西園寺実晴
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長6年(1601年) |
死没 | 寛文13年1月11日(1673年2月27日) |
改名 | 実晴→性永(法名) |
別名 | 号:大忠院、大忠院入道 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇→後西天皇→霊元天皇 |
氏族 | 西園寺家 |
父母 | 父:西園寺公益 |
兄弟 | 実晴、大宮季光、性演 |
妻 | 正室:徳姫(細川忠隆の娘) |
子 | 公満、公遂、公宣 |
西園寺 実晴(さいおんじ さねはる)は、江戸時代前期の公卿。内大臣・西園寺公益の子。官位は従一位・左大臣。礼学・絵画を好んだ。
経歴
[編集]元和5年(1619年)に参議となって以降、内大臣・右大臣・従一位左大臣を歴任。 慶安4年(1651年)に朝廷は徳川家光に対して正一位太政大臣の追贈と「大猷院」の諡号を決め、内大臣西園寺実晴を勅使として日光に派遣している。
寛文12年(1672年)に出家して大忠院入道と号し、法名は性永。
系譜
[編集]正室は細川忠興とガラシャの子の細川忠隆(1604年の廃嫡後は長岡休無と号す)の長女・徳姫(1605-1663)であり、京都在住の休無から助成金が毎年西園寺家へ贈られている。また休無遺産として500石が徳姫(西園寺家)に相続され[1]、西園寺家の財政の基盤となった。
子は23代目となった公満のほかに、公遂、公宣(別名公義又は随宜)。なお、末子の西園寺公宣は京都の公家生活を嫌って、長岡休無の子の長岡忠春(1622-1704年、細川内膳家祖)を頼って肥後国に移り住み菊池(現熊本県菊陽町)で死去したが、そこで生まれた娘(也須姫もしくは安姫)が京に戻って鷹司家から婿(西園寺実輔)を取り西園寺家を継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]この節の加筆が望まれています。 |