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舜馬順煕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
舜馬順熙から転送)
舜馬順煕
琉球国中山王
在位 1238年-1248年

神号 其益美
居城 浦添城
出生 1185年
死去 1248年
王世子 義本
配偶者 不伝
王朝 舜天王統
父親 舜天
母親 不伝
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舜馬順煕(しゅんばじゅんき[1][注 1]1185年淳煕12年) - 1248年淳祐8年))は、舜天王統2代目で、第2代琉球国王とされる人物である。在位11年(1238年嘉煕2年) - 1248年(淳祐8年))。神号は其益美(ちやみ、ちゃむい、ちゃみぃ)。

父・舜天の死後、54歳で即位したが、平穏な政治を行ったという事績のみで、他に述べられていない。64歳で死去、世子である義本が即位した。

先代の舜天と同様に、「琉球国中山王」は史書による追封号である。

名前

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東恩納寛惇は、舜馬順煕という名の意義を不明としたが[5]、原田禹雄は、「島尻(しまじり)」からの由来と考えている[6]。舜馬順煕は、名前として異質であり、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球人の名前における漢字かな表記とは特殊で、後世になって付けられた(おくりな)ではないかと思われる[7]。『中山世譜』は、舜馬順煕のを「源(みなもと)」としている[8]。  石井望は、舜馬(すま)は宮古八重山に遺留する琉球古語の島だとして、順熙は北宋『集韻』にもとづき「すい」だとした。熙は形聲文字の「い」が主流であり、北宋では年號に用ゐられ、福建で「い」音で普及してゐたとする。よって舜馬順煕を「すますい」(島添)とする。舜天の母は大里按司の妹なので、島添大里に該當するとした[9]

神号の「其益美」の読みは、「ちやみ」[10]、「ちゃむい」または「ちゃみぃ」[6]と様々な説がある。『中山世譜』には、「其益美」を神号としているが、『中山世鑑』は、即位する前の名前もしくは称号と記しているのみで、これは童名 (琉球諸島・奄美群島)ではないかと思われる[11]

経歴

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ナスの御嶽。奥に舜馬順煕を含む舜天王統三代の王を葬ったとされる墓がある。北緯26度18分17.96秒 東経127度47分50.66秒

舜馬順煕は、彼を含む舜天王統と同様、存在さえ不明であり[12][13]、実在しない伝説上の人物と考えられて來た[14]石井望は、舜馬順煕が「島添」の福建字音だとして、舜馬順煕の實在性を主張する[15]

舜天王統2代目の王と伝えられ[12]、『中山世鑑』によれば、初代の舜天より「琉球国中山王」の2代目を引き継いだとされる[16]。『中山世鑑』には、父・舜天の第一王子として1185年淳煕12年)に生誕、舜天の死後、1238年嘉煕2年)に54歳で即位したとある[3][4]。また『中山世譜』には、父の舜天の跡を継いで、百姓に慈善を施し、国は安泰であったという記述のみで[12]、舜馬順煕の事績は、他に何も述べられていない[17]。彼が統治していたとされる時期は、小規模のグスクが各地に点在し、まだ沖縄本島全域を支配するまでに至った人物は現れていないとされる[17]。『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き[18]、その後の王統も首里城を居城としていたというが[19]、舜馬順煕らの舜天王統は浦添城と伝えられる[20][21]。『漂到琉球国記』によると、在位中の1243年寛元元年、淳祐3年)に、当時の長崎からへ渡った一行が琉球に漂着したという[22]

1248年淳祐8年)、在位11年にして64歳で死去、翌年に世子である義本が即位した[23]。『中山世譜』によれば、舜馬順煕の母とは不伝とある[8]

世子に義本、子に今帰仁世の主が居たと伝わる。なお、今帰仁世の主二世(不詳)の養子となったのが、英祖王の次男・湧川王子であり、北山世主(今帰仁城主)の座に付いた。

陵墓

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沖縄県中頭郡北中城村の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる御嶽がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)である。さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕の二人の王(もしくは義本を含めた舜天王統三代)を葬ったとされる、コンクリート製の墓が存在する[24]

家族

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  • 父:舜天
  • 母:不詳
  • 妃:不詳
  • 世子:義本(三代目国王)
  • 子:今帰仁世の主

脚注

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注釈

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  1. ^ 諸見友重訳注『訳注 中山世鑑』(2011年)の「琉球国中山王舜天以来世纉図」において、琉球の歴代国王は玉城王を除いて、通常音読みするとし、本項目内で「舜馬順煕」を「しゅんじゅんき」と読ませているが[2]、同書の「舜天王御即位」[3]や「舜馬順熙御即位」[4]の項目においては、「しゅんじゅんき」と読み仮名を振っている。

出典

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  1. ^ 安里ほか(2004年)、p.61
  2. ^ 「注釈 4」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.13
  3. ^ a b 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.54
  4. ^ a b 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.56
  5. ^ 東恩納(1966年)、p.29
  6. ^ a b 「注釈 1」、『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.57
  7. ^ 安里ほか(2004年)、p.63
  8. ^ a b 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.56
  9. ^ 八重山日報令和六年八月十一日、日曜談話連載「小チャイナと大世界」第二百三十四囘。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240811.html 
  10. ^ 糸数兼治「神号」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.478
  11. ^ 「注釈 17」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.56
  12. ^ a b c 高良倉吉「舜馬順煕」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.408
  13. ^ 高良倉吉「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.408
  14. ^ 安里(2006年)、p.4
  15. ^  八重山日報令和六年八月十一日、日曜談話連載「小チャイナと大世界」第二百三十四囘。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240811.html 
  16. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12
  17. ^ a b 池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.338
  18. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.39
  19. ^ 安里(2006年)、p.2
  20. ^ 知念勇「浦添グスク」、『浦添市史』(1989年)、pp.225 - 227
  21. ^ 嘉手納宗徳「中山王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.780
  22. ^ 「第四部 浦添歴史年表」、『浦添市史』(1989年)、p.556
  23. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.57
  24. ^ 「仲順の文化財 ナスの御嶽」、『北中城村の文化財』(1990年)、p.11

参考文献

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  • 安里進 『琉球の王権とグスク』 山川出版社〈日本史リブレット 42〉、2006年12月20日。ISBN 4-634-54420-2
  • 安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日。ISBN 4-634-32470-9
  • 浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第一巻 通史編 浦添のあゆみ』 浦添市教育委員会、1989年3月29日。
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典沖縄タイムス社、1983年5月30日。全国書誌番号:84009086
  • 北中城村教育委員会社会教育課編 『北中城村の文化財 北中城村文化財調査報告書第1集』 北中城村教育委員会、1990年3月。
  • 首里王府(羽地朝秀 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
  • 蔡鐸著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』 榕樹書林〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
  • 東恩納寛惇 『琉球の歴史』 至文堂〈日本歴史新書 増補版〉、1966年11月10日。

関連項目

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外部リンク

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