持っていたとしても河川法や河川管理施設等構造令におけるダムとしては認められなくなった<ref>[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S51/S51SE199.html 法令データ提供システム『河川管理施設等構造令』]2015年8月7日閲覧</ref>。 |
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また特定多目的ダム法・水資源開発公団法(水資源機構法)に基づくダム以外の多目的ダムについては第3条の河川管理施設と、第1款第26条に規定された河川工作物<ref group="注">ダムであれば、発電専用・灌漑専用・水道専用ダムがこれに当たる。</ref>が相互に効用を兼ねる[[多目的ダム#兼用工作物|兼用工作物]]と解釈され、第17条において管理者同士の協議で工事、維持管理、操作ができると規定されている<ref name="kasenho"/>。この兼用工作物に当たるダムとしては地方自治体が[[国庫]]の補助を受けて建設する[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]、特定多目的ダムが施行される前に完成した直轄ダムのほか、利水事業者のダム事業に建設省が後乗りで事業に参加した多目的ダムが該当する。例えば[[九頭竜ダム]]([[九頭竜川]])、[[手取川ダム]]([[手取川]])、[[新豊根ダム]](大入川)は元々[[電源開発]]が発電用として計画していたものに、治水上の重要性から建設省が追加で事業に参加したため建設大臣が施工主体であっても兼用工作物となる。また治水目的に限定されている[[立野ダム]]([[白川 (熊本県)|白川]])や地方自治体から直轄管理に移管された[[長安口ダム]]([[那賀川]])・[[品木ダム]](湯川)なども同じである。兼用工作物の直轄ダム事業は「直轄河川総合開発事業」として扱われる<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.78,pp.124-125</ref><ref>『河川便覧』pp.172-173,p.191</ref><ref>[http://www.pref.tokushima.jp/faq/docs/00019965/ 徳島県『長安口ダムについて』]2015年8月7日閲覧</ref>。 |
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File:Takami-117-r1.jpg|日本最大の[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]、[[高見ダム]]([[静内川]])。[[1983年]](昭和58年)完成。 |
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File:Yoroibata Dam.jpg|特定多目的ダム法以前に直轄ダムとして建設された[[鎧畑ダム]]([[玉川 (秋田県)|玉川]])。1957年の完成後[[秋田県]]に管理移管。 |
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File:Kuzuryu Dam.jpg|[[建設省]]と[[電源開発]]との共同事業で建設された[[九頭竜ダム]]([[九頭竜川]])。1968年完成。 |
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File:Nagayasuguchi-2122-r1.jpg|[[徳島県]]から[[国土交通省]]に管理が移管された[[長安口ダム]]([[那賀川]])。1955年完成、[[2007年]](平成19年)移管。 |
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== 昭和4(1970年-1988年) == |
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[[高度経済成長]]は日本を世界有数の経済大国に押し上げた。しかし高度経済成長に伴う歪みは[[四大公害病]]をはじめとする[[公害]]など様々な[[社会問題]]を引き起こし、解決に相応の時間を要した。高度経済成長を支えたダム事業も、技術の発達や法整備によって日本各地で盛んに実施されたが、その[[副作用]]がダム事業の在り方を大きく変えてゆく。[[1970年代]]以降は、ダム事業が大きな曲がり角に差し掛かる時期であった。 |
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=== 移転住民の涙 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+移転戸数・世帯数が300を超えるダム<ref>『日本の多目的ダム付表編 1990年版』pp.502-517</ref><ref>『電発30年史』p.228</ref><ref name="ogochi">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0692 『ダム便覧』小河内ダム]2015年8月10日閲覧</ref> |
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!水系 |
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!年代 |
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!河川 |
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!出来事 |
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!ダム |
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!事業者 |
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!移転戸数<br/>・世帯数 |
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|[[多摩川]]||多摩川||[[小河内ダム]]||[[東京都水道局]]||align="right"|945 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1945年]] |
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| align=left|[[農林省]]が組織改組に伴い、設置される。 |
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|[[北上川]]||[[和賀川]]||[[湯田ダム]]||[[国土交通省]]||align="right"|622 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1947年]] |
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| align=left|[[北上川]]総合開発事業が着手。[[石淵ダム]](胆沢川)を皮切りに北上川五大ダムの建設が始まる。 |
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|[[九頭竜川]]||九頭竜川||[[九頭竜ダム]]||国土交通省<br/>[[電源開発]]||align="right"|529 |
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| align=left|農林省による国営土地改良事業が[[九頭竜川]]・[[加古川]]・[[大井川]]・[[野洲川]]で開始される。 |
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|[[新宮川]]||[[北山川]]||[[池原ダム]]||電源開発||align="right"|529 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1948年]] |
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| align=left|[[建設省]](発足当時は建設院)が発足する。 |
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|[[球磨川]]||[[川辺川]]||[[川辺川ダム]]||国土交通省||align="right"|528 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1949年]] |
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| align=left|「河川改訂改修計画」発表。主要10水系で[[多目的ダム]]による[[洪水調節]]対策を編入。 |
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|北上川||[[雫石川]]||[[御所ダム]]||国土交通省||align="right"|520 |
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| align=left|[[北海道開発庁]]と現地執行機関である[[北海道開発局]]が発足。[[石狩川]]水系の総合開発計画がスタートする。 |
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|[[旭川 (岡山県)|旭川]]||旭川||[[旭川ダム]]||[[岡山県]]||align="right"|510 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1950年]] |
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| align=left|「国土総合開発法」施行。全国で[[河川総合開発事業]]が計画され、ダム建設・計画が活発化する。 |
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|[[紀の川]]||紀の川||[[大滝ダム]]||国土交通省||align="right"|487 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1951年]] |
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| align=left|「特定地域総合開発計画」事業施行。北上地域・只見地域等22地域が指定を受け、重点的な地域総合開発が行われる。 |
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|[[吉井川]]||吉井川||[[苫田ダム]]||国土交通省||align="right"|470 |
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| align=left|日本発送電株式会社が全国9地域の電力会社に分割・民営化。所有の発電用ダムも各電力会社に分配される。 |
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|[[木曽川]]||[[揖斐川]]||[[徳山ダム]]||[[水資源機構]]||align="right"|466 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1952年]] |
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| align=left|日本最初の[[ロックフィルダム]]である[[小渕ダム]](久々利川)が完成する。 |
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|[[利根川]]||[[神流川 (利根川水系)|神流川]]||[[下久保ダム]]||水資源機構||align="right"|364 |
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| align=left|「電源開発促進法」施行。国営企業である[[電源開発]]株式会社が発足する。 |
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|[[吉野川]]||吉野川||[[早明浦ダム]]||水資源機構||align="right"|350 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[1953年]] |
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| align=left|日本最初の[[アーチ式コンクリートダム]]である[[三成ダム]]([[斐伊川]])が完成する。 |
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|利根川||[[吾妻川]]||[[八ッ場ダム]]||国土交通省||align="right"|340 |
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| align=left|[[夜明ダム]]決壊事故([[筑後川]]。[[福岡県]]・[[大分県]])。[[昭和28年西日本水害]]によりダム両岸から洪水が越流し決壊。 |
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|[[手取川]]||手取川||[[手取川ダム]]||国土交通省<br/>電源開発||align="right"|330 |
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| align=left|大正池決壊事故(玉川・[[京都府]])。[[南山城豪雨]]による[[集中豪雨]]で決壊。105人が死亡する大惨事。 |
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|九頭竜川||[[真名川]]||[[真名川ダム]]||国土交通省||align="right"|316 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1954年]] |
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| align=left|日本最初の[[コンバインダム]]である石羽根ダム(和賀川)が完成する。 |
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|} |
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ダムを建設することで、避けられない問題として移転住民に対する補償の存在がある。ダムを計画する際、[[峡谷]]部の上流に小[[盆地]]が広がる地形は貯水池を形成する上で絶好の適地である。しかしそうした小盆地には必ずといって良いほど[[集落]]や農地が存在する。気候や環境の厳しい山間部の土地で脈々と先祖代々から受け継いだ土地で生活する住民にとって、降って沸いたダム計画は[[地域共同体]]を消滅させる災難以外の何物でもなく住民の言葉を借りれば「来てくれと頼んだ覚えはない」の一言に尽きた。加えてダムの恩恵は下流地域に与えられ、水没地域には何の恩恵ももたらさない。このためダム計画が持ち上がると住民は絶対反対の旗幟を鮮明にし、水没する家屋・土地・財産の補償交渉は厳しいものがあった<ref>『利根川百年史』p.1348</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=233 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【1】]2015年8月10日閲覧</ref>。 |
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こうした移転住民に対する事業者の態度は、戦前の[[私権]]が十分に確立していない時期には住民不利になることが多かった。[[富山県]]の[[小牧ダム]]([[庄川]])では[[小牧ダム#庄川流木争議|庄川流木事件]]に見られる事業者と流域住民の対立が長期に及んだ。[[東京都]]の[[小河内ダム]]([[多摩川]])では旧[[小河内村]]全村945[[世帯]]が移転、移転した住民の苦難は[[石川達三]]の『日蔭の村』に描かれるほど困窮し一部は[[清里]]の[[開拓]]に未来を託し、[[昭和天皇]]も移転者のその後を気に掛けていた<ref name="ogochi"/><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=411 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【54】]2015年8月10日閲覧</ref>。[[岩手県]]の[[田瀬ダム]]([[猿ヶ石川]])では移転後に変わり果てた我が家を見た住民が涙に暮れ<ref>『北上川百十年史』p.451</ref>、[[神奈川県]]の[[相模ダム]]([[相模川]])に至っては陸海軍の圧力に屈して不本意な補償内容を呑まざるを得なかった(「軍部の介入」節を参照)。戦後も岩手県の[[石淵ダム]]([[胆沢川]])で移転住民は満足な補償金を受け取れず困窮し<ref name="isawa">『湖水を拓く』pp.12-13</ref>、[[香川県]]の[[内場ダム]](内場川)では建設に反対して墳墓の土地を動かない一部住民に対して事業者の香川県が住民を追い出すため試験湛水を強行<ref>『河川開発』第10号pp.4-5</ref>。宇摩地域住民の悲願であった銅山川疏水を実現させた[[愛媛県]]の[[柳瀬ダム]]([[銅山川 (四国)|銅山川]])では補償交渉の席上愛媛県土木部長が将来観光地になって寂しい山奥が賑やかになると失言し、移転住民から「故郷を失う我々の前でボートとは何だ、観光客とは何だ」と悲痛な反論を受けている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=246 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【14】]2015年8月10日閲覧</ref>。私権の保護が重視されなかった戦前や、[[日本国憲法]]が施行されても[[生存権]]の尊重といった概念が確立していなかった戦後初期にあって「[[官尊民卑]]」の風潮が色濃く残っていた時代の問題であり、こうした事業者、特に[[建設省]]の態度は[[1963年]](昭和38年)に[[科学技術庁]]資源局が発行した『石淵貯水池の水没補償に関する実態調査報告』の言葉を借りるならば「国益を強調した権威主義と強制収用をちらつかせる強圧的態度」であり、「移転住民の気持ちを考え、移転後の生活を思い遣る態度は全く見られない」姿勢に終始していた<ref name="isawa"/>。 |
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===多目的ダムの誕生=== |
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[[画像:kathleen_flood.png|thumb|250px|カスリーン台風による浸水範囲。[[東京都]][[江戸川区]]まで水没している]] |
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[[太平洋戦争]]で敗れた日本。敗戦の混乱に追い討ちを掛けたのは連年日本列島を襲った台風・水害であった。[[枕崎台風]]は[[原爆]]投下直後の広島に塗炭の苦しみを味わわせた。[[カスリーン台風]]は[[利根川]]を氾濫させて[[関東平野]]を湖にし首都・東京を水没させ、[[アイオン台風]]は[[北上川]]流域を壊滅に追い込んだ。[[ジェーン台風]]は西日本の河川を軒並み氾濫させ、[[キジア台風]]は歴史的建造物の[[錦帯橋]]を一瞬の内に木屑と化した。[[1953年]](昭和28年)の[[昭和28年西日本水害]]は[[筑後川]]に過去最悪の洪水<ref>この時[[筑後川]]本流に建設中であった[[夜明ダム]]が決壊している。</ref>を起こさせ、さらに[[紀州大水害]](南紀豪雨)は[[日高川]]・[[日置川]]・[[有田川]]・[[古座川]]を暴れさせ[[和歌山県]]下を阿鼻叫喚(あびきょうかん)の坩堝(るつぼ)に陥れた。こうした水害は戦前・戦中の森林乱伐に加え、河川整備が不十分であった故の必然とも言えた。 |
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これを契機に水害を防ぐための施策として「'''河川総合開発'''」という概念が現れた。原点は[[1935年]](昭和10年)に'''[[物部長穂]]'''([[東京大学|東京帝国大学]]教授・[[内務省 (日本)|内務省]]土木試験所長)が提言した「河水統制計画」案である。一水系を系統的に開発し、[[治水]]・利水(上水道・かんがい・発電)を総合的に実施するという案でアメリカの[[TVA]]を参考にしたものである。この案は日本人で唯一[[パナマ運河]]建設に携わり、[[大河津分水]]や[[荒川放水路]]開削の指揮を執った内務省[[技監]]・[[青山士]](あおやま・あきら)によって採用され、国策として推進することとし全国7河川1湖沼<ref>[[奥入瀬川]]・[[浅瀬石川]]・[[鬼怒川]]・[[江戸川]]・[[相模川]]・[[錦川]]・[[小丸川]]及び[[諏訪湖]]。</ref>を対象に総合的な河川開発が計画された。 |
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心情を理解されない移転住民の悲しみは、やがて事業者に対する強い怒りとなって表れ日本各地で激しいダム反対運動が巻き起こる。[[福島県]]の[[田子倉ダム]]([[只見川]])で[[1954年]](昭和29年)に発生した'''[[田子倉ダム#田子倉ダム補償事件|田子倉ダム補償事件]]'''は戦後のダム反対運動の先駆けであった。ダム建設に反対する住民は[[レッド・パージ]]で地下活動を行っていた[[日本共産党]]の思想的扇動を受けて反対運動を激化させ、円滑な補償を行うため事業者の[[電源開発]]と仲介した[[大竹作摩]][[福島県知事]]が提示した高額な補償金額に対して建設省が反対姿勢を明確にして混乱。解決に2年を費やした<ref>『電源只見川開発史』pp.462-470</ref>。159戸が移転した[[群馬県]]の[[藤原ダム]]([[利根川]])では何の前触れも無く建設省が突然ダム建設に取り掛かって住民が激怒し[[利根郡]][[水上町]]([[みなかみ町]])挙げての反対運動が勃発<ref>『湖水を拓く』pp.19-21</ref>。[[京都府]]の[[大野ダム (京都府)|大野ダム]]([[由良川]])では建設省の強硬姿勢に反発する住民に対し、[[蜷川虎三]][[京都府知事]]が住民本位の補償を建設省に求めて奔走し補償交渉妥結に導いた<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=249 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【18】]2015年8月10日閲覧</ref>。こうした移転住民の不満は遂に九州・[[阿蘇山]]麓において火の手を挙げた。[[1957年]](昭和32年)に勃発した[[松原ダム]]([[筑後川]])・[[下筌ダム]](津江川)に対する日本最大のダム反対運動・'''[[下筌ダム#蜂の巣城紛争|蜂の巣城紛争]]'''である。[[昭和28年西日本水害]]による筑後川の激甚災害を機に計画された両ダムであるが、建設省担当者の移転住民の生活を思い遣らない態度に反発した室原知幸ら[[熊本県]][[阿蘇郡]][[小国町 (熊本県)|小国町]]住民は下筌ダム右岸に「蜂の巣城」という[[砦]]を築いて抵抗。[[1960年]](昭和35年)の九州[[地方建設局]][[代執行]]水中乱闘事件に見られる流血闘争や事業認定無効の法廷闘争、さらには[[日本労働組合総評議会]]や[[自由法曹団]]などの活動家も介入し都合13年にわたる激烈な反対闘争となった。蜂の巣城紛争は[[1970年]](昭和45年)に室原が死去し遺族と建設省の和解が成立して終結する。しかし単身で国家に抵抗した室原が唱えた「[[公共事業]]は法に叶い、理に叶い、情に叶うものでなければならない」という精神は、公共事業と日本国憲法が認める生存権との兼ね合いに大きな問題を投げかけた<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=235 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【3】]2015年8月10日閲覧</ref><ref>『筑後川五十年史』pp.570-573</ref><ref>『河川開発』第22号pp.57-58</ref>。このほか群馬県の[[八ッ場ダム]]([[吾妻川]])や[[奈良県]]の[[大滝ダム]]([[紀の川]])、[[岡山県]]の[[苫田ダム]]([[吉井川]])では自治体・住民一体の激しい反対運動にまで拡大し<ref>『利根川開発史』p.1396</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1579 『ダム便覧』大滝ダム]2015年8月10日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=605 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(97)]2015年8月10日閲覧</ref>、遂には[[勇払郡]][[占冠村]]全村が反対した[[北海道]]の赤岩ダム計画([[鵡川]])や、移転戸数2,200戸という途轍もない補償案件のため[[神田坤六]][[群馬県知事]]・[[群馬県議会]]・[[沼田市]]が反対した[[沼田ダム計画]](利根川)のようにダム計画が中止に追い込まれる例も現れた<ref>『占冠村史』pp.279-285</ref><ref>『沼田市史』通史編3近代現代pp.641-652</ref>。 |
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この中で従来はかんがい、上水道または水力発電単独の目的しか持たなかったダムに複数の機能を持たせ、河川開発の要とする発想が生まれた。これが'''[[多目的ダム]]'''であり[[1933年]](昭和8年)に[[沖浦ダム]](浅瀬石川)が本邦初の多目的ダムとして施工開始され、[[1940年]](昭和15年)に[[向道ダム]]([[錦川]])が多目的ダムとして初めて完成、供用されている。戦後[[1947年]](昭和22年)には[[相模ダム]](相模川)が完成し、一時中止となっていたダム事業が続々と建設を再開していった。 |
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移転住民への対応に関して建設省と正反対の態度を示したのが、電源開発であった。日本のダム事業史に残る大ダムを数多く建設した電源開発であるが、296戸が水没した[[佐久間ダム]]([[天竜川]])では木目細かい補償費用の算出を元にした交渉を行い、補償額が高いという批判に対して「生きている人間を相手に、一片のペーパープラン通りには行かない」と突っぱね<ref>『電発30年史』pp.86-87</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=315 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【21】]2015年8月10日閲覧</ref>、250戸が水没し「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」による強烈な反対運動が繰り広げられた[[御母衣ダム]]([[庄川]])では初代総裁であった[[高碕達之助]]が住民と涙を流しながら交渉に当たり、[[藤井崇治]]副総裁が『幸福の覚書』を取り交わして妥結に持ち込んだ。さらに水没する樹齢400年の[[エドヒガン]]を[[笹部新太郎]]らの協力で高台に移植するという世界でも例のない離れ業をやってのけ、「[[荘川桜]]」として移転住民の故郷への思い出を残した<ref>『電発30年史』pp.127-129</ref><ref>[http://www.sakura.jpower.co.jp/story/ 電源開発『荘川桜物語』]2015年8月10日閲覧</ref>。建設省との共同事業で建設され、電源開発が施工を担当した[[九頭竜ダム]]([[九頭竜川]])では、移転529戸という大規模な補償案件であったが補償交渉が妥結するまで建設工事は行わないという「九頭竜補償方式」を確立。住民の信頼を得てわずか2年で補償交渉を妥結させた<ref>『電発30年史』pp.220-222</ref><ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.304-305</ref>。 |
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===国土復興への道程~河川総合開発事業・国営土地改良事業~=== |
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[[image:Tase-238-r1.JPG|250px|thumb|北上川五大ダムの一つ・[[田瀬ダム]]([[岩手県]]・[[猿ヶ石川]])]] |
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[[image:Katsurazawa-49-r1.JPG|250px|thumb|[[北海道]]初の[[多目的ダム]]・[[桂沢ダム]](北海道・幾春別川)]] |
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[[image:Sannoukai-263-r1.JPG|250px|thumb|国営土地改良事業で建設された[[山王海ダム]](岩手県・滝名川)]] |
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[[1948年]](昭和23年)[[建設省]](当初は建設院)が発足、旧内務省の河川行政を継承した。建設省は河川総合開発を国土復興の要として強力に推進したが、その最初の事業として着手したのが内務省時代から進められていた「北上川上流改修事業」の根幹・「'''[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム計画(1938年~)|北上川五大ダム計画]]'''」である。これは北上川水系の主要河川<ref>北上川本流と[[雫石川]]・[[猿ヶ石川]]・和賀川・胆沢川の五河川。</ref>に五箇所の大ダム([[石淵ダム]]・[[田瀬ダム]]・[[湯田ダム]]・[[四十四田ダム]]・[[御所ダム]])を建設し治水とかんがい、水力発電を図ろうとするものである。北上川に続き全国各地の大河川も続々河水統制事業の対象となり、これを発展させるべく[[1949年]](昭和24年)、[[経済安定本部]]の意を受けた「治水調査会」は全国主要10[[水系]]<ref>[[北上川]]、江合川・[[鳴瀬川]]、[[最上川]]、[[利根川]]、[[信濃川]]、[[常願寺川]]、[[木曽川]]、[[淀川]]、[[吉野川]]、筑後川の10水系。</ref>において従来の河水統制事業をさらに発展させた「'''河川改訂改修計画'''」を答申。このうち北上川、[[江合川]]・[[鳴瀬川]]、利根川、[[木曽川]]、[[淀川]]、[[吉野川]]、[[筑後川]]の7水系において多目的ダムによる洪水調節を主眼に置いた河川改修を提言した。 |
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こうした補償問題に対して政府は[[1951年]](昭和26年)の[[土地収用法]]改正で補償の対象となる権利を明確化させて、補償交渉の円滑化を進めた。また[[1953年]](昭和28年)には電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱、翌1954年に公共事業の施行に伴う損失補償要綱を策定。その後も続発する補償問題に対応すべく法整備を実施したが、移転戸数が多いダム事業の増加に伴いそれだけでは根本的な解決が難しくなった。[[1969年]](昭和44年)には[[全国知事会]]が水源地域開発のための立法化を要請、[[1972年]](昭和47年)には再度立法化のための知事会試案を政府に提出するなど補償問題で矢面に立つ地方自治体側から補償に関する法整備が強く要望された。これを受け政府は[[1974年]](昭和49年)に'''[[水源地域対策特別措置法]]'''(水特法)を施行した。水没戸数20戸以上または水没農地面積20ヘクタール以上(北海道は60ヘクタール以上)のダムについて生活再建、生活環境や産業基盤の整備などで住民の福祉増進を図ることを目的としており、[[1994年]](平成6年)には貯水池の[[水質汚濁]]防止が目的に追加された。施行後1974年7月20日に[[手取川ダム]]([[手取川]])などが指定されたのを皮切りに[[2015年]](平成27年)時点で96ダムと[[霞ヶ浦]]が指定されている<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.49-52</ref><ref>『湖水を拓く』pp.128-130</ref><ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Tokubetu/Suitoku.html 『ダム便覧』水源地域対策特別措置法関係]2015年8月10日閲覧</ref>。また同年には[[電源三法]]([[電源開発促進税法]]・[[発電用施設周辺地域整備法]]・電源開発促進対策特別会計法)が施行された。主に[[原子力発電所]]の立地促進が目的であるが、発電用施設周辺地域整備法に関しては福島県の[[大川ダム]]([[阿賀野川]])など水力発電目的を有するダム事業においても補助が行われている<ref>『湖水を拓く』p.131</ref><ref>[http://www.fepc.or.jp/nuclear/chiiki/nuclear/seido/ 電気事業連合会『電源三法交付金制度』]2015年8月10日閲覧</ref>。 |
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建設省は治水調査会の答申を受け[[1952年]](昭和27年)、カスリーン台風で甚大な被害を受けた利根川の治水を図るべく「利根川改訂改修計画」を発表。利根川とその支流に9か所のダムを建設する計画を立てた。これに伴い計画・建設されたのが[[矢木沢ダム]]・[[藤原ダム]]・[[沼田ダム計画|沼田ダム]](利根川)・[[相俣ダム]](赤谷川)・[[薗原ダム]](片品川)・[[八ッ場ダム]]([[吾妻川]])・坂原ダム([[神流川 (利根川水系)|神流川]]。後の[[下久保ダム]])・[[五十里ダム]](男鹿川)・[[川俣ダム]]([[鬼怒川]])であり、後の[[利根川水系8ダム]]の原点となり更に発展して利根川水系の総合的な水資源開発へと昇華する。この他建設省は「[[北上特定地域総合開発計画#北上川上流改訂改修計画(1949年)|北上川上流改訂改修計画]]」・「[[木曽川#木曽特定地域総合開発計画|木曽川水系流域計画]]」・「[[淀川#淀川水系改修基本計画|淀川水系改修基本計画]]」・「[[吉野川#吉野川総合開発計画|吉野川総合開発計画]]」・「[[筑後川#筑後川水系治水基本計画|筑後川水系治水基本計画]]」を計画し、ダムを中心とした治水対策に着手した。 |
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こうして補償問題に関する一連の法整備は整えられた。ここまでの間に多くの住民が住み慣れた故郷に永遠の別れを告げており、中には[[徳山ダム]]([[揖斐川]])の旧[[徳山村]]など自治体ごと消滅した地域もある。しかし住民たちは最終的にはダム建設の重要性を認識し、苦渋の決断を行った。こうした水源地域住民に対して[[1976年]](昭和51年)に利根川・荒川水源地域対策基金が設けられたのを皮切りに多くの地域において水源地域支援のための財政援助や上下流の地域住民交流が下流受益地の自治体で実施され、水源地域に対する報恩の意思を示している<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.55</ref>。 |
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また北海道においては、遅れていた農地開発と河川整備を充実させ、北海道経済の活性化を早急に図るために新たに省庁を設けて独自の対策を図ろうとした。1949年政府は[[増田甲子七]]を初代長官として[[北海道開発庁]]を設置。現地執行機関として[[北海道開発局]]を発足させた。設置当時は政治的思惑があったがその後は数次に亘る「'''北海道総合開発計画'''」に基づき、建設省の地方建設局と[[農林省]]の地方農政局と同等の位置づけを与えて河川事業を担当させた。これ以後[[桂沢ダム]](幾春別川)を皮切りに北海道最大の大河・[[石狩川]]水系や[[天塩川]]水系の総合開発に乗り出している。ただしこれら多目的ダムの管理は北海道開発庁が担当せず、建設省が管掌している。 |
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File:Hachinosujyo.JPG|日本最大のダム反対運動・[[蜂の巣城紛争]]の舞台となった蜂の巣城跡([[熊本県]])。右手に[[下筌ダム]](津江川)がある。 |
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File:Numata Dam site.jpg|移転戸数2,200戸という規模のため激しい反対運動が起こった[[沼田ダム計画]]([[利根川]])予定地跡。[[1972年]](昭和47年)中止。 |
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File:Shokawa zakura.jpg|[[御母衣ダム]]の水没から免れた[[荘川桜]]([[岐阜県]])。 |
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File:Tedorigawa Dam.jpg|[[水源地域対策特別措置法]]に指定されたダムの一つ、[[手取川ダム]]([[手取川]])。 |
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File:Shiramine-kuwajima 1977.jpg|手取川ダムに水没する前の旧[[白峰村]]桑島地区([[石川県]][[白山市]])<ref name="kokudo"/>。 |
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=== 新事業と新技術 === |
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一方農林省であるが、深刻な食糧不足を解消し、さらに安定した水源を確保して「水争い」を撲滅するために1947年より「'''国営土地改良事業'''」・「'''国営農業水利事業'''」を[[加古川]]・[[九頭竜川]]・[[野洲川]]・[[大井川]]で実施した。かんがい用の農林省直轄ダム(現在は[[農林水産省直轄ダム]])を建設し農業用水を安定的に供給、耕地面積を拡大し食糧増産を図ることを最大の目標とした。これに基づき当時建設されたダムとして[[野洲川ダム]](野洲川)・[[山王海ダム]](滝名川)・[[豊沢ダム]](豊沢川)等がある。こうした建設省・農林省の施策により、次第に荒廃していた国土は回復に向かい始める。 |
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[[File:Yubarishuparo Dam 2015.jpg|200px|thumb|[[大夕張ダム]][[ダム再開発事業|再開発事業]]・[[大夕張ダム#夕張シューパロダム|夕張シューパロダム]]([[夕張川]])。シューパロ湖は北海道最大の[[人造湖]]。[[2015年]](平成27年)完成。]] |
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大正時代から高度経済成長期に掛けて日本では数多くのダムが建設されたが、それに伴い次第にダムを建設する適地が減少していった。また計画しても[[費用対効果]]の点や沼田ダム計画のように水没物件などの問題で絶好の適地でありながら計画を放棄した地点も多く、限られた中でより有効なダム事業を進める必要が生じた。ダム事業者はこの点を踏まえた新たな事業展開を進めている。 |
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戦後早期に見られた広範囲の地域に被害を及ぼす水害はダムや河川改修の整備によって次第に少なくなったが、局地的な[[集中豪雨]]などによる水害は多いままであった。局地的豪雨による災害を防ぐための地域限定的な治水対策事業の一つとして[[1967年]](昭和42年)に'''[[治水ダム#補助治水ダム|補助治水ダム事業]]'''が導入された。[[治水ダム]]とは[[洪水調節]]単独、または洪水調節と[[放流 (ダム)#河川維持放流|河川の正常な機能を維持するための流量調節(河川維持放流)]]を目的とした治水特化型のダムである。[[1956年]](昭和31年)に[[都道府県営ダム|県営ダム事業]]として香川県に五名ダム(湊川)が建設されたのを皮切りに、河川改修事業や農地防災事業として各自治体が建設を進めていた。補助治水ダム事業はこうした治水ダム事業に対して[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]と同様に[[国庫]]の補助を行う制度で、[[秋田県]]の[[旭川治水ダム]]([[旭川 (秋田県)|旭川]])などが指定第一号として着手され、北海道の有明ダム(茂築別川)が[[1971年]](昭和46年)同事業初の完成例となった<ref name="chisui">『多目的ダム全集』p.137,p.143</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0383 『ダム便覧』旭川ダム]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0083 『ダム便覧』有明ダム]2015年8月11日閲覧</ref>。一方多目的ダムでも、山間部や[[離島]]など限られた一定の地域に対する治水・利水を目的とした小規模な補助多目的ダム事業として[[1988年]](昭和63年)'''小規模生活貯水池事業'''が創設され、こちらも多くのダムが建設されている<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』p.38</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/JitenKM.cgi?id=425 『ダム便覧』ダム用語辞典「生活貯水池」]2015年8月11日閲覧</ref>。 |
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[[1950年]](昭和25年)、[[国土総合開発法]]の施行に伴い全国の特定された地域に対して治山・治水・利水を包括した「'''特定地域総合開発計画'''」が策定されることになった。これは同法第10条に基づくものであり『国土を総合的に利用し、開発し、及び促進し、並びに産業立地の適正化を図る』(第1条)という法の目的を達成するために地域総合開発を発展・高度化させたものである。全国各地から51地域にも及ぶ申請が相次いだが、最終的には[[河川総合開発事業#特定地域総合開発計画一覧|22地域]]<ref>十和田岩木川、北奥羽、[[北上特定地域総合開発計画|北上]]、仙塩、阿仁田沢、[[最上川#最上特定地域総合開発計画|最上]]、[[只見特定地域総合開発計画|只見]]、利根、[[天竜川#天竜奥三河特定地域総合開発計画|天竜奥三河]]、[[木曽川#木曽特定地域総合開発計画|木曽]]、飛越、[[能登]]、[[紀の川#吉野熊野特定地域総合開発計画|吉野熊野]]、大山出雲、芸北、[[錦川]]、[[那賀川]]、四国西南、北九州、[[対馬]]、[[阿蘇]]、南九州の22地域。</ref>が選定され、大都市圏や工業地帯、未開発地域の発展に寄与するための総合開発が立て続けに実施された。この中で河川開発は直轄・補助事業の別なく組み込まれ、系統的な開発が実施されていった。 |
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既存のダム機能を増強させる目的で施工される'''[[ダム再開発事業]]'''も次第に増加していった。主に貯水池の掘削や[[ダム#諸元|有効貯水容量]]の配分変更、[[放流 (ダム)|放流]]施設機能強化による治水・利水機能の強化と、ダム自体のかさ上げまたは既存ダム直下流に新たなダムを建設して貯水容量自体を増やし治水・利水機能を強化する二つの方法が採られている。前者としては[[昭和47年7月豪雨]]による被害や[[岡山市]]の水道需要増大を受けて[[1983年]](昭和58年)に再開発された岡山県の[[旭川ダム]]([[旭川 (岡山県)|旭川]])<ref>『日本の多目的ダム補助編 1990年版』pp.414-415</ref>や、283日にも及んだ[[1978年]](昭和53年)の[[昭和53-54年福岡市渇水|福岡市大渇水]]を機に貯水池掘削による容量増加を[[1985年]](昭和60年)に実施した[[福岡県]]の南畑ダム([[那珂川 (九州)|那珂川]])<ref>『日本の多目的ダム補助編 1990年版』pp.538-539</ref>、施工中のダムとしてバイパストンネルによる放流機能増強を図る京都府の[[天ヶ瀬ダム]]([[淀川]])や愛媛県の鹿野川ダム([[肱川]])などがある<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3025 『ダム便覧』天ヶ瀬ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3600 『ダム便覧』鹿野川ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>。後者としてはダムかさ上げ例として水道専用ダムを21.9メートルかさ上げして[[1984年]](昭和59年)に多目的ダム化した北海道の[[新中野ダム]]([[亀田川]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0113 『ダム便覧』新中野ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>や既設ダムを[[1979年]](昭和54年)に16.5メートルかさ上げした[[川上ダム (山口県)|川上ダム]](富田川)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2085 『ダム便覧』川上ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>があり、施工中のものとして北海道の[[桂沢ダム]](幾春別川)を11.9メートルかさ上げする[[桂沢ダム#新桂沢ダム|新桂沢ダム]]<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2928 『ダム便覧』新桂沢ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>、岐阜県の[[丸山ダム]]([[木曽川]])を20.2メートルかさ上げして治水機能を強化する[[丸山ダム#新丸山ダム|新丸山ダム]]がある<ref>[http://www.cbr.mlit.go.jp/shinmaru/201_damunogaiyou/main.html 国土交通省中部地方整備局新丸山ダム工事事務所『ダムの概要』]2015年8月11日閲覧</ref>。また既設ダム直下流に新たなダムを建設する再開発事業として北海道の[[大夕張ダム#夕張シューパロダム|夕張シューパロダム]]([[夕張川]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3101 『ダム便覧』夕張シューパロダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>、[[青森県]]の[[浅瀬石川ダム]](浅瀬石川)と[[津軽ダム]]([[岩木川]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0207 『ダム便覧』浅瀬石川ダム]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2996 『ダム便覧』津軽ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>、岩手県の[[胆沢ダム]](胆沢川)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0277 『ダム便覧』胆沢ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref>、[[山形県]]の[[長井ダム]]([[置賜野川]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0448 『ダム便覧』長井ダム]2015年8月11日閲覧</ref>、[[島根県]]の八戸ダム(八戸川)<ref>『日本の多目的ダム補助編 1990年版』pp.400-401</ref>などがある。なお事業の完成により日本初の多目的ダム施工例だった[[沖浦ダム]]は浅瀬石川ダムに、日本初の[[ロックフィルダム]]施工例だった石淵ダムは胆沢ダムに、[[大夕張ダム]]は夕張シューパロダムに、[[管野ダム]]は長井ダムの湖底にそれぞれ水没。[[目屋ダム]](岩木川)や桂沢・丸山ダムも再開発の完成により水没する運命である。 |
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なお、この時期は「見返り資金」がGHQによって放出され、河川開発の[[国庫]]補助が充実したこともあって各[[地方自治体]]は積極的に中小河川を含む河川総合開発を推進するようになり、多目的ダムが全国各地に建設・計画されるようになった。この頃から、国庫補助を受けて建設される多目的ダムを「[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]」と呼ぶようになる。ここにおいて「河水統制事業」は「'''[[河川総合開発事業]]'''」として発展的改組を遂げる。 |
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ダム技術については工事の機械化・省力化による事業費圧縮を目的として様々な研究が進められ、その結果'''RCD工法'''と'''[[台形CSGダム]]'''という世界初のダム技術が日本で誕生した。RCD工法のRCDとは Roller Compacted Dam-Concrete の略であり、[[セメント]]の量を極力少なくした貧配合の超硬練り[[コンクリート]]を[[ブルドーザー]]で撒き出して振動[[ロードローラー]]で締め固める工法であり、ロックフィルダムの工法をコンクリートダムに援用したものである。1973年に[[アメリカ陸軍工兵司令部]]が試験的な施工を行っていたが、日本では建設省が大川ダムの上流仮締切ダムにおける試験的な施工を経て1978年に[[山口県]]の[[島地川ダム]](島地川)において本体工事に世界で初めて採用した。以後大規模コンクリートダムの標準的な施工法となり、[[佐賀県]]の[[嘉瀬川ダム]]([[嘉瀬川]])や[[栃木県]]の[[湯西川ダム]]([[湯西川]])などではより高速のコンクリート打設が可能となった巡航RCD工法が導入されている<ref>『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』pp.112-115</ref><ref>[http://www.kajima.co.jp/tech/c_dam/construct/index.html 鹿島建設『巡航RCD工法』]2015年8月11日閲覧</ref>。一方台形CSGダムは日本で開発された新しい[[ダム#型式|型式]]で、CSGとは Cemented Sand and Gravel の略である。ロックフィルダムで実証されている[[台形]]ダムの安定性を応用した設計の合理化と、コンクリート原材料の品質を厳選せず利用できる材料の合理化、およびRCD工法と同様の手法で施工ができる施工の合理化を兼備したダム型式であり、事業費の圧縮や材料取得のための原石山掘削といった環境への負荷を軽減できる利点がある。[[沖縄県]]の金武ダム(億首川)が施工第一号として[[2002年]](平成14年)より開始され、[[2012年]](平成24年)北海道の[[当別ダム]](当別川)が世界で初めて同型式として完成した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3147 『ダム便覧』金武ダム(再)]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0171 『ダム便覧』当別ダム]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://www.jdec.or.jp/02project_outline/02_research_and_development/05CSG.html ダム技術センター『台形CSGダムの設計及び施工に関する研究』]2015年8月11日閲覧</ref>。日本では当別・金武ダムのほか幾つかのダムで本型式が導入予定だが<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=iti&kei=CSG&jy=kana 『ダム便覧』一覧表(台形CSGダム)]2015年8月11日閲覧</ref>、洪水処理など実運用における技術的課題が残されている。 |
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===電力再編成と水力発電=== |
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一方、[[日本発送電]]株式会社に強制的に統合された電力業界であるが、日本発送電が[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)によって1948年に[[過度経済力集中排除法]]の指定企業とされたことにより再び勃興の兆しを見せ始めた。1951年、日本発送電株式会社が[[日本発送電#電力事業再編令|電力事業再編令]]によって分割・民営化されたことに伴い全国に九'''電力会社'''<ref>[[北海道電力]]・[[東北電力]]・[[東京電力]]・[[北陸電力]]・[[中部電力]]・[[関西電力]]・[[中国電力]]・[[四国電力]]・[[九州電力]]。[[沖縄電力]]は[[1972年]](昭和47年)の[[沖縄返還]]以後に誕生した。</ref>が誕生した。これに伴い日本発送電が保有していた発電用ダムと水力発電所は、それぞれの電力会社に母体となった電力会社が保有していた発電用[[水利権]]と共に移譲された。なお、地域によっては配電区域にある電力会社とは異なる電力会社が発電施設を保有している例がある<ref>特に[[木曽川]]、[[飛騨川]]、[[黒部川]]、[[庄川]]、[[信濃川]]、[[阿賀野川]]で問題になった。</ref>が、これはその河川を最も早く開発した電力会社を母体に持つ会社に保有が認められたことによる。これは「'''一河川一社主義'''」と呼ばれる。 |
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また、ダムの放流に欠かせない洪水吐きの[[ゲート]]設置にも変化がみられた。大正時代に建設された発電用ダムを中心に戦前完成したダムの多くは多数のゲートが横一列に並ぶタイプが多かったが、戦後アメリカ合衆国海外技術顧問団の勧告や水門技術の発達などにより比較的少数の大型ゲートによる調節が主流となった<ref>『日本の多目的ダム 1963年版』pp.144-145</ref>。しかし[[1973年]](昭和48年)[[鳥取県]]が施工・完成させた補助治水ダム・百谷ダム(天神川)は洪水吐きにゲートを備えない日本初の'''[[治水ダム#概説|ゲートレスダム(坊主ダム)]]'''方式を導入した。ゲートレスダムは豪雨時にダムまで洪水が到達する時間が短く人為的な洪水調節操作が難しい[[流域面積]]の狭い河川で主に採用されるが、日本のダム建設においては百谷ダム以降規模の大小を問わずゲートレスダムの建設が主流となっている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1683 『ダム便覧』百谷ダム]2015年8月30日閲覧</ref>。さらに治水ダムの中には平常時には全く貯水を行わず洪水時にのみ貯水する洪水調節目的特化型の[[治水ダム#穴あきダム|流水型ダム(穴あきダム)]]が建設されるようになった。1956年3月に[[茨城県]]で完成した[[藤井川ダム]](藤井川)が県営事業としては最初の例<ref group="注">1977年にダム再開発事業が実施され、貯水を行う多目的ダムとなる。</ref>になるが、[[2005年]](平成17年)に完成した[[島根県]]の[[益田川ダム]]([[益田川]])以降、穴あきダム方式の治水ダムが日本各地で新たに計画されている<ref name="chisui"/><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1754 『ダム便覧』益田川ダム]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=iti&m1=F&jy=kana 『ダム便覧』一覧表目的別(洪水調節専用)]2015年8月11日閲覧</ref>。 |
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これ以降発電・送電・配電は各電力会社によって一括して運用された。だが、発足直後のため企業基盤が脆弱であったため、これを補完する意味で公営発電事業も継続して実施することとなった。1952年、「電源開発促進法」が施行され公営企業である'''[[電源開発|電源開発株式会社]]'''が誕生、[[只見川]]・[[天竜川]]・[[熊野川]]などで大規模水力発電施設の建設を行い主に京阪神への電力供給を図ろうとした。各電力会社は国家復興の原動力である電源開発を競って行い、これがやがて昭和30年代以降の大ダム時代へと発展していくのである。 |
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File:旭川治水ダム.jpg|[[治水ダム#補助治水ダム|補助治水ダム事業]]の第一号、[[旭川治水ダム]]([[旭川 (秋田県)|旭川]])。1972年完成。 |
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File:Tsugaru Dam 2013.jpg|[[津軽ダム]]([[岩木川]])。[[目屋ダム]]直下60メートル地点にRCD工法で建設されている([[2013年]]撮影)。 |
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File:Simajigawa-2086-r1.JPG|世界初のRCD工法による施工ダム、[[島地川ダム]](島地川)。[[1981年]](昭和56年)完成。 |
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File:Tobetsu dam after construction.JPG|世界初の[[台形CSGダム]]、[[当別ダム]]([[当別川]])。2012年完成。 |
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File:Masudagawa-1754-2-r1.JPG|[[治水ダム#穴あきダム|流水型(穴あき)ダム]]である[[益田川ダム]]([[益田川]])上流面。手前の柵で[[流木]]などを捕捉する。2005年完成。 |
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=== 揚水発電の時代 === |
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なお、この時期は日本初の型式のダムが誕生した時期でもある。1952年に木曽川水系久々利川に日本初の[[ロックフィルダム]]<ref>施工については[[石淵ダム]](胆沢川)が最初であるが、[[2013年]](平成25年)の[[胆沢ダム]]完成により同ダムは水没するため、以後は名実共に日本初となる。</ref>である'''[[小渕ダム]]'''が、翌1953年には[[斐伊川]]に日本初の[[アーチ式コンクリートダム]]である'''[[三成ダム]]'''が、そして[[1954年]](昭和29年)には北上川水系和賀川に日本初の[[コンバインダム]](複合ダム)である'''石羽根ダム'''が完成している。 |
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{{main|揚水発電}} |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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==高度経済成長期(1955年~1972年)== |
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|+認可出力100万kW以上の揚水発電所<ref>[http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=areashow&AreaNo=06 一般社団法人電力土木技術協会『水力発電データベース』]2015年8月11日閲覧</ref> |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
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!電力会社 |
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!年代 |
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!発電所 |
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!出来事 |
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!運転開始 |
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!認可出力<br/>(kW) |
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!河川 |
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!上部調整池<br/>下部調整池 |
