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{{Otheruses|戦後初期の総理大臣「きし '''のぶすけ'''」|合唱指揮者「きし '''しんすけ'''」|岸信介 (指揮者)}} |
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{{画像提供依頼|'''岸信介の総理大臣・自民党総裁時代の写真'''|date=2010年7月|cat=人物}} |
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{{政治家 |
{{政治家 |
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|人名 = 岸 信介 |
| 人名 = 岸 信介 |
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|各国語表記 = きし のぶすけ |
| 各国語表記 = きし のぶすけ |
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|画像 = Nobusuke Kishi |
| 画像 = Nobusuke Kishi portrait.jpg |
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|画像 |
| 画像サイズ = 220px |
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| 画像説明 = |
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|国略称 = {{JPN}} |
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| 国略称 = {{JPN}} |
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|生年月日 = [[1896年]][[11月13日]] |
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| 生年月日 = [[1896年]][[11月13日]] |
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|出生地 = {{JPN}}、[[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]]<br />(現[[山口市]]) |
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| 出生地 = {{JPN1870}} [[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]](現・[[山口市]]) |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1896|11|13|1987|8|7}} |
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| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1896|11|13|1987|8|7}} |
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|死没地 = |
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| 死没地 = {{JPN1947}} [[東京都]][[新宿区]]([[東京医科大学病院]]) |
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| 出身校 = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]卒業 |
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|前職 = [[商工省]]官僚 |
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| 前職 = [[商工省]]官僚 |
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|所属政党 = ([[翼賛政治会]]→)<br />([[護国同志会]]→)<br />(無所属→)<br />([[日本再建連盟]]→)<br />([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)<br />(無所属→)<br />([[日本民主党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |
| 所属政党 = ([[翼賛政治会]]→)<br />([[護国同志会]]→)<br />(無所属→)<br />([[日本再建連盟]]→)<br />([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)<br />(無所属→)<br />([[日本民主党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |
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|称号・勲章 = [[正二位]]<br />[[大勲位菊花大綬章]]<br />[[法学士]](東京帝国大学・[[1920年]]) |
| 称号・勲章 = [[正二位]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br /> [[File:JPN Toka-sho BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br/>[[学士(法学)|法学士]](東京帝国大学・[[1920年]]) |
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|親族(政治家) = |
| 親族(政治家) = 曽祖父・[[佐藤信寛]]<br />祖父・佐藤信彦(漢学者)<br />父・佐藤秀助<br />兄・[[佐藤市郎]]<br />弟・[[佐藤栄作]]<br />養父伯父・岸信政<br />娘婿・[[安倍晋太郎]]<br />孫・[[安倍寛信]]<br />孫・[[安倍晋三]]<br />孫・[[岸信夫]]<br />曽孫・[[岸信千世]]<br />従妹・[[佐藤寛子 (首相夫人)|佐藤寛子]]<br />甥・[[佐藤信二]] |
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|配偶者 = |
| 配偶者 = 従妹・[[岸良子]] |
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| 子女 = 長男・[[岸信和]]<br />長女・[[安倍洋子]] |
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|サイン = KishiN kao.png |
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| サイン = KishiN kao.png |
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| 国旗 = JPN |
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|サイトタイトル = |
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| 職名 = 第56-57代 [[内閣総理大臣]] |
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|国旗 = JPN |
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| 内閣 = [[第1次岸内閣]]<br />[[第1次岸内閣 (改造)|第1次岸改造内閣]]<br />[[第2次岸内閣]]<br />[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]] |
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|職名 = 第56-57代 [[内閣総理大臣]] |
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| 就任日 = [[1957年]][[2月25日]] |
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|内閣 = [[第1次岸内閣]]<br />[[第1次岸内閣 (改造)|第1次岸改造内閣]]<br />[[第2次岸内閣]]<br />[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]] |
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| 退任日 = [[1960年]][[7月19日]] |
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|選挙区 = |
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| 元首職 = 天皇 |
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|当選回数 = |
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| 元首 = [[昭和天皇]] |
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| 国旗2 = JPN |
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|退任日 = [[1960年]][[7月19日]] |
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| 職名2 = [[内閣総理大臣臨時代理]] |
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|退任理由 = [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]改定を巡り社会全体を混乱させたとしてその発効を見届け退陣 |
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| 内閣2 = [[石橋内閣]] |
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|所属委員会 = |
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| 就任日2 = 1957年[[1月31日]] |
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|議員会館 = |
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| 退任日2 = 1957年2月25日 |
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|元首職 = 天皇 |
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|元首 = |
| 元首職2 = 天皇 |
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| |
| 元首2 = 昭和天皇 |
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| 国旗3 = JPN |
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|職名2 = [[内閣総理大臣臨時代理]] |
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| 職名3 = 第79-80代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |
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|内閣2 = [[石橋内閣]] |
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| 内閣3 = 石橋内閣<br />第1次岸内閣 |
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|選挙区2 = |
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| 就任日3 = [[1956年]][[12月23日]] |
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|当選回数2 = |
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| 退任日3 = 1957年[[7月10日]](1957年2月25日から総理兼任) |
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| 国旗4 = JPN |
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|退任日2 = 1957年2月25日 |
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| 職名4 = [[無任所大臣 (日本)|無任所大臣]] |
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|退任理由2 = [[石橋内閣]]の総辞職により自身が内閣総理大臣に正式就任したため |
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| 内閣4 = [[東條内閣]] |
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|元首職2 = |
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| 就任日4 = [[1943年]][[10月8日]] |
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|元首2 = |
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| 退任日4 = [[1944年]][[7月22日]] |
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|国旗3 = JPN |
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| 国旗5 = JPN |
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|職名3 = 第86-87代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |
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| 職名5 = 第23代 [[商工省#歴代の商工大臣等|商工大臣]] |
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|内閣3 = 第1次岸内閣<br />石橋内閣 |
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| 内閣5 = 東條内閣 |
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|選挙区3 = |
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| 就任日5 = [[1941年]][[10月18日]] |
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|当選回数3 = |
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| |
| 退任日5 = 1943年10月8日 |
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| 国旗6 = JPN |
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|退任日3 = 1957年[[7月10日]] |
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| その他職歴1 = [[衆議院議員]]<br/>'''[[山口県第2区 (中選挙区)|旧山口2区]]<br/>当選回数 10回''' '' '' |
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|元首職3 = |
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| 就任日6 = [[1942年]][[4月30日]] - [[1943年]][[10月8日]]<ref>『官報』第5027号、昭和18年10月13日。</ref>)<br />([[1953年]][[4月20日]] |
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|元首3 = |
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| 退任日6 = [[1979年]][[9月7日]] |
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|国旗4 = JPN |
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| その他職歴2 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.svg|20px]] 第3代 [[自由民主党総裁]] |
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|職名4 = [[国務大臣]] |
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| 就任日7 = 1957年[[3月21日]] |
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| 退任日7 = 1960年[[7月14日]] |
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|選挙区4 = |
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| その他職歴3 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.svg|20px]] [[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[顧問#自由民主党|最高顧問]]<br /> '''総裁:[[中曽根康弘]]''' '' '' |
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|当選回数4 = |
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|就任日 |
| 就任日8 = [[1982年]] |
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|退任日 |
| 退任日8 = [[1987年]] |
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| その他職歴4 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.svg|20px]] 初代 [[自由民主党幹事長]] <br /> '''総裁:[[鳩山一郎]]''' '' '' |
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|元首職4 = |
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| 就任日9 = [[1955年]][[11月]] |
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|元首4 = |
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| 退任日9 = 1956年[[12月]] |
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|国旗5 = JPN |
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|職名5 = 第24代 [[商工大臣]] |
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|内閣5 = 東條内閣 |
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|選挙区5 = |
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|当選回数5 = |
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|就任日5 = [[1941年]][[10月18日]] |
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|退任日5 = 1943年10月8日 |
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|元首職5 = |
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|元首5 = |
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|国旗6 = JPN |
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|その他職歴1 = [[衆議院議員]] |
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|就任日6 = [[1942年]][[5月1日]] - 1943年)<br />([[1953年]][[4月20日]] |
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|退任日6 = [[1979年]][[9月7日]] |
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'''岸 信介'''(きし のぶすけ、[[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[11月13日]] - [[1987年]]〈[[昭和]]62年〉[[8月7日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[官僚]]。[[ |
'''岸 信介'''(きし のぶすけ、[[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[11月13日]] - [[1987年]]〈[[昭和]]62年〉[[8月7日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[官僚]]。1957年から1960年まで[[内閣総理大臣]](第[[第1次岸内閣|56]]・[[第2次岸内閣|57]]代)を務めた。[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[菊花章|大勲位]]。出生名は'''佐藤 信介'''(さとう のぶすけ)。 |
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[[満 |
他[[満洲国]][[総務庁 (満洲国)|総務庁]]次長、[[商工省#歴代の商工大臣等|商工大臣]]([[東條内閣|第24代]])、衆議院議員(10期)、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[自由民主党幹事長|幹事長]](初代)、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[自由民主党総裁|総裁]] (第3代) 、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](第[[石橋内閣|86]]・[[第1次岸内閣|87]]代)、[[内閣総理大臣臨時代理]]、[[皇學館大学]][[総長]](第2代)を歴任した。[[東洋パルプ]]、[[日本再建連盟]]の会長も務めた。[[A級戦犯]]被疑者として収監されるが、不起訴となったのち[[中央情報局|米国CIA]](中央情報局)のエージェントとして活動し<ref>{{Cite journal |title=The CIA And Japanese Politics |journal=Asian Perspective |url=https://www.jstor.org/stable/42705308 |last1=Johnson |first1=Chalmers |last2=Schlei |first2=Nobert |publisher=[[Johns Hopkins University Press ]]|jstor=42705308 |last3=Schaller |first3=Michael|year=2000|volume=24 |issue=4 |pages=79–103 |doi=10.1353/apr.2000.0005 |issn = 0258-9184 }}</ref><ref>{{Cite book |last=Weiner |first= Tim |title=Legacy of Ashes: The History of the CIA |url=https://loosemotion.neocities.org/kishi |publisher=Penguin |year=2007 }}</ref><ref name="cia-records"/>、戦後にも権力を得た。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた[[佐藤栄作]]の兄。 |
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:日米協会長 |
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:アジア国会議員連合議員団長 |
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:日韓協力委員会長 |
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:フィリピン協会長 |
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:自主憲法期成同盟会長 |
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:自主憲法制定国民会議長 |
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== 概説 == |
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[[堀幸雄]] 『最新 右翼辞典』 柏書房 2006年11月 P 101-102</ref><ref>(財)家族計画国際協力財団の会長を務める。副会長は[[加藤シヅエ]]。常任理事は国井長次郎。同財団は1968年4月22日設立。東京都新宿区市ヶ谷砂土原町1-1保健開館別館 |
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旧制[[山口中学校]]<ref>[http://yamako-tokyo.com/establishment/e003.html 東京山中会の設立] 東京山中・山高同窓会</ref>、[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]を経て<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B-16082 日本大百科全書(ニッポニカ)]</ref>、[[東京帝国大学]]卒業後、[[農商務省 (日本)|農商務省]]、[[商工省]]にて要職を歴任。建国されたばかりの[[満洲国]]では[[満洲国国務院|国務院]]高官として[[満洲産業開発五カ年計画]]を手がけ、「[[弐キ参スケ]]」の一角を占める。その後、日本の商工省に復帰し、[[次官]]に就任する。[[東條内閣]]では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として[[軍需省]]の次官を兼任する。昭和戦前は「[[革新官僚]]」の筆頭格として陸軍からも[[関東軍]]からも嘱望された{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=108-111}}。 |
|||
:『日本の民間財団と企業寄付-国際交流・協力活動の概況』日本国際交流センター 1985年12月 P.60.</ref>。 |
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[[東條英機内閣]]の[[ |
[[東條英機内閣]]の[[太平洋戦争]]開戦時の重要[[閣僚]]であったことから、[[極東国際軍事裁判]]では[[A級戦犯]]被疑者として3年半拘留されたが、不起訴により釈放された。他の戦争指導者同様、[[公職追放]]は免れなかったが、それも[[東西冷戦]]の影響による米国の方針変更により[[サンフランシスコ講和条約]]発効とともに解除される。 |
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終戦後は[[東洋パルプ]]の会長を務めていたが、公職追放が解除されると[[日本再建連盟]]の設立や[[日本社会党]]への入党を模索するなど政界復帰を目指し、弟の[[佐藤栄作]]も属する[[自由党 (日本 1950-1955)|吉田自由党]]に入党して政界に復帰する。しかし、対米追従姿勢の[[吉田茂]]と対立して除名、[[日本民主党]]の結党に加わり、[[保守合同]]で自由民主党が結党されると幹事長となった。[[石橋内閣]]にて外務大臣に就任する。首班[[石橋湛山]]の病気により臨時代理を務め、石橋内閣が総辞職すると後任の内閣総理大臣に指名され、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保体制]]の成立に尽力し、[[安保闘争|60年安保]]も乗り切った。昭和54年の政界引退後も後継者の[[福田赳夫]]などを通じて自民党右派の象徴として政界に影響力を行使し、晩年は「昭和の妖怪」ともあだ名されつつ、[[統一教会]]と連携して[[自主憲法]]制定運動や[[国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案|スパイ防止法]]制定運動に尽力。また女婿の[[安倍晋太郎]]の首相就任を目指していた<ref name="tbs20220924"/><ref>{{Kotobank|岸 信介|2=新訂 政治家人名事典 明治~昭和}}</ref>。 |
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昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望され<ref>{{ Cite book | author = 工藤美代子 |author-link = 工藤美代子 | title = 絢爛たる悪運 岸信介伝 | edition = 1st | date = 2012-09-10 | publisher = [[幻冬舎]] | pages = 108-111 | id = ISBN 978-4-344-02238-6 | url = | accessdate = 2013-08-15 }}</ref>、満州においては「[[二キ三スケ]]」と称され<ref>{{ Cite book | author = 工藤美代子 |author-link = 工藤美代子 | title = 絢爛たる悪運 岸信介伝 | edition = 1st | date = 2012-09-10 | publisher = [[幻冬舎]] | pages = 132-133 | id = ISBN 978-4-344-02238-6 | url = | accessdate = 2013-08-15 }}</ref>、A級戦犯被疑者および[[60年安保]]の苦境をも乗り切った昭和戦後は「昭和の妖怪」と呼ばれた。 |
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[[位階]]は[[正二位]]、[[勲等]]は[[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。[[皇學館大学]]総長(第2代)なども務めた{{refnest|group="注釈"|他の肩書きを列挙すると、日米協会長、アジア国会議員連合議員団長、日韓協力委員会長、フィリピン協会長、自主憲法制定国民会議長、[[自主憲法期成議員同盟]]会長がある<ref>[[堀幸雄]] 『最新 右翼辞典』 柏書房 2006年11月 P 101-102</ref>。}}{{refnest|group="注釈"|(財)家族計画国際協力財団の会長を務める。副会長は[[加藤シヅエ]]。常任理事は国井長次郎。同財団は1968年4月22日設立。東京都新宿区市ヶ谷砂土原町1-1保健開館別館<ref>『日本の民間財団と企業寄付-国際交流・協力活動の概況』日本国際交流センター 1985年12月 P.60.</ref>。}}。第61・62・63代内閣総理大臣[[佐藤栄作]]は実弟。また長女・[[安倍洋子|洋子]]は[[安倍晋太郎]]に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97・98代内閣総理大臣[[安倍晋三]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.wsj.com/articles/SB11919928302643643447004580332160317267010|title=安倍首相が受け継いだ「家業」―祖父の志を果たせるか|publisher=ウォールストリートジャーナル|date=2014-12-12|accessdate=2022-07-12}}</ref>、三男は[[防衛大臣]]を務めた[[岸信夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211004-OYT1T50208/|title=岸田内閣が発足 新閣僚20人の横顔を紹介|publisher=読売新聞|date=2021-10-05|accessdate=2022-07-12}}</ref>。 |
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== 概要 == |
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[[東京帝国大学]][[法学部]]卒業後、[[農商務省 (日本)|農商務省]]に入省、同省廃止後は[[商工省]]にて要職を歴任した。建国されたばかりの[[満州国]]に渡ると、[[満州国国務院|国務院]]の高官として実業部[[次長]]や産業部次長など要職を歴任し、「満州開発五か年計画」などを手がけた。その後、日本の商工省に復帰すると[[次官]]に就任した。[[東條内閣]]では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣となった。なお、東條内閣の閣僚を務める間も、商工省の次官や[[軍需省]]の次官を兼任していた。 |
|||
その経歴から、[[太平洋戦争]]後に[[A級戦犯]]被疑者として逮捕されるが、不起訴となり[[公職追放]]。公職追放解除後に政界に復帰すると弟も属する[[自由党 (日本 1950-1955)|吉田自由党]]に入党するも[[吉田茂]]と対立して除名され、[[日本民主党]]の結党に加わり、[[保守合同]]で自由民主党が結党されると幹事長となった。[[石橋内閣]]にて外務大臣に就任。首班である[[石橋湛山]]の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名され、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]の成立に尽力した。 |
|||
首相を退任してからも影響力を行使し、「昭和の妖怪」とも呼ばれつつも、自主憲法制定運動に努め続けた。 |
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[[正力松太郎]]などとともに[[中央情報局]]([[CIA]])から資金提供を受けていたとされる。2007年に米[[国務省]]が日本を反共の砦とするべく[[岸信介内閣]]、[[池田勇人内閣]]および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し[[内政干渉]]していたことを公式に認めている<ref>[http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006071901000837.html 左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に] 共同通信</ref><ref name="Weiner">ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋</ref><ref>{{cite book |title=ドキュメント日商岩井 |publisher=徳間書店 |year=1979 |author=角間隆}}</ref><ref>{{cite book |title=自民党 その表と裹 |publisher=新日本出版社 |year=1963 |author=川端治}}</ref><ref>『[[週刊文春]]』[[2007年]][[10月4日]]号</ref>。 |
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第61 - 63代内閣総理大臣[[佐藤栄作]]は実弟、第90・96・97代内閣総理大臣[[安倍晋三]]は[[外孫]]である。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]]八軒家(現[[山口市]])に、山口県庁[[官吏]]であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる([[本籍地]]は山口県[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]]) |
[[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]]八軒家(現・[[山口市]])に、山口県庁[[官吏]]であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる([[本籍地]]は山口県[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]]){{refnest|group="注釈"|信介が物心ついて、田布施の家で、冬の夜など、兄弟姉妹が[[炬燵]]をとり囲んで、雑談などしている時、信介少年は自分だけが山口の八軒家で生まれたということにより、ちょっと仲間はずれになったような感じがしたこともあったという{{Sfn|吉本重義|1957|pp=19-20}}。}}。信介が生まれた時、曽祖父の[[佐藤信寛]]もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の1字を取って「信介」という名が付けられた<ref name="damareheitai">{{Cite web|和書|url=http://www.kajika.net/furusawa/980304.htm|title=「黙れ兵隊」と一喝 - 古澤襄 杜父魚文庫 |accessdate=2007-08-26 }}</ref>{{Sfn|吉本重義|1957|p=20}}。数え年3歳になったころ、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、[[酒造業]]を営むようになった{{Sfn|吉本重義|1957|pp=18-19}}。 |
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秀助 |
秀助・茂世夫妻は、本家のある[[田布施町]]上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で[[造り酒屋]]を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)<ref>[[#山田 『正伝 佐藤栄作』|山田 『正伝 佐藤栄作』(上) 1988]], p. 23.</ref>。 |
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=== 学生時代 === |
=== 学生時代 === |
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岡山市立内山下小学校から<ref>[http://www.city.okayama.jp/museum/gakko/uchisange/uchisange-enkaku.html 学校メモリアル - 岡山市立内山下小学校(沿革)]</ref><ref>[http://fine-vn.com/cat_19/ent_24.html 岸 信介 / 全国名前辞典]</ref>[[岡山県立岡山朝日高等学校|岡山中学校]]に進学したが、叔父の松介が[[肺炎]]により急逝したため2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった |
岡山市立内山下小学校から<ref>[http://www.city.okayama.jp/museum/gakko/uchisange/uchisange-enkaku.html 学校メモリアル - 岡山市立内山下小学校(沿革)]</ref><ref>[http://fine-vn.com/cat_19/ent_24.html 岸 信介 / 全国名前辞典]</ref>[[岡山県立岡山朝日高等学校|岡山中学校]]に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父の佐藤松介(医師・[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]]教授)が[[肺炎]]により急逝したため、2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった{{Sfn|吉本重義|1957|p=39}}。山口に戻り、[[山口県立山口高等学校|山口中学校]]に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。 |
||
[[1914年]]([[大正]]3年)、山口中学を卒業。間もなく上京して高等学校受験準備のため[[予備校]]に通った |
[[1914年]]([[大正]]3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため[[予備校]]に通った{{refnest|group="注釈"|{{Harvnb|吉本重義|1957|p=54}}に「[[中央大学]]の[[予備校]]に通い…」とある。}}が、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば[[映画|活動写真]]や芝居を見に行ったりした{{Sfn|吉本重義|1957|pp=54-55}}。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった{{Sfn|吉本重義|1957|pp=54-55}}が、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった[[我妻栄]]、[[三輪寿壮]]とは常に成績を争った。 |
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[[1917年]](大正6年)、[[東京大学|東京帝国大学]]法学部に入学。法学部の入学試験は[[ドイツ語]]の筆記試験だけで、難なく合格した |
[[1917年]](大正6年)、[[東京大学|東京帝国大学]]法学部に入学。法学部の入学試験は[[ドイツ語]]の筆記試験だけで、難なく合格した{{Sfn|吉本重義|1957|p=62}}。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった<ref name=damareheitai/>{{Sfn|吉本重義|1957|p=62}}。[[我妻栄]]と2人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、2人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。 |
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このころ岸は[[北一輝]]と[[大川周明]]の思想に魅了され |
このころの岸は[[社会主義]]に関心を寄せて[[カール・マルクス]]の[[資本論]]や[[フリードリヒ・エンゲルス]]との往復書簡などを読んだものの{{Sfn|原彬久|2003|p=352-357}}、[[国粋主義]]的な[[北一輝]]と[[大川周明]]の思想の方に魅了され{{Sfn|原彬久|1995|p=28-29}}、上海で大川に説得されて帰国<ref>大川周明『北一輝君を憶ふ』</ref>していた[[牛込]]の北を訪ねている。後の満洲国への関与などに対する大川の影響を岸は認めており{{Sfn|原彬久|2003|p=354}}、北も「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」として「おそらくは、のちに輩出した[[右翼]]の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と岸は語っている{{Sfn|岩川隆 『巨魁 岸信介研究』|p=37}}。 |
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[[1920年]](大正9年)[[7月]]に東京帝国大学[[法学部]]法律学科([[ドイツ|独]] |
[[1920年]](大正9年)[[7月]]に東京帝国大学[[法学部]]法律学科([[ドイツ法|独法]])を卒業する。国粋主義者の[[上杉慎吉]]の[[木曜会]]と[[興国同志会]]に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。「これからは[[産業]]」とあえて[[農商務省 (日本)|農商務省]]に入る<ref>『[[東洋経済新報社#「週刊東洋経済」|週刊東洋経済]] 第5336号』1996年3月9日発行</ref>。優等生であった岸が[[内務省 (日本)|内務省]]ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入ったことは意外の念をもって受け止められた。同郷の政治家で両省に在職経験のある[[上山満之進]]はこの選択を叱責したという。 |
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=== 農商務官僚(商工官僚)時代 - 満 |
=== 農商務官僚(商工官僚)時代 - 満洲国時代 === |
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農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、[[伊藤文吉 ( |
農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、[[伊藤文吉 (男爵)|伊藤文吉]](首相[[伊藤博文]]の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった{{Sfn|吉本重義|1957|p=70}}。同期には[[平岡梓]]([[三島由紀夫]]の父)、[[三浦一雄]]、[[吉田清二]]などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった{{Sfn|吉本重義|1957|pp=78-80}}。 |
