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巨勢男人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
巨勢男人
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 継体天皇23年(529年)9月
別名 氏:許勢
主君 継体天皇
氏族 巨勢氏
父母 父:巨勢河上
紗手媛、
香香有媛
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巨勢 男人(こせ の おひと)は、古墳時代の人物。氏は許勢とも記される。許勢小柄の曾孫。巨勢河上の子。

出自

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男人の出自について、『紀氏家牒』では巨勢小柄-建彦宿禰-巨勢川辺宿禰(軽部宿禰)-巨勢川上宿禰-巨勢男人という系譜を記している。

経歴

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武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は大臣であったが、大連・大伴金村が推薦した男大迹王について、皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、大連・物部麁鹿火と共に支持する[1]。男大迹王が皇位についた(継体天皇)のちも、男人は引き続き大臣に任ぜられた[2]

継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱に際して、大連・大伴金村、大連・物部麁鹿火と共に将軍の適任者について諮問を受け、金村らと共に麁鹿火を推薦している[3]

継体天皇23年(529年)9月薨去。

安閑天皇元年(534年)安閑天皇が即位すると、娘の紗手媛・香香有媛は共に妃に立てられた[4]

続日本紀天平勝宝3年(751年)2月己卯条には、雀部真人が、巨勢男人は本来「雀部男人」であったのを誤って巨勢と記されたと奏上し、時の大納言であった巨勢奈弖麻呂もその主張を支持したため、訂正したと記されている[5]。なお、この記事によれば、男人は継体・安閑朝に大臣であったと記されているが、『日本書紀』では継体天皇23年(529年)9月に亡くなったと記されており、『日本書紀』とは異なる史料が存在していたことがわかる[5]

系譜

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  • 父:巨勢河上[6]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 女子:巨勢紗手媛[4] - 安閑天皇
    • 女子:巨勢香香有媛[4] - 安閑天皇妃

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』継体天皇元年正月4日条
  2. ^ 『日本書紀』継体天皇元年2月4日条
  3. ^ 『日本書紀』継体天皇21年6月3日条
  4. ^ a b c 『日本書紀』安閑天皇元年3月6日条
  5. ^ a b 平林章仁『蘇我氏の研究』(雄山閣、2016年)
  6. ^ 『公卿補任』

参考文献

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