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| rowspan="2"|[[東京電力]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1955年]] |
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| rowspan="2"|[[神流川発電所|神流川]] |
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| align=left|[[丸山ダム]](木曽川)や[[上椎葉ダム]](耳川)が完成し、堤高100m級のダム建設が本格化する。 |
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| rowspan="2"|[[2005年]] |
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| rowspan="2" align="right"|2,820,000<br/>*予定 |
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|南相木川 |
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|[[南相木ダム]] |
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|[[神流川 (利根川水系)|神流川]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1956年]] |
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|[[上野ダム]] |
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| align=left|当時世界第10位の堤高を持つ、[[佐久間ダム]]([[天竜川]])が完成する。記念切手も発売される。 |
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| rowspan="2"|[[関西電力]] |
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| align=left|[[経済産業省|通商産業省]]、第四次発電水力調査を実施。電源開発事業が河川総合開発事業と一体化して行われるようになる。 |
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| rowspan="2"|[[多々良木ダム#奥多々良木発電所|奥多々良木]] |
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| rowspan="2"|[[1974年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,932,000 |
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|[[市川 (兵庫県)|市川]] |
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|[[黒川ダム]] |
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|多々良木川 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[1957年]] |
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|[[多々良木ダム]] |
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| rowspan="2"|東京電力 |
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| align=left|日本最初の[[中空重力式コンクリートダム]]である[[井川ダム]]([[大井川]])が完成する。 |
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| rowspan="2"|葛野川 |
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| rowspan="2"|[[1999年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,600,000<br/>*予定 |
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|日川 |
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|[[上日川ダム]] |
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|土室川 |
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| align=left|世界最大の水道用ダムである[[小河内ダム]]([[多摩川]])が完成する。記念切手も発売される。 |
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|[[葛野川ダム]] |
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| rowspan="2"|[[中部電力]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1958年]] |
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| rowspan="2"|[[上大須ダム|奥美濃]] |
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| align=left|[[松原ダム]](筑後川)・[[下筌ダム]](津江川)建設開始に反対する室原知幸ら住民、「[[蜂の巣城紛争]]」を起こす(~1972年)。 |
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| rowspan="2"|[[1994年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,500,000 |
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|西ヶ洞谷川 |
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|[[川浦ダム]] |
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|根尾東谷川 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1959年]] |
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|[[上大須ダム]] |
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| align=left|[[世界銀行]]の融資を受け[[北陸電力]]の「常願寺川有峰開発計画」根幹事業・[[有峰ダム]](和田川)が完成する。 |
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| rowspan="2"|東京電力 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1960年]] |
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| rowspan="2"|[[高瀬ダム#新高瀬川発電所|新高瀬川]] |
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| align=left|[[奥只見ダム]]([[只見川]])が完成。重力式コンクリートダムとしては日本一の規模がある。 |
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| rowspan="2"|[[1979年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,280,000 |
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|[[高瀬川 (長野県)|高瀬川]] |
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|[[高瀬ダム]] |
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|高瀬川 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1961年]] |
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|[[七倉ダム]] |
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| align=left|[[御母衣ダム]](庄川)が完成。日本造園史に残る「[[荘川桜]]」の移植工事に成功する。 |
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| rowspan="2"|関西電力 |
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| align=left|北海道開発局が計画していた「赤岩ダム計画」([[鵡川]])、[[占冠村]]住民の反対により白紙撤回。大規模多目的ダム事業の白紙撤回例としては初。 |
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| rowspan="2"|[[太田ダム|大河内]] |
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| rowspan="2"|[[1992年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,280,000 |
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|太田川 |
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|[[太田ダム]]群 |
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|犬見川 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1962年]] |
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|長谷ダム |
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| align=left|「[[水資源開発促進法]]」・「水資源開発公団法」施行に伴い[[水資源開発公団]]発足。利根川水系・淀川水系が水資源開発水系に指定される。 |
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| rowspan="2"|関西電力 |
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| align=left|「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」が閣議決定、用地取得に関する補償制度の整備が始まる。 |
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| rowspan="2"|奥吉野 |
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| rowspan="2"|[[1978年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,206,000 |
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|瀬戸谷川 |
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|瀬戸ダム |
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|旭川 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1963年]] |
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|旭ダム |
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| align=left|日本最高の堤高(186m)がある[[黒部ダム]]([[黒部川]])が完成する。 |
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| rowspan="2"|東京電力 |
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| rowspan="2"|[[玉原ダム|玉原]] |
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| align=left|新「[[河川法]]」施行。[[一級水系]]・[[二級水系]]の河川管理体系が整備され、[[日本のダム#定義|ダムの定義]]も堤高15m以上と定められる。 |
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| rowspan="2"|[[1982年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,200,000 |
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|発知川 |
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|[[玉原ダム]] |
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|[[利根川]] |
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| align=left|筑後川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。 |
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|[[藤原ダム]] |
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| rowspan="2"|[[中国電力]] |
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| align=left|[[東京都]]大渇水(東京砂漠)で政府、利根川からの緊急取水を行う。これ以後[[利根川水系8ダム]]の建設・計画が本格化する。 |
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| rowspan="2"|[[俣野川ダム|俣野川]] |
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| rowspan="2"|[[1986年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,200,000 |
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|土用川 |
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|[[土用ダム]] |
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|俣野川 |
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| align=left|[[品木ダム]](湯川)を中心とした「吾妻川水質中和事業」が稼働し[[吾妻川]]の水質が改善される。 |
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|[[俣野川ダム]] |
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| rowspan="2"|[[九州電力]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1965年]] |
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| rowspan="2"|[[小丸川発電所|小丸川]] |
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| align=left|木曽川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。 |
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| rowspan="2"|[[2007年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,200,000 |
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|大瀬内谷川 |
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|[[大瀬内ダム]] |
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|[[小丸川]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1966年]] |
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|[[石河内ダム]] |
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| align=left|吉野川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。 |
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| rowspan="2"|[[電源開発]] |
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| rowspan="2"|[[新豊根ダム#新豊根発電所|新豊根]] |
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| align=left|[[八ッ場ダム]](吾妻川)・[[川辺川ダム]](川辺川)の実施計画調査が開始される。 |
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| rowspan="2"|[[1972年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,125,000 |
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|大入川 |
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|[[新豊根ダム]] |
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|[[天竜川]] |
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| align=left|「[[治水ダム#補助治水ダム|補助治水ダム]]」事業開始。洪水調節のみを目的とする[[都道府県営ダム]]事業に対し国庫補助が受けられるようになる。 |
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|[[佐久間ダム]] |
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| rowspan="2"|東京電力 |
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| align=left|「公共用地の取得に伴う公共補償基準要綱」が閣議決定。道路等公共施設に関する補償制度が整備される。 |
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| rowspan="2"|[[今市ダム|今市]] |
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| rowspan="2"|[[1988年]] |
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| rowspan="2" align="right"|1,050,000 |
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|ネベ沢川 |
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|[[栗山ダム (栃木県)|栗山ダム]] |
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|砥川 |
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| align=left|和知ダム第三ゲート崩壊事故([[由良川]]・[[京都府]])。ゲート支柱の強度不足により突然ゲートが崩壊し湖水が全て流出。 |
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|[[今市ダム]] |
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| rowspan="2"|電源開発 |
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| rowspan="2"|[[大川ダム#下郷発電所|下郷]] |
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| align=left|日本最初の[[ロックフィルダム#アスファルトフェイシングフィルダム|アスファルトフェイシングフィルダム]]である大津岐ダム(大津岐川)が完成する。 |
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| rowspan="2"|1988年 |
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| rowspan="2" align="right"|1,000,000 |
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|小野川 |
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|[[大内ダム]] |
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|[[阿賀野川]] |
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| align=left|映画「[[黒部の太陽]]」が封切られる。出演者の合意事項で公開終了後封印される。 |
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|[[大川ダム]] |
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| rowspan="2"|電源開発 |
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| align=left|[[飛騨川バス転落事故]]。中部電力、救助活動援護のため[[上麻生ダム]]([[飛騨川]])の洪水放流を断続的に停止する。 |
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| rowspan="2"|[[二居ダム|奥清津]] |
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| rowspan="2"|1978年 |
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| rowspan="2" align="right"|1,000,000 |
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|カッサ川 |
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|[[カッサダム]] |
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|[[清津川]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1971年]] |
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|[[二居ダム]] |
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| align=left|[[電源開発]]、[[吉野川]]中流に計画していた[[小歩危ダム計画]]を中止する。 |
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| align=left|[[宮ヶ瀬ダム]]([[中津川 (相模川水系)|中津川]])・[[徳山ダム]]([[揖斐川]])の実施計画調査が開始される。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1972年]] |
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| align=left|[[田中角栄]]内閣、利根川に計画されていた日本最大の多目的ダム・「[[沼田ダム計画]]」を白紙撤回する。 |
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| align=left|[[島地川ダム]](島地川)、世界初のRCD工法による建設が開始される(~1981年に完成する)。 |
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|} |
|} |
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日本のダム建設を牽引してきた水力発電事業も、変容を遂げていた。大正時代から戦後早期に掛けては水力発電が日本の電気事業における中心的な存在であり、[[火力発電]]は水力発電の発電量減衰を補う「水主火従」の時代であった。だが高度経済成長期以降、大出力の火力発電所が次々に運転を開始。さらに[[原子力発電]]も実用化されるに至って相対的に水力発電の比重は減少、1963年を境に「火主水従」の時代に変化していった。電力会社の新規電力開発もこうした大容量[[火力発電所]]・[[原子力発電所]]の建設に重点が置かれ、大規模なダムを伴う貯水池式水力発電所は建設に適した地点が減少、さらに新鋭石油火力発電との経済性で比較され縮小傾向にあった。しかし火力発電所や原子力発電所は高稼働率の運転を継続しなければならず、こまめに出力を調整することができない。このため電力需要のピーク時には即時に対応し辛いという欠点があった。こうした欠点を補うため、柔軟な出力運転が可能な水力発電、特に河川流量に左右されにくく余剰電力を有効に活用でき、かつ需要ピーク時に即応できる'''[[揚水発電]]'''が注目された<ref name="yosui">『電発30年史』p.291</ref><ref>『飛騨川 流域の文化と電力』pp.570-571</ref>。 |
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[[1952年]](昭和27年)、[[サンフランシスコ平和条約]]締結により日本は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領から解き放たれた。[[朝鮮戦争]]による特需景気は日本の奇跡的復興の序曲となりその後[[1960年代]]の[[高度経済成長]]へと突き進んでいった。経済成長に伴い道路・鉄道・港湾を始めさまざまな[[インフラ]]整備が大規模に計画、着手されていった。ダム事業においても、この時期は最も記憶に残るプロジェクトが多く手掛けられた時期でもあった。 |
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日本では[[1931年]](昭和6年)に[[祐延ダム]](小口川)を利用した小口川第三発電所、[[1934年]](昭和9年)に[[野尻湖]]を利用した池尻川発電所、[[1952年]](昭和27年)に[[沼沢湖]]と[[只見川]]を利用した沼沢沼発電所<ref group="注">1981年に第二沼沢発電所の運転開始に伴い廃止。</ref>などが運転を開始していたが、何れも小規模な揚水発電所であった<ref name="yosui"/>。認可出力が10万キロワット以上の揚水発電所が建設されるのは1960年代以降のことである。1962年[[中部電力]]が[[大井川]]に[[畑薙第一ダム|畑薙第一発電所]](13万7,000キロワット)、1964年には電源開発が[[池原ダム|池原発電所]](35万キロワット)の運転を相次いで開始した<ref name="yosui"/>。1965年には[[東京電力]]が[[矢木沢ダム#矢木沢発電所|矢木沢発電所]](24万キロワット)および[[神奈川県企業庁]]が[[城山ダム|城山発電所]](25万キロワット)の運転を開始しているが、両発電所は河川総合開発事業の一環でもあった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0612 『ダム便覧』矢木沢ダム]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=172&p=5 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(19)]2015年8月11日閲覧</ref>。[[1969年]](昭和44年)には高さ155.0メートルの巨大[[アーチ式コンクリートダム]]・[[奈川渡ダム]]([[犀川 (長野県)|犀川]])を利用した[[奈川渡ダム|安曇発電所]](62万3,000キロワット)が運転を開始する<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=256&p=5 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(29)]2015年8月11日閲覧</ref>など揚水発電所の建設が盛んになっていった。1970年代に入ると夏季の電力需要が益々増大し、急激な電力使用量の上昇に対応するため認可出力100万キロワットを越える大規模揚水発電所の建設が開始された。 |
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===大ダム時代の幕開け=== |
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[[image:Sakumadam-0A3N80pbxFs6g.JPG|250px|thumb|わずか三年余で完成した[[佐久間ダム]]([[天竜川]]・[[愛知県]]、[[静岡県]])]] |
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[[Image:Kurobe Dam survey.jpg|250px|thumb|日本一の高さがある[[黒部ダム]]([[黒部川]]・[[富山県]])]] |
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[[1955年]](昭和30年)、[[建設省]]中部地方建設局は[[木曽川]]本川中流部に'''[[丸山ダム]]'''を完成させた。戦前から計画されていたが戦争による中断を挟み完成したダムである。堤高は98.0m。この丸山ダムこそが100メートル級大ダム建設時代の号砲となった。同年[[九州電力]]は[[宮崎県]]に堤高110メートルの'''[[上椎葉ダム]]'''([[耳川]])を建設し大規模[[アーチ式コンクリートダム]]建設の先駆けとなった。 |
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1972年電源開発によって[[新豊根ダム]](大入川)を上部調整池、佐久間ダムを下部調整池とする[[新豊根ダム#新豊根発電所|新豊根発電所]](112万5,000キロワット)の運転が開始され<ref>『電発30年史』pp.291-292</ref>、1974年には[[関西電力]]が[[黒川ダム]]([[市川 (兵庫県)|市川]])を上部調整池、[[多々良木ダム]](多々良木川)を下部調整池として市川水系・[[円山川]]水系の2水系を利用した[[多々良木ダム#奥多々良木発電所|奥多々良木発電所]](121万2,000キロワット)の運転を開始、その後出力を増強させ193万2,000キロワットという日本最大の水力発電所になった<ref>『ダム年鑑 1991』p.732</ref><ref>[http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=detail2&pp=4&OwnerNo=006&AreaNo=06&RiverSys=6260&fd=1 『水力発電所データベース』奥多々良木]2015年8月11日閲覧</ref>。1979年には東京電力が[[高瀬ダム#新高瀬川発電所|新高瀬川発電所]](128万キロワット)の運転を開始した。新高瀬川発電所は[[信濃川]]水系犀川の二次支流である[[高瀬川 (長野県)|高瀬川]]に上部調整池である'''[[高瀬ダム]]'''と、下部調整池である[[七倉ダム]]を建設して揚水発電を行うが、上部調整池である高瀬ダムは高さ176.0メートルで[[黒部ダム]]([[黒部川]])に次ぐ日本第二位の高さを有するダムである<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1027 『ダム便覧』高瀬ダム]2015年8月11日閲覧</ref>。 |
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翌1956年には「暴れ天竜」とあだ名された天竜川を堰き止め'''[[佐久間ダム]]'''(堤高155.5メートル・[[電源開発|電源開発株式会社]])が完成した。このダムは3年という短期間で完成し、日本土木史のエポック・メイキングとなった。[[1957年]](昭和32年)には[[多摩川]]に当時「世界最大の上水道専用ダム」と称された'''[[小河内ダム]]'''(堤高149.0メートル・[[東京都水道局]])が戦争による中断を挟みながらも完成。その翌年[[1959年]](昭和34年)には[[北陸電力]]が社運を賭けて取り組んだ「[[常願寺川]]有峰発電計画」の中心事業・'''[[有峰ダム]]'''(堤高140.0メートル)が[[世界銀行]]などの融資を受けて完成。そして[[1960年]](昭和35年)には[[コンクリートダム|重力式コンクリートダム]]としては日本最大の'''[[奥只見ダム]]'''(堤高157.0メートル・電源開発株式会社)が完成し、コンクリートダムはその技術の粋を極めていった。 |
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その後も日本各地で100万キロワット級の揚水発電所が建設され、2005年に1号機47万キロワットの一部運転を開始した東京電力の[[神流川発電所]]は、全面稼働すれば日本最大の認可出力282万キロワットの予定となる<ref>[http://www.tepco.co.jp/solution/power_equipment/water_power/kannagawa-j.html 東京電力『神流川発電所』]2015年8月11日閲覧</ref>。変わった所としては[[沖縄県]]において電源開発によって[[沖縄やんばる海水揚水発電所]]が[[1999年]](平成11年)に運転を開始している。世界初の海水揚水発電所で、高さ25.0メートルの美作ダムを上部調整池として建設し下部調整池を[[太平洋]]とすることで認可出力3万キロワットを発電する。美作ダムは沖縄県唯一の[[電力会社管理ダム|水力発電専用ダム]]であるが海水の影響を防ぐため表面遮水壁は[[ゴム]]シートである<ref>[http://www.jpower.co.jp/yambaru/ 電源開発『沖縄やんばる海水揚水発電所』]2015年8月11日閲覧</ref><ref>[http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=detail2&pp=1&OwnerNo=010&AreaNo=10&RiverSys=9900&fd=3 『水力発電所データベース』沖縄やんばる海水揚水]2015年8月11日閲覧</ref>。しかし電力需要の低迷などもあって新規の揚水発電計画は修正を余儀なくされ、関西電力が滋賀県に建設を予定していた金居原発電所計画(228万キロワット)<ref name="kaneibara">[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_34.html 『ダム便覧』金居原発電所上部]2015年8月11日閲覧</ref>などの揚水発電計画は中止され、高さ148.5メートルの金居原上部ダム(八草川)<ref name="kaneibara"/>や高さ137.0メートルの木曽中央下部ダム(阿寺川)<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_92.html 『ダム便覧』木曽中央下部ダム]2015年8月11日閲覧</ref>といった大規模ダム計画も同時に中止されている。 |
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[[ロックフィルダム]]でも大規模ダムが建設されるようになり、[[1961年]](昭和36年)には[[庄川]]最上流部に'''[[御母衣ダム]]'''(堤高131.0メートル・電源開発株式会社)が完成し、完成当時は「東洋一」とまで称された。この御母衣ダムは日本[[植林]]史に残る大事業があった。湖底に沈む運命にあった樹齢350年の[[サクラ|エドヒガン]]を湖畔に移植するという作業であった。これは初代電源開発総裁・[[高碕達之助]]の発案によるもので、十中八九成功しないと言われていた無謀な賭けであった。だが、老桜は見事に開花し現在でも例年4月下旬になると満開の桜を咲かせている。この「[[荘川桜]]」は今でも湖底に沈んだ故郷をしのぶ旧住民の思い出の地となっている。 |
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なお、揚水発電所の建設に伴って盛んに建設されたダムの型式として、[[アスファルトフェイシングフィルダム|アスファルト表面遮水壁型ロックフィルダム]]がある。ロックフィルダムの上流面に[[アスファルト]]を厚く舗装して水を遮るダムで、電源開発が1968年に只見川の支流である大津岐川に完成させた大津岐ダムが日本初となる。[[奥只見ダム]]よりもさらに奥地に建設されたこのダムは劣悪な道路事情からコンクリートの輸送手段に問題がありコンクリートダムの建設は難しかった。このためロックフィルダムが採用されたが厳寒の冬季には工事を中断しなければならず、事業費抑制の観点から工期延長は避ける必要があった。だが本型式を採用することで輸送量の軽減、工期の短縮、事業費の節減につながることが判明し1965年の着工からわずか3年で完成させた<ref>『電発30年史』pp.286-287</ref>。その後この型式は主に揚水発電所のダムにおいて好んで採用され、多々良木ダムのほか電源開発沼原発電所の上部調整池である[[沼原ダム]](那珂川水系)<ref>『電発30年史』pp.298-305</ref>や[[九州電力]][[小丸川発電所]]の上部調整池である[[大瀬内ダム|大瀬内]]・[[かなすみダム]](大瀬内谷川)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3300 『ダム便覧』大瀬内ダム]2015年8月11日閲覧</ref>、東京電力塩原発電所の上部調整池である[[八汐ダム]](鍋有沢川)などが建設された。特に八汐ダムは高さ90.2メートルと本型式としては世界一の高さを有する<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0582 『ダム便覧』八汐ダム]2015年8月11日閲覧</ref>。 |
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これら大ダム建設時代の真打が、[[1963年]](昭和38年)に完成した'''[[黒部ダム]]'''([[黒部川]]、高さ186.0メートル)である。大正時代より計画のあった[[黒部川第四発電所]]計画は、戦後[[関西電力]]によって計画されるが秘境中の秘境・[[黒部峡谷]]に建設することには多くの反対意見があった。これに対し当時の関西電力社長・[[太田垣士郎]]は社運を賭けた一大プロジェクトとして建設を進めた。工事用道路として[[長野県]][[大町市]]より大町トンネル([[関電トンネル]])を掘削し資材を輸送する工事から始めたが予想以上の出水や高熱岩盤に悩まされ、ダム本体工事でも極寒の気候や険阻な峡谷が度々工事の行く手を阻んだ。延べ1,000万人の人員投入、関西電力資本金の実に5倍に当たる513億円の建設費を費やし、171人の尊い命を黒部に散らしながら完成した黒部ダムは、京阪神の電力供給の大きな礎となりさらに日本有数の観光地としてその名を今に刻んでいる。なお、この偉業を残すべく[[石原裕次郎]]と[[三船敏郎]]の二大名優は当時の映画業界の慣例を破り、干されながらもその情熱を傾けて一本の映画を撮った。これが日本映画史に残る屈指の名作「[[黒部の太陽]]」である。この映画は彼らの意向もあって上映後の再放映は一切行わていなかったが、黒部ダム完成50周年となる[[2013年]](平成25年)に[[東日本大震災]]復興チャリティーの一環で解禁され、DVDも発売された。 |
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<gallery widths="190" heights="140"> |
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File:Ikehara Dam survey.jpg|西日本最大の人造湖を有する[[池原ダム]]([[北山川]])。奥に見えるのは洪水吐。1964年完成。 |
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File:Nagawado Dam.jpg|[[水殿ダム|水殿]]・[[稲核ダム]]と共に安曇3ダムと呼ばれる[[奈川渡ダム]]([[犀川 (長野県)|犀川]])。1969年完成。 |
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File:Takase Dam 2008-10-13.jpg|日本第二位の高さを有する[[高瀬ダム]]([[高瀬川 (長野県)|高瀬川]])。1979年完成。 |
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File:Tataragi Dam01n4272.jpg|[[多々良木ダム]](多々良木川)の[[アスファルト]]表面遮水壁。1974年完成。 |
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</gallery> |
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== 平成1(1989年-1999年) == |
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===ダム関連の法整備=== |
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[[1989年]](昭和64年/平成元年)、[[昭和天皇]]が[[崩御]]して激動の[[昭和時代]]はその幕を下ろし、[[平成]]となった。[[バブル景気]]に沸いた日本は「バブルが弾けた」後に[[平成不況]]という長期間の[[不況]]に突入。産業構造の変化は[[公共事業]]の在り方にも次第に影響を及ぼした。また[[高度経済成長]]に伴う[[公害]]などの[[環境破壊]]に対する反省から[[自然保護]]の風潮が強くなり、環境を激変させる大規模土木事業に対して日本国民の間から疑問の声が上がり始めた。両者に関わるダム事業は特にこれら問題の矢面に立たされ、今までとは一転して厳しい立場に身を置くことになる。 |
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こうした電源開発などに支えられ、日本の経済は[[高度経済成長]]に向け一路突き進んでいった。さらに人口も増加の一途をたどり、日本は敗戦の痛手からほぼ立ち直っていた。だが、急激な人口増加そして産業構造の変化は各地で深刻な水不足を招いた。これに対応すべく建設省は1957年「'''[[多目的ダム#特定多目的ダム|特定多目的ダム]]法'''」を施行、建設省直轄ダム<ref>現在の[[国土交通省直轄ダム]]。</ref>を建設・管理し治水のみならず利水事業の強化を図った。 |
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[[image:Yagisawa-612-r1.jpg|250px|thumb|[[東京都|首都・東京]]など[[首都圏 (日本)|首都圏]]の水がめ[[矢木沢ダム]]([[利根川]]・[[群馬県]])]] |
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さらに[[1962年]](昭和37年)水資源開発を促進し大都市の水需要の安定供給・確保を図るために「'''水資源開発促進法'''」を施行。これに伴い'''水資源開発公団'''<ref>[[第1次小泉内閣]]による[[特殊法人改革]]で、[[独立行政法人]][[水資源機構]]として現在は運営されている。[[国土交通省]]([[治水]]担当)、[[農林水産省]]([[かんがい]]担当)、[[経済産業省]]([[工業用水道]]担当)、[[厚生労働省]]([[上水道]]担当)の四省が管轄している。</ref>が発足した。公団は「水資源開発基本計画」に則り系統的な水資源施設を建設し安定した水供給を図ることを目的とした。そして特に人口が集中する[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[中京圏]]・[[関西圏]]を中心に集中的な水供給を行うため、[[利根川]]・[[荒川 (関東)|荒川]]・[[木曽川]]・[[豊川]]・[[淀川]]・[[吉野川]]・[[筑後川]]の7水系を「水資源開発水系」に指定。[[ダム]]・[[堰]]・[[用水路]]等による水資源開発を企図した。これによって建設されたのが[[矢木沢ダム]](利根川)・[[高山ダム]]([[名張川]])・[[早明浦ダム]](吉野川)・[[長良川河口堰]]([[長良川]])等であり、[[愛知用水]]・[[香川用水]]等の水源として地域の水需要になくてはならない存在となっている。 |
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=== ダムと自然保護 === |
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そして河川・ダム関連における法整備の総決算として[[河川法]]が[[1964年]](昭和39年)に改正された。この'''新河川法'''において河川管理体系が大幅に改訂され、原則的に国が管理する109の'''[[一級水系]]'''と、[[都道府県]]が管理する'''[[二級水系]]'''に大別された。この中でそれまで統一的な基準がなかったダムの定義について第44条1項で定められ、利水([[上水道]]、[[工業用水道]]、[[灌漑|かんがい]]、[[水力発電]])を目的とするダム(利水ダム)において、「'''河水を貯留し、(中略)堤高15メートル以上のもの'''」をダムと規定した。これにより堤高15メートル未満のダムは[[堰]]として扱われるようになった。さらに[[1976年]](昭和51年)には「'''河川管理施設等構造令'''」が施行され、この中で多目的ダムや[[治水ダム]]などの[[洪水調節]]を目的とするダムにおいても「堤高15メートル以上のもの」をダムとして規定した。この二つの法令によって、日本におけるダムの定義が確立することとなった。 |
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[[File:Ozegahara 20020810.jpg|200px|thumb|[[只見川]]の水源・[[尾瀬]]全景。[[尾瀬原ダム計画]]による水没を免れ、美しい自然が残された。]] |
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ダム建設は大幅な自然の改変を伴う。例えば棲息する[[魚類]]を始めとした河川[[生態系]]への影響や[[植生]]への影響、あるいは[[水質]]への影響などである。また[[電力会社管理ダム|発電用ダム]]では発電用の取水量が河川への[[放流 (ダム)|放流]]量よりも多くなることで流量の不均衡が生じ、いわゆる「枯れ川」の問題も発生した。さらにダムを建設することで河川が分断されて上流から流下する土砂がダムで遮断、貯水池に土砂が堆積する[[ダムと環境#堆砂|堆砂]](たいしゃ)の問題や流砂連続性の途絶による[[砂丘]]の縮小や河床の固定化など、多種多様な問題が表面化した。このため自然保護の立場からダム事業に対する批判が強くなった。 |
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ダムと自然保護にまつわる問題は、既に[[大正時代]]から発生している。関東水電が[[只見川]]源流の[[尾瀬]]に水力発電を目的として[[1919年]](大正8年)より計画した'''[[尾瀬原ダム計画|尾瀬原ダム]]'''である。只見川が[[尾瀬ヶ原]]より流出する地点にダムを建設して貯水池を形成し、貯水した水を[[利根川]]へ分水して発電を行う計画で、[[1903年]](明治36年)より構想があった。ダム計画は[[1938年]](昭和13年)の[[東京電燈]]による計画案では高さ80.0メートル・[[ダム#諸元|有効貯水容量]]3億3,000万立方メートル、[[1948年]](昭和23年)に[[日本発送電]]が公表した計画案では高さ100.0メートル・貯水容量7億2,000万立方メートル・[[ダム#諸元|湛水面積]]約1,300ヘクタールという巨大ダム計画となったが、[[只見特定地域総合開発計画]]の原案を精査したアメリカ合衆国海外技術顧問団による勧告もあり高さ85.0メートル・総貯水容量6億8,000万立方メートルの規模でほぼ固まった<ref>『電源只見川開発史』pp.38-43</ref><ref>『日本政府公益事業委員会に対する只見川電源開発調査報告書』</ref><ref>[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/33-05_06/33-5_6-13272.pdf 尾崎三吉『尾瀬原、只見川、利根川の水力発電計画について(中間報告)』土木学会誌第33巻5・6号]2015年8月18日閲覧</ref><ref name="ozezaidan">[https://www.oze-fnd.or.jp/oza/a-st/ 公益財団法人尾瀬保護財団『尾瀬の歴史』]2015年8月18日閲覧</ref><ref group="注">尾瀬沼の面積は約1.81平方キロメートルであり、財団HPの尾瀬原ダムにおける湛水面積の記載は誤りと考えられる。</ref>。しかし完成に伴い尾瀬ヶ原全域が水没することから「長蔵小屋」を造った[[平野長蔵]]を始め[[国立公園]]を所管する[[厚生省]]や[[文部省]]、[[植物学者]]・[[登山家]]などが環境保護の立場から、[[福島県]]が[[水利権]]の立場から強く反対した<ref>『電源只見川開発史』pp.44-47</ref><ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00057877&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00057877 報知新聞1936年9月17日記事『尾瀬原を観る』神戸大学附属図書館]2015年8月18日閲覧</ref>。尾瀬原ダム計画はその後[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[水資源]]に利用する気運が高まるが、水利権を巡り最終的に[[関東地方]]対[[東北地方]]・[[新潟県]]の地域間紛争に発展して計画は行き詰まり、[[1996年]](平成8年)3月事業者である[[東京電力]]が尾瀬ヶ原の水利権を放棄したことで77年に及ぶ尾瀬原ダム計画は中止された<ref name="ozezaidan"/><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=223 『ダム便覧』水利権とダム(1)]2015年8月18日閲覧</ref>。この尾瀬原ダム計画反対運動を機に[[1949年]](昭和24年)設立されたのが[[日本自然保護協会]]である<ref name="ozezaidan"/>。 |
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また、従来管理区分が不明確であった河川管理者と電気事業者によるダム共同管理の整合性を図るため、第17条において「'''兼用工作物'''」規定を定め<ref>詳細は[[多目的ダム]]を参照</ref>、管理分担を明確化させた。こうしてダムに関する法整備も一応の完成を見ることとなる。 |
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また[[紀の川#吉野熊野特定地域総合開発計画|吉野熊野特定地域総合開発計画]]における主要な事業の一つであった[[電源開発]]の[[池原ダム#熊野川開発全体計画|熊野川開発全体計画]]で、[[池原ダム]]([[北山川]])と共に計画された[[七色ダム]]・奥瀞ダム(北山川)は[[吉野熊野国立公園]]の景勝地である[[瀞峡]]の主要部を水没させることから厚生省と自然公園審議会が反対。審議会は建設を許可しない姿勢を明確にしたことで流域自治体を巻き込む問題に発展した。最終的に七色ダムの建設地点を10キロメートル下流に、奥瀞ダムは小森ダムとして11キロメートル上流にダムサイトを変更して瀞峡主要部の水没を回避し[[1965年]](昭和40年)完成した。なお小森ダムは瀞峡の環境保全を目的に[[放流 (ダム)#河川維持放流|河川維持放流]]を毎年4月から11月に実施している<ref>『電発30年史』pp.226-228,p.233</ref>。 |
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===ダム行政に立ち向かう住民達~蜂の巣城紛争~=== |
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[[image:Otaki-1579-r1.jpg|250px|thumb|[[大滝ダム]]([[紀の川]]・[[奈良県]])。地元[[川上村 (奈良県)|川上村]]の猛烈な反対運動は「東の[[八ッ場ダム|八ッ場]]、西の大滝」と表現されダム反対運動の代表格であった。]] |
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だが、こうした河川総合開発への重視に対し、水没する地域住民から疑問の声が上がるようになり遂に九州・阿蘇の麓で噴火した。[[1958年]](昭和33年)、建設省九州地方建設局が計画する[[松原ダム]]([[筑後川]])・[[下筌ダム]](津江川)事業に対し、'''室原知幸'''を中心とする住民が建設省の高圧的な姿勢に反発、下筌ダムサイトに監視用の砦(とりで)を建設し徹底抗戦の構えを見せた。これが'''[[蜂の巣城紛争]]'''である。[[公共事業]]と[[基本的人権]]・[[財産権]]の整合性を問い、法廷闘争にまでもつれ込んだこの反対運動は、これ以後のダム事業に大きな影響を与えることとなる。 |
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こうした自然保護にまつわる問題はダムに限らず[[スーパー林道]]などの道路や[[港湾]]、発電所、[[鉄道]]、[[産業廃棄物]]処理場など[[インフラストラクチャー]]全体に及ぶ問題であった。環境保護と大規模公共事業の整合性を図るため[[1997年]](平成9年)'''[[環境影響評価法]]'''(環境アセスメント法)が成立、[[1999年]](平成11年)に施行された。同法第2条において様々な大規模事業が対象とされたが、河川事業についてはダムを含む河川管理施設と水力発電所がアセスメントの対象となった。具体的には湛水面積100ヘクタール以上のダムと認可出力3万キロワット以上の水力発電所は「第1種事業」としてアセスメントが義務化され、湛水面積75-100ヘクタールまでのダムと認可出力2万2,500-3万キロワットまでの水力発電所は「第2種事業」として個別にアセスメントの可否を検討することが規定された<ref>[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H09/H09HO081.html 法令データ提供システム『環境影響評価法』]2015年8月18日閲覧</ref><ref>[http://www.env.go.jp/policy/assess/1-1guide/1-4.html 環境省環境影響評価情報支援ネットワーク『環境アセスメントの対象となる事業』]2015年8月18日閲覧</ref>。これにより多くの大規模ダム事業が環境アセスメントの対象となり、[[猛禽類]]保全対策などを厳密に実施するようになった。ただし[[津軽ダム]]([[岩木川]])のように同法成立以前から環境影響評価に基づく対策が実施されたダムも存在する<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/tugaru/dam/image/kankyo/kankyo/kanrepo.pdf 国土交通省東北地方整備局津軽ダム工事事務所『津軽ダム建設事業における環境保全への取り組み』]2015年8月18日閲覧</ref>。 |
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この頃大規模多目的ダム事業が相次いで計画されているが、蜂の巣城紛争の影響もあって激しい住民反対運動に遭遇している。特に利根川本流に計画された「[[沼田ダム計画]]」は総貯水容量8億トンという史上最大の多目的ダム計画であったが、[[沼田市]]主要官庁・公共施設を始め2,200世帯が完成後水没することから群馬県・沼田市双方の猛反対に遭い20年に亘り実施計画調査もできなかった。最終的に1972年[[田中角栄]]内閣が白紙撤回を表明。また、北海道開発局が[[鵡川]]本川に計画していた「赤岩ダム計画」も総貯水容量が3億5,000万トンと屈指の規模であったが、大半が水没する[[勇払郡]][[占冠村]]の官民一体の抵抗により事業は1961年に中止。実施計画調査を実施した大規模多目的ダム事業の中止例としては初となった。この他にも多くのダム事業において猛烈な反対運動が官民一体で繰り広げられた。 |
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ダム事業は環境に悪影響を与えるという認識が強いが、ダムによって自然環境が回復した例もある。[[群馬県]]を流れる[[利根川]]の支流・[[吾妻川]]は長らく「死の川」と呼ばれていた。[[草津温泉]]・[[万座温泉]]から湧き出る[[酸性]]水が流入するため河川の酸性度が高く、魚類が一切棲息していなかった。特に草津温泉付近を水源とする吾妻川の二次支流・湯川の[[pH]]は1.8と[[塩酸|希塩酸]]や[[硫酸|希硫酸]]並みで、鉄[[釘]]を一週間で溶かすほどの強酸性河川だった。漁業は元より灌漑にも使えず、利根川の水質まで損ねていた吾妻川の酸性度を改善するため群馬県は世界初の河川中和事業である'''[[品木ダム#吾妻川酸性水中和事業|吾妻川中和事業]]'''に[[1961年]](昭和36年)着手。湯川に[[石灰]]を投入し下流に建設した[[品木ダム]]で攪拌・[[中和]]する対策を講じた結果吾妻川の酸性度は回復し、魚類が棲息する河川となった<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0610 『ダム便覧』品木ダム]2015年8月21日閲覧</ref><ref>『利根川百年史』pp.1420-1423</ref><ref group="注">1967年に管理は群馬県から建設省関東地方建設局(国土交通省[[関東地方整備局]])に移管された。</ref>。同様に「[[玉川温泉#玉川毒水|玉川毒水]]」として流域を300年近く苦しめていた[[秋田県]]を流れる[[雄物川]]の支流・[[玉川 (秋田県)|玉川]]についても、1989年[[玉川ダム]]の完成により恒久的な中和処理が可能となり毒水を克服している<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/tamagawa/ 国土交通省東北地方整備局玉川ダム管理所]2015年8月21日閲覧</ref>。また[[東京都]]を流れる[[隅田川]]は高度経済成長期に[[水質汚濁]]が激化、1961年の隅田川における[[生物化学的酸素要求量]](BOD)は35-40mg/lと「ドブ川」の態であった。当時東京都への水道供給を目的に[[矢木沢ダム]](利根川)などを水源とする[[利根導水路]]が建設されていたが、利根導水路を利用し隅田川に利根川の清浄な水を導水することで隅田川の水質浄化を図った結果、[[1975年]](昭和50年)以降BODは4-5mg/lにまで改善、水質汚濁のため1961年に中断した[[早慶レガッタ]]が[[1978年]](昭和53年)に復活した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=202 『ダム便覧』こうして早慶レガッタが復活した]2015年8月21日閲覧</ref>。ダム建設に伴う[[人造湖]]の誕生が新たな生態系の創出をもたらした例もあり、[[1996年]](平成8年)に[[宮城県]]が建設した[[化女沼ダム]](長者川)は自然湖である化女沼をダムにより拡張した[[治水ダム]]であるが、完成後[[オオハクチョウ]]や猛禽類の生息地として重要な湖沼となり[[2008年]](平成20年)[[ラムサール条約]]に登録された<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/osdam/kjdam-kankyoubika.html 宮城県『化女沼ダム』]2015年8月21日閲覧</ref>。このほか[[絶滅危惧種]]の[[トモエガモ]]集団越冬地として[[鳥獣保護法]]の「鳥獣保護特別区域」に指定された[[愛媛県]]の黒瀬ダム([[加茂川 (愛媛県)|加茂川]])<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2262 『ダム便覧』黒瀬ダム]2015年8月21日閲覧</ref>、ダム完成後に生息する鳥類が増加した[[静岡県]]の[[奥野ダム]](伊東大川)<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1176 『ダム便覧』奥野ダム]2015年8月21日閲覧</ref>など生態系保全に寄与したダムもあり、多種多様な鳥類がダムやダム湖に飛来・棲息することが確認されている<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Tokubetu/ToriTori.html 『ダム便覧』ダムにいる鳥(鳥別)]2015年9月2日閲覧</ref>。 |
