珉
表示
珉 | |
---|---|
琉球国北山王 | |
在位 | 1393年 - 1395年または1400年 |
全名 | 珉 |
居城 | 今帰仁城 |
出生 |
不詳 |
死去 |
1400年または1395年 |
王世子 | 攀安知 |
王朝 | 怕尼芝王統(羽地王統) |
父親 | 怕尼芝 |
珉(みん、生年不詳 - 1400年または1395年)は、14世紀琉球の後北山王国(後山北王国)の第2代国王(在位:1393年 - 1395年または1400年)。
怕尼芝王統・北山王怕尼芝の長男。世子は攀安知。1394年、珉は明へ朝貢した記録が残っている。
石井望は、珉とは八幡であるとの新説を立ててゐる。等韻学では珉と閩とが同音で、閩は福建で「ばん」なので、珉も「ばん」だとする。山北の怕尼芝、珉、攀安知の三代はみな頭音「は」「ば」に「n」音を加える形で、何らかの同一の継承名だとする。孫薇(そんび)は攀安知の攀を八幡(ばはん)だとするため[1]、よって石井望は怕尼、珉、攀はみな八幡であり、「ばはん」を縮めて「ばん」(珉)、按司を加えて「ぱんあじ」(攀安知)、転じて「ぱねじ」(怕尼芝)とする[2]。 伊敷賢「琉球王国の真実」(42、57、80ページ)は、怕尼芝の子の名を「藩」もしくは「播」として、「ばん」「はん」と読む。石井望はこれを播でなく八幡の幡に作るべきとして、珉に充當する。
系譜
[編集](系譜は伝記による[3])
脚注
[編集]- ^ 吉成直樹・福寛美「琉球王国と倭寇」内「琉球王権神話論」230ページ引。
- ^ 八重山日報令和六年八月十八日、日曜談話連載「小チャイナと大世界」第二百三十五囘。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240818.html
- ^ 東江長太郎「古琉球三山由来記集」(1989年) 那覇出版社、通俗琉球北山由来記の系譜