「西園寺公望」の版間の差分
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|画像説明 = [[大勲位菊花章頸飾]]を佩用した西園寺([[1928年]]〔[[昭和]]3年〕) |
|画像説明 = [[大勲位菊花章頸飾]]を佩用した西園寺([[1928年]]〔[[昭和]]3年〕) |
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|国略称 = {{JPN}} |
|国略称 = {{JPN}} |
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|生年月日 = [[1849年]][[12月 |
|生年月日 = [[1849年]][[12月6日]]<br />(旧暦[[嘉永]]2年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) |
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|出生地 = [[山城国]][[京都]] |
|出生地 = [[山城国]][[京都]] |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1849|12| |
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1849|12|6|1940|11|24}} |
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|死没地 = [[静岡県]][[庵原郡]][[興津町]]<br />(現 静岡市清水区) |
|死没地 = [[静岡県]][[庵原郡]][[興津町]]<br />(現 静岡市清水区) |
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|出身校 = [[パリ大学|ソルボンヌ大学]] |
|出身校 = [[パリ大学|ソルボンヌ大学]] |
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|所属政党 = [[立憲政友会]] |
|所属政党 = [[立憲政友会]] |
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|称号・勲章 = [[贈位|贈]][[従一位]]<br />[[大勲位菊花章頸飾]]<br />[[公爵]] |
|称号・勲章 = [[贈位|贈]][[従一位]]<br />[[大勲位菊花章頸飾]]<br />[[公爵]] |
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|親族(政治家) = [[徳大寺実則]]([[兄]]) |
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|親族(政治家) = [[徳大寺実則]]([[兄]])<br />[[加藤泰秋]]([[義兄]])<br />[[相良頼基]](義兄)<br />[[相良頼紹]]([[義弟]])<br />[[西園寺八郎]]([[婿養子]])<br />[[高千穂宣麿]]([[甥]])<br />[[鷹司煕通]]([[義甥]])<br />[[島津忠重]](義甥)<br />[[西園寺一晃]](曾孫) |
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|配偶者 = |
|配偶者 = なし |
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|サイン = SaionjiK kao.png |
|サイン = SaionjiK kao.png |
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|国旗 = JPN |
|国旗 = JPN |
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|元首2 = 明治天皇<br />[[大正天皇]] |
|元首2 = 明治天皇<br />[[大正天皇]] |
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|国旗3 = JPN |
|国旗3 = JPN |
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|職名3 = 第10代 [[文部大臣]] |
|職名3 = 第10代 [[文部大臣 (日本)|文部大臣]] |
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|内閣3 = [[第3次伊藤内閣]] |
|内閣3 = [[第3次伊藤内閣]] |
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|就任日3 = [[1898年]][[1月12日]] |
|就任日3 = [[1898年]][[1月12日]] |
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[[ファイル:Young Saionji in Paris.jpg|thumb|200px|[[1871年]]〜[[1880年]]、パリ留学時代]] |
[[ファイル:Young Saionji in Paris.jpg|thumb|200px|[[1871年]]〜[[1880年]]、パリ留学時代]] |
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'''西園寺 公望'''(さいおんじ きんもち、[[嘉永]]2年[[10月 |
'''西園寺 公望'''(さいおんじ きんもち、[[嘉永]]2年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]([[1849年]][[12月6日]])<ref>グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している{{harv|伊藤之雄|2007|pp=8-9}}</ref> - [[昭和]]15年([[1940年]])[[11月24日]])は、[[日本]]の[[公家]]、[[政治家]]、[[教育者]]。[[位階]]・[[勲等]]・[[爵位]]は[[贈位|贈]][[従一位]][[大勲位]][[公爵]]。[[雅号]]は陶庵、不読、竹軒<ref>[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[等持院]]ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32) </ref>。 |
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[[戊辰戦争]]において[[官軍]]の方面軍総督を務め、フランス留学後には[[伊藤博文]]の腹心となった。[[第2次伊藤内閣]]にて[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]として初入閣し[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を兼任、[[第3次伊藤内閣]]でも文部大臣として入閣した。[[第4次伊藤内閣]]では[[無任所大臣|班列]]として入閣し、内閣総理大臣の[[伊藤博文]]の病気療養中は[[内閣総理大臣臨時代理]]を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。 |
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その後、伊藤 |
その後、伊藤の[[立憲政友会]]の[[総裁]]に就任した。明治39年(1906年)[[内閣総理大臣]]に任じられ、[[第1次西園寺内閣]]、[[第2次西園寺内閣]]を組閣した。この時代は西園寺と[[桂太郎]]が交互に政権を担当したことから「[[桂園時代]]」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な[[元老]]となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=156-157}}。大正13年([[1924年]])に[[松方正義]]が死去した後は、「最後の元老」として[[大正天皇]]、[[昭和天皇]]を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[清華家]]の一つ[[徳大寺家]]の次男として誕生 |
[[1849年]][[12月6日]]([[嘉永]]2年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]])、[[清華家]]の一つ[[徳大寺家]]当主[[徳大寺公純]]と妻の末弘斐子の次男として誕生した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=8}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=20}}。[[幼名]]は美丸(よしまる、美麿とも){{sfn|伊藤之雄|2007|pp=20}}。2歳の時に、同族で清華家の[[西園寺師季]]の養子となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。その年の7月に師季が死亡したため、[[西園寺家]]の[[家督]]を相続した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。このため実質的には実父の公純の強い影響下で成長することとなった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21}}。公純は保守的ながらも頑固な性格で、[[国木田独歩]]はその頑固さが公望にも受け継がれたと評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=21-22}}。[[孝明天皇]]が設置した[[学習院]]で学び、11歳の時からは御所に出仕し、祐宮(後の[[明治天皇]])の近習となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=23-24}}。また近習の同僚であった[[岩倉具視]]ともこの時期に親しくなっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。 |
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=== 幕末 |
=== 幕末期 === |
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西園寺 |
西園寺は若年でもあり、岩倉や[[三条実美]]のような[[幕末]]期における倒幕活動に強く参画していなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。[[鳥羽・伏見の戦い]]の際、私戦として納めようという意見に対して猛反発し、岩倉に「小僧能く見た」と絶賛された{{sfn|伊藤勲|1986|pp=103-104}}。慶応3年12月9日(1868年)、おそらく岩倉の推挙によって、[[近代日本の官制|三職の1つ、参与]]の一人となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。 |
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以後の[[戊辰戦争]]では山陰道鎮撫総督、 |
以後の[[戊辰戦争]]では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。[[会津戦争]]では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=24}}。 |
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=== 明治維新後 === |
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官を辞した西園寺はフランス留学を考えるようになり、[[東京]]や[[長崎市|長崎]]でフランス語の勉強を始めた。東京では[[前原一誠]]と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(『[[金毘羅利生記]]』の主人公・田宮坊太郎に由来)と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。やがて[[大村益次郎]]の推薦によって[[明治]]4年([[1871年]])、官費(のちに減額を申出ている)でフランスに留学した。 |
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明治元年10月28日(1868年)、[[越後府|新潟府]]知事に就任した。西園寺は軍人を志し、フランス留学を望んでいた為この職は不本意であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=25-26}}。翌明治2年、[[東京]]に戻った西園寺はフランス語の勉強を始めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=26}}。また[[大村益次郎]]の薦めで法制についても勉強するようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=26-27}}。東京では[[前原一誠]]と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(『[[金毘羅利生記]]』の主人公・田宮坊太郎に由来)と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。 |
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フランス行きの船内では、[[地球]]が球体であることを得心したり、[[コーカソイド|白人]]少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。 |
9月には許可無く京都に戻り、一週間の謹慎処分を受けた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=27}}。この時に家塾として『立命館』を創始している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=27}}。翌明治3年1月末、政府の許可を得て[[長崎市|長崎]]に向かった。でまた公卿の中で初めて[[散髪脱刀令|散髪]]・[[洋服|洋装]]で宮中に参内し、[[大原重徳]]ら未だ多く残る[[攘夷|攘夷派]]公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。やがて[[大村益次郎]]の推薦によって[[明治]]3年12月([[1871年]])、官費でフランスに留学のために出国した。フランス行きの船内では、[[地球]]が球体であることを得心したり、[[コーカソイド|白人]]少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。経由地であったアメリカでは[[ユリシーズ・グラント]]大統領と面会している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=30-31}}。翌明治4年2月([[1871年]])にパリに到着した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=30-31}}。 |
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=== フランス留学時代 === |
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[[普仏戦争]]敗北と[[フランス第二帝政|第二帝政]]の崩壊、かわって樹立された革命政府[[パリ・コミューン]]とドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真っただ中の[[パリ]]に到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。その間、後に[[フランスの首相]]となる[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]や、留学生仲間の[[中江兆民]]・[[松田正久]]らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。[[ソルボンヌ大学]]で勉学に勤しむ一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。また、金銭が尽きると二束三文のナマクラを[[正宗]]と偽って売りつけていた(いわゆる「西園寺正宗」)。なお、[[第一次世界大戦]]後の[[パリ講和会議]]([[1919年]])に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。 |
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当時のフランスは、[[普仏戦争]]敗北と[[フランス第二帝政|第二帝政]]の崩壊のまっただ中であり、西園寺の到着後間もない3月18日には革命政府[[パリ・コミューン]]が成立していた。西園寺はコミューンに対して「賊」「恥知らずの人々が愚民を煽動した」と極めて否定的であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=35-36}}。フランス政府によるその鎮圧を、「愉快」と評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=36}}。西園寺は以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。[[ソルボンヌ大学]]で政治学者の{{仮リンク|エミール・アコラス|fr|Émile Acollas}}などに学んだが、一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。 |
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西園寺は公費留学生として年1400ドルの支給を受けていたが、これは一般の公費留学生より400ドル多かった。西園寺は400ドルを返納し、また国が公費留学生を減らす方針を決めると、公費援助を辞退して私費留学生となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=46-47}}。しかし留学費は西園寺家や徳大寺家にとっても大きな負担であり、1878年よりは明治天皇のお手元金から2年間、毎年300ポンドが支給されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=47-50}}。{{要出典範囲|また、金銭が尽きると二束三文のナマクラを[[正宗]]と偽って売りつけていた(いわゆる「西園寺正宗」)|date=2014年12月}}。また{{仮リンク|ジュディット・ゴーチエ|en|Judith Gautier}}の依頼で、[[和歌]]のフランス語への翻訳にも協力しており、1885年に発刊された『[[蜻蛉集]]』には西園寺による下訳も収録されている<ref>[[浅田徹]]「[http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/31365 『蜻蛉集』のための西園寺公望の下訳について]」</ref>。 |
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パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は[[自由民権運動]]に傾倒し、明治14年([[1881年]])[[3月18日]]には、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]結党に向けて創刊された『[[東洋自由新聞]]』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は[[4月30日]]発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、天皇の内勅がでると呆気ないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は、彼の生涯にわたる世界観・政治観を端的に表しているともいえる。 |
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その間、後に[[フランスの首相]]となる8歳年上で[[急進党]]の政治家[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]や、留学生仲間の[[中江兆民]]・[[松田正久]]・[[光妙寺三郎]]らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺の交友関係から、彼が急進共和派に近い思想を持つようになったと評する事が一般的であるが、その頃の書簡で急進派を肯定的に評したものは全くない{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=39-40}}。西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、[[パリ講和会議]]での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。クレマンソーはこの頃の西園寺を「過激な、愛すべき公子」であったと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42}}。 |
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西園寺はフランスで身に付けた[[リベラル]]な思想と名門公家の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある意味で相反するものを共に有していた。そして、この相反する二つを整理し融合したことから独特な世界観・政治観を持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であったといえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。西園寺は絶対天皇制の持つ、やがては皇室の存続をも危うくさせる危険性を早くから見抜いていた。 |
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明治13年10月21日([[1880年]])には留学を終え、10年ぶりに帰国した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=51}}。 |
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=== 政治家としての西園寺 === |
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[[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|[[1906年]]、[[内閣総理大臣]]在任時]] |
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=== 留学後の活動 === |
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西園寺の政治家としてのキャリアは明治15年([[1882年]])、[[伊藤博文]]の憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際、それに随行したことにはじまる。ヨーロッパで伊藤の知遇を得た西園寺は、明治27年([[1894年]])に[[第2次伊藤内閣]]の文部大臣として初入閣を果たし、明治33年([[1900年]])には[[立憲政友会]]旗揚げに参画した。明治36年([[1903年]])には伊藤の後を受けて政友会総裁となり、明治39年([[1906年]])と同44年([[1911年]])の2回にわたって[[内閣総理大臣]]に任命される。 |
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パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいると」、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54}}。この新聞は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]結党に向けて準備され、明治14年([[1881年]])[[3月18日]]に創刊された『[[東洋自由新聞]]』であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54}}。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員でを務めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=55}}。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=54-55}}。新聞の論調はフランスの共和政治よりイギリス流の立憲君主制が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視や三条実美、兄の[[徳大寺実則]]らは社長を辞めるよう強要した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=56}}。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。しかし4月8日に[[宮内省]]に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「[[勅|内勅]]」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、[[4月30日]]発行の第34号にて廃刊に追い込まれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。 |
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=== 伊藤博文の腹心 === |
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明治14年11月24日、西園寺は[[参事院]]議官補に任じられ、官界に入った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=60}}。参事院は[[伊藤博文]]が国会開設の準備のために設置した機関であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=60}}。翌明治15年([[1882年]])に伊藤が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪することになった際には、その随員に選ばれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=61}}。ヨーロッパでフランスの法制を調べるなかで、伊藤の知遇を得た {{sfn|伊藤之雄|2007|pp=61-62}}。また[[ウィーン大学]]では[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に伊藤とともに憲法思想を学んでいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=63}}。明治16年(1883年)8月4日に帰国し、参事院議官に任じられた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=64}}。明治18年(1885年)には駐ウィーン・[[オーストリア=ハンガリー帝国]][[公使]]となり、再びシュタインに学ぶことになった。またウィーン滞在中であった[[陸奥宗光]]と親しくなり、彼とともに伊藤の腹心としての地位を固めていくことになる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=66-67}}。翌明治19年(1886年)6月には帰国し、8月には法律取調委員に任命された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=69}}。明治21年(1888年)6月には駐ベルリン・[[ドイツ帝国]]公使兼[[ベルギー]]公使となり、9月20日には[[ローマ教皇庁]]派遣の[[特命全権公使]]を命じられ、日本を離れた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=70-71}}。ローマを経て12月10日にベルリンに到着したが、その4日後には最初の子である新子が生まれている。ドイツでは[[条約改正]]交渉などの任に当たったが、半年ほどで中断となり、極めて暇になった。公使時代の西園寺は一年の三分の一はパリで過ごしていたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=72-73}}。明治22年(1889年)には[[リウマチ]]を発病し、これは生涯の持病となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=76}}。この外国駐在期間の間、伊藤とは絶えず連絡を取り、政策に関する意見を述べている。 |
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明治24年(1891年)8月にようやく帰国し、9月には[[賞勲局]]総裁に任じられた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=79-80}}。閑職であり、不満もあったが、[[井上馨]]が知り合いの財界人に勲章を授けるよう圧力をかけてきたときにははっきりと拒絶し、「わからぬ奴」と不興を買っている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=80-81}}。1892年10月からは賞勲局総裁と兼任で民法商法施行取調委員長、翌年には[[貴族院 (日本)|貴族院]]副議長、[[法典調査会]]副総裁となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=81}}。以降、西園寺は公務でやむを得ない場合以外は調査会の会合に必ず出席し、あまり出席しなかった総裁の伊藤に代わり、実質的な総裁として民法や商法の審査に当たった{{sfn|張智慧|2009|pp=218}}。西園寺はこの中で[[戸主]]制度や[[隠居]]制度は封建時代の余習だとして廃止を提案している{{sfn|張智慧|2009|pp=218-219}}。 |