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1962年の[[大滝ダム]]([[紀の川]])、[[1967年]](昭和43年)の[[八ッ場ダム]]([[吾妻川]])・[[川辺川ダム]]([[川辺川]])、翌[[1968年]](昭和43年)の[[長良川河口堰]]、[[1971年]](昭和46年)の[[宮ヶ瀬ダム]]([[中津川 (相模川水系)|中津川]])・[[徳山ダム]]([[揖斐川]])などがこれに当たる。これらのダム事業は住民との長い交渉に多くの時間を費やし、[[日本の長期化ダム事業]]の代表格となっている。大滝ダムは40年後の[[2002年]](平成14年)に暫定運用開始、宮ヶ瀬ダムは29年後の[[2000年]](平成12年)、徳山ダムも36年の長い月日を掛け[[2008年]](平成20年)完成したが、八ッ場ダムは2008年現在本体工事一歩手前、川辺川ダムに至っては今に至るまで反対運動が水没地域以外で繰り広げられており、ダム問題の縮図ともなっている。 |
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File:北山川 どろ峡.JPG|[[北山川]]・[[瀞峡]]。[[吉野熊野国立公園]]の主要観光地で、[[厚生省]]がダム建設に反対した。 |
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File:Nanairodam.jpg|[[七色ダム]](北山川)。瀞峡を保全するため当初計画より10キロメートル下流に建設された。 |
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File:Shinaki Dam lake.jpg|「死の川」と呼ばれた[[吾妻川]]を甦らせた[[品木ダム]](湯川)と[[人造湖]]である上州湯の湖。 |
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File:Tamagawa Dam.jpg|流域を苦しめた「[[玉川温泉#玉川毒水|玉川毒水]]」を解消した[[玉川ダム]]([[玉川 (秋田県)|玉川]])。人造湖である[[玉川ダム#宝仙湖|宝仙湖]]で[[中和]]が行われる。 |
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File:Kejonuma Dam lake.jpg|[[ラムサール条約]]に登録された[[化女沼ダム]](長者川)の人造湖・化女沼。 |
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=== 河川環境と堆砂対策 === |
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===大ダム時代の黄昏=== |
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[[File:Shiogo-s-r1.jpg|200px|thumb|[[塩郷ダム|塩郷堰堤]]([[大井川]])。流域住民の「[[大井川#大井川・再生への苦難|大井川水返せ運動]]」により1989年流水が復活した。]] |
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[[Image:Hatanagi1dam-0A3N80pbxFs6g.JPG|250px|thumb|[[中空重力式コンクリートダム]]単体では世界第一位の高さがある[[畑薙第一ダム]]([[大井川]]・[[静岡市]])]] |
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ダム建設による環境問題として、河川環境の悪化も問題とされた。特に水力発電が盛んに行われた河川において顕著で、取水元であるダムから水力発電所まで距離がある[[ダム水路式発電所]]ではダムに付属する取水口から発電所まで[[トンネル]]によって河水を迂回させるため、ダムと発電所の間では河川の水量が激減し、場合によっては完全に途絶する。流水が途絶することで河川生態系はほぼ壊滅し河川環境は極度に悪化した。こうした「枯れ川」の問題が特に深刻だったのが、静岡県を流れる[[大井川]]であった。 |
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この時期のダム建設の特徴として、'''[[中空重力式コンクリートダム]]'''が集中的に建設されたことが挙げられる。重力式コンクリートダムに比べコンクリートの量が少なくて済み、かつ基礎岩盤との接地面が広いことから安定性が高まるという理由で、未だコンクリートが高価な時期に特に電力会社を中心として建設が盛んに行われた。特に[[中部電力]]管理のダムに多く、日本初の中空重力式として1957年完成した[[井川ダム]]([[大井川]])を始め、[[畑薙第一ダム]]・[[畑薙第二ダム]](大井川)、[[高根第二ダム]]([[飛騨川]])と4基も所有している。 |
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大井川における水力発電の歴史は古く、[[1902年]](明治35年)に[[日英同盟]]が締結されたのを機に[[イギリス]]資本が大井川の水力発電事業に参入、日英水力発電が[[1906年]](明治39年)に設立されたのを契機とする。以後電力会社は変転するが開発は続けられ、源流部の[[田代ダム]]から中流部の[[塩郷ダム|塩郷堰堤]]に至るまで大井川本流は階段状に多数のダムと堰そして水力発電所が建設された。また寸又川などの支流にも多くのダムや水力発電所が建設されて高度な水利用が図られた<ref name="oigawa1">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=166&p=3 『ダム便覧』ダムの書誌あれこれ(15)]2015年8月18日閲覧</ref>。しかし発電用に多くの河水を取水したことで本来河川に流れる水が発電所のトンネルを流れ、さらにトンネル末端からは農業用水や上水道のための取水が行われたことから大井川は塩郷堰堤下流から全く流水が途絶した「枯れ川」となった。[[1975年]](昭和50年)静岡県は田代ダムを管理する東京電力に対して河川環境維持のための放流を求めたが、取水量の減少は発電量ひいては利益の減少につながることから東京電力はこれを拒否。また大井川の発電用水利権をほぼ掌握していた[[中部電力]]にも同様の措置を求め、[[1976年]](昭和51年)に静岡県と東京・中部両電力間で暫定的な放流措置に関する協定が締結された<ref name="oigawa2">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=263 『ダム便覧』水利権とダム(5)]2015年8月18日閲覧</ref>。だが根本的な改善には程遠く、大井川は枯渇して漁業資源や水環境を著しく損ねた。このため流域住民からの不満が高まり「'''[[大井川#大井川・再生への苦難|大井川水返せ運動]]'''」が勃発する。[[環境権]]と水利権の衝突という側面を持ったこの問題は[[斉藤滋与史]][[静岡県知事]]が大井川の流水改善を電力会社や河川行政を監督する[[建設省]]に強く求めたことで1989年に動き出す。塩郷堰堤の水利権が期限を迎えたこの年に中部電力は静岡県が提示した水利権使用許可条件である一定量の河川維持放流義務化を受け入れ、[[1960年]](昭和35年)の塩郷堰堤完成以来途絶していた大井川の流水が29年振りに復活した。さらに[[2005年]](平成17年)には田代ダムの水利権更新に伴い静岡県と東京電力などの間で河川維持放流の増量措置について合意し、大井川における流水の改善は一定の改善を見た<ref name="oigawa1"/><ref name="oigawa2"/><ref>[http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/968/1/18_0042.pdf 田淵直樹『河川環境回復を求めた住民運動の政治過程』現代社会文化研究No.23]2015年8月18日閲覧</ref>。しかし往時の平均水深は76センチメートルであった豊富な大井川の水量は完全には回復していない。 |
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だが、地震にこそ強いものの型枠形成の人件費が高騰し、更にコンクリート自体が安価になったこともあり建設のメリットが薄くなったことで、[[1974年]](昭和49年)完成の[[内の倉ダム]](内の倉川・[[新潟県]])を最後に全く建設されなくなった。井川ダムから14年目、[[バットレスダム]]と同様の運命をたどった型式でもあった。さらに水力発電用の大ダム建設も、[[火力発電]]の隆盛に押され黒部ダム以後建設されるケースが少なくなり、大ダム時代は次第に黄昏を迎える。 |
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ダムが河川環境に及ぼす影響に対処するため、1980年代以降行政側も対策に乗り出した。[[1988年]](昭和63年)建設省は[[河川局]]水政課長・開発課長通知として「発電水利権の期間更新時における河川維持流量の確保について」、通称発電ガイドラインを定めた。大井川のように分水または長い減水区間を伴う一定の発電水利を対象として、水利権を利用する際のルールである水利使用規則に何らかの方法で必ず河川維持放流量を確保し、具体的な流量を規定することが水利権を所有する事業者に義務付けられた。このガイドラインは電力行政を監督する[[通商産業省]]との合意で定められ、本文には明確化されていないが取水量減少に伴う[[電力会社]]への減電補償は行わないことを電力会社に了解させた。大井川水返せ運動以降河川環境保護の風潮はさらに高まり、環境影響評価法が成立した1997年には[[河川法]]が改訂された。今次の河川法改訂は河川管理の目的について、第1条で「'''流水の正常な機能が維持され、及び河川環境の整備と保全がされるようにこれを総合的に管理する'''」と明記されたことが大きな特徴であり、治水・利水に加え河川環境保護が河川管理の重要な目的であると明確に規定された。[[1964年]](昭和39年)の[[河川法#新河川法|新河川法]]成立以来となる河川管理の大きな転換点である<ref name="oigawa2"/>。 |
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==安定成長期(1973年~1988年)== |
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!年代 |
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!出来事 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1973年]] |
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| align=left|「[[水源地域対策特別措置法]]」(水特法)施行。水没地域補償対策等に関する法整備が整う。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="5"|[[1974年]] |
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| align=left|[[荒川 (関東)|荒川]]水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。 |
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| align=left|[[内の倉ダム]](内の倉川)完成。以後日本では[[中空重力式コンクリートダム]]が建設されなくなる。 |
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| align=left|[[阿武川ダム]]([[阿武川]])完成。以後日本では[[重力式アーチダム]]が建設されなくなる。 |
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| align=left|[[日本ダム協会]]が[[財団法人]]化される。 |
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| align=left|[[関西電力]]、当時日本最大級の[[揚水発電]]所、奥多々良木発電所([[多々良木ダム]]・[[黒川ダム]])を完成させる。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1975年]] |
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| align=left|[[早明浦ダム]](吉野川)が完成。四国四県の水がめが誕生、[[池田ダム]]・[[香川用水]]も完成する。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1976年]] |
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| align=left|[[船明ダム]](天竜川)が完成、天竜川電源開発事業が完了する。 |
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| align=left|「河川管理施設等構造令」制定。[[多目的ダム]]・[[治水ダム]]についても「堤高15m以上」がダムと規定され、日本におけるダムの基準が定まる。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1978年]] |
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| align=left|[[昭和53-54年福岡市渇水]](福岡砂漠)。[[江川ダム]]・南畑ダム・脊振ダムなど6ダム枯渇により287日間の給水制限実施。 |
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| align=left|農林省、[[農林水産省]]に改組される。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1979年]] |
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| align=left|[[東京電力]]、新高瀬川発電所を完成させる。上池の[[高瀬ダム]](高瀬川)はロックフィルダムとして日本一の規模がある。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1981年]] |
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| align=left|[[御所ダム]](雫石川)が完成、北上川総合開発事業が完了する。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1982年]] |
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| align=left|都道府県出資でダム事業の技術支援や技術者育成を目的とし、財団法人[[ダム技術センター]]が設立される。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1985年]] |
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| align=left|[[犀川 (長野県)|犀川]]・[[笹平ダム]]湖[[犀川スキーバス転落事故|スキーバス転落事故]]。25名死亡の大惨事。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[1988年]] |
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| align=left|「小規模生活貯水池」事業開始。地域密着型小規模利水・治水ダム建設に対する国庫補助が行われる。 |
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| align=left|ダム管理、環境調査、水源地域振興などを目的とし、財団法人[[ダム水源地環境整備センター]]が設立される。 |
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| align=left|[[浅瀬石川ダム]](浅瀬石川)完成に伴い、日本初の多目的ダム・沖浦ダムが水没する。 |
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「モーレツからビューティフルへ」とは、この当時流行した[[コマーシャルメッセージ|CM]]<ref>[[富士ゼロックス]]の[[コマーシャル]]である。</ref>のフレーズであるが、この一文程[[1970年代]]後半の日本の状況を指し示した言葉はないかもしれない。[[高度経済成長]]は日本各地に[[公害]]を始めとしたひずみを生み出し、さらには[[オイルショック]]により経済は高度経済成長から安定成長へ転換されて行った。ダム事業に関しても、大きな曲がり角に差し掛かった時期でもあった。 |
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===ダム事業の転換点~開発優先から住民・地域優先へ~=== |
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[[Image:Miyagaseko.JPG|thumb|250px|[[ダム湖百選]]の一つ・[[宮ヶ瀬湖]]([[宮ヶ瀬ダム]]。[[中津川 (相模川水系)|中津川]]・[[神奈川県]])]] |
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[[Image:Damuko-100sen Lake Miyagase.JPG|thumb|250px|ダム湖百選の碑]] |
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[[1958年]](昭和33年)から足掛け13年に亘り続いた[[蜂の巣城紛争]]は、ダム建設を始めとした[[公共事業]]最優先の流れに大きな楔を打ち込んだ。運動を率いた室原知幸の「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という言葉にもある通り、ダム建設を行う前には、犠牲を蒙る住民・地域の[[基本的人権]]や[[財産権]]・[[生存権]]を尊重し、合意の下で事業を進めなければならないという重い課題を残した。 |
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世論の高まりを受けた河川法改訂と環境影響評価法の成立によりダム事業は今までになく厳しい環境保護の順守を求められた。河川の流水改善については改善傾向が見られ、例えば群馬県と[[埼玉県]]にまたがる[[下久保ダム]]([[神流川 (利根川水系)|神流川]])ではダム完成に伴い流水が途絶、荒廃していた神流川の[[三波石峡]]を復活させるため[[2001年]](平成13年)に国土交通省と[[群馬県企業局]]による下久保ダム水環境改善事業が行われ、32年振りに国の[[名勝]]及び[[天然記念物]]である三波石峡に流水が復活した<ref>[http://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba-hensen/index.html 水資源機構下久保ダム管理所『三波石峡の変遷』]2015年8月18日閲覧</ref>。また[[信濃川]]では東京電力[[西大滝ダム]]と[[東日本旅客鉄道]][[宮中ダム]]([[信濃川発電所]])の建設によって西大滝ダムから[[魚野川]]合流点までの63.5キロメートルが「枯れ川」となって[[サケ]]の遡上に重大な影響を与えたことから、信濃川を管理する[[国土交通省]][[北陸地方整備局]]と流域市町村、ダム管理者が信濃川の流量改善を目指すため1999年に信濃川中流域水環境改善検討協議会を発足させ、流量改善と共にサケ遡上の復活に取り組んだ。西大滝・宮中両ダムの河川維持放流量を増加させることで水環境の改善を図ることが柱であり、放流量増加に伴い徐々にサケが戻ってきた。ところが取り組みの最中[[2008年]](平成20年)協議会に参加している東日本旅客鉄道が宮中ダムから水利使用規則を超過する不正な取水を行ったことが発覚、国土交通省は河川法違反として東日本旅客鉄道の発電用水利権を取り消した。水利権は[[2010年]](平成22年)暫定的に許可されたがこの間水量が増加した信濃川ではサケの遡上が水利権取り消し前よりもさらに増加し、[[長野県]][[上田市]]まで遡上が確認された。このため国土交通省は東日本旅客鉄道に対して毎秒40-100立方メートルの放流を5年間行うよう命じ、環境への影響を調査している<ref>[http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/shinanogawa_info/mizukan/index.html 国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所『信濃川中流域水環境改善検討協議会』]2015年8月18日閲覧</ref><ref>[[読売新聞]]2009年11月19日記事</ref><ref>朝日新聞2010年10月20日記事</ref>。 |
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室原は[[1972年]](昭和47年)の[[松原ダム]]・[[下筌ダム]]完成前の[[1970年]](昭和45年)に死去したが、[[建設省]]は室原家と和解。さらに彼の遺志を汲んだかのように[[1973年]](昭和48年)、'''[[水源地域対策特別措置法]]'''(略称・水特法)を制定した。水没地域の住民に対して国庫補助による経済援助・代替地造成・移転先の住宅金利補充といった補償制度の充実と、水没地域全体の産業育成・地域振興充実を柱に、[[川治ダム]]([[鬼怒川]])・[[呑吐ダム]]([[志染川]])等を皮切りに[[多目的ダム#特定多目的ダム|特定多目的ダム]]や[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]など95施設を指定し援助対象とした。特に水没戸数150戸以上・水没農地面積150[[ヘクタール]]以上のダムに対しては国庫補助率を引き上げ厚く補償を行う「法第9条指定」を行い、川辺川ダム([[川辺川]])・[[手取川ダム]]([[手取川]])等が指定された。法を活用した地域振興施策は事業者と地元の協力によって次第に実を結ぶようになり、[[御所ダム]]([[雫石川]])を始め[[日吉ダム]]([[桂川 (淀川水系)|桂川]])・[[宮ヶ瀬ダム]]([[中津川 (相模川水系)|中津川]])のように多くの観光客を集める一大観光地に成長したダムも続々現れ始めた。 |
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一方、ダム湖の堆砂については今まで有効な対策を打てずにいた。堆砂は治水目的を有するダムの場合貯水容量の減少に伴う治水への影響、ダム湖上流の河床上昇による水害の危険性増幅、流砂連続性の途絶による砂丘縮小や濁水長期化現象による河川生態系の影響など多種にわたる問題をもたらす。特に治水に対する影響は1961年の[[昭和36年梅雨前線豪雨]](三六災害)における[[泰阜ダム]]([[天竜川]])と長野県[[飯田市]]の水害との関係性が指摘され、ダムを管理する中部電力が被害集落の地上げ工事を実施するなど対策を行った。堆砂量を計測している日本の911か所のダムにおける平均堆砂率は7パーセントであるが、崩壊が激しく重荒廃地域に指定されている[[中央構造線]]付近の[[赤石山脈]]・[[木曽山脈]]・[[飛騨山脈]]を流れる河川に建設されたダムで堆砂が進行している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=47 『ダム便覧』ダムと堆砂]2015年8月21日閲覧</ref><ref>『湖水を拓く』pp.151-152</ref>。貯水池の[[浚渫]]以外特別な対策がなかった堆砂対策だったが、1990年代に入り'''[[連携排砂]]'''と'''排砂バイパス'''という手法が登場した。連携排砂は[[富山県]]を流れる[[黒部川]]に建設された関西電力の[[出し平ダム]]と国土交通省の[[宇奈月ダム]]で[[2001年]](平成13年)より実施しており、洪水時に排砂門から堆砂を連携して排出することで堆砂防止と流砂連続性を確保して[[海岸線]]の後退を防止するものである<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0873 『ダム便覧』宇奈月ダム]2015年8月21日閲覧</ref>。出し平ダムは[[1991年]](平成3年)12月より単独で排砂を実施しているが、排砂により[[富山湾]]の環境が損なわれたとして漁業関係者の一部が[[2002年]](平成14年)12月関西電力を相手取り黒部川ダム排砂被害訴訟を起こした。訴訟は[[2011年]](平成23年)に和解が成立したが連携排砂と環境保護の両立に重い課題を残した<ref>[http://www.kepco.co.jp/corporate/info/community/hokuriku/dashi/kagirinaku.html 関西電力『排砂情報』限りなく自然に近い土砂の流れを目指して]2015年8月30日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0881 『ダム便覧』出し平ダム]2015年8月29日閲覧</ref><ref>[http://homepage2.nifty.com/haisa/ 黒部川排砂ダム被害訴訟支援ネットワーク]2015年8月21日閲覧</ref><ref>朝日新聞2011年4月5日記事</ref>。一方排砂バイパスはダム湖上流端に貯砂堰堤を建設し、貯砂堰堤からダム湖を迂回してダム本体直下流に通じるバイパストンネルを建設して洪水時にトンネルから洪水を排水してダム湖の堆砂を防ぐ施設である。1999年に関西電力が奥吉野揚水発電所の下部調整池である旭ダム(旭川)において建設したのが日本初であり<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1571 『ダム便覧』旭ダム]2015年8月21日閲覧</ref>、以後[[美和ダム]]([[三峰川]])、[[小渋ダム]](小渋川)、[[松川ダム]]([[松川 (飯田市)|松川]])といった天竜川水系の[[多目的ダム]]で施工され、[[佐久間ダム]](天竜川)でも計画されている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1021 『ダム便覧』小渋ダム]2015年8月21日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3082 『ダム便覧』松川ダム(再)]2015年8月21日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2963 『ダム便覧』美和ダム(再)]2015年8月21日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3326 『ダム便覧』佐久間ダム(再)]2015年8月21日閲覧</ref>。 |
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さらにはこの施策を推進する機関として[[財団法人]]'''[[ダム水源地環境整備センター]]'''が[[1988年]](昭和63年)に設立。水源地域振興の為の諸事業を推進し[[2005年]](平成17年)には全国の[[地方自治体]]より推薦のあった65ダムを「[[ダム湖百選]]」に認定した。建設省も特定多目的ダムを観光資源として活用すべく、[[1994年]](平成6年)には「地域に開かれたダム」施策を実施した。ダムを活用して地域振興を図り、住民の生活水準を向上させる水特法の理念こそ室原が生前訴え続けた理念でもあり、それはかつて敵対していた建設省の手によって開花するに至った。 |
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===大規模河川総合開発事業の完成=== |
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File:RIMG0019.JPG|[[下久保ダム]]([[神流川 (利根川水系)|神流川]])。ダム直下に放流設備を増設して河川維持放流を行う。 |
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この時期は長年にわたって展開されてきた「河川総合開発事業」が完成を見る時期でもあった。[[1975年]](昭和50年)「[[吉野川#吉野川総合開発事業|吉野川総合開発事業]]」の心臓に当たる[[早明浦ダム]]が完成し吉野川の総合開発は大きな山を越えた。[[1976年]](昭和51年)には[[船明ダム]]が完成し[[佐久間ダム]]等日本の代表的水力発電事業であった「天竜川電源開発事業」が完了、さらに[[1981年]](昭和56年)には御所ダムが竣工し「河川総合開発」の象徴でもあった「[[北上特定地域総合開発計画#北上川五大ダム計画(1938~)|北上川五大ダム事業]]」は[[1947年]](昭和22年)の[[石淵ダム]](胆沢川)着工以来34年の歳月を経て完了するに至った。 |
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File:RIMG0027.JPG|流水が復活した[[三波石峡]]。河原にある[[三波石]]で名高く、国の[[名勝]]及び[[天然記念物]]に指定されている<ref>[http://www.city.fujioka.gunma.jp/kakuka/f_onishi/sannbasekikyou1.html 三波石峡](藤岡市サイト)</ref>。 |
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File:Miyanaka Dam survey 1976.jpg|1976年の[[宮中ダム]]([[信濃川]])空撮<ref name="kokudo"/>。右側は[[信濃川発電所]]の取水口。信濃川の流量は少ない。 |
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File:Unazuki Dam flushing spillway outlet.jpg|[[宇奈月ダム]]([[黒部川]])の排砂門。洪水時に上流の[[出し平ダム]]と[[連携排砂]]を行う。 |
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File:Miwa Dam bypass spillway overflow.jpg|[[美和ダム]]([[三峰川]])の排砂バイパストンネル出口。ダム湖上流の[[美和ダム#三峰堰|三峰堰]]入口からダム直下に放流し排砂する。 |
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=== ダム事業への逆風 === |
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また大規模な「河川総合開発事業」とは対極にある河川開発事業として、地域密着型のダム事業でもある「'''小規模生活貯水池事業'''」が1988年より開始された。小河川の洪水調節と河川流水量維持・[[簡易水道]]の供給・小規模な農地[[かんがい]]等が主目的で、多目的ダムではあるものの限定した小地域に対して治水・利水を行う。概して堤高30メートル規模の小ダムが多く建設されたが、ダム自体の規模や湛水面積が小さいため流域住民・環境への影響を最小限に抑える効果も持っている。 |
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[[File:Nagaragawa Mouth of River Floodgate-1.jpg|thumb|200px|[[長良川河口堰]]([[長良川]])。建設を巡り[[朝日新聞]]を始め[[市民団体]]などが反対運動を全国展開した]] |
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ダムに対する反対運動は本来[[田子倉ダム#田子倉ダム補償事件|田子倉ダム補償事件]]や[[蜂の巣城紛争]]などのように、移転住民が明日からの生活に不安を抱いたことから起こした真剣勝負の反対運動であった。しかし1990年代以降のダム反対運動は移転住民中心の運動もあったが、[[市民運動]]が中心となる反対運動が目立つようになった。背景には先述した自然保護の問題に加え、[[ゼネコン汚職]]などにみられる政治不信、公共事業に対する納税者視点からの批判があった。 |
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次第にダム事業への批判が強まっていった[[1995年]](平成7年)、[[日本弁護士連合会]]の招きにより来日した[[アメリカ合衆国内務省]]開拓局元長官、ダニエル・P・ビアードは講演の中でアメリカにおけるダム事業について以下のように述べた<ref>『湖水を拓く』p.82</ref>。 |
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さらに、新規ダム建設地点が減少するに伴い既存のダムをかさ上げし能力を増強する「'''[[ダム再開発事業]]'''」が多く始まったのもこの時期の特徴であり、[[丸山ダム]]([[新丸山ダム]]・[[木曽川]])・[[大夕張ダム]]([[夕張シューパロダム]]・[[夕張川]])・[[沖浦ダム]]([[浅瀬石川ダム]]・浅瀬石川)等が再開発事業対象として着手された。再開発されることにより既存のダムは水没する運命にあることが多く、既に日本初の多目的ダムであった沖浦ダムは1988年に水没。この他石淵ダム・大夕張ダム・丸山ダム・目屋ダム([[岩木川]])等大規模ダムも再開発完了後は水没してしまう。 |
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{{quotation| |
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:最近の変化のすべてが一つの結論「アメリカ合衆国ではダム建設の時代は終わった」という避けがたい結論を導きました。私たちはもはや、従来型の大規模な建設プロジェクトに対する一般大衆の支援も政治的支援も当てにすることは出来ません。現在進行中の事業はなるべく迅速に完成させます。今後新規の大規模事業が計画されるされる可能性は、全くないとは断言できませんが、ほとんどありえないでしょう。 |
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|ダニエル・P・ビアード 1995年2月講演より}} |
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このビアード発言、特に「アメリカではダム建設の時代は終わった」という発言が日本のダム事業推進派・反対派に大きな衝撃を与えた。さらに[[ワシントン州]]に[[1913年]](大正2年)建設された発電専用の[[民間企業所有ダム]]・エルワーダムの撤去が決定したという情報も日本のダム反対派に勇気を与えた。ビアード発言とアメリカのダム撤去を「[[錦の御旗]]」とした反対派は折からの公共事業に対する国民の不信感もあって発言力を増していった<ref>『湖水を拓く』pp.86-89</ref>。[[1993年]](平成5年)には日本全国のダム事業の問題点を追及し、反対運動を支援するための組織である水源開発問題全国連絡会(水源連)が結成され、「治水・利水の両方とも役に立たないダム事業は無用であり、撤去して自然の河川に戻すべき」とダム事業を全否定して精力的に各地のダム反対運動に介入した<ref>[http://suigenren.jp/suigenren/ 水源開発問題全国連絡会『水源連について』]2015年8月21日閲覧</ref>。こうした市民運動主導のダム反対運動において、特に世論への影響を与えたのが'''[[長良川河口堰]]'''([[長良川]])の反対運動である。長良川は地形的にダムが建設不可能な河川であり、[[輪中]]地帯を中心に古くから水害が頻発していた。加えて高度経済成長期の[[中京工業地帯]]の水需要拡大により治水・利水の両面から長良川河口堰が[[1968年]](昭和43年)より計画された。当初から[[漁業権]]補償を巡る反対運動が強く、補償交渉の妥結に長期間を費やした。[[1988年]](昭和63年)にようやく[[岐阜県]]・[[三重県]]下22[[漁業協同組合]]より建設の同意がなされ、補償交渉もほぼ終わりかけたころに再度反対運動が勃発する。アウトドアライターである[[天野礼子]]は建設省の[[マスコミ]]に対する対応の悪さを衝き、有名人やマスコミを上手に利用した情報戦を駆使して長良川河口堰の問題点を追及した。これに応じたのが[[朝日新聞]]であり、建設省との間で公開論争を行うなど天野の思惑通りに物事は動いた<ref>『水資源開発公団30年史』p.194</ref><ref>『湖水を拓く』pp.76-77</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1329 『ダム便覧』長良川河口堰]2015年8月21日閲覧</ref>。こうした市民運動主体のダム反対運動は長良川河口堰のほか群馬県の[[八ッ場ダム]](吾妻川)や[[熊本県]]の[[川辺川ダム]]([[川辺川]])など事業が長期化したダム事業などで積極的に繰り広げられ、1988年から計画された[[吉野川第十堰]]([[吉野川]])の[[可動堰]]化については[[日本共産党]]が組織的に関与した市民運動の結果、[[2000年]](平成12年)に[[徳島市]]の堰建設の可否を問うた[[住民投票]]で反対票が多数を占め、[[2002年]](平成14年)には反対派の[[大田正]][[徳島県知事]]が就任したことで可動堰計画は白紙。[[2010年]](平成22年)正式に中止された<ref>[http://jcpt.jp/h_hp/html/zennei9907.html 塀本信之『建設省を追い詰めた市民の審判』前衛1999年7月号]2015年8月21日閲覧</ref><ref name="kadoseki">『公共事業と住民投票』pp.30-33</ref>。 |
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反対運動の高まりは、財政難に喘ぐ政府や地方自治体を次第に動かして行った。[[1998年]](平成10年)[[第2次橋本内閣]]はダム事業評価制度を開始、この中で長期間事業進捗が滞っているダム事業を検証した。特に[[1972年]](昭和47年)の計画発表以来地元である徳島県[[那賀郡]][[木頭村]]が官民一体となって反対した[[長安口ダム#細川内ダム|細川内ダム]]([[那賀川]])は、[[建設大臣]]だった[[亀井静香]]の決断により同年に事業が休止され、2000年に正式に[[中止したダム事業|事業中止]]となった<ref>[http://www.skr.mlit.go.jp/nakagawa/rivers/chronological.html 国土交通省四国地方整備局那賀川河川事務所『那賀川水系治水略年表』]2015年8月21日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=492 『ダム便覧』ダム事業の見直し]2015年8月21日閲覧</ref>。同年[[北海道]]は時代の変化を踏まえた公共事業再評価である「時のアセスメント」を実施。この中で松倉ダム([[松倉川]])、白老ダム([[白老川]])、トマムダム(八戸沢川)の3ダム事業を中止した<ref>[http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/gkk/toki/tokiindex.htm 北海道『時のアセスメント』]2015年8月21日閲覧</ref>。こうした国や地方自治体の動きは2000年代に入るとさらに加速して行く。またダム事業の可否について法廷闘争に持ち込まれた[[二風谷ダム]]([[沙流川]])では1997年の[[札幌地方裁判所]]における裁判でダム事業差し止めについては却下されたものの土地収用裁決は違法とされ、判決の中で[[アイヌ民族]]の先住性が認められた([[事情判決]])。この判決を機に差別的法律であった[[北海道旧土人保護法]]が廃止されて[[アイヌ文化振興法]]が制定されるなどアイヌ民族の悲願が達成された<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=251 『ダム便覧』文献にみる補償の精神【20】]2015年8月21日閲覧</ref>。 |
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===水力発電の再評価~揚水発電~=== |
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[[image:Minamiaiki Dam.jpg|thumb|250px|世界最大級の[[揚水発電|揚水発電所]]・[[神流川発電所]]の上部調整池である[[南相木ダム]](南相木川・[[長野県]])]] |
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[[火力発電]]に電力供給の主役を明け渡し大規模ダム建設が少なくなった[[水力発電]]であるが、従来の一般水力に比べ立地条件に有利で、最大出力が大きく電力需要のピークに対応した電力生産が図れる'''[[揚水発電]]'''の建設が各[[電力会社]]で積極的に推進されるようになった。 |
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こうしたダム反対派の動きは公共事業のあり方について環境保護や税負担など多角的な視点から警鐘を鳴らしたものであり、公共事業の進め方について政治を動かす契機となった。しかし急進的な反対運動に対する批判もある。アメリカには日本の全ダム総貯水容量の約2倍に当たる総貯水容量・約367億立方メートルを有する[[フーバーダム]]([[コロラド川]])を筆頭に7万5,000箇所に及ぶダムが建設され、治水・水資源開発の緊急性が乏しい上に国土面積や河川勾配の違いから日本とは単純に比較できないという意見や、「ダム撤去は環境・安全・経済性の三点で不要なものを対象とし、全米7万5,000のダムに適用するとは考えていない」というアメリカのダム反対派の主張を黙殺しているという意見などである<ref>『湖水を拓く』pp.82-85</ref>。吉野川第十堰については徳島市以外の流域自治体が全て賛成し、30万人以上の建設促進署名が集まっているにもかかわらず徳島市の住民投票のみで物事を進めたという指摘もある<ref name="kadoseki"/>。そして当の移転住民からも痛烈な批判を受けた。一例を挙げると岐阜県[[揖斐郡]][[徳山村]]全村が水没した[[徳山ダム]]([[揖斐川]])では補償交渉に関与した複数の住民から「地元が反対しているときには何の支援もせず、工事が始まった今頃になって反対を主張する」市民団体に対して「自然環境だけを盾に反対運動をする部外者は許せない」、「あの手の反対論者ほど早期完成を願う地元民の神経を逆なでする者はない」と手厳しく非難している<ref>『湖水を拓く』pp.39-40</ref>。また中止したダム事業である[[新潟県]]の清津川ダム([[清津川]])は水源連が積極的に反対運動に関わったダムの一つであるが、中止決定後地域振興が進まない状態に対する国への憤りと共にこうした市民団体が一切協力してくれないことに対して地元住民が怒りの声を上げている<ref>[http://www.dpl-jp.com/kiyotsugawa/index.html 清津川ダム対策委員会]2015年8月21日閲覧</ref><ref>[http://suigenren.jp/wp-content/uploads/2012/09/kiyotugawa.pdf 水源開発問題全国連絡会『ダム中止をこうして実現』清津川ダム]2015年8月21日閲覧</ref>。 |
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1972年に'''新豊根発電所'''([[新豊根ダム]]・佐久間ダム、112万5,000[[ワット|キロワット]])を[[電源開発]]が、[[1974年]](昭和49年)に'''奥多々良木発電所'''([[多々良木ダム]]・[[黒川ダム]]、120万キロワット。後増設され現在は193万キロワット)を[[関西電力]]が、さらに[[1979年]](昭和54年)には'''新高瀬川発電所'''([[高瀬ダム]]・[[七倉ダム]]、128万キロワット)を[[東京電力]]が完成させ、以後出力100万キロワットを超える大規模揚水発電所が各地に建設されるようになった。現在でも揚水発電所が建設されており、1号機の運転が開始された'''[[神流川発電所]]'''([[南相木ダム]]・[[上野ダム]])は、6号機まで全て完成すれば揚水発電所としては世界最大の設計最大出力・282万キロワットがある水力発電所となる。一方、大規模揚水開発の陰で一時下火となった一般水力発電はクリーンかつ再生可能な国産エネルギーとして再び脚光を浴び、[[1970年代]]後半からは既設の水力発電所の出力増強事業が各電力会社において行われた。現在は[[経済産業省]]による推進政策で既存のダムに管理用の小規模な水力発電施設や出力100キロワット台のミニ水力発電所を建設するケースが増加している。 |
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File:Yoshinogawa Daijuzeki.jpg|[[吉野川第十堰]]([[吉野川]])。[[建設省]]の[[可動堰]]計画を巡り地元は賛成、下流[[徳島市]]は反対を表明し[[住民投票]]で建設が否定された。 |
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File:Nibutani-149-r1.JPG|[[アイヌ民族]]の先住性が認められる契機となった[[二風谷ダム]]([[沙流川]])。 |
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File:Kiyotsukyo Summer.jpg|清津川ダム([[清津川]])が建設される予定だった[[清津峡]]。地域振興が進まないことに住民が不満を示している。 |
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File:Hoover Dam (aerial view) - 30 April 2009.jpg|日本全ダムの総貯水容量の約2倍を有する[[フーバーダム]]([[コロラド川]])。[[1935年]](昭和10年)完成。 |
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== 平成2(2000年-2015年) == |
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この様に、この時期は"大規模ダム建設による河川開発の積極的推進“という「モーレツ」から、"地域住民との共生・地域振興の促進材料としてのダム周辺整備の積極的推進”という「ビューティフル」に、ダム事業は変貌を遂げて行ったのである。だが、[[1978年]](昭和53年)の[[昭和53-54年福岡市渇水|福岡市大渇水]]<ref>287日間という極めて長期間の給水制限が行われ、企業の倒産など深刻な影響を与えた。</ref>に見られるように、既存のダムでカバーできない[[自然災害]]・[[異常気象]]が起こり始め、新たなる治水・利水のあり方が問われ始めた時期でもあった。 |
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1990年以降ダムを取り巻く環境は激変したが、2000年代にはさらなる変化が生まれた。[[2001年]](平成13年)、実に占領下以来となる[[中央省庁再編]]が行われ、[[建設省]]は[[運輸省]]・[[北海道開発庁]]・[[国土庁]]と合併し'''[[国土交通省]]'''として改組・発足した。また、[[特殊法人]]の在り方に対する国民の批判が高まり、[[第1次小泉内閣]]は特殊法人を[[独立行政法人]]として改組させ、予算確保を自律的に行わせ[[補助金]]を削減することで支出抑制を図る特殊法人改革を行った。この対象となったのが水資源開発公団であり、[[2003年]](平成15年)に独立行政法人[[水資源機構]]として発足することとなった。さらに、電源開発促進法により発足し日本のダム事業史に大きな足跡を残した[[電源開発]]もその使命を果たしたとして2003年政府は[[民営化]]を発表。翌[[2004年]](平成16年)には保有株式を売却。民営化後[[東京証券取引所]]第一部に上場し民間企業となった。ダム事業は引き続き厳しい環境に晒されたが、一方でダム事業を肯定的に見直す動きも出始めた。 |
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==ダム事業 |
=== 脱ダム宣言と事業再検証 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">1996年以降中止された主な多目的・治水ダム計画</strong><br/>(高さ100.0m以上または総貯水容量5,000万m³以上) |
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!水系 |
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!年代 |
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!河川 |
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!出来事 |
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!ダム |
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!高さ<br/>([[メートル|m]]) |
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!総貯水容量<br/>(千[[立方メートル|m³]]) |
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!事業者 |
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!出典 |
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|[[利根川]]||赤谷川||[[相俣ダム|川古ダム]]||align=right|160.0||align=right|75,000||[[国土交通省]]||<ref>『ダム年鑑 1997』pp.106-107</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1989年]] |
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| align=left|[[中部電力]]、[[塩郷ダム]]([[大井川]])の[[水利権]]を[[静岡県]]に一部返還。28年ぶりに大井川の流水が復活する。 |
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|利根川||[[片品川]]||[[薗原ダム|戸倉ダム]]||align=right|158.0||align=right|92,000||[[水資源機構]]||<ref name="tokura"/> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1990年]] |
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| align=left|「雪対策ダム事業」の一環として、[[境川ダム#消流雪用水|消流雪用水]]がダム事業の目的として新たに定められる。 |
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|利根川||泙川||平川ダム||align=right|146.0||align=right|50,000||水資源機構||<ref>『河川開発』第80号p.26</ref> |
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| align=left|[[豊川]]水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。最後の水資源開発水系指定。 |
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|利根川||栗原川||栗原川ダム||align=right|159.0||align=right|50,000||水資源機構||<ref>『河川開発』第82号p.16</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1991年]] |
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| align=left|[[出し平ダム]](黒部川)、貯水池からの排砂実験を日本で初めて実施。 |
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|[[荒川 (関東)|荒川]]||大洞川||新大洞ダム||align=right|155.0||align=right|33,000||国土交通省||<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_3245.html 『ダム便覧』大洞ダム(再)]2015年8月22日閲覧</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1993年]] |
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| align=left|[[玉川ダム]](玉川)を中心とした「玉川水質中和事業」が稼動。 |
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|荒川||小森川||小森川ダム||align=right|105.2||align=right|20,640||[[埼玉県]]||<ref>『ダム年鑑 1991』pp.106-107</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[1994年]] |
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| align=left|[[長良川河口堰]]([[長良川]])が完成する。 |
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|[[信濃川]]||信濃川||千曲川上流ダム||align=right|80.0||align=right|80,000||国土交通省||<ref>[[信濃毎日新聞]]2002年2月28日閲覧</ref> |
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| align=left|建設省、「地域に開かれたダム」の方針を発表。国・公団直轄ダム施設の一般への積極開放促進を図る。 |
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|信濃川||[[清津川]]||清津川ダム||align=right|150.0||align=right|170,000||国土交通省||<ref>『ダム年鑑 1991』pp.122-123</ref> |
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| align=left|[[茨城県]]営の竜神ダム(竜神川)湖上に「竜神大吊橋」が完成。歩道専用吊橋としては日本一。 |
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|[[片貝川]]||片貝川||片貝川ダム||align=right|146.0||align=right|23,100||[[富山県]]||<ref>『ダム年鑑 1996』pp.142-143</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1995年]] |
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| align=left|[[八汐ダム]](鍋有沢川)が完成する。アスファルトフェイシングフィルダムとしては世界一の堤高がある。 |
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|[[天竜川]]||[[三峰川]]||[[戸草ダム]]||align=right|140.0||align=right|61,000||国土交通省||<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_1043.html 『ダム便覧』戸草ダム]2015年8月22日閲覧</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1996年]] |
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| align=left|細川内ダム建設事業([[那賀川]])、[[木頭村]]の反対で計画が事実上中止となる。以後、大規模ダム事業の中止が急増する。 |
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|[[矢作川]]||[[上村川 (矢作川水系)|上村川]]||上矢作ダム||align=right|150.0||align=right|54,000||国土交通省||<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_3192.html 『ダム便覧』上矢作ダム]2015年8月22日閲覧</ref> |
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| align=left|[[東京電力]]、[[尾瀬沼]]の水利権延長申請を断念。[[尾瀬原ダム計画]]を中心とする「尾瀬分水案」、76年目にして消滅する。 |
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|[[紀の川]]||紀伊丹生川||紀伊丹生川ダム||align=right|145.0||align=right|60,500||国土交通省||<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_39.html 『ダム便覧』紀伊丹生川ダム]2015年8月22日閲覧</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1997年]] |
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| align=left|「公共工事コスト縮減対策に関する行動指針」策定。ダム等公共事業全体にコスト削減が要求される。 |
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|[[那賀川]]||那賀川||[[長安口ダム#細川内ダム|細川内ダム]]||align=right|102.0||align=right|60,400||[[建設省]]||<ref>『ダム年鑑 1991』pp.174-175</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[1999年]] |
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| align=left|[[吉野川可動堰]]の可否を巡る住民投票が[[徳島市]]で実施。反対得票率90%以上となり徳島市、可動堰建設反対に転じる。 |
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|[[筑後川]]||[[玖珠川]]||猪牟田ダム||align=right|120.0||align=right|38,500||国土交通省||<ref>『ダム年鑑』pp.194-195</ref> |
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| align=left|[[呉市]]水道局管理の[[本庄ダム]]([[二河川 (広島県)|二河川]])、現役で稼動する水道施設としては初となる国の[[重要文化財]]に指定される。 |
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|[[大野川]]||平井川||矢田ダム||align=right|56.0||align=right|57,000||国土交通省||<ref>『ダム年鑑 1991』pp.186-187</ref> |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[2000年]] |
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|} |
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| align=left|関東最大の多目的ダム、[[宮ヶ瀬ダム]](中津川)が完成する。 |
