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阿南準郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿南 準郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県佐伯市
生年月日 (1937-09-02) 1937年9月2日
没年月日 (2024-07-30) 2024年7月30日(86歳没)
身長
体重
173 cm
66 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1956年
初出場 1956年
最終出場 1970年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 近鉄バファローズ (1971 - 1973)
  • 広島東洋カープ (1974 - 1988)

阿南 準郎(あなん じゅんろう、1937年9月2日 - 2024年7月30日)は、大分県佐伯市[1]出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

来歴・人物

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小学生時代、当時教師であった漫画家富永一朗から教えを受けており、富永は後年、冗談めかしながら「野球を教えたのはオレだ」とよく自慢していた[2]

佐伯鶴城高では遊撃手、三番打者として活躍。3年次の1955年夏の甲子園県予選で優勝し東九州大会に進出するが、出水高に惜敗して甲子園出場はならなかった。

1956年広島カープへ入団。内野が手薄であったため、1年目の同年8月から遊撃手として起用され、28試合に先発出場。

遊撃の控えで出場機会を増やしていたが、1959年には古葉毅がレギュラーに定着したことで、打撃で決め手を欠いた阿南は内野のユーティリティプレイヤーとして存在感を発揮していく[3]

1960年には一塁手に回った興津立雄の後継三塁手となり、阿南は「守備の職人」として古葉と共に鉄壁の三遊間を形成し、ガッツあふれた守備でファンを魅了[1]

1962年には興津が三塁手に復帰するが、その後も内野の準レギュラーとして活躍し、1963年には二塁へ回る。古葉との三遊間は鉄壁、二遊間は絶品と言われる名コンビとなっていった[3]

1964年に「潤一」から「準郎」に改名し、小坂佳隆に代わり二塁手の定位置を獲得。序盤は首位打者を争って夏場から失速したものの[3]、生涯唯一の規定打席(打率24位、打率.246)到達を果たす。

1965年からは古葉が二塁手に回り、再び三塁へ回され、遊撃のバックアップとしても存在感を発揮[3]

1968年近鉄バファローズへ移籍し、選手兼任監督を解任され、阪神へ移籍した小玉明利の代わりに三塁手として活躍。1964年と同様、序盤は首位打者を争うなどの活躍を見せた[3]。同年から就任した三原脩監督に可愛がられ、三原の趣味であった囲碁の相手を、たった一人で務めていた[4]1970年引退。

毎年のように複数のポジションを守りながら100試合前後に出場していたが、失策数が10を超えたのは現役15年の内3シーズンのみで、打撃は非力であったが、堅守が光るユーティリティープレーヤーであった。

引退後は近鉄の二軍内野守備コーチ(1971年)→一軍守備コーチ(1972年 - 1973年)を務め[1]、在任中はユニホームの尻のポケットにはいつもメモがびっしりと書かれたノートが入っていて、選手達は「チェックマン」と呼んだ[4]1974年森永勝也監督の要請で古巣・広島に二軍コーチとして復帰[1]1975年はシーズン当初は二軍コーチを務めていたが、ジョー・ルーツ監督の辞任で古葉が監督に昇格すると一軍コーチとして招聘され、球団創立25年目の初優勝に貢献した。

1986年、勇退した古葉の後を受け継ぎ、監督に就任[1]。投手王国は依然として強固であったが、打撃陣は世代交代の波と外国人選手の不在もあり、典型的な投高打低のチーム状態であった。本来は山本浩二が監督に就任する予定であったこともあり[5]、つなぎ役と見られていたが、古葉の用兵術と三原の人身掌握術を使い分け、質量ともに円熟した強力投手陣を前面に押し出すことで、後半戦開始時点の巨人との5.5ゲーム差をひっくり返し、就任1年目でのリーグ優勝を成し遂げる[6]達川光男の正捕手再抜擢[7]長内孝は一塁定位置再奪回し自身初の規定打席到達[8]津田恒実の抑え転向[9]正田耕三は二塁手定着した[10]日本シリーズは第8戦までもつれたが、西武に3勝4敗1分で敗れた。

1987年は山本が引退し、古葉が監督に就任した大洋にコーチ、スカウト、マネージャーを大量に引き抜かれるなど、チーム力の低下が懸念されたが、元中日監督の中利夫や、近鉄時代の同僚で、前年までヤクルトのコーチであった伊勢孝夫[注 1]を招聘するなど、コーチ陣の整備でチーム力低下を抑える戦略を採った。

選手生活の晩年を迎えていた衣笠祥雄の起用法に関しては、1986年夏場まで打率1割台と生涯最大のスランプに苦しみ、若手起用を求める声も高まっていた。しかし、阿南は打順を下げつつも頑として先発出場にこだわり、「あれだけの選手だから、いつかは打ってくれる」と述べていた。1987年は試合中盤でランディ・ジョンソンと交代する起用法を採りながら、最終出場試合となった対大洋戦の10月22日で2215試合連続出場を果たした衣笠は、同年限りで引退した。正田は1987年から2年連続で首位打者のタイトルを獲得[10]

1988年までAクラスを持続させ、山本浩二にバトンを渡す形で勇退。フロント入りし、取締役育成部長、常務取締役球団本部長兼連盟担当、取締役相談役を歴任した[1]

2022年のカープレジェンドゲームにも元気な姿を見せていたものの、2024年7月30日死去。86歳没[12]