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明治27年([[1894年]])には病気で辞任した[[井上毅]]の後任の文部大臣として、[[第2次伊藤内閣]]に初入閣を果たした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=84}}。西園寺はいきすぎた日本中心主義を否定し、女子教育発展をもとめるなど、日本を西洋諸国のように開明進歩させる教育を唱えた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=86-87}}。また翌明治28年(1895年)には親友の陸奥宗光外相が病気のため、外務大臣臨時代理をつとめ、[[乙未事変]]などの朝鮮半島問題への対応に当たった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=88-90}}。明治29年(1896年)5月に陸奥が外相を辞任すると、西園寺は正式な外相となり、文部大臣と兼任したが、8月に伊藤内閣が倒れ、[[第2次松方内閣]]で数日間大臣を務めた後、両大臣を辞任した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=92-93}}。11月には |
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法典調査会副総裁も辞任し、フランスへと旅立った。西園寺はフランスで教育制度や軍の内閣による統制などを研究するつもりであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=93-95}}。しかし、翌明治30年(1897年)に[[虫垂炎]]にかかって瀕死の状態となり、「自殺する権利すらある」と主張して皆が止める中日本に帰国した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=95}}。 |
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病がようやく癒え、明治31年(1898年)1月に[[第3次伊藤内閣]]が成立すると、ふたたび文部大臣となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=98}}。文相時代には第二次[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]の作成にあたったが、実現しないまま虫垂炎の後遺症を発病し、4月30日に辞任した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=100-101}}。 |
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=== 政友会総裁 === |
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西園寺は思想的に[[自由主義|リベラル]]を自称し、[[衆議院]]での多数派政党が[[内閣]]を組織する[[憲政の常道]]を慣例にした。またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから[[国家主義]]に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。西園寺は政治力がなかったという見方をされることがあるがこれは事実とは異なり、[[山縣有朋]]の死後は政治力で彼を上回るものは当時の日本には存在しなくなった。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、[[文部大臣]]在任中に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。 |
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明治33年([[1900年]])には伊藤による[[立憲政友会]]旗揚げに創立委員として参画し、最高幹部である総務委員の一人となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=105}}。10月19日には[[第4次伊藤内閣]]が発足したが、伊藤は当時病中であり、10月27日に西園寺が班列(後の[[無任所大臣 (日本)|無任所大臣]])として入閣、12月12日まで[[内閣総理大臣臨時代理]]として伊藤の代役を務めている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=106}}。また臨時代理就任と同日に[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長にも就任している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=106}}。 |
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明治36年([[1903年]])、伊藤が[[山県有朋]]らの策謀で政友会総裁を辞任せざるを得なくなり、西園寺は伊藤の指名によって即日政友会総裁となり、枢密院議長を辞任した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=114}}。伊藤の辞任で政友会は動揺し、33%の代議士が離党するほどであったが、なんとか第一党の地位を保持することはできた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=116}}。ただし党務の実権は、幹部である原敬らによって握られていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=118}}。[[日露戦争]]時には野党であったため特筆する活動はなく、明治37年([[1904年]])9月には[[上海]]など中国への旅行を行っている。戦争の勝利が見えてきた12月になると、[[桂太郎]]首相は政友会の協力を得るため、戦後の政権受け渡しの密約(情意投合)を結んだ{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=118}}。 |
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西園寺は[[立命館大学]]に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった[[藤原氏]]の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは[[田中義一]]が[[張作霖爆殺事件]](満州某重大事件)の上奏の不一致を[[昭和天皇]]に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、[[皇道派]][[将校]]の反感をも招いた。 |
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=== 桂園時代と大正政変 === |
=== 桂園時代と大正政変 === |
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[[ファイル:Kinmochi Saionji |
[[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|[[1906年]]、[[内閣総理大臣]]在任時]] |
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{{see also|桂園時代|大正政変}} |
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明治39年([[1906年]])には[[桂太郎]]の後を受けて[[第1次西園寺内閣]]を組織。そののち再び桂が総理となり、桂・西園寺会談での「[[情意投合]]」によって明治44年([[1911年]])には[[第2次西園寺内閣]]を組織した。桂と西園寺が交互に総理を務めたこの時代を[[桂園時代]]という。政友会の幹部は桂との対抗関係を強調し、西園寺も表向きはその姿勢を見せていたが、桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」<ref>『原敬日記』1909年(明治42年)11月9日。</ref>と言うほどポスト元勲世代である2人の政治的な関係は良好であった。また、愛妾を同伴し酒を酌み交わすなど「蕩児」としての共通部分もあったようである。 |
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明治39年([[1906年]])1月7日、桂内閣から禅譲される形で[[第1次西園寺内閣]]が成立した。内閣には政友会出身者が原([[内務大臣 (日本)|内務大臣]])と松田正久([[法務大臣]])の2名しかおらず、桂の協力もうけ、各[[藩閥]]などにも配慮した構成であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=119}}。内閣は日露戦争後の南[[満州]]からの撤兵問題、カリフォルニアの排日運動への対処、[[日露協約]]の締結などに取り組んだ。また首相時代には高名な文士たちを招いた「[[雨声会]]」という会を主宰し、1914年までに7回開催されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=128-132}}。明治40年([[1907年]])頃から西園寺の健康状態は悪化し、しばしば弱音を漏らすようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=132-133}}。明治41年([[1908年]])1月には、[[山縣伊三郎]][[逓信大臣]]と[[阪谷芳郎]][[大蔵大臣]]を更迭するよう[[元老]]からの圧力が強まり、西園寺は両名とともに辞表を提出したが、西園寺のもののみ却下されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=133}}。組閣を目指す桂の動きが活発になり、伊藤の支援も十分に受けられない西園寺は健康上の問題もあって、明治41年6月に辞職の意志を固め、7月4日に総辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=134-137}}。 |
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首相辞任後、西園寺は病を理由に政友会総裁の活動も積極的に行わないようになり、原が事実上最高実力者となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=138-139}}。原は「西園寺のあまりに冷淡なると、松田の余りに狡猾なる」ことを批判し、西園寺が桂と会って話し合ったことを詰問して陳謝させることもあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=141}}。政治上は対立していたが、西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」<ref>『原敬日記』1909年(明治42年)11月9日。</ref>と言うほど2人の関係は良好であった。また、愛妾を同伴して酒を酌み交わす会をたびたび開き、養子の八郎が桂の秘書官となるなどの交流もあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=140}}。明治43年([[1911年]])8月、桂と原の交渉の結果、桂内閣が辞職し、後継首相に西園寺が就任することになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=142}}。 |
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第2次西園寺内閣は基盤とする与党・政友会が衆議院で絶対多数を占めたこともあり、行財政改革に着手した。[[大正]]2年([[1913年]])の予算策定に向けて歳出1割減を目標としたが、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は2個師団の増設を要求し、[[大日本帝国海軍|海軍]]もまた戦艦3隻建造を予算案に盛り込んだ。陸軍は西園寺内閣を倒してでも2個師団増設を達成すべく奔走し、内閣があくまでも拒否との方針を示すと、[[陸軍大臣]]・[[上原勇作]]は[[大正天皇]]に直接辞表を提出した。 |
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8月30日に成立した[[第2次西園寺内閣]]は、内閣の構成をほとんど政友会が決めるなど、独自性が強いものになったが、それは西園寺よりも原の影響が大きいものであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=143}}。この内閣では明治天皇の崩御と[[大正天皇]]の[[践祚]]、[[辛亥革命]]後の中国への対応に当たった。大正天皇の践祚に当たっては8月13日に補国の任に当たっているために、天皇を助けるよう勅語を受けている<ref>{{アジア歴史資料センター|C10050034100|大正元年8月13日 元勲の勅語}}</ref><ref>この際西園寺が「至尊匡輔(天皇を助ける)」の勅語を山県・井上馨・[[大山巌]]・[[松方正義]]・桂とともにうけ、これをもって西園寺が元老になったと指摘する歴史家も存在するが{{harv|永井和|1997|pp=111-112}}、実際に西園寺が受けた勅語は他の元老とは異なる({{アジア歴史資料センター|C10050034100|大正元年8月13日 元勲の勅語}})</ref>。西園寺と原は鉄道予算を巡って対立し、一時は原が辞表を西園寺に提出し、西園寺はそれを天皇に奏上する直前までに至った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=145}}。 |
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陸軍大臣には直接天皇に上奏する[[帷幄上奏]]が制度上認められてはいたが、閣僚が首相を通さずに直接天皇に辞表を提出したのは前代未聞のことであった。また、陸軍が後任の陸相を送らない限り、西園寺内閣は[[軍部大臣現役武官制]]の規定によって陸相が得られないこととなって辞職するよりほかなかった。当時、陸相辞任の影響は非常に大きかったのである。 |
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[[大正]]元年([[1912年]])12月、[[上原勇作]]陸軍大臣が二個師団増設を要求して入れられずに辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=147}}。この動きには首相の地位をねらった桂の策動があり、後継陸相を得られないことで内閣は存続不可能となり、12月5日に総辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=147}}。これは陸軍とその背後にある長州閥の動きが原因であるという国民からの大反発を受け、[[護憲運動|第一次憲政擁護運動]]が始まるきっかけとなった。首相辞任後、西園寺は[[前官礼遇|前官の礼遇]]を受けている<ref>{{アジア歴史資料センター|A03023387900|特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 侯爵西園寺公望}}</ref>。 |
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西園寺は大正天皇に呼び出され、天皇の口から直接陸相の辞表提出の件を知らされた。後任の陸相について陸軍の実力者・山縣有朋にも相談したが、山縣が後任の陸相を出す気がないことを察すると、機先を制して[[内閣総辞職|総辞職]]した。 |
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桂は思惑通りに12月21日に首相に就任したが、国民及び議会の反発は強烈なものであった。翌大正2年([[1912年]])2月には政友会から[[内閣不信任案]]が提出され、桂は大正天皇に要請して、西園寺に対して不信任案を撤回するようにという勅語を出させた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。西園寺は一応政友会議員への説得を行ったが、議員たちはひるまず、不信任案は議会を通過した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。西園寺は違勅を理由に総裁を辞任する意向を漏らしたが、原に止められ、辞任は行わなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=148-149}}。桂が2月11日に辞職すると、大正天皇は後継首相を決める元老の協議に、西園寺も加わるよう要請した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=149}}。山県は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した[[山本権兵衛]]海軍大将が後継首相となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=149-150}}。また西園寺はこの席で、将来は[[衆議院]]における多数党の党首が首相となる、イギリス方式を導入してはどうかと提案しているが、元老の賛意は得られなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=150}}。 |
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政友会を通じて内閣総辞職の内幕が知れ渡ると国民の間に俄かに「閥族打破、憲政擁護」の気運が高まり[[護憲運動|第1次護憲運動]]となった。政友会は[[立憲国民党]]の[[犬養毅]]らと提携し、護憲運動の陣頭に立ち、西園寺内閣の後任の第3次桂内閣と対立した。ただし、政国提携や国民に向けた演説会などには西園寺は直接関わっておらず、これらは政友会の幹部である[[原敬]]や[[松田正久]]、政友会員の[[尾崎行雄]]、国民党の犬養毅らが中心となっていた<!--このあたりの詳しい事情をご存知の方、補足お願いします。-->。 |
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山本内閣成立後、政友会幹部たちは集団指導体制に移行する方針を決めていたが、西園寺の留任を求める声が高まったため、曖昧な状態にしておくことが選択された。西園寺は京都の別荘[[清風荘]]にひきこもり、事実上政治活動の一線から退いた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=151}}。原と松田は西園寺が一旦総裁に復帰し、後継総裁に譲るという形式を考えたが、西園寺は健康上の理由を原因に総裁復帰を認めなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=152}}。同年に松田が病死し、原が後継となることは誰の目にも明らかとなった。大正4年([[1914年]])3月、山本内閣が[[シーメンス事件]]で総辞職し、後継首相を決める元老会議に西園寺も呼ばれたが、先年の違勅問題を理由に上京しなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=152-153}}。政友会は再び野党となり、体勢を立て直す必要に迫られた。西園寺の総裁復帰を求める声も高まったため、西園寺は5月に総裁を原に譲ることを明言し、6月18日の総会で、原が正式な政友会総裁に就任した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=153}}。総裁を退き、宮中や元老に近い西園寺の立場は、原にとっても得難い存在であり、かつて確執のあった原との関係も修復されていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。政友会が第二党に転落した際に原は、西園寺に組閣を働きかけているが拒否されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。大正5年(1916年)、西園寺は清風荘から[[静岡県]]興津の旅館、水口屋の勝間別荘に移り、主な拠点とし始めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=194}}。 |
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議会はもともと政友会が絶対多数であったので、議会が開始されると政友会・国民党は内閣不信任案を提出し桂内閣は窮地に立たされた。そこで政府側では、イギリスの[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]即位の際、即位直後であることを理由に[[自由党 (イギリス)|自由党]]と[[保守党 (イギリス)|保守党]]との政争をやめるよう命令して、それを実現させた話にならい、ちょうど大正天皇が即位して間もない頃だったので、[[勅語]]を出すという形で西園寺公望に対し政争を中止するように諭した。 |
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===元老の一員=== |
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政友会では天皇の意思であるならそれに従うよりほかはないと、不信任案を撤回して、ひとまずは桂内閣に貸しを作ろうという意見が一時有力になった。しかし、これに政友会会員尾崎行雄が強硬に反発した。それに対して西園寺は前述のように「天皇の藩屏」としての誇りと政友会総裁としての責任の間で板挟みとなってしまう。そして、犬養毅の助言で西園寺は政友会総裁を辞任し、政友会自体はあくまでも内閣退陣を要求するということになった。このとき、海軍の[[山本権兵衛]]が政友会本部を激励のために訪れている。 |
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[[ファイル:PM Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|1919年、[[パリ講和会議]]時の西園寺]] |
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[[第2次大隈内閣]]の後半になると、首相[[大隈重信]]は後継に[[加藤高明]]をつけようと模索していた。西園寺は大正5年(1916年)3月に大正天皇に拝謁し、加藤はまだ適当ではなく、原か寺内正毅が適当であると奏上している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=155}}。8月には山県の邸宅で後継首相について元老たちと協議している。10月の大隈内閣総辞職後、山県は元老会議に西園寺も加えるよう奏上し、大正天皇の裁可を得た。これにより西園寺は正式に元老の一員となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=156-157}}。この会議で寺内正毅が首相に推薦された。 |
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大正7年(1918年)、[[寺内内閣]]が行き詰まりを見せると、後継首相には第一党である政友会総裁の原が有力となった。政党嫌いの山県は原を避けるために松方と協議して、9月20日に西園寺に首相就任を勧めている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=109-110}}。翌9月21日に大正天皇に拝謁すると、[[大命降下|組閣の大命を下された]]。西園寺は一両日の猶予を願った後に辞退し、後継首相に原を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=158}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=109-110}}。こうして[[原内閣]]が成立すると、西園寺は原の後見人的存在となった。 |
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結局、護憲運動の高まりで桂内閣は大正2年(1913年)2月11日に辞意を表明した([[大正政変]])。同日、後継首相を決めるための元老会議が開かれた。このときの会議には西園寺もはじめて[[元老]]として出席した。しかし、政友会の代表としての出席ではなかった。会議では、最初に西園寺が後継首相に推薦されたが、これを受ければ勅語に反することになるとして西園寺は固辞した。結局、後継首相には山本権兵衛が決まった。 |
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===パリ講和会議=== |
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一連の処理が終わると、西園寺は改めて先の大正天皇からの勅語に違反した「[[違勅]]」の罪を理由に政友会総裁の辞任を表明した。「違勅」は近代法においては存在しないが、「天皇の藩屏」である事を第一としていた伝統的な公家社会においては最も重い罪の1つであった。また、第2次内閣時代には政友会内部を掌握し、鉄道建設など地方利益の追求に熱心であった原との間に確執が生じており、総裁辞任のため「違勅」を利用したのである。政友会の幹部達はこの「違勅」の論理に困惑して西園寺を慰留したが、西園寺の決意は揺らぐことは無かった。 |
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{{see also|パリ講和会議}} |
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[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺。1919年、パリ。]] |
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その頃[[第一次世界大戦]]が終結し、講和会議が開かれることとなった。大国の首脳が集まるこの会議に、日本としてもそれなりの代表を送る必要があった。原首相と[[内田康哉]]外相が協議し、首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。西園寺は健康上の不安から辞退しようとしたが、12月18日に応諾した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。この際、「無謀」であるが、老体を犠牲にするという覚悟を原に示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=164}}。しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出国したのは[[牧野伸顕]]や[[珍田捨巳]]といった他の全権が出発してから一ヶ月後の大正8年(1919年)1月14日のことであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=166}}。西園寺と同行したのは妾の奥村花子、娘の新子と八郎の夫妻、そして[[近衛文麿]]公爵らであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=166-167}}。また名門料亭[[なだ万]]の主人楠本萬助が板前二人を連れて乗船しており、船倉には日本食が5トンも積み込まれていた。これは現地で日本食パーティーを開くためのものであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=167}}。 |
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西園寺の一行は3月2日にパリに到着したが、フランス側からの出迎えはなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=169-170}}。すでに日本にとって重要な検討課題の討議は行われており、すでに牧野や珍田が交渉の主役となっていた。さらに20年ぶりの訪仏であったこともあり、旧友クレマンソーの語るフランス語を聞くことはできても、話すことはできなくなっていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=172-173}}。また病気がちであったために精力的な活動もできず、会議には参加していたが、発言は一度も行っていない{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=173}}。このため外務省がまとめたパリ講和会議の概要文書で、西園寺が登場するのは4月27日のクレマンソーとの会談のみであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=173-174}}。[[吉野作造]]は「何を言ってよいか分からなかったためだ」と批判している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=179}}。ただ、[[佐分利貞男]]は、[[山東問題]]が紛糾した際に、日本代表団の中から帰国しようという声が上がった際、西園寺が「[[国際連盟]]問題は山東問題よりも重要であるとし、自分一人でもパリに留まる」と発言したことを回想し、日本代表団内部に影響を与えたことを示唆している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=176}}。 |
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===最後の元老=== |
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[[ファイル:saionji coming back from the palace cropped.jpg|thumb|200px|[[1936年]][[3月4日]]、[[宮内省]]を退出して定宿としていた麻布の住友別邸に戻る西園寺]] |
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講和会議が一段落した後の7月10日にはイギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]に拝謁している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=177}}。8月24日に東京に帰還し、洋行中に建造されていた[[駿河台]]の新邸に入った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=178-180}}。また9月には興津に[[住友家]]の資金で建設された別荘、「[[坐漁荘]]」が竣工した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=194}}。これ以降西園寺は一年の四分の三を興津で暮らし、駿河台の本邸に入るのは政治的な用事があるときのみであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=194}}。一年後の大正9年(1920年)9月7日には講和会議の功績で[[公爵]]に陞爵した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=180}}。 |
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=== 最後の元老に === |
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[[File:Matsumoto Gokichi.jpg|thumb|180px|大正10年(1921年)から昭和初期まで西園寺の私設秘書を務めた[[松本剛吉]]]] |
