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[[兵庫県]][[神戸市]]出身。[[立教大学]][[経済学部]]卒業。[[河野一郎]]の秘書を経て、[[1963年]]の[[第30回衆議院議員総選挙]]に父・重政の後継者として旧[[兵庫県第1区 (中選挙区)|兵庫1区]]から出馬し初当選。当選同期に[[小渕恵三]]・[[橋本龍太郎]]・[[小宮山重四郎]]・[[伊東正義]]・[[田中六助]]・[[渡辺美智雄]]・[[佐藤孝行]]・[[藤尾正行]]・[[中川一郎]]・[[三原朝雄]]・[[鯨岡兵輔]]・[[西岡武夫]]・[[奥野誠亮]]などがいる。以後2回連続当選後、3期目途中で議員を辞職し、[[1972年]]の神戸市長選挙に、自民党と袂を分かった現職の[[宮崎辰雄]]に挑む形で立候補したが落選。同年12月の[[第33回衆議院議員総選挙]]でも次点であったが、[[1976年]]12月の[[第34回衆議院議員総選挙]]で返り咲いた。


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[[1977年]]11月、衆院当選4回ながら[[福田赳夫改造内閣|福田内閣]]の[[文部大臣]]として初入閣。[[1979年]]立教大学校友会会長<ref>[https://koyu.rikkyo.ac.jp/magazine/mail/unchiku/unc034.html 「第34回「校友会長」」]立教大学</ref>。


自民党総務局長、[[予算委員会|予算委員長]]などを歴任後、[[1990年]]2月[[第2次海部内閣]]の[[北海道開発庁長官]]兼[[沖縄開発庁長官]]に就任したが、病気のため任期途中で辞任。同年9月24日[[呼吸不全]]のため死去。73歳だった。衆議院選挙の当選回数は通算8回。
自民党総務局長、[[予算委員会|予算委員長]]などを歴任後、[[1990年]]2月[[第2次海部内閣]]の[[北海道開発庁長官]]兼[[沖縄開発庁長官]]に就任したが、病気のため任期途中で辞任。同年9月24日[[呼吸不全]]のため死去。73歳だった。衆議院選挙の当選回数は通算8回。
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2020年12月30日 (水) 08:58時点における版

砂田重民

砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 1990年9月24日)は、日本政治家(元自由民主党衆議院議員)。父は自民党総務会長を務めた砂田重政。従弟は元自民党衆議院議員の砂田圭佑

来歴・人物

兵庫県神戸市出身。立教大学経済学部卒業。河野一郎の秘書を経て、1963年第30回衆議院議員総選挙に父・重政の後継者として旧兵庫1区から出馬し初当選。当選同期に小渕恵三橋本龍太郎小宮山重四郎伊東正義田中六助渡辺美智雄佐藤孝行藤尾正行中川一郎三原朝雄鯨岡兵輔西岡武夫奥野誠亮などがいる。以後2回連続当選後、3期目途中で議員を辞職し、1972年の神戸市長選挙に、自民党と袂を分かった現職の宮崎辰雄に挑む形で立候補したが落選。同年12月の第33回衆議院議員総選挙でも次点であったが、1976年12月の第34回衆議院議員総選挙で返り咲いた。

1977年11月、衆院当選4回ながら福田内閣文部大臣として初入閣。1979年立教大学校友会会長[1]

自民党総務局長、予算委員長などを歴任後、1990年2月第2次海部内閣北海道開発庁長官沖縄開発庁長官に就任したが、病気のため任期途中で辞任。同年9月24日呼吸不全のため死去。73歳だった。衆議院選挙の当選回数は通算8回。

脚注


先代
大川又三郎
立教大学校友会会長
1979年 - 1987年
次代
利光達三