利用者:何もなきよ/sandbox
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日本 | |
---|---|
所属機関 | 内閣 |
担当機関 | 行政府 内閣 内閣官房 内閣法制局 内閣府 復興庁 デジタル庁 国家安全保障会議 |
庁舎 | 内閣総理大臣官邸 |
官舎 | 内閣総理大臣公邸 |
指名 | 国会 (内閣総理大臣指名選挙) |
任命 | 天皇 (徳仁) |
前身 | 太政大臣(太政官) |
略称 | 総理大臣、総理 |
通称 | 首相、宰相 |
日本の指導者とは神武天皇や実在が確定している継体天皇などをはじめとした[注釈 1]中央集権のような役割を果たしていた政権の最高権力者(それに次ぐ権力者)のみこのページの「日本の政権最高権力者#氏名の一覧」に記載されている。また、中央政府として存在していたか曖昧な政権の人物は下記の「日本の最高権力者#その他の政権」を参照。
事前説明
[編集]日本の政権最高権力者について記載している。 日本の国家元首は天皇であるため、国家元首とは別である。また、正式ではないが事実上の政権もとい事実上の中央政権として成り立っていたものも含める。(細川政権、織田政権など)[注釈 2]そしてこのページでは時代によってはその時代の政治最高権力者と称されるものではなく事実上政治を運営を行っていたものを紹介している部分が存在する。(例 鎌倉幕府は3代目の征夷大将軍源実朝がなくなり、初代源頼朝の直系の血が途絶え変わりに執権がその後事実上の政権運営を行ったことが挙げられる。)
また、現在は議院内閣制による政治のため、現在の天皇陛下は日本国の国家元首として扱われているが、政治を行っているのは主に内閣総理大臣をはじめとした内閣であるため、ここでは内閣制が導入されて からの政権最高権力者は内閣総理大臣とする。しかし、太古の時代に存在していたとされている卑弥呼率いる邪馬台国政権や臨時政府などは別の枠組みに含めている。
また、日本神話の時代や日本国内の勢力の指導者、臨時政府または臨時政府に準ずるものもこのページ下部分に記載している。
縄文時代
[編集]縄文時代はそもそも文明が発達しておらず、よって政権というものが確立されていなかったとされる。天皇の初代とされている神武天皇が縄文時代あるいは弥生時代に存在をしていたとされるが勢力なるものを確立させたのは弥生時代であると推測されるため縄文時代はそもそも政権、一つの権力者が国を政治する概念、価値観が生まれていなかった。
氏名の一覧
[編集]日本の政権一覧を多く参照(ページにて政権と表記される人物も入れて) また、実質的な政治権力を持っていた人物一覧はこちら日本の政権首班一覧(天皇、臣下、武家、新政府など)
また、時代や政権によってこのように色を示している。
『側近または有力者の部分』の色分けはその時の有力者の中でも『特に力を持った人物』の色をつけている。
天皇政権[注釈 3]・中大兄皇子(のちの天智天皇)・長屋王政権 神話上の時代(日向三代、ニギハヤヒ)・穂積氏・物部氏 葛城氏 大伴氏 橘氏(橘諸兄) 鎌倉幕府・執権 北朝天皇政権・室町幕府(足利氏) 摂政・代理執政(神功皇后を含む) 細川武家政権[注釈 4] 三好政権 織田政権 豊臣政権 江戸幕府(徳川氏) 蘇我政治運営 藤原四子政権・摂関政治(藤原家政権) 平氏政権・太政大臣 連合国軍最高司令官総司令部 内閣総理大臣政権 (戦前) 内閣総理大臣政権 (戦後)(自由民主党政権)[注釈 5] 内閣総理大臣臨時代理・臨時政権[注釈 6] 自由民主党以外の政党の政権(これから作る)・その他 |
また、日本書紀で書かれている最古の天皇、神武天皇から始まる。神武天皇から武烈天皇までを実在未確定の人物とする。[注釈 10]
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | (その時代の天皇) | 側近または有力者 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||||
(未確) |
1ヤマト王権 | 神武天皇元年1月1日- 神武天皇76年3月11日 | 大王 | 縄文時代もしくは弥生時代あたりとする | 天下を平定する、 初代天皇を務める。 |
神武天皇 (初代) |
ニギハヤヒ?または元大和国の豪族? | |||||
(未確) |
2ヤマト王権 | 綏靖天皇元年1月8日- 綏靖天皇33年5月10日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第2代天皇を務める。 | 綏靖天皇 (2代) |
元大和国の豪族?ニギハヤヒの子孫? | |||||
(未確) |
3ヤマト王権 | 安寧天皇元年7月5日- 安寧天皇38年12月16日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第3代天皇を務める。 | 安寧天皇 (3代) |
元大和国の豪族?中原氏?ニギハヤヒの子孫? | |||||
(未確) |
4ヤマト王権 | 懿徳天皇元年2月4日- 懿徳天皇34年9月8日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第4代天皇を務める。 | 懿徳天皇 (4代) |
元大和国の豪族?中原氏?大臣に任じられた出雲醜大臣命や穂積臣や物部連 | |||||
(未確) |
5ヤマト王権 | 孝昭天皇元年1月9日- 孝昭天皇83年8月5日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第5代天皇を務める。 | 孝昭天皇 (5代) |
元大和国の豪族?中原氏?その時代の大臣や穂積臣や物部連 | |||||
(未確) |
6ヤマト王権 | 孝安天皇元年1月7日- 孝安天皇102年1月9日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第6代天皇を務める。 | 孝安天皇 (6代) |
豪族?中原氏?その時代の大臣や穂積臣や物部連 | |||||
(未確) |
7ヤマト王権 | 孝霊天皇元年1月12日- 孝霊天皇76年2月8日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第7代天皇を務める。 | 孝霊天皇 (7代) |
豪族?中原氏?磯城県主、十市県主やその時代の大臣?や穂積臣・物部連 | |||||
(未確) |
8ヤマト王権 | 孝元天皇元年1月14日- 孝元天皇57年9月2日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第8代天皇を務める。 | 孝元天皇 (8代) |
豪族?中原氏?磯城県主、十市県主またはその時代の大臣?や穂積臣・物部連 | |||||
(未確) |
9ヤマト王権 | 開化天皇元年11月12日- 開化天皇60年4月9日 | 大王 | 弥生時代あたりとする | 第9代天皇を務める。 | 開化天皇 (9代) |
豪族?中原氏?磯城県主、十市県主?その時代の大臣や穂積臣・物部連 | |||||
(未確)[注釈 14] |
10ヤマト王権 | 崇神天皇元年1月13日- 崇神天皇68年12月5日 | 大王 | 古墳時代 | 第10代天皇を務める。 | 崇神天皇 (10代) |
各地の豪族・四道将軍・その時代の大臣や物部連 | |||||
(未確) |
11ヤマト王権 | 垂仁天皇元年1月2日- 垂仁天皇99年7月1日 | 大王[注釈 16] | 古墳時代 | 第11代天皇を務める。 | 垂仁天皇 (11代) |
各地の豪族・大連の物部十千根や大臣の大新河命(どちらも物部連の出身)など | |||||
(未確) |
12ヤマト王権 | 景行天皇元年7月11日- 景行天皇60年11月7日 | 大王[注釈 18] | 古墳時代 | 第12代天皇を務める。 | 景行天皇 (12代) |
各地の豪族(主に物部連)棟梁に任じられた武内宿禰や大臣に任じられた物部胆咋 | |||||
(未確) |
13ヤマト王権 | 成務天皇元年1月15日- 成務天皇60年6月11日 | 大王 | 古墳時代 | 第13代天皇を務める。 | 成務天皇 (13代) |
各地の豪族(主に物部連)・大臣に任じられた武内宿禰 | |||||
(未確) |
14ヤマト王権 | 仲哀天皇元年1月11日- 仲哀天皇9年2月6日 | 大王 | 古墳時代 | 第14代天皇を務める。 | 仲哀天皇 (14代) |
各地の豪族(主に物部連)・大臣の武内宿禰 | |||||
(1)[注釈 20] (未確) |
15ヤマト王権 | 神功元年10月2日- 神功69年4月17日 | 摂政 [注釈 21] | 古墳時代 | 皇位不在の状態に摂政として事実上指導者を務める。 | 仲哀天皇 (14代) 応神天皇 (15代) |
各地の豪族(主に物部連)・大臣の武内宿禰 | |||||
(15)[注釈 23] (未確) |
16ヤマト王権 | 応神天皇元年362年?390年1月1日?- 応神天皇41年394年?430年2月15日 | 大王 | 古墳時代 | 摂政の神功皇后と共に政権を運営した。 | 神功皇后 (摂政) 応神天皇 (15代) |
各地の豪族(主に物部連)・大臣の武内宿禰、米餅搗大使主など | |||||
(16) (未確) |
17ヤマト王権 | 仁徳天皇元年394年?1月3日?- 仁徳天皇87年427年?1月16日 | 大王 | 古墳時代 | 第16代天皇を務める。 | 仁徳天皇 (16代) |
各地の豪族(主に物部連、葛城氏)・大臣の武内宿禰、意乎己連など | |||||
(17) (未確) |