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大正9年(1920年)10月に問題化した、皇太子[[昭和天皇|裕仁親王(昭和天皇)]]妃候補であった、[[久邇宮]][[香淳皇后|良子女王(香淳皇后)]]をめぐる問題([[宮中某重大事件]])で、西園寺は当初良子女王の皇太子妃辞退に持ち込もうとする山県に同調していたが、事態が不利になると問題から距離を取った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=183-184}}。問題の終結後、山県と松方も辞表を提出することになり、宮中問題における二元老の発言力は低下した。このため原首相と西園寺の宮中に対する影響力が増加することになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=183-187}}。 |
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しかし大正10年(1921年)11月4日に原首相が[[東京駅]]で暗殺された([[原敬暗殺事件]])。京都の清風荘でその報を受け取った西園寺は上京した。推薦のために召された山県と大隈は病気のために拝謁を行わず、西園寺は小田原で静養している山県の元を訪れて協議した。この時山県は西園寺の首相就任を進めたが、西園寺は「私はあなたより年が若い。あなたは私より先に死せられるると思ふ。其の時はあなたに代わり宮中の事をお世話申す。それ故請けられぬ。」と拒絶した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=111}}{{sfn|永井和|1997|pp=111}}。西園寺はその後[[平田東助]]を推薦しようとしたが断られ、平田の提案もあって後継首相として政友会の[[高橋是清]]蔵相を推薦した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=112}}。結果として[[政党内閣]]が存続することになったが、西園寺は当時「政友会の内閣と云ふも、政友会内閣に非ず、陛下の内閣と思ふ。」と考えており、政党内閣が絶対に必要と考えていたわけではなかった{{sfn|伊藤勲|1986|pp=112}}。 |
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大正11年(1922年)2月、山県が病死した。山県は死の直前に自分の私設秘書であった[[松本剛吉]]に、西園寺の元に仕えるよう命じた。これは山県が西園寺を後継者と認識していたためであり、以降松本は西園寺の元に政治情報を伝える役割を担うことになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=192-193}}。西園寺自身も「山公薨去後は松方侯は老齢でもあり(中略) 自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山県の後継者であることを意識していた{{sfn|永井和|1997|pp=111-112}}。以降興津の坐漁荘には、政官界の大物が「興津詣」を行うようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=195}}。この年に御殿場の別荘が完成し、7月下旬から9月中旬までの間避暑に訪れるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=194-195}}。しかし同年6月、[[高橋内閣]]が政友会の内紛で倒れたときには、宮内大臣牧野伸顕が松方と連携し、[[加藤友三郎]]を後継首相に選定した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=198}}。この動きを西園寺は把握しておらず、牧野を薩摩派として警戒するようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=198}}。大正12年(1923年)8月、加藤首相の病状が悪化し、松方も体調が悪化していたため「万事を西公(西園寺)に一任する」こととなった{{sfn|伊藤勲|1986|pp=114}}。西園寺は牧野と協議し、今後は元老以外の者と相談せずに[[摂政]](裕仁親王)に後継首相候補を伝えること、摂政からのご下問に答える方式についての確認を行った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=199}}。8月24日、加藤首相が病死すると、西園寺は「切腹する覚悟」までして{{sfn|伊藤勲|1986|pp=114}}、山本権兵衛元首相を首相に推薦した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=114}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=199}}。 |
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12月29日、[[虎ノ門事件]]の責任を取って[[第2次山本内閣]]が総辞職すると、西園寺が主導権を握って[[清浦奎吾]]を後継首相に推薦した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=116}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=199}}。政党に基盤を持たない清浦の推薦は立憲政治を期待する人々からの非難を受け、「元老の名誉は地の底に落ちた」「(西園寺は)天下の怨府」となったと評された{{sfn|伊藤勲|1986|pp=117}}。しかし西園寺は次の選挙([[第15回衆議院議員総選挙]])のために中立的な内閣が必要であると考えており、貴族院を主体とした[[清浦内閣]]に一種の[[選挙管理内閣]]としての存在をもとめたためであった{{sfn|伊藤勲|1986|pp=116-119}}。しかし清浦内閣は[[超然主義]]的な政治運営を行ったため、各政党が反清浦で団結する[[第二次護憲運動]]を呼び込むこととなった。このため選挙での清浦派の敗北はあきらかであり、投票前日の1924年(大正13年)5月9日に清浦首相は辞意を伝えていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=200}}。 |
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西園寺はこの選挙結果に「何処の国でも政府を握れば選挙干渉位はやるのが当り前のことだ、此政府ののろまさ加減、特に[[山本達雄 (政治家)|山本]]、[[床次竹二郎|床次]]、[[水野錬太郎|水野]]と来たら話にならないなあ」と言って笑った{{sfn|小山俊樹|2012|pp=79}}。西園寺は議会で多数派を握れないからといって清浦首相が辞任する必要はないとして清浦内閣の存続を促すような意見を伝えているが、これは[[護憲三派]]([[憲政会]]、政友会、[[革新倶楽部]])を団結させるために敵としての清浦首相が必要であると考えていたためであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=201-202}}。清浦内閣は選挙後も存続したが、護憲三派の結束を崩すことはできず6月7日に総辞職した。当時、後継首相は最大会派の憲政会総裁加藤高明となることは確定的であったが、一部には政友会総裁の高橋是清とあわせた二人に大命を降下させることも検討されていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=202}}。西園寺は加藤単独への大命降下を考えており、[[勅使]][[徳川達孝]][[侍従長]]に即答で加藤を奉答している{{sfn|伊藤勲|1986|pp=120}}。松方にも下問があったが病気が重篤であったために辞退され、同じく下問をうけた平田内大臣も、西園寺との事前の打ち合わせ通り加藤が適当であると奉答している{{sfn|伊藤勲|1986|pp=121}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=203}}。西園寺は後年、加藤を[[大久保利通]]、[[木戸孝允]]、伊藤博文とならべて「一角の人物であった」と評価している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=208}}。こうして[[加藤高明内閣]]が成立した。 |
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7月2日に松方が死去すると、西園寺はただ一人の元老となった。山県の死後、牧野宮相や松方によるご下問の範囲を山本権兵衛や清浦奎吾に拡大し、元老を再生産しようという動きや、枢密院が諮問範囲に加わるように求める動きはあったが、西園寺はその動きを認めなかった{{sfn|永井和|1997|pp=113-120}}{{sfn|小山俊樹|2012|pp=76}}。病中であった平田内大臣も当分は西園寺一人に首相推薦の任に当たってもらうほか無く、「元老は西園寺公を限りとし、将来は置かぬが宜し。原が居れば別だが、種切れなり」と考えていた{{sfn|永井和|1997|pp=126}}。平田の意見を聞いた西園寺も「平田伯の所説は尤もと思ふ、それは自分の決心し居る処で、世間で何と云はうと,自分は皇室に身を捧げ居る積りゆえ、ご下問等の場合は一人で、御答へ申し上ぐる決心なり」とその意志を明らかにした{{sfn|永井和|1997|pp=126}}。平田が辞任した後に牧野が内大臣となり、牧野の後任の宮内大臣には西園寺の推す[[一木喜徳郎]]が就任している。大正15年10月(1926年)、西園寺は首相推薦は元老の他に内大臣にも下問があり、西園寺亡き後は内大臣が勅許を受けた上で他の人と相談して行うという方式をとることを確認させている{{sfn|永井和|1997|pp=132-136}}。吉野作造は西園寺が元老を自分の代で自然消滅させようとしていると観察し、[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]、[[馬場恒吾]]、[[升味準之輔]]といった研究者たちもそう見ている{{sfn|永井和|1997|pp=113-114}}。 |
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=== 憲政の常道 === |
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{{see also|憲政の常道}} |
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[[ファイル:Saionji in kimono.jpg|thumb|200px|[[坐漁荘]]にて]] |
[[ファイル:Saionji in kimono.jpg|thumb|200px|[[坐漁荘]]にて]] |
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護憲三派の憲政会と政友会の対立は徐々に激化し、1925年(大正14年)4月1日に高橋是清が政友会総裁を辞任し、[[田中義一]]が総裁になるとその動きはいよいよ加速した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=122}}。7月1日にはついに[[第1次加藤高明内閣]]は崩壊し、加藤首相は辞表を摂政宮裕仁親王に奉呈した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=122}}。裕仁親王は西園寺に諮問したが、西園寺は「(今回の政変は)左程の事にあらざる」として、上京しなかった{{sfn|伊藤勲|1986|pp=122-123}}。西園寺は坐漁荘に牧野内大臣と一木宮内大臣を呼び、あらためて加藤への大命降下を求めた。牧野も同意見であり、8月1日に憲政会単独の[[第2次加藤高明内閣]]が成立した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=123}}。 |
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しかし翌1926年(大正15年)1月21日、帝国議会の質疑中に加藤首相が発病し、そのまま1月28日に死亡した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=123-124}}。憲政会は後継総裁として[[若槻禮次郎]]内相を選出した。西園寺は若槻を「首相の器に非ず」と見ていたが{{sfn|伊藤勲|1986|pp=125}}、「議会中のことなり、前年原の例もありし故、此際は仕方ない」として若槻を首相に推薦した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=124}}。5月には[[西田税]]らが牧野内大臣らの金銭スキャンダルを書いたパンフレットをばらまく事件が起きたが、西園寺は[[平沼騏一郎]]枢密院副議長との会談で婉曲に牧野を支援する姿勢を示し、事件を終息させている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=213-214}}。 |
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西園寺は明治の元勲に一世代遅れて、大正天皇即位のときに元老に列せられている。これを最後に新たな元老が指名されることはついになく、大正13年([[1924年]])に[[松方正義]]が死去すると西園寺がただ一人の元老となった。これ以後、内閣総理大臣奏薦は西園寺が[[内大臣府|内大臣]]との協議により行うこととなった。 |
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12月に大正天皇が崩御し、[[昭和]]元年となった。[[12月28日]]、[[践祚]]直後の[[昭和天皇]]は[[閑院宮載仁親王]]、首相若槻礼次郎、そして西園寺に「匡輔弼成(天皇を助ける)」事を命じる勅語を下している{{sfn|永井和|1997|pp=112-113}}。翌1927年(昭和2年)に[[第1次若槻内閣]]が崩壊すると、昭和天皇は牧野内大臣を通じて西園寺に下問を行った。勅使となった[[河井彌八]]侍従次長は、牧野内大臣が「[[憲政の常道]]」に従って第二党の政友会総裁である田中義一への大命降下が適当だと考えているという事を伝え、西園寺も同意見であると述べ、田中義一に大命が降下した{{sfn|伊藤勲|1986|pp=125}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=222}}。 |
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[[昭和]]元年([[1926年]])[[12月28日]]、[[践祚]]直後の[[昭和天皇]]は西園寺に対し特に勅語を与え(「大勲位公爵西園寺公望ニ賜ヒタル勅語」)、これにより、西園寺は「最後の元老」として引き続き内閣総理大臣奏薦の任に当たることが制度上確定、昭和15年([[1940年]])1月の[[米内内閣]]までは何らかの形で首班推奏に関与し続けることになる([[第2次近衛内閣]]については奏薦を謝絶している)。 |
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==== 満州某重大事件 ==== |
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昭和3年([[1928年]])、[[張作霖爆殺事件]]の顛末の報告に対し、最初に不審を抱いたのが西園寺であった。西園寺は陸軍の仕業であることに気づき、静岡県[[興津]]より上京して首相・[[田中義一]]を呼びつけ、政府としてこの問題をしっかり調べ、もし犯人が日本人であるならば厳罰に処す必要があることを申し渡している。この件に関して田中も、国際的な信用を保つために容疑者を[[軍法会議]]によって厳罰に処すべきとの考えを示したが、一向に実行にいたらないので西園寺は再び調査と報告を急かしている。そのいっぽうで、昭和天皇が田中を「もう田中の話は聞きたくない」と叱責したことについては、[[立憲君主制|立憲君主]]の立場からすればふさわしくないとして、天皇を諫めている。 |
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{{see also|張作霖爆殺事件}} |
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田中は首相就任後に大規模な内務省官僚の人事異動を行い、昭和天皇の不興を買った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=222}}。昭和天皇は牧野内大臣に対して、田中首相に注意してよいかと質問した。牧野は西園寺を通じて田中首相に警告させる方式を考えたが、西園寺は天皇が官僚の移動にまで関与することを好ましく思っておらず、田中には軽く伝える程度にしておいた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=224}}。しかし結局牧野が天皇の意向を田中首相に伝え、8月30日に田中が天皇に謝罪するに至っている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=224}}。 |
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昭和3年([[1928年]])6月4日、[[関東軍]]の参謀[[河本大作]]大佐による[[張作霖爆殺事件]]が勃発した。西園寺は7月か8月の時点で犯人は関東軍参謀であることを察知し、田中首相に対して断乎とした処罰を行うよう勧告した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=239}}。西園寺に影響された田中首相は12月24日、犯人は日本陸軍のものであり、犯人を厳罰に処する方針を天皇に奏上していたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=239}}、閣内や陸軍の圧力に敗れ、徐々に軟化していった。昭和天皇はこの方針が不満であったが、陸軍全体の意向に反対する形の処置は後継内閣すら作れない事態を招くことになり、田中首相に何らかの責任を取らせるべきだと考えるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=240-241}}。昭和4年([[1929年]])6月27日、田中首相が事件の最終報告を奏上することになると、昭和天皇と牧野内大臣、一木宮内大臣、[[鈴木貫太郎]]侍従長らは、田中首相を問責する意向を固め、西園寺に内々で相談した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=241-242}}。牧野は西園寺が賛成すると考えていたが、西園寺は問責の言葉が田中首相の辞任につながると反対した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=241-242}}。結局天皇と牧野らは西園寺の意見に従わず、田中首相を問責した上で、釈明のための拝謁を拒絶するという行動に出た{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=242}}。田中首相は辞任を決意し、閣僚や政府内、軍の強硬派による牧野ら宮中グループに対する反感は強まり、昭和天皇は宮中グループに左右される弱い存在であるという認識が持たれるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=243-246}}。西園寺は中立的な調停者の立場をとるために、次第に事件処理問題からは距離を取っていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=239-240}}。事件の公表に反対し、牧野らを批判する[[小川平吉]][[鉄道大臣]]と面会したときにも「師父」と形容される程信頼を持たれるよう対応していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=243-244}}。 |
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昭和11年([[1936年]])の[[二・二六事件]]事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していたが、実行されなかった。襲撃を主張する者は元老西園寺を「君側の奸」の最たるものと見なしていたのに対し、否定派は西園寺を天皇とのパイプとして利用することを表向きの口実としていたとも言われる。当時西園寺は腸の不調と神経痛があって興津の別邸にいた<ref>『西園寺公と政局 第五巻』pp.1-9</ref>が、事件の一報が入った後は[[静岡県警察部|静岡県警察]]部長官舎に移り、5日後の3月2日まで上京することができなかった。 |
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==== 民政党内閣期 ==== |
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[[二・二六事件]]の責任をとって総辞職した[[岡田内閣]]後の混乱を収拾すべく、西園寺は秘蔵っ子の貴族院議長・[[近衛文麿]]を後継首班に推奏するが、本人は病気を理由に固辞、やむなく外務大臣・[[広田弘毅]]を推奏した。 |
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{{see also|ロンドン海軍軍縮会議}} |
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西園寺は田中の後任として、「憲政の常道」に従い、[[民政党]]総裁の[[浜口雄幸]]を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=243-248}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=127}}。昭和5年(1930年)に[[ロンドン海軍軍縮会議]]が開催されることになると、西園寺は条件にこだわらず条約を成立させるべきと考えており、浜口首相や牧野・一木・鈴木らの宮中グループにその意見を伝えている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=250}}。[[幣原喜重郎]]外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、この頃西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=251-252}}。西園寺は高熱でうなされながら「軍縮」「イタリー」「フランス」とうわごとを言い、目が覚めると「軍縮はどうなりましたか」と秘書の[[原田熊雄]]男爵に問いかけるほどだった。原田が条約は成立する見込みだと伝えると、「それで安心しました」と安堵を示したという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=252-253}}。病が癒えた後、ロンドン条約の[[批准]]に対して枢密院が反対の意志を示すと、西園寺は内閣によって枢密院議長と副議長を更迭してもいいと激励している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。結局ロンドン条約は無事批准されたが、条約に不満を持つ海軍内の強硬派や枢密院の宮中グループと民政党に対する不満はさらに募った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。西園寺に対しても不満を持つ者も現れたが、この時点ではまだ、強硬派にとっても調停者としての権威を保持し続けていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=259}}。 |
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11月、浜口首相が東京駅で狙撃され、病状が悪化して昭和6年(1931年)4月に総辞職すると、西園寺は民政党の後継総裁となっていた若槻を再び推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=262}}。西園寺は政友会に人気が無く、中間内閣にも適当な人がなく、また暗殺を奨励することに成りかねないとして民政党内閣の存続を決めている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=128-129}}。この頃、西園寺邸によく出入りしていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=260-261}}[[宇垣一成]]陸軍大将を担いだクーデター未遂事件、「[[三月事件]]」が発生した。8月に事件を知った西園寺は、参謀総長閑院宮載仁親王や[[秩父宮雍仁親王]]に話して事件の元兇である[[二宮治重]]参謀次長らを更迭しようと考えたが、西園寺に近い原田や近衛、牧野らは陸軍を刺激することを怖れ、結局報告は行われなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=264}}。 |
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東京[[駿河台]]の本邸の他に、静岡県[[御殿場町]]の便船塚別荘、同じく静岡県興津の[[坐漁荘]]、京都の清風荘の各別荘に隠棲し、元老として重きをなした。最晩年になると、避暑のために御殿場に滞在する以外は、年の大半を冬期が温暖な坐漁荘で過ごしている。 |
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9月18日に[[満州事変]]が発生すると、西園寺は原田に対し、事件の片がつくまでは若槻首相を決して辞めさせてはならないと牧野内大臣と鈴木侍従長に伝えるよう命じた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=268}}。また陸軍が越境に関して奏上してきた場合には、天皇は即時に許さず、後で処罰が行えるようにしておくべきだとも伝えている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=268}}。しかし西園寺の意見が伝わる前に陸軍は上奏を行い、昭和天皇が陸軍に処分を下す機会を逃してしまった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=269}}。さらに若槻首相が陸軍に妥協的になったため、満州事変の拡大を防ぐことはできなくなってしまった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=270}}。若槻内閣は事変を収拾することもできず、[[安達謙蔵]]内相が政友会との「協力内閣」の成立を唱えたために民政党も混乱に陥り、12月11日に若槻内閣は総辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=271}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=129}}。 |
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昭和12年([[1937年]])、組閣大命を受けた[[宇垣一成]]の組閣が軍部の反対により失敗すると、西園寺は元老辞退を申し出た。元老拝辞はならなかったものの、内閣総理大臣奏薦は内大臣主導で行い、西園寺がそれを追認する形式となった。 |
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12月12日、西園寺は上京し、牧野・一木・鈴木と相談し、政友会総裁の[[犬養毅]]を推薦することで一致した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=272-273}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=129}}。西園寺は後に「事情已むを得なかったし、また当然なこととも思っている。」と語っている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=130}}。こうして翌12月13日に[[犬養内閣]]が成立した。 |
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同年の[[第1次近衛内閣]]成立以降は次第に政治の表舞台から退き、反対し続けた[[日独伊三国軍事同盟]]成立の2ヶ月後の昭和15年([[1940年]])[[11月24日]]に死去した。享年92(満90歳没)。贈従一位。 |
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当時の政治評論家[[馬場恒吾]]が犬養内閣の成立に当たって、西園寺が「憲政の常道を守った」と評価したように{{sfn|伊藤勲|1986|pp=130}}、この時期の西園寺は「憲政の常道」に従って、衆議院の第2党から後継首相を推薦していた。このため吉野作造のように「まごう方なき政党内閣論者なることは明白である」と評価する者もいるが{{sfn|永井和|1997|pp=149}}、伊藤隆、升味準之輔といった研究者は、西園寺が「其時の模様にて中間内閣も己むを得ざることあるも計り難し」と語って中間内閣の可能性を常に忘れていなかったと指摘している{{sfn|永井和|1997|pp=149}}。[[桜内幸雄]]は、西園寺が衆議院だけでなく貴族院会派も憲政の内であると認識していたと指摘している{{sfn|小山俊樹|2012|pp=74}}。憲政の常道についても西園寺は高橋是清内閣の崩壊時に「憲政の常道又は純理論等は分らぬ議論」で政権を要求する憲政会を批判している{{sfn|小山俊樹|2012|pp=42-43}}。ただし[[伊藤之雄]]は、この時期の元老や内大臣が、憲政の常道論を受け入れていたことを指摘している{{sfn|永井和|1997|pp=150}}。 |
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最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる。期待していた[[近衛文麿]]に離反され、首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。 |
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=== 政党内閣の終焉 === |
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昭和16年([[1941年]])には近衛内閣のブレーンを務める孫の[[西園寺公一|公一]]が、[[ゾルゲ事件]]に関与したとして逮捕されている。 |
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{{see also|五・一五事件}} |
