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山本一義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本 一義
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市南区
生年月日 (1938-07-22) 1938年7月22日
没年月日 (2016-09-17) 2016年9月17日(78歳没)
身長
体重
177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1961年
初出場 1961年4月8日
最終出場 1975年11月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

山本 一義(やまもと かずよし、1938年7月22日 - 2016年9月17日)は、広島県広島市皆実町(現:南区皆実町)出身のプロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者評論家

経歴

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プロ入り前

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父親は中国新聞社の人事部長[1][2][3]天満町で生まれ[4][5]原爆投下時は広島市郊外の三入疎開していて自身は無事であったが、父は通勤途中に被爆した[2]。小学5年時に皆実町へ引っ越し[6]1950年1月15日に広島西練兵場(現在の広島県庁舎付近)で行われた広島カープ結団披露式[7]に父に連れられ見に行く[2]。広島市立翠町中学校[8]では同郷で2学年下の張本勲と知り合いになり、対戦経験(投手・山本相手に張本が三振)があるほか、山本が張本に広島商業入学を誘ったこともあった。中学卒業後の1954年に広島商業高校へ進み、超高校級スラッガーとして鳴らした[3][5]。3年次の1956年夏の県予選では13打席で10回敬遠され、やっと勝負してきた初球を本塁打にしたという逸話も残る[9][10][11]。投手としても実績を残し、2年次の1955年の秋季中国大会決勝では大社高を完封している。3年次の1956年には同期のエース上土井勝利(卒業後広島カープに入団)[12]を擁し、甲子園に春夏連続出場。春の選抜では1回戦で県岐阜商清沢忠彦に抑えられ惜敗し、夏の選手権でも初戦となった2回戦で済々黌高に敗れる。高校卒業後は1957年法政大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1年次の同年からレギュラーとなる。4年次の1960年春季リーグでは4番打者兼主将として活躍。同期の山崎正之、1年下の新山彰忠の好投もあり、法大に12年ぶり7度目のリーグ優勝をもたらした。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で同志社大のエース山尾孝雄を攻略し初優勝を飾る。法大が優勝争いの常連となるのはこの年からで、山本はリーグ史上初の4年間8シーズン全試合フル出場を記録し、ベストナインにも2回選出される。山崎以外の大学同期に捕手鈴木孝雄一塁手田中和男がいた。山本浩二は東京六大学の中継を見て同姓同郷の山本に憧れて法政に進学したという[13]

現役時代

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プロの全球団から誘いを受け[2]、広商の大先輩で高校時代から目をかけてもらった鶴岡一人監督率いる南海ホークスに入るつもりであったが、それを父に話すと酷く落胆。また当時の通産大臣でカープ後援会の名誉会長であった池田勇人から説得され、1961年に地元の広島カープへ入団[2][3][14]。1年目の同年は開幕から5番・右翼手に抜擢され、初打席初安打初打点を記録したが、力不足は否めず打撃は低迷する。しかし3年目の1963年には左翼手の定位置を得て興津立雄森永勝也らと共に中心打者として活躍。1964年には初の規定打席到達でリーグ9位に入り、21試合に4番打者として起用された。1966年はリーグ8位で初の打率.300を記録し、初のベストナインにも選出される。1967年は右翼手に回り、自己最高でリーグ4位の打率.311を記録。1968年は開幕から4番打者に座って球団史上初のAクラス入りに貢献すると、1969年にはリーグ5位の打率.294で21本塁打を放って2度目のベストナイン選出。タイトル獲得は無かったが、低迷期のチームにあって地元出身の生え抜きのスター選手として大きな役割を果たした。1972年まで右翼手の定位置を守るが、1973年には新外国人のジム・ヒックスが外野の一角を奪い、出場機会が減少する。チームの主将を務め、1974年からはコーチを兼任。1975年はレギュラーから外れたがリーグ初優勝を経験し、阪急との日本シリーズ第4戦では2回表に足立光宏から本塁打を放つ。同年引退[15][16]