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[[1925年]](大正14年)に農商務省が[[商工省]]と[[農林省]]に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、[[吉野作造]]の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった[[吉野信次]]であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の[[木戸幸一]]が[[重要産業統制法]]を起案実施したとされる |
[[1925年]](大正14年)に農商務省が[[商工省]]と[[農林水産省|農林省]]に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、[[吉野作造]]の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった[[吉野信次]]であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の[[木戸幸一]]が[[重要産業統制法]]を起案実施したとされる{{Sfn|岸信介の回想|1981|p=13}}。[[1933年]]([[昭和]]8年)[[2月]]に商工大臣官房文書課長、[[1935年]](昭和10年)[[4月]]には商工省工務局長に就任。[[自動車製造事業法]]の立法に貢献。 |
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[[1936年]](昭和11年)[[10月]]に[[満 |
[[1936年]](昭和11年)[[10月]]に[[満洲国国務院]]実業部総務司長に就任して渡満。[[1937年]](昭和12年)[[7月]]には産業部次長、[[1939年]](昭和14年)[[3月]]には[[総務庁 (満洲国)|総務庁]]次長に就任。この間に[[計画経済]]・統制経済を大胆に取り入れた満洲「[[満洲産業開発五カ年計画|産業開発5ヶ年計画]]」を実施。[[大蔵省]]出身で、満洲国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した[[星野直樹]]らとともに、満洲経営に辣腕を振るう。同時に、[[関東軍]]参謀長であった[[東條英機]]や、[[日産コンツェルン]]の総帥[[鮎川義介]]、里見機関の[[里見甫]]の他、[[椎名悦三郎]]、[[大平正芳]]、[[伊東正義]]、[[十河信二]]らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満洲国の5人の大物「[[弐キ参スケ]]」の1人に数えられた{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=132-133}}。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満洲三角同盟」とも呼ばれた。 |
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[[原彬久]]は、岸を「政治家」として「成長」させた最大の要因は、関東軍という最高権力者をあるいは懐柔し、あるいは説得しつつ、絶大な権力をわがものにする術を身につけさせた、満洲の権力機構そのものにある、と指摘している<ref>{{Cite book|和書|title=岸信介ー権勢の政治家ー|year=1995|publisher=岩波新書|pages=68-69}}</ref>。 |
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このころから、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。主にそれは満洲及び中国全土でのアヘン売買とされている。その後、満洲から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している<ref>武藤富男 『私と満州国』 文藝春秋(1988年)/ [[福田和也]] 『悪と徳と 岸信介と未完の日本』 産経新聞社 (2012年) より引用</ref>。 |
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=== 東條内閣の閣僚時代 === |
=== 東條内閣の閣僚時代 === |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Hideki Tōjō Cabinet 19411018 2.jpg|thumb|200px|[[内閣総理大臣]][[東條英機]](最前列中央)の[[東條内閣]]の閣僚と岸(東條の後ろにいる人物)]] |
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[[ファイル:Hideki Tōjō and Nobusuke Kishi in 1943.jpg|thumb|200px|岸信介商工相と東條英機首相(1943年10月)]] |
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[[伍堂卓雄]][[商工大臣]]が当時の商工次官だった[[村瀬直養]]の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。[[近衛文麿]]から[[第2次近衛内閣]]の商工大臣への就任要請された際は財界の人間にすべきとして断り、企画院総裁に星野を推薦した<ref>岸信介・矢吹一夫・伊藤隆著、『岸信介の回想』 文藝春秋 1981年</ref><ref>原彬久『岸信介 権勢の政治家』</ref><ref>原彬久『岸信介証言録』 毎日新聞社 (2003年4月) ISBN 4-620-31622-9</ref>。その後、商工大臣となった[[小林一三]]と対立、直後に発生した[[企画院事件]]の責任を取り辞任する。 |
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[[伍堂卓雄]][[商工省#歴代の商工大臣等|商工大臣]]が当時の商工次官だった[[村瀬直養]]の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。[[近衛文麿]]から[[第2次近衛内閣]]の商工大臣への就任要請された際は財界の人間にすべきとして断り、企画院総裁に星野を推薦した{{Sfn|岸信介の回想|1981}}{{Sfn|原彬久|1995}}{{Sfn|原彬久|2003}}。その後、商工大臣となった[[小林一三]]と対立、直後に発生した[[企画院事件]]の責任を取り辞任する。 |
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[[1941年]](昭和16年)10月に発足した[[東條内閣]]に[[商工大臣]]として入閣。[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])中の物資動員の全てを扱った。[[1942年]](昭和17年)の[[第21回衆議院議員総選挙]]で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。[[1943年]](昭和18年)、戦局激化への対応として[[商工省]]が廃止され[[軍需省]]へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需[[次官]](無任所[[国務大臣|国務相]]兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。 |
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[[1941年]](昭和16年)10月に発足した[[東條内閣]]に[[商工省#歴代の商工大臣等|商工大臣]]として入閣。『[[:s:米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書|米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書]]』に署名。[[太平洋戦争]]中の物資動員の全てを扱った。[[1942年]](昭和17年)の[[第21回衆議院議員総選挙]]で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。[[1943年]](昭和18年)、商工大臣として[[日本経済団体連合会|経団連]]の前身となる[[商工経済会]]設置法を成立させた<ref name="shoko">大日本帝国議会会議速記録『[[:s:商工経済会法(提案理由)|商工経済会法案(提案理由)]] 』- Wikisource。</ref>。10月8日、東條首相兼陸軍大臣が商工大臣をも兼任し、岸は[[無任所大臣 (日本)#旧憲法下における「班列」と「無任所国務大臣」|無任所相]]となり兼ねて再び商工次官に任命<ref>{{Cite journal|和書|title=敍任及辭令|journal=官報 號外|page=1|publisher=[[国立印刷局|内閣印刷局]]|date=1943-10-8}}</ref>。このため衆議院議員も退職となった{{refnest|group="注釈"|[[議院法]]第76条に基づき、「法律ニ依リ議員タルコトヲ得サル職務ニ任セラレタルトキ」は衆議院議員退職者となることとされていた<ref>{{Cite journal|和書|title=衆議院 議員退職|journal=官報|issue=5027|page=305|publisher=内閣印刷局|date=1943-10-13}}</ref>。}}。11月1日には戦局激化への対応として[[商工省]]が廃止され[[軍需省]]へと改組、軍需大臣は引き続き東條首相兼陸相の兼任、岸は無任所相兼[[軍需省#軍需省の人事|軍需次官]]と、半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。 |
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[[1944年]](昭和19年)[[7月9日]]には[[サイパン島]]が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、[[木戸幸一]]内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と[[岡田啓介]]予備役海軍大将、[[米内光政]]海軍大将らを中心に、東條内閣の[[倒閣]]工作が密かに進められた。 |
[[1944年]](昭和19年)[[7月9日]]には[[サイパン島]]が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、[[木戸幸一]]内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と[[岡田啓介]]予備役海軍大将、[[米内光政]]海軍大将らを中心に、東條内閣の[[倒閣]]工作が密かに進められた。 |
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同年[[7月13日]]には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の[[陸軍大臣]]と[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]の兼任を解くこと、[[嶋田繁太郎]]海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、その矢先に岸が「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた |
同年[[7月13日]]には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の[[陸軍大臣]]と[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]の兼任を解くこと、[[嶋田繁太郎]]海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、その矢先に岸が「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた{{Sfn|福田和也|2012|pp=228-246}}。岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、内閣改造を頓挫させるために岡田と申し合わせて辞職を拒否したともされる<ref name=kojima>[[児島襄]] 『太平洋戦争』(下) 中公文庫 1974年7月 『フィリピンに決戦をもとめて 詰腹きらされた東条首相』, pp. 220-223.</ref>。これを受けて東條側近の[[四方諒二]]東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した<ref name="damareheitai"/>{{Sfn|福田和也|2012|pp=228-246}}{{Sfn|工藤美代子|2012|p=207}}。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否<ref name=kojima/>。東條は内閣改造を断念し、[[7月18日]]に[[内閣総辞職]]となった。総辞職後も岸への怒りが収まらない東條は、新たに[[大命降下|組閣の大命]]を受けた[[小磯国昭]]との会談で、暗に岸を指して一部の前閣僚には[[親任官#前官礼遇|前官礼遇]]を与えないことを要請した{{refnest|group="注釈"|実際に岸は前官礼遇を与えられなかったが<ref>{{Cite journal|和書|title=敍任及辭令|journal=官報 號外|page=1|publisher=内閣印刷局|date=1944-7-22}}</ref>、この時点での国務大臣在任期間は3年足らずで、内規に定められた「国務大臣在職4年以上」の基準を満たしていなかった。}}<ref>児島襄『天皇(V)帝国の終焉』文春文庫 p.118 1981年</ref>。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[3月11日]]、岸は[[翼賛政治会]]から衣替えした親東條の[[大日本政治会]]には加わらず、反東條の[[護国同志会]]を結成した。 |
[[1945年]](昭和20年)[[3月11日]]、岸は[[翼賛政治会]]から衣替えした親東條の[[大日本政治会]]には加わらず、反東條の[[護国同志会]]を結成した。 |
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1945年6月に創設された親任官である[[地方総監府|中国地方総監]]のポジションを所望したが[[大塚惟精]]に先を越される形で逃した。尚、就任した大塚は[[広島市への原爆投下]]で被爆して死去している。 |
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=== 戦犯被疑者から復権まで === |
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[[ファイル:Kishi and Sato.jpg|thumb|200px|[[1948年]][[12月24日]]、内閣官房長官公邸にて[[内閣官房長官]][[佐藤栄作]](右)と]] |
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=== 戦犯被疑者としての獄中、そして放免 === |
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1945年(昭和20年)[[8月15日]]に戦争が終結した後に故郷の山口市に帰郷していた所を、日本を占領下に置いた[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]から[[A級戦犯]][[被疑者]]として逮捕され、[[東京都|東京]]の[[巣鴨拘置所]]に収監された。しかしながら、開戦を実質的に決めた[[1941年]]([[昭和16年]])[[11月29日]]の[[大本営政府連絡会議]]の共同謀議には参加していなかったこと<ref>{{ Cite book | author = 工藤美代子 | author-link = 工藤美代子 | title = 絢爛たる悪運 岸信介伝 | edition = 1st | date = 2012-09-10 | publisher = [[幻冬舎]] | pages = 168-169 | id = ISBN 978-4-344-02238-6 | url = | accessdate = 2013-08-15 }}</ref>、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であること<ref>{{ Cite book | author = 工藤美代子 | author-link = 工藤美代子 | title = 絢爛たる悪運 岸信介伝 | edition = 1st | date = 2012-09-10 | publisher = [[幻冬舎]] | pages = 205-208 | id = ISBN 978-4-344-02238-6 | url = | accessdate = 2013-08-15 }}</ref>、元米国駐日大使[[ジョセフ・グルー]]らから人間として絶対的な信頼を得ていたこと<ref>{{ Cite book | author = 工藤美代子 | author-link = 工藤美代子 | title = 絢爛たる悪運 岸信介伝 | edition = 1st | date = 2012-09-10 | publisher = [[幻冬舎]] | pages = 284-291 | id = ISBN 978-4-344-02238-6 | url = | accessdate = 2013-08-15 }}</ref>などの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の[[1948年]](昭和23年)[[12月24日]]、不起訴のまま無罪放免された。ただし、多くの戦争指導者同様、[[公職追放]]の身のままであり、表だって政治活動をすることは不可能なままであった。 |
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[[ファイル:Kishi and Sato.jpg|thumb|200px|[[1948年]]12月24日、内閣官房長官公邸にて[[内閣官房長官]][[佐藤栄作]](右)と]] |
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1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結した後故郷の山口市に帰郷するが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り<ref name=":1" />、日本を占領下に置いた[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]から[[A級戦犯]][[被疑者]]として9月15日に逮捕され、[[東京都|東京]]の[[巣鴨拘置所]]へ拘置された。 |
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自殺する政治家や軍人もいたなか、岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを 来世までも 語り残さむ<ref name=":1" />」と裁判で堂々と主張するつもりで、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と[[昭和天皇|天皇陛下]]に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない。」「侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」として臨んだ{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=34}}。また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」「終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こした事が怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄[[聖戦]]の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」とも述べている{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=34}}。 |
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他にも獄中で書いた『断想録』で新日本は海国として再出発すべきで、「吾等は曾て世界に比類のない国民的結束と世界を驚倒する進歩発展を遂げた。仮令一敗地に塗れたとは云へ、此の国民的優秀性は依然として吾等の血に流れて居るのである。(中略)国民的矜持も国民の内省による国民的自覚の上に立つものである」と書いた{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=35}}。さらに獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになった{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=34}}。 |
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[[極東国際軍事裁判]](以下東京裁判)については「絶対権力を用いたショーだったのである」と述べている{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=35}}。また中国の内戦については、「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」と米ソ対立が深まるのを見極めつつ、反共のためならアメリカとも協力するようになっていったといわれ、[[大アジア主義]]者である他方[[現実主義]]者でもあった{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=36}}。 |
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1948年(昭和23年)12月23日、[[東条英機]]はじめ7人の被告の死刑が執行された。翌24日、当局は、岸、[[笹川良一]]、[[児玉誉士夫]]ら19人を不起訴により釈放すると発表。同月18日に病死していた[[多田駿]]と[[本多熊太郎]]を除く17人は即日釈放された<ref name="mainichi19481225">『毎日新聞』1948年12月25日付朝刊、1頁、「A級十九名を釈放 総司令部発表 戦犯の処分は完了す」。</ref>。東京裁判では開戦を実質的に決めた[[1941年]](昭和16年)11月29日の[[大本営政府連絡会議]]の共同謀議には参加していなかったこと{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=168-169}}、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣させた最大の功労者であること{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=205-208}}、元米国駐日大使[[ジョセフ・グルー]]らから人間として絶対的な信頼を得ていたこと{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=284-291}}などの事情が考慮されたためとも言われている。ただし、多くの戦争指導者同様、[[公職追放]]の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。 |
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=== 活動再開 === |
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巣鴨監獄出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった[[藤山愛一郎]]から彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、年が明けた[[1949年]]には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社(きざんしゃ)」と名乗る岸信介事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=278-208}}。 |
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公職追放処分中の岸は、更に[[東洋パルプ]]の会長などを務めていた。この会社は[[永野護 (政治家)|永野護]]がプロモートして[[広島県]][[呉市]]に工場を建設した会社で、岸が会長、社長が[[足立正]]、取締役が永野、[[藤山愛一郎]]、[[津島寿一]]、[[三好英之]]、[[監査役]][[瀬越憲作]]であった。しかし、経営がうまくいかず後に[[王子製紙]]に売却した{{Sfn|岸信介の回想|1981|p=97}}。 |
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しかしながら、巣鴨プリズン出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった[[藤山愛一郎]]から彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、年が明けた[[1949年]]には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社(きざんしゃ)」と名乗る岸信介事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める<ref>{{ Cite book | author = 工藤美代子 | author-link = 工藤美代子 | title = 絢爛たる悪運 岸信介伝 | edition = 1st | date = 2012-09-10 | publisher = [[幻冬舎]] | pages = 278-208 | id = ISBN 978-4-344-02238-6 | url = | accessdate = 2013-08-15 }}</ref>。 |
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この間、日本国憲法が発効した[[1947年]]には、日本を占領下に置いた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の主要国である[[アメリカ合衆国]]の対日政策は、当時はじまっていた東西[[冷戦]]の中で日本を「反共の砦」とする方向に大きく舵が切られ始めていた |
この間、[[日本国憲法]]が発効した[[1947年]]には、日本を占領下に置いた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の主要国である[[アメリカ合衆国]]の対日政策は、当時はじまっていた東西[[冷戦]]の中で日本を「反共の砦」とする方向に大きく舵が切られ始めていた{{Sfn|工藤美代子|2012|p=289}}。そこへ日本周辺での冷戦の激化、すなわち、[[1949年]]10月1日に[[蔣介石]]の[[中国国民党|国民党]]政府を[[台湾島]]へ逃亡させた、ソ連の後押しを受けた[[中国共産党]]による[[中華人民共和国]]の成立・台頭、[[1950年]]6月25日の[[朝鮮戦争]]の勃発と北朝鮮優位の攻勢により、連合国軍最高司令官の[[ダグラス・マッカーサー]]を含めてアメリカの対日政策が大きく転換されることになる([[逆コース]])。このため、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが[[1952年]]4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権していくことになる。 |
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=== 保守合同 === |
=== 保守合同 === |
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[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]の発効にともない公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」を[[スローガン]]に掲げた[[日本再建連盟]]を設立し、会長に就任した<ref name=tosikawatakao>{{Cite web|和書|url=http://www.insideline.co.jp/column/co_060130.htm|title=小泉・安倍・中川の“政治的DNA”|work=歳川隆雄のコンフィデンシャル情報|accessdate=2007-08-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060718135814/http://www.insideline.co.jp/column/co_060130.htm|archivedate=2006-07-18}}</ref>。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により[[日本社会党]]に入党しようと[[三輪寿壮]]に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、1月13日[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]入党の意向を表明し、首相吉田は了承し、3月18日に正式入党、4月公認候補として衆議院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられて[[憲法改正論議|自主憲法制定]]を目指すも{{Sfn|岸信介の回想|1981|pp=102-103}}、1954年(昭和29年)に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。 |
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岸は「真の日本独立を実現するためには、先ず保守合同で政局を安定させて、その勢いで政治的には「民族の魂が表現された憲法」を造って、自主防衛すべく、経済的にはこの狭いところに八千五百万人という人口を如何に養っていくために自立せねばいけないのである。経済自立とは、特需は外国からの援助によるものではなく、輸出産業を振興して国際収支が均衡を得るようにならねばらならない」と日本再建について述べた{{Sfn|リ・ヒョンチョル|2000|p=36}}。 |
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[[11月]]に[[鳩山一郎]]と共に[[日本民主党]]を結成し幹事長に就任。かねて[[二大政党制]]を標榜していた岸は、鳩山一郎や[[三木武吉]]らと共に、自由党と民主党の[[保守合同]]を主導。 |
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1954年11月に[[鳩山一郎]]と共に[[日本民主党]]を結成し幹事長に就任。かねて[[二大政党制]]を標榜していた岸は、鳩山一郎や[[三木武吉]]らと共に、自由党と民主党の[[保守合同]]を主導した。 |
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[[1955年]](昭和30年)[[10月]]には左右両派に分裂していた[[日本社会党]]が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに結成された、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の初代[[自由民主党幹事長|幹事長]]に就任した。かくして「[[55年体制]]」が始まる。 |
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====自由民主党結成と初代幹事長就任==== |
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なお、岸は1955年8月、鳩山政権の幹事長として[[重光葵]]外相の訪米に随行し、[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官と重光の会談にも同席している。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための周到な準備を練りあげていくことになる。 |
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[[1955年]](昭和30年)10月には左右両派に分裂していた[[日本社会党]]が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成された。岸は同党の初代[[自由民主党幹事長|幹事長]]に、鳩山一郎は初代総裁に就任した。かくして「[[55年体制]]」が始まった。 |
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なお岸は、1955年8月に鳩山政権の幹事長として[[重光葵]]外相の訪米に随行し、29日-31日の[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官と重光の会談にも同席している。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための準備を練り上げていくことになる。 |
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=== 岸内閣誕生 === |
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[[ファイル:Ishibashi cabinet.jpg|thumb|left|200px|[[1956年]]、[[内閣総理大臣]][[石橋湛山]](最前列中央)ら[[石橋内閣]]の閣僚と岸(最前列左)]] |
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[[1956年]](昭和31年)[[12月14日]]、自民党総裁に立候補するが7票差で[[石橋湛山]]に敗れた(岸251票、石橋258票)が、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として[[石橋内閣]]に入閣した。2か月後に石橋が[[脳軟化症]]に倒れ、[[内閣総理大臣臨時代理|首相臨時代理]]を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた[[児玉誉士夫]]の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の[[3月21日]]に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形の「[[居抜き内閣]]」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代[[内閣総理大臣]]に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。[[1958年]](昭和33年)[[4月25日]]に[[衆議院解散|衆議院を解散]]。[[5月22日]]の[[第28回衆議院議員総選挙|総選挙]]で勝利し(自民党は[[絶対安定多数]]となる287議席を獲得)、[[6月12日]]に第57代内閣総理大臣に就任し、[[第2次岸内閣]]が発足した。 |
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=== 石橋内閣からの岸内閣誕生 === |
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1958年(昭和33年)に日米安全保障条約改定にあたり、米側は「[[在日米軍裁判権放棄密約事件]]」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、国内の反発を恐れた岸はこれを拒否した。 |
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[[ファイル:Tanzan Ishibashi Cabinet 19561223.jpg|thumb|200px|[[1956年]]、[[内閣総理大臣]][[石橋湛山]](最前列中央)ら[[石橋内閣]]の閣僚と岸(最前列左)]] |
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[[1956年]](昭和31年)12月14日、自由民主党総裁選挙に立候補するが7票差で[[石橋湛山]]に敗れ(岸251票、石橋258票)、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として[[石橋内閣]]に入閣した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=10}}。2015年8月に東洋経済新報社の石橋湛山に関する資料袋から発見された石橋が岸にあてた私信によれば、石橋が示した閣僚名簿に対し昭和天皇は「自分はこの名簿に対して只一つたずねたいことがある。どうして岸を外務大臣にしたのか、彼は先般の戦争に於いて責任がある。その重大さは東條以上であると思う」と語ったという<ref>https://gendai.media/articles/-/113051?page=3</ref>。「自由主義国としての立場の堅持」「対米外交の強化」「経済外交の推進」「国内政治に根差す外交」「貿易中心の対中国関係」の外交五原則を発表した{{Sfn|原彬久|2003|p=116}}。2か月後に石橋が病に倒れ、[[内閣総理大臣臨時代理|首相臨時代理]]を務め、石橋総理の代役で[[施政方針演説]]を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102605254X00419570204&spkNum=5&single |title=第26回国会 衆議院本会議 第4号 (昭和32年2月4日)発言№005 岸信介 内閣総理大臣臨時代理の施政方針に関する演説説 |website=国会会議録検索システム |publisher=国立国会図書館 |date=1957-02-04 |accessdate=2020-02-07}}</ref>。石橋により後継首班に指名され、国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。[[1957年]]2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形の「[[居抜き内閣]]」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代[[内閣総理大臣]]に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。 |
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==== 日米安保条約の不平等性 ==== |
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当時の岸内閣は、[[警察官職務執行法]](警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、[[日本社会党|社会党]]や[[総評]]を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、[[日本教職員組合]](日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への[[勤務評定]]の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。 |
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1955年8月の訪米時、[[重光葵]]外務大臣が求める安保改定をダレス国務長官が一蹴した場に同席していた岸は大きな衝撃を受けた。米の厳しい態度の背景には、日本が自主防衛の努力を怠りタダ乗りすること、また米国陣営から離脱することへの懸念があったが、こうした懸念を解消し、安保条約の不平等性を解消する必要があると、岸は強く認識するようになっていく{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。従前より「総理は外交や治安にこそ力を入れなければならない」と述べ、「日本の真の主権回復」を目指していた岸にとって、総理・外務大臣を兼務できたことは幸甚であった<ref name=":1" />。 |
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[[1957年]](昭和32年)1月、米兵ジラードが農婦を射殺する[[ジラード事件]]が発生し、裁判管轄権が日本側にないということが明らかになると世論は激昂し、日米安保は危機に瀕した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=10}}。この事件によって、[[1951年]]の[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|旧日米安保条約]]下では、日本がアメリカに基地を提供する一方でアメリカ側には日本を防衛する義務はなく、また日本はアメリカの基地使用に対する発言権もないという不平等性が国民に対しても明らかになった{{Sfn|北岡伸一|2011|p=10}}。 |
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この他、[[最低賃金]]制や国民皆保険や国民皆年金など[[社会保障制度]]を導入し、後の[[高度経済成長]]の礎を構築した。また、鳩山とともに[[復古的改憲論]]を主張した。 |
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「政治生命をかけた大事業」と安保改定に意気込む岸は、首相に就任した直後から駐日米国大使[[ダグラス・マッカーサー2世]]と内密に協議を重ねた。その中で岸は、「安保条約は、日本国民の多数によって日本の対米従属的地位の象徴として見られている。知らざる間に自動的に戦争に巻き込まれてしまう危惧を抱くこととなり、日本国民の戦争嫌悪感情と相まって安保条約反対の空気を強める結果となっている」と揺さぶりをかけつつも、[[沖縄返還|沖縄]]などの返還合意・5年後を目処とした[[日本国憲法9条]]の改正・安保改定と「相互防衛」が可能な体制構築といったビジョンを示し、マッカーサー大使からも好意的に評価された{{efn|マッカーサーは1957年10月18日付けで国務省に送った公電で、岸の個人的人気が高くないことを指摘しつつも、「岸は現時点で、米国の目的から見て、最良のリーダーだ。岸が敗北すれば、後継首相は弱体か非協力的、あるいはその両方だろう。その場合、日本ひいては極東における米国の立場と利害は悪化する」と述べ、岸の支援を本国へ訴えている{{sfn|名越|2019|pp=58-78}}。}}{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=おじいちゃんの「秘密の話」 {{!}} 特集記事|url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/12509.html|website=NHK政治マガジン|accessdate=2020-10-17|publisher=日本放送協会|date=2018-12-26}}</ref>。 |
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=== 安保改定 === |
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岸の総理大臣在任中の最大の事項であり、岸政権の命運に影響を与えたのは、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約・新条約]]の調印・批准と、それを巡る[[安保闘争]]である。[[1960年]](昭和35年)[[1月]]に全権団を率いて訪米した岸は、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。 |
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[[1957年]]5月20日、「国防基本方針」を閣議決定し、アメリカの懸念を払拭するために、日米協力による日本の安全保障、国力に応じて防衛力を漸増することなどを明記した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。 |
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新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。[[5月19日]]には[[日本社会党]]議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。 |
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==== 対米自主外交 ==== |
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警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、[[児玉誉士夫]]を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の[[橋本登美三郎]]を使者に立て[[暴力団]]組長の会合に派遣。[[錦政会]]会長[[稲川角二]]、[[住吉会]]会長[[磧上義光]]や[[的屋|テキヤ]]大連合のリーダーで[[関東尾津組]]組長・[[尾津喜之助]]ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した[[木村篤太郎]]率いる新日本協議会、[[右翼]]の連合体である[[全日本愛国者団体会議]]、戦時中の超[[国家主義]]者も入った[[戦友会|日本郷友会]](旧軍の[[在郷軍人会|在郷軍人]]の集まり)である。「[[博徒]]、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。 |
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'''[[1957年]](昭和32年)'''1月24日、岸は[[スリランカ|セイロン]]で開催予定であったアジア太平洋地域[[在外公館長|公館長]]会議を東京に変更させ、日本外交の方針として共産圏対策、アジア・アフリカ諸国との友好関係、アジア太平洋地域での通商促進の三点を訓示し、これは9月の外交三原則に反映された{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=186}}。また「アジア太平洋地域は日本外交の中心地」と宣言した{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=173}}。 |
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4月からはイギリスに[[松下正寿]]特使を派遣し、核実験禁止をアピールし、また国連でも積極的に核実験問題を喚起し、アメリカやイギリスの反発を買った{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=175}}。4月20日にはインドの[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]首相が「諸大国に原水爆実験を行って他国の上空を汚染させる法的権利があるだろうか」と非難し、5月9日にはセイロンのコロンボ市議会がインドのネール首相と岸に向かってクリスマス島でのイギリスの水爆実験阻止を要請した{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=176}}。 |
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最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供の[[ヘリコプター]]、[[軽飛行機]]、[[貨物自動車|トラック]]、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。ただし岸によると、「動員を検討していたのは[[消防団]]や[[青年団]]、代議士の地元支持者らである」とのことである<ref>[[原彬久]] 『岸信介証言録』 p.292。毎日新聞社(2003年4月) ISBN 4-620-31622-9</ref><ref>岸語録に「政治資金は濾過器を通せ」というのがある。</ref>。 |