18ヤマト王権 | 履中天皇元年2月1日?- 履中天皇6年3月15日? | 大王 | 古墳時代 | 第17代天皇を務める。 | 履中天皇 (17代) |
各地の豪族(主に物部連、葛城氏)・大臣の葛城円、大連の物部伊莒弗など | |||||
(18) (未確) |
19ヤマト王権 | 反正天皇元年1月2日?- 反正天皇5年1月23日? | 大王 | 古墳時代 | 第18代天皇を務める。 | 反正天皇 (18代) |
各地の豪族(主に物部連、葛城氏)・その他大臣や大連 | |||||
(19) (未確) |
20ヤマト王権 | 允恭天皇元年12月?日- 允恭天皇42年1月14日? | 大王 | 古墳時代 | 第19代天皇を務める。 | 允恭天皇 (19代) |
各地の豪族(主に物部連、葛城氏、葛城氏、大伴氏)・その他大臣の物部小前、大連の大伴室屋 | |||||
(20) (未確) |
21ヤマト王権 | 允恭天皇42年12月14日?- 安康天皇3年8月9日? | 大王 | 古墳時代 | 第20代天皇を務める。 | 安康天皇 (20代) |
各地の豪族(主に物部連、葛城氏、大伴氏、葛城氏)・その他大臣の葛城円、大連の大伴室屋 | |||||
(21) (未確) |
22ヤマト王権 | 安康天皇元年1月13日- 雄略天皇23年8月7日? | 大王 | 古墳時代 | 第21代天皇を務める。 | 雄略天皇 (21代) |
各地の豪族(主に物部連、葛城氏、大伴氏、平群氏、日下部氏)・その他大臣の平群真鳥、大連の大伴室屋'、物部目 | |||||
(22) (未確) |
23ヤマト王権 | 清寧天皇元年1月15日- 清寧天皇5年1月16日? | 大王 | 古墳時代 | 第22代天皇を務める。 | 清寧天皇 (22代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、平群氏、吉備氏)・その他大臣の平群真鳥、大連の大伴室屋 | |||||
(23) (未確) |
24ヤマト王権 | 飯豊執政元年1月??- 飯豊執政元年11月?? | 執政 | 古墳時代 | 清寧天皇崩御後10ヶ月政務を行う。 | 飯豊青皇女 (執政) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、平群氏、吉備氏)・その他大臣の平群真鳥、大連の大伴室屋 | 飯豊執政元年年10月?に崩御されたとされる、億計王や弘計王が皇位を譲り合っていた10ヶ月間事実上政権を運営していた、没後弘計王が第23代天皇となる。[注釈 28] | ||||
(23) (未確) |
25ヤマト王権 | 顕宗天皇元年1月1日?- 顕宗天皇3年4月25日? | 大王 | 古墳時代 | 第23代天皇を務める。 | 顕宗天皇 (23代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、平群氏)・その他大臣の平群真鳥、大連の大伴室屋 | |||||
(24) (未確) |
26ヤマト王権 | 仁賢天皇元年1月5日?- 仁賢天皇11年8月8日? | 大王 | 古墳時代 | 第24代天皇を務める。 | 仁賢天皇 (24代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、平群氏)・その他大臣の平群真鳥、大連の大伴金村、物部木蓮子 | |||||
(25) (未確) |
26ヤマト王権 | 仁賢天皇11年12月?日- 武烈天皇8年12月8日? | 大王 | 古墳時代 | 第25代天皇を務める。 | 武烈天皇 (25代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、)・その他大臣や大連の大伴金村、物部麤鹿火 | 武烈天皇即位8年12月8日?に崩御されたとされる、仁賢天皇崩御後は平群真鳥が事実上国政を行っていた、また、歌垣で平群鮪に負けたことに腹を立てたため、この平群氏の二人を金村により誅殺、また武烈天皇は資料にて様々な異常な行為が記されていた、武烈天皇には子がいなかったため、仁徳系の血は途絶えた、[注釈 30] | ||||
(26)[注釈 31] |
28ヤマト王権 | 継体天皇元年2月4日?3月3日?- 継体天皇25年2月7日?3月10日? | 大王 | 古墳時代 | 第26代天皇を務める。 | 継体天皇 (26代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、巨勢氏)・その他大臣の巨勢男人や大連の大伴金村、物部麤鹿火 | 継体天皇即位25年531年?2月7日?3月10日?に崩御されたとされる、大変な暴君武烈天皇が後継を決めずに崩御し、次期天皇をどうするかと大伴金村などの重鎮が集まり、その結果3日間の説得により継体天皇が即位した、百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と通じた筑紫君・磐井によって磐井の乱が起こり、平定に苦心した、百済などの国を高句麗や新羅から守り、対外関係を強固なものとした。[注釈 32] | ||||
(27) |
29ヤマト王権 | 継体天皇25年2月7日?3月10日?- 安閑天皇2年12月17日?1月25日? | 大王 | 古墳時代 | 第27代天皇を務める。 | 安閑天皇 (27代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、巨勢氏)・その他大臣の巨勢男人?[注釈 33]や大連の大伴金村、物部麤鹿火 | |||||
(28) |
30ヤマト王権 | 安閑天皇2年12月?日・1月?日- 宣化天皇4年2月10日?3月15日? | 大王 | 古墳時代 | 第28代天皇を務める。 | 宣化天皇 (28代) |
各地の豪族(主に物部連、大伴氏、蘇我氏)・その他蘇我稲目や大連の大伴金村、物部麤鹿火 | |||||
(29) |
31ヤマト王権 | 宣化天皇4年539年?12月5日?・12月30日?- 欽明天皇32年571年?4月15日?・5月24日? | 大王 | 古墳時代 | 第29代天皇を務める。 | 欽明天皇 (29代) |
各地の豪族(主に物部連、蘇我氏)・その他大臣の蘇我稲目や大連の大伴金村、物部尾輿 | |||||
(30) |
32ヤマト王権 | 敏達天皇元年572年?4月3日?・4月30日?- 敏達天皇14年585年?8月15日?・9月14日? | 大王 | 古墳時代 | 第30代天皇を務める。 | 敏達天皇 (30代) |
各地の豪族(主に蘇我氏、物部連)・その他大臣の蘇我馬子や大連の物部守屋 | |||||
(31) |
33ヤマト王権 | 用明天皇元年585年?9月5日?・10月3日?- 用明天皇2年587年?4月9日?・5月21日? | 大王 | 古墳時代 | 第31代天皇を務める。 | 用明天皇 (31代) |
各地の豪族(主に蘇我氏、物部連)・その他大臣の蘇我馬子や大連の物部守屋 | |||||
(32) |
34ヤマト王権 | 用明天皇2年587年?8月2日?・9月9日?- 崇峻天皇5年592年?11月3日?・12月12日? | 大王 | 古墳時代 | 第32代天皇を務める。 | 崇峻天皇 (32代) |
各地の豪族(主に蘇我氏)・大臣の蘇我馬子[注釈 39] | |||||
(33) |
35ヤマト王権 | 崇峻天皇5年593年?12月8日?・1月15日?- 推古天皇36年628年?3月7日?・4月15日? | 大王 | 飛鳥時代 | 第33代天皇を務める。[注釈 41] | 推古天皇 (33代) |
各地の豪族(主に蘇我氏)・大臣の蘇我馬子や皇太子の厩戸皇子 | |||||
(34) |
36ヤマト王権 | 舒明天皇元年629年?1月4日?・2月2日?- 舒明天皇13年641年?10月9日?・11月17日? | 大王 | 飛鳥時代 | 第34代天皇を務める。 | 舒明天皇 (34代) |
各地の豪族(主に蘇我氏)・大臣の蘇我蝦夷と息子の蘇我入鹿 | |||||
(35) |
37(斉明天皇と同一人物) |
ヤマト王権 | 皇極天皇元年642年?1月15日?・2月19日?- 皇極天皇4年645年?6月14日?・7月12日?[注釈 43] | 大王 | 飛鳥時代 | 第35代天皇を務める。[注釈 44] | 皇極天皇 (35代) 斉明天皇 (37代) |
各地の豪族(主に蘇我氏)・大臣の蘇我蝦夷と息子の蘇我入鹿[注釈 45] | 推古天皇時同様中継ぎの女帝として即位した、しかし在位中は蘇我蝦夷が大臣として側近に、蘇我入鹿が事実国政を行った、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じた、また、蘇我入鹿は山背大兄王を襲撃し、その後大兄王は自害する、その後中大兄皇子らが乙巳の変・大化の改新を行い、入鹿を討つ、翌日蝦夷が自害し、軽皇子に皇位を譲る。[注釈 46] | |||
(36) |
38ヤマト王権 | 皇極天皇4年645年?6月14日?・7月12日?- 白雉5年654年?10月10日?・11月24日? | 大王 | 飛鳥時代 | 第36代天皇を務める。[注釈 47] | 孝徳天皇 (36代) |
各地の豪族、中大兄皇子・左大臣の阿部内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂[注釈 48] | |||||
(37) |
39(皇極天皇と同一人物) |
ヤマト王権 | 斉明天皇元年655年?1月3日?・2月14日?- 斉明天皇7年661年?7月24日?・8月24日? | 大王 | 飛鳥時代 | 第37代天皇を務める。[注釈 50] | 皇極天皇 (35代) 斉明天皇 (37代) |
各地の豪族(主に中臣氏[注釈 51]皇太子の中大兄皇子など、[注釈 52] | ||||
(38) |
