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「蜂須賀茂韶」の版間の差分

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また、司馬の著書に先立つ[[河盛好蔵]]の『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家で[[イニシャル]]がHになるのは他に[[細川氏|細川家]]しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、[[喜田貞吉]]に依頼したという記述がある。しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。
また、司馬の著書に先立つ[[河盛好蔵]]の『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家で[[イニシャル]]がHになるのは他に[[細川氏|細川家]]しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、[[喜田貞吉]]に依頼したという記述がある。しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。


ただ、茂韶の父斉裕が11代将軍[[徳川家斉|家斉]]と[[皆春院]]の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。また、明治天皇の祖父・[[仁孝天皇]]の生母・[[勧修寺ただ子|東京極院]]の母は[[池田仲庸]]の娘であり、池田仲庸の曽祖父[[池田光仲]]の母は[[蜂須賀至鎮]](正勝の孫)の娘・[[三保姫]]であるため、逆に明治天皇が正勝の血を引いている。
ただ、茂韶の父斉裕が11代将軍[[徳川家斉|家斉]]と[[皆春院]]の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。また、明治天皇の祖父・[[仁孝天皇]]の生母・[[勧修寺子|東京極院]]の母は[[池田仲庸]]の娘であり、池田仲庸の曽祖父[[池田光仲]]の母は[[蜂須賀至鎮]](正勝の孫)の娘・[[三保姫]]であるため、逆に明治天皇が正勝の血を引いている。
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== 関連項目 ==
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2020年7月3日 (金) 06:16時点における版

 
蜂須賀茂韶
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 弘化3年8月8日1846年9月28日
死没 大正7年(1918年2月10日
改名 氏太郎、茂韶
戒名 大源院殿
墓所 万年山徳島県徳島市
官位 従四位上阿波守侍従侯爵勲一等
阿波国徳島藩
氏族 蜂須賀氏
父母 父:蜂須賀斉裕、母:鷹司標子
兄弟 賀代姫松平茂昭正室)
正室:蜂須賀隆芳の娘・斐姫
継室:徳川慶篤の娘・随子
正韶
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万年山墓所の茂韶夫妻と正氏の墓(徳島県徳島市眉山町)

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期大名明治大正時代の華族阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣東京府知事貴族院議長を歴任した。号は誠堂、霰笠[1]

経歴

第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の二十二男)の次男。母は鷹司標子幼名は氏太郎。のちに従兄弟で第14代将軍の徳川家茂より偏諱を授かり茂韶と名乗る。慶応4年(1868年)1月6日の父の急死により家督を継ぐ。斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたとまで言われている。

明治維新後はオックスフォード大学に留学した。明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使スペインベルギースイスポルトガル公使も兼務)。帰国後、第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、第2代貴族院議長(1891年 - 1896年)、文部大臣などを務め、麝香間祗候の待遇を受ける。

藩祖である蜂須賀小六正勝を大名にまで引き立てたのは豊臣秀吉であった縁から、旧福岡藩主家当主黒田長成(藩祖黒田官兵衛孝高を大名に引き立てたのはやはり秀吉である)を会長として結成された豊国会の副会長を務め、豊国会が京都東山豊国神社に豊臣秀吉廟を建立したおりには、黒田とともに燈籠を寄進している。

法号は大源院殿。墓所は徳島市万年山

年譜

栄典・授章・受賞

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜

盗賊伝説について

司馬遼太郎の『街道をゆく43 濃尾参州記』に、こんな記述がある。

茂韶が宮中に参内して応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを1本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、諧謔をもって「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに茂韶をながめられたという。これは明治天皇が『太閤記』の記述に基づき阿波の徳島藩主蜂須賀氏の初代蜂須賀正勝盗賊あがり(土豪あがり)だと思っていたためだろう。これがきっかけとなり、蜂須賀家では歴史学者の渡辺世祐に依頼して、正勝が盗賊ではないことを立証してもらったという。

また、司馬の著書に先立つ河盛好蔵の『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家でイニシャルがHになるのは他に細川家しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、喜田貞吉に依頼したという記述がある。しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。

ただ、茂韶の父斉裕が11代将軍家斉皆春院の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。また、明治天皇の祖父・仁孝天皇の生母・東京極院の母は池田仲庸の娘であり、池田仲庸の曽祖父池田光仲の母は蜂須賀至鎮(正勝の孫)の娘・三保姫であるため、逆に明治天皇が正勝の血を引いている。

蜂須賀正勝家政至鎮三保姫池田光仲仲澄仲央仲庸数計子勧修寺婧子仁孝天皇孝明天皇明治天皇

関連項目

事柄

人物

脚注

  1. ^ 阿波名家墓所記
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 履歴書」 アジア歴史資料センター Ref.A06050223200 
  3. ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
  4. ^ a b 『官報』第1657号「叙任及辞令」1918年2月13日。
  5. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  6. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
  7. ^ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
  8. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  9. ^ 『官報』第3811号「叙任及辞令」1896年3月16日。
  10. ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
  11. ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
  12. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  13. ^ 維新史料編纂会 講演速記録. 第1-5輯「文久三年八月政変前後の事情 / 蜂須賀茂韶」
  14. ^ 文久3年足利三代木像梟首事件の咎
  15. ^ 小室信夫”. 徳島幕末維新期人名事典. 徳島県立文書館. 2018年1月11日閲覧。

関連リンク

公職
先代
(新設)
日本の旗 文官高等懲戒委員
日本の旗 行政裁判所長官評定官懲戒裁判所長官
日本の旗 会計検査官懲戒裁判所長官

1899年 - 1918年
次代
南部甕男
先代
加藤弘之
日本の旗 教育調査会総裁
1916年 - 1917年
次代
(廃止)
先代
芳川顕正
日本の旗 東京市区改正委員
1890年 - 1891年
次代
富田鉄之助
ビジネス
先代
(新設)
東京海上保険頭取
初代:1879年7月 - 1879年9月
次代
伊達宗城
その他の役職
先代
土方久元
能楽会会頭
1903年 - 1918年
次代
徳川家達
日本の爵位
先代
叙爵
侯爵
蜂須賀家初代
1884年 - 1918年
次代
蜂須賀正韶