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5月20日、岸はアジア歴訪に出て、[[インド]]、[[パキスタン]]、[[スリランカ|セイロン]]など六カ国を訪問した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。5月23日にはインドのネルー首相と核実験禁止問題を討議した{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=176}}。 |
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[[File:Hagerty Incident 03.jpg|thumb|200px|right|アメリカ海兵隊のヘリコプターに乗り換えるハガティ(中央の人物)]] |
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こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、[[6月10日]]には大統領来日の準備をするために来日した特使、[[ジェイムズ・ハガティ]]新聞係秘書([[ホワイトハウス報道官]])の乗った[[キャデラック]]が[[東京国際空港]]の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、その挙句ヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。[[6月15日]]には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた[[東京大学]]の学生、[[樺美智子]]がデモ隊に押しつぶされ死亡する事故が発生した。 |
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6月には米国へ渡り、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領と首脳会談、安保改定の検討を約束させた{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。6月20日のアメリカ議会での演説では国際共産主義の脅威を唱え、翌日の記者会見では「日本は絶対に共産主義や中立主義に走らない」と述べた{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=177}}。国賓としての訪米であり、アメリカ国内の移動には[[エアフォースワン|大統領専用機]](''Columbine III'')が貸与される厚遇ぶりであったが、ダレス国務長官や制服組のトップである[[アーサー・W・ラドフォード|ラドフォード]][[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]との会談は厳しいものであった{{refnest|group="注釈"|国際政治学者の権容奭は、「ダレスとの会談記録を読むと、主導権を持っていったのはダレスでありアメリカ側だった。岸は内心、苦々しい思いをしたのではないかと推測できる」「アメリカだけ信じていたらダメだ、依存していたらダメだということを強く思ったんじゃないかと思う」と述べ、その後の岸は、アメリカ一本ではなく、イギリスや中国、インドなど、日本独自の外交オプションを広げていったとしている<ref name=":3" />。}}。この席で岸は「[[国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案|秘密保護法]]についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」とラドフォードの求めに応じている<ref name=":3" />。 |
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岸は、「国会周辺は騒がしいが、[[銀座]]や[[後楽園球場]]はいつも通りである。''私には“声なき声”が聞こえる''」と沈静化を図るが(いわゆる[[サイレント・マジョリティ]]発言)、[[東久邇宮稔彦王|東久邇]]・[[片山哲|片山]]・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。 |
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9月、外務省は外交三原則として、「国連中心主義」「アジアの一員としての立場の堅持」「自由主義諸国との協調」を掲げた<ref>外務省「わが外交の近況」1957年9月</ref>{{Sfn|北岡伸一|2011|p=8}}。疑問や批判に答えるため翌年に外務省は、日本の国是は 「自由と正義に基づく平和の確立と維持にあり、この国是に則って、平和外交を推進し、国際正義を実現し、国際社会におけるデモクラシーを確立することが、わが国外交の根本精神である」として、外交三原則はこの根本精神の外交活動の現れ方を示すと答弁した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=9}}。また、岸が携行した外交資料ではアジアのナショナリズムの理解、東南アジア開発基金構想、将来中国共産党を承認する必要性が出てくるため台湾と「2つの中国」双方への考慮が必要であること、核実験禁止のアピールなどが書かれており、「[[パワー・ポリティクス]]としての国際政治に道義の要素を入れることこそ、我々アジア諸国に課せられた使命」と書かれていた{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|pp=175-176}}。岸は内閣改造で外務大臣に[[藤山愛一郎]]を抜擢し、「アジア外交のなかでも中共の問題を」やってもらうと岸は述べた<ref>藤山愛一郎『政治わが道』朝日新聞社、1976年、pp. 2-12.</ref>{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=179}}。藤山外相は9月10日の参議院外務委員会で「アメリカと協調するというよりは、日本は自由主義陣営の立場をとる」と明言した{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=181}}。9月28日に藤山外相は当時自由陣営の中で珍しく中華人民共和国と国交を持っていたイギリスの[[:en:Selwyn Lloyd|ロイド]]外相と会談し、中国問題で密接に連絡を取り合うことを約束した{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=181}}。 |
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[[6月15日]]と[[6月18日|18日]]には、岸から[[自衛隊]]の[[治安出動]]を打診された[[防衛庁長官]]・[[赤城宗徳]]が拒否<ref name="nihonnohimitu">[[副島隆彦]]『日本の秘密』([[弓立社]]、1999年、ISBN 4772703616)</ref>。安保反対のデモが続く中、一時は[[首相官邸]]で実弟の[[佐藤栄作]]と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。[[6月21日]]には[[批准]]、[[昭和天皇]]が公布した。新安保条約の批准書交換の日の[[6月23日]]、岸は閣議にて辞意を表明、[[7月15日]]、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。 |
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10月、国連安保理非常任理事国に当選した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。1956年12月に国連に加盟してからは、核兵器廃絶決議を提出して成立、イギリスの核実験への抗議、[[レバノン]]紛争ではアメリカと異なる決議案を出し採決され、米国からも感謝された{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。またレバノン紛争では翌年の1958年に[[国際連合平和維持活動]](PKO)を求められたが[[自衛隊]]の海外派遣は難しかったので拒絶した{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。 |
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この総辞職の一日前の14日、岸は暴漢に刺され、瀕死の重傷を負っている。暴漢は戦前に右翼団体[[大化会]]に属していた荒牧退助で、その後は[[大野伴睦]]の院外団にいた。岸側近の[[小川半次]]は、岸が大野への禅譲を匂わせながら池田が後継となったことへの憤激が動機であるとする。暴漢本人は、樺美智子とその父親[[樺俊雄]]への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄と面会したことがあったという。また岸への殺意は否定している<ref>[[岩見隆夫]] 『岸信介 昭和の革命家』「第2部終章2節"岸を刺した男"」 pp.273-278、[[学陽書房]]・人物文庫(1999年4月)ISBN 4-313-75086-X。初出は「文藝春秋」1977年11月号『満州の妖怪―岸信介研究』、同 1978年7月号『権力への野望―岸信介研究・戦後篇』。初版単行本 学陽書房(1979年)、新版 朝日ソノラマ(1994年6月)。</ref>。 |
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12月には二度目のアジア歴訪に出て、[[オーストラリア]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]を周り、反日感情の強いオーストラリアでは戦争について率直に謝罪し、戦争賠償問題に積極的に取り組むとした{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。12月24日、日豪首脳会談で岸は「日豪両国は過去を忘れ、大きな筋において将来強い協力関係に入るべきだ」と訴えた{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=182}}。 |
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岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残している。岸が取った一連の行動については、文芸評論家の[[福田和也]]などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。 |
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このようなアジア重視の政策の背景には、当時、欧州共同体体制の誕生によって世界経済がブロック化する情勢からも日本が東南アジアに進出する必要が藤山から要求されたこと、また、[[バンドン会議]]でのインドや中国の躍進、周恩来のアジア歴訪による影響力拡大への対抗、そしてアメリカに対しては日米関係がうまく調整できなければ「アジアへの回帰」を選択するという、アジアをカードとして揺さぶりをかけるという外交上の側面があった{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=174}}。また第二次東南アジア歴訪は、日本の向米一辺倒、大東亜共栄圏の再来といった懸念に対して、英連邦への配慮とコロンボ・プランを重視することで乗り切ろうとするものであった{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=183}}。 |
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=== 日韓国交回復 === |
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岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領[[朴正煕]]もまた[[満州国軍]]将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は[[椎名悦三郎]]・[[瀬島龍三]]・[[笹川良一]]・[[児玉誉士夫]]らと満州人脈を形成した。 |
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==== 内政諸般 ==== |
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日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また両国の[[反共主義|反共]]政策を推進する過程で「[[世界基督教統一神霊協会|統一協会]]」とも[[1973年]](昭和48年)より親交を持ち「[[国際勝共連合]]」結成に協力、[[1984年]](昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際<ref>[http://www.chojin.com/history/kishi.htm 岸信介元首相、統一教会本部で文鮮明師と会談]</ref>、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖[[文鮮明]]の釈放を求める意見書を[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領(当時)に連名で送るなど<ref>[http://www.chojin.com/danbury/kishisyojou.htm 文鮮明師のアメリカ裁判に関する岸信介元首相の意見書]</ref>、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。 |
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'''[[1958年]](昭和33年)'''4月25日、衆議院を解散した。5月22日の[[第28回衆議院議員総選挙|総選挙]]で勝利し(自民党は[[絶対安定多数]]となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、[[第2次岸内閣]]が発足した。一方で、憲法改正に必要な3分の2の議席獲得には至らなかった<ref name=":3" />。 |
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{{要出典範囲|同年、日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、岸は国内の反発を恐れ、これを拒否した|date=2023年10月}}。 |
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=== 中華民国・蒋介石との関係 === |
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岸は[[中華民国]]の[[蒋介石]]総統とは勝共連合の設立([[1954年]])を通じて親密であり、[[1957年]](昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・[[台湾独立運動|台湾独立運動家]]の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「[[蒋介石総統遺徳顕彰会]]」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。[[古沢襄]]は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の[[蒋経国]]に面会できたと語っている<ref name="syowanoyoukainosugao">{{cite web|url=http://www.kajika.net/furusawa/20030222-2.htm|title=「昭和の妖怪」の素顔 [[古沢襄]](杜父魚文庫) |accessdate=2007年8月26日 }}</ref>。 |
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当時の岸内閣は、[[警察官職務執行法]](警職法)の改正案を出したが、[[日本社会党|社会党]]や[[日本労働組合総評議会|総評]]を初めとして反対運動が高まり、「デートもできない警職法(デートも邪魔する警職法)」「『[[千代丸健二|オイコラ警官]]』の再来」などと[[ネガティブ・キャンペーン]]にさらされ、撤回に追い込まれた<ref name=":1" />。また、[[日本教職員組合]](日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への[[勤務評定]]の導入を{{要出典範囲|強行した|date=2023年10月}}(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。 |
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2月に、警職法改正以外に防諜法(秘密保護法)の成立に意欲を見せていたほか、[[防衛庁]]の国防省への昇格、内政省の設置と地方制による官選知事制度(地方長官任命制度)の復活、[[独占禁止法]]改正、[[小選挙区]]法などの成立を目指していたとされる<ref>[[神山茂夫]] 『日本の中立化と独立』 [[新読書社]]出版部 p.265</ref><ref>増島宏 『現代日本の政党と政治』 [[大月書店]] p.63</ref>。内政省設置法案は、同年に、[[第1次岸内閣 (改造)]]により廃案となっている<ref>佐藤俊一 『日本広域行政の研究―理論・歴史・実態』 [[成文堂]] p.163</ref>。代わりに、[[1960年]](昭和35年)7月1日に、[[自治省]]が設立されている。 |
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内政省設置に関連して検討された「地方制」は、第4次地方制度調査会で検討されたもので、従来の[[都道府県]]を廃止して、新たにブロック制の「地方」を全国に7~9ヶ所程度設け、そこに官選の地方長(キャリア官僚)を配置するというものだった<ref>自治大臣官房企画室(編) 『地方制度調査会答申集(第1次-第17次)』 p.59-86</ref>。 |
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このほか、鳩山が施政方針演説で打ち出して石橋が閣議決定<ref>{{PDF|[https://www.med.or.jp/jma/about/50th/pdf/50th132.pdf 昭和32年 - 日本医師会]}}</ref><ref>{{cite news |title=国民皆保険・皆年金(12)国民皆保険の達成 |publisher=[[読売新聞]] |date=2013-08-09 |url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20130809-OYTEW62023/ |accessdate=2016-10-25}}</ref>していた[[国民皆保険]]を確立、{{要出典範囲|最低賃金制・国民皆年金など社会保障制度を導入し|date=2023年10月}}、{{要出典範囲|後の高度経済成長の礎を構築した|date=2023年10月}}。また、{{要出典範囲|鳩山とともに憲法改正を主張した|date=2023年10月}}。 |
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==== 安保改定と反対運動 ==== |
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[[ファイル:Japan US Treaty of Mutual Security and Cooperation 19 January 1960.jpg|230px|サムネイル|左|新安保条約の調印書。岸の署名がある]] |
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[[File:Sekai-1960-July-3.jpg|thumb|160px|left|[[安保闘争]]のデモ。「岸内閣打倒・国会解散」と掲げられた旗。]] |
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'''[[1960年]](昭和35年)'''1月に全権団を率いて訪米した岸は{{refnest|group="注釈"|このとき、岸の渡米妨害を目的とした学生集団が羽田空港ロビーを占拠する事件を起こしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s63/s630101.html|title=昭和63年 警察白書|accessdate=2018-04-01|website=|publisher=警察庁}}</ref>。}}、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と会談し、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|新安保条約]]の調印と大統領自身の訪日で合意した。マッカーサー駐日米大使、[[藤山愛一郎]]外相の3者間で協議、核持ち込みの密約をしたが記録も作られなかった<ref>https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-06-27/2010062701_03_1.html</ref>。 |
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新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には[[日本社会党]]議員を国会本議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での[[安保闘争]]も次第に激化した。 |
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当時、東大に在学し、反対運動も活発な駒場寮に在住していた[[田中秀征]]は「反対運動をしていた多くの学生たちが『岸は敵ながらあっぱれ』と言っていた」と回想している<ref>TBSテレビ「サンデーモーニング」2015年5月3日</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH543RS2H54UEHF001.html 「敵ながらあっぱれ」の首相か(朝日新聞『新ポリティカにっぽん』2015年5月5日、早野透)]</ref>。 |
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警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、[[児玉誉士夫]]を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の[[橋本登美三郎]]を使者に立て[[暴力団]]組長の会合に派遣。[[錦政会]]会長[[稲川角二]]、[[住吉会]]会長[[磧上義光]]や[[的屋|テキヤ]]大連合のリーダーで[[関東尾津組]]組長・[[尾津喜之助]]ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した[[木村篤太郎]]率いる新日本協議会、[[右翼]]の連合体である[[全日本愛国者団体会議]]、戦時中の超[[国家主義]]者も入った[[戦友会|日本郷友会]](旧軍の[[在郷軍人会|在郷軍人]]の集まり)である。「[[博徒]]、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった{{refnest|group="注釈"|ここで登場した「右翼宗教団体」とは、当時急速に会員を増大させていた[[創価学会]]を指しており、岸も創価学会の会長に就任したばかりの[[池田大作]]に対し、[[大阪事件 (創価学会)#岸信介による池田への働きかけ|大阪事件の裁判で無罪を言い渡すという交換条件を示して協力を依頼した]]が、これは断られたという<ref>『[[潮出版社|潮]]』[[2008年]]1月号「池田大作の軌跡」編纂委員会『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』「公明党を創立(下)」</ref>。}}。彼らは政府提供の[[ヘリコプター]]、[[軽飛行機]]、[[貨物自動車|トラック]]、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の『活動資金』が支給されていた」<ref>『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』</ref>{{出典無効|date=2015年10月}}<!-- 書誌情報詳細が必要 -->。ただし岸は「動員を検討していたのは[[消防団]]や[[青年団]]、代議士の地元支持者らである」と述べている{{Sfn|原彬久|2003|p=292}}。 |
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政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、[[ジェイムズ・ハガティ]]新聞係秘書([[ホワイトハウス報道官]])の乗った{{要出典範囲|[[キャデラック]]|date=2023年7月}}が[[東京国際空港]]の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、ヘリコプターで救出される騒ぎになった<ref>{{Cite web|和書|title=外務省: 外交史料 Q&A 昭和戦後期 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sengo_04.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2023-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ハガチー事件(ハガチーじけん)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6-113498 |website=コトバンク |access-date=2023-07-25 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 |last=改訂新版}}</ref>。 |
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岸は「デモの参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員だし、銀座通りも平常と変わりない」「私は『''声なき声''』に耳を傾ける」と沈静化を図るが<ref name=":1">{{Cite book|title=総理の辞め方|date=2008-07-29|publisher=PHP研究所|pages=80-89|isbn=978-4-569-70085-4|author=本田雅俊|author-link=本田雅俊|year=}}</ref>(いわゆる[[サイレント・マジョリティ]]発言)、[[東久邇宮稔彦王|東久邇]]・[[片山哲|片山]]・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、さらにアイゼンハワーの暗殺まで噂されたことでアイゼンハワーの訪日は中止となった。 |
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さらに6月15日には、自由民主党からの支援を受けたヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生で共産活動家の[[樺美智子]]が圧死する事故が発生。6月15日と6月18日には、岸から[[自衛隊]]の[[治安出動]]を打診された[[防衛庁長官]]・[[赤城宗徳]]が「自衛隊に同胞を傷つける命令は出せない」と拒否{{refnest|group="注釈"|自衛隊出動については、岸以外にも[[池田勇人]](通産大臣)・[[佐藤栄作]](大蔵大臣)・[[川島正次郎]](自民党幹事長)らが赤城に対して働きかけを行っていた<ref>{{Cite web|和書|title=【安保改定の真実(8)完】岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…(1/8)|url=https://www.sankei.com/article/20150923-DQNPS3D5XBIHREZH3FUJAO43LA/|website=産経ニュース|accessdate=2020-10-11|publisher=|date=2015-09-23}}</ref>。}}<ref>京都新聞2020年2月18日朝刊</ref><ref name="nihonnohimitu">[[副島隆彦]]『日本の秘密』([[弓立社]]、1999年、ISBN 4772703616)</ref>。安保反対デモは最高潮に達し警察からの退避要請を受けるが、「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」「俺は殺されようが動かない。覚悟はできている」と拒絶して、群衆に囲まれた[[総理大臣官邸]]に実弟の[[佐藤栄作]]と共に留まった<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=【安保改定の真実(8)完】岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…(3/8)|url=https://www.sankei.com/article/20150923-DQNPS3D5XBIHREZH3FUJAO43LA/|website=産経ニュース|accessdate=2020-10-11|publisher=|date=2015-09-23}}</ref>{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=431-434}}。19日午前0時をもって条約は自然承認され<ref>{{Cite web|和書|title=【安保改定の真実(8)完】岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…|url=https://www.sankei.com/article/20150923-DQNPS3D5XBIHREZH3FUJAO43LA/|website=産経ニュース|accessdate=2020-10-11|publisher=|date=2015-09-23}}</ref>、6月23日の批准書交換をもって発効した<ref name=":1" />。同日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明する。 |
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[[評論家]]の荒井荒雄は、反安保闘争が岸と自民党が1960年代後半から[[統一教会]](現・[[世界平和統一家庭連合]])と関係を深めることとなった背景にあると主張している{{Sfn|荒井荒雄|1976|pp=183-185}}。 |
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{{Main|#統一教会との関係}} |
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==== 襲撃事件 ==== |
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辞意表明後の1960年7月14日、後継首班に池田勇人が指名された直後の祝賀会で、岸は暴漢に刃渡り24センチのナイフで左太腿を6カ所刺されて重傷を負った{{Sfn|工藤美代子|2012|p=438}}{{Sfn|首相列伝|2003|p=17|loc=首相が見た「時代」の一瞬}}<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=i3rnz82bjGw&t=1306s 日本の素顔「政治テロ」 (1960年(昭和35年)10月16日)]</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=世相風俗観察会 |title=現代世相風俗史年表:1945-2008|publisher=河出書房新社 |year=2009-03 |page=100 |isbn=9784309225043}}</ref>。犯人は戦前に右翼団体[[大化会]]に属し、[[大野伴睦]]の[[院外団]]にいた65歳の[[荒牧退助]]であった。岸側近の[[小川半次]]は、岸が大野への禅譲を匂わせながら池田が後継となったことへの憤激が犯行動機であるとするが、荒牧自身は、樺美智子とその父親[[樺俊雄]]への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄とも面会し、「岸に反省をうながす意味でやった」と供述して岸への殺意や大野との背後関係は否定している<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=【安保改定の真実(8)完】岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…(7/8)|url=https://www.sankei.com/article/20150923-DQNPS3D5XBIHREZH3FUJAO43LA/|website=産経ニュース|accessdate=2020-10-11|publisher=|date=2015-09-23}}</ref>{{refnest|{{Harvnb|岩見隆夫|1999|ps=「第2部終章2節"岸を刺した男"」|pp=273-278}}、初出は「文藝春秋」1977年11月号『満州の妖怪―岸信介研究』、同 1978年7月号『権力への野望―岸信介研究・戦後篇』。}}。荒牧には懲役3年の実刑が2年後、5月24日に確定した。 |
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翌7月15日、岸内閣は総辞職した。岸は「私のやったことは歴史が判断してくれる<ref name=":1" />」「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう<ref name=":2" />」という言葉を残している。 |
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=== 晩年 === |
=== 晩年 === |
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==== 日韓癒着の中核 ==== |
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政財界に幅広い人脈を持ち、後継者の[[福田赳夫]]と[[田中角栄]]による自民党内の主導権争い([[角福戦争]])が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。また、[[御殿場市|御殿場]]の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる([[1969年]]、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など[[自主憲法論]]に関し積極的な発言を続けた。 |
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[[File:Kankoku-Tokuhon-volume-3-1.jpg|thumb|200px|左から岸、[[池田勇人]]首相、[[朴正熙]](1961年11月11日)]] |
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[[File:Korea-Photo-News-11.png|thumb|200px|岸とKCIA長官の[[金鍾泌]](1962年10月)]] |
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岸は1960年7月の首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領[[朴正煕]]もまた[[満洲国軍]]将校として満洲国と関わりを持ったことがあり、岸は[[椎名悦三郎]]・[[瀬島龍三]]・[[笹川良一]]・[[児玉誉士夫]]ら[[満洲人脈]]を形成し、日韓国交回復後には[[日韓協力委員会]]を組織した<ref>姜尚中,玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』講談社、2010年</ref>。岸信介は韓国政界に強い影響力を持っており、[[大韓民国中央情報部]](KCIA)元部長の[[金炯旭]]も「韓日癒着の日本側の中核は岸信介」であったと評価している。[[1963年]]の大統領選挙以来、[[朴正煕]]政権を支えたのは日本の[[自由民主党 (日本)|自民党]]勢力からの政治資金であった。この背景には[[東西冷戦]]下の安全保障戦略の拠点として韓国を位置付ける極東戦略の一部として、日本側に負担を担わせる[[米国政府]]側の思惑があったとされる<ref>金炯旭『権力と陰謀 : 元KCIA部長金炯旭が語る』合同出版 pp.300-309</ref>。 |
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[[1984年]]11月26日付けで、時のアメリカ大統領[[ロナルド・レーガン]]に対し、脱税で懲役刑に処されていた世界基督教統一神霊協会(現・[[世界平和統一家庭連合]])教祖・[[文鮮明]]の早期釈放を嘆願する書簡を送付。文面は、「文尊師は、現在、不当にも拘禁されています。貴殿のご協力を得て、私は是が非でも、できる限り早く、彼が不当な拘禁から解放されるよう、お願いしたいと思います」であった<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=【独自】安倍家と統一教会との“深い関係”を示す機密文書を発見 米大統領に「文鮮明の釈放」を嘆願していた岸信介 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2022/07201200/?all=1 |website=週刊新潮 |access-date=2022-07-20 |date=2022-07-20}}</ref>。 |
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==== ソウル地下鉄汚職事件 ==== |
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[[大韓民国中央情報部]](KCIA)元部長の[[金炯旭]]によれば、岸は韓国への円借款供与と鉄道建設に関連する汚職に関与している。1960年代当時、[[韓国]]の交通問題を解決するために地下鉄建設や鉄道電化工事が計画されていたが、受注を巡り、欧州と日本の企業連合間で激しい競争があり、[[三菱商事]]、[[三井物産]]、[[日商岩井]]、[[丸紅]]などの大手商社が、[[朴正煕]]と関係の深い岸を前面に立てて、韓国政界への働きかけを熱心に行った。1971年8月の「日韓閣僚会議」で、[[ソウル地下鉄]]建設に対する円借款供与が合意され、これが決め手となって1973年、日本の商社連合がソウル地下鉄車両186両に対する売買契約に成功した。商社連合は多額の利益を[[ペーパーカンパニー]]を経由するなどの複雑なルートで、[[賄賂|リベート]]として韓国政界に還流させ、その多額の資金は朴正煕政権の維持基盤となった<ref>金炯旭『権力と陰謀 : 元KCIA部長金炯旭が語る』合同出版 pp.300-309</ref>。 |
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====派閥関連==== |
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佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる[[福田赳夫]]の首相就任を悲願としていた{{Sfn|原彬久|1995}}。 |
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1962年10月30日に岸は、自らの派閥「[[十日会系|十日会]]([[清和政策研究会#歴史|岸派]])」の解散を宣言した(福田は1970年11月に自派閥の[[紀尾井会]]を設立)<ref>派閥と多党化時代 , 渡辺恒雄 雪華社, 1967,p194</ref>。[[1972年]](昭和47年)の自民党総裁選挙([[1972年自由民主党総裁選挙]])で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという{{Sfn|安倍洋子|1992}}。 |
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=== 死去 === |
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[[1987年]](昭和62年) 8月7日、岸は心不全のため入院先の[[東京医大病院]]で死去。{{没年齢|1896|11|13|1987|8|7}}。1986年10月、高野山に弘法大師奉賛会会長として参詣した時に風邪をひき、東京女子医大病院に入院。その後糖尿病と肝機能障害の治療のため、1987年1月に東京医大病院に転院し療養していたが、高齢からくる衰弱に加え、肺炎も併発し死去した。墓は[[山口県]][[田布施町]]および[[静岡県]][[駿東郡]][[小山町]]の[[冨士霊園]]にある。なお、葬儀は内閣・自民党合同葬で執り行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15356795.html|title=異例国葬、党内に配慮 全額国費、首相は正当性強調:朝日新聞デジタル|newspaper=朝日新聞|date=2022-07-15}}</ref>。 |
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== 人物・逸話 == |
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{{wikiquote}} |
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=== 人物評 === |
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*岸は細い顔に出っ歯の顔立ちで、縁戚の[[松岡洋右]]から「へちまに歯が生えた顔」と言われたこともあり{{Sfn|工藤美代子|2012|p=113}}、「それでですよ」や「ナンだな」が口癖であった{{Sfn|工藤美代子|2012|p=131}}。満洲時代には[[料亭]]で酒や[[芸者遊び]]にも通じ、軍部やアヘン業者とも付き合える豪胆さがあったという{{Sfn|工藤美代子|2012|p=140-143}}。明るい感じがして人付き合いの良い岸であるが、怖さを感じた人物もいたという{{Sfn|牧原出|2003}}。 |
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*[[三島由紀夫]]は、『[[三島由紀夫#批評・世評・コラム・防衛論|一つの政治的意見]]』と題する評論の中で、自らが安保闘争の部外者と認めた上で、「自分の政治的信条を素朴に信じることのできない性格」をもって「小さな小さな[[ニヒリズム|ニヒリスト]]」と岸を評した。しかしながら、[[安保闘争]]の混乱の責任は岸のような政治家を選んだ国民にあるとも指摘する。そして「大きなニヒリスト」たる[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]のような政治家が現れる危険についても述べる<ref>{{harvnb|三島|1975}}, pp. 520 "氏が何もかも信じてゐず、いかにも自分では信念の人だと思つてゐるかもしれないが、自分の政治的信條を素朴に信じることのできない性格だといふことは、民衆には直感的にわかつてをり、かうした氏の不幸が不信と不安の種子をまいてゐるのであるらしい。"</ref>。 |
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*[[中曽根康弘]]は岸を「直入正直型の長州人」と評し、岸の実弟である[[佐藤栄作]]とともに宰相学を身に付けていた総理経験者と評価していた<ref>{{Cite book|和書|author=中曽根康弘|authorlink=中曽根康弘|title=自省録-歴史法廷の被告として-|publisher=[[新潮社]]|year=2004|month=6|isbn978-4104687015}}66頁、93頁。</ref>。また、[[福家俊一]]は「岸は[[高杉晋作]]に知性を足した人物」と評している{{sfn|工藤美代子|2012|p=143}}。 |
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*[[緒方竹虎]]、[[正力松太郎]]などとともにアメリカ[[中央情報局]](CIA)から膨大な資金提供を受けていた<ref name="cia-records">{{cite web |url=https://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-name-files | title=CIA Records - Name Files | publisher=[[アメリカ国立公文書記録管理局|National Archives]] |date= | accessdate=2022-8-19 }}</ref>。岸に与えられた[[コードネーム]]は明かされていない<ref>{{Cite web|和書|title=岸信介とCIAの密接な関係 自民党にも金の流れ? 〈週刊朝日〉|url=https://dot.asahi.com/articles/-/7525|website=AERA dot.|date=2013-05-17|accessdate=2021-01-11|publisher=}}</ref>。2007年に米[[国務省]]が日本を反共の砦とするべく[[岸信介内閣]]、[[池田勇人内閣]]および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し[[内政干渉]]していたことを公式に認めている<ref>{{Cite news|url= http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006071901000837.html |title=左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に|date=2006-07-19|author=共同通信|newspaper=47news|accessdate=2015-02-03||archiveurl=https://web.archive.org/web/20151015035853/http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006071901000837.html |archivedate=2015-10-15||deadlinkdate= 2019年8月}}</ref><ref>『[[週刊文春]]』[[2007年]][[10月4日]]号</ref>。先に資金提供を要求したのは岸の方で、アメリカのアイゼンハワー政権は、一定の秘密資金援助や選挙のアドバイスを提供することをCIAに許可したとされる。資金提供は1958年から60年代まで続けられていたが、必要性を感じなかったジョンソン政権によって打ち切られた。提供された金額などは明らかにされていない<ref>『自民にCIA資金』しんぶん赤旗 2006年7月20日</ref><ref>『名越健郎×春名幹男:「米露公文書」で解き明かす日本外交「秘史」』新潮社 Foresight https://www.fsight.jp/articles/-/46389</ref>。一方、冷戦期においては金額は少ないながらも社会党と共産党もソ連から援助を受けている。ジャーナリストの[[名越健郎]]は、日本の政党が外国依存体質をもっており、「違法な外国資金導入で形成された55年体制は、その後の政治や外交にネガティブな影響を与えた」と指摘する{{sfn|名越|2019|p=312}}。 |
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*岸の言葉として「政治は力であり、金だ。」というものがある{{Sfn|岩川隆|2006|p=111}}。岸内閣のころに金権政治の体質が始まったとする見方もあり{{Sfn|岩川隆|2006|p=133}}{{refnest|group="注釈"|日本の経済が発展したという側面もある<ref>{{Cite news|title=57歳で初当選、岸内閣の官房長官に 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(3)|work=政客列伝|author=安藤俊裕|page=3|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2012-08-19|url= https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK06030_W2A800C1000000/?df=3 |accessdate=2015-11-19}}</ref>。}}、[[鳩山一郎]]は岸をさして「あんなに金に汚くてはいけない」と言っていたという{{Sfn|岩川隆|2006|p=133}}。しかし岸は[[田中角栄]]の金の集め方を危険視しており、「金は濾過機を通せ」と語っていた{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=448-449}}。なお、岸にはいくつかの戦後賠償に関する汚職疑惑が浮上したが、いずれも立ち消えになっている{{Sfn|岩川隆|2006|pp=257-304}}{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=439-445}}。 |
