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{{by|1994年}}[[11月1日]]、オーナー代行・[[重光昭夫]]に誘われて[[千葉ロッテマリーンズ]]の[[ゼネラルマネージャー]](GM)に就任した<ref name="生きて16"/><ref>[http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_295.html 優勝請負人・広岡達朗の挑戦 - NHK クローズアップ現代]</ref><ref>[http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/baseball111122_1_2.html ここがヘンだよプロ野球 中途半端な権限のGM制度(2/2) - OCNスポーツ ]、[http://www.zakzak.co.jp/sports/spo-column/news/20100510/spc1005101521000-n2.htm 【球談徒然】広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭]</ref>。GM制度は日本球界初の試みで、当時のロッテは毎シーズン下位と低迷し、「オーナーから『全部任せる』と言われ、革命的なことをやる必要がある」と、前述の日米野球サミットで知り合った[[ボビー・バレンタイン]]を監督に招聘、選手では[[フリオ・フランコ]]、ビート・インカビリア、[[エリック・ヒルマン]]を獲得する。しかし、バレンタインとはシーズン序盤から野球観の違いで確執を起こし、[[伊良部秀輝]]・[[小宮山悟]]・[[愛甲猛]]・ヒルマン・フランコら主力選手とも確執を起こした。広岡は二軍ヘッドコーチだった[[江尻亮]]を一軍に昇格させ、バレンタインの意向を遮って休養日に練習を課したが、広岡はバレンタインが泣きついてきたため、日本式の練習を導入し、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している<ref name="生きて16"/><ref name="レジェンド62"/><ref name="履歴書29">「私の履歴書」日本経済新聞社連載(29)、2010年8月30日</ref>。チームは後半戦から調子を上げたため、新外国人選手獲得のために渡米し、帰国後にバレンタインが「自分(広岡)に任せていたらチームはもっと上(位)に来ていた。GMが横槍を入れたから」という趣旨の記事を書かせたという<ref name="履歴書29"/>。 |
{{by|1994年}}[[11月1日]]、オーナー代行・[[重光昭夫]]に誘われて[[千葉ロッテマリーンズ]]の[[ゼネラルマネージャー]](GM)に就任した<ref name="生きて16"/><ref>[http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_295.html 優勝請負人・広岡達朗の挑戦 - NHK クローズアップ現代]</ref><ref>[http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/baseball111122_1_2.html ここがヘンだよプロ野球 中途半端な権限のGM制度(2/2) - OCNスポーツ ]、[http://www.zakzak.co.jp/sports/spo-column/news/20100510/spc1005101521000-n2.htm 【球談徒然】広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭]</ref>。GM制度は日本球界初の試みで、当時のロッテは毎シーズン下位と低迷し、「オーナーから『全部任せる』と言われ、革命的なことをやる必要がある」と、前述の日米野球サミットで知り合った[[ボビー・バレンタイン]]を監督に招聘、選手では[[フリオ・フランコ]]、ビート・インカビリア、[[エリック・ヒルマン]]を獲得する。しかし、バレンタインとはシーズン序盤から野球観の違いで確執を起こし、[[伊良部秀輝]]・[[小宮山悟]]・[[愛甲猛]]・ヒルマン・フランコら主力選手とも確執を起こした。広岡は二軍ヘッドコーチだった[[江尻亮]]を一軍に昇格させ、バレンタインの意向を遮って休養日に練習を課したが、広岡はバレンタインが泣きついてきたため、日本式の練習を導入し、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している<ref name="生きて16"/><ref name="レジェンド62"/><ref name="履歴書29">「私の履歴書」日本経済新聞社連載(29)、2010年8月30日</ref>。チームは後半戦から調子を上げたため、新外国人選手獲得のために渡米し、帰国後にバレンタインが「自分(広岡)に任せていたらチームはもっと上(位)に来ていた。GMが横槍を入れたから」という趣旨の記事を書かせたという<ref name="履歴書29"/>。 |
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チームは最終的に、{{by|1985年}}以来の2位へ躍進したが、江尻と[[江藤省三]]、[[尾花高夫]]が「選手が不調になればすぐ対処するのがコーチの仕事なのに、監督は『疲労が原因だから休ませれば良い』と言う。これでは我々コーチの仕事が無い。出来れば(ロッテを)辞めたい」と辞任を申し出た。これを受け、オーナー代行・重光昭夫に事情を説明すると、オーナー・[[重光武雄]]の裁定を仰ぐこととなったが、武雄から「監督解任でも良いか?」と聞かれて「困りません」と答え、同年限りでバレンタインの解任が決定、後任に江尻が昇格した<ref name="履歴書29"/>。広岡は自身に「監督を解任する権限は無かった」と話している<ref name="辺見"/> が、後にバレンタインは「GMは選手集めが仕事なのに、広岡はそれをせずに現場へ口を出すだけだった」と批判し、広岡は「監督は泥まみれで選手を教えるのが仕事なのに、バレンタインはやらなかった」と反論している<ref name="辺見"/>。{{by|1996年}}は江尻が監督を務めたが、フランコ・インカビリアに変わる新外国人選手として獲得した[[ランディ・レディ]]・[[ジャック・ドウティー]]が絶不調で6月に解雇される非常事態に陥る。その後、[[ウェス・チェンバレン]]、[[ダレル・ウィットモア]]を獲得したものの5位に終わり、広岡は3年契約を1年残して同年[[10月8日]]に解任された<ref>広岡著、巨人への遺言プロ野球 生き残りの道 幻冬舎、2016年、P75</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/spo-column/news/20100510/spc1005101521000-n2.htm 広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭 - ZAKZAK]</ref>。 |
チームは最終的に、{{by|1985年}}以来の2位へ躍進したが、江尻と[[江藤省三]]、[[尾花髙夫|尾花高夫]]が「選手が不調になればすぐ対処するのがコーチの仕事なのに、監督は『疲労が原因だから休ませれば良い』と言う。これでは我々コーチの仕事が無い。出来れば(ロッテを)辞めたい」と辞任を申し出た。これを受け、オーナー代行・重光昭夫に事情を説明すると、オーナー・[[重光武雄]]の裁定を仰ぐこととなったが、武雄から「監督解任でも良いか?」と聞かれて「困りません」と答え、同年限りでバレンタインの解任が決定、後任に江尻が昇格した<ref name="履歴書29"/>。広岡は自身に「監督を解任する権限は無かった」と話している<ref name="辺見"/> が、後にバレンタインは「GMは選手集めが仕事なのに、広岡はそれをせずに現場へ口を出すだけだった」と批判し、広岡は「監督は泥まみれで選手を教えるのが仕事なのに、バレンタインはやらなかった」と反論している<ref name="辺見"/>。{{by|1996年}}は江尻が監督を務めたが、フランコ・インカビリアに変わる新外国人選手として獲得した[[ランディ・レディ]]・[[ジャック・ドウティー]]が絶不調で6月に解雇される非常事態に陥る。その後、[[ウェス・チェンバレン]]、[[ダレル・ウィットモア]]を獲得したものの5位に終わり、広岡は3年契約を1年残して同年[[10月8日]]に解任された<ref>広岡著、巨人への遺言プロ野球 生き残りの道 幻冬舎、2016年、P75</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/spo-column/news/20100510/spc1005101521000-n2.htm 広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭 - ZAKZAK]</ref>。 |
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=== 再び解説者として === |
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[[大久保博元]]は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110721/bbl1107210951001-n1.htm 【球界風雲児デーブ】広岡監督が掲げる「玄米食」で下痢に ... - ZAKZAK]</ref>。伸び悩んでいた時期に「下手投げ理論」を基に再生させた[[松沼博久]]は、当時誕生した長男に「達」の一文字を付け、感謝の気持ちを表した<ref name="ベースボール2013930"/>。また、[[秋山幸二]]は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された[[長池徳士]]コーチによって育てられたもの<ref>[[永谷脩]]『タフに生きる』[[世界文化社]]、1991年、138頁</ref>。西武の「育てながら勝つ」という伝統は、広岡の時代から始まったものである<ref>[http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/baseball101019_2_2.html 次々と新戦力が台頭するライオンズのチーム文化(2/2) - OCNスポーツ ]</ref>。[[田尾安志]]は「広岡達朗監督が実力至上主義を徹底していたから。だからこそ、他チームの追随を許さない黄金時代を築くことができた」<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41601080S9A220C1000000/?df=2 球場が呼んでいる(田尾安志)首脳陣・フロントが押さえたい大物新人のトリセツ] - 日本経済新聞、2019年2月24日</ref>、「広岡さんは選手を歯車の一つとしか思っていなかった。ベンチからバントのサインが出ると打球を転がす位置も決める。考えさせる隙を作らせなかった。広岡さんは2軍監督の方が適任だと思った。なぜなら野球が学べるから。当時の西武の選手は若手が多かったから広岡さんが標榜した管理野球は合ってました」<ref>【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)[[ベースボール・マガジン社]]、2019年、16頁</ref> と述べている。 |
[[大久保博元]]は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110721/bbl1107210951001-n1.htm 【球界風雲児デーブ】広岡監督が掲げる「玄米食」で下痢に ... - ZAKZAK]</ref>。伸び悩んでいた時期に「下手投げ理論」を基に再生させた[[松沼博久]]は、当時誕生した長男に「達」の一文字を付け、感謝の気持ちを表した<ref name="ベースボール2013930"/>。また、[[秋山幸二]]は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された[[長池徳士]]コーチによって育てられたもの<ref>[[永谷脩]]『タフに生きる』[[世界文化社]]、1991年、138頁</ref>。西武の「育てながら勝つ」という伝統は、広岡の時代から始まったものである<ref>[http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/baseball101019_2_2.html 次々と新戦力が台頭するライオンズのチーム文化(2/2) - OCNスポーツ ]</ref>。[[田尾安志]]は「広岡達朗監督が実力至上主義を徹底していたから。だからこそ、他チームの追随を許さない黄金時代を築くことができた」<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41601080S9A220C1000000/?df=2 球場が呼んでいる(田尾安志)首脳陣・フロントが押さえたい大物新人のトリセツ] - 日本経済新聞、2019年2月24日</ref>、「広岡さんは選手を歯車の一つとしか思っていなかった。ベンチからバントのサインが出ると打球を転がす位置も決める。考えさせる隙を作らせなかった。広岡さんは2軍監督の方が適任だと思った。なぜなら野球が学べるから。当時の西武の選手は若手が多かったから広岡さんが標榜した管理野球は合ってました」<ref>【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)[[ベースボール・マガジン社]]、2019年、16頁</ref> と述べている。 |
