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堀田正昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堀田 正昭(ほった まさあき、1883年明治16年)7月1日[1] - 1960年昭和35年)7月25日[2])は、日本外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使

経歴

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検事法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる[1]1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した[1]。外交官補としてフランス中華民国に勤務した[3]。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツイタリアに勤務した[3]1926年大正15年)、外務省欧米局長に就任[3]1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた[3]1935年(昭和10年)からは国際会議帝国事務局長も兼務した[4]1937年(昭和12年)に駐イタリア大使となり[3]、その後は駐中国大使顧問を務め、1940年(昭和15年)に退官した[5]

戦後、駐イタリア大使のため公職追放となり[6]1951年(昭和26年)、追放解除[7]

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c 大衆人事録 1930.
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ、2012年。
  3. ^ a b c d e 人事興信録 第12版(下) 1939.
  4. ^ 堀田正昭(読み)ほった まさあきデジタル版 日本人名大辞典+Plus
  5. ^ 人事興信録 第14版(下) 1943.
  6. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、135頁。NDLJP:1276156 
  7. ^ 『朝日新聞』1951年8月7日二面。
  8. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。 
先代
沢田節蔵
国際会議帝国事務局長
1935年 - 1937年
次代
天羽英二