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{{by|1988年}}、阪急が[[オリックス (企業)|オリエント・リース(翌年より、オリックス)]]への球団譲渡を発表した際には、単独で会見を開き、「信じられないことだ」と何度も口にしていた。このとき、上田は阪急とオリエント・リースによる譲渡発表への同席を拒否し、監督続投も「白紙」としていた<ref name="sanspo">{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20170905/buf17090510000001-n4.html|title=【昭和野球列伝】阪急、身売りなければ福本引退なかった(4/4)|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|date=2017-09-05|accessdate=2018-02-04}}</ref>。10月23日の阪急ブレーブス最後の試合終了後に、「阪急ブレーブスを長い間、見守りつづけていただきありがとうございました。話を聞いた時は、夢であってくれと思っていました。阪急からオリックスに変わっても、ブレーブスはファンの皆さんの物です。ユニフォームは変わっても、勇者魂は永遠に生き続けます。これからも応援してください」と語り、37,000人の観衆に最後の挨拶をおこなった。上田の監督続投が正式に決まったのは、10月26日に新オーナーの[[宮内義彦]]と会談した後であった<ref name="sanspo"/>。
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オリックス時代には[[門田博光]]を迎えて「[[ブルーサンダー打線]]」をつくりあげ、{{by|1989年}}は前半戦を終えて2位[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に8.5ゲーム差をつけ独走状態をであったが、後半戦に入り打線がスランプに陥り混戦状態になる。近鉄に加え、前半戦で一時最下位に落ちた西武が復調し、三つ巴の優勝争いを繰り広げるも最後は近鉄に優勝をさらわれてしまい2位に終わった。{{by|1990年}}も2年連続で2位につけたがこの年限りで勇退。編成部長に就任しフロント入りするも、球団の方針と意見が合わず、わずか1年で退団する。{{by|1992年}}8月に[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]のオーナー代行の[[中内正]]から監督要請を受け、上田も了承し組閣の準備に入っていたが、父のオーナー[[中内]]が西武の管理部長[[根本陸夫]]の招聘に動いた結果、就任に至らなかった<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/west/news/170616/wst1706160007-n1.html |title=【田淵幸一物語・第4部(16)】「解任」か「辞任」か 4年目の舞台は用意されず|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017-06-16|accessdate=2018-02-4}}</ref>。{{by|1993年}}から[[デイリースポーツ]]野球評論家。
オリックス時代には[[門田博光]]を迎えて「[[ブルーサンダー打線]]」をつくりあげ、{{by|1989年}}は前半戦を終えて2位[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に8.5ゲーム差をつけ独走状態をであったが、後半戦に入り打線がスランプに陥り混戦状態になる。近鉄に加え、前半戦で一時最下位に落ちた西武が復調し、三つ巴の優勝争いを繰り広げるも最後は近鉄に優勝をさらわれてしまい2位に終わった。{{by|1990年}}も2年連続で2位につけたがこの年限りで勇退。編成部長に就任しフロント入りするも、球団の方針と意見が合わず、わずか1年で退団する。{{by|1992年}}8月に[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]のオーナー代行の[[中内正]]から監督要請を受け、上田も了承し組閣の準備に入っていたが、父のオーナー[[中内]]が西武の管理部長[[根本陸夫]]の招聘に動いた結果、就任に至らなかった<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/west/news/170616/wst1706160007-n1.html |title=【田淵幸一物語・第4部(16)】「解任」か「辞任」か 4年目の舞台は用意されず|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017-06-16|accessdate=2018-02-4}}</ref>。{{by|1993年}}から[[デイリースポーツ]]野球評論家。