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またロッテコーチ時代に毎日のように広岡に怒られ指導者としての心構えをたたき込まれたという[[尾花高夫]]も、最も影響を受けた指導者として広岡を挙げており、2010年から2011年まで[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]で指揮を執った際、広岡と[[野村克也]]を手本にした野球をやりたいと話していた<ref>[[週刊文春]]、2009年11月26日号、115頁<br/>[[週刊ベースボール]]、[[ベースボール・マガジン社]]、2009年11月15日号、105頁<br/>[http://life.oricon.co.jp/sport/vol6_3.html vol.6 尾花高夫 - ライフ - ORICON STYLE]<br/>[http://www.hohjinkai.or.jp/interview/1003.html 横浜ベイスターズ監督 尾花 高夫 氏|インタビュー|社団法人横浜中法人会]<br/>[http://www.townnews.co.jp/0114/2010/01/07/35600.html 尾花 高夫さん | 南区 | タウンニュース]</ref>。2010年シーズン途中からヤクルト監督に就任した小川淳司も“広岡+野村”の考えをエッセンスに含めた小川流管理野球をやるという<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/101021/bsf1010210434000-n2.htm 燕・小川流“広岡+野村”で黄金期再び! (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM]</ref><ref>スポーツニッポン2010年10月21日4面</ref>。[[安田猛 (野球)|安田猛]]は「広岡さんは理論がきちんとして、絶対にブレなかった。はっきり言って好きなタイプじゃない。ただ野球に対する考え方は素晴らしい。当時は反発しましたが、すべて若気の至り。反省しています。いまのヤクルトにも広岡さんの[[DNA]]はしっかり残っています」などと話している<ref name="昭和の名将"/>。 |
またロッテコーチ時代に毎日のように広岡に怒られ指導者としての心構えをたたき込まれたという[[尾花髙夫|尾花高夫]]も、最も影響を受けた指導者として広岡を挙げており、2010年から2011年まで[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]で指揮を執った際、広岡と[[野村克也]]を手本にした野球をやりたいと話していた<ref>[[週刊文春]]、2009年11月26日号、115頁<br/>[[週刊ベースボール]]、[[ベースボール・マガジン社]]、2009年11月15日号、105頁<br/>[http://life.oricon.co.jp/sport/vol6_3.html vol.6 尾花高夫 - ライフ - ORICON STYLE]<br/>[http://www.hohjinkai.or.jp/interview/1003.html 横浜ベイスターズ監督 尾花 高夫 氏|インタビュー|社団法人横浜中法人会]<br/>[http://www.townnews.co.jp/0114/2010/01/07/35600.html 尾花 高夫さん | 南区 | タウンニュース]</ref>。2010年シーズン途中からヤクルト監督に就任した小川淳司も“広岡+野村”の考えをエッセンスに含めた小川流管理野球をやるという<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/101021/bsf1010210434000-n2.htm 燕・小川流“広岡+野村”で黄金期再び! (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM]</ref><ref>スポーツニッポン2010年10月21日4面</ref>。[[安田猛 (野球)|安田猛]]は「広岡さんは理論がきちんとして、絶対にブレなかった。はっきり言って好きなタイプじゃない。ただ野球に対する考え方は素晴らしい。当時は反発しましたが、すべて若気の至り。反省しています。いまのヤクルトにも広岡さんの[[DNA]]はしっかり残っています」などと話している<ref name="昭和の名将"/>。 |
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その他、ヤクルト監督時代には、[[重量挙げ]]などのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的な[[筋力トレーニング|ウエイトトレーニング]]を体系立ててチームに導入している<ref name="Number_2011721"/>。[[筋力トレーニング|ウエイトトレーニング]]を導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話ばかり始めた為、シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、体の回復とレベルアップを図るには基礎体力を付けることが一番いいという理由で始めた<ref name="toyokeizai2016414"/>。選手には『シーズンの疲れは完全に休んだら抜けることは絶対に無い。人間の体は動かしていないと駄目だ』と言い渡し、選手から大反発を買ったものの、[[ユマ]]のキャンプで[[サンディエゴ・パドレス]]のクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があってパドレスの選手たちが普通にやっているので、それを目撃して素直に納得したのだという<ref name="朝日1978121"/>。 |
その他、ヤクルト監督時代には、[[重量挙げ]]などのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的な[[筋力トレーニング|ウエイトトレーニング]]を体系立ててチームに導入している<ref name="Number_2011721"/>。[[筋力トレーニング|ウエイトトレーニング]]を導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話ばかり始めた為、シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、体の回復とレベルアップを図るには基礎体力を付けることが一番いいという理由で始めた<ref name="toyokeizai2016414"/>。選手には『シーズンの疲れは完全に休んだら抜けることは絶対に無い。人間の体は動かしていないと駄目だ』と言い渡し、選手から大反発を買ったものの、[[ユマ]]のキャンプで[[サンディエゴ・パドレス]]のクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があってパドレスの選手たちが普通にやっているので、それを目撃して素直に納得したのだという<ref name="朝日1978121"/>。 |
2020年12月23日 (水) 05:04時点における版
1955年撮影 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県呉市 |
生年月日 | 1932年2月9日(92歳) |
身長 体重 |
180 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手 |
プロ入り | 1954年 |
初出場 | 1954年4月4日 |
最終出場 | 1966年5月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1992年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡[※ 1]、1932年2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。
現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。
実兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である[1][2]。
辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても厳しい批評を下すことがある[3][4]。
来歴
六大学の貴公子、広岡
1932年2月9日に広島県呉市で六人兄弟の末っ子として生まれる[5]。実家は二河川の西側で、父親は大日本帝国海軍少佐で駆逐艦の機関長だった[1][6]。このため、広岡ももう少し終戦が遅ければ海軍兵学校に進学して軍人になるつもりだったという[7]。呉市立二河小学校(現:呉市立呉中央小学校)を経て広島県立呉第一中学校へ進学し、学制改革による再編によって広島県立呉三津田高等学校に進む[1][8]。海軍兵学校への進学を考えていたために身体を鍛えようと器械体操を行う。この経験から身体能力は早い段階で完成され、後々の野球でもすぐ活かすことが出来た。後年、プロの指導者となってからも誰も聞く耳を持たなかったウエイトトレーニングの必要性を早くから説いたのは、広岡自身が早い段階から器械体操をやっていた影響と述べている[9]。戦死した長兄のグラブが家に残されていたのを切っ掛けに野球を始め[9]、呉三津田高等学校では1949年に三塁手として全国高等学校野球選手権西中国大会決勝に進出、山口県立柳井高等学校と対戦するが、自身の悪送球も重なって逆転負けを喫し、甲子園出場はならなかった。卒業後は野球を辞めて広島大学、山口大学への進学を考えていたが、この試合を観戦していた早稲田大学OBの杉田屋守が早稲田大学野球部監督の森茂雄に広岡を推薦し、早稲田大学教育学部へ進学した[8][10]。
早稲田大学時代は遊撃手へ転向し、同期の小森光生と三遊間を組み、華麗な守備で名を馳せた。東京六大学野球リーグでは1950年春季リーグからの三連覇を含む四度の優勝を経験、1学年上の荒川博・沼澤康一郎と共にスタープレーヤーとして活躍、「六大学(神宮)の貴公子」とも呼ばれた[11]。毎日オリオンズ・近鉄パールス・大阪タイガース、さらには同郷の鶴岡一人率いる南海ホークスから入団を打診され[12][13]、父親からは球団代表・西亦次郎と監督・三原脩から誘われていた西鉄ライオンズ入団を勧められたが[12][13]、1953年12月3日に自身の念願だった水原茂率いる読売ジャイアンツに入団した[13][14]。
現役時代~川上との衝突
読売ジャイアンツへ入団した広岡は、自慢の守備力をまざまざと見せつけ、1954年5月には正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い規定打席にも到達。打率.314(リーグ6位)、15本塁打、67打点を記録して新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた[15][16]。これ以降、セントラル・リーグにおいては吉田義男(大阪タイガース)とリーグを代表する遊撃手と称され、守備の堅実・華麗さを吉田と競い合った[17]。一方で打撃面では2年目以降に打率が低迷、大きな課題となる。1956年、1957年はいずれも4月から故障で2ヶ月間離脱したが、無事に復帰。1957年には自己最多の18本塁打を放つなど長打力に進歩を見せる[18][※ 2]。1958年は努力の甲斐もあって打率.277(リーグ7位)の好成績を記録。同年は後に王貞治と共に「ON砲」として歴史に名を残す大型新人・長嶋茂雄(立教大学)が入団し、早稲田大学卒でスラリとした長身の広岡と共に女性ファンの人気を集める。私生活においては、1957年12月に品川主計球団社長(当時)の仲人で挙式[※ 3]。