40ヤマト王権 | 天智天皇7年668年?1月3日?・2月20日?- 天智天皇10年672年?12月3日?・1月7日? | 大王 | 飛鳥時代 | 第38代天皇を務める。 | 天智天皇 (38代) |
各地の豪族(主に藤原氏、蘇我氏)、左大臣の蘇我赤兄や右大臣の蘇我連子 | 天智天皇即位10年672年?12月3日?1月7日?に病にて崩御されたとされる、皇太子時の名前は中大兄皇子、大化の改新を行い、孝徳、斉明期に実権を握っていた、また、左大臣右大臣には蘇我氏系を入れる、大海人皇子を皇太子とし、大友皇子を史上初の太政大臣に任命する、水城や狼煙を設置し、大化の改新の功労者中臣鎌足に藤原の名を与えた、また藤原鎌足の子孫はのちに天皇すらを掌握する実権を握った。[注釈 54] | ||||
(39) |
41ヤマト王権 | 天智天皇10年672年?12月5日?・1月9日?- 天武天皇元年672年?7月23日?・8月21日? | 大王 | 飛鳥時代 | 第39代天皇を務める。[注釈 55] | 弘文天皇 (39代) |
各地の豪族(主に藤原(中臣氏、蘇我氏)、左大臣の蘇我赤兄や右大臣の中臣金[注釈 56] | |||||
(40) |
42ヤマト王権 | 天武天皇2年673年?2月27日?・3月20日?- 朱鳥元年686年?9月9日?・10月1日? | 天皇[注釈 57] | 飛鳥時代 | 第40代天皇を務める。 | 天武天皇 (40代) |
皇族や各地の豪族(主に藤原(中臣氏、蘇我氏) | |||||
(41) |
43ヤマト王権 | 持統天皇4年690年?1月1日?・2月14日?- 持統天皇11年697年?8月1日?・8月22日? | 天皇[注釈 58] | 飛鳥時代 | 第41代天皇を務める。 | 持統天皇 (41代) |
皇族や各地の豪族(主に藤原(中臣氏、多治比氏)、太政大臣の高市皇子 | |||||
(42) |
44ヤマト王権 | 文武天皇元年697年?8月1日?・8月22日?- 慶雲4年707年?6月15日?・7月18日? | 天皇 | 飛鳥時代 | 第42代天皇を務める。 | 文武天皇 (42代) |
皇族や各地の豪族、先帝の持統上皇、官職の多治比嶋や石川麻呂 | |||||
(43) |
45ヤマト王権 | 慶雲4年707年?7月17日?・8月18日?- 和銅8年715年?9月2日?・10月3日? | 天皇 | 奈良時代 | 第43代天皇を務める。 | 元明天皇 (43代) |
皇族や各地の豪族、官職の石川麻呂や藤原不比等[注釈 60] | 上皇時代721年?12月29日?に崩御されたとされる、先帝の生母であり、崩御後即位、藤原京から平城京に遷都した、また、藤原京の管理者は石川麻呂であったため、右大臣の藤原不比等が管理者となる、晩年は文武天皇の子息が首皇子のみになったため、皇太子とした、しかしまだ齢十五のため、元正天皇を後継とし、譲位した。[注釈 61] | ||||
(44) |
46ヤマト王権 | 霊亀元年?715年?9月2日?・10月3日?- 養老8年724年?2月4日?・3月3日? | 天皇 | 奈良時代 | 第44代天皇を務める。 | 元正天皇 (44代) |
皇族や各地の豪族、官職の石川麻呂や藤原不比等、長屋王[注釈 62] | 上皇時代748年?4月21日?5月22日?に崩御されたとされる、母元明からの譲位を受け、即位、日本書紀が完成し、右大臣には長屋王を任ずる、三世一身法が制定されるも、その後律令制が崩れる、神亀元年には聖武天皇に譲位し、上皇となり、天皇を支える。[注釈 63] | ||||
(45)[注釈 64] |
47ヤマト王権 | 養老4年?720年?9月?日?- 神亀6年729年?2月12日?・3月16日? | 右大臣、左大臣 | 奈良時代 | 右大臣または左大臣を務める。 | 元正天皇 (44代) 聖武天皇 (45代) |
聖武天皇などの皇族や各地の豪族、官職の石川麻呂や藤原武智麻呂、長屋王、藤原四兄弟 | |||||
(45)[注釈 66] |
48左上藤原武智麻呂 右上藤原房前 左下藤原宇合 右下藤原麻呂)[注釈 67] |
|
ヤマト王権 | 天平元年?729年?2月?日?- 天平9年737年?8月5日?・9月3日? | 左大臣、太政大臣、右大臣、参議 | 奈良時代 | 左大臣、太政大臣、右大臣、参議を務めた。[注釈 68] | 聖武天皇 (45代) |
聖武天皇などの皇族や各地の豪族、官職、藤原四兄弟 | |||
(45)、(46)[注釈 69] |
49ヤマト王権 | 天平9年?737年?8月5日?・9月3日- 天平勝宝8歳756年??月?日? | 左大臣 | 奈良時代 | 左大臣を務めた。[注釈 70] | 聖武天皇 (45代) 孝謙天皇(称徳天皇) (46代) |
聖武天皇(上皇)や孝謙天皇などの皇族や各地の豪族、官職、藤原仲麻呂、豊成 | |||||
(46) |
50(称徳天皇と同一人物) |
ヤマト王権 | 天平勝宝元年749年?7月2日?・8月19日?- 天平宝字2年758年?8月1日?・9月7日 | 天皇 | 奈良時代 | 第46代天皇を務める。[注釈 72] | 孝謙天皇 (46代) 称徳天皇 (48代) |
聖武天皇(上皇)などの皇族や各地の豪族、官職、藤原仲麻呂、豊成や橘諸兄、 | ||||
(47) |
51ヤマト王権 | 天平宝字2年758年?8月1日?・9月7日?- 天平宝字8年764年?10月9日?・11月6日? | 天皇 | 奈良時代 | 第47代天皇を務める。 | 淳仁天皇 (47代) |
孝謙上皇などの皇族や各地の豪族、官職、藤原仲麻呂[注釈 74] | |||||
(48) |
52(孝謙天皇と同一人物) |
ヤマト王権 | 天平宝字8年764年?10月9日?・11月6日?- 神護景雲4年770年?8月4日?・8月28日? | 天皇 | 奈良時代 | 第48代天皇を務める。 | 孝謙天皇 (46代) 称徳天皇 (48代) |
主に皇族や各地の貴族、官職、道鏡、吉備真備[注釈 76][1] | ||||
24 | 加藤内閣 | 1924年6月11日- 1926年1月28日 | 597日 | 597日 | [2] | |||||||
- | 加藤内閣 | 1926年1月28日- 1926年1月30日 | (2日) | - | 加藤の死去に伴う臨時兼任(内務大臣) | |||||||
25 | 第1次若槻内閣 | 1926年1月30日- 1927年4月20日 | 446日 | 446日 | [3] | |||||||
26 | 田中内閣 | 1927年4月20日- 1929年7月2日 | 805日 | 805日 |
|
[4] | ||||||
27 | 濱口内閣 | 1929年7月2日- 1931年4月14日 | 652日 | 652日 |
|
[5] | ||||||
28 | 第2次若槻内閣 | 1931年4月14日- 1931年12月13日 | 244日 | 690日 |
|
[3] | ||||||
29 | 犬養内閣 | 1931年12月13日- 1932年5月16日[注 1] | 156日 | 156日 | [6] | |||||||
- | 犬養内閣 | 1932年5月16日- 1932年5月26日 | (10日) | - | 犬養の死去に伴う臨時兼任(大蔵大臣) | |||||||
30 | 齋藤内閣 | 1932年5月26日- 1934年7月8日 | 774日 | 774日 | [7] | |||||||
31 | 岡田内閣 | 1934年7月8日- 1936年3月9日 | 611日 | 611日 | [8] | |||||||
32 | 廣田内閣 | 1936年3月9日- 1937年2月2日 | 331日 | 331日 | [9] | |||||||
33 | 林内閣 | 1937年2月2日- 1937年6月4日 | 123日 | 123日 | [10] | |||||||
34 | 第1次近衞内閣 | 1937年6月4日- 1939年1月5日 | 581日 | 581日 | [11] | |||||||
35 | 平沼内閣 | 1939年1月5日- 1939年8月30日 | 238日 | 238日 |
|
[12] | ||||||
36 | 阿部内閣 | 1939年8月30日- 1940年1月16日 | 140日 | 140日 |
|
[13] | ||||||
37 | 米内内閣 | 1940年1月16日- 1940年7月22日 | 189日 | 189日 |
|
[14] | ||||||
38 | 第2次近衞内閣 | 1940年7月22日- 1941年7月18日 | 362日 | 943日 | [11] | |||||||
39 | 第3次近衞内閣 | 1941年7月18日- 1941年10月18日 | 93日 | 1,035日 | ||||||||
40 | 東條内閣 | 1941年10月18日- 1944年7月22日 | 1,009日 | 1,009日 | ||||||||
41 | 小磯内閣 | 1944年7月22日- 1945年4月7日 | 260日 | 260日 |
|
[16] | ||||||
42 | 鈴木内閣 | 1945年4月7日- 1945年8月17日 | 133日 | 133日 | [17] | |||||||
43 | 東久邇宮内閣 | 1945年8月17日- 1945年10月9日 | 54日 | 54日 |
|
[18] | ||||||
44 | 幣原内閣 | 1945年10月9日- 1946年5月22日 | 226日 | 226日 | [19] | |||||||
45 | 第1次吉田内閣 | 1946年5月22日- 1947年5月24日 | 368日 | 368日 | [20] | |||||||