{{by|1995年}}から[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の監督に就任する。日本ハムからの話は1992年のオフにもあり、このときはフロントの一部が難色を示して実現せず<ref>{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110929001721880.html|title=日めくりプロ野球【9月29日】1994年(平6) 日本ハム 10年ぶりの最下位 大沢親分 ファンの前で土下座 |newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2011-09-29|accessdate=2018-02-04}}</ref>、2年越しでの就任であった。前年1994年は故障者が続出したこともあり最下位候補であったが、就任1年目は4位と健闘する。当時二軍でくすぶっていた6年目の[[岩本勉]]を「秘蔵っ子」として抜擢し、93年、94年と外野手だった[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]を遊撃手に戻しパ・リーグを代表する遊撃手として育てる。{{by|1996年}}にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げ、優勝への期待も高まったが、同年9月9日に家族の新興宗教入信トラブルを理由に突然休養する<ref>[[毎日新聞]]1996年9月12日26ページ 「娘2人が[[統一教会]]入信 休養の上田・日本ハム監督 辞意を表明」</ref>。その後はオリックスに優勝をさらわれ2位に終わった。同年オフに復帰、{{by|1998年}}には「[[ビッグバン打線]]」と呼ばれる強力打線で8月まで首位を独走するも後半戦になると打線が低迷して失速し、西武に抜かれ2位に終わりまたしても優勝を逃した<ref>日本ハムはこの頃、終盤では最大で9連敗していた。</ref>。翌{{by|1999年}}は5位と低迷し、監督を辞任した。優勝経験のある選手が少なかったことや、獲得した[[落合博満]]が期待に反して活躍しなかったことが影響し、後一歩で2シーズンも優勝を逃した。しかし、客足が遠のき、低迷していた当時の日本ハムで上田が残した功績は大きく、5年間でBクラス3回の中でゴールデングラブ賞受賞者を4人、ベストナイン受賞者を5人輩出した実績がある。育成に関しても[[小笠原道大]]、[[井出竜也]]、[[西浦克拓]]、[[野口寿浩]]、[[上田佳範]]などスタメンに定着できなかった若手を中心選手に育てた。特に小笠原は捕手から一塁に転向させ、一気に打撃センスが開眼。また、怪我で低迷していた[[片岡篤史]]をクリーンアップに起用し、復活させた。[[金子誠]]は上田の監督在任中の1996年に新人王を獲得し長らくレギュラーで活躍した。1995年には後にMr.ファイターズの称号を得た田中幸雄を非常に珍しい4番・遊撃手に抜擢した。田中はこの起用に応え、[[初芝清]]、[[イチロー]]と分け合って打点王を獲得した他、[[ゴールデングラブ賞]]、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]も受賞しパ・リーグを代表する選手へと育てた。当時の多くの選手が上田への感謝を示している。
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2020年7月11日 (土) 10:07時点における版

上田 利治
関西大学時代(1956年撮影)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町
生年月日 (1937-01-18) 1937年1月18日
没年月日 (2017-07-01) 2017年7月1日(80歳没)
身長
体重
177 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月22日
最終出場 1961年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2003年
選出方法 競技者表彰

上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日[1])は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手捕手)・監督

現役時代は広島カープでプレーし、その後は広島、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス日本ハムファイターズのコーチ、監督を歴任。西本幸雄から受け継いだ円熟期の阪急、若返りを迫られた阪急2期目、最下位からチーム作りを迫られた日本ハム時代と、3つの大きく異なるチーム状況下で、いずれも結果を出したことから「オールマイティー型監督」と評された。現役時代に高い実績を残した選手が監督に就任するケースが多い日本プロ野球界において、選手としては無名という異例の経歴であり、選手と指揮官の才能は別物であることを証明した監督となった。早くから指導者として期待されており、現役引退時に松田恒次オーナーが「将来の指導者として入れた」と本人に伝えた程、若い頃から野球理論に長けていた。

経歴

プロ入り前・現役時代

実家は魚屋。5人兄弟の長男で、叔父は徳島県弁護士会の副会長だった。上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でやはりゴルファーの健夫直道の実家があった。

海南高校時代から捕手。1954年夏の甲子園県予選では準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。弁護士になるつもりで関西大学二部法学部に進学した。関西大学には学校推薦で無試験で進学するよう薦められたが、上田はそれを断り筆記試験に臨んだところ、400点満点の入試で実力で合格に十分な298点を取ったところに野球推薦での+100点のボーナスを加えた結果398点となり、受験生全体でダントツの成績になってしまったという。

関西大学野球部では、村山実バッテリーを組んで活躍した。関西六大学リーグでは4回優勝。1956年、2年生の時には全日本大学野球選手権大会に出場。決勝で島津四郎(熊谷組)、人見武雄らのいた日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。翌年、翌々年の同大会では、全盛期の立大にいずれも準決勝で敗退。リーグ通算68試合に出場し、258打数66安打、打率.256、1本塁打の記録を残した。

プロ入りには消極的だったが、「東洋工業からの出向社員として3、4年プレーし、その後は東洋工業で」との条件を出して熱心に口説いた広島カープの誘いに応じ、1959年に入団[2][3]。1年目は田中尊川原政数と併用され、53試合に捕手として先発。しかし肩を壊した事もあり、その後は出場機会が減少。1961年限りで現役引退。