広岡は自身の野球の原点について、「プロの厳しさを『嫌』というほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球」としているが、現役時代は川上哲治との衝突が絶えなかった[19]。川上は「打撃の神様」と呼ばれた大選手だったが一塁守備は下手で、しかも守備においては守る姿勢を取らずに打撃フォームを取り、捕球できないと首を捻っていた[19]。この行為がやる気の無さに見えた広岡は、後輩でありながら少し悪い送球を取れないと「それくらいの球は取って下さいよ」と意見することが多くなり、川上は「若造が生意気な…」という感情を持つようになった[20][21][22]。
1961年に川上が監督に就任すると、広岡に「今まで色々あったが、水に流してくれ。これからは力になって欲しい…よろしく頼むぞ」と頭を下げられ、コーチ兼任となった広岡も頭を下げて和解したと思われたが、実際にはその後も野球に対する考えの相違が互いにあった[20]。1964年8月6日の対国鉄スワローズ戦では、広岡の打席時に三走だった長嶋が何度もホームスチールを試み、最終的に失敗したにも関わらず長嶋へは御咎め無しで終わったことに加え、広岡も初球では長嶋の独断と思っていたが、それ以降も長嶋が試みたことでベンチが長嶋に指示したと判断し、ベンチへ戻った際に「私の打撃がそんなに信用できないのですか!?」とバットを叩き付けて激怒した。広岡は怒りが収まらずにコーチの制止を振り切って試合途中に帰宅したが、これが監督批判と判断されたことで、シーズン終了後に川上が広岡のトレード放出を画策した。しかし広岡は正力松太郎へ「トレード(で放出される)なら巨人の広岡で終わらせて下さい」と直訴した。正力の指示で残留が決定した一方、川上はスポーツ紙などで非難を浴びる[23]。残留が決まった広岡だが監督批判行為への反動もあり、川上は広岡を代打や代走、さらには守備固めでも起用しなくなる。1965年には87試合に先発出場していたが、1966年の開幕10試合以降は出場機会が激減、土井正三、黒江透修に定位置を奪われた。広岡が「週刊ベースボール」に「選手の分がわかっていない」と巨人への意見記事を寄稿したことが決定打となり[24]、シーズン終了後の同年10月31日に現役を引退した。現役引退後も騒動は沈静化するばかりか、逆に互いの確執が本格的に始まった[21]。
広岡は引退後、自身が目指す野球を「私を追い出した巨人より正しいことを証明したい」として、1967年にメジャーリーグを視察をするため4ヶ月間、単身渡米する[25][26]。広岡が特に驚いたのは各投手を中4日で先発させるローテーションで、人を生かすには責任を与えるという考えを痛感、後に監督に就任するヤクルトスワローズにて導入した。また、渡米中にはフロリダ州ベロビーチ・ドジャータウンで行われていた古巣・巨人のキャンプも訪問したが川上は広岡の取材を一切認めず、選手に対しても「(広岡と)口を利くな」と指示を出し、広岡のドジャータウンの宿泊まで認めなかった[20][27][28]。これにはさすがの広岡も憤慨し、「文字通り、殺意を抱くほどの激しい怒りを感じた」と述懐している[25]。しかし、森昌彦だけは球団と川上に発覚しないよう、内々に広岡が宿泊しているホテルを訪ねて食事を共にし、気遣いを見せたことで、広岡はこれ以降、森に深く感謝して行動を共にしている。
広岡の選手育成~悲願の日本一
帰国後はラジオ関東、サンケイスポーツなどで野球評論家として活動したが[29][30]、サンケイスポーツへは自ら売り込んだものの採用条件は「広岡自身で原稿を書く」というものだった。当時は自らが原稿を書く野球評論家は皆無の時代で、担当記者にゴーストライターとして頼むのが主流だったが、広岡は自身で原稿を書いた[29]。広岡は著書「積極思想のすすめ」の中で「私の第二の人生のスタートは、華やかなスポットライトを浴びた現役時代とは正反対の厳しく孤独なものであった」と述べている[31]。
1969年大晦日、根本陸夫に請われる形で故郷・広島へ戻り、広島東洋カープ内野守備コーチに就任する。ヘッドコーチの関根潤三と共に、後に「ミスター赤ヘル」「鉄人」と称される山本浩二・衣笠祥雄、三村敏之・水谷実雄を育て、後の広島黄金時代の礎を築いた[32][33]。なお、広岡の入団と入れ替わりで退団したのが上田利治[34][35] だが、両者は理論家肌のため「同一組織内では共存できない」と言われていた。広岡はさらに、西本明和を投手から三塁手へ、井上弘昭を外野手から二塁手へそれぞれコンバート[36] させたほか、根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる[37]。しかし、広岡は苑田の守備を見て「内野手のセンスはゼロですね。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁して下さい」と話したが、根本は「オレが責任を持つからとにかくやれ」と厳命した。苑田は当初、一向に上達せず、厳しい指導のストレスで円形脱毛症となり、広岡も一度は苑田の転向を諦めかけるほどだった。しかし根気強く続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きが熟せるようになり、苑田はこれ以降、広島の内野守備陣の要となった。このコンバート成功は広岡にとって大きな財産となり、「プロに来る選手は誰でも大変な才能を持っている。しかし、答えの出し方を知らないから自分には才能が無いと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになりながら選手と共に探してやるのが指導者の務め。選手と指導者にやる気があれば、選手は必ずや答えを見つけて上達してくれる」「指導者としての自分があるのは苑田のおかげ」と述べている[32][36][38]。
広岡は1971年に広島を退団、再び野球評論家として活動する傍ら、プロゴルフのコーチも行っていた。この頃には川上との蟠りも多少は軟化しており、広島退団後には川上を訪ね、広島でのコーチ経験を述べてから巨人のファームコーチを志願している。しかし、軟化したとはいえ実際には後述のように西武ライオンズ監督として日本一に輝いた際の川上への挨拶の際に返された言葉にあるように、対立状態は継続していた。
1973年にヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには打撃コーチに早稲田大学時代の先輩である荒川博がおり、先輩を差し置いて監督になるわけにはいかないとして辞退、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格した)。コーチには広岡以外に小森光生、沼澤康一郎がおり、監督と合わせた「早大カルテット」として大いに話題になった[39][40]。これは当時の明治神宮外苑長だった伊丹安広の「神宮は東京六大学のメッカ。六大学の卒業生を使ってくれないか」との意向に沿ったもので、この年の一軍コーチは全員が東京六大学OBだった[40]。1976年にはヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中の6月17日に休養した荒川の後任として監督に就任した[41]。
当時のヤクルトはオーナー・松園尚巳の方針で家族主義的なチームカラーだったが[39][42][43]、広岡は「広島以上にぬるま湯」としてプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した[30][44][45][46]。シーズンに入って故障者が続出したことで、広島時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理を行い、正式に監督に就任した1977年以降は「麻雀・花札・ゴルフの禁止」「禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)」「(骨を酸化させるとして)炭酸飲料の禁止(その代わりにプラッシーを飲ませた)」「ユニフォーム姿では禁煙」「練習中の私語禁止」を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した[24][41][47][48][49]。投手陣整備には堀内庄を招聘[50]、守備重視の広岡イズムを浸透させるために、キャンプから守備走塁を重視した練習メニューと試合方針を打ち出した。投手陣を優先的に整備し、荒川監督時代に巨人戦でエース級の松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えで起用して連敗が続くような采配をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の3人に鈴木康二朗、会田照夫を加えて5人で先発を回した[26][30][51]。先発投手には中継ぎ起用はさせないこととし、抑えに井原慎一朗を任命[51]、この年に加入したチャーリー・マニエルには守備練習を行わなければ起用しないと厳しく接する一方[51]、水谷新太郎を遊撃手として辛抱強く育て上げた[52]。当然、突然の方針転換に当初は選手から反発を受けたがこの方針は成功し、チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかし広岡は満足せず、まだ基礎体力が充分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるウエイトトレーニングを導入した[53]。当時はシーズンオフにトレーニングを行う発想はなく、不平不満を発する選手もいた[53]。さらに、シーズン2位とはいえ、首位・巨人とは7勝19敗と大きく負け越しており、「巨人コンプレックスを払拭しない限り優勝はない」という理念の下、松園に米国キャンプを直談判する。しかし松園は「(ヤクルトの工場がある)ブラジルならいい」と返答したため、広岡は「それは出来ません」と拒否する。さらに松園から「負けたらどうする?」と聞かれたことに「責任を取って辞めます」と発言、ヤクルト球団初の海外キャンプがアリゾナ州ユマで実施された[53][54]。ユマはパンチョ伊東の紹介によるもの[53] で、現地においてサンディエゴ・パドレスの選手が練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になった[53][55]。チームは悲願の日本一に輝いたことで、これ以降、海外でキャンプを実施するチームが増えることになった。
1978年は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトンを直接、自分の目で実力を判定した上で採用[56][57] したほか、森昌彦をバッテリーコーチとして招聘[50] する。森は広岡の意向を受けて選手の私生活も細かく管理し、広岡は森のデータに基づいて巨人戦の対策を強化する。前年に続いてキャンプからシーズン開幕後も休日無しで守備中心の練習を行った[58]。開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1・2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した[56]。球宴休み期間の激励会で、後援会関係者と会話した際に「巨人に勝つとヤクルト商品が売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受け[56]、後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、福富邦夫、若松、大矢明彦、船田和英らを中心にチームが結束[56]、巨人の失速もあり、多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。優勝決定後、広岡に真っ先に抱き着いて頬ずりまでしたのは選手ではなくオーナーの松園だった[56]。日本シリーズでは4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスとの対戦となり、世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが[59]、ここでもヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。しかし、日本一を決めた舞台は後楽園球場だったため、古巣・巨人の本拠地で胴上げされたのは広岡にとって複雑な思いだったという[45]。