引退後

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引退後も広島で一軍打撃コーチ(1976年 - 1977年)→二軍打撃コーチ(1978年 - 1979年)を務め、古葉竹識監督と共に高橋慶彦山崎隆造を球界の先駆けとなるスイッチヒッターに育成したほか、木下富雄長内孝らを育てた[17]大野豊のプロ入りは、出雲市で開催された山本と池谷公二郎のカープ野球教室が切っ掛けである[18]。在任中は古葉の後継監督候補と見なされていたが[17]、古葉が好成績を続けたため[17]、広島を退団。監督の西本幸雄に招かれ、1980年から1981年まで近鉄バファローズ二軍打撃コーチを務めた[17][19]

1981年オフ、ロッテオリオンズは契約を1年残して退団した山内一弘の後任監督選定に難航。ロッテ本社は「10人の候補者リスト」を作り、最初は同年を以てロッテで現役引退した張本に要請したが断られ[17]、さらに野村克也(当時TBSテレビラジオ解説者)・土橋正幸(当時フジテレビニッポン放送解説者)・豊田泰光(当時フジテレビ・文化放送解説者)にも断られた。他に元監督の金田正一(当時日本テレビ解説者)や、OBでコーチ経験のある醍醐猛夫(当時テレビ埼玉解説者)の名前も挙がっていたという。続いて有藤道世プレイングマネージャー案も重光武雄オーナーの「あと3年、プレーヤーに専念させよう」という意向で流れ[17]、最終的に重光が旧知の鶴岡に次期監督を相談、大学の先輩である鶴岡の推薦により山本が監督に就任。山本のロッテ監督就任は、鶴岡だけでなく張本も推薦したという[20]。就任決定時、当時山本が単身赴任していた近鉄の合宿所「球友寮」では、「今朝、“大事な用があるから”と出かけて行ったけど、大事過ぎるやんか」とテレビのニュースを見て選手が大騒ぎになったという。近鉄は当初翌年のコーチ留任を前提としていたため、カレンダーには、このオフに西本の後任として監督に昇格したばかりの関口清治を囲む山本他一軍首脳陣の写真を掲載していたが、山本のロッテ監督就任要請を受けて「ごく最近ですがロッテから話がありました。ウチとしても手放したくはないんですが、本人にとって非常に良いチャンス。本人が望むなら、出世していくんだし、喜んで送り出そうと-ということになりました」と、山崎弘海球団代表がコメントした[17][21][22]1982年前期は4月から5月の6連敗で最下位に落ちると、一度も浮上できず最下位[23]、後期4位の年間5位、投手陣の大黒柱の村田兆治が右ヒジ痛で6試合にとどまり、勝ち頭が水谷則博の14勝で、チーム防御率4.24とリーグ最低[23]。頼みの打線もレロン・リーが負傷し本塁打15本と低迷、落合博満が戦後史上最年少の28歳で三冠王獲得に加え、最多勝利打点(13)、最高出塁率もマーク[23]1983年は5月中旬の6連敗と下旬から6月にかけての8連敗と後退[23]。6月に最下位に定着し、そのまま抜け出せず[23]。敗因は何と言っても村田を欠き[23]、チーム防御率は12球団最下位の5.12[24]と投壊の投手陣[23]、12勝と奮闘した深沢恵雄も防御率4.53[23]、打率.332をマークして3年連続首位打者の落合の活躍が唯一の明るい話題で[23]、球団史上初の年間最下位[25]となり解任されたが[26]、シーズン後半は、高沢秀昭やスイッチヒッターに転向させた西村徳文ら、若手を我慢して起用して育てた[27][28]。退任後は鶴岡の計らいで南海一軍打撃コーチ(1984年 - 1985年)を務め、山本和範[29]吉田博之らを育てた[15]

南海退団後は関西テレビ1986年 - 1988年)→中国放送1989年 - 1993年)解説者・サンケイスポーツ評論家(1986年 - 1992年)を務め、評論活動と並行してカープアカデミーコーチ(1991年 - 1993年)も務めた。

関西テレビ解説者時代の1988年、生一本の性格で現役時代からウマが合った村山実が阪神監督に復帰。村山は山本に入閣を打診したが、山本が病気の父親の付き添いで病院に寝泊まりして連絡が取れず、時間切れで実現しなかった[30]。その後1989年に、大下剛史の広島コーチ復帰で解説者の余裕がなくなっていた中国放送と契約した。