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*「昭和の妖怪」の異名を持つ<ref>[[岩見隆夫]]「昭和の妖怪 岸信介(中公文庫)」2012年11月発行</ref>。 |
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=== 死の覚悟と悪運 === |
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*岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている{{要出典|date=2015年2月}}。1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯被疑で捕まった時{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=244-245}}{{refnest|group="注釈"|見送りに来た[[佐藤寛子 (首相夫人)|佐藤寛子]]に「あとは栄作しかいないんだよ」と語っていた{{Sfn|工藤美代子|2012|p=}}。}}、3度目は安保改定の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=431-434}}の3度である。 |
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*戦時中の1945年(昭和20年)、[[座骨神経痛]]を病み、郷里山口で保養中だった。ところが同年[[鈴木貫太郎内閣]]で[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]になった同郷の[[安倍源基]]から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)[[地方総監府]]の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い[[広島市|広島]]にして欲しい」と答えると「広島は昨夜[[内務省 (日本)|内務省]]の先輩の[[大塚惟精]]を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後[[広島市への原子爆弾投下]]で被爆死した{{Sfn|岸信介の回想|1981|pp=73-74}}{{Sfn|細川隆一郎|1986|p=85}}{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=211-212}}。 |
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*被爆を免れたことや東京裁判で不起訴となったことについて運が良いと言われた際、岸は「悪運が強くないと政治家はダメ、運が7割」「悪運は強いほどいい」と語っている{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=212-213}}。 |
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=== 統一教会との関係 === |
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| footer = 一列目左から、岸信介、[[文鮮明]]<br>二列目左から、[[笹川良一]]、[[児玉誉士夫]] |
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{{see also|世界平和統一家庭連合と政界との関係}} |
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* 最初に[[統一教会]](現・世界平和統一家庭連合)と接点を持ったのは、岸の出身地である[[田布施町]]を中心に布教活動を行っていた[[天照皇大神宮教]](通称:踊る宗教)の教祖の[[北村サヨ]]を介してのことだと伝えられている<ref name="dailyshincho20220815">{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2022/08150556/?all=1 | title=岸信介と統一教会を仲介したのは謎の「踊る女性教祖」? 警視庁公安部が捜査していた政治家の実名も | publisher=デイリー新潮 |date=2022-08-15 | accessdate=2022-11-20 }}</ref><ref name="kotobank-kitamura-sayo1">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%91%E3%82%B5%E3%83%A8-1069528 | title=北村サヨ(日本大百科全書、デジタル版日本人名大辞典+Plus、世界大百科事典第2版) | publisher=コトバンク |date= | accessdate=2022-11-20 }}</ref><ref name="kotobank-kitamura-sayo2">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%91%20%E3%82%B5%E3%83%A8-1643438 | title=北村サヨ(20世紀日本人名事典) | publisher=コトバンク |date= | accessdate=2022-11-20 }}</ref>。 |
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* 1963年、統一教会の熱烈な反共主義に目をつけた[[笹川良一]]は教団顧問となり、組織化に乗り出した<ref>{{Cite book|和書 |editor=日外アソシエーツ |title=20世紀日本人名事典 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |date=2004年7月 |isbn=978-4816918537 }}</ref><ref>[[大野達三]]「軍国主義復活と右翼―WACL大会をめぐる右翼の現状―」 『前衛』1970年12月号、日本共産党中央委員会、128-141頁。</ref>。1964年7月15日に統一教会は宗教法人の認可を受け、11月1日、教団本部を世田谷区[[代沢]]5丁目から、岸が女優の[[高峰三枝子]]に返却した渋谷区[[南平台町]]45番地(当時の番地)の隣地(500坪)に移転した<ref name="smart-flash20220727">{{Cite web|和書|url=https://smart-flash.jp/sociopolitics/193230/1/ | title=岸信介の “私邸” が統一教会の本部に…「西郷どん」と「高峰三枝子」がつないだ数奇な縁 | publisher=Smart FLASH |date=2022-07-27 | accessdate=2023-02-02 }}</ref><ref name="kogensha20200621">{{Cite web|和書|url=https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=7648 | title=日本統一運動史 52 全国的規模での統一教会の最初の決断式 | publisher=光言社 |date=2020-06-21 | accessdate=2022-11-08 }}</ref><ref name="kogensha20200705">{{Cite web|和書|url=https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=7790 | title=日本統一運動史 54(最終回) 宗教法人・統一教会の出発 | publisher=光言社 |date=2020-07-05 | accessdate=2022-11-08 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-08-18/2022081812_01_0.html | title=徹底追及 統一協会 闇勢力編(下)岸信介元首相と懇意 “勝共運動飛躍の契機” | publisher=しんぶん赤旗 |date=2022-08-18 | accessdate=2022-11-08 }}</ref>。このため信者が隣同士になった岸の私邸を訪れるようになり、教団との密接な関係が生まれた<ref>{{Cite web|和書|author=柳錫 |url=https://bunshun.jp/articles/-/57863 | title=統一教会・文鮮明“お言葉集”発掘「安倍晋太郎は私と契約書を書いた」「福田赳夫と中曽根は私が首相にした」 | publisher=文春オンライン |date=2022-10-06 | accessdate=2022-11-08 }}</ref>。教団本部が1965年8月23日に渋谷区[[松濤]]1丁目に移転<ref name="kogenshi20211013">{{Cite web|和書|url=https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=12694 | title=【文鮮明総裁聖和節記念】日本を愛した文先生の足跡 15 南平台から松涛へ(最終回) | publisher=光言社 |date=2021-10-13 | accessdate=2022-11-08 }}</ref>してからも、岸は頻繁に統一教会の本部を訪れ、そこで教団が招いた[[韓国]]の国会議員や大学教授と面会することもあった{{Sfn|久保木|1996|pp=103-112}}。 |
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* 1968年1月13日に統一教会教祖の[[文鮮明]]は[[大韓民国中央情報部|大韓民国中央情報部(KCIA)]]の指示を受け、[[国際勝共連合]]を韓国で設立{{Sfn|『新版 社会科学辞典』|1978|p=367}}。次いで同年4月1日、岸は文、[[笹川良一]]、[[児玉誉士夫]]らと協力して、日本でも国際勝共連合を設立した<ref name="ifvoc20120907">{{Cite web|和書|author=梶栗玄太郎|authorlink=梶栗玄太郎|url=https://www.ifvoc.org/seikyo.html | title=追悼の言 | publisher=国際勝共連合 |date=2012-09-07 | accessdate=2022-11-14 }}</ref>{{Sfn|『新版 社会科学辞典』|1978|p=367}}<ref name="asahi-journal19780811">[[茶本繁正]]「『反共』陣営と連動する勝共連合」 『[[朝日ジャーナル]]』1978年8月11日・18日号、 31-35頁。</ref>{{Sfn|久保木|1996|pp=95-112}}。岸が統一教会に接近した背景には、[[全学連]]や[[日本共産党]]の学生組織「[[民青]]」への対抗勢力として、教団の青年組織を活用する狙いがあったとする意見もある{{Sfn|荒井荒雄|1976|pp=183-185}}。岸は「どんなに良い人物でも、何もしないのでは仕方がない。ワルでも使い道によっては役に立つ」とかつて日本統一教会初代会長の[[久保木修己]]に語った{{Sfn|久保木|1996|pp=103-112}}。 |
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* 1969年春、「自主憲法制定国民会議」(現・新しい憲法をつくる国民会議)を立ち上げ、初代会長に就任<ref>{{Cite web|和書|url=http://119.245.209.164/concept/about_jishuken.html | title=概要 | publisher=新しい憲法をつくる国民会議(=自主憲法制定国民会議) |date= | accessdate=2022-11-18 }}</ref>。同団体は毎年5月3日に武道館などを会場として「自主憲法制定国民大会」を行うが、国際勝共連合の機関紙「思想新聞」は1973年の第5回大会を「青年を先頭に大国民運動へ激進 岸議長らが訴え」という見出しで記事に取り上げた<ref name="tbs20220924">{{Cite web|和書|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/162559?display=1 | title=「日本はとんでもない間違いをした」岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三…3代続く関係性から見える旧統一教会が目指した“国家宗教”【報道特集】 |website=TBS NEWS DIG |publisher=[[TBSテレビ]] |date=2022-09-24 | accessdate=2022-11-22 }}</ref>。1975年の第7大会は計78団体が参加した。その中には国際勝共連合、全貌社などが含まれていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=107505206X01919750514 | title=第75回国会 衆議院 法務委員会 第19号 昭和50年5月14日 | publisher=国会会議録検索システム |date= | accessdate=2022-11-22 }}</ref>。1982年の大会では、国際勝共連合の会員が大会決議を朗読した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220914/dde/014/040/003000c | title=自民党と旧統一教会 右派とのつながり深く 長年親交…別れられるのか? | publisher=毎日新聞 |date=2022-09-14 | accessdate=2022-11-20 }}</ref>。 |
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* 1970年4月9日、統一教会本部で東京地区の信者約4,000名に対して国際情勢などを語り、教会員を激励{{Sfn|久保木|1996|}}。 |
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* [[1970年]]8月、岸は国際勝共連合の本部を訪問。「勝共連合の諸君の溢れるような熱情と実行力に心打たれた」と激励し、[[憲法改正]]・自主憲法制定を訴えた<ref>鈴木エイト、塚田穂高(編)「統一教会=勝共連合ーその右派運動の歴史と現在」『徹底検証 日本の右傾化』筑摩書房、2017年 ISBN 978-4-480-01649-2 pp.342-351</ref>。 |
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* 1970年9月2日、久保木修己は、岸の自筆の推薦文をしたため、[[大韓民国|韓国]]の[[朴正煕]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]と[[青瓦台]]の大統領官邸で会見{{Sfn|久保木|1996|pp=123-135}}。 |
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* 1970年9月20日、「世界反共連盟(現・[[世界自由民主連盟]])世界大会」が武道館で開催。岸が大会推進委員長を務め、久保木は議長を務めた。大会責任者を務めたのは国際勝共連合の事務総長の[[阿部正寿]]だった<ref>{{Cite web|和書|author=藤田庄市 |url=http://www.rirc.or.jp/20th/Rirc20th_inbound8_Fujita.pdf | title=日本における統一教会の活動とその問題点―活字メディアで報道された批判を中心に― |publisher=国際宗教研究所 宗教情報リサーチセンター |date= | accessdate=2022-11-22 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-08-28/2022082802_01_0.html | title=統一協会 危険な二つの顔 反社会的カルト集団 勝共連合 反共・反動の先兵 | publisher=しんぶん赤旗 |date=2022-08-28 | accessdate=2022-11-22 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sesoken.com/%E4%B8%80%E9%80%A3%E3%81%AE%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%BD%93%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E3%81%AE%E8%A6%8B%E8%A7%A3/ | title=一連の報道への当研究所の見解 | publisher=[[世界戦略総合研究所]] |date=2022-07-30 | accessdate=2022-11-22 }}</ref>{{Sfn|久保木|1996|pp=123-135}}。 |
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* 1970年10月21日、岸は[[ソウル]]で開催された統一教会の[[合同結婚式]](777双)に祝辞を送った<ref>『毎日新聞』1970年10月22日号 朝刊 17面</ref> |
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* 1973年4月8日、岸は教団本部を訪問、その当時の演説の内容は統一教会の公式文章で以下の通りに伝えられている<ref name="tongilgyo-history-1-p281-355">歴史編纂委員会『日本統一運動史ー文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』光言社 P281~355</ref>。 |
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<blockquote>ただいま、久保木会長から御紹介がありましたように、私はここへ今回から3度目だと思います。その前に実は、統一教会と私の奇しき因縁は、南平台で隣り合わせで住んでおりました若い青年たち、正体はよくわからないけれども、日曜日ごとに礼拝をされて、賛美歌の声が聞こえてくる。・・・ |
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そうしたら・・・笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で、将来、日本のこの混乱の中に、それを救うべき大きな使命を持っている青年だと私は期待している。もっとも現在の数は非常に少なく、またずいぶん誤解もあり、親を泣かせるとマスコミも騒いでいる。そういう話を聞き、お隣りでもありましたので、聖日の礼拝の後に参りまして、お話したことがありました。人数もせいぜい二、三十人ではなかったかと思います。久保木君のお説教は・・・極めて情熱のこもったお話を聞きまして、非常に頼もしく私は考えたのです<ref name="tongilgyo-history-1-p281-355"/>。 |
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</blockquote> |
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* 1973年11月23日、文鮮明・[[韓鶴子]]夫妻と日本の統一教会本部で長時間会談し、意見交換をした<ref name="tongilgyo-history-1-p281-355"/><ref name="kogenshi20211013"/>。 |
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* 1974年5月7日、第1回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催され、文鮮明が講演した。岸は名誉実行委員長を務めた<ref name="k19811022">{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=109515077X00219811022&spkNum=284&single |title=第95回国会 参議院文教委員会 第2号 (昭和56年10月22日)発言№284 佐藤昭夫 |website=国会会議録検索システム |publisher=国立国会図書館 |date=1981-10-22 |accessdate=2020-02-07}}</ref>。 |
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* 1976年12月17日、第2回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催。第1回と同様、名誉実行委員長を務めた<ref>『朝日新聞』1976年12月18日、「統一協会支持派が客を招き晩さん会」。</ref>。 |
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* 1982年10月14日、統一教会は[[ソウル特別市|ソウル]]の[[蚕室体育館]]で合同結婚式を開催。岸は「天を中心とした理想と信念の下に教育しておられる。私が文鮮明先生を心より尊敬するゆえんであります」と書かれた祝電を送った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=Izy1Va7ytbw |title=「我々は世界を支配できると思った」米・統一教会の元幹部が語った”選挙協力”と”高額報酬”の実態【報道特集】 |accessdate=2023-03-07 |publisher=JNN |website=TBS NEWS DIG}}</ref>。 |
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* 1984年4月18日、自民党・民社党の議員と保守系財界人らが「スパイ防止法のための法律制定促進議員・有識者懇談会」を設立。岸は会長に就任し、事務局長には、岸と同様に国際勝共連合と関係の深い[[堀江正夫]]が就いた<ref name="tokyo20220817">{{Cite web|和書| author=木原育子、中沢佳子 | url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/196366 | title=旧統一教会系と歩んだ安倍氏「3代」…スパイ防止法を巡る歴史から闇を読み解く | publisher=東京新聞 | date=2022-08-17 | accessdate=2023-02-17 }}</ref><ref name="akao2014">{{Cite journal|author=赤尾光史|date=2014年3月|title=特定秘密保護法と新聞メディアの記憶 ─刑法改正およびスパイ防止法論議との比較を中心に─|url=https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/journalism/journalism_7/each/20.pdf|journal=Journalism & Media No.7|page=}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://www.spyboshi.jp/about-us/ | title=当団体について | website=「スパイ防止法」制定促進サイト | publisher=スパイ防止法制定促進国民会議 | accessdate=2023-02-17 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ifvoc.org/news/shiso-np180415/ | title=勝共運動50周年記念インタビュー 元参議院議員 堀江正夫氏に聞く | publisher=国際勝共連合 |date=2018-04-20 | accessdate=2022-10-17 }}</ref>。 |
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* 1984年11月20日から22日にかけて、文鮮明主催の第7回「世界言論人会議」が東京のホテルニューオータニで開催された。岸は同会議で名誉議長としてスピーチした<ref name="kogensha-history2">{{Cite web|和書|url=https://www.kogensha.jp/data/tp-history02/ | title=真の父母様と統一運動の歴史 1970-1989 | publisher=光言社 |date= | accessdate=2022-10-12 }}</ref>。 |
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* 1984年11月26日、米国で脱税被疑により投獄されていた文鮮明の釈放を求める意見書を[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領(当時)に連名で送った<ref name="dailyshincho20230507">{{Cite web|和書| author=徳本栄一郎| url=https://www.dailyshincho.jp/article/2023/05071100/?all=1| title=「安倍晋三元首相」暗殺の闇 なぜ祖父・岸信介は「統一教会教祖」の釈放嘆願書をレーガン大統領に送ったのか| publisher=デイリー新潮 | date=2023-05-07 | accessdate=2023-09-21 }}</ref>。 |
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=== 対人関係 === |
|||
; 吉田茂との関係 |
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: 岸は安全保障論議で[[吉田茂]]とは鋭く対立したが、親戚関係にあり、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保改定]]に当たっては同条約締結時に首相の任にあった吉田に敬意を表した。[[神奈川県]][[大磯町]]の別荘に隠棲していた吉田の許にたびたび足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという<ref>[[原彬久]]「ポスト小泉の麻生氏と安倍氏、祖父が争った国のかたち―闘い方が時代を占う指標に」(『[[朝日新聞]]』2005年12月15日夕刊14面)</ref>。また、[[皇學館大学]]では吉田の後任の総長を務めている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kogakkan-u.ac.jp/html/about/p02.php |title=沿革・理念|publisher=皇學館大学|accessdate=2015-02-06}}</ref>。 |
|||
; アイゼンハワー大統領との関係 |
|||
: 総理大臣として岸が渡米した際には、大統領の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]と[[ゴルフ]]を楽しんだ。直後の取材でアイゼンハワーが「大統領や総理大臣になると、嫌な奴と思っていても笑いながらテーブルを挟まなければならないことがある。しかし、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだよ」と語ったり、大使館まで岸を自分の車で送るなど、岸との関係は非常に良好であった{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=375-380}}。また、[[2010年]](平成22年)[[6月23日]]に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」[[記念切手]]の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2010/h220623_t.html |title=特殊切手「日米安全保障条約改定50周年」の発行|work=特殊切手 平成22年度発行一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2015-02-06}}</ref>。 |
|||
; 国民党・蔣介石との関係 |
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: 岸は[[中国国民党主席|中国国民党総裁]]・[[中華民国総統]]の[[蔣介石]]とは勝共連合の設立([[1954年]])を通じて親密であり、[[1957年]](昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蔣介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蔣介石・[[台湾独立運動|台湾独立運動家]]の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蔣介石死後も岸は「[[蔣介石総統遺徳顕彰会]]」の中心として日本各地に蔣介石を讃える石碑を建立する活動を行った。[[古沢襄]]([[共同通信社]]の幹部記者)は、岸の名刺を示すだけで蔣介石や息子の[[蔣経国]]に面会できたと語っている<ref name="syowanoyoukainosugao">{{Cite web|和書|url= http://www.kajika.net/furusawa/20030222-2.htm |title=「昭和の妖怪」の素顔 古沢襄(杜父魚文庫)|accessdate=2007-08-26}}</ref>。[[親台派]]([[親華派]])の重鎮だったために[[中華人民共和国]]の[[鄧小平]]から特使の[[矢次一夫]]を通じて中台の仲介役を要請されたこともあった<ref name=jiji2019>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20191006070356/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100500380 | title = 岸と金丸、対日政界工作=親台派取り込み-中国建国70年秘史 | work = | publisher = [[時事通信]] | date = 2019-10-06 | accessdate = 2019-11-05}}</ref>。 |
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; 藤本万次郎との関係 |
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: [[公職追放]]後、岸は一時行方不明との報道がされた。その間、[[藤本万次郎]]の出身地である、[[祝島]]の藤本家で体力と英気を養い、この際に藤本との盟友関係は更に深くなった。後年、現職の[[周東英雄]]後援会長でありながら、岸、佐藤に懇願され岸の娘婿である落選中の[[安倍晋太郎]]後援会長を藤本は引き受け、当選に導くに至った{{要出典|date=2015年2月}}。 |
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; 岡潔との関係 |
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: [[岡潔]]の哲学に賛同し[[福田赳夫]]と共に葦牙会に所属した<ref name="chouroku">[[岡潔]]『岡潔先生二十年祭記念 聴雨録 - 師弟座談集 - 』(真情会、1998年発行)</ref>。 |
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; 三木武夫との関係 |
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: 岸は[[三木武夫]]について「世の中で一番嫌いな奴」「陰険だよ」と語っており{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=389-390}}、自身が病床の折には「三木の見舞いだけは追い返せ」とまで言っていた{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=471-472}}。しかし、[[護国同志会]]の後身である[[国民協同党]]の影響による腐れ縁の存在や、[[三角代理戦争]]の影響による[[清和政策研究会|福田派]]と[[番町政策研究所|三木派]]の接近もあり、[[1986年]]([[昭和]]61年)に三木が入院した際には岸は見舞いに訪れており、励ましの言葉をかけている{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=471-472}}。 |
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; 辻政信との関係 |
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: 公開された[[中央情報局|CIA]]文書では、[[辻政信]]が石橋湛山を支持しており、彼が自民党の会合で「石橋内閣が岸内閣にとってかえられたことは残念だ」という旨の発言をしていることから、岸は辻を高く評価しておらず、辻の意見や報告が政策に反映される可能性は低いだろうと報告されている<ref>{{Cite web|url=https://www.cia.gov/readingroom/docs/TSUJI%2C%20MASANOBU%20%20%20VOL.%203_0026.pdf|title=Relations between TSUJI Masanobu and Prime Minsiter KISHI Nobusuke|accessdate=2021/10/8|publisher=CIA}}</ref>。 |
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; 北村サヨとの関係 |
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: 岸が[[巣鴨プリズン]]へ留置される前に、[[天照皇大神宮教]]の[[教祖]]・[[北村サヨ]]は「心配せんでもええ。岸はいずれ首相になる。」と予言していったという。その後も岸を訪れており、北村の葬儀には岸も駆けつけている{{Sfn|工藤美代子|2012|p=225-232}}。 |
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; [[創価学会]]第2代会長・[[戸田城聖]]との関係 |
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[[1963年]](昭和38年)の[[第30回衆議院議員総選挙]]で長女洋子の娘婿であり後年岸派を[[福田赳夫]]から継承する[[安倍晋太郎]]が[[山口県第1区 (中選挙区)|山口1区]](当時)で落選。地元[[山口県]]での影響力低下が取りざたされる。岸は同選挙区選出の自民党議員・[[周東英雄]]の後援会長を務めていた[[藤本万次郎]]の自宅を現職[[総理大臣]]である[[佐藤栄作]]と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は[[1967年]](昭和42年)の[[第31回衆議院議員総選挙]]で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。 |
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: 創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、[[1958年]][[3月16日]]に[[大石寺]][[大講堂 (大石寺)|大講堂]]で行われた[[広宣流布]]の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、[[安倍晋太郎]]・[[安倍洋子|洋子]]夫妻、[[南条徳男]]・[[建設大臣|前建設大臣]]を出席させた。 |
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=== ノーベル平和賞候補 === |
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[[1969年]](昭和44年)の[[第32回衆議院議員総選挙]]では、側近の1人[[今松治郎]]の秘書だった[[森喜朗]]が自民党の公認得られず無所属新人として[[石川県第1区_(中選挙区)|旧石川1区]]で出馬する際、岸の秘書[[中村長芳]]に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。 |
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*岸は首相在任中[[ノーベル平和賞]]候補に推され<ref name="nobel">[http://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=11570 Nomination Database Nobusuka Kishi (2015年現在、1964年分まで公開)]. ノーベル賞公式サイト. 2015年4月30日閲覧。</ref>、[[有賀長雄]]、[[渋沢栄一]]、[[賀川豊彦]]に続いて4人目のノーベル平和賞日本人候補者となった(母親が日本人の[[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー|クーデンホーフ=カレルギー伯爵]]は除く)<ref>[http://www.nobelprize.org/nomination/archive/search.php?prize=5&startyear=1901&endyear=1964&cname=&ccity=&cuniversity=&ccountry=107&cgender=A&nname=&ncity=&nuniversity=&ncountry=0&ngender=A Nomination Database Country of nominee is: JAPAN (2015年現在、1964年分まで公開)]. ノーベル賞公式サイト. 2015年5月4日閲覧。</ref>。岸を推したのはアメリカ上院議員スペサード・L・ホランド([[:en:Spessard Holland|Spessard Lindsey Holland]])。理由は「世界平和の唱道者、使徒」{{Sfn|吉武信彦|2014|p=6}}。「堅実に世界中で軍縮と平和を強く唱道し」、「核兵器禁止の実現のために弾みをつけようと努力した」というものである{{Sfn|吉武信彦|2014|p=6}}。 |
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*ホランドは、ノーベル平和賞推薦締め切り日の2月1日を過ぎた1959年2月13日付けで推薦状を提出し、1959年の選考への追加希望を書き添え、[[ノーベル委員会]]は3月5日に受理した{{Sfn|吉武信彦|2014|p=5}}。この推薦は、翌年扱いになっている<ref name="nobel" />。 |
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*1960年の選考においてノーベル委員会委員は31候補中、8候補に関して報告書を作成し、岸の報告書は作成されなかった{{Sfn|吉武信彦|2014|p=7}}。選考は翌年に持ち越され、1960年分の受賞者は、8候補に含まれていない黒人解放運動家[[アルバート・ルツーリ]]に決定した{{Sfn|吉武信彦|2014|p=7}}。 |
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*また、岸はその後ノーベル平和賞推薦人も務めており、1961年には[[神学者]]{{仮リンク|フランク・ブッシュマン|en|Frank Buchman}}を推薦している<ref name="nobel" />。 |
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=== プロ野球との関わり === |
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佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる[[福田赳夫]]の首相就任を悲願としていた<ref name="kishishinsuke">原彬久『岸信介』(岩波新書 1995年1月)</ref>。[[1972年]](昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという<ref name="musume">安倍洋子『わたしの安倍晋太郎-岸信介の娘として』(文春ネスコ、1992年4月)</ref>。 |
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* [[プロ野球]]では[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンであり、球場で観戦したこともある<ref>[https://web.archive.org/web/20080409200015/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325154.html 【4月6日】1958年(昭33) デビュー4打席4三振 その後の長嶋茂雄] [[スポニチアネックス]]、[[2008年]][[3月25日]]記事</ref>。 |
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* 1957年3月30日、[[セントラル・リーグ]]開幕戦の一つである巨人対[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦では[[始球式]]をおこなっている<ref>[[宇佐美徹也]]『宇佐美徹也の記録巨人軍65年』説話社、2000年、p.98[https://books.google.co.jp/books?id=E04H8Qn0cZIC&pg=PA98&lpg=PA98&dq=%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%A7%8B%E7%90%83%E5%BC%8F&source=bl&ots=ymtVVpIICd&sig=CJ3ohv9_DMXiwSkyu_7ijA5exjo&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjr0fDtiMTQAhUCfbwKHVnGC90Q6AEIPDAI#v=onepage&q=%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%A7%8B%E7%90%83%E5%BC%8F&f=false]</ref><ref>[http://yakyutaro.jp/r.php?hash=auM2b 【1957】日本の現職の総理大臣としては初めて始球式登板!] - 野球太郎twitter</ref>。現職の内閣総理大臣でプロ野球公式戦の始球式をおこなったのは2023年現在岸のみである{{refnest|group="注釈"|[[日本選手権シリーズ]]に関しては、[[1960年の日本シリーズ]]第1戦で、この年岸の後任として就任した[[池田勇人]]が始球式をおこなった事例がある<ref>{{Cite news|url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=018-20150202-01|title=“アベノミクス”より、はるかに大胆かつ、実効性があった“イケノミクス”。その池田首相も広島の弱さだけは……|newspaper=[[週刊ベースボール]]|date=2015-01-26|accessdate=2020-12-30}}</ref>。}}<ref group="注釈">2013年5月5日、東京ドームで開催された巨人対広島の試合前に[[長嶋茂雄]]と[[松井秀喜]]の[[国民栄誉賞]]授賞式が行われ、授与式終了後の始球式において[[安倍晋三]]が球審役を務めている。</ref>。 |
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* 1969年、[[大映]]社長の[[永田雅一]]から当時経営難に陥っていた[[プロ野球チーム一覧|プロ野球球団]]・東京オリオンズ(現:[[千葉ロッテマリーンズ]])の支援を要請され、岸は親交があった[[ロッテ]]社長の[[重光武雄]]に依頼<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180527-11|title=波瀾と浪漫の球団。マリーンズの前身、オリオンズ|accessdate=2020-01-19|publisher=週刊ベースボール(2018年5月27日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200119-P2TZH4O6LVL7XLLGPMUQ2ZI6AA/|title=ロッテ創業者、重光武雄氏 日韓両国で足跡 愛されるブランド|accessdate=2020-01-19|publisher=産経新聞(2020年1月19日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20200119/k00/00m/040/190000c|title=「球団黒字」夢見て奔走 他業界も研究 ロッテオーナー重光武雄さん死去|accessdate=2020-01-19|publisher=毎日新聞(2020年1月19日作成)}}</ref>。ロッテはオリオンズ球団と業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ロッテの球界参入への後押しに貢献した<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001190000942.html|title=記者に逆取材も、第三者の声聞く柔軟さ/重光氏悼む|accessdate=2020-01-19|publisher=日刊スポーツ(2020年1月19日作成)}}</ref>。 |
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=== 日系人についての発言 === |
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[[1974年]](昭和49年)にはシンクタンクである[[協和協会]]を設立。また、[[1976年]](昭和51年)[[10月]]には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”[[政治団体]]「時代を刷新する会」を設立。[[1979年]](昭和54年)[[10月7日]]の[[衆議院解散]]を機に、地盤を[[吹田あきら|吹田愰]]に譲り、政界引退。 |
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*1959年、日系人として初めてアメリカ連邦議会の下院議員となった[[ダニエル・イノウエ]]が来日した際、当時の岸首相と面談している。イノウエが、「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」と水を向けると、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた「出来損ない」ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と答えた([[ETV特集]]「日系アメリカ人の“日本”」2008年9月28日放送<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/0928.html|title=ETV特集「日系アメリカ人の“日本”」|accessdate=2021-12-18|publisher=NHK}}</ref>)<ref>{{Cite book|和書|title=移民国家アメリカの歴史|date=2018/10/19|publisher=岩波書店|page=199|author=貴堂嘉之|series=岩波新書・新赤版1744}}</ref><ref>{{Cite web|author=Glen S. Fukushima |authorlink=グレン・S・フクシマ |url=http://www.javadc.org/Don't%20be%20a%20bridge%20-%20Fukushima%20speech.htm |title=Don't Be a Bridge, Be a Player! |website=Japanese American Veterans Association (日系アメリカ人退役軍人協会) |language=英語 |date=2006-7-24 |accessdate=2023-2-14}}「''U.S. Senator Daniel Inouye describes his meeting in Tokyo in 1959 with then Prime Minister Nobusuke Kishi''」で始まる段落が該当部分。</ref>。 |