コーチ時代

引退後、東洋工業への復帰を願い出たが、松田恒次社長の意向により1962年に専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で広島の二軍コーチに就任[2][3][4]1963年からは一軍コーチとなり、山本一義衣笠祥雄水谷実雄三村敏之山本浩二を育てたが[5]1969年シーズン後、根本陸夫監督とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から退団した。同年オフ、阪神タイガース選手兼任監督に就任した村山実からヘッドコーチとしてオファーがあり上田も応諾したが、報酬をめぐる第三者を介した交渉が長引き、それが決着したところ、阪神球団社長の戸沢一隆が「ここまで長引いての入団はうまくいかないから」という不可解な理由で話を反故にしたという[6]。結局、1970年中国放送の野球解説者を務め、オフに自費でワールドシリーズを視察した。

帰国後に阪急ブレーブスから招聘されてヘッドコーチに就任し、1971年1973年まで務める。これは、現役を引退した山内一弘にコーチ就任を要請した監督の西本幸雄が、すでに読売ジャイアンツ(巨人)コーチ就任が決まっていた山内から「若くて頭のいい奴」として紹介されたことによるものだった[7][8][9]。このとき先に鶴岡一人近鉄の監督になるという話があり、尊敬する鶴岡から上田はコーチとして呼ばれていた[9]。しかし発表前日に鶴岡が監督就任をキャンセルしたことで、阪急に入った[9]。上田は、近鉄に入っていたら監督はやらなかったと思うと話している[9]

西本は捕手出身の上田にバッテリーを中心とした守備部門を任せるつもりだったが、上田の要望により打撃部門を担当することになった[7][8]。当時の西本と上田の関係について、フロントの矢形勝洋は巨人の川上哲治牧野茂コンビのような相性のよさではなかったとしている[8]。上田はここで「癖盗みの天才」といわれたダリル・スペンサーと出会い、スパイ野球を会得。「花の44年組」の一人である加藤秀司を育て、リーグ2連覇に貢献した。

監督時代

1974年、辞任した西本監督の推薦により37歳の若さで阪急の監督に就任する[10]。この就任について上田は、「西本がフロントで支援する」と聞いたので受諾したが直後に西本の近鉄監督就任が決まり、「西本さんが球団を離れるとわかっていたら、引き受けていなかった」と後年の取材で述べている[11][12]。監督就任2年目の1975年から日本シリーズ3連覇を含むリーグ4連覇を果たし、現在でも語り継がれる阪急の黄金時代を築き上げた。日本シリーズ3連覇は三原脩監督率いる西鉄ライオンズ水原茂監督率いる巨人、川上哲治監督率いるV9時代の巨人、森祇晶監督率いる西武ライオンズ(1986年~88年、1990年~92年の2度)、工藤公康監督率いる福岡ソフトバンクホークスが達成している。

1978年もリーグ優勝して日本シリーズに進出し、読売ジャイアンツのV9以来史上2チーム目の4年連続日本一がかかった1978年広岡達朗率いるヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、佐藤義則山口高志の二人の主力投手を故障で欠くなど、苦しい事情を抱えてのものになった。それでも事前の予想は常勝阪急の圧倒的有利だったが、3勝3敗となったタイで迎えた第7戦の6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと上田が抗議し、この飛球を本塁打と判断した判定の取り消しと、本塁打と判定した線審の富澤宏哉の交代を求めた。審判団は受け入れず、激怒した上田は選手をグラウンドから引き上げて抗議を続け、この抗議による中断はシリーズ史上最長の1時間19分にも及んだ。ついにはコミッショナーの金子鋭がベンチの上田のところまでに出向き「コミッショナーの私がこうして頭をさげる。それでも上田君、試合を再開してくれないのか?」と懇願するまでの事態になり、ついに上田は試合再開に同意する[13]。なお、この中断の間待機をしていた足立光宏は膝に水がたまり投げられる状態ではなくなり降板。その後マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はこの試合でヤクルトに0-4で敗れ日本シリーズ4連覇はならなかった。この日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。この抗議について左翼手として一番近くで打球の行方を見た簑田浩二は「ファウル」とジャッジする富澤線審にすぐ「完全なファウルじゃないか!」「ボールを見失ったとハッキリ言え!などと押し問答になった」[14]、上田監督の長い抗議についても「選手はこの日のために春のキャンプから長いシーズンを戦ってきた。それをあんな判定で台無しにされるなんて。選手の誰もが監督と同じ気持ちだった。上田監督にはみんな感謝の気持ちでいっぱいだった」などと述べている[15]。前記の佐藤義則は「自信があったからできたことだと思う」と言っている。