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軍部は[[満州国]]を建設して事変の権益を確保し続けようとした。西園寺は上京して満州国承認を認めてはならないと犬養首相らに働きかけていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=274-275}}、昭和7年(1932年)5月15日、犬養首相は[[五・一五事件]]によって暗殺された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=275}}。陸軍は政党内閣の成立に猛反発しており、政党内閣には陸軍大臣を出さないと参謀本部第二部長[[永田鉄山]][[少将]]が言明しているなど、内閣が成立すらできない可能性が極めて高かった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=276}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=133-134}}。また[[森恪]]内閣書記官長らは平沼騏一郎枢密院副議長による内閣を企図していたが、彼は[[ファシズム|ファシスト]]的な革新派の一員であった。昭和天皇は西園寺に「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と鈴木侍従長を通じて伝えており、西園寺も同意見であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=277}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=135-136}}。西園寺は牧野内大臣ら、高橋臨時首相代理や若槻民政党総裁といった政治家、陸海軍の[[元帥 (日本)|元帥]]、平沼に親しい[[倉富勇三郎]]枢密院議長とも面談した上で、5月23日に海軍大将の[[斎藤実]]元海軍大臣を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=277-278}}{{sfn|伊藤勲|1986|pp=136}}。西園寺は斎藤が政党でも強硬派でもない中間的な存在であり、「何もなさず、ただ四方に刺激を与えない」存在であることを祈っていた{{sfn|伊藤勲|1986|pp=138}}。西園寺は「このたびは随分骨が折れた」と述懐したが{{sfn|伊藤勲|1986|pp=136}}、平沼や陸海軍の強硬派らが持っていた、西園寺の中立性に対する信頼は大きく損なわれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=279}}。この事件の後、坐漁荘には鉄筋コンクリート造りの書庫が建てられたが、万一の際の避難用であったと見られている{{sfn|伊藤勲|1986|pp=195}}。 |
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=== 揺らぐ権威 === |
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満州事変以降、[[中国大陸]]における日本軍の活動はいよいよ拡張的となった。西園寺は[[リットン調査団]]の報告書に批判的な新聞報道に不快感を示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=284}}。西園寺は国際連盟脱退には反対であったが、内外の情勢から脱退は不可避であると考えるようになった。このため国際連盟脱退に関する元老への諮問や重臣会議の開催を行わせないようにし、せめてその権威失墜を防ごうとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=286}}。昭和7年(1932年)8月から、首相推薦の仕組みを変更することが検討された。昭和8年(1933年)2月28日、最初に内大臣に下問があり、内大臣は元老に下問するよう奉答し、元老は判断によって内大臣や枢密院議長、そして首相経験者である重臣と討議するという方式が決定された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=287-288}}。 |
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その頃牧野内大臣や一木宮内大臣に対する軍部からの攻撃は強まり、健康を害したこともあって二人は辞意を漏らすようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=289}}。昭和9年(1934年)に反西園寺派の倉富枢密院議長が引退すると、西園寺はその後任に一木を就任させ、後任の宮内大臣には[[湯浅倉平]]を就任させた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=289}}。倉富が後任としようとし、ゆくゆくは首相となることをねらっていた平沼を、西園寺は要職に就けるつもりはなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=289-291}}。斉藤内閣崩壊の原因となる[[帝人事件]]は、平沼の策動によるものであった。 |
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5月に斉藤首相が辞意を固めると、斎藤は後継首相として[[岡田啓介]]海軍大将が適当であると西園寺に推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=291}}。この人選には牧野内大臣や湯浅宮内大臣も同意していたが、西園寺はもうすこし頑張ってほしいと伝えた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=291}}。しかし7月3日、[[斉藤内閣]]は総辞職した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=291}}。西園寺は当時体調を崩していたが、7月4日に上京し、内大臣および重臣と協議した結果、岡田が適当であると上奏した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=292-293}}。 |
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西園寺は中立的な立場を取ることを意識していたが、しだいに国粋派からの憎悪を買うようになっていた。青年将校によるクーデターの対象にも加えられ、新聞には西園寺に対するテロ未遂事件が取り上げられるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=293}}。坐漁荘に派遣される警官も2名増員され、警備が強化されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=293}}。一木枢密院議長が体調を崩し、岡田首相も[[天皇機関説]]問題などで窮地に立つ中、西園寺は二人を「死ぬまでやったらいいじゃないか」と激励している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=297}}。機関説問題では西園寺も批判の対象となり、「元老重臣の大謀叛」という怪文書がまかれ、在郷軍人会の代表が坐漁荘を訪れる程であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=297}}。12月26日には牧野内大臣がとうとう辞任し、西園寺は後任に斎藤前首相を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=298}}。岡田首相は近衛文麿が人心一新の点から好ましいと考えていたが、西園寺は首相を経験してからがよいと考えていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=298}}。 |
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=== 二・二六事件 === |
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{{see also|二・二六事件}} |
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[[ファイル:saionji coming back from the palace cropped.jpg|thumb|200px|[[1936年]][[3月4日]]、[[宮内省]]を退出して定宿としていた麻布の住友別邸に戻る西園寺]] |
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昭和11年([[1936年]])の[[二・二六事件]]事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していた。[[対馬勝雄]]・[[竹島継夫]]らをはじめとする将校が、[[愛知県]][[豊橋市]]の[[陸軍教導学校]]の生徒120人を使って坐漁荘を襲撃する予定であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=299}}。しかし将校の一人が生徒を利用することに反対したため、襲撃計画は中止された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=299}}。 |
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2月26日の午前6時半、秘書の[[中川小十郎]]が事件の報告に訪れた。西園寺は顔色一つ変えず、「またやりおったか、困ったものだ」とつぶやいた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=300}}。坐漁荘の警備には80名が増員され、側近たちは田舎に避難するよう勧めたが、西園寺は連絡が取れない場所に移っては、天皇からの下問に答えられないと拒否ししたため、[[静岡県警察部|静岡県警察]]部長官舎に移ることになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=301}}。しかし暖房設備がなかったため、さらに知事公舎に移った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=301}}。西園寺は始終笑顔を振りまき、晩酌を楽しむなど落ち着いたものであり、東京の情勢が落ち着いたという報告を受けた2月27日には、どうせ死ぬなら坐漁荘がよいということで坐漁荘に戻ることになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=301-302}}。しかし西園寺が信任する斎藤内大臣が殺害、鈴木侍従長が重傷を受けたことは西園寺にとって大きな打撃となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=302}}。湯浅宮内大臣と一木枢密院議長は後継の内大臣として近衛文麿貴族院議長を推薦し、西園寺もこれを考慮していたが、近衛は病気と称して辞退した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=302-303}}。西園寺は湯浅宮内大臣を内大臣にする案を考えたが、天皇から勅使派遣ではなく、電話にて西園寺の上京が求められた。西園寺は当時ひどい腰痛と腹痛に悩まされており、しばらく上京を猶予してほしいと述べ、病状が安定した3月2日に上京した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=304-305}}。 |
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西園寺は上京した直後に参内し、湯浅宮内大臣、一木枢密院議長、[[木戸幸一]]内大臣秘書官長と協議した。一木は平沼を推薦したが、西園寺は近衛が適任だと思っており、木戸もこれに同意した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=302-305}}。3月4日、西園寺は宮内省に近衛を呼んで首相就任を求めたが、近衛は病気を理由に辞退しようとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。近衛の本音は「元来重臣と自分は考えが違う」ため、[[革新派]]と元老の板挟みになることを嫌ってのことであった{{sfn|伊藤勲|1986|pp=144}}。しかし西園寺は近衛を推薦し、同日午後4時に近衛に対して組閣の大命が下った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。近衛は病気を理由に大命を拝辞し、西園寺らは再び後継首相の協議を行うことになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=306-307}}。その日の夜、一木が外務大臣[[広田弘毅]]を提案し{{sfn|伊藤勲|1986|pp=145}}、西園寺らもこれに同意した。木戸と近衛、[[吉田茂]]らが広田を説得し{{sfn|伊藤勲|1986|pp=145-146}}、3月5日に広田に大命が下って3月9日に[[広田内閣]]が発足した。また湯浅宮内大臣が内大臣に、[[松平恒雄]]が宮内大臣となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=307}}。 |
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近衛は若い頃から西園寺の側におり、西園寺も前途に期待をかけていた。しかし近衛は満州事変頃から西園寺と思想を違えて陸軍や革新派に近づいていった{{sfn|伊藤勲|1986|pp=144}}。西園寺は近衛の事件後の動きや陸軍に同調するような言動を取るようになったことを惜しみ、「なんとか近衛を地道に導く方法はないだろうか」と考えるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=308}}。また3月13日には一木枢密院議長が辞任したことにより、西園寺が拒み続けていた平沼が枢密院議長に就いた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=309}}。西園寺は「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないものだね。」と諦観にも似た感想を漏らしている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=310}}。 |
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=== 元老の退場 === |
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昭和12年([[1937年]])1月23日、広田内閣は陸相[[寺内寿一]]の辞任によって崩壊した。湯浅内大臣と松平宮内大臣は平沼枢密院議長の意見を聞いた上で即日坐漁荘に連絡を取ったが、西園寺は平沼の意見を取り入れる気はなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=310-311}}。西園寺が風邪をひいていたため、坐漁荘を湯浅内大臣が訪れ、協議を行った。西園寺はこの席で宇垣[[予備役]]陸軍大将が軍部を押さえられると思って推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=311-312}}。しかし陸軍は宇垣の組閣に反対し、陸軍大臣を出すことを拒否した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=313}}。宮中も強力な手段をとって宇垣に協力することは困難であると認識し、宇垣は大命を拝辞することになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=312-315}}。1月29日、再び湯浅内大臣が坐漁荘に派遣された。西園寺と湯浅は平沼枢密院議長を第一候補とし、第二候補として[[林銑十郎]]予備役陸軍大将を挙げた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=315-316}}。平沼が辞退したため、林が大命を受け、林内閣が成立した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=315-316}}。西園寺は宇垣組閣の失敗に落胆し、二度目に坐漁荘を訪れた湯浅に対し、「天皇に拝謁することもできず、また人も知らない」として、天皇の下問と奉答を辞退したい意向を述べた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=316}}。しかし湯浅内大臣や木戸[[宗秩寮]]総裁はこれを受け入れなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=316}}。 |
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5月31日、[[第20回衆議院議員総選挙]]での敗北によって林内閣が総辞職すると、西園寺に再び下問が行われた。候補としては[[杉山元]]陸軍大臣も挙がっていたが、この際は近衛を推すことに決めた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=318}}。近衛内閣の外相には当初[[永井柳太郎]]が挙がっていたが、西園寺らが難色を示したために広田元首相が外相となることになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=319}}。[[第1次近衛内閣]]成立以降、西園寺は「近衛内閣の評判も割合悪くないようじゃないか」と機嫌をよくしていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=319}}、7月7日に起こった[[盧溝橋事件]]によって心を痛めるようになった。西園寺は「こうちょいちょいいろんなことを[[支那]](中国)でやると結局非常な損害を蒙る。思わぬところに国を持って行かれちゃあ困る。」「支那人(中国人)だって日本人より利口な人もおり、また支那人だけでなく外国人で日本の肚を見透かしているものもいる。」「よほど日本もしっかりやらないと、みんなから馬鹿にされることになる」と危惧していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=320}}。また新聞が「断乎一蹴」「断乎一撃」などの言葉を使い、「さかんに人を殺したり、その数が多ければ多いほど褒め称える」風潮についても懸念を示していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=322}}。近衛についても、大陸の戦局の見通しなどについて危惧を持っていたが、希望は捨てきれないでいた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=321-322}}。昭和13年(1938年)5月23日、広田外相の後任として宇垣の名が上がったが、西園寺は首相候補である宇垣に傷をつけてはいけないと反対している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=324-325}}。しかし近衛は宇垣を外相とし、西園寺の意向を無視している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325}}。西園寺は近衛には同情していたものの「今の政府のすることは矛盾だらけ」と批判的であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325}}。10月下旬になって近衛が首相を辞任し、内大臣に移りたいという意向を示すようになると「筋が通らない」として反対し、陸軍の支持が厚い近衛が宮中に影響力を持つようになることを防ごうとした{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=325-326}}。 |
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昭和14年(1939年)1月4日、近衛内閣は総辞職した。湯浅内大臣は坐漁荘を訪れて協議したものの、「自己の責任」において平沼枢密院議長を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=328}}。これ以降首相の推薦は内大臣が行い、一応元老の意見も聞くという形になった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=333}}。西園寺はこの頃から「報告を受けるだけ」{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=328}}、何も反応しないという状態になり、「どうも何をやっているんだか。内政も外交も自分にはもうちっとも判らない」「日本人の程度がまだまだ低い。やはり到底外国人には及ばない」と気力を無くしていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=331}}。影響力もはっきり低下し、平沼内閣が辞職して後継首相を決める際に「捨て身でやってほしい」と述べ宇垣や池田成彬の名を上げたものの、結局湯浅内大臣や近衛によって[[阿部信行]]陸軍大将が候補となり、西園寺もこれに同意を与えた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=332-333}}。 |
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昭和14年(1939年)2月以降、西園寺はたびたび体調を崩し、昭和15年(1940年)の夏には恒例となっていた御殿場の別荘への避暑も行わず、坐漁荘の居室に冷房設備を取り付けた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=337}}。西園寺は死期を悟り、親しい人物に形見分けとして金銭を贈った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=337-338}}。7月16日に[[米内内閣]]が崩壊し、後任に近衛が推薦される動きとなった。7月17日に西園寺のもとを内閣秘書官長が訪問して、同意が求められたが、西園寺は「この奉答だけは御免蒙りたい」として奉答を拒絶した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=338-339}}。西園寺は「今頃、人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れな者じゃあ駄目だね」「踏みとどまってもやるだけの決心があるか」と近衛の資質に対して疑念を持っていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=338-339}}。[[第2次近衛内閣]]では反対し続けた[[日独伊三国軍事同盟]]が成立し、「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」と嘆いている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=339-340}}。 |
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11月、西園寺は腎盂炎を発症し、それ自体は完治したものの[[11月24日]]午後9時54分に衰弱に耐えられずに死去した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=340-341}}。享年92(満90歳没)。贈従一位。西園寺は「俺は死んでも坊主や神主の世話にはならぬ」として、国葬も辞退したい意向を持っていたが{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=321}}、結局日比谷公園で壮大な国葬が行われた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=341}}。数万人が参加し、同日に公開された坐漁荘にも8000人の参観者が訪れた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=341}}。 |
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{{要出典範囲|最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる|date=2014年11月}}。 |
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== 政治家としての西園寺 == |
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西園寺は聡明で国際的な視野を持ち、学識が深く、文化的にも洗練された人物であるという評価が大勢である{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=343}}。また民主主義の潮流についても支持していたが、一方で大衆の熱狂には批判的であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=348}}。 |
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またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから[[国家主義]]に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。また『[[原敬日記]]』の記述から、西園寺は権力への執着が乏しく、政治的な手腕がなかったという見方をされることもあるが、伊藤之雄などのように円熟した政治的手腕を持っていると評価する研究者もいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=343-344}}。西園寺は冷淡で物事に淡泊であるというイメージを、秘書である松本剛吉からも抱かれていたが、これは中立的な人物であることを認識させるため、西園寺自らが広めたイメージである{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=344-345}}。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]在任中に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。 |
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西園寺は[[立命館大学]]に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった[[藤原氏]]の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは[[田中義一]]が[[張作霖爆殺事件]](満州某重大事件)の上奏の不一致を[[昭和天皇]]に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、国粋派や[[革新派]]の反感をも招いた。 |
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=== 協調外交 === |
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西園寺は明確な国際協調派であり、口癖のように「世界の大勢」と唱えていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=93}}。ある時、西園寺が[[三条実万]]の伝記である絵巻物を執筆して明治天皇に献上した。天皇は「必ず世界の大勢から書いてある」と予想し、果たしてその通りであったため大笑いしたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=93}}。西園寺は陸奥との交流でこうした外交思想を固め、「東洋の盟主たる日本」などという狭い気持ちではなく、「世界の日本」に着目してきたと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=92}}。 |
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[[日清戦争]]後から台頭した過度な日本中心主義的ナショナリズムについては危惧し{{sfn|張智慧|2005|pp=56}}、他国のナショナリズムを尊重した上で、国民が国の独立と発展のために力を合わせる健全なナショナリズムを志向していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=39}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=347-348}}。 |
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国際関係においてはイギリスやアメリカと協調するべきと考えており、「フランスやイタリアと一緒になっても日本の進展はない」と断じていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=284}}。 |
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=== 政治手法 === |
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原敬は政友会総裁としても首相としても手腕に欠けていたと評している{{sfn|伊藤勲|1986|pp=105}}。しかし元老時代の西園寺は、[[田中義一内閣]]崩壊時の小川鉄相に対する態度のように、各派にバランスを取り、いずれに対しても中立的な存在と認識されることでその権威と影響力を保った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=243-244}}。この態度を[[三浦梧楼]]は「政友会員に面会すれは三派連合(護憲三派)を称し、[[政友本党]]員に逢へは本党を称し、何等の定見もなく、元老の資格なし」と批判している{{sfn|小山俊樹|2012|pp=79}}。しかし斉藤内閣成立以降は次第に強硬派から疎まれるようになり、倉富枢密院議長や平沼枢密院副議長からはその引退や死を望まれるようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=279,284}}。 |
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=== 宮中との関係 === |
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西園寺は一貫して天皇が直接政治に関与して、権威を低下することを防ごうとしていた。このため昭和天皇の政治関与の動きにはたびたび懸念を示している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=224}}。しかし近衛内閣の頃からは次第に皇室による意志を示す必要があるとも考えており、直宮(天皇の兄弟)がその柱の一つになる必要もあると発言している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=324,328-329}}。 |
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== 西園寺と教育 == |
== 西園寺と教育 == |
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[[ファイル:Saionji Kinmochi Stone Memorial.JPG|thumb|200px|立命館大学衣笠キャンパスの西園寺記念碑と山梔子・南天竹]] |
[[ファイル:Saionji Kinmochi Stone Memorial.JPG|thumb|200px|立命館大学衣笠キャンパスの西園寺記念碑と山梔子・南天竹]] |
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[[ファイル:Stone Lantern Prince Saionji used to own (Ritsumeikan Univ, Kyoto, Japan).JPG|thumb|200px|[[立命館大学]][[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]庭園の石灯籠]] |