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{{Seealso|ダニエル・イノウエ#日系人初の上下両院議員}} |
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=== その他の逸話 === |
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* [[天体写真|天体写真家]]・[[藤井旭]]の父は岸と旧制山口中学校での同級生だった{{Sfn|藤井旭|2015|p=12}}。 |
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引退後[[国際連合]]から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された<ref>{{cite web|url=http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00356/contents/015.htm|title=日本財団図書館 「興四海野春風―2002 20年の歩み―」 |accessdate=2007年8月26日 }}</ref>。1987年(昭和62年) 8月7日に入院先の病院で死去した。90歳没。墓は山口県田布施町及び静岡県御殿場市の冨士霊園にある。 |
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== 略年譜 == |
== 略年譜 == |
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* [[1896年]]([[明治]]29年)[[11月13日]] - [[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]]八軒家(現在の[[山口市]])に生まれる。[[本籍地]]は山口県[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]]。 |
* [[1896年]]([[明治]]29年)[[11月13日]] - [[山口県]][[吉敷郡]][[山口町]]八軒家(現在の[[山口市]])に生まれる。[[本籍地]]は山口県[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]]。 |
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* [[1919年]]([[大正]]8年)[[11月]] - 岸良子と結婚。 |
* [[1919年]]([[大正]]8年)[[11月]] - [[岸良子]]と結婚。 |
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* [[1920年]](大正9年) |
* [[1920年]](大正9年) |
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** [[7月]] - [[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]法律学科(独法)を卒業。外国貿易に関する事項の調査を嘱託。 |
** [[7月]] - [[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]法律学科(独法)を卒業。外国貿易に関する事項の調査を嘱託。 |
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** 4月 - 工務局工業課長兼務。 |
** 4月 - 工務局工業課長兼務。 |
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** 12月 - 大臣官房文書課長、工務局工政課長兼務。 |
** 12月 - 大臣官房文書課長、工務局工政課長兼務。 |
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* 1934年(昭和9年) |
* [[1934年]](昭和9年) |
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** 1月 - 製鉄事業評価審査委員会幹事被仰付、大臣官房統計課長兼務、統計主任、工務局工務課長兼務。 |
** 1月 - 製鉄事業評価審査委員会幹事被仰付、大臣官房統計課長兼務、統計主任、工務局工務課長兼務。 |
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** 2月 - [[資源局]]事務官被仰付。第六十五回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。 |
** 2月 - [[資源局]]事務官被仰付。第六十五回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。 |
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** 4月 - 任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官、臨時産業合理局第二部長。 |
** 4月 - 任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官、臨時産業合理局第二部長。 |
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** 5月 - 第六十九回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。臨時産業合理局第一部長兼務。 |
** 5月 - 第六十九回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。臨時産業合理局第一部長兼務。 |
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** 10月 - 依願免本官竝兼官。満 |
** 10月 - 依願免本官竝兼官。満洲重工、実業部次長として渡満。 |
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* [[1937年]](昭和12年) |
* [[1937年]](昭和12年) |
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** 7月 - 産業部次長。 |
** 7月 - 産業部次長。 |
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** 10月 - 任商工次官、叙高等官二等。 |
** 10月 - 任商工次官、叙高等官二等。 |
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* [[1941年]](昭和16年) |
* [[1941年]](昭和16年) |
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** 10月 - [[東条内閣]]で商工大臣に就任。 |
** 10月 - [[東条内閣]]で商工大臣に就任。『[[:s:米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書|米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書]]』に署名。 |
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* [[1942年]](昭和17年) |
* [[1942年]](昭和17年) |
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** 4月 - [[衆議院議員]]( - [[1943年]][[10月]])。 |
** 4月 - [[衆議院議員]]( - [[1943年]][[10月]])。 |
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* 1943年(昭和18年) |
* [[1943年]](昭和18年) |
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** 3月[[経団連]]の前身となる商工経済会設置法を成立させる<ref name="shoko"/>。 |
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** 10月 - 任国務大臣、商工次官兼任、叙高等官一等。 |
** 10月 - 任国務大臣、商工次官兼任、叙高等官一等。 |
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** 11月 - 国務相、軍需次官( - 1944年7月)。 |
** 11月 - 国務相、軍需次官( - 1944年7月)。 |
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* [[1945年]](昭和20年) |
* [[1945年]](昭和20年) |
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** 9月 - 戦犯被疑者として[[巣鴨拘置所]]入所( - [[1948年]][[12月]])。 |
** 9月 - 戦犯被疑者として[[巣鴨拘置所]]入所( - [[1948年]][[12月]])。 |
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* [[1952年]](昭和27年) |
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** 4月 - 追放解除。 |
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* [[1953年]](昭和28年) |
* [[1953年]](昭和28年) |
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** 3月 - [[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]入党 |
** 3月 - [[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]入党。 |
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** 4月 - 衆議院議員( - 1979年9月)。 |
** 4月 - 衆議院議員( - 1979年9月)。 |
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** 12月 - 憲法調査会会長。 |
** 12月 - 憲法調査会会長。 |
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* [[1956年]](昭和31年) |
* [[1956年]](昭和31年) |
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** 12月 - [[石橋内閣]]で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]( - [[1957年]][[2月]])。 |
** 12月 - [[石橋内閣]]で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]( - [[1957年]][[2月]])。 |
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* 1957年(昭和32年) |
* [[1957年]](昭和32年) |
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** 2月 - 内閣総理大臣。 |
** 2月 - 内閣総理大臣。 |
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** 3月 - 自由民主党大会開催、総裁に当選。 |
** 3月 - 自由民主党大会開催、総裁に当選。 |
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* [[1960年]](昭和35年) |
* [[1960年]](昭和35年) |
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** 7月 - 内閣総理大臣、自由民主党総裁退任。 |
** 7月 - 内閣総理大臣、自由民主党総裁退任。 |
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* [[1965年]](昭和40年) |
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** 1月 - [[ウィンストン・チャーチル|チャーチル元首相]]の[[ウィンストン・チャーチルの死と国葬|国葬]]に政府特使で訪英( - 2月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22365|title=チャーチル国葬(有馬純達・朝日新聞特派員)2007年4月 |accessdate=2022-10-04 |publisher=[[日本記者クラブ]] |author=有馬純達 | date=2007-04 |website=日本記者クラブ Japan National Press Club (JNPC)|language=ja}}</ref> |
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* [[1974年]](昭和49年) |
* [[1974年]](昭和49年) |
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**[[協和協会]]を設立、初代会長。 |
** [[協和協会]]を設立、初代会長。 |
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* [[1979年]](昭和54年) |
* [[1979年]](昭和54年) |
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** [[国連平和賞]]受賞 |
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** 9月 - 政界引退(後継は[[吹田愰]]を指名) |
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** 11月 - [[朴正煕]]の葬儀に政府特使で参列。 |
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* [[1987年]](昭和62年) |
* [[1987年]](昭和62年) |
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** [[8月7日]] - 死去、{{没年齢|1896|11|13|1987|8|7}}。 |
** [[8月7日]] - 死去、{{没年齢|1896|11|13|1987|8|7}}。 |
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*: [[墓]]は[[山口県]][[田布施町]]及び[[静岡県]][[御殿場市]]の[[冨士霊園]]。 |
*: [[墓]]は[[山口県]][[田布施町]]及び[[静岡県]][[御殿場市]]の[[冨士霊園]]。 |
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== メモ == |
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{{出典の明記|date=2010年7月|section=1}} |
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* 岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている。1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯被疑で捕まった時、3度目は安保改定の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時の3度である。 |
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* 戦時中の1945年(昭和20年)、[[座骨神経痛]]を病み、郷里山口で保養中だった。ところが同年[[鈴木貫太郎内閣]]で[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]になった同郷の[[安倍源基]]から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)[[地方総監府]]の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い[[広島市|広島]]にして欲しい」と答えると「広島は昨夜[[内務省 (日本)|内務省]]の先輩の[[大塚惟精]]を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後[[広島市への原子爆弾投下]]で被爆死した<ref>『岸信介の回想』73、74頁</ref><ref>『日本宰相列伝20 岸信介』85頁</ref>。 |
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* [[東京都]][[渋谷区]]南平台(地区は[[松涛]])の岸邸隣に[[世界基督教統一神霊協会]](統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「[[国際勝共連合]]」本部に足を運んだ<ref name="aitenaikokuaijin">[[久保木修己]]『愛天愛国愛人 ─母性国家、日本のゆくえ─』(世界日報社、1996年発行)</ref>。日本での「国際勝共連合」の設立の際に[[児玉誉士夫]]、[[笹川良一]]と共に協力した<ref>{{cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/078/1110/07810211110004c.html|title=第078回国会 外務委員会 第4号 [[1976年]](昭和51年)10月21日 |accessdate=2007年8月26日 }}</ref>。 |
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* [[1974年]](昭和49年)5月7日、東京の[[帝国ホテル]]で開かれた、統一教会の教祖[[文鮮明]]の講演会「希望の日晩餐会」の名誉実行委員長となった<ref name="k19811022">{{cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/095/1170/09510221170002a.html|title=第095回国会 文教委員会 第2号 1981年(昭和56年)10月22日 |accessdate=2007年8月26日 }}</ref>。 |
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* 安全保障議論で吉田茂とは鋭く対立したが、親戚関係にあり、安保改定に当たっては同条約締結時首相の任にあった吉田に敬意を表し、[[神奈川県]]の[[大磯町]]の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという<ref>[[原彬久]]「ポスト小泉の麻生氏と安倍氏、祖父が争った国のかたち―闘い方が時代を占う指標に」(『[[朝日新聞]]』2005年12月15日夕刊14面)</ref>。また、皇學館大学では吉田の後任の総長を務めた。 |
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* 岸は[[内閣総理大臣]]として3度、通常国会で[[施政方針演説]]を行ったが、[[1957年]](昭和32年)の[[石橋湛山内閣]]時に[[内閣総理大臣臨時代理]]として石橋総理大臣の代役で施政方針演説を行っている<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=9261&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=2&DOC_ID=4664&DPAGE=1&DTOTAL=6&DPOS=6&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=9473 第26回国会 衆議院本会議議事録(昭和32年2月4日)] 国会会議録:衆議院</ref>。尚、[[日本国憲法]]下で内閣総理大臣臨時代理による施政方針演説はこの時の岸信介のみである。 |
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* [[2010年]](平成22年)[[6月23日]]に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」[[記念切手]]の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている<ref>[http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2010/h220623_t.html 特殊切手「日米安全保障条約改定50周年」の発行 - 日本郵便]</ref>。 |
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* 公職追放後、一時行方不明との報道がなされた。その間は、[[藤本万次郎]]の出身地である、[[祝島]]の藤本家で体力と英気を養い、この際に、岸と藤本の盟友関係は更に深くなり、後年、現職の[[周東英雄]]後援会長でありながら、岸、佐藤に懇願され岸の娘婿である落選中の[[安倍晋太郎]]後援会長を藤本は引き受け、当選に導くに至った。 |
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* [[岡潔]]の哲学に賛同し[[福田赳夫]]と共に葦牙会に所属した。 |
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* [[1957年]](昭和32年)にオリンピック招致費用を[[2013年]]現在の価格に換算して1200億円掛かる事を懸念していた岸信介首相は、日本水泳連盟会長[[田畑政治]]に、観光収入も見込めると直談判された。<ref>2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック~第2回オリンピック招致にかけた男たち」</ref> |
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* [[プロ野球]]では[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンであり、球場で観戦した事もあった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325154.html 【4月6日】1958年(昭33) デビュー4打席4三振 その後の長嶋茂雄][[スポニチアネックス]]、[[2008年]][[3月25日]]記事</ref>。 |
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== 栄典 == |
== 栄典 == |
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;位階 |
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*[[1942年]](昭和17年)[[7月6日]]:[[満州国]]・国境事変従軍記章<ref>『官報』 1942年07月11日 叙任及辞令 「商工大臣 従三位 勲二等 岸信介 満州国皇帝陛下ヨリ贈与シタル国境事変従軍記章ヲ受領シ佩用スルヲ允許セラル 七月六日賞勲局」</ref> |
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* [[ |
* [[1940年]](昭和15年)[[10月15日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第4156号「叙任及辞令」1940年11月12日。</ref> |
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* [[ |
* [[1943年]](昭和18年)[[11月15日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第5153号「叙任及辞令」1944年3月20日。</ref> |
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:勲章など |
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* [[1967年]](昭和42年)[[4月29日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章]] |
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* [[1979年]](昭和54年)[[8月28日]] - [[国際連合]]から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価され<ref>{{Cite web|和書|url= http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00356/contents/015.htm |title=日本財団図書館 「興四海野春風―2002 20年の歩み―」 |accessdate=2007-08-26}}</ref>、日本人として初となる[[国連平和賞]](国連ピース・メダル)を受けた<ref name=":1" /><ref>朝日新聞 1987年8月22日朝刊</ref>。 |
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* [[1987年]](昭和62年)[[8月7日]] - [[大勲位菊花大綬章]] |
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;外国勲章佩用允許 |
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* [[1942年]](昭和17年)[[7月6日]] - [[満洲国]]・国境事変従軍記章<ref>『官報』 1942年07月11日 叙任及辞令 「商工大臣 従三位 勲二等 岸信介 満洲国皇帝陛下ヨリ贈与シタル国境事変従軍記章ヲ受領シ佩用スルヲ允許セラル 七月六日賞勲局」</ref> |
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== 著作 == |
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'''自著''' |
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*{{Cite book ja|title=日本戦時経済の進む途|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|1709742}}|url-access=registration|publisher=研進社|date=1942-04-20}}新版復刊・[[ダイレクト出版|経営科学出版]]、2022年 |
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*{{Cite book ja|title=二十世紀のリーダーたち|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|11924835}}|url-access=registration|publisher=[[産経新聞|サンケイ出版]]|date=1982-08-30}} |
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*{{Cite book ja|title=我が青春 : 生い立ちの記 思い出の記|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12284434}}|url-access=registration|publisher=廣済堂出版|date=1983-11-08|isbn=4331501728}} |
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** 岸信介の後援会誌『風声』昭和28年第2号〜昭和31年第11号に連載された「我が生い立ちの記」全文を編んだもの。 |
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*{{Cite book ja|title=岸信介回顧録 : 保守合同と安保改定|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12284630}}|url-access=registration|publisher=[[廣済堂出版]]|date=1983-11-08|isbn=433150171X}} |
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*『保守政権の担い手 [[私の履歴書]]』 [[日本経済新聞]]出版社〈[[日経BP|日経ビジネス人文庫]]〉、2007年。 |
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** 新編再刊。旧版『私の履歴書 第8集』[[日本経済新聞社]]、1959年ほか |
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'''共著・共編著''' |
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* {{Cite book ja|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001440739-00 |series=現代法学全集(23)|title=保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法|author1=南正樹|author2=星野直樹|authorlink2=星野直樹|author3=栗栖赳夫|authorlink3=栗栖赳夫|publisher=[[日本評論社]]|year=1928|ref={{SfnRef|現代法学全集23|1928}} }} |
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* {{Cite book ja|author1=矢次一夫|authorlink1=矢次一夫|author2=伊藤隆|authorlink2=伊藤隆 (歴史学者)|title=岸信介の回想|publisher=[[文藝春秋]]|year=1981|ref={{SfnRef|岸信介の回想|1981}} }}文春学藝ライブラリー(文庫判)、2014年10月 |
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**矢次一夫・伊藤隆との鼎談、後半に資料編として「[[巣鴨日記]]」がある。 |
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* {{Cite book ja|title=岸信介証言録|author=原彬久|authorlink=原彬久|publisher=[[毎日新聞社]]|year=2003|month=4|isbn=978-4620316222|ref=harv}}中公文庫、2014年11月 |
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*『岸信介 最後の回想 その生涯と60年安保』 聞き手加地悦子、[[加瀬英明]]監修、勉誠出版、2016年7月 |
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*『耐雪―岸信介幽窗の詩歌集』([[山口県]])[[田布施町]]郷土館 研究紀要別冊 2001年 |
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'''その他''' |
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*『青年に望む』 - 自民党発行のブックレット |
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*『日本の進路と安保条約』 - 自民党発行のブックレット |
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*『青年学徒に告ぐ』[[皇學館大学]]出版部 講演叢書第1輯 1969年 |
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== 一族 == |
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=== 家族・親族 === |
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;実家(佐藤家) |
;実家(佐藤家) |
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: 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は[[源義経]]の家臣[[佐藤忠信]]であるという口伝がある。「佐藤家の祖は、およそ三百年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生れ、あとで栄作と縁組することになる[[佐藤寛子 (首相夫人)|寛子]]は“子供のころから、[[浄瑠璃]]狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。[[義経千本桜]]四段目で狐の化けた忠信が[[静御前]]を守護する。この忠信は[[: |
: 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は[[源義経]]の家臣[[佐藤忠信]]であるという口伝がある。「佐藤家の祖は、およそ三百年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生れ、あとで栄作と縁組することになる[[佐藤寛子 (首相夫人)|寛子]]は“子供のころから、[[浄瑠璃]]狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。[[義経千本桜]]四段目で狐の化けた忠信が[[静御前]]を守護する。この忠信は[[:ファイル:Genji-guruma.jpg|源氏車]]の[[家紋]]をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車である」<ref>[[#山田 『正伝 佐藤栄作』|山田 『正伝 佐藤栄作』(上) 1988]], p. 15.</ref>という。 |
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: 岸は自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた[[長州藩|旧藩]]時代からの[[士族]]で、ことに曽祖父・[[佐藤信寛|信寛]]の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」 |
: 岸は自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた[[長州藩|旧藩]]時代からの[[士族]]で、ことに曽祖父・[[佐藤信寛|信寛]]の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」{{Sfn|吉本重義|1957|p=27}}{{Sfn|岩川隆 『巨魁 岸信介研究』|pp=15-16}}、「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった{{Sfn|岩川隆 『巨魁 岸信介研究』|p=16}}」と述べている。 |
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: 佐藤家の[[菩提寺]]は[[田布施町]]下田布施名倉の[[浄土真宗本願寺派]]帯江山[[真光寺]]<ref>[https://www.facebook.com/tabuse.kankou/posts/761011580643842 真光寺]田布施町観光協会Facebook</ref>。 |
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* 曾祖父・'''[[佐藤信寛|信寛]]'''([[長州藩]]士、[[島根県|島根]][[県令]]) |
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* 曽祖父・'''[[佐藤信寛|信寛]]'''([[長州藩]]士、[[島根県|島根]][[県令]]) |
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*: 佐藤家第10代当主。「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の[[坪井九右衛門|九右衛門]]は坪井家に養われて[[長井雅楽]]の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた。」<ref>吉本重義『岸信介傳』21頁</ref>という。 |
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*: 佐藤家第10代当主。「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の[[坪井九右衛門|九右衛門]]は坪井家に養われて[[長井雅楽]]の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曽祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた。」{{Sfn|吉本重義|1957|p=21}}という。 |
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* 祖父・'''[[佐藤信彦|信彦]]'''(漢学者、政治家) |
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* 祖父・'''[[佐藤信彦 (漢学者)|信彦]]'''(漢学者、政治家) |
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*:信彦は県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。<ref>山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』20頁</ref> |
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*:信彦は県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった<ref name=yamada1988-20>[[#山田 『正伝 佐藤栄作』|山田 『正伝 佐藤栄作』(上) 1988]], p. 20.</ref>。 |
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* 祖母・'''みね'''([[徳山藩]]士<ref name=yamada1988-20 />・国広治左衛門の娘) |
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* 実父・'''[[佐藤秀助|秀助]]'''(山口県庁[[官吏]]、のち[[酒造業]]) |
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* 実父・'''秀助'''(山口県庁[[官吏]]、のち[[酒造業]]) |
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*: 田布施・[[岸要蔵]]の三男。佐藤家に婿入りして分家を立てた。信介の実弟[[佐藤栄作]]は父秀助について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている<ref>岩川隆『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁</ref> |
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*: 田布施・岸半左衛門要蔵の子岸信祐の三男。佐藤家に婿入りして分家を立てた。信介の実弟[[佐藤栄作]]は父秀助について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている{{Sfn|岩川隆|1984|p=19}} |
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* 実母・'''茂世'''(佐藤信彦の長女) |
* 実母・'''茂世'''(佐藤信彦の長女) |
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*:子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われ、[[スパルタ教育|スパルタ式の教育]]で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという |
*:子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われ、[[スパルタ教育|スパルタ式の教育]]で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという{{Sfn|吉本重義|1957|pp=25-26}}(武士は食わねど高楊枝)。 |
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* 兄・'''[[佐藤市郎|市郎]]'''(軍人・海軍中将) |
* 兄・'''[[佐藤市郎|市郎]]'''(軍人・海軍中将) |
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* 弟・'''[[佐藤栄作|栄作]]'''(政治家・首相) |
* 弟・'''[[佐藤栄作|栄作]]'''(政治家・首相) |
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*:茂世の弟・佐藤松介(医師・[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]]教授)の[[婿養子]]となり佐藤家本家を継ぐ。 |
*:茂世の弟・佐藤松介(医師・[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]]教授)の[[婿養子]]となり佐藤家本家を継ぐ。 |
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;養家(岸家) |
;養家・自家(岸家) |
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[[ファイル:Kishi Family.jpg|thumb|300px|right|<div style="text-align: center;">農商務省時代([[1923年|大正12年]])<br />左から良子、[[岸信和|信和]]、[[佐藤栄作]]、信介、吉田寛)</div>]] |
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* 養父・伯父・''' |
* 養父・伯父・'''信政'''(山口県[[士族]]) |
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* 従妹・妻・'''良子''' |
* 従妹・妻・'''[[岸良子|良子]]''' |
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* 長男・'''[[岸信和|信和]]''' |
* 長男・'''[[岸信和|信和]]''' |
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*:妻・仲子は[[山口県議会]]議長を務めた[[田辺 |
*:妻・仲子は[[山口県議会]]議長を務めた[[田辺譲]]の二女。田辺は[[日産コンツェルン]]創始者[[鮎川義介]]の従兄に当たる。 |
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* 長女・'''[[安倍洋子|洋子]]'''(山口県、政治家[[安倍晋太郎]]に嫁す) |
* 長女・'''[[安倍洋子|洋子]]'''(山口県、政治家[[安倍晋太郎]]に嫁す) |
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** 同長男・'''安倍寛信'''(経営者、三菱パッケージング社長) |
** 同長男・'''[[安倍寛信]]'''(経営者、[[三菱商事]]取締役を経て[[三菱商事パッケージング]]社長) |
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** 同二男・'''[[安倍晋三]]'''(政治家・首相) |
** 同二男・'''[[安倍晋三]]'''(政治家、第90・96・97・98代首相) |
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** 同三男・'''[[岸信夫]]'''(政治家 |
** 同三男・'''[[岸信夫]]'''(政治家 長男・信和の養子となって岸家を継いでいる) |
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***長男・'''[[岸信千世]]'''(政治家) |
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***次男・'''[[岸智弘]]'''([[三井不動産]]) |
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; その他の親戚 |
; その他の親戚 |
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* 叔父・'''佐藤松介'''(茂世の弟、佐藤家本家の当主、医師) |
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*: |
*:[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]]教授を務め、信介を岡山に呼んで学費や生活費の面倒を見ていたが、34歳で急逝した。妻・藤枝は[[松岡洋右]]の妹。 |
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* 従妹・'''[[佐藤寛子 (首相夫人)|佐藤寛子]]'''(松介の長女、弟・栄作の妻) |
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* 甥・'''[[佐藤信二]]'''(栄作と寛子の二男、運輸大臣・通産大臣) |
* 甥・'''[[佐藤信二]]'''(栄作と寛子の二男、運輸大臣・通産大臣) |
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* 従弟・'''吉田寛'''(茂世の妹・さわの子、首相・[[吉田茂]]の娘・桜子の夫) |
* 従弟・'''吉田寛'''(茂世の妹・さわの子、首相・[[吉田茂]]の娘・桜子の夫) |
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== 系譜 == |