46 | 片山内閣 | 1947年5月24日- 1948年3月10日 | 292日 | 292日 | [21] | |||||||
47 | 芦田内閣 | 1948年3月10日- 1948年10月15日 | 220日 | 220日 |
|
|||||||
48 | 第2次吉田内閣 | 1948年10月15日- 1949年2月16日 | 125日 | 493日 | [20] | |||||||
49 | 第3次吉田内閣 |
1949年2月16日- 1952年10月30日 | 1,353日 | 1,845日 | ||||||||
50 | 第4次吉田内閣 | 1952年10月30日- 1953年5月21日 | 204日 | 2,048日 |
| |||||||
51 | 第5次吉田内閣 | 1953年5月21日- 1954年12月10日 | 569日 | 2,616日 |
| |||||||
52 | 第1次鳩山内閣 | 1954年12月10日- 1955年3月19日 | 100日 | 100日 | [24] | |||||||
53 | 第2次鳩山内閣 | 1955年3月19日- 1955年11月22日 | 249日 | 348日 | ||||||||
54 | 第3次鳩山内閣 | 1955年11月22日- 1956年12月23日 | 398日 | 745日 |
| |||||||
55 | 石橋内閣 | 1956年12月23日- 1957年2月25日 | 65日 | 65日 |
|
[25] | ||||||
- | 石橋内閣 | 1957年1月31日- 1957年2月25日 | 25日 | 25日 |
|
|||||||
56 | 第1次岸内閣 |
1957年2月25日- 1958年6月12日 | 473日 | 473日 |
|
[26] | ||||||
57 | 第2次岸内閣 |
1958年6月12日- 1960年7月19日 | 769日 | 1,241日 |
| |||||||
58 | 第1次池田内閣 | 1960年7月19日- 1960年12月8日 | 143日 | 143日 |
|
[27] | ||||||
59 | 第2次池田内閣 |
1960年12月8日- 1963年12月9日 | 1,097日 | 1,239日 |
| |||||||
60 | 第3次池田内閣 |
1963年12月9日- 1964年11月9日 | 337日 | 1,575日 |
| |||||||
61 | 第1次佐藤内閣 |
1964年11月9日- 1967年2月17日 | 831日 | 831日 |
|
|||||||
62 | 第2次佐藤内閣 |
1967年2月17日- 1970年1月14日 | 1,063日 | 1,893日 |
| |||||||
63 | 第3次佐藤内閣 |
1970年1月14日- 1972年7月7日 | 906日 | 2,798日 |
| |||||||
64 | 第1次田中内閣 | 1972年7月7日- 1972年12月22日 | 169日 | 169日 |
|
[30] | ||||||
65 | 第2次田中内閣 |
1972年12月22日- 1974年12月9日 | 718日 | 886日 |
| |||||||
66 | 三木内閣 |
1974年12月9日- 1976年12月24日 | 747日 | 747日 |
|
[31] | ||||||
67 | 福田内閣 |
1976年12月24日- 1978年12月7日 | 714日 | 714日 |
|
[32] | ||||||
68 | 第1次大平内閣 | 1978年12月7日- 1979年11月9日 | 338日 | 338日 |
|
[33] | ||||||
69 | 第2次大平内閣 | 1979年11月9日- 1980年6月12日 | 217日 | 554日 |
| |||||||
- | 第2次大平内閣 | 1980年6月12日- 1980年7月17日 | (35日) | - |
|
|||||||
70 | 鈴木内閣 |
1980年7月17日- 1982年11月27日 | 864日 | 864日 |
|
[34] | ||||||
71 | 第1次中曾根内閣 | 1982年11月27日- 1983年12月27日 | 396日 | 396日 |
|
|||||||
72 | 第2次中曾根内閣 |
1983年12月27日- 1986年7月22日 | 939日 | 1,334日 | ||||||||
73 | 第3次中曾根内閣 | 1986年7月22日- 1987年11月6日 | 473日 | 1,806日 |
| |||||||
74 | 竹下内閣 |
1987年11月6日- 1989年6月3日 | 576日 | 576日 |
|
[37] | ||||||
75 | 宇野内閣 | 1989年6月3日- 1989年8月10日 | 69日 | 69日 |
|
[38] | ||||||
76 | 第1次海部内閣 | 1989年8月10日- 1990年2月28日 | 203日 | 203日 |
|
[39] | ||||||
77 | 第2次海部内閣 |
1990年2月28日- 1991年11月5日 | 616日 | 818日 |
| |||||||
78 | 宮澤内閣 |
1991年11月5日- 1993年8月9日 | 644日 | 644日 |
|
|||||||
79 | 細川内閣 | 1993年8月9日- 1994年4月28日 | 263日 | 263日 |
|
[42] | ||||||
80 | 羽田内閣 | 1994年4月28日- 1994年6月30日 | 64日 | 64日 | [43] | |||||||
81 | 村山内閣 |
1994年6月30日- 1996年1月11日 | 561日 | 561日 | [44] | |||||||
82 | 第1次橋本内閣 | 1996年1月11日- 1996年11月7日 | 302日 | 302日 | [45] | |||||||
83 | 第2次橋本内閣 |
1996年11月7日- 1998年7月30日 | 631日 | 932日 | ||||||||
84 | 小渕内閣 |
1998年7月30日- 2000年4月5日 | 616日 | 616日 | [46] | |||||||
- | 小渕第2次改造内閣 | 2000年4月3日- 2000年4月5日 | (3日) | - | [46] | |||||||
85 | 第1次森内閣 | 2000年4月5日- 2000年7月4日 | 91日 | 91日 | [47] | |||||||
86 | 第2次森内閣 |
2000年7月4日- 2001年4月26日 | 297日 | 387日 |
| |||||||
87 | 第1次小泉内閣 |
2001年4月26日- 2003年11月19日 | 938日 | 938日 | ||||||||
88 | 第2次小泉内閣 |
2003年11月19日- 2005年9月21日 | 673日 | 1,610日 | ||||||||
89 | 第3次小泉内閣 |
2005年9月21日- 2006年9月26日 | 371日 | 1,980日 |
| |||||||
90 | 第1次安倍内閣 |
2006年9月26日- 2007年9月26日 | 366日 | 366日 | [50] | |||||||
91 | 福田内閣 |
2007年9月26日- 2008年9月24日 | 365日 | 365日 |
|
[51] | ||||||
92 | 麻生内閣 | 2008年9月24日- 2009年9月16日 | 358日 | 358日 | [52] | |||||||
93 | 鳩山内閣 | 2009年9月16日- 2010年6月8日 | 266日 | 266日 | [53] | |||||||
94 | 菅内閣 |
2010年6月8日- 2011年9月2日 | 452日 | 452日 |
|
|||||||
95 | 野田内閣 |
2011年9月2日- 2012年12月26日 | 482日 | 482日 | ||||||||
96 | 第2次安倍内閣 |
2012年12月26日- 2014年12月24日 | 729日 | 1,095日 | ||||||||
97 | 第3次安倍内閣 |
2014年12月24日- 2017年11月1日 | 1,044日 | 2,138日 | ||||||||
98 | 第4次安倍内閣 |
2017年11月1日 - 2020年9月16日 |
1,051日 | 3,188日 |
| |||||||
99 | 菅内閣 | 2020年9月16日- 2021年10月4日 | 384日 | 384日 |
|
|||||||
100 | 第1次岸田内閣 | 2021年10月4日- 2021年11月10日 | 38日 | 38日 | ||||||||
101 | 第2次岸田内閣 |
2021年11月10日- (現職) | 1138日 | 1174日 |
|
- 代は、日本の政権の最高権力者の代数を表す。(左その役職の代数 右歴代の国家権力者の代数)
- 在任期間は、在職期間を表す。ただし、在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数を挙げ、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を記載し
- また、内閣総理大臣臨時代理や地方政権の長とされるものは下のページにて記載をしている。
神話内の事実上の政権