[[ファイル:Stone Lantern Prince Saionji used to own (Ritsumeikan Univ, Kyoto, Japan).JPG|thumb|200px|[[立命館大学]][[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]庭園の石灯籠]] |
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=== 西園寺の教育思想 === |
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文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。また「人民がすべて、平等の関係において、自他互に尊敬し、自から生存すると共に、他人を生存せしむることを教へねばならぬ」として、自由主義的な教育を施すべきと考えていた{{sfn|張智慧|2005|pp=67-68}}。 |
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明治23年([[1890年]])には[[井上毅]]らが作った「教育勅語」に対して「あの教育勅語だけではもの足らない。もっとリベラルの方に向けて教育の方針を立つべき」と考え{{sfn|張智慧|2005|pp=218-219}}、明治天皇に奏上して「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ{{sfn|張智慧|2005|pp=66-67}}。この草案には「忠孝」や「愛国」といった語はなく、女子も含めた日本臣民が列国国民と対等に対応できるようにするというものであった{{sfn|張智慧|2005|pp=68-69}}。しかし西園寺が病気がちとなったこと、伊藤首相が教育勅語の尊厳性を侵す行為として難色を示したことによって、結局成案とならず、草案のみが残った{{sfn|張智慧|2005|pp=71-69}}。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。 |
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文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。 |
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明治23年([[1890年]])には[[井上毅]]らが作った「教育勅語」に反対し、明治天皇から教育勅語改定の許可を得るとともに「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。 |
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また、以下の教育機関の設立にも関っている。 |
また、以下の教育機関の設立にも関っている。 |
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西園寺が没した昭和15年(1940年)に立命館大学は、創立とその後の教育に大きく貢献した西園寺公望を立命館学園の「学祖」とする法人決議を行った。西園寺家と立命館大学の交流は現代も続いており大学の行事に西園寺家の人々が出席している。 |
西園寺が没した昭和15年(1940年)に立命館大学は、創立とその後の教育に大きく貢献した西園寺公望を立命館学園の「学祖」とする法人決議を行った。西園寺家と立命館大学の交流は現代も続いており大学の行事に西園寺家の人々が出席している。 |
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=== 京都帝国大学 === |
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[[1894年]](明治27年)、文部大臣に就任した西園寺が「高等教育の拡張計画」を立案。第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家の需要に応じられる高等教育機関を京都にも設置することの必要性を挙げた。これに基づいて省内に設置した[[京都大学|京都帝国大学]]「創立準備委員」が明治30年([[1897年]])「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し、京大創設の流れが固まった。当時、文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となり、西園寺の私設秘書でもあった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長に任命され大学業務を総括した。また、建学当初より「自由の学風」を学是としている同大学は、ともに西園寺と中川が学問の精神として掲げた「自由」を共通の理念として有している立命館大学と、[[2007年]](平成19年)に学術交流および産官学連携事業に関する大学間協定を締結した。 |
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=== 明治法律学校 === |
=== 明治法律学校 === |
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明治13年([[1880年]])、フランス留学中に西園寺と仲間同士だった[[岸本辰雄]]、[[宮城浩蔵]]、[[矢代操]]らが創設した'''明治法律学校'''(後の[[明治大学]])の講師に迎えられ行政法を担当したと言われている<ref>岩井忠熊『西園寺公望 - 最後の元老』 岩波新書、2003年、ISBN 4004308291 </ref>。 |
明治13年([[1880年]])、フランス留学中に西園寺と仲間同士だった[[岸本辰雄]]、[[宮城浩蔵]]、[[矢代操]]らが創設した'''明治法律学校'''(後の[[明治大学]])の講師に迎えられ行政法を担当したと言われている<ref>岩井忠熊『西園寺公望 - 最後の元老』 岩波新書、2003年、ISBN 4004308291 </ref>。 |
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=== 京都帝国大学 === |
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[[1894年]](明治27年)、文部大臣に就任した西園寺が「高等教育の拡張計画」を立案。第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家の需要に応じられる高等教育機関を京都にも設置することの必要性を挙げた。これに基づいて省内に設置した[[京都大学|京都帝国大学]]「創立準備委員」が明治30年([[1897年]])「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し、京大創設の流れが固まった。当時、文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となり、西園寺の私設秘書でもあった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長に任命され大学業務を総括した。 |
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=== 日本女子大学 === |
=== 日本女子大学 === |
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== 人物・逸話 == |
== 人物・逸話 == |
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*政治家となることをすすめたのはフランス留学時代の恩師アコラスだったが、西園寺は「政治家は常に思うところをいうことはできず、時に嘘を言わねばならない」と否定的だった。するとアコラスは「日本の政治家は時に嘘をつくだけでいいのか、フランスの政治家は常に嘘をついている」と大笑いした。二人の関係は極めて親密であり、西園寺はアコラスとクレマンソーが極秘で政治的パンフレットをフランス国内に持ち込む必要があったときにはその運び屋役を務め、またアコラスの旅行の時にはその世話をしたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42-43}}。 |
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* 参内する時以外はほとんど常に和装だったが、一方で開明派・親英米派の重鎮でもあり、外交について「英米と一緒に[[采配]]の柄を握っていなくてはならない。采配で振り回される側になってはならない」と述べた。 |
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*伊藤博文の邸宅を[[尾崎行雄]]と訪れた際に、伊藤が席を外すと、「政治などというものは、ここの親爺のような俗物のやることだ」と吐き捨てるように言ったという{{sfn|伊藤勲|1986|pp=105}}。 |
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* 参内する時以外はほとんど常に和装だった。 |
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* 伊藤博文や[[井上馨]]に負けず劣らずの大変な女好きであり、[[花街|花柳界]]では「お寺さん」として有名な通人であった。 |
* 伊藤博文や[[井上馨]]に負けず劣らずの大変な女好きであり、[[花街|花柳界]]では「お寺さん」として有名な通人であった。 |
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* 生涯権力や金銭に対する執着は乏しかった。{{要出典範囲|date=2014年8月9日|この淡白な性質は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったといえよう。この点で終生の政敵・[[山縣有朋]]とは対照的であった}}。 |
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* 明治2年([[1869年]])、フランスへの留学生に推薦してくれた[[大村益次郎]]に礼を言うため彼の旅館を訪れる直前、親友の[[万里小路通房]]が駆け込んできて長談義となり、その間に益次郎は襲撃されるという事件が起こっている。 |
* 明治2年([[1869年]])、フランスへの留学生に推薦してくれた[[大村益次郎]]に礼を言うため彼の旅館を訪れる直前、親友の[[万里小路通房]]が駆け込んできて長談義となり、その間に益次郎は襲撃されるという事件が起こっている。 |
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*フランスでの盲腸炎以来多病となり、たびたび大病に悩まされた。慢性的なリウマチ、[[糖尿病]]{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=109}}も持病であった。しかし逆に体に気をつけることになり、長寿に恵まれた。 |
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*非常に美食家であり、教皇庁訪問時には接遇担当者に料理通であると賞賛されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=73-74}}。西園寺家には高級料亭[[なだ万]]から料理人が派遣されていたが、たいてい一年と続かず、4年続いたものが珍しがられるほどであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=109}}。ステーキや鮭のバター焼などが好物であったが、庶民的なサンマも好きであった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=109}}。[[北大路魯山人]]も「たべものにはなかなかやかましい人」「通人」という観測を行っている<ref>{{青空文庫|1403|54967|新字新仮名|西園寺公の食道楽}}</ref> |
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* 明治30年([[1897年]])、{{要出典範囲|date=2014年8月9日|前年まで外務大臣を務めた[[陸奥宗光]]が、山縣有朋を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという}}。 |
* 明治30年([[1897年]])、{{要出典範囲|date=2014年8月9日|前年まで外務大臣を務めた[[陸奥宗光]]が、山縣有朋を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという}}。 |
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*私生活では極めて頑固で怒りやすい性格であり、家族が同じことを二度聞いてくると怒鳴り散らしたという{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=22}}。「妻」の一人小林菊子は「叱られまいとすれば並大抵の苦労ではなく、よくできても口でほめるようなことはせず、それがあたりまえだと思っている人」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=109}}。 |
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*大変な読書家でもあり、近衛文麿は「漢籍についてはそこらの学者でもかなわない」と評している{{sfn|伊藤勲|1986|pp=106}}。またフランス語・英語の書籍に関しても蔵書としており、現在は立命館大学の西園寺文庫に収められている<ref>[[奥村功]] 「http://ci.nii.ac.jp/naid/40003736918 西園寺公望のフランス語蔵書」</ref>。 |
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== 人物評== |
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*公私ともに親しかった陸奥宗光は「天下第一の高人」と評し、政略を持ち肝も据わっているが、それを露骨に振り回さず、一緒に仕事をしているとそれが次第に現れると評している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=98}}。 |
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*国木田独歩は若い頃は「[[下瀬火薬]]質」<ref>当時最新の火薬で、極めて爆発しやすい性質を持つ</ref>だったが、1900年頃から優しさの分子が増え始めてきたとしている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=97}}。 |
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*原敬は『[[原敬日記]]』において政友会総裁時代の西園寺を「意志案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」とその資質を批判している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=136}}。 |
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*孫の西園寺公一は、火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にないと回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=97}}。 |
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*パリ講和会議で再会した旧友クレマンソーは、「昔は過激な、愛すべき公子であったが、今はおだやかな皮肉屋となった」と回想している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=42}}。 |
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== 年譜== |
== 年譜== |
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[[ファイル:PM Kinmochi Saionji.jpg|thumb|200px|[[パリ講和会議]]にて]] |
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[[ファイル:Okitsu Zagyo-so Coast Side Exterior.jpg|thumb|200px|清水区興津清見寺町に復元された興津坐漁荘の海岸側外観]] |
[[ファイル:Okitsu Zagyo-so Coast Side Exterior.jpg|thumb|200px|清水区興津清見寺町に復元された興津坐漁荘の海岸側外観]] |
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[[ファイル:State funeral of Kinmochi Saionji.JPG|thumb|200px|西園寺の[[国葬]]]] |
[[ファイル:State funeral of Kinmochi Saionji.JPG|thumb|200px|西園寺の[[国葬]]]] |
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※日付は明治5年まで旧暦 |
※日付は明治5年まで旧暦 |
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* [[嘉永]]2年([[1849年]])10月22日 |
* [[嘉永]]2年([[1849年]])10月22日、[[清華家]]の[[徳大寺公純]]の次男として[[京都]]で誕生。 |
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* 嘉永3年([[1850年]])、公望と改名。 |
* 嘉永3年([[1850年]])、公望と改名。 |
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* 嘉永4年([[1852年]])12月20日、[[従五位|従五位下]]に叙位。 |
* 嘉永4年([[1852年]])12月20日、[[従五位|従五位下]]に叙位。 |
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* 明治13年([[1880年]])10月21日、横浜へ帰航。 |
* 明治13年([[1880年]])10月21日、横浜へ帰航。 |
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* 明治14年([[1881年]]) |
* 明治14年([[1881年]]) |
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** 3月18日、[[中江兆民]]らと[[東洋自由新聞]]を創刊 |
** 3月18日、[[松田正久]]・[[中江兆民]]らと[[東洋自由新聞]]を創刊、社長に就任 |
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** 4月8日、明治天皇の内勅により東洋自由新聞社長を辞任 |
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** 11月24日、[[参事院]]議官補となり政府官僚として復帰。 |
** 11月24日、[[参事院]]議官補となり政府官僚として復帰。 |
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* 明治15年([[1882年]])3月11日、[[勲等|勲三等]][[旭日章|旭日中綬章]]を受章。 |
* 明治15年([[1882年]])3月11日、[[勲等|勲三等]][[旭日章|旭日中綬章]]を受章。 |
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** 9月22日、外務大臣を辞す。 |
** 9月22日、外務大臣を辞す。 |
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** 9月28日、文部大臣を辞す。 |
** 9月28日、文部大臣を辞す。 |
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** 11月5日、法典調査会副総裁を辞す。 |
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** 11月29日、渡仏 |
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* 明治30年([[1897年]]) |
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** 10月5日、帰国 |
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* 明治31年([[1898年]]) |
* 明治31年([[1898年]]) |
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** 1月12日、[[第3次伊藤内閣]]の文部大臣として入閣。 |
** 1月12日、[[第3次伊藤内閣]]の文部大臣として入閣。 |
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* 明治32年([[1899年]])、[[大磯]]に別荘(隣荘)を構える。 |
* 明治32年([[1899年]])、[[大磯]]に別荘(隣荘)を構える。 |
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* 明治33年([[1900年]]) |
* 明治33年([[1900年]]) |
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** 10月27日、枢密院議長に就任、以て[[第4次伊藤内閣]]の班列となる。[[内閣総理大臣臨時代理]]となる。 |
** 10月27日、枢密院議長に就任、以て[[第4次伊藤内閣]]の班列となる。[[内閣総理大臣臨時代理]]となる。 |
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** 12月12日、内閣総理大臣臨時代理を解く。 |
** 12月12日、内閣総理大臣臨時代理を解く。 |
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* 明治34年([[1901年]]) |
* 明治34年([[1901年]]) |
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* 明治41年([[1908年]])7月14日、内閣総理大臣を辞す。 |
* 明治41年([[1908年]])7月14日、内閣総理大臣を辞す。 |
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* 明治44年([[1911年]])8月30日、内閣総理大臣に就任([[第2次西園寺内閣]]) |
* 明治44年([[1911年]])8月30日、内閣総理大臣に就任([[第2次西園寺内閣]]) |
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* [[大正]]元年([[1912年]])12月21日、内閣総理大臣を辞 |
* [[大正]]元年([[1912年]])12月21日、内閣総理大臣を辞職。前官礼遇を受ける。 |
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* 大正2年([[1913年]])、京都の清風荘に隠棲。 |
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* 大正3年([[1914年]])6月18日、政友会総裁を辞す。後継に[[松田正久]]を推薦するが、松田が急死したために[[原敬]]を後継者とした。 |
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* 大正3年([[1914年]])6月18日、政友会総裁を辞任。 |
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* 大正6年([[1917年]])、大磯の別荘(隣荘)を[[池田成彬]]に売却。 |
* 大正6年([[1917年]])、大磯の別荘(隣荘)を[[池田成彬]]に売却。 |
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* 大正7年([[1918年]]) |
* 大正7年([[1918年]]) |
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** 12月21日、[[大勲位菊花大綬章]]を受章。 |
** 12月21日、[[大勲位菊花大綬章]]を受章。 |
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** 12月27日、帝国経済顧問に就任。 |
** 12月27日、帝国経済顧問に就任。 |
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* 大正8年([[1919年]] |
* 大正8年([[1919年]])、1月11日、[[パリ講和会議]]全権に任命。1月14日に渡仏、7月19日まで滞在、8月23日に帰国。[[静岡県]]庵原郡[[興津町 (静岡県)|興津町]] (現[[静岡市]] [[清水区]]興津清見寺町)に別荘 ([[坐漁荘]]) を建設し、主な居住地とする。以後政財界の要人が頻繁に興津の西園寺の元を訪れるようになり、「興津詣」(おきつもうで)という言葉が生まれる。 |
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* 大正9年([[1920年]])9月7日、[[公爵]]に陞爵(パリ講和会議首席全権の功)。 |
* 大正9年([[1920年]])9月7日、[[公爵]]に陞爵(パリ講和会議首席全権の功)。 |
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* [[昭和]]3年([[1928年]])11月10日、[[大勲位菊花章頸飾]]を受章。 |
* [[昭和]]3年([[1928年]])11月10日、[[大勲位菊花章頸飾]]を受章。 |
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* 明治17年([[1884年]])7月7日: [[侯爵]] |
* 明治17年([[1884年]])7月7日: [[侯爵]] |
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* 明治28年([[1895年]])6月21日: [[瑞宝大綬章|勲一等瑞宝章]] |
* 明治28年([[1895年]])6月21日: [[瑞宝大綬章|勲一等瑞宝章]] |
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* 明治40年([[1907年]])9月14日: [[勲一等旭日桐花大綬章]] |
* 明治40年([[1907年]])9月14日: [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]] |
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* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。</ref> |
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* 大正7年([[1918年]])12月21日: [[大勲位菊花大綬章]] |
* 大正7年([[1918年]])12月21日: [[大勲位菊花大綬章]] |
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* 大正9年([[1920年]])9月7日: [[公爵]] |
* 大正9年([[1920年]])9月7日: [[公爵]] |
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* 昭和3年([[1928年]])11月10日: [[大勲位菊花章頸飾]] |
* 昭和3年([[1928年]])11月10日: [[大勲位菊花章頸飾|菊花章頸飾]] |
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;外国勲章等 |
;外国勲章等 |
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* [[1896年]](明治29年)[[7月24日]] - [[フランス|フランス共和国]]レジョンドノール第二等勲章<ref>『官報』第3934号、「叙任及辞令」1896年08月08日。</ref> |
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{| class="wikitable" |
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</pre> |
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== 家族 == |
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=== 親族 === |
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実父は[[右大臣]]・[[徳大寺公純]]、実母は千世浦斐子([[宇佐神宮]]の[[社家]]末弘氏の[[正親盛澄]]の娘)、兄 |
実父は[[右大臣]]・[[徳大寺公純]]、実母は千世浦斐子([[宇佐神宮]]の[[社家]]末弘氏の[[正親盛澄]]の娘、後に正心院)、兄は3度にわたって[[侍従長]]となり、[[内大臣府|内大臣]]や[[宮内省|宮内大臣]]も務めた[[徳大寺実則]]。弟に[[学校法人立命館]]理事の[[末弘威麿]]、[[住友財閥]]を継いで第15代[[住友吉左衛門]]を襲名し長く財界に君臨した[[住友友純]](隆麿)がいる。 |
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=== 妾 === |
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正妻はない(明治13年、京都[[祇園]][[井筒屋 (お茶屋)|井筒屋]](現・祇園辰巳NEXUS)の[[芸妓]]・[[江良加代]](当時18歳)を東京へ連れてきて[[結婚]]しようとするも、親族の反対に遭い断念した)。一説には、西園寺家の守神は[[弁才天]]であるため嫉妬深く、西園寺家は代々正妻はもたないという[[家憲]]があった。 |
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西園寺は生涯結婚せず、正妻はいなかった。明治13年、京都[[祇園]][[井筒屋 (お茶屋)|井筒屋]](現・祇園辰巳NEXUS)の[[芸妓]]・[[江良加代]](当時18歳)を東京へ連れてきて[[結婚]]しようとするも、親族の反対に遭い断念した。{{要出典範囲|一説には、西園寺家の守神は[[弁才天]]であるため嫉妬深く、西園寺家は代々正妻はもたないという[[家憲]]があった|date=2014年11月}}。一方で、4人の女性を事実上の妻とした。 |