1979年1980年NHK専属解説者およびスポーツニッポン評論家を務めたが、後任監督の梶本隆夫の成績不振もあり1980年のオフ、新任の柴谷貞雄オーナーから「王者奪還」という強い要請で阪急監督に復帰する。福本豊によると、それに先立つ1980年のシーズン中には西武と接触しており、阪急の選手の間では「西武・上田監督」の噂が流れていた[16]。それだけに、阪急復帰が決まると「エーッ、本当に戻ってくるの!?」と大声で話す選手もいたという[17]

阪急の監督復帰後は今井雄太郎、福本、山田久志など西本に鍛えられたベテラン勢に加え、松永浩美石嶺和彦藤井康雄福良淳一、佐藤義則、山沖之彦星野伸之古溝克之などの若手を見出し育成、さらに1983年にはブーマー・ウェルズが加入する。ブーマーは翌1984年には三冠王を獲得する大活躍を見せ、同年5度目のリーグ優勝を果たした。同時期は西武ライオンズの全盛時代だったこともあり、第2期監督時代のリーグ優勝はこの年だけであるが、安定した戦力を背景に毎年のように優勝争いに加わり、常に上位に食い込む結果を残したが、最後の競り合いに弱いところがあり、ここ一番の大事な試合を落とすことが多かった。

1988年、阪急がオリエント・リース(翌年より、オリックス)への球団譲渡を発表した際には、単独で会見を開き、「信じられないことだ」と何度も口にしていた。このとき、上田は阪急とオリエント・リースによる譲渡発表への同席を拒否し、監督続投も「白紙」としていた[18]。10月23日の阪急ブレーブス最後の試合終了後に、「阪急ブレーブスを長い間、見守りつづけていただきありがとうございました。話を聞いた時は、夢であってくれと思っていました。阪急からオリックスに変わっても、ブレーブスはファンの皆さんの物です。ユニフォームは変わっても、勇者魂は永遠に生き続けます。これからも応援してください」と語り、37,000人の観衆に最後の挨拶をおこなった。上田の監督続投が正式に決まったのは、10月26日に新オーナーの宮内義彦と会談した後であった[18]

オリックス時代には門田博光を迎えて「ブルーサンダー打線」をつくりあげ、1989年は前半戦を終えて2位近鉄に8.5ゲーム差をつけ独走状態をであったが、後半戦に入り打線がスランプに陥り混戦状態になる。近鉄に加え、前半戦で一時最下位に落ちた西武が復調し、三つ巴の優勝争いを繰り広げるも最後は近鉄に優勝をさらわれてしまい2位に終わった。1990年も2年連続で2位につけたがこの年限りで勇退。編成部長に就任しフロント入りするも、球団の方針と意見が合わず、わずか1年で退団する。1992年8月に福岡ダイエーホークスのオーナー代行の中内正から監督要請を受け、上田も了承し組閣の準備に入っていたが、父のオーナー中内㓛が西武の管理部長根本陸夫の招聘に動いた結果、就任に至らなかった[19]1993年からデイリースポーツ野球評論家。

1995年から日本ハムファイターズの監督に就任する。日本ハムからの話は1992年のオフにもあり、このときはフロントの一部が難色を示して実現せず[20]、2年越しでの就任であった。前年1994年は故障者が続出したこともあり最下位候補であったが、就任1年目は4位と健闘する。当時二軍でくすぶっていた6年目の岩本勉を「秘蔵っ子」として抜擢し、93年、94年と外野手だった田中幸雄を遊撃手に戻しパ・リーグを代表する遊撃手として育てる。1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げ、優勝への期待も高まったが、同年9月9日に家族の新興宗教入信トラブルを理由に突然休養する[21]。その後はオリックスに優勝をさらわれ2位に終わった。同年オフに復帰、1998年には「ビッグバン打線」と呼ばれる強力打線で8月まで首位を独走するも後半戦になると打線が低迷して失速し、西武に抜かれ2位に終わりまたしても優勝を逃した[22]。翌1999年は5位と低迷し、監督を辞任した。優勝経験のある選手が少なかったことや、獲得した落合博満が期待に反して活躍しなかったことが影響し、後一歩で2シーズンも優勝を逃した。しかし、客足が遠のき、低迷していた当時の日本ハムで上田が残した功績は大きく、5年間でBクラス3回の中でゴールデングラブ賞受賞者を4人、ベストナイン受賞者を5人輩出した実績がある。育成に関しても小笠原道大井出竜也西浦克拓野口寿浩上田佳範などスタメンに定着できなかった若手を中心選手に育てた。特に小笠原は捕手から一塁に転向させ、一気に打撃センスが開眼。また、怪我で低迷していた片岡篤史をクリーンアップに起用し、復活させた。金子誠は上田の監督在任中の1996年に新人王を獲得し長らくレギュラーで活躍した。1995年には後にMr.ファイターズの称号を得た田中幸雄を非常に珍しい4番・遊撃手に抜擢した。田中はこの起用に応え、初芝清イチローと分け合って打点王を獲得した他、ゴールデングラブ賞ベストナインも受賞しパ・リーグを代表する選手へと育てた。当時の多くの選手が上田への感謝を示している。

