コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

蜂須賀綱矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蜂須賀綱矩
蜂須賀綱矩像
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文元年5月28日1661年6月24日
死没 享保15年11月7日1730年12月16日
改名 熊太郎(幼名)、龍之(初名)、綱矩
墓所 徳島県徳島市下助任町興源寺
官位 従四位下淡路守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
阿波徳島藩
氏族 蜂須賀氏
父母 蜂須賀隆矩松平宣助の娘・七
養父蜂須賀綱通
正室蒼涼院(奥津庸広の娘)
継室架祥院(安西作左衛門の娘)
側室:横山氏、福島氏
吉武隆寿宗員、蓮光院、小笠原忠貞室、大久保忠興婚約者、安藤信尹婚約者ら
テンプレートを表示

蜂須賀 綱矩(はちすか つなのり)は、阿波国徳島藩の第5代藩主

生涯

[編集]

蜂須賀隆矩(徳島藩第2代藩主・蜂須賀忠英の四男)の長男。母は紀州藩士・松平宣助の娘・お七。初名は龍之(たつゆき)。

延宝6年(1678年)、従兄の第4代藩主・蜂須賀綱通が23歳で実子なくして亡くなったため、その養子という形をとって第5代藩主となる。若年のため、伯父の蜂須賀隆重の補佐を受ける(延宝6年10月7日~元禄4年(1691年)閏8月28日)。慣例により、綱通と同様、第4代将軍徳川家綱偏諱を受けて綱矩(「矩」は実父・隆矩の1字)と改名する。

延宝6年(1678年)、伯父の蜂須賀隆重に5万石の分知を与えて阿波富田藩を立藩させている。

延宝8年(1680年5月8日に家綱が死去したが、先代の頃から預かっていた堀田正信5月30日殉死、責任を問われて7月19日に第5代将軍・徳川綱吉から閉門を命じられた。11月27日には閉門を免ぜられた。

なお、綱矩の代の享保12年(1727年)、陸奥守山藩松平頼貞のとりなしで、初代以来不通であった福岡藩黒田家と和解している。松平頼貞正室は、伯父・蜂須賀隆重の次女である。

興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)

長命であり多くの子をもうけたが、嫡男・吉武には夭折され(享保10年5月2日(1725年6月12日)没)、支藩阿波富田藩の蜂須賀隆長のもとに養子に出ていた四男・宗員を呼び戻して嗣子としている。享保13年(1728年隠居し、家督を宗員に譲った。宗員は富田藩3代藩主だった為に跡継ぎが居なくなり廃藩。本家に吸収された。

享保15年(1730年)死去。享年70。

系譜

[編集]

参考文献

[編集]
  • 『蜂須賀家記』