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====小林菊子==== |
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しかし、3人の女性を事実上の妻とした。最初の妻は[[新橋 (花街)|新橋]]の[[芸妓|芸者]]・玉八(小林菊子)で、一人娘の'''新'''をもうけた。新は旧長州藩主[[毛利元徳]]の八男・[[西園寺八郎|八郎]]を婿に迎え、[[西園寺公一|公一]]、[[西園寺不二男|不二男]]など三男三女を産んだ。2番目の妻・中西房子(新橋・中村屋のふさ奴)との間には一女・園子([[高島正一]]に嫁ぐ)をもうけた。西園寺家の[[女中]]頭・奥村花子は、パリ講和会議に同伴させたことで話題となった。最晩年に奥村が女児を出産するが、公望は頑として自分の子として認めず、入籍させなかった。 |
|||
元[[新橋 (花街)|新橋]]の[[芸妓|芸者]]・玉八で、明治14年(1881年)にお座敷で出会った{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=57}}。父親は尾張[[竹腰氏]]の家老、高野瀬和人{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=58}}。気品のある美人であり、機転も利く女性であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=58}}。西園寺と同居していた時代は、二階に同居していた中江兆民の世話もしていた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=45}}。西園寺の公使時代には彼の母親である斐子と同居している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=58}}。娘の新子をもうけた。菊子は大磯の西園寺別邸の主人であり、西園寺が京都や興津で生活するようになると疎遠になっていった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=159}}。大正6年(1917年)に大磯の別邸が[[池田成彬]]に売却された後は、娘の新子とその夫の八郎の邸宅の近くに住むようになった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=161}}。以降、西園寺と会うことはほとんど無かったが、西園寺が死の床についた昭和15年(1940年)6月14日に面会している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=338}}。 |
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====中西房子==== |
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また、親友である[[光妙寺三郎]]の遺児、[[東屋三郎]]を引き取って養育した。 |
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元新橋・中村屋のふさ奴で、一女・園子をもうけた。駿河台の西園寺本邸に暮らしており、西園寺が「妻に似たものの」と形容し、新聞報道では「北の方」とも呼ばれた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=168-169}}。 |
|||
====奥村花子==== |
|||
西園寺家の[[女中]]頭・奥村花子は、パリ講和会議に同伴させたことで話題となった。[[吉野作造]]は花子を同行させたことを批判している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=168}}。また現地報道では「最もしとやかにして謙遜なる美人」「愛妾」などと評されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=168}}。大正13年(1924年)には女児加代子を出産するが、公望は頑として自分の子として認めず、入籍させなかった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=228}}。加代子はその後花子の弟夫妻に養育されている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=228}}。昭和3年(1928年)に西園寺家出入りの銀行員の子を妊娠し、執事の[[熊谷八十三]]、娘の園子、養子の八郎らが共同で花子を追放するよう西園寺に勧告し、3月2日に西園寺家から追放された{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=231-232}}。しかし4月6日には実母とともに坐漁荘を訪問する事件を起こしている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=233}}。その後花子は腹膜炎にかかり、昭和4年(1929年)2月3日に死亡した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=234}}。 |
|||
====漆葉綾子==== |
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京都の[[大泉寺 (京都市)|大泉寺]]住職漆葉光雲の娘で、一度は結婚して子を産んだものの離縁となっている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=234-235}}。[[華道]]・[[茶道]]・琴に通じ、花子が女中頭を務めている時期に西園寺家に仕えはじめ、花子とは確執もあった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=234-235}}。花子の跡を継いだ女中頭の八木悦子とも反目し、ともに辞めると申し出たところ、西園寺は「お前に行かれてはこちらが困る」と言って八木悦子のみを解雇した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=235}}。その後女中頭となり、若い女中や看護婦、男性警官までがいじめの対象となり、西園寺が調停するという事件も起きている{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=235-238}}。 |
|||
=== 子・孫 === |
|||
====新子==== |
|||
明治20年(1887年)、小林菊子との間にもうけた娘。西園寺は2歳になった頃から英語かフランス語を学ばせようと考えるなど教育に熱心であった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=71}}。養嗣子[[西園寺八郎|八郎]]と結婚し、[[西園寺公一|公一]]、[[西園寺不二男|不二男]]など三男三女を産んだ。首相時代の西園寺が外国人を招いたパーティを開くと、そのホスト役となって得意のフランス語を披露していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=146}}。大正9年(1920年)に[[スペイン風邪]]で死去した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=161}}。西園寺は「さつぱり解けて仕舞けり雪不とき」と哀悼の句を詠んでいる{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=196-197}}。 |
|||
====園子==== |
|||
中西総子との間に生まれた娘で、[[高島正一]]に嫁いだ。 |
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====元子==== |
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西園寺の養女。 |
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====八郎==== |
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{{main|西園寺八郎}} |
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旧長州藩主[[毛利元徳]]の八男で、明治32年(1899年)に西園寺の養子となった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=107}}。[[第2次桂内閣]]の秘書官を務めた後宮内省に入り、[[皇太子裕仁親王の欧州訪問]]などに随行した。しかし新子の死後、八郎が西園寺と提携関係にある牧野内大臣排斥の動きに加わったこともあって、西園寺との関係は悪化した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=197}}{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=215}}。大正11年(1922年)以降は手紙も極めて簡単なものになっていった{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=216}}。しかし西園寺に対する風当たりが強くなると、次第に関係は改善されている。 |
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====同居人 ==== |
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親友である[[光妙寺三郎]]が死ぬと、その遺児である三三郎(後の[[東屋三郎]])を引き取って養育した{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=108}}。また一族である[[橋本実斐]]も一時養育している{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=108}}。二人は普段、八郎とともに[[学校法人暁星学園|暁星学校]]の寄宿舎に入っていたが、週末ごとに西園寺家に滞在していた{{sfn|伊藤之雄|2007|pp=108}}。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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396行目: | 540行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{reflist}} |
{{reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 [[角川書店]] 1983年 162-164頁 |
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* [[原田熊雄]]筆記 『西園寺公と政局』(全8巻別巻1) 岩波書店、新装版2007年、ISBN 4002031292 |
* [[原田熊雄]]筆記 『西園寺公と政局』(全8巻別巻1) 岩波書店、新装版2007年、ISBN 4002031292 |
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* [[木村毅]] 『西園寺公望』 (日本宰相列伝⑤)[[時事通信社]] 1975年、新版1985年 |
* [[木村毅]] 『西園寺公望』 (日本宰相列伝⑤)[[時事通信社]] 1975年、新版1985年 |
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* 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会 『西園寺公望伝』(全4巻別巻2) [[岩波書店]]、1990年-1997年。 |
* 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会 『西園寺公望伝』(全4巻別巻2) [[岩波書店]]、1990年-1997年。 |
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* [[岩井忠熊]] 『西園寺公望 最後の元老』 [[岩波新書]]、2003年、ISBN 4004308291 |
* [[岩井忠熊]] 『西園寺公望 最後の元老』 [[岩波新書]]、2003年、ISBN 4004308291 |
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* |
*{{Cite book |和書 |last= |first= |author= 伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|series =[[文春新書]] |date=2007|title=元老 西園寺公望 古希からの挑戦 |publisher=文藝春秋 |page= |isbn=4166606093|ref=harv }} |
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*{{Cite journal |和書|author =伊藤勲 |authorlink = 伊藤勲 |title = 西園寺公望の政治理念|date =1986|publisher = 上智大學法學會|pages =101-164 |journal =上智法学論集 |volume =29(2・3) |naid = 40001811489|ref=harv}} |
|||
*[[豊田穣]] 『最後の元老 西園寺公望』(上下巻) [[新潮社]]、1982年、[[新潮文庫]]、1985年<br> 新版 『豊田穣文学/戦記全集. 第9巻』所収、[[光人社]]、1991年、ISBN 4769805195 |
|||
*{{Cite journal |和書|author =張智慧 |authorlink = 張智慧 |title = 明治民法の成立と西園寺公望 : 法典調査会の議論を中心に|date =2009|publisher = 立命館大学人文科学研究所|pages =、207-236|journal =立命館大学人文科学研究所紀要 |volume =93 |naid =110007508094 |ref=harv}} |
|||
*{{Cite journal |和書|author =張智慧 |authorlink = 張智慧 |title = 文部大臣西園寺公望の文教政策|date =2005|publisher =大阪市立大学日本史学会|pages =207-236|journal =市大日本史|volume =8|naid =120005291294 |ref=harv}} |
|||
*{{Cite journal |和書|author =永井和 |authorlink = 永井和 |title = 西園寺公望はいかにして最後の元老となったのか : 「一人元老制」と「元老・内大臣協議方式」|date =1997|publisher =京都大学|pages =152_a-111_a|journal =京都大學文學部研究紀要|volume =36|naid =110000056959 |ref=harv}} |
|||
*{{Cite journal |和書|author =小山俊樹 |authorlink = 小山俊樹 |title = 「憲政常道」と「政界縦断」 : 大正期二大政党の政治戦略|date =2012|publisher =帝京大学文学部史学科|pages = 21-80|journal = 帝京史学|volume =27|naid =40019229549 |ref=harv}} |
|||
* 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 [[角川書店]] 1983年 162-164頁 |
|||
*[[豊田穣]] 『最後の元老 西園寺公望』(上下) [[新潮社]]、1982年、[[新潮文庫]]、1985年<br> 新版 『豊田穣文学/戦記全集. 第9巻』所収、[[光人社]]、1991年、ISBN 4769805195 |
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*『歴代総理大臣伝記叢書7 西園寺公望』 [[小泉策太郎]]筆記、木村毅編<br> 戦前の伝記、[[御厨貴]]監修で[[ゆまに書房]]より復刻、2005年。 |
*『歴代総理大臣伝記叢書7 西園寺公望』 [[小泉策太郎]]筆記、木村毅編<br> 戦前の伝記、[[御厨貴]]監修で[[ゆまに書房]]より復刻、2005年。 |
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[[Category:西園寺家|きんもち]] |
[[Category:西園寺家|きんもち]] |
2014年12月29日 (月) 13:07時点における版
西園寺 公望 | |
---|---|
生年月日 |
1849年12月6日 (旧暦嘉永2年10月22日) |
出生地 | 山城国京都 |
没年月日 | 1940年11月24日(90歳没) |
死没地 |
静岡県庵原郡興津町 (現 静岡市清水区) |
出身校 | ソルボンヌ大学 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 |
贈従一位 大勲位菊花章頸飾 公爵 |
配偶者 | なし |
親族 | 徳大寺実則(兄) |
サイン | |
第14代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第2次西園寺内閣 |
在任期間 | 1911年8月30日 - 1912年12月21日 |
天皇 | 明治天皇 |
内閣 | 第1次西園寺内閣 |
在任期間 | 1906年1月7日 - 1908年7月14日 |
天皇 |
明治天皇 大正天皇 |
第10代 文部大臣 | |
内閣 | 第3次伊藤内閣 |
在任期間 | 1898年1月12日 - 4月30日 |
第9-10代 外務大臣 | |
内閣 |
第2次伊藤内閣(文相兼任) 第2次松方内閣(文相兼任) |
在任期間 | 1896年5月30日 - 9月22日 |
内閣 |
第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1894年10月3日 - 1896年9月28日 |
その他の職歴 | |
貴族院議員 (1890年2月 - 1940年11月24日) | |
第2代 新潟府知事 (1868年10月28日 - 1869年2月20日) |
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日(1849年12月6日)[1] - 昭和15年(1940年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は贈従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒[2]。
戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
その後、伊藤の立憲政友会の総裁に就任した。明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった[3]。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。
生涯
生い立ち
1849年12月6日(嘉永2年10月22日)、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として誕生した[4][5]。幼名は美丸(よしまる、美麿とも)[5]。2歳の時に、同族で清華家の西園寺師季の養子となった[6]。その年の7月に師季が死亡したため、西園寺家の家督を相続した[6]。このため実質的には実父の公純の強い影響下で成長することとなった[6]。公純は保守的ながらも頑固な性格で、国木田独歩はその頑固さが公望にも受け継がれたと評している[7]。孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳の時からは御所に出仕し、祐宮(後の明治天皇)の近習となった[8]。また近習の同僚であった岩倉具視ともこの時期に親しくなっている[9]。
幕末期
西園寺は若年でもあり、岩倉や三条実美のような幕末期における倒幕活動に強く参画していなかった[9]。鳥羽・伏見の戦いの際、私戦として納めようという意見に対して猛反発し、岩倉に「小僧能く見た」と絶賛された[10]。慶応3年12月9日(1868年)、おそらく岩倉の推挙によって、三職の1つ、参与の一人となった[9]。
以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する[9]。会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたという[9]。
明治維新後
明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任した。西園寺は軍人を志し、フランス留学を望んでいた為この職は不本意であった[11]。翌明治2年、東京に戻った西園寺はフランス語の勉強を始めた[12]。また大村益次郎の薦めで法制についても勉強するようになった[13]。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(『金毘羅利生記』の主人公・田宮坊太郎に由来)と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。
9月には許可無く京都に戻り、一週間の謹慎処分を受けた[14]。この時に家塾として『立命館』を創始している[14]。翌明治3年1月末、政府の許可を得て長崎に向かった。でまた公卿の中で初めて散髪・洋装で宮中に参内し、大原重徳ら未だ多く残る攘夷派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。やがて大村益次郎の推薦によって明治3年12月(1871年)、官費でフランスに留学のために出国した。フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。経由地であったアメリカではユリシーズ・グラント大統領と面会している[15]。翌明治4年2月(1871年)にパリに到着した[15]。
フランス留学時代
当時のフランスは、普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊のまっただ中であり、西園寺の到着後間もない3月18日には革命政府パリ・コミューンが成立していた。西園寺はコミューンに対して「賊」「恥知らずの人々が愚民を煽動した」と極めて否定的であった[16]。フランス政府によるその鎮圧を、「愉快」と評している[17]。西園寺は以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。ソルボンヌ大学で政治学者のエミール・アコラスなどに学んだが、一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。
西園寺は公費留学生として年1400ドルの支給を受けていたが、これは一般の公費留学生より400ドル多かった。西園寺は400ドルを返納し、また国が公費留学生を減らす方針を決めると、公費援助を辞退して私費留学生となった[18]。しかし留学費は西園寺家や徳大寺家にとっても大きな負担であり、1878年よりは明治天皇のお手元金から2年間、毎年300ポンドが支給されている[19]。また、金銭が尽きると二束三文のナマクラを正宗と偽って売りつけていた(いわゆる「西園寺正宗」)[要出典]。またジュディット・ゴーチエの依頼で、和歌のフランス語への翻訳にも協力しており、1885年に発刊された『蜻蛉集』には西園寺による下訳も収録されている[20]。
その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーや、留学生仲間の中江兆民・松田正久・光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺の交友関係から、彼が急進共和派に近い思想を持つようになったと評する事が一般的であるが、その頃の書簡で急進派を肯定的に評したものは全くない[21]。西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、パリ講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。クレマンソーはこの頃の西園寺を「過激な、愛すべき公子」であったと回想している[22]。
明治13年10月21日(1880年)には留学を終え、10年ぶりに帰国した[23]。
留学後の活動
パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいると」、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた[24]。この新聞は自由党結党に向けて準備され、明治14年(1881年)3月18日に創刊された『東洋自由新聞』であった[24]。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員でを務めた[25]。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している[26]。新聞の論調はフランスの共和政治よりイギリス流の立憲君主制が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視や三条実美、兄の徳大寺実則らは社長を辞めるよう強要した[27]。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している[28]。しかし4月8日に宮内省に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「内勅」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた[28]。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた[28]。
伊藤博文の腹心
明治14年11月24日、西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った[29]。参事院は伊藤博文が国会開設の準備のために設置した機関であった[29]。翌明治15年(1882年)に伊藤が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪することになった際には、その随員に選ばれた[30]。ヨーロッパでフランスの法制を調べるなかで、伊藤の知遇を得た [31]。またウィーン大学ではローレンツ・フォン・シュタインに伊藤とともに憲法思想を学んでいる[32]。明治16年(1883年)8月4日に帰国し、参事院議官に任じられた[33]。明治18年(1885年)には駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使となり、再びシュタインに学ぶことになった。またウィーン滞在中であった陸奥宗光と親しくなり、彼とともに伊藤の腹心としての地位を固めていくことになる[34]。翌明治19年(1886年)6月には帰国し、8月には法律取調委員に任命された[35]。明治21年(1888年)6月には駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使となり、9月20日にはローマ教皇庁派遣の特命全権公使を命じられ、日本を離れた[36]。ローマを経て12月10日にベルリンに到着したが、その4日後には最初の子である新子が生まれている。ドイツでは条約改正交渉などの任に当たったが、半年ほどで中断となり、極めて暇になった。公使時代の西園寺は一年の三分の一はパリで過ごしていたという[37]。明治22年(1889年)にはリウマチを発病し、これは生涯の持病となった[38]。この外国駐在期間の間、伊藤とは絶えず連絡を取り、政策に関する意見を述べている。
明治24年(1891年)8月にようやく帰国し、9月には賞勲局総裁に任じられた[39]。閑職であり、不満もあったが、井上馨が知り合いの財界人に勲章を授けるよう圧力をかけてきたときにははっきりと拒絶し、「わからぬ奴」と不興を買っている[40]。1892年10月からは賞勲局総裁と兼任で民法商法施行取調委員長、翌年には貴族院副議長、法典調査会副総裁となっている[41]。以降、西園寺は公務でやむを得ない場合以外は調査会の会合に必ず出席し、あまり出席しなかった総裁の伊藤に代わり、実質的な総裁として民法や商法の審査に当たった[42]。西園寺はこの中で戸主制度や隠居制度は封建時代の余習だとして廃止を提案している[43]。
明治27年(1894年)には病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣として、第2次伊藤内閣に初入閣を果たした[44]。西園寺はいきすぎた日本中心主義を否定し、女子教育発展をもとめるなど、日本を西洋諸国のように開明進歩させる教育を唱えた[45]。また翌明治28年(1895年)には親友の陸奥宗光外相が病気のため、外務大臣臨時代理をつとめ、乙未事変などの朝鮮半島問題への対応に当たった[46]。明治29年(1896年)5月に陸奥が外相を辞任すると、西園寺は正式な外相となり、文部大臣と兼任したが、8月に伊藤内閣が倒れ、第2次松方内閣で数日間大臣を務めた後、両大臣を辞任した[47]。11月には 法典調査会副総裁も辞任し、フランスへと旅立った。西園寺はフランスで教育制度や軍の内閣による統制などを研究するつもりであった[48]。しかし、翌明治30年(1897年)に虫垂炎にかかって瀕死の状態となり、「自殺する権利すらある」と主張して皆が止める中日本に帰国した[49]。
病がようやく癒え、明治31年(1898年)1月に第3次伊藤内閣が成立すると、ふたたび文部大臣となった[50]。文相時代には第二次教育勅語の作成にあたったが、実現しないまま虫垂炎の後遺症を発病し、4月30日に辞任した[51]。
政友会総裁
明治33年(1900年)には伊藤による立憲政友会旗揚げに創立委員として参画し、最高幹部である総務委員の一人となった[52]。10月19日には第4次伊藤内閣が発足したが、伊藤は当時病中であり、10月27日に西園寺が班列(後の無任所大臣)として入閣、12月12日まで内閣総理大臣臨時代理として伊藤の代役を務めている[53]。また臨時代理就任と同日に枢密院議長にも就任している[53]。
明治36年(1903年)、伊藤が山県有朋らの策謀で政友会総裁を辞任せざるを得なくなり、西園寺は伊藤の指名によって即日政友会総裁となり、枢密院議長を辞任した[54]。伊藤の辞任で政友会は動揺し、33%の代議士が離党するほどであったが、なんとか第一党の地位を保持することはできた[55]。ただし党務の実権は、幹部である原敬らによって握られていた[56]。日露戦争時には野党であったため特筆する活動はなく、明治37年(1904年)9月には上海など中国への旅行を行っている。戦争の勝利が見えてきた12月になると、桂太郎首相は政友会の協力を得るため、戦後の政権受け渡しの密約(情意投合)を結んだ[56]。
桂園時代と大正政変
明治39年(1906年)1月7日、桂内閣から禅譲される形で第1次西園寺内閣が成立した。内閣には政友会出身者が原(内務大臣)と松田正久(法務大臣)の2名しかおらず、桂の協力もうけ、各藩閥などにも配慮した構成であった[57]。内閣は日露戦争後の南満州からの撤兵問題、カリフォルニアの排日運動への対処、日露協約の締結などに取り組んだ。また首相時代には高名な文士たちを招いた「雨声会」という会を主宰し、1914年までに7回開催されている[58]。明治40年(1907年)頃から西園寺の健康状態は悪化し、しばしば弱音を漏らすようになった[59]。明治41年(1908年)1月には、山縣伊三郎逓信大臣と阪谷芳郎大蔵大臣を更迭するよう元老からの圧力が強まり、西園寺は両名とともに辞表を提出したが、西園寺のもののみ却下されている[60]。組閣を目指す桂の動きが活発になり、伊藤の支援も十分に受けられない西園寺は健康上の問題もあって、明治41年6月に辞職の意志を固め、7月4日に総辞職した[61]。