広岡は日本一になった時点でヤクルトの退団を決意したが、フジサンケイグループから「優勝監督を『契約切れ』といって放出したら商売にならない」と慰留を受け、新たに3年契約を結んだ[60]。この契約の際に現場のことは全面的に広岡に任せ、協力する約束を交わしたが、チーム補強のために意図した山崎裕之の獲得・トレードは合意の段階で決まって球団上層部からクレームが付き、次々に潰されていった[60][61]。広岡はこれを「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。1979年も優勝候補の一角だったが開幕から8連敗を喫して低迷、球団社長の佐藤邦雄は選手から不評だった森を広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、投手コーチの植村義信を二軍に降格させようとした[60]。これを知った広岡は球団人事案を巡って対立し、8月17日に辞任を申し出たが、佐藤から「じゃ辞めろ」と素っ気無く言われ、広岡、森、植村の3人が同時に8月29日付けで正式に退団した[62]。広岡は退団前、「巨人贔屓の審判がいる。丸山、岡田、大里。名指しで書いてもらって結構だ」と発言した[63]。
常勝西武の礎
ヤクルト退団後は日本テレビの野球解説者に就任し、容赦ない毒舌で人気を博したものの、1981年には近鉄バファローズ監督の西本幸雄から声が掛かる[64]。西本に認めてもらえた喜びの一方であまり縁の無いパシフィック・リーグ、しかも在阪球団に引っ掛かりを覚え、さらに同じ在阪球団の阪神タイガース球団社長・小津正次郎からも声が掛かる[64]。阪神はヤクルトと同じセ・リーグで、「巨人のライバル」「打倒・巨人」でやってきたこれまでの努力を実現するには格好のチームと考えて前向きに検討したが、契約年数で合意に至らなかった[64]。阪神は伝統的に監督交代劇が起こり、それに終止符を打つために広岡は任期を5年としたが、小津が3年を譲らず、結局お流れとなった[64]。最後に監督要請があったのは西武ライオンズで、広島時代に共に戦った根本から「お前しかいない。良い選手はしっかり取ってある。行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んであるぞ」と言葉巧みに誘われ、広岡が監督就任決定後に聞いた話として、最初は長嶋へ声を掛けたものの即座に断られ、上田に九分九厘決まっていたものが引っ繰り返され、広岡への打診は3番目だったという[64][65]。
1981年10月29日、西武ライオンズの監督に就任することが正式に発表された。5年の任期で契約金6000万円・年俸3600万円と、当時の一軍監督としては異例の厚遇だった[66]。広岡の西武入りは根本の仕掛けだけでなく、広岡の反・巨人意識とオーナー・堤義明の「巨人に追い付け追い越せ」の経営哲学が一致した結果だった[48]。監督としては長期的な5年契約だが、広岡は自身にとっても非常に厳しい契約書を作成してもらう。その内容は、
- 広岡自身の都合により退団する場合、年俸はそこでカット。受領済みの契約金も返還する。
- 休養中は給料は支払われない。
- 舌禍に対しては厳罰を処する。
といったもので、監督就任記者会見の席でこれについて聞かれると、「納得したから契約した」と語っていた。また、契約時には球団代表(当時)の坂井保之に「優勝したら裏方を含めて年俸を上げてほしい」と要望すると、「当然だよ、常識ですよ」という口約束があった[64][67]。しかし、後に本当に優勝・日本一を達成しても年俸は上がらず、坂井へ「上げるのが当然って言ったじゃないか」というと、「そんなこと契約書に書いてない。君のミスだよ」と返された[64]。監督就任後、作戦参謀に森、打撃コーチに佐藤孝夫と、1978年にヤクルトスワローズを率いて日本一になった際のコーチを招聘した。
広岡は、西武でもヤクルト時代と同様に厳しい自己管理と守備重視の野球を行う[67]。前任の根本は放任主義で有名で、細かなサインプレーも無ければミーティングも皆無で[68]、周囲からは「12球団一の怠け者集団」と言われていた[66][69]。そこへ根本とは正反対の広岡イズムを持ち込んでも空中分解がオチという見方も多く[69]、秋季キャンプにおいて選手に猛烈なしごきを加えると、選手からは「まるでナチスみたいだよ。ついていけない」とこぼし[70]、広岡が「たった一年で優勝してみせる」というと[66][71]、報知新聞は「優勝したらそれは魔術と言える」と揶揄した[66]。しかし、就任一年目に前期優勝を遂げる[72] と、1982年のプレーオフでは後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して、球団19年ぶりのパ・リーグ優勝を果たす[73]。同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で下し、球団24年ぶりの日本一を達成、第一次黄金時代の幕開けを導いた[17][74]。プレーオフで敗れた日本ハムファイターズの監督・大沢啓二は「『近鉄とロッテさえ注意すりゃあ優勝は間違いねえ』と思ってたんだ。ところが蓋を開けてビックリよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が(監督就任)一年目で優勝なんてなかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたよ」と述べている[75]。
1983年も2位・阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走でリーグ連覇を果たす。同年の日本シリーズの対戦相手は古巣・巨人で、広岡は巨人を倒して日本一に輝くことで自分の野球の正しさを証明しようと取り組んできたため、待ちに待った舞台となる[76]。巨人監督の藤田元司とはかつてのチームメイトで、二人が監督としての対戦は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として第7戦まで日本中の注目を集めた。激闘の結果、4勝3敗で2年連続日本一となり、球界に「西武時代到来」と騒がれた[24]。日本シリーズから数日後、森を伴って、軟化していたとはいえまだ対立状態だった川上を訪ねて優勝を伝えると、「負けりゃ良かったのに。藤田に勝たせてやれば良かったのに」と言われ激怒[76]、川上とは猛烈な対立状態に戻った。
シーズンオフ、日本ハムからトレードで江夏豊が入団した。西武側からの申し入れと、大沢の「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という意向によるものである[77]。しかし、江夏獲得のために中継ぎ投手の木村広・柴田保光を放出、小林誠二も古巣・広島へトレードとなり、中継ぎ投手3名が一度に退団したが、このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本やフロントに対して反感を抱くようになる。また、江夏自身も一匹狼の性格であり、選手管理で有名だった広岡との間で衝突が起こることが予想されていた。
1984年は主力の田淵幸一・山崎裕之・大田卓司がケガによる離脱や不振のため、好調の阪急に押されてペナントレースから早々と脱落してしまう。そこで広岡は5月20日から方針転換し、若手選手を多数起用して新旧交代を見据える采配を行った[30][78][79]。一方でベテラン勢には見切りをつけ、田淵・山崎が現役引退を決意、江夏は8月に二軍落ちすると再昇格することなく西武を自由契約となった。江夏は広岡について「オレの生活権を奪った男」と語っているが、江夏があまりにもチームメイトに馴染めない、結果を残せないこともあって対応に苦慮した[80][81]。孤高の革命児は、広岡が持ち込んだ「組織野球」の幕開けと同時に球界を去ることとなった[82]。江夏は、西武退団後の1985年頃に「最近、広岡さんの話をすると虫唾が走る。あの人は将の器じゃない。他人に責任を擦り付けて自分は責任を取らない。森さん、佐藤さんと広岡さんを支えた人は西武を去り、ロクさんもよく二軍で残ったもんだ。ブチ(田淵)みたいに他人の悪口を言わないのが、広岡さんの悪口を言った。納得いかない監督はチビ1と今度の監督(広岡)」と語っている[83]。期待の新人、伊東勤が正捕手となったのをはじめ[84]、起用する選手の大半を若手選手に切り替えて「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位で終えたことで会心のシーズンだったと語っている[30][78]。シーズン終了後、バッテリーコーチの森が退団し、黒田正宏が兼任することとなった[84]。
田淵の引退により、広岡は長距離砲の外国人選手を渇望する。筆頭としてドン・ベイラー(カリフォルニア・エンゼルス)の獲得を進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエース・郭泰源を獲得した[79]。当時の外国人選手枠は2枠だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手で使用したため、一軍登録は投手、野手それぞれ一人ずつとなった(郭とスティーブ・オンティベロス)。これで広岡はフロントに対してさらに反感を抱き、1985年は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手の台頭により、従来の寄せ集め選手中心から生え抜き選手中心のチームへ姿を変え[84]、独走状態でリーグ優勝を果たした。しかし、広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化して病気療養し、優勝決定時は不在だった[85]。同年の日本シリーズでは、現役時代のライバル・吉田率いる阪神に2勝4敗で敗れ、日本一を逃した[17]。
シーズン終了後、広岡は監督権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙にフロント批判を繰り返したことを根本が問題視すると、同年11月8日に広岡は辞任を申し出た[78][79]。広岡が根本に「辞めてあげましょうか」と言うと、根本は嬉しそうに「おお、辞めてくれるか」と答えた[79]。5年契約を1年残し、優勝監督の突然の辞任という衝撃的なものだったが、広岡自身は「相当いい仕事しているのにクビになった」と話している[86]。辞任記者会見では、「痛風が出て終盤の大事な試合で指揮が取れなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と、球団が書いたシナリオ通りに辞任の理由を健康上の問題としたが、「4年間で三度のリーグ優勝、二度の日本一と出来過ぎとも言える成績を残した自分をどうして追い出しにかかったか、今でもわからない」と話している[79] が、一部では広岡の選手に対する厳し過ぎる指導、言いたい放題、勝っても思ったより伸びない観客動員、フロントとの確執を挙げている[85]。正捕手の伊東は同日、温泉治療で群馬県の上牧温泉病院へ向かっている途中で広岡の辞任を知り、「サービスエリアでビールを買って小宴会みたいになった。私のあの厳しさから解放されると思うとホッとした」と当時を振り返っている[84]。
広岡の後任には長嶋、古葉竹織、田淵らが候補として挙がったが[85]、同年12月5日に前年限りで退団していた森が監督として復帰し[85]、後に黄金時代と呼ばれる[87][88][89][90]。
西武退団後はNHKの野球解説者に就任した。
球界初のGM就任
1990年に阪神タイガース監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて臨時コーチを務め、東京遠征時には仲田幸司、猪俣隆、野田浩司を指導した[91]。特に仲田には徹底的に指導し、鳴かず飛ばずだった仲田は2年後の1992年にエースとして君臨する[92]。
広岡は、アメリカに比べて日本は指導者育成の場が少な過ぎると考え、1988年に「ジャパンスポーツシステム」を設立、アメリカの著名選手や球団経営者を招いて勉強会「日米ベースボールサミット」を開催した[93]。これは1990年まで3回実施され、MLBコミッショナーを務めたボウイ・キューン、ドン・ドライスデール、ボビー・ボニーヤなどのMLB元指導者、およびボビー・バレンタイン(テキサス・レンジャーズ監督)などの現役監督や選手が来日した[93][94] ほか、日本からも広岡をはじめ張本勲、鈴木啓示、古葉竹織らが参加して議論を繰り広げ[93]、当時プロ入り前だった野茂英雄(新日本製鐵堺)、古田敦也(トヨタ自動車)などのアマチュア選手も参加し、実技指導を受けた。また、「ジャパンスポーツシステム」は日本人選手の受け入れを目指してアメリカのマイナーリーグ球団の経営にも乗り出し、当時ミネソタ・ツインズ傘下1Aだったバイセイリア・オークスを買収、読売ジャイアンツから吉田孝司コーチ、藤本健治・佐川潔・小沢浩一・四條稔を受け入れた[95]。1990年にはトロント・ブルージェイズ傘下3Aのバンクーバー・カナディアンズを買収した[95]。バンクーバーで通訳・経営に携わったエーシー興梠は能力を買われてロサンゼルス・ドジャースアジア地区担当取締役に就任し、黒田博樹を獲得している。