=== 岸家の系譜 === |
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岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。もともと岸家は悪代官の家系ではないか、とだれかが言い始めた。というのは、[[毛利元就]]が[[陶晴賢]]と[[厳島]]沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。ところがこれが悪代官で、[[年貢]]はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。龍太郎も最初のうちは、そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。…考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、この挿話は両家の関係をよくあらわしている」{{Sfn|岩川隆|1984|pp=58-59}}という。 |
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=== 岸家 === |
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[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])[[毛利元就]]が[[陶晴賢]]と[[厳島の戦い|厳島沖で戦って]]大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する[[帰化人]]であったという。[[周防国|周防]][[長門国|長門]]を手中におさめた毛利は、その功績によって“ガン”を[[田布施町|田布施]]周辺の[[代官]]に召し立てた。 |
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また別の挿話で、「信介より五つ年下の良子夫人は、信介が西田布施の高等科一年の時に、尋常科一年に入って来た。養父つまり良子の父信政が亡くなった時は、良子は尋常三年、数え年10歳だった。岸家は家の構えからして古風であり、整然としており、昔からの諸式がよく維持されていた。何事によらずキチンとしていた。例えば、[[神棚]]にお灯明をあげるにも[[火打石]]を使い、マッチの火などは“汚れている”とされていたのだった。このような雰囲気は、乱雑な、そして一切かまわない、古い仕来りのほとんど残されていない佐藤家の空気とはおよそ対蹠的なものだった。」{{Sfn|吉本重義|1957|p=47}}{{Sfn|工藤美代子|2012|pp=48-49}}という。 |
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岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。もともと岸家は悪代官の家系ではないか、とだれかが言い始めた。というのは、毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。ところがこれが悪代官で、年貢はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。龍太郎も最初のうちは、そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。…考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、この挿話は両家の関係をよくあらわしている」<ref>岩川隆『忍魁 佐藤栄作研究』、58-59頁</ref>という。 |
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また別の挿話で、「信介より五つ年下の良子夫人は、信介が西田布施の高等科一年の時に、尋常科一年に入って来た。養父つまり良子の父信政が亡くなった時は、良子は尋常三年、数え年10歳だった。岸家は家の構えからして古風であり、整然としており、昔からの諸式がよく維持されていた。何事によらずキチンとしていた。例えば、[[神棚]]にお灯明をあげるにも[[火打石]]を使い、マッチの火などは“汚れている”とされていたのだった。このような雰囲気は、乱雑な、そして一切かまわない、古い仕来りのほとんど残されていない佐藤家の空気とはおよそ対蹠的なものだった。」<ref>『岸信介傳』47頁</ref>という。 |
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{{familytree|border=1| | | | | | | | |ayuy8| | | | | | | | | | | | | | | | |ayuy8=鮎川弥八}} |
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</div> |
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=== 佐藤家の系譜 === |
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<pre> |
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鮎川弥八 |
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┏━井上 馨 ┃ ┏━鮎川 弥一━━━━鮎川純太 |
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┃ ┣━━━鮎川義介━━┫ |
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┗━━━つね ┃ ┗━鮎川金次郎 |
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┃ ┏━━━なか |
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┣━━┫ |
|||
┃ ┗━━━辰 |
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小沢正路 ┃ |
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┣━━━田辺 譲━━━━━━━仲子 |
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┃ ┃ |
|||
田辺誠民 ┃ |
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┣==┳━━岸 信夫 |
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┏━岸 信政━━━━良子 ┃ ┃ (安倍) |
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┃ ┃ ┃ ┃ |
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岸要蔵━岸信祐┫ ┣━━━┳━岸 信和 ┃ |
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┃ ┃ ┃ ┃ |
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┗━佐藤秀助━━岸 信介 ┗━━━━洋子 ┃ |
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(岸) (佐藤) ┃ ┃ |
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┣━━╋━━安倍晋三 |
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┃ ┃ |
|||
安倍 寛━━━━安倍晋太郎 ┗━━安倍寛信 |
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</pre> |
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=== 佐藤家 === |
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([http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_sin.html 佐藤氏系譜(武家家伝)]) |
([http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_sin.html 佐藤氏系譜(武家家伝)]) |
||
{{main|佐藤栄作}} |
{{main|佐藤栄作}} |
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<pre> |
<pre> |
||
┏━昭和天皇━━━━━ |
┏━昭和天皇━━━━━明仁上皇 |
||
明治天皇━━━大正天皇━┫ |
明治天皇━━━大正天皇━┫ |
||
┗━三笠宮崇仁親王━━寬仁親王 |
┗━三笠宮崇仁親王━━寬仁親王 |
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435行目: | 606行目: | ||
== 資料館・旧宅 == |
== 資料館・旧宅 == |
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;岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室(田布施町郷土館) |
; 岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室(田布施町郷土館) |
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: 所在地 - [[山口県]]熊毛郡[[田布施町]]大字下田布施875番地6 |
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:岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、[[田布施町]]郷土館内に設置。[[国連平和賞]]、[[ノーベル平和賞]]などの遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。 |
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: 岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、田布施町郷土館内に設置。[[国連平和賞]]、[[ノーベル平和賞]]などの遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.town.tabuse.lg.jp/www/contents/1381272003893/index.html |title=ようこそ、田布施町郷土館へ|publisher=[[田布施町]]|accessdate=2015-02-06}}</ref>{{Sfn|岸遺品展示室|}}<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.town.tabuse.lg.jp/www/contents/1282704996609/index.html |title=佐藤榮作宰相の遺品展示室|work=田布施町郷土館|publisher=田布施町|accessdate=2015-02-06}}</ref>。 |
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:*所在地:〒742-1511 山口県熊毛郡田布施町大字下田布施875番地6 |
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:*[http://www.town.tabuse.lg.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1603 田布施町郷土館ホームページ] |
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: |
: |
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;御殿場の旧岸信介邸 |
; 御殿場の旧岸信介邸 |
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:所在地 |
: 所在地 - [[静岡県]][[御殿場市]]東山1082-1 |
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:岸が、晩年の17年間を過ごした邸宅([[吉田五十八]]設計)は、[[2003年]](平成15年)に長女・安倍洋子らによって地元[[御殿場市]]に寄贈され、土地は御殿場市の[[特別地方公共団体#財産区|財産区]]が購入し観光文化施設「[[御殿場東山ミュージアムパーク]]」として整備を進め、現在は「東山旧岸邸」として一般公開されている。これらに先立ち御殿場市の市制50周年を記念し、[[2005年]](平成17年)10月5日から10月10日まで一般無料公開された。 |
: 岸が、晩年の17年間を過ごした邸宅([[吉田五十八]]設計)は、[[2003年]](平成15年)に長女・安倍洋子らによって地元[[御殿場市]]に寄贈され、土地は御殿場市の[[特別地方公共団体#財産区|財産区]]が購入し観光文化施設「[[御殿場東山ミュージアムパーク]]」として整備を進め、現在は「東山旧岸邸」として一般公開されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kyu-kishitei.jp/welcome/ |title=ごあいさつ|publisher=東山旧岸邸|accessdate=2015-02-06}}</ref>。これらに先立ち御殿場市の市制50周年を記念し、[[2005年]](平成17年)10月5日から10月10日まで一般無料公開された。 |
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== 関連作品 == |
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;小説など |
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* [[山岡荘八]]『小説岸信介』第一世論社、1959年5月10日。 |
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* {{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|title=叛骨の宰相 岸信介|publisher=[[角川書店]]|year=2014|month=1|isbn=978-4046001412|ref=harv}}<!--KADOKAWA・中経出版--> |
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* {{Cite book|和書|author=太田尚樹|authorlink=太田尚樹|title=満州と岸信介-巨魁を生んだ幻の帝国|publisher=角川書店|year=2015|month=9|isbn=978-4046533531|ref=harv}} |
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**『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』[[講談社]]、2005年、[[講談社文庫]]、2011年。姉妹編 |
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* [[中路啓太]]『ミネルヴァとマルス 昭和の妖怪・岸信介』(上下)、[[KADOKAWA]]、2019年3月 |
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;ドキュメンタリー映画 |
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* 『[[主戦場]]』(2019年、[[ミキ・デザキ]]監督) |
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* 『[[妖怪の孫]]』(2023年、[[内山雄人]]監督) |
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;映画 |
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* 『[[激動の昭和史 軍閥]]』(1970年、[[東宝]]、演:[[片山滉]]) |
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* 『[[小説吉田学校]]』(1983年、東宝、演:[[仲谷昇]]) |
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;テレビドラマ |
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* 『[[山河燃ゆ]]』(1984年、[[NHK大河ドラマ]]、演:[[岡田映一]]) |
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* 『[[李香蘭 (テレビドラマ)|李香蘭]]』(2007年、[[テレビ東京]]、演:[[市山貴章]]) |
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* 『[[わが家の歴史]]』(2010年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[小日向文世]]) |
|||
;漫画 |
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* 『[[虹色のトロツキー]]』([[安彦良和]]、[[潮出版社]]『[[コミックトム]]』、1990年 - 1996年) |
|||
* 『岸信介の強腕』([[さいとう・たかを]]著・ [[戸川猪佐武]]原作、講談社+α文庫、1999年。ISBN 4-06-256363-0)<ref>{{Cite web |title=歴史劇画大宰相 第3巻 (講談社+α文庫) {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002837752#bib |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-08-20 |language=ja |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref> |
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* 『[[疾風の勇人]]』([[大和田秀樹]]、講談社『[[週刊モーニング]]』、2016年 - 2017年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist|2}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001223161-00 |author=吉本重義|title=岸信介傳|publisher=東洋書館|year=1957|ref=harv}} |
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=== 著書 === |
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* {{Cite book|和書|url= http://iss.ndl.go.jp/books?op_id=1&any=巨魁+%3A+岸信介研究 |author=岩川隆|authorlink=岩川隆|title=巨魁 岸信介研究|ref={{SfnRef|岩川隆 『巨魁 岸信介研究』}}}}[[ダイヤモンド社]]、1977年11月/[[徳間文庫]]、1982年10月 {{ISBN2|978-4195973721}}/{{Cite|title=[[ちくま文庫]]、2006年9月|isbn=978-4480422521|ref={{SfnRef|岩川隆|2006}} }}。 |
|||
*『現代法学全集(23) 保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法』([[南正樹]]・[[星野直樹]]・[[栗栖赳夫]]共著、[[日本評論社]]、1928年) |
|||
* {{Cite book|和書|author=岩川隆|title=忍魁 佐藤栄作研究|year=1984|month=2|publisher=[[徳間文庫]]|isbn=978-4195975992|ref={{SfnRef|岩川隆|1984}}}} |
|||
*『日本戦時経済の進む途』(研進社、1942年) |
|||
* {{Cite book|和書|author=細川隆一郎|authorlink=細川隆一郎|title=日本宰相列伝20 岸信介|publisher=[[時事通信社]]|year=1986|month=1|isbn=978-4-7887-8570-0 |ref=harv}} |
|||
*『岸信介の回想』([[文藝春秋]]、1981年/文春学藝ライブラリー、2014年10月)。後者は文庫判 |
|||
* {{Cite book|和書 |author=山田栄三 |title=正伝 佐藤栄作 |publisher=[[新潮社]] |year=1988 |month=10 |ref=山田 『正伝 佐藤栄作』 |volume=上・下}}{{ISBN2|978-4103707011|978-4103707028}}。 |
|||
**[[矢次一夫]]、[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]との鼎談、後半に資料編として「[[巣鴨日記]]」がある。 |
|||
* {{Cite book|和書|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002178879-00 |author=安倍洋子|authorlink=安倍洋子|title=わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として|publisher=文春ネスコ|year=1992|month=4|isbn=4890368337|ref=harv}} |
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*『二十世紀のリーダーたち』([[産経新聞|サンケイ出版]]、1982年) |
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**増補版『宿命 安倍晋三、安倍晋太郎、岸信介を語る』文藝春秋、2022年9月 |
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*『岸信介回顧録――保守合同と安保改定』(廣済堂出版、1983年)、ISBN 433150171X |
|||
* {{Cite book|和書|author=原彬久|authorlink=原彬久|title=岸信介-権勢の政治家|publisher=[[岩波新書]]|year=1995|month=1|isbn=978-4004303688|ref=harv}} |
|||
*『我が青春――生い立ちの記・思い出の記』(廣済堂出版、1983年)、ISBN 4331501728 |
|||
* {{Cite book|和書|author=岩見隆夫|authorlink=岩見隆夫|title=岸信介 昭和の革命家|publisher=[[学陽書房]]|series=人物文庫|year=1999|month=4|isbn=978-4313750869|ref=harv}}<br /> 初刊は田尻育三名義で『昭和の妖怪 岸信介』学陽書房、1979年 |
|||
**岸信介の後援会誌『風声』に昭和28年第2号から昭和31年第11号にわたって連載された「我が生い立ちの記」の全文から成るもの。 |
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**{{Cite book|和書|author=別版|title=昭和の妖怪 岸信介|publisher=[[朝日ソノラマ]]|year=1994|month=6|isbn=978-4257033905|ref=harv}}[[中公文庫]]、2012年11月、{{ISBN2|978-4122057234}} |
|||
*『耐雪―岸信介幽窗の詩歌集』([[山口県]])[[田布施町]]郷土館 研究紀要別冊 2001年 |
|||
* {{Cite journal|和書|author=コン・ヨンスク|title=岸の東南アジア歴訪と「対米自主」外交|journal=一橋論叢|volume=123|number=1|pages=170-189|year=2000|month=1|publisher=[[一橋大学]]|ref=harv}} |
|||
*『岸信介証言録』([[原彬久]]によるインタビュー、[[毎日新聞社]]、2003年/中公文庫、2014年11月)、ISBN 4620316229 |
|||
* {{Cite book|和書|author=Tim Weiner |title=Legacy of Ashes: The History of the CIA|year=|isbn=|ref=harv}} |
|||
*『保守政権の担い手 [[私の履歴書]]』 [[日本経済新聞出版社]]〈日経ビジネス人文庫〉、2007年、(文庫再刊) |
|||
**{{Cite book|和書|author=ティム・ワイナー|title=CIA秘録 (上下)|others=[[藤田博司 (ジャーナリスト)|藤田博司]]ほか2名訳|publisher=[[文藝春秋]]|year=2008|isbn=|ref=harv}}[[文春文庫]]、2011年。 |
|||
*『青年に望む』 自民党発行のブックレット |
|||
* {{Cite journal|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/gaikou/vol6/pdfs/gaikou_vol6_07.pdf |author=[[北岡伸一]]|title=日本外交の座標軸 外交三原則再考|journal=外交|volume=6|publisher=日本国外務省|year=2011|month=10|ref=harv}} |
|||
*『日本の進路と安保条約』 自民党発行のブックレット |
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* {{Cite book|和書|author=工藤美代子|authorlink=工藤美代子|title=絢爛たる悪運 岸信介伝|year=2012|month=9|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4-344-02238-6|ref=harv}}幻冬舎文庫、2014年8月 |
|||
* {{Cite book|和書|author=福田和也|authorlink=福田和也|title=悪と徳と-岸信介と未完の日本|publisher=産経新聞出版|year=2012|month=4|isbn=978-4594065904|ref=harv}}扶桑社文庫、2015年8月 - 月刊『[[正論 (雑誌)|正論]]』2003年2月号より断続連載。 |
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=== 伝記研究 === |
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* {{Cite book|和書|title=実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌|series=歴史群像シリーズ(70号)|publisher=学研|year=2003|month=6|isbn=978-4056031515|url= http://hon.gakken.jp/book/1860315100 |ref={{SfnRef|首相列伝|2003}} }} |
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* 岸信介伝記編纂委員会編 『人間岸信介 波瀾の九十年』(岸信介遺徳顕彰会、1989年) |
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**{{Cite book|和書 |author=牧原出 |authorlink=牧原出 |chapter=「妖怪政治家」へ変貌した秀才商工官僚-岸信介 |title=実録首相列伝 |pages=124-127 |ref=harv |year=2003 |publisher=}} |
|||
* [[安倍洋子]]「父岸信介の素顔」 『[[中央公論]]』 1987年10月号 |
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* {{Cite journal|和書|author=吉武信彦|date=2014年11月|url= http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun17-2/02yoshitake.pdf |title=ノーベル賞の国際政治学 ―ノーベル平和賞と日本:1960年代前半の日本人候補―|publisher= [[高崎経済大学]]地域政策学会|periodical=地域政策研究|volume=17|issue=2|pages=1-23|ref=harv}} |
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** 『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』 文春ネスコ、1992年 |
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* {{Citation|和書|title=秘密資金の戦後政党史: 米露公文書に刻まれた「依存」の系譜|isbn=978-4-10-603850-1|oclc=1134986807|year=2019|publisher=新潮社|series=新潮選書|last=名越|first=健郎|authorlink=名越健郎|pages=58-78}} |
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* [[伊藤整]]「岸信介氏における人間の研究」:『中央公論』 1960年8月号 |
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{{-}} |
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* [[岩川隆]] 『巨魁 岸信介研究』 ([[ダイヤモンド社]] 1977年/徳間文庫 1982年/[[ちくま文庫]] 2006年) |
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{{参照方法|date=2015年2月|section=1}} |
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* [[岩見隆夫]] 『昭和の妖怪 岸信介』 ([[朝日ソノラマ]]、1994年/「岸信介 昭和の革命家」[[学陽書房]]〈人物文庫〉、1999年/中公文庫、2012年) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[安倍洋子]]|title=父 岸信介の素顔|journal=[[中央公論]]|volume=102|number=12|pages=184-194|year=1987|month=10|naid=40002397065|ref=harv}} |
|||
* [[太田尚樹]] 『満州裏史-[[甘粕正彦]]と岸信介が背負ったもの』(講談社、2005年/講談社文庫、2011年) |
|||
* {{Cite book|和書|url= |author=荒井荒雄|title=原理運動の謀略と自民党―岸信介原罪論|publisher=青村出版社|series=日本の狂気3|year=1976|month=5|ref={{Sfnref|荒井荒雄|1976}} }} |
|||
* 大日向一郎 『岸政権・一二四一日』 (行研〈政権シリーズ〉、1985年)-公的な政権概説 |
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* {{Cite book|和書|author=池田慎太郎|title=日米同盟の政治史-アリソン大使と「1955年体制」の成立|publisher=国際書院|year=2004|month=10|isbn=978-4877911386|ref=harv}} |
|||
* [[北康利]] 『叛骨の宰相 岸信介』(角川書店、2014年) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[伊藤整]]|title=岸信介氏における人間の研究|journal=中央公論|volume=75|number=9|pages=169-178|year=1960|month=8|naid=40002390116|ref=harv}} |
|||
* [[工藤美代子]] 『絢爛たる悪運 岸信介伝』([[幻冬舎]]、2012年) ISBN 978-4-344-02238-6 |
|||
* {{Cite book|和書|author=大日向一郎|title=岸政権・一二四一日|publisher=行政問題研究所|series=政権シリーズ|year=1985|month=8|isbn=978-4905786450|ref=harv}} - 公的な政権概説 |
|||
* [[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]] 『「昭和」をつくった男 石原莞爾、北一輝、そして岸信介』 (ビジネス社、2006年) |
|||
* {{Cite book|和書|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002042446-00 |author=岸信介伝記編纂委員会編|title=人間岸信介 波瀾の九十年|publisher=岸信介遺徳顕彰会|year=1989|month=7|ref=harv}} |
|||
* 『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]] 特集岸信介-戦後国家主義の原点 2007年1月号』 [[青土社]]、小林英夫・道場親信ほか |
|||
* {{Cite book|和書|author=小林英夫|authorlink=小林英夫 (経済学者)|title=「昭和」をつくった男 石原莞爾、北一輝、そして岸信介|publisher=[[ビジネス社]]|year=2006|month=9|isbn=978-4828413013|ref=harv}} |
|||
* [[塩田潮]] 『岸信介』 ([[講談社]]、1996年)/『「昭和の怪物」 岸信介の真実』 (ワックブックス、2006年) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=小林英夫・[[纐纈厚]]ほか|title=特集 岸信介-戦後国家主義の原点|journal=[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]|volume=35|number=1|pages=31-213|date=2007年1月号|publisher=[[青土社]]|naid=40015255787|ref={{SfnRef|小林ほか|2007}} }} |
|||
* [[高橋正則]] 『昭和の巨魁 岸信介と日米関係通史』([[三笠書房]]、2000年) |
|||
* {{Cite book|和書|author=坂元一哉|authorlink=坂元一哉|title=日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索|publisher=[[有斐閣]]|year=2000|month=5|isbn=978-4641049765|ref=harv}} |
|||
* [[中村隆英]]・[[宮崎正康]]編 『岸信介政権と高度経済成長』([[東洋経済新報社]]、2003年) |
|||
* {{Cite book|和書|author=塩田潮|authorlink=塩田潮|title=岸信介|publisher=[[講談社]]|year=1996|month=7|isbn=978-4062080576|ref=harv}} |
|||
* [[中村長芳]]「岸信介に仕えた35年」:『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』 1987年10月号に所収 |
|||
**新版『「昭和の怪物」 岸信介の真実』、[[ワック (メディア企業)|ワック・新書判]]、2006年。ISBN 978-4898315545。 |
|||
* [[西部邁]]「声なき声の人 - 岸信介論」:『ニヒリズムを超えて』145-153頁に所収、([[ハルキ文庫]]、1997年)、ISBN 9784894563629 |
|||
* {{Cite journal|和書|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7708411-00?ar=4e1f |author=城下賢一|title=岸信介と保守合同(1)|journal=法学論叢|volume=157|number=3|pages=76-94|publisher=京都大学法学会|year=2005|month=7||ref=harv}} |
|||
* [[原彬久]] 『岸信介―権勢の政治家』 ([[岩波新書]]、1995年) |
|||
* {{Cite journal|和書|url= https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7810185-00?ar=4e1f |author=城下賢一|title=岸信介と保守合同(2)|journal=法学論叢|volume=157|number=5|pages=98-113|publisher=京都大学法学会|year=2005|month=8|naid=40007124337|ref=harv}} |
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* [[福田和也]] 『悪と徳と―岸信介と未完の日本』(産経新聞出版、2012年)、月刊『[[正論 (雑誌)|正論]]』2003年2月号より断続連載。 |
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* {{Cite book|和書|author=神一行|authorlink=神一行|title=閨閥-特権階級の盛衰の系譜 改訂新版|publisher=[[角川文庫]]|year=2002|month=3|pages=61-75|isbn=978-4043533060|ref=harv}} |
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* [[細川隆一郎]]『日本宰相列伝 20 岸信介』([[時事通信社]]、1986年) |
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* {{Cite book|和書|author=高橋正則|authorlink=高橋正則|title=昭和の巨魁 岸信介と日米関係通史|publisher=[[三笠書房]]|year=2000|month=7|isbn=978-4837918448|ref=harv}} |
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* 山田栄三 『正伝 佐藤栄作 (上下)』([[新潮社]]、1988年) |
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* {{Cite book|和書|editor1=中村隆英|editor1-link=中村隆英|editor2=宮崎正康|title=岸信介政権と高度経済成長|publisher=[[東洋経済新報社]]|year=2003|month=3|isbn=978-4492370988|ref={{SfnRef|中村・宮崎 編|2003}} }} |
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* 吉本重義 『岸信介傳』 (東洋書館、1957年) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[中村長芳]]|title=岸信介に仕えた35年|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]|volume=65|number=13|year=1987|month=10|pages=138-152|naid=40003421198|ref=harv}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|chapter=声なき声の人-岸信介論|title=ニヒリズムを超えて|pages=145-153|publisher=[[角川春樹事務所]]|series=[[ハルキ文庫]]|year=1997|isbn=9784894563629|ref=harv}} |
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* 荒井荒雄 『原理運動の謀略と自民党―岸信介原罪論』(青村出版社、1976年) |
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* {{Cite book|和書|editor=秦郁彦|editor-link=秦郁彦|title=日本近現代人物履歴事典|publisher=東京大学出版会|year=2002|month=5|pages=180-181|isbn=978-4130301206|ref=harv}} |
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* 池田慎太郎 『日米同盟の政治史―アリソン大使と「1955年体制」の成立』(国際書院、2004年) |
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* {{Cite book|和書|author=春名幹男|authorlink=春名幹男|title=秘密のファイル-[[CIA]]の対日工作(上)|publisher=[[共同通信社]]|year=2000|month=3|isbn=978-4764104532|ref={{SfnRef|春名幹男|2003a}} }}[[新潮文庫]]、2003年。 |
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* 城下賢一「岸信介と保守合同(1・2)」『法学論叢』157巻3・5号(京都大学法学会、2005年) |
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* {{Cite book|和書|author=春名幹男|authorlink=春名幹男|title=秘密のファイル-[[CIA]]の対日工作(下)|publisher=共同通信社|year=2000|month=3|isbn=978-4764104549|ref={{SfnRef|春名幹男|2003b}} }}[[新潮文庫]]、2003年。 |
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* [[坂元一哉]] 『日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索』([[有斐閣]]、2000年) |
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* {{Cite book|和書|author=広瀬隆|authorlink=広瀬隆|title=私物国家 日本の黒幕の系図|publisher=[[光文社]]|year=2000|month=10|isbn=978-4334971533|page=354|ref=harv}} |
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* [[マイケル・シャラー]] “America's Favorite War Criminal: Kishi Nobusuke and the Transformation of U.S.-Japan Relations”(日本政策研究所) |
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* {{Cite book|和書|author=Michael Schaller |title=America's Favorite War Criminal: Kishi Nobusuke and the Transformation of U.S.-Japan Relations|publisher=日本政策研究所|isbn=|ref=harv}} |
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** 『「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』(市川洋一訳、[[草思社]]、2004年) |
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**{{Cite book|和書|author=マイケル・シャラー|authorlink=マイケル・シャラー|title=「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで|others=市川洋一編訳|publisher=[[草思社]]|year=2004|month=6|isbn=978-4794213228|ref=harv}} |
|||
* [[春名幹男]] 『秘密のファイル―[[CIA]]の対日工作 (上下)』 ([[共同通信社]]、2000年/新潮文庫、2003年) |
|||
* {{Cite book|和書|author=安井浩一郎+NHKスペシャル取材班|title=吉田茂と岸信介-自民党・保守二大潮流の系譜|publisher=岩波書店|year=2016|month=7|isbn=978-4000254694|ref=harv}} - 巻末に[[田原総一朗]]・[[御厨貴]]対談 |
|||
* ティム・ワイナー “Legacy of Ashes:The History of the CIA” |
|||
* {{Cite journal|和書|author=リ・ヒョンチョル|title=岸信介の対外認識とアジア政策|journal=県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要|volume=1|year=2000|month=12|pages=33-45|ref=harv}} |
|||
** 『CIA秘録 (上下)』(藤田博司ほか訳、[[文藝春秋]]、 2008年/文春文庫、2011年) |
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* |
* {{Cite book|和書|editor=渡辺昭夫|editor-link=渡辺昭夫|title=戦後日本の宰相たち|publisher=[[中央公論社]]|year=1995|month=10|isbn=978-4120024955|ref=harv}}中公文庫、2001年。 |
||
* {{Cite|和書|author=藤井旭|title=白河天体観測所-日本中に星の美しさを伝えた、藤井旭と星仲間たちの天文台|publisher=[[誠文堂新光社]]|date=2015年10月15日|isbn=978-4-416-11537-4|ref=harv}} |
|||
* [[秦郁彦]]編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年) 180-181頁 |
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*三輪建二『祖父[[三輪寿壮]]―大衆と歩んだ信念の政治家』 鳳書房、2017年 |
|||
* [[神一行]] 『閨閥 <small>特権階級の盛衰の系譜</small>』 ([[角川書店]]、2002年)、61-75頁 |
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* {{Cite journal |last =三島 |first =由紀夫 |date=1960年6月25日付 |title= 一つの政治的意見 |journal =[[毎日新聞]] |ref =harv}} からの出典 |
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** {{Cite book |和書|last =三島 |first =由紀夫 |authorlink=三島由紀夫 |date=1975 |series=三島由紀夫全集 29巻 |publisher=[[新潮社]] |title =一つの政治的意見 |ref =harv }} |