ユニフォームの名前の表記が「ANAN」だったため、有名女性ファッション誌になぞらえて「アンアン監督」と呼ぶファンもいた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1956 広島 34 90 87 6 17 4 1 1 26 5 0 1 0 0 2 0 1 11 2 .195 .222 .299 .521
1957 89 273 244 8 44 6 0 1 53 12 1 1 1 1 27 0 0 31 4 .180 .262 .217 .479
1958 37 113 97 13 22 2 0 2 30 7 2 2 2 4 10 0 0 11 3 .227 .299 .309 .608
1959 38 104 93 7 14 2 1 0 18 9 1 2 0 2 9 0 0 17 2 .151 .225 .194 .419
1960 99 247 228 23 52 7 4 4 79 19 5 1 3 0 16 0 0 35 3 .228 .279 .346 .625
1961 117 363 331 20 66 12 1 2 86 15 1 3 9 4 19 1 0 32 11 .199 .243 .260 .503
1962 110 253 228 18 56 6 1 2 70 18 1 1 5 1 18 0 1 29 7 .246 .304 .307 .611
1963 99 242 227 13 52 8 0 2 66 16 1 0 2 2 11 0 0 11 8 .229 .265 .291 .555
1964 137 504 468 29 115 15 2 6 152 47 4 3 8 1 25 1 2 39 13 .246 .287 .325 .612
1965 115 331 298 20 62 4 2 2 76 16 3 4 6 2 24 0 1 24 7 .208 .269 .255 .524
1966 117 277 261 8 57 5 0 1 65 14 1 4 1 1 12 1 2 25 9 .218 .258 .249 .507
1967 90 144 134 11 24 4 0 1 31 11 6 0 2 1 7 0 0 15 3 .179 .220 .231 .451
1968 近鉄 118 308 283 21 69 11 1 3 91 22 3 7 8 3 13 0 1 39 7 .244 .279 .322 .601
1969 118 320 293 22 68 8 1 7 99 36 8 2 8 1 17 2 1 25 5 .232 .277 .338 .614
1970 97 171 154 8 28 1 0 0 29 7 6 3 5 1 11 0 0 16 3 .182 .236 .188 .425
通算:15年 1415 3740 3426 227 746 95 14 34 971 254 43 34 60 24 221 5 9 360 87 .218 .267 .283 .550

年度別監督成績

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年度 球団 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 備考
1986年 広島 1位 130 73 46 11 .613 日本シリーズは3勝4敗1引分
1987年 3位 130 65 55 10 .542
1988年 3位 130 65 62 3 .512
通算:3年 390 203 163 24 .555

※1986年から1996年までは130試合制

記録

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  • 1000試合出場:1967年4月26日 ※史上122人目

背番号

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  • 50(1956年 - 1959年)
  • 25(1960年 - 1967年)
  • 5(1968年 - 1970年)
  • 51(1971年)
  • 73(1972年 - 1973年)
  • 75(1974年 - 1988年)

登録名

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  • 阿南 潤一(あなん じゅんいち、1956年 - 1963年)
  • 阿南 準郎(あなん じゅんろう、1964年 - )

関連情報

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CD

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  • 『カープロード』矢野昌大のCDにコメント提供。

脚注

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注釈

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  1. ^ 古葉によるコーチの引き抜きのしわ寄せで、大洋のコーチを解任された小谷正勝をヤクルトが招聘した影響もあり、伊勢はヤクルトのコーチを解任された。そこへ近鉄時代のバッテリーコーチであり、元広島の監督でもあった根本陸夫(当時西武管理部長)から今後について伊勢に連絡があり、根本が当時広島の球団代表だった野崎泰一にコーチ招聘をオファーしたことで、コーチを大洋に引き抜かれた広島に移籍する形となった[11]。その後山本浩二が広島の監督に就任した1989年に、伊勢はヤクルトに復帰している。

出典

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  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、14ページ
  2. ^ 「お笑いマンガ道場」の司会・柏村武昭さん、富永一朗さんは「きちょうめんでまじめだった」」『スポーツ報知』2021年5月23日。2021年6月19日閲覧
  3. ^ a b c d e 古葉竹識&阿南準郎「広島黄金時代の監督2人は低迷期を支えた内野の名コンビ」/プロ野球20世紀の男たち」『週刊ベースボールONLINE』2019年10月9日。2024年7月31日閲覧
  4. ^ a b 野村克也『役者はもう新人類―プロ野球 野村克也の目』朝日新聞社 、1986年12月1日ISBN 4022556420、p29。
  5. ^ スポーツニッポン、古葉竹識の我が道、2016年11月26日
  6. ^ 広島カープの優勝 写真特集」『時事ドットコム』。2020年2月27日閲覧
  7. ^ 阿南準郎さんを悼む 当時の担当記者が後悔する広島監督時代に見逃した“サイン” 厚意に今も感謝」『スポーツニッポン』2024年7月31日。2024年7月31日閲覧
  8. ^ ベースボールマガジン、山本浩二と広島東洋カープ2024年5月号パンチ佐藤漢の背中第87回ゲスト長内孝さん、76頁
  9. ^ 「炎のストッパー」と「正捕手・達川」の生みの親 達川光男さん 元広島監督・阿南準郎さん悼む」『スポーツ報知』2024年7月31日。2024年8月1日閲覧
  10. ^ a b ベースボールマガジン、山本浩二と広島東洋カープ2024年5月号、81頁
  11. ^ 中日監督に「蹴りを入れられた」 両軍総出の大乱闘…伊勢孝夫が感じた身の危険「ボコボコにされる」」『Full-Count』2024年6月27日。2024年7月31日閲覧
  12. ^ 【訃報】カープ元監督 阿南準郎さん死去 5度目のリーグ優勝で指揮」『広島テレビ』2024年7月31日。2024年7月31日閲覧

関連項目

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外部リンク

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