監督退任後

2000年から関西で野球解説・評論家活動を行う(サンテレビ、デイリースポーツ)。2003年野球殿堂入りを果たす。日本ハムでもフロント入りを要請されたが、上田は固辞した。

2017年7月1日午前2時55分、肺炎のため川崎市内の病院で死去[23]。80歳没。

人物

エピソード

大変な勉強家として知られ、プロ1年目の日南キャンプには六法全書を持ち込んで野球の練習の合間に法律の勉強をしていた。読書量も豊富で学生時代にはナポレオン・ボナパルトの著作をすべて読破していたといわれ、現役引退後コーチを務めた際にはデール・カーネギーの『人を動かす』や『孫子の兵法』などを読み、リーダーシップを学んだという。

広島東洋カープとの1975年の日本シリーズに臨むにあたり、敵将・古葉竹識の知略を尽くした手法を熟知していた上田はスタッフに対し、シリーズ1・2戦における広島投手陣の投球をできる限りフィルム撮影しておくよう指示を出した。上田と古葉は同学年であり、かつての広島でチームメイトで一緒に広島を出て、再び相見えたことから「兄弟対決」ともいわれた[9]。こうして持ち込まれた膨大なフィルムをコーチ陣とともに広島投手の癖や傾向等を徹底的に研究した結果、阪急はこのシリーズを制することになる。第1期阪急監督時代は「パシフィック・リーグに阪急の敵なし」と言われ、日本シリーズでも山本浩二を擁する広島や、王貞治が現役だった巨人を圧倒する力をみせる等、その強さは伝説化している。この時代の阪急は日本シリーズで3年連続で巨人を倒した三原脩率いる西鉄、川上哲治率いるV9時代の巨人と並び、プロ野球史上最も強かったチームとして今でも語り継がれている。

1976年、巨人との日本シリーズで後楽園球場に乗り込んできた上田は、やおらメジャーを取り出し、ホームからレフトポール下までの距離を測りだした。そして「なんや、87メートルしかないやないか、90メートルと書いてあるのはインチキや」と(日本ハム戦で使っている球場であるにもかかわらず)言い放つ。このパフォーマンスにより阪急ナインは「監督、巨人を上から見とるな」と硬さが取れ、一気に3連勝するきっかけとなった。

ドラフト1位重複の抽選に弱かった。特に阪急・オリックス時代には、単独指名の年と、1987年伊藤敦規日本ハム球団との抽選)や1988年酒井勉ロッテ球団との抽選)を除いて、1980年石毛宏典(西武)、1981年金村義明近鉄)、1982年野口裕美(西武)、1983年高野光(ヤクルト)、1986年田島俊雄南海)、1989年野茂英雄(近鉄)とことごとく外している。それらの選手の「外れ1位」も活躍したのは金村の外れ1位・山沖之彦ぐらいであった。後年、日本ハム監督時代にも1995年福留孝介(近鉄・入団拒否)、1998年松坂大輔(西武)を1位重複で外している。2位重複の抽選でも1997年に、司会者の手違いで順番が先になったにもかかわらず新沼慎二(横浜)を外している。

パンチ佐藤(佐藤和弘)を(前出野茂を外した上で)1位指名したのは上田だった。奇しくもパンチの引退後の初仕事が当時日本ハム監督就任間もない時期の上田のインタビューだった。上田はインタビュー中、「パンチ、なんで現役やめるの! もったいない!もったいない!」としきりに言っており、豪快な言動で知られるパンチは終始恐縮していた。パンチは上田を自分をプロに導いてくれた名監督として深く尊敬している。上田本人は真面目な性格だが、パンチや岩本のような明るい性格の選手が大好きだった。そうした明るい選手や、結果を出した選手を誉める際に「ええで!」という言葉を発したと報じられ、第2期阪急・オリックス監督以降、ええで節として上田のトレードマークになった。ただし、後年の本人への取材では「関西弁の『ええで』といったら、『もうええで』。つまり『もういらない』という意味になる。そんな言葉を、選手を語るときに使わない。関西弁をよくわかっていない記者が書き始めて、それが広がったんです」と述べている[24]