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=== その他 === |
|||
* {{Cite book|和書 |author=[[久保木修己]] |title=愛天 愛国 愛人―母性国家日本のゆくえ 久保木修己回顧録 |publisher=世界日報社 |date=1996年2月 |isbn=978-4882010609 |ref={{Sfnref|久保木|1996}} }} |
|||
* [[広瀬隆]] 『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、354頁) |
|||
* {{Cite thesis|和書|degree=[[博士(学術)]]|title=岸信介の思想と行動|author=金俊燮|year=1997-09|publisher=広島大学|major=国際社会論|doi=10.11501/3147586|id=学位授与番号: 甲第1719号|ref={{SfnRef|金俊燮|1997}}}} |
|||
* {{Cite book|和書 |editor=社会科学辞典編集委員会 |title=新版 社会科学辞典 |publisher=新日本出版社 |date=1978年9月20日 |ref= {{SfnRef|『新版 社会科学辞典』|1978}} }} |
|||
* {{Cite|和書|author=濵砂孝弘|title=安保改定と政党政治-岸信介と「独立の完成」|publisher=[[吉川弘文館]]|date=2024年10月17日|isbn=9784642039369|ref=harv}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Wikisource|作者:岸信介|岸信介に関する文献}} |
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*[[道徳再武装]] |
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{{commonscat|Nobusuke Kishi}} |
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*[[アメリカ対日協議会]] |
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* [[世界平和統一家庭連合]] |
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*[[伊藤忠商事]] |
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*[[世界 |
* [[世界平和統一家庭連合と政界との関係]] |
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* [[岩戸景気]] |
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*[[TSK・CCCターミナルビル]] |
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* [[道徳再武装]] |
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* [[アメリカ対日協議会]] |
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* [[中央情報局]] |
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* [[伊藤忠商事]] |
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* [[TSK・CCCターミナルビル]] |
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* [[ダグラス・グラマン事件]] |
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* [[学校法人呉武田学園|学校法人呉港学園]] |
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== 関連人物 == |
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*[[ |
* [[満洲人脈]] |
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* [[児玉誉士夫]] |
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*[[笹川良一]](戦後、協力関係があった) |
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* [[笹川良一]] - 戦後、協力関係があった。 |
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*[[土井正治]](東京帝国大学の同期) |
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* [[朴正煕]] |
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*[[田路舜哉]](東京帝国大学の同期) |
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* [[文鮮明]] - 旧統一教会の教祖。 |
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*[[中安閑一]](山口中学時代からの親友) |
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* [[土井正治]] - 東京帝国大学の同期。 |
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*[[吹田あきら|吹田愰]](地盤継承者) |
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* [[田路舜哉]] - 東京帝国大学の同期。 |
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*[[藤本万次郎]](熊毛帰郷時の幼馴染にして盟友。水産業界の重鎮。岸の懇願により落選中であった娘婿[[安倍晋太郎]]の後援会連合会会長となる) |
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*[[ |
* [[中安閑一]] - 山口中学時代からの親友。 |
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* [[中村長芳]] - 岸の[[内閣総理大臣秘書官]]。岸の指示でプロ野球ロッテや西鉄の個人球団オーナーにも乗り出す。 |
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*[[古海忠之]](満州国時代の同僚、岸の後任の[[総務庁 (満州国)|総務庁]]次長) |
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* [[吹田愰]] - 地盤継承者。 |
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*[[町村金五]] |
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* [[藤本万次郎]] - 熊毛帰郷時の幼馴染にして盟友。岸の懇願で落選中の娘婿[[安倍晋太郎]]の後援会連合会会長に就任。 |
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*[[三田村武夫]] |
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*[[ |
* [[甘粕正彦]] - 満洲国時代の同僚。 |
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* [[古海忠之]] - 満洲国時代の同僚、岸の後任の[[総務庁 (満洲国)|総務庁]]次長。 |
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*[[三好英之]](政治家仲間) |
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* [[町村金五]] |
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*[[吉野信次]](農商務省の上司、吉野作造の実弟) |
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* [[賀屋興宣]] |
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* [[三田村武夫]] |
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* [[美濃部洋次]] - 商工省・満洲国時代の同僚。 |
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* [[椎名悦三郎]] - 商工省・満洲国時代からの腹心、側近。 |
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* [[三好英之]] - 政治家仲間。 |
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* [[吉野信次]] - 農商務省の上司で[[吉野作造]]の実弟。 |
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* [[矢次一夫]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{wikisource|作者:岸信介|岸信介に関する文献}} |
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{{commonscat|Nobusuke Kishi}} |
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* {{Yahoo!百科事典|author=[[荒敬]]}} |
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* |
* {{Cite web|和書|author=辻雅之|url= https://allabout.co.jp/gm/gc/293718/ |title=安倍首相の祖父・岸信介とは?|date=2006-11-01|publisher=[[All About]]|work=社会ニュース/よくわかる政治|accessdate=2015-02-04}} |
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* {{Cite web|和書|url= https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/kishinobusuke |title=岸信介関係文書(寄託)|date=2015-01-15|work=憲政資料室の所蔵資料|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2015-02-04}} |
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* [http://www.town.tabuse.lg.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&Cc=7d43160f3b3a10b 岸信介先生の生い立ちと主な功績] ([http://www.town.tabuse.lg.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1758 西田布施公民館のホームページ]) |
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* {{Cite web|和書|url= http://www.kyu-kishitei.jp |title=東山旧岸邸|accessdate=2015-02-04|ref={{SfnRef|東山旧岸邸}} }} - 岸が晩年を過ごした[[静岡県]][[御殿場市]]にある邸宅。現在は一般公開されている。 |
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* [http://www.town.tabuse.lg.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&Cc=7d430b10031e351 岸信介・佐藤栄作両宰相 略年譜] ([http://www.town.tabuse.lg.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1603 田布施町郷土館のホームページ]) |
|||
* {{Cite web|和書|url= http://www.town.tabuse.lg.jp/www/contents/1282704815469/index.html |title=岸信介宰相の遺品展示室|work=田布施町郷土館ホームページ|publisher=[[田布施町]]|accessdate=2015-02-06|ref={{SfnRef|岸遺品展示室|}} }} |
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* [http://www.jmca.net/booky/watanabe/027.html 「岸信介」]([http://www.jmca.net/booky/watanabe/100top.html 渡部昇一の「百人の指導者たち」]) |
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* {{Cite web|和書|url= http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/05-41.html |title=兄弟で首相になった 岸元首相・佐藤元首相の実家|work=著名人の墓|publisher=日本の墓|accessdate=2015-02-08}} |
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* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/kishinobusuke.html 岸信介関係文書(寄託) | 国立国会図書館 憲政資料室] |
|||
* [https://www.youtube.com/watch?v=4kVnfkcqB-A 激動の1960年(昭和35年12月23日公開) - 中日ニュース362号(動画)]・[https://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社] |
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[[Category:山口県選出の衆議院議員]] |
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[[Category:昭和時代戦前の衆議院議員]] |
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[[Category:昭和時代戦後の衆議院議員]] |
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[[Category:自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員]] |
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[[Category:日本民主党の衆議院議員]] |
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[[Category:自由民主党の衆議院議員]] |
[[Category:自由民主党の衆議院議員]] |
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[[Category:自由民主党総裁]] |
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[[Category:自由民主党幹事長]] |
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[[Category:第二次世界大戦期の政治家]] |
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[[Category:20世紀アジアの統治者]] |
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[[Category:20世紀日本の政治家]] |
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[[Category:太平洋戦争の人物]] |
[[Category:太平洋戦争の人物]] |
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[[Category:満 |
[[Category:満洲国の人物]] |
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[[Category:協和協会の人物]] |
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[[Category:国家総動員法]] |
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[[Category:アメリカ中央情報局の人物]] |
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[[Category:A級戦犯容疑者]] |
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[[Category:世界基督教統一神霊協会]] |
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[[Category:世界基督教統一神霊協会事件に関連する人物]] |
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[[Category:山口県選出の衆議院議員]] |
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[[Category:20世紀日本の実業家]] |
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[[Category:安倍晋太郎|+きし のふすけ]] |
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[[Category:安倍晋三|+きし のふすけ]] |
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[[Category:田布施佐藤家|のふすけ]] |
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[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]] |
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[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]] |
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[[Category:私の履歴書の登場人物]] |
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[[Category:東京大学出身の人物]] |
[[Category:東京大学出身の人物]] |
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[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]] |
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[[Category:山口県立山口高等学校出身の人物]] |
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[[Category:渋谷区の歴史|人]] |
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[[Category:御殿場市の歴史|人]] |
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[[Category:山口県出身の人物]] |
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[[Category:1896年生]] |
[[Category:1896年生]] |
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[[Category:1987年没]] |
[[Category:1987年没]] |
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[[Category:冨士霊園に埋葬されている人物]] |
2024年12月17日 (火) 16:31時点における最新版
岸 信介 きし のぶすけ | |
---|---|
| |
生年月日 | 1896年11月13日 |
出生地 | 日本 山口県吉敷郡山口町(現・山口市) |
没年月日 | 1987年8月7日(90歳没) |
死没地 | 日本 東京都新宿区(東京医科大学病院) |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 商工省官僚 |
所属政党 |
(翼賛政治会→) (護国同志会→) (無所属→) (日本再建連盟→) (自由党→) (無所属→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
正二位 大勲位菊花大綬章 勲一等旭日桐花大綬章 法学士(東京帝国大学・1920年) |
配偶者 | 従妹・岸良子 |
子女 |
長男・岸信和 長女・安倍洋子 |
親族 |
曽祖父・佐藤信寛 祖父・佐藤信彦(漢学者) 父・佐藤秀助 兄・佐藤市郎 弟・佐藤栄作 養父伯父・岸信政 娘婿・安倍晋太郎 孫・安倍寛信 孫・安倍晋三 孫・岸信夫 曽孫・岸信千世 従妹・佐藤寛子 甥・佐藤信二 |
サイン | |
第56-57代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
第1次岸内閣 第1次岸改造内閣 第2次岸内閣 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年2月25日 - 1960年7月19日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 石橋内閣 |
在任期間 | 1957年1月31日 - 1957年2月25日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第79-80代 外務大臣 | |
内閣 |
石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日(1957年2月25日から総理兼任) |
内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1943年10月8日 - 1944年7月22日 |
第23代 商工大臣 | |
内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1941年10月18日 - 1943年10月8日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 旧山口2区 当選回数 10回 (1942年4月30日 - 1943年10月8日[1]) (1953年4月20日 - 1979年9月7日) | |
第3代 自由民主党総裁 (1957年3月21日 - 1960年7月14日) | |
自由民主党最高顧問 総裁:中曽根康弘 (1982年 - 1987年) | |
初代 自由民主党幹事長 総裁:鳩山一郎 (1955年11月 - 1956年12月) |
岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。位階勲等は正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。
他満洲国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(10期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、皇學館大学総長(第2代)を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのち米国CIA(中央情報局)のエージェントとして活動し[2][3][4]、戦後にも権力を得た。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた佐藤栄作の兄。
概説
[編集]旧制山口中学校[5]、旧制第一高等学校を経て[6]、東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満洲国では国務院高官として満洲産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。その後、日本の商工省に復帰し、次官に就任する。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された[7]。
東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚であったことから、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、不起訴により釈放された。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。
終戦後は東洋パルプの会長を務めていたが、公職追放が解除されると日本再建連盟の設立や日本社会党への入党を模索するなど政界復帰を目指し、弟の佐藤栄作も属する吉田自由党に入党して政界に復帰する。しかし、対米追従姿勢の吉田茂と対立して除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任する。首班石橋湛山の病気により臨時代理を務め、石橋内閣が総辞職すると後任の内閣総理大臣に指名され、日米安保体制の成立に尽力し、60年安保も乗り切った。昭和54年の政界引退後も後継者の福田赳夫などを通じて自民党右派の象徴として政界に影響力を行使し、晩年は「昭和の妖怪」ともあだ名されつつ、統一教会と連携して自主憲法制定運動やスパイ防止法制定運動に尽力。また女婿の安倍晋太郎の首相就任を目指していた[8][9]。
位階は正二位、勲等は大勲位。皇學館大学総長(第2代)なども務めた[注釈 1][注釈 2]。第61・62・63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟。また長女・洋子は安倍晋太郎に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97・98代内閣総理大臣安倍晋三[12]、三男は防衛大臣を務めた岸信夫[13]。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]山口県吉敷郡山口町八軒家(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)[注釈 3]。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の1字を取って「信介」という名が付けられた[15][16]。数え年3歳になったころ、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった[17]。
秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)[18]。
学生時代
[編集]岡山市立内山下小学校から[19][20]岡山中学校に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった[21]。山口に戻り、山口中学校に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。
1914年(大正3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通った[注釈 4]が、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば活動写真や芝居を見に行ったりした[22]。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった[22]が、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。
1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した[23]。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[15][23]。我妻栄と2人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、2人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。
このころの岸は社会主義に関心を寄せてカール・マルクスの資本論やフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだものの[24]、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想の方に魅了され[25]、上海で大川に説得されて帰国[26]していた牛込の北を訪ねている。後の満洲国への関与などに対する大川の影響を岸は認めており[27]、北も「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」として「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と岸は語っている[28]。
1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。国粋主義者の上杉慎吉の木曜会と興国同志会に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。「これからは産業」とあえて農商務省に入る[29]。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入ったことは意外の念をもって受け止められた。同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。
農商務官僚(商工官僚)時代 - 満洲国時代
[編集]農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった[30]。同期には平岡梓(三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった[31]。
1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる[32]。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。自動車製造事業法の立法に貢献。
1936年(昭和11年)10月に満洲国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満洲「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満洲国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満洲経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満洲国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた[33]。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満洲三角同盟」とも呼ばれた。
原彬久は、岸を「政治家」として「成長」させた最大の要因は、関東軍という最高権力者をあるいは懐柔し、あるいは説得しつつ、絶大な権力をわがものにする術を身につけさせた、満洲の権力機構そのものにある、と指摘している[34]。
このころから、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。主にそれは満洲及び中国全土でのアヘン売買とされている。その後、満洲から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している[35]。
東條内閣の閣僚時代
[編集]伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請された際は財界の人間にすべきとして断り、企画院総裁に星野を推薦した[36][37][38]。その後、商工大臣となった小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。
1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、商工大臣として経団連の前身となる商工経済会設置法を成立させた[39]。10月8日、東條首相兼陸軍大臣が商工大臣をも兼任し、岸は無任所相となり兼ねて再び商工次官に任命[40]。このため衆議院議員も退職となった[注釈 5]。11月1日には戦局激化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組、軍需大臣は引き続き東條首相兼陸相の兼任、岸は無任所相兼軍需次官と、半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。 1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。
同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、その矢先に岸が「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた[42]。岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、内閣改造を頓挫させるために岡田と申し合わせて辞職を拒否したともされる[43]。これを受けて東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した[15][42][44]。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否[43]。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。総辞職後も岸への怒りが収まらない東條は、新たに組閣の大命を受けた小磯国昭との会談で、暗に岸を指して一部の前閣僚には前官礼遇を与えないことを要請した[注釈 6][46]。
1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。
1945年6月に創設された親任官である中国地方総監のポジションを所望したが大塚惟精に先を越される形で逃した。尚、就任した大塚は広島市への原爆投下で被爆して死去している。
戦犯被疑者としての獄中、そして放免
[編集]1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結した後故郷の山口市に帰郷するが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り[47]、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置された。
自殺する政治家や軍人もいたなか、岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを 来世までも 語り残さむ[47]」と裁判で堂々と主張するつもりで、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない。」「侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」として臨んだ[48]。また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」「終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こした事が怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」とも述べている[48]。
他にも獄中で書いた『断想録』で新日本は海国として再出発すべきで、「吾等は曾て世界に比類のない国民的結束と世界を驚倒する進歩発展を遂げた。仮令一敗地に塗れたとは云へ、此の国民的優秀性は依然として吾等の血に流れて居るのである。(中略)国民的矜持も国民の内省による国民的自覚の上に立つものである」と書いた[49]。さらに獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになった[48]。
極東国際軍事裁判(以下東京裁判)については「絶対権力を用いたショーだったのである」と述べている[49]。また中国の内戦については、「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」と米ソ対立が深まるのを見極めつつ、反共のためならアメリカとも協力するようになっていったといわれ、大アジア主義者である他方現実主義者でもあった[50]。
1948年(昭和23年)12月23日、東条英機はじめ7人の被告の死刑が執行された。翌24日、当局は、岸、笹川良一、児玉誉士夫ら19人を不起訴により釈放すると発表。同月18日に病死していた多田駿と本多熊太郎を除く17人は即日釈放された[51]。東京裁判では開戦を実質的に決めた1941年(昭和16年)11月29日の大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと[52]、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣させた最大の功労者であること[53]、元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから人間として絶対的な信頼を得ていたこと[54]などの事情が考慮されたためとも言われている。ただし、多くの戦争指導者同様、公職追放の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。
活動再開
[編集]巣鴨監獄出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった藤山愛一郎から彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、年が明けた1949年には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社(きざんしゃ)」と名乗る岸信介事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める[55]。
公職追放処分中の岸は、更に東洋パルプの会長などを務めていた。この会社は永野護がプロモートして広島県呉市に工場を建設した会社で、岸が会長、社長が足立正、取締役が永野、藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役瀬越憲作であった。しかし、経営がうまくいかず後に王子製紙に売却した[56]。
この間、日本国憲法が発効した1947年には、日本を占領下に置いた連合国の主要国であるアメリカ合衆国の対日政策は、当時はじまっていた東西冷戦の中で日本を「反共の砦」とする方向に大きく舵が切られ始めていた[57]。そこへ日本周辺での冷戦の激化、すなわち、1949年10月1日に蔣介石の国民党政府を台湾島へ逃亡させた、ソ連の後押しを受けた中国共産党による中華人民共和国の成立・台頭、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と北朝鮮優位の攻勢により、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを含めてアメリカの対日政策が大きく転換されることになる(逆コース)。このため、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権していくことになる。
保守合同
[編集]サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立し、会長に就任した[58]。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、1月13日自由党入党の意向を表明し、首相吉田は了承し、3月18日に正式入党、4月公認候補として衆議院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を目指すも[59]、1954年(昭和29年)に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
岸は「真の日本独立を実現するためには、先ず保守合同で政局を安定させて、その勢いで政治的には「民族の魂が表現された憲法」を造って、自主防衛すべく、経済的にはこの狭いところに八千五百万人という人口を如何に養っていくために自立せねばいけないのである。経済自立とは、特需は外国からの援助によるものではなく、輸出産業を振興して国際収支が均衡を得るようにならねばらならない」と日本再建について述べた[50]。
1954年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導した。
自由民主党結成と初代幹事長就任
[編集]1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに自由民主党が結成された。岸は同党の初代幹事長に、鳩山一郎は初代総裁に就任した。かくして「55年体制」が始まった。
なお岸は、1955年8月に鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、29日-31日のジョン・フォスター・ダレス国務長官と重光の会談にも同席している。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための準備を練り上げていくことになる。
石橋内閣からの岸内閣誕生
[編集]1956年(昭和31年)12月14日、自由民主党総裁選挙に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れ(岸251票、石橋258票)、外務大臣として石橋内閣に入閣した[60]。2015年8月に東洋経済新報社の石橋湛山に関する資料袋から発見された石橋が岸にあてた私信によれば、石橋が示した閣僚名簿に対し昭和天皇は「自分はこの名簿に対して只一つたずねたいことがある。どうして岸を外務大臣にしたのか、彼は先般の戦争に於いて責任がある。その重大さは東條以上であると思う」と語ったという[61]。「自由主義国としての立場の堅持」「対米外交の強化」「経済外交の推進」「国内政治に根差す外交」「貿易中心の対中国関係」の外交五原則を発表した[62]。2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務め、石橋総理の代役で施政方針演説を行った[63]。石橋により後継首班に指名され、国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。1957年2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。
日米安保条約の不平等性
[編集]1955年8月の訪米時、重光葵外務大臣が求める安保改定をダレス国務長官が一蹴した場に同席していた岸は大きな衝撃を受けた。米の厳しい態度の背景には、日本が自主防衛の努力を怠りタダ乗りすること、また米国陣営から離脱することへの懸念があったが、こうした懸念を解消し、安保条約の不平等性を解消する必要があると、岸は強く認識するようになっていく[64]。従前より「総理は外交や治安にこそ力を入れなければならない」と述べ、「日本の真の主権回復」を目指していた岸にとって、総理・外務大臣を兼務できたことは幸甚であった[47]。
1957年(昭和32年)1月、米兵ジラードが農婦を射殺するジラード事件が発生し、裁判管轄権が日本側にないということが明らかになると世論は激昂し、日米安保は危機に瀕した[60]。この事件によって、1951年の旧日米安保条約下では、日本がアメリカに基地を提供する一方でアメリカ側には日本を防衛する義務はなく、また日本はアメリカの基地使用に対する発言権もないという不平等性が国民に対しても明らかになった[60]。
「政治生命をかけた大事業」と安保改定に意気込む岸は、首相に就任した直後から駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世と内密に協議を重ねた。その中で岸は、「安保条約は、日本国民の多数によって日本の対米従属的地位の象徴として見られている。知らざる間に自動的に戦争に巻き込まれてしまう危惧を抱くこととなり、日本国民の戦争嫌悪感情と相まって安保条約反対の空気を強める結果となっている」と揺さぶりをかけつつも、沖縄などの返還合意・5年後を目処とした日本国憲法9条の改正・安保改定と「相互防衛」が可能な体制構築といったビジョンを示し、マッカーサー大使からも好意的に評価された[注釈 7][64][66]。
1957年5月20日、「国防基本方針」を閣議決定し、アメリカの懸念を払拭するために、日米協力による日本の安全保障、国力に応じて防衛力を漸増することなどを明記した[64]。
対米自主外交
[編集]1957年(昭和32年)1月24日、岸はセイロンで開催予定であったアジア太平洋地域公館長会議を東京に変更させ、日本外交の方針として共産圏対策、アジア・アフリカ諸国との友好関係、アジア太平洋地域での通商促進の三点を訓示し、これは9月の外交三原則に反映された[67]。また「アジア太平洋地域は日本外交の中心地」と宣言した[68]。
4月からはイギリスに松下正寿特使を派遣し、核実験禁止をアピールし、また国連でも積極的に核実験問題を喚起し、アメリカやイギリスの反発を買った[69]。4月20日にはインドのネルー首相が「諸大国に原水爆実験を行って他国の上空を汚染させる法的権利があるだろうか」と非難し、5月9日にはセイロンのコロンボ市議会がインドのネール首相と岸に向かってクリスマス島でのイギリスの水爆実験阻止を要請した[70]。
5月20日、岸はアジア歴訪に出て、インド、パキスタン、セイロンなど六カ国を訪問した[64]。5月23日にはインドのネルー首相と核実験禁止問題を討議した[70]。
6月には米国へ渡り、アイゼンハワー大統領と首脳会談、安保改定の検討を約束させた[64]。6月20日のアメリカ議会での演説では国際共産主義の脅威を唱え、翌日の記者会見では「日本は絶対に共産主義や中立主義に走らない」と述べた[71]。国賓としての訪米であり、アメリカ国内の移動には大統領専用機(Columbine III)が貸与される厚遇ぶりであったが、ダレス国務長官や制服組のトップであるラドフォード統合参謀本部議長との会談は厳しいものであった[注釈 8]。この席で岸は「秘密保護法についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」とラドフォードの求めに応じている[66]。
9月、外務省は外交三原則として、「国連中心主義」「アジアの一員としての立場の堅持」「自由主義諸国との協調」を掲げた[72][73]。疑問や批判に答えるため翌年に外務省は、日本の国是は 「自由と正義に基づく平和の確立と維持にあり、この国是に則って、平和外交を推進し、国際正義を実現し、国際社会におけるデモクラシーを確立することが、わが国外交の根本精神である」として、外交三原則はこの根本精神の外交活動の現れ方を示すと答弁した[74]。また、岸が携行した外交資料ではアジアのナショナリズムの理解、東南アジア開発基金構想、将来中国共産党を承認する必要性が出てくるため台湾と「2つの中国」双方への考慮が必要であること、核実験禁止のアピールなどが書かれており、「パワー・ポリティクスとしての国際政治に道義の要素を入れることこそ、我々アジア諸国に課せられた使命」と書かれていた[75]。岸は内閣改造で外務大臣に藤山愛一郎を抜擢し、「アジア外交のなかでも中共の問題を」やってもらうと岸は述べた[76][77]。藤山外相は9月10日の参議院外務委員会で「アメリカと協調するというよりは、日本は自由主義陣営の立場をとる」と明言した[78]。9月28日に藤山外相は当時自由陣営の中で珍しく中華人民共和国と国交を持っていたイギリスのロイド外相と会談し、中国問題で密接に連絡を取り合うことを約束した[78]。