首相辞任後、西園寺は病を理由に政友会総裁の活動も積極的に行わないようになり、原が事実上最高実力者となった[62]。原は「西園寺のあまりに冷淡なると、松田の余りに狡猾なる」ことを批判し、西園寺が桂と会って話し合ったことを詰問して陳謝させることもあった[63]。政治上は対立していたが、西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」[64]と言うほど2人の関係は良好であった。また、愛妾を同伴して酒を酌み交わす会をたびたび開き、養子の八郎が桂の秘書官となるなどの交流もあった[65]。明治43年(1911年)8月、桂と原の交渉の結果、桂内閣が辞職し、後継首相に西園寺が就任することになった[66]。
8月30日に成立した第2次西園寺内閣は、内閣の構成をほとんど政友会が決めるなど、独自性が強いものになったが、それは西園寺よりも原の影響が大きいものであった[67]。この内閣では明治天皇の崩御と大正天皇の践祚、辛亥革命後の中国への対応に当たった。大正天皇の践祚に当たっては8月13日に補国の任に当たっているために、天皇を助けるよう勅語を受けている[68][69]。西園寺と原は鉄道予算を巡って対立し、一時は原が辞表を西園寺に提出し、西園寺はそれを天皇に奏上する直前までに至った[70]。
大正元年(1912年)12月、上原勇作陸軍大臣が二個師団増設を要求して入れられずに辞職した[71]。この動きには首相の地位をねらった桂の策動があり、後継陸相を得られないことで内閣は存続不可能となり、12月5日に総辞職した[71]。これは陸軍とその背後にある長州閥の動きが原因であるという国民からの大反発を受け、第一次憲政擁護運動が始まるきっかけとなった。首相辞任後、西園寺は前官の礼遇を受けている[72]。
桂は思惑通りに12月21日に首相に就任したが、国民及び議会の反発は強烈なものであった。翌大正2年(1912年)2月には政友会から内閣不信任案が提出され、桂は大正天皇に要請して、西園寺に対して不信任案を撤回するようにという勅語を出させた[73]。西園寺は一応政友会議員への説得を行ったが、議員たちはひるまず、不信任案は議会を通過した[73]。西園寺は違勅を理由に総裁を辞任する意向を漏らしたが、原に止められ、辞任は行わなかった[73]。桂が2月11日に辞職すると、大正天皇は後継首相を決める元老の協議に、西園寺も加わるよう要請した[74]。山県は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した山本権兵衛海軍大将が後継首相となった[75]。また西園寺はこの席で、将来は衆議院における多数党の党首が首相となる、イギリス方式を導入してはどうかと提案しているが、元老の賛意は得られなかった[76]。
山本内閣成立後、政友会幹部たちは集団指導体制に移行する方針を決めていたが、西園寺の留任を求める声が高まったため、曖昧な状態にしておくことが選択された。西園寺は京都の別荘清風荘にひきこもり、事実上政治活動の一線から退いた[77]。原と松田は西園寺が一旦総裁に復帰し、後継総裁に譲るという形式を考えたが、西園寺は健康上の理由を原因に総裁復帰を認めなかった[78]。同年に松田が病死し、原が後継となることは誰の目にも明らかとなった。大正4年(1914年)3月、山本内閣がシーメンス事件で総辞職し、後継首相を決める元老会議に西園寺も呼ばれたが、先年の違勅問題を理由に上京しなかった[79]。政友会は再び野党となり、体勢を立て直す必要に迫られた。西園寺の総裁復帰を求める声も高まったため、西園寺は5月に総裁を原に譲ることを明言し、6月18日の総会で、原が正式な政友会総裁に就任した[80]。総裁を退き、宮中や元老に近い西園寺の立場は、原にとっても得難い存在であり、かつて確執のあった原との関係も修復されていた[81]。政友会が第二党に転落した際に原は、西園寺に組閣を働きかけているが拒否されている[81]。大正5年(1916年)、西園寺は清風荘から静岡県興津の旅館、水口屋の勝間別荘に移り、主な拠点とし始めた[82]。
元老の一員
第2次大隈内閣の後半になると、首相大隈重信は後継に加藤高明をつけようと模索していた。西園寺は大正5年(1916年)3月に大正天皇に拝謁し、加藤はまだ適当ではなく、原か寺内正毅が適当であると奏上している[81]。8月には山県の邸宅で後継首相について元老たちと協議している。10月の大隈内閣総辞職後、山県は元老会議に西園寺も加えるよう奏上し、大正天皇の裁可を得た。これにより西園寺は正式に元老の一員となった[3]。この会議で寺内正毅が首相に推薦された。
大正7年(1918年)、寺内内閣が行き詰まりを見せると、後継首相には第一党である政友会総裁の原が有力となった。政党嫌いの山県は原を避けるために松方と協議して、9月20日に西園寺に首相就任を勧めている[83]。翌9月21日に大正天皇に拝謁すると、組閣の大命を下された。西園寺は一両日の猶予を願った後に辞退し、後継首相に原を推薦した[84][83]。こうして原内閣が成立すると、西園寺は原の後見人的存在となった。
パリ講和会議
その頃第一次世界大戦が終結し、講和会議が開かれることとなった。大国の首脳が集まるこの会議に、日本としてもそれなりの代表を送る必要があった。原首相と内田康哉外相が協議し、首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた[85]。西園寺は健康上の不安から辞退しようとしたが、12月18日に応諾した[85]。この際、「無謀」であるが、老体を犠牲にするという覚悟を原に示している[85]。しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出国したのは牧野伸顕や珍田捨巳といった他の全権が出発してから一ヶ月後の大正8年(1919年)1月14日のことであった[86]。西園寺と同行したのは妾の奥村花子、娘の新子と八郎の夫妻、そして近衛文麿公爵らであった[87]。また名門料亭なだ万の主人楠本萬助が板前二人を連れて乗船しており、船倉には日本食が5トンも積み込まれていた。これは現地で日本食パーティーを開くためのものであった[88]。
西園寺の一行は3月2日にパリに到着したが、フランス側からの出迎えはなかった[89]。すでに日本にとって重要な検討課題の討議は行われており、すでに牧野や珍田が交渉の主役となっていた。さらに20年ぶりの訪仏であったこともあり、旧友クレマンソーの語るフランス語を聞くことはできても、話すことはできなくなっていた[90]。また病気がちであったために精力的な活動もできず、会議には参加していたが、発言は一度も行っていない[91]。このため外務省がまとめたパリ講和会議の概要文書で、西園寺が登場するのは4月27日のクレマンソーとの会談のみであった[92]。吉野作造は「何を言ってよいか分からなかったためだ」と批判している[93]。ただ、佐分利貞男は、山東問題が紛糾した際に、日本代表団の中から帰国しようという声が上がった際、西園寺が「国際連盟問題は山東問題よりも重要であるとし、自分一人でもパリに留まる」と発言したことを回想し、日本代表団内部に影響を与えたことを示唆している[94]。
講和会議が一段落した後の7月10日にはイギリス国王ジョージ5世に拝謁している[95]。8月24日に東京に帰還し、洋行中に建造されていた駿河台の新邸に入った[96]。また9月には興津に住友家の資金で建設された別荘、「坐漁荘」が竣工した[82]。これ以降西園寺は一年の四分の三を興津で暮らし、駿河台の本邸に入るのは政治的な用事があるときのみであった[82]。一年後の大正9年(1920年)9月7日には講和会議の功績で公爵に陞爵した[97]。
最後の元老に
大正9年(1920年)10月に問題化した、皇太子裕仁親王(昭和天皇)妃候補であった、久邇宮良子女王(香淳皇后)をめぐる問題(宮中某重大事件)で、西園寺は当初良子女王の皇太子妃辞退に持ち込もうとする山県に同調していたが、事態が不利になると問題から距離を取った[98]。問題の終結後、山県と松方も辞表を提出することになり、宮中問題における二元老の発言力は低下した。このため原首相と西園寺の宮中に対する影響力が増加することになった[99]。
しかし大正10年(1921年)11月4日に原首相が東京駅で暗殺された(原敬暗殺事件)。京都の清風荘でその報を受け取った西園寺は上京した。推薦のために召された山県と大隈は病気のために拝謁を行わず、西園寺は小田原で静養している山県の元を訪れて協議した。この時山県は西園寺の首相就任を進めたが、西園寺は「私はあなたより年が若い。あなたは私より先に死せられるると思ふ。其の時はあなたに代わり宮中の事をお世話申す。それ故請けられぬ。」と拒絶した[100][101]。西園寺はその後平田東助を推薦しようとしたが断られ、平田の提案もあって後継首相として政友会の高橋是清蔵相を推薦した[102]。結果として政党内閣が存続することになったが、西園寺は当時「政友会の内閣と云ふも、政友会内閣に非ず、陛下の内閣と思ふ。」と考えており、政党内閣が絶対に必要と考えていたわけではなかった[102]。
大正11年(1922年)2月、山県が病死した。山県は死の直前に自分の私設秘書であった松本剛吉に、西園寺の元に仕えるよう命じた。これは山県が西園寺を後継者と認識していたためであり、以降松本は西園寺の元に政治情報を伝える役割を担うことになった[103]。西園寺自身も「山公薨去後は松方侯は老齢でもあり(中略) 自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山県の後継者であることを意識していた[104]。以降興津の坐漁荘には、政官界の大物が「興津詣」を行うようになった[105]。この年に御殿場の別荘が完成し、7月下旬から9月中旬までの間避暑に訪れるようになった[106]。しかし同年6月、高橋内閣が政友会の内紛で倒れたときには、宮内大臣牧野伸顕が松方と連携し、加藤友三郎を後継首相に選定した[107]。この動きを西園寺は把握しておらず、牧野を薩摩派として警戒するようになった[107]。大正12年(1923年)8月、加藤首相の病状が悪化し、松方も体調が悪化していたため「万事を西公(西園寺)に一任する」こととなった[108]。西園寺は牧野と協議し、今後は元老以外の者と相談せずに摂政(裕仁親王)に後継首相候補を伝えること、摂政からのご下問に答える方式についての確認を行った[109]。8月24日、加藤首相が病死すると、西園寺は「切腹する覚悟」までして[108]、山本権兵衛元首相を首相に推薦した[108][109]。
12月29日、虎ノ門事件の責任を取って第2次山本内閣が総辞職すると、西園寺が主導権を握って清浦奎吾を後継首相に推薦した[110][109]。政党に基盤を持たない清浦の推薦は立憲政治を期待する人々からの非難を受け、「元老の名誉は地の底に落ちた」「(西園寺は)天下の怨府」となったと評された[111]。しかし西園寺は次の選挙(第15回衆議院議員総選挙)のために中立的な内閣が必要であると考えており、貴族院を主体とした清浦内閣に一種の選挙管理内閣としての存在をもとめたためであった[112]。しかし清浦内閣は超然主義的な政治運営を行ったため、各政党が反清浦で団結する第二次護憲運動を呼び込むこととなった。このため選挙での清浦派の敗北はあきらかであり、投票前日の1924年(大正13年)5月9日に清浦首相は辞意を伝えていた[113]。
西園寺はこの選挙結果に「何処の国でも政府を握れば選挙干渉位はやるのが当り前のことだ、此政府ののろまさ加減、特に山本、床次、水野と来たら話にならないなあ」と言って笑った[114]。西園寺は議会で多数派を握れないからといって清浦首相が辞任する必要はないとして清浦内閣の存続を促すような意見を伝えているが、これは護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)を団結させるために敵としての清浦首相が必要であると考えていたためであった[115]。清浦内閣は選挙後も存続したが、護憲三派の結束を崩すことはできず6月7日に総辞職した。当時、後継首相は最大会派の憲政会総裁加藤高明となることは確定的であったが、一部には政友会総裁の高橋是清とあわせた二人に大命を降下させることも検討されていた[116]。西園寺は加藤単独への大命降下を考えており、勅使徳川達孝侍従長に即答で加藤を奉答している[117]。松方にも下問があったが病気が重篤であったために辞退され、同じく下問をうけた平田内大臣も、西園寺との事前の打ち合わせ通り加藤が適当であると奉答している[118][119]。西園寺は後年、加藤を大久保利通、木戸孝允、伊藤博文とならべて「一角の人物であった」と評価している[120]。こうして加藤高明内閣が成立した。
7月2日に松方が死去すると、西園寺はただ一人の元老となった。山県の死後、牧野宮相や松方によるご下問の範囲を山本権兵衛や清浦奎吾に拡大し、元老を再生産しようという動きや、枢密院が諮問範囲に加わるように求める動きはあったが、西園寺はその動きを認めなかった[121][122]。病中であった平田内大臣も当分は西園寺一人に首相推薦の任に当たってもらうほか無く、「元老は西園寺公を限りとし、将来は置かぬが宜し。原が居れば別だが、種切れなり」と考えていた[123]。平田の意見を聞いた西園寺も「平田伯の所説は尤もと思ふ、それは自分の決心し居る処で、世間で何と云はうと,自分は皇室に身を捧げ居る積りゆえ、ご下問等の場合は一人で、御答へ申し上ぐる決心なり」とその意志を明らかにした[123]。平田が辞任した後に牧野が内大臣となり、牧野の後任の宮内大臣には西園寺の推す一木喜徳郎が就任している。大正15年10月(1926年)、西園寺は首相推薦は元老の他に内大臣にも下問があり、西園寺亡き後は内大臣が勅許を受けた上で他の人と相談して行うという方式をとることを確認させている[124]。吉野作造は西園寺が元老を自分の代で自然消滅させようとしていると観察し、伊藤隆、馬場恒吾、升味準之輔といった研究者たちもそう見ている[125]。
憲政の常道
護憲三派の憲政会と政友会の対立は徐々に激化し、1925年(大正14年)4月1日に高橋是清が政友会総裁を辞任し、田中義一が総裁になるとその動きはいよいよ加速した[126]。7月1日にはついに第1次加藤高明内閣は崩壊し、加藤首相は辞表を摂政宮裕仁親王に奉呈した[126]。裕仁親王は西園寺に諮問したが、西園寺は「(今回の政変は)左程の事にあらざる」として、上京しなかった[127]。西園寺は坐漁荘に牧野内大臣と一木宮内大臣を呼び、あらためて加藤への大命降下を求めた。牧野も同意見であり、8月1日に憲政会単独の第2次加藤高明内閣が成立した[128]。
しかし翌1926年(大正15年)1月21日、帝国議会の質疑中に加藤首相が発病し、そのまま1月28日に死亡した[129]。憲政会は後継総裁として若槻禮次郎内相を選出した。西園寺は若槻を「首相の器に非ず」と見ていたが[130]、「議会中のことなり、前年原の例もありし故、此際は仕方ない」として若槻を首相に推薦した[131]。5月には西田税らが牧野内大臣らの金銭スキャンダルを書いたパンフレットをばらまく事件が起きたが、西園寺は平沼騏一郎枢密院副議長との会談で婉曲に牧野を支援する姿勢を示し、事件を終息させている[132]。
12月に大正天皇が崩御し、昭和元年となった。12月28日、践祚直後の昭和天皇は閑院宮載仁親王、首相若槻礼次郎、そして西園寺に「匡輔弼成(天皇を助ける)」事を命じる勅語を下している[133]。翌1927年(昭和2年)に第1次若槻内閣が崩壊すると、昭和天皇は牧野内大臣を通じて西園寺に下問を行った。勅使となった河井彌八侍従次長は、牧野内大臣が「憲政の常道」に従って第二党の政友会総裁である田中義一への大命降下が適当だと考えているという事を伝え、西園寺も同意見であると述べ、田中義一に大命が降下した[130][134]。
満州某重大事件
田中は首相就任後に大規模な内務省官僚の人事異動を行い、昭和天皇の不興を買った[134]。昭和天皇は牧野内大臣に対して、田中首相に注意してよいかと質問した。牧野は西園寺を通じて田中首相に警告させる方式を考えたが、西園寺は天皇が官僚の移動にまで関与することを好ましく思っておらず、田中には軽く伝える程度にしておいた[135]。しかし結局牧野が天皇の意向を田中首相に伝え、8月30日に田中が天皇に謝罪するに至っている[135]。
昭和3年(1928年)6月4日、関東軍の参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件が勃発した。西園寺は7月か8月の時点で犯人は関東軍参謀であることを察知し、田中首相に対して断乎とした処罰を行うよう勧告した[136]。西園寺に影響された田中首相は12月24日、犯人は日本陸軍のものであり、犯人を厳罰に処する方針を天皇に奏上していたが[136]、閣内や陸軍の圧力に敗れ、徐々に軟化していった。昭和天皇はこの方針が不満であったが、陸軍全体の意向に反対する形の処置は後継内閣すら作れない事態を招くことになり、田中首相に何らかの責任を取らせるべきだと考えるようになった[137]。昭和4年(1929年)6月27日、田中首相が事件の最終報告を奏上することになると、昭和天皇と牧野内大臣、一木宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長らは、田中首相を問責する意向を固め、西園寺に内々で相談した[138]。牧野は西園寺が賛成すると考えていたが、西園寺は問責の言葉が田中首相の辞任につながると反対した[138]。結局天皇と牧野らは西園寺の意見に従わず、田中首相を問責した上で、釈明のための拝謁を拒絶するという行動に出た[139]。田中首相は辞任を決意し、閣僚や政府内、軍の強硬派による牧野ら宮中グループに対する反感は強まり、昭和天皇は宮中グループに左右される弱い存在であるという認識が持たれるようになった[140]。西園寺は中立的な調停者の立場をとるために、次第に事件処理問題からは距離を取っていた[141]。事件の公表に反対し、牧野らを批判する小川平吉鉄道大臣と面会したときにも「師父」と形容される程信頼を持たれるよう対応していた[142]。
民政党内閣期
西園寺は田中の後任として、「憲政の常道」に従い、民政党総裁の浜口雄幸を推薦した[143][144]。昭和5年(1930年)にロンドン海軍軍縮会議が開催されることになると、西園寺は条件にこだわらず条約を成立させるべきと考えており、浜口首相や牧野・一木・鈴木らの宮中グループにその意見を伝えている[145]。幣原喜重郎外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、この頃西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった[146]。西園寺は高熱でうなされながら「軍縮」「イタリー」「フランス」とうわごとを言い、目が覚めると「軍縮はどうなりましたか」と秘書の原田熊雄男爵に問いかけるほどだった。原田が条約は成立する見込みだと伝えると、「それで安心しました」と安堵を示したという[147]。病が癒えた後、ロンドン条約の批准に対して枢密院が反対の意志を示すと、西園寺は内閣によって枢密院議長と副議長を更迭してもいいと激励している[148]。結局ロンドン条約は無事批准されたが、条約に不満を持つ海軍内の強硬派や枢密院の宮中グループと民政党に対する不満はさらに募った[148]。西園寺に対しても不満を持つ者も現れたが、この時点ではまだ、強硬派にとっても調停者としての権威を保持し続けていた[148]。
11月、浜口首相が東京駅で狙撃され、病状が悪化して昭和6年(1931年)4月に総辞職すると、西園寺は民政党の後継総裁となっていた若槻を再び推薦した[149]。西園寺は政友会に人気が無く、中間内閣にも適当な人がなく、また暗殺を奨励することに成りかねないとして民政党内閣の存続を決めている[150]。この頃、西園寺邸によく出入りしていた[151]宇垣一成陸軍大将を担いだクーデター未遂事件、「三月事件」が発生した。8月に事件を知った西園寺は、参謀総長閑院宮載仁親王や秩父宮雍仁親王に話して事件の元兇である二宮治重参謀次長らを更迭しようと考えたが、西園寺に近い原田や近衛、牧野らは陸軍を刺激することを怖れ、結局報告は行われなかった[152]。
9月18日に満州事変が発生すると、西園寺は原田に対し、事件の片がつくまでは若槻首相を決して辞めさせてはならないと牧野内大臣と鈴木侍従長に伝えるよう命じた[153]。また陸軍が越境に関して奏上してきた場合には、天皇は即時に許さず、後で処罰が行えるようにしておくべきだとも伝えている[153]。しかし西園寺の意見が伝わる前に陸軍は上奏を行い、昭和天皇が陸軍に処分を下す機会を逃してしまった[154]。さらに若槻首相が陸軍に妥協的になったため、満州事変の拡大を防ぐことはできなくなってしまった[155]。若槻内閣は事変を収拾することもできず、安達謙蔵内相が政友会との「協力内閣」の成立を唱えたために民政党も混乱に陥り、12月11日に若槻内閣は総辞職した[156][157]。
12月12日、西園寺は上京し、牧野・一木・鈴木と相談し、政友会総裁の犬養毅を推薦することで一致した[158][157]。西園寺は後に「事情已むを得なかったし、また当然なこととも思っている。」と語っている[159]。こうして翌12月13日に犬養内閣が成立した。
当時の政治評論家馬場恒吾が犬養内閣の成立に当たって、西園寺が「憲政の常道を守った」と評価したように[159]、この時期の西園寺は「憲政の常道」に従って、衆議院の第2党から後継首相を推薦していた。このため吉野作造のように「まごう方なき政党内閣論者なることは明白である」と評価する者もいるが[160]、伊藤隆、升味準之輔といった研究者は、西園寺が「其時の模様にて中間内閣も己むを得ざることあるも計り難し」と語って中間内閣の可能性を常に忘れていなかったと指摘している[160]。桜内幸雄は、西園寺が衆議院だけでなく貴族院会派も憲政の内であると認識していたと指摘している[161]。憲政の常道についても西園寺は高橋是清内閣の崩壊時に「憲政の常道又は純理論等は分らぬ議論」で政権を要求する憲政会を批判している[162]。ただし伊藤之雄は、この時期の元老や内大臣が、憲政の常道論を受け入れていたことを指摘している[163]。
政党内閣の終焉
軍部は満州国を建設して事変の権益を確保し続けようとした。西園寺は上京して満州国承認を認めてはならないと犬養首相らに働きかけていたが[164]、昭和7年(1932年)5月15日、犬養首相は五・一五事件によって暗殺された[165]。陸軍は政党内閣の成立に猛反発しており、政党内閣には陸軍大臣を出さないと参謀本部第二部長永田鉄山少将が言明しているなど、内閣が成立すらできない可能性が極めて高かった[166][167]。また森恪内閣書記官長らは平沼騏一郎枢密院副議長による内閣を企図していたが、彼はファシスト的な革新派の一員であった。昭和天皇は西園寺に「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と鈴木侍従長を通じて伝えており、西園寺も同意見であった[168][169]。西園寺は牧野内大臣ら、高橋臨時首相代理や若槻民政党総裁といった政治家、陸海軍の元帥、平沼に親しい倉富勇三郎枢密院議長とも面談した上で、5月23日に海軍大将の斎藤実元海軍大臣を推薦した[170][171]。西園寺は斎藤が政党でも強硬派でもない中間的な存在であり、「何もなさず、ただ四方に刺激を与えない」存在であることを祈っていた[172]。西園寺は「このたびは随分骨が折れた」と述懐したが[171]、平沼や陸海軍の強硬派らが持っていた、西園寺の中立性に対する信頼は大きく損なわれた[173]。この事件の後、坐漁荘には鉄筋コンクリート造りの書庫が建てられたが、万一の際の避難用であったと見られている[174]。
揺らぐ権威
満州事変以降、中国大陸における日本軍の活動はいよいよ拡張的となった。西園寺はリットン調査団の報告書に批判的な新聞報道に不快感を示している[175]。西園寺は国際連盟脱退には反対であったが、内外の情勢から脱退は不可避であると考えるようになった。このため国際連盟脱退に関する元老への諮問や重臣会議の開催を行わせないようにし、せめてその権威失墜を防ごうとした[176]。昭和7年(1932年)8月から、首相推薦の仕組みを変更することが検討された。昭和8年(1933年)2月28日、最初に内大臣に下問があり、内大臣は元老に下問するよう奉答し、元老は判断によって内大臣や枢密院議長、そして首相経験者である重臣と討議するという方式が決定された[177]。
その頃牧野内大臣や一木宮内大臣に対する軍部からの攻撃は強まり、健康を害したこともあって二人は辞意を漏らすようになった[178]。昭和9年(1934年)に反西園寺派の倉富枢密院議長が引退すると、西園寺はその後任に一木を就任させ、後任の宮内大臣には湯浅倉平を就任させた[178]。倉富が後任としようとし、ゆくゆくは首相となることをねらっていた平沼を、西園寺は要職に就けるつもりはなかった[179]。斉藤内閣崩壊の原因となる帝人事件は、平沼の策動によるものであった。
5月に斉藤首相が辞意を固めると、斎藤は後継首相として岡田啓介海軍大将が適当であると西園寺に推薦した[180]。この人選には牧野内大臣や湯浅宮内大臣も同意していたが、西園寺はもうすこし頑張ってほしいと伝えた[180]。しかし7月3日、斉藤内閣は総辞職した[180]。西園寺は当時体調を崩していたが、7月4日に上京し、内大臣および重臣と協議した結果、岡田が適当であると上奏した[181]。
西園寺は中立的な立場を取ることを意識していたが、しだいに国粋派からの憎悪を買うようになっていた。青年将校によるクーデターの対象にも加えられ、新聞には西園寺に対するテロ未遂事件が取り上げられるようになった[182]。坐漁荘に派遣される警官も2名増員され、警備が強化されている[182]。一木枢密院議長が体調を崩し、岡田首相も天皇機関説問題などで窮地に立つ中、西園寺は二人を「死ぬまでやったらいいじゃないか」と激励している[183]。機関説問題では西園寺も批判の対象となり、「元老重臣の大謀叛」という怪文書がまかれ、在郷軍人会の代表が坐漁荘を訪れる程であった[183]。12月26日には牧野内大臣がとうとう辞任し、西園寺は後任に斎藤前首相を推薦した[184]。岡田首相は近衛文麿が人心一新の点から好ましいと考えていたが、西園寺は首相を経験してからがよいと考えていた[184]。
二・二六事件
昭和11年(1936年)の二・二六事件事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していた。対馬勝雄・竹島継夫らをはじめとする将校が、愛知県豊橋市の陸軍教導学校の生徒120人を使って坐漁荘を襲撃する予定であった[185]。しかし将校の一人が生徒を利用することに反対したため、襲撃計画は中止された[185]。
2月26日の午前6時半、秘書の中川小十郎が事件の報告に訪れた。西園寺は顔色一つ変えず、「またやりおったか、困ったものだ」とつぶやいた[186]。坐漁荘の警備には80名が増員され、側近たちは田舎に避難するよう勧めたが、西園寺は連絡が取れない場所に移っては、天皇からの下問に答えられないと拒否ししたため、静岡県警察部長官舎に移ることになった[187]。しかし暖房設備がなかったため、さらに知事公舎に移った[187]。西園寺は始終笑顔を振りまき、晩酌を楽しむなど落ち着いたものであり、東京の情勢が落ち着いたという報告を受けた2月27日には、どうせ死ぬなら坐漁荘がよいということで坐漁荘に戻ることになった[188]。しかし西園寺が信任する斎藤内大臣が殺害、鈴木侍従長が重傷を受けたことは西園寺にとって大きな打撃となった[189]。湯浅宮内大臣と一木枢密院議長は後継の内大臣として近衛文麿貴族院議長を推薦し、西園寺もこれを考慮していたが、近衛は病気と称して辞退した[190]。西園寺は湯浅宮内大臣を内大臣にする案を考えたが、天皇から勅使派遣ではなく、電話にて西園寺の上京が求められた。西園寺は当時ひどい腰痛と腹痛に悩まされており、しばらく上京を猶予してほしいと述べ、病状が安定した3月2日に上京した[191]。
西園寺は上京した直後に参内し、湯浅宮内大臣、一木枢密院議長、木戸幸一内大臣秘書官長と協議した。一木は平沼を推薦したが、西園寺は近衛が適任だと思っており、木戸もこれに同意した[192]。3月4日、西園寺は宮内省に近衛を呼んで首相就任を求めたが、近衛は病気を理由に辞退しようとした[193]。近衛の本音は「元来重臣と自分は考えが違う」ため、革新派と元老の板挟みになることを嫌ってのことであった[194]。しかし西園寺は近衛を推薦し、同日午後4時に近衛に対して組閣の大命が下った[193]。近衛は病気を理由に大命を拝辞し、西園寺らは再び後継首相の協議を行うことになった[193]。その日の夜、一木が外務大臣広田弘毅を提案し[195]、西園寺らもこれに同意した。木戸と近衛、吉田茂らが広田を説得し[196]、3月5日に広田に大命が下って3月9日に広田内閣が発足した。また湯浅宮内大臣が内大臣に、松平恒雄が宮内大臣となっている[197]。
近衛は若い頃から西園寺の側におり、西園寺も前途に期待をかけていた。しかし近衛は満州事変頃から西園寺と思想を違えて陸軍や革新派に近づいていった[194]。西園寺は近衛の事件後の動きや陸軍に同調するような言動を取るようになったことを惜しみ、「なんとか近衛を地道に導く方法はないだろうか」と考えるようになった[198]。また3月13日には一木枢密院議長が辞任したことにより、西園寺が拒み続けていた平沼が枢密院議長に就いた[199]。西園寺は「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないものだね。」と諦観にも似た感想を漏らしている[200]。
元老の退場
昭和12年(1937年)1月23日、広田内閣は陸相寺内寿一の辞任によって崩壊した。湯浅内大臣と松平宮内大臣は平沼枢密院議長の意見を聞いた上で即日坐漁荘に連絡を取ったが、西園寺は平沼の意見を取り入れる気はなかった[201]。西園寺が風邪をひいていたため、坐漁荘を湯浅内大臣が訪れ、協議を行った。西園寺はこの席で宇垣予備役陸軍大将が軍部を押さえられると思って推薦した[202]。しかし陸軍は宇垣の組閣に反対し、陸軍大臣を出すことを拒否した[203]。宮中も強力な手段をとって宇垣に協力することは困難であると認識し、宇垣は大命を拝辞することになった[204]。1月29日、再び湯浅内大臣が坐漁荘に派遣された。西園寺と湯浅は平沼枢密院議長を第一候補とし、第二候補として林銑十郎予備役陸軍大将を挙げた[205]。平沼が辞退したため、林が大命を受け、林内閣が成立した[205]。西園寺は宇垣組閣の失敗に落胆し、二度目に坐漁荘を訪れた湯浅に対し、「天皇に拝謁することもできず、また人も知らない」として、天皇の下問と奉答を辞退したい意向を述べた[206]。しかし湯浅内大臣や木戸宗秩寮総裁はこれを受け入れなかった[206]。
5月31日、第20回衆議院議員総選挙での敗北によって林内閣が総辞職すると、西園寺に再び下問が行われた。候補としては杉山元陸軍大臣も挙がっていたが、この際は近衛を推すことに決めた[207]。近衛内閣の外相には当初永井柳太郎が挙がっていたが、西園寺らが難色を示したために広田元首相が外相となることになった[208]。第1次近衛内閣成立以降、西園寺は「近衛内閣の評判も割合悪くないようじゃないか」と機嫌をよくしていたが[208]、7月7日に起こった盧溝橋事件によって心を痛めるようになった。西園寺は「こうちょいちょいいろんなことを支那(中国)でやると結局非常な損害を蒙る。思わぬところに国を持って行かれちゃあ困る。」「支那人(中国人)だって日本人より利口な人もおり、また支那人だけでなく外国人で日本の肚を見透かしているものもいる。」「よほど日本もしっかりやらないと、みんなから馬鹿にされることになる」と危惧していた[209]。また新聞が「断乎一蹴」「断乎一撃」などの言葉を使い、「さかんに人を殺したり、その数が多ければ多いほど褒め称える」風潮についても懸念を示していた[210]。近衛についても、大陸の戦局の見通しなどについて危惧を持っていたが、希望は捨てきれないでいた[211]。昭和13年(1938年)5月23日、広田外相の後任として宇垣の名が上がったが、西園寺は首相候補である宇垣に傷をつけてはいけないと反対している[212]。しかし近衛は宇垣を外相とし、西園寺の意向を無視している[213]。西園寺は近衛には同情していたものの「今の政府のすることは矛盾だらけ」と批判的であった[213]。10月下旬になって近衛が首相を辞任し、内大臣に移りたいという意向を示すようになると「筋が通らない」として反対し、陸軍の支持が厚い近衛が宮中に影響力を持つようになることを防ごうとした[214]。