チームの活力を維持するため、しばしば大胆な戦力の入れ替えを敢行したが、戦力外通告やトレードなどの選手の退団に関する手続きは編成部やフロントに丸投げせず、必ず自ら選手に直接通告した。上田は在籍中の現役選手とは極力距離を置くようにしていたが、退団させた選手に対しては何かあれば良く世話を焼いたので、元選手やその家族から頼りにされていたという[25]

1998年に自殺したスカウトの三輪田勝利のことを「誠意のかたまり」と評した。

2007年3月31日には、広島OBということもあってか、中国放送(RCCラジオ)の「ひとこと治宣の千客万来」最終回に電話出演した。

1999年5月23日の対大阪近鉄バファローズ戦(東京ドーム)ではシャーマン・オバンドーのセカンドゴロ併殺打における一塁の判定を巡って、塁審の山本隆造に抗議。その際、山本に「ヘタクソ!」と暴言を吐き、野球人生唯一となる退場処分。退場を宣告された直後、山本の後頭部に平手打ちをし、2試合の出場停止処分を受ける。山本は一時は刑事告訴も辞さない姿勢を見せたが、その後上田が謝罪し和解。告訴は見送りとなった。

ベンチの立ち位置は常に真ん中寄りだった。

阪急・オリックスの監督時代は現役時代の「1」を背負っていた巨人の王監督同様、当時の監督・コーチングスタッフの背番号としては比較的若い「30」を背負っていた。10数年間のコーチ時代は「64」から始まり、「63」「62」「61」「60」と数字こそ若くなっているものの大きい背番号を背負い、日本ハムの監督時代は阪急・オリックス時代の「30」ではなく「88」を背負っていた[26]

なお背番号30はかつて監督の背番号として多く使用されていた。その背景に以前はベンチ入りできる選手・スタッフの人数が30人と決められていたことにもよるが、2018年現在は上田が日本プロ野球の監督では最後の使用例となっている。

日本ハムの監督1年目のコーチ陣は大石清住友平、加藤英司、中沢伸二山森雅文と阪急OBが多かった。その他のコーチは日本ハムOBの古屋英夫柴田保光などであった。

采配の特徴

阪急監督時代は福本豊簑田浩二松永浩美弓岡敬二郎などの走れる人材に恵まれたこともあり、盗塁策を積極的に採用。大熊忠義福良淳一などのバント戦術を駆使して塁を進めてから加藤秀司ボビー・マルカーノブーマー・ウェルズなどの一振りで得点するケースが多かった。その一方でオリックス監督時代はブルーサンダー打線、日本ハム監督時代はビッグバン打線を作り上げるなど攻撃力主体のチームを作ることにも長けており、阪急・オリックスではほぼ毎年のようにAクラス入りし、日本ハムでも主力選手の故障・不振などがありながらも4位・2位・4位・2位・5位とまずまずの成績を残し、一度も最下位に転落しなかった。

上田が阪急時代に編み出した走塁戦術に「ギャンブルスタート」がある。1970年代後半に、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分ける戦術を考案して実行し一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であった[27][28][29]。上田阪急のレギュラーであった大橋穣によれば、上田はこうした走塁作戦を実行する際に、走者に判断の責任を押し付けず、自らがはっきりとサインを出して責任を取り、失敗した時には「悪かった。俺がサインを出すカウントを間違えた」と選手に詫びたという。大橋は上田を「采配が失敗だったと思えば潔く認める、信頼できる指揮官だった」と評している[30]

1982年8月12日には、同年から指名打者偵察メンバーを使う事が禁止されたことを忘れ、指名打者の偵察メンバーに投手の山沖之彦を起用したところ運悪く満塁のチャンスで打順が回り、山沖が三振に終わったという事もあった[31]

マンネリ化の打破、チームの活性化を進める意図のもと、大型トレードに積極的であった。阪急時代は1974年宮本幸信渡辺弘基と広島白石静生大石弥太郎の投手同士の交換トレード、1976年戸田善紀森本潔中日島谷金二稲葉光雄のレギュラー選手同士のトレード、1976年の正垣宏倫と広島永本裕章川畑和人1982年には加藤英司と広島の水谷実雄1988年南海門田博光を新生オリックスの顔として、日本ハム時代も1996年に巨人から移籍した落合の獲得、1997年にはエース西崎幸広と西武石井丈裕・奈良原のトレードなど、多くの実績を残した。1976年の中日とのトレードは、両チームで結果の明暗がはっきりと出たため、ある球団のスカウトからは「阪急とはもうトレードの話をしない」と言われるほどであった[32]