1994年11月1日、オーナー代行・重光昭夫に誘われて千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャー(GM)に就任した[94][96][97]。GM制度は日本球界初の試みで、当時のロッテは毎シーズン下位と低迷し、「オーナーから『全部任せる』と言われ、革命的なことをやる必要がある」と、前述の日米野球サミットで知り合ったボビー・バレンタインを監督に招聘、選手ではフリオ・フランコ、ビート・インカビリア、エリック・ヒルマンを獲得する。しかし、バレンタインとはシーズン序盤から野球観の違いで確執を起こし、伊良部秀輝・小宮山悟・愛甲猛・ヒルマン・フランコら主力選手とも確執を起こした。広岡は二軍ヘッドコーチだった江尻亮を一軍に昇格させ、バレンタインの意向を遮って休養日に練習を課したが、広岡はバレンタインが泣きついてきたため、日本式の練習を導入し、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している[94][98][99]。チームは後半戦から調子を上げたため、新外国人選手獲得のために渡米し、帰国後にバレンタインが「自分(広岡)に任せていたらチームはもっと上(位)に来ていた。GMが横槍を入れたから」という趣旨の記事を書かせたという[99]。
チームは最終的に、1985年以来の2位へ躍進したが、江尻と江藤省三、尾花高夫が「選手が不調になればすぐ対処するのがコーチの仕事なのに、監督は『疲労が原因だから休ませれば良い』と言う。これでは我々コーチの仕事が無い。出来れば(ロッテを)辞めたい」と辞任を申し出た。これを受け、オーナー代行・重光昭夫に事情を説明すると、オーナー・重光武雄の裁定を仰ぐこととなったが、武雄から「監督解任でも良いか?」と聞かれて「困りません」と答え、同年限りでバレンタインの解任が決定、後任に江尻が昇格した[99]。広岡は自身に「監督を解任する権限は無かった」と話している[46] が、後にバレンタインは「GMは選手集めが仕事なのに、広岡はそれをせずに現場へ口を出すだけだった」と批判し、広岡は「監督は泥まみれで選手を教えるのが仕事なのに、バレンタインはやらなかった」と反論している[46]。1996年は江尻が監督を務めたが、フランコ・インカビリアに変わる新外国人選手として獲得したランディ・レディ・ジャック・ドウティーが絶不調で6月に解雇される非常事態に陥る。その後、ウェス・チェンバレン、ダレル・ウィットモアを獲得したものの5位に終わり、広岡は3年契約を1年残して同年10月8日に解任された[100][101]。
再び解説者として
1998年から2007年まではアール・エフ・ラジオ日本の野球解説者を務め、その間はスポーツ情報番組のラジオパーソナリティとしても活躍した。
現在は野球評論家として活動する傍ら、読売巨人軍OB会副会長を務めていた。2004年に会長である長嶋茂雄が脳梗塞で倒れて以降は事実上の会長格として活動していたが、正式な会長ではない。また、長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や、前任の藤田元司が辞任した際も会長候補として名が挙がったが、就任は実現しなかった。その後、2009年に王貞治がOB会の会長に就任した。
「指導者とは自身の身体で見本を示さなければならない」を持論としており[102]、高齢の監督・コーチ業には否定的な立場をとっているため、2000年代以降は正式な指導者として腕を振るうことは無いが、シーズン終了後には読売ジャイアンツの臨時コーチを務めており、2012年には中日ドラゴンズ・東京ヤクルトスワローズの臨時コーチを務めた[103][104]。また、母校・早稲田大学の指導も熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っている。
また、「読売ジャイアンツの監督は生え抜きに限る」ことも持論としており、2001年シーズン終了後に長嶋が勇退した後も東京スポーツ紙上で「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」というなど、球団経営に介入する発言を繰り返している。2005年に堀内恒夫が解任され、後任として星野仙一の名が挙がったが、広岡は大反対し、2007年に原辰徳が率いて5年ぶりのリーグ優勝を果たすと、「原が優勝してくれて心底ホッとした。原には『巨人魂』がある。やはり(巨人監督に)余所者を入れてはダメ。巨人の飯を食ったことの無い者には任せられません」と話した[105]。
一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持ち、日本の野球界に対する苦言などを自らの持論を元にして語っていた。オリンピックへのプロ選手の参加にも否定的で、「オリンピックというアマチュア選手の夢を奪うことは野球界のレベルアップにはつながらない」というのが持論である。
現在はベースボール・マガジン社より発行されている週刊ベースボールにおいて「「やれ」と言える信念」という隔週連載コラムを受け持つほか、複数のニュースサイトへ記事を寄稿している。内容は野球のみに留まらず、2017年に日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いた傷害事件に端を発する角界の一連の騒動や日大アメフト部反則タックル問題、新型コロナウイルスの流行や対応といったものを取り上げることもあり、現代文化や概念に対して拒絶的な意見を寄せることもある[106]。
評価
球界一の遊撃手とは
優れた守備力のある遊撃手と評価されていたものの、ベストナイン遊撃手部門の選出回数にあるように、当時は球界ナンバーワンといえば吉田義男(大阪タイガース)とされていた(吉田は9回に対して広岡は僅か1回)。広岡は、吉田のずば抜けた守備力を「甚だ迷惑」と語っていたが、吉田は「広岡さんからグラブ捌きなど色んなことを学んだ」と述べている[107]。吉田の俊敏、華麗な守備に対抗するために広岡が行き着いたのは「基本に忠実、堅実なプレー」で、岩本尭は「どんなデコボコのグラウンドで、(打球の)バウンドがどうなろうと、広岡は百発百中捌いていた。広岡へのノックが始まると、他の選手は練習を止めて見入っていた」と称えている。
広岡が守備の手本としたのは、ポジションが異なるものの、1958年秋の日米野球で来日したセントルイス・カージナルスの二塁手で、後に阪神タイガースの監督に就任するドン・ブレイザーだったという [108][109]。広岡は、基本動作を一から全て丁寧に練習するブレイザーを見て「最初はバカにして見ていたけど、それはとんでもない大間違いで、自分はあのように丁寧に野球をやってないことに気付かされた。ブレイザーの真似をして打球にひたすら丁寧に向き合うようにしたら、自分の守備力が急激に上がった」と言い、自らの守備理論の確立にブレイザーは最も大きく貢献したと常々語っている。
妥協を許さない厳しい姿勢は監督時代に有名となったが、それは現役時代から変わっておらず、読売ジャイアンツコーチだった牧野茂は「彼(広岡)には『この位で良い』というのが無い。どこかで固めてしまえば“広岡スタイル”が出来ただろうが、常に上を求めてしまう」と語っている。牧野と、現役時代に大先輩だった千葉茂は口を揃えて「広岡のエラーは『理由の無いエラー』が無い。エラーをすると必ずその原因を追究し、翌日にはそれを修正するための練習をしていた」と、その探求心を評価している。
指導者としての広岡
プロ野球界における広岡の存在を不動のものとしているのが、指導者としての広岡である。コーチ時代の業績が皆無というわけではないが、監督として弱小球団だったヤクルトスワローズ・西武ライオンズを就任から僅かな期間でリーグ優勝、日本一へ導いた手腕は多方面から高く評価されている。西武ライオンズ監督就任については、根本陸夫からの「真のプロ野球を教え、彼らを戦う集団に変貌させてほしい」という要請で、根本も広岡について「球界で最も妥協の無い人物」、関根潤三も「文句無しに球史に残る名監督。大指導者」と評している[110]。
1966年に現役引退したばかりだった当時34歳の広岡を、就任とはならなかったものの永田雅一の反対を押し切って東京オリオンズ監督に招聘した青木一三は、「広岡君の監督としての才能に誰よりも早く目を付けたのが誇り」と話し[111]、セントラル・リーグ・パシフィック・リーグ両方で日本一になった監督は広岡より前に三原修・水原茂が存在するが、水原について青木は「東映フライヤーズを勝たせたのは評価出来ても、強い読売ジャイアンツを日本一にしたのは評価出来ない。(どちらも)前年最下位のヤクルトと西武を日本一にした[112][113] 広岡は三原に次ぐ優れた監督だったと思う。名将として語り継がれる川上、鶴岡も同一のチームでしか優勝していない点で、私に言わせればワンランク落ちる」と述べている[111]。
また、早稲田大学の後輩である近藤昭仁[114]・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一からは深く信奉されている。近藤は「広岡監督の戦略は、いままで見た監督の中で間違いなくナンバーワン。特に選手に自己管理を徹底させる方法と、根気良く選手の欠点を矯正していく技術はプロ中のプロ」と述べている[115]。広岡の大学時代の一年先輩にあたる荒川博が、毎日オリオンズで現役引退後に巨人へ打撃コーチとして招聘されたのは、広岡が荒川を推薦したもので[116][117]、荒川は生前、「プライドの高い広岡が“犬猿の仲”の川上に頭を下げてくれた。広岡には感謝してもしきれない。今でも深い恩義がある」と話していた[116]。
チャーリー・マニエルはかつて広岡と激しく対立し、いざこざが絶えなかったが[118]、現役引退後、アメリカ球界で監督と指導者としてキャリアを重ねていくうちに、「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」「今監督をしてチームを率いてやってみて、ヒロオカの言ったことは正しかったことがわかる。説得力があり、自分でお手本を示すことができ、選手の心理をつかんでやる気を出させる、そんな彼が示したボスの条件は、おれもまったく同意しているんだ。ニシモト(西本幸雄)には悪いが、監督としておれが目指すのはヒロオカ式鉄の統制だ」[118] などと発言、指導者としての自分があるのは日本での経験のおかげであると述べている[119]。
その一方、現役時代から歯に衣着せない言動をする傾向があるため、敵も多く、川上哲治・森祇晶・豊田泰光・江夏豊・東尾修らからは公然とその人間性を批判されている。特に森とは、かつては盟友と呼べる関係であったにも関わらず、広岡の森への発言と行動がきっかけで断絶、現在も袂を分かったままとなっている[27]。特に清原和博が覚醒剤で逮捕された事件で、「清原がこうなったのは、プロ野球で上に立つ人が『これはやっていい』『これはやってはいけない』と教えてこなかった結果なんですよ。縁あって入った球団の指導者は何をしていいかいけないかを選手に教えるべき。この事件は球界に対する警告だと思うね。コーチを責めるよりも、やっぱり監督だね。清原は高校を卒業してドラフト1位で西武に入った。当時の森監督は野球は教えたけど、社会人としての常識を教えなかった。親ができなかったことを、球団が教えないといけなかった。森監督がしっかりしていれば、清原はタイトルを取ってますよ。清原は『無冠の帝王』だもん。清原はまれにみる才能を持った男だったんですよ。僕が西武の監督だったころに入団していたらよかったが」と批判している。広岡によると清原の扱いにてこずり将来を心配したコーチたちが森に「一度、社会常識など厳しく教え込むべきではないか」と進言したが森はこれを無視して放任したという[120]。また著書の中で「かつて私のあとに西武の監督を務めた森のように、打線に力があるのにバントばかりしては野球が面白くなくなる」と批判している[121]。とはいえ大沢啓二は著書で「広岡と森はプライベートじゃ、ほとんど口をきかない。ただ試合になるとチームの勝利のためにプライベートでの確執を忘れて協力しあう、俺はその姿を見てつくづく思ったね。これこそが、ほんとうのプロフェッショナルだってな。あの二人のプロ根性が西武を強くしたのは間違いないよ」と述べている[75]。一方森については「私がヤクルトと西武の監督の時は森昌彦という有能なヘッドコーチがいた。川上巨人のV9に貢献した名捕手で、投手の事を知り尽くした名参謀だ」と記している[122]。江夏は「広岡さんの野球に対する考え方は素晴らしい。管理野球、管理社会の時代には、最高の指導者といえるが、長期的にみた場合、広岡さんのやり方では一人一人の選手の個性を伸ばせない」[123]、東尾も「広岡さんを監督にしたのは大正解。いい勉強をさせてもらったよ」[124]「広岡さんの厳しい指導の下で若手が成長し、チームが強くなったのは事実」[125] などと指導者としての手腕や実績については一定の評価を示しているものの、指導方針などを巡る様々な確執から、現在でもその人間性を批判している[※ 4]。いつ見てもアゴを上げ、銀縁の眼鏡越しに冷たい視線をグラウンドに送る、恐怖イメージは[126]、いしいひさいち作の4コマ漫画、及び劇場版アニメ『がんばれ!!タブチくん!!シリーズ』でも陰湿なキャラクター・ヒロオカさん・ヒロオカとして描かれた(『がんばれ!!タブチくん!!』が全盛のころ、娘の祥子に毎週駅まで買いに行かせ、自室でこっそり読んでいたというユーモラスで人間臭い一面を持つ[68])。いしいの描くヒロオカはタブチ以上に好評で、その後も小説家、医師などと役柄を替えつつ現在までキャラクターとして描かれ続けている。