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{{main|中止したダム事業}} |
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ダム事業を見直す政府や[[地方自治体]]の動きは、2000年代に入ってさらに加速する。その代表的な動きが[[長野県知事]]に就任した[[田中康夫]]が[[2001年]](平成13年)[[2月20日]]に発表した'''[[田中康夫#脱ダム宣言|「脱ダム」宣言]]'''である。要約すれば「数百億のカネを費やして建設される[[コンクリートダム]]は看過し得ぬ負荷を地球環境に与えてしまう。河川改修費用が例えダム建設より高額になろうとも、100年、200年先の我々子孫に残す資産として河川・湖沼の価値を重視したい。[[長野県]]では出来うる限りコンクリートのダムは建設しない」という発言である。そしてこの宣言に基づき浅川ダム([[浅川 (長野県)|浅川]])をはじめ下諏訪ダム(砥川)など建設・計画中の[[都道府県営ダム|県営ダム]]を[[中止したダム事業|中止]]した<ref>[http://www.pref.nagano.lg.jp/kasen/infra/kasen/keikaku/iinkai/datsudam.html 長野県『「脱ダム」宣言全文]2015年8月22日閲覧</ref>。[[滋賀県]]では[[嘉田由紀子]][[滋賀県知事]]が長野県と同様に計画中の県営ダム事業を凍結する姿勢を示し、芹谷ダム(水谷川)を中止し北川第一ダム(麻生川)・北川第二ダム(北川)を凍結した<ref>[http://www.pref.shiga.lg.jp/h/d-kanri/kikakuin/saihyoka/h2006kaisaikekka.html 滋賀県『平成20年度第6回滋賀県公共事業評価監視委員会の開催結果』]2015年8月22日閲覧</ref>。さらに[[熊本県]]では[[潮谷義子]][[熊本県知事]]が[[荒瀬ダム]]([[球磨川]])について、[[水利権]]失効後に撤去するという日本でも例のないダム撤去を[[2002年]](平成14年)に表明。潮谷知事の後を継いだ[[蒲島郁夫]]熊本県知事は一旦撤去を白紙に戻したが、球磨川[[漁業協同組合]]の同意が得られず最終的に[[2010年]](平成22年)にダム撤去を開始した<ref>[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_2659.html 『ダム便覧』荒瀬ダム]2015年8月22日閲覧</ref>。また[[首都圏 (日本)|首都圏]]の水瓶として[[利根川]]支流の[[片品川]]に建設が進められていた[[薗原ダム|戸倉ダム]]については、利水受益者である[[石原慎太郎]][[東京都知事]]・[[堂本暁子]][[千葉県知事]]・[[上田清司]][[埼玉県知事]]が相次いで事業からの離脱を表明。事業が成り立たなくなったことで本体工事に着手したにも拘らず事業者の水資源機構が[[2003年]](平成15年)ダム事業を中止するという異例の事態になった<ref name="tokura">[http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/Hozon/HzKietaFr_50.html 『ダム便覧』戸倉ダム]2015年8月22日閲覧</ref>。[[関西国際空港]]関連事業の一環でもある[[紀の川大堰]]([[紀の川]])は、当初[[大阪府]]が[[上水道]]の水利権を持っていたが[[2009年]](平成21年)に[[橋下徹]][[大阪府知事]]が水利権を返上し、水道供給目的が喪失した<ref>読売新聞2009年9月1日記事</ref>。 |
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| align=left|[[富郷ダム]](銅山川)が完成、吉野川総合開発事業が完了する。 |
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国土交通省もダム事業見直しの動きを見せて行った。第1次小泉内閣は2001年に[[経済財政諮問会議]]の答申を受ける形で「[[骨太の方針]]」を打ち出した。このうち2002年に策定された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」第4部の「歳出の主要分野における構造改革」という項目で時代の要請に合わなくなった既存プロジェクトを見直すと明記<ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizai/kakugi/020625f.html#4-1-3 首相官邸『経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002』]2015年8月22日閲覧</ref>。10年以上進捗が滞っているダム事業も対象となり多くの[[国土交通省直轄ダム]]計画が中止・休止された。[[2005年]](平成17年)には国土交通省[[近畿地方整備局]]の諮問機関である淀川水系流域委員会が淀川水系で計画されている5つのダム事業、[[丹生ダム]]([[高時川]])・[[大戸川ダム]]([[大戸川]])・[[天ヶ瀬ダム]][[ダム再開発事業|再開発]](淀川)・[[川上ダム (三重県)|川上ダム]](前深瀬川)・[[余野川ダム]]([[余野川]])について事業を凍結し代替案による検討を行った上で事業継続の可否を決定すべきという勧告を答申した。答申後天ヶ瀬ダム再開発と川上ダムは事業継続となったが丹生・大戸川ダムは凍結され、余野川ダムは事業中止となった<ref>[http://www.kkr.mlit.go.jp/river/yodoriver_old/kaigi/iin/38th/pdf/iin_38th_03_1.pdf 淀川水系流域委員会『事業中のダムについての意見書』2005年]2015年8月22日閲覧</ref>。以上のようにダム事業は国・地方自治体問わず事業が見直され、[[1996年]](平成8年)から[[2010年]](平成22年)までの間に115のダム事業が中止されている<ref name="minaoshi">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=492 『ダム便覧』ダム事業の見直し]2015年8月22日閲覧</ref>。 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[2001年]] |
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| align=left|[[中央省庁再編]]により建設省、[[運輸省]]・北海道開発庁・[[国土庁]]と合併し[[国土交通省]]が発足。 |
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そして2009年に行われた[[第45回衆議院議員総選挙]]で[[政権交代]]を実現した[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の[[鳩山由紀夫内閣]]は、選挙時に公表した[[マニフェスト]]で[[八ッ場ダム]]([[吾妻川]])と[[川辺川ダム]]([[川辺川]])の中止を明記。政権発足後[[前原誠司]][[国土交通大臣]]は「新たな基準に沿った検証の対象とするダム事業を選定する考え方について」という大臣談話を発表、出来るだけダムに頼らない治水事業を推進するため直轄事業・[[国庫]]補助事業を問わず日本全国89の[[河川総合開発事業]](90ダム)について'''ダム事業再検証'''を行った<ref>[http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/yosan/gaiyou/yosan/h22/h22damjigyo.pdf 国土交通省『新たな基準に沿った検証の対象とするダム事業を選定する考え方について』]2015年8月22日閲覧</ref>。ダム事業再検証により熊本県の七滝ダム(御船川)が中止となったのを始め、[[品木ダム]]再開発事業(湯川)などを柱とした[[品木ダム#吾妻川上流総合開発事業|吾妻川上流総合開発事業]]や新大洞ダム(大洞川)などを柱とする荒川上流ダム再編事業、[[戸草ダム]]([[三峰川]])といった国土交通省直轄ダムや、田中知事時代に中止が決定され後に復活した黒沢(黒沢川)・駒沢(駒沢川)の両ダム、嘉田知事が凍結を決定した北川第一・第二ダム事業など県営ダム事業の幾つかが中止された。その一方で[[野田内閣]]時代に事業継続が決定した八ッ場ダムなど、多くのダム事業は再検証の結果事業継続が決定している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/HHyou.cgi?hh=Kensyou 『ダム便覧』国交省検証ダム一覧]2015年8月22日閲覧</ref>。なお川辺川ダムは事業検証の対象外として中止を前提にした地域振興計画が進められている<ref>[http://www.qsr.mlit.go.jp/kawabe/ 国土交通省九州地方整備局川辺川ダム砂防事務所『川辺川ダム建設事業の経緯』]2015年8月22日閲覧</ref>。こうした再検証の動きに対し、ダム事業を全否定する水源開発問題全国連絡会(水源連)は「出来レース」と批判する<ref>[http://suigenren.jp/damlist/monitor/ 水源開発問題全国連絡会『ダム事業再評価の監視』]2015年8月22日</ref>一方で、ダムの早期完成を希望する地元住民や下流受益自治体の間からは「地元無視」という批判が起こっている<ref>朝日新聞2009年9月4日記事</ref><ref>毎日新聞2009年9月18日記事</ref><ref>[[産経新聞]]2009年9月17日記事</ref><ref>読売新聞2009年9月25日記事</ref>。1990年代から強くなった「脱ダム」の流れであるが、後述する自然災害の猛威によって軌道修正が図られてゆく。 |
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<gallery widths="190" heights="140"> |
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File:Yasuo tanaka 20140903.jpg|[[長野県知事]]時代に[[田中康夫#脱ダム宣言|「脱ダム」宣言]]を打ち出した[[田中康夫]]。 |
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File:撤去工事中の荒瀬ダム(熊本県・球磨川)2014年1月1日.JPG|日本初のダム撤去が行われている[[荒瀬ダム]]([[球磨川]]。2014年撮影)。 |
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File:Maehara Seiji-1.jpg|ダム事業再検証を推進した[[鳩山由紀夫内閣]]の[[国土交通大臣]]・[[前原誠司]]。 |
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File:Kawabegawa-2677-r1.JPG|[[川辺川ダム]]([[川辺川]])建設予定地。中止を前提とした地域整備が進められている。 |
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File:Oitagawa-2793-r1.JPG|ダム事業再検証の結果事業継続が決定した[[大分川ダム]]([[七瀬川 (大分県)|七瀬川]]。2008年撮影)。 |
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=== 再び襲い来る災害 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+2000年-2015年に発生した主な[[台風]]・[[集中豪雨]]<ref name="kishocho2">[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/index_1989.html 気象庁『災害をもたらした気象事例(平成元年-)]2015年8月25日閲覧</ref><br/>(死者・行方不明者10名以上または[[気象庁]]命名災害) |
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!西暦 |
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| align=left|[[長野県]]の[[田中康夫]]知事、県議会で「[[中止したダム事業#脱ダム宣言によるもの|脱ダム宣言]]」を発表。[[信濃川]]・天竜川水系の県営ダム事業計画を一斉に中止する。 |
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!和暦 |
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!災害 |
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!死者<br/>行方不明者 |
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|[[2000年]]||平成12年||align="left"|[[東海豪雨]]||align="right"|12 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[2002年]] |
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| align=left|[[小泉純一郎]]内閣、「骨太の方針」に従い公共事業総点検を開始。10年以上事業が進捗していないダム事業の多くが計画中止・休止となる。 |
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|[[2003年]]||平成15年||align="left"|[[平成15年台風第10号|台風10号]]||align="right"|19 |
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| align=left|[[熊本県]]の[[潮谷義子]]知事、県営[[荒瀬ダム]]([[球磨川]])を水利権失効後に解体・撤去する方針を表明。 |
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| rowspan="8"|[[2004年]] |
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| align=left|小牧ダム(庄川)、発電用ダムとしては初めて国の[[登録有形文化財]]に登録される。 |
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| rowspan="8"|平成16年 |
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|align="left"|[[平成16年7月新潟・福島豪雨]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="3"|[[2003年]] |
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|align="right"|16 |
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| align=left|水資源開発公団、[[独立行政法人]][[水資源機構]]に改組・発足。 |
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|align="left"|[[平成16年7月福井豪雨]] |
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| align=left|東京電力管理の[[丸沼ダム]](片品川)、現役で稼動する発電用ダムとしては初となる国の[[重要文化財]]に指定される。 |
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|align="right"|5 |
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|align="left"|台風15号 |
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| align=left|電源開発株式会社、民営化が決定(翌年民営化、東証一部に株式公開)。 |
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|align="right"|10 |
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|align="left"|[[平成16年台風第16号|台風16号]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="2"|[[2004年]] |
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|align="right"|17 |
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| align=left|[[平成16年7月福井豪雨]]。建設凍結中の[[足羽川ダム]]([[足羽川]])建設再開要望が高まる(2006年建設再開)。 |
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|align="left"|[[平成16年台風第18号|台風18号]] |
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| align=left|[[新潟県中越地震]]により[[妙見堰]](信濃川)が損壊。 |
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|align="right"|46 |
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|align="left"|[[平成16年台風第21号|台風21号]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="4"|[[2005年]] |
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|align="right"|27 |
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| align=left|億首ダム(億首川)、世界初の[[台形CSGダム]]として建設が開始される。 |
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|align="left"|[[平成16年台風第23号|台風23号]] |
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| align=left|全国的大渇水で各地のダムが枯渇。早明浦ダムの貯水率が0%となり連日報道される。 |
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|align="right"|98 |
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| rowspan="2"|[[2005年]] |
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| align=left|大阪高裁、[[永源寺ダム|永源寺第二ダム]]([[愛知川]])訴訟控訴審で「ダム建設違法」の判決を下す。 |
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| rowspan="2"|平成17年 |
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|align="left"|[[梅雨前線]]豪雨 |
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|align="right"|11 |
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|align="left"|[[平成17年台風第14号|台風14号]] |
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| align=left|(財)ダム水源地環境整備センター、全国の各地方自治体より推薦のあったダム湖の内65湖沼を[[ダム湖百選]]に認定する。 |
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|align="right"|29 |
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| rowspan="2"|[[2006年]] |
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| rowspan="2"|平成18年 |
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| align=left|東京電力、日本最大の[[揚水発電]]所・神流川発電所([[南相木ダム]]・[[上野ダム]])の本格的営業運転を開始させる。 |
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|align="left"|[[平成18年7月豪雨]] |
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|align="right"|30 |
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|align="left"|[[平成18年台風第13号|台風13号]] |
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| align=left|日本最初の重力式コンクリートダムである[[布引五本松ダム]]が国の重要文化財に指定される<ref>「布引水源地水道施設」の名称で、水路橋、隧道等の付属施設等とともに指定</ref>。 |
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|align="right"|10 |
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|[[2008年]]||平成20年||align="left"|[[平成20年8月末豪雨]]||align="right"|2 |
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| align=left|[[滋賀県]]の[[嘉田由紀子]]知事、知事就任時の所信表明で新幹線新駅・産廃処理場建設と並びダム事業の凍結を表明する。 |
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| rowspan="2"|[[2009年]] |
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| align=left|長野県知事選挙で田中康夫を破り当選した[[村井仁]]知事、「脱ダム宣言」の見直しを表明する。 |
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| rowspan="2"|平成21年 |
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|align="left"|[[平成21年7月中国・九州北部豪雨]] |
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|align="right"|36 |
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|align="left"|[[平成21年台風第9号|台風9号]] |
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| align=left|日本唯一の五連式[[マルチプルアーチダム]]である[[豊稔池ダム]]が国の重要文化財に指定される。 |
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|align="right"|27 |
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|[[2010年]]||平成22年||align="left"|梅雨前線豪雨||align="right"|22 |
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| align=left|[[中国電力]]・[[土用ダム]](土用川)でダム計測データ改ざん発覚。以後全国各地の[[電力会社管理ダム]]でデータ改ざんが多数露見する。 |
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| rowspan="3"|[[2011年]] |
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| rowspan="3"|平成23年 |
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| align=left|嘉田滋賀県知事、ダム事業凍結を事実上撤回。県営ダム事業再開を発表する。 |
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|align="left"|[[平成23年7月新潟・福島豪雨]] |
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|align="right"|6 |
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|align="left"|[[平成23年台風第12号|台風12号]]([[紀伊半島]]豪雨) |
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| align=left|東京電力・塩原発電所、[[八汐ダム]](鍋有沢川)データ改ざんによる[[河川法]]違反で流水占用許可取り消し処分。発電所は運用停止。 |
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|align="right"|98 |
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|align="left"|[[平成23年台風第15号|台風15号]] |
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| bgcolor="lightyellow" align=center rowspan="4"|[[2008年]] |
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|align="right"|20 |
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| align=left|日本最大の多目的ダム、[[徳山ダム]]([[揖斐川]])が完成。 |
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|[[2012年]]||平成24年||align="left"|[[平成24年7月九州北部豪雨]]||align="right"|33 |
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| align=left|熊本県の[[蒲島郁夫]]知事、荒瀬ダムの撤去方針を撤回。事業を凍結する。 |
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|[[2013年]]||平成25年||align="left"|[[平成25年台風第26号|台風26号]]([[伊豆大島]]土砂災害)||align="right"|43 |
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| align=left|[[岩手・宮城内陸地震]]で[[石淵ダム]]([[胆沢川]])の堤体が損傷、[[荒砥沢ダム]]([[二迫川]])が山腹崩壊による大量の土砂で貯水池の一部が埋没する。 |
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|[[2014年]]||平成26年||align="left"|集中豪雨([[広島土砂災害]])||align="right"|82 |
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| align=left|[[川辺川ダム]]([[川辺川]])、[[熊本県]]・[[人吉市]]・[[相良村]]の反対表明により計画が大幅に見直される。 |
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|[[2015年]]||平成27年||align="left"|[[平成27年9月関東・東北豪雨]]||align="right"|8 |
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[2009年]] |
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| align=left|[[JR東日本]]・[[信濃川発電所]]、[[宮中ダム]]違法取水による河川法違反で流水占用許可取り消し処分。発電所は運用停止。 |
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|} |
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ダム事業を始めとする河川総合開発事業は先述したとおり国や地方自治体による事業の見直しが盛んに行われていた。しかしこの時期は[[1950年代]]を想起させるような災害がほぼ連年発生し、日本各地に大きな被害を与えた。背景にあるのは[[地球温暖化]]などによる[[気候変動]]であり、観測史上例のない[[降水量]]を次々記録して「過去に例のない」・「想定外の」・「経験したことのない」などの言葉が付く豪雨が河川の氾濫や[[土砂崩れ]]などを引き起こして、多くの人命が失われた。このため[[気象庁]]は[[2013年]](平成25年)に[[台風]]や[[集中豪雨]]、[[津波]]、[[噴火]]に関して[[特別警報]]の運用を開始。豪雨については日本の台風災害史上最悪の人的被害を出した[[1959年]](昭和34年)の[[伊勢湾台風]]などを基準に、数十年に一度となる極めて危険な気象災害に対して警戒を呼び掛ける対策を講じた<ref>[http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/tokubetsu-keiho/ 気象庁『特別警報について』]2015年8月25日閲覧</ref>。 |
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[[2000年]](平成12年)に[[名古屋市]]を中心に大きな浸水被害をもたらした[[東海豪雨]]を皮切りに、毎年のように台風が日本に上陸。また梅雨前線末期の集中豪雨などにより日本各地で洪水被害が相次いだ。特に[[2004年]](平成16年)は[[1953年]](昭和28年)に匹敵する「水害の当たり年」となった。この年だけでも9個の台風が日本に上陸し、梅雨前線や[[秋雨前線]]などを刺激して大雨を各地に降らせた<ref name="kishocho2"/>。7月には[[平成16年7月新潟・福島豪雨]]と[[平成16年7月福井豪雨]]が[[北陸地方]]を襲い、[[信濃川]]流域や[[足羽川]]などで[[堤防]]が決壊。また[[四国地方]]には台風10号と11号が連続で上陸し、[[長安口ダム#細川内ダム|細川内ダム]]中止後の[[那賀川]]流域に大雨を降らせ、[[徳島県]][[那賀郡]][[上那賀町]]海川では一日降水量1,317ミリという日本新記録となった。9月の[[平成16年台風第21号|台風21号]]は[[三重県]][[尾鷲市]]などで時間雨量が100ミリを超えて[[宮川 (三重県)|宮川]]流域に大きな被害を与え、10月には[[平成16年台風第23号|台風23号]]が[[近畿地方]]を襲い、[[円山川]]流域を中心に多数の死者を出す大惨事をもたらした。[[2006年]](平成18年)の[[平成18年7月豪雨]]は[[鹿児島県]]の[[川内川]]流域で総降水量が1,000ミリを超える記録的な集中豪雨をもたらし、[[2011年]](平成23年)の[[平成23年台風第12号|台風12号]](紀伊半島豪雨)は[[熊野川]]流域を中心に[[紀州大水害]]以来の大きな被害を与えた。また[[九州地方]]北部は[[2009年]](平成21年)7月の[[平成21年7月中国・九州北部豪雨]]と、[[2012年]](平成24年)の[[平成24年7月九州北部豪雨]]という豪雨災害が発生し、大きな被害を受けている<ref name="kishocho2"/>。 |
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===環境の激変(1)~省庁再編と特殊法人改革~=== |
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こうした災害に対して、批判の渦中にあったダムが災害防止に威力を発揮した例がある。[[福井県]]の[[九頭竜川]]水系[[真名川]]に建設された[[真名川ダム]]は、福井豪雨の際に[[洪水調節]]能力を発揮して真名川流域の浸水被害をほぼ皆無に抑えた。甚大な被害を受けた足羽川流域と同程度の豪雨が降ったにも関わらず対照的な結果を出し、建設が凍結されていた[[足羽川ダム]](部子川)の建設が[[福井市]]など流域自治体の要望により再開された<ref>[http://www.kkr.mlit.go.jp/kuzuryu/ 国土交通省近畿地方整備局九頭竜川ダム統合管理事務所『平成16年7月福井豪雨におけるダムの治水効果』]2015年8月25日閲覧</ref><ref>[http://www.kkr.mlit.go.jp/asuwa/about/index05.php 国土交通省近畿地方整備局足羽川ダム工事事務所『事業の経緯』]2015年8月25日閲覧</ref>。台風23号では[[由良川]]の洪水で孤立した[[観光バス]]の乗客を救うため[[大野ダム (京都府)|大野ダム]](由良川)が際どい状況下で[[放流 (ダム)|放流]]を調節し乗客の命を救った<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1402 『ダム便覧』大野ダム]2015年8月25日閲覧</ref>。平成18年7月豪雨では[[長野県]]を流れる[[犀川 (長野県)|犀川]]の氾濫を防ぐため国土交通省の[[大町ダム]]([[高瀬川 (長野県)|高瀬川]])に加えて、[[東京電力]]の[[奈川渡ダム|奈川渡]]・[[水殿ダム|水殿]]・[[稲核ダム|稲核]](犀川)および[[高瀬ダム|高瀬]]・[[七倉ダム|七倉]](高瀬川)の発電用5ダムが連携して洪水を貯留し犀川の氾濫を防いだ<ref name="omachi">[http://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/jimusho/dam/damsaihen.pdf 国土交通省北陸地方整備局『大町ダム等再編事業』]2015年8月25日閲覧</ref>。他方記録的な豪雨により治水計画で定めた[[治水|計画高水流量]]を大幅に超過する洪水が発生し、[[ただし書き操作]]による放流も増加して下流の洪水を完全に抑制出来なかった例もある。[[鶴田ダム]](川内川)は九州最大の多目的ダムであるが平成18年7月豪雨は川内川上流に平均1,000ミリという未曽有の豪雨を降らせ、ダムは可能な限り洪水を貯留したが計画を大幅に超過する洪水によりただし書き操作を余儀なくされ、結果的に下流の浸水被害を完全には防止できなかった。ダムの治水機能強化を求める流域住民からの要望が強く出たことから、国土交通省は住民との意見交換会を経て治水能力の強化を図る[[鶴田ダム#再開発|鶴田ダム再開発事業]]を[[2007年]](平成19年)より実施している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3597 『ダム便覧』鶴田ダム(再)]2015年8月25日閲覧</ref><ref>[http://www.qsr.mlit.go.jp/turuta/d4_kouzuikentou/index.html 国土交通省九州地方整備局鶴田ダム管理所『洪水調節に関する検討会』]2015年8月25日閲覧</ref>。また[[新宮川]](熊野川)水系では2011年の台風12号による被害を受け[[池原ダム]]([[北山川]])や[[風屋ダム]](熊野川)など発電用ダムの洪水時運用改善要求が流域自治体で高まったため、「熊野川の総合的な治水対策協議会」を設置しダムの運用改善などを検討している<ref>[http://www.kkr.mlit.go.jp/river/kyougikai/toppage.htm 国土交通省近畿地方整備局『熊野川の総合的な治水対策協議会』]2015年8月25日閲覧</ref>。 |
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1990年以降、ダムを巡る環境は大きく激変した。一つは事業主体の形態が大きく変わったことである。[[2001年]](平成13年)、実に占領下以来となる[[中央省庁再編]]が行われ、[[建設省]]は[[運輸省]]・[[北海道開発庁]]・[[国土庁]]と合併し[[国土交通省]]として改組・発足した。ダム事業については建設省のみならず、国土庁や北海道開発庁も関与するケースがある事から一本化された形となった。これに伴い、従来[[農林水産省]]との共同機関として位置づけられていた[[北海道開発局]]は国土交通省の管轄となった<ref>ただし、農業水産部が管轄する[[かんがい]]用ダムの管理に関しては、従来どおり[[農林水産省直轄ダム]]となっている。</ref>。 |
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2000年代はこのように大きな水害が相次いだが、治水事業が未発達だった1950年代に比べ人的被害は少なくなっている。例えば死者・行方不明者1,001名を数えた[[昭和28年西日本水害]]と同程度の降水量だった平成24年7月九州北部豪雨<ref name="kishocho2"/>は西日本水害を教訓とした[[筑後川]]・[[矢部川]]などの治水整備により堤防決壊は生じても人的・浸水被害は軽減されており、矢部川では[[日向神ダム]]のある矢部川本流上流部より[[星野川]]・笠原川といったダムのない河川が合流した後の被害が大きい<ref>[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/169701_51071010_misc.pdf 福岡県『平成24年7月九州北部豪雨等災害箇所図』]2015年8月25日閲覧</ref>。また[[利根川]]や[[北上川]]では上流ダム群を始めとする治水事業整備により多数の人的被害や広範囲の浸水被害を伴う水害は[[カスリーン台風|カスリーン]]・[[アイオン台風]]以降発生していない。ダム事業の有効性が再認識されることで事業に対する批判一辺倒の動きも徐々に修正された。「脱ダム」宣言を発表した田中康夫は平成18年7月豪雨直後の知事選で県政を巡り対立していた反田中派から治水対策の不備を追及され落選、後任の[[村井仁]]長野県知事は「脱ダム」宣言を撤回して浅川ダムなどの事業を再開した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1036 『ダム便覧』浅川ダム]2015年8月25日閲覧</ref>。またダム反対派が代替対策として主張した[[森林]]の保水力を高めることで治水を行う「[[緑のダム]]」については[[2001年]](平成13年)に[[日本学術会議]]が答申した『地球環境・人間生活にかかわる農業及び森林の多面的な機能の評価について』で森林涵養の有効性は認めつつも、いわゆる「緑のダム」として豪雨災害を緩和する機能には限界があると指摘しており<ref>[http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/shimon-18-1.pdf 日本学術会議『地球環境・人間生活にかかわる農業及び森林の多面的な機能の評価について(答申)』pp.91-93]2015年8月25日閲覧</ref>、[[2003年]](平成15年)の[[平成15年台風第10号|台風10号]](日高豪雨)における[[沙流川]]源流[[原生林]]の流失と[[二風谷ダム]](沙流川)の流木捕捉による被害軽減、[[2013年]](平成25年)の[[平成25年台風第26号|台風26号]]による[[伊豆大島]]土砂災害・[[2014年]](平成26年)の集中豪雨による[[広島土砂災害]]などの[[土砂災害]]がそれを証明している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=40 『ダム便覧』洪水軽減に役立った二風谷ダム]2015年8月25日閲覧</ref>。 |
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また、[[特殊法人]]の在り方に対する国民の批判が高まり、これを受けた[[小泉純一郎]]内閣は特殊法人を[[独立行政法人]]として改組させ、予算確保を自律的に行わせ補助金を削減することで支出抑制を図る特殊法人改革を行った。この対象となったのが水資源開発公団であり、[[2003年]](平成15年)に独立行政法人[[水資源機構]]として発足することとなった。さらに、「電源開発促進法」により電力再編成以後の電力事業を補助する目的で発足した[[電源開発|電源開発株式会社]]もその使命を果たしたとして国営企業からの脱却を図った。2003年政府は電発の民営化を発表し翌[[2004年]](平成16年)には保有株式を売却。民営化後[[東京証券取引所]]第一部に上場し民間企業となった。 |
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一方、2000年代は[[地震]]によるダムの被害が多い時期でもあった。2004年に発生した[[新潟県中越地震]]では震源地に近い[[妙見堰]](信濃川)の門柱や管理所建屋に被害が生じ<ref>[http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/eq01/pdf/1706.pdf 国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所『新潟県中越地震における信濃川河川事務所管内の被害状況と復旧方針』]2015年8月25日閲覧</ref>、[[2008年]](平成20年)に発生した[[岩手・宮城内陸地震]]では[[宮城県]]の[[荒砥沢ダム]]([[二迫川]])の貯水池である藍染湖で大規模な山崩れが発生し大量の土砂が流入<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0309 『ダム便覧』荒砥沢ダム]2015年8月25日閲覧</ref>したほか[[石淵ダム]]([[胆沢川]])では遮水壁が損傷した<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/bumon/b00097/k00360/happyoukai/H21/ronbun/1-3.pdf 『2008年岩手・宮城内陸地震によるダムの被害調査報告』PDF]2015年8月25日閲覧</ref>。そして未曽有の被害を東日本にもたらした2011年の[[東日本大震災]]では、[[福島県]]の[[藤沼ダム]](江花川)が地震により決壊して8名が死亡<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0483 『ダム便覧』藤沼ダム(元)]2015年8月25日閲覧</ref>し1953年の[[大正池 (井手町)|大正池]]決壊事故以来のダム決壊事故となった。また沿岸を襲った大津波が河川を遡上したことで[[北上大堰]](北上川)などが津波の被害を受けている<ref>[http://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/kakouzeki_suimon/arikata/arikata110930.pdf 東北地方太平洋沖地震を踏まえた河口堰・水門等技術検討委員会『東日本大震災を踏まえた堰・水門等の設計、操作のあり方について』2011年]2015年8月25日閲覧</ref>。ただし[[重力式コンクリートダム]]については[[1995年]](平成7年)の[[阪神・淡路大震災]]の激震を耐え抜いた[[布引五本松ダム]]([[生田川]])のように地震による致命的な被害は報告されておらず、[[関東大震災]]を教訓に[[1925年]](大正14年)に[[物部長穂]]が『貯水用重力堰堤の特性並びに其の合理的設計方法』という論文で発表した重力ダムの耐震理論が活かされている<ref>『湖水を拓く』pp.102-103</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3330 『ダム便覧』布引五本松ダム(再)]2015年8月25日閲覧</ref>。 |
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===環境の激変(2)~ダム事業への厳しい世論~=== |
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[[画像:Nagaragawa Mouth of River Floodgate-1.jpg|thumb|250px|[[長良川河口堰]]([[長良川]]・[[三重県]])。建設を巡り[[朝日新聞]]を始め[[市民団体]]や[[進歩的文化人]]が反対運動を全国展開した]] |
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[[画像:Yoshinogawa Daijuzeki.jpg|thumb|250px|[[吉野川第十堰]]([[吉野川]]・[[徳島県]])。[[建設省]]の[[吉野川可動堰]]計画を巡り地元は賛成、下流[[徳島市]]は反対を表明し[[住民投票]]で建設が否定された]] |
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[[画像:Arasedam-0A3N80pbxFs6g.JPG|thumb|250px|2012年に撤去工事が開始された[[荒瀬ダム]]([[球磨川]]・[[熊本県]])。2010年の[[水利権]]失効以降に撤去予定であったが、2008年に県知事が一転して撤去方針を撤回。しかし地元の同意を得られず撤去に至った]] |
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もう一つの環境激変とは、[[公共事業]]見直しの機運が高まったことである。[[ゼネコン]]汚職など公共事業絡みの[[汚職事件]]頻発・必要性の有無が問われぬまま推進される公共事業・環境破壊等、公共事業に対して国民は次第に厳しい目を向け始めるようになって行った。納税者としての目も、不要な公共事業に対する批判を集中させる基となった。さらに[[地方自治体]]は税収の伸び悩みにより深刻な財政難に陥ることが多くなり、費用がかさむ公共事業に対して予算配分を再検討するようになった。こうしたことが、1990年代より始まる公共事業見直し論の原動力となって行ったのである。建設省は[[第2次橋本内閣]]時代の[[亀井静香]]<ref>持論が「公共事業の縮小」であった。現在は[[国民新党]]所属。</ref>[[建設大臣]]の時、大規模な直轄公共事業に対して再評価を行い、リスク&ベネフィット・コストパフォーマンスに欠ける事業に関しては事業を中止するという決断を下した。こうして[[宍道湖]]・[[中海]]干拓事業や[[千歳川]][[放水路]]事業等大規模プロジェクトが中止となった。 |
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ダムに関しても例外ではなかった。[[徳島県]][[那賀郡]][[木頭村]]で計画されていた「[[細川内ダム計画|細川内ダム]]」([[那賀川]]。高さ106.0メートル)は木頭村全村が反対していたが[[1996年]](平成8年)に事業が凍結、[[2000年]](平成12年)に事業中止となった。この時期より[[多目的ダム]]事業の建設中止が相次ぐ様になり、「猪牟田ダム」<ref>ダムサイトのもろい地質的な問題が克服できず、中止となる。</ref>([[玖珠川]]・122.0メートル)・「紀伊丹生川ダム」<ref>変更したダムサイトの地盤が悪く、ダムを建設するより河川改修のほうが同等の効果とコスト削減が可能であるという理由で中止。</ref>(紀伊丹生川・145.0メートル)・「[[清津峡#清津川ダム建設計画|清津川ダム]]」(清津川・150.0メートル)・「[[戸倉ダム計画|戸倉ダム]]」<ref>[[石原慎太郎]][[東京都知事]]を始め受益地の知事が軒並み事業から撤退し、工事の維持が不可能となったため本体工事中に中止する異例の事態となった。</ref>(片品川・158.0メートル)・「[[川古ダム計画|川古ダム]]」(赤谷川・160.0メートル)といった大規模多目的ダムも地元の理解が得られなかったり、下流受益自治体の事業撤退等によって中止に追い込まれた。これは小泉内閣の基本方針「[[骨太の方針]]」で[[高速道路]]を始めとした公共事業総点検で更に加速。10年以上予備調査・実施計画調査を続け本体工事に着手していないダム事業の大半が事業中止・休止となった。 |
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File:Managawa-947-r1.JPG|[[平成16年7月福井豪雨]]で流域を水害からほぼ完全に防御した[[真名川ダム]]([[真名川]])。 |
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File:Asuwagawa-952-r1.JPG|平成16年7月福井豪雨を機に事業が再開された[[足羽川ダム]](部子川)建設予定地。 |
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File:Tsuruta-2861-r1.JPG|[[平成18年7月豪雨]]を機に[[ダム再開発事業]]が進められている[[鶴田ダム]]([[川内川]])。 |
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File:Lake Aizenko.jpg|[[岩手・宮城内陸地震]]により大量の土砂が流入した[[荒砥沢ダム]]([[二迫川]])の人造湖・藍染湖。 |
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File:Fujinuma Dam failure.JPG|[[東日本大震災]]により決壊した直後の[[藤沼ダム]](江花川)。再建中。 |
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=== 水余りと水不足 === |
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[[揚水発電]]建設においても、90年代以降当初予想していた電力需要よりも低い需要となり新規電源開発のメリットが薄くなったという理由から建設を中断する発電計画が相次ぎ、世界最大級の揚水発電計画であった「金居原水力発電所」([[関西電力]])や「川浦水力発電所」([[中部電力]])が中止となっている。 |
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[[File:姿を現した旧大川村役場2005年8月20日.jpg|thumb|200px|2005年の平成17年渇水で[[早明浦ダム]]([[吉野川]])湖底より姿を現した旧[[大川村]]役場。]] |
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高度経済成長期に需要が急増した[[上水道]]・[[工業用水道]]は、深刻な[[水不足]]や[[地盤沈下]]などの問題を招いた。紆余曲折の末に誕生した水資源開発公団は利根川・[[荒川 (関東)|荒川]]・[[豊川]]・[[木曽川]]・[[淀川]]・[[吉野川]]・筑後川の7水系で水資源開発のためのダム事業や[[愛知用水]]・[[豊川用水]]・[[香川用水]]などの[[用水路]]整備を行い、大都市圏や[[四大工業地帯]]などへの水道需要を満たした。また直轄・補助の別なく河川総合開発事業では水道供給を目的にした多目的ダム建設が盛んに行われた。しかし高度経済成長が終わり経済が安定成長に向かい、産業構造が変化するに連れて工業用水道の需要は徐々に下落。さらに[[円高]]などにより企業が工場を日本国外に移転する傾向が強まり、需要はさらに低迷した。また上水道も人口増加が鈍化したことや[[節水]]技術・意識の向上でダム計画時に予想された水需要との齟齬が生じた。このため水道供給目的を有するダムの中には受益地から水利権を返上されるなど使い道が宙に浮く、いわゆる「'''水余り'''」の状況に陥った例がある。一例として[[富山県]]の[[熊野川ダム]]([[熊野川 (富山県)|熊野川]])は[[富山市]]などへの上水道供給が目的にあったが、富山市などが上水道水利権を返上したため上水道目的が喪失した<ref>『日本の多目的ダム補助編 1990年版』pp.300-301</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0865 『ダム便覧』熊野川ダム]2015年8月26日閲覧</ref>。「水余り」に対してダム反対派はダム事業を否定する一つの根拠となっており<ref>[http://suigenren.jp/damproblem/probrem3/ 水源開発問題全国連絡会『水需要は余り水余り時代に』]2015年8月26日閲覧</ref>、戸倉ダムなどのように上水道事業に参加した自治体が撤退して事業が中止される例も多くなった<ref name="tokura"/>。 |
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一方、元来降水量が少ない地域では水資源施設の整備が行われてもなお、深刻な水不足に悩まされる地域が存在している。[[1982年]](昭和57年)から[[2002年]](平成14年)までの20年間に発生した渇水において、特に回数の多い地域として愛知用水を水源とする[[愛知県]][[知多半島]](15回)、豊川用水を水源とする[[豊橋市]]・[[豊川市]]・[[蒲郡市]]など愛知県東部(14回)、香川用水を水源とする[[香川県]][[高松市]](11回)、木曽川用水を水源とする[[名古屋市]]・[[一宮市]](8回)などがある。何れも慢性的な水不足に悩まされた地域であり水資源整備が重点的に行われたが、地域によっては半年以上取水制限が継続された大渇水もある<ref name="kassui">『河川便覧 2004年版』pp.66-67</ref>。[[1994年]](平成6年)の'''[[平成6年渇水]]'''ではこうした地域で深刻な渇水が発生。愛知県では愛知用水の水源である[[牧尾ダム|牧尾]](王滝川)・[[岩屋ダム|岩屋]]([[馬瀬川]])・[[阿木川ダム|阿木川]]([[阿木川]])の3ダムが枯渇、豊川用水でも水源の[[宇連ダム]]([[宇連川]])が枯渇して名古屋市では159日間の厳しい取水制限が行われ一日19時間[[断水]]などが実施されるなど、渇水による[[東海地方]]の農工業への被害額は推定約512億円という莫大な被害を生じた<ref name="kassui"/><ref>[http://www.mlit.go.jp/common/000114934.pdf 国土交通省『木曽川水系の利水の現状』]2015年8月26日閲覧</ref>。また[[福岡市]]では330日間、[[愛媛県]][[松山市]]では312日間という長期間の取水制限に見舞われたほか、[[東京都]]も[[利根川水系8ダム|利根川上流ダム群]]の貯水量低下により60日間、最大で30パーセントの取水制限が実施されるなど[[関東地方]]から九州地方の広い範囲で深刻な水不足が生じている<ref name="kassui"/>。 |
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こうしたダム事業に対する問題で、全国的な話題になったものとして'''[[長良川河口堰]]'''・'''[[徳山ダム]]'''・'''[[川辺川ダム]]'''がある。特に長良川河口堰は[[1968年]](昭和43年)に建設計画が発表されたが、その後の水需要の低下で果たして必要なのかという指摘が多く、不要な公共事業ではないのかという疑問が呈されるようになった。また、ダムがない自然豊かな河川であった[[長良川]]に河口堰を建設することで[[漁業]]を始めとした自然環境を壊すとして環境問題の立場から反対する意見<ref>[[天野礼子]]や[[近藤正臣]]が代表的。</ref>が多くなり、両者が合体して大きな反対運動となった。この反対運動を喧伝したのが[[朝日新聞]]で、建設反対の立場から建設省と公開討論を行う等積極的な関与を行った。朝日新聞の行動は公共事業に対する国民の関心を高めたと評価される一方、不偏不党の中立性が最も重要視される報道機関として、一方のみの意見を積極的に喧伝することが報道機関としての中立性を捨てたという非難も多かった。 |
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2000年代に入ると渇水の被害はさらに広範囲に及び、2002年の渇水は[[北海道]][[士別市]]から福岡県[[筑後市]]までのほぼ日本全国にわたって水不足が発生。[[兵庫県]][[川西市]]で201日間、松山市で287日間という長期間の取水制限が行われた<ref name="kassui"/>。さらに2005年の'''平成17年渇水'''は四国地方に深刻な水不足を招いた。吉野川上流に建設された四国四県の水瓶で「四国のいのち」と称される'''[[早明浦ダム]]'''は西日本最大級の人造湖を有するが、降水量が極端に不足して貯水率が二度もゼロとなる異常事態を生じ湖底に水没した旧[[大川村]]役場庁舎が姿を現した。取水制限は[[徳島県]]で25パーセントだが香川県では75パーセントの取水制限となり、工業用水道専用の[[府中ダム]]([[綾川]])から用水を上水道用に緊急転用したほか高知分水への導水も停止した。それでも厳しい状況が続き遂に電源開発[[早明浦ダム#早明浦発電所|早明浦発電所]]の発電用水を緊急に放流して糊口を凌ぐ状態だった。最終的には[[平成17年台風第14号|台風14号]]が四国を直撃して吉野川上流に豪雨を降らせ、早明浦ダムの貯水率が一日で100パーセントに回復したことで取水制限は解除され渇水は解消した<ref name="sameura">[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=213 『ダム便覧』渇水のとき、ダムは~平成17年・早明浦ダム~]2015年8月26日閲覧</ref>。しかしこの間水の融通を巡り香川県と徳島県が対立、平成17年渇水を機に計画されている早明浦ダム再編事業についても、国土交通省と徳島県が事業負担を行い高知県も事業の早期推進を訴えている中、香川県は発電用水が削減されることに対し不安を訴え、時期尚早と事業には否定的姿勢を見せる<ref name="sameura"/><ref>四国新聞2009年9月1日記事</ref><ref>[http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/111601/files/2010042100208/2010042100208_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_29226.pdf 高知県『早明浦ダム再編事業の早期実施』]2015年8月26日閲覧</ref>など、吉野川の水利用については四国四県間で対立の火種を抱えている。 |
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地方自治体の動きも、深刻な財政難で計画を中止するダム事業が相次いだが、2001年に当時の[[田中康夫]][[長野県]]知事が発表した「'''[[中止したダム事業#脱ダム宣言によるもの|脱ダム宣言]]'''」は大きな影響を各方面にもたらした。[[治水]]・利水において新規ダム建設は不要であるとし、強硬的な姿勢をもって計画中の長野県営ダム事業を全て中止し、電力会社が計画していたダム建設にも否定的な姿勢を見せた。[[2008年]](平成20年)には川辺川ダムについて地元[[熊本県]]と[[人吉市]]、[[相良村]]が「建設反対」に方針を転換。これをうけ国土交通省はダム建設中止を含めた計画の見直しに迫られた。 |
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File:Kumanogawa Dam.jpg|「水余り」により[[上水道]]目的が喪失した[[熊野川ダム]]([[熊野川 (富山県)|熊野川]])。 |
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File:Makio Dam.jpg|[[愛知用水]]の水源・[[牧尾ダム]](王滝川)。[[平成6年渇水]]で枯渇し[[名古屋市]]などに影響を及ぼした。 |
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File:Sameura dam 20050903.jpg|平成17年渇水で貯水率がゼロになった早明浦ダムの人造湖・[[早明浦ダム#さめうら湖|さめうら湖]](2005年9月3日)。 |
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File:Fuchu Dam01.jpg|平成17年渇水で工業用水を上水道用に緊急融通した[[府中ダム]]([[綾川]])。 |
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=== ダムを観光資源に === |