[編集]神話上では日向三代などが神武天皇以前に政治に近いものを行なっていたとされ、日向国(九州南部)ほどで栄えていたとされる、しかし政治内容や行ったことの資料が欠史八代と同じほどに不明なため「日本の政権最高権力者#氏名の一覧」に載せていない、時代的には天孫降臨と神武東征の間とされる。日本国建国の時代は神武天皇即位紀元元年1月1日であるためその前となるこの政権は日本国の政権ではなく神武天皇が称した豊葦原瑞穂国の政権と仮定する。[注釈 78]また、日本国を建国したとされる神武天皇は日向三代の鸕鶿草葺不合尊の息子であり、その先代の火折尊の孫、瓊瓊杵尊の曾孫となる。また瓊瓊杵尊に至っては天照大神の孫に当たる。
表に載っている人物は全て日向三代と称される3人である。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
神話上の時代[編集] | ||||||||||
(未確) |
1日本神話の天神 | ???- ??? | 地神五代、日向三代 | 神話内の時代 | 初代の日向三代、第3代の地神五代を務める。 | |||||
(未確) |
2日本神話の天神 | ???- ??? | 地神五代、日向三代 | 神話内の時代 | 第2代の日向三代、第4代の地神五代を務める。 | |||||
(未確) |
3日本神話の天神 | ???- ??? | 地神五代、日向三代 | 神話内の時代 | 第3代の日向三代、第5代の地神五代を務める。 |
その他にも神武東征にて登場した邇芸速日命も一定の権力を持っていたとされる。邇芸速日命は天忍穂耳尊の息子とされ、日向三代の初代瓊瓊杵尊よりも早く天孫降臨したとされ、また古事記では大和地方の豪族である長髄彦が奉じた神とされ、日本書紀では神武天皇より早く大和国(現在の奈良県)についたとされ、神武東征では幾内での勢力もしくは土雲などとされており、日本書紀の記述や後世では、邇芸速日命が持っていた大きな勢力は虚空見日本国と称される。[注釈 79]また、その後饒速日命の勢力は神武天皇の率いるヤマト王権(日向の勢力)に準じたとされる。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
神話上の時代 (虚空見日本国)[編集] | ||||||||||
(未確) |
1日本神話の天神 | ???- ??? | 幾内の勢力もとい虚空日本国の筆頭とされる | 神話内の時代 | 幾内の勢力もしくは虚空日本国を率いた。 | 長髄彦 |
かつて存在していたと思われる国
[編集]奴国
[編集]倭国が後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。議論があるものの倭国王帥升が朝貢したとする説があり、その後奴国に代わって邪馬台国が魏の皇帝に使者を派遣した。 『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬を与えられたという。江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明された。
邪馬台国
[編集]中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとされている。倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
伝承の時代[編集] | ||||||||||
(未確) |
1邪馬台国の王 | ???- ??? | 邪馬台国 | 弥生時代? | 幾内の勢力もしくは九州の勢力? | 不明 | ||||
(未確) |
2卑弥呼 |
邪馬台国の王 | ???- ??? | 邪馬台国 | 弥生時代? | 幾内の勢力もしくは九州の勢力? | 不明 | |||
(未確) |
3邪馬台国の王 | ???- ??? | 邪馬台国 | 弥生時代? | 幾内の勢力もしくは九州の勢力? | 不明 | ||||
(未確) |
4邪馬台国の王 | ???- ??? | 邪馬台国 | 弥生時代? | 幾内の勢力もしくは九州の勢力? | 不明 |
蝦夷共和国
[編集]江戸幕府の江戸城が無血開城をしたことにより、会津戦争で敗走した者も含め、蝦夷(北海道)の地にて箱館などを占領し、蝦夷共和国仮政府を樹立、総裁は榎本武揚である、また、蝦夷共和国を狙った明治新政府軍に開城を許し、仮政府は消滅した。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
蝦夷共和国 | 1867- 1867 | 総裁 | 明治時代 | 蝦夷地域の仮政府 | 蝦夷新政府軍、武蔵藩の残党、 |
沖縄王統 (天孫氏)
[編集]天孫氏は琉球最初の王統とされるが、王の起源を説くための神話時代における王統で、伝承上でも実在しない、天孫氏の琉球統治はおよそ1万7802年、25代にわたって続いたという、平均すると、1代あたり約712年間を統治したことになる、次の王統舜天王統ができたのが1187年であるため、天孫氏の王統が滅亡したのは1186年ではないかとされる、天孫氏は王位を継承して政治を行っていたが、その後、徳が衰え、政(まつりごと)が廃止され、按司の多くは背いてしまったとある、天孫氏25代の時、臣下の利勇によって殺害され、王位を奪われたという、これにより、国は大きく乱れたが、利勇は後の舜天となる尊敦に討たれ、舜天は新しい王統を建てたという。
沖縄王統 (舜天氏)
[編集]舜天は舜天王統の開祖とされており、源為朝の子息であるとされる、しかし、確証がないため、伝説上の人物とされている、天孫氏を滅ぼした利勇を討ち、22歳で琉球国王となる、以降舜天王統は3代まで続くこととなる。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
舜天王統 | 1187- 1237 | 琉球国王 | 鎌倉時代? | 舜天王統の初代国王を務める。 | 舜天王統の官職ら? | |||||
舜天王統 | 1238- 1248 | 琉球国王 | 鎌倉時代? | 舜天王統の2代国王を務める。 | 舜天王統の官職ら? | |||||
舜天王統 | 1249- 1259 | 琉球国王 | 鎌倉時代? | 舜天王統の3代国王を務める。 | 舜天王統の官職ら? | 舜天王統最後の国王であるとされる、即位翌年、国内の飢餓が進み、その翌年は疫病が流行したとされる、その後摂政を務めていた英祖に王位を禅譲する。[注釈 81] |
沖縄王統 (英祖氏)
[編集]沖縄の王統であり、支配領域はかなり広かったとされる、英祖王統は5代続いたが4代目の玉城王から王統に衰退が見られ、それに不満を持った者がそれぞれ国を作り、それが後の三山時代へとつながる。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
英祖王統 | 1260- 1299 | 琉球国王 | 鎌倉時代? | 英祖王統の初代国王を務める。 | 英祖王統の官職ら? | |||||
英祖王統 | 1300- 1308 | 琉球国王 | 鎌倉時代? | 英祖王統の2代国王を務める。 | 英祖王統の官職ら? |
| ||||
英祖王統 | 1309- 1313 | 琉球国王 | 鎌倉時代? | 英祖王統の3代国王を務める。 | 英祖王統の官職ら? |
| ||||
英祖王統 | 1313?1314- 1336 | 琉球国王 | 鎌倉時代?南北朝時代? | 英祖王統の4代国王を務める。 | 英祖王統の官職ら? | 英祖王統の4代目であり、約22?23?年間国王として君臨し、1336年に没する。[注釈 82] | ||||
英祖王統 | 1336?1337- 1349 | 琉球国王 | 南北朝時代? | 英祖王統の5代国王を務める。 | 英祖王統の官職ら? |
|
沖縄王統 (北山)
[編集]今帰仁村を中心として主に現代の沖縄県北部の国頭地方に存在していた王国である、怕尼芝王統とも呼ばれ、3代にわたって国を運営した、明国への朝貢もしており、国力を見せつけたが、1416年に後の尚氏によって滅ぼされる。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
怕尼芝王統 | 1322- 1395 | 琉球国王 | 鎌倉時代?南北朝時代?室町時代 | 怕尼芝王統の初代国王を務める。 | 怕尼芝王統の官職ら? | |||||
怕尼芝王統 | 1393- 1395?1400? | 琉球国王 | 室町時代? | 怕尼芝王統の2代国王を務める。 | 怕尼芝王統の官職ら? | |||||
攀安知 |
怕尼芝王統 | 1401- 1416 | 琉球国王 | 室町時代? | 怕尼芝王統の3代国王を務める。 | 怕尼芝王統の官職ら? | 北山王国の3代国王であり、明史に朝貢を累計14回ほどした記録が残っている、臣下を軽んじる無能な王とされており、今帰仁城で自害されたとされる。[注釈 83] |
沖縄王統 (察度王統)
[編集]もともとは英祖王統が存在していたが、察度などが王統を滅ぼし、新たに察度王統を築き上げる、しかし、武寧が尚氏に討たれ、中山王国(察度王統)は滅んだ、首都は首里に移し、そのまま第一尚氏王統が完成することとなる、また、尚氏の王統はのちに三国を統一することとなる。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
察度王統 | 1350- 1395 | 琉球国王 | 南北朝時代?室町時代 | 察度王統の初代国王を務める。 | 察度王統の官職ら? | |||||
察度王統 | 1396- 1405 | 琉球国王 | 室町時代? | 察度王統の2代国王を務める。 | 察度王統の官職ら? |
沖縄王統 (南山)
[編集]三山時代の一角を担った南山王国、約5代続き、滅亡後に尚氏により琉球統一が完了する。また大里王統が代々国王を担った。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