豊田泰光の場合は、著書が多いのでしばしば広岡の話が出てくるが、豊田は広岡の指導者としての手腕は高く評価し[127]、シドニーオリンピック野球日本代表の指導を一緒にしたり[128]、大久保博元が巨人をお払い箱になったとき、当時ロッテのGMだった広岡に豊田が大久保のロッテ移籍の仲介をしてやったり(移籍せず引退)[129]、ある時期までは仲が良かった。
過去に一番早くに広岡と確執を演じた川上哲治は、自著『遺書』の中で広岡のことを「ひとことでいえば意志の人だ。頭がよく、ひらめきもある。特に先を読みながら考えを組み立て、実行していくタイプの野球人で、コーチであれ監督であれ、ゼネラルマネージャーであれ、どんな立場に就いても自分をフルに発揮する」と非常に高く評価している。
広岡自身は自著『意識革命のすすめ』他で、歴代プロ野球で最も評価する監督として西本幸雄をあげている[105]。日本シリーズでは一度も勝利を得ることがなかった西本であるが、広岡は選手を一から育成し弱小球団だった阪急や近鉄をリーグ優勝にまで導いた西本の手腕を絶賛している。この西本への評価から、広岡の理想の指導者像が「勝つ」能力ではなく、「育てる」能力をもった指導者であることがわかる。清武英利がゼネラルマネージャーの頃に育成重視の方針を採っていたが、その時代を除きFA制度その他で完成した選手しか集めなくなった現在の巨人に対しては厳しい批判を向けている[130]。同じ広島出身で巨人の遊撃手としても後輩である二岡智宏は高く評価していたが、現在の遊撃手である坂本勇人は評価しておらず、しばしば著書などでその守備やプレースタイルに厳しい批評を行っている。
管理野球
監督としての広岡は、徹底した「管理野球」[※ 5] で有名である[5][44][131]。選手の役割分担を決め、それぞれの役割を完璧に果たすように教育し鍛え上げる。綿密にスケジュールを組んで選手を管理する[5]。夜遊びや度を越した飲酒を禁止し、食事のメニューまで規制を加えた[5][132]。「私の野球スタイルは、海軍の“軍律”と同じ。上官の命令への絶対服従が当たり前。ファンのため、チームのために自分の生活を賭けて死にもの狂いで戦うのに、『監督の指示に従えません』では勝てない」と述べている[5]。集団行動の規律を重要視する組織野球は「管理野球」と呼ばれた[82][133][134]。それがチームのためであり、選手自身のためだという論理である[133]。1982年の日本シリーズで広岡西武に敗れた中日ドラゴンズ・近藤貞雄監督は「広岡は鵜匠。対する私は鷹匠です。鷹は鵜と違ってヒモがない。どこかへ飛んで帰ってこないのがいる」と皮肉った[135]。
ヤクルト監督時代、1978年のチーム日本一の立役者であったはずのチャーリー・マニエルを全く評価しなかったように[41]、打撃のみに特化した選手を嫌っている。1982年、西武監督に就任してすぐの春のキャンプ初日に故障した大田卓司を「自分で身体を管理してないからだ。たるんでる。彼は落伍者」と槍玉に挙げ[136]、「DH制はカタワ。最初からDHを狙う選手はいらない」[72][136] などと指名打者制に関しても否定的な見解を持っていた。「打って、守って、走るのを分業化してしまったら、それはもう野球でもスポーツでもなくなってしまう。三拍子そろったところで初めて野球選手としての資格があるんで、僕はその次元から全てを選手に要求していくのです」と述べていた[137]。しかし大田の大活躍もあり[136]、西武監督を経た後は「中途半端な野球選手を作ることを別にすれば、攻撃的な野球が展開できて面白い」とその意見を若干変えている。ただしその後も福岡ソフトバンクホークスの松中信彦に対して「イチローのように(走攻守)3拍子揃っていれば素晴らしいが、松中のような打つだけの選手にどうしてソフトバンクは大型契約をしたのか」と批判している。
広岡は、勘や経験が頼りだったプロ野球選手のフィジカル管理にいち早く科学的な視点を取り入れたことでも有名である。「万全のコンディションでプレーするためには当然のこと」「プロの選手にとって、グラウンドがすべて。いいかげんな体調でグラウンドに出てくることは許されない」[138] と、その管理は選手の私生活にまで及び、1982年に西武監督に就任した際には、それまでの禁酒、禁煙、禁麻雀に加え、選手の食生活の改善から着手し、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限した[24][30][132][139][140](ただ、「あくまでも『制限』であって『禁止』ではない」と後に広岡はマスコミの誇張表現に対し牽制している[131][141])。親交のあった森下敬一[142] を呼んでコーチ、選手全員を参加させ「夫がグラウンドでいい仕事が出来るよう参考に」と妻帯者の選手の夫人にも参加を呼びかけ講演会を行った[138][141][143][144]。当時はスタミナ作りに肉はかかせない、特にスポーツ選手はたくさん食べないと肉体が維持できないという考え方が大勢を占めていたが[145]、この講演に「肉は腐った食物である。牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るものなので、毒を飲んでいるようなもの」といった内容があったため[71][141][146]、この講演会を報道で知った日本ハムの大社義規社長が烈火の如く怒り[141]、親会社が日本ハムの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発した[34]。
実際は、これら肉や牛乳、ビタミン類が失われている白米より、玄米や雑穀類、豆乳などの方が栄養価が比較的高く自然治癒力もつきやすいという意味であり、肉食が全面的にいけないといっているのではなく食べ過ぎるなという意味で、魚介類、野菜、果物で栄養のバランスをとったほうが身体にいい[141][143][147]、酸性偏重の食生活の改善[148] という程度の要旨であった。
当時の日本ハムのキャンプには、本社から何十キロという新鮮な肉が差し入れされ、一日目がステーキ、二日目がトンカツ、三日目はすき焼きと肉中心のメニューを組んでいた[141]。元々、豆乳はヤクルト監督時代にも導入したことがあったが、乳酸菌飲料を扱う親会社の強い圧力で一週間で中止に追い込まれていた[141]。大沢発言は舌戦を展開して、当時はまだマイナー扱いされていたパ・リーグをメディアに取り上げてもらおうというパフォーマンスの意味合いも強かったといわれる[149][150][151]。大沢は著書で「ファイターズの主催試合の時は、時々、西武のベテラン選手達が俺の所に訪ねてきて、「白ご飯を食べさせてください」と頼みにきたから、食堂で喰わせてやったんだが、いい歳した体の大きな選手たちが「うまい。うまい」と泣きながら喰うわけさ。玄米食えと命じる監督とそれを律儀に守る選手達。日本ハムの確かにいい選手は揃っていたが、でも優勝した大きな理由は広岡の徹底した管理主義よ。選手管理と教育でチームをひとつにまとめて優勝させたんだから、そりゃたいしたもんよ」と述べている[75]。
当時の野球選手は試合のあとはビールを飲んで肉を食うのが当たり前で[26]、暴飲暴食しがちで、肉食に偏ることが多く[152]、食事のことなど、まったく異質の分野のことと考えていた[26]。そんな考えの根強かった当時の野球界で、広岡の考えは異端だったが今では常識[26]。広岡の考えは常に新しかった[26]。広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している[143][153]。広岡は西武監督時代に読んだロバート・ハースの書いた『食べて勝つ』(講談社、1985年)から大きな影響を受けたと話している[154]。前述の「肉や牛乳は腐った食物」発言は、親会社の系列スーパーから大クレームを受けたが、広岡は親会社の意向を無視して自分の考えを貫き通した。その姿に、選手は"怖さ"を感じ、それがチーム変革のパワーとなった[88]。
「肉は腐った食物である」という言葉は、極端な表現ではあったが、それまで好きなモノを好きなだけ食べていた選手にとって、食生活を考える切っ掛けとなった[87]。今では食事の内容を気にしない野球選手などいない[88]。現在では当たり前となったスポーツ選手の節制や自己管理の必要性を、広岡は情報の少なかった当時から、科学的根拠を基にした基礎練習や食事管理を実践し[89]、プロ野球選手のあるべき姿として提示した[89][91][155]。
しかし、チーム内での反発が大きく、遠征時の外食が増えるなど首脳陣の目を盗むような事実があったことは、後に西武の監督を経験した森や渡辺久信[156] からも指摘され、特に森は西武監督就任時に玄米食を白米食に移行し試合後の食前酒も解禁したという[157]。さらに広岡自身については、肉料理の制限を行っておらず、また西武監督最後の年には(美食家が罹るとされる)痛風を病んでいることが明らかになり、このことはチーム内外で批判を浴びた。広岡はこれらについて「監督と選手が違うのは当たり前」と著書で述べている。江夏豊は「広岡さん自身が制限を守らない件を指摘したら、そのことで私は二軍に落とされた」「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記している。西武時代に「アイツは関西で投げると、どうも変なピッチングをする」という際どい発言を浴びせた[87] 東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人[158]」「すべて自分の考え方に全選手をあてはめ、従わせようとする人」と評している。ただし、東尾は「広岡監督に選手が反発とか、対抗しながら優勝していった。マスコミもそれにうまく乗っけてくれた。そこら辺から少しずつパ・リーグの記事も増えたから、本当の野球とは違った意味での魅力なのかね」[159] などと話している。
広岡が西武の監督に就任した1982年初頭のテレビ界は“「マンザイ」から「ヒロオカ」へ”と騒いだ[160]。これは予想以上に早く潮が引いた「漫才ブーム」に代わるものは「広岡・西武」しかない、と在京キー局全てが西武の試合をめぐって争奪戦を繰り広げたもので、先の自然食の話は当時のマスメディアの大報道合戦を呼び、当時のパリーグでは珍しく「広岡・西武」の記事がスポーツ紙の一面を飾ることもあった[34][71][160]。パ・リーグがマスメディアに露出する機会が増えてきたのはこの辺りからである[160]。勿論、こうした自然食品や健康食品、玄米、食品添加物といったものが、世間一般に知られるようになったのもこの辺りからであった。広岡西武が“自然食ブーム”の普及に一役買った[141]。
広岡はとにかく厳しく妥協を許さない[161]。ヤクルトの守備コーチ時代に、登板の予定のない投手陣にも厳しい練習メニューを課すので、投手が壊れてしまうと当時バッテリーコーチだった片岡宏雄が荒川博監督に進言したら、荒川が「よし、分かった」と広岡に伝えるとこれをあっさり却下、荒川も広岡に賛同せざるを得ない程の勢いで荒川をねじ伏せたという[161]。平井平八郎トレーナーが開幕前のハードなトレーニングに「このまま行くと選手がパンクしますよ。少し緩めてやったらどうですか」というと広岡は「緩めて勝てるなら緩める。緩めても勝てないのならパンクした方がいい」と言い放った[53]。田淵幸一は広岡のコーチングに最も強烈な影響を受けたと自著で述べているが、それは“まさに、ケンカ、選手を怒らせて上手くさせるコーチング”と解説している。西武キャンプ初日に全選手を前に主力選手を「給料泥棒」「引き際を考えろ」などと一人ずつ批判したため、選手間で「アイツの目が節穴だったと証明してやる。絶対優勝してアイツを胴上げして4回目で全員の手を離して落としてやる」が合言葉になったという[73][162]。これは、このチームはベテランの働きが鍵を握ると考え、ベテランを奮起させればチームの体質が変わるという広岡の戦略でまんまとこれにはまった。不思議なものでチームが強くなると指揮官に信頼感が湧いてきて胴上げの時はしっかり広岡を受けとめたという[73]。広岡は不世出の勝負師と思うと話している[163]。