評価

豊田泰光は最も理想的な監督と選手の関係を保っていたチームに1975~77年の阪急を挙げている。また、上田について「自分から発する『知力』があまりに強い人だったから(他人がアホに見えるといった意味合い)、1978年の日本シリーズのような常識外れのような抗議をやってしまうわけだが、この『知力』が上手く働くと相手がコンプレックスを持ってしまう」と語っている[33]

上田の日本ハム監督在任中は一度も優勝がなかったが、合理的な練習メソッドは本拠地が札幌ドームに移転した後には優勝回数が激増したなどの好影響をもたらし、その功績は大きいと言われた。同球団は逝去時にもっとも早く選手に喪章をつけさせ、追悼セレモニーも行っている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1959 広島 67 184 165 13 38 5 1 0 45 12 4 6 3 0 14 0 2 17 4 .230 .298 .273 .571
1960 32 54 53 7 11 2 0 1 16 2 1 0 0 0 1 0 0 4 3 .208 .222 .302 .524
1961 23 45 39 2 7 0 1 1 12 3 0 0 3 0 3 0 0 2 1 .179 .238 .308 .546
通算:3年 122 283 257 22 56 7 2 2 73 17 5 6 6 0 18 0 2 23 8 .218 .274 .284 .558

年度別監督成績

























1974年 阪急
オリックス
2位 130 69 51 10 .575 125 .258 3.52 37歳
1975年 1位 130 64 59 7 .520 143 .257 3.49 38歳
1976年 1位 130 79 45 6 .637 139 .256 3.30 39歳
1977年 1位 130 69 51 10 .575 147 .269 3.23 40歳
1978年 1位 130 82 39 9 .678 176 .283 3.13 41歳
1981年 2位 130 68 58 4 .540 140 .267 4.01 44歳
1982年 4位 130 62 60 8 .508 150 .256 3.73 45歳
1983年 2位 130 67 55 8 .549 157 .272 4.16 46歳
1984年 1位 130 75 45 10 .625 166 .272 3.72 47歳
1985年 4位 130 64 61 5 .512 197 .274 4.98 48歳
1986年 3位 130 63 57 10 .525 180 .277 4.11 49歳
1987年 2位 130 64 56 10 .533 152 .272 3.89 50歳
1988年 4位 130 60 68 2 .469 117 .264 4.08 51歳
1989年 2位 130 72 55 3 .567 170 .278 4.26 52歳
1990年 2位 130 69 57 4 .548 186 .271 4.30 53歳
1995年 日本ハム 4位 130 59 68 3 .465 105 .237 3.56 58歳
1996年 2位 130 68 58 4 .540 130 .249 3.49 59歳
1997年 4位 135 63 71 1 .470 128 .265 4.18 60歳
1998年 2位 135 67 65 3 .508 150 .255 3.83 61歳
1999年 5位 135 60 73 2 .451 148 .260 4.34 62歳
通算:20年 2574 1322 1136 116 .538 Aクラス14回、Bクラス6回

※ 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

※1 各年度の太字は日本一
※2 1974年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制
※4 1978年、病気のため7月17日から8月24日まで休養。監督代行は7月17日~20日 中田昌宏(3勝1敗)、7月29日~8月24日 西村正夫(12勝6敗2分)
※5 1996年、「家庭の事情」のため9月10日から休養。監督代行は住友平(6勝8敗1分)
※6 1999年、出場停止処分で2試合欠場。監督代行は住友平(1勝1敗)
※7 通算成績は、欠場した41試合(22勝16敗3分)は含まない

表彰

記録

背番号

  • 13 (1959年 - 1961年)
  • 64 (1962年、1965年 - 1967年)
  • 62 (1963年)
  • 63 (1964年)
  • 61 (1968年 - 1969年)
  • 60 (1971年 - 1973年)
  • 30 (1974年 - 1978年、1981年 - 1990年)
  • 88 (1995年 - 1999年)