大里王統 | 1337- 1398 | 琉球国王 | 室町時代? | 大里王統の初代国王を務める。 | 大里王統の官職ら? | |||||
大里王統 | 1398- 1402 | 琉球国王 | 室町時代? | 大里王統の2代国王を務める。 | 大里王統の官職ら? | |||||
大里王統 | 1402- 1413 | 琉球国王 | 室町時代? | 大里王統の3代国王を務める。 | 大里王統の官職ら? | |||||
大里王統 | 1413- 1414 | 琉球国王 | 室町時代? | 大里王統の4代国王を務める。 | 大里王統の官職ら? | |||||
大里王統 | 1415- 1429 | 琉球国王 | 室町時代? | 大里王統の5代国王を務める。 | 大里王統の官職ら? |
藤原四兄弟 (単体補足)
[編集]四兄弟は元正天皇・聖武天皇の時代にわたり長屋王と政権の座を争ったが、長屋王の変で長屋王を追い落とした後、すでに公卿となっていた武智麻呂(大納言)・房前(参議)に加え、官人の推挙により宇合・麻呂も参議となり、9人の公卿のうち4人を占め、729年から737年までの間朝廷の政治を担った。これを藤原四子政権と呼ぶ。 四子政権時代には律令財政が確立され、天平6年(734年)に官稲混合による正税が成立し、天平8年(736年)には公田地子の京進が開始された。また、京や畿内に惣管・平城京以西の道ごとには鎮撫使、のちに節度使を設置し治安維持を強化した。対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。 四兄弟は737年の天然痘の流行(天平の疫病大流行)により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。
代 | 役職 | 所属 | 情報 | 政治体制 | 側近もしくは有力者 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
在任期間 | 役職 | 時代 | ||||||||
藤原武智麻呂 |
ヤマト王権 | ???- ??? | 左大臣 | 奈良時代 | 皇族との強力な外戚関係 | 主君の聖武天皇、他兄弟 | ||||
ヤマト王権 | ???- ??? | 太政大臣 | 奈良時代 | 皇族との強力な外戚関係 | 主君の聖武天皇、他兄弟 | |||||
ヤマト王権 | ???- ??? | 右大臣 | 奈良時代 | 皇族との強力な外戚関係 | 主君の聖武天皇、他兄弟 | |||||
ヤマト王権 | ???- ??? | 右大臣・参議 | 奈良時代 | 皇族との強力な外戚関係 | 主君の聖武天皇、他兄弟 |
政権の間埋め・事実上の指導者ではないかとされたもの内閣総理大臣臨時代理・存在した国卑弥呼
[編集]象徴 | 有力人物 | 政権情報 (政権名、政権預かりグループ) | (その時代の天皇) | その時代の政治 | その他有力人物、氏族 | 治世に起きた事件、戦争 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
(内閣総理大臣 岸田文雄) |
(公明党代表・連立 山口那津男) |
(自民党副総裁 麻生太郎) |
2021年- 岸田自公連立政権 (自由民主党・公明党・両党首岸田文雄・山口那津男) |
徳仁天皇 | キッシー | 増税メガネ | 検討を加速します |
関連項目
[編集]- 天皇
- 内閣総理大臣
- 中央集権
- 政権交代
- 倭国
- 邪馬台国
- 鎌倉幕府
- 足利幕府
- 河内王朝
- 原史時代
- 蝦夷
- 王朝
- 君臣共治
- 幕府
- 武家の棟梁
- 征夷大将軍
- 朝敵
- 源平交代思想
- 下剋上
- 関白相論
- 王政復古
- 東條幕府
- 政権 / 親政 / 摂政 / 院政 / 軍事政権
- 日本の政権一覧
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 天皇を中心とした大和朝廷がいつの時期に全国を統一したか曖昧なため、実在の根拠が揃っているいわば最古の天皇と記されている継体天皇を初期ヤマト政権最高権力者と位置付けている。
- ^ 日本の正式政権は天皇から実質的に認められた幕府または内閣の首長もしくは天皇陛下自身や天皇陛下の側近(事実上の政権運営者も類に含まれる。
- ^ 南朝天皇政権、治天の君を含む。
- ^ 細川政権と称すると細川護熙連立内閣と混同する場合があるので武家の名称を付け足した。
- ^ 戦後政党の勢いは自民党もしくは他の政党といういわば自民一強の時代となり、また戦後に自民党が野党の地位に下野したのは約2回であるため自民党以外の場合は変化をわかりやすくするため色を変更している。
- ^ 天皇崩御後の執政者を除く
- ^ 政権が交代して最初の政権最高権力者の時に記載される。
- ^ 政権あるいはその人物が存在したかどうかの有無が判明していない時にのみつけている。
- ^ 人物自身が事実上政権を運営していた、また政権で多大な影響力を持っていた人物。
- ^ 継体天皇以前は明確な資料があまりないため、継体天皇から実在した天皇とする。 (ノートに変更報告記載後変更可能。)
- ^ 出雲醜大臣命は物部氏の祖にあたる、またこの時代から始まった大臣の職の大半の人物は物部連や大伴氏の人物が代々就任した。
- ^ この時代の大臣は3人存在していたとされる、(出石心命、瀛津世襲命、建諸隈命)それらはのちの物部連の祖である。また、建諸隈命は大連も経験している。
- ^ この時代の大臣職には主に大綜杵命と子の伊香色雄2人が任じられたとされる、またこの2人共現在に伝わる物部氏の祖だとされている。
- ^ 崇神天皇は実在の可能性が多くある最古の天皇であるが存在が確定されたわけではないので、存在がほとんど確定されている継体天皇から実在したとみなす (ノートで議論から変更可能)
- ^ また崇神天皇は実在の可能性がある最古の天皇である。
- ^ この頃にすでに大連の職があったとされるが、(物部十千根など)大きな権力を持っていたが、権力は大王にあるので事実上の指導者としての位置付けはしていない。(ノート議論後変更可)
- ^ また物部十千根の時期に物部の名を名乗ったとされる。
- ^ この頃に確認されている最古の大臣の武内宿禰が台頭してきたが、まだ大臣はまだ後世の蘇我氏や藤原氏のような支配力を持ってるとはしていないためまた、存在したかどうかも不明のため事実上の指導者には位置付けていない。(ノート議論後変更可)
- ^ またその献じる予定だった白鳥を蘆髪蒲見別王に奪われたため誅殺した。
- ^ 上側の数字が今までの事実上の指導者の数、下側かっこがその人物の職の代数、また色が違うのは天皇が運営した政権というよりはその他に当てはまるため。
- ^ 大正時代に差し掛かる前までは神功皇后は神功天皇として天皇の代に入っていた。
- ^ また、もともとは歴代天皇の代に入っており、応神天皇は息子にあたる。
- ^ 応神天皇は実在の可能性が多くある天皇の一人であるが存在が確定されたわけではないので、存在がほとんど確定されている継体天皇から実在したとみなす (ノートで議論から変更可能)
- ^ また、摂政を務めた神功皇后は実の母である。
- ^ またこの時代に武内宿禰は没したとされる。
- ^ 円大臣や物部伊莒弗などの有力人物もこの時代に台頭した。
- ^ またこの頃に大伴氏の大伴室屋が大連の職を任されたという。この頃から息子の大伴金村の時代まで大伴氏は政権の中枢にいたという。
- ^ また、飯豊天皇とする可能性や清寧天皇や顕宗天皇などの摂政だったのではないかという説も存在する。
- ^ また、この頃に大伴金村が大連の職につき、大伴氏が全盛期を迎えた。
- ^ また、大伴金村が武烈天皇を即位させたとされている。
- ^ 崇神天皇や応神天皇から既に実在していた可能性があるが、明確に考古学的証拠が残っており、継体天皇の血統はなお今の皇室まで繋がっているとされる。(ノート記載後変更可能)
- ^ また、大伴金村、物部麁鹿火などの有力な豪族が即位させたとされている。
- ^ 『続日本紀』での巨勢男人の末裔の上表によれば安閑天皇期も大臣であったとされるが、『日本書紀』では継体天皇の時代に亡くなったとされている)。
- ^ また、当時辛亥の変が起きていたともされており、王朝が2つに分裂していたのではないかという説が存在する。
- ^ また、当時辛亥の変が起きていたともされており、王朝が2つに分裂していたのではないかという説が存在する、また、この頃に蘇我稲目が大臣の職についた、また、蘇我稲目はのちの息子である馬子が政治の実権を握るきっかけの一つとなった。
- ^ 大伴金村は欽明元年には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していき、政権を掌握したのは物部氏と蘇我氏となった。
- ^ 大臣にはのちに大きな権力を握る蘇我馬子、大連には同じ物部氏の物部守屋が就任した、またこの二人は後に用明天皇期に権力争いが加速し、丁未の乱が起こり、これにより飛鳥時代は蘇我氏の一強時代となる。
- ^ また用明天皇は蘇我稲目の孫にあたる。
- ^ また蘇我馬子により代々物部氏が代々多くの時期継いでいた大連の職は廃止された。
- ^ また大連であった物部守屋は穴穂部皇子を即位させようとするが、確執により、蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害する、その後物部守屋などを中心とした物部氏が虐殺され、それ以降宮廷の権力は蘇我馬子の蘇我氏に移る。
- ^ 女性の天皇は推古天皇が最初の例である、
- ^ 厩戸皇子と蘇我馬子はこの推古期に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』などのものがが編纂して成立したとされる。