1994年には古巣・広島に一軍チーフ兼打撃コーチとして復帰し、金本知憲[21]木村拓也を育成したほか、キャンプで打球が前に飛ばなかったルイス・ロペスセ・リーグ史上ただ一人、来日1年目から2年連続3割100打点(打点王)を獲らせるなど多くの強打者を育成した。金本は「三村さんと山本一義さんは野球界の恩人」と著書に記している[31]1998年退任。

晩年は日刊スポーツ評論家を務めたほか、プロ野球マスターズリーグに所属。母校・法大の臨時コーチ、全日本少年硬式野球連盟大会会長などで後進の指導にあたった。広島コーチ時代に山本を指導した広岡達朗による東北楽天ゴールデンイーグルスの再建案でも打撃コーチに推されていた。広岡私案は野村の監督就任でご破算になったが、高い打撃理論と熱血指導で知られた。

2016年9月17日午後9時4分[32]、尿管癌のため広島市内の病院で死去。78歳没。25年ぶりにリーグ優勝を果たしたカープに配慮した本人の意志により公表は10月3日まで控えられた[33]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1961 広島 89 223 194 19 40 8 1 2 56 21 1 1 0 1 25 1 3 30 3 .206 .306 .289 .595
1962 81 200 180 10 35 9 1 2 52 12 0 0 0 1 18 0 1 29 4 .194 .271 .289 .560
1963 120 418 371 50 94 18 1 12 150 47 0 4 3 4 38 0 2 30 11 .253 .326 .404 .730
1964 111 464 396 51 115 24 2 11 176 44 1 2 0 4 60 4 4 33 3 .290 .389 .444 .834
1965 129 506 438 47 112 25 0 15 182 59 4 3 0 4 63 0 1 36 6 .256 .351 .416 .766
1966 123 497 424 55 127 25 2 15 201 70 2 2 0 4 61 8 8 23 5 .300 .398 .474 .872
1967 119 481 421 47 131 20 1 16 201 58 3 5 0 5 50 7 5 39 14 .311 .391 .477 .868
1968 124 501 426 56 109 23 2 17 187 62 2 4 0 6 64 10 5 56 11 .256 .360 .439 .799
1969 115 459 402 51 118 13 1 21 196 66 4 4 0 1 51 4 5 58 7 .294 .380 .488 .867
1970 113 404 346 37 94 18 0 12 148 42 2 6 0 7 47 5 4 49 6 .272 .365 .428 .793
1971 98 342 288 44 72 16 0 13 127 41 0 3 0 5 42 2 7 32 14 .250 .359 .441 .800
1972 120 417 365 55 103 22 0 17 176 68 0 3 0 2 46 4 4 41 15 .282 .369 .482 .851
1973 91 258 229 19 63 6 1 9 98 26 1 2 1 2 24 6 2 18 9 .275 .349 .428 .777
1974 90 268 237 22 68 11 1 7 102 21 2 0 0 2 27 3 2 33 6 .287 .365 .430 .795
1975 71 144 129 6 27 6 1 2 41 18 0 0 0 2 13 2 0 12 5 .209 .282 .318 .600
通算:15年 1594 5582 4846 569 1308 244 14 171 2093 655 22 39 4 50 629 56 53 519 119 .270 .360 .432 .792
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

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年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1982年 ロッテ 5位 130 54 69 7 .439 6位・4位 123 .263 4.24 44歳
1983年 6位 130 43 76 11 .361 39.5 128 .264 5.12 45歳
通算:2年 260 97 145 18 .400 Bクラス2回
  • ※1 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄の順位は前期、後期の順に表示
  • ※2 1982年から1996年までは130試合制

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1969年6月3日、対大洋ホエールズ11回戦(広島市民球場)、2回裏に山下律夫から右越先制ソロ ※史上51人目
  • 1000試合出場:1969年10月2日、対アトムズ24回戦(広島市民球場)、4番・右翼手で先発出場 ※史上143人目
  • 1000安打:1971年5月20日、対中日ドラゴンズ6回戦(広島市民球場)、3回裏に田辺修から右前安打 ※史上76人目
  • 150本塁打:1972年8月8日、対サンケイアトムズ14回戦(明治神宮野球場)、9回表に石岡康三から右越2ラン ※史上33人目
  • 1500試合出場:1974年8月13日、対阪神タイガース19回戦(広島市民球場)、1番・左翼手で先発出場 ※史上47人目
その他の記録

