蜂須賀治昭
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蜂須賀治昭像 | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦7年11月24日(1758年1月3日) |
死没 | 文化11年3月24日(1814年5月13日) |
改名 | 千松丸(幼名)、喜昭(初名)、治昭 |
別名 | 敬翁(号) |
墓所 |
徳島県徳島市下助任町の興源寺 徳島市の万年山墓所 |
官位 | 従四位下、阿波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 | 父:蜂須賀重喜、母:伝姫 |
兄弟 | 治昭、喜翰、喜和、喜儀、允功、允迪、允澄、允穎、昭則、昭義、昭栄、儀子、幸子、中院通知正室、成姫、寿美姫、定姫、理姫、伊与姫ら |
妻 |
正室:俊姫(井伊直幸の娘) 側室:高野恭、辻備 |
子 |
昭尹、綱姫、斉昌、昭順、典姫、姞姫、光姫ら 養子:伊与姫 |
蜂須賀 治昭(はちすか はるあき)は、阿波国徳島藩の第11代藩主。号は敬翁[1]。
経歴
[編集]宝暦7年11月24日(1758年1月3日)、第10代藩主・蜂須賀重喜の長男として生まれる。母は立花貞俶の娘・伝姫。幼名は千松丸。やがて父・重喜より偏諱を賜って喜昭(よしあき)を名乗る。明和4年(1767年)7月28日、将軍徳川家治に初御目見する。明和6年(1769年)10月晦日、父重喜の隠居により、家督を相続するが、父・重喜の失政により出仕をとどめられる。翌明和7年(1770年)2月10日に赦される。同年11月7日従四位下阿波守に叙任する。なお、この日に元服し、将軍・家治から偏諱を賜り治昭(はるあき)に改名する。
安永元年(1772年)12月18日侍従に任官する。安永2年(1773年)4月18日在国の許可を得る。
文化3年(1806年)、藩祖・蜂須賀家政を祀る國瑞彦神社(徳島市)を建立。
文化10年(1813年)9月7日隠居し、次男・斉昌に家督を譲る。文化11年(1814年)、58歳で死去。
蔵書家としても知られていたらしく、足代弘訓は「書物ありきは聖堂なり、次は浅草・守村次郎兵衛(蔵前の札差で俳人)の十万巻、次は阿波の国・蜂須賀治昭の六万巻、次は塙氏(塙保己一)六万巻ばかりあり」と記した[2]。数代に渡り蜂須賀家が収集した典籍は阿波国文庫と呼ばれる[3]。
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興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)
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万年山墓所の墓所(徳島県徳島市眉山町)
系譜
[編集]- 父:蜂須賀重喜(1738-1801)
- 母:伝姫 - 立花貞俶の四女
- 正室:俊姫(1762-1786) - 井伊直幸の娘
- 側室:高野恭
- 女子:典姫 - 大久保忠真正室
- 男子:規次郎
- 側室:辻備
- 生母不明の子女
- 長男:蜂須賀昭尹
- 養子
偏諱を与えた人物
[編集]関連項目
[編集]- 阿波国文庫
- 阿波志 - 寛政4年(1792年)に治昭によって編集が命じられ、文化12年(1815年)に完成した書籍
- 柴野栗山 - 徳島藩に仕えた儒学者。寛政の三博士。
- 屋代弘賢 - 国学者・書誌学者。後に阿波国文庫に収蔵される不忍文庫の持ち主。
- 東洲斎写楽 - 浮世絵師。阿波のお抱え能役者斎藤十郎兵衛説が有力。
脚注
[編集]- ^ 阿波名家墓所記。
- ^ 塙保己一史料館(温故学会) 「塙保己一エピソードその8.保己一の蔵書」
- ^ 徳島県立図書館|阿波国文庫「十代藩主蜂須賀重喜(1738~1807)から、十三代藩主蜂須賀斉裕(1821~1868)に至る間に、特に多数の書籍が増加したと推定されます」