出演番組

出典

  1. ^ “プロ野球 阪急など元監督 上田利治氏死去”. NHKニュース. (2017年7月2日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170702/k10011038101000.html 2017年7月2日閲覧。 
  2. ^ a b “【越智正典「ネット裏」】 ナイターなのに朝イチから…メジャーの監督もうなった上田利治の野球熱”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2017年7月9日). オリジナルの2017年7月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170709170328/http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/705426/ 2017年7月10日閲覧。 
  3. ^ a b 赤坂英一 (2017年7月12日). “名将上田監督がマツダで学んだマネジメント術”. WEDGE Infinity (ウェッジ). http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10078 2017年7月26日閲覧。 
  4. ^ わたしと司法シリーズ28 関東弁護士会連合会(Internet Archive)
  5. ^ “川上巨人に「最低勝率」の屈辱を味わわせた64年広島カープの4首脳”. 週刊ベースボールONLINE (ベースボール・マガジン社). (2015年4月6日). http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=018-20150413-01 2017年7月26日閲覧。 
  6. ^ 中川右介『阪神タイガース 1965-1978』KADOKAWA角川新書》、2016年、pp.184 - 185
  7. ^ a b 『監督たちの戦い 決定版 上』149-150頁
  8. ^ a b c 福本、2014年、pp.61 - 62
  9. ^ a b c d e 「対談 上田利治×佐々木信也 昭和の名将を語る」『草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球、昭和の名将』、ベースボール・マガジン社、2012年、pp.58-62
  10. ^ 福本、2014年、p.66
  11. ^ 谷上史朗 (2017年7月20日). “追悼・上田利治。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」(4/7)”. Sprtiva. https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2017/07/20/___split______split_11/index_4.php 2018年2月4日閲覧。 
  12. ^ 福本豊の『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』では、西本は「一軍の試合を一切見ない」という条件でのフロント入りを拒否したが、辞任の際に後任について何も言わず、その後にオーナーの森薫から相談を受けて上田を推薦した、と記されている(同書pp.65 -66)。
  13. ^ “「審判代えろ!」阪急・上田監督、抗議1時間19分”. スポニチアネックス. オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304135840/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071016145.html 
  14. ^ 東京スポーツ連載 『簑田浩二 セパ盟主の裏側を知る名手 3割30本30盗塁男が激白』〈15〉2007年6月28日。
  15. ^ 東京スポーツ連載 『簑田浩二 セパ盟主の裏側を知る名手 3割30本30盗塁男が激白』〈16〉2007年6月29日。
  16. ^ 福本、2014年、p.168
  17. ^ 福本、2014年、p.174
  18. ^ a b “【昭和野球列伝】阪急、身売りなければ福本引退なかった(4/4)”. サンケイスポーツ. (2017年9月5日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20170905/buf17090510000001-n4.html 2018年2月4日閲覧。 
  19. ^ “【田淵幸一物語・第4部(16)】「解任」か「辞任」か 4年目の舞台は用意されず”. 産経新聞. (2017年6月16日). http://www.sankei.com/west/news/170616/wst1706160007-n1.html 2018年2月4日閲覧。 
  20. ^ “日めくりプロ野球【9月29日】1994年(平6) 日本ハム 10年ぶりの最下位 大沢親分 ファンの前で土下座”. スポーツニッポン. (2011年9月29日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110929001721880.html 2018年2月4日閲覧。 
  21. ^ 毎日新聞1996年9月12日26ページ 「娘2人が統一教会入信 休養の上田・日本ハム監督 辞意を表明」
  22. ^ 日本ハムはこの頃、終盤では最大で9連敗していた。
  23. ^ “上田氏は1日に肺炎で死去 日本ハムが発表”. スポーツニッポン. (2017年7月2日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/02/kiji/20170702s00001173159000c.html 2017年7月2日閲覧。 
  24. ^ 谷上史朗 (2017年7月20日). “追悼・上田利治。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」(6/7)”. Sprtiva. https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2017/07/20/___split______split_11/index_6.php 2018年2月4日閲覧。 
  25. ^ 『監督たちの戦い 決定版 上』157-159頁
  26. ^ 当時、日本ハムの背番号「30」は金子誠が着用していた。
  27. ^ 『走らんかい!』98頁
  28. ^ 『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』131頁
  29. ^ 『監督たちの戦い 決定版 下』227頁
  30. ^ スポーツ報知』2017年12月26日号<6版>24面「上田利治さんをしのぶ、“上田野球の申し子”大橋穣さんが思い出語った」
  31. ^ “【8月12日】1982年(昭57) 上田利治監督、ああ勘違い 当て馬のつもりが…”. スポニチアネックス. オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304105129/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801238.html 2016年7月31日閲覧。 
  32. ^ 福本、2014年、p.127
  33. ^ 週刊ベースボール 連載コラム「豊田泰光のオレが許さん!」 904回

参考文献

  • 浜田昭八
    • 『監督たちの戦い 決定版 上』(日本経済新聞社、2001年)
    • 『監督たちの戦い 決定版 下』(日本経済新聞社、2001年)
  • 福本豊

関連項目

外部リンク