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[[琵琶湖]]を抱える[[滋賀県]]でも[[2006年]](平成18年)の知事選で現職知事を破り当選した[[嘉田由紀子]]がダム建設凍結を発表したが、滋賀県の場合は県営のみならず国土交通省・水資源機構が計画するダム事業の凍結を表明した。この他[[高知県]]では当時の[[橋本大二郎]]知事が[[四万十川]]の河川環境を回復させることを目的に四万十川本流にある家地川ダム(正式名称は佐賀取水堰。小堰堤)を、熊本県では[[潮谷義子]]知事が[[球磨川]]にある[[荒瀬ダム]]を水利権失効後の[[2010年]](平成22年)以降に撤去するという方針を打ち出し、ダム建設中止のみならず日本では初となるダム撤去という選択を行おうとした。荒瀬ダムにおいては、2008年に後任知事が一時ダム撤去方針の撤回を表明したものの、[[2012年]](平成24年)[[9月1日]]、撤去工事が開始された<ref>2008年6月、潮谷知事の後を継いだ[[蒲島郁夫]]知事は、荒瀬ダム撤去事業について「費用対効果の面で問題がある」として撤去方針を凍結、同年11月には正式に撤去方針を撤回した。しかし地元の同意を得られず、2010年3月末に失効する水利権の更新が事実上不可能となり、2010年2月、再度撤去方針を表明した。</ref>。[[徳島県]]では[[吉野川第十堰]][[可動堰]]化に対する住民反対運動が高まり、[[1999年]](平成11年)[[徳島市]]による住民投票にまで発展。投票の結果、反対票が圧倒的多数<ref>賛成派が投票をボイコットしたため、結果的にほとんどが反対票となった。投票率が50パーセント以下の場合は住民投票自体が無効になる異例のものであった。</ref>を占めたことにより徳島県・徳島市が可動堰建設反対に転じ、事業は事実上中止に近い状況となっている。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; float:right; margin-left:1em;" |
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|+ <strong style="font-size:middle;">2009年度河川水辺の国勢調査における利用者数上位10ダム</strong><ref name="kokusei">[http://mizukoku.nilim.go.jp/ksnkankyo/mizukokudam/kuukan/H21_dam_riyoujittai.pdf 国土交通省『河川水辺の国勢調査(ダム湖版)』]2015年8月27日閲覧</ref><br/>緑欄は[[水源地域対策特別措置法]]指定ダム |
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!順位 |
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!ダム |
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!利用者数 |
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!事業者 |
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|1||[[神奈川県]]||[[相模川]]||[[中津川 (相模川水系)|中津川]]||[[宮ヶ瀬ダム]]||align=right|1,327,073||[[国土交通省]] |
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|2||[[岩手県]]||[[北上川]]||[[雫石川]]||[[御所ダム]]||align=right|999,328||国土交通省 |
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|3||[[京都府]]||[[淀川]]||[[桂川 (淀川水系)|桂川]]||[[日吉ダム]]||align=right|538,141||[[水資源機構]] |
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|4||[[福島県]]||[[阿武隈川]]||大滝根川||[[三春ダム]]||align=right|454,524||国土交通省 |
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|5||京都府||淀川||淀川||[[天ヶ瀬ダム]]||align=right|424,682||国土交通省 |
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|6||[[山形県]]||[[最上川]]||[[寒河江川]]||[[寒河江ダム]]||align=right|308,177||国土交通省 |
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|7||福島県||阿武隈川||[[摺上川]]||[[摺上川ダム]]||align=right|301,220||国土交通省 |
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|8||[[宮城県]]||[[名取川]]||碁石川||[[釜房ダム]]||align=right|280,806||国土交通省 |
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|9||[[愛媛県]]||[[肱川]]||肱川||[[野村ダム]]||align=right|272,503||国土交通省 |
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|10||京都府||淀川||[[名張川]]||[[高山ダム]]||align=right|250,372||水資源機構 |
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|} |
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ダム事業は水源地域に[[過疎化]]などの不利益をもたらした。[[1974年]](昭和49年)に施行された[[水源地域対策特別措置法]](水特法)はこうした不利益を被る水源地域の[[地域活性化]]を最大の目的としており、地域整備計画に基づき生活基盤の強化に加えていわゆる「村おこし」を始める地域も出始めた。「[[ウメ]]・[[クリ]]植えて[[ハワイ]]へ行こう」を合言葉に[[一村一品運動]]を日本で最初に手掛けた[[松原ダム]](筑後川)・[[大山ダム]]([[赤石川 (大分県)|赤石川]])のある[[大分県]][[日田郡]][[大山町]]([[日田市]])や、下流受益地との密接な交流を軸に村の活性化を図った[[味噌川ダム]](木曽川)のある長野県[[木曽郡]][[木祖村]]、ダム建設を機に町づくり計画を策定して地域活性化につなげた[[日吉ダム]]([[桂川 (淀川水系)|桂川]])のある[[京都府]][[船井郡]][[日吉町]]([[南丹市]])など、水特法指定を機に様々な手段で水源地域は地域活性化を目指した<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=94 『ダム便覧』地域開発なくしてダム建設はありえない]2015年8月27日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=562 『ダム便覧』ダムインタビュー(40)]2015年8月27日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=7 『ダム便覧』ダムを生かしたまちづくり]2015年8月27日閲覧</ref>。2005年には[[一般財団法人]][[水源地環境センター]]<ref group="注">当時は財団法人ダム水源地環境整備センター。</ref>が日本各地の自治体と連携し、地域に親しまれ地域にとってかけがえのないダム湖を所在自治体首長の推薦によって認定する'''[[ダム湖百選]]'''が68ダムで選定された<ref>[http://www.wec.or.jp/library/100selection/content/syushi.html 一般財団法人水源地環境センター『ダム湖百選の趣旨』]2015年8月27日閲覧</ref>。 |
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一方、ダム事業への批判が高まることに事業者である建設省なども危機感を募らせ、[[情報公開]]不足による[[長良川河口堰]]反対運動の全国展開化などを反省して積極的なダム事業の情報発信やダム施設開放を試みた<ref>『湖水を拓く』p.77</ref>。[[1987年]](昭和62年)より毎年夏に日本各地のダムで開催される「森と湖に親しむ旬間」はその一つで、この期間はダムの一般開放や河川に親しむ様々なイベントが行われている。また完成以来名称が無かった多くの人造湖に固有の湖名が一般公募で命名された<ref>[http://www.mlit.go.jp/river/kankyo/campaign/shunnkan/ 国土交通省水管理・国土保全局『森と湖に親しむ旬間』について]2015年8月27日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/MeiItiran.cgi?sy=ko 『ダム便覧』ダム湖名一覧]2015年8月27日閲覧</ref>。この「森と湖に親しむ旬間」で2007年より登場したのがダムの[[トレーディングカード]]・'''[[ダムカード]]'''である。国土交通省直轄ダムと水資源機構管理ダムで配布が開始されたダムカードは好評につき、多くの[[都道府県営ダム]]や電源開発・[[東京電力]]・[[中部電力]]の一部[[電力会社管理ダム]]でも配布が開始されている<ref>[http://www.mlit.go.jp/river/kankyo/campaign/shunnkan/damcard.html 国土交通省水管理・国土保全局『ダムカードについて』]2015年8月27日閲覧</ref>。こうしたダム事業啓蒙の動きを影で支えたのが[[ダムマニア]]である。当初は個人の[[ホームページ]]などで訪問したダムを紹介していたが、[[一般財団法人]][[日本ダム協会]]がこうしたダムマニアの存在に注目し双方が協力してダム事業を一般に紹介し始めた。書籍や映像の出版を始めマスコミにも積極的に登場するダムマニアの活動は事業者である国土交通省や水資源機構、地方自治体なども注目し「森と湖に親しむ旬間」など様々なイベントを通じてダム事業啓蒙の一翼を担った<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=383 『ダム便覧』ダムインタビュー(10)]2015年8月27日閲覧</ref>。特にダムカードはダムマニアの提案から誕生したものである<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/Konogoro.cgi?id=299 『ダム便覧』ダムマニア展レポート(7)]2015年8月27日閲覧</ref>。また[[黒部ダム]]([[黒部川]])で登場した[[ダムカレー]]は群馬県[[利根郡]][[みなかみ町]]や各地のダムのほか、一部の[[コンビニエンスストア]]チェーンでも発売されるに至った<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/Konogoro.cgi?id=2 『ダム便覧』ダムカレーを食べました]2015年8月27日閲覧</ref>。こうしたダムマニアの活動については、ダム事業に対して批判的なスタンスを取る[[朝日新聞]]なども好意的に報道している<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=361 『ダム便覧』ダムインタビュー(2)]2015年8月27日閲覧</ref>。 |
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=== 環境の激変(3)~ダム事業と自然保護~ === |
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[[画像:Ozegahara 20020810.jpg|thumb|250px|[[尾瀬原ダム計画]]による水没を免れた[[尾瀬]]の全景]] |
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[[image:Shiogo-s-r1.jpg|250px|thumb|住民の力によって実現した[[塩郷ダム]]([[大井川]]・[[静岡県]])の[[放流 (ダム)#河川維持放流|河川維持放流]]]] |
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環境問題の点からは[[1997年]](平成9年)[[環境影響評価法]](環境アセスメント法)が施行され大規模公共事業では環境への影響を十分に調査・対策することが義務付けられた。これは大規模な公共事業や土木事業によって自然破壊が進んだことへの反省と、近年の[[環境保護]]思想の高まりが合わさった結果であり、ダム事業の様な公共性の高い事業といえども、環境への負荷次第では事業の延期や中止となる例も出てきた。 |
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さらにダム単体だけでなくダム湖など周辺地域を一体化して[[レクリェーション]]に活用する動きも見られた。[[宮城県]]の[[釜房ダム]](碁石川)ではダム周辺整備事業の一環で開設された釜房湖畔公園が[[1989年]](平成元年)に[[東北地方]]初の[[国営公園]]・[[国営みちのく杜の湖畔公園]]として開園した<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/m-park/office/enkaku/index.html みちのく公園『沿革』]2015年8月27日閲覧</ref>。他にも[[御所ダム]]([[雫石川]])にある岩手県立御所湖広域公園<ref>[http://www.koiwai.co.jp/shiteikanri/gosyo_park/ 岩手県立御所湖広域公園]2015年8月27日閲覧</ref>、[[一庫ダム]]([[一庫大路次川]])にある[[兵庫県立一庫公園]]<ref>[http://www.hyogo-park.or.jp/hitokura/contents/about/index.html 兵庫県立一庫公園『一庫公園とは?』]2015年8月27日閲覧</ref>などダム湖周辺を広域公園として整備し地域の重要なレクリェーション施設として活用されている。スポーツでダムを利用する傾向は[[1964年]](昭和39年)の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]における[[カヌー競技]]の会場となった[[相模ダム]]([[相模川]])を皮切りに[[国民体育大会]]や[[インターハイ]]などでカヌー競技の会場にダム湖が利用され<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0697 『ダム便覧』相模ダム]2015年8月27日閲覧</ref>、[[ツーリング]]、[[マラソン]]などの[[陸上競技]]も行われている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/DonnaKWKItiran.cgi?kw=58 『ダム便覧』どんなダムキーワード検索:マラソン・ジョギング]2015年8月27日閲覧</ref>。兵庫県の石井ダム(烏原川)と宮城県の[[長沼ダム]](長沼川)は、レクリェーション自体がダムの目的になっている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=iti&m2=R&jy=kana 『ダム便覧』目的別一覧表(レクリェーションを含む)]2015年8月27日閲覧</ref>。釣りに関しても[[ヘラブナ]]を始め様々な魚類を対象に多くのダム湖で盛んに行われているが、[[ブラックバス]]や[[ブルーギル]]といった[[特定外来生物]]については生態系保護の観点から[[漁業法]]や[[特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律]](外来生物法)に基づき[[キャッチアンドリリース]]は禁止されている。ただし池原ダムのように観光資源として活用しているダムもある<ref>[http://www.pref.niigata.lg.jp/naisuimen/1200934833646.html 新潟県『ブラックバス(オオクチバス・コクチバス等)とブルーギルのリリースは禁止』]2015年8月27日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1565 『ダム便覧』池原ダム]2015年8月27日閲覧</ref>。 |
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これに先んじて、[[尾瀬ヶ原]]を堰き止めてダムを建設し、利根川へ分水して発電を行う「尾瀬分水案」の中心事業・'''[[尾瀬原ダム計画]]'''が中止されている。事業者の[[東京電力]]が1996年に[[水利権]]更新を断念したことが経緯であるが、[[1919年]](大正8年)の計画発表から76年目にして中止となった。この尾瀬原ダムでは、[[福島県]]・[[新潟県]]の水利権問題とともに尾瀬の自然保護が争点となった。既に1919年の計画発表直後、尾瀬の自然破壊を憂慮した[[平野長蔵]]が事業計画に反対して「長蔵小屋」を建てたが、後に[[林道]]建設問題などと結合し大規模な自然保護運動へと発展した。この尾瀬保護運動は日本における自然保護運動の端緒<ref>日本自然保護協会設立の発端である。</ref>であるといわれる。また四国では建設省と電源開発が計画していた'''[[小歩危ダム計画]]'''が、[[大歩危]]・[[小歩危]]水没に対する住民の猛反発によって[[1971年]](昭和46年)に中止となった。 |
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こうした官民一体の施策により、レジャーが多様化する中でダムやダム湖を利用する観光客が増加した。黒部ダムは年間100万人を超える観光客が毎年訪れているが<ref>[http://www.kurobe-dam.com/whatis/index.html 黒部ダムオフィシャルサイト『黒部ダムを知る』]2015年8月27日閲覧</ref>、国土交通省や水資源機構が管理するダムでも観光客が増加した。[[1991年]](平成3年)より定期的に実施されている河川水辺の国勢調査の最新版である2009年度の調査結果で、国土交通省・水資源機構管理の109ダムにおける利用者数が最も多かったのは[[神奈川県]]の'''[[宮ヶ瀬ダム]]'''([[中津川 (相模川水系)|中津川]])である。2000年に完成した宮ヶ瀬ダムは首都圏から50キロメートル圏内にある都市型ダムであり交通の便が良いほか、[[神奈川県立あいかわ公園]]の整備など水特法に基づく周辺整備が計画的に実施された。こうした施策が実を結び2009年度の利用者数は約'''132万7,000人'''と日本一になった<ref name="kokusei"/><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0703 『ダム便覧』宮ヶ瀬ダム]2015年8月27日閲覧</ref>。また工事中のダムでも展望台の設置など積極的に開放したことで[[津軽ダム]]([[岩木川]])のように年間約5万人の訪問客が訪れたほか<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/tugaru/information/kengaku_reserve.html 国土交通省東北地方整備局津軽ダム工事事務所『見学のお申込み』]2015年8月27日閲覧</ref>、本来ダム管理業務として洪水調節の点検目的で実施される[[放流 (ダム)|点検(試験)放流も]]観光の一環としてホームページで周知され、[[矢木沢ダム]](利根川)・[[奈良俣ダム]]([[楢俣川]])のようにダムから4キロ手前まで駐車の列が並ぶほどの盛況となった<ref>[http://www.water.go.jp/kanto/numata/02_news/osirase/pdf/150420.tenkenhouryuu.pdf 独立行政法人水資源機構沼田総合管理所『矢木沢ダム・奈良俣ダム点検放流』]2015年8月27日閲覧</ref>。一方で利用者数の少ないダムもまだ多く、今後の課題となっている。 |
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河川環境の面では水力発電の取水に伴う河川流量の枯渇という深刻な問題が全国各地で発生していた。代表的な事例として[[大井川]]の問題がある。[[1961年]](昭和36年)に[[中部電力]]が大井川中流部に建設した[[塩郷ダム]]により、大井川がダムより20キロメートル下流まで完全に枯渇した。河川管理者の[[静岡県]]は[[水利権]]の一部返還交渉を行ったが不調に終わり、[[川根町]]を始めとする流域の住民は「'''大井川水返せ運動'''」を繰り広げ、電力会社へ強烈な圧力を掛けた。住民の意思を無視することが出来なくなった中部電力は[[1989年]](平成元年)より水利権を一部返還。その後放流量を増大させる事により大井川の流水が復活した。こうした発電用ダムの[[放流 (ダム)|河川維持放流]]は[[1997年]](平成9年)の[[河川法]]改正により「'''河川環境の保護'''」が法目的に加わった事で、義務化された。これにより、[[信濃川]]を始め全国の河川において、途絶された水流が復活されている。 |
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観光資源としてだけでなく、貴重な土木遺産としてもダムは注目された。日本初の[[コンクリートダム]]・布引五本松ダムや日本最大の[[バットレスダム]]・[[丸沼ダム]](大滝川)、日本唯一の五連[[マルチプルアーチダム]]・[[豊稔池ダム]](柞田川)など国の[[重要文化財]]に指定されたダムや[[小牧ダム]]・[[庄川合口ダム]]([[庄川]])、塚原ダム([[耳川]])など国の[[登録有形文化財]]に登録されたダムのほか、[[明治時代]]・[[大正時代]]に建設された多くのダムが[[土木学会選奨土木遺産]]に認定されている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/DonnaKWKItiran.cgi?kw=52 『ダム便覧』どんなダムキーワード検索:遺産・文化財]2015年8月27日閲覧</ref>。 |
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===環境の激変(4)~地球温暖化と異常気象~=== |
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このように[[平成]]に入り、ダム事業は様々な方面から既存の事業方針に対する異論や指摘が行われた。河川管理者もこうした声に押され、あるいは自発的に事業の精査を行い多くのダム事業を中止、凍結、または事業縮小を行った。しかし、こうした拙速なダム不要論に対して警鐘を鳴らす意見も多い。特にダムを巡り同じ流域内で利害の異なる上流・下流の自治体や住民が鋭く対立するというケースが相次いだ。 |
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File:Hiyoshi-1407-r1.jpg|[[水源地域対策特別措置法|水特法]]に基づく周辺整備が行われた[[日吉ダム]]([[桂川 (淀川水系)|桂川]])。[[京都府]]北部の観光地に成長した。 |
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File:Sameura monument.jpg|早明浦ダムにある[[ダム湖百選]]の記念碑。 |
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File:Kamabusa-297-r1.jpg|[[国営みちのく杜の湖畔公園]]が湖畔に整備された[[釜房ダム]](碁石川)。 |
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File:Ishi-dam.JPG|日本初のレクリェーション目的を有する[[多目的ダム]]・石井ダム(烏原川)。 |
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File:Miyagasedam.JPG|年間130万人以上の利用者を集める[[宮ヶ瀬ダム]]([[中津川 (相模川水系)|中津川]])。[[神奈川県]]の主要な観光地の一つ。 |
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=== 大ダム時代の黄昏 === |
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田中前知事らが進めていた脱ダム事業は地元との意見調整を無視して突発的に行った傾向が強く、長野では「浅川ダム」中止に対し[[長野市]]や[[浅川 (長野県)|浅川]]流域住民が反発。治水対策が停滞した中起きた[[平成18年7月豪雨]]によって田中前知事の治水対策を含む独善的政策が問われ、同年の知事選で落選。後任の[[村井仁]]知事は「脱・脱ダム宣言」を発表してダム事業の再見直しを開始している。四万十川の家地川ダムでは上水道をダムに依存している[[幡多郡]][[佐賀町]]<ref>現在は幡多郡[[黒潮町]]。</ref>及び[[中村市]]<ref>現在は[[四万十市]]</ref>がダム撤去に反発、ダム撤去を支持する幡多郡[[四万十町]]と対立。吉野川可動堰では徳島市の動きに対し、水害に古くから悩まされた地元の[[板野郡]][[板野町]]・[[上板町]]・[[藍住町]]住民が反発した。そして川辺川ダムでは、建設反対を表明した熊本県や人吉市・相良村に対して建設を推進していた最大の水没予定地である[[五木村]]が猛反発、これに川辺川合流点より下流の[[球磨村]]や[[八代市]]が加わり、球磨川上流域と下流域で新たな対立をひき起こしている。このほか[[佐賀県]]の[[城原川ダム]](城原川)では[[神埼市]]など流域内の住民が賛成派と反対派に分裂、神埼市長選挙での争点にまで発展した。これと関連してマスコミのダムに対する報道の問題点も指摘され、あらかじめ不要論に立った形での報道が正確な情報伝達を阻害し、ダム事業に対する国民の偏見を助長したという面もある。 |
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[[File:Yanba Dam site 2012.jpg|200px|thumb|1952年の計画発表から60年以上の歳月を経て本体工事に着手する[[八ッ場ダム]]建設予定地([[吾妻川]]。2012年撮影)]] |
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[[image:Managawa-947-r1.JPG|250px|thumb|[[真名川ダム]](真名川・[[福井県]])。[[福井豪雨]]では[[洪水調節]]能力を発揮し真名川流域の被害を最小限に抑制]] |
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{{ダム開発}} |
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さらに、[[地球温暖化]]の影響により例年未曾有の災害・旱魃(かんばつ)が日本を襲来している事実がダム問題をさらに複雑化している。2000年に[[東海地方]]を襲った[[東海豪雨]]、2003年に北海道・日高地方を襲った豪雨、2004年に北陸を襲った[[福井豪雨]]・[[平成16年7月新潟・福島豪雨]]、[[2005年]](平成17年)と2006年に九州南部を襲った豪雨等例年のように複数地域で大水害が発生しており、2004年度の水害による被害総額は史上最悪の約2兆850億円に上り爪痕は未だ癒えていない。特に[[洪水調節]]ダムが建設されていない河川<ref>長良川、[[足羽川]]、[[円山川]]、[[加古川]]など。</ref>に被害が集中している。 |
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[[616年]]の[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]([[西除川]])建設以来、日本におけるダム事業の歴史は1,400年の長きに及んでいる。明治時代以降日本ではコンクリートダムの建設が開始され、水道事業・電気事業の勃興と共にダム技術が発展した。[[1926年]](大正15年/昭和元年)の物部長穂による論文以降、日本では河川総合開発事業に基づく多目的ダム建設が戦前・戦後を通じ盛んに実施されて、治水や利水に貢献した。盛んにダム建設が行われたことで、日本にはダムを建設できる適地が確実に減少している。 |
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[[1960年代]]から[[1970年代]]に掛けて計画され、強い反対運動によって事業が長期化したダム事業は2000年代に入って続々完成した。主なものとして2000年に宮ヶ瀬ダム、2004年に[[苫田ダム]]([[吉井川]])、2007年に[[滝沢ダム]]([[中津川]])と日本最大の多目的ダム・[[徳山ダム]]([[揖斐川]])、2012年に[[森吉山ダム]](小又川)と[[嘉瀬川ダム]]([[嘉瀬川]])、2013年には[[胆沢ダム]]([[胆沢川]])と完成まで51年の歳月を費やした[[大滝ダム]]([[紀の川]])、[[2015年]](平成27年)には北海道最大の多目的ダム・[[大夕張ダム#夕張シューパロダム|夕張シューパロダム]]([[夕張川]])が完成し運用が開始されている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1909 『ダム便覧』苫田ダム]2015年8月28日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0395 『ダム便覧』森吉山ダム]2015年8月28日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2553 『ダム便覧』嘉瀬川ダム]2015年8月28日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=(ALL)&jy=kou 『ダム便覧』順位表(全て)堤高順]2015年8月28日閲覧</ref>。2015年以降完成が予定されているダムとしては[[1952年]](昭和27年)の計画発表以来地元の強烈な反対運動や公共事業見直しの象徴として槍玉に挙げられ事業が遅延に次ぐ遅延を重ねた'''八ッ場ダム'''が[[2019年]](平成31年)完成に向け本体工事に着手しているのを始め<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/yanba/kisya/h21/20090422.pdf 国土交通省関東地方整備局八ッ場ダム工事事務所『平成21年度事業の概要』]2015年8月28日閲覧</ref>、津軽ダム(2016年)、[[大分川ダム]]([[七瀬川 (大分県)|七瀬川]])・五ヶ山ダム([[那珂川 (九州)|那珂川]]。以上2017年)、[[二風谷ダム#平取ダム|平取ダム]]([[額平川]]。2019年)などがあるが、[[設楽ダム]]([[豊川]])など完成年代が定まっていないダム事業もある<ref name="minaoshi"/>。ダム事業再検証は続いており、[[1969年]](昭和44年)に計画が発表された[[南摩ダム]](南摩川)や大戸川・丹生ダムなどが事業検証中である<ref name="minaoshi"/>。 |
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一方[[二風谷ダム]]([[沙流川]])・[[大谷ダム (新潟県)|大谷ダム]]([[五十嵐川]])・[[真名川ダム]](真名川)・[[矢作ダム]]([[矢作川]])・大野ダム([[由良川]])・[[下筌ダム]](津江川)のように洪水調節によって被害拡大を抑制したダムが多かった。このことからダムに対する再評価も現れ始め、嘉田滋賀県知事によるダム事業凍結政策の事実上撤回<ref>ただし、本人の意見は必ずしも定まっていない。</ref>([[2007年]])や、'''[[足羽川ダム]]'''(部子川<ref>[[1983年]](昭和58年)の計画当初は[[足羽川]]に建設が予定されていたが、水没戸数が188戸と多く住民の反対運動激化により凍結していた。凍結解除後に最もコストとパフォーマンスのバランスが良い支流の部子川に建設が決まったが、ダム名はそのままである。</ref>・[[福井県]])や筒砂子ダム(筒砂子川・[[宮城県]])のように一旦凍結となったダムが建設再開するというケースも出てきている。だが、[[ただし書き操作]]による[[放流 (ダム)|放流]]の増加が目立ってきており、平成18年7月豪雨における[[川内川]]の水害と[[鶴田ダム]]の関連性が指摘されるなど、ダム単独での治水が建設当時の予測を超える水害の発生に対応できず、限界が生じてきているのも事実であり、またダムではカバー出来ない都市部における局地的[[集中豪雨]]の増加が今後の治水対策の焦眉となっている。 |
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[[画像:姿を現した旧大川村役場2005年8月20日.jpg|thumb|250px|[[早明浦ダム]]([[吉野川]])湖底より姿を見せた[[高知県]][[大川村]]役場旧庁舎([[2005年]])。この光景が見られると[[四国地方]]は深刻な[[渇水]]に悩まされる]] |
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旱魃については1994年と2005年の旱魃が特に深刻であった。1994年の場合は特に東海地方において事態が深刻だった。特に[[知多半島]]では水源の[[牧尾ダム]](王滝川)・[[阿木川ダム]](阿木川)・[[岩屋ダム]](馬瀬川)が枯渇、一般家庭では日19時間断水<ref>特に[[知多半島]]の市町村が深刻であった。</ref>、工業地帯では操業自粛・短縮といった事態となり海外から水を緊急輸入するまでに至った。この渇水で約500億円に上る被害を与え景気に影響<ref>[[トヨタ自動車]]の工場操業自粛、[[工業用水]]の緊急輸入など。</ref>を及ぼした。だがこの時完成したばかりの長良川河口堰が知多半島に緊急送水、その威力を発揮し現在では知多半島の水源の一つとなった。 |
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一般財団法人日本ダム協会調べによると2014年3月31日時点で2,659ダム事業が完成し、2014年以降に完成が予定されている96ダム事業を合わせると'''2,755のダムが日本には存在する'''<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/Syuukei.cgi?sy=sou 『ダム便覧』集計表(総括表)]2015年9月2日閲覧</ref>。完成予定96ダム事業の内訳を[[ダム#型式|型式]]別で見ると[[重力式コンクリートダム]]が67ダム、[[ロックフィルダム]]が16ダム、[[台形CSGダム]]と[[アースダム]]が各5ダムなどとなっているがその他の型式は日本では計画されていない<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/Syuukei.cgi?sy=keikisin 『ダム便覧』型式別既設新設別集計表]2015年8月28日閲覧</ref>。[[アーチ式コンクリートダム]]は2001年に完成した[[温井ダム]]([[温井ダム#滝山川|滝山川]])と奥三面ダム([[三面川]])が<ref group="注">ダム便覧集計表の2ダムは天ヶ瀬ダム再開発と中止を前提に周辺整備を実施している川辺川ダムである。</ref>、[[重力式アーチダム]]は1974年に完成した[[阿武川ダム]]([[阿武川]])が、[[中空重力式コンクリートダム]]は[[1973年]](昭和48年)に完成した[[内の倉ダム]](内の倉川)が、[[コンバインダム|複合ダム]]は2012年に完成した外山ダム(羽茂川)がそれぞれ日本最後の完成例となっている<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=GA&jy=kou 『ダム便覧』順位表(重力式アーチダム)]2015年8月28日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=HG&jy=kou 『ダム便覧』順位表(中空重力式コンクリートダム]2015年8月28日閲覧</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/TableAllItiran.cgi?zi=jyuni&kei=GF&jy=kou 『ダム便覧』順位表(複合ダム)]2015年8月28日閲覧</ref>。[[都道府県]]別で見ても[[関東地方]]や[[近畿地方]]を中心に新規のダム事業が計画されていない地域がある<ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/Syuukei.cgi?sy=kendan 『ダム便覧』都道府県別段階別集計表]2015年8月28日閲覧</ref>。また大正時代以降日本のダム事業をリードし黒部ダムや[[奥只見ダム]]([[只見川]])・[[佐久間ダム]]([[天竜川]])など多くの大規模ダムが建設された[[水力発電]]事業も、環境負荷の少ない[[マイクロ水力発電]]や[[小水力発電]]といったダムを必要としない水力発電所の建設が主流となり、ダム建設を伴う水力発電所は[[北海道電力]]が2014年に1号機の運転を開始した京極発電所の下部調整池である京極ダム(ペーペナイ川)以降新規の発電用ダム計画がない<ref>[http://j-water.org/about/index.html 全国小水力利用推進協議会『小水力発電とは』]2015年8月28日閲覧</ref><ref>[http://www.hepco.co.jp/ato_env_ene/energy/water_power/kyogoku_ps/summary.html 北海道電力『京極発電所の概要』]2015年8月28日閲覧</ref>。[[鴨川ダム]](鴨川)建設に始まる[[農林水産省直轄ダム]]事業も、2017年完成予定の市野新田ダム(石橋川)を以って新規のダム建設が終了する<ref>[http://cmed.sakura.ne.jp/sekou2012/ichinoshinden.html ダム工事総括管理技術者会『市野新田ダム』]2015年8月28日閲覧</ref>。 |
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一方2005年の場合は全国的かつ長期間の旱魃であり、特に四国地方は[[早明浦ダム]]が完全に枯渇し[[香川県]]・[[愛媛県]]・[[高知県]]が厳しい給水制限を余儀なくされたが、特に深刻だったのは徳島県であった。吉野川流域では水分配を巡り香川県と対立、細川内ダム建設を中止した那賀川流域では流域の全ダムが枯渇するという異常事態となり、[[阿南市]]等工業地帯の損害は100億円を超えるという試算が出た。徳島県では吉野川流域でも約50億円以上の被害が出ており、河川開発に関して微妙な立場に立たされている<ref>[[2007年]](平成19年)4月には県営であった[[長安口ダム]](那賀川)を[[国土交通省]]四国[[地方整備局]]の管理に移管させている。</ref>。これら水不足による給水制限は長期化・多発化している。 |
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日本のダム事業は、高さ100メートルを超えるダム計画も幾つか存在するものの、1950年代から1960年代に掛けて見られた大ダム建設の時代が再び到来することはほぼ皆無である。ただし既存のダムを強化させるダム再開発事業については日本各地で施工・計画されており、[[丸山ダム#新丸山ダム|新丸山ダム]](木曽川)や[[桂沢ダム#新桂沢ダム|新桂沢ダム]](幾春別川)など大規模な人造湖を形成する再開発事業や、天ヶ瀬ダム・鶴田ダムなど洪水吐きを新設・改良して治水能力を強化する事業、さらには大町ダム等再編事業のように大町ダムの容量変更と発電専用ダムである高瀬ダム・七倉ダムに洪水調節目的を追加して多目的ダム化する再開発事業が計画されるなど、既存ダムのリニューアルやメンテナンスを軸にした事業が増加している<ref name="omachi"/><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/Saikaihatu.cgi 『ダム便覧』再開発一覧]2015年8月28日閲覧</ref>。 |
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環境保護が最優先か、人命・財産保護が最優先か容易に結論が出せないが、求められるのは一部のダム反対論者のような観念的・独善的反対論ではなく流域の真の利益になるような事業の推進であり、その上でダムよりも有益な事業が見出されダム事業が不要ならば、建設中止も当然の選択肢となる。また、地球温暖化の影響で短期集中型の豪雨被害が頻発していることを踏まえ、根本である河川整備計画の見直しが必要であるという意見もある。しかし、最初から「ダム」という選択肢を否定することは、建設的な意見を妨げる恐れもある。いずれにしても事業者の説明責任が今まで以上に問われることは、言うまでもない。 |
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File:Tokuyama Dam under involved construction.jpg|36年の歳月を経て完成した日本最大の[[多目的ダム]]・[[徳山ダム]]([[揖斐川]])。 |
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===文化財と最新技術=== |
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File:Otaki Dam.JPG|[[伊勢湾台風]]を機に計画され、半世紀を経て2013年完成した[[大滝ダム]]([[紀の川]])。 |
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[[Image:Hounenike Dam-01.jpg|250px|thumb|国の[[重要文化財]]に指定された日本唯一の[[マルチプルアーチダム|五連式アーチダム]]・[[豊稔池ダム]](柞田川・[[香川県]])]] |
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File:Nukui-1991-r1.JPG|[[アーチ式コンクリートダム|アーチダム]]最後の完成例・[[温井ダム]]([[温井ダム#滝山川|滝山川]])。西日本最大の高さを有する。 |
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なお、この時期はダムが文化財として認知されるケースが多かったことも特徴である。水道用ダムとして'''[[本庄ダム]]'''([[二河川 (広島県)|二河川]]・[[広島県]])及び'''[[布引五本松ダム]]'''([[生田川]])が、発電用ダムとして'''[[丸沼ダム]]'''(片品川・[[群馬県]])、治水ダムとしては'''[[豊稔池ダム]]'''(柞田川・[[香川県]])が国の[[重要文化財]]に指定されたのを始め、青下第一・第二・第三ダム(青下川・[[宮城県]])、小牧ダム([[庄川]]・[[富山県]])、塚原ダム([[耳川]]・[[宮崎県]])が国の[[登録有形文化財]]となった。この他[[土木学会]]によって多くの明治・大正期建設ダムが「[[土木学会選奨土木遺産]]」に指定されている。 |
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File:Abugawa-2081-r1.JPG|[[重力式アーチダム]]最後の完成例・[[阿武川ダム]]([[阿武川]])。同型式では日本最大級の規模を有する。 |
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File:Uchinokura-762-r1.JPG|[[羽越豪雨]]を機に建設された[[中空重力式コンクリートダム|中空重力ダム]]最後の完成例・[[内の倉ダム]](内の倉川)。 |
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ダム技術も大きく進歩。従来は不可能といわれていた[[ダムと環境#堆砂|堆砂]]排出技術が実用化された。[[黒部川]]の[[出し平ダム]](関西電力)では貯水池からの排砂放流が1991年に開始され、[[宇奈月ダム]](国土交通省北陸地方整備局)完成後は[[連携排砂]]として実施されている。環境に対する影響を今後改善する事が課題とはなっているが、宿命的悩みの種であった堆砂問題の解決策が見出されたことは大きな前進である。この他[[佐久間ダム]](天竜川)や[[美和ダム]]([[三峰川]])における排砂トンネル建設等、堆砂が深刻なダムにおいて対策が現在行われている。型式においても、経済性と安定性に優れた[[台形CSGダム]]が日本によって開発され、億首ダム(億首川)で実用化が始まっている。コスト縮減が業種を問わず官民一体で叫ばれている中、注目されている工法である。 |
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==今後のダム史== |
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[[image:yanba-624-r1.jpg|250px|thumb|[[八ッ場ダム]]([[吾妻川]]・[[群馬県]])予定地。補償交渉の長期化によって50年以上工事に着手していない]] |
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今後のダム事業は、ダム建設に適する地点が減少することから大規模なダム建設に関してはその計画が経年的に減少する。また、[[公共事業]]に対する厳しい国民の目、[[環境影響評価法]]による環境対策の厳格化、財政問題などにより現在計画されているダム事業が中止することも十分考えられる。このため、今後は既存のダムを再開発して機能を増強する手法が、今まで以上に増加することが予想されている。この他治水専用で通常時は貯水しない「[[治水ダム#穴あきダム|穴あきダム]]」や「小規模生活貯水池」事業も増加してくることが考えられる。いずれにしても[[1950年代]]~[[1960年代]]のような大規模ダム建設時代が訪れることは、もうない。 |
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課題として、'''[[日本の長期化ダム事業|極めて長期化したダム事業]]'''を今後どのようにしていくかも問われていく。「利根川改訂改修計画」に基づく[[利根川水系8ダム]]計画最後のダムとなった'''[[八ッ場ダム]]'''([[吾妻川]])は本体工事に向けて周辺整備にようやく着手することができたが、計画発表された[[1952年]](昭和27年)以来、ここに漕ぎ着けるまで実に50年以上が経過<ref>[[2015年]](平成27年)完成予定で、[[2012年]](平成24年)に本体工事に着手するとしている。</ref>している。川辺川ダムについても代替地造成や仮排水路工事が進められたが、下流住民の反対表明等で本体工事が遅延。[[1967年]](昭和42年)の計画発表以来40年以上が経過<ref>この間[[農林水産省]]や[[電源開発]]が事業から撤退。現在は[[治水]]のみの目的になっている。[[熊本県]]・[[人吉市]]・[[相良村]]は反対の立場、[[五木村]]・[[八代市]]・[[球磨村]]は早期推進の立場を採っている。</ref>。設楽ダム([[豊川]])や日本初の[[台形CSGダム]]となる億首ダム(億首川)は[[1978年]](昭和53年)に発表されてから28年、[[新桂沢ダム]]<ref>現在転流工を着手中。</ref>・[[新丸山ダム]]<ref>現在[[国道418号]]や県道の付け替え工事を実施中。</ref>などに至っては完成予定の目処すら立っていない現状にある。今後は、余分な建設コストを抑えるためにも迅速な事業進捗が不可欠となるが、実際は環境・住民の理解獲得などに難渋するケースがほとんどである。毎年のように災害・旱魃が襲い来る現状では、事業者も流域自治体も住民も速やかな結論を出すことも重要であると言われているが、現状は難しい。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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<div class="references-small"><references group="注"/></div> |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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ウェブサイト・PDFについては「出典」欄を参照 |
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*[[建設省]][[河川局]]開発課『河川総合開発調査実績概要』第一巻、[[1955年]] |
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*[[アメリカ合衆国]]海外技術顧問団『日本政府公益事業委員会に対する只見川電源開発調査報告書』公益事業委員会、[[1952年]] |
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*建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第二巻、1955年 |
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*岩手の土木史研究会編『北上川の昔と今』[[建設省]]東北地方建設局岩手工事事務所、[[1995年]] |
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*建設省河川局監修『多目的ダム全集』国土開発調査会、[[1957年]] |
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*感染症事典編集委員会編『感染症事典』[[オーム社]]、[[2012年]] [[ISBN|ISBN978-4-274-21135-5]] |
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*木曽三川治水百年のあゆみ編集委員会編『木曽三川治水百年のあゆみ』建設省中部地方建設局、1995年 |
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*木曽三川流域誌編集委員会・[[社団法人]]中部建設協会編『木曽三川流域誌』建設省中部地方建設局、[[1992年]] |
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*建設省『国土総合開発特定地域の栞』、[[1951年]] |
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*建設省[[河川局]]開発課『河川総合開発調査実績概要』第一巻、[[1955年]][[3月]] |
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*建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第二巻、1955年[[11月]] |
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*建設省河川局監修『多目的ダム全集』国土開発調査会、1957年 |
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*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』[[山海堂]]、[[1963年]] |
*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』[[山海堂]]、[[1963年]] |
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*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1972年版』山海堂、[[1972年]] |
*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1972年版』山海堂、[[1972年]] |
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*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム |
*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム直轄編 1980年版』山海堂、[[1980年]] |
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*建設省河川局監修・ |
*建設省河川局監修・[[財団法人]][[ダム技術センター]]『日本の多目的ダム直轄編 1990年版』山海堂、[[1990年]] |
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*建設省河川局監修・ |
*建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター『日本の多目的ダム補助編 1990年版』山海堂、1990年 |
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*建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター『日本の多目的ダム |
*建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター『日本の多目的ダム付表編 1990年版』山海堂、1990年 |
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*建設省関東地方建設局監修・利根川百年史編纂委員会編『利根川百年史』、[[1987年]] |
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*財団法人[[日本ダム協会]]『ダム総覧 1976年版』、[[1976年]] |
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*建設省九州地方建設局筑後川工事事務所編『筑後川五十年史』、[[1976年]] |
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*財団法人日本ダム協会『ダム年鑑 1991年版』、[[1991年]] |
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*建設省治水調査会『筑後川改訂改修計画』、[[1949年]] |
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*[[電源開発]]企画部編『10年史』電源開発、[[1962年]] |
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*建設省治水調査会『利根川改訂改修計画』、1949年 |
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*30年史編集委員会編『電発30年史』電源開発、[[1984年]] |
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*建設省治水調査会『最上川改訂改修計画』、1949年 |
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*建設省治水調査会『吉野川改訂改修計画』、1949年 |
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*水資源開発公団『水資源開発公団二十年史』、[[1982年]] |
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*建設省東北地方建設局編『北上川百十年史』社団法人東北建設協会、[[1991年]] |
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*国分理編『電源只見川開発史』[[福島県]]土木部砂防電力課、[[1961年]] |
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*財団法人[[日本ダム協会]]『ダム年鑑 1960年版』、[[1960年]] |
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*財団法人日本ダム協会『ダム総覧 1976年版』、1976年 |
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*財団法人日本ダム協会『ダム年鑑 1991年版』、1991年 |
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*財団法人日本ダム協会『ダム年鑑 1996年版』、[[1996年]] |
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*財団法人日本ダム協会『ダム年鑑 1997年版』、[[1997年]] |
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*30年史編集委員会編『電発30年史』[[電源開発]]、[[1984年]] |
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*社団法人[[日本河川協会]]監修『河川便覧 2004年版』国土開発調査会、[[2004年]] |
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*[[占冠村]]役場編『占冠村史』、1963年 |
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*全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第10号、[[1954年]] |
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*全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第22号、1963年 |
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*全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第80号、[[1993年]] |
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*全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第82号、[[1994年]] |
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*高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』[[鹿島出版会]]、[[2006年]] [[ISBN|ISBN4-306-09381-6]] |
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*高橋祥起『公共事業と住民投票』社団法人日本土木工業協会『建設業界』2000年10月号 |
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*「千曲川電力所の歩み」編纂委員会編『千曲川電力所の歩み』[[東京電力]]千曲川電力所、[[2001年]] |
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*[[中部電力]]『飛騨川 流域の文化と電力』、[[1979年]] |
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*[[徳田球一]]『利根川水系の綜合改革 社会主義建設の礎石』[[日本共産党]]出版局、1949年9月 |
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*[[沼田市]]編『沼田市史』通史編3近代現代編、2002年3月 |
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*平沢富蔵編『日本大堰堤台帳』世界動力会議大堰堤国際委員会日本国内委員会、[[1936年]] |
*平沢富蔵編『日本大堰堤台帳』世界動力会議大堰堤国際委員会日本国内委員会、[[1936年]] |
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* |
*別冊歴史読本『戦国の魁 早雲と北条一族』[[新人物往来社]]、[[2005年]] [[ISBN|ISBN4-404-03316-8]] |
||
*[[北海道開発局]]監修『石狩川 その治水と利水』国土開発調査会、[[1987年]] |
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*[[国土交通省]]河川局ウェブサイト |
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*「北海道のダム」編集委員会編『北海道のダム 1986』北海道広域利水調査会、[[1986年]] |
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*財団法人日本ダム協会『ダム便覧』 |
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*水資源開発公団『水資源開発公団二十年史』、[[1982年]] |
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*水資源開発公団『水資源開発公団30年史』財団法人水資源協会、1992年 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2015年9月26日 (土) 10:37時点における版
日本のダムの歴史では、日本におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する。日本のダム事業史は616年頃に建設された狭山池[1]より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。
凡例
本記事では、1964年(昭和39年)改訂の河川法・1976年(昭和51年)施行の河川管理施設等構造令に準拠して高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の高さを有する河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「堰」と表記する。また記事中における人物の肩書き、地域・自治体・組織・施設名は当時の名称を用い、「現在」という表記は2015年(平成27年)を基準とする。全体を通した年表については日本ダム史年表を参照。