- ^ また皇極天皇の退位時期は重祚したため、崩御時の年数ではない。
- ^ 重祚をした天皇は今までで二人しか存在しないが皇極天皇または斉明は天皇で重祚した初めての皇帝であり、初めての重祚した女性天皇である。
- ^ 乙巳の変・大化の改新が起こり、蘇我氏の本家は絶滅した、宗家は残ったが、蘇我氏の勢力は急速に落ち、中大兄皇子、中臣鎌足による、新政権が発足した、そのことにより、新体制は孝徳天皇を立て、さらに皇族や天皇の力が強まり、さらに晩年蘇我氏が代々継いだ大臣の職は廃止され、左大臣と右大臣の職ができた、これにより蘇我氏一強の時代は終わりを迎えた。
- ^ これが日本史上初の天皇による譲位とされる。(または退位)
- ^ 蘇我氏一強が消えてからの初の政権であり、主に蘇我入鹿討伐の中大兄皇子が実権を握っていた。
- ^ 他在任中の左大臣と右大臣、巨勢徳多と大伴長徳、内大臣には藤原鎌足が就任
- ^ 諸説あり、
- ^ 重祚をした天皇は今までで二人しか存在しないが斉明天皇または皇極は天皇で重祚した初めての皇帝であり、初めての重祚した女性天皇である。
- ^ のちに藤原氏の名に変える。
- ^ 孝徳天皇と違い、この時代に誕生した左大臣と右大臣はいない
- ^ これが日本史上初の天皇による重祚とされる。
- ^ 崩御後には大友皇子(弘文天皇?)と大海人皇子が皇位継承をかけて戦う壬申の乱が起こる、それにより大海人皇子が勝利し、天武天皇を名乗り即位することとなる、
- ^ また、即位したかどうかは定かではないとされ、そのことにより弘文天皇ではなく大友皇子として扱われることが多い。
- ^ 蘇我氏の色にしている理由は、斉明天皇期から力が強い蘇我赤兄が健在なこと、また右大臣より左大臣の方が格が高いから。
- ^ この時期に天武が天皇の名を名乗ったとされる。
- ^ この時期に天武もしくは持統が天皇の名を名乗ったとされる。
- ^ 唐への外交はほとんど行わなかった、天武天皇の皇后であり、天武が病気がちになった時は変わりに草壁皇子と政務を担っていた、また上皇時代には文武天皇以上の権力を持ち、政務を行なった、大宝元年には翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった、大宝2年に病を発し、崩御する。
- ^ 日本書紀や大宝律令を築いたきっかけとなった人物であり、さらに今後藤原氏は天皇家との外戚関係を強くし、天皇を抑えるほどの力を持つ。
- ^ 元明天皇は元正天皇に皇位を譲った、この女性が女性に皇位を譲るのは過去現代合わせてこの一度しかない、元明天皇は上皇となり、藤原不比等が亡くなった後、右大臣に長屋王を擁立するなど、上皇としての力を見せた、病気により宝算61歳で崩御した。
- ^ 藤原不比等没後右大臣に任じられる。
- ^ 晩年期は病気がちの聖武天皇に変わり橘諸兄、藤原仲麻呂などと共に政務を成したとされる。
- ^ 45代目の聖武天皇期
- ^ 聖武天皇即位後さらに力を強め、左大臣となる、しかし藤原四兄弟との確執があり、長屋王の変が起きる、長屋王邸を包囲するための二十人の軍の要請を聖武天皇が藤原四兄弟に許可していた、舎人親王などの糾問の末自決を決意した、長屋王は首を括り自殺、天皇以外の官職には、厳しく冷淡な接し方をしていた、それを聖武天皇は危惧してなのか、軍出陣の許可をおろした、権力を握っていた長屋王がなくなったため、藤原四兄弟は光明子を皇后にして、藤原四子政権を築くことになる。
- ^ 45代目の聖武天皇期
- ^ 藤原四兄弟は一つにまとめてるが、一人ずつに分けてもいい(ノート議論後可能)
- ^ 長屋王の変以降藤原四兄弟が大臣職の多くに就任し、天皇以上の実権を握った。
- ^ 45代目の聖武天皇期、または孝謙天皇期、
- ^ 政権の首班に立ったことにより、聖武天皇(もとい聖武上皇)や孝謙天皇以上の政治権力を得た。
- ^ 酒席に聖武上皇に対して不敬な発言をし、それが謀反ではないかとも考えられたため、756年に辞職をする、またこの後孝謙天皇の治世が生まれるが、事実上の権力は藤原仲麻呂が持っていた。
- ^ 重祚をした天皇は今までで二人しか存在しないが孝謙天皇または称徳は天皇で重祚した2度目の皇帝であり、2度目の重祚した女性天皇である。
- ^ また孝謙天皇の治世は事実上藤原仲麻呂政権と称されることもある、
- ^ 大臣職のほとんどは藤原氏、もしくは藤原仲麻呂が掌握していたため、淳仁天皇の治世は藤原仲麻呂政権とも例えられる。
- ^ その後政権は藤原仲麻呂が中心の政権から称徳天皇と側近の道鏡中心の政権となる。
- ^ 他には藤原永手や吉備真備などの孝謙の下で有力な人物が大臣職に指名される、また称徳天皇(孝謙)では道鏡中心の政権が完成しており、自身は太政大臣などの政権最高職についた。
- ^ 大隅国への左遷などの称徳天皇との信頼関係の崩壊、これにより道鏡は権力を失い、崩御後は軍事指揮権も吉備真備などに奪われることとなる。
- ^ 日本書紀において、神武天皇が今居る場所(日向)を豐葦原瑞穗國と呼び、これから向かう場所(畿内)を遠国として区別している。畿内に入ってからはそこを秋津洲と名付けた。
- ^ 『日本書紀』によると饒速日命が降臨して統治した際、その地(後の大和) を「虚空見日本国」と名付けたという。
- ^ また卑弥呼はト術を行うシャーマンであり、 魏の皇帝に親魏倭王の称号を与えられたとされる、
- ^ 義本は数人の群臣に誰がこの国を治めるのがいいかを問い、みな英祖を推薦した、その後治世は良くなり、その後王位を英祖に禅譲する。
- ^ また国政を顧みず、行っていたため、これに反発したものが国を築く、そのせいもあり、英祖王統が弱体化し、次代の西威王の時期に国が崩壊したとされる。
- ^ もともと攀安知が持っていた千代金丸は没後中山氏に渡ることとなる。
出典
[編集]- ^ またこの時代の政権は藤原永手のページには道鏡政権と記載されている。
- ^ コトバンク 「加藤高明内閣」
- ^ a b コトバンク 「若槻礼次郎内閣」
- ^ コトバンク 「田中義一内閣」
- ^ コトバンク 「浜口雄幸内閣」
- ^ コトバンク 「犬養毅内閣」
- ^ コトバンク 「斎藤実内閣」
- ^ コトバンク 「岡田啓介内閣」
- ^ コトバンク 「広田弘毅内閣」
- ^ コトバンク 「林銑十郎内閣」
- ^ a b コトバンク 「近衛文麿内閣」
- ^ コトバンク 「平沼騏一郎内閣」
- ^ a b コトバンク 「阿部信行内閣」
- ^ コトバンク 「米内光政内閣」
- ^ コトバンク 「東条英機内閣」
- ^ コトバンク 「小磯国昭内閣」
- ^ コトバンク 「鈴木貫太郎内閣」
- ^ コトバンク 「東久邇稔彦内閣」
- ^ 三訂版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,旺文社日本史事典. “幣原喜重郎内閣とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ a b コトバンク 「吉田茂内閣」
- ^ 三訂版,百科事典マイペディア,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社日本史事典. “片山哲内閣とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “芦田均とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,世界大百科事典内言及. “芦田均内閣とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ コトバンク 「鳩山一郎内閣」
- ^ コトバンク 「石橋湛山内閣」
- ^ コトバンク 「岸信介内閣」
- ^ コトバンク 「池田勇人内閣」
- ^ コトバンク 「佐藤栄作内閣」
- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “佐藤栄作とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ コトバンク 「田中角栄内閣」
- ^ コトバンク 三木武夫内閣
- ^ コトバンク 「福田赳夫内閣」
- ^ コトバンク 「大平正芳内閣」
- ^ コトバンク 「鈴木善幸内閣」
- ^ コトバンク 「中曽根康弘内閣」
- ^ 日本人名大辞典+Plus, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,デジタル版. “中曽根康弘とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ コトバンク 「竹下登内閣」
- ^ コトバンク 「宇野宗佑内閣」
- ^ コトバンク 「海部俊樹内閣」
- ^ コトバンク 「宮沢喜一内閣」
- ^ コトバンク「河野談話」
- ^ コトバンク 「細川護熙内閣」
- ^ コトバンク 「羽田孜内閣」
- ^ コトバンク 「村山富市内閣」
- ^ コトバンク 「橋本龍太郎内閣」
- ^ a b コトバンク 「小渕恵三内閣」
- ^ コトバンク 「森喜朗内閣」
- ^ コトバンク 「小泉純一郎内閣」
- ^ a b コトバンク「安倍談話」
- ^ a b コトバンク 「安倍晋三内閣」
- ^ コトバンク 「福田康夫内閣」
- ^ コトバンク 「麻生太郎内閣」
- ^ コトバンク 「鳩山由紀夫内閣」
- ^ a b コトバンク 「菅直人内閣」
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア. “菅直人内閣とは”. コトバンク. 2022年2月24日閲覧。
- ^ コトバンク 「野田佳彦内閣」