田淵は広岡の食事療法を受け入れた結果、体質が改善されたと述べている[164]。二年目にチームリーダーとしての教育を施した[102]石毛宏典は「俺にとっても広岡さんの存在は大きい。1年目に新人王を取って、ああプロってこんなもんかって少し甘く考えていたんだけど、2年目に広岡さんが来たら下手だ、なんだとボロクソ言われて。腹の立ったこともあったけど『将来、指導者になりたければ自己流はダメだ。しっかりした理論を体にしみこませろ』と言われた」[24][165][166]、「正確に問題点を再現するので納得するしかなかった」[167]、「俺の中で昭和の名将は広岡達朗しかいない。監督人事は"有事"なんですよ。問題があって、それを解決して勝てるようにしなきゃならないから、その能力を持った人にやってもらうわけでしょう。あの時の西武はバラバラで、個々の選手の技術やレベルも十分じゃなかった。だから広岡達朗という男は個人のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った"技術屋"でもありました」[24]、「厳しい広岡監督に野武士たちが付いていくようになったのは、やっぱり広岡監督が技術理論に長けた人だったからではないかと思う」[89]、「ベテランは猛反発したけど、自分は中高大学と軍隊のような部活で育ったから(広岡野球に)違和感はなかった」と話している[89]。広岡も石毛はリーダーシップのある選手と見抜き、天狗にならないよう意識的に挑発したと述べている[145]。
広岡は一軍で指揮を執る一方で森、近藤昭仁、佐藤孝夫の3コーチらと共に二軍に足を運び、若い選手を鍛え上げた[30][145][168][169]。その成果もあって1985年に一気に若手が台頭した[168][170]。2012年阪神球団初のゼネラルマネジャーに就任した中村勝広は、この一軍首脳陣が二軍にいる期待の若手を直接指導して西武の黄金時代を築いた広岡の指導方式を導入した[169]。渡辺久信は「高校を卒業していきなりの管理野球にはとんでもないとこに来たと思ったけど、今思えばその経験が良かったと思う。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎をつくってもらったのかも知れない[171]。蹴飛ばされたこともあったが、野球に関してあんなに厳しい人はいなかった。若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と話している[172]。2010年まで球界最高齢選手(47歳)として現役を続けた工藤公康は、広岡に"坊や"と可愛がられ、入団一年目から使われたことでも知られるが[173]、西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているといい[174]「管理野球が自分の基礎」[175]「これまで何度もあった逆境を乗り越えられたのは、広岡監督に若いうちにプロ魂をたたき込まれたお陰」[176]「玄米じゃなきゃ壊れてたかもしれない」「頭が上がらないというより、今でも顔を見たら直立不動です」[165][177]「野球に懸ける情熱、思いはあまりにすごすぎてまねできない」などとと話している[178]。
なお熊谷組への就職を発表していた工藤をドラフト6位で強行指名し入団させた仕掛人は、長らく工藤自身含めて全て根本と信じられてきたが、実は根本は工藤指名には反対で、強行指名の仕掛人は広岡だったという[179]。渡辺と工藤は広岡が一軍に置いたまま、特別教育した成果である[180]。金森栄治は「俺は玄米嫌いじゃなかった。今はみんな五穀米を食べている。広岡さんは時代の先を行っていたということ。野球のスタイルに関してもそう」と話している[181]。伊東勤も基本の大事さを教えられた最も影響を受けた野球人として広岡を挙げ[182]、「(広岡の監督辞任直後)その時広岡さんのおかげでチームが強くなったことに感謝する選手はほとんどいなかったと思う。だが、やがて分かる。広岡さんに基礎をしっかり叩き込んでもらったからこそ、その後のライオンズがあったのだ」[84]、「広岡達朗さんが土台を作って寄せ集め球団を優勝に導き、西武になってから入団した生え抜きが勝つためにはこういう野球をやらなきゃいけない。という基本を引き継ぐ。戦力的に足りない部分を管理部長の根本陸夫さんがトレードで埋め、バランスのいいチームを作った」[183] と述べている。辻発彦は「広岡さんの下で野球がやりたくてアマチュアの時から西武志望でした」と話し[184]、2016年10月の西武監督就任会見で、基本に立ち返ることの重要性を説いた広岡から授けられた座右の銘「稽古とは一から習い十を知り十よりかえる元のその一」を披露した[185][186]。自ら手本を見せた広岡同様、自身も自ら手本を選手に見せる指導を行うと話した[187]。
大久保博元は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している[188]。伸び悩んでいた時期に「下手投げ理論」を基に再生させた松沼博久は、当時誕生した長男に「達」の一文字を付け、感謝の気持ちを表した[87]。また、秋山幸二は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された長池徳士コーチによって育てられたもの[189]。西武の「育てながら勝つ」という伝統は、広岡の時代から始まったものである[190]。田尾安志は「広岡達朗監督が実力至上主義を徹底していたから。だからこそ、他チームの追随を許さない黄金時代を築くことができた」[191]、「広岡さんは選手を歯車の一つとしか思っていなかった。ベンチからバントのサインが出ると打球を転がす位置も決める。考えさせる隙を作らせなかった。広岡さんは2軍監督の方が適任だと思った。なぜなら野球が学べるから。当時の西武の選手は若手が多かったから広岡さんが標榜した管理野球は合ってました」[192] と述べている。
またロッテコーチ時代に毎日のように広岡に怒られ指導者としての心構えをたたき込まれたという尾花高夫も、最も影響を受けた指導者として広岡を挙げており、2010年から2011年まで横浜ベイスターズで指揮を執った際、広岡と野村克也を手本にした野球をやりたいと話していた[193]。2010年シーズン途中からヤクルト監督に就任した小川淳司も“広岡+野村”の考えをエッセンスに含めた小川流管理野球をやるという[194][195]。安田猛は「広岡さんは理論がきちんとして、絶対にブレなかった。はっきり言って好きなタイプじゃない。ただ野球に対する考え方は素晴らしい。当時は反発しましたが、すべて若気の至り。反省しています。いまのヤクルトにも広岡さんのDNAはしっかり残っています」などと話している[24]。
その他、ヤクルト監督時代には、重量挙げなどのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的なウエイトトレーニングを体系立ててチームに導入している[26]。ウエイトトレーニングを導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話ばかり始めた為、シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、体の回復とレベルアップを図るには基礎体力を付けることが一番いいという理由で始めた[44]。選手には『シーズンの疲れは完全に休んだら抜けることは絶対に無い。人間の体は動かしていないと駄目だ』と言い渡し、選手から大反発を買ったものの、ユマのキャンプでサンディエゴ・パドレスのクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があってパドレスの選手たちが普通にやっているので、それを目撃して素直に納得したのだという[55]。
広岡には冷淡、冷酷イメージが付きまとうが[196]、広岡をよく知る人たちは、それとは程遠い優しい神経の持ち主で、かつ冗談も多く愉快な面が多いと話す[196]。1983年の日本シリーズで第5戦を落とし巨人に王手をかけられた夜、池袋サンシャインホテルでのミーティングでマイクを持って、開口一番「カラオケはないのか」と話し、土壇場に追い込まれたナインのショックを和らげる平常心のこの一言に、ナインの沈み切った胸中を一挙に打ち払っての笑い声は部屋中にこだました[196]。本来ならあの状況であるだけに監督自身が一番固くなって、もう負けられぬという緊張感に陥ってしまうところを、さりげなく「カラオケはないのか」の発言でナインに笑いを求めたあたりの呼吸の良さに、当時西武のスコアラーだった尾張久次は唸ったという[196]。この後、広岡は第6戦、第7戦における巨人-西武の投手陣の比較から始まって最後には「どう考えても西武に負ける要素はない」と断言し、力強い堂々たる意気込みに、思わずナインは引き込まれ、完全に広岡に暗示にかけられていたという[196]。
選手へ自然食を勧めるようになったいきさつについて、ヤクルト監督時代、チームに故障者があまりにも多く出たので、ある日神宮球場のベンチで『なんで、こう故障者が多いんだろう』と嘆いた時、顔はときどき見かけるが名前も知らない人が自分に『食べ物が悪いんじゃないの。白米を玄米に変えるといいと聞きますよ』と声を掛けたことがきっかけだと述べている[197]。
プロ野球選手の食生活に疑問を抱いたのは、指導者としてのスタートとなった広島カープのコーチ時代から[32][36]。広島カープの日南キャンプは、晩飯に焼肉がでて、ビールがズラーッと並んで和気あいあいと食っている観光旅行のようだったという。根本にキャンプ中の禁酒を申し入れたら広島の選手は素直に聞いた[36]。広島コーチ時代の二年間は厳しい基礎練習を繰り返した、広島伝統の猛練習の礎は当時の我々コーチ陣が作ったものと述べている[36]。ヤクルト時代には、アキレス腱の持病を持つ若松勉が、遠征の移動のバスに乗るとすぐに缶ビールを買い込んでくるので、アルコールが故障にいいはずがないと言い聞かせた。若松は反発したがいい方に作用した。若松も「広岡さんにも良くしてもらいましたし、いろんなことを学び、大きな影響を受けました」と述べている[198]。阪急との日本シリーズで圧倒的に不利との前評判で勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六・七分、その上、有馬温泉で休んでいたから、心のスキがあったんだろう」と話している[55]。
広岡の実践した集団行動の規律を重要視する「管理野球」は時代を席巻し、球界に大きな流れを創った[82][155][199]。
武道との関わり
合気道や剣道等の武道にも造詣が深かった。1995年(平成7年)、ボビー・バレンタインが千葉ロッテマリーンズの監督に就任した。当時のロッテゼネラルマネージャー広岡達朗は、バレンタインに、木刀とサンドバッグを練習に使いたいと言った。バレンタインが実際に木刀を振ってみたところ、バットとは違った動きになると判断し、木刀の導入に反対した。これが広岡の怒りを買い、同年2位と躍進しながらも、バレンタインは広岡から解任された[200]。ただし広岡は「自身に監督をクビにする権限はなかった」と話している[46]。後にバレンタインとは和解しており、ロッテが日本一になった時には「私を日本に連れてきてくれた広岡さんに感謝したい」という言葉を残している。
独自の自己啓発論で政財界にも強い影響力をもっていた天風会の中村天風を人生の師として仰いでいる[201]。中村天風とは選手時代に悩んだときの相談がきっかけで交友を深め、以後人生全体について教えを乞うようになったと自著『意識革命のすすめ』で記している。また、早大の先輩・荒川博が武道に傾倒していたため、合気道の植芝盛平と道場の師範部長だった藤平光一、植芝から紹介された剣道の羽賀準一に師事し、合気道と居合を習得した[201]。王の一本足打法は藤平光一の心身統一合気道が元ではないかと話している[201]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954 | 巨人 | 112 | 405 | 341 | 58 | 107 | 19 | 2 | 15 | 175 | 67 | 9 | 4 | 2 | 4 | 54 | -- | 4 | 49 | 5 | .314 | .409 | .513 | .923 |
1955 | 125 | 511 | 447 | 76 | 115 | 16 | 9 | 11 | 182 | 43 | 17 | 6 | 6 | 2 | 49 | 0 | 7 | 70 | 2 | .257 | .339 | .407 | .746 | |
