英祖 (琉球国王)
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英祖 | |
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琉球国中山王 | |
在位 | 1260年-1299年 |
全名 | 英祖 |
神号 | 英祖日子 |
居城 | 浦添城 |
出生 |
1229年 |
死去 |
1299年8月31日 |
王世子 | 大成 |
王朝 | 英祖王統 |
父親 | 恵祖世主 |
英祖(えいそ、ゑぞ、1229年(紹定2年)? - 1299年8月31日(大徳3年8月5日)?)は、『中山世鑑』や『中山世譜』などの琉球王国の歴史書に登場する王である[1]。神号は英祖日子(ゑぞのてだこ)[2]。
なお、歴史上国号が「琉球国中山」に定まるのは中国(明)に朝貢した1372年以降の事であり、これは史書による追封号と言う事になる。
概要
[編集]系譜
[編集]史書によると、英祖は沖縄本島で最初に王朝を築いた神の子の王統とされる天孫氏の最後の王、思金松兼王[注釈 1](25代目)の四男・西原王子(思次良金)の世子である伊祖城の恵祖世主(浦添按司)の子であり、舜天王統の義本からの禅譲を受けた事で5代の国王が90年間にわたり英祖王統系図となった。英祖王統の基礎を作った国王とされる。また、彼の生誕時に母親が太陽を飲み込む夢を見たところから、「てぃだこ(太陽の子、の意)」とも呼ばれたという。
「古琉球三山由来記集」によれば仲昔中山英祖王の称号であり親の恵祖世主はやはり天孫氏後裔と伝わる。第一尚氏が興るまでの古琉球三山の按司豪族の多くが英祖に連なると伝わる[3]。
近年、漢文學者いしゐのぞむは、福建漢字音で英祖が「あんず」(按司)、汪英紫氏が「おんあんじすい」(大按司添)、汪應祖が「おんあんず」(大按司)であるとして、古琉球の諸王について新解釋を試みてゐる[4]。
治世
[編集]『おもろさうし』巻十二・六七一では、「伊(ゑ)祖の戦思(も)ひ」と記されているが、この「いくさもい(イクサモヒ)」とは英祖の若い頃の尊称であり(『おもろさうし』の原注に記述あり)、「戦いに勝れた人」の意である[5]。
なお、英祖在位中の13世紀半ば、咸淳年間(1265年~1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧を称した。英祖はその徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立、琉球における仏教の始まりとされている。(『琉球国由来記巻十』・「琉球国諸寺旧記序」)
浦添市にある浦添ようどれは英祖の存在を示す数少ない史跡である[6]。
「日本への二度の元寇で日本上陸に失敗した元軍は1291年に沖縄への上陸を試みて沖縄へと攻め入ってきたが英祖が撃退した」と言われる事があるが、1291年に元軍が襲撃した「瑠求」は台湾のことであり、この逸話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想であるとの説がある[7]。
家族、係累
[編集](系譜は伝記による[3])
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 恩金松兼王とも
出典
[編集]- ^ 沖縄の歴史 舜天・英祖王統
- ^ 池宮正治「琉球国王の神号と『おもろさうし』」『日本東洋文化論集』第11号、琉球大学法文学部、2005年3月、1-27頁、hdl:20.500.12000/2396、ISSN 1345-4781、CRID 1050292726807403776。
- ^ a b 東江長太郎「古琉球三山由来記集」(1989年) 那覇出版社、通俗琉球北山由来記の系譜
- ^ 令和四年二月二十日、二十七日、三月六日、八重山日報、談話連載「小チャイナと大世界」111,112,113。
- ^ 角田文衛 上田正昭 監修 『古代王権の誕生 Ⅰ 東アジア編』 角川書店 2003年 p.128.
- ^ 沖縄門中大辞典・那覇出版社
- ^ 小玉正任「琉球と沖縄という名称の由来」『学士会会報』第2012巻2 (No.893)、学士会、2012年3月、70頁、CRID 1522262180762278528。