10月、国連安保理非常任理事国に当選した[64]。1956年12月に国連に加盟してからは、核兵器廃絶決議を提出して成立、イギリスの核実験への抗議、レバノン紛争ではアメリカと異なる決議案を出し採決され、米国からも感謝された[64]。またレバノン紛争では翌年の1958年に国際連合平和維持活動(PKO)を求められたが自衛隊の海外派遣は難しかったので拒絶した[64]。
12月には二度目のアジア歴訪に出て、オーストラリア、フィリピン、インドネシアを周り、反日感情の強いオーストラリアでは戦争について率直に謝罪し、戦争賠償問題に積極的に取り組むとした[64]。12月24日、日豪首脳会談で岸は「日豪両国は過去を忘れ、大きな筋において将来強い協力関係に入るべきだ」と訴えた[79]。
このようなアジア重視の政策の背景には、当時、欧州共同体体制の誕生によって世界経済がブロック化する情勢からも日本が東南アジアに進出する必要が藤山から要求されたこと、また、バンドン会議でのインドや中国の躍進、周恩来のアジア歴訪による影響力拡大への対抗、そしてアメリカに対しては日米関係がうまく調整できなければ「アジアへの回帰」を選択するという、アジアをカードとして揺さぶりをかけるという外交上の側面があった[80]。また第二次東南アジア歴訪は、日本の向米一辺倒、大東亜共栄圏の再来といった懸念に対して、英連邦への配慮とコロンボ・プランを重視することで乗り切ろうとするものであった[81]。
内政諸般
[編集]1958年(昭和33年)4月25日、衆議院を解散した。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。一方で、憲法改正に必要な3分の2の議席獲得には至らなかった[66]。
同年、日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、岸は国内の反発を恐れ、これを拒否した[要出典]。
当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、「デートもできない警職法(デートも邪魔する警職法)」「『オイコラ警官』の再来」などとネガティブ・キャンペーンにさらされ、撤回に追い込まれた[47]。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した[要出典](これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。
2月に、警職法改正以外に防諜法(秘密保護法)の成立に意欲を見せていたほか、防衛庁の国防省への昇格、内政省の設置と地方制による官選知事制度(地方長官任命制度)の復活、独占禁止法改正、小選挙区法などの成立を目指していたとされる[82][83]。内政省設置法案は、同年に、第1次岸内閣 (改造)により廃案となっている[84]。代わりに、1960年(昭和35年)7月1日に、自治省が設立されている。
内政省設置に関連して検討された「地方制」は、第4次地方制度調査会で検討されたもので、従来の都道府県を廃止して、新たにブロック制の「地方」を全国に7~9ヶ所程度設け、そこに官選の地方長(キャリア官僚)を配置するというものだった[85]。
このほか、鳩山が施政方針演説で打ち出して石橋が閣議決定[86][87]していた国民皆保険を確立、最低賃金制・国民皆年金など社会保障制度を導入し[要出典]、後の高度経済成長の礎を構築した[要出典]。また、鳩山とともに憲法改正を主張した[要出典]。
安保改定と反対運動
[編集]1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は[注釈 9]、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と大統領自身の訪日で合意した。マッカーサー駐日米大使、藤山愛一郎外相の3者間で協議、核持ち込みの密約をしたが記録も作られなかった[89]。
新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会本議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での安保闘争も次第に激化した。
当時、東大に在学し、反対運動も活発な駒場寮に在住していた田中秀征は「反対運動をしていた多くの学生たちが『岸は敵ながらあっぱれ』と言っていた」と回想している[90][91]。
警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった[注釈 10]。彼らは政府提供のヘリコプター、軽飛行機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の『活動資金』が支給されていた」[93][出典無効]。ただし岸は「動員を検討していたのは消防団や青年団、代議士の地元支持者らである」と述べている[94]。
政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)の乗ったキャデラック[要出典]が東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、ヘリコプターで救出される騒ぎになった[95][96]。
岸は「デモの参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員だし、銀座通りも平常と変わりない」「私は『声なき声』に耳を傾ける」と沈静化を図るが[47](いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、さらにアイゼンハワーの暗殺まで噂されたことでアイゼンハワーの訪日は中止となった。
さらに6月15日には、自由民主党からの支援を受けたヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生で共産活動家の樺美智子が圧死する事故が発生。6月15日と6月18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が「自衛隊に同胞を傷つける命令は出せない」と拒否[注釈 11][98][99]。安保反対デモは最高潮に達し警察からの退避要請を受けるが、「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」「俺は殺されようが動かない。覚悟はできている」と拒絶して、群衆に囲まれた総理大臣官邸に実弟の佐藤栄作と共に留まった[47][100][101]。19日午前0時をもって条約は自然承認され[102]、6月23日の批准書交換をもって発効した[47]。同日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明する。
評論家の荒井荒雄は、反安保闘争が岸と自民党が1960年代後半から統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と関係を深めることとなった背景にあると主張している[103]。
襲撃事件
[編集]辞意表明後の1960年7月14日、後継首班に池田勇人が指名された直後の祝賀会で、岸は暴漢に刃渡り24センチのナイフで左太腿を6カ所刺されて重傷を負った[104][105][106][107]。犯人は戦前に右翼団体大化会に属し、大野伴睦の院外団にいた65歳の荒牧退助であった。岸側近の小川半次は、岸が大野への禅譲を匂わせながら池田が後継となったことへの憤激が犯行動機であるとするが、荒牧自身は、樺美智子とその父親樺俊雄への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄とも面会し、「岸に反省をうながす意味でやった」と供述して岸への殺意や大野との背後関係は否定している[108][109]。荒牧には懲役3年の実刑が2年後、5月24日に確定した。
翌7月15日、岸内閣は総辞職した。岸は「私のやったことは歴史が判断してくれる[47]」「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう[108]」という言葉を残している。
晩年
[編集]日韓癒着の中核
[編集]岸は1960年7月の首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満洲国軍将校として満洲国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満洲人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した[110]。岸信介は韓国政界に強い影響力を持っており、大韓民国中央情報部(KCIA)元部長の金炯旭も「韓日癒着の日本側の中核は岸信介」であったと評価している。1963年の大統領選挙以来、朴正煕政権を支えたのは日本の自民党勢力からの政治資金であった。この背景には東西冷戦下の安全保障戦略の拠点として韓国を位置付ける極東戦略の一部として、日本側に負担を担わせる米国政府側の思惑があったとされる[111]。
1984年11月26日付けで、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンに対し、脱税で懲役刑に処されていた世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合)教祖・文鮮明の早期釈放を嘆願する書簡を送付。文面は、「文尊師は、現在、不当にも拘禁されています。貴殿のご協力を得て、私は是が非でも、できる限り早く、彼が不当な拘禁から解放されるよう、お願いしたいと思います」であった[112]。
ソウル地下鉄汚職事件
[編集]大韓民国中央情報部(KCIA)元部長の金炯旭によれば、岸は韓国への円借款供与と鉄道建設に関連する汚職に関与している。1960年代当時、韓国の交通問題を解決するために地下鉄建設や鉄道電化工事が計画されていたが、受注を巡り、欧州と日本の企業連合間で激しい競争があり、三菱商事、三井物産、日商岩井、丸紅などの大手商社が、朴正煕と関係の深い岸を前面に立てて、韓国政界への働きかけを熱心に行った。1971年8月の「日韓閣僚会議」で、ソウル地下鉄建設に対する円借款供与が合意され、これが決め手となって1973年、日本の商社連合がソウル地下鉄車両186両に対する売買契約に成功した。商社連合は多額の利益をペーパーカンパニーを経由するなどの複雑なルートで、リベートとして韓国政界に還流させ、その多額の資金は朴正煕政権の維持基盤となった[113]。
派閥関連
[編集]佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた[37]。
1962年10月30日に岸は、自らの派閥「十日会(岸派)」の解散を宣言した(福田は1970年11月に自派閥の紀尾井会を設立)[114]。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙(1972年自由民主党総裁選挙)で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという[115]。
死去
[編集]1987年(昭和62年) 8月7日、岸は心不全のため入院先の東京医大病院で死去。90歳没。1986年10月、高野山に弘法大師奉賛会会長として参詣した時に風邪をひき、東京女子医大病院に入院。その後糖尿病と肝機能障害の治療のため、1987年1月に東京医大病院に転院し療養していたが、高齢からくる衰弱に加え、肺炎も併発し死去した。墓は山口県田布施町および静岡県駿東郡小山町の冨士霊園にある。なお、葬儀は内閣・自民党合同葬で執り行われた[116]。
人物・逸話
[編集]人物評
[編集]- 岸は細い顔に出っ歯の顔立ちで、縁戚の松岡洋右から「へちまに歯が生えた顔」と言われたこともあり[117]、「それでですよ」や「ナンだな」が口癖であった[118]。満洲時代には料亭で酒や芸者遊びにも通じ、軍部やアヘン業者とも付き合える豪胆さがあったという[119]。明るい感じがして人付き合いの良い岸であるが、怖さを感じた人物もいたという[120]。
- 三島由紀夫は、『一つの政治的意見』と題する評論の中で、自らが安保闘争の部外者と認めた上で、「自分の政治的信条を素朴に信じることのできない性格」をもって「小さな小さなニヒリスト」と岸を評した。しかしながら、安保闘争の混乱の責任は岸のような政治家を選んだ国民にあるとも指摘する。そして「大きなニヒリスト」たるヒトラーのような政治家が現れる危険についても述べる[121]。
- 中曽根康弘は岸を「直入正直型の長州人」と評し、岸の実弟である佐藤栄作とともに宰相学を身に付けていた総理経験者と評価していた[122]。また、福家俊一は「岸は高杉晋作に知性を足した人物」と評している[123]。
- 緒方竹虎、正力松太郎などとともにアメリカ中央情報局(CIA)から膨大な資金提供を受けていた[4]。岸に与えられたコードネームは明かされていない[124]。2007年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めている[125][126]。先に資金提供を要求したのは岸の方で、アメリカのアイゼンハワー政権は、一定の秘密資金援助や選挙のアドバイスを提供することをCIAに許可したとされる。資金提供は1958年から60年代まで続けられていたが、必要性を感じなかったジョンソン政権によって打ち切られた。提供された金額などは明らかにされていない[127][128]。一方、冷戦期においては金額は少ないながらも社会党と共産党もソ連から援助を受けている。ジャーナリストの名越健郎は、日本の政党が外国依存体質をもっており、「違法な外国資金導入で形成された55年体制は、その後の政治や外交にネガティブな影響を与えた」と指摘する[129]。
- 岸の言葉として「政治は力であり、金だ。」というものがある[130]。岸内閣のころに金権政治の体質が始まったとする見方もあり[131][注釈 12]、鳩山一郎は岸をさして「あんなに金に汚くてはいけない」と言っていたという[131]。しかし岸は田中角栄の金の集め方を危険視しており、「金は濾過機を通せ」と語っていた[133]。なお、岸にはいくつかの戦後賠償に関する汚職疑惑が浮上したが、いずれも立ち消えになっている[134][135]。
- 「昭和の妖怪」の異名を持つ[136]。
死の覚悟と悪運
[編集]- 岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている[要出典]。1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯被疑で捕まった時[137][注釈 13]、3度目は安保改定の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時[101]の3度である。
- 戦時中の1945年(昭和20年)、座骨神経痛を病み、郷里山口で保養中だった。ところが同年鈴木貫太郎内閣で内務大臣になった同郷の安倍源基から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)地方総監府の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い広島にして欲しい」と答えると「広島は昨夜内務省の先輩の大塚惟精を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後広島市への原子爆弾投下で被爆死した[139][140][141]。
- 被爆を免れたことや東京裁判で不起訴となったことについて運が良いと言われた際、岸は「悪運が強くないと政治家はダメ、運が7割」「悪運は強いほどいい」と語っている[142]。
統一教会との関係
[編集]- 最初に統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と接点を持ったのは、岸の出身地である田布施町を中心に布教活動を行っていた天照皇大神宮教(通称:踊る宗教)の教祖の北村サヨを介してのことだと伝えられている[143][144][145]。
- 1963年、統一教会の熱烈な反共主義に目をつけた笹川良一は教団顧問となり、組織化に乗り出した[146][147]。1964年7月15日に統一教会は宗教法人の認可を受け、11月1日、教団本部を世田谷区代沢5丁目から、岸が女優の高峰三枝子に返却した渋谷区南平台町45番地(当時の番地)の隣地(500坪)に移転した[148][149][150][151]。このため信者が隣同士になった岸の私邸を訪れるようになり、教団との密接な関係が生まれた[152]。教団本部が1965年8月23日に渋谷区松濤1丁目に移転[153]してからも、岸は頻繁に統一教会の本部を訪れ、そこで教団が招いた韓国の国会議員や大学教授と面会することもあった[154]。
- 1968年1月13日に統一教会教祖の文鮮明は大韓民国中央情報部(KCIA)の指示を受け、国際勝共連合を韓国で設立[155]。次いで同年4月1日、岸は文、笹川良一、児玉誉士夫らと協力して、日本でも国際勝共連合を設立した[156][155][157][158]。岸が統一教会に接近した背景には、全学連や日本共産党の学生組織「民青」への対抗勢力として、教団の青年組織を活用する狙いがあったとする意見もある[103]。岸は「どんなに良い人物でも、何もしないのでは仕方がない。ワルでも使い道によっては役に立つ」とかつて日本統一教会初代会長の久保木修己に語った[154]。
- 1969年春、「自主憲法制定国民会議」(現・新しい憲法をつくる国民会議)を立ち上げ、初代会長に就任[159]。同団体は毎年5月3日に武道館などを会場として「自主憲法制定国民大会」を行うが、国際勝共連合の機関紙「思想新聞」は1973年の第5回大会を「青年を先頭に大国民運動へ激進 岸議長らが訴え」という見出しで記事に取り上げた[8]。1975年の第7大会は計78団体が参加した。その中には国際勝共連合、全貌社などが含まれていた[160]。1982年の大会では、国際勝共連合の会員が大会決議を朗読した[161]。
- 1970年4月9日、統一教会本部で東京地区の信者約4,000名に対して国際情勢などを語り、教会員を激励[162]。
- 1970年9月20日、「世界反共連盟(現・世界自由民主連盟)世界大会」が武道館で開催。岸が大会推進委員長を務め、久保木は議長を務めた。大会責任者を務めたのは国際勝共連合の事務総長の阿部正寿だった[165][166][167][164]。
- 1973年4月8日、岸は教団本部を訪問、その当時の演説の内容は統一教会の公式文章で以下の通りに伝えられている[169]。
ただいま、久保木会長から御紹介がありましたように、私はここへ今回から3度目だと思います。その前に実は、統一教会と私の奇しき因縁は、南平台で隣り合わせで住んでおりました若い青年たち、正体はよくわからないけれども、日曜日ごとに礼拝をされて、賛美歌の声が聞こえてくる。・・・
そうしたら・・・笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で、将来、日本のこの混乱の中に、それを救うべき大きな使命を持っている青年だと私は期待している。もっとも現在の数は非常に少なく、またずいぶん誤解もあり、親を泣かせるとマスコミも騒いでいる。そういう話を聞き、お隣りでもありましたので、聖日の礼拝の後に参りまして、お話したことがありました。人数もせいぜい二、三十人ではなかったかと思います。久保木君のお説教は・・・極めて情熱のこもったお話を聞きまして、非常に頼もしく私は考えたのです[169]。
- 1974年5月7日、第1回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催され、文鮮明が講演した。岸は名誉実行委員長を務めた[170]。
- 1976年12月17日、第2回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催。第1回と同様、名誉実行委員長を務めた[171]。
- 1982年10月14日、統一教会はソウルの蚕室体育館で合同結婚式を開催。岸は「天を中心とした理想と信念の下に教育しておられる。私が文鮮明先生を心より尊敬するゆえんであります」と書かれた祝電を送った[172]。
- 1984年4月18日、自民党・民社党の議員と保守系財界人らが「スパイ防止法のための法律制定促進議員・有識者懇談会」を設立。岸は会長に就任し、事務局長には、岸と同様に国際勝共連合と関係の深い堀江正夫が就いた[173][174][175][176]。
- 1984年11月20日から22日にかけて、文鮮明主催の第7回「世界言論人会議」が東京のホテルニューオータニで開催された。岸は同会議で名誉議長としてスピーチした[177]。
対人関係
[編集]- 吉田茂との関係
- 岸は安全保障論議で吉田茂とは鋭く対立したが、親戚関係にあり、安保改定に当たっては同条約締結時に首相の任にあった吉田に敬意を表した。神奈川県大磯町の別荘に隠棲していた吉田の許にたびたび足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという[179]。また、皇學館大学では吉田の後任の総長を務めている[180]。
- アイゼンハワー大統領との関係
- 総理大臣として岸が渡米した際には、大統領のドワイト・D・アイゼンハワーとゴルフを楽しんだ。直後の取材でアイゼンハワーが「大統領や総理大臣になると、嫌な奴と思っていても笑いながらテーブルを挟まなければならないことがある。しかし、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだよ」と語ったり、大使館まで岸を自分の車で送るなど、岸との関係は非常に良好であった[181]。また、2010年(平成22年)6月23日に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」記念切手の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている[182]。
- 国民党・蔣介石との関係
- 岸は中国国民党総裁・中華民国総統の蔣介石とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年(昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蔣介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蔣介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蔣介石死後も岸は「蔣介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蔣介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄(共同通信社の幹部記者)は、岸の名刺を示すだけで蔣介石や息子の蔣経国に面会できたと語っている[183]。親台派(親華派)の重鎮だったために中華人民共和国の鄧小平から特使の矢次一夫を通じて中台の仲介役を要請されたこともあった[184]。
- 藤本万次郎との関係
- 公職追放後、岸は一時行方不明との報道がされた。その間、藤本万次郎の出身地である、祝島の藤本家で体力と英気を養い、この際に藤本との盟友関係は更に深くなった。後年、現職の周東英雄後援会長でありながら、岸、佐藤に懇願され岸の娘婿である落選中の安倍晋太郎後援会長を藤本は引き受け、当選に導くに至った[要出典]。
- 三木武夫との関係
- 岸は三木武夫について「世の中で一番嫌いな奴」「陰険だよ」と語っており[186]、自身が病床の折には「三木の見舞いだけは追い返せ」とまで言っていた[187]。しかし、護国同志会の後身である国民協同党の影響による腐れ縁の存在や、三角代理戦争の影響による福田派と三木派の接近もあり、1986年(昭和61年)に三木が入院した際には岸は見舞いに訪れており、励ましの言葉をかけている[187]。
- 辻政信との関係
- 公開されたCIA文書では、辻政信が石橋湛山を支持しており、彼が自民党の会合で「石橋内閣が岸内閣にとってかえられたことは残念だ」という旨の発言をしていることから、岸は辻を高く評価しておらず、辻の意見や報告が政策に反映される可能性は低いだろうと報告されている[188]。
- 北村サヨとの関係
- 岸が巣鴨プリズンへ留置される前に、天照皇大神宮教の教祖・北村サヨは「心配せんでもええ。岸はいずれ首相になる。」と予言していったという。その後も岸を訪れており、北村の葬儀には岸も駆けつけている[189]。
- 創価学会第2代会長・戸田城聖との関係
- 創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、安倍晋太郎・洋子夫妻、南条徳男・前建設大臣を出席させた。
ノーベル平和賞候補
[編集]- 岸は首相在任中ノーベル平和賞候補に推され[190]、有賀長雄、渋沢栄一、賀川豊彦に続いて4人目のノーベル平和賞日本人候補者となった(母親が日本人のクーデンホーフ=カレルギー伯爵は除く)[191]。岸を推したのはアメリカ上院議員スペサード・L・ホランド(Spessard Lindsey Holland)。理由は「世界平和の唱道者、使徒」[192]。「堅実に世界中で軍縮と平和を強く唱道し」、「核兵器禁止の実現のために弾みをつけようと努力した」というものである[192]。
- ホランドは、ノーベル平和賞推薦締め切り日の2月1日を過ぎた1959年2月13日付けで推薦状を提出し、1959年の選考への追加希望を書き添え、ノーベル委員会は3月5日に受理した[193]。この推薦は、翌年扱いになっている[190]。
- 1960年の選考においてノーベル委員会委員は31候補中、8候補に関して報告書を作成し、岸の報告書は作成されなかった[194]。選考は翌年に持ち越され、1960年分の受賞者は、8候補に含まれていない黒人解放運動家アルバート・ルツーリに決定した[194]。
- また、岸はその後ノーベル平和賞推薦人も務めており、1961年には神学者フランク・ブッシュマンを推薦している[190]。
プロ野球との関わり
[編集]- プロ野球では巨人ファンであり、球場で観戦したこともある[195]。
- 1957年3月30日、セントラル・リーグ開幕戦の一つである巨人対国鉄戦では始球式をおこなっている[196][197]。現職の内閣総理大臣でプロ野球公式戦の始球式をおこなったのは2023年現在岸のみである[注釈 14][注釈 15]。
- 1969年、大映社長の永田雅一から当時経営難に陥っていたプロ野球球団・東京オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の支援を要請され、岸は親交があったロッテ社長の重光武雄に依頼[199][200][201]。ロッテはオリオンズ球団と業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ロッテの球界参入への後押しに貢献した[199][202]。
日系人についての発言
[編集]- 1959年、日系人として初めてアメリカ連邦議会の下院議員となったダニエル・イノウエが来日した際、当時の岸首相と面談している。イノウエが、「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」と水を向けると、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた「出来損ない」ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と答えた(ETV特集「日系アメリカ人の“日本”」2008年9月28日放送[203])[204][205]。
その他の逸話
[編集]略年譜
[編集]- 1896年(明治29年)11月13日 - 山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に生まれる。本籍地は山口県熊毛郡田布施町。
- 1919年(大正8年)11月 - 岸良子と結婚。
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
- 7月 - 兼任農商務参事官、叙高等官七等、農商務事務官として山林局勤務、大臣官房文書課勤務。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 12月 - 水産局勤務。
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)
- 1927年(昭和2年)
- 4月 - 帰朝。
- 7月 - 陞叙高等官四等。
- 9月 - 叙正六位。
- 1928年(昭和3年)
- 6月 - 長女洋子生る。
- 11月 - 昭和三年勅令第百八十八号旨に依り大礼記念章を授与さる。
- 1929年(昭和4年)
- 4月 - 木戸大臣官房文書課長海外出張中代理、商工審議会幹事被仰付。
- 8月 - 陞叙高等官三等。
- 9月 - 叙従五位。
- 1930年(昭和5年)
- 5月 - 工務局兼務、欧州各国へ出張。
- 6月 - 任臨時産業合理局事務官兼特許局事務官兼商工書記官、叙高等官三等、工務局勤務。臨時産業合理局第一部勤務。
- 12月 - 臨時産業合理局第二部兼務。
- 1932年(昭和7年)
- 1月 - 任商工書記官兼臨時産業合理局事務官叙高等官三等、工務局工政課長。臨時産業合理局第一部勤務。
- 1933年(昭和8年)
- 2月 - 兼任外務書記官( - 1934年3月)、通商局勤務。
- 4月 - 工務局工業課長兼務。
- 12月 - 大臣官房文書課長、工務局工政課長兼務。
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)
- 1月 - 対満事務局事務官被仰付。
- 3月 - 第六十七回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。
- 4月 - 商工省工務局長心得。臨時産業合理局第二部長。
- 5月 - 任臨時産業合理局事務官兼商工省工務局長、叙高等官二等、臨時産業合理局第一部長、臨時産業合理局第二部長。
- 12月 - 第六十八回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。
- 1936年(昭和11年)
- 4月 - 任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官、臨時産業合理局第二部長。
- 5月 - 第六十九回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。臨時産業合理局第一部長兼務。
- 10月 - 依願免本官竝兼官。満洲重工、実業部次長として渡満。
- 1937年(昭和12年)
- 7月 - 産業部次長。
- 1939年(昭和14年)
- 10月 - 任商工次官、叙高等官二等。
- 1941年(昭和16年)
- 10月 - 東条内閣で商工大臣に就任。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)
- 1952年(昭和27年)
- 4月 - 追放解除。
- 1953年(昭和28年)
- 3月 - 自由党入党。
- 4月 - 衆議院議員( - 1979年9月)。
- 12月 - 憲法調査会会長。
- 1954年(昭和29年)
- 11月 - 自由党を除名、日本民主党幹事長。
- 1955年(昭和30年)
- 11月 - 自由民主党幹事長。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 2月 - 内閣総理大臣。
- 3月 - 自由民主党大会開催、総裁に当選。
- 1960年(昭和35年)
- 7月 - 内閣総理大臣、自由民主党総裁退任。
- 1965年(昭和40年)
- 1974年(昭和49年)
- 協和協会を設立、初代会長。
- 1979年(昭和54年)
- 1987年(昭和62年)
- 8月7日 - 死去、90歳没。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章など
- 1967年(昭和42年)4月29日 - 勲一等旭日桐花大綬章
- 1979年(昭和54年)8月28日 - 国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価され[210]、日本人として初となる国連平和賞(国連ピース・メダル)を受けた[47][211]。
- 1987年(昭和62年)8月7日 - 大勲位菊花大綬章
- 外国勲章佩用允許
著作
[編集]自著
- 『日本戦時経済の進む途』研進社、1942年4月20日。新版復刊・経営科学出版、2022年
- 『二十世紀のリーダーたち』サンケイ出版、1982年8月30日。
- 『我が青春 : 生い立ちの記 思い出の記』廣済堂出版、1983年11月8日。ISBN 4331501728。
- 岸信介の後援会誌『風声』昭和28年第2号〜昭和31年第11号に連載された「我が生い立ちの記」全文を編んだもの。
- 『岸信介回顧録 : 保守合同と安保改定』廣済堂出版、1983年11月8日。ISBN 433150171X。
- 『保守政権の担い手 私の履歴書』 日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉、2007年。
- 新編再刊。旧版『私の履歴書 第8集』日本経済新聞社、1959年ほか
共著・共編著
- 南正樹、星野直樹、栗栖赳夫『保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法』〈現代法学全集(23)〉、日本評論社、1928年。
- 矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』文藝春秋、1981年。文春学藝ライブラリー(文庫判)、2014年10月
- 矢次一夫・伊藤隆との鼎談、後半に資料編として「巣鴨日記」がある。
- 原彬久『岸信介証言録』毎日新聞社、2003年4月。ISBN 978-4620316222。中公文庫、2014年11月
- 『岸信介 最後の回想 その生涯と60年安保』 聞き手加地悦子、加瀬英明監修、勉誠出版、2016年7月
- 『耐雪―岸信介幽窗の詩歌集』(山口県)田布施町郷土館 研究紀要別冊 2001年
その他
- 『青年に望む』 - 自民党発行のブックレット
- 『日本の進路と安保条約』 - 自民党発行のブックレット
- 『青年学徒に告ぐ』皇學館大学出版部 講演叢書第1輯 1969年
一族
[編集]家族・親族
[編集]- 実家(佐藤家)
- 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝がある。「佐藤家の祖は、およそ三百年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生れ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子供のころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車の家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車である」[213]という。
- 岸は自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」[214][215]、「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった[216]」と述べている。
- 佐藤家の菩提寺は田布施町下田布施名倉の浄土真宗本願寺派帯江山真光寺[217]。
- 曽祖父・信寛(長州藩士、島根県令)
- 祖父・信彦(漢学者、政治家)
- 信彦は県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった[219]。
- 祖母・みね(徳山藩士[219]・国広治左衛門の娘)
- 実父・秀助(山口県庁官吏、のち酒造業)
- 実母・茂世(佐藤信彦の長女)
- 兄・市郎(軍人・海軍中将)
- 弟・栄作(政治家・首相)
- 養家・自家(岸家)
- その他の親戚
- 叔父・佐藤松介(茂世の弟、佐藤家本家の当主、医師)
- 従妹・佐藤寛子(松介の長女、弟・栄作の妻)
- 甥・佐藤信二(栄作と寛子の二男、運輸大臣・通産大臣)
- 従弟・吉田寛(茂世の妹・さわの子、首相・吉田茂の娘・桜子の夫)
岸家の系譜
[編集]岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。もともと岸家は悪代官の家系ではないか、とだれかが言い始めた。というのは、毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。ところがこれが悪代官で、年貢はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。龍太郎も最初のうちは、そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。…考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、この挿話は両家の関係をよくあらわしている」[222]という。
また別の挿話で、「信介より五つ年下の良子夫人は、信介が西田布施の高等科一年の時に、尋常科一年に入って来た。養父つまり良子の父信政が亡くなった時は、良子は尋常三年、数え年10歳だった。岸家は家の構えからして古風であり、整然としており、昔からの諸式がよく維持されていた。何事によらずキチンとしていた。例えば、神棚にお灯明をあげるにも火打石を使い、マッチの火などは“汚れている”とされていたのだった。このような雰囲気は、乱雑な、そして一切かまわない、古い仕来りのほとんど残されていない佐藤家の空気とはおよそ対蹠的なものだった。」[223][224]という。
鮎川弥八 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井上馨 | 鮎川弥一 | 鮎川純太 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鮎川義介 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
つね | 鮎川金次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なか | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小沢正路 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田辺譲 | 仲子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田辺誠民 | 岸信夫 | 岸信千世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岸信政 | 良子 | 岸信和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岸要蔵 | 岸信祐 | 安倍晋三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐藤秀助 | 岸信介 | 洋子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安倍寛 | 安倍晋太郎 | 安倍寛信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐藤家の系譜
[編集]┏━昭和天皇━━━━━明仁上皇 明治天皇━━━大正天皇━┫ ┗━三笠宮崇仁親王━━寬仁親王 ┃ ┏━彬子女王 ┣━━┫ 麻生太賀吉 ┃ ┗━瑶子女王 ┃ ┏━━━━信子 ┣━━┫ ┃ ┗━麻生 太郎 ┏━━━━和子 吉田 茂━┫ ┗━━━━桜子 吉田祥朔 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━吉田 寛 ┃ ┏━━━さわ ┃ ┏━━━━正子 ┣━佐藤松介━┫ ┃ ┗━━━━寛子 佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋━佐藤寛造 ┃ ┃ ┣━━┳━佐藤龍太郎━━━佐藤栄治 ┃ (佐藤) ┃ ┃ ┣━池上作造 ┏━佐藤 栄作 ┗━佐藤 信二 ┃ ┃ ┗━━━茂世 ┃ ┃ ┃ (佐藤) ┣━╋━岸 信介━━━━━━洋子 ┃ ┃ ┃ (岸)┃ ┃ ┣━━━━安倍晋三 ┏━佐藤秀助 ┃ ┃ ┃ ┗━佐藤 市郎 安倍晋太郎 岸 要蔵━━岸 信祐━┫ ┃ ┗━岸 信政━━━━━━良子 (信介夫人)
資料館・旧宅
[編集]- 岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室(田布施町郷土館)
- 所在地 - 山口県熊毛郡田布施町大字下田布施875番地6
- 岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、田布施町郷土館内に設置。国連平和賞、ノーベル平和賞などの遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している[225][226][227]。
- 御殿場の旧岸信介邸
- 所在地 - 静岡県御殿場市東山1082-1
- 岸が、晩年の17年間を過ごした邸宅(吉田五十八設計)は、2003年(平成15年)に長女・安倍洋子らによって地元御殿場市に寄贈され、土地は御殿場市の財産区が購入し観光文化施設「御殿場東山ミュージアムパーク」として整備を進め、現在は「東山旧岸邸」として一般公開されている[228]。これらに先立ち御殿場市の市制50周年を記念し、2005年(平成17年)10月5日から10月10日まで一般無料公開された。
関連作品
[編集]- 小説など
- 山岡荘八『小説岸信介』第一世論社、1959年5月10日。
- 北康利『叛骨の宰相 岸信介』角川書店、2014年1月。ISBN 978-4046001412。
- 太田尚樹『満州と岸信介-巨魁を生んだ幻の帝国』角川書店、2015年9月。ISBN 978-4046533531。
- 中路啓太『ミネルヴァとマルス 昭和の妖怪・岸信介』(上下)、KADOKAWA、2019年3月
- ドキュメンタリー映画
- 映画
- テレビドラマ
- 漫画
- 『虹色のトロツキー』(安彦良和、潮出版社『コミックトム』、1990年 - 1996年)
- 『岸信介の強腕』(さいとう・たかを著・ 戸川猪佐武原作、講談社+α文庫、1999年。ISBN 4-06-256363-0)[229]
- 『疾風の勇人』(大和田秀樹、講談社『週刊モーニング』、2016年 - 2017年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 他の肩書きを列挙すると、日米協会長、アジア国会議員連合議員団長、日韓協力委員会長、フィリピン協会長、自主憲法制定国民会議長、自主憲法期成議員同盟会長がある[10]。
- ^ (財)家族計画国際協力財団の会長を務める。副会長は加藤シヅエ。常任理事は国井長次郎。同財団は1968年4月22日設立。東京都新宿区市ヶ谷砂土原町1-1保健開館別館[11]。
- ^ 信介が物心ついて、田布施の家で、冬の夜など、兄弟姉妹が炬燵をとり囲んで、雑談などしている時、信介少年は自分だけが山口の八軒家で生まれたということにより、ちょっと仲間はずれになったような感じがしたこともあったという[14]。
- ^ 吉本重義 1957, p. 54に「中央大学の予備校に通い…」とある。
- ^ 議院法第76条に基づき、「法律ニ依リ議員タルコトヲ得サル職務ニ任セラレタルトキ」は衆議院議員退職者となることとされていた[41]。
- ^ 実際に岸は前官礼遇を与えられなかったが[45]、この時点での国務大臣在任期間は3年足らずで、内規に定められた「国務大臣在職4年以上」の基準を満たしていなかった。
- ^ マッカーサーは1957年10月18日付けで国務省に送った公電で、岸の個人的人気が高くないことを指摘しつつも、「岸は現時点で、米国の目的から見て、最良のリーダーだ。岸が敗北すれば、後継首相は弱体か非協力的、あるいはその両方だろう。その場合、日本ひいては極東における米国の立場と利害は悪化する」と述べ、岸の支援を本国へ訴えている[65]。
- ^ 国際政治学者の権容奭は、「ダレスとの会談記録を読むと、主導権を持っていったのはダレスでありアメリカ側だった。岸は内心、苦々しい思いをしたのではないかと推測できる」「アメリカだけ信じていたらダメだ、依存していたらダメだということを強く思ったんじゃないかと思う」と述べ、その後の岸は、アメリカ一本ではなく、イギリスや中国、インドなど、日本独自の外交オプションを広げていったとしている[66]。
- ^ このとき、岸の渡米妨害を目的とした学生集団が羽田空港ロビーを占拠する事件を起こしている[88]。
- ^ ここで登場した「右翼宗教団体」とは、当時急速に会員を増大させていた創価学会を指しており、岸も創価学会の会長に就任したばかりの池田大作に対し、大阪事件の裁判で無罪を言い渡すという交換条件を示して協力を依頼したが、これは断られたという[92]。
- ^ 自衛隊出動については、岸以外にも池田勇人(通産大臣)・佐藤栄作(大蔵大臣)・川島正次郎(自民党幹事長)らが赤城に対して働きかけを行っていた[97]。
- ^ 日本の経済が発展したという側面もある[132]。
- ^ 見送りに来た佐藤寛子に「あとは栄作しかいないんだよ」と語っていた[138]。
- ^ 日本選手権シリーズに関しては、1960年の日本シリーズ第1戦で、この年岸の後任として就任した池田勇人が始球式をおこなった事例がある[198]。
- ^ 2013年5月5日、東京ドームで開催された巨人対広島の試合前に長嶋茂雄と松井秀喜の国民栄誉賞授賞式が行われ、授与式終了後の始球式において安倍晋三が球審役を務めている。
出典
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- リ・ヒョンチョル「岸信介の対外認識とアジア政策」『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第1巻、2000年12月、33-45頁。
- 渡辺昭夫 編『戦後日本の宰相たち』中央公論社、1995年10月。ISBN 978-4120024955。中公文庫、2001年。
- 藤井旭『白河天体観測所-日本中に星の美しさを伝えた、藤井旭と星仲間たちの天文台』誠文堂新光社、2015年10月15日。ISBN 978-4-416-11537-4。
- 三輪建二『祖父三輪寿壮―大衆と歩んだ信念の政治家』 鳳書房、2017年
- 三島, 由紀夫 (1960年6月25日付). “一つの政治的意見”. 毎日新聞. からの出典
- 久保木修己『愛天 愛国 愛人―母性国家日本のゆくえ 久保木修己回顧録』世界日報社、1996年2月。ISBN 978-4882010609。
- 金俊燮『岸信介の思想と行動』(博士(学術)論文・国際社会論専攻)広島大学、1997年9月。doi:10.11501/3147586。学位授与番号: 甲第1719号。
- 社会科学辞典編集委員会 編『新版 社会科学辞典』新日本出版社、1978年9月20日。
- 濵砂孝弘『安保改定と政党政治-岸信介と「独立の完成」』吉川弘文館、2024年10月17日。ISBN 9784642039369。
関連項目
[編集]関連人物
[編集]- 満洲人脈
- 児玉誉士夫
- 笹川良一 - 戦後、協力関係があった。
- 朴正煕
- 文鮮明 - 旧統一教会の教祖。
- 土井正治 - 東京帝国大学の同期。
- 田路舜哉 - 東京帝国大学の同期。
- 中安閑一 - 山口中学時代からの親友。
- 中村長芳 - 岸の内閣総理大臣秘書官。岸の指示でプロ野球ロッテや西鉄の個人球団オーナーにも乗り出す。
- 吹田愰 - 地盤継承者。
- 藤本万次郎 - 熊毛帰郷時の幼馴染にして盟友。岸の懇願で落選中の娘婿安倍晋太郎の後援会連合会会長に就任。
- 甘粕正彦 - 満洲国時代の同僚。
- 古海忠之 - 満洲国時代の同僚、岸の後任の総務庁次長。
- 町村金五
- 賀屋興宣
- 三田村武夫
- 美濃部洋次 - 商工省・満洲国時代の同僚。
- 椎名悦三郎 - 商工省・満洲国時代からの腹心、側近。
- 三好英之 - 政治家仲間。
- 吉野信次 - 農商務省の上司で吉野作造の実弟。
- 矢次一夫
外部リンク
[編集]- 辻雅之 (2006年11月1日). “安倍首相の祖父・岸信介とは?”. 社会ニュース/よくわかる政治. All About. 2015年2月4日閲覧。
- “岸信介関係文書(寄託)”. 憲政資料室の所蔵資料. 国立国会図書館 (2015年1月15日). 2015年2月4日閲覧。
- “東山旧岸邸”. 2015年2月4日閲覧。 - 岸が晩年を過ごした静岡県御殿場市にある邸宅。現在は一般公開されている。
- “岸信介宰相の遺品展示室”. 田布施町郷土館ホームページ. 田布施町. 2015年2月6日閲覧。
- “兄弟で首相になった 岸元首相・佐藤元首相の実家”. 著名人の墓. 日本の墓. 2015年2月8日閲覧。
- 激動の1960年(昭和35年12月23日公開) - 中日ニュース362号(動画)・中日映画社
- 『岸信介』 - コトバンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 石橋湛山 |
内閣総理大臣 第56・57代:1957年 - 1960年 |
次代 池田勇人 |
先代 日本国憲法下で初 |
内閣総理大臣臨時代理 1957年 石橋内閣 |
次代 伊東正義 1980年・第2次大平内閣 |
先代 重光葵 |
外務大臣 第86・87代:1956年 - 1957年 |
次代 藤山愛一郎 |
先代 創設 |
国務大臣(無任所) 1943年 - 1944年 |
次代 廃止 |
先代 左近司政三 |
商工大臣 第24代:1941年 - 1943年 |
次代 東條英機 |
党職 | ||
先代 石橋湛山 |
自由民主党総裁 第3代:1957年 - 1960年 |
次代 池田勇人 |
先代 結成 |
自由民主党幹事長 初代:1955年 - 1956年 |
次代 三木武夫 |
先代 結成 |
日本民主党幹事長 初代:1954年 - 1955年 |
次代 自由民主党へ |
学職 | ||
先代 吉田茂 |
皇學館大学総長 第2代:1968年 - 1987年 |
次代 篠田康雄 |
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