古代から中世
日本におけるダム建設が何時頃から開始されたのかは、明確な資料がないために不明である。中国大陸より弥生時代に稲作が伝来し、水田や畑地に用水を供給するための灌漑技術が次第に浸透したが具体的に灌漑用のため池に関する記述が登場するのは『古事記』と『日本書紀』であり、特に5世紀に入ると渡来人であった倭漢氏が土木技術において先進的な技能を有していたと記されている。仁徳天皇の時代に茨田(まんだ)堤や横野堤といった堤防が建設されたという伝承があり、渡来人または仏教を伝来した僧侶が中国大陸の最新土木技術を日本に伝え、次第にため池やダム建設技術が向上していったと考えられている[2]。「日本最古のため池」とされている奈良県奈良市に建設された蛙股池(かえるまたいけ)は162年に建設されたという説と607年推古天皇の治世下で建設されたという説があり、決着を見ていない[3][4]。こうした古代におけるため池建設において、21世紀の今に残る河川法上のダムとして大阪府の狭山池(西除川)と香川県の満濃池(金倉川)がある。
狭山池の建設
狭山池は『日本書紀』の中で崇神天皇が詔を発して狭山池を建設した、また『古事記』で垂仁天皇が印色入日子命に命じて狭山池を建設させたという記事があったが[5]、明確な建設時期は長らく不明であった。建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「平成の大改修」と呼ばれる狭山池ダム再開発事業が1980年(昭和55年)から2001年(平成13年)に掛けて施工された時であった。この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、洪水調節目的を持たせるというものであったがこの事業において発掘された木製の樋管を年輪年代測定法で測定した結果、616年に伐採された木材であったことが判明。『古事記』・『日本書紀』の伝承は否定され少なくとも7世紀前半に建設されたという結論を得た[6]。完成した狭山池は645年の大化の改新により公地公民制を打ち出した大和朝廷によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。732年(天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に東大寺大仏の建立にも関わり、聖武天皇の信頼を得て大僧正にまで上り詰めた行基である[5][7]。しかし762年(天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3,000人を動員して修復が行われた[5]。その後狭山池は幾つかの記録に残され、清少納言は『枕草子』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している[5]。
鎌倉時代に入ると狭山池は1202年(建仁2年)に大改修が実施されるが、この総指揮を執ったのは平重衡による焼き打ちに遭った東大寺の再建に尽力した重源である[5][7]。以後安土桃山時代まで狭山池に関する記録はなくなるが、江戸時代に入り再び大改修(慶長の大改修)が行われた。関ヶ原の戦いで天下人の後継者から摂津国・河内国・和泉国68万石の大名に転落した豊臣秀頼の家老・片桐且元が奉行となって堰堤基礎の補強や樋管の交換がなされている[5][7]。豊臣氏が大坂夏の陣で滅亡した後狭山池は河内狭山藩主となった後北条氏が一旦支配するが、1699年(元禄12年)から1721年(享保6年)、および1749年(寛延2年)に江戸幕府の天領となり再び国直轄ダムとなった。明治以降は1904年(明治37年)、1926年(大正15年/昭和元年)にそれぞれ改修され、2001年平成の大改修を経て現在に至る[5]。狭山池は完成から1,400年以上経過しているが現役で運用されている日本最古のダムである。
満濃池の建設
満濃池は大宝年間(701年-704年)に讃岐国国司道守朝臣によって建設されたという記録(満濃池後碑文)が残っているが[8]、818年(弘仁9年)に洪水が原因で決壊した。当時の天皇である嵯峨天皇は821年(弘仁12年)路真人浜継(みちのまひとはまつぐ)を築池使に任じて満濃池の修築を命じたが、浜継は修築に失敗した。事態を重くみた嵯峨天皇は信任する空海(弘法大師)を築池別当として再度讃岐へ派遣した。空海は着任後約2-3カ月という短期間で修築を完成させた。この大改修によって再建された満濃池は周囲約8.25キロメートル、湛水面積約81ヘクタールという大規模な人造湖だった。しかし30年後の851年(仁寿元年)再び洪水によって決壊、国司であった弘宗王が853年(仁寿3年)に再建を果たしたものの、1184年(元暦元年)5月1日に三度洪水で決壊した。これ以降満濃池は狭山池とは異なり、鎌倉時代の守護、室町時代の守護大名細川氏、戦国時代に讃岐を支配した三好氏や長宗我部氏の何れも再建を手掛けず放棄した。池の跡地には次第に人が住むようになり、「池内村」という村落が形成された[9][10]。
満濃池が再建されるのは実に江戸時代のことである。讃岐は豊臣秀吉の天下統一以降生駒氏が讃岐一国を領有していたが、1631年(寛永8年)に高松藩17万石の第4代藩主である生駒高俊の代に至り満濃池は450年の時を経て再建された。しかし実際の指揮を執ったのは藩主である高俊ではなく、幕府の信任が厚く外祖父として高俊を後見していた伊勢国津藩主・藤堂高虎であった。高虎自身築城の名手として土木技術に精通していたが、彼は1621年(元和7年)家臣である西嶋八兵衛之友を高松へ派遣させた。当時若干26歳という若武者だった八兵衛だが、土木技術に秀でその才能は他藩にも聞こえていた。高松藩客臣として着任した八兵衛は相次ぐ災害で荒廃した領内を視察し、高虎の助言や藩重臣の協力を得て藩内の河川整備を開始する。手掛けた事業は多岐にわたるが特に大規模だったのが香東川の改修と満濃池の再建であり、1628年(寛永5年)に着手した満濃池再建は3年という短期間で完成した。これにより33郡44村の農地が再び水の恩恵を受けることになった。八兵衛は満濃池のほか90か所におよぶため池も改修したが、灌漑だけでなく治水にも役立てる改修を行っており昭和以降の河川事業の基本となる河川総合開発事業の先駆をなすものであった[10][11]。八兵衛は1639年(寛永16年)に役目を果たし帰藩、以後伊賀奉行などの藩要職を歴任したが高松藩生駒氏は藩重臣の内部抗争に端を発する生駒騒動が翌1640年(寛永17年)に勃発し、その責めを負い改易された。讃岐は高松藩・丸亀藩・多度津藩に三分割され、高松藩内にある満濃池は藩の支配から離れて狭山池と同様に天領として幕府の直轄管理下に置かれた[9]。
その後も改修が行われるが1854年(安政元年)7月9日に安政の大地震が発生してダム底を通る石造の樋管が破損したことが原因でダムが決壊。時期が幕末の動乱期に当たっており早急に再建できる状況下ではなかった。これを憂慮した榎井村庄屋・長谷川喜平治は私財を費やし再建に奔走したが事ならず無念の死を遂げた。高松藩家老松崎渋右衛門佐敏は榎井村の長谷川佐太郎や金剛寺村の和泉虎太郎と共に喜平治の志を継ぎ満濃池再建を目指したが、尊王攘夷派だった渋右衛門は志半ばで政敵の高松藩佐幕派に暗殺された。中心人物2名が相次いで非業の死を遂げたものの明治維新後に渋右衛門の遺志を受け継いだ倉敷県参事島田泰雄が佐太郎らへの支援を継続、1870年(明治3年)にようやく再建された。満濃池はこの時点で貯水容量が584万6,000立方メートルという日本最大のダムであったが、1906年(明治39年)、1930年(昭和5年)の2度にわたるかさ上げを経て規模を拡張。1941年(昭和16年)には現行規模に拡張する第3次かさ上げに着手、太平洋戦争による中断を挟みながら工事は続けられ1950年(昭和25年)には昭和天皇が工事を視察するなど注目された大事業は1961年(昭和36年)完成した[9][12]。満濃池は日本最大級のため池として慢性的な水不足に悩む讃岐平野を潤している。
昆陽池と大門池
上記2ダム以外で古代から中世の日本ダム事業史において特筆されるものに、摂津国の昆陽池(こやいけ)と大和国の大門池がある。
昆陽池は兵庫県伊丹市にあるため池であるが、このため池は狭山池や満濃池とは異なる目的を持っていた。昆陽池は武庫川支流の天神川に隣接して建設されたが、この土地は西に武庫川、東に猪名川が流れ箕面川が合流する地点であり洪水常襲地帯であった。昆陽池は行基によって建設が進められたが、この地の灌漑に加えて洪水調節による治水を昆陽池の目的に据えて731年(天平3年)に完成させた。昆陽池は治水ダムとしても多目的ダムとしても記録に残る日本最初の堰堤であり、流域の治水・利水に貢献した。昆陽池は1,300年近く経た現在、治水機能は無くなったものの上水道専用貯水池および公園として伊丹市が管理しており、阪神・淡路大震災では活断層上にあって強い揺れを受けたにも関わらず現役で運用されている[14]。
一方大門池は奈良県生駒郡三郷町、信貴山の麓を流れる大和川水系大門川に1128年(大治3年)建設された灌漑専用のため池であるが、特筆されるのは完成時の高さが32.0メートルという屈指の規模で、これは紀元前240年頃趙によって建設され当時高さ世界一であったグコーダム(北宋)の記録(30.0メートル)を破り世界最高の高さに躍り出た。この記録はその後14世紀末にスペインのアルマンサダムによって破られるまで約300年間にわたり続いた[15][16]。完成以来約900年間流域の農地を潤していたが、大門川の治水を目的に2012年(平成24年)完成した大門ダムによって水没した[17]。
中世・近世
鎌倉時代、続く室町時代は重源の狭山池改修以外に取り立ててダムを含む土木技術に関して特段の進歩はなかった。応仁の乱や明応の政変、関東地方における享徳の乱を契機に日本は室町幕府の統制力が衰微し、群雄割拠の時代に突入する。戦国時代・安土桃山時代を通じて治水・灌漑整備が進み、停滞していた土木技術の発展に寄与した。富士川(釜無川)における信玄堤築造や御勅使川治水事業のほか加藤清正・成富茂安・川村重吉などの土木技術に精通した戦国武将が登場し、彼らによって培われた技術はやがて江戸時代の大規模河川事業へと発展して行く。
軍事目的の堰堤
麻のように乱れた日本の平定に動いた武将として織田信長がいるが、信長は本能寺の変で明智光秀に殺害された。信長の遺志を継ぎ天下統一に乗り出し、1590年(天正18年)に統一を果たしたのが豊臣秀吉である。秀吉の合戦は三木城や鳥取城における兵糧攻めが知られているが、兵糧攻めと共に用いた攻城方法として水攻めがあった。この水攻めにおいて軍事目的に特化した堰堤を建設している。1582年(天正10年)、中国地方の大大名である毛利輝元の部将・清水宗治が籠る備中国高松城を攻撃するに当たり、高松城が周囲を湿地帯に囲まれた要害であることを知った秀吉は付近を流れる足守川を利用した水攻めを企図した。黒田孝高(官兵衛)の献策とされるこの高松城水攻めは高さ7.0メートル、堤頂長約3,000メートル、堤体下部幅約16.7メートルという堰堤を高松城周囲に短期間に建設し、足守川の水を引き入れることで低湿地にある高松城を浸水させるというものであった。水攻め中に本能寺の変が発生し秀吉は毛利氏と和睦、宗治は自刃して戦いは終結する[18]。光秀を討ち織田氏家中の第一人者として天下取りに邁進する秀吉は柴田勝家ら敵対勢力を滅ぼして行くが、徳川家康と結んで反抗的な姿勢を見せる根来寺や鈴木重意ら雑賀衆などを討つべく1585年(天正13年)に紀州征伐を催した。この戦いにおいて紀伊国の国人衆・太田党が籠る太田城を攻撃(太田城水攻め)する際にも秀吉は水攻めを用いた。水攻めで建設された堰堤の規模については諸説あるが、和歌山大学が土木工学の立場から各種史料を検討した調査によれば導水堤と囲い堤からなる長大な堰堤は高さ6.0メートル、堤体下部幅約30.0メートルの規模と推定され、紀の川や支流宮井川の河水を導水することで総貯水容量は両堤併せると同じ和歌山県にある山田ダム(野田原川)を上回る389万4,000立方メートルになるとした。3月28日より開始された建設作業は4月5日にほぼ完了、途中堰堤が決壊するものの4月22日に太田城は開城した[19][20]。
紀州征伐、四国征伐、徳川家康との講和、九州征伐を経て残された敵対勢力は関東を支配する北条氏政・氏直父子となり、1590年に秀吉は小田原征伐の号令を発した。この戦いにおいても秀吉は水攻めを用いている。武蔵国忍城(おしじょう)は後北条氏に従属する成田氏長の居城であったが、難攻不落の城であった。秀吉は石田三成に忍城を水攻めにするよう命じる(忍城の戦い)。三成は大谷吉継・長束正家などと共に軍勢を率いて忍城を包囲、6月5日より地形を検分した上で利根川・荒川が形成した自然堤防を利用した全長約28キロメートルの堰堤(石田堤)を約1週間で建設し、利根川・荒川の河水を導水して忍城を水没・開城させる方針を採った。忍城では城主氏長が小田原城に籠城していたため氏長夫人や娘の甲斐姫、城代成田長親以下3,000の兵が防戦していたが標高の高い忍城は水攻めを受けても浸水せず、堤防の決壊で却って包囲する豊臣軍に損害が出るなど水攻めは失敗した。忍城は関東の北条方諸城が続々陥落する中で攻撃を凌ぎ、最終的には後北条氏の本拠・小田原城が7月6日に開城した後、氏長の説得によって7月16日に忍城は開城して戦いは終了した[21][22]。小説・映画『のぼうの城』で知られる忍城の戦いは水攻めの失敗例であるが、備中高松城・紀伊太田城に見られる水攻めは土木技術に通じた秀吉ならではの戦いであり、治水・利水には全く関係ない軍事目的のものとはいえ貯水池を形成する堰堤を短期間で建設したことは特筆される。
なお、小田原征伐で滅亡した後北条氏の城郭群には、障子堀と呼ばれる独特の築城形態があった。1973年(昭和48年)山中城復元整備中に発掘された障子堀は堀の底部に規則的な間隔で並べられた畝が存在するもので、江戸時代に刊行された山鹿流軍学書である『武教全書』によれば侵攻してきた軍勢の行動を阻害する本来の防衛目的に加え、平時には堀の水流調節や貯水を行うダム機能があったと解説されている[23]。何れにしても、軍事目的で堰堤が建設されたのは安土桃山時代に集中しており、特異である。
江戸時代の水利
後北条氏滅亡後、旧領に封じられたのは徳川家康であった。家康は関東入国後一族や有力家臣を各地に配置すると同時に利根川・荒川の治水、灌漑整備に力を注いだ。関ヶ原の戦いで石田三成らを破り、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に叙されて江戸幕府を開くと、関東における治水・利水事業をさらに加速させるがこの一連の事業に中心的な役割を果たしたのが、伊奈忠次を祖とする関東郡代伊奈氏であった。備前渠用水や葛西用水路など21世紀の今でも供用されている用水路の整備を手掛けた伊奈氏であるが、ダムや堰についても手掛けている。利根川中流域では埼玉県さいたま市・川口市付近に存在していた自然の湖沼である見沼を寛永年間(1624年-1643年)に関東郡代伊奈忠治(忠次の次男)が八丁堤という堰堤を建設して貯水量を増加させ、見沼溜井を完成させた。溜井とは河川を利用した貯水施設のことであるが、こうした溜井は葛西用水路でも建設され、大落古利根川の松伏溜井や琵琶溜井、元荒川の瓦曾根溜井などの溜井が建設され流域の農地に用水が供給された[24]。また小貝川では「関東三大堰」と称される堰が建設されたが、1634年(寛永11年)に完成した岡堰、1669年(寛文9年)に完成した豊田堰、1722年(享保7年)に完成した福岡堰は何れも溜井と同様に河道に貯水を行う形で建設された堰であった[25]。見沼溜井は供給量の限界に伴い8代将軍・徳川吉宗の命により勘定吟味役である井沢弥惣兵衛為永が1728年(享保13年)6月に見沼代用水を建設し、見沼は干拓された[26]がそれ以外については新田開発に寄与している。
一方、幕府が開かれて以降江戸の町は急速に人口が増加し、当時のロンドンやパリよりも多い100万人の人口を抱えるようになり上水道の供給も大きな課題となっていた。1590年、家康は大久保長安に命じて小石川上水を建設。1629年(寛永9年)頃には井の頭池や善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水が、そして1653年(承応2年)には多摩川を取水元とする玉川上水が完成して江戸の水需要を賄った。こうした用水路に加え、現在の東京都千代田区永田町から港区赤坂付近には赤坂溜池というため池と虎ノ門堰堤という上水道専用堰堤があった。この地には元々濠があったが、堰堤を建設することで濠をせき止め貯水量を増加させて上水道を供給した。歌川広重の『名所江戸百景』に「虎ノ門外あふひ坂」図があるが絵の右側に水が越流する堰堤が描かれており、竹村公太郎はこの絵から堰堤の規模は高さ4.0メートル程度の石積み堰堤ではないかと推定している。虎ノ門堰堤・赤坂溜池は明治時代以降に消滅し現存しないが、溜池山王の地名にその名を残している[27][28]。
関東以外でも農業用のため池が日本各地で建設されているが、代表的なものに愛知県の入鹿池(五条川)がある。当時の尾張国は家康の四男・松平忠吉が清洲城に封じられたが病死、その後九男・徳川義直が名古屋城を本拠として62万石を領有した。徳川御三家の一つである尾張藩であるが他藩と同様に新田開発を積極的に実施していた。既に伊奈忠次の指導監督下で尾張藩直轄事業として宮田用水が完成していたが、なおも残る小牧周辺の農地灌漑を図るため、地元の郷士である江崎善左衛門ら入鹿六人衆は新田1,000町歩開発を目的に大規模なため池建設を計画した。調査の結果、入鹿村地点に有力なダムサイトがあることが判明し当地に満濃池に匹敵する巨大なため池を建設することにした。善左衛門ら6名は尾張藩庁に建設許可申請を行うが、これに対し尾張藩は藩主・義直が鷹狩りと称して自ら現地に赴き実地検分を行い、藩として強力に事業を推進する決定を下した。入鹿池の建設工事は技術的な問題があって難航するが、河内より招聘した河内屋甚九郎という堤防建設の名手の指導で建設が進み、1633年(寛永10年)に完成した。完成当時の高さは26メートル、長さは約180メートルという大規模なダムであり、完成によって小牧周辺の新田開発が進んだ[29]。入鹿池は1868年(慶応4年)5月14日に入鹿切れというダム決壊事故を起こし、死者941名、負傷者1,471名、流失家屋807戸を出してダム事故としては日本最悪規模の大惨事となった[30]が再建。1991年(平成3年)には従来の灌漑目的に加え洪水調節目的を付加するダム再開発事業を実施し、満濃池と並ぶ日本最大級のため池となった[31]。
以上のように、古代から江戸時代までに建設されたダムは基本的に灌漑目的専用であり、ダムの型式もアースダムに限定されていた。コンクリートダムの登場は明治時代を待たねばならなかった。
明治
1853年(嘉永6年)6月3日、浦賀沖にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航した。翌1854年(嘉永7年/安政元年)に日米和親条約が締結されて国是であった鎖国政策が崩壊。1858年(安政5年)に日米通商航海条約が締結されるにおよび日本国内は尊王攘夷運動の嵐が吹き荒れ、江戸幕府の権威は急速に低下。1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いより始まる戊辰戦争という内乱を経て、日本は明治維新を迎えた。開国に伴い欧米の様々な最新知識が日本に導入されたが、ダムなどの土木技術のみならず後年ダムの建設目的となる電力・水道などの知識が導入され、「文明開化」の下次第に日本に普及していった。明治時代は、日本のダム事業史にとっても大きな転換期であった。
近代水道とダム
日米和親条約により下田と箱館、日米通商航海条約により箱館・横浜・新潟・兵庫(神戸)・長崎が開港した。その後も開港する都市は増え続け、貿易や人口の増加もこれに比例して増加していく。ところが人的交流の拡大は感染症伝播の危険性を高め、殊に上水道の衛生整備が不十分だった日本では水系感染症であるコレラや赤痢が流行した。特にコレラは無治療時の死亡率が60パーセントと高く[32]、江戸市中や神戸などで多数の死者を出し「コロリ」と呼ばれて恐れられた。こうした水系感染症を防止するための衛生的観点と、度々都市を襲った火災による延焼被害を未然に防ぐための防災的観点から、近代水道整備の重要性が叫ばれた。1887年(明治20年)横浜市において実施された相模川を水源とする水道事業が日本最初の水道事業であるが、1890年(明治23年)には日本初の水道関連法規である水道条例が施行され、水道事業は原則市町村が所管することが定められ、以後相次いで水道事業が各都市で開始された[33][34]。水道を安定的に供給するための水源が求められ、ダムによる水道用貯水池が建設されるようになった。
水道用ダム建設を日本で最初に手掛けたのは長崎市である。1889年(明治22年)の市制施行と同時に本格的な水道施設建設に着手した長崎市は、市内を流れる中島川水系に水源を求めた。1891年(明治24年)、中島川上流部にアースダムである本河内高部ダムを完成させたがこのダムが日本最初の上水道専用ダムである。本河内高部ダム完成により浄水場も整備され同年5月16日に市内へ給水が開始された。長崎市は水道事業の拡大を続け、1903年(明治36年)には本河内高部ダムの直下に本河内低部ダム(中島川)を、翌1904年(明治37年)には西山ダム(西山川)を建設して増大する水道需要に対処した[35]。また1890年にコレラが大流行して1,000人を超える死者を出した神戸市では1892年(明治25年)より上水道事業に着手したが、市内を流れる生田川と新湊川に水源を求めた。1897年(明治30年)神戸市はイギリス人写真家でありながら帝国大学工科大学教授・内務省衛生局顧問技師の職に在ったウィリアム・K・バートン(バルトン)と日本人技師佐野藤次郎らの指導下、生田川上流部に布引五本松ダムの建設を開始。1900年(明治33年)完成させて市内に給水を開始した。布引五本松ダムは高さ33.0メートルの重力式コンクリートダムであり、ここに初めて日本においてコンクリートダムが建設された。また布引五本松ダム完成後の1901年(明治34年)には新湊川の支流である石井川に立ヶ畑ダムの建設が開始され、1905年(明治38年)に完成した。立ヶ畑ダムも重力式コンクリートダムであるが、曲線を描いた堤体である[36][37][38][39]。長崎市・神戸市の例を見る通り、水道事業の進展はそれまでアースダムしか建設されなかった日本においてコンクリートダムの建設技術が導入された画期的な出来事であり、布引五本松、本河内低部、西山、立ヶ畑の順に続々と完成している。
市営水道のほか、大日本帝国海軍も軍港の整備に伴って需要が高まった上水道を整備した。このうち青森県糠部郡大湊村(むつ市)に設置された海軍大湊要港部は軍港に水道を供給するため、付近を流れる宇田川に水道用の堰堤を建設した。大湊第一水源地堰堤である。1909年(明治42年)に完成したこの堰堤は、高さ7.0メートル、総貯水容量5,000立方メートルと極めて小規模な堰堤であるが、日本で最初に完成したアーチ式堰堤である。設計者は当時海軍横須賀鎮守府建築科長・海軍技師の職に在った桜井小太郎であり、後に旧丸の内ビルの設計も手掛けている[40][41]。また、舞鶴鎮守府では高さ12.4メートルの桂貯水池堰堤を1901年に完成させ、給水を開始した。桂貯水池堰堤は1921年(大正10年)に完成した岸谷貯水池堰堤と共に21世紀の今も舞鶴市の水道水源地として利用されており、布引五本松ダムや大湊第一水源地堰堤共々国の重要文化財に指定されている[42][40]。
最新技術の紹介
このように、水道事業の発展に連動するように日本のダム技術も急速に発展したが、これに先立つこと1882年(明治15年)欧米のダム技術を日本に紹介した人物がいる。戊辰戦争の最終戦である箱館戦争を榎本武揚や土方歳三らと戦い抜いた旧幕臣・大鳥圭介である。当時工部省工部技監の職に在った大鳥はアメリカ・オハイオ州スプリングフィールドで刊行された "Construction of Mill Dams" というダム関連の専門書を何らかの方法で入手し翻訳、4月に丸善より『堰堤築法新按』として出版した。内容はアメリカのダム建設工程を挿絵などを用いて初心者にも分かり易くかつ詳細に記し、建設図面も原本で掲載した本格的な土木工学専門書である。この本を出版するに当たり、勝海舟と伊藤博文が推薦文を載せている[43]。こうした国外最新技術の紹介のほか、バートンを始めファン・ドールン、ローウェンホルスト・ムルデルなど当時多数来日した「お雇い外国人」達が日本人に土木技術を伝え、ダムのみならず日本の河川改修に多大な影響を与えた。また当時完成した水道用ダムのほとんどは21世紀の今も現役で供用されており、本河内高部ダム・低部ダムは1982年(昭和57年)の昭和57年7月豪雨(長崎大水害)、布引五本松ダム・立ヶ畑ダムは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災という激烈な自然災害を経験しても致命的な損害を受けなかった[44][45][注 1]ことは、建設技術の高さを示している。また明治時代の経験が、大正時代の本格的なダム建設ブームに繋がってゆく。
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日本で2番目に完成した重力式コンクリートダム、本河内低部ダム(中島川)。
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日本で3番目に完成した重力式コンクリートダム、西山ダム(西山川)旧堤体[注 3]。
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日本初のダム専門書を翻訳・出版した大鳥圭介。
大正
布引五本松ダム(生田川)に始まるコンクリートダムの建設は、日本人にダム建設の技術革新をもたらしこれ以降事業者はコンクリートダムを日本各地で計画するようになる。一方、殖産興業政策が軌道に乗った日本は国力を次第に高めて行った。日清戦争(1894年-1895年)や日露戦争(1905年-1906年)を通じ日本では重工業が発展するが、重工業の発展は水道需要のみならず電力需要の増大をもたらした。これらを背景に日本では電力会社が次々と各地で誕生し電気事業が活発に行われ、1911年(明治44年)には電気事業法が成立した。大正時代のダム事業はこの電気事業を抜きには語ることができない。電気事業の発展は、日本のダム技術を大きく花開かせる契機になった。
電気事業とダム
日本の電気事業は1886年(明治19年)7月の東京電燈設立を最初とし、1887年(明治20年)には日本橋周辺に電力供給を開始している[46]。水力発電事業は1888年(明治21年)宮城県において紡績工場に電力を供給するための三居沢発電所運転開始が日本初であり、翌1890年(明治23年)には足尾銅山の精錬事業に電力を供給する間藤原動所が運転を開始する。しかし前二者は自家用であり商業用としては1892年(明治24年)に田辺朔郎が琵琶湖疏水を利用して建設した京都府の蹴上発電所が第一号であり、京都市に路面電車を走らせた。それまでの水力発電は概ね小規模に留まり、ごく簡単な取水用固定堰で事足りていた。日清・日露戦争を経て重工業の発展や一般家庭への電力供給といった電力需要の急増はより大容量での水力発電が必要となり、発電所から都市へ送電するための長距離高圧送電技術と並行して調整池を有する規模の大きなダム、特に重力式コンクリートダムを建設するようになった[47]。
その端緒となったのが栃木県に1912年(大正元年)完成した高さ28.7メートルの黒部ダム(鬼怒川)である。鬼怒川水力電気が首都圏方面への送電を目的に建設したこのダムは日本で5番目に建設された重力式コンクリートダムであるだけでなく、日本初となる発電用コンクリートダムであった[48]。続いて東京電燈は1907年(明治40年)に運転開始した駒橋発電所に続く発電所として下流に八ッ沢発電所を計画、その調整池として上野原を流れる相模川支流の谷田川に大野ダムを建設した。大野ダムは高さ37.3メートルのアースダムであるが、1914年(大正3年)の完成時日本一の高さを有した[49]。北海道では王子製紙が苫小牧工場の電力需要を満たすため、不凍湖であった支笏湖の莫大な水量を利用すべく藤原銀次郎が中心となって支笏湖と流出する河川である千歳川の開発を計画。1904年(明治37年)に千歳第一発電所を建設した。取水堰堤として建設された千歳第一堰堤はコンクリート堰堤としては北海道初であったが、王子製紙は千歳川流域の電力開発をさらに推進。1918年(大正7年)に千歳第三ダムを完成させた。千歳第三ダムは高さ23.6メートルの重力式コンクリートダムで、北海道で初めて建設されたコンクリートダムとなった[50]。北陸地方では新潟電力が新潟県の加治川に当時重力ダムとしては高さ日本一の飯豊川第一ダムを1915年(大正4年)に建設[51][52]。近畿地方では宇治川電気が淀川本流、通称宇治川に高さ29メートルの大峯ダムを1924年(大正13年)に完成させ[53][注 4]、中国地方では山陽中央電気が広島県に帝釈川ダム(帝釈川)を1924年完成させた。帝釈川ダムは名勝・帝釈峡に建設され、中国地方で最初のコンクリートダムとなったが完成時の高さ56.4メートルは、当時日本一の高さであった[54][55]。
このように日本各地で盛んに建設された発電用コンクリートダムの中で、日本のダム事業史に特筆されるものとして岐阜県の大井ダム(木曽川)がある。日本有数の大河川である木曽川の本流にダムを建設するこの事業は、福沢諭吉の養子で大同電力社長職に在った福沢桃介により手掛けられた。1921年(大正10年)7月より着工された建設事業は木曽川本流の膨大な洪水などに阻まれ難航、さらに1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で資金調達が滞り事業継続が危ぶまれるなど度重なる困難に直面した。桃介は渡米して大同電力の社債を売り出すことで資金を調達、また女優・マダム貞奴の援助などを得て事業を進めた。アメリカから4名の土木技術者を招聘して工事を進め、半川締切方式の採用、ボーリング調査の導入など日本初の手法を用いて難工事に対処、総事業費1,952万円(当時)の巨費と従事者数延べ146万人という莫大な投資を行い31名の殉職者を出して1924年完成した。高さ53.4メートル、総貯水容量2,940万立方メートルは完成当時日本最大級のダムであり、ダムに付設された大井発電所(出力4万2,900キロワット)は当時愛知県全県の電力需要の半分を賄える電力量に相当した[56][57][58]。さらにダムにより恵那峡という新たな観光地も誕生する。桃介は大井ダム完成後、大井ダム上流の木曽川本流に落合ダムを1926年(大正15年)11月に完成させ、木曽川水系の電力開発に道筋を付けた[59]。大井ダムを始めとする発電用ダムの完成により、大都市への長距離送電技術の向上と相まって東京・大阪などへの本格的な電力供給が可能になった。
水道専用ダムも明治に引き続きコンクリートダムの建設が続けられ、まず1918年に大日本帝国海軍は呉海軍工廠への水道供給を目的として本庄ダム(二河川)を建設、完成当時は東洋一と称された[60]。続いて神戸市は1919年(大正8年)千苅ダム(羽束川)を完成させ[61]、福岡市は1923年曲渕ダム(室見川)を完成させた[62]。長崎市は1926年3月に小ヶ倉ダム(鹿尾川)を完成させたが、小ヶ倉ダムは完成当時日本最大の高さを有する水道専用ダムとなった[63][64][注 5]。また工業用水道専用ダムとして、官営八幡製鐵所(新日鐵住金八幡製鐵所)が1919年より施工を開始し1927年(昭和2年)に完成させた河内ダム(河内貯水池)は建設当初東洋一であった[65]。
このように大正時代はコンクリートダムの建設が積極的に進められ、ダムの高さに関しては次々に日本一の記録が破られた。ダム建設技術はさらに向上して昭和にはより大規模なダム建設が進められて行く。
稀少なダム型式
大正時代のダム事業の特徴として挙げられるものの一つに、日本では稀少な型式を採用したダムの建設がある。その稀少なダム型式とはバットレスダムとマルチプルアーチダムである。
バットレスダムとは貯水池から掛かる水圧を鉄筋コンクリートの遮水壁で受け、その遮水壁を複数のバットレス(扶壁)と横桁によって支えることでダムの安定性を保つ型式のダムであり、扶壁ダムとも呼ばれる。日本初のバットレスダムは函館市の笹流(ささながれ)川に1923年完成した笹流ダムである。函館市は横浜市に次いで日本で2番目に上水道事業を行った都市であるが、元々大きな河川が無い上に人口が急速に増加したことで深刻な水不足に悩まされており、大正時代に入ると連日6時間から12時間断水が行われる有様であった。1916年(大正5年)議会はより確実な上水道供給を図るため第二次水道拡張事業を決定し、その根幹事業として亀田川の支流である笹流川にダムを建設する計画を立てた。1921年に着工した笹流ダムであるが、設計を担当したのは函館出身の建築家である小野基樹であった。小野は当時極めて高価な資材であったコンクリートを節減するため、バットレスダムを笹流ダムの型式として採用した。後に小野は1924年の土木学会誌において「従来のダム建設は膨大な資材と日数を費やす極めて不経済な方法を採っている。バットレスダムは安全堅固で、構成する資材を減らすことで工事費や工期を最小限にできる優越な工法」と主張している。函館の大火に起因するセメント工場の操業停止による工事中断や、関東大震災による資材の到着遅延など工事は困難を極めたが1923年に完成した。以降コンクリートの凍害などに対応するため1949年(昭和24年)と1984年(昭和59年)の二度修理が行われた。このうち1984年の修理ではバットレス間をコンクリートで埋めて重力式コンクリートダムにする計画案もあったが、歴史的に貴重なダムを改変することを回避。繁雑ではあるがバットレスダムのまま修理を実施した。なお小野は後年東京市水道局長として小河内ダム(多摩川)の建設事業に携わった[66][67][68]。
バットレスダムはその後1927年岡山県に恩原ダム(恩原川)、1929年(昭和4年)富山県に真川調整池(牛首谷川)と真立ダム(マッタテ川)、1931年(昭和6年)群馬県に丸沼ダム(大滝川)そして1936年(昭和11年)鳥取県に三滝ダム(三滝川)が建設された。しかしバットレスダムはコンクリートの量こそ節減可能であるが、構造が複雑であるため型枠を造るための人件費が高騰する上、薄い部材は気象の影響を受け易いことから完成後のメンテナンスも頻繁に実施しなければならないというデメリットがあった。しかも当時は高価だったコンクリートが次第に廉価になるに従い、相対的に不経済になることから三滝ダムを最後に日本では全く建設されなくなった[69]。また上記のダムのほかに新潟県に高野山ダム、長野県に小諸発電所第一調整池というバットレスダムも存在していたが、高野山ダムは1971年(昭和46年)にダム再開発事業が行われてロックフィルダムに変更[70][71]、小諸発電所第一調整池は1928年(昭和3年)に7名の死者を出した小諸発電所第一調整池決壊事故後に撤去され[72][注 6]何れも現存しない。日本では8か所建設され6か所が現存する稀少な型式であり、日本最大規模のバットレスダムである丸沼ダムは国の重要文化財[73]、恩原ダムは国の登録有形文化財に登録され[74]、残りも土木学会選奨土木遺産に認定されている。
一方マルチプルアーチダムであるが、日本では香川県観音寺市の柞田(くにた)川に建設された豊稔池ダムが初の例である。満濃池を筆頭に数多くのため池がある香川県は慢性的な水不足に悩む土地柄であり、安定した用水の供給が絶えず求められていた。香川県は用排水改良事業を県西部の柞田川流域で実施する方針を打ち出し、柞田川上流にダムを建設して下流農地に農業用水を供給する計画を立てた。これが豊稔池ダムであり、当初重力式コンクリートダムとして計画したところ、基礎岩盤が当初の計測よりも深い位置にあったことから型式を当時アメリカで最先端のダム技術であったマルチプルアーチダムに変更した。1926年3月より開始されたダム建設の設計指導は日本初のコンクリートダム・布引五本松ダムの設計・建設に携わった佐野藤次郎が担当し、技師2名が参加。毎晩講習会を開いて技術者を養成しながら地元民を中心に延べ15万人を動員する工事を行い、4年の歳月を費やして1930年(昭和5年)完成した。豊稔池ダムは老朽化対策のため1994年(平成6年)にダム再開発事業を実施したが、地元住民から「外観を変えないで欲しい」という要望が多かったことから、景観や外観を損なわないように上流面中心の補修を実施した[75]。再開発終了後、ダムは日本唯一の五連マルチプルアーチダムという稀少性や農業史的に重要であるなどの理由で2006年(平成18年)に国の重要文化財に指定された[76]。なお日本のマルチプルアーチダムは豊稔池ダム以外では1961年(昭和36年)宮城県で完成したダブルアーチダムの大倉ダム(大倉川)[77]のみで、日本では2か所しかなくバットレスダムよりもさらに稀少である。
慣行水利権者との争い
こうして大正時代のダム事業は主に電気事業者が中心となって日本各地にダムを建設していった。しかし、水力発電のために河川から取水することで下流の水量が減少し農業用水、あるいは当時盛んに実施されていた流木に対する影響が表面化した。1896年(明治29年)に日本初の河川関連法規である旧河川法、1911年には電気事業法が成立したがこれらの法律では対応し得ない状況であり、江戸時代以前より農業用水を取水している農民や林業を営む流木業者が持つ慣行水利権と電気事業者が獲得した新規発電用水利権が衝突する例が発生した。
この時期の農業に関する慣行水利権者と電気事業者の対立として知られるのが宮田用水事件である。宮田用水は徳川家康が御囲堤の建設を伊奈忠次に命じた1608年(慶長13年)にその歴史を遡る。当初は御囲堤によって従来使用していた農業用水取水口が閉鎖されることに対する代替事業の性格があったが、その後長期間を掛けて整備された農業用水であり、木津(こっつ)用水と並んで濃尾平野南部約1万7,000ヘクタールの主要な水源となっていた。1924年8月16日に大井ダムは貯水を開始したが、宮田用水組合はこの時期は灌漑期間中であるから9月下旬まで貯水開始を遅らせて欲しいと事前に要望していた。ところが大同電力は組合に無断で貯水を開始したことから下流の農地では折からの旱魃もあって取水量が減少して農民は大混乱を来たし、流域各所で水争いが頻発した。組合側はこれを福沢桃介ら大同電力の暴挙と厳しく非難、下流水利権の保護を強力に要請した。当初大同電力は大井発電所使用許可における付帯命令書で下流水利権への支障がある場合は関係者と協議して適当な対策を講じることという条項があったため、木曽川に仮堰を設置して用水取水を円滑にする対策を採っていた。しかし仮堰の設置に掛かる費用が重くなり1929年1月に仮堰設置負担金の支払いを拒否した。このため再度取水量が不安定になり下流域の農地では流血を伴う水争いや小作争議にまで発展する事態になった。宮田用水組合と木津用水組合は水利権の許認可を持つ岐阜県を始め愛知県や河川行政を監督する内務省、電力行政を監督する逓信省、農政を監督する農林省に対し繰り返し陳情書や意見書を提出した。1930年より愛知県知事が調停に立つ姿勢を見せ、1933年(昭和8年)には両組合が大井ダム下流に逆調整池を建設して木曽川の水量を一定にするよう陳情書を提出したことから事態は動き出す[78]。
逆調整池とは発電用ダムの放流によって下流の河川水量が不均等になることで起こる弊害を防ぐため、ダムを建設して上流からの放流水を貯水することで水量を貯水池で調整し(逆調整)[79]、下流には均等な水量を放流して水位の変動による影響を最小限に抑える目的をもったダムのことである。当時大同電力と、飛騨川流域の電力開発を進めていた東邦電力は奇しくも同じ地点に逆調整池の建設計画を進めていた。この逆調整池が今渡ダム(木曽川)である。木曽川と飛騨川の合流点直下に建設するこのダムによって、大井ダムのみならず飛騨川上流の水力発電所から放流される水量も調節できることで急速に計画が具体化。大同・東邦両電力は愛岐水力という合弁会社を設立して1935年(昭和10年)より今渡ダムの建設を進め、1939年(昭和14年)に完成する。しかし放流する水量を巡る意見の相違が解決せず、戦時中の1942年(昭和17年)5月に至り灌漑期間中の条件付きではあるが毎秒100立方メートルの放流が義務付けられたことで、都合20年近くにおよぶ争議は解決した[80]。
一方流木に関する慣行水利権者と電気事業者との対立として知られるのが庄川流木事件である。1917年(大正6年)、日本電力の子会社である庄川水力電気社長・浅野総一郎は庄川本流に小牧ダムを建設するため、富山県に発電用水利権の許可申請を提出。2年後の1919年に許認可が下りて1925年(大正14年)に小牧ダムの建設に着手した。しかし庄川本流にダムを建設することで、飛騨・五箇山方面からの流木が途切れることで木材運搬と従事する労務者の生活に多大な支障が出ること危惧した飛州木材はダム建設に反対、1926年10月5日にダム建設差し止めの仮処分申請を裁判所に提出した。この争議において中心的な役割を果たしたのは、飛州木材専務取締役で、終戦時に近衛文麿や中野正剛、宇垣一成らと共に終戦工作に奔走した平野増吉であった。平野は1927年12月31日にある人間の仲介で浅野総一郎と面談したが、席上浅野は「流木が流れないから発電工事に故障を申し立てるのは怪しからん」と出会い頭に放言、さらに「君の山には木が何本あって、一本幾らだ。山ぐるみ残らず買ってやるから値段を言いなさい。名古屋での相場で買ってやる」と高飛車な態度に終始した。
その後庄川水力電気と飛州木材の対立は先鋭化して法廷闘争や流血事件に発展、中野正剛逓信大臣の調停も失敗に終わるなど泥沼であった。膠着した事態が動くのは1930年10月、大阪地方裁判所で行われた堰堤仮排水路締切禁止の仮処分申請を巡る民事訴訟であり、大阪地裁は飛州木材の流木権を認め、庄川水力電気の横暴を戒める一方で双方の和解を勧告した。民事訴訟は取り下げられ、同時期に行われた行政訴訟は敗訴したものの庄川水力電気が木材会社の株式取得や流木業者の失業補償、さらに国道156号の原型となる「百万円道路」建設などを行うことで1933年(昭和8年)8月に全面解決を見た[81]。なお飛州木材は飛騨川筋においても、瀬戸第一発電所の取水を巡る日本電力との紛争が発生し一時は一触即発の事態に陥ったが、岐阜県議会議長の仲介によりダムに流筏路を建設することで1924年和解が成立した。これを益田川流木事件と呼ぶ[82]。
何れの例も、私権の保護が不十分であった時期の紛争であり、庄川流木事件を戦った平野も「日本国憲法があればここまでにはなっていなかっただろう」と後に語っている[81]。ダム事業を巡る補償問題の初期例であり、この問題はダム事業の宿命として昭和・平成に至るまで永遠の課題になって行く。
昭和1(1926年-1944年)
大正時代のダム建設ブームにより日本のダム技術は明治以前に比べて飛躍的に向上し、高さ50メートルを超えるダム建設も盛んに行われた。一方で宮田用水事件や庄川流木事件に見られる慣行水利権者との摩擦は、日本における河川行政・法整備が実情に追い付いていないという現実を露呈させた。さらに治水事業との整合性や利水事業者同士による開発事業の衝突など、旧河川法や電気事業法では解決できず政治家による調停に委ねる例も出て、河川行政の抜本的な改革が問われつつあった。また、満州事変以降次第に日本は軍国主義の風潮が高まり、河川事業にもその暗い影が差して行ったのが昭和初期のダム事業を取り巻く環境である。
多目的ダムの登場
事業者 | 種別 | 対象水系・河川(ダム名) |
---|---|---|
内務省 | 直轄 | 北上川(田瀬) 名取川(釜房) 鬼怒川(五十里) 淀川(琵琶湖) 由良川(大野) 猪名川(猪名川) |
委託 | 江戸川*東京市に委託 | |
県 | 単独 | 相模川(相模) 揖保川(引原) 錦川(向道) 木屋川(木屋川) 小丸川(松尾) |
国庫補助 | 旭川(旭川) 黒瀬川(二級) 厚東川(厚東川) 大野川(百枝) | |
河川改良補助 | 諏訪湖(釜口水門) | |
中小河川 改良補助 |
浅瀬石川(沖浦) 黒瀬川(二級) 香東川(内場) | |
電力会社 | 単独 | 奥入瀬川(十和田湖) 玉川(田沢湖・神代・夏瀬) 猪苗代湖 青木湖 |
1896年(明治29年)に制定された旧河川法では治水事業は堤防整備を主体とした河川改修が主眼であり、ダムを活用するという流れはなかった。またダム事業自体も単一事業者が単一の目的で建設しており、複数の事業者が関与することもなかった。こうした状況下で宮田用水事件や庄川流木事件、あるいは同一河川における水力発電事業で複数の事業者が水利権の所在を巡り対立するなどの事案が多発する。従来の法整備では太刀打ちできない現実を目の当たりにした行政は、大正時代より逓信省、農林省がそれぞれ水力発電・灌漑目的の立場から法改正を画策したが河川行政を管轄する内務省の猛反対によって陽の目を見なかった。ようやく法整備に関する事態が動き出したのは1926年(大正15年)8月26日に勅令第270号として公布された河川行政監督令である。即ち当時盛んだった水力発電に係る河川占用の許可を内務大臣の許認可事項とする内容のもので、内務省の河川行政への専管業務を強化する意図があった[85]。またダムの基準についても従来曖昧だったものを統一するため、1935年(昭和10年)5月27日内務省は省令第36号として河川堰堤規則を、6月15日には逓信省が省令第18号として発電用高堰堤規則をそれぞれ制定。二つの政令によって「基礎岩盤からの高さが15メートル以上(河川堰堤規則ではアースダムは高さ10メートル以上)」というダムの基準が日本で初めて確立した[86]。
こうした流れの中、一人の学者がその後の日本における河川行政の流れを大きく変える論文を発表する。東京帝国大学教授・東京帝国大学地震研究所研究員・内務省土木試験所長の職に在った当時38歳の物部長穂である。物部は1920年(大正9年)に耐震構造に関する論文で第一回土木学会賞を受賞、その後耐震構造学の権威として重力式コンクリートダムの耐震理論を確立し今日まで地震による重力ダムの致命的な損壊を防ぐ重要な基礎を築いた。河川工学にも精通する物部は1926年に『わが国に於ける河川水量の調節並びに貯水事業について』という論文を発表し、河川総合開発・多目的ダム建設の必要性を主張した。論文の要旨は以下の通りである[87][88]。
- 河道が全能力を発揮する期間は極めて短いので、貯水による河川水量の調節は洪水防御上有利。
- 発電が渇水に苦しむのは冬季であり、冬季には大洪水の心配はないから治水容量は発電に利用可能。夏季の渇水には多目的として貯水池を少し大きくする。
- 貯水池地点は日本では一般に有利な地点が少ないので、多目的に利用する。治水・灌漑用はなるべく平地に近く、発電用は上流部が有利なので水系一貫的に効率・有機的な運用を行う。
- 大規模貯水池の下流には逆調整池を設け、貯水池埋没対策として、将来は大規模な砂防事業を進める。
- 民間企業の貯水池も治水・利水の総合計画にするため補助金など助成策を講じる。
- 計画は、公平な立場にある河川管理者が統制する。
同年12月には内務省内務技師である萩原俊一も共同貯水池建設事業の国による斡旋と調査の必要性を内務大臣に上申しているが、物部論文は大きな反響を呼ぶ。内務省では内務省内務技監・後に内務省土木会議議長を兼務した青山士(あきら)がこれに注目した。青山は日本人で唯一パナマ運河の建設事業に参加し、帰国後大河津分水路や荒川放水路の建設事業で総指揮を執るなど当時第一線で活躍していた内務官僚である[89]。当時アメリカでは1910年(明治43年)よりテネシー川流域開発公社(TVA)によるテネシー川総合開発が始まり、1913年(大正2年)からはマイアミ川総合開発に基づく5か所のダム建設も実施していた。また法整備という面でも1913年に治水・利水の統一水法として近代水法の模範となったプロイセン水法を皮切りに欧米で相次いで河川関連法規が制定、1934年(昭和8年)にそれら欧米水法の完成形としてオーストリア水法が成立するなど国外では河川総合開発に対する動きが加速していた。青山は1935年(昭和10年)10月に土木会議を開催、物部論文を最優先とする河川事業を国策で推進することを決定した。ここに河川総合開発事業の前身となる河水統制事業が開始された[90]。
第一に計画されたのは五十里ダムである。利根川の大支流・鬼怒川に合流する男鹿川に計画された五十里ダムは鬼怒川改修計画の一環として治水を主目的に1926年より計画されたが、河水統制事業としてその後水力発電目的が加わり1940年(昭和15年)より着工された[91]。完成例としては愛知県が庄内川水系山口川に1933年完成させた山口ダムが日本初であり、治水・灌漑・上水道供給が目的の河水統制事業であった(後に廃止)。翌1934年(昭和9年)には青森県が沖浦ダム(浅瀬石川)、1935年には香川県が長柄ダム(綾川)の建設にそれぞれ着手するなど当初は地方自治体が先駆けて河水統制事業を手掛けた。1937年(昭和12年)になると念願であった河水統制事業調査費が予算として認められ、内閣に河水調査協議会が設置されて本格的な調査が64河川で開始、1940年には調査費の国庫補助も開始された。こうした動きにより右表にある通り多くの河川で多目的ダムなどの河水統制事業が着手され、1940年には現存する日本初の多目的ダムとして山口県が向道ダム(錦川)を完成させた[92]。地方自治体にやや遅れて内務省も直轄ダム事業による多目的ダム建設を計画、琵琶湖河水統制事業や北上川五大ダムの第一弾である田瀬ダム(猿ヶ石川)、釜房ダム(碁石川)、大野ダム(由良川)、猪名川ダム(猪名川)などが計画・施工された[93][94]。しかし河水統制事業は程なく軍部に翻弄されてゆく。
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日本初の河水統制事業、山口ダム(山口川)。現在運用はされていない。
台湾・朝鮮のダム事業
当時の日本は1895年(明治28年)日清戦争の勝利によって台湾を併合、1910年に日韓併合を行い朝鮮半島を併合し両地域は日本の統治下にあった。日本統治下の台湾や朝鮮半島においても、ダム建設が進められていた。
台湾において日本人が手掛けた代表的なダムとして、烏山頭(ウサントウ)ダムがある。台南州を流れる曽文渓は全長140キロメートルの台湾第三の大河であり、流域には香川県と同面積の15万ヘクタールにおよぶ嘉南平原が広がる。しかし嘉南平原は慢性的な水不足と排水不良に悩まされており、農業生産力の向上には嘉南平原の灌漑整備が不可欠であった。台湾総督府は嘉南平原に農業用水を供給するため、用水路である嘉南大圳(たいしゅう。用水路のこと)の整備を計画する。この嘉南大圳建設に携わったのが台湾総督府内務局土木課に勤務していた八田與一である。小樽港築港に携わった東京帝国大学教授広井勇門下で、物部長穂・青山士と同門である八田は曽文渓支流の官田渓に烏山頭ダムを建設すると共に台湾最大の河川である濁水渓より水を導水して、嘉南平原に水を供給するという嘉南大圳事業を計画した。1920年(大正9年)より着工された烏山頭ダムは高さ56.0メートルのアースダムであり、総貯水容量は1億5,000万立方メートルと完成当時日本最大、東洋一の規模を誇る大ダムであった。ダム建設はトンネル工事中に石油が噴出したことによる爆発事故で50名が死亡したり、関東大震災の余波で事業費が削減され労務者を大量解雇せざるを得ないという苦難に遭遇したが、解雇した労務者の再就職に奔走したり、学校や病院などを建設して労務環境を高めるなど現地での信頼を高めて行った。総事業費5,413万円と10年の歳月を費やしダムを含む嘉南大圳は完成し、コメやサツマイモなどの増産に大きく寄与する。完成当時「八田堰堤」と呼ばれていた烏山頭ダムの人造湖は珊瑚潭と命名された[95][96][97][98]。
その後も八田は土木事業に携わるが1942年に灌漑事業調査のためフィリピンへ大洋丸で向かう途中アメリカ海軍の潜水艦に雷撃を受けて船が沈没し殉職、妻は1945年の日本敗戦時に烏山頭ダムの放水口に投身自殺するという悲劇を産んだ。しかし愛知用水の10倍におよぶ給水面積を有する嘉南大圳はその後も嘉南平原を潤しており、台湾で八田は「嘉南大圳の父」として尊敬されて銅像[注 7]が建立され、八田の命日である5月8日には毎年地元農民によって墓前祭も催されるほか、2011年(平成23年)には八田與一記念公園が完成し馬英九台湾総統も記念式典に出席している[95][96][99]。長編アニメ映画『パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜』は八田を描いた作品である。なお台湾では烏山頭ダムのほかに日本統治下で建設されたダムとして水社ダム(日月潭水庫)がある。水力発電を目的に1934年建設されたこのダムの人造湖は日月潭の名で知られるが、元々天然湖沼である日月潭にダムを建設すると同時に濁水渓に建設した武界ダムから水を導水して貯水容量を増加させることで発電を行う。総貯水容量1億7,200万立方メートルに規模が拡大した日月潭は台湾最大の湖であり、台湾の主要な観光地の一つでもある。ダムは日本の敗戦で中華民国に接収された後、台湾電力が管理している[100][101]。
朝鮮半島における日本人が手掛けた代表的なダムとしては、鴨緑江の水豊(スープン)ダムがある。水豊ダムは朝鮮総督府と中国東北地方に日本が建国した満州国との共同事業として建設されたダムである。日本の傀儡政権であった満州国では重工業の発展や南満州鉄道の敷設が進む一方で電力需要に対する供給が不足していた。朝鮮総督府や関東軍、満州国国務院は豊富な水量を有する鴨緑江の河川総合開発を企図、1936年に南次郎が第7代朝鮮総督に就任したことで計画は積極的に進められ、1937年1月には鮮満鴨緑江共同技術委員会を設置。ダム建設に関する具体的な調査が開始された。8月には事業主体である鴨緑江水電が設立され、初代社長には朝鮮半島で水力発電事業を展開していた朝鮮窒素肥料の野口遵(したがう)が就任した。ダム建設によって朝鮮・満州国合計で約1万5,000戸という空前規模の移転戸数が生じ、約7万人もの住民が移転を余儀なくされたが、移転に従う住民がいる一方で自作農などはダム建設に強硬に反対し、事業者側は宣伝工作や強制撤去などの実力行使を以って移転させている。また労務環境も悪く、多くの殉職者を出している。こうした経緯を経て水豊ダムは1944年(昭和19年)に完成する。高さ107.0メートル、出力70万キロワットという当時日本最大のダム・水力発電所であった[102]。なお野口遵は朝鮮半島において1929年赴戦江に漢岱里ダム、1937年長津江に葛田里ダムなどを建設したほか、水利組合により1927年蟾津江に蟾津江ダムが完成している[103][注 8]。
さらに旧満州国内では第二松花江に豊満(フォンマン)ダムが1937年より満州国国務院水力電気建設局の手で施工を開始している。松花江総合開発の一環として天然湖沼である鏡泊(チンポー)湖の水力発電事業と共に計画された高さ91メートル、長さ1,110メートル、総貯水容量125億立方メートル、出力70万キロワットの多目的ダムで、当時アメリカのフーバーダム(コロラド川)に次ぐ東洋一の巨大人造湖であったが移転戸数が8,400戸とこちらも多くの住民が移転を余儀なくされている。豊満ダムも戦時中の物資不足によって工事が中断、続く日本の敗戦と満州国崩壊によってソビエト連邦軍が侵攻し発電機を奪われ、さらに国共内戦で中国人民解放軍と中国国民党軍がダム争奪戦を繰り広げるなど完成まで激動の歴史であった。豊満ダムでも労務環境が悪く、多くの中国人労働者が腸チフスや発疹チフスに罹患して死亡した。これについて日本では「強制労働」と誤った報道がされたため、当時ダム工事に従事した技術者が書籍を出版して劣悪な条件下で落命した中国人労務者に謝罪する一方で「強制労働」の誤報に反論した。日本人労務者は1953年(昭和28年)まで当地に留まりダム管理を行っている[96][102]。これら日本統治下に在った地域のダムは、日本の敗戦により現地政府に接収されている。
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建設中の水豊ダム。
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豊満ダム(第二松花江)と豊満発電所。
日本発送電とダム
電力会社による発電用ダムの建設は大井ダム以降、より大規模なダムの建設を手掛ける方向性が強くなった。水力発電は渇水時に発電能力が減衰する欠点があったが、これを火力発電所で補うことである程度解消できた(水主火従)。電力会社はより大容量の貯水池を有する水力発電所建設を計画し、ダム建設もそれに比例して大規模なものになっていった。1929年(昭和4年)に完成した高さ79.0メートルの小牧ダム(庄川)は、庄川流木事件という問題を抱えては居たが物部長穂の耐震理論を最初に導入した重力式コンクリートダムであった[104]。またこの頃よりコンクリートに関する技術も進歩し、従来のコンクリートダムではコンクリートに玉石を混合した玉石コンクリートが主力だったが、玉石を使わない硬練りコンクリートの研究が進められた。実用化されたのは宮崎県の耳川に建設された塚原(つかばる)ダムであり、日本で初めて可動式ケーブルクレーンをコンクリート打設に用いたほか、中庸熱セメントを主成分とした硬練りコンクリートをダム本体に使用した。塚原ダムは1938年(昭和13年)完成するが、高さ87.0メートルは戦前のダムとしては日本で最も高く、歴史的な土木遺産として小牧ダム共々国の登録有形文化財に登録された[105][106]。また日本有数の急流河川である黒部川では、高峰譲吉がアルミニウム精錬の電源として黒部川の開発に1917年(大正6年)に着手、その後日本電力が事業を承継し1936年に小屋平ダム(黒部川)と黒部川第二発電所、1940年に仙人谷ダム(黒部川)と黒部川第三発電所を完成させた。このダム・発電所工事は難工事であり、雪崩や吉村昭の『高熱隧道』で知られる灼熱のトンネル工事などで多くの殉職者を出しながら完成した[107]。こうした河川一貫の水力発電事業は戦後さらに活発化する。
しかし、電力会社を巡る環境は戦時体制に突き進む日本の国情の中次第に厳しい情勢に追い込まれた。当時日本には東京電燈、東邦電力、日本電力、大同電力、宇治川電気のいわゆる「五大電力会社」が電気事業の中心にあり、日本各地の河川で開発を進めていたが配電シェアの獲得競争は極めて激しく、鶴見騒擾事件など実力行使を伴う紛争も絶えなかった。こうした激烈で無秩序なシェア競争に対して電気事業を民間に任せることは不適当とする意見も逓信省内部から出始めた。1927年(昭和2年)電力行政を司る逓信省電気局は臨時電気事業調査部を局内に設置、電気事業の矛盾をどう解決するかについて議論し、翌年報告書を提出した。その内容は半官半民の国策会社を設立して電力開発を任せるべきという提言だったが、満州事変勃発後は国家が積極的に電力統制を行うべきという急進的な意見が軍部や逓信省、企画院などで主流となり、彼らが内閣調査局のメンバーを占めたことで電力国有化の流れが強くなった[108]。1936年、広田内閣の逓信大臣で電力国有化論者である頼母木桂吉は電力国有化法案の提出を示唆するが、電力業界の猛反発を招き撤回した。しかし第1次近衛内閣が発足すると永井柳太郎逓信大臣が再度電力国有化について言及し、国家総力戦の下で国家総動員法と共に電力管理法案と日本発送電株式会社法案などを提出。東邦電力社長の松永安左エ門らは猛反発するが軍部の圧力は厳しく松永は隠退を余儀なくされ、1938年4月5日に法案は可決成立した。ここに「半官半民」の国策電力会社である日本発送電が翌1939年(昭和14年)4月に発足する。「半官半民」と謳ってはいるが総裁以下高級幹部の任免権は内閣が握り、監督部署である逓信省電気局の命令で事業を実施したため、本質は発送電事業の国有化であった[108][109]。
電力管理法第2条および電力管理法施行令第2条において、出力5,000キロワット以上の水力発電所は原則日本発送電が開発または所有することが定められ、発電所に付属するダムについても同様の措置が取られた。このため大井ダムを始め出力が5,000キロワット以上の水力発電所に付属するダムについては「出資」という名の下に強制的な接収を受けた。また開発中の河川における発電用水利権も同様に5,000キロワット以上の発電計画を有するものは日本発送電に接収され、例えば只見川の発電用水利権を有していた東京電燈は事実上開発不可能な立場に追い込まれた[108][109]。さらに1941年には配電統制令が公布され、「五大電力会社」を含む日本に存在した全ての電力会社は解散し9配電会社に統合させられた。これにより電力の国家統制が完成し、日本発送電は戦時体制維持のため活発な水力発電事業を展開する。ダム事業としては主なものとして1943年(昭和18年)の完成以来破られていない日本最大の湛水面積を有する雨竜第一ダム(雨竜川・北海道)[110]、1945年(昭和20年)に完成した当時日本第2位の高さを有する三浦ダム(王滝川・長野県)[111]、当時天竜川最大規模だった平岡ダム(天竜川・長野県)[112]、当時四国地方最大規模だった長沢ダム(吉野川・高知県)[113]などがある。しかし戦況の悪化に伴い資材・人員不足が深刻となり、平岡ダムや宮下ダム(只見川)などでは中国人や朝鮮人などを強制労働に使役させる[112][114]など非人道的な労務管理を行った。さらに空襲による設備破壊や施設酷使による設備故障も重なり、満足な電力供給が行えないまま終戦を迎えることになる。
軍部の介入
電力国家統制を成し遂げ、国家総力戦に突き進む軍部が次に狙ったのが河川行政、特に河水統制事業であった。航空機の生産や軍艦建造など軍備増強を図る上で水力発電事業や水道整備は欠かせなかったが、電力事業を掌握したことから今度は河川行政に直接介入し、軍部に都合が良い河川開発を企てた。北上川水系では五大ダム事業の一環として建設が進められていた田瀬ダムにおいて、大船渡に人工ハイオクガソリン工場の建設を鐘淵紡績と計画していた大日本帝国海軍は、制空権確保の重要性という大義名分で事業者である内務省土木局に対し、田瀬ダムの目的に水力発電を追加し、建設を予定している大船渡の人工ハイオクガソリン工場に電力を供給するよう強く迫った。このため当初洪水調節が主目的であった田瀬ダムは発電目的が追加された[115]。由良川水系では治水と水力発電を目的として施工中だった大野ダムについて、海軍は舞鶴海軍工廠への電力供給を第一にするよう迫り、水力発電を主目的にされて本来の治水目的は副次的なものに変更された[116]。広島県の二級ダム(黒瀬川)は呉海軍工廠の上水道供給を求める海軍が事業に参入[117]。愛媛県の柳瀬ダム(銅山川)では1935年の第一次分水協定でようやく愛媛県と徳島県が合意した発電計画の放棄に対し、電力行政を逓信省から吸収した軍需省が1945年に水力発電事業を追加するように求め同年第二次分水協定を締結させた[118]。
軍部は日本各地の河水統制事業に強引な圧力を掛けて自らの目的を押し通したが、その極めつけが相模ダム(相模川)建設反対住民に対する圧力である。相模ダムは1934年に神奈川県議会において相模川河水統制事業の中心事業として建設が議決され、1937年より工事が開始された。ダムによって神奈川県と山梨県で合計136世帯が移転を余儀なくされることになり、住民はダム建設に反対する。しかし相模ダムの目的に水力発電があり、横須賀海軍工廠を含む京浜工業地帯や相模原への電力供給という目的があったことから反対する住民に対し軍が圧力を掛けた。すなわち小磯国昭、荒木貞夫、杉山元といった大日本帝国陸軍の中枢にいる軍人が海軍と共同で、「河水統制事業絶対反対用地不売同盟」を結成して激しくダム建設に反対していた津久井郡日連村(藤野町の前身)勝瀬地区において陸海軍合同観兵式を行い、住民に対し示威行動を行った。陸海軍の強い圧力に耐えきれない住民はダム事業の補償を受け入れたが、どんぶり勘定に近い内容の補償金額であり禍根を残した[119]。こうした強引な手法に加え、海軍佐世保鎮守府が施工し1944年に完成した長崎県の相当ダム(牟田川)ではウェーク島の戦いで捕虜としたアメリカ軍兵士200名を強制労働に使役させ、54名を死亡させる負の歴史を作った[120]。
このようになりふり構わず突き進んだ太平洋戦争も次第に日本不利の戦況となり、資材や人員の欠乏は日を追う毎に深刻となった。ダム事業もこうした事情から進捗が滞るが、1944年小磯内閣は全ての資源を戦争に投入する決戦非常措置要綱を発令した[121]。要綱発令によりダム事業のほとんどが事業遂行不可能となり、中断に追い込まれた。特に猪名川ダムは予算が付いていたにも関わらず中止され、戦後も事業が再開することはなかった[122]。各地の山林は乱伐によって極端に保水力が低下。河川改修も完全に停滞し、修繕がままならぬ状態で日本は終戦を迎えた。後に残されたのは荒廃した国土であり、それは戦後直ちに大きな災害をもたらすことになる。
昭和2(1945年-1954年)
太平洋戦争で敗戦した日本は、国力も国土も極めて疲弊した状態に在った。決戦非常措置要綱の発令で物資の全てを戦争に費やしたことで河川事業はダムを含め完全に停滞し、新規計画も修繕もままならない状況であった。電力に関しては物資不足による事業中断に加え、民間の電力需要が爆発的に増大し電力の需給バランスは一挙に崩壊して深刻な停電が頻発した。さらにコメを始めとする農業生産力も低下して食糧不足が深刻化、1946年(昭和21年)には皇居前広場に25万人が集まる飯米獲得人民大会(食糧メーデー)が開かれるなど日本の社会は大きな混乱を来たしていた。戦災からの復興を果たさねばならない中で、混乱に拍車を掛けたのは連年襲い来る水害であった。
襲い来る災害
西暦 | 和暦 | 災害 | 死者 | 行方不明者 |