昭和14年(1939年)1月4日、近衛内閣は総辞職した。湯浅内大臣は坐漁荘を訪れて協議したものの、「自己の責任」において平沼枢密院議長を推薦した[215]。これ以降首相の推薦は内大臣が行い、一応元老の意見も聞くという形になった[216]。西園寺はこの頃から「報告を受けるだけ」[215]、何も反応しないという状態になり、「どうも何をやっているんだか。内政も外交も自分にはもうちっとも判らない」「日本人の程度がまだまだ低い。やはり到底外国人には及ばない」と気力を無くしていた[217]。影響力もはっきり低下し、平沼内閣が辞職して後継首相を決める際に「捨て身でやってほしい」と述べ宇垣や池田成彬の名を上げたものの、結局湯浅内大臣や近衛によって阿部信行陸軍大将が候補となり、西園寺もこれに同意を与えた[218]。
昭和14年(1939年)2月以降、西園寺はたびたび体調を崩し、昭和15年(1940年)の夏には恒例となっていた御殿場の別荘への避暑も行わず、坐漁荘の居室に冷房設備を取り付けた[219]。西園寺は死期を悟り、親しい人物に形見分けとして金銭を贈った[220]。7月16日に米内内閣が崩壊し、後任に近衛が推薦される動きとなった。7月17日に西園寺のもとを内閣秘書官長が訪問して、同意が求められたが、西園寺は「この奉答だけは御免蒙りたい」として奉答を拒絶した[221]。西園寺は「今頃、人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れな者じゃあ駄目だね」「踏みとどまってもやるだけの決心があるか」と近衛の資質に対して疑念を持っていた[221]。第2次近衛内閣では反対し続けた日独伊三国軍事同盟が成立し、「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」と嘆いている[222]。
11月、西園寺は腎盂炎を発症し、それ自体は完治したものの11月24日午後9時54分に衰弱に耐えられずに死去した[223]。享年92(満90歳没)。贈従一位。西園寺は「俺は死んでも坊主や神主の世話にはならぬ」として、国葬も辞退したい意向を持っていたが[224]、結局日比谷公園で壮大な国葬が行われた[225]。数万人が参加し、同日に公開された坐漁荘にも8000人の参観者が訪れた[225]。
最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる[要出典]。
政治家としての西園寺
西園寺は聡明で国際的な視野を持ち、学識が深く、文化的にも洗練された人物であるという評価が大勢である[226]。また民主主義の潮流についても支持していたが、一方で大衆の熱狂には批判的であった[227]。
またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから国家主義に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。また『原敬日記』の記述から、西園寺は権力への執着が乏しく、政治的な手腕がなかったという見方をされることもあるが、伊藤之雄などのように円熟した政治的手腕を持っていると評価する研究者もいる[228]。西園寺は冷淡で物事に淡泊であるというイメージを、秘書である松本剛吉からも抱かれていたが、これは中立的な人物であることを認識させるため、西園寺自らが広めたイメージである[229]。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に教育勅語の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。
西園寺は立命館大学に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、国粋派や革新派の反感をも招いた。
協調外交
西園寺は明確な国際協調派であり、口癖のように「世界の大勢」と唱えていた[230]。ある時、西園寺が三条実万の伝記である絵巻物を執筆して明治天皇に献上した。天皇は「必ず世界の大勢から書いてある」と予想し、果たしてその通りであったため大笑いしたという[230]。西園寺は陸奥との交流でこうした外交思想を固め、「東洋の盟主たる日本」などという狭い気持ちではなく、「世界の日本」に着目してきたと回想している[231]。
日清戦争後から台頭した過度な日本中心主義的ナショナリズムについては危惧し[232]、他国のナショナリズムを尊重した上で、国民が国の独立と発展のために力を合わせる健全なナショナリズムを志向していた[233][234]。
国際関係においてはイギリスやアメリカと協調するべきと考えており、「フランスやイタリアと一緒になっても日本の進展はない」と断じていた[175]。
政治手法
原敬は政友会総裁としても首相としても手腕に欠けていたと評している[235]。しかし元老時代の西園寺は、田中義一内閣崩壊時の小川鉄相に対する態度のように、各派にバランスを取り、いずれに対しても中立的な存在と認識されることでその権威と影響力を保った[142]。この態度を三浦梧楼は「政友会員に面会すれは三派連合(護憲三派)を称し、政友本党員に逢へは本党を称し、何等の定見もなく、元老の資格なし」と批判している[114]。しかし斉藤内閣成立以降は次第に強硬派から疎まれるようになり、倉富枢密院議長や平沼枢密院副議長からはその引退や死を望まれるようになった[236]。
宮中との関係
西園寺は一貫して天皇が直接政治に関与して、権威を低下することを防ごうとしていた。このため昭和天皇の政治関与の動きにはたびたび懸念を示している[135]。しかし近衛内閣の頃からは次第に皇室による意志を示す必要があるとも考えており、直宮(天皇の兄弟)がその柱の一つになる必要もあると発言している[237]。
西園寺と教育
西園寺の教育思想
文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。また「人民がすべて、平等の関係において、自他互に尊敬し、自から生存すると共に、他人を生存せしむることを教へねばならぬ」として、自由主義的な教育を施すべきと考えていた[238]。
明治23年(1890年)には井上毅らが作った「教育勅語」に対して「あの教育勅語だけではもの足らない。もっとリベラルの方に向けて教育の方針を立つべき」と考え[239]、明治天皇に奏上して「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ[240]。この草案には「忠孝」や「愛国」といった語はなく、女子も含めた日本臣民が列国国民と対等に対応できるようにするというものであった[241]。しかし西園寺が病気がちとなったこと、伊藤首相が教育勅語の尊厳性を侵す行為として難色を示したことによって、結局成案とならず、草案のみが残った[242]。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。
また、以下の教育機関の設立にも関っている。
私塾立命館
明治2年9月23日(1869年10月27日)、京都御所内の私邸に「私塾立命館」を創設。当時よく見られた公家家塾同様、賓師には漢学者らを招いた。しかし「私塾立命館」の性格は他の公家家塾のそれとは異なり、むしろ一般的な教育機関の性格を備えていた。塾生には西園寺門客・家臣のみならず多くの若者が遠方からも集まり、塾は次第に内外の時事問題を議論する場になっていったと伝えられる。諸藩から集まる若い塾生の中には地方の郷士の出も多くおり、記録によれば、西園寺の側近として最後まで行動をともにする中川小十郎(後の立命館大学創立者)の郷里の人間も多くいたようである。塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。明治3年4月23日(1870年5月23日)のことであった。
西園寺は私塾立命館を閉鎖させた際、大層残念に思い再興を誓う。その後を継いだのが戊辰戦争以来西園寺の家臣として仕えた丹波国の郷士・中川家出身の中川小十郎だった。中川は西園寺の文部大臣および総理大臣当時の公設秘書であり、その後も終生西園寺の側近として公と行動をともにする人物である。現在の立命館大学は、中川が明治33年(1900年)に創設した京都法政学校が「私塾立命館」の名跡を譲り受け発展したもので、西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はない。
だが西園寺は中川の創設した京都法政学校への支援を惜しまなかった。事実、京都法政学校の学園幹事には西園寺の実弟の末弘威麿が就任、同じく実弟の住友財閥当主・住友友純からも学園に大口の寄付が行われるなど、自分の持つ政治力、人脈を用いて京都法政学校(立命館大学)に協力している。また西園寺の寄付した多数の書籍は立命館大学(旧制)が大学昇格条件を満たすために為されたものであり、現在も「西園寺文庫」として立命館大学に貴重なコレクションとして保存されている。この他にも西園寺自身および西園寺家から学園に送られた寄贈品(校地記念植樹なども含む)は数百点にも及び、これらの一部は立命館学園が「学宝」として管理している。
また西園寺は西園寺家家紋である「左三つ巴」を立命館学園が使用することを許可しており、第二次世界大戦終戦までこれを染め抜いた旗が実際に学園で使用されていた。西園寺は中川が「立命館」の名称と精神の継承を西園寺に申し出た際にはこれを大層喜び、自ら揮毫した『立命館と由緒』の大扁額を与えている。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学に言及しており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ。昭和7年(1932年)、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、立命館大学広小路校地を訪問先の一つに選んだ。9月22日の朝、京都市上京区にある立命館大学広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている[243]。 この『立命館』の扁額について、後に立命館大学記念式典に出席した西園寺裕夫(西園寺公望の曾孫)はこう語っている。
この扁額のオリジナルは、学校法人立命館総長室に掲げられている。また、学校法人立命館「中川会館」(京都市中京区)玄関にも掲げられている。
その他にも、キャンパス内には西園寺にゆかりのある品々が残されている。立命館大学衣笠キャンパス内には、昭和10年(1935年)に西園寺が立命館大学に寄贈した山梔子・南天竹が植栽されている。また、立命館大学西園寺記念館の庭園には、かつて西園寺の東京駿河台本邸に置かれ、のちに学校法人立命館に寄贈された石灯籠が設置されている。
西園寺が没した昭和15年(1940年)に立命館大学は、創立とその後の教育に大きく貢献した西園寺公望を立命館学園の「学祖」とする法人決議を行った。西園寺家と立命館大学の交流は現代も続いており大学の行事に西園寺家の人々が出席している。
京都帝国大学
1894年(明治27年)、文部大臣に就任した西園寺が「高等教育の拡張計画」を立案。第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家の需要に応じられる高等教育機関を京都にも設置することの必要性を挙げた。これに基づいて省内に設置した京都帝国大学「創立準備委員」が明治30年(1897年)「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し、京大創設の流れが固まった。当時、文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となり、西園寺の私設秘書でもあった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長に任命され大学業務を総括した。また、建学当初より「自由の学風」を学是としている同大学は、ともに西園寺と中川が学問の精神として掲げた「自由」を共通の理念として有している立命館大学と、2007年(平成19年)に学術交流および産官学連携事業に関する大学間協定を締結した。
明治法律学校
明治13年(1880年)、フランス留学中に西園寺と仲間同士だった岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操らが創設した明治法律学校(後の明治大学)の講師に迎えられ行政法を担当したと言われている[246]。
日本女子大学
明治34年(1901年)、女子大学設立の援助を求め頻繁に中川小十郎邸を訪れていた成瀬仁蔵を後援し、日本女子大学校の設立発起人、創立委員に就任。中川を日本女子大学校創立事務幹事嘱託に置いた。
人物・逸話
- 政治家となることをすすめたのはフランス留学時代の恩師アコラスだったが、西園寺は「政治家は常に思うところをいうことはできず、時に嘘を言わねばならない」と否定的だった。するとアコラスは「日本の政治家は時に嘘をつくだけでいいのか、フランスの政治家は常に嘘をついている」と大笑いした。二人の関係は極めて親密であり、西園寺はアコラスとクレマンソーが極秘で政治的パンフレットをフランス国内に持ち込む必要があったときにはその運び屋役を務め、またアコラスの旅行の時にはその世話をしたという[247]。
- 伊藤博文の邸宅を尾崎行雄と訪れた際に、伊藤が席を外すと、「政治などというものは、ここの親爺のような俗物のやることだ」と吐き捨てるように言ったという[235]。
- 参内する時以外はほとんど常に和装だった。
- 伊藤博文や井上馨に負けず劣らずの大変な女好きであり、花柳界では「お寺さん」として有名な通人であった。
- 明治2年(1869年)、フランスへの留学生に推薦してくれた大村益次郎に礼を言うため彼の旅館を訪れる直前、親友の万里小路通房が駆け込んできて長談義となり、その間に益次郎は襲撃されるという事件が起こっている。
- フランスでの盲腸炎以来多病となり、たびたび大病に悩まされた。慢性的なリウマチ、糖尿病[248]も持病であった。しかし逆に体に気をつけることになり、長寿に恵まれた。
- 非常に美食家であり、教皇庁訪問時には接遇担当者に料理通であると賞賛されている[249]。西園寺家には高級料亭なだ万から料理人が派遣されていたが、たいてい一年と続かず、4年続いたものが珍しがられるほどであった[248]。ステーキや鮭のバター焼などが好物であったが、庶民的なサンマも好きであった[248]。北大路魯山人も「たべものにはなかなかやかましい人」「通人」という観測を行っている[250]
- 明治30年(1897年)、前年まで外務大臣を務めた陸奥宗光が、山縣有朋を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという[要出典]。
- 私生活では極めて頑固で怒りやすい性格であり、家族が同じことを二度聞いてくると怒鳴り散らしたという[251]。「妻」の一人小林菊子は「叱られまいとすれば並大抵の苦労ではなく、よくできても口でほめるようなことはせず、それがあたりまえだと思っている人」と回想している[248]。
- 大変な読書家でもあり、近衛文麿は「漢籍についてはそこらの学者でもかなわない」と評している[252]。またフランス語・英語の書籍に関しても蔵書としており、現在は立命館大学の西園寺文庫に収められている[253]。
人物評
- 公私ともに親しかった陸奥宗光は「天下第一の高人」と評し、政略を持ち肝も据わっているが、それを露骨に振り回さず、一緒に仕事をしているとそれが次第に現れると評している[50]。
- 国木田独歩は若い頃は「下瀬火薬質」[254]だったが、1900年頃から優しさの分子が増え始めてきたとしている[255]。
- 原敬は『原敬日記』において政友会総裁時代の西園寺を「意志案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」とその資質を批判している[256]。
- 孫の西園寺公一は、火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にないと回想している[255]。
- パリ講和会議で再会した旧友クレマンソーは、「昔は過激な、愛すべき公子であったが、今はおだやかな皮肉屋となった」と回想している[22]。
年譜
※日付は明治5年まで旧暦
- 嘉永2年(1849年)10月22日、清華家の徳大寺公純の次男として京都で誕生。
- 嘉永3年(1850年)、公望と改名。
- 嘉永4年(1852年)12月20日、従五位下に叙位。
- 嘉永5年(1852年)1月27日、従五位上に昇叙。この年、西園寺師季の養子となる。
- 嘉永6年(1853年)
- 嘉永7年(1854年)1月22日、従四位下に昇叙、侍従は元の如し。
- 安政2年(1855年)1月22日、従四位上に昇叙、侍従は元の如し。
- 安政3年(1856年)2月5日、正四位下に昇叙、侍従は元の如し。
- 安政4年(1857年)10月7日、元服し。昇殿を聴され、右近衛権少将に転任。
- 文久元年(1861年)
- 3月27日、右近衛権中将に転任。
- 4月25日、従三位に昇叙、右近衛権中将は元の如し。
- 文久2年(1862年)1月5日、正三位に昇叙、右近衛権中将は元の如し。
- 慶応3年(1868年)12月20日、官軍参与を兼帯。
- 明治元年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 明治3年(1870年)12月3日、官費によりフランス留学のため、横浜より出航。ソルボンヌ大学で学ぶ。
- 明治11年(1878年)12月19日、正三位の位階に復す。
- 明治13年(1880年)10月21日、横浜へ帰航。
- 明治14年(1881年)
- 明治15年(1882年)3月11日、勲三等旭日中綬章を受章。
- 明治16年(1883年)12月24日、参事院議官に転任。
- 明治17年(1884年)7月7日、華族令の施行により侯爵を受爵。
- 明治18年(1885年)2月14日、駐オーストリア=ハンガリー帝国公使として赴任。
- 明治19年(1886年)8月6日、法律取調委員を兼任。
- 明治20年(1887年)
- 明治24年(1891年)9月4日、帰国し、賞勲局総裁に就任。
- 明治25年(1892年)10月7日、民法商法施行取調委員長を兼任。
- 明治26年(1893年)
- 明治27年(1894年)
- 明治28年(1895年)
- 6月5日、外務大臣臨時代理兼任。
- 6月21日、勲一等瑞宝章を受章。
- 明治29年(1896年)
- 明治30年(1897年)
- 10月5日、帰国
- 明治31年(1898年)
- 明治32年(1899年)、大磯に別荘(隣荘)を構える。
- 明治33年(1900年)
- 10月27日、枢密院議長に就任、以て第4次伊藤内閣の班列となる。内閣総理大臣臨時代理となる。
- 12月12日、内閣総理大臣臨時代理を解く。
- 明治34年(1901年)
- 5月2日、内閣総理大臣臨時代理となる。
- 5月10日、内閣総理大臣臨時代理から内閣総理大臣臨時兼任となる。
- 5月14日、大蔵大臣臨時兼任。
- 6月2日、第1次桂内閣発足により、内閣総理大臣臨時兼任と大蔵大臣臨時兼任を解く。
- 明治36年(1903年)
- 7月13日、枢密院議長を辞す。
- 7月14日、立憲政友会総裁に就任。
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)9月14日、勲一等旭日桐花大綬章を受章。
- 明治41年(1908年)7月14日、内閣総理大臣を辞す。
- 明治44年(1911年)8月30日、内閣総理大臣に就任(第2次西園寺内閣)
- 大正元年(1912年)12月21日、内閣総理大臣を辞職。前官礼遇を受ける。
- 大正2年(1913年)、京都の清風荘に隠棲。
- 大正3年(1914年)6月18日、政友会総裁を辞任。
- 大正6年(1917年)、大磯の別荘(隣荘)を池田成彬に売却。
- 大正7年(1918年)
- 12月21日、大勲位菊花大綬章を受章。
- 12月27日、帝国経済顧問に就任。
- 大正8年(1919年)、1月11日、パリ講和会議全権に任命。1月14日に渡仏、7月19日まで滞在、8月23日に帰国。静岡県庵原郡興津町 (現静岡市 清水区興津清見寺町)に別荘 (坐漁荘) を建設し、主な居住地とする。以後政財界の要人が頻繁に興津の西園寺の元を訪れるようになり、「興津詣」(おきつもうで)という言葉が生まれる。
- 大正9年(1920年)9月7日、公爵に陞爵(パリ講和会議首席全権の功)。
- 昭和3年(1928年)11月10日、大勲位菊花章頸飾を受章。
- 昭和11年(1937年)10月13日、帝国経済顧問を辞す。
- 昭和15年(1940年)
- 昭和16年(1941年)1月7日 - 18日まで、東京日本橋の三越百貨店で「西園寺公を偲ぶ展覧会」開催される(主催 読売新聞社、協賛 立命館大学、後援 外務省、文部省)。
栄典
- 明治17年(1884年)7月7日: 侯爵
- 明治28年(1895年)6月21日: 勲一等瑞宝章
- 明治40年(1907年)9月14日: 旭日桐花大綬章
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[257]
- 大正7年(1918年)12月21日: 大勲位菊花大綬章
- 大正9年(1920年)9月7日: 公爵
- 昭和3年(1928年)11月10日: 菊花章頸飾
- 外国勲章等
受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1888年(明治21年)2月25日 | バチカン | ピウス9世勲章グラン・クローチェ[259] | ||
1888年(明治21年)5月9日 | オーストリア=ハンガリー帝国 | 1等鉄冠勲章[260] | ||
1891年(明治24年)3月16日 | オランダ | オランダ獅子勲章[261] | ||
1891年(明治24年)10月15日 | ドイツ帝国 | 赤鷲第一等勲章[262] | ||
1894年(明治27年)3月8日 | オスマン帝国 | 一等メディジディー勲章[263] | ||
1896年(明治29年)3月17日 | ロシア帝国 | 白鷲勲章[264] | ||
1896年(明治29年)11月10日 | スペイン王国 | カルロス3世勲章グランドクロス[265] | ||
1906年(明治39年) | イギリス帝国 | 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス (GCMG) | ||
1907年(明治40年)10月23日 | フランス共和国 | レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[266] | ||
1907年(明治40年)10月30日 | ロシア帝国 | 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章大綬章[267] |
系譜
系図
西園寺・徳大寺の両家は藤原公季を始祖とする藤原北家閑院流の家系である。ただし血筋的には東山天皇の6世孫である。実系を指標に見ると以下のようになる。
東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━政煕━政通━徳大寺公純━西園寺公望
家族
親族
実父は右大臣・徳大寺公純、実母は千世浦斐子(宇佐神宮の社家末弘氏の正親盛澄の娘、後に正心院)、兄は3度にわたって侍従長となり、内大臣や宮内大臣も務めた徳大寺実則。弟に学校法人立命館理事の末弘威麿、住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門を襲名し長く財界に君臨した住友友純(隆麿)がいる。
妾
西園寺は生涯結婚せず、正妻はいなかった。明治13年、京都祇園井筒屋(現・祇園辰巳NEXUS)の芸妓・江良加代(当時18歳)を東京へ連れてきて結婚しようとするも、親族の反対に遭い断念した。一説には、西園寺家の守神は弁才天であるため嫉妬深く、西園寺家は代々正妻はもたないという家憲があった[要出典]。一方で、4人の女性を事実上の妻とした。
小林菊子
元新橋の芸者・玉八で、明治14年(1881年)にお座敷で出会った[28]。父親は尾張竹腰氏の家老、高野瀬和人[268]。気品のある美人であり、機転も利く女性であった[268]。西園寺と同居していた時代は、二階に同居していた中江兆民の世話もしていた[269]。西園寺の公使時代には彼の母親である斐子と同居している[268]。娘の新子をもうけた。菊子は大磯の西園寺別邸の主人であり、西園寺が京都や興津で生活するようになると疎遠になっていった[270]。大正6年(1917年)に大磯の別邸が池田成彬に売却された後は、娘の新子とその夫の八郎の邸宅の近くに住むようになった[271]。以降、西園寺と会うことはほとんど無かったが、西園寺が死の床についた昭和15年(1940年)6月14日に面会している[272]。
中西房子
元新橋・中村屋のふさ奴で、一女・園子をもうけた。駿河台の西園寺本邸に暮らしており、西園寺が「妻に似たものの」と形容し、新聞報道では「北の方」とも呼ばれた[273]。
奥村花子
西園寺家の女中頭・奥村花子は、パリ講和会議に同伴させたことで話題となった。吉野作造は花子を同行させたことを批判している[274]。また現地報道では「最もしとやかにして謙遜なる美人」「愛妾」などと評されている[274]。大正13年(1924年)には女児加代子を出産するが、公望は頑として自分の子として認めず、入籍させなかった[275]。加代子はその後花子の弟夫妻に養育されている[275]。昭和3年(1928年)に西園寺家出入りの銀行員の子を妊娠し、執事の熊谷八十三、娘の園子、養子の八郎らが共同で花子を追放するよう西園寺に勧告し、3月2日に西園寺家から追放された[276]。しかし4月6日には実母とともに坐漁荘を訪問する事件を起こしている[277]。その後花子は腹膜炎にかかり、昭和4年(1929年)2月3日に死亡した[278]。
漆葉綾子
京都の大泉寺住職漆葉光雲の娘で、一度は結婚して子を産んだものの離縁となっている[279]。華道・茶道・琴に通じ、花子が女中頭を務めている時期に西園寺家に仕えはじめ、花子とは確執もあった[279]。花子の跡を継いだ女中頭の八木悦子とも反目し、ともに辞めると申し出たところ、西園寺は「お前に行かれてはこちらが困る」と言って八木悦子のみを解雇した[280]。その後女中頭となり、若い女中や看護婦、男性警官までがいじめの対象となり、西園寺が調停するという事件も起きている[281]。
子・孫
新子
明治20年(1887年)、小林菊子との間にもうけた娘。西園寺は2歳になった頃から英語かフランス語を学ばせようと考えるなど教育に熱心であった[282]。養嗣子八郎と結婚し、公一、不二男など三男三女を産んだ。首相時代の西園寺が外国人を招いたパーティを開くと、そのホスト役となって得意のフランス語を披露していた[283]。大正9年(1920年)にスペイン風邪で死去した[271]。西園寺は「さつぱり解けて仕舞けり雪不とき」と哀悼の句を詠んでいる[284]。
園子
中西総子との間に生まれた娘で、高島正一に嫁いだ。
元子
西園寺の養女。
八郎
旧長州藩主毛利元徳の八男で、明治32年(1899年)に西園寺の養子となった[285]。第2次桂内閣の秘書官を務めた後宮内省に入り、皇太子裕仁親王の欧州訪問などに随行した。しかし新子の死後、八郎が西園寺と提携関係にある牧野内大臣排斥の動きに加わったこともあって、西園寺との関係は悪化した[286][287]。大正11年(1922年)以降は手紙も極めて簡単なものになっていった[288]。しかし西園寺に対する風当たりが強くなると、次第に関係は改善されている。
同居人
親友である光妙寺三郎が死ぬと、その遺児である三三郎(後の東屋三郎)を引き取って養育した[289]。また一族である橋本実斐も一時養育している[289]。二人は普段、八郎とともに暁星学校の寄宿舎に入っていたが、週末ごとに西園寺家に滞在していた[289]。
著書
- 『陶庵随筆』(1903年〔明治36年〕10月・新聲社/中公文庫、1990年、復刊2004年)
脚注
- ^ グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している(伊藤之雄 2007, pp. 8–9)
- ^ 京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)
- ^ a b 伊藤之雄 2007, pp. 156–157.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 8.
- ^ a b 伊藤之雄 2007, pp. 20.
- ^ a b c 伊藤之雄 2007, pp. 21.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 21–22.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 23–24.
- ^ a b c d e 伊藤之雄 2007, pp. 24.
- ^ 伊藤勲 1986, pp. 103–104.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 25–26.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 26.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 26–27.
- ^ a b 伊藤之雄 2007, pp. 27.
- ^ a b 伊藤之雄 2007, pp. 30–31.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 35–36.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 36.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 46–47.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 47–50.
- ^ 浅田徹「『蜻蛉集』のための西園寺公望の下訳について」
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 39–40.
- ^ a b 伊藤之雄 2007, pp. 42.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 51.
- ^ a b 伊藤之雄 2007, pp. 54.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 55.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 54–55.
- ^ 伊藤之雄 2007, pp. 56.
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新版 『豊田穣文学/戦記全集. 第9巻』所収、光人社、1991年、ISBN 4769805195 - 『歴代総理大臣伝記叢書7 西園寺公望』 小泉策太郎筆記、木村毅編
戦前の伝記、御厨貴監修でゆまに書房より復刻、2005年。
関連項目
外部リンク
- 国立国会図書館 憲政資料室 西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)
- 西園寺公望 | 近代日本人の肖像
- 明治宰相列伝 : 西園寺公望 | 国立公文書館
- 歴代総理の写真と経歴 第12・14代 首相官邸サイト
- 西園寺公望「懐旧談」
公職 | ||
---|---|---|
先代 桂太郎 桂太郎 |
内閣総理大臣 第12代:1906年1月7日 - 1908年7月14日 第14代:1911年8月30日 - 1912年12月21日 |
次代 桂太郎 桂太郎 |
先代 黑田清隆 |
枢密院議長 第7代:1900年10月27日 - 1903年7月13日 |
次代 伊藤博文 |
先代 井上毅 濱尾新 |
文部大臣 第7代:1894年10月3日 - 1896年9月28日 第14代:1898年1月12日 - 同4月30日 |
次代 蜂須賀茂韶 外山正一 |
先代 陸奥宗光 |
外務大臣 第9・10代:1896年5月30日 - 同9月18日 |
次代 大隈重信 |
先代 四条隆平 |
新潟府知事 第2代:1868年10月28日 - 1869年2月22日 |
次代 楠田英世 (新潟県知事) |
議会 | ||
先代 細川潤次郎 |
貴族院副議長 第3代:1893年11月3日 - 1894年5月12日 |
次代 黒田長成 |
党職 | ||
先代 伊藤博文 |
立憲政友会総裁 第2代:1903年 - 1913年 |
次代 原敬 |
爵位・家督 | ||
先代 陞爵 |
西園寺公爵家 初代:1920年 - 1940年 |
次代 西園寺八郎 |
先代 (西園寺師季) |
西園寺侯爵家 1884年 - 1920年 |
次代 陞爵 |