- ^ コトバンク「伊勢志摩サミット」
- ^ 日本放送協会. “政治学者が見た菅内閣の“功罪””. NHK政治マガジン. 2022年2月3日閲覧。
- ^ “菅政権、携帯料金引き下げ実現 大手も月2000円台プラン:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2022年2月3日閲覧。
- ^ “22年度予算案、社保・国債費が6割 成長支出の余地狭く”. 日本経済新聞 (2021年12月25日). 2022年2月3日閲覧。
- ^ “改正国民投票法が成立 改憲手続き整備、論議環境整う”. 日本経済新聞 (2021年6月11日). 2022年2月3日閲覧。
- ^ 「菅首相、自民党総裁選に不出馬 月末に退任へ」『BBCニュース』。2022年2月3日閲覧。
外部リンク
[編集]
第2次岸田第2次改造内閣 | |
---|---|
国務大臣任命式・臨時閣議後の記念撮影 (2023年9月13日) | |
内閣総理大臣 | 第101代 岸田文雄 |
成立年月日 | 2023年(令和5年)9月13日 |
与党・支持基盤 |
自由民主党・公明党 (自公連立政権) |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
第2次岸田第2次改造内閣(だいにじ きしだ だいにじ かいぞうないかく)は、衆議院議員・自由民主党総裁の岸田文雄が第101代内閣総理大臣に任命され、2023年(令和5年)9月13日に成立した日本の内閣。自由民主党と公明党を与党とする連立内閣(自公連立政権)である。
概説
[編集]岸田は2023年9月8日、13日に内閣改造を行う方針を複数の与党幹部に伝えた[1]。
同年に開催された「第18回20か国・地域首脳会合(G20首脳会議)」(インド・ニューデリー)に出席した際、9月10日に現地にて内外記者会見を行った岸田から「13日に内閣改造・党役員人事を実施する」方針が表明された[2]。
13日に改造内閣発足に際して内閣総理大臣官邸で行われた記者会見にて、岸田はこの内閣を「変化を力にする内閣」であると語った[3][4]。
西村康稔経済産業大臣が兼務していた「ロシア経済分野協力担当」については、ロシア・ウクライナ戦争を受けて日本はロシアに経済制裁を課していることから、経済制裁を担当する経産相が同ポストを兼務するのは矛盾するとして、改造前より与野党双方から廃止論が浮上していたが、引き続き留任した西村が兼務することとなった[5]。
松野博一内閣官房長官が兼務していた「ワクチン接種推進担当」については、「担当を解く」と発令され[6]、後任が発令されなかったため、廃止された。
女性が過去最多の5人閣僚に起用された。一方で副大臣、大臣政務官は制度発足以後初めて女性の起用はなかった(発足時点。その後、文部科学大臣政務官兼復興大臣政務官を辞任した山田太郎の後任として本田顕子を起用)。戦後生まれのみで組閣された初の内閣となった。
発足から3か月後の2023年12月に後述の自民党内の派閥における資金還流問題が表面化し、同月14日に特に影響が大きい清和政策研究会(安倍派)所属の国務大臣4人、副大臣5人、政務官1人などが一斉に交代(事実上の更迭)するなど、多大な影響を受けている。
内閣の顔ぶれ・人事
[編集]所属政党・出身:
偉人党(徳川派) 偉人党(豊臣派) 偉人党 (織田派) 偉人党(土方派) 偉人党(菅原派)
偉人党(義満派) 偉人党(皇族G) 偉人党(西郷派) 偉人党(無派閥) 偉人党 (改革派 偉人党 (藤原G)
国務大臣
[編集]2023年(令和5年)9月13日任命。
職名 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 徳川家康 | 衆議院 偉人党 (徳川派)[注釈 1][7] |
征夷大将軍 留任 | ||
総務大臣 | 北条政子 | 衆議院 偉人党 (藤原G) |
初入閣 2023年12月14日 | ||
法務大臣 | 小泉龍司 | 衆議院 自由民主党 (二階派→ 無派閥[8]) |
初入閣 | ||
外務大臣 | 上川陽子 | 衆議院 自由民主党 (岸田派→無派閥) |
再入閣 | ||
財務大臣 内閣府特命担当大臣 (金融) |
鈴木俊一 | 衆議院 自由民主党 (麻生派) |
デフレ脱却担当 内閣総理大臣臨時代理 就任順位第3順位 |
留任 | |
文部科学大臣 | 盛山正仁 | 衆議院 自由民主党 (岸田派→無派閥) |
国立国会図書館 連絡調整委員会委員 |
初入閣 | |
厚生労働大臣 | 武見敬三 | 参議院 自由民主党 (麻生派) |
初入閣 | ||
農林水産大臣 | 宮下一郎 | 衆議院 自由民主党 (安倍派) |
初入閣 2023年12月14日免 | ||
坂本哲志 | 衆議院 自由民主党 (森山派→無派閥) |
再入閣 2023年12月14日任 | |||
経済産業大臣 内閣府特命担当大臣 (原子力損害賠償・ 廃炉等支援機構) |
西村康稔 | 衆議院 自由民主党 (安倍派) |
原子力経済被害担当 GX実行推進担当 産業競争力担当 ロシア経済分野協力担当 |
留任 2023年12月14日免 | |
齋藤健 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
原子力経済被害担当 GX実行推進担当 産業競争力担当 ロシア経済分野協力担当 |
再入閣 2023年12月14日任 | ||
国土交通大臣 | 斉藤鉄夫 | 衆議院 公明党 |
水循環政策担当 国際園芸博覧会担当 |
公明党副代表 留任 | |
環境大臣 内閣府特命担当大臣 (原子力防災) |
伊藤信太郎 | 衆議院 自由民主党 (麻生派) |
初入閣 | ||
防衛大臣 | 木原稔 | 衆議院 自由民主党 (茂木派) |
初入閣 | ||
内閣官房長官 | 松野博一 | 衆議院 自由民主党 (安倍派) |
沖縄基地負担軽減担当 拉致問題担当 |
留任 2023年12月14日免 | |
林芳正 | 衆議院 自由民主党 (岸田派→無派閥) |
沖縄基地負担軽減担当 拉致問題担当 内閣総理大臣臨時代理 就任順位第1順位 |
再入閣 2023年12月14日任 | ||
デジタル大臣 内閣府特命担当大臣 (規制改革) |
河野太郎 | 衆議院 自由民主党 (麻生派) |
デジタル行財政改革担当 デジタル田園都市国家構想担当 行政改革担当 国家公務員制度担当 内閣総理大臣臨時代理 就任順位第4順位 |
留任 | |
復興大臣 | 土屋品子 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
福島原発事故再生総括担当 | 初入閣 | |
国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣 (防災) (海洋政策) |
松村祥史 | 参議院 自由民主党 (茂木派) |
国土強靭化担当 領土問題担当 |
初入閣 | |
内閣府特命担当大臣 (こども政策) (少子化対策) (若者活躍) (男女共同参画) (孤独・孤立対策)[注釈 2] |
加藤鮎子 | 衆議院 自由民主党 (谷垣G→無派閥) |
女性活躍担当 共生社会担当 孤独・孤立対策担当(2024年4月1日まで) |
初入閣 | |
内閣府特命担当大臣 (経済財政政策) |
新藤義孝 | 衆議院 自由民主党 (茂木派) |
経済再生担当 新しい資本主義担当 スタートアップ担当 感染症危機管理担当 全世代型社会保障改革担当 内閣総理大臣臨時代理 就任順位第5順位 |
再入閣 | |
内閣府特命担当大臣 (クールジャパン戦略) (知的財産戦略) (科学技術政策) (宇宙政策) (経済安全保障) |
高市早苗 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
経済安全保障担当 内閣総理大臣臨時代理 就任順位第2順位 |
留任 | |
内閣府特命担当大臣 (沖縄及び北方対策) (消費者及び食品安全) (地方創生) (アイヌ施策) |
自見英子 | 参議院 自由民主党 (二階派) |
国際博覧会担当 | 初入閣 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ "内閣改造は13日、岸田首相が複数の与党幹部に伝える…党役員人事も". 讀賣新聞ONLINE. 読売新聞社. 8 September 2023. 2023年9月9日閲覧。
- ^ "岸田文雄首相の内外記者会見の要旨". 日経電子版. 日本経済新聞社. 11 September 2023. 2023年9月15日閲覧。
- ^ 『岸田内閣総理大臣記者会見』(HTML)(プレスリリース)首相官邸ホームページ、2023年9月13日 。2023年9月15日閲覧。
- ^ "「変化を力にする内閣」岸田首相が記者会見". 産経ニュース. 産経デジタル. 13 September 2023. 2023年9月15日閲覧。
- ^ "ロシア経済協力相は引き続き西村氏". 産経ニュース. 産経デジタル. 13 September 2023. 2023年9月17日閲覧。
- ^ “官報 令和5年9月13日 特別号外第62号 1面 人事異動 内閣”. 国立印刷局 (2023年9月13日). 2023年9月17日閲覧。
- ^ “首相、岸田派を離脱 裏金疑惑、信頼回復へ派閥と距離―対応後手、批判強く”. 時事通信. (2023年12月7日) 2023年12月10日閲覧。
- ^ “自民党二階派の小泉法相 派閥を離脱”. NHK. (2023年12月20日) 2023年12月20日閲覧。
関連項目
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