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1945年 | 昭和20年 | 枕崎台風 | 2,473 | 1,283 |
阿久根台風 | 377 | 74 | ||
1947年 | 昭和22年 | カスリーン台風 | 1,077 | 853 |
1948年 | 昭和23年 | アイオン台風 | 512 | 326 |
1949年 | 昭和24年 | デラ台風 | 252 | 216 |
ジュディス台風 | 154 | 25 | ||
キティ台風 | 135 | 25 | ||
1950年 | 昭和25年 | ジェーン台風 | 398 | 141 |
1951年 | 昭和26年 | ルース台風 | 572 | 371 |
1952年 | 昭和27年 | ダイナ台風 | 65 | 72 |
1953年 | 昭和28年 | 昭和28年西日本水害 | 759 | 242 |
紀州大水害 | 713 | 411 | ||
南山城水害 | 290 | 140 | ||
台風13号 | 393 | 85 |
治水事業の停滞、加えて戦時中に行われた日本各地の森林乱伐は治水安全度を極度に低下させていた。そうした状況において、毎年のように台風や水害が来襲し、日本各地に甚大な被害をもたらした。
1945年(昭和20年)は原爆投下の惨禍を受けた直後の広島県を襲った枕崎台風、西日本各地に大雨をもたらした阿久根台風が襲来。1947年(昭和22年)は日本最大の河川・利根川を決壊させて首都・東京を含む関東平野の大部分を水没させたカスリーン台風が関東地方と東北地方を襲い、1948年(昭和23年)にはアイオン台風が前年のカスリーン台風の惨禍冷めやらぬ中東北地方を襲って北上川を氾濫させ岩手県一関市が壊滅的打撃を被った。1949年(昭和24年)にはデラ台風とジュディス台風が九州地方に上陸して豪雨被害が多発し、さらにキティ台風が関東地方を直撃した。1950年(昭和25年)にジェーン台風が近畿地方を中心に多くの河川を氾濫させ、翌1951年(昭和26年)にはルース台風が西日本を再度襲い山口県で大きな被害が生じた。1952年(昭和27年)にはダイナ台風が静岡県を中心に被害を与えている[123]。右表にもある通り1946年を除き毎年大型台風などが日本に上陸し、多くの死者・行方不明者や家屋・農地流失などの被害が続出している。
特に1953年(昭和28年)は水害による甚大な被害が夏季に集中的に発生した「水害の当たり年」であった。まず6月25日から28日に掛けて梅雨前線による昭和28年西日本水害[注 9]が九州北部で発生。阿蘇山や英彦山、背振山地を中心に多い所で期間降水量が1,000ミリ以上となる猛烈な集中豪雨が降ったことで九州最大の河川である筑後川を始め白川、遠賀川、嘉瀬川、大分川など九州北部の河川が大小問わず全て氾濫。熊本市中心部は阿蘇山の火山灰を含む泥で埋まり、関門トンネルは洪水が流れ込んで水没。さらに九州電力が建設していた夜明ダム(筑後川)が上流から流れ来る濁流に耐えきれず決壊するなど都市部・山間部問わず九州北部各地に大きな被害を与え、死者・行方不明者1,001名を出す九州地方戦後最悪の水害となった[124][125]。7月16日から7月17日に掛けては同じ梅雨前線が今度は紀伊半島で再び集中豪雨を降らせ(紀州大水害・南紀豪雨)、特に日高川や有田川流域で堤防決壊やがけ崩れなどを引き起こし死者・行方不明者1,124名という戦後日本の集中豪雨災害において最悪の人的被害をもたらした。8月11日から15日には京都府南部で集中豪雨が発生(南山城水害)し、大正池(玉川)が決壊する[注 10]など死者・行方不明者430名。そして9月22日から26日に掛けては台風13号が近畿地方を直撃して淀川・由良川に過去最悪の水害をもたらし、死者・行方不明者488名という甚大な災禍となった[123][126][127]。これらの災害は映像が残されており、全体の被災状況は『昭和ニュース』にて、西日本水害による熊本県下の被災状況は『県政ニュース』(閲覧注意)において視聴可能である。
1953年はこのように毎月日本各地で多くの死者・行方不明者を伴う水害が発生した。年間全体で見ると水害による全死傷者数は1万5,181名となり伊勢湾台風が上陸した1959年(昭和34年)に次ぐ戦後2番目の人的被害を出しているが、さらに深刻だったのは水害による被害額である。1953年の年間水害被害総額は約5,941億円で同年の名目国民所得(約584億1,500万円)の10倍が水害により失われた計算となる。この数値を2004年(平成16年)物価で換算すると被害額は約3兆2,401億円という莫大な額になり、水害被害額としては戦後最悪の被害額となっている[128]。連年日本全土を襲った水害は、敗戦からの復興を目指す日本経済に大きな打撃を与え、復興の大きな阻害要因となった。
建設省の発足
戦前の河川行政を担っていた内務省は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令により1947年解体され、戦災復興院、建設院を経て1948年に国土交通省の前身となる建設省が発足し旧内務省の河川行政を継承した[129]。その建設省はカスリーン・アイオン両台風による重大な被害を受け、治水調査会を設けて新たな治水対策を検討。利根川・北上川を始め日本の主要10河川[注 11]で新たな治水計画である改訂改修計画を1949年に作成した。改訂改修計画は従来の堤防建設を基本とした治水計画に、ダムによる洪水調節を積極的に組み込んだことが大きな特徴となっている[130]。
この改訂改修計画において計画・構想されたダムとして、北上川五大ダム事業である石淵ダム(胆沢川)・田瀬ダム(猿ヶ石川)・湯田ダム(和賀川)・四十四田ダム(北上川)・御所ダム(雫石川)[131]、最上川水系では県営ダム事業である荒沢ダム(赤川)[注 12]と管野ダム(置賜野川)[132]、利根川水系では藤原ダム・岩本ダム(利根川)・薗原ダム(片品川)・相俣ダム(赤谷川)・八ッ場ダム(吾妻川)・坂原ダム(神流川)[133]、吉野川水系では早明浦ダム(吉野川)と柳瀬ダム(銅山川)[134]などがある。その後1953年に発生した一連の水害被害を受け、第5次吉田内閣の時に治山治水対策協議会が設置され、ダムによる洪水調節の重要性を明記した治山治水基本対策要綱が閣議で決定。これに基づき木曽川水系や淀川水系、筑後川水系でもダムによる洪水調節計画が立案され、発電用ダムに治水目的を追加した丸山ダム(木曽川)のほか、天ヶ瀬ダム(淀川)・高山ダム(名張川)、松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)などのダムが計画された[135]。
また、戦争により中断した直轄ダム事業も建設省の手によって続々再開し、新規のダム事業も施工を開始した。1947年に石淵ダム着工、1948年に鳴子ダム(江合川)着工、1948年に永瀬ダム(物部川)[注 13]と柳瀬ダム着工、1950年に猿谷ダム(熊野川)着工および五十里ダム(男鹿川)と田瀬ダムの工事が再開され、これ以降も日本各地で建設省直轄ダム事業が進められて行く[136]。
なお、ダムを建設する上で不可欠である建設業界の動きであるが、戦前はセメントを大量に使用するという理由から商工省化学局無機課が監督していた。しかし建設業者を具体的に監督するための法令はなく、資本・技術・社会的信用が欠如した悪徳建設業者がはびこる状況だった。悪徳業者は下請けの一括化、受注のダンピング、果ては手抜き工事の横行という触法行為を半公然に行うという有様であり[137]、こうした粗末な行為によって建設業界全体への信用が低下しただけでなく、ダム建設にも影響を及ぼした例がある。北海道の幌内川に建設された幌内ダムは、1940年(昭和15年)12月に当時の幌内川送電が事業主体として建設した高さ13.4メートルの堰堤であったが、半年後の翌1941年(昭和16年)6月に死者60名を出す幌内ダム決壊事故が発生した。戦時中であったため根本的な原因は不明であるが、事故後の北海道庁による検証では施工業者はダム工事のイロハである基礎岩盤までの掘削を行わず、岩盤上に堆積した砂礫層に直接ダム本体のコンクリートを打設していた。容易に水が浸透する砂礫層は水圧に極めて弱いため、ダムを建設する際には必ず川に堆積する砂礫層を完全に除去して堅い基礎岩盤を露出させ、その上にダム本体のコンクリートを打設するのが基本中の基本であるが、当時の施工業者はそれを行わなかった。さらに試験的に貯水を行う試験湛水においても、監督官庁である道庁の許可を得ず無断で湛水を始めるという法令違反も犯していた[138]。戦後建設省が発足し、国土復興を円滑に進める上で建設業者への指導監督を明確化させる必要性が高まったことから、建設業者の監督官庁は建設省に移行し、1949年には建設業法が制定されて業者登録制を採用。請負契約内容の原則化と悪質業者への取締規定を設けて綱紀粛正を図った[137]。決壊した幌内ダムは1951年に新しい建設業法に則った建設業者により施工・再建されている[138][注 14]。
食糧増産とダム
一方、農林省では国営土地改良事業・国営農業水利事業を開始した。敗戦時の農地面積は1936年(昭和11年)当時を100とした場合、86.4パーセントに縮小していた。1952年(昭和27年)に至ってようやく90パーセントにまで回復するものの、戦争や相次ぐ水害による農地への被害によって農地面積は戦前の水準まで回復していなかった。農業生産率は1950年の段階で戦前の水準まで回復し、1952年には123パーセントに上昇しているものの人口増加率が同年で127パーセントになっているため、食糧供給を充足するだけの生産能力にはなっていない。終戦直後の極端な食糧不足は食糧メーデーという形で国民の不満が爆発。国民の不満を解消するために農林省は食糧増産を急務の課題とした。また1946年の農地改革と自作農創設特別措置法によってそれまで地主に従属していた小作農が自作農として独立したこと、翌1947年に農業協同組合法が制定されて農業協同組合が日本各地に設立されたことで、新たな農地管理のための法整備も不可欠となっていた[139][140]。1949年、農林省は土地改良法を制定。耕作地・耕作者中心主義に立脚した農業制度への切り替え、それまで地域によって異なっていた農業関連制度の統一、土地改良区を中心とする農業集団化制度の確立、そして国営・県営土地改良事業の制度化を柱として、農業の生産性を向上させる目的があった。土地改良事業・農業水利事業は未開発地の開拓農地や既開墾農地に対する灌漑整備を図るため、大規模な用水路整備を行うことで生産性の向上に加え安定的に用水を供給する狙いがあった[141]。用水整備を行う上で、水源として積極的に建設されたのが、ダムであった。
1947年に着手された国営東条川農業水利事業と国営野洲川農業水利事業が農林省直轄ダム事業としては最初となる。国営東条川農業水利事業は兵庫県の加古川流域における4,000ヘクタールの農地開発を目的に計画された事業で、加古川水系東条川の二次支流である鴨川に、東条湖の名で知られる鴨川ダムを建設した。鴨川ダムは農林省が手掛けた最初のコンクリートダムであり、1951年に完成する。鴨川ダムの完成後も用水整備は続けられ、東条川農業水利事業が1964年(昭和39年)に完了した後も引き続き加古川西部農業水利事業や東播用水事業など加古川流域の播磨平野における灌漑整備が進められ、一連の事業は1993年(平成5年)に完成する。加古川流域では鴨川ダムのほか大川瀬ダム(東条川)、糀屋ダム(仕出原川)、呑吐(どんど)ダム(志染川)、川代ダム(篠山川)が建設され灌漑のみならず上水道や工業用水道供給にも利用されている[142][143]。一方国営野洲川農業水利事業は、琵琶湖に流入する河川の中で最大級の規模を有する滋賀県の野洲川上流にに野洲川ダムを建設して、近江平野南部の用水供給を図る事業で1951年に完成した[144]。完成以来流域の農地に用水を供給したがダム本体が老朽化したため、2001年(平成13年)からダム再開発事業に着手し、2009年(平成21年)に完成した。以後ダムの管理は甲賀市、野洲市、栗東市、湖南市、守山市の5市が共同で行っている[145]。
東北地方では北上川の支流である滝名川に山王海ダムが1953年完成している。滝名川流域は河川の流量が少ない割に農地面積が広く、用水の需給バランスはすでに江戸時代の段階で破綻していた。また狭い流域内に27か所もの取水堰が建設され、盛岡藩と八戸藩により流域が分割されたことで水の運用が極めて複雑になった。このため頭首工付近の志和稲荷神社では300年以上にわたり通算36回にもおよぶ水争い「志和の水喧嘩」が発生し、そのうち5回は流血沙汰となり死者も出る激しい水争いもあった。慢性的な水不足を解消するため当時の紫波郡志和村(紫波町)村長らが大規模ため池を山王海地点に建設する構想を立て、1926年(大正15年)より農林省をはじめ各方面への陳情に奔走した結果、様々な紆余曲折を経ながら戦後国営山王海農業水利事業として着手。延べ71万人を動員し、総事業費4億2,500万円を投じた山王海ダムは構想から27年後に完成した。完成当時、ダム本体には「平安 山王海 1952」という文字が刻まれたが、これは「水争いが永遠に無くなり、平安であって欲しい」という願いを込めて当時の国分謙吉岩手県知事が植樹したものである[146][147]。山王海ダムは農地面積の拡大による用水不足に対応するため1990年(平成2年)からダム再開発事業を行い。ダム本体のかさ上げと共に隣接する葛丸ダム(葛丸川)とトンネルで湖水を融通して貯水量の増加を図った。2001年に完成した新しい山王海ダムは農業用ダムとしては日本最大規模を有するダムとなったが、堤体には「平安 山王海 2001」と引き続きメッセージが植樹されている。
このほか福島県の矢吹原野に用水を供給するため阿賀野川水系から阿武隈川水系に流域変更を行う羽鳥ダム(鶴沼川)[148]など、日本各地で農業用ダムは盛んに建設され、灌漑整備も進められた結果コメを始めとする農作物の生産は拡大していった。
電気事業再編
国家総力戦を遂行するため設立された日本発送電は、終戦後も引き続き水力発電事業を進めていた。敗戦により石炭、石油、ガスといったあらゆる資源が欠乏する中で電力は唯一利用できるエネルギーとして、広範に利用された。特に一般家庭など民需における電力消費は灯火管制が解除されたことで急激に増大。1945年の年間電力量は約195億キロワット時だったのが、1947年には294億キロワット時と100億キロワット時も増加した。ところが肝心の電力設備は空襲による変電・送電施設の破壊や既存発電施設の酷使による設備故障、石炭不足による火力発電所の稼働率低下などが重なり電力供給能力が低下する中急激な需要が拡大して需給バランスは崩壊。停電が頻繁に発生していた。また石炭や石油は合理化の問題や輸入のための外貨獲得が困難でコスト上の問題もはらんでおり、未開発の有望な地点が多く残されている水力発電に対する期待は大きかった。1947年、当時経済政策全般を管掌していた内閣経済安定本部は河川総合開発調査協議会を本部内に設置。内務省、農林省、商工省と共同で24河川において総合開発調査を開始し、電力行政を管掌する商工省では阿賀野川、黒部川、犀川、神戸川、吉野川、玖珠川、球磨川、十和田湖、猪苗代湖の7河川2湖沼を調査河川として水力発電計画を立案[149]、日本発送電は協議会に沿った形で、または独自に只見川や飛騨川における朝日ダムなどの水力発電事業に着手した。しかし戦時体制を進める上で電気事業の立場から協力した日本発送電の存在を総司令部が見逃すはずはなく、1948年日本発送電と9配電会社は過度経済力集中排除法における第二次指定会社の対象企業として持株整理委員会より指定を受けた[150]。
日本発送電を解体するに当たり、発電・送電・配電の一体化では一致を見たものの解体後の新組織形態を従来の日本全国一社経営とするか、地域別に電力会社を設立して分割するかで激しい意見対立が発生。1949年政府は電気事業再編成審議会を設立し、意見集約を図った。審議会では審議委員長である旧東邦電力社長の松永安左エ門が9ブロックに地域分割した電力会社設立を強硬に主張。最終的に付帯意見であった松永案が総司令部の意向もあって政府案となり国会に電気事業再編成法案が提出されたが審議は紛糾、政府や与党内にも反対意見が根強く審議未了となった。業を煮やした総司令部は再編成が成立するまで新規電気事業の許可を凍結すると政府に強固な圧力を掛け、最終的にポツダム政令という伝家の宝刀を用いて1950年電気事業再編成令と公益事業令を発令、属地主義に基づく配分作業が開始された。しかし水力発電の有望な未開発地点が多く残された東北地方・中部地方・北陸地方については発電用水利権の帰属を巡り紛糾。特に電力会社垂涎の的であった只見川流域については、本名ダム・上田(うわだ)ダムの発電用水利権帰属を巡る東北電力と東京電力の争いが河川管理者である福島県・新潟県を巻き込み、ひいては東北地方対関東地方・新潟県の争いという地域間紛争に発展。法廷闘争や国会の参考人招致にまで問題が拡大した[151][152]。
最終的には公益事業委員会の裁定により、これら紛糾した水利権帰属問題は物部長穂が1926年の論文で主張した「河川一貫開発」に基づき、例えば木曽川水系では本流は旧大同電力の流れをくむ関西電力が、飛騨川など岐阜県内の支流は旧東邦電力の流れをくむ中部電力が水利権を継承するというように属地外については旧電力会社の流れをくむ新会社が一社で一河川を独占的に開発する方向で解決し、以後北海道電力の日高電源一貫開発計画や中部電力の飛騨川流域一貫開発計画のように水系・流域で一貫した水力開発計画が着手された。1951年5月1日、日本発送電は9電力会社[注 15]に分割・民営化され電力国家管理は終焉を迎えた[151]。なお電力行政を司る商工省はこの間1949年に廃止され、通商産業省が新たに発足し電力行政を継承している。
しかし設立間もない9電力会社は経営基盤が弱く、大規模な水力発電開発を遂行するだけの経営的な体力が不足していた。さらに1950年の朝鮮戦争に伴う特需景気が電力需要をさらに急増させ、記録的な渇水もあって深刻な電力危機に直面した。このため大規模な水力発電事業を政府の財政投融資で円滑に実施する必要性が生じ[153]、この目的を以って1952年7月に電源開発促進法が成立。9月には政府と9電力会社が共同出資して高碕達之助を初代総裁とする特殊法人・電源開発が発足した。電源開発は電源開発促進法第13条に基づき、只見川のように大規模でかつ実施が困難な電力開発地点や北上川、熊野川など国土総合開発(後述)の観点で河川総合開発との整合性を図る必要のある地点、球磨川など電力の地域需要を調整する上で重要な地点を開発することが定められた。北上川五大ダムである石淵ダムの水力発電事業(胆沢第一発電所)[注 16]を事業の出発点とした電源開発であるが、北海道電力が資金面の問題で電源開発に事業を移管した糠平ダム(音更川)を中心事業とする十勝糠平系一貫電源開発事業などに発足当初から取り掛かった。電源開発はその後只見川や天竜川、庄川などにおいて日本のダム事業史において大きな足跡を残すダムを建設するようになる[154]。
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電源開発が事業の第一歩を記した旧胆沢第一発電所。胆沢ダム完成により新発電所に機能移転。
河川総合開発事業の成立
特定地域 | 対象水系 | 主なダム |
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十和田岩木川 | 岩木川 奥入瀬川 |
目屋(岩木川) |
北上 | 北上川 鳴瀬川 |
北上川五大ダム 岩洞(丹藤川)・豊沢(豊沢川) 鳴子(江合川)・花山(迫川) |
仙塩 | 名取川 | 大倉(大倉川) |
阿仁田沢 | 米代川 雄物川 |
鎧畑(玉川)・萩形(小阿仁川) 森吉(小又川) |
最上 | 最上川 | 高坂(鮭川)・荒沢(赤川) |
只見 | 阿賀野川 信濃川 |
奥只見・田子倉(只見川) 黒又川第一・黒又川第二(黒又川) |
利根 | 利根川 | 利根川上流ダム群 川俣(鬼怒川)・五十里(男鹿川) |
飛越 | 常願寺川 庄川 神通川 |
成出・椿原(庄川) 打保(神通川) |
天竜東三河 | 天竜川 豊川 |
佐久間・秋葉(天竜川) 美和・高遠(三峰川)・宇連(宇連川) |
木曽 | 木曽川 | 丸山(木曽川)・横山(揖斐川) 牧尾(王滝川)・朝日(飛騨川) |
吉野熊野 | 紀の川 新宮川 |
大迫(紀の川)・津風呂(津風呂川) 猿谷・風屋(熊野川)・池原(北山川) |
大山出雲 | 斐伊川 旭川 |
三成(斐伊川) 湯原・社口(旭川) |
芸北 | 太田川 | 王泊(滝山川)再開発 |
錦川 | 錦川 | 菅野・水越(錦川) |
那賀川 | 那賀川 | 長安口・川口・小見野々(那賀川) 大美谷(大美谷川) |
北九州 | 遠賀川 | 力丸(八木山川) |
南九州 | 大淀川 肝属川 |
高隈(串良川) |
敗戦により荒廃した国土を復興させるに当たり、台湾や朝鮮半島など戦前統治下にあった地域が喪失したことで日本本土の資源を有効に開発することが絶対的な条件であった。内閣経済安定本部は、水資源の豊富な日本では戦前から活発に実施されていた河水統制事業をさらに積極的に推進することで、水力発電や灌漑といった利水開発を促進する必要があると考えていた。これは、戦勝国であるアメリカにおいて、ニューディール政策の柱であったテネシー川流域開発公社 (TVA)が世界恐慌以後のアメリカ経済回復に大きな役割を果たしたという前例があり、総司令部民政局の官僚の多くがニューディール政策を信奉するニューディーラーであったことも背景にある[158]。先述したように1947年の河川総合開発調査協議会設置以降、建設省は治水事業の立場から改訂改修計画や治山治水緊急対策要綱を制定してダム事業を推進、農林省は国営土地改良事業や国営農業水利事業の水源として農業用ダムを活用、商工省や日本発送電、および分割・民営化後に誕生した9電力会社や電源開発は大規模水力発電所計画において必須となる発電用ダムを日本各地で建設していた。また地方自治体による河水統制事業も続々再開され相模ダム(相模川)や厚東川ダム(厚東川)、松尾ダム(小丸川)などが完成。1950年には総司令部よりアメリカ合衆国対日援助見返資金が供出されて国庫の補助が充実したことから、さらに多くの河川で河水統制事業が計画されるに至った。これ以降、国庫補助を受けて建設される地方自治体の多目的ダムを補助多目的ダムと呼ぶ[159][136]。
各事業者によってそれぞれの立場から河川開発が活発化するに連れて、一河川における治水事業と利水事業をより合理的に運用することで開発が遅れている地方の地域開発を促進するという気運が高まっていった。1950年第3次吉田内閣は国土総合開発法を成立させ、資源開発・産業振興・国土保全・災害防除などに関して高度の総合施策を必要とし、実施することで著しい効果が期待できる地域を「特定地域」と定め、治水・砂防・土地改良・水力発電・道路港湾整備などを包括して実施する特定地域総合開発計画の策定に入った。特定地域総合開発計画は国土総合開発法第10条に基づき計画されるものであり、「国土を総合的に利用、開発、促進し、並びに産業立地の適正化を図る」という同法の目的を達成させるために計画される、地域開発を発展・高度化させた総合開発計画である。北海道を除く日本各地から51地域が指定申請を行い、翌1951年に19地域が、1957年(昭和32年)に3地域が指定された。これら22地域のうち北奥羽・能登・対馬の3特定地域は河川整備計画がなく、四国西南と阿蘇特定地域はダム計画が消滅したが残る地域は程度の差はあれダム事業による河川開発が計画に盛り込まれた[160][161]。
主なものとして、まず北上特定地域総合開発計画は日本の TVA とも呼ばれ、岩手県内では北上川五大ダムによる治水と電源開発による水力発電、岩洞ダム(丹藤川)などによる土地改良事業などが、宮城県内では鳴子ダムや花山ダム(迫川)による江合川・迫川の治水、鳴瀬川の治水が主な柱となっている。只見特定地域総合開発計画は只見川流域の水力発電開発が柱であり、電源開発による奥只見・田子倉ダム(只見川)という巨大ダム事業を基幹として只見川・阿賀野川の一貫水力発電開発が計画された。利根特定地域総合開発計画は矢木沢ダム(利根川)を筆頭とする利根川上流ダム群や川俣ダム(鬼怒川)・五十里ダムの鬼怒川上流ダム群によって利根川の治水を図ると同時に複数の用水路建設による関東平野一帯の灌漑事業と首都圏への電力供給が目的である。天竜東三河特定地域総合開発計画は美和・高遠ダム(三峰川)による天竜川上流域の治水と発電、宇連ダム(宇連川)を水源とする豊川用水の整備による渥美半島への灌漑、天竜川を利用した電源開発の水力発電事業が骨子であり、その根幹として計画されたのが佐久間ダム(天竜川)である。木曽特定地域総合開発計画は丸山ダムや横山ダム(揖斐川)を中心とする木曽川の治水、中部電力が進めていた飛騨川流域一貫開発計画の水力発電事業、牧尾ダム(王滝川)を水源とする知多半島への灌漑が主目的であり、日本最大級の用水路である愛知用水は本計画で推進された。吉野熊野特定地域総合開発計画は300年来の悲願である大和盆地への用水供給を図るため、紀の川と熊野川という紀伊半島の二大河川を猿谷ダムによってトンネルで連結して導水。和歌山平野への灌漑を図ると同時に大迫ダム(紀の川)や津風呂ダム(津風呂川)を建設して奈良市などへ水を供給(十津川・紀の川総合開発事業)するほか、池原ダム(北山川)など熊野川流域の水力発電開発を電源開発が行うという計画である[162]。こうした大規模総合開発は治水整備を強化させたほか、従来慢性的な水不足に悩まされていても有効な解決策が見出せなかった地域に用水の恩恵を与え、大都市圏への電力供給を強化させて高度経済成長の礎を作った。所定の目的を達した特定地域総合開発計画は1967年(昭和42年)に完了した[163]。
一方、当初から特定地域の対象外である北海道は、独自の総合開発計画が策定されていた。1950年に北海道開発法が制定され、翌1951年に増田甲子七を初代長官とする北海道開発庁と地方支分部局である北海道開発局が発足した。北海道開発局は建設省の治水事業と農林省の土地改良事業を一括して実施する機関であり、北海道のダム事業は北海道総合開発計画に基づき北海道開発局が主体で実施した。最初に着目した河川は北海道最大の河川・石狩川であり、1950年に石狩川水域開発計画が策定されてダムによる総合開発が計画された。まず石狩川支流の雨竜川に農林省の国営土地改良事業と北海道企業局による水力発電事業の共同事業として1953年に鷹泊ダムが完成した。利水専用であるが北海道初の多目的ダムである。続いて計画されたのが三笠市を流れる幾春別川の桂沢ダムである。1934年(昭和9年)より構想された北海道初の治水目的を持つ多目的ダムであるが、電源開発による水力発電事業、三笠市の上水道供給も目的としており、1957年(昭和32年)に完成した。以後北海道においてもダム建設が盛んになり、金山ダム(空知川)や大夕張ダム(夕張川)、岩尾内ダム(天塩川)などの大規模ダムが計画・建設されてゆく[164][165]。
物部長穂が論文で提唱した「河川一貫開発」の概念はこうした施策により確立した。戦前に実施された河水統制事業は河川改修の一部として位置付けられていたが、戦後河川改修の中心事業として重要な位置を占めることになった。このため1951年、名称が河川総合開発事業に変更された。以後、河川総合開発事業は日本の河川事業において中心的な役割を果たして行く[166]。
昭和3(1955年-1969年)
1952年(昭和27年)、サンフランシスコ平和条約締結により日本は連合国軍最高司令官総司令部の占領から解き放たれた。朝鮮戦争による特需景気は日本の奇跡的復興の序曲となりその後1960年代の高度経済成長へと突き進んでいった。経済成長に伴い道路・鉄道・港湾を始めさまざまなインフラストラクチャー整備が大規模に計画、着手されていった。ダム事業においても、この時期は日本のダム事業史に残る大規模プロジェクトが多く手掛けられた時期でもあった。
大ダム時代
明治時代の布引五本松ダム(生田川)建設でコンクリートダム技術が導入され、大正時代にはバットレスダムやマルチプルアーチダムという新たな型式が導入された日本のダム技術は昭和に入ると物部長穂によるコンクリートダム耐震理論の導入、塚原ダム(耳川)におけるコンクリート打設の近代化手法導入によってさらに発展した。戦後に入り欧米の最新技術が導入されることでこの傾向はさらに顕著となる。ダムの型式にも新たな型式が登場した。まず岩石や土を積み上げて建設されるロックフィルダムであるが、設計理論の未確立、洪水処理への不安、土木機械の未成熟による岩石盛り立ての困難さなどにより戦前は建設されなかった。特に粘土など透水性の低い土質をダム本体中心部に据えて水を遮る土質遮水壁型ロックフィルダムは温暖湿潤気候の日本において、最適含水比による土質配合が不可能とされていたが最新土木技術導入により、ロックフィルダムが日本でも建設され始めた[167]。1947年(昭和22年)日本初のロックフィルダム施工例として北上川五大ダムの一つである石淵ダム(胆沢川。53.0メートル)の建設が岩手県で開始され、1951年(昭和26年)には完成例として日本初となる小渕防災溜池(久々利川。20.5メートル)が岐阜県で完成した[167][168]。石淵・小渕両ダムはダム上流部にコンクリートを舗装して水を遮るコンクリート表面遮水壁型ロックフィルダムだったが、土質遮水壁型についても1960年(昭和35年)に完成した岩手県の岩洞ダム(丹藤川。42.0メートル)が第一号として建設され、以後日本におけるロックフィルダムの主流となる[167]。
アーチ式コンクリートダムはダム本体のコンクリート量を節減できる点で経済的な型式だが、強固な両側岩盤の存在が建設の絶対条件であり[注 17]、洪水処理の不安に加え世界有数の地震大国である日本において建設することへの技術的不安があり建設が躊躇されていた。アーチ式堰堤としては1909年(明治42年)に完成した大湊第一水源地堰堤(宇田川)が日本初であるが高さ7.0メートルのごく小規模なもので、高さ15メートルを超えるアーチダムとしては島根県に建設された三成ダム(斐伊川。35.0メートル)が初である[167]。しかし高さが100メートルを超えるアーチダムの建設は不安を払拭できなかった。九州電力が宮崎県の耳川最上流部に建設した上椎葉ダムは、当初重力式コンクリートダムとして建設される予定であったが、総司令部の下部機関であるアメリカ合衆国海外技術顧問団 (OCI) が両側基礎岩盤の堅固さを理由にアーチダムの建設を提言。以後 OCI の助言の下に建設を進め高さ110.0メートルのアーチダムとして1955年(昭和30年)に完成した[169]。続いて宮城県に建設された鳴子ダム(江合川。94.0メートル)は日本人だけで手掛けられ[170]、電子計算機の導入による迅速な設計や岩盤力学の発展もあってアーチダムの知見が日本でも深まり100メートル級の大規模アーチダムが盛んに建設された[167]。さらにアーチダムの応用形として重力式コンクリートダムの特徴も兼備した重力式アーチダムも埼玉県に1961年(昭和36年)建設された二瀬ダム(荒川。95.0メートル)以降大規模なダムが建設された[171][注 18]。
中空重力式コンクリートダムはコンクリート量を節減しつつダム本体の安定性を確保できる経済的な型式としてイタリアより導入され、中部電力が1957年(昭和32年)に井川ダム(大井川。103.6メートル)を完成させたのが日本初である[167]。中部電力は大井川において井川ダム以後も1962年(昭和37年)に同型式として当時世界最大の高さを有した畑薙第一ダム(125.0メートル)と畑薙第二ダム(69.0メートル)を建設しており、大井川は日本で13か所しかない中空重力ダムが3か所、しかも三連続で建設されている日本唯一の例である[172][173]。このほか複数のダム型式の特徴を複合させたコンバインダムは、1953年(昭和28年)岩手県の石羽根ダム(和賀川)が第一号として完成している[174]。
これらダム技術の急速な発展は、日本に大ダム建設時代を到来させた。1955年に完成した丸山ダム(木曽川。98.2メートル)は日本における100メートル級大ダムの号砲となった[175]。1956年(昭和31年)完成した佐久間ダム(天竜川。155.5メートル)はドリルジャンボなど大型土木機械による本格的機械化工法の導入・工事現場における安全管理・国際競争入札の導入など日本における大型土木事業の基礎を築き、日本の重電・建機メーカーに技術的な自信を与えて国外へ雄飛する契機を作るなど日本土木史に残る「金字塔」となった[176]。東京都水道局が1957年に完成させた多摩川の小河内ダム(149.0メートル)は世界最大級の水道用ダムとして、首都・東京の重要な水源となった[177]。北陸電力が常願寺川有峰発電計画の中心事業として1959年(昭和34年)に完成させた有峰ダム(和田川。140.0メートル)は国際復興開発銀行の支援により建設され[178]、1960年には日本最大の重力式コンクリートダムとして完成以来記録が破られていない奥只見ダム(只見川。157.0メートル)[179]、1961年には日本初の100メートル級大規模ロックフィルダムであり「21世紀のピラミッド」と形容された御母衣ダム(庄川。131.0メートル)が完成した[180]。
そして日本の大ダム建設における真打となったのが、日本最大の高さ・186.0メートルを有する黒部川の黒部ダムである。人跡未踏の黒部峡谷に大正時代から計画された黒部ダムは当時の関西電力社長・太田垣士郎の決断で1956年より建設が開始された。しかし物資を運搬するために建設された長野県大町市からダムサイトを結ぶ関電トンネルの掘削に始まる工事は難工事の連続であり、険阻な黒部峡谷は度重なる労働災害を招いた。さらに1959年12月フランスでマルパッセダム決壊事故が発生し事業に融資する国際復興開発銀行が高さの変更を勧告するなど困難が連続した。関西電力の年間電力収入の半分に当たる約513億円[注 19]の事業費、延べ約1,000万人におよぶ従事者を動員した黒部ダムは1963年(昭和38年)に完成した。立山黒部アルペンルートの中心的な観光地として年間数百万人の観光客を集める黒部ダムは、石原裕次郎・三船敏郎主演の『黒部の太陽』[注 20]や織田裕二主演の『ホワイトアウト』において映画の舞台となっている[181]。
水資源の開発
河水統制事業に始まる一連の河川総合開発事業は、一部の例外を除き当初の主要な目的は治水(洪水調節)と農地への灌漑、水力発電が主体であったが、1950年(昭和25年)の国土総合開発法に基づく特定地域総合開発計画や各河川の河川総合開発事業において、治水と灌漑、水力発電開発に加えて上水道や工業用水道の供給を目的とした事業が盛り込まれている。水道専用ダムについては、日米和親条約以降の開港に伴う港湾都市の人口増加やコレラなど水系感染症の蔓延予防などで上水道の整備が不可欠になったことで明治時代に建設されたが、水道関連法規として1890年(明治23年)に成立した水道条例は水道敷設に重点を置いたもので、法整備は遅れていた。戦後の特需景気以降日本の重工業は急成長を遂げ、四大工業地帯を中心とする工業地帯が発展。工場の増加と生産性向上に伴い工業用水需要が次第にひっ迫していった。当時工業用水は地下水に依存していたことで日本各地で地盤沈下が社会問題化、また地下水だけでは最早工業用水需要を賄うことが出来ず、京浜工業地帯・阪神工業地帯・北九州工業地帯を中心に深刻な用水不足が生じた。また経済発展や食糧供給の好転により人口も急増、特に大都市圏の人口増加が顕著となり上水道需要もひっ迫。1964年(昭和39年)の通称「東京沙漠」と呼ばれる東京都大渇水など各地で水不足が深刻となった[182][183]。
このため上水道や工業用水道を安定的に確保するための水資源整備が強く求められた。特に首都圏における水資源整備については政府や関係する省庁以外でも具体的なプランの発表があった。戦後日本共産党書記長となった徳田球一は1949年(昭和24年)、『利根川水系の綜合改革 社会主義建設の礎石』という論文をパンフレットで発表。徳田はこの中で利根川と荒川、多摩川を大運河で連結して利根川上流部に建設する多数のダムから用水を多摩川まで導水し、東京の水需要を好転させるべきであると主張した[184]。また電気事業再編成を主導した松永安左エ門は1956年に政財界・学界の有力者を集めて産業計画会議を発足させたが、主要な提言の一つである沼田ダム計画(利根川。後述)において利根川の水行政を一元化させるため「利根川開発庁」を設置すべきであると主張している[185]。こうして水資源の開発は河川事業において治水や電気事業に並ぶ重要な関心事になりつつあった。
水道行政は内務省・建設省が河川・建設行政の一元化を狙い、水質保全を重視する所管官庁の厚生省との間で激しく対立したが、最終的に1957年1月石橋内閣において厚生省が水道行政を所管することで決着し水道法が成立した[186]。しかし水資源開発に関連する新法案の制定を巡り再び各省庁間における対立が激しくなる。1959年厚生省は「水道用水公団案」を発表し京阪神・北九州において広域水資源開発を構想した[187]。すると1960年には建設省が「水資源開発公団案」、農林省が「水利開発管理公団案」、通商産業省が「工業用水公団案」を発表してそれぞれの省庁が所管する事業中心の特殊法人設立を主張した。一時は暗礁に乗り上げるかと思われたが自由民主党水資源特別委員会の委員長だった田中角栄が池田勇人内閣総理大臣や大平正芳内閣官房長官を説得し、自由民主党は建設省案を支持したが残る三省は伊東正義農林省農地局長らを中心に「用水事業公団案」を提出し再度対立する。このため福田赳夫自由民主党政務調査会長が2公団並立を政府に提案し、調整されたが財政面で大蔵省が2本立てに反対し一本化を要求[188]。最終的に総理大臣裁定により1961年「水資源開発公団案」が政府案としてまとめられ、第38回通常国会で審議されたが審議未了となった。続く第39回臨時国会の衆議院建設委員会で再び上程されたが、この時日本社会党が1955年に設立された愛知用水公団の統合を主張。最終的に自由民主党と民社党による原案に日本社会党の主張する「愛知用水公団の可及的速やかな統合」が附帯決議として加わり、衆議院・参議院両院で三党の賛成により10月に可決成立。水資源開発促進法が11月に、水資源開発公団法が翌1962年2月に公布されて5月に特殊法人である水資源開発公団が発足した[187]。独立行政法人水資源機構の前身である。
公団は建設・農林・厚生・通商産業四省を主務官庁とし、内閣総理大臣が水資源開発において緊急に実施する必要がある河川を関係各所と協議の上で「水資源開発水系」に指定。水資源開発基本計画(フルプラン)を作成して河川広域総合開発を実施することを目的にしている[189]。発足と同時に利根川水系と淀川水系が水資源開発水系に指定され、建設省が施工していた矢木沢ダム(利根川)・下久保ダム(神流川)・高山ダム(名張川)が公団に事業移管された。公団は矢木沢ダムを水源として武蔵水路・朝霞水路を通じて利根川から荒川へ導水して東京都に水道用水を供給する利根導水路事業を実施、1964年の東京オリンピック直前に完成させて「東京沙漠」に苦しむ首都を救った。同年には筑後川水系が水資源開発水系に指定され、江川ダム(小石原川)が計画された。1965年(昭和40年)には木曽川水系が開発水系に指定され、日本社会党による附帯決議に示された愛知用水公団の統合が1968年(昭和43年)に実現し愛知用水と豊川用水が公団の管理下に入ると共に、総合開発を巡って各省庁で対立していた岩屋ダム(馬瀬川)が公団事業として計画された。1966年(昭和41年)には四国地方最大の河川・吉野川水系が開発水系に指定され、吉野川総合開発計画の中心である早明浦ダム(吉野川)が建設省より事業移管され、池田ダム(吉野川)と香川用水が計画された。1974年(昭和49年)には荒川水系が開発水系に指定され、利根川と一体化した水資源開発が計画され後に滝沢ダム(中津川)と浦山ダム(浦山川)が建設省より事業移管された[190]。最後に豊川水系が1990年(平成2年)に開発水系に指定され、豊川用水の管理と改築が開始されている[191]。
公団が手掛けた最初のダム事業は1970年(昭和45年)に完成した青蓮寺ダム(青蓮寺川)である[192]が、矢木沢ダムなど建設省から事業が移管されて建設されたダムも多い。公団による水資源開発により、四国四県の水瓶として「四国のいのち」と称される早明浦ダムや[193]、首都・東京の重要な水源となった矢木沢ダム、東海三県の水瓶である牧尾ダム(王滝川)や岩屋ダム[194]、1978年(昭和53年)の福岡市大渇水で緊急的に給水を実施した寺内ダム(佐田川)[195]など、地域の重要な水源として機能しているダムが多い。しかし、特に2000年代以降これらの水資源整備を実施しても解消できない水不足が発生している(後述)。
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公団が手掛けた最初のダム、青蓮寺ダム(青蓮寺川)。1970年完成。
ダム関連法規の整備
河川総合開発事業や各事業者によるダム開発が進むに連れ、1896年(明治29年)に成立した旧河川法ではいよいよ対応が難しくなった。そもそも旧河川法は堤防による治水に重点を置いた法律であり、河川管理も区間毎に管理者が異なる区間主義を採用していた。このため物部論文に基づく河川一貫開発・管理の概念で実施されている河川総合開発事業との間に根本的な食い違いが生じていた。またダム建設に伴う費用配分や管理形態も、大正時代の単一事業者によるダム事業と異なり、複数の事業者が関わる多目的ダムの建設が多くなることで所有権の問題が新たに発生した。加えて日本国憲法が施行されたことにより国の行政や制度が大変革し、それに合致した新制度を河川行政に導入しなければならないという現実も生じていた[196]。
まず変更が行われたのは多目的ダムに関する法整備である。旧河川法では河川管理施設[注 21]は「河川の付属物」と認定されるが、認定されると管理は原則河川管理者である建設大臣(国土交通大臣。以下同じ)または都道府県知事が行い、私権は排除される。しかし複数の管理者による事業である多目的ダムでは私権の排除ができないため、民法第244条-262条に定められた共有物持分規定に則った管理が定められた。この方法では負担額に応じてダム所有権が割り振られ管理は共同管理となるが、河川管理者の専管事項である治水目的の責任所在が不明確になる欠点があった。河川法では河川管理者以外に洪水調節を委ねることはできないため、対策として旧河川法に付属する省令として1954年に昭和29年建設省令第11号、(旧)河川法第4条第2項の規定に基づく共同施設に関する省令が発令された。この省令では「河川の付属物」における私権の排除という規定を除外することで民法の共有物規定に基づき管理される多目的ダムも「河川の付属物」に含め、管理を原則河川管理者に一元化することで治水事業を容易にさせるという目的があった。しかし付属物と認定する際には費用を負担した共同事業者の同意が必要で、同意が得られないとこの省令は無効になるという欠点が新たに生じた[196]。こうした共同施設としてのダム管理における欠点は主に以下の四点に集約される[197]。
- 建設工事の受託・委託契約を事業者毎に取る必要が生じる。このため会計が二本立てとなって工事の能率が阻害される。
- 労働災害など万が一における責任の所在が不明確になる。
- 治水目的が重要な位置を占める多目的ダムでは治水事業の一元的な管理を河川管理者が行使できず、災害の際に重大な結果をもたらす危険性がある。
- 巨額な資産を投資する重要な財産でありながら、共有持分についての登記や担保を行う方法がない。
殊に建設省直轄ダム事業の場合は、こうした弊害が強く現れるために法整備が必要となった。上記の諸問題を解決するため1957年に施行されたのが特定多目的ダム法である。同法は建設大臣が事業者である直轄ダム事業において、計画・建設・管理を一貫して建設大臣が行い、直轄ダムの所有権は建設大臣に帰属することが明記された。これにより従来の民法における共有物持分規定は適用されず、複数の利水事業者が事業に参加しても所有権は認められない。その代わりとして事業に参加する利水事業者には「多目的ダムによる一定量の流水の貯留を一定の地域において確保する権利」すなわちダム使用権が設定された。この権利は不動産の権利規定を準用しており、抵当権の設定については登記簿の代わりにダム使用登録簿を作成して登録する。これにより権利の移動を明確にして担保価値を把握し易くした。ただし権利の移動に関しては建設大臣の許可が必要である[196]。また経理的な問題に関しては特定多目的ダム建設工事特別会計が設置され、財源に関する制度的保障が確立されただけでなく道路や港湾などの特別会計の先駆となった。特定多目的ダム法が適用された第一号のダムは、天竜東三河特定地域総合開発計画で建設され1959年に完成した長野県の美和ダム(三峰川)である[198]。特定多目的ダム法成立以後、建設省(国土交通省)によって建設されるほとんどの多目的ダムは同法に基づき建設され、これらのダムは特定多目的ダムと呼ばれる。ただし同法成立以前に完成した直轄ダムについては遡及して適用されず、直轄ダムの内の幾つかは、同法の適用を受けていないダムもある(後述)。
そして河川総合開発の発展により時代に合わなくなった旧河川法自体の改正が河野一郎建設大臣の強力な推進もあって1964年に難産の末成立、翌1965年に施行された。この改正河川法を旧河川法と対比して新河川法と呼ぶ。最大の特徴は物部論文が主張していた河川一貫開発・管理を法制化したことである。まず河川管理について、旧河川法で規定されていた河川法適用河川・河川法準用河川の区分を廃止、原則国が管理する一級河川(水系)と都道府県が管理する二級河川(水系)に区分した。ただし一級河川については、一定の区間について都道府県に管理を委任できる(指定区間)と定めたため、特定多目的ダム法の適用範囲は、一級河川で国が管理する区間(指定外区間)に建設される直轄ダムに適用される。またダムの基準についても、従来の河川堰堤規則や発電用高堰堤規則といった戦前に発令された省令を廃止し、第3款第44条で「基礎岩盤からの高さが15メートル以上」と法律上で明確に規定した[199][200]。ただし河川法におけるダムの基準は利水目的のダムに対しての基準であり、多目的ダムを含む治水目的のダムは適用外だった。治水目的のダムに河川法第44条で定められたダムの基準が援用されたのは、1976年(昭和51年)に政令第199号として制定された河川管理施設等構造令である。この二つの法令によりダムの基準が確立し、高さ15メートル以下の河川管理施設は例え外観がダムであっても堰の扱いとなり、砂防ダムは例え15メートル以上の高さで砂防以外の目的を持っていたとしても河川法や河川管理施設等構造令におけるダムとしては認められなくなった[201]。
また特定多目的ダム法・水資源開発公団法(水資源機構法)に基づくダム以外の多目的ダムについては第3条の河川管理施設と、第1款第26条に規定された河川工作物[注 22]が相互に効用を兼ねる兼用工作物と解釈され、第17条において管理者同士の協議で工事、維持管理、操作ができると規定されている[200]。この兼用工作物に当たるダムとしては地方自治体が国庫の補助を受けて建設する補助多目的ダム、特定多目的ダムが施行される前に完成した直轄ダムのほか、利水事業者のダム事業に建設省が後乗りで事業に参加した多目的ダムが該当する。例えば九頭竜ダム(九頭竜川)、手取川ダム(手取川)、新豊根ダム(大入川)は元々電源開発が発電用として計画していたものに、治水上の重要性から建設省が追加で事業に参加したため建設大臣が施工主体であっても兼用工作物となる。また治水目的に限定されている立野ダム(白川)や地方自治体から直轄管理に移管された長安口ダム(那賀川)・品木ダム(湯川)なども同じである。兼用工作物の直轄ダム事業は「直轄河川総合開発事業」として扱われる[202][203][204]。
昭和4(1970年-1988年)
高度経済成長は日本を世界有数の経済大国に押し上げた。しかし高度経済成長に伴う歪みは四大公害病をはじめとする公害など様々な社会問題を引き起こし、解決に相応の時間を要した。高度経済成長を支えたダム事業も、技術の発達や法整備によって日本各地で盛んに実施されたが、その副作用がダム事業の在り方を大きく変えてゆく。1970年代以降は、ダム事業が大きな曲がり角に差し掛かる時期であった。
移転住民の涙
水系 | 河川 | ダム | 事業者 | 移転戸数 ・世帯数 |
---|---|---|---|---|
多摩川 | 多摩川 | 小河内ダム | 東京都水道局 | 945 |
北上川 | 和賀川 | 湯田ダム | 国土交通省 | 622 |
九頭竜川 | 九頭竜川 | 九頭竜ダム | 国土交通省 電源開発 |
529 |
新宮川 | 北山川 | 池原ダム | 電源開発 | 529 |
球磨川 | 川辺川 | 川辺川ダム | 国土交通省 | 528 |
北上川 | 雫石川 | 御所ダム | 国土交通省 | 520 |
旭川 | 旭川 | 旭川ダム | 岡山県 | 510 |
紀の川 | 紀の川 | 大滝ダム | 国土交通省 | 487 |
吉井川 | 吉井川 | 苫田ダム | 国土交通省 | 470 |
木曽川 | 揖斐川 | 徳山ダム | 水資源機構 | 466 |
利根川 | 神流川 | 下久保ダム | 水資源機構 | 364 |
吉野川 | 吉野川 | 早明浦ダム | 水資源機構 | 350 |
利根川 | 吾妻川 | 八ッ場ダム | 国土交通省 | 340 |
手取川 | 手取川 | 手取川ダム | 国土交通省 電源開発 |
330 |
九頭竜川 | 真名川 | 真名川ダム | 国土交通省 | 316 |
ダムを建設することで、避けられない問題として移転住民に対する補償の存在がある。ダムを計画する際、峡谷部の上流に小盆地が広がる地形は貯水池を形成する上で絶好の適地である。しかしそうした小盆地には必ずといって良いほど集落や農地が存在する。気候や環境の厳しい山間部の土地で脈々と先祖代々から受け継いだ土地で生活する住民にとって、降って沸いたダム計画は地域共同体を消滅させる災難以外の何物でもなく住民の言葉を借りれば「来てくれと頼んだ覚えはない」の一言に尽きた。加えてダムの恩恵は下流地域に与えられ、水没地域には何の恩恵ももたらさない。このためダム計画が持ち上がると住民は絶対反対の旗幟を鮮明にし、水没する家屋・土地・財産の補償交渉は厳しいものがあった[208][209]。
こうした移転住民に対する事業者の態度は、戦前の私権が十分に確立していない時期には住民不利になることが多かった。富山県の小牧ダム(庄川)では庄川流木事件に見られる事業者と流域住民の対立が長期に及んだ。東京都の小河内ダム(多摩川)では旧小河内村全村945世帯が移転、移転した住民の苦難は石川達三の『日蔭の村』に描かれるほど困窮し一部は清里の開拓に未来を託し、昭和天皇も移転者のその後を気に掛けていた[207][210]。岩手県の田瀬ダム(猿ヶ石川)では移転後に変わり果てた我が家を見た住民が涙に暮れ[211]、神奈川県の相模ダム(相模川)に至っては陸海軍の圧力に屈して不本意な補償内容を呑まざるを得なかった(「軍部の介入」節を参照)。戦後も岩手県の石淵ダム(胆沢川)で移転住民は満足な補償金を受け取れず困窮し[212]、香川県の内場ダム(内場川)では建設に反対して墳墓の土地を動かない一部住民に対して事業者の香川県が住民を追い出すため試験湛水を強行[213]。宇摩地域住民の悲願であった銅山川疏水を実現させた愛媛県の柳瀬ダム(銅山川)では補償交渉の席上愛媛県土木部長が将来観光地になって寂しい山奥が賑やかになると失言し、移転住民から「故郷を失う我々の前でボートとは何だ、観光客とは何だ」と悲痛な反論を受けている[214]。私権の保護が重視されなかった戦前や、日本国憲法が施行されても生存権の尊重といった概念が確立していなかった戦後初期にあって「官尊民卑」の風潮が色濃く残っていた時代の問題であり、こうした事業者、特に建設省の態度は1963年(昭和38年)に科学技術庁資源局が発行した『石淵貯水池の水没補償に関する実態調査報告』の言葉を借りるならば「国益を強調した権威主義と強制収用をちらつかせる強圧的態度」であり、「移転住民の気持ちを考え、移転後の生活を思い遣る態度は全く見られない」姿勢に終始していた[212]。
心情を理解されない移転住民の悲しみは、やがて事業者に対する強い怒りとなって表れ日本各地で激しいダム反対運動が巻き起こる。福島県の田子倉ダム(只見川)で1954年(昭和29年)に発生した田子倉ダム補償事件は戦後のダム反対運動の先駆けであった。ダム建設に反対する住民はレッド・パージで地下活動を行っていた日本共産党の思想的扇動を受けて反対運動を激化させ、円滑な補償を行うため事業者の電源開発と仲介した大竹作摩福島県知事が提示した高額な補償金額に対して建設省が反対姿勢を明確にして混乱。解決に2年を費やした[215]。159戸が移転した群馬県の藤原ダム(利根川)では何の前触れも無く建設省が突然ダム建設に取り掛かって住民が激怒し利根郡水上町(みなかみ町)挙げての反対運動が勃発[216]。京都府の大野ダム(由良川)では建設省の強硬姿勢に反発する住民に対し、蜷川虎三京都府知事が住民本位の補償を建設省に求めて奔走し補償交渉妥結に導いた[217]。こうした移転住民の不満は遂に九州・阿蘇山麓において火の手を挙げた。1957年(昭和32年)に勃発した松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)に対する日本最大のダム反対運動・蜂の巣城紛争である。昭和28年西日本水害による筑後川の激甚災害を機に計画された両ダムであるが、建設省担当者の移転住民の生活を思い遣らない態度に反発した室原知幸ら熊本県阿蘇郡小国町住民は下筌ダム右岸に「蜂の巣城」という砦を築いて抵抗。1960年(昭和35年)の九州地方建設局代執行水中乱闘事件に見られる流血闘争や事業認定無効の法廷闘争、さらには日本労働組合総評議会や自由法曹団などの活動家も介入し都合13年にわたる激烈な反対闘争となった。蜂の巣城紛争は1970年(昭和45年)に室原が死去し遺族と建設省の和解が成立して終結する。しかし単身で国家に抵抗した室原が唱えた「公共事業は法に叶い、理に叶い、情に叶うものでなければならない」という精神は、公共事業と日本国憲法が認める生存権との兼ね合いに大きな問題を投げかけた[218][219][220]。このほか群馬県の八ッ場ダム(吾妻川)や奈良県の大滝ダム(紀の川)、岡山県の苫田ダム(吉井川)では自治体・住民一体の激しい反対運動にまで拡大し[221][222][223]、遂には勇払郡占冠村全村が反対した北海道の赤岩ダム計画(鵡川)や、移転戸数2,200戸という途轍もない補償案件のため神田坤六群馬県知事・群馬県議会・沼田市が反対した沼田ダム計画(利根川)のようにダム計画が中止に追い込まれる例も現れた[224][225]。
移転住民への対応に関して建設省と正反対の態度を示したのが、電源開発であった。日本のダム事業史に残る大ダムを数多く建設した電源開発であるが、296戸が水没した佐久間ダム(天竜川)では木目細かい補償費用の算出を元にした交渉を行い、補償額が高いという批判に対して「生きている人間を相手に、一片のペーパープラン通りには行かない」と突っぱね[226][227]、250戸が水没し「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」による強烈な反対運動が繰り広げられた御母衣ダム(庄川)では初代総裁であった高碕達之助が住民と涙を流しながら交渉に当たり、藤井崇治副総裁が『幸福の覚書』を取り交わして妥結に持ち込んだ。さらに水没する樹齢400年のエドヒガンを笹部新太郎らの協力で高台に移植するという世界でも例のない離れ業をやってのけ、「荘川桜」として移転住民の故郷への思い出を残した[228][229]。建設省との共同事業で建設され、電源開発が施工を担当した九頭竜ダム(九頭竜川)では、移転529戸という大規模な補償案件であったが補償交渉が妥結するまで建設工事は行わないという「九頭竜補償方式」を確立。住民の信頼を得てわずか2年で補償交渉を妥結させた[230][231]。
こうした補償問題に対して政府は1951年(昭和26年)の土地収用法改正で補償の対象となる権利を明確化させて、補償交渉の円滑化を進めた。また1953年(昭和28年)には電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱、翌1954年に公共事業の施行に伴う損失補償要綱を策定。その後も続発する補償問題に対応すべく法整備を実施したが、移転戸数が多いダム事業の増加に伴いそれだけでは根本的な解決が難しくなった。1969年(昭和44年)には全国知事会が水源地域開発のための立法化を要請、1972年(昭和47年)には再度立法化のための知事会試案を政府に提出するなど補償問題で矢面に立つ地方自治体側から補償に関する法整備が強く要望された。これを受け政府は1974年(昭和49年)に水源地域対策特別措置法(水特法)を施行した。水没戸数20戸以上または水没農地面積20ヘクタール以上(北海道は60ヘクタール以上)のダムについて生活再建、生活環境や産業基盤の整備などで住民の福祉増進を図ることを目的としており、1994年(平成6年)には貯水池の水質汚濁防止が目的に追加された。施行後1974年7月20日に手取川ダム(手取川)などが指定されたのを皮切りに2015年(平成27年)時点で96ダムと霞ヶ浦が指定されている[232][233][234]。また同年には電源三法(電源開発促進税法・発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進対策特別会計法)が施行された。主に原子力発電所の立地促進が目的であるが、発電用施設周辺地域整備法に関しては福島県の大川ダム(阿賀野川)など水力発電目的を有するダム事業においても補助が行われている[235][236]。
こうして補償問題に関する一連の法整備は整えられた。ここまでの間に多くの住民が住み慣れた故郷に永遠の別れを告げており、中には徳山ダム(揖斐川)の旧徳山村など自治体ごと消滅した地域もある。しかし住民たちは最終的にはダム建設の重要性を認識し、苦渋の決断を行った。こうした水源地域住民に対して1976年(昭和51年)に利根川・荒川水源地域対策基金が設けられたのを皮切りに多くの地域において水源地域支援のための財政援助や上下流の地域住民交流が下流受益地の自治体で実施され、水源地域に対する報恩の意思を示している[237]。
新事業と新技術
大正時代から高度経済成長期に掛けて日本では数多くのダムが建設されたが、それに伴い次第にダムを建設する適地が減少していった。また計画しても費用対効果の点や沼田ダム計画のように水没物件などの問題で絶好の適地でありながら計画を放棄した地点も多く、限られた中でより有効なダム事業を進める必要が生じた。ダム事業者はこの点を踏まえた新たな事業展開を進めている。
戦後早期に見られた広範囲の地域に被害を及ぼす水害はダムや河川改修の整備によって次第に少なくなったが、局地的な集中豪雨などによる水害は多いままであった。局地的豪雨による災害を防ぐための地域限定的な治水対策事業の一つとして1967年(昭和42年)に補助治水ダム事業が導入された。治水ダムとは洪水調節単独、または洪水調節と河川の正常な機能を維持するための流量調節(河川維持放流)を目的とした治水特化型のダムである。1956年(昭和31年)に県営ダム事業として香川県に五名ダム(湊川)が建設されたのを皮切りに、河川改修事業や農地防災事業として各自治体が建設を進めていた。補助治水ダム事業はこうした治水ダム事業に対して補助多目的ダムと同様に国庫の補助を行う制度で、秋田県の旭川治水ダム(旭川)などが指定第一号として着手され、北海道の有明ダム(茂築別川)が1971年(昭和46年)同事業初の完成例となった[238][239][240]。一方多目的ダムでも、山間部や離島など限られた一定の地域に対する治水・利水を目的とした小規模な補助多目的ダム事業として1988年(昭和63年)小規模生活貯水池事業が創設され、こちらも多くのダムが建設されている[241][242]。
既存のダム機能を増強させる目的で施工されるダム再開発事業も次第に増加していった。主に貯水池の掘削や有効貯水容量の配分変更、放流施設機能強化による治水・利水機能の強化と、ダム自体のかさ上げまたは既存ダム直下流に新たなダムを建設して貯水容量自体を増やし治水・利水機能を強化する二つの方法が採られている。前者としては昭和47年7月豪雨による被害や岡山市の水道需要増大を受けて1983年(昭和58年)に再開発された岡山県の旭川ダム(旭川)[243]や、283日にも及んだ1978年(昭和53年)の福岡市大渇水を機に貯水池掘削による容量増加を1985年(昭和60年)に実施した福岡県の南畑ダム(那珂川)[244]、施工中のダムとしてバイパストンネルによる放流機能増強を図る京都府の天ヶ瀬ダム(淀川)や愛媛県の鹿野川ダム(肱川)などがある[245][246]。後者としてはダムかさ上げ例として水道専用ダムを21.9メートルかさ上げして1984年(昭和59年)に多目的ダム化した北海道の新中野ダム(亀田川)[247]や既設ダムを1979年(昭和54年)に16.5メートルかさ上げした川上ダム(富田川)[248]があり、施工中のものとして北海道の桂沢ダム(幾春別川)を11.9メートルかさ上げする新桂沢ダム[249]、岐阜県の丸山ダム(木曽川)を20.2メートルかさ上げして治水機能を強化する新丸山ダムがある[250]。また既設ダム直下流に新たなダムを建設する再開発事業として北海道の夕張シューパロダム(夕張川)[251]、青森県の浅瀬石川ダム(浅瀬石川)と津軽ダム(岩木川)[252][253]、岩手県の胆沢ダム(胆沢川)[254]、山形県の長井ダム(置賜野川)[255]、島根県の八戸ダム(八戸川)[256]などがある。なお事業の完成により日本初の多目的ダム施工例だった沖浦ダムは浅瀬石川ダムに、日本初のロックフィルダム施工例だった石淵ダムは胆沢ダムに、大夕張ダムは夕張シューパロダムに、管野ダムは長井ダムの湖底にそれぞれ水没。目屋ダム(岩木川)や桂沢・丸山ダムも再開発の完成により水没する運命である。
ダム技術については工事の機械化・省力化による事業費圧縮を目的として様々な研究が進められ、その結果RCD工法と台形CSGダムという世界初のダム技術が日本で誕生した。RCD工法のRCDとは Roller Compacted Dam-Concrete の略であり、セメントの量を極力少なくした貧配合の超硬練りコンクリートをブルドーザーで撒き出して振動ロードローラーで締め固める工法であり、ロックフィルダムの工法をコンクリートダムに援用したものである。1973年にアメリカ陸軍工兵司令部が試験的な施工を行っていたが、日本では建設省が大川ダムの上流仮締切ダムにおける試験的な施工を経て1978年に山口県の島地川ダム(島地川)において本体工事に世界で初めて採用した。以後大規模コンクリートダムの標準的な施工法となり、佐賀県の嘉瀬川ダム(嘉瀬川)や栃木県の湯西川ダム(湯西川)などではより高速のコンクリート打設が可能となった巡航RCD工法が導入されている[257][258]。一方台形CSGダムは日本で開発された新しい型式で、CSGとは Cemented Sand and Gravel の略である。ロックフィルダムで実証されている台形ダムの安定性を応用した設計の合理化と、コンクリート原材料の品質を厳選せず利用できる材料の合理化、およびRCD工法と同様の手法で施工ができる施工の合理化を兼備したダム型式であり、事業費の圧縮や材料取得のための原石山掘削といった環境への負荷を軽減できる利点がある。沖縄県の金武ダム(億首川)が施工第一号として2002年(平成14年)より開始され、2012年(平成24年)北海道の当別ダム(当別川)が世界で初めて同型式として完成した[259][260][261]。日本では当別・金武ダムのほか幾つかのダムで本型式が導入予定だが[262]、洪水処理など実運用における技術的課題が残されている。
また、ダムの放流に欠かせない洪水吐きのゲート設置にも変化がみられた。大正時代に建設された発電用ダムを中心に戦前完成したダムの多くは多数のゲートが横一列に並ぶタイプが多かったが、戦後アメリカ合衆国海外技術顧問団の勧告や水門技術の発達などにより比較的少数の大型ゲートによる調節が主流となった[263]。しかし1973年(昭和48年)鳥取県が施工・完成させた補助治水ダム・百谷ダム(天神川)は洪水吐きにゲートを備えない日本初のゲートレスダム(坊主ダム)方式を導入した。ゲートレスダムは豪雨時にダムまで洪水が到達する時間が短く人為的な洪水調節操作が難しい流域面積の狭い河川で主に採用されるが、日本のダム建設においては百谷ダム以降規模の大小を問わずゲートレスダムの建設が主流となっている[264]。さらに治水ダムの中には平常時には全く貯水を行わず洪水時にのみ貯水する洪水調節目的特化型の流水型ダム(穴あきダム)が建設されるようになった。1956年3月に茨城県で完成した藤井川ダム(藤井川)が県営事業としては最初の例[注 23]になるが、2005年(平成17年)に完成した島根県の益田川ダム(益田川)以降、穴あきダム方式の治水ダムが日本各地で新たに計画されている[238][265][266]。
揚水発電の時代
電力会社 | 発電所 | 運転開始 | 認可出力 (kW) |
河川 | 上部調整池 下部調整池 |
---|---|---|---|---|---|
東京電力 | 神流川 | 2005年 | 2,820,000 *予定 |
南相木川 | 南相木ダム |
神流川 | 上野ダム | ||||
関西電力 | 奥多々良木 | 1974年 | 1,932,000 | 市川 | 黒川ダム |
多々良木川 | 多々良木ダム | ||||
東京電力 | 葛野川 | 1999年 | 1,600,000 *予定 |
日川 | 上日川ダム |
土室川 | 葛野川ダム | ||||
中部電力 | 奥美濃 | 1994年 | 1,500,000 | 西ヶ洞谷川 | 川浦ダム |