背番号

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  • 7 (1961年 - 1975年)
  • 73 (1976年 - 1979年)
  • 77 (1980年 - 1985年、1994年 - 1998年)

関連情報

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出演番組

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参考文献

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脚注

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  1. ^ 中国新聞 生きて<2> 田んぼのガキ大将 野球への夢 膨らむ一方
  2. ^ a b c d e 復興の道、市民と共に=希望届けた地元球団カープ-元主力打者山本一義さん・原爆忌
  3. ^ a b c CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回
  4. ^ 「ピースナイター2014」開催 - 広島東洋カープ公式サイト
  5. ^ a b 中国新聞2014年7月29日19面、31日33面
  6. ^ 中国新聞 生きて<3> 復興する街で 母の激励で毎朝素振り
  7. ^ スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球【1月15日】1950年(昭25)
  8. ^ 西本雅実 (2011年1月4日). “人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~”. 中国新聞 (ヒロシマ平和メディアセンター). オリジナルの2015年10月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151029090555/http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=2011012111501691_ja 2015年11月30日閲覧。 
  9. ^ 中国新聞 生きて<4> 13打席10敬遠 強打で躍進の原動力に
  10. ^ 甲子園で時代創った広島商…達川ら輩出
  11. ^ 高校野球新世紀・第2部 白球列伝 山本 一義(広島商)中国新聞 Archived 2009年3月1日, at the Wayback Machine.より)
  12. ^ 1957・58年の2年間現役の後、東洋工業(現:マツダ)の社員を経て、広島球団に職員として復帰し、球団部長などを務めた。山本の広島入団時は既に引退していた。
  13. ^ 第3回 鶴岡親分が練習見に来て大緊張 スポニチ Sponichi
  14. ^ 田辺一球・広島魂(赤の魂)|広島カープ書籍グッズ
  15. ^ a b 中国新聞(2013/9/10) 生きて<1> 人生は学びと挑戦 教えの数々生きる糧に | 元プロ野球選手 山本一義
  16. ^ 二宮清純「75年日本シリーズ、西宮球場“鉄塔伝説”の真相」、二宮清純「75年日本シリーズ、西宮球場“鉄塔伝説”の真相」2頁
  17. ^ a b c d e f g 阿部牧郎「偏見球談'81 がんばれカズヨシ」、『週刊サンケイ』、サンケイ出版、1981年12月10日号、pp.46-47
  18. ^ 大野 豊|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2
  19. ^ カープを支え「男の道」を歩んだ山本一義に合掌 東京スポーツ
  20. ^ サンデーモーニング』(TBSテレビ)2016年10月9日放送分「週刊御意見番」より、張本談。
  21. ^ a b 【9月2日】1983年(昭58) 異例のシーズン中呼び出し 奇々怪々の山本一義監督の“留任”
  22. ^ 【虎番疾風録(39)】仰天ロッテ山本監督決定 - 産経WEST、2018年10月10日、10:00配信。
  23. ^ a b c d e f g h i 『週刊プロ野球データファイル』2011年9月14日、22号、ベースボール・マガジン社、ロッテ1980→89年、P33
  24. ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.9 [1983年編] (週刊ベースボール別冊夏祭号)、ベースボール・マガジン社、2020年、68-69頁
  25. ^ 1973年から1982年の前後期制時代は、半期での最下位を2度経験している(1975年前期と1982年前期)。
  26. ^ 俺たちの川崎ロッテ・オリオンズ、ベースボール・マガジン社、2013年、P47
  27. ^ SPORTS COMMUNICATIONS - 第373回 元練習の虫は「ボビー流」をどう変えるか 千葉ロッテ・西村徳文監督
  28. ^ 日刊スポーツ2010年11月4日2面
  29. ^ 永谷脩『タフに生きる』世界文化社、1991年、p190-199
  30. ^ 日刊スポーツ2007年10月9日7面
  31. ^ 金本知憲著、人生賭けて: ~苦しみの後には必ず成長があった~ 小学館、2012年、P122
  32. ^ 山本一義氏が死去 78歳 元広島4番、ロッテ監督 球宴5度出場
  33. ^ “広島初V貢献の山本一義氏死去 金本、緒方ら育てた”. 日刊スポーツ. (2016年10月4日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1719436.html 2016年10月9日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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