1956 | 93 | 381 | 343 | 46 | 80 | 17 | 1 | 9 | 126 | 32 | 8 | 3 | 9 | 1 | 25 | 1 | 3 | 56 | 2 | .233 | .290 | .367 | .658 | |
1957 | 92 | 389 | 344 | 54 | 84 | 13 | 3 | 18 | 157 | 33 | 5 | 5 | 11 | 3 | 29 | 1 | 2 | 72 | 3 | .244 | .304 | .456 | .761 | |
1958 | 111 | 479 | 437 | 69 | 121 | 18 | 2 | 12 | 179 | 41 | 22 | 9 | 7 | 1 | 30 | 3 | 4 | 70 | 4 | .277 | .328 | .410 | .738 | |
1959 | 120 | 510 | 448 | 81 | 106 | 13 | 7 | 14 | 175 | 47 | 17 | 6 | 7 | 3 | 45 | 0 | 7 | 88 | 14 | .237 | .314 | .391 | .705 | |
1960 | 98 | 393 | 363 | 47 | 81 | 12 | 6 | 12 | 141 | 26 | 3 | 4 | 6 | 2 | 21 | 1 | 1 | 53 | 9 | .223 | .266 | .388 | .655 | |
1961 | 125 | 466 | 429 | 38 | 87 | 12 | 3 | 10 | 135 | 41 | 5 | 7 | 4 | 2 | 29 | 1 | 2 | 54 | 8 | .203 | .255 | .315 | .570 | |
1962 | 116 | 412 | 378 | 36 | 81 | 11 | 3 | 4 | 110 | 33 | 8 | 7 | 7 | 2 | 22 | 0 | 3 | 83 | 9 | .214 | .262 | .291 | .553 | |
1963 | 104 | 379 | 328 | 39 | 79 | 11 | 1 | 5 | 107 | 41 | 7 | 3 | 5 | 4 | 38 | 2 | 4 | 53 | 11 | .241 | .324 | .326 | .650 | |
1964 | 117 | 391 | 349 | 35 | 73 | 10 | 2 | 6 | 105 | 34 | 3 | 3 | 7 | 3 | 31 | 0 | 1 | 67 | 8 | .209 | .273 | .301 | .574 | |
1965 | 103 | 316 | 275 | 20 | 63 | 13 | 0 | 1 | 79 | 25 | 10 | 0 | 6 | 0 | 34 | 3 | 1 | 58 | 8 | .229 | .316 | .287 | .603 | |
1966 | 11 | 34 | 31 | 4 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 1 | .129 | .206 | .194 | .399 | |
通算:13年 | 1327 | 5066 | 4513 | 603 | 1081 | 167 | 39 | 117 | 1677 | 465 | 115 | 57 | 77 | 27 | 410 | 12 | 39 | 780 | 84 | .240 | .307 | .372 | .678 |
年度別監督成績
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976 | ヤクルト | 5位 | 130 | 52 | 68 | 10 | .433 | 23.5 | 128 | .260 | 3.88 | 44歳 |
1977 | 2位 | 130 | 62 | 58 | 10 | .516 | 15.0 | 170 | .267 | 4.01 | 45歳 | |
1978 | 1位 | 130 | 68 | 46 | 16 | .596 | - | 157 | .279 | 4.38 | 46歳 | |
1979 | 6位 | 130 | 48 | 69 | 13 | .410 | 19.0 | 157 | .252 | 4.60 | 47歳 | |
1982 | 西武 | 1位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 1位・3位 | 131 | .253 | 3.31 | 50歳 |
1983 | 1位 | 130 | 86 | 40 | 4 | .683 | - | 182 | .278 | 3.20 | 51歳 | |
1984 | 3位 | 130 | 62 | 61 | 7 | .504 | 14.5 | 153 | .256 | 4.10 | 52歳 | |
1985 | 1位 | 130 | 79 | 45 | 6 | .637 | - | 155 | .272 | 3.82 | 53歳 | |
通算:8年 | 966 | 498 | 406 | 62 | .551 | Aクラス6回、Bクラス2回 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1976年から1996年までは130試合制
- ※3 1982年は前・後期制のため、それぞれの順位
- ※4 1976年、荒川博監督休養後の5月13日より監督代行として指揮(101試合42勝53敗6分 勝率.442)
- ※5 1979年、8月17日より休養(85試合31勝45敗9分 勝率.408)。監督代行は佐藤孝夫
- ※6 通算成績は、実際に指揮した試合
表彰
- 新人王(1954年)
- ベストナイン:1回 (1954年)※ラリー・レインズと共に遊撃手部門での昭和生まれ初の受賞
- 野球殿堂競技者表彰(1992年)
- 日本シリーズ技能賞:1回 (1963年)
- 正力松太郎賞:2回 (1978年、1982年)※監督として表彰
- 日本プロスポーツ大賞[202]
- 大賞:1回 (1983年)
- 殊勲賞:1回 (1982年)
- ナンバーMVP賞:1回 (1982年)
- 都民文化栄誉賞 (1983年)[203]
記録
- オールスターゲーム出場:6回 (1954年、1955年、1957年 - 1959年、1965年)
- 1000試合出場:1963年4月21日(78人目)
背番号
- 2 (1954年 - 1966年)
- 31 (1970年 - 1971年)
- 71 (1974年 - 1979年途中)
- 80 (1982年 - 1984年)
- 91 (1985年)
関連情報
出演CM
出演番組
※以下、野球解説者としての出演番組。
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本) - 1967年 - 1969年、1972年 - 1973年、1998年 - 2007年に出演(1973年出演時までの局名はラジオ関東)。
- 元気を日本に 日本プロ野球(日本テレビ系列) - 同系列プロ野球中継(1980年 - 1981年に出演)の現行タイトル。
- NHKプロ野球(NHK) - 1986年 - 1994年に出演。
著書
単著
- 『私の海軍式野球』サンケイ出版、1979年
- 『わが野球教育学 組織のパワーを結集する法』毎日新聞社、1982年
- 『意識革命のすすめ』講談社、1983年
- 『積極思想のすすめ』講談社、1984年
- 『勝者の方程式』講談社、1988年
- 『私の野球人生』富山県教育委員会、1988年
- 『成功への羅針盤』産経新聞ニュースサービス、1997年。ISBN 978-4594023737。
- 『監督論 「人は育つ」ことを選手に教えられた』集英社インターナショナル、2004年。ISBN 978-4797671162 。
- 『野球再生 よみがえれ魂の野球』集英社インターナショナル、2007年。ISBN 978-4797671551 。
- 『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』幻冬舎、2016年。ISBN 978-4344029163 。[204]
共著
- 広岡達朗、長嶋茂雄『勝者の組織論 第1回日米ベースボール・サミット報告』講談社、1989年。ISBN 978-4062045452。
- 王貞治、広岡達朗、藤平信一『動じない。 超一流になる人の心得』幻冬舎、2012年。ISBN 978-4344022065 。
脚注
注釈
- ^ 週刊ベースボールに連載されているコラム『「やれ」と言える信念』や「日本の野球殿堂の表記においては、旧字体を用いた「廣岡 達朗」の名義としている [1]。
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』では、「1年目のまま打てばいいものを、理論派であるだけに考えすぎたのが、3割に復帰できない理由だと言われた。しかし意外性のある打者ではあった」という評価が記されている。
- ^ 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(30)、2010年8月31日分より。なお、広岡の挙式には監督である水原茂も出席していたが、当日に別室で水原から厚い信頼を得ていたコーチ2名と選手1名が解雇を言い渡されている。
- ^ 江夏の起用法をめぐる確執あらましについては阿部牧郎『われらのプロ野球』(中央公論社、1996年、19-36頁)などに詳しく書かれている。
- ^ 「管理野球」という名称は、広岡がヤクルト監督時代の『'79年度版 プロ野球選手名鑑』(恒文社)の記事に見られる(『'79年度版 プロ野球選手名鑑』恒文社、1979年、43頁)。
出典
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- ^ 前年最下位だったチームを日本一に導いたのは、2019年現在で三原脩(1960年の大洋ホエールズ)のみ。また1リーグ時代には太平洋戦争による中断を挟むものの、1944年に最下位だった近畿日本軍を、1946年(球団名が「近畿グレートリング」に改称)に優勝へ導いた山本一人がいる。
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vol.6 尾花高夫 - ライフ - ORICON STYLE
横浜ベイスターズ監督 尾花 高夫 氏|インタビュー|社団法人横浜中法人会
尾花 高夫さん | 南区 | タウンニュース - ^ 燕・小川流“広岡+野村”で黄金期再び! (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM
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参考文献
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- 巨人を超えた男(越智正典著 恒文社)
- 広岡野球の戦略(塩沢茂著 芳文社)
- 広岡語録大研究(山根徳光著 東京経済)
- 広岡達朗が教える悪の管理学(後藤寿一著 泰流社)
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- 堀章男『ベースボールに見るPRの研究』誠文堂新光社、1998年。ISBN 4-416-78822-3。
- ヤクルトスワローズ球団史(徳永喜男、ベースボール・マガジン社、1992年)
- 野球を変えた男(与那嶺要・山本茂、ベースボール・マガジン社、1992年)
- 森祇晶『覇道―心に刃をのせて』 ベースボール・マガジン社、1996年2月、35ページ、ISBN 4-583-03277-3
- 巨人軍5000勝の記憶(読売新聞社、ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 ※p. 36 - )
- ライオンズ60年史 1950▷▷▷▷2010(ベースボール・マガジン社、2010年)
- 南萬満『プロ野球監督ウォッチング35年』新評論、1993年。ISBN 4-7948-0201-3。
- 近藤唯之『プロ野球運命の出会い 男たちの人生を変えたもの』PHP出版、2006年。ISBN 4-569-66608-6。
- 「私の履歴書」日本経済新聞社連載、2010年8月
- “生きて 元プロ野球監督 広岡達朗さん”. 中国新聞. (2012年8月 - 9月)
- “レジェンドが語るプロ野球史 【ありがとう八十年】広岡達朗”. サンケイスポーツ. (2014年7月 - 8月)
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 広岡達朗 - NPB.jp 日本野球機構
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