根尾東谷川 | 上大須ダム | ||||
東京電力 | 新高瀬川 | 1979年 | 1,280,000 | 高瀬川 | 高瀬ダム |
高瀬川 | 七倉ダム | ||||
関西電力 | 大河内 | 1992年 | 1,280,000 | 太田川 | 太田ダム群 |
犬見川 | 長谷ダム | ||||
関西電力 | 奥吉野 | 1978年 | 1,206,000 | 瀬戸谷川 | 瀬戸ダム |
旭川 | 旭ダム | ||||
東京電力 | 玉原 | 1982年 | 1,200,000 | 発知川 | 玉原ダム |
利根川 | 藤原ダム | ||||
中国電力 | 俣野川 | 1986年 | 1,200,000 | 土用川 | 土用ダム |
俣野川 | 俣野川ダム | ||||
九州電力 | 小丸川 | 2007年 | 1,200,000 | 大瀬内谷川 | 大瀬内ダム |
小丸川 | 石河内ダム | ||||
電源開発 | 新豊根 | 1972年 | 1,125,000 | 大入川 | 新豊根ダム |
天竜川 | 佐久間ダム | ||||
東京電力 | 今市 | 1988年 | 1,050,000 | ネベ沢川 | 栗山ダム |
砥川 | 今市ダム | ||||
電源開発 | 下郷 | 1988年 | 1,000,000 | 小野川 | 大内ダム |
阿賀野川 | 大川ダム | ||||
電源開発 | 奥清津 | 1978年 | 1,000,000 | カッサ川 | カッサダム |
清津川 | 二居ダム |
日本のダム建設を牽引してきた水力発電事業も、変容を遂げていた。大正時代から戦後早期に掛けては水力発電が日本の電気事業における中心的な存在であり、火力発電は水力発電の発電量減衰を補う「水主火従」の時代であった。だが高度経済成長期以降、大出力の火力発電所が次々に運転を開始。さらに原子力発電も実用化されるに至って相対的に水力発電の比重は減少、1963年を境に「火主水従」の時代に変化していった。電力会社の新規電力開発もこうした大容量火力発電所・原子力発電所の建設に重点が置かれ、大規模なダムを伴う貯水池式水力発電所は建設に適した地点が減少、さらに新鋭石油火力発電との経済性で比較され縮小傾向にあった。しかし火力発電所や原子力発電所は高稼働率の運転を継続しなければならず、こまめに出力を調整することができない。このため電力需要のピーク時には即時に対応し辛いという欠点があった。こうした欠点を補うため、柔軟な出力運転が可能な水力発電、特に河川流量に左右されにくく余剰電力を有効に活用でき、かつ需要ピーク時に即応できる揚水発電が注目された[268][269]。
日本では1931年(昭和6年)に祐延ダム(小口川)を利用した小口川第三発電所、1934年(昭和9年)に野尻湖を利用した池尻川発電所、1952年(昭和27年)に沼沢湖と只見川を利用した沼沢沼発電所[注 24]などが運転を開始していたが、何れも小規模な揚水発電所であった[268]。認可出力が10万キロワット以上の揚水発電所が建設されるのは1960年代以降のことである。1962年中部電力が大井川に畑薙第一発電所(13万7,000キロワット)、1964年には電源開発が池原発電所(35万キロワット)の運転を相次いで開始した[268]。1965年には東京電力が矢木沢発電所(24万キロワット)および神奈川県企業庁が城山発電所(25万キロワット)の運転を開始しているが、両発電所は河川総合開発事業の一環でもあった[270][271]。1969年(昭和44年)には高さ155.0メートルの巨大アーチ式コンクリートダム・奈川渡ダム(犀川)を利用した安曇発電所(62万3,000キロワット)が運転を開始する[272]など揚水発電所の建設が盛んになっていった。1970年代に入ると夏季の電力需要が益々増大し、急激な電力使用量の上昇に対応するため認可出力100万キロワットを越える大規模揚水発電所の建設が開始された。
1972年電源開発によって新豊根ダム(大入川)を上部調整池、佐久間ダムを下部調整池とする新豊根発電所(112万5,000キロワット)の運転が開始され[273]、1974年には関西電力が黒川ダム(市川)を上部調整池、多々良木ダム(多々良木川)を下部調整池として市川水系・円山川水系の2水系を利用した奥多々良木発電所(121万2,000キロワット)の運転を開始、その後出力を増強させ193万2,000キロワットという日本最大の水力発電所になった[274][275]。1979年には東京電力が新高瀬川発電所(128万キロワット)の運転を開始した。新高瀬川発電所は信濃川水系犀川の二次支流である高瀬川に上部調整池である高瀬ダムと、下部調整池である七倉ダムを建設して揚水発電を行うが、上部調整池である高瀬ダムは高さ176.0メートルで黒部ダム(黒部川)に次ぐ日本第二位の高さを有するダムである[276]。
その後も日本各地で100万キロワット級の揚水発電所が建設され、2005年に1号機47万キロワットの一部運転を開始した東京電力の神流川発電所は、全面稼働すれば日本最大の認可出力282万キロワットの予定となる[277]。変わった所としては沖縄県において電源開発によって沖縄やんばる海水揚水発電所が1999年(平成11年)に運転を開始している。世界初の海水揚水発電所で、高さ25.0メートルの美作ダムを上部調整池として建設し下部調整池を太平洋とすることで認可出力3万キロワットを発電する。美作ダムは沖縄県唯一の水力発電専用ダムであるが海水の影響を防ぐため表面遮水壁はゴムシートである[278][279]。しかし電力需要の低迷などもあって新規の揚水発電計画は修正を余儀なくされ、関西電力が滋賀県に建設を予定していた金居原発電所計画(228万キロワット)[280]などの揚水発電計画は中止され、高さ148.5メートルの金居原上部ダム(八草川)[280]や高さ137.0メートルの木曽中央下部ダム(阿寺川)[281]といった大規模ダム計画も同時に中止されている。
なお、揚水発電所の建設に伴って盛んに建設されたダムの型式として、アスファルト表面遮水壁型ロックフィルダムがある。ロックフィルダムの上流面にアスファルトを厚く舗装して水を遮るダムで、電源開発が1968年に只見川の支流である大津岐川に完成させた大津岐ダムが日本初となる。奥只見ダムよりもさらに奥地に建設されたこのダムは劣悪な道路事情からコンクリートの輸送手段に問題がありコンクリートダムの建設は難しかった。このためロックフィルダムが採用されたが厳寒の冬季には工事を中断しなければならず、事業費抑制の観点から工期延長は避ける必要があった。だが本型式を採用することで輸送量の軽減、工期の短縮、事業費の節減につながることが判明し1965年の着工からわずか3年で完成させた[282]。その後この型式は主に揚水発電所のダムにおいて好んで採用され、多々良木ダムのほか電源開発沼原発電所の上部調整池である沼原ダム(那珂川水系)[283]や九州電力小丸川発電所の上部調整池である大瀬内・かなすみダム(大瀬内谷川)[284]、東京電力塩原発電所の上部調整池である八汐ダム(鍋有沢川)などが建設された。特に八汐ダムは高さ90.2メートルと本型式としては世界一の高さを有する[285]。
平成1(1989年-1999年)
1989年(昭和64年/平成元年)、昭和天皇が崩御して激動の昭和時代はその幕を下ろし、平成となった。バブル景気に沸いた日本は「バブルが弾けた」後に平成不況という長期間の不況に突入。産業構造の変化は公共事業の在り方にも次第に影響を及ぼした。また高度経済成長に伴う公害などの環境破壊に対する反省から自然保護の風潮が強くなり、環境を激変させる大規模土木事業に対して日本国民の間から疑問の声が上がり始めた。両者に関わるダム事業は特にこれら問題の矢面に立たされ、今までとは一転して厳しい立場に身を置くことになる。
ダムと自然保護
ダム建設は大幅な自然の改変を伴う。例えば棲息する魚類を始めとした河川生態系への影響や植生への影響、あるいは水質への影響などである。また発電用ダムでは発電用の取水量が河川への放流量よりも多くなることで流量の不均衡が生じ、いわゆる「枯れ川」の問題も発生した。さらにダムを建設することで河川が分断されて上流から流下する土砂がダムで遮断、貯水池に土砂が堆積する堆砂(たいしゃ)の問題や流砂連続性の途絶による砂丘の縮小や河床の固定化など、多種多様な問題が表面化した。このため自然保護の立場からダム事業に対する批判が強くなった。
ダムと自然保護にまつわる問題は、既に大正時代から発生している。関東水電が只見川源流の尾瀬に水力発電を目的として1919年(大正8年)より計画した尾瀬原ダムである。只見川が尾瀬ヶ原より流出する地点にダムを建設して貯水池を形成し、貯水した水を利根川へ分水して発電を行う計画で、1903年(明治36年)より構想があった。ダム計画は1938年(昭和13年)の東京電燈による計画案では高さ80.0メートル・有効貯水容量3億3,000万立方メートル、1948年(昭和23年)に日本発送電が公表した計画案では高さ100.0メートル・貯水容量7億2,000万立方メートル・湛水面積約1,300ヘクタールという巨大ダム計画となったが、只見特定地域総合開発計画の原案を精査したアメリカ合衆国海外技術顧問団による勧告もあり高さ85.0メートル・総貯水容量6億8,000万立方メートルの規模でほぼ固まった[286][287][288][289][注 25]。しかし完成に伴い尾瀬ヶ原全域が水没することから「長蔵小屋」を造った平野長蔵を始め国立公園を所管する厚生省や文部省、植物学者・登山家などが環境保護の立場から、福島県が水利権の立場から強く反対した[290][291]。尾瀬原ダム計画はその後首都圏の水資源に利用する気運が高まるが、水利権を巡り最終的に関東地方対東北地方・新潟県の地域間紛争に発展して計画は行き詰まり、1996年(平成8年)3月事業者である東京電力が尾瀬ヶ原の水利権を放棄したことで77年に及ぶ尾瀬原ダム計画は中止された[289][292]。この尾瀬原ダム計画反対運動を機に1949年(昭和24年)設立されたのが日本自然保護協会である[289]。
また吉野熊野特定地域総合開発計画における主要な事業の一つであった電源開発の熊野川開発全体計画で、池原ダム(北山川)と共に計画された七色ダム・奥瀞ダム(北山川)は吉野熊野国立公園の景勝地である瀞峡の主要部を水没させることから厚生省と自然公園審議会が反対。審議会は建設を許可しない姿勢を明確にしたことで流域自治体を巻き込む問題に発展した。最終的に七色ダムの建設地点を10キロメートル下流に、奥瀞ダムは小森ダムとして11キロメートル上流にダムサイトを変更して瀞峡主要部の水没を回避し1965年(昭和40年)完成した。なお小森ダムは瀞峡の環境保全を目的に河川維持放流を毎年4月から11月に実施している[293]。
こうした自然保護にまつわる問題はダムに限らずスーパー林道などの道路や港湾、発電所、鉄道、産業廃棄物処理場などインフラストラクチャー全体に及ぶ問題であった。環境保護と大規模公共事業の整合性を図るため1997年(平成9年)環境影響評価法(環境アセスメント法)が成立、1999年(平成11年)に施行された。同法第2条において様々な大規模事業が対象とされたが、河川事業についてはダムを含む河川管理施設と水力発電所がアセスメントの対象となった。具体的には湛水面積100ヘクタール以上のダムと認可出力3万キロワット以上の水力発電所は「第1種事業」としてアセスメントが義務化され、湛水面積75-100ヘクタールまでのダムと認可出力2万2,500-3万キロワットまでの水力発電所は「第2種事業」として個別にアセスメントの可否を検討することが規定された[294][295]。これにより多くの大規模ダム事業が環境アセスメントの対象となり、猛禽類保全対策などを厳密に実施するようになった。ただし津軽ダム(岩木川)のように同法成立以前から環境影響評価に基づく対策が実施されたダムも存在する[296]。
ダム事業は環境に悪影響を与えるという認識が強いが、ダムによって自然環境が回復した例もある。群馬県を流れる利根川の支流・吾妻川は長らく「死の川」と呼ばれていた。草津温泉・万座温泉から湧き出る酸性水が流入するため河川の酸性度が高く、魚類が一切棲息していなかった。特に草津温泉付近を水源とする吾妻川の二次支流・湯川のpHは1.8と希塩酸や希硫酸並みで、鉄釘を一週間で溶かすほどの強酸性河川だった。漁業は元より灌漑にも使えず、利根川の水質まで損ねていた吾妻川の酸性度を改善するため群馬県は世界初の河川中和事業である吾妻川中和事業に1961年(昭和36年)着手。湯川に石灰を投入し下流に建設した品木ダムで攪拌・中和する対策を講じた結果吾妻川の酸性度は回復し、魚類が棲息する河川となった[297][298][注 26]。同様に「玉川毒水」として流域を300年近く苦しめていた秋田県を流れる雄物川の支流・玉川についても、1989年玉川ダムの完成により恒久的な中和処理が可能となり毒水を克服している[299]。また東京都を流れる隅田川は高度経済成長期に水質汚濁が激化、1961年の隅田川における生物化学的酸素要求量(BOD)は35-40mg/lと「ドブ川」の態であった。当時東京都への水道供給を目的に矢木沢ダム(利根川)などを水源とする利根導水路が建設されていたが、利根導水路を利用し隅田川に利根川の清浄な水を導水することで隅田川の水質浄化を図った結果、1975年(昭和50年)以降BODは4-5mg/lにまで改善、水質汚濁のため1961年に中断した早慶レガッタが1978年(昭和53年)に復活した[300]。ダム建設に伴う人造湖の誕生が新たな生態系の創出をもたらした例もあり、1996年(平成8年)に宮城県が建設した化女沼ダム(長者川)は自然湖である化女沼をダムにより拡張した治水ダムであるが、完成後オオハクチョウや猛禽類の生息地として重要な湖沼となり2008年(平成20年)ラムサール条約に登録された[301]。このほか絶滅危惧種のトモエガモ集団越冬地として鳥獣保護法の「鳥獣保護特別区域」に指定された愛媛県の黒瀬ダム(加茂川)[302]、ダム完成後に生息する鳥類が増加した静岡県の奥野ダム(伊東大川)[303]など生態系保全に寄与したダムもあり、多種多様な鳥類がダムやダム湖に飛来・棲息することが確認されている[304]。
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七色ダム(北山川)。瀞峡を保全するため当初計画より10キロメートル下流に建設された。
河川環境と堆砂対策
ダム建設による環境問題として、河川環境の悪化も問題とされた。特に水力発電が盛んに行われた河川において顕著で、取水元であるダムから水力発電所まで距離があるダム水路式発電所ではダムに付属する取水口から発電所までトンネルによって河水を迂回させるため、ダムと発電所の間では河川の水量が激減し、場合によっては完全に途絶する。流水が途絶することで河川生態系はほぼ壊滅し河川環境は極度に悪化した。こうした「枯れ川」の問題が特に深刻だったのが、静岡県を流れる大井川であった。
大井川における水力発電の歴史は古く、1902年(明治35年)に日英同盟が締結されたのを機にイギリス資本が大井川の水力発電事業に参入、日英水力発電が1906年(明治39年)に設立されたのを契機とする。以後電力会社は変転するが開発は続けられ、源流部の田代ダムから中流部の塩郷堰堤に至るまで大井川本流は階段状に多数のダムと堰そして水力発電所が建設された。また寸又川などの支流にも多くのダムや水力発電所が建設されて高度な水利用が図られた[305]。しかし発電用に多くの河水を取水したことで本来河川に流れる水が発電所のトンネルを流れ、さらにトンネル末端からは農業用水や上水道のための取水が行われたことから大井川は塩郷堰堤下流から全く流水が途絶した「枯れ川」となった。1975年(昭和50年)静岡県は田代ダムを管理する東京電力に対して河川環境維持のための放流を求めたが、取水量の減少は発電量ひいては利益の減少につながることから東京電力はこれを拒否。また大井川の発電用水利権をほぼ掌握していた中部電力にも同様の措置を求め、1976年(昭和51年)に静岡県と東京・中部両電力間で暫定的な放流措置に関する協定が締結された[306]。だが根本的な改善には程遠く、大井川は枯渇して漁業資源や水環境を著しく損ねた。このため流域住民からの不満が高まり「大井川水返せ運動」が勃発する。環境権と水利権の衝突という側面を持ったこの問題は斉藤滋与史静岡県知事が大井川の流水改善を電力会社や河川行政を監督する建設省に強く求めたことで1989年に動き出す。塩郷堰堤の水利権が期限を迎えたこの年に中部電力は静岡県が提示した水利権使用許可条件である一定量の河川維持放流義務化を受け入れ、1960年(昭和35年)の塩郷堰堤完成以来途絶していた大井川の流水が29年振りに復活した。さらに2005年(平成17年)には田代ダムの水利権更新に伴い静岡県と東京電力などの間で河川維持放流の増量措置について合意し、大井川における流水の改善は一定の改善を見た[305][306][307]。しかし往時の平均水深は76センチメートルであった豊富な大井川の水量は完全には回復していない。
ダムが河川環境に及ぼす影響に対処するため、1980年代以降行政側も対策に乗り出した。1988年(昭和63年)建設省は河川局水政課長・開発課長通知として「発電水利権の期間更新時における河川維持流量の確保について」、通称発電ガイドラインを定めた。大井川のように分水または長い減水区間を伴う一定の発電水利を対象として、水利権を利用する際のルールである水利使用規則に何らかの方法で必ず河川維持放流量を確保し、具体的な流量を規定することが水利権を所有する事業者に義務付けられた。このガイドラインは電力行政を監督する通商産業省との合意で定められ、本文には明確化されていないが取水量減少に伴う電力会社への減電補償は行わないことを電力会社に了解させた。大井川水返せ運動以降河川環境保護の風潮はさらに高まり、環境影響評価法が成立した1997年には河川法が改訂された。今次の河川法改訂は河川管理の目的について、第1条で「流水の正常な機能が維持され、及び河川環境の整備と保全がされるようにこれを総合的に管理する」と明記されたことが大きな特徴であり、治水・利水に加え河川環境保護が河川管理の重要な目的であると明確に規定された。1964年(昭和39年)の新河川法成立以来となる河川管理の大きな転換点である[306]。
世論の高まりを受けた河川法改訂と環境影響評価法の成立によりダム事業は今までになく厳しい環境保護の順守を求められた。河川の流水改善については改善傾向が見られ、例えば群馬県と埼玉県にまたがる下久保ダム(神流川)ではダム完成に伴い流水が途絶、荒廃していた神流川の三波石峡を復活させるため2001年(平成13年)に国土交通省と群馬県企業局による下久保ダム水環境改善事業が行われ、32年振りに国の名勝及び天然記念物である三波石峡に流水が復活した[308]。また信濃川では東京電力西大滝ダムと東日本旅客鉄道宮中ダム(信濃川発電所)の建設によって西大滝ダムから魚野川合流点までの63.5キロメートルが「枯れ川」となってサケの遡上に重大な影響を与えたことから、信濃川を管理する国土交通省北陸地方整備局と流域市町村、ダム管理者が信濃川の流量改善を目指すため1999年に信濃川中流域水環境改善検討協議会を発足させ、流量改善と共にサケ遡上の復活に取り組んだ。西大滝・宮中両ダムの河川維持放流量を増加させることで水環境の改善を図ることが柱であり、放流量増加に伴い徐々にサケが戻ってきた。ところが取り組みの最中2008年(平成20年)協議会に参加している東日本旅客鉄道が宮中ダムから水利使用規則を超過する不正な取水を行ったことが発覚、国土交通省は河川法違反として東日本旅客鉄道の発電用水利権を取り消した。水利権は2010年(平成22年)暫定的に許可されたがこの間水量が増加した信濃川ではサケの遡上が水利権取り消し前よりもさらに増加し、長野県上田市まで遡上が確認された。このため国土交通省は東日本旅客鉄道に対して毎秒40-100立方メートルの放流を5年間行うよう命じ、環境への影響を調査している[309][310][311]。
一方、ダム湖の堆砂については今まで有効な対策を打てずにいた。堆砂は治水目的を有するダムの場合貯水容量の減少に伴う治水への影響、ダム湖上流の河床上昇による水害の危険性増幅、流砂連続性の途絶による砂丘縮小や濁水長期化現象による河川生態系の影響など多種にわたる問題をもたらす。特に治水に対する影響は1961年の昭和36年梅雨前線豪雨(三六災害)における泰阜ダム(天竜川)と長野県飯田市の水害との関係性が指摘され、ダムを管理する中部電力が被害集落の地上げ工事を実施するなど対策を行った。堆砂量を計測している日本の911か所のダムにおける平均堆砂率は7パーセントであるが、崩壊が激しく重荒廃地域に指定されている中央構造線付近の赤石山脈・木曽山脈・飛騨山脈を流れる河川に建設されたダムで堆砂が進行している[312][313]。貯水池の浚渫以外特別な対策がなかった堆砂対策だったが、1990年代に入り連携排砂と排砂バイパスという手法が登場した。連携排砂は富山県を流れる黒部川に建設された関西電力の出し平ダムと国土交通省の宇奈月ダムで2001年(平成13年)より実施しており、洪水時に排砂門から堆砂を連携して排出することで堆砂防止と流砂連続性を確保して海岸線の後退を防止するものである[314]。出し平ダムは1991年(平成3年)12月より単独で排砂を実施しているが、排砂により富山湾の環境が損なわれたとして漁業関係者の一部が2002年(平成14年)12月関西電力を相手取り黒部川ダム排砂被害訴訟を起こした。訴訟は2011年(平成23年)に和解が成立したが連携排砂と環境保護の両立に重い課題を残した[315][316][317][318]。一方排砂バイパスはダム湖上流端に貯砂堰堤を建設し、貯砂堰堤からダム湖を迂回してダム本体直下流に通じるバイパストンネルを建設して洪水時にトンネルから洪水を排水してダム湖の堆砂を防ぐ施設である。1999年に関西電力が奥吉野揚水発電所の下部調整池である旭ダム(旭川)において建設したのが日本初であり[319]、以後美和ダム(三峰川)、小渋ダム(小渋川)、松川ダム(松川)といった天竜川水系の多目的ダムで施工され、佐久間ダム(天竜川)でも計画されている[320][321][322][323]。
ダム事業への逆風
ダムに対する反対運動は本来田子倉ダム補償事件や蜂の巣城紛争などのように、移転住民が明日からの生活に不安を抱いたことから起こした真剣勝負の反対運動であった。しかし1990年代以降のダム反対運動は移転住民中心の運動もあったが、市民運動が中心となる反対運動が目立つようになった。背景には先述した自然保護の問題に加え、ゼネコン汚職などにみられる政治不信、公共事業に対する納税者視点からの批判があった。
次第にダム事業への批判が強まっていった1995年(平成7年)、日本弁護士連合会の招きにより来日したアメリカ合衆国内務省開拓局元長官、ダニエル・P・ビアードは講演の中でアメリカにおけるダム事業について以下のように述べた[325]。
— ダニエル・P・ビアード 1995年2月講演より
- 最近の変化のすべてが一つの結論「アメリカ合衆国ではダム建設の時代は終わった」という避けがたい結論を導きました。私たちはもはや、従来型の大規模な建設プロジェクトに対する一般大衆の支援も政治的支援も当てにすることは出来ません。現在進行中の事業はなるべく迅速に完成させます。今後新規の大規模事業が計画されるされる可能性は、全くないとは断言できませんが、ほとんどありえないでしょう。
このビアード発言、特に「アメリカではダム建設の時代は終わった」という発言が日本のダム事業推進派・反対派に大きな衝撃を与えた。さらにワシントン州に1913年(大正2年)建設された発電専用の民間企業所有ダム・エルワーダムの撤去が決定したという情報も日本のダム反対派に勇気を与えた。ビアード発言とアメリカのダム撤去を「錦の御旗」とした反対派は折からの公共事業に対する国民の不信感もあって発言力を増していった[326]。1993年(平成5年)には日本全国のダム事業の問題点を追及し、反対運動を支援するための組織である水源開発問題全国連絡会(水源連)が結成され、「治水・利水の両方とも役に立たないダム事業は無用であり、撤去して自然の河川に戻すべき」とダム事業を全否定して精力的に各地のダム反対運動に介入した[327]。こうした市民運動主導のダム反対運動において、特に世論への影響を与えたのが長良川河口堰(長良川)の反対運動である。長良川は地形的にダムが建設不可能な河川であり、輪中地帯を中心に古くから水害が頻発していた。加えて高度経済成長期の中京工業地帯の水需要拡大により治水・利水の両面から長良川河口堰が1968年(昭和43年)より計画された。当初から漁業権補償を巡る反対運動が強く、補償交渉の妥結に長期間を費やした。1988年(昭和63年)にようやく岐阜県・三重県下22漁業協同組合より建設の同意がなされ、補償交渉もほぼ終わりかけたころに再度反対運動が勃発する。アウトドアライターである天野礼子は建設省のマスコミに対する対応の悪さを衝き、有名人やマスコミを上手に利用した情報戦を駆使して長良川河口堰の問題点を追及した。これに応じたのが朝日新聞であり、建設省との間で公開論争を行うなど天野の思惑通りに物事は動いた[328][329][330]。こうした市民運動主体のダム反対運動は長良川河口堰のほか群馬県の八ッ場ダム(吾妻川)や熊本県の川辺川ダム(川辺川)など事業が長期化したダム事業などで積極的に繰り広げられ、1988年から計画された吉野川第十堰(吉野川)の可動堰化については日本共産党が組織的に関与した市民運動の結果、2000年(平成12年)に徳島市の堰建設の可否を問うた住民投票で反対票が多数を占め、2002年(平成14年)には反対派の大田正徳島県知事が就任したことで可動堰計画は白紙。2010年(平成22年)正式に中止された[331][332]。
反対運動の高まりは、財政難に喘ぐ政府や地方自治体を次第に動かして行った。1998年(平成10年)第2次橋本内閣はダム事業評価制度を開始、この中で長期間事業進捗が滞っているダム事業を検証した。特に1972年(昭和47年)の計画発表以来地元である徳島県那賀郡木頭村が官民一体となって反対した細川内ダム(那賀川)は、建設大臣だった亀井静香の決断により同年に事業が休止され、2000年に正式に事業中止となった[333][334]。同年北海道は時代の変化を踏まえた公共事業再評価である「時のアセスメント」を実施。この中で松倉ダム(松倉川)、白老ダム(白老川)、トマムダム(八戸沢川)の3ダム事業を中止した[335]。こうした国や地方自治体の動きは2000年代に入るとさらに加速して行く。またダム事業の可否について法廷闘争に持ち込まれた二風谷ダム(沙流川)では1997年の札幌地方裁判所における裁判でダム事業差し止めについては却下されたものの土地収用裁決は違法とされ、判決の中でアイヌ民族の先住性が認められた(事情判決)。この判決を機に差別的法律であった北海道旧土人保護法が廃止されてアイヌ文化振興法が制定されるなどアイヌ民族の悲願が達成された[336]。
こうしたダム反対派の動きは公共事業のあり方について環境保護や税負担など多角的な視点から警鐘を鳴らしたものであり、公共事業の進め方について政治を動かす契機となった。しかし急進的な反対運動に対する批判もある。アメリカには日本の全ダム総貯水容量の約2倍に当たる総貯水容量・約367億立方メートルを有するフーバーダム(コロラド川)を筆頭に7万5,000箇所に及ぶダムが建設され、治水・水資源開発の緊急性が乏しい上に国土面積や河川勾配の違いから日本とは単純に比較できないという意見や、「ダム撤去は環境・安全・経済性の三点で不要なものを対象とし、全米7万5,000のダムに適用するとは考えていない」というアメリカのダム反対派の主張を黙殺しているという意見などである[337]。吉野川第十堰については徳島市以外の流域自治体が全て賛成し、30万人以上の建設促進署名が集まっているにもかかわらず徳島市の住民投票のみで物事を進めたという指摘もある[332]。そして当の移転住民からも痛烈な批判を受けた。一例を挙げると岐阜県揖斐郡徳山村全村が水没した徳山ダム(揖斐川)では補償交渉に関与した複数の住民から「地元が反対しているときには何の支援もせず、工事が始まった今頃になって反対を主張する」市民団体に対して「自然環境だけを盾に反対運動をする部外者は許せない」、「あの手の反対論者ほど早期完成を願う地元民の神経を逆なでする者はない」と手厳しく非難している[338]。また中止したダム事業である新潟県の清津川ダム(清津川)は水源連が積極的に反対運動に関わったダムの一つであるが、中止決定後地域振興が進まない状態に対する国への憤りと共にこうした市民団体が一切協力してくれないことに対して地元住民が怒りの声を上げている[339][340]。
平成2(2000年-2015年)
1990年以降ダムを取り巻く環境は激変したが、2000年代にはさらなる変化が生まれた。2001年(平成13年)、実に占領下以来となる中央省庁再編が行われ、建設省は運輸省・北海道開発庁・国土庁と合併し国土交通省として改組・発足した。また、特殊法人の在り方に対する国民の批判が高まり、第1次小泉内閣は特殊法人を独立行政法人として改組させ、予算確保を自律的に行わせ補助金を削減することで支出抑制を図る特殊法人改革を行った。この対象となったのが水資源開発公団であり、2003年(平成15年)に独立行政法人水資源機構として発足することとなった。さらに、電源開発促進法により発足し日本のダム事業史に大きな足跡を残した電源開発もその使命を果たしたとして2003年政府は民営化を発表。翌2004年(平成16年)には保有株式を売却。民営化後東京証券取引所第一部に上場し民間企業となった。ダム事業は引き続き厳しい環境に晒されたが、一方でダム事業を肯定的に見直す動きも出始めた。
脱ダム宣言と事業再検証
水系 | 河川 | ダム | 高さ (m) |
総貯水容量 (千m³) |
事業者 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|
利根川 | 赤谷川 | 川古ダム | 160.0 | 75,000 | 国土交通省 | [341] |
利根川 | 片品川 | 戸倉ダム | 158.0 | 92,000 | 水資源機構 | [342] |
利根川 | 泙川 | 平川ダム | 146.0 | 50,000 | 水資源機構 | [343] |
利根川 | 栗原川 | 栗原川ダム | 159.0 | 50,000 | 水資源機構 | [344] |
荒川 | 大洞川 | 新大洞ダム | 155.0 | 33,000 | 国土交通省 | [345] |
荒川 | 小森川 | 小森川ダム | 105.2 | 20,640 | 埼玉県 | [346] |
信濃川 | 信濃川 | 千曲川上流ダム | 80.0 | 80,000 | 国土交通省 | [347] |
信濃川 | 清津川 | 清津川ダム | 150.0 | 170,000 | 国土交通省 | [348] |
片貝川 | 片貝川 | 片貝川ダム | 146.0 | 23,100 | 富山県 | [349] |
天竜川 | 三峰川 | 戸草ダム | 140.0 | 61,000 | 国土交通省 | [350] |
矢作川 | 上村川 | 上矢作ダム | 150.0 | 54,000 | 国土交通省 | [351] |
紀の川 | 紀伊丹生川 | 紀伊丹生川ダム | 145.0 | 60,500 | 国土交通省 | [352] |
那賀川 | 那賀川 | 細川内ダム | 102.0 | 60,400 | 建設省 | [353] |
筑後川 | 玖珠川 | 猪牟田ダム | 120.0 | 38,500 | 国土交通省 | [354] |
大野川 | 平井川 | 矢田ダム | 56.0 | 57,000 | 国土交通省 | [355] |
ダム事業を見直す政府や地方自治体の動きは、2000年代に入ってさらに加速する。その代表的な動きが長野県知事に就任した田中康夫が2001年(平成13年)2月20日に発表した「脱ダム」宣言である。要約すれば「数百億のカネを費やして建設されるコンクリートダムは看過し得ぬ負荷を地球環境に与えてしまう。河川改修費用が例えダム建設より高額になろうとも、100年、200年先の我々子孫に残す資産として河川・湖沼の価値を重視したい。長野県では出来うる限りコンクリートのダムは建設しない」という発言である。そしてこの宣言に基づき浅川ダム(浅川)をはじめ下諏訪ダム(砥川)など建設・計画中の県営ダムを中止した[356]。滋賀県では嘉田由紀子滋賀県知事が長野県と同様に計画中の県営ダム事業を凍結する姿勢を示し、芹谷ダム(水谷川)を中止し北川第一ダム(麻生川)・北川第二ダム(北川)を凍結した[357]。さらに熊本県では潮谷義子熊本県知事が荒瀬ダム(球磨川)について、水利権失効後に撤去するという日本でも例のないダム撤去を2002年(平成14年)に表明。潮谷知事の後を継いだ蒲島郁夫熊本県知事は一旦撤去を白紙に戻したが、球磨川漁業協同組合の同意が得られず最終的に2010年(平成22年)にダム撤去を開始した[358]。また首都圏の水瓶として利根川支流の片品川に建設が進められていた戸倉ダムについては、利水受益者である石原慎太郎東京都知事・堂本暁子千葉県知事・上田清司埼玉県知事が相次いで事業からの離脱を表明。事業が成り立たなくなったことで本体工事に着手したにも拘らず事業者の水資源機構が2003年(平成15年)ダム事業を中止するという異例の事態になった[342]。関西国際空港関連事業の一環でもある紀の川大堰(紀の川)は、当初大阪府が上水道の水利権を持っていたが2009年(平成21年)に橋下徹大阪府知事が水利権を返上し、水道供給目的が喪失した[359]。
国土交通省もダム事業見直しの動きを見せて行った。第1次小泉内閣は2001年に経済財政諮問会議の答申を受ける形で「骨太の方針」を打ち出した。このうち2002年に策定された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」第4部の「歳出の主要分野における構造改革」という項目で時代の要請に合わなくなった既存プロジェクトを見直すと明記[360]。10年以上進捗が滞っているダム事業も対象となり多くの国土交通省直轄ダム計画が中止・休止された。2005年(平成17年)には国土交通省近畿地方整備局の諮問機関である淀川水系流域委員会が淀川水系で計画されている5つのダム事業、丹生ダム(高時川)・大戸川ダム(大戸川)・天ヶ瀬ダム再開発(淀川)・川上ダム(前深瀬川)・余野川ダム(余野川)について事業を凍結し代替案による検討を行った上で事業継続の可否を決定すべきという勧告を答申した。答申後天ヶ瀬ダム再開発と川上ダムは事業継続となったが丹生・大戸川ダムは凍結され、余野川ダムは事業中止となった[361]。以上のようにダム事業は国・地方自治体問わず事業が見直され、1996年(平成8年)から2010年(平成22年)までの間に115のダム事業が中止されている[362]。
そして2009年に行われた第45回衆議院議員総選挙で政権交代を実現した民主党の鳩山由紀夫内閣は、選挙時に公表したマニフェストで八ッ場ダム(吾妻川)と川辺川ダム(川辺川)の中止を明記。政権発足後前原誠司国土交通大臣は「新たな基準に沿った検証の対象とするダム事業を選定する考え方について」という大臣談話を発表、出来るだけダムに頼らない治水事業を推進するため直轄事業・国庫補助事業を問わず日本全国89の河川総合開発事業(90ダム)についてダム事業再検証を行った[363]。ダム事業再検証により熊本県の七滝ダム(御船川)が中止となったのを始め、品木ダム再開発事業(湯川)などを柱とした吾妻川上流総合開発事業や新大洞ダム(大洞川)などを柱とする荒川上流ダム再編事業、戸草ダム(三峰川)といった国土交通省直轄ダムや、田中知事時代に中止が決定され後に復活した黒沢(黒沢川)・駒沢(駒沢川)の両ダム、嘉田知事が凍結を決定した北川第一・第二ダム事業など県営ダム事業の幾つかが中止された。その一方で野田内閣時代に事業継続が決定した八ッ場ダムなど、多くのダム事業は再検証の結果事業継続が決定している[364]。なお川辺川ダムは事業検証の対象外として中止を前提にした地域振興計画が進められている[365]。こうした再検証の動きに対し、ダム事業を全否定する水源開発問題全国連絡会(水源連)は「出来レース」と批判する[366]一方で、ダムの早期完成を希望する地元住民や下流受益自治体の間からは「地元無視」という批判が起こっている[367][368][369][370]。1990年代から強くなった「脱ダム」の流れであるが、後述する自然災害の猛威によって軌道修正が図られてゆく。
再び襲い来る災害
西暦 | 和暦 | 災害 | 死者 行方不明者 |
---|---|---|---|
2000年 | 平成12年 | 東海豪雨 | 12 |
2003年 | 平成15年 | 台風10号 | 19 |
2004年 | 平成16年 | ||
平成16年7月新潟・福島豪雨 | 16 | ||
平成16年7月福井豪雨 | 5 | ||
台風15号 | 10 | ||
台風16号 | 17 | ||
台風18号 | 46 | ||
台風21号 | 27 | ||
台風23号 | 98 | ||
2005年 | 平成17年 | 梅雨前線豪雨 | 11 |
台風14号 | 29 | ||
2006年 | 平成18年 | 平成18年7月豪雨 | 30 |
台風13号 | 10 | ||
2008年 | 平成20年 | 平成20年8月末豪雨 | 2 |
2009年 | 平成21年 | 平成21年7月中国・九州北部豪雨 | 36 |
台風9号 | 27 | ||
2010年 | 平成22年 | 梅雨前線豪雨 | 22 |
2011年 | 平成23年 | 平成23年7月新潟・福島豪雨 | 6 |
台風12号(紀伊半島豪雨) | 98 | ||
台風15号 | 20 | ||
2012年 | 平成24年 | 平成24年7月九州北部豪雨 | 33 |
2013年 | 平成25年 | 台風26号(伊豆大島土砂災害) | 43 |
2014年 | 平成26年 | 集中豪雨(広島土砂災害) | 82 |
2015年 | 平成27年 | 平成27年9月関東・東北豪雨 | 8 |
ダム事業を始めとする河川総合開発事業は先述したとおり国や地方自治体による事業の見直しが盛んに行われていた。しかしこの時期は1950年代を想起させるような災害がほぼ連年発生し、日本各地に大きな被害を与えた。背景にあるのは地球温暖化などによる気候変動であり、観測史上例のない降水量を次々記録して「過去に例のない」・「想定外の」・「経験したことのない」などの言葉が付く豪雨が河川の氾濫や土砂崩れなどを引き起こして、多くの人命が失われた。このため気象庁は2013年(平成25年)に台風や集中豪雨、津波、噴火に関して特別警報の運用を開始。豪雨については日本の台風災害史上最悪の人的被害を出した1959年(昭和34年)の伊勢湾台風などを基準に、数十年に一度となる極めて危険な気象災害に対して警戒を呼び掛ける対策を講じた[372]。
2000年(平成12年)に名古屋市を中心に大きな浸水被害をもたらした東海豪雨を皮切りに、毎年のように台風が日本に上陸。また梅雨前線末期の集中豪雨などにより日本各地で洪水被害が相次いだ。特に2004年(平成16年)は1953年(昭和28年)に匹敵する「水害の当たり年」となった。この年だけでも9個の台風が日本に上陸し、梅雨前線や秋雨前線などを刺激して大雨を各地に降らせた[371]。7月には平成16年7月新潟・福島豪雨と平成16年7月福井豪雨が北陸地方を襲い、信濃川流域や足羽川などで堤防が決壊。また四国地方には台風10号と11号が連続で上陸し、細川内ダム中止後の那賀川流域に大雨を降らせ、徳島県那賀郡上那賀町海川では一日降水量1,317ミリという日本新記録となった。9月の台風21号は三重県尾鷲市などで時間雨量が100ミリを超えて宮川流域に大きな被害を与え、10月には台風23号が近畿地方を襲い、円山川流域を中心に多数の死者を出す大惨事をもたらした。2006年(平成18年)の平成18年7月豪雨は鹿児島県の川内川流域で総降水量が1,000ミリを超える記録的な集中豪雨をもたらし、2011年(平成23年)の台風12号(紀伊半島豪雨)は熊野川流域を中心に紀州大水害以来の大きな被害を与えた。また九州地方北部は2009年(平成21年)7月の平成21年7月中国・九州北部豪雨と、2012年(平成24年)の平成24年7月九州北部豪雨という豪雨災害が発生し、大きな被害を受けている[371]。
こうした災害に対して、批判の渦中にあったダムが災害防止に威力を発揮した例がある。福井県の九頭竜川水系真名川に建設された真名川ダムは、福井豪雨の際に洪水調節能力を発揮して真名川流域の浸水被害をほぼ皆無に抑えた。甚大な被害を受けた足羽川流域と同程度の豪雨が降ったにも関わらず対照的な結果を出し、建設が凍結されていた足羽川ダム(部子川)の建設が福井市など流域自治体の要望により再開された[373][374]。台風23号では由良川の洪水で孤立した観光バスの乗客を救うため大野ダム(由良川)が際どい状況下で放流を調節し乗客の命を救った[375]。平成18年7月豪雨では長野県を流れる犀川の氾濫を防ぐため国土交通省の大町ダム(高瀬川)に加えて、東京電力の奈川渡・水殿・稲核(犀川)および高瀬・七倉(高瀬川)の発電用5ダムが連携して洪水を貯留し犀川の氾濫を防いだ[376]。他方記録的な豪雨により治水計画で定めた計画高水流量を大幅に超過する洪水が発生し、ただし書き操作による放流も増加して下流の洪水を完全に抑制出来なかった例もある。鶴田ダム(川内川)は九州最大の多目的ダムであるが平成18年7月豪雨は川内川上流に平均1,000ミリという未曽有の豪雨を降らせ、ダムは可能な限り洪水を貯留したが計画を大幅に超過する洪水によりただし書き操作を余儀なくされ、結果的に下流の浸水被害を完全には防止できなかった。ダムの治水機能強化を求める流域住民からの要望が強く出たことから、国土交通省は住民との意見交換会を経て治水能力の強化を図る鶴田ダム再開発事業を2007年(平成19年)より実施している[377][378]。また新宮川(熊野川)水系では2011年の台風12号による被害を受け池原ダム(北山川)や風屋ダム(熊野川)など発電用ダムの洪水時運用改善要求が流域自治体で高まったため、「熊野川の総合的な治水対策協議会」を設置しダムの運用改善などを検討している[379]。
2000年代はこのように大きな水害が相次いだが、治水事業が未発達だった1950年代に比べ人的被害は少なくなっている。例えば死者・行方不明者1,001名を数えた昭和28年西日本水害と同程度の降水量だった平成24年7月九州北部豪雨[371]は西日本水害を教訓とした筑後川・矢部川などの治水整備により堤防決壊は生じても人的・浸水被害は軽減されており、矢部川では日向神ダムのある矢部川本流上流部より星野川・笠原川といったダムのない河川が合流した後の被害が大きい[380]。また利根川や北上川では上流ダム群を始めとする治水事業整備により多数の人的被害や広範囲の浸水被害を伴う水害はカスリーン・アイオン台風以降発生していない。ダム事業の有効性が再認識されることで事業に対する批判一辺倒の動きも徐々に修正された。「脱ダム」宣言を発表した田中康夫は平成18年7月豪雨直後の知事選で県政を巡り対立していた反田中派から治水対策の不備を追及され落選、後任の村井仁長野県知事は「脱ダム」宣言を撤回して浅川ダムなどの事業を再開した[381]。またダム反対派が代替対策として主張した森林の保水力を高めることで治水を行う「緑のダム」については2001年(平成13年)に日本学術会議が答申した『地球環境・人間生活にかかわる農業及び森林の多面的な機能の評価について』で森林涵養の有効性は認めつつも、いわゆる「緑のダム」として豪雨災害を緩和する機能には限界があると指摘しており[382]、2003年(平成15年)の台風10号(日高豪雨)における沙流川源流原生林の流失と二風谷ダム(沙流川)の流木捕捉による被害軽減、2013年(平成25年)の台風26号による伊豆大島土砂災害・2014年(平成26年)の集中豪雨による広島土砂災害などの土砂災害がそれを証明している[383]。
一方、2000年代は地震によるダムの被害が多い時期でもあった。2004年に発生した新潟県中越地震では震源地に近い妙見堰(信濃川)の門柱や管理所建屋に被害が生じ[384]、2008年(平成20年)に発生した岩手・宮城内陸地震では宮城県の荒砥沢ダム(二迫川)の貯水池である藍染湖で大規模な山崩れが発生し大量の土砂が流入[385]したほか石淵ダム(胆沢川)では遮水壁が損傷した[386]。そして未曽有の被害を東日本にもたらした2011年の東日本大震災では、福島県の藤沼ダム(江花川)が地震により決壊して8名が死亡[387]し1953年の大正池決壊事故以来のダム決壊事故となった。また沿岸を襲った大津波が河川を遡上したことで北上大堰(北上川)などが津波の被害を受けている[388]。ただし重力式コンクリートダムについては1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の激震を耐え抜いた布引五本松ダム(生田川)のように地震による致命的な被害は報告されておらず、関東大震災を教訓に1925年(大正14年)に物部長穂が『貯水用重力堰堤の特性並びに其の合理的設計方法』という論文で発表した重力ダムの耐震理論が活かされている[389][390]。
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平成16年7月福井豪雨を機に事業が再開された足羽川ダム(部子川)建設予定地。
水余りと水不足
高度経済成長期に需要が急増した上水道・工業用水道は、深刻な水不足や地盤沈下などの問題を招いた。紆余曲折の末に誕生した水資源開発公団は利根川・荒川・豊川・木曽川・淀川・吉野川・筑後川の7水系で水資源開発のためのダム事業や愛知用水・豊川用水・香川用水などの用水路整備を行い、大都市圏や四大工業地帯などへの水道需要を満たした。また直轄・補助の別なく河川総合開発事業では水道供給を目的にした多目的ダム建設が盛んに行われた。しかし高度経済成長が終わり経済が安定成長に向かい、産業構造が変化するに連れて工業用水道の需要は徐々に下落。さらに円高などにより企業が工場を日本国外に移転する傾向が強まり、需要はさらに低迷した。また上水道も人口増加が鈍化したことや節水技術・意識の向上でダム計画時に予想された水需要との齟齬が生じた。このため水道供給目的を有するダムの中には受益地から水利権を返上されるなど使い道が宙に浮く、いわゆる「水余り」の状況に陥った例がある。一例として富山県の熊野川ダム(熊野川)は富山市などへの上水道供給が目的にあったが、富山市などが上水道水利権を返上したため上水道目的が喪失した[391][392]。「水余り」に対してダム反対派はダム事業を否定する一つの根拠となっており[393]、戸倉ダムなどのように上水道事業に参加した自治体が撤退して事業が中止される例も多くなった[342]。
一方、元来降水量が少ない地域では水資源施設の整備が行われてもなお、深刻な水不足に悩まされる地域が存在している。1982年(昭和57年)から2002年(平成14年)までの20年間に発生した渇水において、特に回数の多い地域として愛知用水を水源とする愛知県知多半島(15回)、豊川用水を水源とする豊橋市・豊川市・蒲郡市など愛知県東部(14回)、香川用水を水源とする香川県高松市(11回)、木曽川用水を水源とする名古屋市・一宮市(8回)などがある。何れも慢性的な水不足に悩まされた地域であり水資源整備が重点的に行われたが、地域によっては半年以上取水制限が継続された大渇水もある[394]。1994年(平成6年)の平成6年渇水ではこうした地域で深刻な渇水が発生。愛知県では愛知用水の水源である牧尾(王滝川)・岩屋(馬瀬川)・阿木川(阿木川)の3ダムが枯渇、豊川用水でも水源の宇連ダム(宇連川)が枯渇して名古屋市では159日間の厳しい取水制限が行われ一日19時間断水などが実施されるなど、渇水による東海地方の農工業への被害額は推定約512億円という莫大な被害を生じた[394][395]。また福岡市では330日間、愛媛県松山市では312日間という長期間の取水制限に見舞われたほか、東京都も利根川上流ダム群の貯水量低下により60日間、最大で30パーセントの取水制限が実施されるなど関東地方から九州地方の広い範囲で深刻な水不足が生じている[394]。
2000年代に入ると渇水の被害はさらに広範囲に及び、2002年の渇水は北海道士別市から福岡県筑後市までのほぼ日本全国にわたって水不足が発生。兵庫県川西市で201日間、松山市で287日間という長期間の取水制限が行われた[394]。さらに2005年の平成17年渇水は四国地方に深刻な水不足を招いた。吉野川上流に建設された四国四県の水瓶で「四国のいのち」と称される早明浦ダムは西日本最大級の人造湖を有するが、降水量が極端に不足して貯水率が二度もゼロとなる異常事態を生じ湖底に水没した旧大川村役場庁舎が姿を現した。取水制限は徳島県で25パーセントだが香川県では75パーセントの取水制限となり、工業用水道専用の府中ダム(綾川)から用水を上水道用に緊急転用したほか高知分水への導水も停止した。それでも厳しい状況が続き遂に電源開発早明浦発電所の発電用水を緊急に放流して糊口を凌ぐ状態だった。最終的には台風14号が四国を直撃して吉野川上流に豪雨を降らせ、早明浦ダムの貯水率が一日で100パーセントに回復したことで取水制限は解除され渇水は解消した[396]。しかしこの間水の融通を巡り香川県と徳島県が対立、平成17年渇水を機に計画されている早明浦ダム再編事業についても、国土交通省と徳島県が事業負担を行い高知県も事業の早期推進を訴えている中、香川県は発電用水が削減されることに対し不安を訴え、時期尚早と事業には否定的姿勢を見せる[396][397][398]など、吉野川の水利用については四国四県間で対立の火種を抱えている。
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平成17年渇水で貯水率がゼロになった早明浦ダムの人造湖・さめうら湖(2005年9月3日)。
ダムを観光資源に
順位 | 所在地 | 水系 | 河川 | ダム | 利用者数 | 事業者 |
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1 | 神奈川県 | 相模川 | 中津川 | 宮ヶ瀬ダム | 1,327,073 | 国土交通省 |
2 | 岩手県 | 北上川 | 雫石川 | 御所ダム | 999,328 | 国土交通省 |
3 | 京都府 | 淀川 | 桂川 | 日吉ダム | 538,141 | 水資源機構 |
4 | 福島県 | 阿武隈川 | 大滝根川 | 三春ダム | 454,524 | 国土交通省 |
5 | 京都府 | 淀川 | 淀川 | 天ヶ瀬ダム | 424,682 | 国土交通省 |
6 | 山形県 | 最上川 | 寒河江川 | 寒河江ダム | 308,177 | 国土交通省 |
7 | 福島県 | 阿武隈川 | 摺上川 | 摺上川ダム | 301,220 | 国土交通省 |
8 | 宮城県 | 名取川 | 碁石川 | 釜房ダム | 280,806 | 国土交通省 |
9 | 愛媛県 | 肱川 | 肱川 | 野村ダム | 272,503 | 国土交通省 |
10 | 京都府 | 淀川 | 名張川 | 高山ダム | 250,372 | 水資源機構 |
ダム事業は水源地域に過疎化などの不利益をもたらした。1974年(昭和49年)に施行された水源地域対策特別措置法(水特法)はこうした不利益を被る水源地域の地域活性化を最大の目的としており、地域整備計画に基づき生活基盤の強化に加えていわゆる「村おこし」を始める地域も出始めた。「ウメ・クリ植えてハワイへ行こう」を合言葉に一村一品運動を日本で最初に手掛けた松原ダム(筑後川)・大山ダム(赤石川)のある大分県日田郡大山町(日田市)や、下流受益地との密接な交流を軸に村の活性化を図った味噌川ダム(木曽川)のある長野県木曽郡木祖村、ダム建設を機に町づくり計画を策定して地域活性化につなげた日吉ダム(桂川)のある京都府船井郡日吉町(南丹市)など、水特法指定を機に様々な手段で水源地域は地域活性化を目指した[400][401][402]。2005年には一般財団法人水源地環境センター[注 27]が日本各地の自治体と連携し、地域に親しまれ地域にとってかけがえのないダム湖を所在自治体首長の推薦によって認定するダム湖百選が68ダムで選定された[403]。
一方、ダム事業への批判が高まることに事業者である建設省なども危機感を募らせ、情報公開不足による長良川河口堰反対運動の全国展開化などを反省して積極的なダム事業の情報発信やダム施設開放を試みた[404]。1987年(昭和62年)より毎年夏に日本各地のダムで開催される「森と湖に親しむ旬間」はその一つで、この期間はダムの一般開放や河川に親しむ様々なイベントが行われている。また完成以来名称が無かった多くの人造湖に固有の湖名が一般公募で命名された[405][406]。この「森と湖に親しむ旬間」で2007年より登場したのがダムのトレーディングカード・ダムカードである。国土交通省直轄ダムと水資源機構管理ダムで配布が開始されたダムカードは好評につき、多くの都道府県営ダムや電源開発・東京電力・中部電力の一部電力会社管理ダムでも配布が開始されている[407]。こうしたダム事業啓蒙の動きを影で支えたのがダムマニアである。当初は個人のホームページなどで訪問したダムを紹介していたが、一般財団法人日本ダム協会がこうしたダムマニアの存在に注目し双方が協力してダム事業を一般に紹介し始めた。書籍や映像の出版を始めマスコミにも積極的に登場するダムマニアの活動は事業者である国土交通省や水資源機構、地方自治体なども注目し「森と湖に親しむ旬間」など様々なイベントを通じてダム事業啓蒙の一翼を担った[408]。特にダムカードはダムマニアの提案から誕生したものである[409]。また黒部ダム(黒部川)で登場したダムカレーは群馬県利根郡みなかみ町や各地のダムのほか、一部のコンビニエンスストアチェーンでも発売されるに至った[410]。こうしたダムマニアの活動については、ダム事業に対して批判的なスタンスを取る朝日新聞なども好意的に報道している[411]。
さらにダム単体だけでなくダム湖など周辺地域を一体化してレクリェーションに活用する動きも見られた。宮城県の釜房ダム(碁石川)ではダム周辺整備事業の一環で開設された釜房湖畔公園が1989年(平成元年)に東北地方初の国営公園・国営みちのく杜の湖畔公園として開園した[412]。他にも御所ダム(雫石川)にある岩手県立御所湖広域公園[413]、一庫ダム(一庫大路次川)にある兵庫県立一庫公園[414]などダム湖周辺を広域公園として整備し地域の重要なレクリェーション施設として活用されている。スポーツでダムを利用する傾向は1964年(昭和39年)の東京オリンピックにおけるカヌー競技の会場となった相模ダム(相模川)を皮切りに国民体育大会やインターハイなどでカヌー競技の会場にダム湖が利用され[415]、ツーリング、マラソンなどの陸上競技も行われている[416]。兵庫県の石井ダム(烏原川)と宮城県の長沼ダム(長沼川)は、レクリェーション自体がダムの目的になっている[417]。釣りに関してもヘラブナを始め様々な魚類を対象に多くのダム湖で盛んに行われているが、ブラックバスやブルーギルといった特定外来生物については生態系保護の観点から漁業法や特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)に基づきキャッチアンドリリースは禁止されている。ただし池原ダムのように観光資源として活用しているダムもある[418][419]。
こうした官民一体の施策により、レジャーが多様化する中でダムやダム湖を利用する観光客が増加した。黒部ダムは年間100万人を超える観光客が毎年訪れているが[420]、国土交通省や水資源機構が管理するダムでも観光客が増加した。1991年(平成3年)より定期的に実施されている河川水辺の国勢調査の最新版である2009年度の調査結果で、国土交通省・水資源機構管理の109ダムにおける利用者数が最も多かったのは神奈川県の宮ヶ瀬ダム(中津川)である。2000年に完成した宮ヶ瀬ダムは首都圏から50キロメートル圏内にある都市型ダムであり交通の便が良いほか、神奈川県立あいかわ公園の整備など水特法に基づく周辺整備が計画的に実施された。こうした施策が実を結び2009年度の利用者数は約132万7,000人と日本一になった[399][421]。また工事中のダムでも展望台の設置など積極的に開放したことで津軽ダム(岩木川)のように年間約5万人の訪問客が訪れたほか[422]、本来ダム管理業務として洪水調節の点検目的で実施される点検(試験)放流も観光の一環としてホームページで周知され、矢木沢ダム(利根川)・奈良俣ダム(楢俣川)のようにダムから4キロ手前まで駐車の列が並ぶほどの盛況となった[423]。一方で利用者数の少ないダムもまだ多く、今後の課題となっている。
観光資源としてだけでなく、貴重な土木遺産としてもダムは注目された。日本初のコンクリートダム・布引五本松ダムや日本最大のバットレスダム・丸沼ダム(大滝川)、日本唯一の五連マルチプルアーチダム・豊稔池ダム(柞田川)など国の重要文化財に指定されたダムや小牧ダム・庄川合口ダム(庄川)、塚原ダム(耳川)など国の登録有形文化財に登録されたダムのほか、明治時代・大正時代に建設された多くのダムが土木学会選奨土木遺産に認定されている[424]。
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早明浦ダムにあるダム湖百選の記念碑。
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国営みちのく杜の湖畔公園が湖畔に整備された釜房ダム(碁石川)。
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日本初のレクリェーション目的を有する多目的ダム・石井ダム(烏原川)。
大ダム時代の黄昏
この項目は中長期的なダム開発に関する内容を扱っています。 |
616年の狭山池(西除川)建設以来、日本におけるダム事業の歴史は1,400年の長きに及んでいる。明治時代以降日本ではコンクリートダムの建設が開始され、水道事業・電気事業の勃興と共にダム技術が発展した。1926年(大正15年/昭和元年)の物部長穂による論文以降、日本では河川総合開発事業に基づく多目的ダム建設が戦前・戦後を通じ盛んに実施されて、治水や利水に貢献した。盛んにダム建設が行われたことで、日本にはダムを建設できる適地が確実に減少している。
1960年代から1970年代に掛けて計画され、強い反対運動によって事業が長期化したダム事業は2000年代に入って続々完成した。主なものとして2000年に宮ヶ瀬ダム、2004年に苫田ダム(吉井川)、2007年に滝沢ダム(中津川)と日本最大の多目的ダム・徳山ダム(揖斐川)、2012年に森吉山ダム(小又川)と嘉瀬川ダム(嘉瀬川)、2013年には胆沢ダム(胆沢川)と完成まで51年の歳月を費やした大滝ダム(紀の川)、2015年(平成27年)には北海道最大の多目的ダム・夕張シューパロダム(夕張川)が完成し運用が開始されている[425][426][427][428]。2015年以降完成が予定されているダムとしては1952年(昭和27年)の計画発表以来地元の強烈な反対運動や公共事業見直しの象徴として槍玉に挙げられ事業が遅延に次ぐ遅延を重ねた八ッ場ダムが2019年(平成31年)完成に向け本体工事に着手しているのを始め[429]、津軽ダム(2016年)、大分川ダム(七瀬川)・五ヶ山ダム(那珂川。以上2017年)、平取ダム(額平川。2019年)などがあるが、設楽ダム(豊川)など完成年代が定まっていないダム事業もある[362]。ダム事業再検証は続いており、1969年(昭和44年)に計画が発表された南摩ダム(南摩川)や大戸川・丹生ダムなどが事業検証中である[362]。
一般財団法人日本ダム協会調べによると2014年3月31日時点で2,659ダム事業が完成し、2014年以降に完成が予定されている96ダム事業を合わせると2,755のダムが日本には存在する[430]。完成予定96ダム事業の内訳を型式別で見ると重力式コンクリートダムが67ダム、ロックフィルダムが16ダム、台形CSGダムとアースダムが各5ダムなどとなっているがその他の型式は日本では計画されていない[431]。アーチ式コンクリートダムは2001年に完成した温井ダム(滝山川)と奥三面ダム(三面川)が[注 28]、重力式アーチダムは1974年に完成した阿武川ダム(阿武川)が、中空重力式コンクリートダムは1973年(昭和48年)に完成した内の倉ダム(内の倉川)が、複合ダムは2012年に完成した外山ダム(羽茂川)がそれぞれ日本最後の完成例となっている[432][433][434]。都道府県別で見ても関東地方や近畿地方を中心に新規のダム事業が計画されていない地域がある[435]。また大正時代以降日本のダム事業をリードし黒部ダムや奥只見ダム(只見川)・佐久間ダム(天竜川)など多くの大規模ダムが建設された水力発電事業も、環境負荷の少ないマイクロ水力発電や小水力発電といったダムを必要としない水力発電所の建設が主流となり、ダム建設を伴う水力発電所は北海道電力が2014年に1号機の運転を開始した京極発電所の下部調整池である京極ダム(ペーペナイ川)以降新規の発電用ダム計画がない[436][437]。鴨川ダム(鴨川)建設に始まる農林水産省直轄ダム事業も、2017年完成予定の市野新田ダム(石橋川)を以って新規のダム建設が終了する[438]。
日本のダム事業は、高さ100メートルを超えるダム計画も幾つか存在するものの、1950年代から1960年代に掛けて見られた大ダム建設の時代が再び到来することはほぼ皆無である。ただし既存のダムを強化させるダム再開発事業については日本各地で施工・計画されており、新丸山ダム(木曽川)や新桂沢ダム(幾春別川)など大規模な人造湖を形成する再開発事業や、天ヶ瀬ダム・鶴田ダムなど洪水吐きを新設・改良して治水能力を強化する事業、さらには大町ダム等再編事業のように大町ダムの容量変更と発電専用ダムである高瀬ダム・七倉ダムに洪水調節目的を追加して多目的ダム化する再開発事業が計画されるなど、既存ダムのリニューアルやメンテナンスを軸にした事業が増加している[376][439]。
脚注
注釈
- ^ 長崎大水害を契機に本河内高部・低部ダム、西山ダムはダム再開発事業を行い洪水調節目的を加えた多目的ダムとなったが、旧堤体は保存されている。
- ^ 長崎水害緊急ダム事業に伴う本河内高部ダム再開発(治水目的追加)により直上流部に重力式コンクリートダムを建設し機能を移行した。画面手前は新ダムの余水吐。
- ^ 長崎水害緊急ダム事業に伴う西山ダム再開発(治水目的追加)により貯水池内に水没したが、堤体は保存されている。
- ^ 志津川ダムとも呼ばれた。1964年に天ヶ瀬ダムが直下流に完成したことで水没し、非現存。
- ^ 長崎県には同名の小ヶ倉ダムが別な場所にある。もう一つの小ヶ倉ダムは諫早市に1975年完成したアースダムである。
- ^ 調整池自体は近くの場所にアースダムとして再建。通称杉の木貯水池として供用され、旧調整池跡は公園になっている。
- ^ 事業が難航して思案に暮れている八田をモチーフとしており、通常の銅像とは趣を異にする。
- ^ 1965年に韓国政府がダム再開発事業を行い、旧ダムは水没している。
- ^ 気象庁はこの災害について正式な災害名を付けていない。災害名は土木学会の調査報告書の基づき便宜的に記載する。
- ^ 1960年に重力式コンクリートダムとして再建されている。
- ^ 北上川、江合川・鳴瀬川、最上川、利根川、信濃川、常願寺川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の10河川。江合川は北上川水系であるが、江合川放水路で鳴瀬川と連結しているため一括りになっている。
- ^ 当時の赤川は最上川の支流であり、赤川放水路完成により最上川水系と分離して独立する。
- ^ 1956年の完成後、管理を高知県に移管させ、現在に至る。
- ^ 1973年、需要の低下と発電所の故障を契機にダムは廃止され、以降砂防ダムとして機能している。
- ^ 北海道電力・東北電力・東京電力・北陸電力・中部電力・関西電力・中国電力・四国電力・九州電力。沖縄電力は1972年(昭和47年)の沖縄返還以後に誕生した。
- ^ 胆沢ダム完成に伴い旧発電所は廃止され、新しい胆沢第一発電所に機能が移管されている。
- ^ これが欠如したことでフランスのマルパッセダムは決壊している。
- ^ 完成例としては1930年宮崎県に建設された芋洗谷ダム(芋洗谷川)が最初である。
- ^ 現在の貨幣価値に直すと1兆円以上の額となる。
- ^ 1968年公開。公開終了後石原の意向で封印されていたが、ダム完成50周年を機に封印が解かれDVDが発売された。
- ^ 現行の河川法ではダムをはじめ堰、水門、堤防、護岸、床止め、樹林帯など河川の流水によって生ずる公利の増進、水害の除却または軽減する効用を有する施設を指す。
- ^ ダムであれば、発電専用・灌漑専用・水道専用ダムがこれに当たる。
- ^ 1977年にダム再開発事業が実施され、貯水を行う多目的ダムとなる。
- ^ 1981年に第二沼沢発電所の運転開始に伴い廃止。
- ^ 尾瀬沼の面積は約1.81平方キロメートルであり、財団HPの尾瀬原ダムにおける湛水面積の記載は誤りと考えられる。
- ^ 1967年に管理は群馬県から建設省関東地方建設局(国土交通省関東地方整備局)に移管された。
- ^ 当時は財団法人ダム水源地環境整備センター。
- ^ ダム便覧集計表の2ダムは天ヶ瀬ダム再開発と中止を前提に周辺整備を実施している川辺川ダムである。
出典
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参考文献
ウェブサイト・PDFについては「出典」欄を参照
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